青草掲示板ログ平二十二年 一月 2010.1
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5443] Re[5442]:[5441][5433] 閑話休題 阿豆那比の罪  神奈備 2010/01/31(Sun) 09:45 [Reply]
やさかさん、いこまかんなびさん。ありがとうございます。

 波宝神社の日食図の件、伝承を裏付けるきっかけになってくれば、面白いことになります。だいぶ前のことになりますが、バスを下りてから銀峰山頂上まで2時間ほどでしたか、歩いて登りました。途中で梨を栽培している畑で道の確認と立ち話をしました。おいしくジューシィな梨を頂きました。

 再度、自分の目で日食図を見ようと思っています。出雲阿国さんにも声をかけるつもり。やさかさん、よろしくお願いいたします。

[5442] Re:[5441][5433] 閑話休題 阿豆那比の罪  いこまかんなび 2010/01/30(Sat) 22:02 [Reply]
神奈備さん、やさかさん、波宝神社の日食画発見についてのご紹介、どうもありが
とうございます。

昨夏の記念すべき日と重なった7月の日食は、残念ながら見ることができませんでし
た。
先学HP等を参照させていただき、翌月に西吉野銀峯山上に住吉神を祀る当神社をよ
うやく訪問でき、太陽と三羽の鶴の彩色画に出会えたわけですが、帰宅後にマイカ
ーの塗装の表面に多数残る擦り傷を気にしながらの写真整理中に、まさか日食で出
合うとは思っていませんでした。

夜中の地名は、まちがいなく日食を伝える伝承地名だったと。

神社の日食画は、江戸時代に描かれものとはいえ、古代の伝承が脈脈と受け継が
れ、それを神殿に描いた所が素晴らしいものだと感じています。

この発見?、と言っていいのでしょうか、住吉神と紀ノ川〜西吉野流域の古代史を考
える上で、何らかの解明につながる材料になればと念願しています。

波宝・波比売神社の両山上鎮座地からは、紀ノ川〜吉野川の西域だけではなく、は
るか北の生駒山をふくめ、東西南北すべての方向の遠くまで見渡せる地勢・立地上
にあるというところに、とても興味深いものを感じました。
もちろん丹生の中心地域であったことが最も重要な意味をもつのでしょう。

生駒の地域よりも紀ノ川・吉野川流域の古代史が気になってきた今日この頃です。
先学諸氏のご教示の程、どうぞよろしくお願いいたします。

[5441] Re[5439][5438][5437][5436][5435][5434][5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  やさか [Url] 2010/01/30(Sat) 14:56 [Reply]
神奈備さん、先日は鶴橋にお誘いいただきありがとうございました。
久しぶりに出雲阿国さんにも会え、お陰様で楽しいひと時を過ごすことができました。

いこまかんなびさん、波宝神社の日食画のご発見、驚きです。
よく参拝している神社なのですが、全く私は気付いていませんでした。さすがの観察眼と敬服します。
また何か分かりましたらお教え頂ければ幸いです。よろしくお願いします。

地元の大先輩の郷土史家に、お教えを乞いながら調べていますが、この波宝神社は本当に謎の多い神社なのです。
そのひとつが神功皇后伝説ですが、この神功皇后から下賜されたと伝わる「黄金佛」が残っています。
よろしければご覧ください。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/nenjibutu.html

[5440] Re[5432][5431][5427][5422][5415][5414]: 蕨手刀+中央アジア  かたばみ [Url] 2010/01/30(Sat) 12:13 [Reply]
>キルギスはもともとバイカル湖の西のエニセイ川上流域におりましたが

このあたりは私の大風呂敷ともからんできまして、失礼してちょい広げます(^^;
どかんとBC50000〜BC20000に遡ると・・
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/BC20000.png

ユーラシア大陸北方にBC50000〜BC20000あたりで「ヨーロッパのコーカソイド」が進出した。持論ではこれをユーラシアン(≒エウロペオイドの祖先)と称しています。
いわゆるアメリカ先住民(モンゴロイド)より先にアメリカに達している人々(ケネウイックマン)です。
現在のキルギス人はモンゴロイド的風貌を持ちますが、古キルギス人はこのコーカソイドの流れにあったとみております。

http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/catv/k_data/dna03.gif
まず西アジアでユーラシアンとオーシャノイド(アフリカ〜インド〜スンダ、サフール)が南北で混血(ユーラシアンが濃い)。
これがいわゆる後のイラン系ないしインドヨーロッパ語族の祖先と考えています。
ずっと遅れて東アジアでも南北で混血、これが一般に言うモンゴロイド。
後には西と東がヒマラヤの北側で混じり合ってわけのわからない状況となってゆく。

最後に誕生するモンゴロイドが縄文人です。
日本での旧石器人は北からのユーラシアン、すなわち白人ですね。あいにく骨が残ってないけど。
そしてBC15000頃に東アジア大陸のモンゴロイドがベーリング氷原から北米へ渡っていった、これがいわゆるインデイアンの祖先。

北海道と列島は海で切り離されたために、その後の変化がなかった(縄文1万年)。
アイヌの人々の祖先もユーラシアン(旧石器人)の流れにあって、南方系の人々との混血(縄文人へ)が東北以南より少なく、北側でも海で切り離されたために影響を受けにくく、より旧石器人的(コーカソイド的)資質を多く残した人々とみています。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/e_asia01.png


>この主はサカ人=スキタイ人 または大月氏といわれています。いずれにせよイラン系の人でしょうね

スキタイ=サカとみなしているのはヘロドトスですね。
アケメネス朝ペルシャの碑文に3種のサカが書かれ、そのうちのひとつはスキタイと同じ「矢のようなとんがり帽子」なのだそうで、ヘロドトスのいうサカはこれとみえます。
有名なサカの黄金人間、16〜18歳の若者で若干モンゴロイドの混じるエウロペオイドだそうです(中央ユーラシアの世界/山川出版社)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/goldman.png
(写真、草原とオアシス/講談社より)
ま、とにかくこの地域はいろいろな民族が入り交じって盛衰し、文化的には非常によく似ていて文献がなく、わけがわからない。

バジリクのミイラについての詳細は中央ユーラシアの考古学/同成社によりますが、男性はモンゴロイドと明記があります。
BC300頃、匈奴の最大版図の時代で、ここもその版図であり、エウロペオイドとする女性は匈奴の支配下におかれた「古キルギス人」ないしサカあたりでのエウロペオイドだろうと思っています。
(スキタイ文化は遊牧民全般へ伝播したが、BC400頃からスキタイ本人はサルマタイ(康居?)やサカ(塞?烏孫?)に飲み込まれて衰亡する)

すなわち、バジリクの男女のミイラは、先の持論でのコーカソイドの流れにあった古キルギス人が現代のモンゴロイド的風貌を持つキルギス人に変化してゆく過程を示すと考えています。

楼欄の女性ミイラ、楼欄の中国文献登場はBC200頃であり、それ以前に「古キルギス人≒エウロペオイド」がこのあたりまで南下しておりその女性だろうと考えています。
キルギスの中国文献での文字が「堅毘」ですが、楼欄のありようから堅毘は白人であった古キルギス人を示すとみています。


>由水常雄さん”ローマ文化王国と新羅”の本に出ていますね。

その本を読んでいませんが、ある時期から西アジア文化が東アジアに大量に流れ込んでいますね。
http://www1.odn.ne.jp/museum/gulas.html

五胡十六国時代の遼寧省の「馮素弗フソフツ」墳墓(421)からローマングラス出土。
北燕が北魏に敗れたとき413、北燕の王が高句麗へ亡命していますから五胡十六国時代ではここから半島への交易ルートがあっておかしくない。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shiragi_koueki.png
もうひとつ「封?奴墓」のローマングラスが西晋と鮮卑領域の境界付近にあります。
あいにく元資料がみつからないけど、ここから黄河のくびれた北側経由でシルクロードへも入れるはず。
しかし、新羅が高句麗と敵対関係にある状況の場合にはどうやって接続できたのか。

交易をメインにするソグド人、ソグド商人が介在していた、と考えています。
新羅は交易品をたくさん買ってくれて儲けが大きい・・(^^;
少々の危険があってもソグド商人は高句麗を横断した、高句麗も交易相手であるソグド商人には厳しく詮議はしなかったのではないか、と考えています(武器以外では)。

そして、一部のソグド商人が新羅に拠点を置いた。
(日本との交易もねらって定住した)
味鄒王262登場あたりから奈忽王356以降です(日本とは縁戚関係のない閼智系王統)。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/shiragi_ou.png

で、その数世代後の人々が日本における半島系秦氏の祖である・・
西域の最新技術を持つ人々でもあり、倭王旨(書紀での神功)〜応神で日本へ移住した人々(強制移住かどうかはなんともいえず)。
後に雄略の楽人ともなり、さらには葛城氏に代わって商いを受け持ち、秦氏を名乗った。
(はるかに古い始皇帝系譜の秦氏とはまったく別系だがここにジョイントされた)


さて・・もうひとつの日本専用の交易ルートが見えます。
火打ち金という出土物があります。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/hiuchikane.png
7〜8世紀のロシア、北欧、東欧で広く使われ中央アジアでは使われていないタイプだそうです。
これが同時期に新潟県旧得法寺跡、新潟県妙高高原、千葉県から出土しています。
中国と半島ではまったく出土していないので、中国や半島における交易ルートとは異なるルートで日本に入った可能性大。
こちらは半島経由にあらず、すなわち非大和朝廷系ルートです。

粛慎ルート・・青森あたりからウラジオストック以北〜草原ルート直行便です。
出土地から見て交易に関与したのは蝦夷でしょう。
藤原三代あたりでは東北〜千葉の沿岸ルートが存在するので、千葉の火打ち金はこのルートによるか。


[5439] Re[5438][5437][5436][5435][5434][5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  神奈備 2010/01/29(Fri) 17:22 [Reply]
> 鶴橋の飲みやあたりに隠れているかしら?

おとつい、吉野を発信されている方と二人で4時間、ボトル2/3。

年末に柄にもなく本箱を整理、御本は2冊とも近くに置いたはずですが・・・

[5438] Re[5437][5436][5435][5434][5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  大三元 2010/01/29(Fri) 09:15 [Reply]
> 『初期天皇后妃の謎』に書かれていました。目下、行方不明中。

鶴橋の飲みやあたりに隠れているかしら?

[5437] Re[5436][5435][5434][5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  神奈備 2010/01/29(Fri) 08:41 [Reply]
> 私は神話(古事記など)の方面から、越と出雲の関係を探っていますが、そのとき、248年の日食(しばしば卑弥呼の日食などとも云われる)が越〜能登半島で皆既になることに注目しました。
> http://www.dai3gen.net//2nisshoku.htm

『初期天皇后妃の謎』に書かれていました。目下、行方不明中。

[5436] Re[5435][5434][5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  大三元 2010/01/28(Thu) 11:44 [Reply]
神奈備さん

私は神話(古事記など)の方面から、越と出雲の関係を探っていますが、そのとき、248年の日食(しばしば卑弥呼の日食などとも云われる)が越〜能登半島で皆既になることに注目しました。
http://www.dai3gen.net//2nisshoku.htm

日の出時には既に欠け始めている太陽が20分後には皆既になる、一時間後に欠けが終わる。



[5435] Re[5434][5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  神奈備 2010/01/28(Thu) 09:47 [Reply]
> 3/24:大阪の日没は18:13のようですから皆既が始まる前に日没しているように読みましたが如何でしょう。

 大三元さん、ご指摘ありがとうございます。

 おっしゃる通り、皆既が始まる前になります。生駒山頂にでも登ればなんとかなるかなと・・・。

 佐賀県になると日没は18:33、皆既ではありませんが、最大は18:34、どうやら皆既日食は日本では見えなかった。

http://ameblo.jp/2626150/theme-10006107521.html

 所で、纏向遺跡から宮殿跡らしい遺跡が出土しましたが、田中卓先生は、崇神天皇の宮ではなかったかとの説を出されていると、縁MADOKAさんから教えてもらいました。それは遺跡の周囲に人工と思われる溝跡が出ていて、端籬宮(水垣宮)のイメージと一致することによるそうです。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091116/acd0911162025001-n1.htm

[5434] Re[5433]: 閑話休題 阿豆那比の罪  大三元 2010/01/27(Wed) 17:11 [Reply]
> 大阪府
> 247・ 3・24 1.008 17:36:48   18:32:50    19:24:42
>
> となっており、大阪は完全な日食になっています。日が欠けたまま沈んで行きます。

>  卑弥呼の死と日食を関係させますと、247年の大阪(畿内)がばっちりですね。

北大のHP見てみました。
3/24:大阪の日没は18:13のようですから皆既が始まる前に日没しているように読みましたが如何でしょう。

[5433] 閑話休題 阿豆那比の罪  神奈備 2010/01/27(Wed) 15:01 [Reply]
北大のHPに日食の計算が出ています。各地別に最大食分が出てきます。

この中で、卑弥呼の死んだ頃とされる247年の日食を見ますと、

年・月・日 最大食分 かけ始め   最大    食の終り
福岡県
247・ 3・24 0.988 17:36: 5   18:33:56   19:27: 9

大阪府
247・ 3・24 1.008 17:36:48   18:32:50    19:24:42

となっており、大阪は完全な日食になっています。日が欠けたまま沈んで行きます。


翌年の248年では
福岡県
年・月・日 最大食分 かけ始め   最大    食の終り
248・ 9・ 5 0.930 4:54:22   5:48:10   6:46:50
大阪府
248・ 9・ 5 0.944 4:53: 2   5:48:33   6:49:23

となっています。本来の朝になっても夜が明けない状態。

 卑弥呼の死と日食を関係させますと、247年の大阪(畿内)がばっちりですね。


所で、「いこまかんなび」さんの掲示板
http://8421.teacup.com/iko_kan2/bbs

に、吉野の波宝神社の日食画の写真が出ています。観察眼に敬意です。その神社の鎮座するのは、五條市西吉野町夜中と言う地名の銀峯山山頂です。口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。 地名の「夜中」はこの口碑に由来するという。

奈良県で4世紀中の日食で食分が0.9より大きいのは
年・月・日 最大食分 かけ始め   最大    食の終り
316・12・31 0.977 16:35:28 17:39:10   18:37: 2
368・ 4・ 4 0.916 6:13:22   7:16:15   8:25:25
の二度です。

 これを当てはめると368年頃が程良いのかも。
 和歌山県でも食分が 0.915 となり、阿豆那比の罪に適合しそうです。

[5432] Re[5431][5427][5422][5415][5414]: 蕨手刀+中央アジア  とみた 2010/01/25(Mon) 15:43 [Reply]
> 、積石墳墓は自然発生的に生じ得るか。石をひとつ置く、もっとたくさん置く・・
> 島根の四隅突出墓に似た形状の積石墳墓が、モンゴル高原〜バイカル湖東南にあります。
> ヘレクスルという呼称でキルギス人の墓という意味らしい。
> ほとんど未調査らしいけれど紀元前のようです。容易に四隅突出墓に変化しえると思います。

中央アジアのキルギスやカザフスタンには石の文化が確かにあります。

モンゴルの積石も有名です。鹿石の編年も紀元前1000年以上前からありますね。
ヘレクスルと鹿石の関係。積石塚は大型で周辺の円周に馬の骨を東を向けて埋めますね。

キルギスはもともとバイカル湖の西のエニセイ川上流域におりましたが、突厥を破ったウィグル人を追って南下しました。その後、西遼に滅ぼされ現在地のタジキスタンの北の山岳地帯に移りました。紀元後11世紀ぐらいでしょうか(年代が多少怪しい)。ヘレクスルがキルギス人の墓とは面白いですね。

エニセイ川の上流にはスキタイ人が発祥しています。紀元前9世紀ごろのスキタイ人の墓からハミでがでています。ハミは馬を制御するもので、スキタイ人は騎馬民族となり得た。

4世紀に登場する匈奴はスキタイ人から騎馬を教えてもらって強くなった。
スキタイはギリシャ語でペルシャ語ではサカイと呼ばれる.所謂サカ人です。
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kofun_herekusuru.png

> 中央ユーラシアの文化圏の変遷
> 余談
> 中央アジアのオビ川上流にあるバジリク古墳群(BC300頃、積石塚)の木槨から男女のミイラが発見され、男はモンゴロイド、女はエウロペオイド(ヨーロッパ系白人とでもいうか)で、非常に精緻な入れ墨あり。
> ギリシャのヘロドトスが記録するスキタイ人は大麻を吸っていますが、その道具も出土、馬の鞍は座布団式でシンプル。

この主はサカ人=スキタイ人 または大月氏といわれています。いずれにせよイラン系の人でしょうね。
>
> 新羅の天馬塚の断面図、高句麗の影響というより中央アジアの影響じゃないかなあ。
> 天馬塚系での出土の硬玉勾玉は日本製(糸魚川?)、金銅冠は伽耶の形式、墓は中央アジア型?積石塚。
由水常雄さん”ローマ文化王国と新羅”の本に出ていますね。

この説をもう一歩掘り下げたいんですが。
寧夏回族自治区の固原は交通の要地で、鮮卑・匈奴・羌族などが雑居していたという事実は大切なことだと考えています。
>積石塚
積石塚は、鴨緑江の高句麗の都である集安に多くあることが有名ですが、ソウルの東の江原道の春川にも、積石塚や高句麗系の横穴式石室が見られることに注目しております。
江原道春川は高句麗の地でしたが、6世紀以降になって新羅領になりました。八坂造がいて曾シ茂梨の地名もあります。八坂神社は八坂氏が建てたのでしょう。祭神はスサノオです。八坂氏は新撰姓氏録では高句麗から出たことになっています。

[5431] Re[5427][5422][5415][5414]: 蕨手刀+中央アジア  かたばみ [Url] 2010/01/24(Sun) 23:05 [Reply]
>蕨手刀の形状は信濃(甲信地域)から東北へ伝わり広がったと言われます。

類似の図ですが蕨手刀分布図
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/warabite_bunpu.png
この時代では長野と蝦夷の関係は馬を含めて濃密ですね。積石塚にもつながるのでしょう。
東北釜石周辺での蕨手刀の濃密さも「餅鉄」との関連を無視できないとみるところ。
では、網走の最寄貝塚(オホーツク文化AD400〜800頃)へはだれが運んだのだろう。
ま、ここで沖縄の貝輪がでてるからそのくらいはどーってことはないか。

蕨手刀の登場がAD600頃だとすると、敏達572-584(蝦夷の首領が降伏)〜用明585-586あたりか。
飛鳥奈良王朝の混乱期でもあり、まずは信州秘密基地で蝦夷向け特注品を生産した・・(^^;
王朝側も蕨手刀の優秀なことを知って自軍用に生産(輸入鉄か)。
蝦夷はより安全な岩手の舞草モクサあたりへ生産拠点を移動したかもしれない(砂鉄利用を模索か)。

http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/buki_hensen.png
平安時代では朝廷御用達の韓鍛冶のみとなって、褐鉄鉱(長野)や餅鉄(岩手)を使う技は表舞台からは消えた。
しかし、蝦夷などがアンダーグラウンドで保持していたと考えています。
鎌倉時代になって農耕が大発達し、農耕具用の鉄がお役所供給(韓鍛冶)だけでは足りずに「民間鍛冶(製鉄)」が復活した。
これが砂鉄によるタタラ製鉄(倭鍛冶)の原型になったと考えています。
(正宗の名刀の原料はまだ砂鉄ではない可能性大、過渡期ですね)

>〈宮城県築館町伊治城跡出土の弩の引き金部分〉

弩イシユミはなぜか日本では消えてしまう、槍も平安〜鎌倉では消えています。
槍は「殺」用として最強だけど、これも「殺し合い」(^^;がなかった日本の特徴かも。
「殺」が必要になった戦国時代に槍が長短いろいろで再登場し、以降は消えていない。

弩も鉄砲に対抗できる安上がりな代替武器として登場していておかしくないはずだけれど。
その存在を知る人がいなくなっていたのか?
弓部分に使える鋼を作れなかったのか? (日本刀の鋼とは性格が違うと思う)


少し話が戻りますが、積石墳墓は自然発生的に生じ得るか。石をひとつ置く、もっとたくさん置く・・
島根の四隅突出墓に似た形状の積石墳墓が、モンゴル高原〜バイカル湖東南にあります。
ヘレクスルという呼称でキルギス人の墓という意味らしい。
ほとんど未調査らしいけれど紀元前のようです。容易に四隅突出墓に変化しえると思います。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kofun_herekusuru.png
中央ユーラシアの文化圏の変遷
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/c_asia00.png


余談
中央アジアのオビ川上流にあるバジリク古墳群(BC300頃、積石塚)の木槨から男女のミイラが発見され、男はモンゴロイド、女はエウロペオイド(ヨーロッパ系白人とでもいうか)で、非常に精緻な入れ墨あり。
ギリシャのヘロドトスが記録するスキタイ人は大麻を吸っていますが、その道具も出土、馬の鞍は座布団式でシンプル。

新羅の天馬塚の断面図、高句麗の影響というより中央アジアの影響じゃないかなあ。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shiragi_tenmaduka.png
天馬塚系での出土の硬玉勾玉は日本製(糸魚川?)、金銅冠は伽耶の形式、墓は中央アジア型?積石塚。
新羅の墓(応神〜雄略頃)と出土物はいろいろの複合体。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shiragi_koueki.png


粛慎(と阿倍比羅夫)の場合は日本海北側横断で秋田〜青森沿岸着、ここからだと距離的に対馬ルートとさほどの差はなさそう。
島根あたりから大陸側に渡る場合に対馬ルートが使えない場合でも、いったん日本海沿岸を北上して青森付近から一気に、ありそうです。

日本海南側の半島東岸の沖合を横断できたかどうか、その場合はどこかに寄港しているだろうと思うのですが、どんな船を使ったのかが問題になりそう。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/hyoucyaku.png
対馬海流は半島東岸を北上し、沿海州沿岸を南下する海流とぶつかる、ここに上陸はできそうですが長白山脈越えになって陸路がやっかい。


[5430] Re[5427][5422][5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる  とみた 2010/01/24(Sun) 19:17 [Reply]
> 蕨手刀の形状は信濃(甲信地域)から東北へ伝わり広がったと言われます。
> 5〜7世紀に北長野で積石塚を作っていた人々との関連を考えます。
> 祖形として木島平(根塚遺跡、3世紀)に伝わっていた伽耶の渦巻文装飾付鉄剣があるのかな〜と、
> http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f20.jpg

木島平の根塚平は韓国の慶北大の朴天秀教授が吃驚されている地。

韓半島の王族級の墓に埋葬されている大刀が根塚遺跡から出土。蕨文のついた太刀で、弥生時代末としたら三世紀初めのものでしょう。

蕨文は多分、僻邪でしょう。韓国の金官伽耶の金海の大成洞古墳には蕨文の甲冑が出ている。

千曲川沿いの?飯綱山麓に淺川という支流が流れている。
淺川遺跡には、青銅製の装身具、馬形帯鉤(ベルトのバックル)が出ています。韓半島中部の3-4世紀の古墳に多く出ているものです。3世紀ごろ製造されたとされています。

さらに不思議に思うことは飯綱社古墳では、特殊な鞍が出ており、桃崎祐輔先生は鮮卑族の可能性があると述べておられます。百済の初期馬具には鮮卑の領域である現在の中国北方から搬入されたものがあります。



長野淺川端遺跡は飯綱の支流淺川の脇の台地に馬形

[5429] 子馬のツガイ  素人 2010/01/24(Sun) 00:28 [Reply]
馬も象も子供を持ってくれば、船で運んでも暴れても大したことがないし重量も大したことがないから半島からも日本海直行も出来たのではと当たり前のことを夢想するこの頃です。雄と雌の子馬を船で運んでくれば繁殖も出来ます。
ただ馬の使い方が解らないと買う人はないので、それなりの需要が出来てからかもしれないと考える素人です。
素人の青草でした。

[5428] Re[5426][5423][5417][5416]事実を丹念に積み上げる  素人 2010/01/23(Sat) 01:15 [Reply]
素人なので詳しくありませんが。
> >モンゴル式射法は矢を弓の右側に置いて
>
> 大昔に和弓をかじった経験では右につがえるのは技が必要と感じたです。
> http://mgl-f.sakura.ne.jp/index.htm
> (Mongolla→Archery)
> 現代でのモンゴル弓は左側につがえているようにみえます。
> (不確実ですが韓国の角弓も左側だと思います)
>
もともとは、右が主流だったらしいが最近モンゴルでは左につがえる人も多いとの意見もあります。騎射では右が有利で、騎射が減ったので左が増えたとの意見もあるようです。
これが本当なら、騎射と射法とが密接に関連するので私にとっては都合の良い話です。乗馬と射法を同時に習得した。日本に馬が居なかった頃ならそうなるのではと考えるわけです。習った射法を馬と伴に持ち帰った。
素人の青草でした。
複合弓の張力の大きい短弓を大きいストロークで引くのは馬上では大変ではないかと考えてしまいます。なかなか当たらないのではないでしょうか。

[5427] Re[5422][5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる  くず 2010/01/22(Fri) 08:10 [Reply]
> 日本での実戦向き馬術と弓術は蝦夷だと思います(藤原秀郷は関東の下野出自、その影響を受けてると思う)。
> 蝦夷の使う蕨手刀は刀身と柄が傾いていて、後の日本刀のそりの原型ともされます。

蕨手刀の形状は信濃(甲信地域)から東北へ伝わり広がったと言われます。
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/015.html
8〜9世紀の岩手の胆沢地区を中心に積石塚から出土する事、
5世紀中葉と見られる合掌型石室が、東北の黒鉱帯に散見される事なども含め、
5〜7世紀に北長野で積石塚を作っていた人々との関連を考えます。
祖形として木島平(根塚遺跡、3世紀)に伝わっていた伽耶の渦巻文装飾付鉄剣があるのかな〜と、
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f20.jpg

> 蝦夷がどのような弓を使ったのか、いまのところ情報がありませんが、実戦向きの短弓である可能性ありとみています。

『続日本後紀』承和4年(837)条に、陸奥国(胆沢鎮守府)からの奏上に、「弓馬での戦闘は"夷獠の生習"であり、10人が束になっても(蝦夷)1人に対抗出来ない。」
とあり、続けて弩(弩師)の配備を望む事が書かれています。
〈宮城県築館町伊治城跡出土の弩の引き金部分〉
http://www.mahoron.fks.ed.jp/nenpou/nenpou2001_35.htm

長野の善光寺はその名が示す通り、百済王家の生き残り禅広王(善光王)に由来する百済系のお寺であったと思っています。
継体紀から欽明紀に登場し、百済との外交を担う斯那奴阿比多が、科野、科野氏(金刺氏、他田氏)と繋がりの深い人物と見ると、
畿内での崇仏論争が激化していく中で、百済と繋がり深い科野に金銅仏を移したともみれます。
北信においてですが、
3世紀〜5世紀、伽耶、伽耶を経由しての新羅(妙高、関山に見える弥勒信仰)、
あるいは高句麗(八丁鎧塚)5世紀中葉以降になって百済との関係が深まったか、、
出雲系が伽耶、前1世紀以降楽狼郡を経由して漢と繋がりを強めた北九州系が地勢上百済と関係を密にしていたとも見れます。
中央政権が入れ替わると、辺境の前勢力圏は敵対を余儀なくされる。
力が適わないなら新勢力に懐柔するか、さらに遠方へ移動するか…
蝦夷勢力の成立にはそんな事情が絡んでくるのかと。




[5426] Re[5423][5417][5416]事実を丹念に積み上げる  かたばみ [Url] 2010/01/21(Thu) 00:01 [Reply]
>モンゴル式射法は矢を弓の右側に置いて

大昔に和弓をかじった経験では右につがえるのは技が必要と感じたです。
http://mgl-f.sakura.ne.jp/index.htm
(Mongolla→Archery)
現代でのモンゴル弓は左側につがえているようにみえます。
(不確実ですが韓国の角弓も左側だと思います)

和弓で右側に矢をつがえて引くと矢が弓から離れてポトンと落ちやすい(正確には弦を引くのではなく左手で弓を前へ押し出す)。
ベテランの方でもたまにこれを見ます(^^;
また「弓返し」という技も必要で、これがなかなか難しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kuroken3147/44621164.html
アーチェリーと比較して、なんで右につがえるのだろうと思ったです。

http://e-asia.board.coocan.jp/?m=listthread&t_id=236&summary=on
百済の弓らしい、年代などわかりませんが矢の長さから見て短弓とみえます。
高句麗と百済は兄弟ですから同系だろうと思います。

射た矢の威力は初速にイコールであり、初速は弓の弾力にイコールだと思います(加えて矢の重さとのバランス)。
矢(弦)を引く長さは腕の長さ以上にはなりませんから、体格の違いを除けばみな同じ。
弓の長さは「弦を目一杯引いたときに弓が折れない長さ」で作ったと考えています。

木で弓を作る場合は一般に長くなるんじゃないかなあ。短い木の弓で大きく曲げると折れちゃうから。
ヨーロッパなどのオークやイチイの単一材の弓なら長弓にならざるを得ないと思います。
「長弓」の文字を見ると遠くまで飛ばせる弓のように感じるけど、実は長くしないと折れてしまう材料を使っているからだと考えています。
同じ材で短い弓を作れば威力の弱い弓にならざるを得ない。

角弓のごとくに獣の角や腱などを複合させると大きく曲げても折れなくなるのだと思います。
だから短くても威力のある弓が作れた。
和弓(竹合成)ですとビヨーン、アーチェリー(グラスファイバ)ですとビンッ、初速の違いを感じます。

三十三間堂通し矢は120mほどだったらしいけど、竹弓だと豪の者が射てもそれが限界だったのでしょう。
和弓の場合はある時点で武器としてだけではない「道」になって、新しい材料で新しい射法にはならなかったのかもしれない。
異文化との戦いがほとんどなかった日本の特徴だと思っています。


[5425] Re[5424]: 5422] Re[5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる    かたばみ [Url] 2010/01/20(Wed) 23:49 [Reply]
>この地に、副葬品の埴輪があり、ペルシャ製ガラス器が出ていることに注目

五胡十六国相関図、ご参考まで
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/gokojyuroku.png

新羅の奈忽王356あたりからローマングラスなど西アジア系文物が多数出土するようになり、墳墓形式にも中央アジアの影響が生じます。
墳墓形式まで似るのは相当な影響力であり、新羅が必死で最新文化導入に努めていたことがうかがえます。

高句麗を通過する交易ルートが最短になりますが、多くの期間で新羅と高句麗は戦闘モード。
戦闘休止状態でも、高句麗が新羅の利になるような交易を通過させるとも考えにくい。
ウラジオストックあたりまで沿岸を北上して草原ルートなのか、いまのところ不明。

日本へのローマングラスは草原ルート〜高句麗〜百済ルートと、五胡十六国通過〜百済ルートがありえると思うのだけれど。

[5424] 5422] Re[5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる    とみた 2010/01/20(Wed) 22:59 [Reply]
>黄河が湾曲して北進する場所で1600mの高地です。 河西回廊〜長安をつなぐ交通の要地です(北朝と隋唐時代)。

文字記録をしない遊牧民の世界でもあってやっかいな地域ですね。
資料としては「中国古代北疆史の考古学的研究/中国書店」と「五胡十六国/東方選書」くらいしか

蘭州の北、やはり寧夏回教自治区の銀川の近くですね。黄土高原の道。

河西回廊と長安をつなぐシルクロードと、河西回廊と北魏の都、盛楽、大同(平城)、龍城、馮素弗慕、集安、慶州をつなぐステップルートの道。それが交わる要所。
匈奴など北方民族の侵入を防ぐ秦の長城がありました。匈奴、氐、羌、羯、鮮卑、高車、月氏などが雑居しているのも頷けますね。氐、羌はチベット系、高車はトルコ系、月氏はイラン系、羯はソグドと深い関係がある。

この地に、副葬品の埴輪があり、ペルシャ製ガラス器が出ていることに注目。

鮮卑の拓跋が北魏ー隋ー唐の支配層になる。鮮卑の慕容が前燕ー北燕を支配する。

436年に北魏に攻められた北燕の馮王は馮数万の兵を連れて高句麗に亡命する。北魏は439年に北朝を建てる。北燕の亡命貴族がローマングラスをもたらし、慶州の王族の古墳に副葬する。

橿原の新沢126号墳にもローマングラスが副葬される。

この地は大伴氏の地であろうか?




[5423] Re[5417][5416]事実を丹念に積み上げる  素人 2010/01/20(Wed) 01:11 [Reply]
> 「日本の弓はモンゴル射法です。百済から習ったのでしょう。」
> 少し詳しく説明していただけませんか?
>
モンゴル式射法は矢を弓の右側に置いて、人差し指と中指で支えて親指で弦を引く射法。名前の通り、モンゴルですから騎射に適した射法で、親指で引くので短弓向きの射法のようです。矢の右側に弓を添えるので馬上での操作が容易と思われます。
馬の無かった日本では必要のない射法で、弓も長弓でしたから騎射を習ったときに
射法も習い日本に持ち帰ったのではないかと夢想したわけです。
短弓は強力な弓を引き絞るので、技術の習得が大変なのではと思います。
馬上ではさらに大変ではと。
使い慣れた長弓では、無理な力もいらないので馬を乗りこなせば戦力になったのでしょう。また矢を引く長さは、モンゴルの短弓、日本の長弓共にヨーロッパの射法に比べて長いようです。
お恥ずかしい、素人の青草でした。

[5422] Re[5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる  かたばみ [Url] 2010/01/19(Tue) 01:03 [Reply]
>日本軍も騎馬戦で丸木弓の2m以上ある長弓で馬上から弓を放っていたのでしょう

http://mai-bun.hosp.med.tokushima-u.ac.jp/syutsudohin/moku/moku4.html#yumi
徳島県出土の弥生初期末の弓とあります。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yumi_doutaku.png
銅鐸絵の弓
どうみても真ん中につがえてはいないですね。
持論の銅鐸のありようからは、これらの絵には縄文の流れを含むとみています。

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/DSC04117.jpg
木馬を使った流鏑馬の練習。
藤原秀郷が騎射の祖とされており、流派がたくさんあったけれど現在残るのは小笠原流だけだそうです。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/DSC06951.jpg
射程はせいぜい50m程度で、矢が長ければ命中精度は上がるかもしれないけど、大量の矢を持って速射するには向かないですね。
漁労や狩猟用の延長上の弓術で、日本人好みの形かなあ。量より質、あるいは精緻さの方向です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/DSC07038.jpg
こちらは帯に差し込んでいます。実戦では各自いろいろな工夫があったのかも。
こういう騎射隊と戦う場合は写真の側から攻めるべし、長弓では馬の向きを変えないとこっち側には矢を放てないでしょう。

騎馬では短弓が有利だと思いますが、日本での騎馬は貴族のもので実戦に出ることはあんまりなかったのではないか。
源氏も平氏も天皇家の流れ。
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000028
これは参内するときの正装でしょうけれど、これで戦えるわけがない(^^;

日本での実戦向き馬術と弓術は蝦夷だと思います(藤原秀郷は関東の下野出自、その影響を受けてると思う)。
蝦夷の使う蕨手刀は刀身と柄が傾いていて、後の日本刀のそりの原型ともされます。
なぎはらうように使うため、すなわち馬上ですれ違いながら使うため。サーベルなど騎馬で使う刀はみな同じ。

蝦夷がどのような弓を使ったのか、いまのところ情報がありませんが、実戦向きの短弓である可能性ありとみています。
短弓では韓国の角弓(合成弓)が最強か、高句麗由来だろうと思います(射程100m以上らしい)。
高句麗・・日本海沿岸・・蝦夷・・

島根松江市の田和山遺跡出土の黒曜石の鏃のエッジにはのこぎりみたいな加工がある。
ここは明らかに戦闘用高地性集落であり、この鏃はより多くを殺傷するための加工に他ならず(^^;
威力の弱い弓でも毒矢ならかすり傷でも倒せる・・痕跡が残らないだけかも(^^;

高句麗は周囲がみな敵でもあって戦わねば生きてゆけない地域(隋は勝てず、唐がようやく)。
応神大王が高句麗と戦ったとして、その武器と馬の優秀さを身にしみて感じたと思います。


[5421] Re[5414]: 事実を丹念に積み上げる  かたばみ [Url] 2010/01/19(Tue) 00:08 [Reply]
>公孫氏は後漢の遼東太守から混乱期に自立します

このあたり、いろいろな論がたくさんありますね。
卑弥呼は公孫氏が滅びて直ちに魏へ使者を送っていますから、公孫氏と魏の抗争の様子は新羅経由などで常に最新情報を得ていたのだと思っています。
魏と交わるか呉と交わるか倭国内部でも意見の分かれるところがあって、これも倭国争乱の種になったんじゃないか。
直線距離はどちらも同じ、海路と陸路、卑弥呼は陸路の方を選んだか。

>266年に宗女の台与が西晋に朝貢したことになっていますが

魏志倭人伝に、卑弥呼が死去した後に「更立男王国中不服・・卑弥呼宗女壹與年十三為王・・」ですね。これが何年かは不詳。
卑弥呼の年齢からみても卑弥呼の実子ではなく、倭国の巫女宗家の跡継ぎということでしょう。
卑弥呼同様に男王だとなぜ混乱するのか興味深いところです。

晋書(648編纂)帝紀武帝紀には
AD266「泰始二年十一月巳卯 倭人来献方物幷圜丘方丘」(書紀ではこれを「倭の女王」とだけ書いている、神功紀66年)。
266年前後には東夷が朝貢したとか帰化したという記事がたくさんありますが倭人と書いているのはこの一行だけ。
倭国とは書いていない・・朝貢者を国の代表とみなしていない可能性あり、持論の歴史観では九州倭国は衰微崩壊中。

283年に馬韓など十一国が朝貢とあります(馬韓は国と認めているわけです)。
半島南西部の方形周溝墓がAD200頃だとすると、この馬韓には誰がいたのか・・
吉野ヶ里を脱出した出雲系譜か平原遺跡の方形周溝墓(大型鏡出土)関連くらいしかみえないけど。


なお、邪馬臺国(後漢書ヤマタイ)と邪馬壹国(魏志ヤマイツ)の場合は、どちらが正しいかの解釈論議がありますが、壹與は魏志のみの登場で「台与」と書き換え可能な理由がないので壹與(壹与)を使っています。

後漢書(25-220編纂432)が書く倭国は、魏志の書く倭国以前のはずで女王もでてこない。直後に光武帝金印が書かれています。
後漢書の書く邪馬臺国は金印AD57以前すなわち神武時代のことであって、魏志の書く卑弥呼時代の邪馬壹国と同義とするのは危険と見ています。
魏志には他に邪馬国も書かれますし、ある時代には邪馬・臺国があり、ある時代には邪馬・壹国があったと考えてよいと思っています。
(現地名では英彦山の東〜東南の大分県に耶馬溪ヤバケイが多数)


>黄河が湾曲して北進する場所で1600mの高地です。 河西回廊〜長安をつなぐ交通の要地です(北朝と隋唐時代)。

文字記録をしない遊牧民の世界でもあってやっかいな地域ですね。
資料としては「中国古代北疆史の考古学的研究/中国書店」と「五胡十六国/東方選書」くらいしか持ってないです。
これに書かれる参考文献になにかあるかなあ。

[5420] Re[5413][5411][5395]: 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  かたばみ [Url] 2010/01/19(Tue) 00:01 [Reply]
>漢風諡号に"神"が付けられた天皇は神武、崇神、応神。
>特別な意味を持つと考えていいかと思っており、時代のエポックに関わっていると見ます

この三人は時代のエポックだと思います。
ただ、神武の神は「神のごとき」だろうと思いますが、崇神は「神々を祀る」の意と考えています。
自らの神を祀るのは当然ですが「出雲の神」も祀った、それが崇神の名の意と考えています。
応神は神功紀のお話に即した名、仲哀が神の意志に逆らって死去した、そして神の意志に応じて生まれた子、の意ですね。

>長野との関連では、県内最古の積石塚である八丁鎧塚1号墓が4世紀末で応神期に対応し、

竪穴式から横穴式への変化は雄略あたりからで、九州からですね。
石棺を吊して埋めるのはたいへんだから横から入れようよ・・(^^;
まあ、石棺使うなんてのは権力者じゃなきゃできない話ではあるけど。

竪穴式は穴を掘って埋める土壙墓の延長だったが、横穴式では使者に対する祭祀の意識が加わったことからの形式なんてこともあるか。
死者を下に見ての祭祀はうまくなかろう、です。
御神輿を下に見るのはまずいよなんて言われることがあるのと同じ。

そのあたりも誉田山古墳(仁徳陵とみる)と大山古墳(雄略陵と見る)は境目にあって掘ってみたいぞ(^^;

[5419] Re[5416][5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる  神奈備 2010/01/18(Mon) 14:42 [Reply]
> 日本軍は大弓は名手ぞろいでしょうから、強力な長弓の威力も有って善戦したのではと思います。

 伊予の三島に鎮座する大山祇神社の由緒ですが、『伊予盛衰記』に、白村江の戦いに参加し、逃げ帰って来た越智直守興の子の玉興が伊予国の政務と同時に大山祇神社の祭祀を司ったとあります。

 一方、この神社の神の大山積神も、『伊予国風土記逸文』に、「乎知の郡。御島においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(渡海)の大神である。この神は難波の高津の宮に天の下をお治めになった天皇(仁徳天皇)のみ世に顕現なされた。この神は百済の国から渡っておいでになり、摂津の国の御島においでになった。云々。御島というのは津の国の御島の名である。」とあります。

 百済からの渡来人が和多志の大神を奉じて列島にやって来た。そうして摂津に上陸してからこの島にやって来たと言うことですが、順番が逆さまではなかろうかと思います。先に島に拠点を設けて、周辺を調査してから四国なり、摂津なりへ上陸するものでしょう。五十猛神は対馬・壱岐・隠岐・能登島・佐渡と上陸してから、本土や九州に進出しているように見えます。

 要するに、越智の守興や玉興が百済から逃げ帰って来たことが形を変えて『風土記』の物語になったのかも。

 越智直守興が騎馬戦に長じていたのかどうかは不明ですが、伊予からは秋山好古が出ています。日本の騎馬隊を率いて日露戦争を戦ったのでした。戦後は郷里で学校の先生をしたそうで、質素な方だったとか。松山に墓所があります。写真掲示版にのせました。

 ついでの弟は大本教に入ろうとしましたが、陸軍は反対し、息子さんが入ったと聞きました。

[5418] Re[5412][5410][5407]: 思い付き  かたばみ [Url] 2010/01/17(Sun) 14:08 [Reply]
>弥生時代はもっと早く始まっていたとの説があります。紀元前600年頃。

弥生時代とはなにかの定義がまずありますね。
水稲が盛んになる時ということならBC500頃かなあ、弥生の呼称のいわれである弥生式土器を使い始める時、であれば半島型土器も含めてBC1000にも遡ると思います。

書紀編纂者は、中国での西周1100-771の始まりと神武さんが同じではちょいおこがましいかということで、東周(小国に分裂、春秋時代)に設定したんじゃないかなあ。
で、ゴムひもの神武さんのところをつまんでぎゅーっとそこまで引き延ばして書いた・・

>今から800年前の宋時代、古物の青銅器のコレクションがブームになり、饕餮が紋様に現されているとの記述が増えたそうです

他にもありそうな話ですね(^^;

以下余談
弥生式土器の一番の特徴は首の部分のくびれだと思います。
しかし、なにかを入れたとき、大型の場合は液体でも出し入れしにくいと思うのです。
現代の容器でも、口を細くくびらせる容器は小型の液体用だけではないでしょうか。

運搬のことを考えるようになった土器だから、だと考えています。
液体であれ米であれ、ちょい傾いてもこぼれないように。
首に縄を巻いて天秤棒でよっこらしょ、船に乗せて運ぶ場合はなおさらです。

そういう形の最古はBC4300の鬼界カルデラの爆発で崩壊した鹿児島県上野原遺跡の土器。
縄文土器の形に加えて弥生土器そっくりの土器が登場しています。
火山灰に埋もれているだろうその他の南九州全域で船による交易(輸送)をしていたんじゃないかなあ。
鬼界カルデラの爆発がなかったらずいぶん違った弥生時代が登場していたかもしれない。

[5417] Re[5416]事実を丹念に積み上げる  とうてつ 2010/01/17(Sun) 10:22 [Reply]
「日本の弓はモンゴル射法です。百済から習ったのでしょう。」
少し詳しく説明していただけませんか?

魏志倭人伝では「木弓短下長上」となっています。これについて、
私が以前何かで読んだと記憶しているのは(何とも曖昧で恐縮)以下の通りです。

「弓」の文字の形は弦を張る前の弓の象形で、日本の弓は弦をはずすと棒状。
日本の弓は南方系で、水中の魚を射る目的で、つまり斜め下方を射る為のもの
矢が短いと水中での直進性が低いので長くなり、長い矢を射るため長い弓となった。 
南方の銅鼓に描かれた図に短下長上の弓で魚を射る図柄が在る

 なるほどと妙に納得していました。

[5416] Re[5415][5414]: 事実を丹念に積み上げる  素人 2010/01/17(Sun) 02:12 [Reply]
>騎馬戦の技術指導をしたと考えられますのでこの段階で弓は腰につけていたのでしょう。
誤)弓は腰につけていたのでしょう。
正)矢は腰につけていたのでしょう。
馬に乗って、矢を背負っては邪魔で弓射どころでは無いでしょう。
訂正させていただきます。

[5415] Re[5414]: 事実を丹念に積み上げる  素人 2010/01/17(Sun) 02:04 [Reply]
とみた様
勉強させていただいております。
>
>
> ◎400年に高句麗が洛東江を攻めて金官伽耶を破りました。
>
> 倭軍もそこで高句麗の武具の威力を知りました。
>
> たとえば倭軍は矢を入れる靫(ゆき)を背負い、背中から一本一本取り出すので
>
> 大変なのに、高句麗軍は腰に胡ロク(筒)を下げて能率よく取り出せた。
>
> この武具の革新が倭国で5世紀に起きる。
>
徒歩の弓兵ですと、歩きにくいので背中に弓を背負うのでしょう。
騎馬民族の高句麗は騎射弓兵で複合弓の弓と思われます。(流鏑馬)
日本軍も騎馬戦で丸木弓の2m以上ある長弓で馬上から弓を放っていたのでしょう。(流鏑馬風は日本への凱旋者から伝わったものでしょう。)
馬に乗ったことのない日本の兵隊が乗馬を取得して、得意の弓を撃てるようになるまでには、何年もかかったと思われます。援軍を依頼した百済も騎馬戦の技術指導をしたと考えられますのでこの段階で弓は腰につけていたのでしょう。
日本軍は大弓は名手ぞろいでしょうから、強力な長弓の威力も有って善戦したのではと思います。この段階で日本は数十年の経験が有ったのではと夢想します。
西暦400年の高句麗戦で技術革新とは解せません、それ以前の問題でしょう。
とても疑問に思えます。想像力の欠如でしょうか。
前にも書きましたが、日本の弓はモンゴル射法です。百済から習ったのでしょう。
私の思い付きでは、金官伽耶への高句麗の侵入は、製鉄技術者・鉄官を日本に呼び込むための策略と思えてなりません。製鉄技術者がミナマ伽耶に帰ってしまい失敗に終わりますが、上手くいっていれば日本に西暦400年に高度製鉄技術等が転がり込んでいました。
青草でした。
最近よく考えるのですが、筑波のお山は霞ケ浦方面から見るとフタコブ駱駝の背ように見えます。奈良県の二上山も大阪方面からみると同じように見えるのではと考えています。鹿嶋郡辺りは、古墳時代初期の古墳が有るようですが、蝦夷対策の最前線であったようです。大阪方面には弥生時代に大和政権と対峙していた強力な勢力が有ったようですが、奈良盆地で大和政権が確立後に、物騒なので同じようなお山の見える辺境の地に所替えされたりと言う事はないかと考えるわけです。
一石二鳥のように思えます。空いた土地に大陸からの戦争難民を受け入れる。
思い付きの青草でした。

[5414] 事実を丹念に積み上げる  とみた 2010/01/16(Sat) 11:55 [Reply]
くずさん かたばみさん 

最近セミナーで仕入れた歴博の仁藤敦史先生と専修大の土生田先生の専門家の意見を紹介します。

◎400年に高句麗が洛東江を攻めて金官伽耶を破りました。

倭軍もそこで高句麗の武具の威力を知りました。

たとえば倭軍は矢を入れる靫(ゆき)を背負い、背中から一本一本取り出すので

大変なのに、高句麗軍は腰に胡ロク(筒)を下げて能率よく取り出せた。

この武具の革新が倭国で5世紀に起きる。

◎雄略が葛城と吉備を負かすのは、葛城と吉備が朝鮮の国と、個別にパイプを持って鉄を仕入れていたのが、目障りであった。雄略は全国制覇するには鉄を梃に威信財として配下に配り、支配しようとした。

◎公孫氏は後漢の遼東太守から混乱期に自立します。公孫度が後漢末189年ごろ遼東から朝鮮を蚕食するのを後漢も黙認しています。公孫康の時代も倭と韓については後漢や魏は介入しませんでした。つまり卑弥呼の若いときは公孫氏と直接つながっていました。

公孫淵が228年に魏から自立志向を顕にして237年に燕王を名乗ります。魏よりも呉との接触を深めます。公孫氏は楽浪郡の南の荒地を割いて帯方郡を設けます。238年に魏は司馬イ(仲達)を派遣して公孫氏を滅ぼします。239年魏の出先となった帯方郡に寄り道して,洛陽に使者を派遣するわけです。卑弥呼が魏と接触するのは晩年です。247年に死んだことになっています。

265年に魏から晋に代わりますので、266年に宗女の台与が西晋に朝貢したことになっていますが、日本書紀に書かれているだけで中国の史書には明記されていないそうです。(派遣がなされたことだけは記されていますが年号や名前は書かれていない)

蘇哲先生の五胡16国時代の魏晋時代の話では、シルクロードのステップ ルートかオアシス ルートかどちらでしょう。蘭州の北に寧夏回族自治区の固原が注目地のようです。(銀川あたりかと思っています。後の西夏の地かも)

黄河が湾曲して北進する場所で1600mの高地です。 河西回廊〜長安をつなぐ交通の要地です(北朝と隋唐時代)。
匈奴族,羯族、氐族,羌族、高車族、ソグド人が雑居していました。
鮮卑もいたでしょうし、月氏もいたかもしれません。


このあたりを研究されている方はおられませんか?









[5413] Re[5411][5395]: 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  くず 2010/01/15(Fri) 23:12 [Reply]
年表見させてもらいましたが、きれいにまとまりますね。
漢風諡号に"神"が付けられた天皇は神武、崇神、応神。
特別な意味を持つと考えていいかと思っており、時代のエポックに関わっていると見ます。
それぞれ、応神期が古墳時代前期から中期への変化(4世紀末)に対応、
崇神期を弥生後期から古墳時代への変化(3世中葉)、
神武期を弥生中期から後期(紀元前後)に想定出来るように思います。
神武期から崇神期まで9代(約250年間÷9代≒1代28年)
崇神期から5代(約150間÷5代≒1代30年)と、時間的にも符合すると見ていいように思います。

長野との関連では、県内最古の積石塚である八丁鎧塚1号墓が4世紀末で応神期に対応し、
その後の積石塚で墓域の核となる合掌型石室の出現が雄略期(須恵器TK208)の対百済政策と何らかに関連すると見ています。

合掌型石室は全国に約40が確認されていますが、北信濃に9割がある他は、
山梨に1基(市川三郷町、王塚古墳:帆立貝形前方後円墳)
福島に1基(会津坂下町、長井前ノ山古墳:福島最古の前方後円墳)
山形に2基(南陽市、松沢古墳群:積石塚)

全てに言えるのはグリーンタフ地域の開けた盆地にあるという事^^
http://www.jogmec.go.jp/mric_web/video/tec10/tec10j.html
合掌型に天井を組むのは鉱物採取の坑道から生まれた発想かも。

合掌型石室は大石を合掌型に組み合わせていますが、
大和の初期古墳に特徴的見られる平石を積み上げて作る合掌式天井を持つ古墳と、
もしすれば関係があるのかもと思っています。

合掌式石室を持つ古墳
○大和天神山古墳(3世紀末〜4世紀初頭、前方後円墳:奈良県天理市柳本町)
○黒塚古墳・・・(3世紀末、前方後円墳:奈良県天理市柳本町)
○柳本大塚古墳・(3世紀末、前方後円墳:奈良県天理市柳本町※大型内行花文鏡が副葬された小石室) 
○メスリ山古墳・(4世紀初頭、前方後円墳:奈良県桜井市)
○闘鶏山古墳・・(4世紀前半、前方後円墳:大阪府高槻市)
○元稲荷古墳・・(3世紀後半、前方後方墳:京都府向日市)
○丹田古墳・・・(4世紀前半、前方後方墳※積石塚:徳島県三好郡東みよし町)
など、
これには和邇氏、多氏が関係しているかも?と想像。

[5412] Re[5410][5407]: 思い付き  神奈備 2010/01/14(Thu) 09:42 [Reply]
> (ウエツフミにいうウガヤフキアエズ朝の始祖と同時代じゃないか)

 弥生時代はもっと早く始まっていたとの説があります。紀元前600年頃。丁度。記紀に言う神武天皇が動き出す頃に相応しているようで、面白い事だと思っていましたが、神武さんを紀元前後の頃と見ますと、それまでの600年間とウガヤ朝とが符合します。


> (良渚文化の影響を受けた龍山文化)これが夏〜殷に運ばれてさらに形式化および図案化されたものが饕餮紋であり、長江の三苗が運んだ文化の変化のひとつだと考えています。

 林巳奈夫さんの『神と獣の紋様学』によりますと、獣面紋である「」は、今から800年前の宋時代、古物の青銅器のコレクションがブームになり、饕餮が紋様に現されているとの記述が増えたそうです。
 「殷周時代の紋様と饕餮の名称が関係あったことは誰も証明してみせようとはしていない。」と書いています。

 
> 良渚文化の影響を受けた龍山文化出土の文様です
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/ryuzan_zuzou.png
 
 これを見ますと紋様は明らかに継続しています。
 言葉使いの問題としての「饕餮」を問題としているようです。『海山経』(北山経)に、「獣がいる。その状は羊の身の如く、人面、目が脇の下にあり、虎の歯、人の爪、その声は嬰児のよう、名は狍鴞[けもの扁 庖のたれの中][号鳥](ほうきょう)。これは人を食う。」とあるものを饕餮と同じ物と見ているようです。虎の役割は歯のみです。
 よくわからないところです。

[5411] Re[5395]: 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  かたばみ [Url] 2010/01/11(Mon) 19:48 [Reply]
倭国と半島あるいは大陸との関係に変化が生じている事象を古墳と出土物から追補.

(崇神248-273)
古墳時代前期です。この頃の古墳からはめぼしい渡来品がでなくなります。

対外交流の窓口であった北九州が寒冷化と倭国争乱で混乱疲弊し、対外交流どころではなくなっていたから。
加えて王朝が近畿に移動して対外交流と縁が遠くなっていたから。
(邪馬壹国も壹与で崩壊へ)

中国での鏡は一品生産がほとんどですが、三角縁神獣鏡など大量のコピー品が出回るようになります。
対外交流が途絶えた、だから年号ミスなんてのも登場するわけです。

(景行311-333)
九州巡幸は九州復興のために他なりませんが、書紀には北九州での事象が書かれていない。
書紀の都合である可能性あり・・景行の九州基地は日向に置かれています。
崇神〜景行は日向天孫であり北九州とはそれほど仲がよくないから。
日本武尊はなぜ書紀が蛮族とする熊襲から「名」をもらったのか、熊襲は崇神や卑弥呼の縁戚の末裔であり、日本武尊と祖先が同じだから。

崇神〜景行時代に近畿からの大量の支援物資輸送があったとみています、庄内式土器を使って。
庄内式土器の編年にいろいろ論があるようですが、持論の歴史観からはAD250を遡ることはなくAD300前後の土器となります。

(成務333-356)
弥生後期の寒冷化が終わって温暖化が始まり、九州が復活する時代です。
七支刀に書かれる九州の倭王旨の登場→仲哀暗殺。

(応神386-402)
古墳が奈良から河内に移動し巨大化する、古墳時代中期(AD400頃)のはじまり。
高句麗系副葬品が登場するようになり、長野県では積み石塚式の古墳登場(積み石塚の源流は西アジアにあると考えています)。
崇神〜仲哀の近畿王朝から北九州系(日本海系)の大王とその王朝への切り替わりを示すと考えています。

奈良県橿原市の新沢千塚古墳群の126号は小さいけれど西アジアやローマ帝国系の装飾品が大量出土。
武器が少なく中国で女性の墓に埋納する青銅の火のし(アイロン)がでていて女性の墓とされます。
この頃の新羅でも同様の西アジアやローマ系の出土物が登場しています。

応神大王の半島進出によって西アジア〜遊牧民〜高句麗〜新羅(伽耶)経由での文物が北九州〜日本海沿岸から近畿にもたらされた。
従来とは異なる鉄器の登場。最新技術が入ってきたのでしょう(これが韓鍛冶の具体的な登場か)。
古墳時代初期では甲冑を作るのに小さい短冊状の鉄板を革紐でつないでいますが、三角形の板の鋲留め加工に変化しています。

で、応神大王はちょい半島に深入りしすぎて畿内が手薄に・・近畿王仁徳のクーデター(^^;
北九州では倭王五代の時代へ、近畿では仁徳402-434〜允恭439-454の王朝が短いけれど並立する時代。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/shindai01.pdf

書紀に陵のことが書かれていない唯一が応神。
応神の墓は近畿にはないどころか列島にもないかもしれないと思ってます(^^;
応神陵とされる誉田山古墳、これは仁徳陵だと推定。
その周辺古墳が実際に仲哀や日本武尊、允恭の古墳であるならば、持論での日本武尊の一族郎党がここに集まっていて自然となります。

それでは仁徳陵とされている大山古墳は誰の墓か。
ボストン美術館に大山古墳出土とされる太刀と鏡は百済の武寧王(523没)によく似ているそうです(天皇陵総覧/新人物往来社)。
だとすると、百済を再興させた雄略456-479(古事記では489没)以外にこれだけでかい古墳を作れる大王はいない。
雄略陵比定にはいまのところ決定打はないようだし、その事跡から近畿にあっておかしくないし。
どっちも早く掘らないかなあ。

AD450頃になると古墳に横穴式石室が登場(島根県や長野県)
古墳形式の変化は、日本海沿岸〜高句麗の新しい直行便によるものかもしれません(倭国争乱時代から出雲系と高句麗は仲がよい)。

雄略456-479の登場、倭王五代における4代目と推定。
近畿王の允恭439-454を倒して(穴穂大王)近畿を再び制圧し、高句麗に滅ぼされた百済本国を再興させ、信州や関東まで支配下においた強大な大王。
信州戸隠神社や東京湯島天神の手力雄命の登場はこれによると考えています。


[5410] Re[5407]: 思い付き  かたばみ [Url] 2010/01/09(Sat) 10:54 [Reply]
>なぜか中国で南と北が争うと、最後は北が勝つ

暖かく豊かであれば戦う必要がなく自然界によりそっていればよく、寒く貧しい国は自然界とも戦わねばならず、必要は発明の母であって技術が発達し、技術はそのまま武器になる。
自然界と人間を説く道教が長江系であり、人間対人間を説く儒教が黄河系であること、それを示すと思っています。

技術の進歩が自然界と人間界の営みを制圧できるようになると北が上位の流れが生じ、金属器の登場で加速される。
中国では殷の登場が境目かなあ。

明時代に書かれた「封神演義」は殷周革命での仙人の活躍を描いていますが、南方系の仙人が殷に味方して悪玉扱いになっています。
殷は首都を内陸に置いていますが、文化的には長江の影響が大きい。周は遊牧民で文化的にまったく異なりますね。
権力者にとっては儒教がグッドで自然界うんぬんいう道教は扱いにくい、けれど民には道教が浸透。

>苗族はその辺りに居たとなりますね。
>それが江南の地に追われたと言うことなら、負けて長駆南下した。
>なお饕餮の足がトリだそうです

中国先史時代
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/07/bunka01.gif

河姆渡遺跡出土の文様です。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/07/kaboto.jpg
双鳥が運ぶ中央の天体は太陽と解釈されるそうです。

それを引き継ぐ?良渚文化出土の文様です。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/07/gyokuki_r.jpg
見にくいですが目玉のごとくに見えるふたつの上に「神の顔」が描かれています。
太陽神が人格化され、鳥とその目(あるいは羽)がデザイン化されたものと思われます。
(中国文明の誕生/林巳奈夫では河姆渡と良渚が直結するかどうかは不明としています)

良渚文化の影響を受けた龍山文化出土の文様です
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/ryuzan_zuzou.png

これが夏〜殷に運ばれてさらに形式化および図案化されたものが饕餮紋であり、長江の三苗が運んだ文化の変化のひとつだと考えています。
現在の雲南の苗族は中国伝説でいう「三苗」の子孫のひとつである可能性が高いですが、証明はされていないようです。

ちなみにこちらは遼寧省あたりの紅山文化での出土品
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/07/kouzan.jpg

似たイメージのデザインですが他との比較から、こちらは獣の首でしょう。
殷が紅山文化の影響を受けるとすれば龍山文化経由になるだろうと思いますが、今のところその流れを知りません。

龍山文化の前身でもある大ブン江文化、これは縄文形成時(大陸と列島がつながっていた時代)では九州縄文と兄弟の沿岸系文化だと考えています。
縄文は海に遮断されて独自の文化へ、大ブン江文化は周囲の文化の影響を受けて龍山文化へ。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/e_asia01.png

余談
朝鮮建国神話の檀君は天から降臨していますが、BC2000あたりの末期龍山文化圏からの渡来者だと考えています(卵殻土器)。
(ウエツフミにいうウガヤフキアエズ朝の始祖と同時代じゃないか)


[5409] Re[5401][5395]: 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  かたばみ [Url] 2010/01/08(Fri) 20:57 [Reply]
>しかし、神武天皇が当事者とはビックリ仰天!
>この様な考え方は「危険思想」(笑)なんでしょうか?

>あの金印を手にしていた人物が神武帝と考えると、何だかわくわくしてきます

出土金印の真贋論が出たり消えたり(^^;
広開土王碑の文言ねつ造説(歪曲解釈)も前方後円墳という物証が発見されてさすがに消えたはず。
(好太王碑拓本の研究/除建新/東京堂出版2006)
なのにNHK・・百済の臣下となった倭人の墓・・家来がそんなでかい墓をぼかすか作れるもんかい(^^;

神武さんに金印をあげようってわけではないのですが、私の書紀年代の補正によれば、文献に登場する人物としては「そうならざるを得ない」のであります。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/06/kojiki_shoki.pdf

この補正を作ってからだいぶたちますが、修正の必要を感じていません(HP参照)。
書紀編纂者はある時代以前の大王即位年(没年)をゴムひもを伸ばすように単純拡大しているだけだ、という考え方をしています。

古事記に書かれる崇神年代は補正とは15年ほどの差がでますが、成務〜允恭では数年の誤差しか生じず、古事記の年代はほぼ正確だとみています。
さすがに神代になると系譜の世代数からの推測しかできませんが、私の年代観はすべてこの補正年代に基づいています。

結果として素盞鳴尊渡来や天孫降臨という神話上のエポックが歴史上の具体的事象によるものだという発見?にもつながっています。
国譲りも大きなエポック、神話化と神武東征説話によってそれを奪われた神武さん、怒ってるかも(^^;


神武が金印・・そうなら面白いと思う方々、多いんじゃないかなあ(^^; 同時に危険思想を感じる方々も少なくないかも。
金印と神武という二つの文献上の情報には接続点がなにもない、すなわち根拠がないのであります(^^;
が、しかし、A〜Bに糸をつなぐと(歴史の流れのシミュレート)その糸に金印と神武が「いっしょに」からみついてくる、そういうことなのです。

後漢書でいう「倭奴国は倭国の極南界」とか魏志倭人伝に登場するふたつの奴国の問題も解決してしまうのです。
「無理をせずとも」説明できるようになる、これが、この(補正による)歴史観は正しいという判断にもなってくるわけです。

単独事象から枝を伸ばすのではなく、大きな流れをシミュレートしてその流れに事象が包含できるかどうかをチェックする、それの繰り返しで流れを確定してゆく、これが私のやりかたです(今のところ縄文〜古墳時代まではまず不動になっています)。

ある事象へのこだわりから枝を伸ばす、これは袋小路に入った場合に「特殊な解釈」を選択しやすく危険だと思ってます。
おらが村が一番だあなんて村民意識がある場合、これもまずいですね。
ある事象に夢とかロマンとか美しさを期待する場合、それを捨てねばならないことに直面するかもしれませんけど。


[5408] Re[5407]: 思い付き  神奈備 2010/01/08(Fri) 09:06 [Reply]
とうてつさん、おはようございます。含蓄あるカキコ感謝。

> 黄帝と争った蚩尤(しゆう)は 殺されその首は晒される
> 一説ではその頭が饕餮(とうてつ)と言われる
> なぜか中国で南と北が争うと、最後は北が勝つ
> 古くは黄帝と蚩尤

 蚩尤は兵主の神と言われており、山東半島の根元付近が本拠。
 苗族はその辺りに居たとなりますね。
 それが江南の地に追われたと言うことなら、負けて長駆南下した。
 なお饕餮の足がトリだそうです。


> 首には魔力が残るのか

 道と言う字には首があります。魔除けのために首をぶら下げて行くものと読んだ記憶があります。

[5407] 思い付き  とうてつ 2010/01/07(Thu) 10:57 [Reply]
今の話題と大分ずれて恐縮 神奈備掲示板で刺激を受けたので失礼
中国の古代神話
黄帝と争った蚩尤(しゆう)は 殺されその首は晒される
一説ではその頭が饕餮(とうてつ)と言われる
蚩尤は武器を造ったとされ、鉄生産一族
木を大量に消費し 貪る の属性から魔を喰らうとされ文様化
首には魔力が残るのか 将門の首塚 吉備津神社の温羅(うら)

なぜか中国で南と北が争うと、最後は北が勝つ
古くは黄帝と蚩尤 項羽と劉邦 隋の煬帝も永続きしない
煬帝(ようだい)と読むのは蔑称
近くは南京政府と北京政府
米食いの民は小麦食いの民に敗れる

[5406] Re[5405]: 姫島の東から昇る月神と亀仙人、青草版(^^;  くず 2010/01/07(Thu) 00:34 [Reply]
> AD50頃の秋の夕暮れ、国東半島姫島から東を望む。

新年にぴったりの夢を乗せた画像に思います^^

やはりAD50頃、夏至の日の早朝、日の出前ギリギリにオリオンの三ツ星が昇って来るようです。
http://star.gs/cgi-bin/scripts/planet_s_v2.cgi?jwi=j&tiikij=%8B%9E%93s%81i%8B%9E%93s%81j&tiikiw=%83A%83N%83%89%81i%83K%81%5B%83i%81j&dyy=p&dy4=0&dy3=0&dy2=5&dy1=0&mon=6&dd=21&hour=4&min2=3&min1=0&w_h=h&ali=270&hii=0&ken_s=0&zoom=0&pix=0&sen=y&ama=y&name1=y&mse=i

海人族の域を超えて天体観測の対象になっていていたでしょうかね^^

[5405] 姫島の東から昇る月神と亀仙人、青草版(^^;  かたばみ [Url] 2010/01/06(Wed) 11:34 [Reply]
年賀状に代えまして
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/orion2.png
AD50頃の秋の夕暮れ、国東半島姫島から東を望む。
黄色線が黄道(惑星が移動する道)、赤が赤道(地平と交わる位置が東と西)。
(絵は葛飾北斎のコピー)

蟐蛾ジョウガをくどく廬敖ロコウ・・むろんそんな神話はありません(^^;
廬敖の出自不明(抱朴子や列仙伝にはでてこない、民間俗話か)
三つ星は中国星宿では「参」、犂星スキボシ(唐鋤、牛に引かせる大きな爪のついた鋤)。
ウエツフミにいう赤星はペテルギュースでしょう、他のはどれかなあ。

蟐蛾の瀬戸航路なんてのがあるんですね(対馬への近道ルートらしい)。
http://www.pa.qsr.mlit.go.jp/nagasaki/port/kaihatuhozen-jogano.htm

[5404] Re[5395]: 倭奴国王  くず 2010/01/06(Wed) 01:57 [Reply]
>新羅本紀
>   57 脱解即位
>   59 倭国と国交樹立
>  →神武の九州統一後であり光武帝から確認の金印を受領、兄弟として国交樹立は当然

時間を越える"青草亀"に乗っからせて頂きます^^

志賀島の金印、レプリカを見ましたが小さくて驚いたのですが、、
あの金印を手にしていた人物が神武帝と考えると、何だかわくわくしてきます。

>[5390] 神武兄の稲飯命=脱解王
新羅本紀に伝える出自の「多婆那国」ですが、読みに近い丹波周辺の潟湖に入植していた奴国海人の拠点と見ます。
前1世紀代からの北九州勢力と出雲(銅鐸祭祀圏)との緊張関係で瀬戸内航路が滞り、
畿内勢力は日本海に流通拠点を求めざるを得なくなる。
丹波と畿内との関係が強まる中で駐在していた奴国皇子(稲飯命)は出雲圏の丹波、弁辰(金官伽耶)から追放されて新羅へ。

漢との関係を重視する倭国(北九州勢力)は、朝鮮半島南東部の弁辰から、楽浪郡との直接航路にあたる朝鮮半島南西部の馬韓地域に流通拠点をシフトしたのでは。
AD57年の脱解王即位を受け、新羅と関係を結び出雲⇔弁辰(伽耶)と対峙する。。
出雲圏は伽耶との関係を保ち続ける中で金官伽耶の製鉄が本格化し、
弥生後期から終末期、日本海側勢力を中心に力を持っていく。

一方で南九州から旗揚げした神武帝は、北九州勢力の力も背景に記紀記述の通り、
東征に向かった想定はありませんか?
記では東征途中の行宮、安芸の多祁理宮と吉備の高嶋宮で15年を費やします。
この瀬戸内沿岸の同伝承地の北側に、異なる墓制の群集墓が見られる佐田谷・佐田峠があって、
ここ周辺を当時(弥生中期末から後期初頭)の出雲連合軍の言わば行宮、前線拠点(国境)と見ます。
近隣にピラミッド説葦嶽山は神武天皇陵と伝わる。これは?(笑)


ともあれ東征後、銅鐸生産拠点であった摂津の姫との婚姻。これも必要事であったと思います。
畿内制圧後、北九州に戻っての金印授与であったかも^^

神武帝の死後、大和に残した多芸志耳命が反乱で殺され畿内は再び出雲色に。
しかし王統に血は残され、北九州型の銅鏡祭祀も影響を与えたかもしれません。
出雲、大和などでの銅鐸祭祀の終焉と畿内周辺地域への銅鐸祭祀の拠点移動。
加茂岩倉、荒神谷も北九州勢力との境界という認識からと推定。

[5403] Re[5400]ウガヤフキアエズ朝  くず 2010/01/05(Tue) 14:44 [Reply]
> ウエツフミのいう鵜草葺不合朝72代とは、中国伝説にいう「三苗」が九州に渡来したことを始まりとするものとみています。

> 三苗とその文化はアジア全域に大きな影響を与えたと考えています。
> ひとつは中国の殷の成立とその前身でもある夏の重要な構成員となること。
> ひとつはベトナムやタイの先史文化の形成の源となること。
> 彦穂々出見尊がみそめた大綿津見神の娘の豊玉毘賣の祖先でもあり、南西諸島文化の源流でもある。

亀に乗った安曇磯良の話になりますが、
オリオン座を亀、又は"亀の背に鋤が乗った姿"と見立てるのが、
東南アジアでミャンマー、タイ、カンボジアなど広く見られます。

住吉三神、綿津見三神を、オリオンの三ツ星と見てよいように僕も思います。
海人の水先案内で亀に乗って現れるというのはまさにそれでしょう。

その意味で、猿田彦命(三つ魂)や椎根津彦命(珍彦命)にも、日、月に三ツ星信仰が絡み合ってのものと思っています。(下の余談へ続く^^)

> 「底星御祖の神こハ底筒之男底筒之女の命 赤星御祖の神こハ中筒之男中筒之女の命 岩星御祖の神こハ上筒之男石巣姫の命 これの三星の神ハ月の神に添イて現わます」 (独り神ではなく夫婦神として書かれている)
> 3つの星は月に添って昇る・・黄道のすぐ東にあるのがオリオン座の3つ星。

三ツ星に対して子三ツ星(淡く光るオリオン大星雲を含む)に女神の神格を見立てたのでは?
宗像三女神がそれかも^^
亀岡市の大井神社に月読命と市杵嶋姫が亀の背に乗って現れる話があります。
同じく伝わる木股神も、三ツ星と子三ツ星を木の股にたとえてのものではないでしょうか?
木股神が御井神と同神とされ御井神は生井、福井、綱長井の三神に分離するのはそのためかとも。

そして余談^^
猿田彦命の妻の神格を持つ天宇受賣命は、縄文期を通じて長かった北極星のない時代、
天の北極にあたる"虚空"をホトに見立てて生まれた神格と見ています。
地球の歳差運動で北極星が現れると、陰にまわらずをえない。
能登で天宇受賣命のように舞いで岩穴の猿鬼をおびき出し、筒矢で退治する神杉伊豆牟姫の話が伝わりますが、
おそらくは同神の伝えではないかと思っています。
猿は冬至の太陽。イツムはツムジ、カタツム(ブ)リのツムに同じく渦の意味。
その渦は天の極を中心に回る日周運動からうまれたものと想定。

[5402] 本年もよろしく  とみた 2010/01/05(Tue) 08:59 [Reply]
神奈備さん 皆さん

新年おめでとうございます。旧年中は何かとお騒がせしました。

皆さんとの情報交換で、1歩1歩古代史全貌の高見に進みたいと思います。

山昇りは螺旋状に進みますので、見えたり隠れたりします。見る方角では急な斜面もあります。


でも、古代史に興味が向いて以来、今まで学んだ下の道を見ると多少は坂を上った気持ちもあります。

ピッケルや命綱も必要なときまた救いの手を差し伸べてください。

本年もご厚情の程お願いする次第です。

早とちり、ミス投稿の談、減らす努力はしますが、生来の慌て者につきご容赦ください。

[5401] Re[5395]: 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  多美 2010/01/05(Tue) 01:46 [Reply]
> NHK教育で古代日本と朝鮮半島の交流というETV特集を集中的にやってますが・・まあアカデミックとしてはそんなとこになるのでしょう(^^;

「NHK風」「NHK的」あまねく公平中立を旨とする。ですから変なことにもなり

ます。この番組、期待したのですが途中からまったく期待外れ。

この手の番組は民放では無理(スポンサーがつかない)でしょうからNHK扱いとな

るのでしょう。NHKの珠玉?番組は周辺からの圧力もなく反対者沈黙という条件を

満たした時、いい番組が・・・・。まあNHKに「史観」を求めるのは無理筋。

> (神武 36- 66)
>   57 脱解即位
>   59 倭国と国交樹立
>  →神武の九州統一後であり光武帝から確認の金印を受領、兄弟として国交樹立は当然

金印、なつかしいですね。

しかし、神武天皇が当事者とはビックリ仰天!

この様な考え方は「危険思想」(笑)なんでしょうか?

「古代で遊ぼう」を読んでみたところまたまた謎だらけ。

正統派の神奈備さん。求道者の大三元さん。社会派的かたばみサン。謎謎的言蛇さ

ん。自由奔放ポンタさん。参加皆さん。

やはり、神奈備さんでしょうね。

大変失礼しました。

謹賀新年



[5400] Re[5384][5382][5377][5376][5372][5366][5363][5361][5357]: RE:出雲と高句麗/ウガヤフキアエズ朝  かたばみ [Url] 2010/01/04(Mon) 18:42 [Reply]
5384
>所で、この鵜葺草王朝を『所謂古史古伝』は51〜73代と恐らくは1000年ほどの期間続いた王朝と見ているのでしょうか。ウエツフミも72代。朝鮮半島南部の上伽耶にあったとも思えず

ウエツフミのいう鵜草葺不合朝72代とは、中国伝説にいう「三苗」が九州に渡来したことを始まりとするものとみています。
BC2000頃に長江下流域の良渚文化が洪水で崩壊したとき、ここから脱出した人々が九州に到達し、その文化が縄文に最初の新風をあてた。
太陽信仰を持つ海人であり縄文に近代祭祀をもたらした人々、書紀にいう神皇産霊尊の源流でもあります。

三苗とその文化はアジア全域に大きな影響を与えたと考えています。
ひとつは中国の殷の成立とその前身でもある夏の重要な構成員となること。
ひとつはベトナムやタイの先史文化の形成の源となること。
ひとつはポリネシアとその文化の源となること(ニューギニアを除く)
彦穂々出見尊がみそめた大綿津見神の娘の豊玉毘賣の祖先でもあり、南西諸島文化の源流でもある。

良渚文化の遺跡は洪水に埋もれています。
世界的な寒冷化と異常気象の時代、ヒマラヤの急激な融雪による長江の氾濫が原因とみています(黄河も氾濫時代、龍山文化の集落が小高い丘の上に作られる)。
この時期、ナイル河口堆積物の花粉分析で花粉が消滅する地層があるそうです(気候と文明の盛衰/安田喜憲)。


はるか昔の良渚文化からの渡来者を始祖とする伝承と次々と登場する(民のための)新文化の伝承、これを書紀における年代観にはめ込んで書いている。

大きな歴史観を持ち得ない時代の悲しさというか、書紀に書かれる内容しか参考にできず、そこにはどうにも納まらない情報、ウエツフミ編纂者は書記がいう鵜草葺不合尊を海人系譜とみなしてウガヤフキアエズ朝と書いたのだと考えています。
(当然ながら神武はBC600頃と読む他はない)
それぞれの世代の話に書紀の記述にジョイントする神名が登場するのは、必死に書紀の流れに合致させようとしているからでしょう(^^;

余談
十六代では三韓国人が船80艘で狭手依に攻めてくる、反撃するのが稲氷命で三韓国の加那阿禮門に上陸・・破れた新羅は新羅王女と稲氷命の婚姻を求めた・・ところが神意にそぐわずで稲氷命は身代わりを結婚させた・・
面白いですね。新撰姓氏録に書かれる話の詳細版とみえます。
こんなところに偽を加えても意味がないと思います、伝承本体に書紀の神功紀などの影響の国名が加わっているかもしれませんけど。
歴史としては、神武の九州統一時での半島側の伽耶(出雲と密接)との戦闘伝承と判断しています。

二七代では瀬戸内に進出して大三島に大山祇神を祀っています。これは越智氏の祖先の伝承かな。

30綴り(三十三代〜)にはいくつかの星神の詳細が書かれています。
たとえば
「底星御祖の神こハ底筒之男底筒之女の命 赤星御祖の神こハ中筒之男中筒之女の命 岩星御祖の神こハ上筒之男石巣姫の命 これの三星の神ハ月の神に添イて現わます」 (独り神ではなく夫婦神として書かれている)
3つの星は月に添って昇る・・黄道のすぐ東にあるのがオリオン座の3つ星。
こんなことに偽を書いてもやはり意味はないでしょう。
ウエツフミを信じる限りでは、住吉3神はオリオンの三つ星であること100%間違いなし、となります。


[5399] Re[5397][5392]: 迦毛大御神  神奈備 2010/01/04(Mon) 17:53 [Reply]
> 神奈備さん、皆さん、明けましておめでとうございます^^
>
くずさん、皆さん、今年もよろしくお願いいたします。


> 褐鉄鉱のスズが生った可能性もありますね。
> 赤留姫は褐鉄鉱の姫と想像しています。
> アグ沼で生まれ(アグはおぎゃー)赤玉をなし、虹がさす。

 面白い着想です。
 褐鉄鉱が沢山できることを祈願したのが銅鐸の役割だったとしたのが、真弓常忠さん。

 赤留姫 → 下照姫 →阿斯受岐高彦根命 と 迦毛大御神につながって来ます。実に楽しい推理、感謝。

[5398] Re[5394][5381][5374]: 出雲と高句麗  くず 2010/01/03(Sun) 22:53 [Reply]
> 方形周溝墓

興味深いご洞察ありがとうございます。
長野に展開する方形周溝墓は明らかに東海方面からの流れです。
周溝の4隅が切れる特徴的な形が最古に位置づけられる佐久の久保遺跡で確認されています。
埋葬施設が残らない(残りづらい)特徴も、副葬品が少ないのも同じ、
そして当たり前ですが、南信に多い。

そして長野の円形周溝墓の特徴は正反対で、
北信に多く、埋葬施設が残るケースが多い。そして副葬品も多いんです。
鉄釧、銅釧は、この円形周溝墓から出てます。
(東京湾岸の鉄釧は方形周溝墓から出るのが不思議??)


方形に拘る意味では、東日本の古墳時代初期に特徴の前方後方墳がありますが、
近江にあって前方後方墳の最古級(3世紀前半)の神郷亀塚古墳には木槨墓が確認されています。
加えて亀塚を社地に持つ乎加神社は豊遠迦比売命(=豊受姫)を祀る。
神前郡、神主郷(かむぬすのごう)にあって佐野鍛冶屋村を氏子としています。
http://sendo.fc2web.com/flame02/jingoukamedukakohun/kamedukakohun.htm

丹波⇔伽耶(楽狼式木槨墓1〜3世紀→北方騎馬系木槨墓3世紀末以降5世紀)
→近江→東海、東日本への繋がりを考えています。

[5397] Re[5392]: 迦毛大御神  くず 2010/01/03(Sun) 22:12 [Reply]
神奈備さん、皆さん、明けましておめでとうございます^^


>ススキ
褐鉄鉱のスズが生った可能性もありますね。
赤留姫は褐鉄鉱の姫と想像しています。
アグ沼で生まれ(アグはおぎゃー)赤玉をなし、虹がさす。
(褐鉄鉱生成過程で、酸化皮膜が油膜に似た虹模様を示す。)

東側世界で独自の発展を見せた銅鐸祭祀は、
太陽祭祀、月祭祀を包括した自然サイクルへの祭祀なのかなーと今のところ。
稲作(弥生)と縄文の融合。
この国の本質が内包されているようで魅力です^^


[5396] Re[5395]: 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  素人 2010/01/03(Sun) 21:32 [Reply]
あけましておめでとう御座います。
NHKは特殊な史観を持っておられるようで、アカデミックはどうかと思いますが。
ほん年もよろしくお願いいたします。
> まあ、大国がからんで敵になったり味方になったり、伽耶人や高句麗人や百済人が倭国のどこにどうしているのやら・・
 これらの人は、全員が漢人と言い張って日本に同化したのでしょう。蛮族認定さては大変です。
> 倭国も間接的に大国の思惑に振り回されていた時代。
>
半島関与は鉄好きの私は、高度な製鉄技術の獲得に有ったと考えております。
吉備に製鉄華僑を受け入れ、6世紀後半には形だけの国産化に成功して、7世紀後半には福島の国営製鉄所で鉄の量産化をスタートして鉄の国産化に成功しました。
この時点で、半島に関与する理由は消滅したはずなのですが、663年半島錦江河口の白村江で唐・新羅連合軍と戦います。おっしゃる通りとても不思議な派兵と思います。属国から独立国になったと言う自負は有ったのでしょうが、無謀な戦争と思われます。

[5395] 倭国と朝鮮半島、青草版(^^;  かたばみ [Url] 2010/01/03(Sun) 16:09 [Reply]
NHK教育で古代日本と朝鮮半島の交流というETV特集を集中的にやってますが・・まあアカデミックとしてはそんなとこになるのでしょう(^^;

新羅本紀による倭国との関係の青草概史 年頭からの長文失礼。

AD8 脱解と南解王(天孫系)の娘が婚姻
 14 倭人が兵船百余隻で略奪
 →神武がまだ九州統一を果たしていない時(≒出雲が国譲りしていない)
 →この倭人とは出雲ないし伽耶系倭人である可能性あり
(神武 36- 66)
  57 脱解即位
  59 倭国と国交樹立
 →神武の九州統一後であり光武帝から確認の金印を受領、兄弟として国交樹立は当然
(安寧 78-92)
  87 西の百済、南の伽耶の侵入に備えて城壁建設
 →神武朝は九州の出雲勢力とは協調できたが半島では伽耶と反目のままとみる。
(懿徳 92-105)
  94 伽耶軍を撃退
  98 干ばつ
 →寒冷化でしょう、新羅でも干ばつ(飢饉)が始まっています。
(孝昭105-137)
  この頃、伽耶と新羅の抗争がくりかえされています。
 123 倭国と講和
 →神武朝が終わり倭国は伽耶と決別の時代へ
(孝安137-175)
  倭国と新羅の仲のよい状況が続きます
 173 倭の女王卑弥呼の使者来訪
 →卑弥呼の就任挨拶とみています(これを偽とする論がありますが、偽とする根拠なし)
(孝霊175-204)
 193 倭人が大飢饉となり避難民到来
 →倭国争乱の激化 九州倭国の九州以東の出雲領への本格侵攻
 →出雲は唯一の対外ルートの高句麗との接触を強めたと推定。危険な航海だが島根〜北陸から半島東岸へ
 201 伽耶が講和を求める
 →列島での出雲の敗勢により伽耶が孤立化し講和したとみる。
(孝元204-225)
 212 伽耶から人質が送られる
 →列島での出雲敗北に先立って伽耶が敗北したとみる。
(開化225-248)
 232 倭人が侵入し金城を包囲
 →脱解系王統末期の内紛に倭国が干渉と推定(天日矛命渡来はこれに関連と推定)
(崇神248-273)
 249 倭人が于老を殺害
 →これも倭国の新羅内紛への干渉とみる。
(垂仁273-311)
 295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
 →この頃は新羅と倭国が紛争状態
 300 倭国と国使を交換
 →一時的に和平交渉成立、伽耶地域の倭国占領を認めたのではないか。
(景行311-333)
312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
 →景行大王の多数の妃とその子等、婚姻融和策の一環と見ています。
(成務333-356)
344 倭国が花嫁を求めたが辞退
 →倭国と新羅とのぎくしゃくが再び始まっている。成務(屯田の設置)が新羅を属国扱いしようとした可能性をみる。
345 倭王が国書を送り国交断絶
346 倭軍が金城を攻撃
 →倭国が武力によって新羅の属国化を目したと見る
(仲哀356-360)
356 奈忽王即位(訖解王に子なく味鄒王の父の孫(閼智の八世孫)


奈忽王356となって新羅の伽耶への侵攻が始まり(目的は鉄でしょう)、北九州は危機感をつのらせた。
九州王の倭王旨が、外国情勢に鈍感だった近畿大王の仲哀356-360を暗殺、新羅に出兵(書紀では神功とする)。

これ以降新羅本紀から伽耶の記事が消え、戦う相手は倭と高句麗で、新羅は百済とは講和を結ぼうと必死となります。
この頃の伽耶は倭国に制圧されて属国化していたのだと思います。
任那日本府の原型ですね。

半島内では新羅、高句麗、百済が抗争をくりかえしています。
百済は絶好のチャンスと見て倭国に七支刀(銘文に倭王旨、369)を送って同盟を申し出た。
百済が期待するのは倭国が新羅と戦い続けてくれること(ここでの倭国の大王は九州にある)。

倭国はこれに利ありとみて同盟締結、370頃か。
百済の首都は忠清南道の扶餘にあって、まだ半島南西岸までは進出していません。
倭国はその半島南西部に進出、応神386-402時代(九州です→倭王五代へ)。

半島南西部から発見されている多数の前方後円墳はこの進出によるもの。
百済経由で最新の馬と馬具と武器が倭国に輸入されたと思います。

百済と同盟を結ぶことで自動的に(相対的に)高句麗とは敵対関係となります。
半島南西部だけならよいけれど、高句麗にまで軍を進めればたいへんなエネルギーが必要、そして応神は敗北。
これが広開土王碑に書かれているわけです(NHKはこれを避けて通過?)。

さて、
応神は九州系の大王、半島でのエネルギー消費がたたって近畿支配が手薄になった。
そこで起きたのが近畿王仁徳のクーデターであります(^^;
内乱ですが仲哀系譜(日本武尊系譜)による仇討ちでもあります。

むろん、書紀はそんなこと書けない。
応神の皇太子である菟道稚郎子が兄弟の仁徳に禅譲・・あははのはっ(^^;
かろうじて大山守命の謀反という事象を書くのみ。
なぜ仁徳の民の竈の煙が消えていたのか・・内乱でたいへんだったからに他ならず。


高句麗との関係は百済が存続する間は好転はせず、文化的な交流も乏しいはずです(むろん出雲はすでに存在しない)。
倭王五代、雄略時代に高句麗によって百済本国が崩壊、倭国(九州)にいた百済王族で百済を復興させた。

そして倭王六代目となるはずの筑紫の磐井王を同族の越の男大迹王(継体507-530)が攻撃して滅ぼす。
この内乱で疲弊した倭(欽明539-571、敏達572-584)は半島支配に手が回らなくなって、百済がパワーを増大させます。
武寧王462-523、聖王523-554は半島南西部を掌握した。

任那日本府とは伽耶のこと、4県を譲ったことになってるけど奪われても取り返せなかった。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/kaya01.png
書紀はそれを個人に罪をかぶせてごまかした。

百済は643に高句麗と和睦同盟して新羅を攻撃、高句麗は唐と抗争中で百済との両面作戦は無理です。
この頃には伽耶=任那日本府は消滅し、少なからぬ伽耶人が渡来していたと考えています(すなわち往古の出雲と縁戚の人々)。
これを書紀は倭漢などと書いて出自をあいまいにしている。

伽耶系倭人が錯綜する用明585-586〜天智661-670の100年間の書紀の大王系譜はほとんど信用できない(^^;
天智661-670は百済を支援663・・普通ならいまさら首をつっこむ必要はないはずだけど・・必要があったのでしょう。

唐が高句麗を滅ぼす668、脱出した高句麗人の渡来。
百済に攻撃されていた新羅は唐に援軍要請・・百済は倭に援軍要請・・さあ、わけのわからない権謀術数(^^;
壬申の乱672勃発・・百済滅亡679・・百済人の大量渡来。

まあ、大国がからんで敵になったり味方になったり、伽耶人や高句麗人や百済人が倭国のどこにどうしているのやら・・
倭国も間接的に大国の思惑に振り回されていた時代。


[5394] Re[5381][5374]: 出雲と高句麗  かたばみ [Url] 2010/01/03(Sun) 15:05 [Reply]
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

5381
>東海から入った方形周溝墓は馬文化と交わった出雲系なのか

方形周溝墓はいまのところわけがわからないモードでありまして、民のレベルからの「誰でも作れる墓」だったと考えています。

その原型は穴を掘っただけの土壙墓であり、その変化のひとつが方形周溝墓ではないでしょうか。
(少なくとも南方系?の風葬や船棺葬の流れではない)
石を敷き詰める。土壙の底にも敷くかもしれない。ご予算のある場合には朱やベンガラをまく。
木棺や石棺を併用して大きな石の覆いをのせたりもする。

周溝はテントを張るとき中に雨水が入らないように溝を掘るのと同じだとみています。
逆に、土を盛り上げて雨水が入らないようにする、これは墳丘墓へ発達するか。
四角の墳丘は作りにくいはずで、円形になってゆくんじゃないかなあ。

丸い周溝はちょい不自然、普通に掘るなら長方形だと思います、墳丘墓の影響を受けて丸にしたものと思います。
これらが権威を示す意味も持つと、巨石を組んで墓室を作ったり、葺石を敷き詰める、巨大化するといった方向になるのではないでしょうか。


そういう墓制の中で特異なのが甕棺葬だと思います。
巨大な土器に納めるという意識はどこからきたのか・・幼児であれば小さい壺に入れることはあるでしょう。
甕棺分布は北九州に集中し、BC200頃にブームとなってAD100には消えてゆきます。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kamekan_hensen.gif

半島でもBC200頃に金海など南岸に甕棺が登場しています。
こちらは半島土器特有の突起付きですが、この突起で持てるとは思えませんので土器形式のみ引き継いだのでしょう。
中国では屈家嶺文化(良渚文化に先立つ文化)に甕棺葬があるようですが、それ以降を含めて未確認。
東南アジアと南インドにもあります。

この状況から見えるのは東南アジアないし呉越付近の海人が持ち込んでブームとなった、です。
おそらくは最新の水稲技術到来と直結し、北九州の出雲(吉野ヶ里など)や天孫(神武系譜)が共に使ったと考えています。

甕棺葬は福岡周辺がメインであって遠賀川流域では上流の立岩遺跡で前漢鏡6面を伴って出土している程度で数は少ない。
大年神文化源流(畑作)地域であることと、ここで活動した海人の系譜の違い、これがそうさせているのではなかろうか。
(遠賀川流域はその地形から洪水等で遺跡が相当深くに埋没あるいは流出している可能性もあるとみています)

持論の年代観では、甕棺葬は神武朝の終わりとともに消える。
これは北九州での神武系とは異なる葬制を持つ(天孫系)氏族の台頭(孝昭105-137〜開化225-248)を示し、外洋型の海人の影響力が減少したことを示すと考えています。
(長江系の温帯ジャポニカではなく、「列島と半島独自の早稲種」の発見と広まり、にも関連すると推定)
(さらに、近畿王朝となってからは沿岸航海のみとなり、平行して星神も消えてゆくことになる)

方形周溝墓に九州が早いという物証はいまのところないと思います。
吉野ヶ里ではまずは大量の甕棺葬(細身銅剣が同伴)があり、方形周溝墓は古墳時代にはいってからとみえます。


遠賀川流域では立岩遺跡から稲作用の石包丁が生産されて北九州各地に「輸出」されています(見返りはゴホウラ貝輪など)。
いろいろな形式の墓がでているのですが、甕棺葬は少なく、早い時期の方形周溝墓もでていない。
この地域は弥生文化の始発地であり、その頃ではまだ周溝を巡らす墓はどこにもなかったのだと思っています。

近畿の伊勢湾に早い時期(遠賀川土器)に方形周溝墓登場。
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0804miya.pdf
朝日遺跡で遠賀川土器がでるのに遠賀川では方形周溝墓がでない。

現状では、瀬戸内〜紀州沿岸〜伊勢志摩にやってきた人々が平坦地での葬制に工夫を加えたものが方形周溝墓と考えるのが妥当じゃないか(持論で初期開拓者と称する人々)。
まだ素盞鳴尊は渡来しておらず「出雲」は存在しない弥生初期です(古出雲は初期開拓者の流れの上に後から重なってくる)。
池上曽根遺跡の方形周溝墓も似たような流れではないか。

唐古・鍵遺跡でも方形周溝墓の可能性のある出土がありますが、当時の大阪湾は泥土と河川洪水地域であって、こちらから上陸できる場所ではなく、唐古・鍵遺跡は若狭方面からの人々であり、池上曽根の始まりより遅い年代がはじまりとみます。
最近発見された奈良県観音寺町の方形周溝墓群、いつの時代かがポイントかな。
こちらは紀ノ川側から入っているのかもしれない(紀ノ川流域では遠賀川土器、半島土器が共存している)。
紀ノ川の西飯降遺跡の方形周溝墓の周溝から弥生中期の土器出土、撹拌かどうかは不明。

韓国の南西部の忠清南道にも多数の方形周溝墓があり、寛倉理遺跡では出土土器からBC200〜BC100の論もあるようですが、土壙と周溝がずれており、年代の異なる墓の重複のようで、AD200頃のようです。
この方形周溝墓は近畿→北九州→半島の流れとみておきます。

だとすると、半島の前方後円墳登場より200年ほど先だって(すなわち倭国争乱時代に)北九州から半島南西部に展開した人々がいた、ということにもなって非常に興味深いです。

[5393] Re[5391]: 謹賀新年  琉球松 2010/01/02(Sat) 14:42 [Reply]
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 銅鏡の中には銅鐸の成分と一致するのも見つかってますね。
 全てがそうとは言えないようですが、観念的に銅鏡は銅鐸の精?を含んでいるとは言えないでしょうか。

 銅鐸は抹殺の対象ではなく、再生されるべきモノだったと思いますね。

[5392] 迦毛大御神  神奈備 2010/01/02(Sat) 11:41 [Reply]
 水の中ですく動作をしますと紙が得られます。何度か繰り返す動作です。すくすくと行うのです。すすぐ動作は水の中でモノを振ることです。

 お婆さんが川で洗濯をしていると桃が依りつきました。桃太郎の誕生です。

 大和の石上神宮に関する話が『源平盛衰記』に記載されています。
 これによれば、「此剣(石上神宮の神霊)を布留といふ事は、布留河の水上より一の剣流れ下る。此剣に触るるものは、石木共に伐砕き流れり。 下女、布を洗ひて此河にあり、剣下女か布に留まりて流れ遺らず。則ち神と祝に奉る。故に布流大明神と云ふ。」とあります。

 ススグ動作は神霊を依りつかせるのです。紙ならず神です。

 秋の七草の一つのススキ(薄)には、収穫期には神が宿るという意味がある。そうです。(松原右樹氏大阪歴史懇談会講演録H13年7月)
 スキにもそのような意味があるとしますと、鋤にもあることになります。豊鋤入比売命に天照大神か依りついて各地を彷徨しますが、豊鋤は阿遅鋤と同じように良い依りしろだったのでしょう。

 銅鐸の鐸にもスズの読みがあり、当然神の依り代だったのです。鋤と同じなのです。

 『古事記』に記載されている大御神は迦毛大御神と天照大御神の二柱です。
 銅鐸  迦毛大御神の依り代
 銅鏡  天照大御神の依り代(『古事記』天照大神が「鏡は専ら我が御魂として、吾が前を拝くが如き拝き奉れ。」と言っています。」

[5391] 謹賀新年  神奈備 2010/01/01(Fri) 16:37 [Reply]
 殷周の古銅器の文様に饕餮文が多くあり、形は虎をモチーフにしていると言う。

 殷鐸から倭鐸(日本の銅鐸を勝手に言う)への技術的流れ(青銅鋳造の技術 厚い→薄いなど)と宗教的流れ(多分太陽祭祀へ)の途中に饕餮と言う塞を守る怪神の銅器があるように思っています。

 銅鐸祭祀圏が銅鏡祭祀勢力に席巻された際、銅鐸祭祀が消えていったようですが、日本の権力移譲には、政治的には権力の交代、さらに相手の神の祭祀を継続を行う(巫女を娶ることなど)ことで達成されて来ました。従って銅鐸を隠蔽する行為にはもっと大きい理由があったのでしょう。さて、それは何だったか?
 
 許し難い神を祀っていたのか。例えば天甕星。この場合も名を変えたりして祭祀を続けたのではないでしょうか。

 銅鏡の祀る神と同じ神を銅鐸が祀っていた場合、これは銅鐸を没収して鏡に鋳なおすことが行われたのではないでしょうか。(この件については豊中歴史同好会のドンタクさんが、奈良に銅鐸の発見数が少ないのは鏡に鋳なおされたのではとの示唆を頂きました。)

  銅鐸は太陽祭祀の道具だったのです。
 


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