青草掲示板ログ平十九年五月 2007.5
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[3054] Re[3053] Re[3052]: 豊国  縁MADOKA [Url] 2007/05/31(Thu) 20:39 [Reply]
堂門さん!埋もれ木にレスないなあとおもってたらこっちにきてたのね!感動したわ!(*0*)/

>上町台地北端は豊国の聖都、宇佐との関係やいかに?といったところです。

これは大賛成! おおいにあるとみています!

>大阪城の下には石山本願寺、石山本願寺の下には「豊国=梵国=凡国」があるのではないか?明治の頃までは「凡国」を「おおくに」と読んでいたようで・・

石山本願寺の元になった石山はこの掲示板私のおさわがせデビューのとき書きましたが、本来上町台地には地層的に大岩はないのです、ですから大阪城築城のおり、秀吉が各地の古墳破壊や神石を奪おうとした話がのこっているのです。本願寺も寺建設に必要な岩が奇跡のように出現したので蓮如が感動&四天王寺に伝わる 聖徳太子がのちの世のために石山を地中の残せしという伝承をしり、蓮如はここは仏の寺を建てる場所として選ばれた聖地と信じて名を石山本願寺と名つけた。

私はこの石山はこのあたりにもともとあったとされる
岩船神社のご神体とみています。貴船神社の船岩のような。。もしそうであれば
ニギハヤヒ=オオクニ は成り立つかも??

神奈備さん
なんですか?このセクハラ話は???
凡河内忌寸石麻呂は摂津国造

シャーマン??MADOKAがお答え申そう!!
摂津国造 凡河内忌寸石麻呂は!
横山ノックの前世でござーーる!
まちがいねぇ(*±0±)\

[3053] Re[3052]: 豊国  神奈備 2007/05/31(Thu) 10:27 [Reply]
堂門さん こんにちは。

> 石山本願寺の下には「豊国=梵国=凡国」があるのではないか?

 大坂で「凡」と云えば、凡河内直香賜(おおしこうちのあたいのかたぶ)と云うスケベェさんを思い出します。

『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)二月甲子朔◆九年春二月甲子朔。遣凡河内直香賜與采女。祠胸方神。香賜與采女既至壇所。〈香賜。此云舸■夫。〉及將行事。奸其采女。天皇聞之曰。詞神祈福可不愼歟。乃遣難波日鷹吉士將誅之。時香賜即逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗。普求國郡縣。遂於三嶋郡藍原。執而斬焉。

 ぶっちゃけた翻訳をしますと、宗像の神に采女をともなって遣いをした。神域で行事を行う寸前に采女を犯しちゃった。逃げたが、捕まえられて殺されたと云うお話。

 そのような祖先を出しても凡河内忌寸石麻呂は摂津国造に任じられています。

『続日本紀』巻三慶雲三年(七〇六)十月壬午《辛未朔十二》◆冬十月壬午。還宮。攝津國造從七位上凡河内忌寸石麻呂

 さて、余談ですが、神域での行事の寸前に采女を犯すのなら、九州への旅路の途中ででも犯していたのかも知れませんが、それはお咎めなしと云うことだったのでしょうか。
 否、神祭に行く場合、潔斎をするとか、異性を近づけないとか、あの森の石松でも酒を飲まずに金比羅詣でをしたわけで、旅の途中で犯すようなことはあり得ないことだったと思います。

 では、何故神域で犯したのでしょうか? 何があったのでしょうか?

 神域での行事を行う采女は裸が正装だったのでしょう。それを見た凡河内直香賜は今までむらむらしていたのが高じて香賜が一気に堅物ではなくなって・・・いや堅くなって・・・。

[3052] 豊国  堂門 2007/05/31(Thu) 02:35 [Reply]
>この前、YAHOO掲示板 歴史の埋もれ木 の常連さん(須佐蘇我さん?)

その堂門です。神奈備さんには和泉ツアーで、いろいろ解説いただきました。
ありがとうございました。

ご紹介いただいた「豊国仮説」ですが、
豊国とは「仏教徒の国」を意味していると考えています。
もとは「梵」であったとし、「梵(ボン)」から「豊(ブン)」への転訛とみなします。(意図的であった可能性も含めて)

風土記などでも確認できますが、豊国は小規模な邑の地名としても西日本一帯に点在しています。上町台地北端は豊国の聖都、宇佐との関係やいかに?といったところです。

「豊国=梵国」仮説にそれなりの手ごたえを感じたのは、上町遺跡から出土した木簡で、そこには「秦人凡国」の文字が読み取れるとの記事に接してからです。

大阪城の下には石山本願寺、石山本願寺の下には「豊国=梵国=凡国」があるのではないか?明治の頃までは「凡国」を「おおくに」と読んでいたようで・・

神奈備さん、大阪城、大阪城の下ですぞ
よろしくお願いします。

[3051] Re[3050][3048][3047][3046]: 八幡神は  たんかんさ〜 [Url] 2007/05/24(Thu) 05:20 [Reply]
管理人さんおはようございます。
早速のお調べありがとうございます。
「正八幡」関連は該当なしでしたか。

■弘安7年(1284): 幕府寄進す 異国降伏祈願のため、
豊前國上毛郡勤原村地頭職を寄進 (宇佐神宮史6-92 )

ネットで検索したら次がヒットしました。

"http://www.town.koge.lg.jp/

福岡県東部の築上郡<a href="http://www.town.koge.lg.jp/" target="main">上毛町(こうげまち)</a>は、
旧上毛郡から命名したとある。

一応、ここにもメールで問い合わせを致しました。
何か手がかりがあればいいのですが。

[3050] Re[3048][3047][3046]: 八幡神は  神奈備 2007/05/22(Tue) 14:41 [Reply]
> 例の蒙古や朝鮮出兵の報償として北九州の一部を譲り受けていますがここにも勧請しているのではと探していますが、、
> 当地の正八幡から勧請とあるのですが祭神をみると「宇佐八幡系」のようです。

 宇佐系とは、應神天皇、神功皇后などを祭神とする。
 大隅系とは、彦穗穗出見尊、豐玉比賣命を祭神とする。
の理解でいいのでしょうか。

 北九州(福岡、佐賀、長崎)では、祭神が彦穗穗出見尊、神社名に八幡のつくのは『平成祭礼CD』(神社本庁)には一社も出てきません。
 祭神を問わず、名前を正八幡とする神社は3県で10社ありますが、由緒の判るのは3社で宇佐系、二社は石清水に勧請の際留まった土地との由緒でした。


 所で、大隅国桑原郡豊国郷に入植して来た渡来系の人が祀ったのが韓国宇豆峰神社とされていますが、豊国郷の他にも大分郷があり、豊国の豊は豊前国の豊と思われますが、金銀財宝が多い韓国のこととする意見もあるようです。韓国を豊国とするなら神社名は豊国宇豆峰神社の名であってもいいと思いますがそうなっていません。
 『記紀』の中で韓国のこと百済新羅のことを豊国と表示した文章はあるのでしょうか。豐國法師を宮廷に引き入れたので物部守屋大連がたいそう怒ったとの記事があり、これが韓国の坊主かも知れないと云う程度です。


 この前、YAHOO掲示板 歴史の埋もれ木 の常連さん(須佐蘇我さん?)が、大阪の上町台地の北端を豊国と云ったのではないかとの仮説を出されていました。大坂城に陣取った秀吉は豊臣の名をもらったこと、死んで後、豊国大明神の名で祀られたことを根拠としておられました。
 これは面白い仮説です。孝徳天皇が営んだ難波宮を難波長柄豊碕宮と呼んでいますが、この長柄は住吉大社の鎮座地の呼称である「長岡玉出峡」の長岡と同じく上町台地を表していると思われます。従って豊碕は自ずから上町台地の先端の呼称となります。地理的にもそうなっているのです。この豊碕の豊には魚が豊富にとれるとか、交易で豊かに栄えている土地とかの意味があったと思われます。

 『日本霊異記』に、物部弓削守屋が大部屋栖野古の持っている仏像を見つけて難波の堀江に流したとあり、引き続き大部屋栖野古に、「今、国家に災を起こすは、隣国の客神の像を己が国の内に置けるに依る。斯の客神の像を出すべし。速忽に豊国に棄て流せといふ。」とあります。
 この豊国を講談社学術文庫の注では韓国百済としています。しかし韓国についてはその前には隣国とでています。また自らは難波の堀江に棄てています。難波の堀江とは上町台地の先端部にあった港で、ここから仏教が伝来したとされている土地です。だからここへ棄てればいいとのことです。豊国に棄て流せの豊国とは難波の堀江のことでいいのではないでしょうか。韓国であるなら隣国とするか、「XXに棄て豊国に流せ」となるのではと考えています。



[3049] 安東水軍と義経  ゆりこ 2007/05/22(Tue) 14:21 [Reply]
義経がジンギスカンになった・・・
皆さんはどう思います?
私は、義経は間違いなく蒙古にわたったと思います。
   ↓
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137

[3048] Re[3047][3046]: 八幡神は  たんかんさ〜 [Url] 2007/05/20(Sun) 23:30 [Reply]
>意外に八幡神は歴史の浅い神だったと言えるのかも。
>  『常陸国風土記』の夜刀の神を山の上に追い払うお話も継体天皇の時代となっています。
>  継体さんの時代を神代と認識しておく必要があるのでしょうかね。

伝承から推察すると「渡来神」の色が濃いので
余り神話とは縁が無さそう。
だんだん「徐福」さんから離れていく〜。。。

大分市永興(りょうご)に「正八幡社」があって
天平二十年(748)の勧請らしい。

http://www.niigata-u.com/files/oita2004/040402c1.html

当地の正八幡から勧請とあるのですが
祭神をみると「宇佐八幡系」のようです。

また、例の蒙古や朝鮮出兵の報償として
北九州の一部を譲り受けていますが
ここにも勧請しているのではと探していますが、、

[3046] 八幡神は  たんかんさ〜 [Url] 2007/05/18(Fri) 22:01 [Reply]
渡来伝承が出たついでもう一つ。

「継体天皇の御世、中国の陳大王の娘大比留女(おおひるめ)が
七歳にして朝日を受けて懐妊し、生まれた子と共に
空船(うつろふね)に乗せられて流され、
大隅八幡崎に着いた。
生子はここで正八幡となって隼人を討ち、
生母は筑前香椎(かしい)に飛んで聖母(しょうも)大菩薩となった」

これは「八幡愚童訓」の一説ですが
この出目はやはり次でしょうか。


於石清水行放生會語第十

<font color=ff0000 size=+1>
今昔、八幡大菩薩、前生ニ此ノ國ノ帝王ト御シケル時、
夷□軍ヲ引将テ自ラ出立セ給ケルニ、
多ノ人ノ命ヲ殺サセ給ヒケル□。
初メ大隅ノ國ニ八幡大菩薩ト現ハレ在シテ、
次ニハ宇佐ノ宮ニ遷ラセ給ヒ、遂ニ、
此□石清水ニ跡ヲ垂レ在マシテ、
</font>

多ノ僧俗ノ神人ヲ以テ、員ズ不知ヌ生類ヲ令買
放メ給フ也。然レバ、公モ、此ノ御託宣ニ依テ、
諸國ニ放生ノ料ヲ宛テ、其ノ御
願ヲ助ケ奉ラセ給フ。此レニ依テ、
年ノ内ニ此ノ放生ヲ行フ事无量シ。
然テ、毎年ノ八月十五ヲ定テ、
大菩薩ノ寶前ヨリ宿院ニ下ラセ御マシテ、
此ノ放生ノ員ヲ申シ上グルニ、大キニ法會ヲ儲テ、
最勝王經ヲ令講メ給フ。其ノ故ハ、彼ノ經ニ、流
水長者ガ放生ノ功徳ヲ、佛説給フ故也。然レバ、
此ノ會ヲ放生會ト云フ。然テ、
其ノ下サセ御マス儀式實ニ嚴重ナル事、
新タニ御マス時ノ如シ。公モ此ノ御
行ヲ貴ビ奉ラセ給テ、行幸ニ准ヘテ上卿宰相ヲ始テ、
弁・史・外記等、皆、
参テ事ヲ行フ。亦、六衛府ノ陣モ、
各、兵杖ヲ帯シテ仕ル事、行幸ニ不異ズ。何ニ况ヤ、


このところgoogle_mapにどっぷりです。
これってやり出したらきりが無いですね。
ちょっと最近お疲れで。笑。




[3045] Re[3044]: 徐福と薩南学派  神奈備 2007/05/15(Tue) 19:50 [Reply]
 nickさん改めたんかんさ〜さん、こんばんは。

 ブラジルあたりから嵐が来ていましたので、お名前に日本語を一文字入れていただくようにお願いしました。両方の掲示板に共通のチェックを入れました。この智恵は玄松子さんから頂きました。皆さん、ご協力ありがとうございます。

 この前、住吉大社で遣隋使1400年記念の催しが行われ、両国の学者の発表がありました。実は遣唐使の回数も学者さん方によってはバラバラな勘定の仕方で統一がないとか、どのような船であったかがよくわかっていないとか、遭難が多く4割程度の使者が帰らぬ人になっていたとの説は間違いで、2割程度であったとか、船は30m程度の長さだったのではと、未解決な問題への多くの提起がなされ、何一つ解決せずに済みました。

 船の大きさが30mとしますと、まさに社殿(拝殿+本殿)と同じサイズのようで、社殿の並び方も船の並び方と同じように思えました。

 また今年は継体天皇即位より1500年の記念の年で、豊中の同好会では継体天皇特集となっています。この天皇陵は高槻市の今城塚古墳であると見なされており、敢えて宮内庁も指定のし直しをせずに、学者の手にゆだねると云う措置をとっています。確実に現在の皇統につながる最初の天皇の可能性があり、出土品には多いに期待されたのですが、どの程度のものが出てきて古代史へのインパクトはどの程度あったのか、なかったのか、興味深い所です。

[3044] 徐福と薩南学派  たんかんさ〜 [Url] 2007/05/15(Tue) 08:49 [Reply]
鹿児島神宮と徐福の接点を探っていたら
やはり当地の「薩南学派」のことが避けて通れない。
そこで書籍を求めたがこれが当地の図書館には無い。
思案に暮れ、半ば諦めていた。

過日、父と以前より参拝したかった鹿児島市内の神社を
巡った。その一社の照国神社。
ここの毎月のセミナーにも暫く顔を出していない。
そこで予定表を貰ったら、嬉しいことに
今年はこの「薩南学派」の集中セミナーが開催されると言う。


島津忠昌公没後500年記念講演

8/11:島津忠昌と桂庵禅師
9/8:朱子学と四書集注
10/13:四書集注
12/8:薩南学派と鹿児島の歴史

開催は、十時半から正午まで。
昼食は講演の先生を囲んでの談笑となる。
毎月参加したいと念じているが。

[3043] 勝鬘院・愛染堂  神奈備 2007/05/14(Mon) 20:58 [Reply]
たまたま四天王寺の西側に鎮座する勝鬘院・愛染堂を訪ねました。
 勝鬘院とは聖徳太子がこの地で勝鬘経を講義したゆわれでも名前だそうです。

愛染明王はWikipediaによりますと、下記の通り。
 もともと愛を表現した神であるためその身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。また天に向かって弓を引く容姿で描かれた姿(高野山に伝えられる「天弓愛染明王像」等)や、双頭など異形の容姿で描かれた絵図も現存する。

勝鬘院・愛染堂 http://www.aizendo.com/

 愛染明王を祀る神社も多くあるようです。

秋田市上新城道川愛染 道川神社
山形市大字松原 愛染神社(さいの神社)
茨城県石岡市総社2丁目 常陸国総社宮境内 愛染神社
埼玉県北葛飾郡吉川町平沼215 芳川神社 配祀 愛染大神
福井県坂井郡坂井町島9-1 春日神社境内 相染明神社 愛染明神
福井県丹生郡越前町厨13-2 八幡宮 愛染明王ほか
福井県今立郡池田町持越16-14 八幡神社 合祀 愛染明王
長野県松本市深志3-7-43 深志神社境内 愛染神社 愛染大神

 悟りを開くにも愛をじゃまにしないと言うことで、親しまれたようです。
 勝鬘院・愛染堂は大阪の上町台地の上にあり、夕陽のきれいに見えると言う場所に鎮座、日輪を背負うにはふさわしい場所でした。
 また近くには新古今集の編纂者の伝藤原家隆の塚もあります。ここで日想観を悟ったとか。

[3042] 難波津ミステリーツアー御案内(*^0^)/  MADOKA [Url] 2007/05/11(Fri) 21:38 [Reply]
『義経弁慶知盛イベントバスツアー
出演久田舜一郎キ立花香寿子
ミステリー伝説キ芸能、道行訪ねの鼓とパーティへぜひどうぞ』

日時キ5月27日(日) 11時(梅田)~6時(鶴橋)中締め
料金キお一人様5000円(案内解説キ奉納鑑賞と弁当とパーティ料理込み)
発着場所キ梅田(大阪駅前近辺予定)
奉納のみ鑑賞の場合2000円、パーティのみ2000円。
コース
11時キキ梅田発(紀伊田辺製キ弁慶めはり寿司支給します)
11時20分キキ義経本陣キ八軒家ザマ神社跡(通過キ平家物語逆櫓解説)
11時40分キキ田蓑神社キ杭瀬熊野神社(通過キ大和物語芦刈解説)
12時キキ大物駅前(ここからも乗車可能)
大物主神社義経遺跡を見て、正光寺本堂にて船弁慶キ静別れの段奉納
13時キキ尼崎築地キ寺町めぐり(初島大神宮キえびす温泉キ尼崎城跡キ貴布禰神社キ
尼信博物館キ寺町風致地区)。尼のガイドが案内
14時30分キキ大覚寺にて、船弁慶のクライマックス知盛亡霊の段奉納
15時すぎキキ三和商店街通りぬけ行進(タイガース旗)、2号線難波(なにわ)迄
16時キキ難波より鶴橋(小橋交差点角)ピースポットなにわ創世塾へ(車中休憩)
17時キキ創作弁慶料パーティ(弁慶豆腐キ黒門天麩羅キ高麗チヂミキ勧進帳焼ほか)
18時すぎキキ中締め、解散。(鶴橋駅へ3分、大阪駅へ20分)

バスツアーお申し込み用紙
ファックス 06 6765 8841 (ピースポット)
名前 電話番号 FAX メールアドレス 住所
を明記の上お申し込みください

鶴橋でNPOのカルチャーセンター『なにわ創生塾』立ち上げのプレイベントです!
テーマは なにわ知楽!
広告が12日 産経新聞にのります

尼崎市から
『図説 尼崎の歴史 上下巻』¥4000
でました 良書です。残部希少
 一押し(*^0^*)

下記サイト!!
Web版尼崎地域史事典『apedia』
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
尼崎市立地域研究史料館 
がんばってます(±0±)\

ツアーで歌舞いた妙な女がいましたら私です!
申し込み お待ちしていますm(__)m

[3041] Re[3040][3039]: 悲運の皇子伝承  nick [Url] 2007/05/10(Thu) 11:50 [Reply]
管理人さんおはようございます。
ご多忙のところわざわざお調べ頂きありがとうございます。
ご教示頂いた書物を読んでみます。
最近は余り歌心と言うのか「感動」そのものが少なくなってきたような。

今大ヒット中の"YUI"の唱のような「胸キュン」は遠い過去のようで、ちょっと寂しい。
その点、父は昨日の水族館では大きい鮫やエイに仰け反っていましたが。

[3040] Re[3039]: 悲運の皇子伝承  神奈備 2007/05/10(Thu) 11:15 [Reply]

> 雪庭に出て地を踏給ひしゆえ、帝位を継ぐこと能ずとて


万葉集に「雪を踏むな」の歌があります。

雪の歌一首、また短歌
四二二七 大殿の この廻(もとほ)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らざる雪そ 山のみに 降りし雪そ ゆめ寄るな 人や な踏みそね雪は
反し歌一首
四二二八 ありつつも見(め)したまはむそ大殿のこの廻りの雪な踏みそね

四二八五 大宮の内にも外(と)にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し


雪を踏んで平たくして宴会を行う歌もあります。越中での大伴宿禰。四二二九。


箭田珠勝大兄皇子は大宮に居たのでしょうか、そこでは雪を踏むことは無粋なことのようです。雪がつもることが珍しいようで、これを踏むのは風流の心がないと思われたのかも。
また雪は豊穣の兆しで、これを踏むのは大兄皇子としては問題だったのかも。


[3039] 悲運の皇子伝承  nick [Url] 2007/05/08(Tue) 21:24 [Reply]
新羅の話題がでたので便乗します。

欽明天皇の頃の第一皇子の伝承が
当地にもあります。驚きました。
大隈半島の櫻島側にある垂水市の「居世神社」(こせ)。

そこで最近購入した「三国名勝図会」を見るとありました。

蛭子と同様船で漂着され13歳で薨された。
それも隠れて、世話をした家系が
現在もその神社とご陵墓を護っているそうです。

そしてこんな行も。

「雪庭に出て地を踏給ひしゆえ、帝位を継ぐこと
能ずとて、空船に乗せ奉りて流しけるとなり、、、」

どういう喩えなのかよく判らず
伝承の出目はどこかと調べていたら
何と日本書記にありました。

★19欽明天皇元年(540)正月甲子《十五》
◆元年春正月庚戌朔甲子。
有司請立皇后。詔曰。立正妃武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后。
是生二男。一女。

長曰箭田珠勝大兄皇子。
仲曰譯語田渟中倉太珠敷尊。
少曰笠縫皇女。〈更名狹田毛皇女。〉


●19欽明天皇六年(545)十一月◆冬十一月。
膳臣巴提便還自百濟言。臣被遣使。妻子相逐去。
行至百濟濱。〈濱。海濱也。〉日晩停宿。
小兒忽亡不知所之。其夜大雪。天曉始求有虎連跡。


★19欽明天皇十三年(552)四月◆十三年夏四月。
箭田珠勝大兄皇子薨。

このような伝承は一体誰が持ち込んだのでしょうか。
やはり熊野聖でしょうか。
案外全国各地に流布しているのではないでしょうか。

[3038] 日神と新羅  神奈備 2007/05/06(Sun) 21:44 [Reply]
『住吉大社神代記』では、神功皇后を日神になぞらえているようです。皇后の乗っている船を動かしていたのは船木氏。大八嶋國に日神を出す者は船木の遠祖の大田田神としています。

 神功皇后が日神である天照大神のモデルなのか、天照大神とは神功皇后をモデルに構想されたのでしょうか。
 共通点としては共に戦いに際して、男装をしています。

 素盞嗚尊が高天原に登ってきた時、髪を結いあげてみずらとし、・・とあります。
 神功皇后も海にはいって髪をそそぐと二つに分かれてやはりみずらにしました。

 戦った相手は天照大神の場合には素盞嗚尊、神功皇后の場合には新羅、もはやお気づきだと思いますが、両方のキイワードは新羅と言えます。

 日本の日神は新羅を相手にする時には男装して頑張るのです。『記紀』の書かれた頃までの人々の記憶の中に新羅こそ敵、国をあげて戦うべき国との認識があったのでしょう。

[3037] Re[3036][3035][3034]: お詫び  神奈備 2007/05/06(Sun) 20:52 [Reply]
> Google マップの以下のメニューでメールをクリックする。
> < マップ          印刷 メール このページのリンク >

メールの文中にでますが、以下の方法でもできます。

「このページのリンク」を右クリックしてショートカットのコピーをしますとコピーできます。

[3036] Re[3035][3034]: お詫び  素人 2007/05/06(Sun) 19:58 [Reply]
お詫びついでに、
>しかし、この無料提供は嬉しいです。
>アイデア次第で活用範囲が広がりそう。
>願わくは、GPS位置が出るとありがたい。
緯度・経度の一例>>
二上山を含めたグーグル画像
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=10&ll=34.505991,135.77282&spn=0.079925,0.193977&t=h&z=13&om=0
緯度・経度は上記URL中の34.505991,135.77282部分で
北緯 34.505991° N34°30.3595′(GPS) N34°30′22″
東経 135.77282° E135°46.3692′(GPS) E135°46′22″
1°=60′=3600″
上記のように計算で出ると思われます。
(計算には自信が有りませので再度計算してください。)

目的のURLの取得法。
表示したい場所拡大比率で画像を表示
Google マップの以下のメニューでメールをクリックする。
< マップ          印刷 メール このページのリンク >
メールが開かれ、メール本文に目的のURLが表示される。これをコピーして張り付ければ目的場所のURLを取得できます。
ご迷惑をおかけしました。

[3035] Re[3034]: お詫び  nick [Url] 2007/05/06(Sun) 01:44 [Reply]
> 大変申し訳ありません。
> グーグル画像がURLの一部しか反映されないために正規の画像が出ません。
> URLをコピーしてブラウザのアドレスに貼り付ける必要があるようです。

私もその口。喜び勇んで張り付けたら。。。
判りずらいですよね。
未だに写真の貼り付けがよく判らない。
案内の地図は、気がついたページから目下差し替え中。
さっきも更新しました。

しかし、この無料提供は嬉しいです。
アイデア次第で活用範囲が広がりそう。
願わくは、GPS位置が出るとありがたい。

このgoogleに対抗して、世界の巨人と日本の雄が合併するとか。

[3034] お詫び  素人 2007/05/05(Sat) 01:08 [Reply]
大変申し訳ありません。
グーグル画像がURLの一部しか反映されないために正規の画像が出ません。
URLをコピーしてブラウザのアドレスに貼り付ける必要があるようです。
重ねてお詫び申し上げます。
今後は注意いたします。


[3033] ご近所の話  素人 2007/05/05(Sat) 00:57 [Reply]
前に登場した四明山・浙江省曹娥江と強引に結びつけて。青草!!
四明山麓の盆地、円形の地すべりと「天香久山」(風土記には天から降ってきたという伝承が残る。)大和三山で一番神聖視されてきたのは三輪山を四明山と考えると「天香久山」は地すべりではないが何か関係が有るためではと思えます。畝傍山や耳成山も四明山麓の盆地の地すべりと同じに山頂から流れ落ちたと考えたかもしれません?

四明山麓の盆地、円形の地すべり
浙江省は春秋時代(紀元前700年〜紀元前403年)の越国で、戦国時代には楚(紀元前403年から紀元前221年)に属しました。戦国時代の楚は鉄の先進地。
北から南に流れる川、浙江省曹娥江の上流、四明山麓の盆地、円形の地すべり。
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&z=11&ll=29.59376,121.049423&spn=0.337344,0.55069&t=k&om=0
浙江省曹娥江、四明山の麓の盆地拡大写真。
河川流路と地形より古い風化した円形の大きな地すべりの後が推定できる。
この地域は特異な地すべり地帯である。
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&z=11&ll=29.621818,120.892181&spn=0.33725,0.55069&t=k&om=0

大和三山
1) 畝傍山や耳成山は独立峰の休火山。
2)天香久山は龍門山地の支脈の不風化侵食した山。
二上山を含めたグーグル画像
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=10&ll=34.505991,135.77282&spn=0.079925,0.193977&t=h&z=13&om=0
大和三山と三輪山、御破裂山のグーグル画像
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=10&ll=34.504293,135.827236&spn=0.079927,0.193977&t=h&z=13&om=0
蛇足
水銀鉱床地域(辰砂産出地)
重慶市 付近の長江と支流の鳥江の柄杓形をした河川流路。
こじつければ、北斗の形の流路。
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&z=10&ll=29.439598,107.811584&spn=0.723551,1.551819&t=k&om=0
初期の製鉄・鉄の伝播も揚子江下流域からと夢想しての青草。

[3032] Re[3031]: 国中(くんなか)  神奈備 2007/05/04(Fri) 22:38 [Reply]
三輪山頂と二上山のくびれの中央は橿原市中曽司付近です。
磐余神社と岩神社が鎮座。
http://kamnavi.web.fc2.com/as/taketi/iware.htm
何となく長髄彦がいたような場所かも。

[3031] 国中(くんなか)  MADOKA [Url] 2007/05/04(Fri) 09:32 [Reply]
ZOUさん ありがとう!!
>春分・秋分に係わっていないのがちょっと残念なところです。

ほんとにねえ。。。 同感ですなあ。。。。

ただ、二上山への日の入り
    三輪山からの日の出
の観測点は 
やはり 国中(くんなか)と呼ばれた地域か???

私の心情としては。。。檜原神社か?
大和盆地の白いながもの 
頭が三輪山 尾が二上の長尾神社
腹が大和高田の竜王宮
ですんで。。。
大和高田の竜王宮が観測点!
(同じぐらいに 二上 三輪が見える?)
ちゅうと半端にビルがたてこんでいるんで。。。
もとの場所は高田病院の裏らしいんで。。。
高田病院がいい観測ばしょかも???

[3029] Re[3026]: 檜原神社と太陽の道  ZOU 2007/05/02(Wed) 14:20 [Reply]
MADOKAさん、どもども。

> 例の奈良盆地の太陽の道 観測点?
> 檜原神社ではないかと?

檜原神社から見た二上山鞍部への日の入りを再現してみました。
神奈備さんの別荘へお願いしますね。

> 真西(二上山)に日が沈み
> 真東(三輪山)に日が昇るのは何時でしょうか??

両立できる1点があるのか気になるところですね。
機会を見て探してみます。


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