青草掲示板ログ平二十一年 三月 2009.3
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[4918] 国見地名  神奈備 2009/03/31(Tue) 17:58 [Reply]
 某MLで国見について議論がなされていました。
 カシミールで見ますと、国見地名は九州に最も多くて、次が近畿、あと、中部、四国にパラパラ。中国地方にはなんとゼロ。

 更に調べて見ますと、東北地方や北陸、中部、近畿の奈良・兵庫にも国見地名があります。

神社伝承
 荒穂神社 瓊瓊杵尊が筑紫日向の高千穂より遷向し、基山で国見をした。

『日本書紀』
 神武天皇即位前紀 菟田の高倉山から国見を行った。
 神武天皇即位前紀戊午年 國見丘にいた八十梟帥を破った。
 神武天皇三一年 掖上の間丘に登って、国見をした。この国を秋津州と名付けた。国見神社が鎮座。

『播磨国風土記』
 品太天皇の国見をした山を御立阜と言うが、今の立岡山に比定される。

古い祝詞の「天野吉門」の伝え
 神代、紀伊国伊都郡奄田村石口に天降られた丹生都比売命は紀ノ川(奈良では吉野川)沿いにこの丹生川上の地に上られ、国かかし給ひ(国見をする意)たとのこと。

日前国懸神宮
 この国懸の解釈ですが、国を脅かす(志賀剛氏)や国見をするなどがあるようです。また大三元さんいよりますと、沖縄古語では輝かす、生き生きとさせるがあるようです。国見の目的にそう解釈かも。
http://www.dai3gen.net/kunikakasu.htm

[4916]   むずかしいナァ〜  生田淳一郎 2009/03/29(Sun) 17:21 [Reply]
 佐々木提督、御指導、ご指摘有り難うございます。オレ、気がつかんかったです。
 つづいてだれかさんが書き込みしてくれたら、しだいにボヤけてくるんやがナァーと、ここは要領で逃げようとしたんですが、運わ〜るくだぁれも入ってきません。

 少し考えました。すると、むずかしい局面が出てきました。
 おことば返すようですが、「私権の行使は公共の福祉にそう」ということで考えてみたら、誰れも、また誰れにも、この倫理(?)は蹂躙して(起させて)いない……という線は確保してるみたい。
 いちばんの問題点は自然人のあいだにゼニが介在することを、汚いと思う常識があることでしょう。
 現代は経済という怪物に引っ掻き回されています。
 そして、むかしはゼニなどなかった。

 各種概念の原初形態がいろんな関連に揉まれて肥大化し、発展し、現代にいたっています。
 どこまでも無制限に私益を追求して宜しいというタテマエが通用しています。が、いっぽう、ウン億円もボーナスを貰うのはけしからん、 10%にしちょけとの強権発動も出るようになりました。こんな経済はいづれ消えることでしょう。
 それと同じことで、国というものも早晩、消える宿命にあることでしょう。
 つい最近まで、いや現代でも人びとは身分や差別に哭きました。でもオバマ大統領が出る世の中が実現しています。
 まだ「不合理不条理はしかたのないものだ」はわれわれの耳朶にこびりついています。

 それらを撥ねのけて歴史に参画するに、もっとも手っとり早い方法は「天才の育成 → 言語考究畑への投入」という発想…………だったんですがね。

● 情念の領域に理屈をいれると、とたんに情念の領域は崩壊しますアマカネ。ここは価値観メカです。価値観メカにも天才眼の照射をアマカネ。
● オレの掲示板『言葉と意識』に書けばよかったのですが、そこには書かずに“他人様”の板へ書くのはケシカラン……もあったことでしょうか。オレの板(言葉と意識)は、目下、権威ある沖縄語観を、あるべき姿へ修正しようと、ヤッキになっていて、他のスジの書き込みが来るのが、極めて邪魔な状態でんす。
 新たに『沖縄考』、『価値観考』、『天才考』の三つの掲示板を早急に作ろうとは、思っていますがキカイ・オンチじゃ、愚や愚やなんです。

[4915] Re[4914]:  結集させた給付金で 天才を育てましょう   佐々木 2009/03/26(Thu) 23:41 [Reply]
生田さん おはようさん。
募金活動の「のろし」を神奈備さんところで揚げるとは如何なものか、輝かしい珠玉の文字群も最後の2行で、悪い印象だけが残ったように思いますが。


[4914]  結集させた給付金で 天才を育てましょう   生田淳一郎 2009/03/24(Tue) 18:44 [Reply]
 麻生太郎シャンは、てめぇの私財を投げうてばいいのに、それはしないで、姑息な景気高揚手段になるかならんか……の給付金ばらまきの挙に出ました。 
 
 小生がこの機に訴えたいのは、政治をも含めて、18世紀中葉に興った経済は、人類はそのコントロール技術を未だ持ち合わせていないとの見解です。 
 いや鋭意訴えたいのは、経済・政治どころか、会話や思考の基礎になっている“言語”について、人類はまだまだ野蛮な状態下にあること……をです。  
 
 今、中東では宗教家どうしが果てしない殺しあいをつづけています。 
 また、理性の殿堂たるべき哲学畑は、「定説が出ないという定説」がまり通って、サルトルの後は哲学らしい思索は姿を消してしまいました。
 これは「ことば」というものの実体把握ができてないままに、錯綜した概念の授受がことばで繰返されているからではないでしょうか。

 ニホンザルのボスが鳴く「ケヘ〜〜ン・ケン・ケン」とは、「まもなく雨が降ってくる、全員、ひさしのある場所へ退避せよ」という内意で、このようなことばは個体が学習するまでもなく、生まれたばかりの赤ん坊サルもその意味を理解できます。
 ことばは、高等動物にはここまで発達していたのです。
 それがいつのまにか、子音+母音の発音に社会的約束ごとの内意が附随させられ、人間の個体は、それをいちいち学習するを余儀なくされています。しかも現代は文字まで出現しています。

 ことばが持っている複雑怪奇な諸側面は、およそ凡人が処理できるものではなさそうです。
 わが日本も明治維新の段階で西洋の文明を取り入れました。その西洋文明では行き詰るたびに天才が出現して破滅を回避することに成功してきました。
 ところが、その天才は、まだことばの領域にはノータッチの現状です。
 中東や世界中に戦争が絶えないのも、西洋言語学が野蛮状況にいる証拠でしょう。
 日本では単語の記憶力だけに秀でたサバン症患者みたいなのが言語学を牛耳ってきました。
 
 いちど、ここに天才の眼力を照射させましょう。
 英才教育でできあがった個(秀才)は、自由主義とか個人主義といった過った大枠を疑うことができず、「おれはあれより優れている」とかのドングリの背くらべに終止するだけです。

 日本の文明は鎖国する時点では世界一の水準にありました。この鎖国の時間帯に西洋では 30年戦争に続いて物質文明が発達し、フランス革命が興って近代国家が出現し、今はその国単位のエゴがまかり通っています。

 気を鎮めて、天才が出現する現象を観察しますと、なにも「天与」みたいな怪奇現象ではないことに気づかされます。要は大量の先入観がない段階で、短時間のうちに体系的な知識やわざを大量にコンパクト詰めにして修得することが起爆材になっています。
 ほとんどの医者は天才だと思えば天才だとして容認できます。

 天才の育成は政府すじに頼っていては埒はあきません。まず、明確な目的意識をもった民間会話を大量に創りあげることです。これが天才育成の母胎になればいいのです。
 不肖生田淳一郎は「もつけ新聞」をつくり、大衆うんどうを起します。

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[4913]   タロしゃん考 2    生田淳一郎 2009/03/23(Mon) 07:00 [Reply]
 佐々木提督、やっとかめ(名古屋弁)なも。
 スギ科は、学名Taxodiaceae…….。これ、大発見だと思います。古代造語法の √ i ○○V をあて嵌めれば、伊太祁曽様がお出ましになります。X , ks はギリシャ語のクセでは? ギリシャ語はわざわざ ξ(ks)という文字まで作り持っています。 
 また tak(神)の広がりも世界的でした。原義はやっぱ“山頂”か。
 高野マキの kox は、山は山でも聖山……は、譲れないところです。
 Taxodiaceae には“楠”も含まれていそうですね。

 稲築町の南は山田市ですが、そこから東になだらかな峠を越えたところが、東条英機のヨメさんが出た真木(まさき)です。マサは math(頭)の開音(母音づけ)した語形でもあります。
 サガルマタ(天の頭……エベレストのネパール語読み)のマタでもあります。

● フィリピン・タがログ語の talon(滝)の on はワカリマセンが、この tal はドイツ語の tal(谷)と同根だと思えます。日本語の垂水もこの範疇内でしょう。翻って、伊太祁曽様の中に含まれているタキかも。
● 三陸海岸北部に田老町があります。鈴木善幸元総理の出身地です。ここは七段の滝(tal)で有名です。
● いわき市には小太郎という字があります。これは「小さな湖」の謂いでしょう。

 tar , dar には同じネパール語内でも若い男、谷、滝 のほか、「○○がいっぱい」や名前を中心とした一族、<恐怖、驚き>、流水、星、などがあって、混雑しています。
 朝鮮語の tal には月と娘があって、混雑はいっそう激しくなっています。
 朝鮮語の足は bal か pal のはずですが、藤原鎌足の場合には足をタリと読ませています。この場合のカマは大地の護り神の蛇(<*peam)でしょう。
 沖縄に入院していたとき、オバンが毎朝「ウチミソーチ、ターリー(起きましたか、旦那)」と云ってくれました。ウチ=起き、チはベトナム語と同一の疑問詞でんねん。

[4912] 少し横道ですが  佐々木 2009/03/22(Sun) 11:31 [Reply]
 伊太祁曽さんを見てまわると、スギの大木が気になりました。
 スギ科は、学名Taxodiaceae:近似読みはタキソディアケアエです。「タキソ」の部分に怪異を感じました。しかしスギ科スギ属は丹後半島に先の氷河時代に逃避していたものが南下したようです。和歌山市での時期はわかりませんが、中国山地で4000年前に、大阪では1000年前にスギ属の花粉化石が増加します。
 ゆえにタキソはスギではないと仮定しました。
 そこでスギ科の木を探してみるとコウヤマキがありました。コウヤマキは現在スギ科に属していませんが、もともとはスギ科に分類されていました。
 コウヤマキは大阪では4000年前に急増します。タキソとはコウヤマキ?
 コウヤマキは百済王の木棺の材料でもありました。和歌山市内での花粉分析結果があればさらに考察できるのですが、今探しています。駄文にて失礼しました。

[4911]   タロしゃん考     生田淳一郎 2009/03/22(Sun) 07:45 [Reply]
今をときめく……あんましときめいちゃいないか……太郎しゃん。
 そのタロしゃんがたから 10キロ南に川を遡ったところに、オレが生まれ育った稲築町があります。
 稲築山の西ふもとにジロタロさんという拝み場所がありました。
 現地人は「ジロウ・タロウさん」とはいわずに「ジロタロさん」と発音しています。
 ジロウ・タロウというのは、シナ語の“郎(おとこ)”を引っぱってきたからだと思えます。
 筑紫は日本語が形成された地帯です。稲築町も筑紫圏にはいります。

 小生が持っているネパール語辞書には taruni(若い娘)しか出ていませんが、 taruni 末尾の ni は女性をいいます。
 尼さんを bikni というのは「bik……毒」をもっている女性のことだろうと思います。どう修行しても身体に毒をもっているのだから、ねっからどもならんのに、けなげにもホトケにすがろうとする。そういう意味あいが込められているらしい。……寂さん?

 taruni の中の u の処理が不明ですが、若い男は tar が基本で、これに -o(男・神)がついたのが「タロ」だったことでしょう。ところが tar , dar には「最低」の意味がネパール語で別にあるので、英雄になればなるほど「オッチョコチョイ」とか「うすらバカ」という内意がついてまわります。
 筑豊でオトコを売り出している者は、必ずといっていいほど「○○しゃん」です。これには少なからず、おだちあがった野郎という内意がこめられていそう。
 麻生タロしゃんも、この例外ではないはず。

 
 ネパール語の湖は tal 。/ アイヌ語 ; to(湖)。
 利根川が阪東太郎でした。これは、今の古河市や栃木市一帯が水はけがわ〜るく、一面の湖だったから。

 松島にはエンヤトットのサイタロぶしが残っています。が、どんなサイタロさんだったかに就いてのキャラクターは語り継がれてはいません。
 そのサイタロのサイは瑞願寺の“瑞”に残っています。ネパール語 sait(吉兆)なんです。

[4910] Re[4909][4907][4906][4905]: 桃太郎と浦島太郎  神奈備 2009/03/21(Sat) 22:38 [Reply]
> 300歳から考えると白髪塩土老翁、武内宿禰なども。

 同じ年の生まれとしては武内宿禰と日本武尊がいます。

 『景行紀』3年に屋主忍男武雄心命を紀伊国に遣わし、9年とどまった。影姫を娶って武内宿禰を生ませた。9年目に生まれたとしますと3+9=景行12年。

 『景行紀』の27年に日本武尊を熊襲を討たせるべく派遣します。この時16歳だったそうです。満で15歳。誕生年は27−15=景行12年。

 ついでに『成務紀』には、成務天皇は武内宿禰と同日生まれとあります。この3人も同一誕生日。

 もっとも、景行46年の時に成務は24歳で皇太子。景行22年の時の子供となり、武内宿禰とは10年の差、ひょっとしたら紀伊国9年目に生まれたのではなく、すぐ生まれたのかもしれません。

 また、成務天皇46年、仲哀天皇は31歳で皇太子。成務15年に仲哀誕生。日本武尊63歳となるはず。彼は景行43年に死亡。仲哀は日本武尊の子ではありえないようです。

[4909] Re[4907][4906][4905]: 桃太郎と浦島太郎  佐々木 2009/03/21(Sat) 10:36 [Reply]
 追記ですが、亀を助けるとよいことがある伝説は淀川流域で2箇所(枚方と久御山)でありました。また白鹿の肉を珍重する習慣も同時?に確認できます。
 これは亀朴集団に対する鹿朴普及のための集団催眠なのかもしれず。

[4908] Re[4907][4906][4905]: 桃太郎と浦島太郎  神奈備 2009/03/20(Fri) 21:21 [Reply]
 『記紀』の年代観で見ますと吉備津彦の父親の孝霊天皇の在位は紀元前290年から215年。吉備津彦の誕生はこの頃なのでしょう。281歳まで生きたとしますと、紀元前後が没年となります。
 浦島太郎は雄略朝の22年に戻ってきたとしますと478年没、誕生は300年前として178年。生まれ変わりとするには大きい年代差があるように見えますが、天皇の在位期間などで365日を2年とする見方があり、これは年二回の大祓えなどのように今日まで生き続けている風習です。
 そういうことで、750〜800年の間に178年の誤差があっても不思議ではありません。
 これから考えますと、桃太郎−浦島太郎−清寧天皇と生まれ変わりが行われたと考えられます。
 さて、佐々木さんがおっしゃる白髪ですが、桃太郎は百済系の温羅を退治しています。かれは新羅系の皇子だったのかも知れません。吉備の鉄文化、出雲とのつながり、これらは吉備と新羅との関係を示しています。
 ようするに全員白髪と関係があるようです。

[4907] Re[4906][4905]: 桃太郎と浦島太郎  佐々木 2009/03/20(Fri) 10:48 [Reply]
> これは面白い。青草史上、大傑作!!!

 神奈備さん
 ありがとうございます。

 まず4905の訂正です。申し訳ありません
 清寧の皇太子は仁賢天皇(字は嶋郎)、播磨国風土記では母:手白髪命。
「母」が抜けていました。

 300歳から考えると白髪塩土老翁、武内宿禰なども。
武内宿禰は、気比神、高良玉垂神とも言うようですが、気比から吉備、高良から亀の甲羅、玉垂から玉手箱を連想します。また子供に星川臣の祖、紀臣の祖(紀氏、吉士?、雉?)。奇妙です。

 白髪は京田辺市の朱智神社の社伝「大宝元年(701年)に山城・河内・大和の国境の山に白髪の老翁の姿をした神が出現、素盞嗚尊を名乗ったと言う。。。以下略」
 大宝元年は常世島(冠島)の地震の年、常世島地震は地震専門家らの調査、現地での痕跡はまったくないそうでした。
 実際の海底地形は丹後半島(与謝:余社郡側)と連続するが、島付近が最上の漁場であるので丹後風土記では地震水没説を勝手にでっちあげて、加佐郡(舞鶴側)の漁場正当性を主張をした(出典、古地震:東大出版会)。
 舞鶴側と丹後半島側は同じ丹後王国で仲が良かったと思っていたのですが、違っていたのかもしれません。

 

>白髪と言えば猿田彦もそうですね。
 猿田彦でも大ヒントを得ました。
 琵琶湖北部の白鬚神社の湖中鳥居も地震で沈水したものだそうです。
 丹後風土記や続日本記の大宝元年地震で被害を受けた凡海郷とは、淡海の間違いなのか?
 まさか生まれながらの白髪とは清寧の母韓姫はロシア系? 大青草でした。

[4906] Re[4905]: 桃太郎と浦島太郎  神奈備 2009/03/19(Thu) 22:33 [Reply]
これは面白い。青草史上、大傑作!!!

> 清寧天皇立太子は478年、書紀の水江浦嶋子記事も478年(雄略22年)。

吉備にも浦島神社がありました。ついでに香川県にも。

広島県尾道市美ノ郷町 浦島神社 浦嶋大明神
香川県三豊市詫間町(丸山島) 浦島神社

白髪と言えば猿田彦もそうですね。


しばらく勉強させて下さい。各位のご意見をお持ちします。

[4905] 桃太郎と浦島太郎  佐々木 2009/03/19(Thu) 11:26 [Reply]
青草でございますが、桃太郎と浦島太郎の比較をしてみました。

(桃太郎関係)
温羅   :桃太郎に退治される鬼、製鉄技術を持った渡来人。
吉備津彦 :桃太郎モデル説、281歳で逝去。
稚武彦  :桃太郎モデル説、笠臣とも呼ばれる。
吉備津神社:吉備国阿曽郷に立地。
その他  :雉猿犬が同行する。

(浦島太郎関係)
浦島太郎 :白髪化、約300歳で逝去(丹後国風土記)、仁賢天皇モデル説。
伝承地付近:阿蘇海、与謝郡、加佐郡が、弥栄町遠所の製鉄遺跡がある。
その他  :亀を助ける。
竜宮城  :常世島(冠島)加佐郡にある島。大宝元年(701年)に地震により一部水没。

(考察)
 共通点として、300歳近い年齢で逝去。ウラ、アソ、カサなどの名称と製鉄。
 ここで吉備津彦=桃太郎≒浦島太郎??とすると
 浦島太郎の実際の死因を地震による災害死(論理の飛躍だが)と仮定すると、402年以降の生まれ。→吉備津彦説は否定される。
 白髪を根拠とすると、清寧天皇が出てくる。
 清寧天皇立太子は478年、書紀の水江浦嶋子記事も478年(雄略22年)。
 →何らかの因果関係を感じる。
 清寧天皇=浦島太郎=桃太郎とすると
 桃太郎に退治される温羅は、星川皇子?。
 桃太郎の猿雉犬は平群真鳥、東漢直掬、大伴室屋ら?か。
 清寧の皇太子は仁賢天皇(字は嶋郎)、播磨国風土記では手白髪。
 →またキーワードの白髪の登場。
 では浦島太郎の助けた亀は、仁賢と顕宗の二人のオケとなるのか?
 両太郎は清寧天皇がモデルなのか。

 (勝手な結論)
 桃太郎と浦島太郎は一連の継続した5世紀のドラマとなる。

 長文にて失礼しました。

[4904] Re[4902][4900][4895]: 鉄鐸と蛇行剣  素人 2009/03/17(Tue) 00:42 [Reply]
私の趣味の古代製鉄にも成果があったような気がします。
土送風口やラッパ型磁器製羽口との接続部分で鉄澤が役立ちそうです。
吹管・革鞴の接続口として考えられます。

土の送風口とラッパ状の羽口
福島県南相馬市の金沢(かねさわ)地区製鉄遺跡群の資料です。
7世紀後半から律令期の国の国営製鉄が行われた所です。
以下の羽口の写真ですけれど手前の3個の内右の2個に注目しています。
ラッパ型に開いて、先が窄まっています。これと似ているのが源内峠製鉄遺跡の土の送風口です。土の送風口からラッパ状の陶器の羽口に発展したのではと考えています。土だと作業中に変形したりするからでしょう。陶器の羽口は何度の使い廻ししたのでしょう。
金沢(かねさわ)地区製鉄遺跡でもラッパ状の陶器などの羽口が登場するまでは、源内峠製鉄遺跡の土の送風口と同じ土の送風口であったと推定されます。

源内峠製鉄遺跡の土の送風口
「送風孔は炉底から10cm 上あたりに、先端部で直径2〜4cm の円形、炉壁内2 等辺三角形を呈している。そして 芯芯感覚は狭いものでは17cm 程のものもあるが、一般には20〜25cm 程度と広い。古代の製鉄炉の送風孔間隔は一般には10cm 前後であり、この間隔の広いのもこの瀬田丘陵の製鉄炉の特徴であるという。
送風孔底面の穿孔上下角度は水平なものが多い。また 送風孔上端の穿孔上下角度は20〜30 度のものが多く、棒状工具跡のある炉底塊は棒状工具の炉内挿入角度が17 度と推定され、送風孔上端の穿孔上下角度とほぼ一致し送風孔を通して、炉内を突いたことが見て取れる。
これらの製鉄炉の操業年代は7世紀後半 これら4製鉄炉から約25〜50 年継続的に操業されたと考えられている。」(平成13年3月滋賀県教育委員会 源内峠遺跡報告書まとめより抜粋)
羽口の写真
http://search.mahoron.fks.ed.jp/image/photo/6/00250_089.jpg
SI 20 羽口出土状態写真データーベース
http://search.mahoron.fks.ed.jp/cgi-bin/bunkazai?fn=syashin2&s1=&t1=%C2%E7%C1%A5&row=714&rcnt=1&rdsp=text&csv=&prcnt=100
ラッパ状の外気を取り入れやすい吸気孔は今回登場した鉄鐸状の先端を竹に取り付けた吹管や同じものを取り付けた革鞴を接続するのに最良と考えられます。そこで、自然風による直接還元での海綿鉄の蓄積、鞴または吹管?による強制給気での高温でノロの生成と浸炭による融点の低下により液体の白銑鉄(M.P1075℃)を生成する。かなりの推定がありますが。
幾らなんでも、口からの吹き込みでの製鉄は多数の人数でも無理かもしれません。革鞴の方がやはり有効でしょう。
蛇足
鉄鐸の取り付けですが、吹き竹の様に節で切らずに節を少し奥にして切って、先に短い筒を付けたように加工して、先端以外の節を抜いて先端の節の中心に穴をあけて、鉄鐸の舌状の釘を節に打ち込み針金を通して鉄鐸先端より引き出し、鉄鐸より少し大きく選んだ竹の先端部に後部を差し込んで針金を引いて密着させて針金を折り曲げて固定する。
先端部は完全に密着しないので、吹きこんだ空気は中心から円錐に吹き込まれ、先端より勢い良く吹き出される。吸い込む場合は円錐の周辺部かの隙間から吸引され高温の先端部からはあまり吸引されない。(逆止弁効果)火傷・竹部分の炭化、燃焼を防止できる。
青草でした。

[4903] Re[4901][4897][4895]: 鉄鐸と蛇行剣  神奈備 2009/03/14(Sat) 10:52 [Reply]
はやとさん、こんにちは。

> 江戸時代まで神社名は「諏訪大明神」
> 明治になって「祭神名」を冠するようになった。
> 諏訪神社===>>南方神社

 南方神社の名称を持つ神社は、武蔵1社、信濃4社、周防1社、安芸1社のみで、鎮座していないのが普通と云うことでした。はやとさんのおっしゃるような特殊事情があったのでしょう。

 同様に宗像神社の名の神社も近畿では大和に3社、日本海側では若狭2社、越後2社と言うことで、普遍的な名前ではないようですね。


> 完全にセパレート状態。元来は同一の信仰かも。

 これは撤回です。

[4902] Re[4900][4895]: 鉄鐸と蛇行剣  素人 2009/03/14(Sat) 07:53 [Reply]
追加で。
> また大外れかも知れませんが、竹や木管の先に円錐状の鉄パイプを付けた羽口が有ったように記憶しますで鉄製の羽口ではどうでしょうか。
> 鍛冶具や鍛冶滓と一緒に出ても不思議ではありません。最近の小型のタタラでも鉄パイプの羽口があります。
古代では竹などの先に粘土を付けて、乾燥させて耐火性を持たせたもので、火吹き竹のように口で吹いて、鍛冶をしていた時代もあったようです。これが耐久性のある鉄製となったのではないかと夢想しました。連続して吹けるように二人で吹くとか工夫したのでしょう。これですと鞴はいらない事になります。
革鞴は有ったでしょうが、簡単なものはこんな所で済んだかもしれません。
革鞴の先端部は鉄の羽口も有りかと考えております。
青草でした。

[4901] Re[4897][4895]: 鉄鐸と蛇行剣  はやと 2009/03/14(Sat) 01:05 [Reply]
> 面白い!
>
> > 日向、薩摩には南方神社、南方地名が多く、社名も諏訪社とせず南方とするのが特徴。
> 古い時代の宗像との関係が残っての事かもしれません。
>
> 九州での宗像、南方について
>
> 宗像(宗方)神社の分布
> 筑前   5
> 筑後   1
> 豊前   4
> 豊後   2
> 肥前   7
> 対馬   1
> 肥後   1
>
> 南方神社の分布
> 日向   7
> 大隅  12
> 薩摩  56
>
> 完全にセパレート状態。元来は同一の信仰かも。
>
>
> > 宗像、建御名方命は関係があって、その古層に(共通するように)ミシャグジ、石神があるのだろうか?
>
> 古層のミシャグジ・石神は諏訪では洩矢神を経由。
> 後に建御名方富神につながったのかも。

当地を含め、旧島津藩領内の
諏訪神社の場合

鎌倉武士団が信奉し
島津藩が勧請したのが大半。

江戸時代まで神社名は「諏訪大明神」
明治になって「祭神名」を冠するようになった。
諏訪神社===>>南方神社

また、諏訪と八幡のセットで
鎮護しているようです。
===>>この方は目下調査中

尚、当地の場合、「太鼓踊り」の奉納は
この諏訪神社(南方)になります。

朝鮮出兵の「島津義弘」が奨励したこともあって
中には義弘を奉っているところも。
===>>今後の調査。
寺社帳には見えてこないが。。

[4900] Re[4895]: 鉄鐸と蛇行剣  素人 2009/03/14(Sat) 00:33 [Reply]
くず 様
> 古墳や周溝から出土する鉄鐸には、鍛冶具や鍛冶滓などとの共伴が多く認められる事から、
> 鍛治(製鉄?)においてなんらかの祭祀に使われた可能性がありそうです。

また大外れかも知れませんが、竹や木管の先に円錐状の鉄パイプを付けた羽口が有ったように記憶しますで鉄製の羽口ではどうでしょうか。
鍛冶具や鍛冶滓と一緒に出ても不思議ではありません。最近の小型のタタラでも鉄パイプの羽口があります。
鉄鐸(あまり羽口のようではないようですが。)
http://www.interq.or.jp/gold/waki/tour/DSC00025.JPG
藤森ツアー報告Web
http://www.interq.or.jp/gold/waki/tour/ftour9801.html
夢を壊す話ですみません。

蛇行剣には柊剣もあるようです。
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/suwaimgs/jakouke2.jpg
私の諏訪信仰ノートWeb
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/suwatext.html
これですと蛇ではなくて稲妻のようにも見えてきます。
水を差すような話失礼しました。
青草でした。

[4899] 蛇行剣とナマズ?  くず 2009/03/13(Fri) 11:55 [Reply]
下[4898]に書きましたが蛇行剣の出土は九州でも南(日向、薩摩)に集中し、
北部、中央部においては数例のようです。
・福岡県行橋市(豊前国京都郡):竹並横穴群(5世紀後半〜8世紀)
・大分県日田市(豊後国日田郡):伝 姫塚古墳(5世紀)
・福岡県古賀市(筑前国宗像郡/糟屋郡):浜山・千鳥遺跡20号墳
・佐賀県三養基郡上峰町(肥前国三根郡):船石遺跡1号墳(5世紀)
・佐賀県佐賀市大和町(肥前国佐嘉郡):高畠古墳

宗像、建御名方命関連について、
筑前国糟屋郡(古くは宗像郡)にあたる浜山・千鳥遺跡から蛇行剣の出土がありますが、
すぐ北に位置する福津市福間町(旧宗像郡蓑生郷)の西郷川に沿う地域は建御名方命に
縁があり、大森神社、諏訪神社等では鯰が神の使いであり鯰食の禁忌があるようです。
「福間の里は鯰を食わぬ」
http://www.jinja.sakura.ne.jp/fukuma/
「福間町 諏訪神社(建御名方命を助けたナマズ)」
http://www.jinja.sakura.ne.jp/fukuma/no03/index.html

鯰に関する禁忌は阿蘇神社周辺にも顕著にみられるようです。
鯰は阿蘇大明神(健磐龍命)の使いとされ、大宮司家の阿蘇氏は信濃科野国造、諏訪族と同族と伝わります。
(肥後周辺は不思議に蛇行剣、鉄鐸出土の空白域ですが…)

もう一つ、肥前国佐嘉郡に蛇行剣の出土があるようですが、
(高畠古墳)http://www.isekiwalker.com/iseki/172503/
この遺跡の、川を挟んで反対側に與止日女神社があります。
(與止日女神社)http://www.genbu.net/data/hizen/kawakami_title.htm
石神、鰐に縁があり、鯰に関する禁忌があります。
與止日女(淀姫、豊姫とも)は神功皇后の妹だとも。また御祭神は豊玉姫ともされるようで、
こちらの乙姫(豊玉姫)も火遠理命(山幸彦)の子を産むとき、姿を八尋和邇(龍)へと姿を変えています。
火遠理命の亦名に虚空津日高(そらつひこ)、一方記紀での神功皇后の妹名は虚空津姫なので、
名も近く本来は何か関係があるのかも。

火中で火遠理命を生んだ木花咲耶姫(古事記で亦名に神阿多都比売)は大山祇神の娘ですが、
面白い事に大山祇神を祀る三嶋大社等には、鯰ならぬ鰻に関しての禁忌があるようです。

火中出産は和邇氏系の狭穂姫命にも見られ、木花咲耶姫を祀る富士浅間大社大宮司は和迩氏。
信濃諏訪大社に鯰の禁忌はない?と思いますが、御射山神事には虚空蔵信仰(国常立尊)と鰻(稚魚放流)が関係しています。
蛇行剣最北の出土地、栃木でも鰻の禁忌(星宮神社)が顕著です。
虚空蔵信仰で、鰻の禁忌があるのも、虚空津彦、虚空津姫からの由来かも^^
参考http://www.valdes.titech.ac.jp/~kuwako/saga%203.pdf

鯰、鰻、海ヘビなど、ともに海からの使い(鰐、龍蛇)と見立てての事か。

[4898] Re[4897][4895]: 鉄鐸と蛇行剣  くず 2009/03/13(Fri) 01:28 [Reply]
> 完全にセパレート状態。元来は同一の信仰かも。

完全に分かれるのですね、確かにおもしろい^^

下に蛇行剣、鉄鐸の出土地、出土数を重ねてみました。
(多少の食い違いや未確認の出土地があるかもしれません、ご容赦)

北部、中部九州においても比較的宗像神社の多いところには蛇行剣、鉄鐸出土があるように思います。
宗像神社が1社という地域には出土がない。
やはり相関性があるのかもしれません。

> 宗像(宗方)神社の分布 蛇行剣出土数   鉄鐸〃
> 筑前   5        1      16(+沖ノ島)
> 筑後   1        0       3
> 豊前   4        1       0
> 豊後   2        1       0
> 肥前   7        2       2
> 対馬   1        0       0
> 肥後   1        0       0

> 南方神社の分布
> 日向   7       23      14
> 大隅  12        3       0
> 薩摩  56        2       0
>

>古層のミシャグジ・石神は諏訪では洩矢神を経由。
> 後に建御名方富神につながったのかも。

[4897] Re[4895]: 鉄鐸と蛇行剣  神奈備 2009/03/12(Thu) 21:36 [Reply]
面白い!

> 日向、薩摩には南方神社、南方地名が多く、社名も諏訪社とせず南方とするのが特徴。
古い時代の宗像との関係が残っての事かもしれません。

九州での宗像、南方について

宗像(宗方)神社の分布
筑前   5
筑後   1
豊前   4
豊後   2
肥前   7
対馬   1
肥後   1

南方神社の分布
日向   7
大隅  12
薩摩  56

完全にセパレート状態。元来は同一の信仰かも。


> 宗像、建御名方命は関係があって、その古層に(共通するように)ミシャグジ、石神があるのだろうか?

古層のミシャグジ・石神は諏訪では洩矢神を経由。
後に建御名方富神につながったのかも。

[4896] 日子坐と和邇  とみた 2009/03/12(Thu) 19:24 [Reply]
山尾幸久先生。
日子坐王の子孫は和邇氏は日本海の丹波・但馬・越前・敦賀・近江から南山城を経て大和の東北部をつなぐ一大ルートへ。このルートは先進的鉄工技術を持ち、かつ日の神・日の御子信仰を持ちさらにシャーマンを擁する。
朝鮮の名族出身の和邇氏およびその一族が勢力を南に拡大した。

四道将軍は崇神が各地に派遣して征討。

崇神のお父さんの開化天皇には、たくさんの妃がいる。

開化ー物部系のイカガシコ命の間に、崇神。
開化ー和邇日子オゲツ媛との間に、日子坐王。
開化ー河内埴安媛との間に、武埴安彦。
開化ー竹野媛との間に、丹波道臣。

南山城(山背)の平坂は和邇坂でここで異母兄弟の武埴安彦が反乱。これを鎮めたのが和邇氏。日子坐の子供の狭穂(佐保?)日子が崇神の子供の垂仁に反乱する。

南山城の南に行くと和邇氏の本拠である天理檪本の丘陵上に東大寺山古墳がある。
後漢霊帝の治世184年ー189年の中平年号を刻んだ太刀が副葬される。

和邇氏は楽浪郡の中心地の平壌あたり来た王氏とされるのが山尾先生です。

倭国の本の中で、岡田英弘先生は、秦の時代に朝鮮半島には斉人が山東半島から移住していて、紀元前2世紀に瑯邪の王仲も道術と天文をして有名であったが楽浪郡に逃げてきた。これが王氏である。斉人の系統であることが後漢書から読み取れる。


日子についてはタカミムスビが関係するようです。

元々は日本の日子は北方ユーラシアの太陽神であり高句麗から伝わった。アマテラスは7−8世紀にタカミムスビから太陽神を受け継いだとされるのが、溝口睦子先生です。

2009年1月発行のアマテラスの誕生(岩波新書)に詳しく書かれています。

天孫降臨も高句麗の神話に似ている。タカミムスビは日本書紀で主神であり皇祖神です。アマテラスが並列し転換するのは後の時代だそうです。ヤマト王権時代はタカミムスヒで律令国家成立以降はアマテラスが主役です。タカミムスヒ=高皇産霊を分解する。タカミ=タカ(高)+ミ(御)・・・・最高級の美称。ムス=産で生成の意。ヒ=霊力と見る説と、日(太陽)と見る説がある。

溝口先生は日(太陽)を採用されている。

中国の天=天帝と高句麗や匈奴などの北方ユーラシアの天=テングリで天空=自然
と違うようです。

日奉部や日置や日下がまた関係がありそうですね??

[4895] 鉄鐸と蛇行剣  くず 2009/03/12(Thu) 18:22 [Reply]
古墳や周溝から出土する鉄鐸には、鍛冶具や鍛冶滓などとの共伴が多く認められる事から、
鍛治(製鉄?)においてなんらかの祭祀に使われた可能性がありそうです。
宮崎から鹿児島に見られる特徴的な”地下式横穴墓”からも比較的多くの鉄鐸が出ており、
同じく地下式横穴墓群に特徴的に見られる蛇行剣となんらかの繋がりがないものか調べました。
◎=同一古墳 ○=同一古墳群 
▲=近隣での出土・伝承(5km以内)△=その他近隣の出土(参考)

宮崎の地下式横穴墓(群)における鉄鐸と蛇行剣の出土地
◎宮崎県都城市:菓子野3号地下式横穴墓◇鉄鐸6◆蛇行剣1(5世紀〜6世紀)
○宮崎県えびの市:島内地下式横穴墓群◇鉄鐸1◆蛇行剣9(5世紀後半)
○宮崎県西諸県郡:大萩地下式横穴墓群◇鉄鐸5◆蛇行剣1(5世紀後半〜6世紀前半)
延岡市の前方後円墳からも。
○宮崎県延岡市:南方古墳群◇鉄鐸1[32号墳]、◆蛇行剣1[39号墳](5世紀〜6世紀)

日向、薩摩には南方神社、南方地名が多く、社名も諏訪社とせず南方とするのが特徴。
古い時代の宗像との関係が残っての事かもしれません。

他の地域の同一古墳共伴例と、同一地域の出土例
◎京都府南丹市:城谷口2号墳◇鉄鐸1◆蛇行剣1(6世紀) 
▲兵庫県朝来市和田山町:向山5号墳◇鉄鐸2(6世紀中頃)、茶すり山古墳◆蛇行剣2(5世紀)
▲長野県諏訪市:フネ古墳◆蛇行剣1(5世紀前半):諏訪大社上社伝世鉄鐸(佐奈伎の鈴)
△岡山県津山市:西吉田北1号墳◇鉄鐸1(5世紀中頃): 藤蔵池古墳◆蛇行剣1
※藤蔵池古墳(群)の隣に倭文神社と少彦名神社があり旧称を赤子(しゃくし)宮。
http://kamnavi.jp/log/ktba0210.htm(青草[350]日雲さん)

△栃木県小山市:桑54号墳◆蛇行剣1:栃木県宇都野宮市:杉村遺跡◇鉄鐸1
栃木県日光市:太郎山頂遺跡 鉄鐸131(古代時代細分不明)
小山市内に胸形神社があります。

宗像、建御名方命は関係があって、その古層に(共通するように)ミシャグジ、石神があるのだろうか?

[4894] Re[4893]: 訂正  素人 2009/03/11(Wed) 01:06 [Reply]
> カンナ流し(鉄穴ながし)は金の採取法「ねこた流し」に起因するとされているので、戦国時代からであろうとされているようです。
> 江戸時代ではなかったようです。すみません。
偉い先生はこのようにお考えなのでしょうが、少し考察してみると金と違っ砂鉄の値段は格段に安いわけで、どうも砂鉄が売買されていたようで他の砂鉄に比べてカンナ流しで生産する砂鉄が有利か疑問が湧いてきます。砂鉄の含有率は1〜2%と低いので大変な労力の割にあまり値段は高くは無かったのではと考えてしまいます。
砂鉄堆積鉱床が豊富な時期は濃度の高いこちらを掘った方が有利かとも思えます。
砂鉄堆積鉱床の低品位の砂鉄の精製のために同じような比重選鉱を行うことも考えられますが、これはカンナ流しとは言わないのでしょう。
これらと混同しているのではと手前味噌に考えてしまいます。
後の時代は、鉄が大量生産されて原料の砂鉄が不足して砂鉄の値段が上がったのではないかと夢想します。砂鉄の品質による値段の格差も大きくなったのかもしれません。こうなれば、カンナ流しも農閑期の副業としては成り立つのかなと考えています。
勝手な青草でした。

[4893] 訂正  素人 2009/03/10(Tue) 00:31 [Reply]
カンナ流し(鉄穴ながし)は金の採取法「ねこた流し」に起因するとされているので、戦国時代からであろうとされているようです。
江戸時代ではなかったようです。すみません。
江戸期以前でも玉鋼もどきが出来ていたのでしょうか。歩留まりは悪くても。
白銑鉄と共にケラを取り出していたのでしょう。
大々的にやられたのは江戸時代のようです。
青草失礼しました。

[4892] Re[4890]: 日子坐と和邇  素人 2009/03/09(Mon) 23:57 [Reply]
とみた様
駄文を読んでいただいて恐縮です。
律令期前の製鉄技術の伝播は重要です。
> 素人さん
> > 良質の山砂鉄は従来の砂鉄堆積鉱床からは得られないので、やもうえず山から掘り出して水流による比重選別を行って、砂鉄を得たと思われます。これが「鉄穴流し」で「玉鋼」と同時代のはずですから江戸時代では。

と言う事で、出雲の製鉄はそう古くないと言うことになります。
玉鋼の発明地で有るのでしょう。近世に高度な製鉄技術が花開いた地であるわけです。玉鋼の生産には良質の不純物の少ない砂鉄が必須であった訳です。


>
> ありがとうございました。以上を参考にさせていただきます。鉄と太陽神と開拓がキーでしょう。
鉄器集団の宗教は太陽神であったのでしょう。鉄器集団の東征時に対峙した、サヌカイト集団は違った神を祭る集団だったのでしょう。

> また、研鑽を積んで論を高めたいと思います。
大陸から製鉄華僑とともに吉備に受け入れた高度製鉄技術と遣唐使が持ち帰った大陸での製鉄技術情報から律令期の鉄の量産体制が確立されたのでしょう。
大仏建立時に伝播した高度の踏み鞴技術が次の発展のステップとなったのでしょう。
よくご存じでしょうが、弥生後期の鉄鏃出土数ですが面白い地域性があります。
弥生時代の鉄鏃・銅鏃の地域別出土数
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page019.html
素人ですからお手柔らかに。
青草でした。

[4891] Re[4888][4887][4885]: 日子坐と和邇ー南山城  佐々木 2009/03/09(Mon) 11:13 [Reply]
> 現在の奈良市丹生町付近です。丹生神社が鎮座、松田寿男『古代の朱』によりますと、丹生神社境内の土壌から 0.00254%の水銀が検出されて。。。。

神奈備さん もろもろありがとうございました。

とみたさん
 加悦町史資料編第1巻が最近発行されました。これが最新の成果だと思います。
 考古資料および神社資料が非常に充実した内容となっているそうです。お近くの図書館等々でまたご確認ください。小職も近々確認したいと思っています。
http://www.town.yosano.lg.jp/updfiles/mu1/contents/3000/2404/xml_upd_file3/kaya002.pdf#search='加悦町史'

[4890] 日子坐と和邇  とみた 2009/03/09(Mon) 08:25 [Reply]
佐々木さん
> また仁徳の栗隈の大溝の開削も秦グループでしょう。
 この溝の開削で宇治と木津川上流が船で行き来できるようになった。近くに且椋(あさくら)神社がありまして、関心を持っています。
丹後では確認できない秦氏、馬、隼人の3点セットが特徴でもあります。
 仁賢帝と浦嶋子の類似性を少し勉強しています。
 戦前は狛村は、高麗村と書いていました。


素人さん
> 良質の山砂鉄は従来の砂鉄堆積鉱床からは得られないので、やもうえず山から掘り出して水流による比重選別を行って、砂鉄を得たと思われます。これが「鉄穴流し」で「玉鋼」と同時代のはずですから江戸時代では。

ありがとうございました。以上を参考にさせていただきます。鉄と太陽神と開拓がキーでしょう。
また、研鑽を積んで論を高めたいと思います。
 

[4889] Re[4877]: 日子坐と和邇  素人 2009/03/08(Sun) 01:38 [Reply]
とみた様
書き込みありがとうございます。

>岡山大 考古学者の新納泉は出雲街道に注目されています。東出雲から津山を経て吉備に通ずる道で、大和へ鉄を運んだのでしょうか。
吉備の製鉄が盛んなころは、技術は門外不出でしょうから、原料の鉄鉱石や砂鉄が陸路や河川経由で運ばれたのでしょう。鉄は海路で大和へ運ばれたのではないでしょうか。門外不出の高度製鉄技術を丹後あたりの大和政権の出先から見張りの厳しくない吉備の裏の方から探索して、技術・製鉄職人の入手を試みて製鉄実験をしたのではないでしょうか。
当時の吉備の製鉄はチタン酸化物の少ない磁鉄鉱や砂鉄を使用して低温で低炭素の塊錬鉄を作る技術のために、日本で多く産出(海砂鉄堆積鉱床)する高チタンの海砂鉄の製鉄には向いていなかった。吉備では方形の幅の広い製鉄炉のために、温度が上がらずにチタン酸化物の熔解が困難で不純物が残った。後に幅の狭い長細い炉で、自然風を使って直接還元後に革鞴で強制的に空気を送り、高温として海綿鉄を急激に浸炭させて白銑鉄を製造したのではと考えています。(ラッパ状の羽口)これは、瀬田高原で実験され、福島県原町で海砂鉄から大量の白銑鉄を製造して、脱炭素により鋼・軟鉄が製造されることとなります。
もちろん鋳造も行われたと思われます。
>私は、足守川流域の津寺ー楯築ー上東遺跡に注目しています。ところで、海砂鉄と山砂鉄は組成は同じでしょうか。いずれも磁鉄鉱?
粒状磁鉄鉱ですが、チタン酸化物の量が違うのでしょう。山陰はチタン酸化物が少なくて、山陽道はチタン酸化物の量が多く、磁鉄鉱の酸化が進んでいる。海砂鉄はチタン酸化物の量が少ない物もあるが、通常は非常に多い。
不純物としてチタン酸化物が多かったりすると、金属表面から金属内部などに不純物部分から水分が浸透して、金属内部から錆が発生して内部から酸化が始まり、急激な酸化により、使用不能となるのかもしれません。隙間酸化効果による進行と相まって、鉄器内部からの腐食により急激に酸化して鉄鏃・ナイフなどの折れによる使用不能に繋がったかもしれません。関係は不明ですが、鉄鏃などで弥生中期頃には使われていたと思われますが、あまり出土せずに弥生後期になってかなりの量が発掘されるようになってくるので時代によって鉄の不純物などの量が減って良質の鉄となり腐食が進行せずに残ったとも考えられます。海面鉄からの直接還元法ですと原料が悪いとチタン酸化物の量が多かったのかもしれません。海面鉄の一部酸化で軟鉄を作るとウスタイ(FeO)なども残りやすくなります。中国からですと、白銑鉄からですから不純物は少なかったのでしょう。

>山砂鉄は、鉄穴流し(カンナナガシ)で山を崩して砂を川に流し、鉄分が川の底にたまったのを採る方法ですね。出雲の斐伊川など有名で天井川になりました。この手法は何時の時代から始まったのでしょうか。
砂鉄に恵まれた、日本では成分を気にしなければ、大量の河川堆積砂鉄鉱床や海砂鉄堆積鉱床などの砂鉄鉱床が沢山有ったでしょうから間接製鉄法でのたたらで白銑鉄を製造していたでしょう。これから脱炭素で各種鉄を製造したのでしょう。
江戸時代にチタンの少ない良質の山砂鉄から直接還元法で鋼が作られるようになり、この鋼の一部が「玉鋼」と言われる高純度の素晴らしい鋼で大発明でした。(山陰の砂鉄)
この鋼により刀にも大革命がもたらされました。
良質の山砂鉄は従来の砂鉄堆積鉱床からは得られないので、やもうえず山から掘り出して水流による比重選別を行って、砂鉄を得たと思われます。これが「鉄穴流し」で「玉鋼」と同時代のはずですから江戸時代では。
砂鉄は砂鉄だけでなく硅質を含むもので硅質はノロの原料になり適性なタタラには必要であったらしい。磁撰でないと超高純度のものは難しいらしい。
青草でした。

蛇足(初期の鉄族はあまり残っていないようですが。)
吉備の弥生期の木の葉形石鏃が載っています。鉄鏃を持った新勢力の東征と関係あるかもしれません。岡山大学Web。(pdfですが。)
http://www.okayama-u.ac.jp/user/arc/issue/leaf/leaf36.pdf

[4888] Re[4887][4885]: 日子坐と和邇ー南山城  神奈備 2009/03/07(Sat) 17:07 [Reply]
> ちなみに和邇氏らは大和柳生あたりの水銀の採掘権があったという話があるのでしょうか。

 現在の奈良市丹生町付近です。丹生神社が鎮座、松田寿男『古代の朱』によりますと、丹生神社境内の土壌から 0.00254%の水銀が検出されているようで、朱砂産地だったと言えるようです。

 文献上、この付近に和邇氏関連氏族が居住していたとあるのは承知していませんが、和邇氏の分布域の範囲に囲まれているようで、居たとしても不思議ではなさそうです。
 
 なお、柳生一族は菅原道真公の末裔だそうです。

[4887] Re[4885]: 日子坐と和邇ー南山城  佐々木 2009/03/06(Fri) 23:37 [Reply]
 とみたさん

 補足ですが巨椋池は、江戸時代以前は大池と呼ばれていました。向島は宇治川を伏見城の防御のために付け替えたためにできた島なんです。
 また戦前山城湖と言った学者が居ましたが、その後その実態が否定され、水深1m未満の遊水池性水域とされています。
 平安時代の御堂関白記などで、大小の巨倉(おほくら)津が出てきますが、場所は判然ではありません。
 小職は大の方は丹波橋あたりの伏見住吉小学校あたりではないか、小がJR宇治駅前の宇治武田病院あたりではと勝手に考えています。
 それは秦グループが、淀川流域では西島、平田、茨木氏、宇治川や木津川の下流域および鴨川流域では大蔵(おおくら)氏、桂川流域では山下氏を名乗った経緯があったからです。
 
 ちなみに和邇氏らは大和柳生あたりの水銀の採掘権があったという話があるのでしょうか。
 
 また仁徳の栗隈の大溝の開削も秦グループでしょう。
 この溝の開削で宇治と木津川上流が船で行き来できるようになった。近くに且椋(あさくら)神社がありまして、関心を持っています。

 ちなみに巨椋池の地下5mには弥生の遺構がありました。http://www.town.kumiyama.kyoto.jp/subpage/subpage.php?p=788

 丹後では確認できない秦氏、馬、隼人の3点セットが特徴でもあります。
 仁賢帝と浦嶋子の類似性を少し勉強しています。
 戦前は狛村は、高麗村と書いていました。

 追記 京丹後市で、大阪工業大学空間デザイン教室の妻木宣嗣先生が、丹後地域の神社について詳細に調査したようです。昨年A4で2cm程度の報告書が出たようです。
 

[4886] 和迩氏と鉄鐸  くず 2009/03/06(Fri) 13:22 [Reply]
長野の諏訪大社にサナギの鈴と呼ばれる鉄鐸が伝わります。
同じく塩尻市の小野神社(辰野市側に弥彦神社)も、同様の鉄鐸を御神宝とします。
小野猿丸太夫の伝説を残す日光、二荒山山頂からも同様の鉄鐸が大量に出土。

和迩氏系とされる小野氏が鉄鐸を使った祭祀と何か関係があったのではないか?
と考え鉄鐸について調べてみました。
その中で古墳時代の鉄鐸に関する研究で興味深いものを見つけました。
「古墳時代の鉄鐸について」早野浩二氏
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo09/0903haya.pdf

5世紀半ばから古墳などで発見される鉄鐸は、合わせて出土する鍛治具等から考えて、
鍛治に関係する祭祀具として使用されたのではないか。とされます。
また朝鮮半島の伽倻地域でも同様の出土傾向が見られるようです。

国内における出土分布図がありますが、地域的に限定される特徴が窺えます。
出土数を県別に抜き出すと、南から、

宮崎県14点、福岡県17点+沖ノ島祭祀遺跡、佐賀県2点
岡山県7点、愛媛県1点、
兵庫県1点、大阪府1点、奈良県(天理市、桜井市)9点、京都府(南丹市)2点
愛知県6点、長野1点、群馬1点

九州では福岡と宮崎に集中します。
瀬戸内では岡山、畿内では奈良(天理、桜井)東海で愛知に集中。
※本州日本海側には見られないようです。

蛇行剣との供伴が2例あります。
宮崎県都城市 菓子野3号地下式横穴墓
京都府南丹市 城谷口2号墳
諏訪のフネ古墳からも蛇行剣が出土していますので関係があるかもしれません。

和迩氏との関連では
出土例のある愛知県春日井市に、阿太賀田須命を祀る和爾良神社があります。
畿内の例なども含めて和迩氏と関係するのかも。
福岡での集中は宗像氏関連が考えられます。諏訪の建御名方神の名も関係ありか。

『新撰姓氏録』(右京神別下)「宗形君、大国主命六世孫、吾田片隅命之後也」
とあり、和迩氏同様 吾田(隼人)に関係するとすれば、
宮崎への集中とも繋がりそうに思います。

最古(5世紀中頃)のものを含む吉備、渡来系(伽倻?)との関係は考え中^^;
皆様のご意見を伺えたら幸いです。

[4885] 日子坐と和邇ー南山城  とみた 2009/03/05(Thu) 13:07 [Reply]
佐々木さん

八幡から南の山城つまり南山城に思いを馳せます


http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008120200211&genre=M2&area=K00

読ませていただきました。ありがたいです。八幡市の美濃山の王塚、男山丘陵ですか。

実は私事で恐縮ですが、壮年時代の転勤族で住んでいました。大坂府と京都府の堺です。

仮住まいの枚方樟葉は大阪府で隣の男山は京都府ですね。京都府八幡も近い。男山地域の古墳勢力と城陽市の久津川古墳群勢力が拮抗していた。古墳時代中期つまり5世紀の話ですね。

近鉄京都線で南に進む。丹波橋、桃山御陵、向島、小倉、久津川、田辺、宮津、狛田、祝園、木津川台、平城・・・・奈良。

久津川がありますね。

丹波は丹波・丹後へのルートでしょうか。

小倉は小椋かな、昔は巨椋と書いたのか?オホクラとかオグラと読む。

木津川と宇治川と桂川などが合流して流入した大きな湖沼で船が行き来していたところでしょうか

小倉百人一首とかの小倉、万葉集でもオグラ=巨椋の入り江が出てきます。

向島もこの巨椋池の島ですね。大昔は山城湖で低湿地帯であったのでしょう。このあたりは洪水が頻発したので秦氏などの渡来人が来たのでしょうね。狛人も来たのでしょうか。琵琶湖とも宇治川を経由してつながり木津川も流れ込んでいますから和邇氏も入ってきたのでしょう。木津川は盆地の南に砂泥を堆積し南山城平野を形成した。

狛は狛人=高句麗人が入植した。
木津川台や祝園あたりに椿井大塚古墳が出来る。

ついでに

桃山御陵に明治天皇の陵墓があり上円下方墳とか。昭和天皇は東京の武蔵の御陵で上円下方墳ですね。





[4884] Re[4881]: 日子坐と和邇ー南山城  佐々木 2009/03/04(Wed) 21:29 [Reply]
 とみたさん

 この記事が最新でしょうか。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008120200211&genre=M2&area=K00

 継体帝尊属系統か秦氏関係者か? 実は小職の本場ではないのです。

[4883] Re[4882][4880]: 日子坐と和邇  大三元 2009/03/04(Wed) 15:24 [Reply]
神奈備さん

>  これはサホ→サヒ→ワニの証か。

前出のように:岩波の日本書紀p126の頭注では朝鮮語 stapoが「{金且}(鋤)」のことで、これが日本語「サヒ」(小刀、刀)に当たる、としてます。

つまり、サヒよりはサホの方が stapo により近いように見えますよねぇ。沙本毘古王の天皇暗殺計画にも「小刀」がモチーフに入ってますしイミシンですかね。

[4882] Re[4880]: 日子坐と和邇  神奈備 2009/03/04(Wed) 14:23 [Reply]
> 漢「委奴」国と
> 「狭野」尊

 神武東征と倭国(邪馬台国や伊都国の連合)東征とが重なって来ると楽しい。
 ターゲットは大和⊂狗奴国。

 『初期天皇后妃の謎』p147
 沙本毘古王がワニ系の復権を企てる。

 これはサホ→サヒ→ワニの証か。

[4881] 日子坐と和邇ー南山城  とみた 2009/03/04(Wed) 13:13 [Reply]

佐々木さんのご紹介
>
また峰山区赤坂の今井赤坂墳丘の近くにも昨岡神社があり、山城の京田辺市飯岡古墳群の近くにも咋岡(くいおか)神社があって、京田辺の息長氏もあわせて、比較検討途上です。

神奈備さん ご紹介
 >「日子坐王」の子孫の系譜、和珥氏および息長氏、天日槍や神功皇后や継体天皇の系譜と伝説、等々に関する信頼できる研究を読めば読むほど、越前から丹波・但馬を含む山陰地方と、敦賀近江じゃら南山城を経て大和の東北部をつなぐ一大ルートは、先進的な鉄工技術を持ち、かつ日の神・日の御子信仰を持ち、さらに「鬼道」をこととするシャーマンを擁する朝鮮の名族出身の和珥氏およびその一族が勢力を南に拡大してきた一ルートではなかったかということだ。

なんとなく触発されますね。
南山城古墳、木津川周辺は和邇氏の本拠でしょうね。一番古いのが相楽の椿井大塚山古墳で古墳前期のものつまり4世紀の初め300年ぐらいのもの。三角縁神獣鏡が32面でて黒塚33面についで多い。

三輪山の考古学(学生社)の本の中で、塚口義信さんはこれを日子坐王の王墓とされています。

北に進むと、久世の九津川の車塚古墳がありこれは5世紀です。宇治の二子塚古墳は6世紀で、最終的に移動した先だとされています。

綴喜の八幡地区には4世紀後半の西車塚古墳と東車塚古墳があります。
大住地区には大住南塚古墳と大住車塚古墳が並んでいますどちらも前方後方墳です。  少し西に月読神社が会って、隼人が奉祭していたので大住=大隈(隼人の本拠)と分かるのでしょう。

この二つの古墳が木津川左岸で築成が終わり、5世紀中頃に久津川車塚に移るのだそうです。南山城古墳は、南から北に勢力が進みます。

北の丹後から日子坐がやってきたのに和邇氏は北上しています。天理の添上の和邇下神社古墳辺りが和邇の本拠という説もあります。

佐々木さんの本場でしょうから、後をよろしくお願いします。

[4880] Re[4878][4858][4856][4855]: 日子坐と和邇  大三元 2009/03/03(Tue) 19:02 [Reply]
神奈備さん

>  神奈備注:これがサヒ=ワニの根拠かも

岩波日本書紀補注2−三四(稲飯命)でも sapi=same*=wani と論じています。これの当否は判りませんが、もしこの等式のうち wa=sa を他にも応用出来るのだとしたら・・・
 倭(委)=狭(佐) という面白いことになります。
つまり、漢「委奴」国と
     「狭布」の稚国、
     「狭野」尊 が同義なのか・・・と。

更に「阿波枳閉委奈佐比古命」、「和奈佐」、「和奈佐意富曽神社」などの語義探索にもヒントを与えそうです。

(P.S. 信仰とか鉄の方面は疎いので部分的なレスでお許し下さい)


[4879] Re[4877]: 日子坐と和邇  佐々木 2009/03/02(Mon) 21:08 [Reply]
 とみたさん

 いろいろ貴重なご案内ありがとうございます。
 比較的定期的に訪問する地域なのですが、灯台下暗しでした。

>円礫 
 円礫は海浜礫を使用しているのでしょう。昔から弥栄区黒部から溝谷あたりでよく採取されます。

>円礫の風習
 もしかすると礫浜がルーツなのかもしれません。礫浜のある地域の人たちなのか?

>四隅突出墳
 これは加賀か能登では見つかっているのでしたか。

補足
 丹後前方後円墳の位置と2世紀ごろの海岸線を比べると見事に水際線の高台となりました。
 弥生時代以降の集落遺跡は、概ね温泉地帯または地熱の暖かいところに集中する傾向が見られました。

 ただ不思議なことは、現在は日本海側最大の二次林地帯なのですが、二次林の形成は12世紀?以降とあまりにも遅い。
 いわゆる「丹後王国」の住民は極めて自己主張が少なく、環境負荷の少ないエコな森の住民だったと推定されます。
 
 しかし元伊勢を標榜する神社や浦島伝説が複数存在する変な自己主張もあります。
 佐々木京極氏が来てから荒れたということでしょう。 

[4878] Re[4858][4856][4855]: 日子坐と和邇  神奈備 2009/03/02(Mon) 18:06 [Reply]
大三元さん

 山尾幸久著『魏志倭人伝』講談社現代新書 から


p150 邪馬台国女王卑弥呼を出し、その後も女系により王統を伝えていった一族は、新来の楽浪郡土着漢人豪族出身の和珥氏であろう

p179 「日子坐王」の子孫の系譜、和珥氏および息長氏、天日槍や神功皇后や継体天皇の系譜と伝説、等々に関する信頼できる研究を読めば読むほど、越前から丹波・但馬を含む山陰地方と、敦賀近江じゃら南山城を経て大和の東北部をつなぐ一大ルートは、先進的な鉄工技術を持ち、かつ日の神・日の御子信仰を持ち、さらに「鬼道」をこととするシャーマンを擁する朝鮮の名族出身の和珥氏およびその一族が勢力を南に拡大してきた一ルートではなかったかということだ。

p183 ワニにはいろいろのあて字があるが、このウジ名の由来はわからない。少なくとも、トーテミズムによる説明には疑問点が多い。もっと、直截に、その本流は楽浪郡の土着漢人豪族の王(わん)氏とみるのに、筆者は最も魅力を感じるのだ。


p189 「大率」らが対馬の津([金且]鉏海水門(さひのみなと)、「和珥津」)
 神奈備注:これがサヒ=ワニの根拠かも

[4877] 日子坐と和邇  とみた 2009/03/02(Mon) 11:55 [Reply]
素人さん

>
 大和政権は海砂鉄での製鉄を考えていたようですから、大量に存在する海砂鉄鉱床を用いての鉄の大生産を目論んでいたものと見えます。鉄の国産化による自給体制の確立により、大陸支配からの脱却を考えていたのでしょう。
 津山から兵庫県千種・宍粟(良質砂鉄・磁鉄鉱産地)と朝来市(鉱山地帯)などと鉄資源を求めて人が移動したのでしょうか

岡山大 考古学者の新納泉は出雲街道に注目されています。東出雲から津山を経て吉備に通ずる道で、大和へ鉄を運んだのでしょうか。

私は、足守川流域の津寺ー楯築ー上東遺跡に注目しています。

ところで、海砂鉄と山砂鉄は組成は同じでしょうか。いずれも磁鉄鉱?

山砂鉄は、鉄穴流し(カンナナガシ)で山を崩して砂を川に流し、鉄分が川の底にたまったのを採る方法ですね。出雲の斐伊川など有名で天井川になりました。この手法は何時の時代から始まったのでしょうか。

佐々木さん

丹後は各河川の地層からみて可居住地域を推定すると、標高8m以下のところは10世紀ぐらいまで海域です。現海岸線から3〜5kmまでとなります。
 由良川では大江町河守あたりまでです。
 ゆえに丹後は居住適地としてあまり評価できない。
 丹後は基本墓地または死後再生の土地ではなかろうかと思っています。

丹後の墓制は特徴があります。
日本海沿いに(出雲から越中まで越後は?)ある四隅突出墳がないことです。丹後特有の台状墓があり、丘陵に台形の墓があります。佐々木さんの言われる地質的な考察は魅力的ですね。今は台地と思われているが当時は海に接していたのでしょうか。

弥生後期の中葉に変化があった。墓坑内で供献土器を割る祭祀から墓坑上で祭祀を行うようになった。弥生後期には墓に大量の鉄と玉を入れます)。墓坑上に円礫を並べることが大いに興味を引きます。

円礫の風習は、出雲から出発したか楯築から始まったかの説があります。
野田川沿いには弥生中期の寺岡墳丘墓と日吉ケ丘墳丘墓がありますが丹後はやはり弥生後期(紀元後50年ぐらいに始まる)に丹後王国が盛んになったと考えています。

久美浜の函石浜の綾杉文(貝殻施文)土器のことです。これは北近畿の田能遺跡にも大和の纏向遺跡でも出土しています。

最近読んだ大貫静夫さんという東大教授の著作で、遼東半島の西や沿海州の南部の沿岸部で紀元前に小珠山中層文化群にも綾杉文土器があるようです。遼東半島の西端には同じ文化群で積石塚の集団墓が紀元前1000年紀にはすでに存在しているそうです。

 なお小生も海部氏の久美浜拠点説は昨年末までそうでした。
 
 しかし今は以下のとおりです。
 おそらく海岸沿いの監視拠点(箱石浜、網野銚子山、伊根本庄、田辺:現舞鶴他)と当時の湾奥部の陸上げ中継拠点(峰山区赤坂、加悦区温江他)、さらに内陸本拠の3系統あったのではなかろうか


[4876] Re[4874]: 日子坐と和邇  素人 2009/03/01(Sun) 21:41 [Reply]
とみた様
大変勉強になります。
勝手な屁理屈を書いてみました。
>瀬戸内海はまだ東西に往来できず倭国大乱で鉄が入手できないので倭王権は、交易で潤った丹後から鉄を得ていた。
瀬戸内海を利用できなくなった、大和政権は丹後半島に迂回して日本海経由で半島との鉄貿易を継続して鉄貿易の利権を確保した。ではどうでしょうか。
>3世紀になると鉄は瀬戸内海から入るようになり丹後の利用価値は減じた。
3世紀になっても、山陰と北陸・東北などの旧勢力を日本海側で2分する抑えとして重要視された。などと手前味噌な、へ理屈も考えられます。
とても酷い青草ですが。

>吉備で製鉄が行われるのは、5世紀前半?後半?か6世紀か?、岡山市窪木薬師遺跡(岡山市総社市)で鉄鉱石を原料とした。
  スカルン鉱床の磁鉄鉱は適当に石灰分などを含んで、チタン化合物も殆どなく不純物も少ないので低温還元の直接法でも不純物の少ない良質の炭素濃度の低い塊錬鉄が生成したのでしょう。同じ方法でチタン成分の多い海砂鉄を低温還元の直接法で製鉄するとチタン成分がそのまま残り、不純物となり低品質の鉄材となったのでしょう。品質に煩い日本人には、売れなかったと思われます。在庫の山でしょうか。
>6世紀半ばに入って砂鉄の利用が始まったのではなかろうか。
  吉備の発掘では、美作の国・津山市東部の鴨川西岸の緑山遺跡で製鉄炉が発見されており、6世紀後半ごろで、砂鉄を用い小型の箱型の製鉄炉であった。遠所遺跡のものと同じような製鉄炉です。炉底に地下構造をもつ炉でした。ここの上流は山陰に近く砂鉄もチタン分が少なかったと思われこの為に、遠所遺跡のようにチタン不純物が多くなくて、良質の塊錬鉄がえられたと思われます。川砂鉄とか山砂鉄の高純度のものでは、上手く行く場合があったのでしょう。砂鉄の不純物が重要で、ケラ押しでの玉鋼製造も直接還元法ですから同じ条件でした。製鋼の条件はかなり厳しいでしょうが。
  大和政権は海砂鉄での製鉄を考えていたようですから、大量に存在する海砂鉄鉱床を用いての鉄の大生産を目論んでいたものと見えます。鉄の国産化による自給体制の確立により、大陸支配からの脱却を考えていたのでしょう。
 津山から兵庫県千種・宍粟(良質砂鉄・磁鉄鉱産地)と朝来市(鉱山地帯)などと鉄資源を求めて人が移動したのでしょうか。
青草でした。

[4875] Re[4874]: 日子坐と和邇  佐々木 2009/03/01(Sun) 21:39 [Reply]
 とみたさん
 今の小生も考えは。
丹後は各河川の地層からみて可居住地域を推定すると、標高8m以下のところは10世紀ぐらいまで海域です。現海岸線から3〜5kmまでとなります。
 由良川では大江町河守あたりまでです。
 ゆえに丹後は居住適地としてあまり評価できない。
 丹後は基本墓地または死後再生の土地ではなかろうかと思っています。

 また峰山区赤坂の今井赤坂墳丘の近くにも昨岡神社があり、山城の京田辺市飯岡古墳群の近くにも咋岡(くいおか)神社があって、京田辺の息長氏もあわせて、比較検討途上です。

 実質的な本拠は福知山綾部夜久野のラインとなるのでしょうか。
  
 なお小生も海部氏の久美浜拠点説は昨年末までそうでした。
 
 しかし今は以下のとおりです。
 おそらく海岸沿いの監視拠点(箱石浜、網野銚子山、伊根本庄、田辺:現舞鶴他)と当時の湾奥部の陸上げ中継拠点(峰山区赤坂、加悦区温江他)、さらに内陸本拠の3系統あったのではなかろうか。

 さらに網野の銚子山古墳ですが、現在畑地のあとの空中写真や地割を見ると少し小型の前方後円古墳(未公表)が見えます。
 二子塚の形態を示すことになりますが、二子葬傾向は南山城や尾張氏の古墳でも事例があるようです。

 京丹後市史古代編でどのように門脇説が覆されるか気になるところであります。
追記
 網野神社は、もともと銚子山のあたりにありました。
 日下部一門は、木扁がつく傾向が非常に強いです。
 朝倉氏は、旦椋氏でないかと考えています。旦の字がゆゆしいですが。
 家紋は基本形は木瓜紋が多いです。

[4874] 日子坐と和邇  とみた 2009/03/01(Sun) 16:46 [Reply]
佐々木さん 素人さん
私の流儀での分析です。

考古学的な事実を優先します。伝承からは入らない。記紀の記事はイベントとしては、存在していても年代は操作されていると見做しています。

古代史の地方の舞台を考えるとき、川を見ます。海の入り江とか潟湖とか浦を見るます。

集落は川や浦単位に別の氏族がいたと考えます。

たとえば丹後を例に取ります。

日本海沿いに、丹後半島の北縁部には西から久美浜、福田川、竹野川、そして丹後半島の東の湾部には野田川が流れています。

久美浜には海部の本拠があったというのは丹後の郷土史家の中江さんのお考えです。丹波を713年に分割して丹後を作ったとき国府を宮津に移してそれで海部の本拠も籠神社に移動したと仰せでした。久美浜には函石浜遺跡があり綾杉文土器(貝殻施文)が出るし、明刀銭(中国戦国時代の燕国の通貨)や貨泉(王莽〜後漢時代の通貨)が出ています。

籠神社の海部氏の系図は平安期のもので国宝に指定されていますね。
福田川の河口の入り江には網野があり、網野神社に伝わる丹後日下部森系図があるそうです。水之江浦嶋子の話が丹後風土記にあります。
4−5世紀の日本海屈指の網野銚子山古墳という前方後円墳があります。

竹野川の河口には竹野神社と神明山古墳があります。これも大きな前方後円墳です。

竹野川の中流域に遠所遺跡があり、素人さんご指摘の製鉄ー鍛冶一巻処理の遺跡(多分6世紀ー7世紀)がります。さらに扇谷がありここは最古の環濠集落です。
野田川の中流には蛭子山古墳や作山古墳や白米山古墳があります。これらは4−5世紀に倭王権の軍門に下った時代の丹後の古墳だと思います。それを遡る時代の弥生時代には丹後は独立国で、大きな勢力を張っていた。その象徴が今井赤坂墳丘墓でしょう。

野田川、福田川、竹野川流域の4つのクニを纏め上げて大きな勢力になった。
瀬戸内海はまだ東西に往来できず倭国大乱で鉄が入手できないので倭王権は、交易で潤った丹後から鉄を得ていた。

3世紀になると鉄は瀬戸内海から入るようになり丹後の利用価値は減じた。

吉備とのつながりを倭王権は重視するようになった。

吉備は当時は塩で稼いだ。

日置とか日下は雄略の時代で5世紀でしょうか。日子坐はいつの時代か?

鉄と太陽神との関係ですね。

海部だとすると、海神=対馬の綿津見神社と関係があるのでしょうか。

アマテルは天火明で天照でなくルーツ?か阿麻氐留神社があります。海部氏の分布は東海は伊勢、尾張、関東は上総、信濃、越前、丹後、隠岐,安芸、南海は紀伊、淡路、阿波、伊予、土佐、西海では筑前、豊後です。

長文で申し訳ありません。

吉備で製鉄が行われるのは、5世紀前半?後半?か6世紀か?、岡山市窪木薬師遺跡(岡山市総社市)で鉄鉱石を原料とした。

6世紀半ばに入って砂鉄の利用が始まったのではなかろうか。



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