青草掲示板ログ平二十一年 十一月 2009.11 |
[5333] Re[5332]: 神様の魂についての若干の基礎 神奈備 | 2009/11/30(Mon) 15:40 [Reply] |
> 神社考古学では、ニギハヤヒ=大物主神はもはや定説ですね。 寡聞につき、このような「学」があることは知りませんでした。まさか、書店で分類されている「疑似歴史」のコーナーの書物にでも載っているのでしょうか。 上記の台詞(もはや定説です)を鸚鵡返しされても説得力はゼロ。 あなたの言葉で主張して下さい。 > 一歩進んで、伊勢神宮の天照(アマテラス)は、正しくは天照(アマテル)でニギハヤヒ、さらに進んで、天照(アマテル)はイエス・キリストだとする人もいます。 で、これらも信じておられるのですか? PONTAさん。 |
[5332] Re[5330][5328][5326]: 神様の魂についての若干の基礎 PONTA [Url] | 2009/11/30(Mon) 00:23 [Reply] |
>近江朝の大友皇子は自刃したとされていますが、 これは初耳です。 首吊り自殺したと聞いています。 あと東国に逃げたとする説もありますね。 岡崎市にも隠れ住んでいたという伝説が残っています。 >大和の国の殆どの人が敬愛するのが三輪山の大神です。まさかそれがニギハヤヒ? 神社考古学では、ニギハヤヒ=大物主神はもはや定説ですね。 一歩進んで、伊勢神宮の天照(アマテラス)は、正しくは天照(アマテル)でニギハヤヒ、さらに進んで、天照(アマテル)はイエス・キリストだとする人もいます。 |
[5331] Re[5330][5328][5326]: 神様の魂についての若干の基礎 琉球松 | 2009/11/29(Sun) 20:13 [Reply] |
神奈備さん、参考になります。 琉球圏の神歌においては「アラ(荒)」と「ヤハラ(柔=和)」が対になっていて、「ニギ・ニキ」は見られないようですが、「賑」との考えもうなずけるところがありますね。 神武軍が日下上陸を試みた後から、物部の分裂が始まったとの見方はどうでしょうか?旧物部(銅鐸製作)と新物部(銅鏡製作)。。。さらに新新物部(鉄製武器製造)。。。 三輪山の大神がニギハヤヒか否かはよくわかりませんが、日本史の解りにくさは物部の複雑さがネックになっているように思います。 |
[5330] Re[5328][5326]: 神様の魂についての若干の基礎 神奈備 | 2009/11/29(Sun) 10:02 [Reply] |
> そうすると「ニギハヤヒ」は、やはり穏健派? ニギタマのニギですと、おっしゃる通りの穏健派でしょうが、例えば賑やかのニギとすれば華々しいとなるでしょう。 物部の遠祖ですから、鍛冶神であったり、雷神であったり、剣の霊の布都之御魂神であったりするのでしょう。 大和の国に君臨し、長髄彦に治世をさせていたように伝わっています。長髄彦を殺して神武軍に帰順しています。国譲りとなります。 そういう意味では大国主と通じる所はあります。経津主や武甕槌が活躍しますが、物部の匂いプンプン。 近江朝の大友皇子は自刃したとされていますが、最後までつきそった物部麻呂に殺されたとの説もあるようで、これも国譲りで、物部がからんできています。 さて、肝心の所で裏切って天孫族に従う、このニギハヤヒの態度、また物部の態度は、大和の国人からは評価されておらず、侮蔑を持って眺めている向きもあるように思います。 大和の国の殆どの人が敬愛するのが三輪山の大神です。まさかそれがニギハヤヒ? |
[5329] ニギハヤヒ PONTA [Url] | 2009/11/29(Sun) 06:43 [Reply] |
神社考古学では、ニギハヤヒ=大物主神はもはや定説ですね。 |
[5328] Re[5326]: 神様の魂についての若干の基礎 琉球松 | 2009/11/28(Sat) 21:06 [Reply] |
そうすると「ニギハヤヒ」は、やはり穏健派? 彼(達)は倭の連合に参加したでしょうから、大国主命と重なりますかね。 |
[5326] 神様の魂についての若干の基礎 神奈備 | 2009/11/27(Fri) 20:25 [Reply] |
薩摩藩の典医の長男として生まれた本田親徳(1822−1889)による4魂の分類は(荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま))で、それぞれの働きは以下の通り。 荒魂には勇・進・果 過不足があれば争、 和魂には親・平・交、 〃 悪 幸魂には愛・益・育、 〃 逆 奇魂には智・功・察、 〃 狂 というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊(なおひ)が統一しているとのこと。 荒魂は荒ぶる・新しい・若々しい魂ということで、この反対概念は和魂で、穏やか・和んだ・老成した魂ということ。 荒魂にも幸魂と奇魂があり、和魂にも幸魂と奇魂があるのだろうと思っています。 幸魂にも荒魂と和魂があり、奇魂にも荒魂と和魂があるのだろうと思っています。 大国主の幸魂・奇魂とは大国主の全てですから、これが大物主なら、両神はイコールでいいのです。 大物主の荒魂が大国主にはならず、大物主の荒魂は大国主の荒魂でいいのです。 |
[5325] 民話は歴史の反映? PONTA [Url] | 2009/11/27(Fri) 01:33 [Reply] |
諏訪の一年神主をやめさせたのは建御名方ですから、猿神VS神犬は、守屋VS建御名方? >神奈備掲示板の"国譲り"に関連して書かせて頂きます。 建御名方が大国主の子だとか、国譲りに関係したとか書いてあるのは『古事記』だけで、『日本書紀』には書いてありません。建御名方関係者と『古事記』の編集者にある関係があって、頼んで入れてもらったと聞いています。 |
[5324] 無題 PONTA [Url] | 2009/11/27(Fri) 01:23 [Reply] |
能登国七尾の山王社の猿神退治型説話では、「しゅけん」と言う白い狼が登場しますが、「しゅけん」は「修験」に通じる音ですし、「山伏」は「山人と山犬」に通じる字ですね。 |
[5323] 猿神退治型説話 PONTA [Url] | 2009/11/27(Fri) 01:19 [Reply] |
『矢奈比売神社の信仰と芸能』(吉川祐子、静岡県民俗学会誌6)によると、 人身御供を要求する怪神を退治する説話は「猿神退治型説話」と分類され、その 中でも犬が退治する型を「早太郎型説話」という。そして、この「早太郎型説話」 は全国で84例を数える。 |
[5322] 民話 PONTA [Url] | 2009/11/27(Fri) 01:16 [Reply] |
>PONTAさん、信州在住です。猿神と犬の話、北陸のものは知っていましたが、南にもあるのですね。 民話ってそうですよね。 自分の地域だけに伝わっている話だと思ったら、全国に同じような話があって驚きます。 修験者が全国に広めたのかな? |
[5321] 一夜官女 PONTA [Url] | 2009/11/27(Fri) 01:14 [Reply] |
折口信夫が、7/7の七夕とは、棚機津女という巫女が村の災厄を除いてもらうために水辺で神の衣を織り、神の一夜妻となるため機屋で神の降臨を待つという人身御供だって言ってますよね。 早太郎の話の怪物退治は、8/10です。(毎年8/10に怪物が人身御供を要求したため。) 牛の頭を切って、川に血を流すのも夏。 どれも、夏を無難に越して、実りの秋を迎えるための神事だったのかも。 (「一夜妻」は初夜権の話だと思いますけどね。) |
[5320] Re[5318]: 人身御供と猿神退治 くず | 2009/11/26(Thu) 22:31 [Reply] |
PONTAさん、信州在住です。猿神と犬の話、北陸のものは知っていましたが、 南にもあるのですね。 北陸のほうは、犬は白い狼(山犬)で名が「しゅけん」と言うものが多いと思います。 > 諏訪の一年神主 神奈備掲示板の"国譲り"に関連して書かせて頂きます。 出雲の美保神社に伝わる「青柴垣神事」にもやはり霊性の高い一年神主が関わります。 美保神社の主祭神は事代主神と三穂津姫命ですが、 出雲風土記には美保郷に坐す御穂須須美命とあるそうで、 御穂須須美命は建御名方神と同神とも言われるので、同じ信仰によるものかも知れませんが、 "国譲り"に関連した神事である事が気にかかりました。 ネットで検索しましたら淀川河口域の野里住吉神社の「一夜官女」を確認しました。 読んでいないのですが司馬遼太郎さんも書かれていたんですね^^ 野里住吉神社は室町時代の創建と言う事ですが、 すぐ近くに阿迦留姫命を祀る姫島神社があって興味深く思います。http://kamnavi.jp/ym/hiboko/himejima.htm 生贄の印に白羽の矢が立てられる。神の矢によって神の子身篭る。 同じ起源でしょうかね。 |
[5319] Re[5316][5315][5314]: 大日如来本国 琉球松 | 2009/11/26(Thu) 21:10 [Reply] |
「日本」の語源は、やっぱり「日のモト」じゃないでしょうかね。 谷川説を補強するわけでもないんですが、「クサカ」は「カ(日)サカ」?。。。琉球方言で「サカ」は下り坂を意味します(上り坂はヒラ)から、「太陽が下る・・」って感じです。 地名「日下」は、太陽が降臨する「クサカ山」の麓に位置していたから命名されたと思いますがどうでしょうかね。 |
[5318] 人身御供と猿神退治 PONTA [Url] | 2009/11/25(Wed) 04:25 [Reply] |
「犬猿の仲」というように、猿の天敵は犬のようです。 「猿神に村の娘を毎年1人を人身御供(生贄)として捧げる」という風習(人柱伝説)が日本各地にありました。この風習を止めたのが、猟師で、猟犬と共に猿神を退治したのです。これが「人身御供と猿神退治」伝説の基本パターンで、地方によって猿神が、狢(ムジナ)、狒々(ヒヒ)、狸などになり、活躍する犬には早太郎、べんべこ太郎、メッケ犬などと名前が付けられました。 必要に応じて、たとえば、橋を架ける時に人柱が必要だとか、雨乞い神事に人柱が必要だというのは理解できますが、毎年、定期的に必ず娘を1人、神に差し出すという風習は理解できません。「神社に連れて行かれる=巫女に選ばれる」としか考えられないから、それを光栄だと喜ばずに嫌がるということは、人柱要員だってことかな? 1年間巫女にして、その間に橋の工事とか、雨乞い神事があったら、人柱にしたのかしら? 諏訪では、毎年「一年神主」に8歳の男の子が選ばれて、1年後に殺されたそうです。神主とは、本来は、神の宿主=神がかる役目の人のことで、守屋神社では、モレヤ神がこの一年神主に憑依して宣託を下していたのです。 「巫女(みこ)」とは、神の言葉(神託)を得て他の者に伝える役割の人で、近代に入ってからは女性の奉仕区分となりましたが、古神道においては、「神降し」や「神懸り」の儀式を「巫(かんなぎ)」(語源は「神和(かんな)ぎ」とも「神招(かみまね)ぎ」とも)といい、これを掌るのが女性なら「巫(ふ、かんなぎ)」「巫女(みこ、ふじょ)」、男性なら「覡」「祝」「巫覡(ふげき)」「男巫」「巫子」と区別して呼ぶだけであって、女性でも男性でもよかったわけです。実際に、守屋神社の巫を行う一年神主は8歳の男性でした。 こう考えると、毎年1人の人身御供というのは、「一年神主」というか、「一年巫女」であって、1年後に殺されるから、みんな嫌がったのではないでしょうか? 早太郎もべんべこ太郎もモレヤ神(シャグチ神)が祀られている信州の犬だってことも気になります。猿神=信州の山神? 小説家なら、「1年に1回、神主が若い女性の生き胆を食べないと、神通力が衰えるから、毎年人身御供が必要だった」とか考えそうですが。 |
[5317] 確か PONTA [Url] | 2009/11/23(Mon) 21:56 [Reply] |
「倭」「日本」「大和」って全て「ヤマト」って読むんですよね? 北九州、日下、奈良であって、当時の首都所在地? |
[5316] Re[5315][5314]: 大日如来本国 神奈備 | 2009/11/23(Mon) 19:26 [Reply] |
> 私論:「日本」は「曰本」から転じたものではないか。 意保和知を大輪茅として太く丸い茅草の意味と理解しておき、本来は大輪の霊と『風土記』吉野裕訳 平凡社 に注がありました。 倭国の倭を輪と見るのは面白い。三輪山の麓付近に卑弥呼?にもつながるのかも。 曰廻→曰本 日下の語源となる奥深いお話です。 |
[5315] Re[5314]: 大日如来本国 大三元 [Url] | 2009/11/23(Mon) 11:07 [Reply] |
私論:「日本」は「曰本」から転じたものではないか。 「曰本」は「播磨国風土記」にある話:アヂスキタカヒコが大ワチを刈りモトホシて院(かき・垣)を作った:に於いて「ワチ」=「曰」、「モト」=「本」として「曰本」=「ワチモト」と解する。 詳しくは: http://www.dai3gen.net/wachi2.htm http://www.dai3gen.net/wachi.htm ご参照ください |
[5314] 大日如来本国 神奈備 | 2009/11/23(Mon) 08:27 [Reply] |
国名の日本は音読みです。「日本」のルーツは河内の日下(ひのもと)との説がきわめて有力ですが、何故、大和言葉ではないのかが不思議でしたし、国家の名誉にもかかわるのでは?と思っています。 同じ様な疑問を持った人は各時代にもいたようで、面白い解釈を見つけましたので披露します。 天照大神が垂迹した姿、である「大日如来」の、本来の国である「本国」だから、日本としてニホンと読むとのことだそうです。 馬鹿馬鹿しいと言えば、そうですね。青草種でした。 |
[5313] 天智と天武 神奈備 | 2009/11/19(Thu) 09:42 [Reply] |
年齢が逆転しているなど、諸説があります。しかしそれにはくみできません。 大海人が中大兄と兄弟であり、年上であれば大海人が先に天皇になっている。 兄弟ではなく年上なら、とっくに殺されている。年下の有間皇子ですら謀殺されている。 大海人は有力な候補だが、中大兄を脅かす存在ではなかった。歳の離れた弟だった。 天智の娘4人も妃にしていることは、次の天皇は大海人皇子以外は考えられなかった。 天智の娘4人も妃にしていることは、天智と天武の年齢差は大きいことを示している。 計算例 天智18歳で太田皇女。皇女15歳で天武18歳〜25歳の妃と仮定すると、天智33歳、天武18歳〜25歳。その差8〜15歳。 二人は同母(皇極)だったかどうかは不明。天智は皇極33歳の子、さらに孝徳皇后の間人皇女、続いて天武とすれば、2年おきとすると、37歳と言う高齢出産となる。史上発の重祚を行う天皇、超女だったのかも。 |
[5312] 無題 PONTA [Url] | 2009/11/18(Wed) 00:07 [Reply] |
>太陽の恩恵は日本の場合、常にはあまり不自由していなかったと思われます。日神への信仰は、めったに日がささない鬱蒼とした大陸南部に発生したのでしょう。 日本には太陽信仰があったそうですよ。 「太陽を描け」と言われて、真っ赤な太陽を描くのは日本人と東南アジア人だけだそうです。太陽は日中は赤くないわけで、赤いのは朝日と夕日だけ。 日本人の場合は朝日信仰だそうです。 天照大神を最高の神にしたから、国旗を日の丸にしたのかな? 真っ赤な太陽=農民の朝の祈りですから、狩猟採集生活から農耕生活に移ってからの信仰でしょう。 |
[5311] Re[5310]: 高天原 神奈備 | 2009/11/17(Tue) 20:55 [Reply] |
> 空に神の国、地下に死の国という垂直思考は朝鮮人の思考らしい。 アイヌの世界観は、この世があって、次ぎにあの世に行く準備場所があってそこを経由して、そこの近くにある高い場所に行き、そこから飛び上がって、天空を越えてあの世の山へ行くと言うそうです。(『アイヌ神々と生きる人々』藤村久和著 小学館) これも霊が天空に登るのですから、神の世界も天空と言えるでしょう。 > 記紀の神話部分は、伊勢の猿田彦の子孫が天武天皇に話した話をベースにしているらしい。 台所から入ってきた神話などと言われます。更に、天武天皇を養育した凡海氏が持っていた伝承を聞かされていたのでしょう。それらを合わせて構築したと考えられます。 太陽の恩恵は日本の場合、常にはあまり不自由していなかったと思われます。日神への信仰は、めったに日がささない鬱蒼とした大陸南部に発生したのでしょう。それが半島やまた南方から海人族が運んで来たのでしょう。最初の日神は高御産巣神、この神は新羅でも崇めている神なので、自前の太陽神として天照す日女命が構想され、天照大神に発展したのでしょう。それが逆に伊勢に持ち込まれたということ。 |
[5310] 高天原 PONTA [Url] | 2009/11/13(Fri) 23:54 [Reply] |
日本人の思考は水平思考で、神とは船でやって来て、新技術を教えてくれる人だったらしい。 空に神の国、地下に死の国という垂直思考は朝鮮人の思考らしい。 記紀の神話部分は、伊勢の猿田彦の子孫が天武天皇に話した話をベースにしているらしい。それで、伊勢に天照大神を祀るようにしたらしい。 |
[5309] 高天原 神奈備 | 2009/11/13(Fri) 20:33 [Reply] |
天武天皇による国家仏教の経典が金光明経だそうです。 この内容は下記の幾つか。 国王は悪をしてはならない。見逃してはならない。 臣下や民に善を教え、不善から離れしめる。 その国の人民は金光明経によって国をおさめる国王を仰ぐこと。 国王は金光明経を供養し尊重し世に広める。 で、「国王が国王としての使命を受けるのは天の加護による。」 さらに、「父王の妃の胎内に入るのも神の加護である。国王の尊貴身分は神と異ならない。」 とあるようで、これはまさに万世一系の天皇制にうってつけの経典なのです。これを天武天皇は宮殿や各地で説かしています。 田村圓澄さんの『東アジアのなかの日本古代史』によりますと:− そういう中から天照大神を構想し、高天原を構想したとされ、仏教の仏はそれぞれの世界に鎮座していることから、天照大神の居場所を天上界に設定したのでしょう。 例えば、− 阿弥陀仏は極楽浄土 薬師仏は浄瑠璃世界 観世音菩薩は補陀落浄土 そう言うことで 天照大神の居る場所を高天原と設定。 極めて興味有る論述だと思います。 壬申の乱の初期に大海人皇子の時代に天照大神を望拝したと『日本書記』に出ています。この天照大神を伊勢神宮とする注釈があるのですが、この頃には伊勢神宮はなかったのです。滝原宮はあったようですが、ここが天照大神を祭っていたとは思いにくい場所です。望拝は遥拝とどう違うのかですが、遥拝は遠くの神社を拝むイメージですが、望拝とはもっと遠いモノを拝むイメージ、すなわち太陽そのものを拝んだのでしょう。この時に天武天皇は神代の物語の骨格を思いついたのではと想像しています。 |
[5308] アンバ&坐摩 かしこ | 2009/11/10(Tue) 23:10 [Reply] |
神奈備さん アンバのこと、ありがとうございます。 鞍馬山の古称は「くらぶやま」。「鞍部」は新しい言葉でしょうが、「くらぶ」からこれを思ってしまいますが「暗む・眩む」かも。そして、鞍馬蓋。常陸には、雨海、天海、雨谷などの姓があります。天貝というのもありますが、貝≒蓋のイメージがありますから面白いですね。江戸期の僧侶天海も天台宗です。僧:鞍馬蓋 ^^;。常陸坊海尊の「尊」は「竣(スラリと立つ)」と同系。竣には高峰のイメージを持ちます。下のほうに書いたことなども含めて、アマが天であり海であることを納得してきています。「天」も「海人」も赤の他人ではないのかも。 大三元さん 早かったですねぇ。お忙しいところ、ありがとうございました。 >坐摩神社に電話して 実は私もそうしようと思ったのでしたが、思いとどまってよかったです。(^-^*) >正しくは、「ヰカスリ」 乱視は私じゃなかった。それにしても後ろ髪を引かれるサカスリではあります。 |
[5307] Re[5305][5304][5302][5295][5293][5294] 大三元 | 2009/11/10(Tue) 18:07 [Reply] |
マイペディアからの返答(抜粋) ***************** お客様からご連絡を頂きました 「坐摩神社」項目のご指摘につきまして 確認を致しましたところ、お客様のご指摘の通り「サカスリ」は誤りです。 正しくは、「ヰカスリ」です。 ***************** 一件落着? |
[5306] Re[5301]: クラマなど 神奈備 | 2009/11/10(Tue) 14:29 [Reply] |
> この水神はアンバにつながっていませんか? クラマとアンバ、これをつなぐのは常陸坊海尊。 享保年間(1716〜)の江戸で流行神となった神として大杉明神が有名です。元社は茨城県稲敷郡桜川村に鎮座する大杉神社と言う名社で、これが東京都葛飾区の香取神社に突如として飛来、爆発的に信仰を集めたとか。 『民族神道論』宮田登著によりますと、『月見堂見聞集』には、「安葉大杉大明神、悪魔払いふてよいさ、世がよいさよいさ」との踊り歌が歌われたとか。 この安葉は常陸国安馬大杉大明神と称されていた安馬で、別に阿波とも記されており、『常陸国風土記』に安婆島との記載があるので古い名前。 鞍馬山でもらったガイドブックに『鞍馬蓋寺縁起』の訓を「あんばがいじえんぎ」と訓をうっています。則ち、鞍馬はアンバ。鞍馬山の奥宮は大杉大明神。 アンバと大杉、鞍馬と常陸。このつながりなんでだろう。 小生は今のところ、鞍馬と常陸を結ぶのには源義経につくした天狗の様相の常陸坊海尊の力を借りざるをえません。文治年間(1185〜)海尊は社僧として稲敷郡桜川村阿波の安穏寺と隣接する安馬大杉大明神に仕えていたそうな。 大杉神社と言う名の神社は茨城・栃木・千葉に多く鎮座しています。 また、アンバ神社は下記にリストアップ。殆どが茨城県稲敷郡桜川村より勧請のようです。 岩手県陸前高田市広田町 黒崎神社境内 安婆大杉神社「倉稻魂命」 岩手県宮古市光岸地 大杉神社<通称>網場様「天之手力雄命」 岩手県宮古市津軽石 稲荷神社<通称>あんばさま「稻蒼魂命」 宮城県桃生郡雄勝町 山祇神社境内 網場神社「倉稻魂神」 宮城県気仙沼市 大杉神社<通称>安波山「大國魂神」 福島県いわき市平薄磯 安波神社「大己貴神」 福島県双葉郡浪江町 クサ野神社<通称>安波様「闇淤加美神 五十猛神 大屋津姫命 抓津姫命」 茨城県久慈郡水府村 嵯峨神社境内 阿須波大杉神社「大物主命」 茨城県北茨城市大津町 佐波波地祇神社境内 安波大杉神社 茨城県稲敷郡桜川村 大杉神社<通称>あんばさま、夢むすび大明神「倭大物主櫛甕玉大神」 千葉県安房郡丸山町 安房大杉神社「大山祇命」 |
[5305] Re[5304][5302][5295][5293][5294] 大三元 | 2009/11/10(Tue) 12:02 [Reply] |
坐摩神社に電話してみました。「サカスリ」とは聞いたことがない、とのこと。 ある辞典に載っているので発行者に問い合わせ中とお話ししておきました。 チョピンとは俺のことかとショパン云い、という川柳を思い出しました。 > ネットを調べると、「久太郎町4丁目に坐摩(サカスリ)神社・・」と紹介しているサイトがありました。サカスリを採っているには理由があるのでしょうか。 |
[5304] Re[5302][5295][5293][5294] かしこ | 2009/11/10(Tue) 11:49 [Reply] |
ありがとうございます。 ネットを調べると、「久太郎町4丁目に坐摩(サカスリ)神社・・」と紹介しているサイトがありました。サカスリを採っているには理由があるのでしょうか。 |
[5303] Re[5300][5298]: 鞍馬山 琉球松 | 2009/11/10(Tue) 10:56 [Reply] |
おもいつきです。。。 坐摩神社の旧社地と太陽の関係を考えると、「サカスリ」と読むのも興味ありですね。 「サカ」が「草加・日下」の原義とつながるとすれば、「サカスリ」は枕詞か? |
[5302] Re[5295][5293][5294] 大三元 | 2009/11/10(Tue) 09:00 [Reply] |
かしこさん > その辞典の正式名称(?)は「百科辞典 マイペディア 電子辞書版」です。 5年ほど前にダウンロードしていたのを発見。インストールしなおして見てみました。 なるほど確かに「サカスリ」とありますね。メーカの日立なんたらに問い合わせ(典拠?誤植?)発信しておきました。返事があったらご紹介します。 |
[5301] クラマなど かしこ | 2009/11/09(Mon) 13:08 [Reply] |
クラマはなるほどですね。鞍馬と坐摩の水神はクラオカミということでしょうか。広辞苑に「クラは谷の意味」とありますが、山の稜線の窪んだところ(鞍部)との意味で谷なのかも。太陽はこの鞍に坐すのでしょう。この水神はアンバにつながっていませんか? 記紀で表記の違いがあるのだから、表音だろうとも思いますが、一方、両者夫々なりに、意味を伝えようと工夫しているようにも思えます。 ツゲの小枝は四角形。材質は緻密で狂い難い。この都下に関連するかどうか、井戸を、東京都大島で「かー」八丈島で「こぁ」与論島では「こー」というようです(小学館 日本方言辞典)。白鷺は湿地や河辺の鳥。また白熱の鳥ガルダは太陽のイメージでもありますね。そして蛇の王シェーシャの友でした。 |
[5300] Re[5298]: 鞍馬山 神奈備 | 2009/11/09(Mon) 10:10 [Reply] |
> 「座」が「クラ」なら、「クラマ」の水神は「座摩」の水神ですね。 柔らか頭ですね。井戸の神とすれば水神でしょうからうまくつながりました。 >「トガ」は、「ツゲ」は呉音である。 「トガ」は漢音 ・・ これが抜けていました。 なお、のちの世に呉音をやめて漢音にするようなお達しが出ていました。 坐摩巫は都下氏の童女が勤めるのですが、都下をトキと読み、トキが鷺(サギ)に変わり、ついにはサカスリとでも解釈しないと、サカスリが出てきませんね。ついでに坐摩神社の神紋は白鷺です。 なお、『住吉大社神代記』には、「座摩神二前、一名、爲婆照神」とあり、爲婆照は爲婆天利とも表記されていますから「イバテリ」と言う発音もあったようです。井戸の神の他に日の神の要素のあったのかも。 都祁は古代朝鮮語でトキ・トチといい、日の出の意味があるとのこと。(『日本の神々3 坐摩神社 大和岩雄記』)。 坐摩神社の旧社地(現在の御旅所)からは丁度春秋の日の出が日下の地の上から出てきます。また冬至には高安山山頂からの日の出を見ることになり、その線上に難波宮があることになります。西成郡唯一の式内社が坐摩神社であり、日の神を祭っていても不思議ではありません。式内社では大社で一座ですし。 |
[5299] Re[5296]: なるほど 大三元 | 2009/11/09(Mon) 09:54 [Reply] |
手摩乳 の場合: 摩 は ナヅ(撫でる)で テ・ナヅ・チ(チ) か テ・ナ(ヅ)・チチ 坐摩 の場合: 摩 は スル(こする、擦る)で 坐をヰカと読むなら、ヰカ・スル 取り急ぎ。 |
[5298] 鞍馬山 PONTA [Url] | 2009/11/09(Mon) 00:52 [Reply] |
鞍馬(くらま)山には貴船神社があって、ご祭神は水神だそうです。 「水神」と書いて「クラマ」と読ませるのが義訓ですね。 神社の勉強を始めて驚いたのが「磐座」を「イワクラ」って読むことです。 「座」が「クラ」なら、「クラマ」の水神は「座摩」の水神ですね。 |
[5297] 三河国一宮・砥鹿神社 PONTA [Url] | 2009/11/09(Mon) 00:05 [Reply] |
宮中に「座摩の巫」が祀られている。都下[ツゲ]国造氏の童女をもってこれにあてるとする。 都下は菟餓で、摂津国菟餓は八軒屋で、この社の元地であり、「トガ」は、「ツゲ」は呉音である。迎日・日の出を意味する。新羅の迎日県を都祈野といったそうである。 高安山から見ると、夏至の日の入り、すなわちこの社からは冬至の日の出が高安山頂上ということになり、等之伎神社とは対象の位置に鎮座している。 おそらくは、このトノキもトキ=ツゲに通じるのだろう。 http://kamnavi.jp/ym/osaka/ikasuri.htm は興味深い話です。 三河国一宮・砥鹿(トガ)神社の「トガ」を先輩は「渡処」で、豊川を渡る場所に建てた神社だと言っていましたが(砥鹿神社の社伝では、「止処」(大国主が止まった場所))、「迎日」「日の出」なのかも。 「迎日」と書いて、「トガ」と読ませることを「義訓」というわけですが、「坐摩」の義訓が「イカスリ」だとすると、「坐摩」という漢字に意味があることになりますね。 |
[5296] なるほど PONTA [Url] | 2009/11/08(Sun) 23:44 [Reply] |
>摩(みがく)→磨(ス)る→磨いて形作る→まとめあげる→知る(統べる)という連想 個人的には古社の社名や神名の漢字は当て字(表音文字)であって、意味はない(同じ発音の漢字がたくさんあって、その中からその漢字を選んだのには理由があるかもしれないけど)と考えています。たとえば、奇稲田姫の母は、手摩乳(日本書記)=手名椎(古事記)であり、漢字に意味があるなら、違う表記は許されないと思うのです。三浦佑之「口語訳 古事記」が画期的なのは、漢字にとらわれないように、ご神名をカタカナ表記したことでしょうね。 |
[5295] Re[5293][5294] かしこ | 2009/11/08(Sun) 22:34 [Reply] |
PONTAさん。はじめまして。沢山ののお話をありがとうございます。知識不足ですので、新鮮で興味深いことばかりです。 >摩=知 イコールとまではゆかずとも、触れることは知ることではありますから、微妙に通じているだろうと思っています。そして、摩(みがく)→磨(ス)る→磨いて形作る→まとめあげる→知る(統べる)という連想から、坐摩を「その地の杙として命の礎を築き上げた神々の坐す所」かな?と感じているところです。「辟(人々を平伏させて治める人。君主。)の坐す、災いなどを避けることのできる場所」でもあるのかも・・と。 波比岐の比岐というのは、もしや辟にも通じているのでしょうか?すると波比岐はもしや大杙・・意富斗能地神のイメージです。ゴトビキ岩というのは、兀杙かも(兀:高く突き出た様)。失礼しました。(汗) 大三元さん。よろしくお願いします。 その辞典の正式名称(?)は「百科辞典 マイペディア 電子辞書版」です。 坐摩(猪加志利)が居所知なら、意味としては居所⇔坐所でしょうし、坐摩という表記はむしろ、坐所知に近い感じがしますが。サカスリの方が古かったのかも?(^^)? |
[5294] Re[5289][5288][5287][5286][5285]: 坐摩神社 大三元 | 2009/11/08(Sun) 18:03 [Reply] |
かしこさん はじめまして > もしや・・間違えたのは、私の乱視か?と見直しても、サカスリでした。^^; そうでしたか。そうなると > 百科辞典(電子辞書版) が何に基づいているか、、、ですね。 その辞典の正式名称(?)はなんですか? |
[5293] 無題 PONTA [Url] | 2009/11/08(Sun) 03:23 [Reply] |
>その場合「摩」は「知る」なのでしょうか。 摩=知ってことですか? 奇稲田姫の母は、手摩乳(日本書記)=手名椎(古事記)ですから、摩=知? |
[5292] 無題 PONTA [Url] | 2009/11/08(Sun) 01:39 [Reply] |
三河国には「八名郡」があります。 中心地は八名井なので、「八名井郡」の略(和銅以降、郡名は2字でないとダメ)だと思うのですが、八名井の伝説では、「八名井は弘法大師以後の地名。語源は弘法大師が掘った8つの井戸があることだから」だそうです。 |
[5291] 無題 PONTA [Url] | 2009/11/08(Sun) 01:30 [Reply] |
旧浜名郡の角避比古神を祀る神社に河名神社があって、廃社になり、八幡社に合祀されました。(その八幡社も廃社になり、八柱神社に合祀されています。) 河名神社には、井戸があり、廃社の時に、土で埋めたら、埋めた人の目が見えなくなったそうです。井戸を埋めるときは、井戸の底にある井戸枠(そこに井戸の神様が宿っている)を取り出してから埋めなければいけないのですが、面倒なので省いたらしいです。で、掘り返したら、井戸の底から土器が出てきたそうです。で、その土器を取り出してから埋めたら、目が見えなくなった人の目が見えるようになったそうです。 |
[5290] 無題 PONTA [Url] | 2009/11/08(Sun) 01:22 [Reply] |
>本殿PONTAさんの[10002] に関連しますが、ちょっと方向が違いますのでこちらに失礼します。 >角杙神・活杙神の文字から、五つの井戸がある坐摩神社を思いました。 すみませんが、愛知・静岡の神社しか分からなくて・・・ 静岡の旧引佐郡渭伊郷に式内・渭伊神社があります。地名2字好字令によって「渭伊」「井伊」になったのであって、本来は井郷の井神社だったのでしょう。 現在のご祭神は八幡神ですが、本来は座摩の神とされています。 座摩は摂津国の仁徳天皇の宮地なので、八幡神(仁徳天皇の父)に変わったのもうなずけるとされていますが、ただ単に八幡神が流行神だからのように思われます。 五井いうと、愛知に東海道53次・御油宿があります。語源は、俗説では、持統上皇が来られた時に油を献上したからだそうですが、学説では、近くに「五井」「五井山」があり、「五井」の転訛だろうとのことです。 |
[5289] Re[5288][5287][5286][5285]: 坐摩神社 かしこ | 2009/11/07(Sat) 21:10 [Reply] |
>「ヰ」カスリがどっかで「サ」スカリと・・ こんにちは。はじめまして。 もしや・・間違えたのは、私の乱視か?と見直しても、サカスリでした。^^; |
[5288] Re[5287][5286][5285]: 坐摩神社 大三元 | 2009/11/07(Sat) 13:15 [Reply] |
> 百科辞典(電子辞書版)に「古訓はイカスリまたはサカスリで」とあります。サカスリとの読みを見た時、私も「?」と思いましたが、坐所知と考えて納得したのでした。 ひょっとして「ヰ」カスリがどっかで「サ」スカリと間違えられた??? |
[5287] Re[5286][5285]: 坐摩神社 かしこ | 2009/11/06(Fri) 11:45 [Reply] |
百科辞典(電子辞書版)に「古訓はイカスリまたはサカスリで」とあります。サカスリとの読みを見た時、私も「?」と思いましたが、坐所知と考えて納得したのでした。 >国土生成にからんだ抽象的な神 そう思います。五井が杭に通じると仮定した場合、それはイメージとしての杭だろうと。 また、田圃に打たれた杭は現実的な物体ですが、その背後に神話時代の創世のイメージを感じ取る感覚が、昔の人にはあったのかもしれませんね。 >神代七代の四代目・・杭を神格化した神ならば、諾册より後で誕生しそう 「神はまた言われた。『天の下の水はひとつ所に集まり、乾いた地が現れよ』そのようになった。」と、西洋では神さまの言葉のままに世界が作られてゆきましたが、日本の神さまの場合、もう少し体温の感じられるところがありますから、やはり足場が必要だったのかも。ある程度、世界が絞られ縛られ統られてから始められたのかも等と想像しました。^^; |
[5286] Re[5285]: 坐摩神社 神奈備 | 2009/11/05(Thu) 21:02 [Reply] |
> 坐摩(イカスリ、サカスリ)神社 坐には居るとの意味があり、摩は摩擦の摩でこすると言ういみがあり、猪加志利、居所知と記載される場合もあったと思います。さて、坐をサカと訓ませるのは苦しいように思いますが、何か出典があるのでしょうか。サカは坂・境に通じ、坐とは反対の意味ではと思います。 角杙神・活杙神は神代七代の四代目に登場する神ですから、国土生成にからんだ抽象的な神だと思われます。田圃の周囲に打った杭を神格化した神ならば、諾册より後で誕生しそうな神のように思えます。 |
[5285] 坐摩神社 かしこ | 2009/11/05(Thu) 13:56 [Reply] |
本殿PONTAさんの[10002] に関連しますが、ちょっと方向が違いますのでこちらに失礼します。 角杙神・活杙神の文字から、五つの井戸がある坐摩神社を思いました。 坐摩(イカスリ、サカスリ)神社は、生井(イクイ)・福井(サクイ)綱長井(ツナガイ)・波比祇(ハイキ)・阿須波(アスハ)神を祭りますが、綱長井神と生井神は角杙神・活杙神に対応するのでしょうか?そんな目で眺めると、福井は「柵・削」、波比祇は「杙(イキとも読むようです)」に見え、クイ・クイ・カイ・イキと杙が揃いますね。また、角避(ツノサク)の「避」がサカスリの「サカ」に対応するように見えます。その場合「摩」は「知る」なのでしょうか。最後に残った阿須波は足場より「統(すぶ)」なら「知る」にも通じてまとまる感じですが。 大宮地の霊として祭られたということですから、地を支え固め守るという意味で杙は相応しく、井戸は地中に掘削する点で杙のイメージもあるのかも。栗田寛は、坐摩を「居所知(イカシリ)」としたそうですが、いかにもそんな感じです。 |
[5284] Re[5283][5282][5281]: 朱雀大路 かしこ | 2009/11/03(Tue) 12:16 [Reply] |
ご挨拶なしでお二人の遣り取りに飛び込んだと後で気付きました。失礼しました。 >水平思考 広辞苑を見ると、まさに組み上げた柱を横倒しにするというか解体するというか、そんなイメージが浮かんで面白く思いました。 大路が朱雀門から南に走って都の中心線をなすことから、平面上の心の御柱に擬えてみると、南の太陽を仰ぎつつ都の平面的重量を支えるには、あの太さが必要だったのかも。 そこでお祭りが行われたとすると、そのお祭りそのものが賢木に掛けられた鏡であり玉であり剣のようだ・・と考えると、これはもうクリスマス・ツリー。(^^) それももう来月です。速いですね。 |
[5283] Re[5282][5281]: 朱雀大路 神奈備 | 2009/11/02(Mon) 08:36 [Reply] |
> 高山の頂きのような周囲の開けた大空間にも感じられるものとすれば、それを平地で表現する場合、広大な広場になるのではないか。 > 広場は大道として横方向に「太知」って行くことになるのかも。 水平思考そのものですね。地上絵の意識かも。 神的なものと広場、いい着眼点だと思います。道筋の所々で祭儀が行われるのは道饗祭だけではなかったのでしょう。時代は下がりますが熊野王子社なんかも道筋でのお祭りの地点が固定的なものになっていったのかも知れません。 |