青草掲示板ログ平二十一年 十月 2009.10
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5280] 小国の外交では、はったりが重要?  PONTA [Url] 2009/10/31(Sat) 02:21 [Reply]
邪馬台国が魏志倭人伝の通りだと、遥か南方の海上・・・というのも、首都を攻撃されないように嘘をついたとか、日本はものすごく広いんだというはったりのようにも思えます。
今は人工衛星で見られてますから、そんな嘘はつけません。今、小国が大きく出るとしたら、「核兵器を持ってるぞ」って脅しくらいかな。

[5279] 無題  PONTA [Url] 2009/10/30(Fri) 21:17 [Reply]
幅の広い川(瀬戸内海)を行き、上陸したら、目の前に超広い道と、超巨大な王墓があれば外国人はビックリしますよ。
日本の国王の力は強大だとか、戦争になったら、この広い道が軍人で埋まって、船で攻めて来るとか・・・使者は、国に帰って、「負けるとは思わないけど、わが国もかなりの痛手を負うだろう」と国王に報告したことでしょう。

[5278] Re[5277][5272][5271][5270][5269]: ヤマタノオロチ  神奈備 2009/10/30(Fri) 14:09 [Reply]
> 外国からの使者が船でやって来て、上陸する場所が難波。

アイデアのご提供ありがとうございます。
瀬戸内海を「日本にも大きい河があるね。」と認識する国の人です。
道路幅も相当でなくちゃ。

[5277] Re[5272][5271][5270][5269]: ヤマタノオロチ  PONTA [Url] 2009/10/29(Thu) 22:50 [Reply]
>何故、これほどの広さの道が必要だったのでしょうか。
>など色んな可能性が考えられます。いかがでしょうか。

はったりじゃないですか?
外国からの使者が船でやって来て、上陸する場所が難波。
そこに巨大な道路があれば、「日本ってすごい!」とビックリします。
伝仁徳天皇陵が超巨大なのも、場所から考えて、外国からの使者をビックリさせるためだと思います。
第一印象は重要ですから。

[5276] Re[5275][5268][5267]: 草薙剣  神奈備 2009/10/27(Tue) 08:53 [Reply]
> 観世音経の僧を一杯あつめて読経をしたりね。

 天武五年には金光明経を説かしています。この経のポイントは、「天神は,国王が正法を行えば守護するが,非法を行えば天神に見捨てられ,国が滅亡する。」ことだそうです。自らの皇位の正当性を主張できる根拠に使われたのでしょう。引け目を感じていたのでしょう。
 その気持ちが『記紀』の編纂につながった。しかし三種の神器の一つに祟られたお話は、あまねく知れ渡っており、無視できずに『紀』に採録されたのでしょう。簒奪王朝と言われても仕方がない??

[5275] Re[5268][5267]: 草薙剣  とみた 2009/10/26(Mon) 15:56 [Reply]
秋雨前線が通り過ぎて関東圏も冷たい雨です。

外出も億劫で青草に立ち寄らせていただきます。

>  大友皇子が祟ったと言うあたりは判りにくいと思います。
>  
> > 高祖は斬蛇剣で白蛇を斬りました
>  これに対応するのが、「天武が草薙剣で大友皇子を斬りました」になります。
>  草薙剣が祟ったと言うことは、草薙剣に籠もった大友皇子の霊が祟ったと理解できるからです。
>
>  さて、草薙剣が祟って来たのでどう対応したのか。

今頃気付くのですが、日本書紀は天武の息がかかっていて、壬申の乱で功績のあった勢力を大切に扱い、反勢力には冷淡ですね。

安国造や三尾氏など継体には協力する有力な豪族ですが、壬申の乱で大友側に就いたので記紀には出てきません。

天武の病の元が草薙剣が大友勢力を斬った祟りだと占いでわかって、即日熱田神宮に草薙剣を装置した。天武は病になるといろいろなことをしますね。

観世音経の僧を一杯あつめて読経をしたりね。

大海人皇子の私領地の岐阜県は西美濃の安八郡の湯沐邑で兵を挙げるのですが、この湯沐邑の名は前漢の高祖劉邦が沛から挙兵した地の名前ですね。これは皆様承知のところです。

記紀編纂者は、中国の歴史書には通じておりますね。

雄略時代の雄略と星川皇子と清寧の関係は、随書からパクっているらしく、隋の文帝−楊秀ー煬帝に擬えているそうです。

中国は鉄技術が進んでいましたが、農工具を中心に用いていて、武器の鉄器化は後れて前漢末と結論づけられています。

秦始皇帝の利用したのは青銅器の武器でした。

[5274] Re[5273]: 三人の妃に隠された二王朝並立(mixi)  神奈備 2009/10/26(Mon) 13:57 [Reply]
> 大海人皇子(天武天皇)の妃に天智天皇の娘が3人! 3人に隠された二王朝並立。
>
>  妃    生んだ皇子女
>  大田皇女−大来皇女・大津皇子
>  菟野皇女−草壁皇子
>  大江皇女−長皇子・弓削皇子

 どうやら4人目がいたようです。

  新田部皇女−舎人皇子

 いささか異常ですね。

[5273] 三人の妃に隠された二王朝並立(mixi)  神奈備 2009/10/24(Sat) 16:49 [Reply]
 大海人皇子(天武天皇)の妃に天智天皇の娘が3人! 3人に隠された二王朝並立。

 妃    生んだ皇子女
 大田皇女−大来皇女・大津皇子
 菟野皇女−草壁皇子
 大江皇女−長皇子・弓削皇子

 
 天武さんが天智さんと言う一人の人間の娘を3人も妃とするというのは、過去では欽明天皇が宣化天皇の娘を3人妃にいれていること位です。

 妃     生んだ皇子女
 石姫   −箭田珠勝大兄皇子・訳語田渟中倉太珠敷尊(敏達天皇)・笠縫皇女
 稚綾姫皇女−石上皇子
 日影皇女

 さて、欽明天皇と宣化天皇の共に継体天皇の皇子で兄弟です。異母です。天智と天武は同母です。

 安閑・宣化朝と欽明朝には二王朝並立であったのではとの説があります。皇女を娶とる(差し出す)ことで妥協と統合を図っていたのではないでしょうか。欽明・蘇我連合が継体安閑宣化・大伴連合を倒したことで欽明朝が成立、大伴氏は失脚へ向かいます。

 天智天皇は近江に遷都し天皇になります。大和の豪族は全て近江へ行ったのでしょうか。大和、特に飛鳥近辺の豪族は面白くない、ということで天武さんを担いで飛鳥王朝を作り、近江王朝に対抗していたのではないでしょうか。『日本書紀』にはそんなことはおくびにも出していないのは欽明さんの場合と同じです。
 
 天智さんの逝去をきっかけに近江朝を倒す戦争−壬申の乱−が起こったのかも。

 唐との交流が行われて戦争状態ではなくなっているのに、高安城や長門・筑紫に城を築いています。チグハグな二元外交のように見えます。二朝ならさもありなん。

[5272] Re[5271][5270][5269]: ヤマタノオロチ  神奈備 2009/10/22(Thu) 17:26 [Reply]
 右近の橘、左近の桜、桜は梅だったのですが、二つの楼はこの二つとすれば、梅の繁栄、橘の悠久、この八角形であまねく日本中に行き渡らせる祈りだったのかも。

 所で。

 『紀』推古天皇二十一年、「難波から都に至る大路を設けた。」とあります。

 堺市と松原市にまたがる大和川・今池遺跡で幅十八メートルの南北の道路が見つかっています。この道路を真っすぐ北にのばすと朱雀大路(難波宮朱雀門)につながることから、推古二十一(六一三)年に、難波から京に至る大道を築いた際の南北古道(難波大道)であると推定されています。

 この頃に既に難波宮の原形のようなものがあったのかも知れません。外交施設はあったので、都から、また難波からの人々の移動や荷物の移動は少なからずあったのでしょう。

 さて、発見された道の巾は18m、結構広い幅だと思います。大阪では本町通りの車道部分。何故、これほどの広さの道が必要だったのでしょうか。

1.急ぐ伝達なんかは馬を疾走させたのでしょうから、馬が安心してすれ違う広さが要った。
2.道の側にはドブなどがあり、また庶民がいた。貴族・役人は接触を避けるために道の中央を独占していた。
3.道饗の祭りのような儀式があり、神官(貴族)が数人ならんで列をなして歩いていました。丁度伊勢神宮のお祭りのように。その巾を取る必要があったこと。また道路上での儀式も行われたのでは。
4.騎馬隊。騎馬隊の戦闘はやはり数騎が並んで敵陣へ攻め込みます。その為の道幅。

 など色んな可能性が考えられます。いかがでしょうか。
 

[5271] Re[5270][5269]: ヤマタノオロチ  かしこ 2009/10/22(Thu) 11:24 [Reply]
ありがとうございます。

>橘のよう

親類に橘姓がありますが、昔は立花と書いたといいます。立花。これは「竜花」或いは「太刀花」と見えなくもない。すると、田道間守が獲りに(敢えてこの文字を使ってみます)行ったのは柑橘類の実などではなく、オロチだったのでしょうか。それがヤマタノオロチならば、その尾には太刀があります。

語呂合わせといいますが、語呂が合うということの裏には何か通じるものがある(場合もある)のではないだろうかというのが私の感じ方かも知れません。と、妄想に近いかもしれない空想のいいわけを。^_^;

>ワインを呑みながら

いいですね〜。夜はお茶よりお酒をちょっとだけ、が本当はよいのですが、大好きなお茶コーヒーの誘惑に逆らえず、つい目が冴えては妄想がふくらむ今日この頃です。失礼しました。

[5270] Re[5269]: ヤマタノオロチ  神奈備 2009/10/22(Thu) 08:20 [Reply]
> こんにちは。お久し振りです。
こちらこそご無沙汰です。書き込みありがとうございます。

> 屋根の頂点から天降る八つの頭。そんな目で見ると、楼の lou という音が竜に近く感じられます。次々とつながるという意味だそうですから、安定と繁栄の気持も込められていたのかも。

 含蓄のある見方です。橘のようですね。竜の彫刻なんかが見えれば、すごい迫力があったでしょうね。魔除け、繁栄を呼ぶように感じたのでしょう。


> 秋の夜長にお茶を飲みつつ益々佳境に入って大変です。
 ワインを呑みながらの妄想を広げています。

> 斬蛇剣といえば、スサノオがオロチを斬ったのが天蠅斫剣。
 本当はそうですね。草薙剣はその結果出てきたものですが、皇位のシンボル故にそれも飲み込んで。

[5269] ヤマタノオロチ  かしこ 2009/10/21(Wed) 19:05 [Reply]
こんにちは。お久し振りです。

本殿[9993]
>二棟建っていると言う事はペアであることに意味がある
>門神のようなものかも

私もそう感じました。
同時に、八角の屋根は八股のオロチ・八口を連想させるなぁ・・と。
屋根の頂点から天降る八つの頭。そんな目で見ると、楼の lou という音が竜に近く感じられます。次々とつながるという意味だそうですから、安定と繁栄の気持も込められていたのかも。

もっとも八股のオロチは、頭も尾も夫々八つだそうですね。広辞苑を見ると、
 をろ(峰ろ):峰。ろは接尾語。
 おろ(尾ろ):尾。ろは接尾語。
とあります。八股の尾ろチで尾の方は問題ないので、では口を作ってしまおう。(^^ゞ
 八股の峰ろのクチナワ→峰ろクチ(→峰ろチ)---と、天降る八つの口が出来ました。
オロチの背には木々が生い茂っていたそうですが、ヲロチが山ならさもありなん。
その赤い目は流れ下る緋色の川か、はたまた山頂の火でしょうか。

それから、頭も尾も八つで胴体はひとつという姿。これを、ある集団の八支族と捉えるのはどうでしょう。特に八口という場合、そのニュアンスを感じます(生口などの語から)。それとも、八角殿(楼)に類する大建築を有していた豪族の暗喩か?などの空想も、秋の夜長にお茶を飲みつつ益々佳境に入って大変です。 m(._.;m

斬蛇剣といえば、スサノオがオロチを斬ったのが天蠅斫剣。それでは蝿姫は蛇姫?それとも八重姫?或いは両方の意味を含むのでしょうか。

[5268] Re[5267]: 草薙剣  神奈備 2009/10/21(Wed) 16:03 [Reply]
 大友皇子が祟ったと言うあたりは判りにくいと思います。
 
> 高祖は斬蛇剣で白蛇を斬りました
 これに対応するのが、「天武が草薙剣で大友皇子を斬りました」になります。
 草薙剣が祟ったと言うことは、草薙剣に籠もった大友皇子の霊が祟ったと理解できるからです。

 さて、草薙剣が祟って来たのでどう対応したのか。
 一つは年号を朱鳥に変更したこと。朱鳥は生命力の充実の意味。
 二つめは宮に飛鳥浄御原宮と言う名称を与えたこと。
 これによって、祟りを除こうとしましたが、取り除けなかったということになります。

 この頃には大王位を担保する神器として八咫鏡と草薙剣のレガリアはよく知られていたのでしょう。

[5267] 草薙剣  神奈備 2009/10/20(Tue) 21:35 [Reply]
 天武天皇は自らを漢の高祖に重ねていたと言います。高祖は斬蛇剣で白蛇を斬りましたが、天武天皇は宮に置いている草薙剣を自らの神格化と天照大神の子孫としての正統な皇位継承者と宣伝したかったのです。

 所がその草薙剣は天武天皇に祟って病となってしまったのです。病の原因を占ったところ、そのような衝撃的な結果がでました。大友皇子が祟っていると言えます。天武は正統な天皇位ではないと宣告されたのです。

 あわてて、草薙剣を元の熱田神宮へ返却したのです。しかし病は治らず、ついに逝去、その100年後には天武の子孫も途絶えてしまいました。

[5266]  √ イ○○V の造語法     ジュンキロ  2009/10/15(Thu) 13:16 [Reply]
 また穢いおハナシがでます。食事前の方は、ごはん食べてから下をお読みください。
 
 おへまの里、十日町市周辺には馬場という苗字も地名も無かったらしいです。
 そこへ、ある新学期、馬場という名前の女の先生が担任になって、紹介した先生が「ババ先生です」と云ったとたんに、そのクラスの全員が「ワァーッ」と絶叫したそうです。
 方言でババはうんこのことです。
 別にアッパともいいます。このアッパは北九州ではアッポになり、近似を示しています。

 フィリピン・タがログ語に baba(下、降りる)があります。これに i が前置された i-baba は「下げる、減じる」となって“下”という名詞形は消えます。
 この 「i ○○ で“○○化する”」は、多くの造語跡が見られます。
 儂はかなり前に、伊達という語形(イダツ → ダテ)をヒントに、古代造語法の √ イ○○V を抽出しました。末尾の V は母音で、これが変化したりしなかったり……です。
 この造語法は、どこかの外国語にあるはずですが、それが今までみつからなかったんです。

 アイヌ語には母音がさかんに前置された語形が目につきます。バチェラーさんは i の用法について 10項目の解説をしていますが、√ イ○○V はありません。似ている分析に「動詞の前の i は、後続動詞の強調の役をする」というのがありますが、これとは根本的にちがいます。
 ハナシ飛びますが ita(潮)は、アイヌ語の ita 範疇に収まり、英語の tide と同じでは?

★ 馬場は馬の調教の場所でしょうが、地名の多くは修行者(ネパール語)の謂いでしょう。
★ 川崎真治さんは、「春分の日に、山の峰間から朝日の光がさす場所だ」と云い、そこで掌をバンバンと叩くのが語源だと云っておられました。

[5265] 蜜蜂WEB  神奈備 2009/10/14(Wed) 09:31 [Reply]
『日本書紀』巻二九天武天皇七年(六七八)十月甲申朔◆冬十月甲申朔。有物如綿零於難波。長五六尺。廣七八寸。則随風以飄于松林及葦原。時人曰。甘露也。
 訳 綿のようなものが難波に降った。長さ五、六尺、広さ七、八寸で、風に乗って松林と葦原でひるがrっていた。人々は「甘露」であるといった。

 自然にできた綿菓子で丸めずにWEBのようになったもののようです。甘露であるとは蜂蜜のようなものでできていたのかもしれません。自然にできるものでしょうか。

 朝鮮の宮廷伝統菓子に「龍のヒゲ」と言う蜂蜜を繊維状にした綿菓子があるそうです。蜂蜜を繊維状にしたもののようです。何時の時代に開発されたものでしょうか。突風でも吹いて飛んでしまったのかも。

 自然にできる可能性ですが、例えば鳥が蜜蜂の巣にでも突き当たり、ネチャネチャするので羽をバタバタさせて蜂蜜が伸びたりしてWEBになり飛んでくるようなこと、ありうるのかな。

[5264]   津 和 野      ジュンキロ  2009/10/14(Wed) 07:10 [Reply]
  45年も前のテレビ・ドラマ。都会で知り合って、同棲中に女性が他界しました。
 遺された男性は女が忘れられずに、女の故郷の山川をたずね歩きます。
 晩秋、背丈に余るススキをかき分けかき分け歩くのですが、バック・ミュージックとともにススキが光を照りかえして、とても美しいシーンでした。
 その山野は津和野でした。

 あれが“津和野”でなかったら、芸術味も半減したことでしょう。
 津和野には行ったことはありませんが、儂がいちばん好きな地名です。天才の佐々木さんも好きだと云っていました。おへまも好きだそうです。
 津和野を故郷にしている人びとには「なんでこんな所に人がワァワァやってくるのか、わからない」んだそうです。
 
 その秘密は「ツ・ワ・ノ」という語が持つひびきにあると儂は惟ふ。
 飛んで火に入る虫のように、意識を構成している全体がツ・ワ・ノという響きに惹かれます。
 なにかこう、意識の底に、遠い潮騒のようなものを感じます。……言語心理学……。

 タガログ語 ; tuwa(喜び、興奮)。インドネシア語 ; tuhan(神)。
 タガログ語に bathala(神)。インドネシア語 ; batara(男神)、batari(女神)

 これらは四万年とか七万年前のスンダランド爆発史を引きずっていましょう。
 世間では「婆娑羅」と、サンスクリット語を持ってきていちおうの解釈をしています。だが、サンスクリット語は BC 1000年までしか遡れない人造語で、エイリアスでしかありません。

 インドネシア語 ; batara(男神)、batari(女神)の末尾をみると、ここにはネパール語のクマラ・クマリ、ケタ・ケチ(少年少女)の -a / -i が顕われていて、超太古での無国境が露呈しているを感知でけま。

[5263] Re[5262][5259][5257][5253][5252][5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  琉球松 2009/10/13(Tue) 09:54 [Reply]
大三元さん、ありがとうございます。

「etok(o)」は、琉球方言的感覚でいえば「メエ(前)・〜のあたり・〜の方向」でしょうか。

 それと、またまた語呂合わせですけど、愛知県の「イラコ岬」もアイヌ語かもしれませんね。「イタコ・イラコ・エトコ・イタク etc」はほとんど同じ音に聞こえます。

[5262] Re[5259][5257][5253][5252][5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  大三元 2009/10/13(Tue) 08:41 [Reply]
etok(o) の語義の全貌を示すこともしかねますが、それ自身では英文法で云うなら、副詞のような使われ方で、時間的・空間的に「前に」の意味;何か先行語がつくと名詞(的)になるようです。
pet-etok(水源), nay-etok(水源), sir-etok(岬)
 etok単体で地名になってる例を知りません。

語呂合わせは発想の原点としては有用ですが、語法(文法)、用例などでチェックをしないと語呂合わせから脱却できない、と思ってます。

>  それと「ハセ」ですけど、「初瀬・泊瀬」の字があてられているからには「百済」のつながりありかもしれません。何か発見があれば教えて下さい。

http://www.dai3gen.net/kudara.htm
に示したものが今のところ全てです。

[5261]   先にごはん食べてから……    ジュンキロ  2009/10/13(Tue) 07:46 [Reply]
 子供のころ、川土手の道を歩こうもんなら、あっちに一山、こっちに一山……と牛馬のうんこが落ちていました。
 牛のうんこは、イッタイ(一タイ)、ニィタイ(二タイ)と数えるんです。
 子供たちはそれを数えながら、遊び半分で歩きました。そして“九”まで来たら「牛の糞くーさい」で、数えるのはおわり。

 タガログ語、アミ語に tae(糞)があります。これが「タイ」になったことは確かでしょう。
 ところが音転を辿ると似ている系統に「ダル」があります。ダルごえ(タイ肥)のダルです。
 氏族により、歴史の流れによって *dare が広範囲にあったのかナ……?
 大阪弁のアホンダラの dara には、うんこと「最低」の二つの意味が込められてま。
 朝鮮語の dang(糞)も、大いに関係があることでしょう。

 司馬遼太郎さんの記述を読むと「だれ」が、いつも「たれ」になっていて、読みづらいです。これは「だれ」と発音と別のことを連想させるから、そうなったのではないでしょうか。
 dare が tare になって、語彙中の r 音が脱落すれば tae になりますけどねぇ〜。

 日本では「妙」をタエといいましたし、「白たえ」などは貴族の着物でした。そういういきさつから、うんこの tae が敬遠されたのでしょうか。

 幕末から明治初期にかけて、中央幕閣ではドル($)は「ドルダル」と呼びました。八重山〜薩摩〜長崎〜津軽で、ダルはおかねのことでした。江戸でも「ダル=おかね」があったのでしょう。

 むかし、遊廓にはタイコモチという軽輩がいました。 「○○でげす」と喋るヤカラでげす。
 moti はもてなしであり、真珠でもありました。
 ゼニをバラ撒く旦那が放つ野暮ったい言動を、すぐに珠玉に換えたのでしょう。

[5260]  挨拶は人としての……     ジュンキロ  2009/10/12(Mon) 18:13 [Reply]
 これまでは、日本語を深堀りしょうと思っても、大野晋教授などにいわせると、アイヌ語では日本語から流れて行った語彙だけが共通をみせるようだし、朝鮮語にはちっとしか類似語彙はないし、沖縄は日本語とまったく同じだといわれているしィ……。そこで「やっぱ、日本語の古形は、シナ大陸に今のようなシナ語が蔓延する前に、江南〜百越の地にあったのだが、今となっては探しようもない」と、絶望するよかテはありませんでした。
 沖縄からもっと南下して日本語の同族を探そうとしても、すぐに台湾で物凄い異質の言語群が待ち構えていたのです。

 だが、もう、その断崖絶壁のカベは無くなったんです。アミ語地帯が言語を含む文化の「渡り廊下」になっていたんです。明治このかた南方へのコースに立ちはだかって遮断役をしてきた大岩は動いたのです。みなしゃん、意を強くしてタガログ語へ、インドネシア語へとジャカスカ攻めて行ってくらはい。

 ずーっと前、「アイヌという語は『 ai(挨拶) nu(する)』が語源だとの儂の意見を述べたことがあります。
 タガログ語・インドネシア語を攻めていたら、この着想はまちがっていなかったと、一層の自信を得ましたのでご披露でんす。

 インドネシア語もネパール語も挨拶は salam いいますだ。そして朝鮮語の saram は人間です。アイヌ語では「アイヌとは人間という意味だ」とされていあmす。、
 アイヌ語では、挨拶を aikap いいますだ。そしてタガログ語に yakap(抱擁)があります。
 南のほうで ya というのを、アイヌは ai いいました。
 日本語の矢はアイヌ語で ai 、やや(赤ん坊)は、アイヌ語で aiai です。
 タガログ語の yakap はアイヌ語では aikap になります。
 シナ語でも「南のほうでの ya が ai となる」といえるらしいです。愛とかアイレン(恋人・愛人)とは抱擁するを基本とした概念です。
 あいあい傘……ワッカルあるよなぁ。身をすり寄せるんでアリマス。
 
 「挨拶」も「抱擁」もアミ語で採れなかったは残念の極みです。

[5259] Re[5257][5253][5252][5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  琉球松 2009/10/11(Sun) 23:18 [Reply]
大三元さん、なるほどです。
 
 「etok(o)」は、出っ張った先端=岬。。。であるならば「イタコ ≒ エトコ・イタク」とも言えそうですがどうでしょうか?
 潮来は、おおむね岬のあたりですし、「イタコ・エトコ・イタク」は、ほとんど同じ音ともいえそうです。

 それと「ハセ」ですけど、「初瀬・泊瀬」の字があてられているからには「百済」のつながりありかもしれません。何か発見があれば教えて下さい。

[5258]   神社概念の段階的発達     ジュンキロ  2009/10/09(Fri) 08:52 [Reply]
 江戸期で政治行政の中枢・幕閣を「ヤグラ下」と呼んでいました。矢ぐら(倉庫)直下の謂いではないでしょうか。kura とはもともと事物でした。これがホクラ(神庫)という高級概念に指導されて「聖なる空間(xo)を囲む事物」へと格上げされ、一般の倉庫にまで適用されるようになったと、儂には思えます。

 文字もも持っていなかった野蛮国の原初日本列島に、社禝というシナ発の高級概念が入ってくる前は、各種のプレ神社が屯していたことが伺い知れます。社禝という高級概念を採用することによって、各地の祭祀場は、国際的にもレッキとしたものへと変身したようです。
 そこを辿ってみます。

★ 人が死んだ後、何らかの「態度で示そうよ」は、ネアンデルタールからの伝統だそうです。
 漢王朝を樹立した劉邦さんも葬式屋出身だったそうで。
★ 外敵が侵入したとき、鉦や板を叩いて村人に報せました。報せを聞いた村人は武器を隠している場へ駆けつけました。
 豊後浄瑠璃には「シロ山ん辻(上)にいざ集れ」という語が残っています。このシロ山を、後世にできた“城”だと解釈するのは、かなりの短絡を冒しているかと思います。*silo には床下とか地下室の意味があります(タガログ語)。ヤシロは「拝み場」とも解釈できますが、矢を貯蔵している地下室ではなかったか? その上に見張り用の高い木を建てたので、それで「ヤグラ下」という言葉が江戸期まで続いたのでは?
 その矢を弓といっしょにして「矢・弓」としたのがタガログ語だけでなく、インドネシア語でも台湾アミ語でも pana だったことは、先に述べました。
 日本語は、ほかに花、鼻、端などがあって紛らわしいので、アイヌ語の ai(トゲ・矢 )と共通の“矢”を堅持したようです。
★ 日本語となった神庫(ホクラ)の原形はネパール語の khokra(木のウロの中になんにも無い)が語源だと思われます。
 儂は若いとき一人で山里を歩き廻りましたが、楠木が形造ったウロには、必ずといってよい程、丸い小石が敷かれ、線香や花が供えられていました。
 いまでも、地方の大晦日の晩、一家は 5 〜6ヶ所の山地のホコラに花や線香を捧げています。

 ※ シレトコの o について他、『紋流 言語考古学』に書き出しました。

[5257] Re[5253][5252][5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  大三元 2009/10/06(Tue) 23:00 [Reply]
琉球松さん

>  北海道には「シレトコ」など、「〜コ」のつく地名がありますけど、アイヌ語の「コ」にはどういう意味があるんでしょうか?

シレトコ を シレト+コ と分析して「〜コ」の意味を求めることは妥当なのだろうか。私には疑問です。それは:
 sir+etok(o) 地面(の)出っ張った先端=岬 という理解で良いと思っているからです。

[5256] Re[5252][5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  大三元 2009/10/06(Tue) 22:52 [Reply]
琉球松さん

潮来 の原型は風土記の「伊多久(イタク)」として考を進める必要があろうと思います。

>  奈良県桜井市の「ハセ」地域は "長い谷の地" でしょうから、「初瀬」の字に意味はなく、語義は「長谷」で語源が「ハセ(朝鮮語?)」と考えられます。

ハセ、ハツセ、ハクセ あたりで 百済 との関連を模索しています。
http://www.dai3gen.net/kudara.htm

[5255]  ちょと見なれば     ジュンキロ  2009/10/06(Tue) 15:38 [Reply]
  
 潮来市役所に電話して訊いてみましたヨ。お役所のことですから、なかなか断定的なことは言ってくれません。でも、上げ潮があのへんまで来ていたことは確からしいです。

 儂が 28才のとき、長谷川わかさんといっしょに成田山へ行き「 1年経ったら関東に帰れますように」と願かけしました。そしてその後、名古屋・高松赴任で廻され、千葉に舞い戻ったのが、ちょうど 1年目でした。
 千葉に戻ってきて、まず感じたのは、ここの方言が儂が育った筑紫のイントネーションによく似ているということでした。なんだかふる里に帰ったような気分でした。

★ 香取神社の東にある伊岐須神社のイギスという字が儂の故郷の飯塚市にもあること、昭和 30年代に九十九里浜から北九州固有の合わせ瓶(かめ)棺が出土していることは、どこかで述べました。
 伊岐須神社と鹿島神社・香取神社を結ぶと直角三角形になります。イギスはラテン語の ignis(火)の ig に is(神)がついた語形……のほかには考えられないところです。
★ なぜ「火」かというと、当時ここは九十九里浜が陸地化するころで、その開拓に大量の kuli(朝鮮語 ; 銅)を採る必要があったからだと見受けられます。ちかくに栗源(くりもと)町があります。
★ 先に述べた飯塚の東にある田川市は後藤寺地区と「伊田」地区に分れます。
 福岡県などには「イタ」がつく地名が散在しますが、これは朝鮮南東部から輸入していた「鉄の述べ板」らしい。でも、フィリピンのイタ族に連なる名前もありえましょう。
 ここには「糸さん」もいます。儂が知ってる糸さんは、古代人の顔をしています。王族であることウケアイです。

 舟木一夫さんが歌った歌に「ちょっと見なれば」があります。これは筑豊弁の「見ない(見なさい)」に似ています。筑紫弁では「あんたどっか行きない」などと言います。敬語です。

 銚子(魚が群在する所)に発達した醤油製造業……。「醤油」はタガログ語起源らしいです。

[5254]   sir(岩頭)etok     ジュンキロ  2009/10/06(Tue) 14:30 [Reply]
  アイヌ語 etokは「うごき行く物の、その先」とか「川の水源」、「(沼、湖の)奥まった場所」などにも使われますが、それらは基本的には「 e(頭)tok(凸出)」から、慣用された語形だと思われます。
 アイヌ語音の領域内なら「エトク 」となるはずですが、これが開音(母音づけ)されるとき、なぜか etoko になりました。
 アイヌ語に開音(母音づけ)の必要はなかったはずです。この末尾の o は今のところ、ウイルタ語の o(端、隅)がなんらかの形で関与していると見ざるをえないと、儂は考えています。
 アイヌ語の「場所」は“ケ”です。

[5253] Re[5252][5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  琉球松 2009/10/05(Mon) 23:54 [Reply]
追記

 北海道には「シレトコ」など、「〜コ」のつく地名がありますけど、アイヌ語の「コ」にはどういう意味があるんでしょうか?

[5252] Re[5251][5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  琉球松 2009/10/05(Mon) 23:49 [Reply]
 大三元さん、どうもです。

 「イタコ」の原型がアイヌ語とする考え方は捨てなくていいんじゃないでしょうか。その証拠がまだ見つからないだけではないかと。。。

 奈良県桜井市の「ハセ」地域は "長い谷の地" でしょうから、「初瀬」の字に意味はなく、語義は「長谷」で語源が「ハセ(朝鮮語?)」と考えられます。
 だとすると、「イタコ」は語源であり、その語義は "潮の来る地" っていうのはどうでしょうか。
 アイヌ(蝦夷?)が呼んだ「イタコ」の地に「ウシオくる」と読んだ時代があったとも考えられますよ。

[5251] Re[5250][5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  大三元 2009/10/03(Sat) 21:56 [Reply]
琉球松さん

ご迷惑掛けました。
「いた」が茨城の古言で「潮」の意味だ、ということの典拠を探しているのですが見つかりません。なんでも、水戸光圀がそう聞いたので「潮来」という漢字を宛てた、ということですが、、、

[5250] Re[5248][5247][5244][5242]: 潮来試論  琉球松 2009/10/03(Sat) 18:17 [Reply]
大三元さんへ

 これはなかなか単純ではないようですね。

 こちらも軽卒でちょっと反省です。ありがとうございました。

[5249]  潮来の伊太郎     ジュンキロ  2009/10/01(Thu) 08:21 [Reply]
 完全な nin まで、あと 1ヶ月、ときどきお邪魔します。
 さきにお報せしたように、南方へのルートを遮断していた台湾の大岩がうごいたので、目下、儂はフィリピン・タがログ語の語彙をあたっています。
 
 儂には殿様がサムライに「クルしゅうない、近こう寄れ」と言ったのかが、どうしても分らなかったのですが、その意味の真髄はタガログ語にあるを把握できました。詳述すれば、またまた差別語が出るので、みなしゃん各位で追求する必要があると思います。

★ 潮の干満の境界が潮来の地なら、鮮度をしんしょうとする海産物の運搬には、この上げ潮・下げ潮の後押しを利用しないテはない。南北に鹿島、香取・佐原の邑都を控えている。
★ 橋幸夫さんが歌ったイタコの伊太郎は固有名詞みたいですが、これを普通名詞として考えると、いなせな兄哥さんの群が浮上します。
★ 南島与那国島に「いちたらい(池)」の語があります。このイチはわかりませんが、 tal は広く湖や池です。
★ 利根川は阪東太郎の名前で知られ有名です。この名は今の古河市の西に広がる大沼沢を中心とした湖沼につけられたようです。いわき市にも池が点在し「小太郎町」が見られます。
★ 太郎は「若い男」の謂いです。古代造語法の「 √イ○○V 」を適用すると、伊太郎は「湖・する」となって、一面の沼沢湖だった大利根を乗り回したお兄哥さんになりま。
 tal-au の au もコメントつけることができますが、専門的になるので、ここでは避けます。

★ 奈良時代あたり、東国の人びとの喋りは貴族たちには通じなかったそうです。語彙構成の基礎が大幅に「ちがう」と感受されたようです。
 その、中京よりももっと東の遠隔地の関東は、やはり、かなりちがっていたようです。
 関東では歩くを eb(u)といいます。これは満州語でもそう言えます。行くは eg(u)です。このデンで見ると、アイヌ語の ek(来る)が大接近してくるようです。
 文字が残るようになった時点での ko は「あっちにある気心を“コッチャ・コー(来い)”」だったそうです(神奈備奉納の堀井令以知先生古語の抜粋をご覧あれ)。 / なこそ(勿来)の関。
★ 日本列島規模では カ・キ・ク・ケ・コ の各単節音は、すべて場所だと言いきれるようです。
★ 茨城・鹿島出身の中臣鎌足は、若いときには「鎌子」でした。鎌は大地を護る へび です。
★ フィリピンには「イタ」という氏族がいます。そのイタの“子”だったかも。


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