青草掲示板ログ平十九年六月 2007.9
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[3248] Re[3246][3245]: 無題  たんかんさ〜 [Url] 2007/09/30(Sun) 21:00 [Reply]
『牛頭天王』の話題に便乗します。
当地の例の巨大人形の「弥五郎どん祭り」ですが

この「てんのう様祭り」と「放生会」がいつの頃か
合体同化したのではと考えています。

津島神社の弥五郎殿からの呼称かもと推察していますが確証は無し。
どなたかお知恵を期待。

尚、弥五郎どんに関しては、歴史探訪からどうぞ。

[3247] 豊玉姫  神奈備 2007/09/28(Fri) 20:33 [Reply]
豊玉姫を卑弥呼の後裔の台与に比定したい御仁がいます。

「イヨ」かも知れない「トヨ」にのみ共通点を見いだした語呂合わせに過ぎないことは、豊玉姫神の本質にあります。
 すなわち、この世から拒否された豊玉姫は子を異界である浜辺にうち捨ててしまう深い悲しみの女神なのです。海坂を塞へて異界に返ってしまう海神の娘です。

 このような女神と邪馬台国で魏の国に使者を送った台与とは同一とは考えられない格差があります。『倭人伝』では、台与は十三才で国王に推され、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人をつかわし、張政らの帰還を送るせた。倭の使はよって、台にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千枚、孔青大勾珠二枚、異文雑錦二十匹を朝貢したのです。

 勿論、台与のその後の消息が伝わっていませんが、邪馬台国の名を継いだであろうヤマトに王権が誕生するのです。悲惨な目にあったようには思われません。

[3246] Re[3245]: 無題  神奈備 2007/09/25(Tue) 15:54 [Reply]
> 『牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち 川村湊氏/著』

面白そうな本ですね。異神に関連する書籍としましては、山本ひろ子さんの『異神』(ちくま学芸文庫 上下2冊)があります。この中には牛頭天王祭文がいくつか採録されており、それぞれ興味深いものがあります。

 蛇毒気神と言う名の神がいます。素盞嗚尊、櫛稲田姫尊、毒蛇気神尊と三柱で祀られている場合が多いようです。静岡県掛川市の龍尾神社や愛知県宝飯郡御津町の引馬神社などです。
 竜宮に牛頭天王が行って竜女と結婚し七人の王子をもうけます。そうして日本へ渡ろうとする時、毒蛇の妨害に遭遇します。実はその毒蛇こそ天王の八番目の子であったのです。七人の子の胞衣から生まれたのです。姿は十一面観音となる女神です。
 牛頭天王と素盞嗚尊とが習合していく段階で、蛇毒気神は八岐大蛇と同一視されていったようです。


> 牛頭天王(八坂・祇園)−大将軍−天満宮(天神)という、超巨大な三角関係

 祇園の神も、雷神である天満天神を静める役割が与えられたので、この三角関係は少なくとも同一視すると言うことにはならないのでしょう。


[3245] 無題  狐の使い 2007/09/24(Mon) 01:03 [Reply]
『牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち 川村湊氏/著』を読み、さらに牛頭天王と蘇民将来の信仰を自分なりに整理しようと試みているのですが、牛頭天王・・・ややこし過ぎ!。この本の説に沿うと何でもかんでも牛頭天王信仰に引っ付いてきてしまう(まあ、少なく見積もっても1500年以上信仰された神様ですから、その間あれやこれやと習合されてもいたし方ないのですが)ので、うまく全容が抽出できません。この本は「八坂造」などの信仰していた氏族の名は一切登場しない代わりに、牛頭天王(武塔神)・蘇民将来・婆梨采女(少将井)・八王子等については、ここまで踏み込むか・・・というレベルまで奥深く追求していて面白い内容です。
この本の通り、牛頭天王と大将軍とが関連し、また牛頭天王と大威徳明王の関連する説を真とし、さらに別説で述べられている菅公が大威徳天と同一視された説を真とすると、牛頭天王(八坂・祇園)−大将軍−天満宮(天神)という、超巨大な三角関係が成り立つこととなるのですが・・・。私にはそんなの手に負えません。
とりあえず先週・今週と京都に赴き、関連する神社を片っ端から訪問していました(と言うより新・旧の山鉾巡行コースを改めて歩き回ってみました)。・・・で、牛頭天王信仰については、これといった話を導き出せそうにないので、たまたま立ち寄った「菅大臣神社」の造りが美しかったと言う単純な理由で(苦し紛れと言うか、おみやげと言うか・・・)、「写真神奈備別荘」にUPしておきます。(変な狛犬の写真付き!)

[3245] 無題  狐の使い 2007/09/24(Mon) 01:03 [Reply]
『牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち 川村湊氏/著』を読み、さらに牛頭天王と蘇民将来の信仰を自分なりに整理しようと試みているのですが、牛頭天王・・・ややこし過ぎ!。この本の説に沿うと何でもかんでも牛頭天王信仰に引っ付いてきてしまう(まあ、少なく見積もっても1500年以上信仰された神様ですから、その間あれやこれやと習合されてもいたし方ないのですが)ので、うまく全容が抽出できません。この本は「八坂造」などの信仰していた氏族の名は一切登場しない代わりに、牛頭天王(武塔神)・蘇民将来・婆梨采女(少将井)・八王子等については、ここまで踏み込むか・・・というレベルまで奥深く追求していて面白い内容です。
この本の通り、牛頭天王と大将軍とが関連し、また牛頭天王と大威徳明王の関連する説を真とし、さらに別説で述べられている菅公が大威徳天と同一視された説を真とすると、牛頭天王(八坂・祇園)−大将軍−天満宮(天神)という、超巨大な三角関係が成り立つこととなるのですが・・・。私にはそんなの手に負えません。
とりあえず先週・今週と京都に赴き、関連する神社を片っ端から訪問していました(と言うより新・旧の山鉾巡行コースを改めて歩き回ってみました)。・・・で、牛頭天王信仰については、これといった話を導き出せそうにないので、たまたま立ち寄った「菅大臣神社」の造りが美しかったと言う単純な理由で(苦し紛れと言うか、おみやげと言うか・・・)、「写真神奈備別荘」にUPしておきます。(変な狛犬の写真付き!)

[3244] [3242] の訂正  いこまかんなび 2007/09/23(Sun) 21:49 [Reply]
正しくは「伊古奈」さんでした。申し訳ありません。

それから、画家の須田剋太は、ご存知かと思いますが、司馬遼太郎の『街道をゆく』の取材旅行に同行して、本の挿絵原画を描いた人です。補足です。

原画作品約1500点は、大阪府の所蔵品となっています。

[3243] Re[3241]: こんにちは  神奈備 2007/09/23(Sun) 20:56 [Reply]
いこまかんなびさん ありがとうございます。

さかいさん、神奈備にようこそ!

気楽に遊んでいって下さい。

[3242] 「お好み焼き」で割り込み  いこまかんなび 2007/09/23(Sun) 20:46 [Reply]
お久しぶりです。お好み焼きなら。
「伊故奈」のお好焼きが最高 !!!!!!。
河内の一画、東大阪の地元なのでお薦めです。

ここは、近鉄奈良線八戸ノ里(やえのさと)駅から南西へ徒歩15〜20分。
途中、府立布施高校の南西には「司馬遼太郎記念館」があります。
また、近くの村には弥栄(やえ)神社が多く、だから「やえのさと」なんだなって思ってます。
店では生ビール、どんどん進んでしまいますが、壁のあちこちに埼玉県吹上町出身の画家、須田剋太の素晴らしい絵や書に一杯出会えます。
「お好み焼き」と絵の素晴らしさで、きっとお腹は満腹になりますよ。
公式?が無さそうなので、お借りしますね。
http://72.14.235.104/search?q=cache:p7clDZR5MmsJ:luna.exblog.jp/1760743+%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%80%80%E4%BC%8A%E5%8F%A4%E5%A5%88&hl=ja&ct=clnk&cd=4&gl=jp&lr=lang_ja&ie=UTF-8&inlang=ja

[3241] こんにちは  さかい 2007/09/23(Sun) 17:38 [Reply]
こちらでははじめまして。さかいです。

早速HPにお邪魔させていただきました。
いろいろと勉強になる内容ばかりで
これからじっくり読み進めてみようと思います。

そして、突然の質問にもかかわらず
お好み焼き屋さんのご案内ありがとうございました。
うどんすきのお店も早速行ってみようと思います。

それでは、また。

[3240] 大阪のお好み焼き  神奈備 2007/09/23(Sun) 14:53 [Reply]
鶴橋風月
http://www.ideaosaka.co.jp/web/store/kansai/tsurumi/index.html

ゆかり 曾根崎本店
http://www.osaka-town.com/mypage/os205064/

ぷれじでんと千房 都ホテル大阪店
http://r.gnavi.co.jp/k001007/

[3239] My Tree  神奈備 2007/09/19(Wed) 09:05 [Reply]
 大阪市内には住吉と名の付く神社が数多く鎮座しています。殆どが八十島の一つだった島(現在は地続き)に勧請されたようです。澪標(みおつくし)住吉と言う名の神社もあります。
 中には摂津菟原郡の住吉神社(所謂元住吉神社)から勧請されたものもあります。ここに樹齢七百年と言われる楠木がたっており、地域の方々の信仰の対象となっているようです。知り合いの夫人の母親さんが毎朝お詣りに行ってその楠木から元気を頂いているとか。
 それならば楠木に注連縄をしてもらって神木らしくしてもらったらと言うことで、大和は葛城の式内大社さんにお願いして注連縄を作ってもらい、住吉神社に持参したしだい。宮司さん不在で奥さんが携帯電話で宮司さんと相談しつつ注連縄を受け取って頂きました。
 その後、楠木に注連縄がかかっているであろうと見に行ったのですが、なしのつぶて。どうなっちゃったん。

 樹木に対するこのような信仰を樹木信仰というのですが、自分の気に入った木があって、これにお詣りするというのは樹木信仰のなかでも最高の形と言われます。自分と樹木とがつながっているからです。人と樹木とが互恵の状態にあるのです。天の霊力がその木を伝わって人を元気にするのでしょう。

 さて、神社の木は簡単には伐られませんが、山の中の木の場合、なにかの事情で伐採される可能性があります。その木をMy Treeとしている人にとっては、それは身を切られる思いでしょう。伐採反対となります。

 この心が自然保護の心につながります。森の民であった人類は兄弟のようなMy Treeと語らい、癒されて歴史を刻んできました。皆さんもMy Treeを持ちましょう。

[3238] Re[3237]: ごあいさつのみ  神奈備 2007/09/18(Tue) 20:01 [Reply]
有朋自遠方来、不亦楽乎

[3237] ごあいさつのみ  香具師 2007/09/18(Tue) 01:40 [Reply]
すみません。ホント久々に拝読してます。不思議ですね、テーマの流れに呼ばれたのかな?しかし、時間がなくてゴメンナサイ。アイ・シャル・リターン、です。時間をみて、カム・バック・シェーンしますから。元気に全国をまわってます!

[3236] 猪飼野  神奈備 2007/09/16(Sun) 21:09 [Reply]
 『播磨国風土記』に出てくる猪飼野についての考察があります。
http://d.hatena.ne.jp/heisai/
に依りますと、「猪養野(猪飼野)」=草加野(草荷野)=大開町あたり
との結論のようです。
ご一読を。

[3235] Re[3234][3233][3232][3231][3230][3229][3228][3225][3222] 訂正   2007/09/13(Thu) 10:01 [Reply]
<「その地図で琉球での「ヤマト ニライカナイ」の方向は「東」だと考えます。」・・・訂正します。

「その地図で琉球での「ヤマト ニライカナイ」の方向は「北」だと考えます。」に訂正します。
琉球での東は、「その地図」(古代中国を起点の 北極星を「北」と定めた地図)

すみませんでした。(球形の地球を平面(地図)に納めるのは大変な作業で日本では江戸時代までかかりました、長久保赤水の地図をご覧下さい。)


[3234] Re[3233][3232][3231][3230][3229][3228][3225][3222] ニライカナイ   2007/09/13(Thu) 09:49 [Reply]
古代中国に 北極星を「北」と定めた地図が有ったとします、琉球は東に描かれます。その地図で琉球で「ヤマト ニライカナイ」の方向
その地図で琉球での「ヤマト ニライカナイ」の方向は「東」だと考えます。

参考 HPです。
200 年前は、ほぼ北を向いていました。 350 年ほど. 前に来日したオランダ船の記録から当時は約 8 度ほど東寄りだったことが知られて
http://www.kakioka-jma.go.jp/A/pamphlet.pdf#search='東%20北%20歳差%20地図'

この地図では、 ... 日の出と日の入の方位の2等分線で北の方位を求めると、結局、真北から東に7分ずれることになります。
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Heiankyo.htm

北は、「太一・北極星」  東西は、「レイライン・太陽」 「磁石」での南北の誤差 「歳差運動」による誤差が正確な「世界地図」の完成を妨げてきました。

[3233] Re[3232][3231][3230][3229][3228][3225][3222] ニライカナイ  琉球松 2007/09/12(Wed) 22:08 [Reply]
玄松子さん、お気を悪くされたのならすみません。
 ビシッと説明や引用ができなくて、自分でもイライラです。

 「ニライカナイ」は「常世国・蓬莱山・竜宮城」などのように観念的な地となってますが、もともとは奈良のヤマトであったろうと考えています。

 うまい引用がみつかれば書き込みます。

[3232] Re[3231][3230][3229][3228][3225][3222] ニライカナイ  玄松子 2007/09/12(Wed) 18:11 [Reply]
はいはい、と言われました。
進展が無いのでこれで止めます。

> ようするに祖神アマミクは南下してきた神、その出自はニライカナイ。

アマミクがヤマトから来たであろうことは想像できます。
また、ニライカナイから来たとも思われます。

では、
1.ヤマト = ニライカナイなのか、
2.ヤマト ⊂ ニライカナイなのか、
3.ヤマト ⊃ ニライカナイなのか。

ニライカナイが「海の彼方の(理想の)地」という緩い意味で用いられた場合、
2(ヤマトもニライカナイ)と考えられるでしょう。

少なくとも、現在では東方・東南の海の彼方や海底もニライカナイと称しているようですし、地域や時代によって変遷しているようですから、「当初から明確に北方」という表現には疑問を感じましたし、説明を求めました。

また、史実としてアマミク達がどこから来たのかという問題と、信仰としてのニライカナイは別けて考えても良いのではないでしょうか。

ということでした。以上。

[3231] Re[3230][3229][3228][3225][3222] ニライカナイ  琉球松 2007/09/11(Tue) 21:41 [Reply]
玄松子さんへ

 はいはい、こちらこそ説明不良で。。。
 ようするに祖神アマミクは南下してきた神、その出自はニライカナイ。

 次は、王朝側の文献から探してみます。

[3230] Re[3229][3228][3225][3222] ニライカナイ  玄松子 2007/09/11(Tue) 15:02 [Reply]
> 『沖縄の祖神アマミク/外間守善(築地書館)1990』より

この引用を要約すると、「『斎場御嶽』が特殊な形で聖域化されるようになったのは…琉球王朝時代のことで…ニライ信仰、太陽信仰を重ねあわせることのできる格好の地と
して斎場御嶽が聖域化されたものであろう」ですね。

僕に読解力が無いせいか、よく理解できませんが、
この引用が、

>  また、「ニライカナイ(奄美ではネルヤカナヤ)(八重山ではニローetc)」は、文献や地方の神歌からして、当初から明確に北方だと言えると思います。

の説明ということでしょうか。

[3229] Re[3228][3225][3222] ニライカナイ  琉球松 2007/09/11(Tue) 09:54 [Reply]
玄松子さんへ

 "「ニライカナイ」が東方だと観念されるようになったのは、おおむね琉球王朝時代"・・・とは多くの方が指摘されていますね。
 ここでは外間守善先生の見解を紹介しますが、氏の言う「アマミコ時代」とは、琉球王朝成立以前のある時期の事です。

『沖縄の祖神アマミク/外間守善(築地書館)1990』より
*** アマミク神が、史書でも口碑でも色濃く活躍し、稲作地を拓いていった知念、玉城の大きな囲みの中で、斎場御嶽が特殊な形で聖域化されるようになったのは、アマミク時代よりもっともっと後の世の、琉球王朝時代のことであり、王国の信仰体系の正当化のために、ニライ信仰、太陽信仰を重ねあわせることのできる格好の地として斎場御嶽が聖域化されたものであろう。(略)
 また、太陽神とかかわる東の方、久高島を遥拝する御嶽としても最適であり、キョウノハナの拝所から久高島を拝む香炉の前方に、これまた太陽信仰とかかわりのある桑木の古木が植えられているのも、偶然のものだとは思えない。***

[3228] Re[3225][3222] ニライカナイ  琉球松 2007/09/08(Sat) 21:58 [Reply]
玄松子さんへ

 ゴジャゴジャしていて申し訳ないのですが、僕があれこれ書くよりも研究者達の発言を引用してほうがよさそうです。
 ここで言う神々とは、2000年ほど前にゴホウラ貝などを採りにきた「アマミコ・アマミキヨ」などと呼ばれた創世神で、宮古&八重山へは行っていない九州の人々を指します。
* 文中の季節月は旧暦、( )内は補足

 まずは、「琉球大学沖縄文化研究所所長」故仲松弥秀先生の来訪神理解
*** 来訪の経路・・・村々の地形に応じて種々異なっている。ただし海の彼方から来られるということは、どの村でも相違は無く、このことだけは一致している。(略)
 奄美の与路島では2月、ネリヤの神のオムヶ(御迎え)がある。神は請島与路島間の東南方の海の方から与路村落近いオボツ山に飛来滞在なさる。そこから神鐘の音が聞えた場合、村人は神の下山を知り、心身緊張し、子供達を早々就寝さす。日暮れ時、太鼓の音が山上から、それがしだいに付近くに聞えてくる。神や供神連の下山である。夕闇せまった頃、先頭にいかめしい槍持ち、その背後から白衣の神々が地上をスイスイと、辷るがごとくに村に入って来られ、そしてミヤー(祭祀場)のアシァゲに入られる。(略)
 かくのごとく水平的飛来のネリヤソコ・カナヤソコの神は、オボツ山から村へと下山来訪なされるのであるが、4月のオホリ(御送り)には、村の浜辺から船出なされ、各村を訪れた神々と請島東端の木山島に待機していた大船に乗りかえ、そして遥かの海へ行かれるのである。このような山上飛来型の帰還の型は、与路島のみではなく何処の村でも共通している。

 次に、それを受けての「邪馬台国総合説」名護博教授の見解
*** 仲松氏は「神は請島と与路島の間の東南方の海の方から与路村落近いオボツ山に飛来滞在なさる」と述べておられるが、請島と与路島では、沖縄に行って帰る人々を迎える行事が中心であったから神迎えは南向きになったと考えることが出来る。
 しかし、季節は2月で北風の時期であるから、他の神歌で謡われるように「神々は北風に乗って飛来」したヤマト人たちであり、2ヶ月滞在後、沖縄に向かう。
 奄美の神送りは4月であり、沖縄の神迎えは5月、沖縄の海神祭が5月または7月であるのはそのためである。 
 7月の神送りは「来年の5月はもっと盛大に迎えますから」と、赤椀の世直しの神歌を歌って送り出す。
 奄美には、その神々を開聞岳(薩摩半島南部)まで見送る神歌がある。

[3227] 沖縄の古代  とみた 2007/09/07(Fri) 11:13 [Reply]
琉球松さん 

土地の方でいらっしゃるので、内地の門外の素人が口出しするのも気が引けますが・・・

定年後は避寒目的に三年続けて、沖縄の石垣島、宮古島、本島に出かけました。そこで調べたりしていろいろ謎深い土地だと思うようになりました。

小田静夫さんは、縄文考古学の講座で、沖縄の話をされました。私の印象に残った事柄。

●旧石器時代の港川人は1万8000年前よりもっと新しい可能性あり〜1万3000年

●5500年前の、熊本の曾畑式土器が出土、これは九州の隼人の先人の海人がゴホウラ貝などをすでに沖縄で取っていた証拠かも

●日本の弥生〜平安の時代は、沖縄では貝塚時代で人口は少ない

●11世紀のグスク時代、人口が急激に増え、木を倒し耕地にする。
、生活していた谷底を考古学的に調べると10世紀より古い痕跡はない


●日本の中世の武士のDNAは東京人と同じで、すべて大和人(琉球大の土井なずみ教授

考古学でなく沖縄の始祖伝説がありますね。

○琉球王家の始祖、舜天と源氏の関係、1156年保元の乱で伊豆に流された源氏がさらに沖縄まで行ったという少し怪しげな話もあります

>琉球松さんの一言

琉球圏の祭祀の中心は太陽そのものではなく、かつて北方(北部九州?or奈良盆地?)からやって来た神々に対するものと理解しています。

は11世紀大和族の沖縄進出と関係があるかも知れないと思ったのです。

沖縄には、いろいろな種族が入っていますね。いろいろな奇祭があります。八重山のミルク仮面やアカタマ・クロタマ仮面仮装は海の彼方から。 宮古島の島尻狩俣のパーントウ奇祭も、来訪神の祭りです。つる草で覆った神が井戸の中=異界からでてきます。中国湖南省のトーチャ族のマグオースも蔓草を纏って先祖祭をします。

石敢当は、魔除けの呪いですがこれも沖縄の角地に多く見受けます。確かこれは中国の福建省から出ているようです。

ニライカナイ論も、いろいろな側面で考察が必要だと感じています。

琉球は直接中国の王朝と朝貢をしています。

14世紀?でしたか、国内の王国同士の戦いで中山国が勝利して、17世紀には島津藩に支配されて・・・

沖縄で一番、不思議なのは、御嶽(ウタキ)ですね。日本の村の鎮守や神社を彷彿とさせます。流れ着いた民が集落の守護神と作ったらしいのですが、これは何時から始まったのでしょうか。

本島の南部の東海岸にある、久高島の女性のノロも神秘的ですがこれも良くわかりません。


[3226] Re[3225][3222] ニライカナイ  大三元 2007/09/07(Fri) 08:18 [Reply]
玄松子さん
> >  また、「ニライカナイ(奄美ではネルヤカナヤ)(八重山ではニローetc)」は、文献や地方の神歌からして、当初から明確に北方だと言えると思います。

> こちらの説明をお願いします。

また『沖縄の言葉と歴史』(2000年発行)からですが:

ニライ・カナイについてわかりにくいのは語源だけではない。その意義についても、その方位や神についても地域的な差異があるらしく、これからの帰納的、実証的研究がまたれる課題となっている。(P134-:引用終わり)

これから行くと、外間さんの場合は、「明確に北方だと言える」という立場ではない、と理解できましょう。

[3225] Re[3222] ニライカナイ  玄松子 2007/09/06(Thu) 16:01 [Reply]
項目を分けました。

>  それと「ニライカナイ」が東方だと観念されるようになったのは、おおむね琉球王朝時代からで、国家宗教確立のために東方の島「久高島」などを神の島に振り替えたと考えられます。

>  また、「ニライカナイ(奄美ではネルヤカナヤ)(八重山ではニローetc)」は、文献や地方の神歌からして、当初から明確に北方だと言えると思います。

こちらの説明をお願いします。

[3224] Re[3222][3218][3217]: 太陽信仰と日置氏  玄松子 2007/09/06(Thu) 15:55 [Reply]
>  まず、おおむね「ニヌファ(北方)」を拝み、次に東〜南〜西となりますが、北以外は太陽の日の出から時計周り、つまり太陽の動きを表すと考えられるわけで、重要なのはやはり北方だと思いますね。

なるほど、
もろもろの拝する対象の中で、「四隅」を拝する時には北から、ということですね。

中華っぽいですね。

[3223] Re[3221]: ニライカナイ  玄松子 2007/09/06(Thu) 15:19 [Reply]
> 恐らくは、原義が忘れられると、土地や政情によって、「都合良く」変貌させられる、ということかなぁ。

あるいは、もともと方角・方位に意味はなく、「海の彼方」だったというのは?
「東」としたのは王宮からみたら、たまたま東だった、とか、
太陽(日の出)という魅力的な要素を見つけたため、とか。


> 些細なことですが、辰巳って東南でしょ?

たしかに。

[3221] ニライカナイ  大三元 2007/09/06(Thu) 09:12 [Reply]
> 北方であるという説の解説をお願いします。

外間守善著『沖縄の言葉と歴史』(中公文庫)P136:
伊波普猷の論考を紹介しているくだりで:

3「にらい・かない」はもともと北方にあると考えられていたが、東方から勃興した第一尚氏の影響で首里を中心とする地方で東方に振り替わった。八重山では古くは北方にあると考えられていたのが、台湾など南方からの影響を受けて南方に振り替わった。
(引用終わり)

恐らくは、原義が忘れられると、土地や政情によって、「都合良く」変貌させられる、ということかなぁ。

些細なことですが、辰巳って東南でしょ?

[3220] Re[3219][3216][3215]: Re[3214] Re[3213]: 太陽信仰と日置氏   2007/09/05(Wed) 14:48 [Reply]

> 断片でもモシ 夕日に関わる伝承 民話等 耳にしましたら。。。
> 書き込んで下さいね

RE
日置 と ウディダ石(沖縄諸島)
日の出や日没の位置から島を串刺しにして直線の交わるとっころに石を置いた、という沖縄のウディダ石
http://www.jumpingfrog-in-kumano.com/newhamon/kumano/050603.html


[3219] Re[3216][3215]: Re[3214] Re[3213]: 太陽信仰と日置氏  縁MADOKA [Url] 2007/09/05(Wed) 13:16 [Reply]
琉球松さん
>  僕の知っているかぎり、琉球圏における日の入りに対する祭祀は皆無!

グワーーーーーーーーン(@0@)
haa−−−−−−−衝撃!!
私はシバラク立ち直れねえーーーーーーー ひぃーーーん(><)

断片でもモシ 夕日に関わる伝承 民話等 耳にしましたら。。。
書き込んで下さいね

傷心の縁MADOKAです。。。。

[3218] Re[3217]: 太陽信仰と日置氏  玄松子 2007/09/05(Wed) 10:35 [Reply]
>  我が家の「ヤシチヌウガン(屋敷の拝み)」などの民間の祭祀でも、女性神職はまず北(と認識できる方向)を拝み、その次に太陽の方向を拝みますね。

「屋敷御願」は、まず火の神、そして四方を拝するという順もあるようです。
http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_contents/10053000.html
「うちではまず火ヌ神(ひぬかん)(竈(かま)の神)に手を合わせ…次に屋敷の四隅(塀で囲った敷地の内側の角々)で線香を焚き、白紙や紙銭(かみせん)を燃やす。…次は門に移動」

>  また、「ニライカナイ(奄美ではネルヤカナヤ)(八重山ではニローetc)」は、文献や地方の神歌からして、当初から明確に北方だと言えると思います。

一般には「ニライカナイ」は東方と思われているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニライカナイ
「遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。」

北方であるという説の解説をお願いします。

[3217] Re[3216][3215]: Re[3214] Re[3213]: 太陽信仰と日置氏  琉球松 2007/09/04(Tue) 23:02 [Reply]
補足・・・

 琉球圏の神祭りのほとんどは "北" を意識していると思います。
 我が家の「ヤシチヌウガン(屋敷の拝み)」などの民間の祭祀でも、女性神職はまず北(と認識できる方向)を拝み、その次に太陽の方向を拝みますね。

[3216] Re[3215]: Re[3214] Re[3213]: 太陽信仰と日置氏  琉球松 2007/09/04(Tue) 08:04 [Reply]
縁MADOKAさんへ

 僕の知っているかぎり、琉球圏における日の入りに対する祭祀は皆無!
 また、「ニライカナイ(奄美ではネルヤカナヤ)(八重山ではニローetc)」は、文献や地方の神歌からして、当初から明確に北方だと言えると思います。

 それと、琉球圏の祭祀の中心は太陽そのものではなく、かつて北方(北部九州?or奈良盆地?)からやって来た神々に対するものと理解しています。

[3215] Re[3214] Re[3213]: 太陽信仰と日置氏  縁MADOKA [Url] 2007/09/04(Tue) 02:06 [Reply]
さすがとみたさんの書き込みはわかりやすい!
いつも助かってます ありがとうございます。

神奈備の書き込みとリンクしますが
ニギハヤヒルートの入り口に
>●私の大阪時代に住んでいた枚方の御殿山の北に、日置山>
これはおもしろいですねえ

琉球松さん
太陽祭祀でいつも悩むのが太陽祭祀といえば一般的に日の出ですよねえ?
ニライカナイは朝日と夕日どちらでもあったですよねえ確か??
おしてる難波をかんがえるとき
琉球に夕日信仰だといえる祭りや祭祀跡はありますか
非常にそれが知りたいのですが。。。


[3214] Re[3213]: 太陽信仰と日置氏  琉球松 2007/09/03(Mon) 17:39 [Reply]
とみたさん、古代史ドド素人でいいんじゃないでしょうかね。


 参考になるかどうかわかりませんが。。。

 琉球王国の国王及び首里城など、国の中枢を護衛する近衛兵的な集団を「ヒキ」と言いますね。
 これは3個師団?に分けられた分業の護衛制度で、首里城に近いほど名誉とされていたようです。
 
 また、初期の首里城の瓦は朝鮮製(製作場所は不明)で、ある国王の血統も朝鮮系だはとの説もありますよ。

 以上、沖縄のド素人でしたあ〜。

[3213] 太陽信仰と日置氏  とみた 2007/09/03(Mon) 06:28 [Reply]
縁MADOKAさんの合いの手で、私の日置氏への関心を、少し開陳します。

理数系大学出身者の、古代史ドド素人が、定年後の遊=学で少しずつでも謎に迫れないかと思っています。探し求めて往生するのも悪くない。

日置という地名が結構多いんです。
●太陽ライン上の、日置荘(これは興福寺の荘園の荘)で、今は堺市、古代は南河内郡。

●私の大阪時代に住んでいた枚方の御殿山の北に、日置山
●丹後の浦島子(浦島太郎)の住んでいた与謝郡日置里
●出雲の経島(文島)の別名は、日置島 ( ここに日沈宮があり、安曇磯良やアマテラスと関係がありそう)
●因幡の青谷寺地遺跡(弥生時代の遺跡)の近くを流れる日置川

枚挙に遑なし。

日置氏は、新撰姓氏録に未定雑種とか高句麗から来たとかいろいろ言われています。渡来系には間違いがない。

日置氏の職能は何か・・・

日の神つまり太陽霊の輝きとかげりを見るもので、審神や日読みなどの仕事に従事する(上田正昭氏)、別の学者は、天文に通じ測量を行う(古代測量士)とか祭祀(日神祭祀)に関係する職能とかいう。日を招き入れる日置氏。これでは太陽ラインを考慮して神社などを配置するのは、尤もらしく思える。或いは日置(ヒキ)は火起きに由来すると云う鋳物師説もあります。住吉大社の真弓常忠宮司は日置氏は製鉄に関わったとされる。


日置氏は、大和国今の奈良県の御所あたりに入っている。三輪山周辺には辟田(ヒキタ=日置田)という地名が残り、三輪引田君と阿倍引田君がいる。

6世紀の欽明天皇時代に、日置の伴部(蘇我氏系)が出雲国西部の神門郡に入り、
出雲国東部の意宇郡(今の松江近辺)の意宇氏=出雲国造の地は、日置氏が神戸として国造を支援している。

出雲の熊野大社と杵築大社(出雲大社)の神戸として神社諸経費を負担する部族であります。それを束ねるのが大和朝廷の中央官僚としての日置臣でしょう。

意宇郡では、新造院という寺の造営に日置氏がかかわり高句麗の瓦が使われている。

そのころ、関東の埼玉の比企(ヒキ)にも進出している。比企=ヒキ=日置と考えられます。

大和朝廷の祭祀を朝鮮や中国から導入した部族は、誰なのでしょうか。

日置氏か、忌部氏か・・・などと考えているんです。

生駒山系の日下=草香も河内湖の畔ですから、渡来人が居てもよさそうです。ナガスネヒコが神武東征軍を破る。

日下部連使主は雄略天皇が市辺押磐王子を騙し討ちにしたとき、その子の弘計王と億計王を護って息子の吾田彦とともに丹波国与謝に逃げた。

与謝は日置の里、浦島子が雄略時代に丹後の水の江で釣をしてたら亀がかかった。道教とつながってもいそうです。水の江の長者は日下部首。浦島太郎伝説は道教思想と、浦島神社の宮司さんは語る。


話は長くなりました。切れ端情報ばかしですみません。切れ端をつなぐと何がわかるか?
どなたかお知恵を貸してください。








[3212] Re[3211]: 太陽信仰  縁MADOKA [Url] 2007/09/02(Sun) 20:13 [Reply]
とみたさん
>日置氏に拘るとみたです>
そうなんですか!!

日置氏って結構でてくるけど
ここで改めて
日置氏とは? 書き込み願いまーーース(*^^)

[3211] 太陽信仰  とみた 2007/09/02(Sun) 16:42 [Reply]

縁MADOKAさんの結ぶご縁で、琉球松さん、大三元さんも加わって、神奈備さんのコーナーが賑やかです。

私も加わることにします。

@太陽の道(レーライン)

伊勢湾の神島で太陽があがり、日神の塚のある太郎生→中太郎生(日置姓の多い集落)→室生寺→初瀬の天神山(与喜山)を拝する長谷寺(天神は太陽)→三輪山→元伊勢の檜原神社→二上山→日置荘→大鳥神社→大阪湾→淡路島の舟木に至る。

やけに日置氏が関係しているなあ!

神島にはゲーター祭りという太陽信仰の祭りがある。

A出雲は島根半島の西北部で日本海を見渡す、日御崎神社、その下の宮はアマテラスを祭る日沈宮である。この宮は元々、海岸の小島で文(経)島といわれた。

日置島ともいう。

ここではワカメ刈神事があり、海の民、安曇磯良を祀る。

なぜここでも日置氏が出てくるの?安曇氏が関係しているのはなぜ、

蛇足)それほど遠くないところの楯縫郡(今は出雲市十六島)十六島(ウップル島)には朝鮮人の集落で出雲風土記に書かれている最高の海苔が取れる島がある。

B大和川の高井戸の近く、石川が大和川に合流するあたりに玉手山丘陵/玉手山古墳群がある。

ここでは立柱祭祀が行なわれていたらしい。第一の立柱は円丘の西側に数本立て柱群の中央に竃を作り、東に向いて焚き火をした(煙は東に)。これは日の上る宮を祭ることではありませんか。

二番目の立柱は下の円丘に立て西に向って焚き火をした。これは日沈宮を祀ることと関係あるかもしれません

ついでに妙なことを書きます。

C薬師如来の浄土は、朝日の上がる東。阿弥陀如来は、夕日の沈む西方浄土

 観音は南、毘沙門天は、北です。

以上、日置氏に拘るとみたです。

[3210] Re[3209]: 琉球&難波津&和歌浦 考  琉球松 2007/09/01(Sat) 23:32 [Reply]
縁MADOKAさん、ありがとうございます。

 土地勘のある方の情報はありがたいですね。

 沖縄島の神歌「マガ玉をかいに大和へ・・」の中に「マガ玉を濡らしてしまって・・」との表現があることから、彼女達の船は数人乗りのごく小型なものであったと想像できます。

[3209] 琉球&難波津&和歌浦 考  縁MADOKA [Url] 2007/09/01(Sat) 22:59 [Reply]
琉球松さん
>それと、もうひとつ「ヤヲ」の可能性があるのが奈良の磯城郡八尾ですが、どうなでしょうかね、難波津から水行で奈良盆地まで行けるものなのでしょうか?>

これは大和川を遡ればいけます。
三輪山の麓の 海石榴市は大和川を大動脈にした盆地の中の港!
難波津との関係が深いところです!
大和朝廷の外港「海石榴市」
http://www.yamato.kkr.mlit.go.jp/YKNET/press/saijiki/sai22B.html

>太陽信仰に関しては「上・中・底」をキーワードしてみるのもいいと思いますね>

というより私は太陽は 『高・天・下』高照・天照・下照 であろうと考えています

大三元さん
「布」は国土の意味か!は非常に興味ぶかかったですねえ
こりゃーー八十嶋祭りの 御衣を海上で打ち振って国御霊を付着させるにつうじますね
(大阪薪能の新作能 八十嶋祭りを題材にした『生国魂』はほーんとそんな感じ 脇田晴子が岡田精司の助言で監修した 視覚的に八十嶋祭りを見せてくれましたよ 放映があったらみてくださいね)

和歌山の国懸と日前考もおもしろかったですね
>簡単に言うと「前」は「鏡」に通じ、「日前」が「日鏡」、「懸」(かかす)は「輝かす」の意味であり、「国懸」とは「国照」の意味である。すなわち、「布忍」と「国懸」が等価となる。>

国懸と日前の神奈備山ご存知ですか?
名草山なんです!(ハニ土は名草山からです)
(丘みたいな山 。。どうも山腹にイワクラが散在するらしい)
で!和歌浦の玉津嶋神社の奠供山で聖武天皇が八十嶋祭りのルーツ?になるようなことをした記録があります(直木孝次郎)この奠供山(巨大なイワクラのような小山)に登って見えるのが名草山!この和歌浦には四天王寺と同じような夕日信仰の寺があります。
玉津嶋の語源は>玉津島は、奠供山、雲蓋山、妙見山、船頭山、妹背山、鏡山の六つが、昔は海に浮かぶ島であったのを眺望し、玉のような島だという意味で命名されたという>
八十嶋を連想させますねえ
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/tamatsushima.html
また玉津嶋神社の祭神は明光浦霊
なんか夕日におもえませんか?
http://kamnavi.jp/ki/city/tamatu.htm
潮の干満で近くの川は逆流するらしいですし
干潟もできる=片男波 ですわ!これは川の半分に干潟が出来るのでカタオ波
紀三井寺があり 聖なる井戸三つ
和歌浦は八十嶋祭りの真庭を箱庭にしたような風景なんですよねえ。。。
(私としては難波津で八十嶋祭りがあって次に和歌浦で箱庭真庭 難波津に都ができて難波津で国家プロジェクトとして完成したと思いたい!)

私は八十嶋祭りに必要なのは 神奈備山 三つの井戸 西日に照り輝く汽水域に繋がる津 姫神 それを見張らせる小高い場所が必要と考えています

和歌山にはニシキトベ 荒川トベ 名草トベ と女酋長がいますが
痕跡地としてもっとものこるのは 名草トベ もっとも呪力が高く恐れられた存在のようです。 私は名草トベは沖縄の女シャーマンみたいなイメージを持っているんですがね
紀ノ川は非常に外港的性格が強く 大和とのつながりも深いですしね

神奈備さん
>ナニワの太陽信仰ですが、沖縄との関連を示唆された縁MADOKAさんの慧眼に敬意を表します>

はじめて褒められたようにおもうなあ(><)

ナニワの太陽信仰を説明するのに 沖縄のニライカナイを例に出す人はいるんですが 難波津と沖縄の関係を言う人はいねえ

それで苦労して昆布にいきついたんですが・・近世どまりですが
私は秦の始皇帝の求めた仙薬が昆布説は気にいっている
なぜなら、和歌山に徐福伝説が多いから!
まあ 海石榴市に昆布がならんでないといかんのですがーーーそれはーーー(=0=)

近畿で渡来人漂着がもっとも古い伝承ていうとしたら やっぱ和歌山は濃厚なところ
和歌浦の古代点在した嶋を八十嶋祭り の八十嶋とみたてると
ちょっと思いついたことが。。
沼嶋にいった時、なんであんな小さい嶋が重要なんか?
どうも黒潮とか他から来た海洋民がはじめに上陸するのは、大きなところではなく(先住民に攻撃されるおそれがある)ので近くの目印になる小舟を隠せる小島にまず上陸し、あたりの情報を得てから大きな所に上陸するらしい。

つまり、国生み神話も小さい嶋から生み出し 名前が残るのはこのことが関係し八十嶋祭りも 国生み国御霊いがいに 海洋民にとって 小島が重要だったということがあるのでは??? 
(国を発見する最初の諸点としての小島の重要性! 小島=海のクシフルタケ!)

夕日輝く真庭の重要性とは
夕暮れ時を おうまがとき ともいい 誰(たそ)彼(かれ?)で たそがれ
この世とあの世の境の時間なのではないのか?
だから 常世(生命の根源)のパワーを貰う時間であり、国御霊を取り入れる時間か?
謡曲本で描かれる 難波津は生き別れの人と再会できる信仰として描かれているのでは?
(芦刈。弱法師 等)
この世で巡りあえない人とめぐり合える時空間 夕日照り輝く難波津

以上が現在の 縁MADOKA説です

[3208] Re[3205][3204][3202]: 琉球と難波津  大三元 2007/09/01(Sat) 15:29 [Reply]
琉球松さん

>  日本語と琉球語の分岐点は3〜4世紀頃との説がありますが、大三元さんはどのあたりを想定されているでしょうか?

服部四郎さんは「1453年前」(昭和30年の稿)としておられます。言語が分岐する、と云っても、ある日突然に分れるわけでもないので、これほどの有効桁数で論じることは恐らく無意味でしょう。2000年ほど前から始まっていた、と考えても今日観られる姿になることも可能なのだろう、と思っています。

[3207] Re[3206][3202]: 琉球と難波津  琉球松 2007/09/01(Sat) 14:49 [Reply]
 神奈備さんへ

 沖縄島の女達が向った「ヤヲ」が大阪の八尾あたりだとすると、平安後期以降ということになりそうですね。

 それと、もうひとつ「ヤヲ」の可能性があるのが奈良の磯城郡八尾ですが、どうなでしょうかね、難波津から水行で奈良盆地まで行けるものなのでしょうか?

 あと、太陽信仰に関しては「上・中・底」をキーワードしてみるのもいいと思いますね。

[3206] Re[3202]: 琉球と難波津  神奈備 2007/09/01(Sat) 14:28 [Reply]
 大阪の八尾はそれほど古い地名ではなさそうです。初出は平安後期。
 河内湖の頃にはすでに陸地であって、旧大和川が流れていたようですが、さてヤヲの港があったのかどうか。
 勾玉で言えば、玉祖神社が鎮座、また子持ち勾玉などが出土しています。


 さて、ナニワの太陽信仰ですが、沖縄との関連を示唆された縁MADOKAさんの慧眼に敬意を表します。今までは圧倒的な半島系渡来人のうごめきのなかに南の島の影は埋没していたようです。ナニワのナを朝鮮語のナル=日とする見解などもありました。語源が信仰のルーツを示すと言うことも考えられそうです。

[3205] Re[3204][3202]: 琉球と難波津  琉球松 2007/09/01(Sat) 14:14 [Reply]
 大三元さん、縁MADOKAさん、ありがとうございます。

 日本語と琉球語の分岐点は3〜4世紀頃との説がありますが、大三元さんはどのあたりを想定されているでしょうか?

 3〜4世紀といえば、卑弥呼〜崇神天皇あたりの時代ですね。
 僕の歴史認識の基本「邪馬台国総合説(名護説)」で判断すると、奄美沖縄諸島と奈良中央政府が対立関係に入った時代という事になります。
 人の交流が途絶えた結果、言葉が通じなくなるほど別の方向に変化していったんじゃないでしょうね。

 それから、沖縄島の女達が大和(奈良)へ出かけた目的は、いわゆる弥生時代の「曲玉・勾玉」を入手することでしたから、縄文時代まではさかのぼれないんじゃないかと考えますがどうでしょうか。

[3204] Re[3202]: 琉球と難波津  大三元 2007/09/01(Sat) 11:46 [Reply]
縁MADOKAさん

> 大阪市史の一巻で書かれていますが、大阪の古代祭祀遺跡の特徴は太陽祭祀なんです!
> 日本の中でも稀有な存在!
> これに良く似た例は琉球なんです。。 ただ、飛びすぎて繋ぎにくいんです。

「大阪の古代祭祀遺跡の特徴は太陽祭祀」ということで「おしてる難波(なには)」の原義が「照り輝く真庭」であろう、と考えました。詳細は:
http://www.dai3gen.net/ositeru.htm
それと関連する「布忍神社、名義考」
http://www.dai3gen.net/nunosi.htm

琉球に残っている語彙、言語習慣(音の揺れ方)がヤマトサイドの事象、名称を考えるのに有効らしい、というサンプルです。

[3202] 琉球と難波津  縁MADOKA [Url] 2007/09/01(Sat) 05:04 [Reply]
琉球松さん
<沖縄島の女性だけで大和まで行ったとの伝承はあちこちにありますが、古墳時代後期頃の航海の可能性もおおいにあるかもせれません?>

古墳時代後期頃どころか もーーーーーと古いとおもいますよ!!
黒潮ルートは縄文ぐらい最低考えないと。。
大阪市史の一巻で書かれていますが、大阪の古代祭祀遺跡の特徴は太陽祭祀なんです!
日本の中でも稀有な存在!
これに良く似た例は琉球なんです。。 ただ、飛びすぎて繋ぎにくいんです。
古代難波津の信仰とニライカナイは非常に似た世界観ではないかとおもわれます。
ただ沖縄には現代に通じる痕跡等があるでしょうが コチラは資料に乏しい!!

どっと話は飛びますが
大阪の大正区はリトル沖縄!大正区のエイサー祭り 芸能伝承保存の情熱は 沖縄以上に熱いと沖縄の人がいう。

沖縄と大阪の関係で立証できるのは近世
昆布の流通!
昆布の生産地は北海道! 最大の消費地は沖縄 その流通の中継地&加工地は大阪!
だから!大阪名物がエビスメ!昆布の佃煮 名称がアイヌ娘

北海道から沖縄に行って中国に昆布が行った!!
中国には昆布はもともとなかったんです!

秦の始皇帝が求めた不老不死の薬は昆布だという話がある!
中国の風土病には 昆布のヨードが最大の薬であったから!
西前船が出来る以前 北前船ルートだけだったときの昆布中継加工地 小浜の昆布屋がHPで論説を載せています。

私はこれが 本来の黒潮ルートで古代沖縄 難波津が繋がっていた根拠と考えています
昆布大全より中国の昆布(昆布大全は一読に値する)
http://www.konbukan.co.jp/taizen/chishiki3_1.html
昆布館映像 海帯
http://www.konbukan.co.jp/taizen/movie2_1.html

[3201] Re[3200][3198][3196][3195][3194][3192][3191] Re[3189]: 勾玉 太陽  琉球松 2007/08/31(Fri) 23:27 [Reply]
 こういう遊び?の中からも、いろいろアイディアが出てくるものです。

 例えば「ガハラ」の語源は「高天ガハラ」。。。なんてね。
 これなんかも、あながち荒唐無稽とも言えないかも(笑)。


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