青草掲示板ログ平二十年 十一月 2008.11
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[4660] Re[4654][4605]: 愛知県の語源  ぽんた 2008/11/29(Sat) 20:38 [Reply]
> 愛知の語源、いろんな説があって面白いのですが、その大昔、アイヌ族がちょうど今の滋賀県愛知(エチ)川辺まで住んでいたと言うことをどこかで聞いたことがあります。出所が探せないでいますが。。

愛知(あいち)の語源は、愛知(えち)より、阿智(あち)の方が近いかも。
東海道と越国への道の分岐点(あふち)ってことで。
以下は引用

阿知(阿智)の地名は『旧事本紀』に「天思兼命信濃国阿智祝部等祖(あちのはふりべがとおつおや)」とあるのが最初で、後世は会地・逢地(あふち)の文字をあて、道が出会う意味をもたせたようである。安布知神社の前宮司・倉田氏は「アチはあじさいの如く集まるの意で、阿知川沿の地域は東山道から東海地方に通ずる道の分岐点で、道が集まり会する所だから、会地または逢地の地名が起こった」と説明してくれた。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/111.htm

[4659] Re[4657][4656]: > [9619] Re[9618][9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱    佐々木 2008/11/28(Fri) 20:41 [Reply]
 住居の屋根の懸魚もスペードに似たもの、三つ葉がありますが、火伏せのまじないだそうです。水草である賀茂葵と愛称がいいですね。単に水が共通項なのでしょうか。また懸魚は四天王寺・薬師寺・法隆寺金堂にはないそうです。

 イチョウの大木と鴨族関連社ですが、比較的相関するような感覚を持っています。何か因縁があるのでしょうか。もちろんイチョウ自体は、日本に来たのは12世紀ごろらしいのですが。

[4658] 鴨脚  神奈備 2008/11/28(Fri) 15:10 [Reply]
 鴨の足もスペードの形なのでしょうが、鴨脚と書いて銀杏と読みます。葛城の一言主神社に大きい銀杏の木が神木として起立しています。丁度今頃が見所と思います。
 この一言主神も鴨族の祀った神だったと言うことでしょう。土佐を巡ってアヂスキタカヒコネの神と一言主神社が混乱しているのもむべなるかなです。

[4657] Re[4656]: > [9619] Re[9618][9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱  佐々木  佐々木 2008/11/27(Thu) 23:11 [Reply]
>  『三島湟咋』と言う本に、アヂスキのスキを広辞苑で引いたらスペ−ドと言う意味があると指摘しています。実際、調べますとあります。

「咋」で京都南部で気づくことは、京田辺市と井手町の間にあります木津川の川中島のような飯岡です。古代はそうだったらしいですが。
 飯岡には咋岡神社がありまして、飯岡(いのおか)地名の由来は咋岡(くいおか)とする説があります。現地からスペード?(刀剣のことか?)の印象はわかりません。
 しかし川に挟まれていた(だろう)点が、下賀茂神社の立地条件と似ていると思います。鋤の形が、賀茂葵の形に似ているのでしょうか?

 また飯岡には古墳が多く、孝元天皇皇子武埴安彦命、継体天皇皇子椀子王、継体天皇皇孫桜井王(欽明天皇皇子桜井皇子)、継体天皇皇孫(宣化天皇皇子)上殖葉皇子、継体天皇皇曾孫朱大王、欽明天皇皇后石姫皇女などの継体さん関係の古墳が多く立地しています。

[4656] > [9619] Re[9618][9617][9616]: 鴨集団と四世紀末の争乱  佐々木  神奈備 2008/11/27(Thu) 17:23 [Reply]
神奈備掲示板のテーマですが、青草話なので。

> 次に鴨族が隼人とするならば

 隼人が安曇族を形成し、それが鴨族になったと言うのは仮説としては有力だと思います。
 『三島湟咋』と言う本に、アヂスキのスキを広辞苑で引いたらスペ−ドと言う意味があると指摘しています。実際、調べますとあります。

> 上賀茂神社の社家には西村氏があります。

 この神社の神紋は賀茂葵で、葉はスペードの形、なにかあるのかな。

[4655] 諸事  神奈備 2008/11/24(Mon) 10:19 [Reply]
> 二上山の雄岳、雌岳、加古川印南野台地のオッコ(雄岡)山、メッコ(雌岡)山、男三瓶、女三瓶など、山には雌雄があるようですが、それと関係があるのでしょうか。それとも特定の魚類だったと思うのですが、雌だったのが、雄に変化したとか。

 オコゼと言う魚です。醜い魚ですから、山の神である山姥も美人に見えるとか。

 元来、山の神は祖霊ですから、男も女もありうると言うことでしょう。


 「怪異の民俗学」全8巻があります。そのシリーズの中に『憑きもの』と言う一巻があります。わざわざ一巻を当てるほどこの「憑きもの」はあまねく存在しているように思われているのでしょう。事例が大量に載っていますが、明々白々に狐・狸・犬と言えるのかどうかについては結論が出ていないようです。


 近江のエチは依智・愛智と書かれています。吉田東悟の『地名辞書』には、愛知川村大字市とあるように、「市」の意味としています。

 同書によりますと、愛知県は「和名抄」に阿伊知と注があり、「日本書紀神代」に、「是號草薙劔。此今在尾張國吾湯市村」とあり、「景行紀」に、「草薙横刀。是今在尾張國年魚市郡熱田社也。』とあるように、従来の語源説をとっています。ただ、その「アユチ」を田から水が沸き出していることを言うようです。ここでの「チ」は「市場」の「市」ではなかったのかも。

[4654] Re[4605]: 愛知県の語源  やすべー 2008/11/23(Sun) 18:49 [Reply]
こんにちわ、初めて書き込みさせていただきます。

愛知の語源、いろんな説があって面白いのですが、その大昔、アイヌ族がちょうど今の滋賀県愛知(エチ)川辺まで住んでいたと言うことをどこかで聞いたことがあります。出所が探せないでいますが。。

エチはアイヌ語で「あなたたち」、「ここからそちらはあなたたちの領地」みたくその大昔に取り決めがなされたとして、あの天井川みたいな小さな川を「エチ川」と呼んだとしたらロマンがあると思いませんか?(笑)

愛知県人として、このロマンに乗っかるとして、「あゆち」「年魚地潟」とかより、地名としては面白い「愛を知る」なんてせっかく変わった同じ字を使っているので、この地にもアイヌ族が生活していたんだと思ってみたいです。。

失礼しました。
 

[4653] Re[4651]: 山の神は女神  佐々木 2008/11/22(Sat) 22:40 [Reply]
>  『日本書紀』本文
>  皇孫はここに留まった。その國に美人がいた。名は鹿葦津姫。またの名は神吾田津姫、また木花之開耶姫。皇孫は美人に「汝は誰の娘ですか?」すると、「私は天神が大山祇神を娶って生まされた子です。」と答えた。

本件とは、異なる話題ですが、先の月読が京都に最初に鎮座した地名には、松室吾田神が一部含まれていました。梅宮大社との関係があるのかと少し愚考する次第です。

> さて、どちらが正しいのでしょう。

 二上山の雄岳、雌岳、加古川印南野台地のオッコ(雄岡)山、メッコ(雌岡)山、男三瓶、女三瓶など、山には雌雄があるようですが、それと関係があるのでしょうか。それとも特定の魚類だったと思うのですが、雌だったのが、雄に変化したとか。

[4652] 憑依(ひょうい)  素人 2008/11/22(Sat) 22:17 [Reply]
日本書紀とはほど遠い現実的な話ですが。
憑依(ひょうい)とは儀式などで引き起こされるトランス状態で、他の人格が現れたり、動物がついたりするとあります。一般的に、神懸り、狐ツキなど聞きますが本当にあるのでしょうか。
 こちらに書かれている神懸りとは全く違うものと思います。
 昔、フイルム映像で狐ツキを見たのですが、多数の女性が手をつないで廻っていると突然一人の女性が飛び跳ねだし、狐のように振舞ったのですが飛び上がったときの高さが異常に高く常人とは見えなかったことを覚えています。キツネにつままれた様な映像でした。
半信半疑でした。
つまらない青草の質問ばかりですみません。

[4651] 山の神は女神  神奈備 2008/11/21(Fri) 20:31 [Reply]
 『日本書紀』本文
天孫降臨のシーン 

 故皇孫就而留住。時彼國有美人。名曰鹿葦津姫。〈亦名神吾田津姫。亦名木花之開耶姫。〉皇孫問此美人曰。汝誰之女子耶。對曰。妾是天神娶大山祇神所生兒也。
(訳)
 皇孫はここに留まった。その國に美人がいた。名は鹿葦津姫。またの名は神吾田津姫、また木花之開耶姫。皇孫は美人に「汝は誰の娘ですか?」すると、「私は天神が大山祇神を娶って生まされた子です。」と答えた。

 『日本書紀』本文は、大山祇神は女神と言っています。一般に山の神は女神ですから、勿論それでいいのです。


 『古事記』
 ここに「吾(アレ)汝(イマシ)に目合(マグハヒ)せむと欲(オモ)ふは奈何(イカ)に」と詔(ノ)りたまへば、「僕(ア)は、え白(マヲ)さじ。僕(ア)が父、大山津見神ぞ白(マヲ)さむ」と答へ白(マヲ)しき。故(カレ)、その父、大山津見神に、乞ひに遣はしたまひし時、いたく歓喜(ヨロコ)びて、その姉、石長比売(イハナガヒメヒメ)を副(ソ)へ、百取(モモトリ)の机代(ツクヱシロ)の物を持たしめて、奉(タテマツ)り出(イダ)しき。

  『古事記』では、「その父、大山津見神に」とあり、明らかに男です。

 さて、どちらが正しいのでしょう。



 ついでに、天岩戸開きのシーン(『「古事記の真実」長谷部日出雄著』から)

『日本書紀』
 猿女君遠祖天鈿女命。則手持茅纒之矛。立於天石窟戸之前巧作俳優。亦以天香山之眞坂樹爲鬘。以蘿〈蘿。此云此舸礙。〉爲手繦〈手繦。此云多須枳。〉而火處燒。覆槽置〈覆槽。此云于該。〉顯神明之憑談。〈顯神明之憑談。此云歌牟鵝可梨。〉
(訳)
 猿女君の遠い先祖の天天鈿女命は、手に茅纒の矛を持って、天石戸の前に立って、巧みに踊りをした。また天香山の榊を頭飾にし、ひかげのかずらをたすきにし、かがり火を焚き、桶を伏せてその上に乗り、神懸かりになったように喋り踊った。

『古事記』
 天宇受売命(アメノウズメノミコト)、天の香山の天の日影(ヒカゲ)を手次(タスキ)にかけて、天の真拆(マサキ)を鬘(カヅラ)として、天の香山の小竹葉(ササバ)を手草(タグサ)に結(ユ)ひて、天の石屋戸にうけ伏せ、蹈(フ)みとどろこし神懸(カムガカ)りして、胸乳(ムナチ)をかき出で、裳緒(モヒモ)をほとにおし垂れき。

 この二つの文章の具体的さですが、明らかに『古事記』にあります。さらに、「この具体的さは女でなければ書けないのではないか」と言うのが長谷部さんの主張です。稗田阿禮を女性とする主張です。
 面白い見方と思いました。

[4650] Re[4649][4648]: 神社サイト  ぽんた 2008/11/18(Tue) 00:00 [Reply]
> 狛犬の隣に「猫ちゃん」とは、ポンタさんらしい(笑)。ですね。
名は体を表す。
TOP画像はサイトの顔であり内容を表す。

TOP画像を何にするかってすっごく悩みます。

[4649] Re[4648]: 神社サイト  多美 2008/11/17(Mon) 22:01 [Reply]
> 神社サイトがあった方がいいといわれたので土日で作ってみました。

狛犬の隣に「猫ちゃん」とは、ポンタさんらしい(笑)。ですね。

名も無く貧しく美しい神社の紹介、よろしく!

[4648] 神社サイト  ぽんた 2008/11/17(Mon) 20:44 [Reply]
神社サイトがあった方がいいといわれたので土日で作ってみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/indexjin.htm

[4647] Re[4646][4644][4643][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  琉球松 2008/11/17(Mon) 18:28 [Reply]
大三元さん、レスありがとうございます。

 与那国方言は、琉球方言の中でも特殊で、例えばヤ行がダ行に変化する特徴を持っています。
 「ヨナ」が「ドゥナ」に、「ヤマ」が「ダマ」。。。って感じですね。

 "「ヤマ」を「国」の意味に使う例" 。。。もうちょっと探してみます。
 祖母は中国を「トウぬヤマ(唐の国)」と言っていました。

[4646] Re[4644][4643][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  大三元 2008/11/17(Mon) 16:00 [Reply]
琉球松さん

>  聖地など特別な場所を「ヤマ」と称する資料を集めてみました。

もともとは琉球松さんが「琉球方言の「ヤマ」が、しばしば「国」をも意味することを考えると」と書かれたので、「ヤマ」を「国」の意味に使う例(〜根拠)をお尋ねしたものです。「聖地」ではなく。これでは更に「聖地」=「国」の根拠をお尋ねせねばならなくなる。

なお、「与那国の「雨乞いの歌」には「だま とやま かんぬまい(山、十山御嶽の神の前)」は別の意味で面白いです。というのは、「だま」と「やま」の関係で、ツングース諸語の damban が日本語の「やま」の源だ、という説があるからです。与那国にその原型が残存している、、、とでも言えるのかもしれない。

[4645] Re[4644][4643][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  佐々木 2008/11/15(Sat) 10:29 [Reply]
> 佐々木さんへ
>  沖縄島の神歌には "「ヤシロ」の港" ではなく「ヤヲのみなと」ですね。
>  ただ、大和川や淀川流域にも立ち寄ったかもしれません。

 正確には、ヤマト泊、ヤシロ泊、ヤヲ泊、ヤウ(またはヤヲ)のみなとですかね。
 山城にも玉造(八幡市岩田)がありますね。

[4644] Re[4643][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  琉球松 2008/11/15(Sat) 09:39 [Reply]
佐々木さんへ
 沖縄島の神歌には "「ヤシロ」の港" ではなく「ヤヲのみなと」ですね。
 ただ、大和川や淀川流域にも立ち寄ったかもしれません。


大三元さんへ
 聖地など特別な場所を「ヤマ」と称する資料を集めてみました。

 『沖縄県の地名(平凡社)2002』八重山郡竹富町「玻座間御嶽(ハザマオン)」より
***(略)玻座間御嶽の神は屋久島から渡来し、首長根原カミトノが創祀したという。この由来は竹富島の歴史と外部の交渉を語ったものとして注目され、現在でも種取祭をはじめ島の祭祀で繰返し語られている。六御嶽はムーヤマ(六山)と称される。また、六御嶽に国仲根所・西塘御嶽を加えたのがヤーヤマ(八山)で、島の年間祭祀のほとんどがムーヤマ、ヤーヤマを中心に行われる。***

 同書、八重山郡与那国町「十山御嶽(トウヤマウアン)」より
***(略)与那国島にある12の御嶽を統括する御嶽として創建されたといわれ、島では最も格が高い。12所の御嶽のうち、2所は他の御嶽に併祀されているところから全山(御嶽)で10山になるという。(略)なお与那国の「雨乞いの歌」には「だま とやま かんぬまい(山、十山御嶽の神の前)」とあり、この神に求めて雨を乞う内容となっている。***

[4643] Re[4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  佐々木 2008/11/14(Fri) 20:52 [Reply]
 琉球松さん
>  ただ、「ヤマト」の対語として出る奄美沖縄の神歌の「ヤシロ」は熊本県八代とするよりも、京都山城の可能性が高いのですが。。。

 京都で「ヤシロ」の港と考えられうる場所としては、淀川流域で、淀津があります。今は競馬場で有名ですが。
 淀津は京都盆地南部に、かつてあった巨椋池にあった港のひとつです。
 淀津には、かつて「伊勢御門社」があり、その鳥居が池の中にあったようで、ヤシロの港と呼称していた可能性があります。

[4642] Re[4641][4640][4639][4638][4637][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  琉球松 2008/11/13(Thu) 09:56 [Reply]
 大三元さんへ

 これは祖母の教示です。。。が、やはり証拠のようなのがあるかなと捜索中です〜。

 また、「北山政権(沖縄北部〜奄美・中山政権(沖縄島中部&宮古)・南山政権(沖縄島南部)」など、この場合は中国語「サン・ザン」に近い音なんでしょうけど、とにかくも文字の「山」にも音の「ヤマ」にも「国・地域」を意味する匂いは十分あるわけです。

 ただ、琉球方言としての「山」は一般的に「ムイ(盛・森)」で、「ヤマ」は「平地・荒れ地」などを意味しますから、「ヤマ」はすくなくとも山岳ではないですね。

 大三元さんに腕組みをさせてみたいので、今しばらく頑張ってみます(笑)。

[4641] Re[4640][4639][4638][4637][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  大三元 2008/11/12(Wed) 23:54 [Reply]
琉球松さん

「琉球方言の「ヤマ」が、しばしば「国」をも意味することを考えると、」とあったので、典拠がおありかと思いました。松さんのお考えなんですね。根拠を探索中、ってこと?

[4640] Re[4639][4638][4637][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  琉球松 2008/11/12(Wed) 18:17 [Reply]
 大三元さんへ

 「邪馬台国・大和・山城」などの「ヤマ」が「国」に相当する意味を持っているのでは?。。。なんて考えました。

 琉球方言の「ヤマ ≒ 国」の情報を探してみますので、しばらくお待ちを。。。

[4639] Re[4638][4637][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  大三元 2008/11/12(Wed) 17:53 [Reply]
琉球松さん
>  たぶん、"山城地方では「やましろ」と言っているのだが琉球の人が「やしろ」と受け取った" のが真相に近いと思います。

このように「ま」が抜ける例(誰だ、マヌケなんて云うのは(^^))が挙げられると良いのですが。

>  ついでですが、「山城」の語義は「山後ろ」との説がありますね。大三元さんのお考えはどうでしょうか。

辞書にはそう書いてありますが私は疑問視しています。この地名の初見が「山代」、ついで(7世紀になって)「山背」(「うしろ」という語源意識は伺える)、平安時代になって「山城」だそうです。(それで「城」に「しろ」という訓が生じた、という。)
私はしばらく「山代≒山手(山の方、とか、山の処)」と考えておきます。

>  琉球方言の「ヤマ」が、しばしば「国」をも意味することを考えると、「ヤマ(国)タイ」の後ろ側の地との解釈も成り立ちそうです。

「琉球方言の「ヤマ」が、しばしば「国」をも意味する」例を教えて下さい。上記のお考えの場合の「タイ」は何の意味でしょうか。なお、少なくとも奈良朝の日本語ではこのような二重母音になっていないはず。

[4638] Re[4637][4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  琉球松 2008/11/12(Wed) 14:13 [Reply]
 大三元さんへ

 たぶん、"山城地方では「やましろ」と言っているのだが琉球の人が「やしろ」と受け取った" のが真相に近いと思います。

 ついでですが、「山城」の語義は「山後ろ」との説がありますね。大三元さんのお考えはどうでしょうか。

 琉球方言の「ヤマ」が、しばしば「国」をも意味することを考えると、「ヤマ(国)タイ」の後ろ側の地との解釈も成り立ちそうです。

[4637] Re[4633][4624][4622][4619]: 邪馬台国  大三元 2008/11/12(Wed) 10:31 [Reply]
琉球松さん

>  熊本県にも「ヤシロ(八代)」があります。

「おもろさうし」などで「山城」と書いてあるのは全て「やしろ」と読んでいるようです。
・山城地方でその土地のことを「やしろ」と言っていて、それに「山城」を宛てたのか。
・山城地方では「やましろ」と言っているのだが琉球の人が「やしろ」と受け取ったのか。
・「やしろ」が正しくて京都(など)の「山城」のことではない、のか。

[4636] Re[4635][4611]: 邪馬台国論  多美 2008/11/12(Wed) 08:47 [Reply]

> これだから俄か歴史学者は辞められない。笑。

江戸の”そば通”が、言ったとさ。

『死ぬまでに一度でいいからタップリ汁をつけてソバを食いたい!』

東大、京大の歴史学者は「そば通」と同じであります。

呪縛金縛り、に対抗する第三学者「新京都学派」も通の道でしょうか。

安本美典氏、屈折の通人と言う説もあるらしい。

俄か人は、何でもアリ!

ソバの煮込みもOKです。

[4635] Re[4611]: 邪馬台国論  隼人 [Url] 2008/11/12(Wed) 08:04 [Reply]
> 映画「まぼろしの邪馬台国」公開
>
> 3日午前10時すぎ「まぼろしの邪馬台国・公開直前スペシャル」放映。
> 邪馬台国研究第一人者として安本美典氏登場。

この性でしょうか。
吉永小百合様の放映が多い。
ダビングに多忙だわ。笑。
1回しか録画できないから厄介ですね。
録画サーバーパソコンもフル稼働で。
(再度最初から見る羽目になります)

> 安本氏は、邪馬台国の物的証拠は難しい、状況証拠による「再現性」だ。と言っていました。
>
> 推定有罪的?というこでしょうか。

最近、我がサイトにもちょっと追記しました。
鹿児島神宮の摂社の場所に「卑弥呼神社」があるのですよ。
それで本居宣長等「古事記伝」らを借りて読んでますが。。

案外、沖縄辺りじゃないの??って。
面白いですね。
南西諸島からは日本最古の遺物も幾つか出てますしね。。
これだから俄か歴史学者は辞められない。笑。

[4634] Re[4632]: PONTA  多美 2008/11/12(Wed) 07:04 [Reply]
> ぽんた=PONTAです。

ぽんた=PONTAは、タヌキオヤジ(家康)からでありますか。

岡崎は花札バクチ用語に多く引用されているようであります。

”空家にカブ”これは岡崎城のことかと。”岡崎は女郎屋のカブ”繁栄の証し。

駿河からの富士山の眺めは甲斐よりいい!

カイで見るよりスルが良い(笑)。

多彩なご趣味?

恐れ入りました。


[4633] Re[4624][4622][4619]: 邪馬台国  琉球松 2008/11/12(Wed) 00:16 [Reply]
 熊本県にも「ヤシロ(八代)」があります。

 八代亜紀さんの古里だそうですが、「ヤシロ」はあちこちにヤマほどあって断定は難しいでしょうね。

 ただ、「ヤマト」の対語として出る奄美沖縄の神歌の「ヤシロ」は熊本県八代とするよりも、京都山城の可能性が高いのですが。。。

[4632] PONTA  ぽんた 2008/11/11(Tue) 00:31 [Reply]
ぽんた=PONTAです。
名前の欄にローマ字が入力できないためにひらがなになっています。
神社関連サイトは、資料はたくさんあるのですが、超巨大サイトになって、制作にかなりの年月がかかりそうなので(笑)、ありません。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/indexphoto.htm
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/manyou.htm
にちょっと載せてありますけどね。

[4631] 人糞科学  多美 2008/11/10(Mon) 12:02 [Reply]
 >平安京は町中が糞尿の臭いに満ちており、天皇の行幸には、隼人が犬吠をしながら先導して汚穢を攘ったそうです。

「神奈備掲示板」神奈備さんの記述、

上品で格調ある神奈備さんの記述に「糞尿」を発見、同掲示板に書き込みは穢れと思い、こちらにしました。

10年ほど前、糞に関する情報収集し、一時、仲間うちで盛り上がっていました。

この分野は人文科学ではなく人糞科学であ〜る。(笑)

何でも、古代遷都に糞尿問題が大きく関係していた。
日本で初めて、糞尿リサイクル方式を確立したのが「京野菜」である。
「平中物語」の糞尿と香との関係。
江戸時代には、糞尿は肥料として有料であり、特に武家屋敷の糞は各藩ランク付けにより価格差があった。庶民のそれは安価。

「陰影礼讃」に、便所は薄暗い方が良い明るい大理石などでは落ち着かない。

CMソング開祖三木トリロウ(ミツワ石鹸CM)氏は「健康的うんこを鑑賞する会」を主宰し仲間同士、毎朝便通情報を交換していた。ある時、いたずらで竹筒に糞を詰め込んでトコロテン風に押し出し和風トイレにそっと置き、仲間に『すごく立派なヤツがでたので見にきて』と、やってきた仲間『とてもこの世の物とは思えない』

・・・・。

失礼しました。

[4630] Re[4629]: 薩摩  多美 2008/11/10(Mon) 10:50 [Reply]
> さっき、「篤姫」を見ていたら、「薩摩」という言葉が何度も出てきて思ったのですが・・・

薩摩からみれば、徳川など「成り上がり」と、思っていた?ということでしょうか。

イギリス人には、アメリカに対して「何れひれ伏す時が来る」という考え方(水瓶座の謀議)があるらしい。

名門とは、200年以上の繁栄の歴史が必要とか。

薩摩も名門ということでしょう。

[4629] 薩摩  ぽんた 2008/11/09(Sun) 23:51 [Reply]
さっき、「篤姫」を見ていたら、「薩摩」という言葉が何度も出てきて思ったのですが・・・

高天原のリーダーとなった天照大神は、日本(葦原中国)を支配させようと、その子のアメノホアカリ(天火明命。ニギハヤヒ)をとばして、孫のニニギ(瓊瓊杵尊。1説では天火明命の子ではなく、弟)を高天原から高千穂に降ろします。(ニギハヤヒも別のルートで降臨。)ニニギは、吾田国(現在の南さつま市)の笠狭碕で吾田族の首長の大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、ホオリ(山幸彦)が生まれ、ホオリの孫がカンヤマトイワレヒコであり、日向国から船出して大和国入りし、先に大和入りしていた天火明命(ニギハヤ)と和解し、初代天皇・神武天皇となるわけです。

つまり、高天原から最初に降りてきた神は、薩摩の女性と結婚し、その子孫が天皇家ということであり、薩摩藩の人からしたら、天皇は、「同郷人」という意識があったのかもしれません。

これに対して、徳川家の出自は、賀茂神社の御師ですから、高天原のリーダーである天照大神を祖とする天皇家より位が低いわけです。もちろん、徳川家も黙っていません。徳川家康は、「東照神君」(東照宮の神)になりましたし、家紋の三つ葉葵も神を越えたことの象徴です。(賀茂神社の社紋は二葉葵です。二葉葵は実在する植物ですが、三つ葉葵はこの世には存在しない植物です。)

[4628] 口直し 囲碁 談義  神奈備 2008/11/08(Sat) 19:09 [Reply]
 学生時代からの友人に宝塚市で最強とされる囲碁アマチュアX段がいまして、卒業以の対局をやりました。こちらは社会人になってから殆どやっていなかったので、40年間の研鑽の差がでました。三目で負け、四目で勝ち、との結果でしたが、弛めていたように感じました。

 囲碁では正倉院に1200年前の碁盤などが保管されており、聖武天皇も愛好したとのこと。
 平安時代には宮中でも盛んになったようです。
『続日本後紀』巻一天長十年(八三三)三月壬寅《十五》◆壬寅。天皇御紫宸殿。賜群臣酒。有圍碁之興。

 要するに、醍醐天皇の住まいである紫宸殿では、今の囲碁クラブ以下の酒を飲みながら興じていたようです。


 奈良時代に戻りますが、長屋王の陰謀に関してのお話。

『続日本紀』巻十三天平十年(七三八)七月丙子《十》◆丙子。左兵庫少属從八位下大伴宿祢子虫。以刀斫殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人。初子虫事長屋王頗蒙恩遇。至是適与東人任於比寮。政事之隙相共圍碁。語及長屋王。憤發而罵。遂引劔斫而殺之。東人即誣告長屋王事之人也。

 子虫は長屋王に仕えていて、厚遇されていたようです。たまたま東人と碁を囲む機会があり、話をしていたら、長屋王のことに及び、東人は長屋王を陥れた誣告をしたことが露見、子虫が東人を斬り殺したと言うこと。

[4627]  yamat- siro のくに     焼尻紋次郎 2008/11/07(Fri) 06:39 [Reply]
 そう、やましろのくにとは、(よろこぶ)人びとの集り(yamat)の sir-o であ〜る。

sir-o の o はいまいちはっきりしませんが、神とか男の謂いだったのが、習慣化されて、陸地のことを 「しろ」というようになったんだと思います。苗代の「しろ」とか「しろがき」が近似をみせているかと。
yamat がそのまま、普通に開音(母音づけ)された語形が「やまた」で、連合体の神を意識下においた語形が、 yamat-o だと、小生には思われます。
 「やまつみ」は、そういった集合(体)の yamat の(tsu)神(mi)ではないでしょうか。

 yamat 末尾の t は、最初の段階では、この日本では口内音として発音されていたでしょうが、後世では普通は「やま」と言いならわし、なにかの拍子に、ふたたびこれが利いてきて連音(リエゾン)をおこしていると思われます。

 各地にあった人びとの集まりは“やま”と呼ばれていて、その象徴は、日頃は武器庫。これが嵩じたのが神社だったり城だったと推察されます。嵩じる前のことを想ってみればいいかと。
 日本語の山(mountain)は、アラビヤ語の ya bal(山)との概念と発音のせめぎあいの中から、これも習慣化されたものと見受けられます。ya bal は沖縄にヤンバルとなって遺っているようです。yanbaru の n は、 b の前の発声の助音 m が起源でしょう。

 後世になって、お寺や炭坑をヤマといっていますが、上のことをたんねんにたどれば、理解できましょう。
 病人が危篤のとき「今夜がヤマだ」などと云いますが、このヤマは時間のことで、これもネパール語にあります。事件のことをヤマとも云いますが、これは越えるべき mountain でしょう。
 サンスクリット語には「ヤーマ」がありますが。これはあの世での、死人の案内人です。
 なお、各地にある「ヤマ」には、木の実を謂っている場合があります。朝鮮語の yam です。アイヌ語にある yam は栗です。いずれも開音(母音づけ)化をうけると yama になります。
 埼玉では薮のことをヤマともいいます。これは周囲が平地ばかりなので、山の概念が移動したのだと思います。

 晩酌のんだら、投書しないようにします。かんにんね。

[4626] まずは 陳謝      焼尻紋次郎 2008/11/07(Fri) 05:48 [Reply]
 またまた わ〜るいが、下の4621を削除ねがいます。
 それと、ここ[ 4626 ] も。

[4625] 出雲九州合併  多美 2008/11/06(Thu) 22:25 [Reply]
『真説日本古代史』というのに面白い話が載っている。
〜“出雲王朝と九州王朝の合併で大和王朝が誕生した”〜

> 原田常冶氏が、神社の由来より完成させた、歴史ストーリーとは、次のよう
 なものである。この説は、関祐二氏の著書、『古代日本史の謎』の中で紹
 介され、簡潔にまとめられているので、そちらを引用したい。尚、関氏は、
 壬申の乱まで続いたとする、大和朝廷と出雲王朝の相剋の歴史を、原田氏
 の神社伝承学を元にして執筆されており、数々の自説を論じている。
  それらは、恐ろしく説得力があり、迫力を持っている。


  「スサノオは、西暦122年ごろ、出雲国沼田郷で生まれた。スサノオ
 が20歳ごろ、出雲第一の豪族・ヤマタノオロチを討ち倒し、35歳ごろ
 には、出雲で頭角を現す。やがて出雲を統一したスサノオは、西暦173
 年ごろには九州遠征を決行し、これを平定、アマテラス (『魏志倭人伝』
 のヒミコ)と出会い、両者はここで同盟関係となる。

  いっぽう、スサノオの第五子・ニギハヤヒは、西暦150〜151年ご
 ろの生まれで、20歳をすぎたころスサノオとともに九州に遠征し、18
 3年ごろ、スサノオの命で大和に向かった。
  ニギハヤヒは、それまで大和を支配していたナガスネヒコをたたかわず
 して臣下におさめ、その妹の三炊屋媛を娶る。さらにニギハヤヒは休む間
 もなく、瀬戸内沿岸を次々に攻略、出雲王朝の基礎を築いたのである。
  ところが、九州から大和に至る一大勢力となった出雲王朝も、スサノオ
 の死後、あっけなく衰退していく。相続問題のこじれを、ヒミコの九州王
 朝(天皇家)につけ込まれたのである。
  この結果、九州王朝は出雲からの独立に成功する。ちなみにこの事件が、
 “出雲の国譲り神話”もとになったという。

  さて、王朝の中心を大和に遷した出雲王朝では、やがてニギハヤヒも亡
 くなり、末子が幼少であったため(この当時は末子相続であったと原田氏
 は説く)長子のウマシマチが代理人として政務を司っていた。
  西暦230年ごろ、九州王朝は大和の出雲王朝に、あるひとつの提案を
 もち込んだ。両国を合併させようという大同団結を提唱したのである。幸
 い出雲王朝の相続人は、「伊須気依姫」という女子、かたや九州王朝の相
 続人は、ヒミコの孫で、末子の「伊波礼彦」(のちの神武天皇)、どちら
 も正統な相続人であった。

  ここに、両朝は合併に合意した。これが、『日本書紀』に記された神武
 東遷の真相であったと原田氏はいう。そして新王朝誕生と同時に、両朝は
 重大な取り決めを交わした。
  それは、代々の天皇は九州王朝の男子とし、その正妃は出雲王朝の女子
 から選ぶこと、そしてその正妃の親族が天皇を補佐し、政治の実験を握る、
 というものであった。
  このように、出雲・九州両朝の合併によって成立したのが大和朝廷であ
 り、ニギハヤヒの末裔・物部氏が衰弱した七世紀、出雲王朝の実像は天皇
 家の手によって抹殺されてしまったと、原田氏は説くのである。」


  この原田氏の説を、アカデミズムは無視している。『日本書紀』と神社
 伝承では、その資料性に雲泥の差があるというのだ。

[4624] Re[4622][4619]: 邪馬台国  大三元 2008/11/06(Thu) 22:11 [Reply]
神奈備さん

>  京都の人々は喜ぶでしょうね。

お気づきのように「山代国」は必ずしも今の京都府内のこととは決まりません。
どっかの「やましろ=やまで国」なんだろう、、、ということです。

[4623] Re[4621]: Jamat(集会・集り)    多美 2008/11/06(Thu) 22:00 [Reply]

>  山門……あほこけ。

これは、よく理解できないのですが。

簡単に解説をお願いします。

[4622] Re[4619]: 邪馬台国  神奈備 2008/11/06(Thu) 21:57 [Reply]
> そう、邪馬台国とは山代国(山城国)であーる。

 京都の人々は喜ぶでしょうね。

 『和名抄』には、河内国石川郡・出雲国意宇郡・阿波国那賀郡にも「山代郷」があります。近江刻甲賀郷には「山直」、泉州には山直神社、加賀に山背郷があります。
 山方と言う地名もそこそそこ散見できます。

[4621] Jamat(集会・集り)    焼尻紋次郎 2008/11/06(Thu) 18:46 [Reply]
 なんども、なんども、ここの板で訴え続けてきた“Jamat =集会、人びとの集り”というのが公然と表示されてるネパール語に、なんでミナシャンたちは目を向けようtもしなかったのですかァ?? 
 山門……あほこけ。

 オレの人格が、こういうモノイイなんでで、下劣・不信用を 呼び込んだと思ったのか?
  そういうことなら、お主の受容体(きんたま)は腐っちょるぞ。
 もっと、お互い、おおらかに生きようじゃァござんせぇけぇ。なも、一見、学者さん!

[4619] 邪馬台国  大三元 2008/11/06(Thu) 17:22 [Reply]
個人的には
 「やまで」という音を「邪馬台」と漢字表記したものと考えています。

ここで「やま」は「山」の意味でよいと思います。
「て」は:「場所を表す名詞に接して、その場所(地形)・方向・側面であることをあらわす。」(時代別国語大辞典上代編 以下JK)
従って「山の方」あたりの意味合いになります。

さて、「しろ」という語があり、「接尾語的に用いられるテ(→て[代])と似た意味の語である。」(JK)

従って「やまで」は「やましろ」と同義である。

そう、邪馬台国とは山代国(山城国)であーる。

[4618] Re[4617]: 邪馬台国  多美 2008/11/04(Tue) 20:23 [Reply]
>これを「やまたい」と読ませるのは、「やまと」と正確に読んでもらっては困る人たちがいるから。

困る人たちとは?

>「北九州連合は超広大な国で、本拠地はずっと遠くですから、攻めても無駄ですよ」と嘘をつき、それをそのまま記載した。(確か本居宣長の説)

面白い説ですね!
嘘であれば、真面目に論じている学者たちは馬鹿みたいですね。

ただ、この説がメジャーになるのは難しい?


[4617] 邪馬台国  ぽんた 2008/11/04(Tue) 17:50 [Reply]
個人的には、
(1)邪馬台国=ヤマト国=山門国
(2)『魏志』「倭人伝」の記述は嘘
です。

『魏志』「倭人伝」は、日本の話ではなく、北九州連合国の話だと思います。北九州の国々は連合国家で、連合国会議を開く場所は大宰府。議長は邪馬台国の卑弥呼で、山門郡にある邪馬台国の女王。(邪馬台国=山門郡は新井白石の説。)
*PONTA説は、邪馬台国=卑弥呼の国=日向国で本拠地は高千穂(ご神体は阿蘇山)で卑弥呼=天照大神、台与の国=豊国で本拠地は宇佐で台与=神功皇后。台与=「たいよ」ではなく、台与=「とよ」であるのと同様に、「邪馬台」=「やまと」。これを「やまたい」と読ませるのは、「やまと」と正確に読んでもらっては困る人たちがいるから。

『魏志』「倭人伝」の記述は本当だとすると、邪馬台国は九州のはるか南の海上になるから、現在の地図を見ると「嘘」としか言いようが無い。つまり、北九州の人々が、本拠地を攻撃されると困るので、「北九州連合は超広大な国で、本拠地はずっと遠くですから、攻めても無駄ですよ」と嘘をつき、それをそのまま記載した。(確か本居宣長の説)

[4616] 白鳥伝説  ぽんた 2008/11/04(Tue) 17:24 [Reply]
今日、地方局で、傑作ワイド劇場「歴史ロマンサスペンス 宗像教授伝奇考」の再放送がありました。
内容は「白鳥伝説」でした。

よく、「A国の風俗・習慣や言葉と日本のそれが酷似していて、古代では関係があったのではないか」と言われます。有名なのが、日ユ同祖論です。世界を旅する某旅行者も同じ事を言っていて、「(祖先が同じとか、文化交流があったのではなく)人間の考えることだから似ているのだろう」と言っていました。しかし、たとえば「三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)」は世界中にあります。(イスラム圏では「せざる」を入れて「四猿」ですが。)そうなると、「たまたま同じ発想をした」というより、「古代、だれかが文化を世界中に広めた」と考える方が自然です。

世界最初の文明はシュメール文明です。PONTAでは、シュメール人が全世界に文化を伝えたと考えています。

昔、北斗七星は、北斗八星でした。ところが1つの星が暗くて見えにくくなりました。ちょうどその時、隕石がシュメールに落ちました。赤く焼けた隕石は、冷えて鉄(隕鉄)になりました。それを見たシュメール人は鉄器を作りました。(人類初の鉄器製作者はシュメール人です。)

北斗八星の物語は、ドラゴン伝説になりました。ヨーロッパのドラゴンが8つの頭を持つのはこのためです。シュメールから陸のシルクロードを通り、日本に伝えられた時には、ドラゴン伝説は、「八股大蛇(ヤマタノオロチ)」という蛇の伝説に変わっていました。「八股」ですから、首は9本のはずですが、記紀によれば、8本で、出雲国に住み、スサノオに退治されたとあります。しかし、『出雲国風土記』には、越国に住み、大国主が退治したと書いてあります。多分、九頭竜川に住んでいたと思います。

シュメールから海のシルクロードを通して伝わった話は、8羽の白鳥の話になりました。これが「白鳥伝説」です。「白鳥のような渡り鳥は陸に向かって飛ぶから、海人の水先案内人になる」とか、「渡り鳥は地磁気で方向を知るので、磁気を帯びた鉄鉱石の鉱脈の上を飛ぶ」とか言われています。全国の白鳥神社のご祭神は日本武尊ですが、「日本武尊神社」としないのは、白鳥にポイントが置かれていたから、つまり、製鉄に関係する神社であり、日本武尊は、焼畑農耕の知識と交換に鉄の鉱脈の情報を求めて移動した人物ではないかとする説もあります。また、8羽の白鳥が、8人の空を飛ぶ白衣の女性に置き換えられることもありました。これが「天女伝説」です。天女伝説とは、8人の天女が地に降りて水浴びをし、猟師が1人の天之羽衣を隠したために、1人が天に帰れなくなるという話で、8人目の天女は北斗八星の暗くなった星を指し、人類に製鉄方法を教えるために舞い降りたのです。

これが、傑作ワイド劇場「歴史ロマンサスペンス 宗像教授伝奇考」のバックボーンです。傑作ワイド劇場「歴史ロマンサスペンス 宗像教授伝奇考」は3作まで制作されましたが、放映されたのは2作で、1作はなぜか放映されていないようです。(2作目は宗像神社の話です。宗像=胸形(胸に刺青をした海人族)という話です。)

[4615] Re[4613][4611]: 邪馬台国論  多美 2008/11/04(Tue) 15:13 [Reply]

>  この行の意味はよく判りませんが、魏の人の見聞を陳寿さんが読んでの記述でしょうから、ほぼ同時代の資料とは言え、『倭人伝』の内容そのものにも疑問符をつけておく必要があるのでしょう。
>
>  状況証拠とは何でしょうか。
>
>  銅鐸と邪馬台国 銅鐸祭祀を中止させた勢力だったのか。
>  古墳と邪馬台国 卑弥呼の死が古墳時代の幕開けにつながるのか。
>  邪馬台国と狗奴国 どっちが勝ったのか。
>  倭と奴 供に「な」と読むのでは。仁和寺はニンナジなのだ。

神奈備さんへ

安本氏の講演での話をきいたので、細かいことは判りませんが、
@卑弥呼の墓であれば、鏡が出るはず。
A邪馬台国と卑弥呼の墓が必ずしも同じところにあるとは限らない。
B従って、あらゆる視点(?)からの「再現性」だ。

というようなことでした。

私は、「再現性」ってなんだろう?思いました。

(例えば、物証のない裁判で有罪に持ち込むために状況証拠を集めるようなことではないかと考えました。)

質問もできませんの、聞きっぱなしです。

ただ、安本氏は魏志倭人伝が信用出来ないというよなことは言ってなかっと思います。

私には、「状況証拠」の内容については、まだまだとても判りません。

因みに、

「ニギハヤヒ」ウィキペディアに神奈備さんの「異名同神説への疑問原田常冶著古代日本正史の理論の検証」がありました。今、周辺の予備知識をインプット中です。







>

[4614] Re[4612]: 澪標住吉神社  神奈備 2008/11/04(Tue) 13:21 [Reply]
> 神奈備さんのHPをプリントアウトしたものを、手渡されました。(^^;

 『平成祭りCD』の文章を掲載しているからでしょうね。

 所で、 釼大連守屋 とすべき所を 剱大連守屋 としていましたので、訂正しました。

[4613] Re[4611]: 邪馬台国論  神奈備 2008/11/04(Tue) 13:17 [Reply]
> 安本氏は、邪馬台国の物的証拠は難しい、状況証拠による「再現性」だ。と言っていました。

> 推定有罪的?というこでしょうか。

 この行の意味はよく判りませんが、魏の人の見聞を陳寿さんが読んでの記述でしょうから、ほぼ同時代の資料とは言え、『倭人伝』の内容そのものにも疑問符をつけておく必要があるのでしょう。

 状況証拠とは何でしょうか。

 銅鐸と邪馬台国 銅鐸祭祀を中止させた勢力だったのか。
 古墳と邪馬台国 卑弥呼の死が古墳時代の幕開けにつながるのか。
 邪馬台国と狗奴国 どっちが勝ったのか。
 倭と奴 供に「な」と読むのでは。仁和寺はニンナジなのだ。

[4612] 澪標住吉神社  狐の使い 2008/11/04(Tue) 09:42 [Reply]
神奈備さん、ご無沙汰しております。狐の使いです。

相変わらず、神社めぐりを続けており、目下、大阪の神社コンプリートを目指して奮闘中です。

このあいだ、此花区にある「澪標住吉神社」に行ってきたのですが、
「御由緒はありませんか?」と伺ったところ、
神奈備さんのHPをプリントアウトしたものを、手渡されました。(^^;
思わず、笑ってしまいそうに・・・

ひょっとして、このページで書かれている事が、
いずれは正史として捕らえられるかも知れませんね・・・。

[4611] 邪馬台国論  多美 2008/11/03(Mon) 20:43 [Reply]
映画「まぼろしの邪馬台国」公開

3日午前10時すぎ「まぼろしの邪馬台国・公開直前スペシャル」放映。
邪馬台国研究第一人者として安本美典氏登場。


「もし、邪馬台国の位置を確実に定めうるだけの情報が、『魏志』「倭人伝」のなかに含まれているならば、邪馬台国について、これだけ多くの本が刊行され、これだけ多くの人たちが、長年にわたって力を注いで、解けないはずがない。
 解が『不定』となるべき性質のものであれば、邪馬台国を九州とするのも、一つの『正解』でありうるし、邪馬台国を大和とするのも、一つの『正解』でありうる。どちらも、与えられた条件を、ある程度満足する解だからである。
『魏志』倭人伝だけによるとき、邪馬台国の位置を、一意的に定めることはできないという基本的事実を、私たちは、まず率直に承認すべきである」(『卑弥呼と邪馬台国』PHP研究所・1983)

安本氏は、邪馬台国の物的証拠は難しい、状況証拠による「再現性」だ。と言っていました。

推定有罪的?というこでしょうか。

[4610] Re[4607][4605]: 愛知県の語源  ぽんた 2008/11/02(Sun) 00:25 [Reply]
> 愛知といえば琵琶湖の確か東岸にも愛知川(エチ)がありますね。この地名はどう解釈したらよろしいでしょうか。愛知県の名前と関係がありますか。

「愛知」県、「愛知」川、当て字は同じ「愛知」ですね。
愛知県の「愛知」は、古代では「あゆち」であり、「吾湯市」「年魚市」という字が当てられていました。和銅6年の地名二字好字令によって表記が「愛智」に定められると「あいち」と間違って読まれるようになり、今では表記も「愛知」に変えられました。ようするに、古い地名の場合、漢字は当て字なので、語源は訓(「愛知」なら「あゆち」)で考えないとダメなんです。

「愛知」川の場合は「えち」なので、「いち(市)」の転訛と考えられているわけです。「あゆち」とは全く関係ないと思います。

[4609] Re[4606][4604][4603]: 無題  ぽんた 2008/11/01(Sat) 23:46 [Reply]
> ぽんたさんへ
> だいたい、出雲圏、倭国大乱、邪馬台運動などは"東征"したと考えますね。
出雲国は西へ行って北九州から南九州へ、南へ行って吉備、東へ行って越と戦ったと。
倭国大乱は、「大乱」ですから、隣の国と戦う戦国時代かと。
「邪馬台運動」って何ですか? 邪馬台国が九州から近畿に移動したってこと?

> ただ、邪馬台国派への掃討は「タジマモリ」の常世国(奈良より西側)派遣かも。
天皇がタジマモリに命じたのは「不老不死の薬」であり、9年後に橘を持ち帰っています。9年もかかる旅・・・中国全土やインド方面、東南アジア方面を探索していたのかと。とにかく「常世国」は「海の向うの国」のことで、日本国内ではないです。

[4608] Re[4607][4605]: 愛知県の語源  ぽんた 2008/11/01(Sat) 23:38 [Reply]
> 大和葛城の高尾張邑も縁の地ですね。
尾張氏は、ニギハヤヒ系で、高尾張邑出身とする説が現在の有力説のようですね。

> 熱田はヤマトタケルの草薙の剣を祭る。尾張豪族と熱田神宮。尾張族の目子媛と関係があるのでしょうか、
何を知りたいのでしょうか?
おしゃってる意味が分かりません。

> 愛知といえば琵琶湖の確か東岸にも愛知川(エチ)がありますね。この地名はどう解釈したらよろしいでしょうか。愛知県の名前と関係がありますか。
吉田東伍『大日本地名辞書』では、「市場」の意となっています。
琵琶湖周辺は浜名湖周辺と同じ位置に同じ地名があるそうですが、浜名湖の場合、「市場」が西岸、「三ヶ日」が北岸です。「エチ」という地名はないかと。


神奈備掲示板、写真掲示板、過去ログ集




神奈備ホームに戻る


inserted by FC2 system