青草掲示板ログ平二十年 四月 2008.7
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[4338] Re[4336][4335][4334][4332][4330]: 訂正  かしこ 2008/07/31(Thu) 23:32 [Reply]
失礼致しました。
あの形ですからシュメールではなく、エジプト文字だったかもしれません。
ノートを探しましたが見つからず、正確な訂正が出来ずに申し訳ありません。

[4337] Re[4336][4335][4334][4332][4330]: 楯の紋様  佐々木 2008/07/31(Thu) 22:32 [Reply]
 ごぶさたです。
 アッサムのナガ族ですか。首狩族、あれは見たぞと思いましたが。
 蛾の羽、トンパ文字かなと思ったのですが。
 http://www.eonet.ne.jp/~koizumi/hayato-shipo.htm
 

[4336] Re[4335][4334][4332][4330]: 楯の紋様  かしこ 2008/07/31(Thu) 22:17 [Reply]
お久しぶりです。ちょっとだけお邪魔させて下さい。

珍塚古墳の壁画に蕨紋があり、これがユキの上から伸びています。
これと全く同じ図柄を、アッサムのナガ族の刺青(胸一面)に発見して驚きました。
ナガ族には首狩りの習慣があり、首を取った男性が彫り付けるそうです。
これには、成人式の意味合いもある由。
同じ紋様は、伊場遺跡出土の背当てにも見られます。
また、シュメール語で女性を表す文字がこれと極似しており、
私はこれを子宮などの象形ではないかと考えています。

これらのことから思うのは、次のようなこと。

ナガ族の刺青は、再び母の胎内に宿って誕生してくるように、と首を取った相手の再生を祈るもの。
戦士も命を取ったり取られたりです。
楯の渦巻紋も、ナガ族の刺青と同じ意味合いの図像の変形ではないか。
命を失った場合、それが自分でも相手でも再生を祈る。
珍塚の壁画の蕨紋も伊場遺跡の蕨紋も再生を願う形ではないかと思います。

楯の図柄については雷説もあるとのことですが、「申」の元の象形に似ていますし、
これもあり得るかと思います。
隼人の楯には、力と再生への祈りとの両方の意味が込められているのではないでしょうか。

[4335] Re[4334][4332][4330]: 隼人の補足  佐々木 2008/07/31(Thu) 19:37 [Reply]
 そうしましょう。出来る限り5行程度でまとめるようにしましょう。
★隼人の盾は、釣り針説が主要ですが、雷説もありますが、とみたさんの魔除の可能性が高いと思います。もう忘れましたが、大きな化け物を嚇かす模様とか。
 確か上下の鋸歯は標準的な魔除の模様でした。
★馬と塩、これは詳細に聞いていませんが、1頭1日数百グラム?が必要とのことです。当時の塩のコストはわかりませんが。1kg=1両??。

[4334] Re[4332][4330]: 隼人の補足  とみた 2008/07/31(Thu) 19:05 [Reply]

 馬は生物学の進化論では、内的進化の代表例です。元々は小さかったものが、だんだん大きくなった動物です。小型馬が古いでしょうね。

塩不足で矮小化という考えもあるんですか。馬には確かに塩が大切なんでしょうね。
製塩土器がたくさんある筈ですね。
> 大住隼人舞」は、鹿児島県薩摩郡日枝神社の隼人舞を元に志賀剛氏が復元したもので、能楽の源流といわれ、弓や松明、隼人特有の赤・白・黒の渦巻き紋様が描かれた楯を手にした舞人(まいと)の少年たちが、笛や太鼓の音に合わせて舞う、テンポが速く動きが激しい舞であります。

>  動作は日本書紀の兄神ホフセリの芸能の姿とされ、@足占、A足挙げ、B足まで水が来て走り廻り、C手で腰を撫でる、D手を胸に置く、E両手を拡げる。
>
>  まるで遊牧民が足占の最中に一気に河川が増水して、足から腕まで来てしまってあわてふためいている様子ともとれます。先日の神戸の都賀川のような自然環境でしょうか。雨の少ない乾燥地帯であれば、考えれられる情景です。

想像力豊な説明ですね。

古賀登先生は、丹の研究で有名な松田壽男先生の仲間ですね。

古賀先生によると、山幸と海幸は製塩権をめぐる争いで兄の海幸をおぼれさせて苦しめるわけです。値嘉島が隼人の根拠地で、いまの五島列島ですね。白水郎=潜水漁撈民が今もいます。

巴人は長江の中流域が本拠で、ここにも漁撈民がいました。入墨、椎曲げ(ちょんっまげ)の風体です。

三峡ダム辺りの巴国には板楯蛮がいてこれが、隼人の持つ盾とされていますね。板を楯として人食い虎を退治して租税を免れた族です。虎の皮で板を覆います。
清の時代に人口が増えて4億人ぐらいになります。焼畑のとうもろこしを作って開拓しました。それまでの古代は虎がいたのでしょう。

その模様が隼人の楯にはついている。鋸歯文があるのと二つの巴文見たいに見えるのも謎ですね。これも想像力でのの解釈になりましょう。考古学は解釈学でもあります。

も一つの説は、銭塘江が中国の杭州にはあります。この川はアマゾンと同様にボロロッカという河の逆流現象があります。その河の逆流の上を泳ぐ姿が隼人のおぼれる姿とする説もあります。

隼人の楯は、奈良の平城宮跡の井戸遺構から出ていますね。楯を井戸板に転用したのでしょう。黒赤白の三色で逆S字状の渦文が描かれています。

上下には鋸歯文がついています。渦巻き文は馬具や武具にもついていますので私は魔除け(僻邪)だと思っています。

>  後方の演出ですが、月と太陽が見えます。上に白い△形は、移動式家屋のゲル(日本ではパオ)に似ています。漢水デルタと天の川とも見えます。竹も見えます。

中央アジアの旅で、ガイドは教えてくれました。チュルク系の移動式天幕はユルタといいます。
モンゴルではパオですね。
この天幕の天井には星・宇宙・太陽・月?もシンボルを象ったものがあり、遊牧民は宇宙と繫がる信仰を持つのだそうです。匈奴の王は天神・地神を祭り日の出や月の上がるのを拝むのだそうです。

月の満ち欠けで、戦いに出るか退くかを占うようです。

ツキヨミの神の神社が大住にあることはすでに教えていただいたところです。


>  最後に太鼓のふちをたたく動作で、サンスクリット語の「ハタ」が出てきます。

ハタ!と困った?。道鏡の時代でしたか、和気清麻呂が大隅に流されるときに、宇佐神宮の秦氏が猪になって救いますね。隼人をたくさん殺戮したので宇佐神宮では放生会で慰撫します。

何か謎めいています。

佐々木さん、延々と問答をやっていると皆さんの顰蹙を買いそうです。この辺りでこの件は、止めましょうか。別の件で再登場します。



[4333] Re[4330]: 隼人の補足  佐々木 2008/07/31(Thu) 17:28 [Reply]
 隼人舞に関して、または隼人について資料を見つけましたのでご案内致します。
 薩摩隼人・・・田の神信仰 大住日向隼人・・・鹿の神信仰 
 との内容が出ておりました。
 この関係から見ると、稲作波及は薩摩隼人となるように思います。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004671236/
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004671244/

[4332] Re[4330]: 隼人の補足  佐々木 2008/07/31(Thu) 14:14 [Reply]
 河内の馬は、飼育不能になった矮小の馬を埋葬したのかもしれませんね。
 成長期に塩類が不足すると矮小になる傾向があります。どちらにせよDNAを見ないと結論が出てこないかもしれません。

 隼人舞について隼人舞の図書が、京田辺市から出版されたとのことで、詳細な解説はそれの方がよいと思いますが。入手閲覧の機会ができればまたお知らせしますが。

 http://www.kyotanabe.jp/zukan/hayato_photo.html

 上記の京田辺市のホームページについて見ていただきますと、
 
 雅楽の部分は省略しますが、「大住隼人舞」は、鹿児島県薩摩郡日枝神社の隼人舞を元に志賀剛氏が復元したもので、能楽の源流といわれ、弓や松明、隼人特有の赤・白・黒の渦巻き紋様が描かれた楯を手にした舞人(まいと)の少年たちが、笛や太鼓の音に合わせて舞う、テンポが速く動きが激しい舞であります。

 動作は日本書紀の兄神ホフセリの芸能の姿とされ、@足占、A足挙げ、B足まで水が来て走り廻り、C手で腰を撫でる、D手を胸に置く、E両手を拡げる。

 まるで遊牧民が足占の最中に一気に河川が増水して、足から腕まで来てしまってあわてふためいている様子ともとれます。先日の神戸の都賀川のような自然環境でしょうか。雨の少ない乾燥地帯であれば、考えれられる情景です。
 万葉集でも大伴家持もそのような歌を読んでいました。家持は学識が高いです。

 後方の演出ですが、月と太陽が見えます。上に白い△形は、移動式家屋のゲル(日本ではパオ)に似ています。漢水デルタと天の川とも見えます。竹も見えます。
 青い絹布が垂れ下がっていて、朝顔(夕顔)のつるとつぼみの模様がついています。
 舞人の服装は縞帯を垂らしています。これが雲南地区の服装に似ています。盾の模様も三国志で見られる雲南の兵の模様に似ています。

 隼人の楯は、「長さ5尺、広さ1尺8寸、厚さ1寸、頭に馬髪を編み着け、赤、白の土墨を以って、釣形に画く」(延喜式巻28兵部省)

 最後に太鼓のふちをたたく動作で、サンスクリット語の「ハタ」が出てきます。

 追記 松菊里式竪穴住居の柱位置と構造とゲルの構造が似ています。石野博信先生の古い書物だったと思うのですが、松菊里式竪穴住居の柱位置を見た人が、馬小屋のはないかと言ったとか。

[4331] 〔4330〕隼人の補足 の訂正・加筆  とみた 2008/07/31(Thu) 12:22 [Reply]
>元々はウズベキスタンの東にあるトルクメニスタン(カスピ海の東、」イランの北、ゾロアスター教の発祥地)の馬

毎度のミスです。トルクメニスタンは、ウズベキスタンの東でなく西にある国です。そこから汗血馬をシルクロードを通って、ウズベキスタンの交易拠点のブハラの馬市まで運び、ソグド人が、取引をして、ウズベキスタンの東方部のフェルガナ(当時は大宛国)まで運んだのでしょう。

スタンというのは土地とか国という意味です。ウズベキスタンはウズベク人の土地という意味になります。

ソグド人は中継交易をしますので、各地にコロニー(植民地を作ります)。

〔4329〕佐々木さんご紹介のhttp://www.tonbonome.net/event/080914.html

の話しですね。

ソグド人は、711年にウズベキスタンとタジキスタンの境目辺りのペンジケントという山の地で、侵入したアラブ人と戦って敗れ四散します。

今もタジキスタンの山奥には敗れたソグド人の後裔が居ます。ウズベキスタンのサマルカンドやブハラはソグド人の本拠でした。ペンジケントもそれほど離れていません。ソグド人がいろいろな人種と混血してブハラには今も住んでいるようです。

タジク語がソグド語に近いという説があります。



蛇足で相済みません。それにしてもミス打ちが多くって済みません。

呆けないように、パソコンを叩いているんですが、加齢と共にミス打ちが多くなっています。

多少のミスは一々訂正しませんので、ご容赦くださいませ。






[4330] 隼人の補足  とみた 2008/07/31(Thu) 11:26 [Reply]
河内の馬と日向の馬と、信濃・甲斐の馬が違うかどうか森浩一さんが調べたら面白いと云っていました。

小型馬と中型馬とありますね。小型馬は在来馬で奄美地方のトカラ馬、中国の南方の四川馬がありますね。縄文後期ー弥生時代に入っているみたいです。華南から沖縄・九州有明沿岸・愛知沿岸・千葉の房総と海伝いです。

弥生ー古墳時代には、中型種です。北海道の土産子、木曽馬なども蒙古馬です。河内湖の生駒周辺は蒙古馬を飼育していた(四条畷資料館の野島先生)。ところが大和川と接続されている河内湖の南の長瀬川の周辺だと思いますが、長瀬高浜7馬墓号と奈良井の遺跡の馬は農耕用の駄馬で体高124cm以下の小型馬です。
これは古墳出土馬です。


では大海人皇子を壬申乱で真っ先に援けた甲斐の駒はどんな馬か?山梨県の塩部の方形周溝墓で馬の歯が見つかっていますね。4世紀後半の土器を共伴しているようです。

馬の供犠でしょう。馬の殉葬もありそうです。

山梨県中道町のかんかん塚の馬は、中型馬です。

馬といえば、前漢武帝が匈奴に勝つために張騫を中央アジアに派遣してフェルガナ(大宛国)の汗血馬を見つけます。フェルガナは今はウズベキスタンの東部の州に属しています。

汗血馬は、元々はウズベキスタンの東にあるトルクメニスタン(カスピ海の東、」イランの北、ゾロアスター教の発祥地)の馬のようです。シルクロードの要衝の地、ソグド人の安氏が居た、今はウズベキスタンに属するブハラの交易所で、取引されてフェルガナに持ってこられたという説が有力のようです。ここでもソグド人は交易で関わったのでしょう。

何せ、ソグド人は人身売買もやっています。

貧しい娘を、売りさばいて長安の都の酒場で、歌や舞をさせたのが胡姫です。

汗血馬は、タルパン系高原馬と云うようです。

>隼人舞を確認しました。雅楽、中国雲南地区の服装での踊り、太陽と月(+水+大地)の祭り、遊牧民の日常風景の演出。これが大筋です。

佐々木さん、も少し補足説明をお願いできませんか。

”四川と長江文明”という古賀登先生の本(東方書店)をすでに、読んでいます。

長江はご存知のように、上流は先月の大地震のあった四川省です。ここは蜀で、

中流は三峡ダムを造っている重慶で巴です。

中流域を少し東へ進むと、武漢です。

ここから北へは漢水が流れてきています。この辺りが七夕の天の川=天の漢水の発祥地です。巴人と楚人がいたのでしょう。

さらに東へ進み江南の呉越の地をを通り上海近辺が長江の下流です。

鵜飼も巴と蜀が起源だと古賀先生は考えておられますし、隼人も巴人と考えておられます。

呉越や楚越や三国志の魏呉蜀の動乱があれば、船で自在に海を渡って逃げる民になります。船棺墓です。

岩場の断崖に楠木の船の形に象った棺を置く民でもあります。東シナ海を渡り倭国へ或いは、中国雲南にも逃れたようです。


[4329] Re[4328][4320]: 隼人の補足  佐々木 2008/07/29(Tue) 23:01 [Reply]
追記
http://www.tonbonome.net/event/080914.html

[4328] Re[4320]: 隼人の補足  佐々木 2008/07/29(Tue) 20:09 [Reply]
 隼人舞を確認しました。雅楽、中国雲南地区の服装での踊り、太陽と月(+水+大地)の祭り、遊牧民の日常風景の演出。これが大筋です。

[4327] 都賀川の氾濫  ぽんた 2008/07/29(Tue) 15:30 [Reply]
都賀(とが)川の氾濫が話題になりましたね。
「都賀(とが)」で思い出したのが、三河国一宮「砥鹿(とが)神社」です。「砥鹿(とが)」の語源は、社誌に4説載っていたと思います。PONTA説は、「本来の祭神は保食神で、多賀(たが)神社と呼ばれていたが、持統上皇が三河に来て、穂国造の後裔である草鹿砥氏を宮司とした時に、草鹿砥氏が自分の苗字の漢字を使って、砥鹿神社」としたです。草鹿砥氏は草壁皇子の育ての親かも?
あと、三河には砥神山があって、砥神神社があるのですが、こちらの語源は、10匹の鹿を見たので「十鹿見」で「砥神(とかみ)」だそうです。PONTA説では、こちらも「本来は多賀神社」です。
いずれにせよ、「砥鹿(とが)」の語源は不明なのですが、全国に「都賀(とが)」という地名があるなら、そこから分かるかもと、「都賀」で検索したら、栃木県下都賀郡都賀町と千葉市若葉区都賀1〜4丁目/西都賀1〜5丁目/都賀の台1〜4丁目がヒット!
ただ、千葉の都賀は「つが」と読み、新しい地名でした。(以下引用)

 明治22年。千葉県千葉郡千葉町(当時)に隣接する、萩台・東寺山・西寺山・殿台・作草部(さくさべ)・園生(そんのう)・小仲台・宮野木・高品・原の十の村が合併した。千葉市に住んでいる方ならお分かりだろうが、これは現在の花見川区・稲毛区・若葉区の3区にまたがる今で言うところの広域合併である。10村合併ということで、まずは「十(とお)」である。そして、これはめでたいということで「祝賀」である。「十」の「祝賀」とくれば「十賀(とが)」である。この「十(と)」を「都(と)」に置き換えた。 そして生まれたのが、「都賀(つが)」なのである。ではなぜ、「十」を「都」に置き換えたのか。まずは「十(と)」と「都(と)」の語感の近さが考えられるが、それだけではない。「都」は「近い」の意味を持ち、当時の県庁所在地である千葉町に「近い」という意味を含んでいるのだそうな。

http://uuseizin.web.infoseek.co.jp/b/local.htm

[4326] Re[4325][4324]: 秦氏ソグド人説  佐々木 2008/07/29(Tue) 11:07 [Reply]
 遺跡等の馬のDNA鑑定結果等はないのでしょうか。野島先生のところはかなりの標本があるので、はかっていてもよさそうなのだが。
 法隆寺の献納宝物にもソグド語の焼印がついていますね。
 ソクド石というのがありますが、紫色の花が咲いた風合でして、なんとなく阿蘇ピンク石の風合に似ているような。

 月読社の隼人舞はどうなんでしょう。非常にカラフルな雅楽系衣装で、遊牧民族の雰囲気があります。

[4325] Re[4324]: 秦氏ソグド人説  とみた 2008/07/29(Tue) 10:13 [Reply]
秦人の原郷は、中国山西省と陝西省でしょう。この山は大行山脈です。

この山の西だから山西省。粉河が流れています。山の東が山東省の意味でしょう。

黄河が湾曲している部分ですね。

ソグド人の墓は1999年に山西省で隋の時代の地下墓室が発見されて衝撃を与えました。

ソグド人は元々は中央アジアの安国つまり今のウズベキスタンのブハラが中心でしょう。

ソグド人は、各地にコロニーつまり植民の集落を持っているんです。

山西の地も、その一つです。

もちろん黄河沿いだけでなく長江沿いにも植民していました。

山東半島まで植民していたというのは、関西大学の森部豊教授の論文にあります。

4-9世紀でしょう。渤海湾と黄海でも活動していたのではとされています。

ソグド人はゾロアスター教とマニ教を信仰しています。

各地にあっては仏教の寺などにも寄進して、うまく土地に溶け込んでいます。

馬の議論では、森浩一さんは、馬は高句麗から来たという見方で、網野善彦さんは、朝鮮だけでなく中国北東部や中国江南からも馬は来たのではという見方です。

新羅は、王のことを北方騎馬民族と同様に汗と名乗りますので、中国北方や草原民と関係があり殺牛儀礼も行うと考えたりしています。



>  どうも妄想とはいえないようです。
>  ソクド人は下記文献によると、集団の居た国を姓名とする習慣があるようです。
>  逆に言えば秦と言っても、特定の人物でなく集団ということです。右のpdf
> で読むことができます。
>  馬飼も首以下に河内周辺の地名を姓名に織り込んでいるので、同じかもしれません。
>  http://ci.nii.ac.jp/naid/110006483148/
>
>  ソグド人の牧馬に関する研究があるようですが、入手できれば馬飼、秦の問題も氷解するかもしれません。
>  山下將司「唐の監牧制と中国在住のソグド人の牧馬」、『東洋史研究』第66巻第4号、2008年3月

最近の学説ですね。近々読んでみます。
>
>  雅楽の東儀氏は秦氏の子孫とのことを知りましたが、もともと宮廷の料理人だったと聞きました。鵜飼部の魚は最終的には料理人の手に行くのでしょう。

世阿弥も秦氏ですね。宮廷の舞楽・雅楽も秦氏や多氏と関係ありと思っています。

春日大社の右方舞と左方舞の研究(平安時代に右方と左方と整理された)も必要でしょうね。

[4324] 秦氏ソグド人説  佐々木 2008/07/28(Mon) 22:59 [Reply]
 どうも妄想とはいえないようです。
 ソクド人は下記文献によると、集団の居た国を姓名とする習慣があるようです。
 逆に言えば秦と言っても、特定の人物でなく集団ということです。右のpdf
で読むことができます。
 馬飼も首以下に河内周辺の地名を姓名に織り込んでいるので、同じかもしれません。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006483148/

 ソグド人の牧馬に関する研究があるようですが、入手できれば馬飼、秦の問題も氷解するかもしれません。
 山下將司「唐の監牧制と中国在住のソグド人の牧馬」、『東洋史研究』第66巻第4号、2008年3月

 雅楽の東儀氏は秦氏の子孫とのことを知りましたが、もともと宮廷の料理人だったと聞きました。鵜飼部の魚は最終的には料理人の手に行くのでしょう。

[4323] Re[4321][4320]: 隼人の補足  佐々木 2008/07/28(Mon) 11:17 [Reply]
> 高槻には松菊里式竪穴住居がありますか。

 わかりません。松菊里式の認定基準は、今問題になっているようですね。ただ特定の時期の普遍性のない流行と解釈できるように思いますが。
 交野市の私部では、これが叫ばれているので、百済王家との関係はこのころから濃密だった?、枚方の百済王家は、三松氏に姓を代えているので、松の文字が意味するものがあるのでしょうか?

 今稲作波及と春日神社の関係を見ています。春日神社の密度の少ないところは稲作波及が遅い傾向がでれば。
 馬飼は秦氏が抱える諜報機関、おそらく鵜飼も服装からみても忍者に近い(←万葉集の白水郎(あま)のことと仮定しています)。忍者は大伴の配下で文献上初出があります。

[4322] RE《4321》隼人の補足(訂正)  とみた 2008/07/28(Mon) 10:23 [Reply]
奈畑でなく菜畑、満田でなく茨田です。

いつも打った後に気付きます。

申し訳ありません。自己修訂正機能があるとたすかりますが・・

秦氏ソグド人説は私の妄想かもしれません。

青草につきご容赦ください。

[4321] Re[4320]: 隼人の補足  とみた 2008/07/28(Mon) 10:17 [Reply]
佐々木さん 毎度ありがとうございます。


>  京都府南部の大隅日向隼人がいつ来たか。
>  九州製石斧が弥生中期以降で見つかるのが特徴で、それ以降に移動してきた。だれが連れてきたのかはわからない。
>  また同伴する遺物にヤリガンナが見られます。当地の稲作の波及時期にも近い。茨木高槻では縄文稲作が見られるので、

縄文と弥生の境目は流動化してますね。歴博が500年も弥生時代を前に持ってきた。弥生早期なんて時期を拵えたり。九州の奈畑が縄文晩期とする通説、弥生時代中期は紀元前2世紀ごろから紀元前後としましょう。

朝鮮西南部忠清南道の松菊里遺跡は、まあ縄文と弥生の境目でしょう。紀元前5世紀。ここに稲作があり日本に伝わった。松菊里の竪穴式住居は全国に広がっています。九州だけでなく、伊勢湾の内潟の名古屋ー清洲辺りの朝日遺跡(弥生遺跡)も松菊里住居です。

高槻には松菊里式竪穴住居がありますか。



そのあたりから指導に来た可能性(中臣氏ほか)があります。八幡の内神社は、江戸以前は春日神社と呼ばれていた。
>  古墳時代以降甲冑製作、隣接の楠葉地区に死馬処理場ができた関係で、皮革の入手ができるようになったためでしょう。
>  これ以降、馬飼部のスポンサーである秦氏との接点が出来、月読神社が大住に勧請されるきっかけになった。
>  馬との関係。
>  隼人墓(横穴)が約200基以上存在しますが、馬具は1基のみ。おそらく隼人の長のみが所有していたと考えてもいいのかもしれません。

そうですね。満田堤は秦氏ですね。
多氏とか三宅氏とか勝氏もいますか。

多氏、大氏、青氏、・・・みんなオホ氏ですね。大氏と秦氏は同類で新羅系とされています。古事記を編集したオホの安麻呂は同族の秦氏の悪口はかいてないという説もあります。
馬飼は秦氏がスポンサーとは蓋し慧眼です。

私は秦氏ソグド人説をなんとなく考えています。

ソグド人の特徴は、政権の裏で、経済的スポンサーに徹し表には出ないことです。裏で仕切るわけです。

突厥も表はトルコ(チュルク)系の政権、実際はソグド人が経済的に支えていました。
胡姫を唐の長安に送り込んだのもソグド人です。欽明とか、桓武を支えたのも秦氏でしょう。

歌舞も日本に引き入れたのは秦氏です。大明寺の鑑真和上が南九州に漂着した一座にソグド人が居ます。

[4320] 隼人の補足  佐々木 2008/07/27(Sun) 22:23 [Reply]
 京都府南部の大隅日向隼人がいつ来たか。
 九州製石斧が弥生中期以降で見つかるのが特徴で、それ以降に移動してきた。だれが連れてきたのかはわからない。
 また同伴する遺物にヤリガンナが見られます。当地の稲作の波及時期にも近い。茨木高槻では縄文稲作が見られるので、そのあたりから指導に来た可能性(中臣氏ほか)があります。八幡の内神社は、江戸以前は春日神社と呼ばれていた。
 古墳時代以降甲冑製作、隣接の楠葉地区に死馬処理場ができた関係で、皮革の入手ができるようになったためでしょう。
 これ以降、馬飼部のスポンサーである秦氏との接点が出来、月読神社が大住に勧請されるきっかけになった。
 馬との関係。
 隼人墓(横穴)が約200基以上存在しますが、馬具は1基のみ。おそらく隼人の長のみが所有していたと考えてもいいのかもしれません。

[4319] Re[4318][4316][4315]: 淀川の鵜飼  佐々木 2008/07/27(Sun) 10:41 [Reply]
> 七十の手習いで、この域まで達するには余程の興味があって、勉強なされたのでしょう。私はまだまだヒヨッコです。

 いやいやそんな若くない、震災といえば関東をまず思い出す世代。
 旧制高校というところはそうゆうことを徹底的に覚えさせるのですよ。本も非常に貴重だったから。

> まあお互い同じお爺さんです。大翁と小翁の違いでしょう。若手に頑張って欲しいのは同感です。フレーフレー !
 今は史学系の若手は歴史をあまり勉強せず、ある部分だけ微に細に研究するから、青銅器の化学分析専門なので、歴史のことはさっぱりわかりません。そんな対応。
 とみたさんの話なんか聞くと、まずびっくりするか、いや居眠りすると思う。

> 鵜飼はどのあたりで現在やってますか?
 大堰川と嵐山ですね。

> イ族には、夫婦関係を神聖視し、三年間は永遠に夫婦として共に生きて行くのか確認する猶予期間だそうです。結婚しても三年間は別々に暮らしその間は結ばれてはならないというのが、しきたり。

 日本では、3年といえば、3年寝たろうですか、何か関係あるかもしれません。いや、古代の○○氏にはそのようなしきたりがあったような?大伴、東漢、日置、??

> ところで、吉野や山代の古代隼人の生業は何でしたか。常住と交代制とありますよね(年数を終えると故郷に戻る)。門番ですか。朝廷の行事の祭に隼人舞と犬吠え、貴族の案内人・・・これがよくわからない。
> 故郷では、蛋民で水上生活者、海運運搬人、交易の民、漁猟民、鵜飼民???。

 捕虜奴婢の類という話は聞いたことはありますが。竹細工、皮細工、豊岡のやなぎごおりかばんもそうでしょうね。とにかく手先が器用。

> 一つ気になっていることがあります。
隼人は騎射が得意。日向の駒は、隼人の馬でしょう。騎射は馬上の騎射か動く魚を取る騎射でしょうかね。いずれも動体視力が要りますね。
税金が重いので反乱を起こす。それで宇佐八幡宮で放生会。
よく分かりません。甑島隼人、大隅隼人、薩摩隼人(阿多=吾田隼人)の違いも分かりません。

 聞いた話によると大隈日向隼人と薩摩隼人は中が悪い。薩摩藩でもそうでしたが。 隼人は竹細工、矢竹ももちろんあつかうので、騎射も得意でしょうが。
 魚に傷をつけると水害が起こるので、放生会がはじまったとか。
 馬は現在でも競走馬なら年間4000万円以上掛かるので、奴婢的に来た人たちには飼えないのでしょう。まず海がないところは塩の確保で困るのです。
 万葉集にも山のように塩が要ると歌われていました。
 馬飼は、汚れ仕事もするヒルズ族。継体が身分の上下に関わらず金持ちとコラボするのも理解できます。
>

[4318] Re[4316][4315]: 淀川の鵜飼  とみた 2008/07/27(Sun) 09:50 [Reply]
佐々木さんは、何でもご存知だからすごい。

七十の手習いで、この域まで達するには余程の興味があって、勉強なされたのでしょう。私はまだまだヒヨッコです。

>  お読みになった本は2003年6月のシンポのまとめですね。それ以降継体のシンポは毎年あるので、見るのがたいへんです。
>  メンバーはあまり変わらないですが、お爺さんばかりで現役が少なくなりました。

まあお互い同じお爺さんです。大翁と小翁の違いでしょう。若手に頑張って欲しいのは同感です。フレーフレー !
>
> > 大和王権は宮廷儀礼に鵜飼があった。馬飼だけでなく鵜飼の儀礼です
>
>  今も長良川の鵜飼は宮内庁式部職ですね。
私の実家は長良川の畔です。夏の風物詩でも屋形船は高いので・・・
>  淀川流域では鳥飼や鵜殿、道鵜などの地名が残存し、茨田堤で鳥の雛が生まれたなどの記述が日本書紀で確認できます。
>  鵜は黒く、鮎など食べたものを傷つけす吐き出すので重宝されたのでしょう。
>
> > 武埴安彦が反乱を起こして、崇神が大彦命を派遣して鎮めた地が、鵜殿とか。ここが久須婆=樟葉でしょう。
>
>  鵜殿は現在残存地名では、牧野ゴルフの対岸ですね。昭和40年まで淡水真珠の産地でした。鵜飼も戦前まではありました。
>  古代の河川の状態から見ると概ね京阪電鉄(船橋川鉄橋から牧野)より西側一帯。

京阪電車で枚方ー御殿山ー牧野ー樟葉ー橋本ー八幡ーです。


> 表の方の[9183]の書き込みにも示しましたが、久須婆渡はそのあたりでしょう。
>
>  桂川(大堰川)・宇治川は、もちろん現在バリバリです。

亀岡から保津川ー大井川ー嵐山ー渡月橋ー桂川ー淀川ですね。

鵜飼はどのあたりで現在やってますか?

>  綱を付けない方式は唯一島根の益田市で残存しています。

益田市の鵜飼って聞いたことがありますね。群馬県の有名な古墳の保渡田八幡塚古墳でも鵜と鵜飼の埴輪が出ているようです。こちらも昔は鵜飼があったのでしょうね。


>  阿多隼人は、阿多古社の分布から見ると亀岡市や京都市西北部にも可能性はあるでしょうね。
丹波への道ですね。
>大隈隼人の印象は竹細工

竹ですか。竹は雲南が有名ですが、四川省の山奥、大涼山イ族に面白い風習が今も残っています。

たとえば、イ族は、結婚は親同士が決めます。花嫁が真夜中にやって来ると、花嫁の前で相撲を取る儀礼をして、花嫁を背負って竹垣の中に運ぶそうです。男15歳女13歳です。どちらかに通い、子供が出来ると男のほうに定住する。 ペー族は歌垣で男と女が歌の掛けあわせで相手を決めます。

竹垣が気になりますね。美保神社の青柴垣 みたいでしょう。秘密の神聖な空間。

イ族には、夫婦関係を神聖視し、三年間は永遠に夫婦として共に生きて行くのか確認する猶予期間だそうです。結婚しても三年間は別々に暮らしその間は結ばれてはならないというのが、しきたり。

わが国の現状は、出きっちゃった結婚ですね。

ところで、吉野や山代の古代隼人の生業は何でしたか。常住と交代制とありますよね(年数を終えると故郷に戻る)。

門番ですか。朝廷の行事の祭に隼人舞と犬吠え、貴族の案内人・・・これがよくわからない。

故郷では、蛋民で水上生活者、海運運搬人、交易の民、漁猟民、鵜飼民???。

一つ気になっていることがあります。

隼人は騎射が得意。

日向の駒は、隼人の馬でしょう。騎射は馬上の騎射か動く魚を取る騎射でしょうかね。

いずれも動体視力が要りますね。

税金が重いので反乱を起こす。それで宇佐八幡宮で放生会。

よく分かりません。甑島隼人、大隅隼人、薩摩隼人(阿多=吾田隼人)の違いも分かりません。


[4317] Re[4315]: 淀川の鵜飼  佐々木 2008/07/26(Sat) 22:10 [Reply]
 古代、淀川の鵜飼で伝承があるところとして、吹田砂堆があります。
 万葉集の0960(大伴旅人)
 隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧<尓> 尚不及家里
 年魚とは鮎。
 芳野の滝とは吹田垂水神社の滝。奈良の吉野の可能性もあり。
 
 戦前までは吹田の高浜神社から大隈神社あたりには、蛍や鮎がたくさん居りました。
 大隈隼人の印象は竹細工、その後その応用技術として武具防具製造の印象がありますが、鵜飼の道具としても竹籠は現存するので、とくに阿多隼人にする必要性はないといえますが、どうでしょう。

[4316] Re[4315]: 淀川の鵜飼  佐々木 2008/07/26(Sat) 20:34 [Reply]
 お読みになった本は2003年6月のシンポのまとめですね。それ以降継体のシンポは毎年あるので、見るのがたいへんです。
 メンバーはあまり変わらないですが、お爺さんばかりで現役が少なくなりました。

> 大和王権は宮廷儀礼に鵜飼があった。馬飼だけでなく鵜飼の儀礼です

 今も長良川の鵜飼は宮内庁式部職ですね。
 淀川流域では鳥飼や鵜殿、道鵜などの地名が残存し、茨田堤で鳥の雛が生まれたなどの記述が日本書紀で確認できます。
 鵜は黒く、鮎など食べたものを傷つけす吐き出すので重宝されたのでしょう。

> 武埴安彦が反乱を起こして、崇神が大彦命を派遣して鎮めた地が、鵜殿とか。ここが久須婆=樟葉でしょう。

 鵜殿は現在残存地名では、牧野ゴルフの対岸ですね。昭和40年まで淡水真珠の産地でした。鵜飼も戦前まではありました。
 古代の河川の状態から見ると概ね京阪電鉄(船橋川鉄橋から牧野)より西側一帯。
表の方の[9183]の書き込みにも示しましたが、久須婆渡はそのあたりでしょう。

>桂川や宇治川には鵜飼が最近まであったらしい。(今もあるかどうか知りません)こちらは鵜に綱をつけないで”放つ”方式です。
 桂川(大堰川)・宇治川は、もちろん現在バリバリです。
 綱を付けない方式は唯一島根の益田市で残存しています。
 
 阿多隼人は、阿多古社の分布から見ると亀岡市や京都市西北部にも可能性はあるでしょうね。

 ま、そんなところです。 現在気温34℃。

[4315] 淀川の鵜飼  とみた 2008/07/26(Sat) 18:47 [Reply]
継体天皇の時代という本(吉川弘文館)を読書中。

高槻市教委の歴史館館長の話です。目から鱗でした。

淀川沿いに、高槻市があり、6世紀前半の今城塚古墳は継体陵というのは今や通説。

太田茶臼山古墳を宮内庁は継体陵と見ているがこれは5世紀の中葉のもので、継体の祖父オオホドとするのが有力か。

いずれも埴輪は、新池埴輪窯で造られている。その中に、鵜の埴輪が登場する。

淀川には100前まで鵜飼があった。

大和王権は宮廷儀礼に鵜飼があった。馬飼だけでなく鵜飼の儀礼です。

武埴安彦が反乱を起こして、崇神が大彦命を派遣して鎮めた地が、鵜殿とか。ここが久須婆=樟葉でしょう。

負けた兵士の遺骸が川の中に浮き沈みし鵜のようだということで、淀川を鵜河と読んだと古事記に記される。桂川や宇治川には鵜飼が最近まであったらしい。(今もあるかどうか知りません)こちらは鵜に綱をつけないで”放つ”方式です。

岐阜の長良川は鵜を”繋ぐ”方式です)。

ここまでは、森田さんの研究です。これからは私の連想です。

武埴安は南山城にいた。どうも田辺市の大住の地に近いので大隅隼人を考えてしまう。奥方が吾田媛でこちらは阿多隼人で薩摩隼人を連想します。

阿多といえば吉野川の下流域、五条市の阿多の地を思います。

JR和歌山線で五条駅の南に二見駅があり、この近くは隼人族がいた。

神武東遷の時に、阿多の鵜飼民が応援します。


中国の南方少数民族に、広西チワン族がいます。

山水画で有名な景勝の地の桂林地方に璃(王篇でなくシ篇です)江があり、そこには”放ち”の鵜飼漁猟が今も残っています。

広西チワン族は、棚田に暮らす民で三酸という魚を発酵させる食文化など日本と似ているところがあります。

隼人は海幸・山幸の海幸とされています。










[4314] Re[4313][4311][4310][4309][4307]: カタシハ  佐々木 2008/07/25(Fri) 10:09 [Reply]
>  坐摩神社行宮の磐座こそ河内を固める堅石。

 不思議ですが、交野市の磐船神社、 河南町の磐舟神社も河内湾を囲む地理的位置も、大阪石山にあった磐舟神社の位置関係も同じですね。

 京都も京都市左京区の岩倉と京都府南部の岩船寺、巨椋池。離宮八幡、石清水八幡これはイマイチですが。

[4313] Re[4311][4310][4309][4307]: カタシハ  神奈備 2008/07/25(Fri) 09:16 [Reply]
> そして両片足羽は河内湖でめぐり会い、難波の堀江の(現)坐摩神社行宮前で一つになる。

 この大きい地理感覚、いいですね。

 坐摩神社行宮の磐座こそ河内を固める堅石。

[4312] 原音がだいじ       生田淳一郎 2008/07/25(Fri) 05:29 [Reply]
 かたしハ なら台湾ブヌン語の「かたし」だろうし、かたしホ なら岩塩でしょう。

 アスハ、アスバには“馬”は考えられませんか。かなりの広域共通語に asp(馬)。足軽(広域語は軍隊)と同根かと思っています。

[4311] Re[4310][4309][4307]: カタシハ  佐々木 2008/07/24(Thu) 21:57 [Reply]
 少し失礼致します。
 
 片足羽川は、片足羽は、片足でなくて、阿須波神には、両性が存在する。
 つまり阿須波大明神(男神):「足場の神」、「旅立ちの神」か、安須波大明神(女神):「五穀豊穣の神」のどちらかに由来すると思います。
 
 ゆえに枚方の片足羽川は、継体即位の場所付近であり「足場の神」つまり男神。
 柏原の片足羽川は、「五穀豊穣の神」つまり女神と考えることができるのではないでしょうか。
 これは「子宮と置かれた(引用記事不明)」、上流の浮孔にもつながるのではないかと思います。
 
 そして両片足羽は河内湖でめぐり会い、難波の堀江の(現)坐摩神社行宮前で一つになる。

[4310] Re[4309][4307]: カタシハ  琉球松 2008/07/24(Thu) 21:24 [Reply]
 「片足」となると「一つ目の鬼」ということになるでしょうか?

 そうすると「案山子(カタアシ?)」が気になります。
 カカシはスクナヒコナがやってくる以前の歴史、銅鐸の時代を知っているはずですから。。。銅製品は石製鋳型の製作技術が決めてですね。

[4309] Re[4307]: カタシハ  神奈備 2008/07/24(Thu) 20:39 [Reply]
琉球松さん、言葉について鋭い感覚をお持ちですね。

> 安寧天皇時代の「カタシホ」ですけど、これって『古事記』天の岩屋戸の「常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、天の安の河の河上の天の"堅石(カタシハ)"を取り・・・」とは意味的に繋がらないでしょうか?

 「カタシホ」には、雁多尾畑(雁:カル=朝鮮語刃物、多尾:タワ=峠 谷川健一『青銅の神の足跡』)や青谷(青:多氏 銅鐸につながるか 同じ書)の地名や竜田大社の神の降臨地の御座峰・金山彦神社・金山姫神社・鐸比古・鐸比売神社があり、この地域は金属精錬師や踏鞴師のうごめいていた地域だと思われます。
 
 その象徴のような物として堅石(カタシハ)があったのかも。  


> 片足羽川(かたしはがは)

 山本博著『竜田越』に、「大和川が石川を併呑したあたりから少し下流までを指した名である。」とあります。出典は記されていません。


> 「浮穴」が「ホト・溶鉱炉」だとすると

 浮穴とは竜の子宮との説が出ていましたが、ホトにつながります。


 結論としては堅石が片足羽の地名の元。


> 台湾ブヌン語で「ふぐり」
ここに台湾の言葉が出てくる理由が分からない。高句麗の古語ならまだしも。

[4308] 台湾ブヌン語“カタシ”      生田淳一郎 2008/07/24(Thu) 19:14 [Reply]
 「カタシ」は、一見、「堅い石」のように受け取られ易いのですが、なんとなんと、台湾ブヌン語で「ふぐり」のことです。
 唾、山茶花の古名は「カタシ」です。

 あと 2ヶ月もすると、わが猫額亭に、ピンク、純白、真紅のさざんかのきんたまがでます。

 くれぐれもまちがった言語学者に騙されないよう、アマカネぞ。

[4307] カタシハ  琉球松 2008/07/24(Thu) 18:14 [Reply]
 神奈備さんが提起した安寧天皇時代の「カタシホ」ですけど、これって『古事記』天の岩屋戸の「常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、天の安の河の河上の天の"堅石(カタシハ)"を取り・・・」とは意味的に繋がらないでしょうか?

 さらに、「浮穴」が「ホト・溶鉱炉」だとすると「カタシホ(ハ)」は金属加工に必要な敷石とも考えられ、その川石採石場かもしれません?

[4306] Re[4304]: 佐々木さん、先ほどは失礼いたしました。  佐々木 2008/07/23(Wed) 00:04 [Reply]
> 当方の愚問に最後まで付き合っていただいた上に、
> 御礼の名前まで間違えてしまって大変失礼いたしました。
 
 六万寺様
 問題全くなしです。私も大きく得るものがありました。感謝致しております。
 面白いネタがあれば、お聞きしたいものと思います。


[4305] Re[4303][4300]: 河内の謎  とみた 2008/07/22(Tue) 23:52 [Reply]
神奈備さん

私のは、非常にアバウトな詰めでして相済みません。私なりに大きなスケッチというか、
方向感覚で考えているだけです。
神奈備さんのお詳しい説明は、補強になりますのでありがたいと思っています。

一応、信用銘柄を選んでいます。(この先生のこの分野の話しは、先ず確かであろう。でも決して絶対視しません)
柱を立てるときしっかりした、これだけは動くまいという説を柱にしないと、全体がぐらぐらします。

> > 今のところ、馬については、私は一応の目安として、四条畷市の野島稔先生からご教授いただいた説に従います。
>
>  [4297] の主旨とどう違うのでしょうか。

神奈備さんの主旨は詳細補足説明として、勉強させていただきます。まだ論議するまでの知識を持ち合わせません。
>
>
> > 積石塚
>
>  高句麗の5世紀以前の墓制とされています。高句麗系の神社を探しますと、雁多尾畑の東の大狛神社[おおこま]「大狛連祖 配 大山神、木花開耶姫神」大阪府柏原市本堂388 が出てきます。
>
>  また、『新撰姓氏録』
>  摂津国高麗 桑原史、日置造、高安漢人
>  河内国高麗 大狛連、島本
>  未定雑姓にも出てきますから、中には5世紀以前に定着した者もいたのかも。
>

信州には、長野市松代の大室古墳群には積石塚が何百とあります。松本市の薄神社の近くには針塚の積石塚が有名です。甲斐の巨摩群にも積石塚があります。

高句麗は五部制ですがその流れの人が信州には入植して牧に関係が深いと考えられています。
山城にも狛と言う地名があり、高句麗の人が入植したかどうか、新撰姓氏録にはご指摘のように入っています。日置氏も高句麗の出ですから興味を持っているということです。

高句麗には積石塚は、4世紀にたくさん造り5世紀には積石塚をやめて土塚つまり普通の古墳になります。

高句麗は5世紀には新羅を属国みたいにします。南下して伽耶にも影響を与えます。

新羅は6世紀になって国の勢いを増し伽耶を滅ぼします。

高句麗の馬文化と積石墓が日本へ入ってきたのか、新羅・伽耶・百済を経由して馬文化が日本に入って来たかも面白い問題です。

殺牛馬の風習は韓神信仰として、新羅に特に多い風習でしょう。日本海の越地方には特に後くまで残っていたようです。

渡来系の馬飼集団に羊族があり、その開拓地には羊妙見が多い。

新羅の墓制は積石塚でも木槨を伴ったものが多いようです。

四国の石清尾山にも積石塚がありこれは4世紀頃と考えられています。

雑駁な分野の事象をランダムに並べてはどう解釈すべきか、楽しんでいるんですが瓢箪から駒とばかりはいきませんので、皆さんの知識を頂こうと思っているところです。固有の神社の分布がその解釈に有効であれば一層興味が増すというものです。

製鉄も日本はタタラ製鉄で特有ですから、朝鮮との比較がなりません。

[4304] 佐々木さん、先ほどは失礼いたしました。  六万寺  2008/07/22(Tue) 20:30 [Reply]
当方の愚問に最後まで付き合っていただいた上に、

御礼の名前まで間違えてしまって大変失礼いたしました。

「梶無」ならぬ「恥無(恥知らず)」な私、

非常に反省しております。

何度もお返事くださって有難う御座いました。


[4303] Re[4300]: 河内の謎  神奈備 2008/07/22(Tue) 20:04 [Reply]
> 今のところ、馬については、私は一応の目安として、四条畷市の野島稔先生からご教授いただいた説に従います。

 [4297] の主旨とどう違うのでしょうか。


> 積石塚

 高句麗の5世紀以前の墓制とされています。高句麗系の神社を探しますと、雁多尾畑の東の大狛神社[おおこま]「大狛連祖 配 大山神、木花開耶姫神」大阪府柏原市本堂388 が出てきます。

 また、『新撰姓氏録』
 摂津国高麗 桑原史、日置造、高安漢人
 河内国高麗 大狛連、島本
 未定雑姓にも出てきますから、中には5世紀以前に定着した者もいたのかも。

[4302] 積石塚はなぜ河内にないのか  佐々木 2008/07/22(Tue) 13:49 [Reply]
 実はたくさんあったのです。と私は考えます。
 ではなぜ消失したか。
 
 まずそこに中世城郭が出来た。
 戦国には石山本願寺も出来た。
おそらく石山本願寺のあったところは積石塚があったと考えてよいと思います。
 最後は文禄堤の突貫工事で、河内の露出している石はことごとく、利用した。

 小字地名で、石山、石岡、石城、馬墓、牛墓などの小字地名は要注意。
 現実には、墓も石もないところが多い。残骸が残っているところは存在する。
 
 畿内では地名成立は中世以前のものが多いので、何らかの石積があったと考えてもよいと思います。
 
 
 

[4301] Re[4299][4262]: 梶無神社の主祭神について。  六万寺  2008/07/22(Tue) 12:34 [Reply]
>  当梶無神社の由緒では「日下坂」の戦いで、決着がつかなかったということですから、上述の前提を思量致しますと、単に「勝」無だったのではないでしょうか。

なるほど。

「勝無(勝てなくて)」「風無(風が止んで)」「梶無(梶が折れて)」

どれも当てはまるような気もします。

ても、やはり神武敗走の「その時」を一番象徴しているのは「梶無」なのかな、

と思ったり。

とみたサン、色々調べていただき、本当にありがとうございました。

[4300] 河内の謎  とみた 2008/07/22(Tue) 11:32 [Reply]
佐々木さん 神奈備さん

今のところ、馬については、私は一応の目安として、四条畷市の野島稔先生からご教授いただいた説に従います。

河内の馬は、5世紀はじめ生駒と河内に朝鮮半島から入ってきた。

大阪府教委の小山内さんの河内湖周辺は5世紀に韓国の渡来人が増加した。

橿原考古学研究所の説明で、5世紀はじめに大和は、伽耶系の人の遺物が多く5世紀後半から百済系の遺物が増える。
東漢人と今来漢人がやってきたと私は解釈しています。
これらが手がかりです。

韓半島の動きは、韓国の申教授によると・・・3世紀の末には北方の遊牧・騎馬民扶余族(鮮卑族説も)が、朝鮮の東海岸を南下するリマン海流に乗って、金官伽耶に入った。証拠はそれまで支配していた楽浪漢人の木槨墓とはちがう丸太木の槨墓に蒙古鉢型冑と銅鍑(ふく=炊事用具の祭器)が証拠とのことです。

韓国の博物館資料によると、400年には、高句麗が南下して臣下の新羅を応援し
洛東江流域の金官伽耶を滅ぼします。

金官伽耶の王族は、東の倭の国に逃れ、北西の大伽耶(高霊)に逃れます。

5世紀に大和に伽耶人が増加する理由です。

5世紀後半には大伽耶が勢いを増します。

それに森浩一さんの説明を上乗せします。

馬飼首荒籠は樟葉に領地を持っていて、継体を樟葉に案内した。馬飼は貴族や天皇の牧で厩舎の世話をするだけでなく、貴族や天皇のお伴として、外出し行列にも加わり、商売をやり馬借、車借りもしていたので、周辺の豪族の動きなどの情報は知りうる立場にあった。

馬だけでなく牛も同時に飼っていた。

森浩一さんは、信濃の馬と、日向の馬(隼人の馬---推古が激賞する)、と河内の馬と馬の体型や馬具を比較すると面白いといわれています。因みに河内の馬は、木曽馬と同様、蒙古馬だそうです。

信州の馬は,どこから来たか?高句麗から直接日本海から入ったか、河内から入ったか?

逆に信州から河内に馬が入る可能性はないのか。

馬飼族の信仰は星か??積石塚はなぜ信州や甲州にあり、河内にないのか?

(讃岐や播磨にも積石塚はあるが)

やはり継体の謎をもっと調べたい。そこで昨日、吉川弘文館の”継体天皇の時代”という本(高槻市教委編集)を購入して読み始めました。



[4299] Re[4262]: 梶無神社の主祭神について。  佐々木 2008/07/22(Tue) 09:56 [Reply]
>「風無し」が「カジナシ」なったような気もします。
 梶の文字が付くと、阿波忌部との関係を考えるのですが、その手がかりがない。

 先般、生田さまより、聖徳太子が物部氏との戦いで名づけた「カチキ(勝軍木)」の課題を頂きました。

 カチキは正式にはヌルデといいますが、密教の護摩木に使用されます。つまり加持祈祷であります。

 当梶無神社の由緒では「日下坂」の戦いで、決着がつかなかったということですから、上述の前提を思量致しますと、単に「勝」無だったのではないでしょうか。

[4298] Re[4297][4295][4278]: 河内の謎  佐々木 2008/07/21(Mon) 16:00 [Reply]
 神奈備さま
 
 確か以前にも長原遺跡のお話はご案内頂きました。ありがたく拝見致しました。

>  河内の遺跡例
>   ○飯盛山西麓(四條畷) 全身葬の馬墓、古墳の土抗、井戸、溝、自然流路など多様な場所から馬骨馬歯が数多く出土。河内馬飼の牧の中心地域
>    馬7頭も供した特殊な祭祀場(奈良井遺跡)がある
>    大量の製塩土器が出土 馬の飼育には大量の塩が必要

★これは四条畷市蔀屋北遺跡も含まれる地域ですね。

>   ○河内台地北縁(大阪市長原遺跡)馬墓、土抗、井戸、溝、自然流路など多様な場所から馬骨馬歯が数多く出土。
>     実用と見られる木製鞍(八尾南遺跡)など集落近辺での乗馬が考えられる
>     製塩土器が多い
>     韓式系土器・陶質土器の出土量が多い

★馬飼首中瀬氷の中瀬氷は長原のことかもしれませんね。欽明23年に活動域が拡大したのかもしれません。

追記
 牧野の片埜神社の手前に、アテルイ・モレの墓がありますが、これは小字名は馬墓と云いまして、市による発掘で3、4世紀の円墳だったと記憶しています。

 [9204]で上足羽川を、大和川という説もあることを理解しました。大正期の吉田東悟さんの解釈が、なんの表紙で戦後の枚方市史で変わったのか不思議なところです。

[4297] Re[4295][4278]: 河内の謎  神奈備 2008/07/21(Mon) 14:37 [Reply]
>  馬飼はどこから来たかについて、定説はあったのでしょうか。

よこから失礼いたします。また定説かどうかは承知していませんが・・・

 なにわ歴博講座で聞いた馬飼のお話 講師は清水和明さん

 だいぶ前になりますので記憶があいまいですが・・

 発掘資料から見た馬の歴史
  動物遺体が多く見つかる遺跡の馬骨・歯は古墳中期(5c)以降
  馬は海外から古墳時代に移入された生物であること。

 文献
 『倭人伝』倭国には牛馬虎豹羊鵲がいない。(鵲 かささぎ)
 『日本書記』応神天皇十五年八月 百済王の使者阿直岐が馬を献上した。

 河内の遺跡例
  ○飯盛山西麓(四條畷) 全身葬の馬墓、古墳の土抗、井戸、溝、自然流路など多様な場所から馬骨馬歯が数多く出土。河内馬飼の牧の中心地域
   馬7頭も供した特殊な祭祀場(奈良井遺跡)がある
   大量の製塩土器が出土 馬の飼育には大量の塩が必要

  ○河内台地北縁(大阪市長原遺跡)馬墓、土抗、井戸、溝、自然流路など多様な場所から馬骨馬歯が数多く出土。
    実用と見られる木製鞍(八尾南遺跡)など集落近辺での乗馬が考えられる
    製塩土器が多い
    韓式系土器・陶質土器の出土量が多い

まとめ
  古墳時代の5c前半に北河内から中河内にかけて馬と密接な関係を持つ集落が展開している。その主体となっていたのは馬飼の技術を持った渡来人で、伽耶・百済の人々の集団と考えられる

  そうした背景にはm4・5世紀の朝鮮半島における高句麗の南下圧力に対抗する百済・伽耶と倭国の政治的判断があったと考えられている

以上です。

[4296] 馬飼首考?  佐々木 2008/07/21(Mon) 13:34 [Reply]
 馬飼首荒籠について考えてみました。
 楠葉との関係を調べてみましたが、かなり希薄で、もっと南の寝屋川市の楠根や楠、楠森の方でないかと考えました。

 根拠は馬飼首の名前を日本書紀から抽出する作業から得ました。

 まず荒籠(継体元年)、その文字から、讃良(更荒)郷(籠)を抽出しました。
 現寝屋川市東南部から四条畷市西部。
 関連遺跡として四条畷市蔀屋北遺跡。

 母樹馬飼首御狩(継体23年)
 御狩の文字から、枚方市禁野にあった地名を抽出。御狩野神社として残存。
 母樹(おもき)から東大阪市豊浦町を抽出。
 拠点は母樹が先についていることから、東大阪市豊浦?で、枚方市禁野の守。

 関連遺跡として禁野にあった朱にぬられた横穴式石室のあった6世紀中の白雉塚古墳と東大阪市山畑古墳群、枚方市禁野本町遺跡

 馬飼首押勝(欽明22年)
 押勝の文字から、四条畷市忍岡地区を推定。(押=忍)

以下欽明23年
 馬飼首歌依(うたより)
 歌依の文字から、寝屋川市秦地区?

 馬飼首守石
 守石の文字から、寝屋川市石津の港の守
 関連遺跡は寝屋川市楠遺跡。

 馬飼首中瀬氷
 中瀬氷の文字から、長瀬あたりの津守、東大阪市域。
 東大阪市山畑古墳群?

[4295] Re[4278]: 河内の謎  佐々木 2008/07/21(Mon) 10:49 [Reply]
 とみたさん

 少しご教授(単なる痴呆症で忘れてしまったのかもしれません。)を乞いたく。

> ◎馬飼首荒籠

 馬飼はどこから来たかについて、定説はあったのでしょうか。

 今春、枚岡神社付近を探訪された由、承知しておりますが、馬飼らの墓という瓢箪山の山畑古墳群をごらんになったのでしょうか。

 これら渡来人系の古墳で、石室はもともとは彩色(赤い?)古墳だったように見えるのですが。
 また瓢箪山稲荷の保食大神と馬飼はなにか関係があったのでしょうか。

 まあ急ぎませんので。

[4294] 佐々木さん、今回の御教示はズバリ核心に迫ってます。  六万寺  2008/07/21(Mon) 09:34 [Reply]
何度も何度もありがとうございます。

この『歴史と街角』によると、

やっぱり南北朝の時代の犠牲者を弔うためのお地蔵サンも多いようです。

六万寺の「六万」などという名のつく土地は

沢山の魂を弔う土地だと、

子供時代に近所のお年寄りから聴いたこともあります。

だから、この沢山の地蔵サンたちの何割かは、

そういう弔いの心が込められているんでしょうね。

なんとなく長年の疑問が氷解してきました。

本当に佐々木さんには何度もお手数おかけしました。

誠にありがとうございました。

[4293] Re[4290]: 佐々木さん、ありがとうございます。  佐々木 2008/07/21(Mon) 07:40 [Reply]
 東大阪の検索システムはちょっと使いやすそうで、・・・ですね。
 
 かつて東高野街道に並行して、南北に古代に南海道が通じていたルートなので、道祖神の類か、六万寺の寺域なのかと思ったのですが、イマイチつかめません。
 鉾地名があれば、まあ南海道と考えてよいようですが。東大阪には山口県の豊浦があったり、なかなか面白い土地のようです。
 四条あたりは南北朝から応仁の乱関係のよう、京都の地蔵信仰と同じなのかもしれませんが、風化度合いからそれよりも古いのかもしれません。
 石材が御影石でなければ、かなり古いかもしれません。
 
 http://www17.ocn.ne.jp/~minami55/index.html

 市史に全部書いてありましたというオチが付くかもしれません。これよくあることでして。

[4292] 佐々木さん、何度もありがとうございます。  六万寺  2008/07/21(Mon) 03:10 [Reply]
いやー、この東大阪の検索システムではチョット無理でした。

というのは、文化的に比較的価値の高いものしか扱っておらず、

私が今、対象としている無名で無数の地蔵たちは全く無視されています。

佐々木さんと同じく、私もお地蔵さん恐怖症のところがあり、

昔、遊びすぎて帰りが遅くなり、

辺りが暗くなって、何体もの地蔵サンの前を通って自宅まで帰るとき、

何か地蔵サン達に睨まれているような感覚を覚えていました。

でも、また別の日は優しく見守ってくれている感じがしたりして、

結局、それらの変化は私自身の心の反映だったのでしょう。

とくに、立派な石仏でなく、路傍の地蔵サンは彫りも浅く、

年月の経過で更に表情は淡くなっているので、

彼らの表情は、観る人の心によって変化しやすいのでしょうね。

彼らは町並みに同化しているので、

逆に無くなると寂しくなると思います。

お地蔵さんに関しては、ゆっくりノンビリ調べていきたいと思います。

ありがとうございました。

[4291] Re[4290]: 佐々木さん、ありがとうございます。  佐々木 2008/07/21(Mon) 00:11 [Reply]
 今回答が到着しました。
 これでだいたいの見当はつくと思います。石造物になりますか。

 http://bunkazai.city.higashiosaka.osaka.jp/

 実はお地蔵さま恐怖症です。
 

[4290] 佐々木さん、ありがとうございます。  六万寺  2008/07/20(Sun) 23:52 [Reply]
わかりました。

図書館で調べてみます。

お地蔵さんは、可愛らしい一面と、少し物悲しい雰囲気も漂わせていたりして、

ずっと気になっていました。

少しヒントをいただいたので、あとはジックリ自分で調べます。

ありがとうございました。

[4289] Re[4286]: すみません、もう2つほど質問させて下さい。  佐々木 2008/07/20(Sun) 21:24 [Reply]
> @ 長年、六万寺に住んでいて、ずっと分からないことは、
>
> 道の角々に地蔵が非常に多いこと。
>
こんばんは 六万寺さん

 えーと 表で、9191で神南備さんが書かれていますが、この付近も東高野街道が南北に走っています。この街道沿いは地蔵が比較的多いです。
 なぜ多く存在するかは承知しておりませんが、自治体によって温度差があるとしても、市史にぼつぼつ記載されていることやに思います。
 もしかすると専門の配布物があるかもしれませんが。
 ざっと概ね南北朝期と江戸時代のどちらかに分類できるようです。
 ざっと江戸中期が多いのは、それ以前のものは、大阪城の石垣として供出されたからでしょうね。
 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/tanabe/rekisi.htm

[4288] 神南備さん、ありがとうございました。  六万寺  2008/07/20(Sun) 20:43 [Reply]
なるほど、鍬をですか。

それほど平安時代は鉄が貴重だったのか、

もしくは貴重だった頃の名残りが儀式として残っていたのですね。

すっきり理解できました。

ありがとうございました。

[4287] Re[4286]: すみません、もう2つほど質問させて下さい。  神奈備 2008/07/20(Sun) 17:24 [Reply]
> A それと、もう一つの質問は、
>
> 六万寺町にある梶無神社を紹介する文書などに『鍬』と神社名の横に書いてありま
>
> すが、この『鍬』の意味が分かりません。

 平安時代に定められた延喜式神名帳(延喜年間に定めた法令で、神社の格式と朝廷が奉納する物を定めた表)で「鍬」と書かれているのは、朝廷から鍬の奉納を受けると言う格式を表します。
 朝廷から奉納を受けると言っても、定められた日に朝廷へ行き、ありがたく頂いて持ち帰ると言うような儀式だったようです。


[4286] すみません、もう2つほど質問させて下さい。  六万寺  2008/07/20(Sun) 14:25 [Reply]
自分なりに調べても分からないので、ご存知の方は教えてください。

@ 長年、六万寺に住んでいて、ずっと分からないことは、

道の角々に地蔵が非常に多いこと。

私個人の感覚では、

楠木正行の公墓がある六万寺往生院から、楠木正行の首洗いの井戸がある枚岡神社

までの道の辻々に特に地蔵が多い気もします。

この地蔵たちは、その時の合戦の犠牲者たちを弔ったものなのでしょうか。

ずっと気になっています。

A それと、もう一つの質問は、

六万寺町にある梶無神社を紹介する文書などに『鍬』と神社名の横に書いてありま

すが、この『鍬』の意味が分かりません。

何度も申し訳ありませんが、ご存知の方は教えてくださいませ。

よろしくお願いいたします。

[4285] Re[4278]: 河内の謎  佐々木 2008/07/19(Sat) 20:41 [Reply]
> 川や湖と海を繋ぐ交通路には馬借、車借にいた。

 まだ34℃を下らないので簡潔に、寝屋川市を例に述べます。
 
 寝屋川の石津元町には、消失した小字から古代に馬の会所と古道があったことがわかります。もちろん津があった。
 おそらく名前から見て石材を陸送するに切り替える港であろう。
 あとは補足情報です。
 石津には、かつて神社(今は若宮八幡宮として違うところに復した)がありました。木屋の鞆呂伎神社に合祀されたことになっていましたが、八坂町の祇園社八坂神社と合祀したとの記憶があります。
 さらに石津には龍神伝説がありますが、龍神が菱に乗ってきたというもので、ササゲに乗ってきた少彦名神とよく似た話であります。隣りの点野は天皇の薬草園ということも考えられるので、いいのですが。あの辺で少彦名神を祀っているところが思い出せません。

 なにか参考になることありましたか。とみたさん。
 

[4284] Re[4283]: 梶の木  神奈備 2008/07/19(Sat) 15:58 [Reply]
 タンさんに続いてかたばみさんのご登場、ご無沙汰です。ありがとうございます。

 西表島などに生えるサキシマスオウの根の部分が平たい板の様になり、これを磐根とか板根と呼び、かっては船の舵として利用されたようです。
http://ww5.tiki.ne.jp/~akiyoshidai/iriomotejima4.htm

 珍塚古墳の壁画の船には舵取りらしい人物がいるように見えます。[1133]で素人さんが、刳り舟について櫂を舵として使用していたお考えられるとの報告がありました。櫂は櫨のようなものでしょう。

 板根が出来る木は南方の多雨な地域に多いようですが、三重県の多度町御衣野の草薙神社の境内には樫の木の板根がありました。日本武尊がここの松の木に刀をかけて東国に出発したとの伝承があります。この板根を舵に使ったのかも知れません。
http://kamnavi.jp/en/mie/kusanagi.htm


> 天孫系?が国津神系の地に上陸するのであれば、「敵」のいない場所を選ぶのは必然だと思います。

[4283] 梶の木  かたばみ [Url] 2008/07/19(Sat) 14:48 [Reply]
ごぶさたです、お暑うございます。
ちょい覗いたら「カジ」があったので・・前の方読んでませんが(^^;

いつごろ用いられた文字(社名)かがまずありそうですが、梶は桑の仲間。
実が食用、皮は繊維質として縄文時代から重要な木として利用されていたとみています(楮コウゾの前身でもある)。
同類の山桑の葉は後にカイコの食料となりますが、実は人間の食料。
これらは物証として残りにくいので出土はむずかしいだろうなあ。

縄文系からは生命樹的な意識を持たれていた可能性もありそう。
(桜≒木花開耶比賣は美しいけれど実用ではさして役に立たない(^^;)

諏訪大社の神紋が梶であること、重要だと考えています。
縄文〜弥生の諏訪、建御名方命など出雲文化との融合によって神紋に梶が登場、国津神系の象徴のひとつが梶の木だと考えています(動物では蛇ですね)。

七夕は古くには梶の木に飾ったそうですが、生命樹の流れがあるからではないかと思っています。
「たなばた」の語源は? 棚畑の可能性を考えています。稲作以前の弥生草創期の農耕(出雲文化での畑作)。
星神との複合もあるかもしれない。後には機織りの複合もあるかな。

だんだん青草になりまして・・梶がない・・国津神系譜がいない(^^;
舵を装着する船の登場はいつかの問題とからんでカジを船の舵とみなすのは、比較的新しいのではなかろうか。
(ちなみに関東の鹿島は古墳時代の大和朝廷の対出雲勢力の拠点とみています)

神武東征説話は記紀の改ざんとみていますが、東征がいつの誰であろうと天孫系?が国津神系の地に上陸するのであれば、「敵」のいない場所を選ぶのは必然だと思います。
国津神系がいない・・後に記紀の影響下で神武の船の舵が折れたなんてお話も生じるかも。

[4282] Re[4280][4279][4273][4262]: 梶無神社の主祭神について。  神奈備 2008/07/19(Sat) 13:43 [Reply]
> 麁服

 本文を訂正させて頂きました。[4281]は不要になりましたので、消しました。


> 神像二体ですか、年代は分りませんでしょうか。

 『式内社調査報告』に神像の件が記載されていますが、年代については触れていないようです。ただ、神社の神宝にはこの神像は含まれていないようですから、それほど古いものではないと思います。


> 楠公誕生の地。朧気な記憶ですが小さな博物館とか道の駅などあったでしょうか。

 博物館の外の壁に兜をかぶった武将の人形が置いてありました。
 「青葉繁れる桜井の♪」の桜井の別れの歌詞は30番近くあるようで、¥200円で売っていました。 ネットで捜してもなかなかないようですね。

[4281] 梶無神社の風況  佐々木 2008/07/19(Sat) 09:48 [Reply]
 NEDOの風況マップを確認してみました。 http://app2.infoc.nedo.go.jp/nedo/webgis
 地上高30m、4.5m/s、地上高70m、5.0m/sでした。
 風が弱い地域とは云えず、風力発電機の償却も採算ベースに近い風況。
 採算ベースは6.0m/s(2004年ベース)
 地上高70mで、難波津、河内湖あたりに風速の低いところが浮き出てきました。
 「どろ」地域、「おしてる」地域。難波津は計画的な港との裏づけと云えそう。

 北河内では、舟の部品は、梶(楫)より鞆とか艪の印象があります。
 梶は梶の木のことで、梶の木は木麻の仲間なので、単に「梶の木が無い」につきるのかもしれません。

[4280] Re[4279][4273][4262]: 梶無神社の主祭神について。  たん 2008/07/19(Sat) 01:23 [Reply]

神奈備さん、今晩は。
六万寺の境内に小さいですがたしか頓宮の旧蹟があった筈と画像捜しましたが見つかりませんでした。鴨川峠?確か網の目のような路が載った明治時代の地図を捜しましたがこれもごそっと見つかりません。記憶も衰え何事も継続こそが大事なようです。
鴨川峠は暗峠より標高が50m程低いですし、矢田丘陵では主人(久志玉媛神社)の前辺りを通ったのでしょうか少し北には久志玉比古神社もありますし面白そうな道ですね。

神像二体ですか、年代は分りませんでしょうか。木花といえば大三島には今でも木花姓が居られるようです。

>南和泉ならそのように言えるようですが・・・
#そうでした、神武云々は上流手前から西の男乃宇刀に抜けているようでした。

楠公誕生の地。朧気な記憶ですが小さな博物館とか道の駅などあったでしょうか。大伴氏の原郷、大友黒主これは漢の末裔?、たしかに賑やかですね。

白木に多々良、更に琳聖太子とくると、大内氏の祖の渡来伝説の多々良浜(防府市)からの上陸を連想しますね。百済王子とシラは少し気になりますが。

>三島忌部
#失礼。瀬戸内大三島からの忌部の流れがあるのでは、と感じています。
物部氏が武(軍隊)とすると大伴氏は天皇の武。これは中臣と忌部にあたる感じでいます。津速魂の流れの卜部が宮主を独占したように兄?である神魂の流れの忌部も同じような状況の時もあったのでは、とか。
四国の大嘗祭の鹿服を作る三木家、高知の天羽々を祀る朝倉神社やご存知伊豆の伊古奈比刀Aこれらは大三島からかもと。
 忌部氏系図にも色々ありますが、こんな系図もあります↓
    ├天日鷲翔矢命(天日鷲命=粟忌部首祖┴大麻比古(又名津咋見:又津杭耳命。
天背男命┴許登能麻遅媛(k己等麻知媛k天津羽羽神=事任荒魂天児屋根母。
     興登玉命┬天児屋根/藤原氏系図,大系図本系帳

梶無の話ですが、梶は船頭で神武の意に沿わぬ判断をしたのが忌部の流れだったら面白いと思った訳です。
余談ですが霞ヶ浦北東に梶無川というのがあります。和歌山には梶取でした。


[4279] Re[4273][4262]: 梶無神社の主祭神について。  神奈備 2008/07/18(Fri) 17:52 [Reply]
> ご無沙汰しております、神奈備さん。

 タンさん、こちらこそ。


> 六万寺の名にひかれて。。

 後期難波宮から六万寺(ここに桜井頓宮があったそうです。)経由で生駒山を登り鳴川、それから平群谷に降りて矢田丘陵を越え、平城京に至る古道があったそうです。これが難波宮・平城京の最短のコースで、直越えとする見解が『探訪古代の道』で千田稔氏が述べています。この方は発想が豊かで面白いのですが、時々ハテナもありますので・・

 梶無神社
 神像が二体あり、一体は木花咲耶姫だそうです。だから瓊々杵尊と推定したのかも。


> 梶と舟は点々と石川の上流の神社までつながっているのも面白い。

 南和泉ならそのように言えるようですが・・・

 石川上流の東側の楠公誕生の地付近を最近、タイシさんと云う方に案内して頂きました。

 式外社の降幡神社と云う神社があり、一時建水分神社に合祀されていたのですが、元に復しています。しかし鳥居も無ければ拝殿もないと云う状態で置かれています。大きい楠木があり、その傍らに小祠が置かれています。由緒を調べますと、大伴氏の原郷だとのお話や、六歌仙の大伴黒主夫妻の墓が近くにあるとか、賑やかなことです。

 大伴氏も神武さんと共に南九州からやって来たイメージを持っていましたが、本貫の地はどこなんでしょうか。

 降幡神社も河南町にあたり、少し南には白木と云う地名があり、かっては白木神社が鎮座していたようです。その白木には多々良宮と云う神社もあり、琳聖太子を祭神としていたと伝わっています。神社は小高い丘の上にあり、それを見上げるような東側の川沿いに多々良千軒と呼ばれた集団がいたそうです。楠木正茂に仕えたようです。楠木氏が衰えるにつれて彼らも力を失って行ったようです。

 白木神社跡も多々良宮跡も手入れのされた草むらとして残されています。


 所で、三島忌部と云うのがよくわかりません。伊豆?

[4278] 河内の謎  とみた 2008/07/18(Fri) 08:12 [Reply]
いろいろな本を読んでいますが、今頃になって、馬・船・常民という本を読みました。森浩一さんと網野善彦さんの有名な本です。そこにきちっと書かれていました。

◎馬飼首荒籠が継体を樟葉に導いた話、に関わる話しです。

馬飼首はスパイ説もありますね。
豪族や貴族は、馬飼を雇って、厩舎の管理をさせていただけでなく、天皇や貴族の外出時は行列に加わっていた。この人たちは商売もやり。駄別料や関所料も取っています。

厩では馬だけでなく牛も飼っていました。
牛飼いが馬借、馬借も兼任してました。

川や湖と海を繋ぐ交通路には馬借、車借にいた。

これで殺牛と殺馬とスパイ説が一挙に氷解しました。

◎日置氏の話。

堺の日置荘は、確か興福寺の荘園の荘でしょう。

太陽の道=レーライン上にあるので、不思議に思って、日置氏は日読みの日神、測量士と云う説で見ていた。火置として鍛治かなとも思っていました。

日置荘は、鍛治師も場所ですね。

東除川と西除川に挟まれた丹比郡です。

塩釜と、釣鐘とか鋤鍬を全国に売り歩いているセールス・エンジニアが住んでいた。鉄鍛治や銅の鍛治の職人がいたところ、土も鍛治に向いていたのでしょう。鋳型は土も運んだようです。堺の港が積み出し港です。

塩は大切だから、塩釜の修理や販売に飛び回ったのでしょう。日置氏の名前が全国の海辺に多いのと関係があるやも知れません。

日置氏は鋳物師でもある。

測量士の関わりは佐々木さんの枚方樟葉の日置郷の話し。

東漢氏との関わりはまだ証明されていない

◎石川と大和川の合流点の話し
石川の上流に梶と舟の神社がある?

合流点のある柏原は古代は餌香と呼ばれ市があった。船橋遺跡があり吉備の土器が出て大和に入る口でもある。

石川を遡って南河内に入るために舟での積み替えをする地点。

赤坂千早は楠正成の活躍場所。大伴村がある。敏達の時代、日羅を百済から案内した漕ぎ手を石川の大伴村に住まわせた。

金剛山を越えると二見には隼人が住んでいた。さらに南の五条宇智には阿多隼人が住んでいた。

???この謎解きをどうぞよろしくお願いします。大伴氏はアウトローの大将。












[4277] それと私がいう「風無し」というのは  六万寺  2008/07/18(Fri) 00:48 [Reply]
神武東征の折、日下でナガスネヒコの軍に阻まれて、暴風の中、船で漂流していた

が「その暴風が止んで」つまり「風無し」になって漂着した場所が「カジナシ」

ではないかと。

船の「梶」が折れて「無」くなったのも神社の名前の由来でしょうが、

私は何故か、その戦いの時、荒れていた天気が、

神武を乗せた船が梶無の地あたりに来た時に穏やかになって(風無しになって)

強風で流されて、梶も折れて制御不能だった船が漂着できたと。

そこで「助かった。」と安堵した神武一行が、この地を祭ったのではないか。

特にカジナシの地が常時、風が強いとかではなく、

神武一行が漂流していた、「その時」の話です。




[4276] 佐々木さん、たんサン、琉球松さん、皆さんありがとうございました。  六万寺  2008/07/18(Fri) 00:26 [Reply]
皆さん、色々考えていただいて参考になりました。

ありがとうございます。

私は今、40歳で小学生高学年の時に

六万寺から八尾市の河内山本に引っ越しました。

ここ数年、故郷が懐かしくなって結構頻繁に梶無神社に参拝しています。

また神主さんをお見かけしたら尋ねてみます。

今、梶無神社がある場所は昔、桜井村と呼ばれていたらしく、

桜井神社もあったとの事。祭神も大国主だとか。三輪明神と関係あるような…。

この辺りのことも知りたくて仕方がないので、

そのことも併せて、神主さんにお聞きしたいとおもいます。

皆さん、ありがとうございました。

[4275] Re[4255][4251][4250][4239]:会話の 限界 を感じます  かっぽれ 2008/07/17(Thu) 23:25 [Reply]
> 返事がないかもしれないので、さらに横から。

玄松子さん、お気遣いありがとうございます。
返事をしようと思っていた矢先に、生田さんがご自身の過去の書込みを大量に削除されました。例えばこれ↓
《[4248] ひと(オレ)を裁判にかけないと、気が済まないのか  生田淳一郎》
それで、反省して退室された方の発言にさらに言及するのはいかがなものか、と遠慮しておりました。
また何か面白い話題があればぜひ参加したいと思っていますので、よろしくお願いします。

[4274] Re[4272][4266][4262]: 梶無神社の主祭神について。  佐々木 2008/07/17(Thu) 23:24 [Reply]
 琉球松さん
>  ところで「梶無(カジナシ)」ですけど、六万寺さんは「風無し」とされましたが、"風が止むのを待った"とすれば、常時風の吹いている所でしょうかね。

 NEDOの風況図を見ないとわからないけど。

 万葉集では棚無舟がよく詠まれているのです。
 あの辺は水深が浅い泥沼なので梶がきかなくて、棒で底をつついて進む印象ですが。

 社伝によると神武天皇東征の折、日下坂の戦いに利在らず、船で回航したときに風浪強く、梶が折れて船が漂着した小丘に祖神を祀ったのが起源とか。
 
 ここは最近視察された、とみたさんの方がお詳しいかも。

[4273] Re[4262]: 梶無神社の主祭神について。  たん [Url] 2008/07/17(Thu) 22:51 [Reply]
はじめまして、六万寺さん。ご無沙汰しております、神奈備さん。

六万寺の名にひかれて。。
梶无神社の祭神ですが、長い間男神は不詳とされてましたが、饒速日とするのが多い様子。
今は宮司さんは代替わりされたのでしょうか、10年ほど前に神職さんからお聞きした事ですが本殿改築の折祭神をニニギとするモノが見つかったと、例祭の夜で詳しいお話の時間はなく、その後機会が無く参詣してませんが、これ以降男神をニニギとされたのかも知れません。
後世だろう木花咲耶姫は何かの仮託かもしれませんが、三島忌部とすると妄想が広がりますね。梶と舟は点々と石川の上流の神社までつながっているのも面白い。
六万寺によく行かれるなら、ぜひ梶无の宮司さんに本殿改築の折の発見の事情をお尋ねになりその顛末をお聞かせ願えると幸甚です。


[4272] Re[4266][4262]: 梶無神社の主祭神について。  琉球松 2008/07/17(Thu) 22:25 [Reply]
 佐々木さん、どうもどうも。

 ところで「梶無(カジナシ)」ですけど、六万寺さんは「風無し」とされましたが、"風が止むのを待った"とすれば、常時風の吹いている所でしょうかね。

 そう考えると「風の瀬」との解釈も可能でしょうか。

[4271] Re[4270][4269][4263][4261]: 長鳴鳥  佐々木 2008/07/17(Thu) 19:53 [Reply]
 琉球松さん
> 太陽が海から産まれ、海に入るような島にいますので、
 この感覚がすごいと思います。非常に感動的な表現であります。
こんな事なら古典の授業をちゃんと受ければよかったですね。
> お互いさまです。生涯学習センター24歳ぐらいの女姓講師に、これは違うでしょ。ほんとにまじめに取り組んで下さいよと。頭に来て、○田さんみたいに音符出したやろうかとちょっと思った(笑)。

> 生駒山あたりから見る大阪湾の太陽は感動的だったでしょうね。
 明治まではそうでしょうね。
 今は生駒山に登れば大阪は、ばい煙の下、大阪の人は本当にかわいそうと思います。今なら日下でなく、煙下でしょう。春日は春煙でしょう。

[4270] Re[4269][4263][4261]: 長鳴鳥  琉球松 2008/07/17(Thu) 18:59 [Reply]
 太陽が海から産まれ、海に入るような島にいますので、奈良大阪の豊富な情景描写は今ひとつピンとこないんです。こんな事なら古典の授業をちゃんと受ければよかったですね。

 琉球古語の「ドロ」は船上から見た波の状態でしょうけど、生駒山あたりから見る大阪湾の太陽は感動的だったでしょうね。

[4269] Re[4263][4261]: 長鳴鳥  佐々木 2008/07/17(Thu) 16:41 [Reply]
 琉球松さん

> 神奈備さんの「ヨ・シノ」から深読みしてしまいましたけども、「春日・日下」も太陽との関係「春分の日の入り方向」で、住吉の祭事とも関わると想像しています。 春日・日下・香木(かつら)は、当時すでに固有名詞格だったとか。
 ほかに帯(たらし)、忍(おし)、俣(また)、甘(かひ)、白檮(かし)、赤海・鰤魚(たひ)、板挙(たな)、波限(なぎさ)、長谷(はつせ)。
 忍は万葉集でも「おしてる難波・・・・」でよく見ます。琉球神歌の「泥」に相当するのでしょうね。 

[4268] Re[4263][4261]: 長鳴鳥  琉球松 2008/07/17(Thu) 13:35 [Reply]
 佐々木さん、ありがとうございます。参考になります。

 この掲示板は、たえず神奈備さんの後について行くスタイルのほうが、より充実したものになると考えました。

 「シノ」も「長鳴鳥」も本土側、琉球側、共通のテーマだと思います。

[4267] Re[4266][4262]: 梶無神社の主祭神について。  六万寺  2008/07/17(Thu) 13:20 [Reply]
早速の丁寧かつ詳しいお返事ありがとうございました。

なるほど、やはりニギハヤヒの可能性は有ると。

でも祭神がニギハヤヒかニニギノミコトかでは全く別の神様ですよね。

これでは参拝するときに我が心も揺れ動きますね(笑)。

まあ、それだけ古来から存在する神社なんですね。

神南備様ありがとうございました。

[4266] Re[4262]: 梶無神社の主祭神について。  神奈備 2008/07/17(Thu) 11:39 [Reply]
 『式内社調査報告』では、「無窮會文庫の『玉ロク(竹冠に鹿)簏』の『河内国式神私考』のみは、祭神を饒速日命とし、「相伝、天磐船之所レ止即立レ社故一号船山神」とあります。」
 船山と云う地名からの発想かと思われます。

 梶無神社の真東の生駒山の自由の森鳴川に接したスカイライン(野外活動センター入口から車に気を付けて)の東側に巨石があり、夫婦岩と呼ばれていたと思います。これを天磐船と見立てたのであれば、饒速日命を祭神とするのは自然なことと思います。ましてや物部氏の本拠地らしい八尾市に近い船山ならそう考えるでしょう。

 饒速日命が哮が峯に降りるのですが、各地に哮が峯の候補があります。天野川沿いの磐船神社、二上山、平石の磐舟大神社など。磐船神社は交野物部氏の祀る哮が峯、二上山は当麻物部氏が祀る哮が峯と考えればいいのであって、それから考えますと生駒山系の西側は特に物部氏の濃密な所ですから、梶無神社も物部氏が祀っていたとしても不思議ではありません。

[4265] Re[4264]: 佐々木様  佐々木 2008/07/17(Thu) 11:12 [Reply]
> 神奈備掲示板では、場違いな書き込みに丁寧にお返事いただき、ありがとうございました。
 ご謙遜だと判断致しますが、場違いということはないと思います。それは間違いありません。

[4264] 佐々木様  河村佳住 2008/07/17(Thu) 10:53 [Reply]
神奈備掲示板では、場違いな書き込みに丁寧にお返事いただき、ありがとうございました。
これまで私の興味のある事柄について、話し合える人が身近にいなくて皆様のお返事がうれしくて、つい浅薄なことを書いてしまいました。
播磨国風土記には明石郡が逸文でしか残っていないそうですが、明石川、櫨谷川、伊川流域には発掘された遺跡が沢山ありますし、地名の研究なども詳しくなされているようですので、少しづつでも勉強していこう、と、おもっております。
ありがとうございました。

[4263] Re[4261]: 長鳴鳥  佐々木 2008/07/17(Thu) 09:14 [Reply]
 琉球松さんの書き込みは、いずも楽しみです。

>  天照大神を岩戸から引き出す祭の「常世の長鳴鳥」もそうですが、カラスは単に太陽にお声がけをするだけの役柄で、詳細な情報は不要になっているという事じゃないでしょうか。
 長鳴鳥が、なぜか長島?に見えて、どきっとしましたが、それ本土では「ニワトリ」のことだったと思うのですが、琉球では「カラス」なんですか。

> 神奈備さんの「ヨ・シノ」から深読みしてしまいましたけども、「春日・日下」も太陽との関係「春分の日の入り方向」で、住吉の祭事とも関わると想像しています。 春日・日下・香木(かつら)は、当時すでに固有名詞格だったとか。

[4262] 梶無神社の主祭神について。  六万寺  2008/07/17(Thu) 07:18 [Reply]
東大阪の六万寺で生まれました。

梶無神社はニニギノミコトとコノハナサクヤヒメを主祭神としているようですが、

本当はニギハヤヒが主祭神ではないかという話もあります。

このことについて何か考えが御有りの方はいらっしゃいますか。

それと「梶無」というのは、船の梶が折れて無くなってというのが由来になって

いると境内の由緒書にありますが、私個人の想像では「暴風が止んで」つまり

「風無し」が「カジナシ」なったような気もします。

このことについても何かご存知の方がおられましたら、

ご教示ください。


[4261] 長鳴鳥  琉球松 2008/07/17(Thu) 00:28 [Reply]
 佐々木さん、すみません。"カラスがどこに出てきたのか" でしたね。

 天照大神を岩戸から引き出す祭の「常世の長鳴鳥」もそうですが、カラスは単に太陽にお声がけをするだけの役柄で、詳細な情報は不要になっているという事じゃないでしょうか。

 毎朝、東吉野村あたりで太陽のライン確認の打ち合わせをしているだけかも(笑)。

[4260] Re[4259][4258][4257][4256][4253][4252][4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  琉球松 2008/07/17(Thu) 00:00 [Reply]
 佐々木さん、 どうもです。

 「天鳥舟」に居るのは鳥一般で、別にカラスでなくてもよかったんじゃないでしょうかね。たまたま逆光で黒ということになった?

 それから、鳥は朝うるさく鳴くことで太陽をたたき起こす(笑)わけですから、熊野あたりに住んでいたほうが都合がいいのかもしれません。

 神奈備さんの「ヨ・シノ」から深読みしてしまいましたけども、「春日・日下」も太陽との関係「春分の日の入り方向」で、住吉の祭事とも関わると想像しています。

[4259] Re[4258][4257][4256][4253][4252][4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  佐々木 2008/07/16(Wed) 23:13 [Reply]
> 訂正・・・神武が高倉山に立った?のは9月ですから、冬至ではなく秋分でしょうか。
>  カラスは鳥ですから、太陽を起こし先導しますね。時間帯は「東雲」の頃?
旧暦?9月5日でした、そういう趣になりますか。
カラスがどこに出てきたのかが、よくわからないのですが。梟?

[4258] Re[4257][4256][4253][4252][4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  琉球松 2008/07/16(Wed) 22:21 [Reply]
訂正・・・神武が高倉山に立った?のは9月ですから、冬至ではなく秋分でしょうか。

 カラスは鳥ですから、太陽を起こし先導しますね。時間帯は「東雲」の頃?

[4257] Re[4256][4253][4252][4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  琉球松 2008/07/16(Wed) 09:38 [Reply]
 「シノ」は、「テルシノ」として沖縄島北部の神歌に「テルカハ」の対語としてみえます。

 「テル」は「照」、「カハ」は「カカ」でしょうから「日」で、「春日」からも意味が読み取れそうです。

[4256] Re[4253][4252][4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  神奈備 2008/07/15(Tue) 20:21 [Reply]
>  奈良県吉野町、東吉野村、川上村あたりは、大和から見て冬至の日の出方向じゃないですかね。

 なるほど、吉野をバックに大和国中へ攻め込むというイメージもあるのかも。

[4255] Re[4251][4250][4239]:会話の 限界 を感じます  玄松子 2008/07/15(Tue) 13:37 [Reply]
>  横から失礼します。

返事がないかもしれないので、さらに横から。


かっぽれさん>ネパール語「カイラース」とチベットの「カイラース山」を混同してはまずいですよ。

> ★次にネパールのカイラース山の名称の起源が「神々が住む山」≒「天国」という生田さんの説明に関して、

「カイラス山」は、ネパールではなくチベットの山。インドとチベットの境、ガンジス河の源流。
「カイラス」という名は、ウィキペディアによるとヒンディー語名の『カイラーシャー・パルヴァタ』。

要するに、
かっぽれさん>ネパール語「カイラース」とチベットの「カイラース山」を混同してはまずいですよ。
という点が意見の相違点でしょ。

[4254] 会話の限界  とみた 2008/07/15(Tue) 07:38 [Reply]
私も一言。

紋次郎さんとのやり取りで、誤解を与えた一人として発言します。

誤解は、放置すれば、無視となり。発言すれば、プライドが邪魔をして、感情的なやり取りになり、誤解がさらに増幅して喧嘩別れに成り勝ちです。

掲示板を利用した喧嘩腰のやり取りはメンバーに不快感を与えるだけです。

管理人は、いつもその手の問題で悩まれます。それを斟酌して私は発言を控えていました。

この掲示板の参加者のマナーと考えたからです。

各人の発言が信頼を得るには、説得力なり示唆なり訴えるものの積み重ねが必要だと考えます。

参加者の関心も、自ずと違います。私の場合は、古代史研究で、渡来民がアジアからどう流れて日本に至りどう発展して行ったかにあります。

その意味で、紋次郎さんの言葉の話を参考に出来ないかと読んでいるのです。

私の言葉に対する素養の無さも手伝って、私には今まで参考になっていません。

それを率直に申し上げたのが、永年言葉の研究をなされてきた、貴台の自尊心を傷つけたことを申し訳なく思っております。

他の分野の研究者には、お説に興味を持っておれれる方も少なくないかと思います。

日本語は、ネパール語が起源とする主張には、もっと別の角度の補足が必要だし、もっと平易な解説が必要だと思います。

説得できないのは、相手が悪いというのではなく、自分も悪いという反省を必要だと思って私は心がけておるつもりです。

相手が自分の主張に反論してくれるのは興味があるからです。

この掲示板は、喧嘩をする場でなく、お互いに学びあう場です。









[4253] Re[4252][4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  琉球松 2008/07/14(Mon) 23:43 [Reply]
 奈良県吉野町、東吉野村、川上村あたりは、大和から見て冬至の日の出方向じゃないですかね。

[4252] Re[4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  琉球松 2008/07/13(Sun) 23:58 [Reply]
 『おもろさうし/首里王府編纂』にみえる「シノ」は太陽の古名であるとの説がありますが、神武神話の"太陽を背にして"との関連はないでしょうか?

[4251] Re[4250][4239]:会話の 限界 を感じます  佐々木 2008/07/13(Sun) 23:52 [Reply]
 横から失礼します。
 お二人のやりとりのうち、朝鮮語の井戸についての討議は理解できましたが、カイラースについては、やりとり一切が理解できない。
★ネパール語で、「天国」を意味するものでカイラースがある。これについてはご両人違和感はない。
★次にネパールのカイラース山の名称の起源が「神々が住む山」≒「天国」という生田さんの説明に関して、かっぽれさんがご自身のご専門の立場で補足されたように読み取れるのですが。違うのかなあ。違っていたらごめんなさい。

[4250] Re[4239]:会話の 限界 を感じます  かっぽれ 2008/07/13(Sun) 22:50 [Reply]
カイラースについてです。

生田さん>>カイラ−スはネパール語で「天国」です。カイラ−ス山のてっぺん部分の山容は、柱のトンガリやピラミットの原形になった……かと。

かっぽれ>ネパール語「カイラース」とチベットの「カイラース山」を混同してはまずいですよ。
かっぽれ>ネパール語の方は「神々が住む山」という想像上の場所で、「天国」といいかえてもそんなに遠くはないでしょう。

これに何かをつけ加えるとか、または訂正したりする必要を全く感じませんが。
見るとおり、生田さんがお持ちのネパール語辞書の訳語「天国」を否定してはいないですね。
その「天国」の由来を説明したつもりなのに、どこが気に障ったのか全然わかりませんです。
自分の知らないことを教えてもらえる、これが談話室(掲示板)に書きこむ大きなメリットのはず。

それと、談話室は書込み常連のためだけにあるのではなく、その何百倍、何千倍の閲覧者の存在を意識
して発言をするべきだと思います。
突然ポンとネパール語だの朝鮮語だのを出されても、ほとんど理解されないのではないでしょうか。
それを意識されていますか?

[4249] Re[4247][4244][4240][4226]:和泉 と 清水  佐々木 2008/07/13(Sun) 19:53 [Reply]
かっぽれさん
> 洑は보、辞書を見ると発音は「ポとボの中間」とかで、あいまい。
 朝鮮語とはハングルを意図されているのか、それ以前。
 ブログが多いのは日本人の特性ですね。非常に勤勉な種族であることを示唆するような現象の一例でしょうか。しかしこれも違う見方をすると単に「オタク」じゃんで済まされるかもしれない現象。同じ日本人同士でも日本語が通じない、これもよくあることです。
 とにかく満濃池はまずは大収穫です。

[4248] ひと(オレ)を裁判にかけないと、気が済まないのか  生田淳一郎 2008/07/13(Sun) 18:33 [Reply]
投稿者の要請により削除

[4247] Re[4244][4240][4226]:和泉 と 清水  かっぽれ 2008/07/13(Sun) 13:22 [Reply]
佐々木さん

貴重な資料のご紹介、ありがとうございました。
洑は보、辞書を見ると発音は「ポとボの中間」とかで、あいまい。

しかしほんとにたくさんの方が、いろいろな資料を残そうと努力されているのですね。
先日の新聞の記事で知ったのですが、インターネットで個人的に持っているブログのかずは、日本人が一番
多いそうです。

[4246] Re[4239]:会話の 限界 を感じます  かっぽれ 2008/07/13(Sun) 12:43 [Reply]
まーまー、ここは談話室ですから興奮なさらずに話し合いましょうよ。

>おっしゃりたいことは、小生が書いた 「 s [ae] :m も、カイラ−スもウソだ」ということの二点に絞られましょうか。

生田さんに限らず、ある人が発言をして、その中に間違いや勘違いがあったら訂正してあげるのが親切というもの。
もちろん、ほんの細かい事柄までいちいち突っ込むのはどうかと思いますが、私は今回も重要なポイントのみに絞って
いるつもりです。「ウソだ」ではなく、誤り、勘違いだと指摘しているのがわかりませんか?
それから、相手に合わせて指摘するなども当然の配慮といえます。
例えば、朝鮮語の発音について生田さん(紋爺ぃさん)は、過去にこんな発言をされていましたよ。

>[3950]  塩の系譜 2      紋爺ぃ 2008/06/01(Sun) 14:10
> 3ヶ月ほど前でしたか、正式にはハンギルと発音すべきを、朝鮮人は国をあげてハングルと発音している事実を知りました。ここに多くの母音をもっている朝鮮語には「 i = u = o 」の通音があることを知ります。

このような専門的な話をされる方が、《s [ae] :mは「シャーム」》と書くと、読者はみな信じてしまうではないですか。
それで、「シャーム」はおかしいのではないか? と疑問を呈しましたが、何か悪かったでしょうか。
辞書の表記を書いてもらうと《s [ae] :m》。これはIPA(国際音標文字)表記ですから、音は決まっていて、[ae]のæは
英語のsampleのaと同じ発音で、どう読んでも「サーム」。
これで一つ解決、一歩前進しました。
何も興奮することはありませんね。

長くなるので、カイラースについては後ほど。

[4245] 無題  ぽんた 2008/07/13(Sun) 12:23 [Reply]
全国の地名のまとまった資料は、漢字二字好字令後の『倭名抄』が最も古いものなので、古代の地名の研究が木簡が出土しないと進められなくて、『万葉集』に出てくる地名も、どこを指すのか分からないものがあります。
たとえば、『万葉集』43番歌「吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六」の「隠」は『倭名抄』の「名張」(三重県名張市)でしょう(「隠」は1字だし、好字ではないので、地名漢字二字好字令で「名張」に変えたのでしょう)から、語源を考えるには「名張」ではなく、ひらがなで、少なくとも「隠」で考えるべきでしょう。
「地名は古代から変わらない」という先入観がありますが、実際には地名漢字二字好字令で、「やいづ」が「ましず」に変えられたり、合併でも変わりますね。たとえば、掛川市の「大須賀」は古代からの地名に思えますが、実際には「大渕」と「横須賀」の合併による新地名です。浜松市の神久呂(かくろ)は式内・賀久留(かくる)神社とは関係なく、「神ヶ谷・大久保・志都呂」の略です。(式内・賀久留神社は、坂の途中にあり、坂の下の谷が神ヶ谷で、坂の上の平地が神原です。)

[4244] Re[4240][4226]:和泉 と 清水  佐々木 2008/07/13(Sun) 12:03 [Reply]
かっぽれさん「洑」でありました。ため池です。
http://ameblo.jp/dreamtale/day-20071128.html
http://www.chosunonline.com/article/20050601000004

[4243] 無題  ぽんた 2008/07/13(Sun) 11:45 [Reply]
>もともと区別するために名前をつけるのですから、同じ字を使わない、というか、同字は避けるのが当然ということではないでしょうか?

基本方針は「国内(国=現在の都道府県)に同じ表記の地名が無いようにする」だったようですね。

[4242] 漢字二字好字令  ぽんた 2008/07/13(Sun) 11:42 [Reply]
静岡県焼津市は『倭名抄』の「益頭郡」だと考えられています。「焼く」が縁起悪いので、「益す」に漢字二字好字令によって変更したとされています。

三河国穂郡は『倭名抄』の「宝飯郡」だと考えられています。「穂(ほ)」は1字なので、好字を使って、「宝飫(ほお)」(発音は「ほー」)に変えられ、「飫」を「飯」と誤記したのが広まって、「宝飯(ほい)」になったそうです。

[4241] Re[4240][4226]:和泉 と 清水  佐々木 2008/07/13(Sun) 10:29 [Reply]
田んぼの「ぼ」ですね。でんぼ(吹き出物)とか伝書蛍とか関係なかろうか。あばたもえくぼと云いましたから、吹き出物のでんぼも可能性はあるかもしれません。

[4240] Re[4226]:和泉 と 清水  佐々木 2008/07/13(Sun) 09:47 [Reply]
ああいいとこ、気付かれました。万能か。なるほど面白い。さんずいに伏は「ため池」、ボですな。

[4239]  会話の 限界 を感じます      生田淳一郎 2008/07/13(Sun) 06:08 [Reply]
投稿者の要請により削除

[4238] Re[4237][4236][4235][4231][4226]:和泉 と 清水  かっぽれ 2008/07/13(Sun) 01:40 [Reply]
大変刺激的な情報をありがとうございます。
万能洑とは、四国讃岐の満濃池を連想させます。司馬遼太郎の小説「空海の風景」に出てきました。
その満濃池とは空海の故郷に古くからあり、空海本人が堤を築き直したことで有名な池の名前です。
小説から引用すると「この巨大な池の水は、アーチ型の築堤の下をくぐって奔り流れ、なんと
三千六百町歩の広大な田園をうるおすという・・」「空海のころの讃岐には、そこここで土地を
開拓して当時なお古代的勢威をのこしていた豪族やらそれに属するグループやらが四つばかり
あった。いまの高松市付近はハタ氏であり、国司の庁があった綾歌郡あたりはアヤ氏で、ハタといい、アヤといい、これらの氏族名称はおそらく他の地方の例からみて渡来人に相違ない」

これはこれは・・・ですね!

[4237] Re[4236][4235][4231][4226]:和泉 と 清水  佐々木 2008/07/12(Sat) 23:46 [Reply]
 暑中見舞い申し上げます。
 「マンボ」ですが、朝鮮半島の「万能 さんずいに伏」(マンヌンボ)であると考えられています。日本では他に似たものとして「しょうずぬき」「がま」というものがあります。しょうずぬきは「清水または生水 抜き」でわかりますが、がまはたぶん「河間」だと思います。
>谷崎潤一郎は「オランダ語」と書いたという話があります。
 これは御存じないと思うが「マンボズボン」の「マンボ」の方でしょうね。

[4236] Re[4235][4231][4226]:和泉 と 清水  かっぽれ 2008/07/12(Sat) 23:17 [Reply]
佐々木さん、お久しぶりで。

その「マンボ」の語源が藪の中、bambooの音転でしょうかね?(笑)
谷崎潤一郎は「オランダ語」と書いたという話があります。
一応ネットで調べてみたのですが、わかりませんでした。

参考になりそうなサイトを紹介します。
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/373manbo.html

[4235] Re[4231][4226]:和泉 と 清水  佐々木 2008/07/12(Sat) 17:32 [Reply]
> 意味としては「井戸」でなく、日本語の「瀬」に近いような。もしかして同根ということも考えられますね。
 ごめんなさい。お勧めしたのは小生で、何かしらの違和感を覚えたのですが、完全に見落としておりました。
 韓国の井戸は、日本の掘抜き井戸(直接水脈の上を掘るタイプ)よりも、トンネルを四方八方にめぐらして瀬(浅い水路)を作って水を集める井戸(カナート)だったので、そうなのだろうと勝手に理解しております。日本では関ヶ原地区でマンボと呼ばれています。


[4234] Re[4229]:ホダラ クダラ  かっぽれ 2008/07/12(Sat) 17:03 [Reply]
どうも、本題を忘れていました
>カイラ−スはネパール語で「天国」です。カイラ−ス山のてっぺん部分の山容は、柱のトンガリやピラミットの原形になった……かと。

こちらはまあまあ守備範囲で、少しは自信がありますです。
ネパール語「カイラース」とチベットの「カイラース山」を混同してはまずいですよ。
ネパール語の方は「神々が住む山」という想像上の場所で、「天国」といいかえてもそんなに遠くはないでしょう。
その概念はどこから来たか?といえばヒンドゥ教の布教。更に遡ればリグ・ヴェーダに書かれている物語です。
もし興味がおありなら、「シヴァ・プラーナ⇒カイラーサ・サムヒータ(本)」で調べてください。

他方、チベットのカイラース山は、上のカイラーサを現実の山に比定(用語が変かも)したものです。
大体、カトマンズとカイラース山は直線距離にして500km以上離れており、その間にはマナスル(8150m)などの
山々が連なっているのですから、見えません。

[4233] Re[4232][4229]:ホダラ クダラ  かっぽれ 2008/07/12(Sat) 16:28 [Reply]
すみません、訂正します。
「雅語」⇒「雅字」

[4232] Re[4229]:ホダラ クダラ  かっぽれ 2008/07/12(Sat) 16:18 [Reply]
>漢字二文字で、「発音しない“和”をかぶせた好字」が、なにかほかにありましたら、お教えくだされば幸甚にぞんじます。たとえば和鏡とかいて、読みはやっぱりただの「かがみ」みたいな例です。

ぽんたさん、横から失礼します。
歴史は全くアレのかっぽれですが、参加させてください。
「和」を雅語に使った他の例は思い当たりません。あるかもしれませんが、無くても全然不思議ではないと思います。
「好字」=和のみではなく、たくさんありますね。「雅語 地名」でググればその辺の事情はわかるはず。
もともと区別するために名前をつけるのですから、同じ字を使わない、というか、同字は避けるのが当然ということ
ではないでしょうか?

[4231] Re[4226]:和泉 と 清水  かっぽれ 2008/07/12(Sat) 16:01 [Reply]
>朝鮮語の井戸は sam とかきましたが、正確には、この a は「a+e 」のシャに近い音です。しかも長音マークがついているので、シャームみたいな音です。

意味としては「井戸」でなく、日本語の「瀬」に近いような。もしかして同根ということも考えられますね。

以後は余談です。
samは韓国KBSのドラマ「I am Sam」を意識して書いているんですか? 普通はsaemと綴りますけどね。
これは「アイ・アム・セム」と発音し、「シャーム」ではない。どこぞの日韓辞典に「샘=シャーム」とあるんですか?(笑)
もし、日韓辞典で調べたのなら、そのままの発音とスペルを書いてください。「sωmi-(しみこむ)」や「 t∫himil -(湧く)」
も意味不明のスペルで、他の人が確かめようがないでしょ。

saemはいいところを突いているような気がするので、正しい韓国語での情報の再アップを期待します。
この談話室で韓国語を分る人は少ないのに、更にわけわからないスペルや発音にする意図はなんですか?
他の談話室メンバーに少しでも分りやすく、伝わるように書いてください。
お願いしますよ。

[4230] ホダラ  佐々木 2008/07/12(Sat) 09:26 [Reply]
 ホダラ、クダラは面白く拝見致しました。滋賀県湖南地区の方言で「ホダラ」があります。「そうしたら」の意味のようです。その地区には「百済」地名や「鬼室神社」が見られます。なるほどと感じました。また滋賀県では農家に「秦」姓が多く見られます。

[4229]  ホダラ クダラ       生田淳一郎 2008/07/12(Sat) 09:08 [Reply]
 -dar は○○だらけという意味。ホダラは 聖なる空虚空間の xo がいっぱい、クダラは ku(いいこと)いっぱい と解せられます。フダラは hu(緻密な精神性)がいっぱい。
 「いい」と「わるい」を意味する同じ音の ku がネパールでガチンコしています。いちおう「わるい」とするほうはアジア系、「いい」とするのはペルシャ語系らしい。
 沖縄のクバは西のほうの文化を容れたのでは? ひょっとしたら「ku=神」がどこかで発生したとも考えられましょう。
 ワダツミの wata は満州語系統で batai だったでしたか、アイヌ語 atui(海)と同根です(知里真志保の解説から)。
 ホトタタラのほとは、始発は女陰ではなく、ホトケの hot だったと目されます。蒙古語でも女陰はほとですよね。このへんからじつにいろいろと“物語り”が始まる。

 ぽんたさん、はじめまして……だったでしたか。
 氷河期が終わって、人類が犬の皮かぶって、はじめてカイラ−ス山をみたのは、やはり 5万年前と、置けるのではないでしょうか? カイラ−スはネパール語で「天国」です。カイラ−ス山のてっぺん部分の山容は、柱のトンガリやピラミットの原形になった……かと。
 小生は、氷河期が終わって、激しい海進に追われた激動の地は、やっぱ、4 〜7万年前のスンダランドでの文化爆発に置きたいと思っています。
 漢字二文字で、「発音しない“和”をかぶせた好字」が、なにかほかにありましたら、お教えくだされば幸甚にぞんじます。たとえば和鏡とかいて、読みはやっぱりただの「かがみ」みたいな例です。

[4228] Re[4227]: 無題  琉球松 2008/07/11(Fri) 21:58 [Reply]
 「常世・ワタツミ・竜宮」は、弥生時代中後期の奄美沖縄だと思います。

 有視界航行で行ける西の果て。。。ここは瀕死の太陽を再生させる「西の海底のホト」のある所でしょうね。神武の妻「ホトタタラ」の原型じゃないでしょうか。

[4227] 無題  ぽんた 2008/07/11(Fri) 20:19 [Reply]
>常世は「あの世」。。。この解釈は再考されるべきと考えますが、少なくとも「常世・ワタツミ・竜宮・蓬莱」や熊野権現が目した「補陀落」は、同一の、しかも現実に存在した所じゃないでしょうか。

ワタツミは場所なんですか???
おっしゃりたいことは、「キリスト教の天国と仏教の天国は同一の、しかも現実に存在した所」というのと同じレベルの話で、普通の人は笑って終わりでしょうけど、PONTAは、「アジア南西部で文明が発生し、そこから全世界に広がった」という説を支持していますので、これを適用すると「キリスト教の天国は、アジア南西部の古代文明人が考えた天国をキリスト教的に考えたもので、仏教の天国は、アジア南西部の古代文明人が考えた天国を仏教的に考えたものであるから、天国は、元は同一の、しかも現実に存在した所」となります。適用後は、「天国という概念はアジア南西部の古代文明にはなかった新しい概念ではないか?」「アジア南西部の古代文明人のいう天国は実際のある場所を指したのか、空想か?」という検証が必要になります。

>泉と清水は内容的には同じことを謂っています。そこへ「和泉」が“和”を伴って出現しています。

地名漢字二字好字令がでて、「泉」という地名に、好字の「和」を加えて「和泉」と二字にしたのでしょうね。

[4226]   和泉 と 清水       生田淳一郎 2008/07/11(Fri) 17:02 [Reply]
 泉と清水は内容的には同じことを謂っています。そこへ「和泉」が“和”を伴って出現しています。このような事情は言語でしか解けないと思って推理してみました。
 
 日本語の泉の語源は √ i ○○V の法則に従った造語で、インドネシア語の 「*sum すること、もの」であり、清水は朝鮮語の t∫himil -(湧く)を、ほとんど全面的に受入れ、ここに泉と清水の二つが並立しました。
 その後の日本人は t∫himil- の t∫him は日本列島に古い 歴史を持っている*sim(しみ出る水・泉)と , t∫himil -の mil は日本語の mil(水)で、ゴロ合わせが成立していたので、かなり永いあいだ、それで通してきたのでした。

 ここで、日本流の sim と朝鮮語の sam(井戸)との分岐した時点を、あえて設定したほうがいい地平にきました。その時点を BC 3000年と置きましょう。それまでは、日本・朝鮮ともに*sim みたいな発音で双方は同じだったのです。が、朝鮮では sam に、日本では sim になったわけです。

 そこへ、どうしたわけか、朝鮮語に sωmi-(しみこむ)が出現したのでした。
 日本人感覚では“神である岩から沁み出る水”は、岩などからこっち側に出てくるのですが、朝鮮語の sωmi- は岩や砂に「こっちから向こうへ」しみこむのです。

 これじゃあ、わややァ〜。
 そこで「和がついた泉」が誕生したのだと思うにいたりました。
 ということは、日本の集合自我は「インドネシア直」みたいな意識が強いのかもしれません。虫の声きいて感情移入するなど、頭脳ふかくまであちらに似いちゅう。

 朝鮮語の井戸は sam とかきましたが、正確には、この a は「a+e 」のシャに近い音です。しかも長音マークがついているので、シャームみたいな音です。

 辞書のなかから、次のような関連語彙をひっぱり出してみました。
 《 朝鮮語 》  simsim-(とても深い)、t∫hilbatt∫hi-(湧きあがる)、t∫hi-(浄める)
 《 ベトナム語 》 tham(しみこむ)、suoi(泉)。

 舛添さんは井桁のある井戸のおっさんだったのかナ?

[4225] Re[4224]: 無題  琉球松 2008/07/11(Fri) 07:44 [Reply]
 常世は「あの世」。。。この解釈は再考されるべきと考えますが、少なくとも「常世・ワタツミ・竜宮・蓬莱」や熊野権現が目した「補陀落」は、同一の、しかも現実に存在した所じゃないでしょうか。

 奈良畝傍山の被差別部落の古老は「祖先は神武のお供をしてやってきた」、また四国のある部落では「祖先は南からやってきた」と伝わっているようです。

 "淡路島の「淡路」とは、「大阪から阿波へ至る路」の意味"。。。これは知りませんでした、ありがとうございます。

[4224] 無題  ぽんた 2008/07/11(Fri) 04:20 [Reply]
>「浦島太郎」もそうですけど、大阪墨の江あたりと讃岐地方の関係が示唆されていますね。

さぁ、知りません。
古代、大阪と非常に関係が深かったのは讃岐国より阿波国です。
淡路島の「淡路」とは、「大阪から阿波へ至る路」の意味ですし。

>かぐや姫の出身地「月」は「常世・ワタツミ・竜宮・蓬莱」と考えたほうが妥当だと考えます。

常世は「あの世」ですから・・・かぐや姫はゾンビ? 海のかなたとか、地下?
ワタツミは海の霊、海神のことで、出身地ではないかと。
竜宮は海底とか、川の淵の底にあるようですね。海神、水神の家ですね。
蓬莱は島? 熱田のこと? 亀の上の蓬莱山(富士山?)のこと?

[4223] 無題  ぽんた 2008/07/11(Fri) 03:57 [Reply]
今広まっている浦島太郎の話は、『お伽草子』に載ってる話で、平安〜鎌倉にかけて流行した神仙思想の影響を強く受けた物語に書き換えられています。その原形が『日本書紀』『丹後風土記』『万葉集』に載っている浦嶋子の話で、浦嶋子=ニギハヤヒ説とか、浦嶋子=山幸彦説とか、人物を特定しようとする人もありますが、この話自体は東南アジアから伝わったものであるし、『水鏡』の淳和天皇の条に「浦嶋子が帰ってきた」とあり、この頃にはニギハヤヒも山幸彦も死んでいるだろうし・・・よく分かりません。

[4222] 無題  ぽんた 2008/07/11(Fri) 03:40 [Reply]
>「浦島太郎」もそうですけど、大阪墨の江あたりと讃岐地方の関係が示唆されていますね。

浦島伝説が載っているのは『日本書紀』『丹後風土記』『万葉集』で、その舞台は、『日本書紀』『丹後風土記』が丹後、『万葉集』が墨の江です。どちらもニギハヤヒのいた場所です。(「墨の江」は、当て字で、正しくは「住みの江」であり、住吉のことです。「住」が和銅の地名二字好字令により、葦(よし)が生えていることから「吉」を加えて「住吉」としたのでしょう。)

[4221] Re[4220]: 無題  琉球松 2008/07/10(Thu) 07:16 [Reply]
 ぽんたさん、ありがとうございます。

 昔話には、ある女性がモデルになっているのではと考えています。
 「浦島太郎」もそうですけど、大阪墨の江あたりと讃岐地方の関係が示唆されていますね。

 讃岐と言えば、磯城郡黒田出身と考えられる「ヤマトトトヒモモソ姫」が母と共に追放されたところで、しかも最下層階級?「被差別部落問題」の中心でもあります。

 母「オオヤマトクニアレ姫」の出身は淡路島。。。イザナギとイザナミが最初に産んだ島とも関係があると思いますがどうでしょうか?

 そうすると、かぐや姫の出身地「月」は「常世・ワタツミ・竜宮・蓬莱」と考えたほうが妥当だと考えます。

[4220] 無題  ぽんた 2008/07/10(Thu) 03:32 [Reply]
>これは「浦島太郎物語」と似てますね。

浦島太郎もかぐや姫も異民族結婚譚ですね。
神話心理学によると、蛙とか、亀のように、陸上でも水上でも生きられる生物は、この世界と異世界を結ぶと考えられたそうです。
浦島太郎は亀に乗って村を離れて異民族と結婚したために、村に帰って来ても村に入れてもらえなかったという話。かぐや姫は異世界に通じる竹から出てきて月に帰る異世界人と結婚できなかったから、ある意味、よかったという話。結婚したら、月に連れて行かれるところでした。

[4219] 無題  ぽんた 2008/07/10(Thu) 03:22 [Reply]
>竹取の翁は、ようするに最下層の職人じゃないでしょうか。

レベルは知らないけど・・・奈良時代から平安時代にかけて、村から村へと渡り歩いて道具を作ったり直したりする職業集団(鍛治、炭焼き、木工、竹細工、・・・)がいて、彼ら(「翁」は彼らの尊称)が竹取の物語を全国に広めたのだとか。彼らの願望は「世帯を持って定住したい」であり、思いもよらず福徳ある女性を得て、炭焼長者とか、竹取長者になることが夢であり、そんな思いを含めて村人に語ったのが、かぐや姫伝承だとか。

[4218] Re[4217]: 無題  琉球松 2008/07/09(Wed) 23:34 [Reply]
 竹取の翁は、ようするに最下層の職人じゃないでしょうか。

 そこに "思いもよらず" 高貴?な女性と遭遇し富を得る。。。これは「浦島太郎物語」と似てますね。

[4217] 無題  ぽんた 2008/07/09(Wed) 22:37 [Reply]
竹取のおきなの話は、古い順に『万葉集』、『竹取物語』、『今昔物語集』に載っています。『竹取物語』以後に書かれた『今昔物語集』に載っている話は、『竹取物語』以前の古い伝承であるとされています。ようするに、『今昔物語集』に載っている話が本来の伝承・伝説であり、それを元に政府批判の物語に書き換えたのが『竹取物語』だというのです。この本来の伝承・伝説は「竹細工」という技能を持った技能集団が全国各地を転々としながら伝えたとされています。で、いろんなバリエーションが生まれたり、ある程度長期間滞在した場所が「かぐや姫伝説発祥地」と呼ばれるようになったのだそうです。
『万葉集』の竹取の翁の話は、翁が9人の仙女と遊ぶ話で、そのモチーフは中国の『遊仙窟』だとされています。

[4216] 無題  ぽんた 2008/07/09(Wed) 16:07 [Reply]
竹取物語の原形は、「竹薮に赤ちゃんが捨てられていたので、拾って育てたら美人になり、高貴な人から屋敷で女中として身の回りの世話をして欲しいという話が来たが、身分不相応だと断った」という程度の話で、尾ひれがついて、「高貴な人との縁談があったが、身分不相応だと断った」という噂になり、その噂を聞いた作者が、その噂をモチーフに、物語を書いたという程度だと思います。

[4215] 無題  ぽんた 2008/07/09(Wed) 13:43 [Reply]
>但し雲南の竹は孟宗竹なので、内径60mm以上はだいたいあるので、姫が入っていてもいいのですが、日本の竹取物語の竹はヤダケなので、内径1mm程度なので、客観的にはなんとも言えません。

竹取物語の原形は、「竹の中に姫がいた」ではなく、「竹薮に赤ちゃんが捨てられていたので、拾ってきた」でしょう。矢竹にしても、孟宗竹にしても、竹の中に人が入ってるなんてありえません。

竹取物語は、政治批判の本であり、あからさまに書かずに、ファンタジー形式とした練りに練られた本です。結論は「権力や金では得られない大切なものがあることを、今の権力者は気づいていない」であって、そのためにはエンディングを「かぐや姫をどの権力者も得られなかった」にしないといけないわけで、「月に住む異星人だった」にしたわけです。地球上のものなら、「権力や金で得られる」という反論があるでしょうから。
エンディングをこう設定すると、オープニングが「竹薮に赤ちゃんが捨てられていたので、拾ってきた」という原形のままでは対応していないので、「竹の中に姫がいた」にして、「月のように光り輝いていたから、いることに気づいた」とエンディングに対応させたわけです。当時の人は、竹や瓢箪といった中空の植物の内部は異世界に通じていると信じていましたから、さもありなんと、この設定は自然に受け入れられたことでしょう。確か、『西遊記』に瓢箪に吸い込まれる話があったと思います。

>岩清水八幡宮の竹は、エジソンの発明した電球のフィラメント
「石清水八幡宮」ですね。
http://www.iwashimizu.or.jp/

[4214] 竹取物語は謎  佐々木 2008/07/09(Wed) 13:41 [Reply]
 竹取翁は讃岐造、秋田斎部。翁の棲家は宇治市木幡と。
 万葉集では、住吉から高石付近が詠まれている。大伴の高師浜のあたり。
 白髪なので自分の子と言えないからどうしたとか、羽衣浜で娘は死んだとかが少し見えました。この話は唐人に聞いたとか。
 燕の巣の子安貝は、安産守、、、石上神宮、龍の首の珠は真珠で、これは大伴の担当。
 どうも私はその大伴が豚に思えてならないのです。真珠が翁の娘で。豚に真珠は聖書ですが。
 

[4213] 竹取物語の登場人物  とみた 2008/07/09(Wed) 12:45 [Reply]
竹取物語の翁と求婚者の謎。

これもいろいろありますね。私の知る限り・・・のお話です。

物語の冒頭に、竹取翁は讃岐造と書かれています。奈良県の葛城地方の広陵町。ここは馬見古墳群の巣山古墳が有名になりました。その近くに讃岐神社があり竹林が鬱蒼と茂っているようです。

これが讃岐の豪族を祀っているとされていまして、讃岐国造の神社かもしれません。


求婚者については、古代史作家の関祐二さんは、大化の改新の謎の本で、落ち目になった紀氏の一族の紀貫之が、藤原不比等などの横暴を揶揄したのではとされていますね。

藤原氏の陰謀で没落した紀氏の憾みの本とか。

藤原不比等を暗示する車持皇子です。

藤原氏の祖である中臣鎌足は車持君国子の娘である与志子と結ばれています。

車持氏は、天皇の車馬の世話をする下級官僚ですが、元々は中臣は関東の出とされる説もあります。

毛野国には車持氏が勢力を張っています。

因みに群馬は元々は車と言う名前で、好字二文字化の流れで8世紀に群馬?になった筈です。(違ってたらごめんなさい。要確認)

泉が和泉になったと同様にです。

車持皇子は、姑息な手段でかぐや姫をわがものにしようとします。これを評して、
たばかりある者と物語の上で、作者は藤原氏を批判している。

燕の巣を取りに行く麻呂の話しは、愉快です。

これは考古学者の白石太一郎先生と岡本健一先生の話しに出てきます。

ツバメの巣の子安貝を探す公達は、石上麻呂とされています。

物部守屋は蘇我氏に滅ぼされますが、その後、一部の物部は名を変えて石上とします。

壬申の乱で大海人皇子軍に貢献した褒美に、復活して出世したのが石上麻呂です。左大臣まで上る詰めます。

ところが、717年に78歳で事故?死します。

物語で南海産の子安貝を採ろうとしますが屋根から落ちて亡くなります。

この石上麻呂が、高松塚古墳の主とされているんです、証拠は高松塚の人骨のレントゲン撮影の結果、首の骨がずれていて、病床に臥して二週間以内になくなっているというのです。






[4212] Re[4210]: 竹取物語の故郷  佐々木 2008/07/09(Wed) 12:12 [Reply]
> 火鼠の皮袋、龍の首の珠、燕の子安貝はほぼ同じで、金の鐘 vs 仏の御石の鉢
> 、玉樹 vs 蓬莱山の玉の枝  が少し違います。
 火鼠の皮袋は、石綿のことですが、これから見ると中国四川省に少し軍配があがります。
 龍の首の珠は、龍の首を河口とすれば、真珠。
 ほかは忘れました。
> 一方、日本の竹の産地として有名なのは、片町線(いまは学研都市線)大住あたりで大隅隼人の月読神社があり、岩清水八幡宮の竹は、エジソンの発明した電球のフィラメントとして使われた。
 それらの竹のほとんどは、明治時代に治山のために裸地に植えたもので、それまでは近世は松林と茶畑、さらに平安は松林と桑畑だったようです。
 ちなみにフィラメントの竹はマダケでありました。青草でした。
 

[4211] Re[4209][4208][4207][4205][4203]: 竹取物語  佐々木 2008/07/09(Wed) 11:49 [Reply]
> そうでしたか。真相は藪の中ということですね・・・
山田くーん。かっぽれさんに座布団。
> 尊敬する佐々木さんのご意見ではありますが、
 くわばら くわばら 
 昔は養蚕が盛んだったので、雷がなったら桑原へ。

★先般シュメール語からmaruを呈示されました。丸を幼名に使用された事例は、平安期以前はわかりませんが、それ以降使用された氏族はかなり特定できます。
 特定される氏族は渡来系の可能性があるかもしれませんね。

[4210] 竹取物語の故郷  とみた 2008/07/09(Wed) 11:48 [Reply]
日本の竹取物語 VS 中国四川省とチベットの斑竹姑娘物語

竹取物語の方が元祖でしたか。知りませんでした。斑姑娘物語を元祖とばかり思ってました。

5人の支配者の求婚条件が似てますね。

火鼠の皮袋、龍の首の珠、燕の子安貝はほぼ同じで、金の鐘 vs 仏の御石の鉢

、玉樹 vs 蓬莱山の玉の枝  が少し違います。

求婚者が宝探しの旅にでた振りをして、こっそり職人たちに贋物を作らせる点、娘がそれを見破る方法は同じ。

結末は、斑竹姑娘は青年と結婚し、かぐや姫は月に帰る・・・これは丹後の羽衣伝説を重ねたとか。

◎竹は、四川だけでなく雲南が特に有名です。徳宏地区には、250種の竹があります。斑竹ももちろんあるでしょう。

竹罠で魚を取ります。燃料も竹、筍料理、竹パイプの煙管。そして究めつけは娘が妊娠すると竹の中にいる虫を炒めて食べさせて滋養とする。先祖は竹の中から生まれたと考える。

子供が生まれると竹を植え、遺骨は竹に入れて吊るす。

一方、日本の竹の産地として有名なのは、片町線(いまは学研都市線)大住あたりで大隅隼人の月読神社があり、

岩清水八幡宮の竹は、エジソンの発明した電球のフィラメントとして使われた。

兎に角、私の嘗て住んだ枚方・樟葉は竹林が多くって、大きな百足が床を時々這い回っていた。

私は、竹取物語にいろいろな臭いを、感じています。



娘に求婚する男に

[4209] Re[4208][4207][4205][4203]: 竹取物語  かっぽれ 2008/07/09(Wed) 07:54 [Reply]
>  ちなみに竹取物語の伝説は、お互い主張する地区同士でサミットをするぐらい全国に散らばっています。

そうでしたか。真相は藪の中ということですね・・・

[4208] Re[4207][4205][4203]: 竹取物語  佐々木 2008/07/09(Wed) 00:21 [Reply]
> 竹取物語が平安時代とすれば、その竹はマダケの可能性もあるのではと思いますがいかが? 門外漢のモーソーですみませんが、教えてください。
竹取物語の現存する絵巻(宝永年間)等から判断すると、背丈や葉のつき方からヤダケです。これが一般的な根拠になっています。
 マダケなら内径20mm程度(もっと太いのあるでしょうが)ですから、可能性はありますが、まだ細いかという印象があります。
 また平安以前に太い竹が生育するところが、普遍的にあった場所の特定が必要ですが。現状ではわかりません。
 ちなみに竹取物語の伝説は、お互い主張する地区同士でサミットをするぐらい全国に散らばっています。

[4207] Re[4205][4203]: 竹取物語  かっぽれ 2008/07/08(Tue) 23:52 [Reply]
>  最近の説では説2です。
>  但し雲南の竹は孟宗竹なので、内径60mm以上はだいたいあるので、姫が入っていてもいいのですが、日本の竹取物語の竹はヤダケなので、内径1mm程度なので、客観的にはなんとも言えません。とみたさんの指摘も間違いではありません。

尊敬する佐々木さんのご意見ではありますが、新聞で見た「長岡京遺跡」記事によると長岡京遺跡の
排水溝はマダケで作られていたそうです。となるとその直径はかなり太いと考えられます。
竹取物語が平安時代とすれば、その竹はマダケの可能性もあるのではと思いますがいかが?
門外漢のモーソーですみませんが、教えてください。

[4206] 竹取物語のルーツ  ぽんた 2008/07/08(Tue) 23:51 [Reply]
竹取物語のルーツのルーツははっきりしませんね。
静岡県富士市に伝わる話が竹取物語のルーツとする説もあります。
http://www.city.fuji.shizuoka.jp/cityhall/tosise-b/midori/kouen/7-2.htm

[4205] Re[4203]: 竹取物語  佐々木 2008/07/08(Tue) 21:21 [Reply]
 最近の説では説2です。
 但し雲南の竹は孟宗竹なので、内径60mm以上はだいたいあるので、姫が入っていてもいいのですが、日本の竹取物語の竹はヤダケなので、内径1mm程度なので、客観的にはなんとも言えません。とみたさんの指摘も間違いではありません。 
 竹取物語の伝承地(京田辺)も七夕の伝承地(交野)もともに生駒山北麓の東側と西側なので、混ざっていることもあるでしょうね。
> >竹取物語のルーツは雲南の班竹姫物語でしょう。雲南省は竹の産地です。
>
> 説1.中国の班竹姫物語が日本に伝わって竹取物語になった。
> 説2.日本の竹取物語が中国に伝わって班竹姫物語になった。
>
> の2つの説があって、現在では説2の方が正しいとされてるんじゃなかったかしら?
> 記憶違いだったらすみません。

[4204] 諏訪大社  ぽんた 2008/07/08(Tue) 20:20 [Reply]
神=ご神体を運ぶ時は御神輿に入れて運ぶわけで(諏訪大社の御舟祭では、舟に乗せて運ぶ)、柱は大きくて御神輿に入らないとしても、車に乗せて運ばないといけないでしょう。ところが、御柱祭の柱は地面を引きずられたり、坂から落とされたり(「木落し」)と散々な目にあわされます。これはなぜか?

諏訪は蛇を神として祀るミシャグチが支配していたわけです。そこにタケミナカタがやってきて、戦争となり、タケミナカタが勝って諏訪の新支配者となり、ミシャグチ一派は捕まって縛られて引き回された。その様子を再現したのが御柱祭の柱の引き回しでしょう。ミシャグチはタケミナカタをうらみつつ殺されて怨霊になったことでしょう。その怨霊に悩まされたタケミナカタは「御シャグチ神」として、祀ったわけです。(タケミナカタは、死後、軍神・建御名方命として諏訪大社に祀られます。)

タケミナカタが戦いに敗れたこともありました。破ったのは鹿島のタケミカヅチです。諏訪大社の御頭祭では、タケミカヅチに負けたことが、よっぽど悔しかったらしく、鹿の生首(現在は剥製)をずらっと並べます。(タケミカヅチは死後、鹿島神宮や春日大社の神となります。これらの神社の神の使いとされるのが鹿です。)

タケミナカタが恐れたのは、シャグチの怨霊です。また、タケミカヅチに破れた時、「今後は諏訪から一歩も出ない」と約束しました。御柱祭では、社殿の四方に柱を建てます。柱=蛇=蛇神・ミシャグチ神であり、タケミナカタが恐れたシャグチの怨霊によって、タケミナカタを社殿に封じ込め、諏訪から出られないようにしているわけです。(神無月に全国の神々は出雲に集まりますが(大国主の年忌法要に集まってくる?)、タケミナカタは諏訪から出られず、諏訪に残っています。)

[4203] 竹取物語  ぽんた 2008/07/08(Tue) 20:15 [Reply]
>竹取物語のルーツは雲南の班竹姫物語でしょう。雲南省は竹の産地です。

説1.中国の班竹姫物語が日本に伝わって竹取物語になった。
説2.日本の竹取物語が中国に伝わって班竹姫物語になった。

の2つの説があって、現在では説2の方が正しいとされてるんじゃなかったかしら?
記憶違いだったらすみません。

[4202] Re[4198]: 七夕の大筋  琉球松 2008/07/08(Tue) 13:42 [Reply]
 日本神話のモチーフは、朝鮮半島や中国大陸出自だと考えていいと思います。
 問題は、そのモチーフで何を語るかではないでしょうか?

 「七夕」からは、ヒルメが機織の部品?「梭」でホトを突いて死ぬシーンを連想しますがどうでしょうか。
 この場合の間接的犯人はスサノオでしょうけど、機織はたぶん「日の縦・日の横」の測量作業のように思えます。

[4201]  オンコ・創新      生田淳一郎 2008/07/08(Tue) 12:00 [Reply]
 福田総理は洞爺湖サミットで、温故知新をもじって温故創新と言ったそうです。これを聞いた北海道の多くのひとは「ああ、オンコをもじったな」と、思ったことでしょう。
 オンコとはイチイの木のことで、別名アララギで通っています。
 小生が商売でこの木の苗木を扱ったのは、 30年ほど前の 5〜 6年間です。
 函館駅ちかくの旅籠で、この木で作った床柱をみましたが、赤びかりして、それは見事なものでした。それでも旅籠の亭主は「200万円でした、安かったよ」と、言っていました。
 今では、もう、どんなに山奥に分け入っても、柱になるような大きさのオンコの樹木はみつからないでしょう。
 東北ではオッコ、ウックとも訛りますが、「オンコ売るときゃ家が潰れるときだ」と言いつたえて、代々オンコの木を育ててきました。カネになる木……、一種の保険です。
 留萌ちかくの旅籠では 1m ぐらいのオンコのぼくを鉢植えで育てていましたが、盗まれないようにと、その木の根もとに鎖をまわし、家の土台に結わえつけていました。

 今では台湾産のイチイ(オンコ、アララギ)が出回っています。台湾産のものは、北海道産のもとと較べると、目が詰ってなく、見栄えがどうも落ちるようです。
 「神降りる木」です。その語源は『アイヌ語地名考』にかきました。
 
★ 玄どん、がっかりさせてごめんなさい。明日までには『紋次郎・言語考古学』と『呑み屋の価値観』に関連を書きます。

[4200] Re[4197]: 柱  佐々木 2008/07/08(Tue) 11:27 [Reply]
ぽんたさん はじめまして
> 諏訪大社の御柱祭の「柱の意味」と「柱の先を尖らす意味」はまだ解明されていないのですが、
 円柱を一定の角度の斜面に縦方向にすべらせると、とんでもないことが起こるのです。おそらくそんな理由ではないかと拝察致します。

[4199] 機織機  佐々木 2008/07/08(Tue) 09:16 [Reply]
 とみたさん
 博覧強記とは、とみたさんのことでしたか。
 そうです八坂神社は旧暦の7月7日にちゃんと七夕祭をしています。
 機織機が以前あったので、覚えていますが、機織機の上部は糸が放射状に、まさに天の川の源流のよう、下は織布が出てきて川のごとく。
 機織機の部品名になにかヒントが隠されているのではないかと。
 絹織物を発明した人も、すごい人だなあといつも思います。
 先般古代の土木工法を読んでおりますと、かなり牛が付いた工法が多く、牛の重要性が理解できました。
 いろいろ勉強させていただいてありがたく思います。
 七夕祭りが、支配体制上いかなる意義があったのか、これがなぞです。
 ??住吉の??は何を暗示されて。

[4198] 七夕の大筋  とみた 2008/07/08(Tue) 06:37 [Reply]
佐々木さん

織姫と牽牛の話しの伝説は、後漢時代に造られた物語のようですが、そのルーツはもっと遡って詩経(中国最古の詩)にある感じです。それに後漢時代に引っ付けたのでしょうか。織姫は絹織物とすると、絹は古いですね。

上海の近くの上海蟹の名産地は、太湖ですが、このあたりは湖州といいます。紀元前2200年に滅びるのが良渚文明です。その時代の

絹の大量片が銭山様(木篇でなくシ篇です)で見つかっています。

長江下流の江南が絹の産地です。このあたりに織姫がいたような気がしますが如何でしょうか。

後漢が終り魏呉蜀の三国志時代を経て、内乱の五胡16国時代を迎えます。

南朝は江南の地ですね。百済は南朝の梁に朝貢して仏教を仕入れて日本にもたらせます。

その流れの中で、観勒という百済の僧侶も天文遁甲を日本に持ち込んだのではないでしょうか。当然、江南や漢水の地は道教の盛んな地ですから、神仙思想も流行っていたでしょう。織姫信仰は直接大和朝廷に入るか或いは北九州の宗像氏の織姫、機織信仰を天武が間接的に取り込んだかでしょう。推古時代に観勒がもたらした天文遁甲は道教系の風水も含んでいましょうから天武も利用できた筈です。こちらはツキヨミで、陰陽です。

東漢氏は漢人7族で中国のいろいろな集団を引き連れたとして、高句麗系の技術集団もいた。当然、測量(や鉄)の専門家もいた。日置氏もその中にいた、地理風水では測量は欠かせません。高句麗の徳興里古墳(409年)に七夕の織姫と牽牛が描かれ、天の川に懸ける橋は鷺の羽です。

八坂神社の鷺舞は八坂氏です。八坂氏は高句麗の出です。八坂神社でも七夕祭があるらしい(要確認)。
江南と高句麗は繫がっているようです。雄略の時代に、呉=江南に派遣するときは高句麗を経てゆきますね。身狭=見瀬=橿原の五条野?あたりに呉の機織職人を連れて来たようです。

桓武時代になっても、百済系の出自ですから、この信仰を取り込み利用するのは吝かでない。桓武は百済王族の多い枚方、交野あたりに郊祀壇を造り王権の正当性を誇示した。百済一族は機織神社を交野に置き、天野川と名をつけて七夕も行った。

これにて大団円としましょうか。

次は別の話しに??住吉が分かりません。

凡そこんな感じで眺めています。

竹取物語のルーツは雲南の班竹姫物語でしょう。雲南省は竹の産地です。



[4197]  ぽんた 2008/07/08(Tue) 05:37 [Reply]
本を読んでいて、「†」の記号を見ることがあります。
「参照」または「死没年」を示す記号で、印刷業界では、「短剣標」とか「短剣符」と呼んでいます。
「死没年」を示す記号なので、「†」は十字架、「‡」はロシア十字だと思っていたのですが、それぞれ「短剣標(短剣符)」「二重短剣標(二重短剣符)」というらしいです。十字架ではなく、剣だったとは・・・。
英語では「dagger」とか「obelisk」と言います。「dagger」は「短剣」です。(秋葉原事件で有名になった「ダガーナイフ」を直訳すれば、「短剣ナイフ」となります。「馬から落馬」のようなネーミングですが、「剣」を持つのは銃刀法違反なので、「ナイフ」を付けて、「剣じゃなくてナイフだから持っていてもいい」という言葉のあやでしょうか?)「obelisk」は神殿の前に建てられた記念碑です。「†」とは形が似ていませんが・・・。

PONTAでは、「文明はアジア南西部で生まれ、そこから全世界に広がった」という説を支持していて、この説が正しいとすると、日本にも、アジア南西部から文明が伝えられて、その痕跡が残っていそうですが・・・神社の鳥居の原形はオベリスクじゃないかと思ってオベリスクについて調べてみたのですが・・・神殿前の両側に建てられていると思っていたら、1本だけのこともあるし、蛇が巻きついた形のものもあって、どうもそうではないらしい。

そもそも「オベリスク」とは、ギリシャ人が「オベリスコ」(串)から勝手に名付けたわけで、本来は「テケン」(保護・防御)というそうで、その起源は、創造神アトムが降臨したヘリオポリスの丘の上に建つ太陽神殿の御神体の「ベンベン石」(天地創造の時に放出された創造神の精液が石化したもの)を模して作ったものだそうです。(古代エジプト語の「ベン」は「何度も生まれる」の意味で、「(太陽神にして国王の)ラーの霊魂」として知られているフェニックス(不死鳥)は「ベヌー」と呼ばれ、オベリスクに居るそうです。(オベリスク=鳥居ならば、その鳥はベヌー=太陽に住む八咫烏・金鵄になりますね。)また、オベリスクの先端部はピラミッド状の四角錐(ピラミディオン)になっていて、創建時はここに金や銅の板が貼られ、太陽光を反射して輝いていたらしいです。)

このベンベン石の話を知って思い出したのは、日本神話の天地創造です。天沼矛を使ってできた淤能碁呂島に太い柱を立て、それを中心に御殿を建て、その太い柱を両方から回って出会ったイザナミとイザナギが日本を生むという話です。淤能碁呂島=ヘリオポリスの丘、淤能碁呂島の太い柱=ベンベン石→オベリスクではないでしょうか? また、創造神=ベンベン石=オベリスク=石柱とすると、神の事を1柱、2柱と数える理由も説明できそうです。

諏訪大社の御柱祭の「柱の意味」と「柱の先を尖らす意味」はまだ解明されていないのですが、先輩は「柱=オベリスクで、オベリスクだから先を尖らす」と言っておられましたが、私は個人的には、オベリスク(王=神の偉大さを示す記念碑)というよりは、「柱=蛇=蛇神・シャグチ神で、先を尖らすのは、こっちが蛇の尻尾だと示すため」だと考えています。どっちが頭で、どっちが尻尾か、尖らせないと分かりませんよね?

[4196] Re[4194]: 七夕  佐々木 2008/07/08(Tue) 00:11 [Reply]
 とみたさん
 福岡と田辺の多々羅がなんとかつながったようです。
 天漢とは年号でなく、河川のほうでしたか。漢水はカラコラム探検隊のアーカイブを見ても見事な「天の川」です。
 牽牛はわかりましたが、織姫は何を象徴しているのでしょうか。
 関係はないですが竹取物語では織女は鶴でしたが。
 奈文研が先日新聞に出していた「ブレーメンの音楽隊」も鳥が上段でと牛馬が下段でした。

[4195] Re[4194]: 七夕  琉球松 2008/07/08(Tue) 00:06 [Reply]
 佐々木さんへ

 七夕(旧7月7日)は、祖先が一時帰郷?する盆(旧7月15日)のほぼ一週間前で、それにそなえるために墓の清掃、洗骨(現在は行っていない)を済ませるって感じです。

 しかし、本来7月中旬は女神(アマミコ=?ヤマトトトヒモモソヒメ)を奄美方向へお送りする祭りであったと推測しています。

[4194] 七夕  とみた 2008/07/07(Mon) 23:18 [Reply]
>佐々木さん

天漢とは天の漢水ということです。やはり長江の中流の支流が漢水というか、長江

と漢水が武漢(湖北省)で合流すると云うべきか。やはり七夕の発祥は漢水ですね。

漢水(漢江)には古代の巴人が住んでいました。

龍蛇を信仰する民です。長江の中流の三峡(ダムが造られたところ)は虎の信仰でした。その二つを合わせたのが巴人です。巴人はやがて西周の終わる頃に、楚人にやっつけられます。

楚も巴も広い意味での苗族です。〔4184〕で申し上げたように、宗像は機織信仰があり、中津宮では、七夕があります。

宗像が機織と関係がある証拠でしょう。宗像三女神の一人は織姫ということでしょうか。

男の牽牛星は、生贄の牛、つまり殺牛です。

>琉球松さん

沖縄では、洗骨だけと言うのは、お盆と繫がるのでしょうか。

七夕は盂蘭盆会に繫がるようです。




[4193] Re[4192][4190][4188][4185]: 七夕(続)  琉球松 2008/07/07(Mon) 23:12 [Reply]
 祭りのイベント化は、ここ沖縄でも進んでいます。

 しかし、本音は旧暦にあるという事も忘れずにいるのが救いなわけで、新暦と旧暦が併記されているカレンダーは人気ですね。

 ですから、『万葉集』なども旧暦で解釈しないとわけわからなくなりますね。

[4192] Re[4190][4188][4185]: 七夕(続)  佐々木 2008/07/07(Mon) 22:41 [Reply]
> 天の川なんてついぞ見たことがありません。旧暦の七夕の日に、晴れたら星空を見上げることにします。
 ぜひお庭で牛肉バーベキューでも(笑)。

 旧暦ですと小中学校が夏休みなので、いつのまにか新暦に揃いました。昔は本土も旧暦でやったものです。
 交野も天の川やら短冊で騒ぎ出しのは、昭和50年以降で、最近はかささぎ橋や、彦星おりひめ号ができまして。バレンタインデー、節分のまるかぶりと同じ現象です。

[4191] Re[4190][4188][4185]: 七夕(続)  琉球松 2008/07/07(Mon) 21:51 [Reply]
 いえいえ、批判とかではないんです。

 「七夕」に限らず、できるだけ多くの祭りを旧暦に戻したほうが、古代人の感覚に近くなると思うからなんですよ。

 沖縄諸島の「タナバタ」は、お墓の掃除がおもなもので、古くは洗骨を行う日であったようです。

[4190] Re[4188][4185]: 七夕(続)  とみた 2008/07/07(Mon) 21:43 [Reply]


>  今年の「七夕」は、新暦の8月7日で今日ではないですね。
>
>  かつての琉球圏では、織姫も彦星も天の川もタンザクもありませんでしたし、本土の皆さんも旧暦での季節感を取り戻してほしいものです。

済みません。旧暦の七月が本当でしょうね。

今日は洞爺湖サミットで、七夕の短冊に各首脳が願いを込めたのを,NHKで披露してましたので。ついつい・・・

東北は仙台の七夕は旧暦7月つまり新暦8月で、関東の平塚の七夕は新暦7月でやるようです。沖縄はやはり正統な旧暦ですか。

都会に暮らすと確かに季節感がなくなります。

天の川なんてついぞ見たことがありません。旧暦の七夕の日に、晴れたら星空を見上げることにします。





[4189] Re[4187]:  南部(甲府)の のっとり侍たちも    玄松子 2008/07/07(Mon) 21:30 [Reply]
いちいち反応するのも大人気ないので、これで終わり。

> あらま、おっしゃって、おっしゃって、おっしゃりまくるのね。

何が言いたいのかまったく理解できない。
どうやら、コミュニケーションはできないようです。

[4188] Re[4185]: 七夕(続)  琉球松 2008/07/07(Mon) 19:32 [Reply]
 今年の「七夕」は、新暦の8月7日で今日ではないですね。

 かつての琉球圏では、織姫も彦星も天の川もタンザクもありませんでしたし、本土の皆さんも旧暦での季節感を取り戻してほしいものです。

[4187]  南部(甲府)の のっとり侍たちも    生田淳一郎 2008/07/07(Mon) 17:51 [Reply]
あらま、おっしゃって、おっしゃって、おっしゃりまくるのね。
 一つには本が手許にないこともありました。 2m先の本棚にはあるのだろうと思いますが……。本を発注したときの控えのことを想いだしました。それによりますと、出羽弘明著『新羅の神々と古代日本』、同成社刊ですので、これで調べてくれますかぁ?
 小生のボケ記憶では新羅(シンラ)三郎義光だけではなく、八戸のっとりの南部衆も絡んでいて、稲の穂で言うたらスッカンポ(立ち穂)ですたい。
 同じように新羅神社、白木神社、白髭神社の名前を冠していますが、その中味は直接に百済とか新羅にかかわるものではなく、関わりあいがあるのは義光さんとか、これもやっぱ南部衆の甲府勢力です。
 こんなこと、もう、とうに誰かが言っていたと思うのだがナァ。

 オレの言いたいことの狙いの先は遮光器土偶です。遮光器土偶はめくら神です。それが日本歴史のうえでどんな活躍をしたのか。それを言語を手段として展開しやす。

[4186] 七夕から大伴家持へ  佐々木 2008/07/07(Mon) 16:40 [Reply]
 万葉集で七夕の歌を見ると11件。
 面白いと思ったことは、天の川が原文では「天漢」で一致している。
 また大伴家持が七夕と月読を一緒に詠んでいる。
 七夕は「織女」「棚機」「棚幡」「多奈波多」と安定しない。
 しかし七夕と漢の関係が読み取れる。
 つぎに占いで見ると、足占でまた家持が詠んでいる。
 日置氏でみると家持が日置氏と歌を2件詠んでいる。
 [4180] で神奈備さんが4006の歌を例に出されましたが、この歌に出てくる表現が具体的には検討中なので示せませんが、どうも東欧系渡来人の感覚の自然用語が出てくるのです。家持とは、大伴とは、さてまた日置氏とは。
 ちなみに大伴の南河内領地には佐備には忌部氏の関係の佐備神社もありまして。
 こんなの面白いことでしょうかねえ。とみたさん。

[4185] 七夕(続)  とみた 2008/07/07(Mon) 15:52 [Reply]
相撲は高句麗に壁画に描かれています。普通は地鎮の役割。道教マターでしょうか。

紀伊の井辺の古墳に相撲の埴輪があって有名です。

井辺は忌部氏、

忌部氏は黒潮に乗って、房総にやってきます。

房総や常陸では相撲は有名です。利根川下流域では、相撲神事が行われていました。

下総の船橋大社では、昭和に入っても相撲の行事が行われ喧嘩相撲が有名です。

七夕は、聖武天皇が730年に文人に命じて初めて、七夕の歌を作らせたようです。(続日本紀)

[4184] 七夕  とみた 2008/07/07(Mon) 15:32 [Reply]
ツキヨミは月の満ち欠けで占う。星も星占台で調べて天文
遁甲の術を用いるのが天武天皇です。

その前に推古朝に、百済の僧の勧勒僧が、五経博士として来朝したのは木簡に書かれているのが発見されていますから、事実でしょう。同様に曇徴などの高句麗僧も来ています。飛鳥寺(法興寺)が6世紀末に建てられたのも事実でしょう。

以上のように正規に公伝として入る以前に民間にはどうやら道教や神仙思想が、飛鳥以前に入っていた。東漢氏が測量技術や鉄技術をもった高氏など高句麗系の一族として日本に来て(続日本紀所載)いて伝えたというの私の推測です。

私は、事実と推測を峻別する流儀です。

今日は七夕の日です。

七夕と殺牛と機織がまた面白いテーマです。

七夕は後漢の時代に始まったらしい。発祥地は漢水・・・武漢で長江中流域に合流する河の流域。

高句麗の古墳である徳興里の古墳(409年)の壁画には、織姫と牽牛とそれが落ち合う天の川にカササギの羽の橋を描いています。

天武天皇は妻の一人として、北九州の豪族、胸形徳善の娘、尼子姫を後宮に入れ高市皇子を産んでから宗像氏は、中央政界に進出します。

沖ノ島祭祀は地方豪族の胸形氏の祭祀であったのを、天武が取り込んで航海神として利用したのではと思われます。宗像氏は女神が紡織具を好む信仰を持っていた、これは七夕の織姫に関わります。

沖ノ島の祭祀跡から金銅製の紡織具が出土するのが証拠です。

七夕は平塚にあります、ここは高麗神社があり、高句麗の一族が関東に入ったところです。

関西の枚方の天野川と機織神社と桓武天皇の謎もその延長にあるのでしょう。

二上山の近くの、當間の蹴速と野見宿禰の相撲は確か七夕の日です。

天羽槌雄神は二上山の麓に葛木倭文坐天羽雷神社で倭文の祖先を祀り、

天棚機織姫神が當麻寺で織物を織ります。

今宵は星を見たいが、曇天で見えません。


[4183] Re[4182]: 歯  玄松子 2008/07/07(Mon) 12:16 [Reply]
この掲示板読者の方々への冒涜、というか眼中にないのでしょうか。

>  玄どん、電話で話そうや

この発想・対応が理解できません。

「掲示板」にて発信された投稿に、「掲示板」にて公開質問しているのに、なぜ電話?

個人的な相談事をしているわけではありませんよ。

(この書き込みと[4182]は掲示板には相応しくないでしょう。いずれ削除を)

[4182]  生田淳一郎 2008/07/07(Mon) 11:42 [Reply]
 玄どん、電話で話そうや

[4181] Re[4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  佐々木 2008/07/07(Mon) 10:45 [Reply]
 神奈備さん ご指摘ありがとうございます。難波がどこなのか興味があって少し周辺から見ております。さて仮名読みで4006は、一部地名かなと思われるものを抽出してみました。
 ふたがみやま(二上山) さび(佐備) てたづさは(○○沢) いみづがは(石川??) たてるつ(盾津?) すめろきのをすくに(天皇食す国→淡路?)
 また河内部分を原文で確認すると「可布知」カフチなので、河渕でないかと思います。
 渕は伝承で河川の堤防が切れたところに出来る水溜りを示すそうです。
 これらを抽出するとなんとなく大伴領だった南河内石川流域かと思います。
 また射水川は、船で往来できる河川だったと詠まれておりますが、当時の自然環境を考えると無能河川のように思えてならないのです。
 河内のことを思い出しながら、越(中)で詠んで、それがそのまま地名に反映されたということもあるでしょうが。
 万葉集には、余四野という原文もありました。
 また原文で滝がさんずいかにすいかも注視すべきと最近感じたところです。

[4181] Re[4180][4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  佐々木 2008/07/07(Mon) 10:45 [Reply]
 神奈備さん ご指摘ありがとうございます。難波がどこなのか興味があって少し周辺から見ております。さて仮名読みで4006は、一部地名かなと思われるものを抽出してみました。
 ふたがみやま(二上山) さび(佐備) てたづさは(○○沢) いみづがは(石川??) たてるつ(盾津?) すめろきのをすくに(天皇食す国→淡路?)
 また河内部分を原文で確認すると「可布知」カフチなので、河渕でないかと思います。
 渕は伝承で河川の堤防が切れたところに出来る水溜りを示すそうです。
 これらを抽出するとなんとなく大伴領だった南河内石川流域かと思います。
 また射水川は、船で往来できる河川だったと詠まれておりますが、当時の自然環境を考えると無能河川のように思えてならないのです。
 河内のことを思い出しながら、越(中)で詠んで、それがそのまま地名に反映されたということもあるでしょうが。
 万葉集には、余四野という原文もありました。
 また原文で滝がさんずいかにすいかも注視すべきと最近感じたところです。

[4180] Re[4176]: 万葉に見られる難波の「よしの」について  神奈備 2008/07/07(Mon) 09:48 [Reply]
 佐々木さん、おはようございます。住吉の万葉の地勢を眺めている所での摂津の芳野論、こちらは目も眩むばかりです。

 京(みやこ)に入(まゐ)らむこと漸(やや)近く、悲しみの情(こころ)撥(はら)ひ難くて、懐(おもひ)を述ぶる歌一首、また一絶
4006 かき数(かぞ)ふ 二上山に 神さびて 立てる樛(つが)の木
   幹(もと)も枝(え)も 同(おや)じ常磐(ときは)に 愛(は)しきよし 我が背の君を
   朝離(さ)らず 逢ひて言問(ことど)ひ 夕されば 手携はりて
   射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば ・・・・・

 この歌は二上山・射水川がありますので、越中国(富山県)で大伴宿禰家持は詠んだものとされており、ほぼ確かなようです。
 富山県高岡市古城に式内の射水神社が鎮座、由緒に「伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。」とあります。
 そうしますと、「射水川 清き河内に」の河内は川の中や中洲のような場所を云うと解釈できます。

養老(やうらう)七年(ななとせといふとし)癸亥(みづのとゐ)夏五月(さつき)、芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首(ひとつ)、また短歌(みじかうた)
0907 滝(たぎ)の上(へ)の 三船の山に 水枝(みづえ)さし 繁(しじ)に生ひたる
   樛(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ
   み吉野の 秋津(あきづ)の宮は 神柄(かみから)か 貴かるらむ
   国柄か 見が欲しからむ 山川を 淳(あつ)み清(さや)けみ
   大宮と 諾(うべ)し神代ゆ 定めけらしも
反(かへ)し歌二首
0908 毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内(かふち)の激(たぎ)つ白波
0909 山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ち激つ滝(たぎ)の河内は見れど飽かぬかも

 これは『続日本紀』に、「元正天皇が養老七年(723)五月に芳野宮に行幸された。」とある記事と付合するようです。この芳野宮とか一体どこかいなとなりますと、摂津の芳野と云うよりは大和の吉野に軍配があがりそうです。

 いずれにしても、吉野地名は水との関わりが深いようです。吉野は よ+しの で よ は美称、元は しの とされ、しの は 『倭名抄』の吉野の四地域、加美、那珂、資母、與之努 の 之努 ではないかと、『天河への招待』の中で大山源吾さんが指摘をされています。

 神功皇后にまつわる伝承で、和歌山の天野祝と小竹祝のお話がありますが、小竹は しの と読みます。御坊の小竹八幡と紀ノ川沿いの志野神社が比定候補です。

[4179] 回答と月読  佐々木 2008/07/07(Mon) 09:42 [Reply]
★漢字のよみは万葉集の1274番は「住吉の出見の浜の柴な刈りそね娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む」番号を呈示しているので、暇があればそれ以外は追跡確認方。
★チョーズは東大寺修二会でも出てくる言葉ですが、お手洗いへ行くふりをします。チョーズもハッタと同じくサンスクリット語なのでしょうか。
★笠金村は氏名。それ以外はなぞの人。
★住吉は万葉集でも「住吉」であるが、読みは「suminoe」となっている。
★付録
 月読のことをトミタさんはしきりに言われていたので、万葉集でちとひらって見ました。かなりある方ではないかと感覚的には思うが。湯原王が目立ちます。
0670湯原王(場所不明、岡山県湯原?)
月讀之 光二来益 足疾乃 山<寸>隔而 不遠國
0671湯原王
月讀之 光者清 雖照有 惑情 不堪念
0985湯原王
天尓座 月讀<壮>子 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増
1075
海原之 道遠鴨 月讀 明少 夜者更下乍
1375
三空徃 月讀<壮>士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無
3245(場所不明:京都府宮津久美浜付近)
天橋<文> 長雲鴨 高山<文> 高雲鴨 月夜見乃 持有越水 伊取来而 公奉而 越得之<旱>物
3599遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌:天平8年(福山)
月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素<未>乃宇良由 船出須和礼波
3622従長門浦舶<出>之夜仰觀月光作歌三首:天平8年(倉橋島)
月余美乃 比可里乎伎欲美 由布奈藝尓 加古能己恵欲妣 宇良<未>許具可聞




[4178] Re[4177]:  インドネシア語の語源分析       玄松子 2008/07/07(Mon) 08:11 [Reply]
> ★ 東北の新羅神社は甲府の義光さん関係のものだと、書きました。

どこに書いたのですか?見当たりませんが。
まさか、他の掲示板に書いた?


> ★ 東北の新羅神社は甲府の義光さん関係のものだと、書きました。ご本人もいま頃は、お気づきになっていらっしゃることでしょうて。

「ご本人」が誰のことかわかりませんが、
東北の新羅神社の祭神が「新羅三郎源義光」であることは公式な由緒に記載されていることですから、気づくとか気づかないという問題でもありません。


で、以前の書き込みですが。
> 東北の新羅神社が三つしかないと言ったのは、わが数字音痴によります。また、小生が読んだ本で「三つしかない」と判断しました。御指摘あったサイトをみましたが、やっぱ、計10ヶ足らずです。滅茶異常です。これは、やっぱ、とりたてて「わいらは新羅系だぞ」という必要もないぐらいに新羅だったことを意味する。

「滅茶異常」とはどういう意味ですか? 少ないということですか?多いということですか?


○会話や質疑応答が成立しないのなら「談話室」ではありません。
○一つずつ進めて行きましょうよ。

[4177]  インドネシア語の語源分析       生田淳一郎 2008/07/07(Mon) 07:49 [Reply]
  佐々木さん、あの一連の漢字のむれは、なんと読むのですかぁ?

 佐々木さんがインドネシア語の井戸 sumur を呈示くださいました。
 インドネシア語には、そのほか sumber と perigi もあるようです。
 インドネシア語は二つの語幹が語彙構成の基本らしく、且つ、形容詞後置形ですので、sumur の ur は水らしい。また、sumber の ber も何かを語っているようです。 perigi の pe はギリシャ語やアイヌ語にも連なるようです。
 これらについての正確な分析は、小生の親友の、そのまた親友がインドネシアにいて、こちら日本から来る人びとに即成インドネシア語講議のインストラクターをやっていますので、乞う御期待です。年にいちどは日本に帰ってきます。まあ、あと半年、気長に。

★ 古代最高の繁華街だった住吉ですので、いろんなことばが巻きついていましょう。そこをドジ踏むを恐れずに、選り分け作業に驀進してみる姿勢がいちばん大事かと思います。
★ 手荒い水は、チョーズのほか、もう一つ読み方がありましたね。九州ではチョーズは便所のことです。お手洗いね。
★ 「いよしみず」の「いよ」だけでも「いよいよ良い」と解釈されていたのでは? これはネパール語の末尾辞 -llo から発達した概念で、日本語、アイヌ語で いや、いよ(弥)になっているかと思います。 -llo は「先行形容の傾向が一層顕著だ」だと見てとれます。
★ 笠金村とは人の名前でしょうか? kas(貴人<タジク語のひと)、村は mul(根源、水源)と、名前が雄弁に物語っています(酒のんだりしないで、ウソつかないで)。
  mul は mula としてインドネシア語にもありますが、借用語かもしれません。
★ 東北の新羅神社は甲府の義光さん関係のものだと、書きました。ご本人もいま頃は、お気づきになっていらっしゃることでしょうて。

[4176] 万葉に見られる難波の「よしの」について  佐々木 2008/07/06(Sun) 21:21 [Reply]
 今度は「よしの」ですが、奈良の吉野でなさそうなもの、大阪吹田の芳野を抽出してみました。
 当時の芳野は、千里丘陵が直接大阪湾が面し、断崖絶壁で東に伸びる砂堆が吹田大隈砂堆。いわばしるで有名な垂水神社付近に滝があって、たき津?(現在豊津)と呼ばれた。
養老7年笠金村0908
毎年 如是裳見<壮>鹿 三吉野乃 清河内之 多藝津白浪
河内のたぎ津?が出てくるので、吹田の芳野の可能性が考えられる。
養老7年笠金村0910
神柄加 見欲賀藍 三吉野乃 瀧<乃>河内者 雖見不飽鴨
芳野の滝とは吹田垂水神社の滝?
神亀2年笠金村
萬代 見友将飽八 三芳野乃 多藝都河内乃 大宮所
河内のたぎ津 大宮所は吹田高浜神社?
0960大伴旅人
隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧<尓> 尚不及家里
隼人が出てくるので大隈?芳野の滝は上同。
大伴の津は万葉集では高師の浜となっているので、吹田大隈だと考えた。
戦前には大隈神社あたりには鮎がたくさん居りました。
3233
三芳野 瀧動々 落白浪 留西 妹見<西>巻 欲白浪
白波が立つのは大阪湾に面した芳野?
たぎ津を吹田豊津と考える。これらすべての歌が系統化される。

◆住吉で神、水、井戸が出てくる歌
1274柿本人麻呂
住吉 出見濱 柴莫苅曽尼 未通女等 赤裳下 閏将徃見
住吉 出見(:出水)未通女(:巫女)
柴莫苅曽尼 未通女等赤裳下閏将徃見←現在ならセクハラ行為、人麻呂何を詠んでいる、だれがセクハラしているのか。
4243天平5年丹比土
住吉尓 伊都久祝之 神言等 行得毛来等毛 舶波早家<无>
住吉 伊都(:井戸)神言 
▲新羅の前には、蛭子もあったと記憶しているが。

[4175] Re[4169]:すみ(よし)の語源  かっぽれ 2008/07/06(Sun) 18:45 [Reply]
「住吉神社の語源」とは面白そうですね。
しかし、先日の「新羅神社」の話はどうなったのでしょうか?
私が言うのもアレですが、玄松子さんの興味深い書き込みRe[4141]に対する生田さんの回答がありませんね。私も待っているところです。
もしかしてお忘れかとも思い、再掲させていただきます。
>「滅茶異常」とは、少ない?多い?
>
>『平成祭データ』所載の新羅社は全国で17社(境内社含む)。
>東北4社、関東1社、東海2社、北陸1社、近畿4社、山陰1社、四国3社。

>ちなみに、白木は19社(東海2社、九州17社)。白城は北陸1社。
>
>さすがに九州には多いけど、東北が「滅茶異常」とは思えないのですが。

皆さんは生田さんの書き込みの参考になるようにと、時間を割いて調べているのですから、無視は失礼ですよ。
提案ですが、「新羅神社」を終えてから「住吉神社」にいきませんか?

[4174] i-os と tutu      生田淳一郎 2008/07/06(Sun) 18:31 [Reply]
 脇のほうで、出てきましたね、
 小判鮫みたいに、引き連れている、薄い関連、濃い関連をごちゃまぜにした「スミヨシ」は、やっぱァ〜、古いですね。

 インドネシア語を引っtぱり出したは、やっぱ、正解だったとの思い濃厚です。

 たまたまか、必然か、「井筒」が出ましたよね。
 そういう、強烈な想念はあっち・こっちにくっつくのですよ。
 
  Y氏に「既得深大概念」ということを漢字のまま、ナマで訴えたところ、やっぱ消化不良で理解できなかったらしいです。
 振り回されているとの、自覚には至らない自覚は、とてもだいじですね。


 筒井筒ということは、もろに男女の性器のことを謂っています。
 既得甚大概念ですね。そんなこんなで、ともかく、歴史のファイルをイナすこともできるんですナ。

 濃密セックスは、神奈備とか青草掲示板にはむきません。
 あとは『紋次郎・言語考古学』にどうぞ。

[4173] 吉水神社  佐々木 2008/07/06(Sun) 16:14 [Reply]
 吉水神社は奈良県の吉野にあります。
 吉井戸は、俳句で使用する事例があり。弘法清水吉井戸は富山にあり。
 吉井でもよいのでしょう。
 吉が神社ならは、神社の井戸から派生するものはチョウズ。
 アイヌ語で、近いものはないですか。
 全く関係ないですが、蝦夷で屋号で「吉井戸」があるらしい。

 問題の色は、茨木神社周辺でも名水としてありますが、方角とは無関係です。むしろ階級を表わしていると言えます。

[4172] 群がる関係ない語彙     生田淳一郎 2008/07/06(Sun) 13:39 [Reply]
 佐々木さん、有り難うございます。

 「吉井戸」とありますが、これは慣用されているのでしょうか?
 どういう意味でしょう。
 慣用されていて、発音が「よしいど」であれば、「神社の井戸」とぴったし。
 
 上中下の筒で信用できるのは「なかつつ」だけですね。意味は「くに創り」。あとは神官さんたちが酒のんでふざけて名前作ったんでしょう。こんなのに振り回されちゃいかんです。

 青は東、赤(紅)は南ですが、その中心地(黄色)と整合してましょうか。 
 “隅”の当て字はタガログ語系「火の神」をねらったのでしょうが、どうもサマになっていないような……。

[4171] 良い井戸  佐々木 2008/07/06(Sun) 12:18 [Reply]
 住吉は上中下の筒、つまり井筒と置く。
 井戸はインドネシアでは、sumur。
 とりあえず吉井戸となる。清む(sumu)の語源か?
 住吉大社は上町断層の付近にあるために、海岸べりでも湧水があります。
 住吉神社には蛭子も確認できます。
 墨江があれば、紅白などもあるでしょう。紅は阪神甲子園球場のところが紅州でした。白は大隅江口だと面白いですね。黄は万葉集では南区三津寺?付近で確認しました。青は神戸市東灘区青木。紫は・・・・。

[4170] 住吉 グッドタイミング論議に期待  とみた 2008/07/06(Sun) 11:28 [Reply]


住吉神社は祭神は筒男・・・表、中、底。

これは津守氏、海の民、

住吉は住の江で墨の江でもあります。

安曇か宗像か

墨が隅なら大隅や大住を連想する。大隅江は現在の新大阪の地です。

summusが井戸なら、上町台地なら神聖な水が湧き出る。生駒山からの伏流水。

住吉神社の前の海辺は禊をするところ。

大阪湾の砂州を利用して堤を築き潮汐を利用し、利水事業で干拓したのは渡来人

=江南デルタの開拓技術(大阪教委の小山内宏一さん)

summusはすぐ仏教の須弥山を思い出します。インドではメール山といいます。道教なら西王母の崑崙山。

頂点のサミット も思い起こします。(本日から洞爺湖サミット)

三韓征伐の神功皇后を祭ってから、応神の八幡神までくっついた神社。

論議の行方を見させていただきます。


[4169]  すみ(よし)の語源      生田淳一郎 2008/07/06(Sun) 09:28 [Reply]
  ないす・たいみんぐ。
 ながい間、小生は伊太祁曽様、熊野、王子、などといっしょに「住吉」の語源を追いかけまわしていました。伊太祁曽様、熊野、王子はなんとか思い込みまじりで納得できましたが、住吉の語源はやっとこさ、このごろ「これかナ?」にたどりついたばかりだったんです。
  住吉の語源を掴むには、清水の次郎長が「住吉よりも金毘羅のほうを高く評価したこと」を外しては考えられないと思います。司馬遼太郎さんもどこかで「民間信仰では、住吉さんは金毘羅さんには叶わなかった」を書いておられました。
 そこで小生が掴んだのがインドネシア語の *sum(源泉、井戸)でした。

 一時はラテン語の summus(最高の)にもこころを動かされましたが、住吉がラテン語発であったなら、次郎長や石松あたりから、こうも無視されてはいなかっただろうと思うんです。

 ことばというものについてだいじな見方を申し上げねばなりません。それはインドネシア語に *sum が一つあるということは、「 2〜3世紀あたりの言語分布では、それぞれ“違っている”と把握される言語群は 2000ほどあって、そのうちの少なくとも 300ぐらいの言語で、この *sum が遣われていた」という見方をしなければならない、ということです。
 ですから、うじゃうじゃと各種の言語がモザイク分布を呈していたマレー半島〜百越地帯〜江南では、30前後の *sum(源泉、井戸)がみられた……ということです。
 換言すれば、インドネシア語に“露頭”があったということです。

 インドネシア語に露頭があるということは、たとえば「朝鮮語に露頭がある」などということとは、評価面では、まるで意味合いがちがいます。既にあちこちで述べましたので縷説をさけますが、インドネシア語とはスンダランド爆発の中心地で、4〜7万年前からの継続を持つ言語なんです。

 「よし」は神社です。これについては『紋次郎・言語考古学』で追います。
 
 ただ、問題点は「住吉神社が歴史の途中で移動した事実はなかったか」でしょう。それと絡めて、この神社のわき水の地には、砂ではなく、数千万年前の微塵の堆積地層があったかどうか、です。砂地からわき出す水では、塩分がつよく、“神”にはならなかったのではないかと、見込めますが、事実はどうなんでしょう? 

[4168] 万葉集の住吉について  佐々木 2008/07/05(Sat) 21:00 [Reply]
 万葉集で住吉の場所を時系列と自然環境を確認してみました。
 粉浜から岸里あたりは浜辺。
 南加賀屋から浅香あたりは浦で上町台地を侵食する海食崖があったことになります。
     1274 西成区玉出 柿本人麻呂
     0121 住吉区浅香 弓削皇子 浅香の浦
706年 0065 西成区松?  長皇子
733年 4245 西成区津守または南区三津寺?
736年 0997 住之江区粉浜
     1148 西成区岸里
     1153 住之江区粉浜?
     1156 住之江区遠里小野
     1158 住之江区粉浜?
     1159 西成区岸里
     2646 西成区津守
     2735 西成区岸里
     3046 住之江区南加賀屋または浪速区敷津? 敷津の浦

[4167] 妄想 暮らしの中の素粒子 1       生田淳一郎 2008/07/05(Sat) 08:07 [Reply]
   もちろん、小生は物理化学のことは、ほとんどなんにも知らないし、日進月歩の進歩をとげている現代大脳科学にあって、小生が読んだ本は 4〜5年も前の本です。で、ここに書き出すことのほとんどには誤りが多いと思いますので、認識不足、錯覚、妄想や勇み足は、そのつどご指摘たまわれば有り難いです。
 われわれの文明は、分子レベルから素粒子レベルのほうへ流れているのか、じつにいろいろと考えさせられます。
 方向は定まっているのです。そして文明はアイディアとか思考方法論で、一切が決定される面が濃厚です。考えだけのことで、誤りだらけのことかもしれませんが、ここに棹さすのは有意義なことだと思い、妄想を試みるしだいです。

★ 茂木健一郎さんと天外伺朗さんの対談集を読んだことがあります。
 その本での結論みたいなところでは、「大脳科学は分子レベルでの考究は行きづまっていて、より正確を期すには素粒子分野の集積と、その視野が不可欠」というところでした。
 ところが、素粒子は科学の基礎前提ともいうべき計量が、いまの段階では、まったく期待できません。ま、お手挙げ状況です。ですから「 21世紀はこころの時代です」などといわれるのも、ことばだけのことであって、大脳の蓋はあけてはみたものの、精神活動の微細は依然としてナゾのまま……みたいなところで抛りだされているようです。

★ その対談を含めて、なぜ素粒子分野の集積が不可欠となったかは、神経細胞の、とくに軸索部分に、素粒子が深く関与しているとの事実把握から出たことだと想われます。
 神経細胞はふつう中央に広場があって、そこから 4〜5本の足みたいなのが伸びています。その足みたいなのが軸索です。
 染色体の研究にとって、ショウジョウバエが持っている巨大な染色体の存在が果たした役割は、科学全般に大きな貢献をしました。それと似た現象ですが、なんとかいう鮫が持っている巨大な軸索は、大脳科学にも長足の進歩をもたらしました。
 この鮫の軸索が示すところによれば、ここに集中したような形で素粒子が活躍しているとのことです。
 生命体とかDNAの始発には、素粒子が深く関与していた……みたい。

[4164] Re[4158]:同行内馴化の法則  かっぽれ 2008/07/04(Fri) 16:06 [Reply]
セム語はまったく不案内ですが、ちょっと調べればすぐ分る事柄ですね、これは。

>  どういうことかというと、あのへんの古代楔形文字は、みんな子音ばかりで書かれて残っているのではないかと、思えるのですが、このへん事実はどうなんでしょう。

シュメールの楔形文字は象形文字の性格を持っているので、一つの母音や子音を表すものではない。
その数は600程度。

>  ユダヤのヘブライ語は今でも子音だらけですよね。ソグド語も子音だらけ。
>  実際に、子音だらけの発音だったのか、適当に母音をまぶしながら発声したのか、そのへんのことは、詳しい研究家に訊いてみないと、なんともいえない領域じゃないでしょうか。

ヘブライ語(セム語)の構造を知れば納得できるはずですが。
基本の3文字に、付加する母音により品詞や用法が決定されていくので、母音は自動的に選択されるという。
このシステムを知らずに「ヘブライ語辞書を読んだ」とは、不思議な話ですよ。

[4163] Re[4162][4159][4153]: シュメール語辞書  佐々木 2008/07/03(Thu) 23:27 [Reply]
> 安全がシャロームやサラームに似ている、といっても向こうの言語同士の話。日本語とはつながりませんね。
 エル・サレムとは、安全地帯ですか。
 ハングルでは、「勉強」は、「工夫」です。だから考えることと、じっくりは同列のように考えました。
 日本語の「じっくり」「とろい」「しっかり」とかどこから来たのか??。

[4162] Re[4159][4153]: シュメール語辞書  かっぽれ 2008/07/03(Thu) 22:20 [Reply]
いやあ、佐々木さんの想像力の豊かさに感心するばかりです。
息子=maruあたりは、日吉丸とか牛若丸のイメージで何とかなるんですが、あとはノー。
安全がシャロームやサラームに似ている、といっても向こうの言語同士の話。日本語とはつながりませんね。
ま、酒の肴にちょうどいい話題かと。

[4161] Re[4156]: ヒッタイト語小語彙集  佐々木 2008/07/03(Thu) 19:54 [Reply]
> くやしいので次は、ヒッタイト語500語彙集。これも古い言語ですね。古日本語の参考になれば。
 ヒッタイト語は、ややヒスパニックに近いですね。マンハッタンかなと思う単語がありました。日本語の「くわ」・「か」がありましたね。
 シュメール語では1はイスタン、2はシナ、やはり自国の次は中国だったのですね。中国はすごい。
 

[4160] √・♪ ぼ〜くはイッチッチ 横むてイッチッチ ・♪   生田淳一郎 2008/07/03(Thu) 18:13 [Reply]
 *icc- とは「心身集中させて」ということです。イッショ・懸命ね。

 雌雄異体の生物は「今だ!」という瞬間をだいじにします。
 シャケが口開いたりして……。

 貝もなんらかの手段で“見えて”いるんですな。「今だ!」をやってら。

 また、謹慎せなあかんやろか?  真理のべるはしんどいばい。

[4159] Re[4153]: シュメール語辞書  佐々木 2008/07/03(Thu) 17:11 [Reply]
 かっぽれさんが折角紹介して頂いたので、どうかと思うものを列記してみました。
 イスタンブールのイスタンとは1番という意味だったのですね。
 タイの人の名前でハンタとは、早いという意味だったのですね。
 勉強になりました。
言葉     読み?       意味と備考
SIKKURU    シッカリ      ロックする
APPU     アップップデツマム 鼻
PALASU    パラス       壊す 切る バラス
ILATI     イラチ       女神 女神はイラチ?
ZIKRU     ジックリ      アイデア
SU      ス         垂直
ITTI     イッチ       いっしょに
AWATUM    アワタン      ことば 泡舌⇒口角泡飛ばす?
SUHARRURU   シャラッル     静粛 シャラップ?
SALASA    サラサ       乾いた
MAMMI     マンミー      神母 おかみさん?

[4158]  同行内馴化の法則       生田淳一郎 2008/07/03(Thu) 16:39 [Reply]
馴化のジュンは“準”だったかもしれません。が、俺、漢字音痴。
 同行内馴化の法則 とは川崎真治さんが創作したのかな? とにかく川崎真治さんの本に出ていて、まぎれもなく記憶にあります。
 どういうことかというと、あのへんの古代楔形文字は、みんな子音ばかりで書かれて残っているのではないかと、思えるのですが、このへん事実はどうなんでしょう。
 ユダヤのヘブライ語は今でも子音だらけですよね。ソグド語も子音だらけ。
 実際に、子音だらけの発音だったのか、適当に母音をまぶしながら発声したのか、そのへんのことは、詳しい研究家に訊いてみないと、なんともいえない領域じゃないでしょうか。

 同行内準化の法則(の発想)とは、そういう子音だらけの言語解釈に行き詰った研究者の悲鳴の一つではないでしょうか。
 たとえな、パピプぺポの同じ列内のものなら、「ポでもピでも、どっちでもいい」ということです。
 川崎真治さんは「ガシャーン・タテ」という発音を割り出し、これは「主神に、片手拝みにおがむ」だとの内意つけをしましたが、同行内準化の法則に拠れば、その発音はギシャ〜ン・チタでもゲシェーン・チツでもよかったわけです。

 考えてみたら、俺の人生には川崎真治さんの本を 読む時間帯が15年間もあったんですな。
 でも、あのメソポタミアとかエジプトあたりの言語と、極東の言語あたりの関係については、だれかほかの人びとが大勢携わるだろうと安心していましたので、読書での稔りはありませんでした。
 やっぱ、この目でそこの辞書を読むのがいちばんです。
 でも、川崎真治さんの後続は一人も育たなかったらしい。最後に鹿島昇さん、鳥取の古代語研究家と三人共著を出して大ミソつけたもんな。その鳥取のご仁が U.F.O.の文字をその本で出したんです。 

[4157] Re[4156]: ヒッタイト語小語彙集  佐々木 2008/07/03(Thu) 14:17 [Reply]
 シュメール語、「あっぷぷ」と言って鼻をつまんだり、のどが「からから」とか。近くないですか。

[4156] ヒッタイト語小語彙集  かっぽれ@休日 2008/07/03(Thu) 13:17 [Reply]
シュメール語で悟ったのはnasaqぐらい。生田さんのようにはうまくいきません。
日本語「情け」はnasaq(キス)かも? うーむ・・・深い!

くやしいので次は、ヒッタイト語500語彙集。これも古い言語ですね。古日本語の参考になれば。
《English - Hittite Dictionary》
http://www.mindfreedom.net/eng-hittite.htm

[4155] Re[4154][4145][4144]: ハッタ Re[4139]  佐々木 2008/07/02(Wed) 22:57 [Reply]
> サンスクリットで"krtta"が「切る、切り離す」という意味ですから、面白いことになりました。
 びっくりですね。時代劇の台本のセリフがカタカナ表記だったので。
> hatta 市、市場
 印象は、バナナのたたき売り。日本でもかつて市場ではこのような光景がありました。

[4154] Re[4145][4144]: ハッタ Re[4139]  かっぽれ 2008/07/02(Wed) 22:35 [Reply]
>  hata でしょうね。博打のハッタハッタと木札をたたきつけるのもやキッタ・ハッタも同じかも。
私は「はたく」が近いかなと思っていたのですが、それにしてもキッタ・ハッタは鋭いですね。
サンスクリットで"krtta"が「切る、切り離す」という意味ですから、面白いことになりました。

[4153] シュメール語辞書  かっぽれ 2008/07/02(Wed) 22:17 [Reply]
世界最古の言語の一つであるシュメール語。
その語彙の一覧表を眺めていますが、いまいちピンと来るものがないような。
参考のためにURLを紹介します。

《Sumerian Dictionary》
http://www.ping.de/sites/systemcoder/necro/info/sumerian.htm

[4152] Re[4150][4149]: 下関市彦島杉田岩刻画  佐々木 2008/07/02(Wed) 15:54 [Reply]
> 下関彦島の地に何故、岩絵があるか? 
 彦島の「彦」は、天皇を意味するのではないでしょうか。「島」は支配地とすれば、天皇直轄の施設があった。そこに文字がある。しかし古墳の可能性もある。
> 神夏磯媛という女性の首長が、榊の上枝に八握りの剣をかけ、中の枝に八タの鏡をつけ、下の枝に八尺の瓊(玉)をかけて白旗を船の舳に立てて仲哀に帰順の意を表しています。
 天皇直轄の神殿のような感じです。剣鏡玉は3種の神器ですね。
 仲哀天皇の二宮の中間点でもあり、これは神殿でしょう。
 神夏磯媛が何者かですね。
 

[4151] Re[4150][4149]: 下関市彦島杉田岩刻画  佐々木 2008/07/02(Wed) 11:59 [Reply]
 お付き合いありがたく。
 料理は不承知に候えば。
> 下関彦島の地に何故、岩絵があるか? 五十迹手が仲哀天皇を迎えて、降伏の儀式をした所です。
 彦島は戦中にかなり人手が入っているので、確かなことはわからない。
 仲哀天皇の豊浦宮が近いことから、仲哀さんの身内の古墳の石室の一部と拝察。
 岩刻画は、すべて(先)豊国文字的なアからンまでがほとんど刻まれて(絵のように見えるが)おり、形態的には神代文字の源流に近いのではと思われる(安閑石と比較して)。あまりうまくないでしょう。
 現在異説「茨田堤」を考察中です。




> 五十迹手は筑紫の伊都の県主の祖とされています。北九州に勢力を持っていたのでしょう。神夏磯媛という女性の首長が、榊の上枝に八握りの剣をかけ、中の枝に八タの鏡をつけ、下の枝に八尺の瓊(玉)をかけて白旗を船の舳に立てて仲哀に帰順の意を表しています。
>
> 日本では珍しい岩絵です。韓国には安羅伽耶の道項里の岩絵も有名です。
>
> このネタを上手に料理ください。
>
>

[4150] Re[4149]: 下関市彦島杉田岩刻画  とみた 2008/07/02(Wed) 11:15 [Reply]
佐々木さん 青草でお付き合いします。

私もこの下関市彦島の岩刻画に興味があります。

中央アジアの山地には岩絵(ペトリグラフ)が何千、何万とあり馬と太陽の祭祀の風景や、牛や馬がたくさん描かれています。

韓国には、大伽耶の高霊に良田洞がありその岩絵が有名です。この岩絵には同心円が描かれ太陽を表わしていると見做されています。太陽信仰を持っているのでしょう。
北方のシベリヤ・アムール川流域の岩絵に似ているとされています。

下関彦島の地に何故、岩絵があるか? 五十迹手が仲哀天皇を迎えて、降伏の儀式をした所です。
五十迹手は筑紫の伊都の県主の祖とされています。北九州に勢力を持っていたのでしょう。神夏磯媛という女性の首長が、榊の上枝に八握りの剣をかけ、中の枝に八タの鏡をつけ、下の枝に八尺の瓊(玉)をかけて白旗を船の舳に立てて仲哀に帰順の意を表しています。

日本では珍しい岩絵です。韓国には安羅伽耶の道項里の岩絵も有名です。

このネタを上手に料理ください。


[4149] 下関市彦島杉田岩刻画  佐々木 2008/07/02(Wed) 09:13 [Reply]
 安閑石の続きで、すでに解読?されているものを確認してみた。解読文はシュメール文字で「最高の女神が祭主となって、信託を伝える日子王が神主と共に、七枝樹にかけて大地母神に祈願する」と川崎真治氏。
 しかしぼやっと見ていると、豊国文字で単にアからンまでが並んでいるだけのように見えるのだが。安閑石もこれも元はどこかの古墳の石材だったように思うのだが。安閑石は、以前は橋桁だったようです。

[4148] Re[4147][4146]: 安閑の神代文字石  佐々木 2008/07/01(Tue) 16:43 [Reply]
 写真の右上が「オ」、右下が「ト」、左下が「コ」と読みました。
 正式な位置は上面の平面が左側縦と思います。
 蝶はまずアゲハ蝶の類だと思いますが、写真の下に見えるさなぎが付いている枝は橘かもしれません。

> >  滋賀県高島市安曇川町三尾里の箕島神社・安閑神社の神代文字石の解読をしてみた。豊国文字で想定しながら読むと、上段は「オ」「ト」、下段「コ」で、さなぎから蝶が羽化する様子が絵に書かれているように見える。
>
>
>  豊国文字には、大屋彦が作ったとか五十猛が作ったとの説があります。
>  興味津々、写真掲示板に安閑石を載せました。
>

[4147] Re[4146]: 安閑の神代文字石  神奈備 2008/07/01(Tue) 16:17 [Reply]
>  滋賀県高島市安曇川町三尾里の箕島神社・安閑神社の神代文字石の解読をしてみた。豊国文字で想定しながら読むと、上段は「オ」「ト」、下段「コ」で、さなぎから蝶が羽化する様子が絵に書かれているように見える。


 豊国文字には、大屋彦が作ったとか五十猛が作ったとの説があります。
 興味津々、写真掲示板に安閑石を載せました。

[4146] 安閑の神代文字石  佐々木 2008/07/01(Tue) 13:50 [Reply]
 滋賀県高島市安曇川町三尾里の箕島神社・安閑神社の神代文字石の解読をしてみた。豊国文字で想定しながら読むと、上段は「オ」「ト」、下段「コ」で、さなぎから蝶が羽化する様子が絵に書かれているように見える。

[4145] Re[4144]: ハッタ Re[4139]  佐々木 2008/07/01(Tue) 13:24 [Reply]
 松明を地面にたたきつけるときでした。
 hata でしょうね。博打のハッタハッタと木札をたたきつけるのもやキッタ・ハッタも同じかも。
 ありがとうございました。

> >  サンスクリット語で「ハッタ」とはどうゆう意味ですか、東大寺修二会で出てくるのだが。
>
> どれが適当か分らないので、何種類か書きます。長音の区別はなし。
> ※ hatha 力、強制
> hata 打つ(打たれる)こと 雷に打たれること。日本語ハタタと関係するかも。
> hatta 市、市場
>
> ※hatha ハタヨーガのハタもこれで、苦しいポーズを強制的に行うことからきています。
> 一般に言われているハ(太陽=吸う息)+ タ(月=吐く息)で「ハタ」は俗説と思われ。

[4144] ハッタ Re[4139]  かっぽれ 2008/07/01(Tue) 12:43 [Reply]
>  サンスクリット語で「ハッタ」とはどうゆう意味ですか、東大寺修二会で出てくるのだが。

どれが適当か分らないので、何種類か書きます。長音の区別はなし。
※ hatha 力、強制
hata 打つ(打たれる)こと 雷に打たれること。日本語ハタタと関係するかも。
hatta 市、市場

※hatha ハタヨーガのハタもこれで、苦しいポーズを強制的に行うことからきています。
一般に言われているハ(太陽=吸う息)+ タ(月=吐く息)で「ハタ」は俗説と思われ。

[4143] Re[4141]:  わ が 闘 争       玄松子 2008/07/01(Tue) 11:38 [Reply]
>  東北の新羅神社が三つしかないと言ったのは、わが数字音痴によります。また、小生が読んだ本で「三つしかない」と判断しました。御指摘あったサイトをみましたが、やっぱ、計10ヶ足らずです。滅茶異常です。

「滅茶異常」とは、少ない?多い?

『平成祭データ』所載の新羅社は全国で17社(境内社含む)。
東北4社、関東1社、東海2社、北陸1社、近畿4社、山陰1社、四国3社。

ちなみに、白木は19社(東海2社、九州17社)。白城は北陸1社。

さすがに九州には多いけど、東北が「滅茶異常」とは思えないのですが。

[4142] Re[4141]:  わ が 闘 争       佐々木 2008/07/01(Tue) 09:11 [Reply]
>  本流は ka(川)wa(ほとり)だと意識していたはず。十和田の wa(周辺)はアイヌ語にも。
 おお???明確に「ワ」か。具体的証拠の提出を希望したい。
 皮も同じなのか。カウは見たことあるが。
>  周時代の川は har が支配的だった……でしたか。
 タージマハール? 河原?ヒルコはいずこへ。
> 新羅を仮想敵とすることによって
要するに新羅調伏の八幡信仰?
> 生田さんは陋巷の野人です。それだけに伝統ある解釈が通じません。
 よく知っているよ。飯塚三○人だ。皆そう云って。 
 画面バックはOK。要するに、ほとんど盲なのよ。

[4141]  わ が 闘 争       生田淳一郎 2008/07/01(Tue) 07:31 [Reply]
  わが「ペ・言い出し」で三つのことが問題になっているのですかァ?
 一つは画面バックの色。これは機械音痴の小生にはなんのことか、わかりまへん。神奈備どんとか、玄どんにきいておくれ。わが機械がマッキントッシュの関係かな?

 二つめ、「川」についての古代発音。
 「カ・ハ」というは、一部の貴族で用いられた偏執であって、本流は ka(川)wa(ほとり)だと意識していたはず。十和田の wa(周辺)はアイヌ語にも。
 周時代の川は har が支配的だった……でしたか。大陸においても、時代によって呼び方がちがっているのでは? 漢口はハンコウ。「チチハル」あたりもこの類いで現代に伝えられているかと。har の r は n に転音します。現代朝鮮語 han(大川---だったか)。
 川、河は時代により、支配民族により、いろいろ言われてるんです。
 さらに詳しくは背景まっ白けの『紋次郎・言語考古学』に。

 三つめ、「新羅攻め=蝦夷征伐」のこと。ぜひ直視してたもれ。
 東北の新羅神社が三つしかないと言ったのは、わが数字音痴によります。また、小生が読んだ本で「三つしかない」と判断しました。御指摘あったサイトをみましたが、やっぱ、計10ヶ足らずです。滅茶異常です。これは、やっぱ、とりたてて「わいらは新羅系だぞ」という必要もないぐらいに新羅だったことを意味する。
 俊哲王については、しばしお待ちください。啓福王については、ゆめ疑うこと勿れ。宮城県涌谷町には大仏建造のとき、メッキ用の金を産出した黄金山神社これあり。
 新羅を仮想敵とすることによって、国内統一を計ったんやろが。そのとき、「新羅」といってしまえば、海の向こうの新羅本国を刺戟しすぎるので「蝦夷」と言い換えたんやろが。

 生田さんは陋巷の野人です。それだけに伝統ある解釈が通じません。よろしくゥ 

[4140] Re[4139][4138][4137]: 生田さん   2008/07/01(Tue) 01:38 [Reply]
>  かっぺれさん
>  ありがとうございました。やはりどっかの総長カレーではないですが、加齢現象でしょう。真っ白は××。

あ、それなら次の手を。
白黒の状態から「ツール」⇒「インターネットオプション」⇒「色」で好きな背景色を選べます。
今、辞書が手元にないのでサンスクリットについては明日にでも。


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