青草掲示板ログ平二十年 十月 2008.10 |
[4607] Re[4605]: 愛知県の語源 とみた | 2008/10/31(Fri) 12:12 [Reply] |
> 「愛知県」の語源は、県庁が愛知郡にあったことで、「愛知」の語源は、「あゆ」が「。尾張氏は、この小治田からの移住民でしょう。現在、尾張国内に「小治田」「年魚」という地名が、奈良の「小治田」「年魚」と同じ位置関係の場所にあるではないかと調査中です。 > *尾張氏は、後の愛智郡に本拠を置いた氏族で、現在の小牧市大字小針の周辺を開墾し、尾張氏を名乗りました。(尾張神社に『尾張名称発源之地』と刻まれた石碑があります。) ぽんたさん、愛知・尾張の探求、これも面白そうですね。私の実家も東海地方です。 JR東海道本線。岐阜ー木曽川ー尾張一宮ー稲沢ー清洲ー枇杷島ー名古屋 名鉄本線。岐阜ー尾張一宮ー名古屋ー熱田ー 支線で小牧や弥富にも行けます。 尾張一宮が尾張氏本社の真清田神社。 清洲や枇杷島は弥生時代は伊勢湾の入り江で朝日遺跡の環濠集落がありますね。韓国の西海岸の松菊里の竪穴住居の様式が使われています。 愛知県出身の海部首相は、海部の出身です。 海部は丹後の宮津の籠神社の祭神。 海部氏の系図が国宝。でもこれは丹後が丹波から分かれた713年以降に、国府の宮津の持ってきた。元は日本海の久美浜の海部の本拠だそうです。 ここから天日矛ガ落ち着いた但馬の出石には峠を越えると近いようです。 丹後と但馬と若狭の水手(船長)が、たくさん神功皇后の新羅征伐に応援に行ったご褒美に海部という名をいただいた。 尾張は飛鳥の豊浦の小冶田ですか。推古天皇の宮があったところ。甘樫丘の近くです。 大和葛城の高尾張邑も縁の地ですね。 籠神社の海部氏の系図と、尾張氏の系図はかなり共通しています。天火明=ニギハヤヒ→天香語山命→天村雲・・・→建諸隅命・・・得玉(魂)・・→建稲種命 香語山は香具山なら小治田にも近い。小治田という字は、墨書土器に書かれています。推古女帝の小冶田宮の近くに出た墨書土器です。 熱田はヤマトタケルの草薙の剣を祭る。尾張豪族と熱田神宮。尾張族の目子媛と関係があるのでしょうか、 尾張は美濃を通って九頭竜川から越前へあるいは近江から敦賀へ、そのあたりは東海勢が丹後・若狭の鉄を輸入した交易拠点です。継体天皇の縁の地ですね。目子媛と継体が結ばれて、宣化・安閑ガ生まれる。 愛知といえば琵琶湖の確か東岸にも愛知川(エチ)がありますね。この地名はどう解釈したらよろしいでしょうか。愛知県の名前と関係がありますか。 |
[4606] Re[4604][4603]: 無題 琉球松 | 2008/10/31(Fri) 08:57 [Reply] |
ぽんたさんへ だいたい、出雲圏、倭国大乱、邪馬台運動などは"東征"したと考えますね。 ただ、邪馬台国派への掃討は「タジマモリ」の常世国(奈良より西側)派遣かも。 |
[4605] 愛知県の語源 ぽんた | 2008/10/30(Thu) 19:21 [Reply] |
「愛知県」の語源は、県庁が愛知郡にあったことで、「愛知」の語源は、「あゆ」が「湧き出る」の意で、「湧き水が豊富な土地」の意とする説と、「足結(あゆ)地(ち)」の意で、「東国へ向かう旅の支度をする場所」の意とする説があります。「愛知は、古くは、「吾湯市(あゆち)」(当て字であり、「吾の温泉」の意ではない)、「年魚市(あゆち)」(当て字であり、「鮎の市場」の意ではない)、「愛智(あいち)」と表記されていました。現在の名古屋市南区辺りにあった入り海は「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれていたことから、古くは「あゆち」であり、「湧き水」説が有力とされていますが、「足結道」説支持者は、この地が「足結道」の意で「あゆち」と呼ばれ、後にそこにあった海が「年魚市潟」と呼ばれるようになったと反論しています。 PONTAは、「愛知(あいち)」は古代では「年魚道(あゆぢ)」であり、「東国へ向かう旅の支度をする場所」ではなく、「年魚へ行く道」の意だと考えています。この発想の原点は『万葉集』の3260番歌で、この歌には「小治田」「年魚」という地名が詠み込まれています。尾張氏は、この小治田からの移住民でしょう。現在、尾張国内に「小治田」「年魚」という地名が、奈良の「小治田」「年魚」と同じ位置関係の場所にあるではないかと調査中です。 *尾張氏は、後の愛智郡に本拠を置いた氏族で、現在の小牧市大字小針の周辺を開墾し、尾張氏を名乗りました。(尾張神社に『尾張名称発源之地』と刻まれた石碑があります。) *淡路島、淡路国の「淡路」は「(摂津国から)阿波国へ行く道」の意であり、「〜へ行く道」が地名になることはありえます。 |
[4604] Re[4603]: 無題 ぽんた | 2008/10/30(Thu) 19:15 [Reply] |
>同じ思想 日本の場合、新しい文化は西から東へと伝播したってこと? |
[4603] 無題 琉球松 | 2008/10/30(Thu) 18:10 [Reply] |
神奈備さん、ぽんたさん、ありがとうございます。 "伝承の発生地域を畿内に限定する必要はなく"・"同族であっても、同郷ではない" とは、ハッとさせられます。 ニギハヤヒもイワレビコも人とは思えないですから、時代は違うが同じ思想を表しているんじゃないかと考えました。 |
[4602] ニギハヤヒの正体 ぽんた | 2008/10/30(Thu) 17:54 [Reply] |
『先代旧事本紀』では、本名は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」としていますね。『先代旧事本紀』では、本名の一部の「天火明(アメノホアカリ)」と同一であるとしているようですが、アメノホアカリは、ニニギの兄(『日本書紀』の一書では「父」)ですから、ニニギのひ孫のイワレビコと会うことは、人間であれば、不可能に近いですね。 また本名の一部の「天照」から、「天照(アマテル)大神」(「天照(アマテラス)大神」誕生前の時代の太陽神)とも言われていますね。『秀真伝』によれば、ニギハヤヒの正妻は、水神の瀬織津姫です。 |
[4601] 饒速日伝承 神奈備 | 2008/10/30(Thu) 09:33 [Reply] |
饒速日命伝承については、畿内に渡来して半島系倭人集団の国作りの営みの中から、それぞれの集団毎の始祖神話が統合され、さらに海人族の海を渡り来る祖神伝承が習合して、饒速日命神話が整えられていったのではないかと推定されます。 従って、伝承の発生地域を畿内に限定する必要はなく、九州の遠賀川流域からも日向からも、石見からも、丹波丹後からも、それぞれの始祖伝承が各地から大和に持ち込まれて統合されて饒速日命形成されていったのでしょう。 日向 二子山速日峯 宮崎県東臼杵郡北方町巳259 早日渡神社「主神 饒速日命」 筑前 笠木山 福岡県鞍手郡宮田町大字磯光267 天照神社「饒速日尊」 丹後 冠岩 石見 物部神社 さて、饒速日尊の後裔は物部と云います。これは大王から「物を司れ」とされた部族名であって、彼ら本来の姓名ではないでしょう。鳥越憲三郎氏は姓を「越智」ではないかと推定されています。これは伊予国の小市国造が物部系、また河内で物部が最初に祭った神は後に恩智神社と呼ばれたことなど。 |
[4600] Re[4598][4593][4592][4590]: 歴史読本 12月号 ぽんた | 2008/10/30(Thu) 03:58 [Reply] |
>ニギハヤヒも、大隅半島サタ岬〜愛媛県サタ岬を経由してやってきたイワレビコと同郷との設定じゃないでしょうかね。 大隅半島サタ岬〜愛媛県サタ岬を経由して太平洋岸に勢力を伸ばした海人族が「アタ氏」ですね。吾田国(南さつま市)が本拠地。アタ氏の長がオオヤマツミで、その娘のコノハサクヤ姫と結婚したのがニニギで、そのひ孫がイワレビコですね。 イワレビコとニギハヤヒが同じレガリアを持っていたということは、同族ということですね。それで、琉球松さまは、ニギハヤヒがイワレビコと同じ吾田国に住んでいて、同じルートで大和入りしたとお考えになられたのでしょうけど、同族であっても、同郷ではないのです。離れて暮らしていたので、イワレビコはニギハヤヒのことを塩土老翁に聞いて初めて知り、レガリアを見せ合って同族と確認するわけです。同郷なら、何度も会っているはずですから、レガリアを見せ合わなくてもいいでしょうし、大和入りの時もニギハヤヒに連絡するはずで、ニギハヤヒが「故郷からイワレビコがそちらに行くからヨロシクと連絡が来た」とナガスネヒコに伝えて、すんなりと迎え入れられたと思います。 ニギハヤヒもイワレビコもスサノオの子孫で、同族ではあるが、ニギハヤヒは出雲で生まれて、出雲→北九州→大和で、イワレビコは南九州で生まれて、南九州→大和という独自のルートで大和入りしたとすると、スサノオの子孫が2系統あるってことで、これは、スサノオの妻が、出雲(ニギハヤヒに繋がる)と、九州(イワレビコに繋がる)の2人いたことであり、出雲のクシナダヒメが正妻で、九州の妻が邪馬台国の卑弥呼=アマテラスではないかと。 |
[4599] Re[4598][4593][4592][4590]: 歴史読本 12月号 ぽんた | 2008/10/30(Thu) 02:52 [Reply] |
> ニギハヤヒも、大隅半島サタ岬〜愛媛県サタ岬を経由してやってきたイワレビコと同郷との設定じゃないでしょうかね。 サタ=猿田彦の鼻(半島)の案内ですか・・・。 ニギハヤヒは物部氏の遠祖であり、北九州の物部氏をひきつれて移住したと考えると、 北九州→瀬戸内海を通って摂津 でしょうね。 ニギハヤヒがスサノオの子のオオトシであれば、 出雲→北九州→瀬戸内海を通って摂津 です。 |
[4598] Re[4593][4592][4590]: 歴史読本 12月号 琉球松 | 2008/10/29(Wed) 23:16 [Reply] |
ぽんたさんへ ニギハヤヒも、大隅半島サタ岬〜愛媛県サタ岬を経由してやってきたイワレビコと同郷との設定じゃないでしょうかね。 イワレビコの出自は薩摩半島南部、母(サメ)はさらに南の島だと考えますがどうでしょうか? |
[4597] Re[4596][4594]: ついでに ぽんた | 2008/10/29(Wed) 22:18 [Reply] |
> 「天の羽衣」は「天の羽車」の転訛だそうです。 ようするに、「三穂津姫命が天の羽車(はぐるま)から降りた」が「天女が天の羽衣(はごろも)を置き忘れた」となったってことのようです。 |
[4596] Re[4594]: ついでに ぽんた | 2008/10/29(Wed) 22:08 [Reply] |
「天の羽衣」は「天の羽車」の転訛だそうです。 |
[4595] Re[4592][4590]: 歴史読本 12月号 ぽんた | 2008/10/29(Wed) 21:58 [Reply] |
> 神々は瀬戸内海側から近畿にやってきたでしょうし、 ニギハヤヒはどこからやってきたのでしょう? 出雲→北九州→瀬戸内海を通って摂津 出雲→丹波→摂津 出雲→丹波→美濃→尾張→摂津 ・・・ |
[4594] ついでに ぽんた | 2008/10/29(Wed) 21:54 [Reply] |
「空を飛ぶ」というと、出雲国美保の大国主命(三穂津彦命)と三穂津姫命が新婚旅行で、羽車に乗って空を飛んで、駿河国の三保の浦に降りて、富士山を眺めたとか。現在、三保の松原に「羽車社」があります。(式内・御穂神社の本当の祭神は、社家の極秘伝によれば仲哀天皇だそうです。また、学説では、「羽車」とは「貴人が乗る車のこと」だそうです。) 三保の松原というと、天女が舞い降りたという戯曲で有名になりましたが、実際に天女の話が残されているのは、有度浜で、久能山麓「天羽衣神社」がその関連社です。(久能山は、有度山の5つの峰のうちの1つです。)また、秦久能が開山した山頂の久能寺(徳川・武田の戦乱時に焼失。現在は久能山東照宮が建つ)では天女の舞が舞われていたそうです。それを取材して、場所を風光明媚な三保の松原に変えて戯曲にしたそうです。 |
[4593] Re[4592][4590]: 歴史読本 12月号 ぽんた | 2008/10/29(Wed) 21:37 [Reply] |
> ぽんたさんへ > 「天の磐船」や、出雲の「鳥磐船」が空からやってきたのならロマンがあって楽しいんですけど、残念ながらそうではなさそうです。 ですよね。 今回は「歴史読本」の記事を紹介しただけです。 私の考えは、「天の磐船」は「天さん(天氏、天様)の丈夫な舟」です。 「天」というのは、失われた(隠された?)天皇家の人たちの苗字です。 |
[4592] Re[4590]: 歴史読本 12月号 琉球松 | 2008/10/29(Wed) 11:12 [Reply] |
ぽんたさんへ 「天の磐船」や、出雲の「鳥磐船」が空からやってきたのならロマンがあって楽しいんですけど、残念ながらそうではなさそうです。 その本名?は『 日本書紀・神代』の「天磐櫲樟船」でしょうから、クスの木製の丸木で、磐(神専用?)のように安定した立派な船との事なんでしょうね。 神々は瀬戸内海側から近畿にやってきたでしょうし、考古学では弥生後期〜古墳時代の船のようです。 |
[4591] オレ 音階オンチ 焼尻紋次郎 | 2008/10/28(Tue) 19:59 [Reply] |
オレ、音符を読めないし、また、表現できないんです。 でもね、日本にとって大事なことなので、なんとかしてその領域を突破して、この心情を伝えたいのアリマス。 ほ〜〜ホケキョ とウグイスはなきますよね。その音調で「アソウ タロウは」と言うてみてください。 次に、「ホ−〜ホケ」で、いちど発音を止めてください。 そして、ホケの“ケ”の音調のまま、「ケ〜」と、引っぱりましょう。 これが、宮古〜長崎〜薩摩〜津軽に固有かつ、排他的なイントネーションなんです。 もっと詳しく尻たいかたは 0120-94-1986 に電話して、オレの口から飛び出す音調をミミクソと交替させてください。 |
[4590] 歴史読本 12月号 ぽんた | 2008/10/28(Tue) 19:53 [Reply] |
巻頭カラーのニギハヤヒ命の「天の磐船」の写真を見たら、巨岩。巨岩に乗ってって・・・。空飛ぶ石なんて、隕石しかないですよね。そういえば、スサノオ尊=ハレー彗星説っていうのがあったような。 こういう本を見ると、すぐに自分の地域を見てしまうのですが、p.162「旧佐野郡は、今、小笠郡である」と注がありましたが、小笠郡は、もう無いです。今は合併して掛川市です。そういえば、全国一宮の本を買ったら、遠江国二宮は「湖西市新居町の二宮神社」とありましたが、新居町はまだ浜名郡で、現在湖西市との合併協議中です。 |
[4589] みなしゃん・みなしゃん 焼尻紋次郎 | 2008/10/27(Mon) 12:31 [Reply] |
大河ドラマ『 篤姫 』は空前のヒットだとか視聴率だとかですが、オレ、今回もあんまし見ない。 理由いろいろあるが、まんず、チンチクリンの篤姫、西郷隆盛です。 篤姫の着物の袖は 1m あったと言うし、隆盛が静岡の官軍幕営と京都を往復したときには、普通の駕籠や駕籠かきでは間にあわず、特別仕立てにしたという。 そのときの駕籠かきは、相撲取り四名がその任に当たったという。 大久保利通の少年時代の写真が残っているが、見ると立派なオセアニア型です。あ、オセアニア型というのは「巨体」ということです。 それに較べて勝海舟や坂本竜馬に扮した役者は大きすぎる。 ところで、みなしゃんは √ 宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ 知らないか トコトンヤレ トンヤレナ という歌はご存知だと思います。 この歌を観察して面白いことをみつけましたので報告に及びます。 「宮様に語りかけているのに、敬語を使わないばかりか“知らないか”などとぞんざいな口を利いている。 オレが訴えたいことはそういうことではなく、ここのメロディーを注意深く観察すると、薩摩や大村藩の固有のしゃべり口、すなわちイントネ一ションが顔を出していることに気づかされるのです。 次のように[ で二つの文字を囲みましたので、ここを注意深く歌うと、そのイントネ一ションが出てきます。 ピ〜ンとこない方は、放映中の大河ドラマでの、西郷さん、大久保さんの語り口を注意ぶかく聴いてみてください。 宮さん宮さん お「うま]の前に ひら[ひら]するのは 何じゃいな トコトンヤレ [トン]ヤレナ あれは朝敵 征[ばつ]せよとの に[しき]の御旗じゃ [しら]ないか トコトンヤレ トンヤレナ このしゃべり口(イントネ一ション)は「宮古島〜長崎〜薩摩〜津軽」で喋られ、日本ではここ以外では、喋られていません。 1年ほど前、オレ、わざわざ電話しておいたのだが、宮崎のマンゴー売りはもう津軽には行ったかな? 行ってないんだろうなぁ。こんなこと言うヤツは吉外しかいない紋ナァ。 この四地域だけで、女陰をマンジューち言うとです。 from アラビヤですと。アラビヤではマンゴーをマンジューち言うとです。 |
[4588] 難波の市 4 神奈備 | 2008/10/24(Fri) 20:15 [Reply] |
難波に都が置かれていようが置かれていまいが、おおいに賑わった地域だったものと思います。それは二つの水上交通の拠点だったからです。 一つは海上交通で瀬戸内海を通じて難波津や住吉津などに港があり、多くの船の出入りが出来たからです。 もうひとつは淀川を中心とする河川交通で平城京とつながっていたからです。 税金である調庸の物は近隣の国からは陸路で運ばれてきたのでしょうが、遠方の国からは海運が利用されたものと思われます。庸は米、調は綿が代表的な物でした。面白いのは太宰府から大量の綿が調として難波に運ばれていますが、米は庸としては運ばれていません。外国との窓口と言うか前線基地の役割があるので、兵糧米として持ち出しは禁止されていたようです。しかし、太宰府の官人以下の者達は米以外の物と称して持ち出したり、私物として持ち出していたようです。いつの時代にも官人は・・・ 難波には国家の財産となち調庸の物以外に官人や商人の持ち込む私物(商品)や神社寺院貴族への進上物も入って来ました。 調庸は平城京に運ばれ、ここの東西の市でさばかれることが多かったのでしょう。またその他の物資も運ばれたことでしょう。後の世の高瀬船のような川船が淀川を行き来していた姿が目に浮かびます。難波津は積み替えの拠点としても賑わったことでしょう。 摂津河内泉州の大消費地でかつ土器金属器などの生産地でもあったこの地域は多くの物資を飲み込んでいき、また吐き出してきた訳で、難波津・難波市は商いでも賑わっていたことでしょう。 難波に倉庫を持っていたのは朝廷だけではなく、貴族、寺社、商人などもそれなりの倉庫があったようです。 大安寺 摂津国西成郡長溝郷 法隆寺 摂津国西成郡等 東大寺 長屋王の子の安宿王の地所を購入 新羅江(難波堀江の北側) 新薬師寺 上記土地の一部を購入 漆部伊波 難波堀江の南側 |
[4587] 卜骨 とみた | 2008/10/23(Thu) 12:22 [Reply] |
卜骨について 卜骨は獣骨を焼いてそのひび割れで占う呪術道具でしょう。古代は占いが大変大切でした。 獣骨には鳥、鹿、猪、亀などいろいろ用います。 因幡の青谷上寺地の卜骨は、韓半島の南部の勒島(ヌクト)のそれと同じタイプで確か猪卜?らしい(要確認)。 壱岐の原の辻とカラカミの弥生時代の環濠遺跡ですが、鹿と猪の卜骨が出ています。 ところが古墳時代以降、亀卜が盛んになりました。 神祇官の中臣氏は、鹿卜が専門です。 中臣氏が卜占で地位を高めるために、壱岐・対馬の亀卜を取り込むべく、その勢力を配下に置いたようです。伊豆も亀卜で繋がっています。 因みに、中国の南部の貴州のトン族は鳥卜です。雲南も鳥卜でしょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 卜骨を追うと、古代史の謎が 少し解けるかなと思っています。 たとえば中臣氏は鹿卜なら、鹿の多い鹿島あたりから出てきたとか、壱岐の島のツキヨミ神が顕宗3年(487年)に、山代の葛野に分祀したのは、亀卜を畿内に持ち込んだことに関連するとか、しかも葛野は松尾神社の近くですから秦氏との関係がありそうだとかです。 |
[4586] 難波の市 3 神奈備 | 2008/10/23(Thu) 10:28 [Reply] |
市には色んな人間が出没していました。商人や買い物客は勿論、[4580] で述べたように盗人を始め、餓人、乞食、流民など。おしのびの貴族、中下級役人、好色者、売春婦、優婆塞夷などもいたことでしょう。 養老獄令には、「死刑は市で執行せよ。」とあります。市の南庭で執行したようです。死刑だけではなく、杖で打つ刑も行われたそうです。 また、『雄略紀十三年』に、「歯田根命が釆女と通じたので、罰として所有の資財を餌香市の橘の木のもとにむきだしにして置かせた。」とあり、見せしめでの民人への教育の場としての利用もなされていたようです。 餌香市は橘、阿斗桑市は桑、大和の海石榴では椿、軽市は槻、と言うふうに、市を象徴する木があったようです。難波市に似合う木はどのような木だったのでしょうか。生魂さんや大江神社では楠が目立ちます。「難波津に咲くやこの花・・・」は桜のイメージですが。 難波市の商品は、黒米、白米、海藻、塩、大豆、大麦、小麦、海菜、折薦、細縄、酒槽、臼、ひさご、篭、坏、高坏、皿、甕などが文献によって知れます。乾物や干し肉などもあったのでしょう。 材木や庭石などは大工経由というか、屋敷一式での取引だったのかも。 |
[4585] 難波の市 2 神奈備 | 2008/10/21(Tue) 20:58 [Reply] |
難波京には中心を南下する朱雀大路があり、難波京をはずれると難波大道となり、現在の大和川以南まで行っていたようです。それ以外に難波宮の西側を通る松屋町(まっちゃまち)通りがありました。天神橋から生魂神社の西側を通る道です。 余談ですが、近年の道路や地下鉄の表示は松屋町のルビに「まつや」としていますが、もっての他であり、先ず発音を重視すべきであり、漢字表記から逆に地名を強いていくのは文化の破壊だと思います。 松屋町筋から西は下っており、海岸に行き着きます。新鮮な魚も市に持ち込まれていたのでしょう。また既に四天王寺は創建されており、その為の行商人達も市に寄ってきたのでしょう。 難波市には何人かの市人がいたようです。市人とは取引を円滑に進めるための役割を果たしていたようです。聖武天皇が難波宮への行幸を検討する際に、役人が恭仁京にいた市人に賛否を問うている。市人の多くは恭仁京にとどまることを希望したが、一人だけ難波宮を主張したと『続日本紀』に記載があります。市人=商店街の会長。 市が出来るということは流通経済が発展していたことを示しています。この時代の官人は半年毎に綿・布・鍬などが支給され、月々には米・塩などの支給を受けていた。家庭に必要なもの以外は市で銭に替え、必要なものを買い求めた。 |
[4584] Re[4583][4569][4568][4564][4562][4559][4558][4557]: アマンチュー神話三題 大三元 | 2008/10/21(Tue) 20:44 [Reply] |
琉球松さん > それから、 熊本の「アマンシャグマ」は初耳です。またまた眠れない夜が続きます(笑)。 私は「しのみこ」周辺で眠れない夜を続け、やっと一段落です(^^) http://www.dai3gen.net/yashimajinumi.htm |
[4583] Re[4569][4568][4564][4562][4559][4558][4557]: アマンチュー神話三題 琉球松 | 2008/10/21(Tue) 09:57 [Reply] |
大三元さん、どうもどうも。 「ダイダラボッチ」にはいろいろといきさつがありそうですけど、人々の希望を体現しているんでしょうね。 それから、 熊本の「アマンシャグマ」は初耳です。またまた眠れない夜が続きます(笑)。 |
[4582] あ さ も よ し 焼尻紋次郎 | 2008/10/21(Tue) 08:31 [Reply] |
アサモは「希望のくに」、ヨシは「良い」と「神社」が掛詞されているかとおもわれます。 |
[4581] ご参加歓迎 神奈備 | 2008/10/19(Sun) 20:54 [Reply] |
八尾東史跡めぐり 10/26(日) <概ねのコース> 12:50 近鉄山本駅・北側に集合! ↓ (上本町発12:30発⇒河内山本着) ↓ 13:04 近鉄バス「山本」発→「大竹」着 ↓ 鏡塚 http://kamnavi.jp/en/kawati/kagami.htm 心合寺古墳 花岡山古墳 好太王の碑のレプリカとガラス越⇒兵馬傭三体 愛宕塚古墳 時間があれば玉祖神社 http://kamnavi.jp/mn/osaka/tamaoya.htm ↓ 近鉄「服部川駅」解散 2次会(納会)「鶴橋」 |
[4580] 難波の市 神奈備 | 2008/10/19(Sun) 20:53 [Reply] |
『続日本紀』延暦三年(七八四)五月十三日の記事 攝津職が言上した。今月七日の午前六時に長さ四分、色が黒い蝦蟇二万が難波の市の南道の南にある水たまりから三町近くの行列で道を南に行き、四天王寺の境内に入り、午時十二時に皆ちりじりになって去っていった。 難波の市は四天王寺の北側に置かれた市で現在の生魂神社付近から夕陽丘辺りとなるようです。西側は海に近く、さほど交通の便の良い場所ではなさそうです。難波宮は官が置いた市とも言われています。 『日本霊異記』の物語 河内国若江郡遊宜村に沙弥尼がいた。平群山寺に住んでいた。四恩のために像を描き、その中に六道を描いた。供養ののちに寺に安置し、六道の絵解きをしていた。 ところが、その像が盗まれ、哀しみ泣いて求めたが、とうとう見つけることができなかった。 難波に行って、市場を徘徊した。ここで発見して取り返したと言う。 大和の平群山の寺の尼さんも、盗品が売られるなら難波市と思ってか、探しに来ています。それほど賑わっていたということです。 考古学雑誌『葦火』によりますと、難波市跡と思われる土地から、土器に「米家」と書いたものや製塩土器が多く出土しており、生活必需品が商われたようです。 流通手段は銭のようです。綿や粗布を売って、米・海草・塩などの雑物を買うようなこともなされていたようです。 |
[4579] あさもよし 神奈備 | 2008/10/18(Sat) 20:51 [Reply] |
さて、前期難波宮(飛鳥時代)の付属倉庫の建物跡がNHKの地下にあるのですが、後期難波宮の倉庫跡は見つかっていないのか、これだとは断定されていない状態です。しかし、宮が置かれれば、倉庫は付き物だと思います。東方に出ている建物跡がそうかも知れません。 新羅使との交易の話が『買新羅物解』に記載されています。天平宝勝四年(752)のことです。新羅物に対する対価は麻の綿や糸が多く、特に綿が多かったそうです。 『続日本紀』には、神護景雲三年(769)、称徳天皇が由義宮に行幸した際、龍華寺で模擬市が開かれ、この寺に難波見たの綿二万屯・塩三〇石を施入しています。難波の宮に大量の綿が保管されていたようです。 なお、日本の麻の綿はその品質が優れていたのでしょう。 紀伊の枕詞は、あさもよし でした。 |
[4578] 前期難波宮(ぜんきなにわのみや)泉施設(いずみしせつ) 神奈備 | 2008/10/18(Sat) 20:51 [Reply] |
表題の遺跡が11月2日、3日に公開されます。 午前10時30分〜15時30分 毎時30分発所要時間15分 無料 |
[4577] Re[4576][4575][4574][4572][4570]: 知里幸恵文学碑 大三元 | 2008/10/17(Fri) 09:32 [Reply] |
神奈備さん > 大三元さん、真相ありがとうございます。 「・・・ではないか」と「推察」ですから、真相、とは考えないで下さい。 私はNHKのコメントが「なんというか」無思慮なのではないか、と思ってます。 > NHKの放送内容から見ますと、『アイヌ神謡集』に流れる思想のようにも感じましたが、 そのように「誘導」していた、と思います。 > 近年の知恵で記念碑ができたということ? 彫刻の制作者に任されたのでしょうから、制作者がどういう意図だったのか、NHKのコメントはそれを取材した結果なのか、が判らないとなんとも真相には迫れないと思います。 > アイヌに失礼な記念碑とも感じられますね。 私の第一印象と同じです。が、制作者の意図、という情報が抜けているのでなんとも、というのが今の感覚です。 |
[4576] Re[4575][4574][4572][4570]: 知里幸恵文学碑 神奈備 | 2008/10/17(Fri) 08:23 [Reply] |
大三元さん、真相ありがとうございます。 > 五段に積み上げられた石は、空・風・水・火・地を表すそうです。 NHKの放送内容から見ますと、『アイヌ神謡集』に流れる思想のようにも感じましたが、近年の知恵で記念碑ができたということ? アイヌに失礼な記念碑とも感じられますね。 |
[4576] Re[4575][4574][4572][4570]: 知里幸恵文学碑 神奈備 | 2008/10/17(Fri) 08:23 [Reply] |
大三元さん、真相ありがとうございます。 > 五段に積み上げられた石は、空・風・水・火・地を表すそうです。 NHKの放送内容から見ますと、『アイヌ神謡集』に流れる思想のようにも感じましたが、近年の知恵で記念碑ができたということ? アイヌに失礼な記念碑とも感じられますね。 |
[4575] Re[4574][4572][4570]: 知里幸恵文学碑 大三元 | 2008/10/16(Thu) 23:51 [Reply] |
神奈備さん、 私の疑問を番組のゲストであった小野有五さんに問い合わせてみました。早速に下記要旨のご返事がいただけました。 ・彫刻の製作者は、おそらく、ご指摘のような(五大のこと)考えで、それをデザインしたのではないか。 ・アイヌの方がたが、そういうことには、とくにこだわらなかったのではないか ・空・風・水・火・地は、アイヌにとってもそれぞれカムイだから、「累層構造」が重要なのではなく、1つ1つに意味を感じて、あの石碑を評価しているのではないか、との「推察」します、と。 (要旨おわり) 空・風・水・火・地 が特別に重要なカムイということでもないわけで、これらが特に重要であるとする須弥山の考えがアイヌにもあるような誘導はいただけないと思います。 |
[4574] Re[4572][4570]: 知里幸恵文学碑 神奈備 | 2008/10/16(Thu) 17:14 [Reply] |
> アイヌ文化にこれ(五大)がある、とは承知していないので、変だなぁ、と思いました。アイヌの天空観・世界観の例を私のサイトにあげてありますのでよろしければどうぞ。 > http://www.dai3gen.net/sagiri.htm 大三元さん、コメントありがとうございます。 飛鳥資料館 須弥山石 http://asuka.nabunken.go.jp/i/sayumi1.html 「知里 幸恵」文学碑 http://www.fukido.co.jp/inoue/bunhi4.html それにしても、須弥山石も五段積みだったそうで、記念碑とよく似ています。 |
[4573] Re[4571][4570]: 知里幸恵文学碑 佐々木 | 2008/10/16(Thu) 11:03 [Reply] |
> 五者祭との縁などあれば面白いのですが。 訂正します。 五車に関する祭(たとえば田名部まつり、尾張津島天王祭など)との縁など。。。 |
[4572] Re[4570]: 知里幸恵文学碑 大三元 | 2008/10/16(Thu) 10:38 [Reply] |
神奈備さん > 昨日のNHKで知里幸恵の『アイヌ神謡集』を取り上げていました。 私も見ました。 > 五段に積み上げられた石は、空・風・水・火・地を表すそうです。 > これはアイヌに伝わる世界のモデルなのでしょう。 調べてみましたら、印度哲学の「五大」という考え方のようです。ご参考: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7 アイヌ文化にこれ(五大)がある、とは承知していないので、変だなぁ、と思いました。アイヌの天空観・世界観の例を私のサイトにあげてありますのでよろしければどうぞ。 http://www.dai3gen.net/sagiri.htm |
[4571] Re[4570]: 知里幸恵文学碑 佐々木 | 2008/10/16(Thu) 10:32 [Reply] |
> 五段に積み上げられた石は、空・風・水・火・地を表すそうです。 これは下に車が共通してつきますね。五者祭との縁などあれば面白いのですが。 まあわがやの家計は、いつも火車でありますが。 |
[4570] 知里幸恵文学碑 神奈備 | 2008/10/16(Thu) 08:49 [Reply] |
昨日のNHKで知里幸恵の『アイヌ神謡集』を取り上げていました。 彼女の記念碑として北門中学校の前庭に建てられた知里幸恵文学碑について次のような解説がありました。 五段に積み上げられた石は、空・風・水・火・地を表すそうです。 これはアイヌに伝わる世界のモデルなのでしょう。 さて、斉明天皇が明日香に造った須弥山の同じ様な意味があると解説されています。仏教で言えば、有頂天・・・風輪・水輪・金輪・・と似ているようです。 往古に、このような考え方が大陸からアイヌに伝わったのかも知れませんね。 |
[4569] Re[4568][4564][4562][4559][4558][4557]: アマンチュー神話三題 大三元 | 2008/10/14(Tue) 21:16 [Reply] |
琉球松さん > 「ダイダラボッチ」に限定すると、悪質な側面はないようですね。 なんとなくファンなので安心しました(^^)。「ダイダラボッチ」という音が古代日本語っぽくないので、記紀あたりでの何に相当するのかなぁ、というのも興味あるところですね。 > そうすると、山と海の違いはありますが、奄美沖縄の「アーマンチュー伝説」とよく似ているということになりそうです。 熊本の「アマンシャグマ」と共通、ということがいわれているようですね。 「天探女」と似たような音だけど性格は全然違う。どっかで習合、混線しちゃったのですかね。 巨人伝説は、どこにでも発生可能なのだろう、となんとなく思います。どれが独自に発生したもので、どれとどれが系統的に関連するのか、ってのも面白い捜査プロジェクトでしょうね。 > 浜比嘉島の「シルミチュー(シロミキヨ)・アマミキヨの対語」が海をまたげずに死んだとの伝承がありますが、「ダイダラボッチ」が死んでしまうなんて話はあるんでしょうかね。 寡聞にして知りません。「シルミチュー」が海をまたげずに死んだ、という伝承があることもはじめて知りました。 |
[4568] Re[4564][4562][4559][4558][4557]: アマンチュー神話三題 琉球松 | 2008/10/14(Tue) 10:35 [Reply] |
大三元さんへ 「ダイダラボッチ」に限定すると、悪質な側面はないようですね。 そうすると、山と海の違いはありますが、奄美沖縄の「アーマンチュー伝説」とよく似ているということになりそうです。 浜比嘉島の「シルミチュー(シロミキヨ)・アマミキヨの対語」が海をまたげずに死んだとの伝承がありますが、「ダイダラボッチ」が死んでしまうなんて話はあるんでしょうかね。 |
[4567] Re[4566]: K女の霊魂 多美 | 2008/10/13(Mon) 23:27 [Reply] |
> ロスに何があったのか、この地はMが容疑をかけられているK女殺人の現場。そうすると答えは簡単、この地にK女の霊魂(霊恨)がとどまっていて、容疑者に取り付いたまでのこと。 人間、修羅場を潜っているうちに、ふと死を恐れない心境になるものです。 M容疑者も修羅場に疲れたのでしょうか。 これを怨霊とみれば・・・まさにK女の。 |
[4566] K女の霊魂 神奈備 | 2008/10/13(Mon) 15:59 [Reply] |
M容疑者がロスに運ばれた直後に自殺したことがお茶の間の話題にしろと言わんばかりにTVが流れています。自殺の原因は? と騒いでいるが、その説明はさっぱり要領を得ない。 ロスに何があったのか、この地はMが容疑をかけられているK女殺人の現場。そうすると答えは簡単、この地にK女の霊魂(霊恨)がとどまっていて、容疑者に取り付いたまでのこと。 と、誰かが解説しないかなと思いながらチャンネルを変えるのも面倒なのでTVを見ています。 |
[4565] Re[4563][4561][4560]: 小子部連鉏鉤 神奈備 | 2008/10/09(Thu) 22:45 [Reply] |
> E6月27日、尾張国司守小子部連鉏鉤は、二万の軍勢を率い、帰属。 失礼しました。 6月27日を17日と誤読していました。 > 日本書紀以外に何かあるのでしょうか。 ないと思います。 |
[4564] Re[4562][4559][4558][4557]: アマンチュー神話三題 大三元 | 2008/10/09(Thu) 20:29 [Reply] |
琉球松さん > これはしかし「目一つ鬼・タタラ・山姥・荒神」などまで広げられるとすると一理あ 論者が何を論じたいか、ということのように思えますね。「ダイダラボッチ」と表記された記録に関して(その周辺にも目を配りながらも弁別して)論ずるのか。「ダイダラボッチ、目一つ鬼・タタラ・山姥・荒神」などが同一・類似であるとして、その集合(習合でも良い)に関して論ずるのか。 |
[4563] Re[4561][4560]: 小子部連鉏鉤 多美 | 2008/10/09(Thu) 19:43 [Reply] |
> 天武軍は5月26日に朝明郡にまで来ていました。美濃からは男依がかけつけて不破を封鎖しています。所が小子部連鉏鉤はそれから20日も後の6月17日にやっと天武に帰属しています。この間は様子見をしていたのでしょう。 壬申紀には、 @天武元年5月、挙兵決意 A6月22日、挙兵を指示 B6月24日、東国へ出発 C6月25日 D6月26日 E6月27日、尾張国司守小子部連鉏鉤は、二万の軍勢を率い、帰属。 と、5月26日、20日後の6月17日・・・・というのが見当たらないのですが。 日本書紀以外に何かあるのでしょうか。 |
[4562] Re[4559][4558][4557]: アマンチュー神話三題 琉球松 | 2008/10/09(Thu) 11:42 [Reply] |
大三元さんとやり取りをしていると色々と鍛えられます。 「ダイダラボッチ」の印象は、映画『もののけ姫/宮崎駿監督(スタジオジブリ)1997』からのものですが、実際には「気は優しくて力持ち」との伝承が多いようですね。 これはしかし「目一つ鬼・タタラ・山姥・荒神」などまで広げられるとすると一理あるでしょうか? ちょっと「ダイダラボッチ」の粗探しをしてみたいと思います。 |
[4561] Re[4560]: 小子部連鉏鉤 神奈備 | 2008/10/08(Wed) 23:06 [Reply] |
> 壬申の乱の「小子部連鉏鉤」の戦後自殺について。 天武軍は5月26日に朝明郡にまで来ていました。美濃からは男依がかけつけて不破を封鎖しています。所が小子部連鉏鉤はそれから20日も後の6月17日にやっと天武に帰属しています。この間は様子見をしていたのでしょう。 徳川家康なら改易にでもしそうな優柔不断振りです。おそらく戦後処理の中で高市か男依に脅かされたのか殺されたのかも。 |
[4560] 小子部連鉏鉤 多美 | 2008/10/08(Wed) 18:48 [Reply] |
神奈備さん 壬申の乱の「小子部連鉏鉤」の戦後自殺について。 ある人の説 @サイチは、尾張国司であるが、和泉出身の多臣一族小子部氏の伴造家の出であり、韋那公磐鍬とは、主従関係にあったと推測される。 Aサイチ軍の半数は大海人に味方する者達で、サイチは全軍を掌握できなかった。 B大海人は尾張で養育されていた。 以上のようですが、ご見解を。 |
[4559] Re[4558][4557]: アマンチュー神話三題 大三元 | 2008/10/08(Wed) 17:11 [Reply] |
琉球松さん > ただ「ダイダラボッチ」とは違い、悪質な側面は皆無でしょうか。 ダイダラボッチに悪質な側面がある、のでしょうか。どんな伝承ですか? |
[4558] Re[4557]: アマンチュー神話三題 琉球松 | 2008/10/08(Wed) 09:22 [Reply] |
神奈備さんへ 祖母から聞かされていた「アーマンチュー伝説」は、ゴジラかなんかのようで「アマミキヨ神話」が肥大化したものですね。 ただ「ダイダラボッチ」とは違い、悪質な側面は皆無でしょうか。 僕のシマでは「あの小山はアーマンチューがトチッて土を落としたため」とか「あのくぼみはアーマンチューがコケてできた巨大な足跡」だとか言われます。 琉球方言での「キ」は「チ」のに転訛しますから「アーマンチュー」の「チ」の原音は「キ」。。。つまり「アマミキュ(アマミキヨ)」なのでしょう。「アラカキ(新垣)はアラカチ・キバレヨ(気張れよ)はチバリヨー・キョウ(今日)はチュウ」。 そう言うえば「ウルトラマン&ウルトラセブン」の脚本家金城哲夫の作品には、アーマンチュー伝説の影響もありますね。あるいは「怪獣(ダイダラボッチ?)にも言い分がある」ですかね。 |
[4557] アマンチュー神話三題 神奈備 | 2008/10/07(Tue) 13:11 [Reply] |
ポリネシア神話 天空の神ランギと地の女神パパ二神は抱き合って天地は息詰まるような暗黒。子神たちは耐えきれず、木の神タネ・マフタは天空の神ランギを遠く空へおしあげた。 ククノチ神話 茨城県布川市の布川神社の突舞神事。幾十万年前、人間が獣のように四つんばいではいずり回っていた。ここにククノチと言う大男がいきなり二本足で立ち、天空を突き上げた。この神社では「ククノチ無言の突舞」として神楽能の形で伝えている。 アマンチュー神話 むかし天と地がこんなに遠くへだたっていなかった。アマンチュウーという巨神があった。アマンチュウーはからだをおりまげ、くねらせてはい歩くよりなかった。こんな不自由なことはないと天をつきあげ、突っ立ってしまった。天(アマ)ん柱(チュウー)である。 |
[4556] Re[4553][4551][4548]: 渡来人言語問題 大三元 | 2008/10/03(Fri) 20:30 [Reply] |
神奈備さん > 大三元さん、琉球松さんの真っ当な姿勢、青草も大歓迎です。 進路ご指導ありがとうございます(^^) アマミコに対するシネリコを考えてみました。 http://www.dai3gen.net/amami4.htm |
[4555] *tal はさいてい 焼尻紋次郎 | 2008/10/03(Fri) 10:09 [Reply] |
ペルシャ〜全インド〜オセアニア全域にわたって、足は *pae といいます。 ネパール語に paytalo(足の裏)があって、この *tal が、大阪弁〜北陸・中越に広がっているダラ(最低野郎)の語源かと思われます。 ーtalo 末尾の o の根拠はわかりません。 tal が dar となるのは“強調”でしょう。 いずれにせよ paytalo は自転車のペダルに似いちゅう。 オ△マ掘りの好きな野郎なぁ〜んち、ばか tare ね。 |
[4554] ご参考までに 佐々木 | 2008/10/02(Thu) 20:18 [Reply] |
琉球松さん 以前から笠利のことを調べたいと思っている矢先に見つけました。ご存知ならば深謝します。 奄美大島の地名のことが少し書かれています。右のpdfクリック見ることが可能です。 但しこれページが逆転しています。小職にはちと見辛いので、とばいています。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000466694/ |
[4553] Re[4551][4548]: 渡来人言語問題 神奈備 | 2008/10/02(Thu) 11:03 [Reply] |
大三元さん、琉球松さんの真っ当な姿勢、青草も大歓迎です。 アホクサに似た言葉に「アホンダラ」があります。これは阿呆陀羅経から出たここば。 文化年間(1804から)大口斎呑竜が太融寺(大阪市北区)の門前で、「仏説阿呆陀羅経申す。釈迦も提婆(だいば 3世紀頃南インドにいた僧)も生まれた時には空々寂々で・・」と軽口をたたいての大道芸からの言葉。 ダラはグウタラのタラに同じ。 とは言え、論議が始まってしまえばゴシゴシも歓迎、想像、妄想、根拠なしも歓迎、但し、まぜこぜはややこしくなりますね。 |
[4552] 外国との交易 素人 | 2008/10/02(Thu) 00:03 [Reply] |
さらに、現実離れしますので青草で。 日本から交易に出かけていたのが、徐々に量が増えて来ると外国から鉄器への切り替えでダブついてきた、青銅器をピカピカに磨いて大量に持ち込んで交易でのぼろ儲けを狙う輩が登場したのではないでしょうか。この為に弥生時代に大量の青銅器が国内に入ってきたりしたのではないでしょうか。ピカピカの青銅器のままでは高価なので国内の交易で入手した自然銅などで増量して、光らない地味で固い青銅として手頃な売りやすい青銅矢じりや人気の有った銅鐸などに加工して付加価値を付けて商売を繁盛させたのではないかと夢想します。しかし、前漢では民生用であった鋳鉄製品の日本への導入のころに、これら海外との交易の主役が交代して他の勢力にこれら交易の富がシフトしたのではと夢想するこの頃です。鉄官が設けられて前漢代に国家が鉄を管理するようになり、鋳鉄製の鋳造製品が斧・鋤・鍬などに加工され大量に民生用に流通するようになったことと関係あるかも知れません。中国の国家との取引ですから中国語が出来る中国系の人たちであったかもしれません。 国内の鉱物・物産流通ネットワークは引き継がれたのでしょう。 素人のとんでも青草でした。 |
[4551] Re[4548][4547][4546][4545][4544][4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題 大三元 | 2008/10/01(Wed) 09:10 [Reply] |
琉球松さん、 ふと(?)思い出したのですが、ここは青草。あまり、ゴシゴシ討論するのでなく、想像、妄想を楽しむ余裕が必要だったのかも。趣旨、姿勢違いがあったらご容赦。 |
[4550] Re[4549]: 削 除 タ ム 神奈備 | 2008/10/01(Wed) 08:28 [Reply] |
> 神奈備どん、 4532 を見てみて。削除要請(部分)と 4530 を全文、削除ねがいます。そして、ここも。すまんのう。 4532 を見てみて。削除要請(部分) どこで要請していますか? 4530 削除済みですよ。 |
[4549] 削 除 タ ム 生田淳一郎 | 2008/10/01(Wed) 07:48 [Reply] |
神奈備どん、 4532 を見てみて。削除要請(部分)と 4530 を全文、削除ねがいます。そして、ここも。すまんのう。 |
[4548] Re[4547][4546][4545][4544][4539][4537][4533][4525][4524][4523][4520][4513][4512][4509]: 渡来人言語問題 琉球松 | 2008/10/01(Wed) 00:17 [Reply] |
久しぶりに大三元さんに会えたので、「アマミ」の事を聞いてみたかったんですけど、またグジャグジャにしてしまいそうです。 ご紹介のサイト等、腕組みしながら読んでいますよ。ワクワクするんですよね、こういうの。 ゴホウラ貝が日本本土に運ばれた時代の人骨については、形質人類学の立場での『日本人と弥生人/松下孝幸(NONBOOK・祥伝社)1994』と『土井ヶ浜遺跡と弥生人(土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム)1993』、沖縄県宜野湾市教育委員会の発掘調査記録などでだいたい想像ができます。***画像の一部をとなりの写真掲示板にアップしてみます。 |