青草掲示板ログ平二十二年 四月 2010.4
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5517] またやった。  伊作 2010/04/29(Thu) 07:51 [Reply]
す誤字・脱字・打ち込み間違いが多くてすみません。

日本海側の遺跡・異物が証言しています。(遺物ですね)

大和政権以降も瀬戸内海・関門か依拠ルートを使った史実………(関門海峡ですね)。

[5516] 琉球松さんへ。  伊作 2010/04/29(Thu) 07:47 [Reply]
沖縄のお年寄りから聞いた話です。(徳之島出身の知人も似たようなことをいっていました)。

海人たちは、航海ルートのポイントごとに目印をかねて航海の安全を見守る神を祀り、航海のたびに立ち寄って祭祀をしたのだそうです。海人系の神社があるとすれば、そういう拠点にあるのが多いのではないでしょうかね。

話題は変わりますが、もう一つ、天草の漁師から聞いた話です。

倭人漁民が「6尺ふんどし」を身につけるのはなぜか。……「鮫は自分の体長よりも長いものは襲わないから」だそうです。それで、海難などで海に放り出された場合は、ふんどしをほどいて「ひらひら」と海中でなびかせるために長くなったのだそうです。

そういえば、編み目模様のような蛇のウロコをかたどった刺青を全身に施した南方の海洋民民族を、テレビ番組で見たことがあります。これもまた、越の開祖となった於越が、鮫よけのまじないとして龍の文身を越の民にすすめた逸話と共通するところがあるようです。(余談でした)。

[5515] まどかさんへ。  伊作 2010/04/29(Thu) 07:41 [Reply]
>大和の玄関港 難波津は淀川 琵琶湖 他 これほど多数の河川が流れ込む場所は他にない

『倭人伝』が書いた「会稽東冶」とは、編纂担当者が倭人の文身のルーツだろうと踏んだ、かつての越の領域を指すようです。その会稽の地とされる現在の紹興市の周辺は、無数の天然の水路が入り組んだ水郷地帯です。これと非常によく似ているのが筑後川河口域の虫食い状態で走る天然水路です。
こうした、船でも徒歩でも直進不能で、土地勘があっても迷いそうな土地を庭のように使い、手なづけて農地とした人たちは、体験知識かDNA記憶が同じだったのかも知れません。

古代における一級道路は河川と水路ですから、古くから栄えたところに大小の河川と水路が入り組んでいるものです。有明海を抱えた熊本平野と、大阪湾が眼前にひろがる大和盆地は、兄弟かと思うほどに立地的に相似形をしています。これがどういうことを意味しているのか、考えると面白いですよ。

>日本海という外海と難波津&大和はアクセスはすごくいいんです

関門海峡の通交を遮断した場合を想定すると、日本海側が表日本で、瀬戸内海側は裏日本と化すのが分かります。事実、そうした時期があったことを日本海側の遺跡・異物が証言しています。
瀬戸内の奥の大和が日本海ルートを使ったとしても、しょせんメインメートとはなりません。大和政権以降も瀬戸内海・関門か依拠ルートを使った史実がそのことを証言しています。

日本列島の支配勢力の「黎明・揺籃・確立」の流れとストーリーは、『日本書紀』の神話に頼らなくても、九州勢力の「東遷(引っ越し)」でしか説明不可能だと思います。

[5514] Re[5513][5512]: 海を制する者が列島を制する。  琉球松 2010/04/28(Wed) 10:19 [Reply]
沖縄島の女達を「ヤヲ(八尾?)」に導いたのも海峡の案内役だと考えられます。
太宰府を襲ったと記録される"奄美人"は伊予水軍の残党でしょうし、彼らの歴史感?が南島に伝承されている可能性があります。「オチ氏・大山津見・神武・孝霊・百襲姫・コノハナサクヤ姫・山幸彦」と関わる水軍ですね。

[5513] Re[5512]: 海を制する者が列島を制する。  縁MADOKA [Url] 2010/04/27(Tue) 23:27 [Reply]
> 「人・もの・文化・知識・情報」の唯一の出入り口である朝鮮半島との通交ルートを掌握し、
> 関門海峡の通行量をコントロールした勢力が、日本列島の統一支配勢力となった。
>
> これが、日本列島特有の地理・地形が規制するところの「歴史」だと思いますが・どうでしょうか。

それはあると思います
海の道の確保は政権にとって重要だったとおもいます
関門当りの潮の流れもかなりきついんじゃないですか
源平合戦の勝敗は潮の流れが変わったことで平家は負けたわけですから

少なくとも潮の流れ 渦を越えられる集団と手を組まなければ天下を手にはできないでしょうね

ヒミコは九州だとおもってます
トヨから大和と連合したか?合併移動したとおもいます

ただ日本建国地には大和は日本最大の盆地という都市文化を築ける場所でした
大和の玄関港 難波津は淀川 琵琶湖 他 これほど多数の河川が流れ込む場所は他にない つまり 海洋民のハイウェイが大合流して 渦で守りも堅い最大の良港だったのです 琵琶湖は渡来人の一大居留地です 日本海という外海と難波津&大和はアクセスはすごくいいんです これが大和の繁栄の原因だとおもいます


[5512] 海を制する者が列島を制する。  伊作 2010/04/27(Tue) 08:39 [Reply]
「人・もの・文化・知識・情報」の唯一の出入り口である朝鮮半島との通交ルートを掌握し、
関門海峡の通行量をコントロールした勢力が、日本列島の統一支配勢力となった。

これが、日本列島特有の地理・地形が規制するところの「歴史」だと思いますが・どうでしょうか。

[5511] Re[5508][5506][5505][5503][5502][5501][5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  縁MADOKA [Url] 2010/04/27(Tue) 03:08 [Reply]
>  渦信仰と蛇、渦巻く海はどこかで結び付いているんでしょうね。
> 鳴門海峡や明石海峡、豊予海峡などの渦はどうでしょうか?「隼人盾」の模様は蛇というより渦巻きに見えますね。

ダブルスパイラル の渦が この世に生命を生み出すつうのが原型で一番古いとおもいます 世界中でもっとも広範囲にあるとおもわれます

天のウズメ も渦目だとおもいますよ

渦が生命根源のルーツから蛇信仰が生まれたとおもいます

海洋民族である日本人にとって 
もっとも渦が発生する 淡路島周囲は 脅威であり信仰のルーツだったんでしょうね
渦をわたれる水先案内人で 水軍は地位をもっていました
日本の政権は 水軍との連合で政権が決まるといって過言ではない
その根源は 渦を超えられることにあるんです

[5510] ていせいを一つ  伊作 2010/04/25(Sun) 19:26 [Reply]
霊を祀る廟存在しません。

表記の文章を削除するのを忘れました。根が短気でそそっかしいもので・しつれいしました。

[5509] 大和一極論の不条理  伊作 2010/04/25(Sun) 19:25 [Reply]
もう一つの掲示板にお邪魔したついでに立寄りました。

▼「王都に墓はつくらない」という王都と墓域の関係と葬送儀礼の事実。
(霊を祀る廟は別格として、中国でも墓域は王都の郊外に設けたものです。霊を祀る廟存在しません。たとえば数キロ四方の平城京や平安京に歴代天皇の陵をつくった事実はありませんが、1.5×2キロの纏向遺跡の中には、卑弥呼と同時大の大古墳が10基以上あり、卑弥呼の墓と宮殿がいっしょくたの理屈です)。

▼卑弥呼の墓のサイズ「径100余歩」を魏の公式尺度に換算する詐術手法。
(韓伝と倭人伝の距離尺度は明らかに魏の公式尺度の5倍強でかかれています。「短里」などという「公式」をつくりださなくても歴然とした事実です)。

▼典型的な呉の様式をもつ神獣鏡を魏の尚方で製作したとする致命的な不条理。
(魏の官製工房では絶対に製作されるはずのない神獣をモチーフした呉式デザイン鏡に、あろうことか魏の年号が刻まれているわけですが、この不条理を解く回答は3世紀人の「あっけらかん」としたねつ造だとみています)。

私は、提示した歴史事実と考古事実をもって、「纏向遺跡=邪馬台国説」「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」に根本的にダメ出しをしています。


そもそも、朝鮮半島と瀬戸内海の通行ルートを九州を基盤とする勢力が掌握していた時代において、大和に九州と拮抗・競合する勢力が派生する可能性は皆無といえます。この、列島特有の地理地形が醸成する物理と力学に気づいているのは、今のところ私だけです。私はこれを「列島支配一元論」と称していますが、これによれば、以下のような論説は成り立ちません。

>当時の大和は豊かで国内でも最強だったのではないかと言われていました。一方、邪馬台国は30国も従えていたのに、狗奴国一国との戦いで魏の国に助けを求めている、そのような弱小国だった。大和ではあり得ないとのこと。

[5508] Re[5506][5505][5503][5502][5501][5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  琉球松 2010/04/25(Sun) 09:31 [Reply]
縁MADOKAさん、ありがとうございます。

 渦信仰と蛇、渦巻く海はどこかで結び付いているんでしょうね。
鳴門海峡や明石海峡、豊予海峡などの渦はどうでしょうか?「隼人盾」の模様は蛇というより渦巻きに見えますね。

[5507] 豊中歴史懇談会  神奈備 2010/04/24(Sat) 19:36 [Reply]
 この前の豊中歴史懇談会の講師は国際文化財研究センターの藤田憲司先生でした。

 前方後円墳国家論については、一時はこれに染まっていたが、大和一極論が生んだ思いこみ史観ではなかろうか、との疑問を持ち始めたとのこと。ましてやこれを邪馬台国大和説に結びつけているのは根拠薄弱ではなかろうかとの問題提起がありました。詳細についての説明はなかったのですが、印象に残ったこと。

 弥生後期の大和の墳からは副葬品としての鏡が出ていないことを指摘されていました。たしかに九州では出土していますが、大和では出ていないようです。ネットでは墓に副葬する習慣がなかったと言う論もあります。銅鐸が墓から出ていないのと同様なのでしょうか。
 習慣がないよりは鏡そのものがなかったと考えるほうが妥当かなとは思いますが・・

 弥生後期には大和には鏡がなかったとしますと、卑弥呼が鏡に憧れて魏の国から「汝の好物」としてどっさり貰ったのか、または鏡そのものの存在をしらなかったとしますと、「邪馬台国大和説」はなりたちません。


 もうひとつ、当時の大和は豊かで国内でも最強だったのではないかと言われていました。一方、邪馬台国は30国も従えていたのに、狗奴国一国との戦いで魏の国に助けを求めている、そのような弱小国だった。大和ではあり得ないとのこと。

 目から鱗のお話でした。

[5506] Re[5505][5503][5502][5501][5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  縁MADOKA [Url] 2010/04/24(Sat) 03:27 [Reply]
渦信仰は具体的な形では残ってないとおもいます
蛇となにかにかわっているんじゃないかとおもいます
大阪湾でもそうですわ

ひょんなことで 環境工学の学者さんとコラボでやった講演会で思わぬことが発覚
海の専門家にはいたって当たり前のことのようですが・
歴史関係者はまったくこのことをしらない
大阪湾が渦巻く海だとは・・これが国生み神話の根源であり八十島祭の意味だったんですわ。。谷川健一の 海人のほんでも 渦には気が付いても大阪湾の渦には気が付かず蛇信仰かいてますけどね・・・
これが今私が渦にこだわってる原因ですわ 長文ですが読んでいただければ幸甚です

『聖なる黄金の海 古代大阪湾ミステリー 古代史漫談』
http://ameblo.jp/2626150/entry-10319759739.html

[5505] Re[5503][5502][5501][5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  琉球松 2010/04/23(Fri) 10:41 [Reply]
 縁MADOKAさんへ

 渦信仰のようなのはピンとこないですね。神歌にも文献にも見当たらないんです。

よく話題になるスサノオ台風説?もどうなんでしょうか。竜巻ならわかりますが、台風の目は空に穴が空いているだけで、渦には見えないですね。

[5503] Re[5502][5501][5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  縁MADOKA [Url] 2010/04/23(Fri) 04:17 [Reply]
> 失礼しました。
>  縁MADOKAさんに「緑」の字をあててしまいました。すみません。

いいえ ショッチュウあるんで・・半分ぐらいの人がそうおもってますわ(笑)

>"アジマサには生殖的な意味"。。これは視覚的な実感があります。
ヤシ科植物が葉を落としながら成長する様は、蛇や昆虫が脱皮して"すでる"再生の現実?を強烈に見せるからでしょうか。海蛇を祭祀に持ち出す理由もそこにあると思います。

これはおもしろいですね・・・
やはり実際にみないとこいうことはわかりませんねえ なるほど・

久高島 または 海蛇祭祀に
渦が関係してませんかね??? 渦信仰?が根底にないですか?

[5502] Re[5501][5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  琉球松 2010/04/22(Thu) 13:59 [Reply]
失礼しました。
 縁MADOKAさんに「緑」の字をあててしまいました。すみません。

[5501] Re[5500][5499][5498]: 琉球松 さんへ  琉球松 2010/04/22(Thu) 11:18 [Reply]
緑MADOKAさんへ

 "アジマサには生殖的な意味"。。これは視覚的な実感があります。
ヤシ科植物が葉を落としながら成長する様は、蛇や昆虫が脱皮して"すでる"再生の現実?を強烈に見せるからでしょうか。海蛇を祭祀に持ち出す理由もそこにあると思います。

久高島は王国の中心から見て日の出方向ですから、太陽の再生に関わる島でしょうし、沖縄島南部東側の聖地群も同様なのでしょう。
そう考えると「押し照る・・」に歌われる日の入りの太陽の再生を、瀬戸内海や四国島、さらに西方(南方)の島々に委ねるような、何かそんな心情があるかもしれません。

[5500] Re[5499][5498]: 琉球松 さんへ  縁MADOKA [Url] 2010/04/22(Thu) 01:55 [Reply]
近種の「クバ(ビロウ・アジマサ)」は琉球圏では神の依り代と観念されていて、笠や扇に加工されますね。
> ちなみに、琉球王国建国に関わる聖地「久高(クダカ)島」の本名?は「クバ島」とされています。

おーーこれは感動的ですなーー
大阪湾を読んだこの歌!
アジマサが大問題でゴーゴー論戦ネタなんですわーー

押し照るや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島(あわしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放つ島見ゆ
-仁徳天皇 万葉集より-

仁徳は神功皇后の孫やし!
これ国見歌やし!!

あじまさの島がどこか?つう問題はさておき
私は本来のアジマサの聖性を歌い上げた歌ともいえるんじゃないですかともおもいますね 

この歌は国生み神話の舞台を国見してる歌ですからね

ビンロウ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%82%A6
これでみるとアジマサには
生殖的な意味がありますね・
土地の耕作の時期を判断できたり
結婚にかかわったり
<琉球王国建国に関わる聖地「久高(クダカ)島」の本名?は「クバ島」とされています
建国にかかわる聖地!
これって国生みにかかわってません?
たしか? セグロ蛇???かなんかの燻製つくる の久高じゃなかったですか??


[5499] Re[5498]: 琉球松 さんへ  琉球松 2010/04/21(Wed) 12:44 [Reply]
緑MADOKAさんへ

 "普天間の象の〜"は勘違いでしょう。これは太陽信仰に関わる聖地「玉城(タマグスク)沖縄島南部」でしょうか。

で、とりあえずヤシ科のショロなんですが、近種の「クバ(ビロウ・アジマサ)」は琉球圏では神の依り代と観念されていて、笠や扇に加工されますね。
ちなみに、琉球王国建国に関わる聖地「久高(クダカ)島」の本名?は「クバ島」とされています。

畝傍山の旧洞村の古老が【我らは神武のお共をして南からやってきた】との伝承は、高知県のある被差別部落の【南から】と通じます。
 この"南"が「日向」だとしても、江戸の歴史学者が「神武は沖縄の伊平屋島の出身」との主張も荒唐無稽とは言えないと思いますね。

[5498] 琉球松 さんへ  縁MADOKA [Url] 2010/04/18(Sun) 23:48 [Reply]
お久しぶりです!!
いやーなるほど一寸法師のアイテムには目がいってなかったですわ
参考にさせていただきます

実は琉球松 聞きたいことが 2点あります

前に 普天間の象の檻?の中は 大和の日女神の聖地云々つう書き込みされてましたが・・・あのことを詳しくしりたいです

神武天皇のほんとの御陵話がでていたとき
柏が畝傍にあるかお聞きでしたよね
確かに 柏は神武ルートにつきますが・

わたしが現地できになったのは棕櫚です
神武稜を本来祭る 洞村は
棕櫚で生きてました
棕櫚は各家の前にあったようですこれは確かです
産業は草履造り その原材料が棕櫚です
私はこれはもっと古いルーツがあるのではないか?とみています
棕櫚は本来 聖木ではないか?
棕櫚箒は有名ですよね
箒は呪具としての意味がある
魔を掃きだす
これの本来一番呪力のあるのは棕櫚箒なのではないですか?
神武と神功伝説地は重なりがありますが
神功の出産を手伝ったのは洞村だと言う伝説が現地にありました
これも棕櫚箒が関係するのでは?
神武神功の重なりに私は南方系海人の影をかんじています
棕櫚が沖縄につながるんではないですか?

ほんとの神武稜にも棕櫚はありました(ただ・・これは今機内は温暖化で棕櫚の群生地はひろがっているので確かなことはいえません)
確かにいえることは
畝傍山は 聖水信仰の地であるということです
その痕跡はいくつかありました
報告となにか おもわれることがありましたら レスくださーーい

[5497] Re[5496][5495][5494][5493][5490]: 一寸法師  琉球松 2010/04/18(Sun) 13:54 [Reply]
 話題を無理に広げてしまいました。
神奈備さん、いつもありがとうございます。

[5496] Re[5495][5494][5493][5490]: 一寸法師  神奈備 2010/04/18(Sun) 09:08 [Reply]
> また、中臣氏との関係で言えば、大和岩雄さんも書くように、中皇命。。。つまり「中(仲)」が、神と人を繋ぐ「箸・橋・間(ハシ)」と同義とすることと関わるでしょうかね。

 紀伊と隠岐には中言神社と称する神社がいくつか鎮座しています。紀伊では名草姫、隠岐では天児屋根命を祭神としています。

 皇族では間人と称する女性がいます。聖徳太子の生母の間人、孝徳天皇の妃の間人、後者の皇后は天皇を見捨てて飛鳥へ帰ります。中大兄皇子とのあやしい関係が取りざたされています。

 中大兄皇子の中はどんな意味だったのか、?
 中臣鎌足とは神事でつながったのかも。

[5495] Re[5494][5493][5490]: 一寸法師  琉球松 2010/04/17(Sat) 12:21 [Reply]
 神奈備さん、ありがとうございます。

 沖縄諸島の神歌に出る「赤椀(アカワン)」は「黒椀(クロワン)」と対句になっていて、神々と酒を酌み交わす祭具ですね。
 これは、奄美諸島で「赤ウルサ/黒ウルサ(漆)」、八重山諸島では「赤マタ/黒マタ(蛇)」に変化しているのも気になりますが、「法師」と云うからには薬剤師でしょうし、神酒との関わりもあるんじゃないでしょうか?

 また、中臣氏との関係で言えば、大和岩雄さんも書くように、中皇命。。。つまり「中(仲)」が、神と人を繋ぐ「箸・橋・間(ハシ)」と同義とすることと関わるでしょうかね。

[5494] Re[5493][5490]: 一寸法師  神奈備 2010/04/16(Fri) 19:33 [Reply]
>  近畿地方での一寸法師の舟は何色なんでしょうか?

 外側が黒、内側が赤。
http://www.otsue.com/?pid=8557719

[5493] Re[5490]: 一寸法師  琉球松 2010/04/16(Fri) 10:36 [Reply]
 小人?が活躍する一寸法師の話は、スクナヒコナのデフォルメ版って感じがしますがどうでしょうが。

で、そのお椀と箸の意味なんですが。。。仮に彼がもともと女性だったとすれば、ウツボ舟や箸墓古墳、奄美沖縄の祭祀に使われる「赤椀(通称ユノーシ(世直し)」との関連を追求していいと考えますね。

 近畿地方での一寸法師の舟は何色なんでしょうか?

[5492] Re[5489][5488][5487]: イトと倭と金印  神奈備 2010/04/15(Thu) 09:31 [Reply]
> 五十猛命の名はいつのだれがそう称したのかなあ、それによっては武人である可能性もありますね。

 
 韓国には、素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う伝承があるとのこと。
 出所は日本語が少々できるガイド、ネットで調べたとのことで、『日本書記』を見て、かってに解釈したのかも知れません。

 肥前国にも五十猛神の上陸伝説が残っています。稲佐神社。この神体山は杵島山。

 『肥前国風土記逸文』から。
 杵島山には南西から北東にかけて三つの峰があり、南西の峰を比古神、中の峰を比売神、北東の峰を御子神と称すという。(御子神は別名軍神とも呼ばれ、この峰が鳴動すると戦いが始まると言い伝えられている。)
 村々郷々の男も女も酒を携え、琴を抱いて、毎年春秋に手をとりあって登り見渡し、酒を飲んで歌舞し、曲が終わって帰る。歌詞は、
 霰ふる 杵島が岳を 険しみと 草取りかねて 妹が手を取る (これが杵島曲である)
とあります。

 杵島曲は『常陸国風土記』に現れます。

 行方郡 崇神天皇の世に、辺境の荒賊を平定するために建借間命が遣わされた。国栖の夜尺斯・夜筑斯と云う二人の指導者が抵抗を続けた。そこで建借間命は海岸に祭りの施設を整えて、杵島ぶりの歌曲を歌って国栖をおびき寄せて、一網打尽に滅ぼしたとあります。

 建借間命とは鹿島神宮に祭られている武甕槌命を連想します。
 建借間命とその軍は肥前国の出身者だったと思われます。五十猛神を奉する人々だったのかも知れません。

 藤原鎌足の氏神が鹿島神宮であり、春日大社でも最重視されている神は武甕槌命です。この神と五十猛命とが通底しているとすれば、中臣氏と紀氏のルーツの共通性が浮かンできます。傍証になるのかも知れませんが、紀伊一宮となった日前国懸神宮を祀るのは紀氏か中臣氏に限るとのこと。

[5491] Re[5490]: 一寸法師  神奈備 2010/04/13(Tue) 08:20 [Reply]
 不比等の娘の宮子、美しすぎる海女だったと。

[5490] 一寸法師  縁MADOKA [Url] 2010/04/12(Mon) 21:05 [Reply]
流れから遅れてますが・・座敷わらしは面白かったなー
ひょんなことで 一寸法師を調べてみたら
水の信仰との絡みがでてきました

ウガネットでの次回 海人と藤原 では
私一寸法師を発表しますわ
ストレートで考えると 秦氏と一寸法師はでてくる
でもなんか 裏に藤原の影が・・??
キーワードは 住吉大社と清水寺ですね・・・・

[5489] Re[5488][5487]: イトと倭と金印  かたばみ [Url] 2010/04/11(Sun) 22:46 [Reply]
せっぱつまった状況になったとき人々が移動する。
戦国時代の地図に渡来人の推定を重ねてみました(簡明中国歴史地図集/中国地図出版社)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/sengoku_torai.png

半島からの最古の渡来者は寒冷化によるもので、BC2000〜BC1000あたりだと考えています。
半島の北部から温暖な南部へ、さらにもっと南の九州へ。
これは着の身着のままの避難民であり、文化的にはさしたるを持たない人々でしょう。
数百年をかけて数万人といったところか、平均すれば1年に100人程度。
縄文海退、神話では伊弉冉尊伊弉諾尊の国生みの時代です。

縄文の人々もより温暖な地域あるいは平野部へ移動中、特に中部山岳からは大量に周辺の平野部へ.。
紀ノ川流域では縄文土器と半島系土器が共存(奈良へは縄文のみ、大阪湾は上陸に不適)。
北九州では先住者と半々にもなった可能性あり、数百年たてばほとんどの人々の祖先に渡来系が混じることになるかもしれません。

次が戦国時代の戦争避難民の渡来です、BC500あたり以降か、寒冷化が終わって温暖に転ずる時代です。
こちらには貴族級の文化人や高度な農耕技術をもつ人々がおり、大年神と称されるグループがこれだと考えています。

地理的に渡来者は、燕、斉、越の人々がメインになると思います。
水稲は越、山東半島は現在も畑作地域で斉、燕はなにかあるかなあ。
近代産業技術も流入、列島では青銅器の生産準備中(武器及び装飾用)、鉄鉱石の採れる伽耶地域では鉄の生産準備中(農耕具用)。
流動の激しくなったこの地域へ東シナ海の海人も交易目的で行動開始、これが甕棺葬ブームの火付け役と見ています。

植樹神話で「半島には種を播かなかった」とは「列島以外のどこか」から半島を経由して列島にやってきたことを示す。
渡来経路が同じなら様々な伝承が入り交じりもするでしょうね。
五十猛命の名はいつのだれがそう称したのかなあ、それによっては武人である可能性もありますね。

先の地図の山東半島に「杞キ」という町があり、この付近は周時代の杞氏の領地のようです。
杞は有用植物、紀氏につながるかどうかはおいて、地理的にその先陣になっている可能性はあると思います。


[5488] Re[5487]: イトと倭と金印  神奈備 2010/04/08(Thu) 09:d>

[5487] Re[5483][5482][5481][5480][5479][5478][5477]: イトと倭と金印  かたばみ [Url] 2010/04/06(Tue) 22:44 [Reply]
ちょい遅くなりましたが・・

>後漢の終末期は動乱の時代で卑弥呼が就任して挨拶に行けたのかどうが

後漢書帝紀での倭の使者はAD57の「東夷倭奴国王遣使奉献」、AD107の「倭国遣奉献」で終わり、東夷からの使者もAD174の「扶餘国遣使貢献」が最後です。
後漢はAD184黄巾の乱以降名目だけの王朝になってしまい、使者を送る国もなくなったのでしょうね(魏呉蜀、三国時代へ)。

で、倭国もまた争乱中であり(桓帝AD146〜靈帝189の間)、魏AD243に至るまで倭国と中国の正式交流は途絶えた。
新羅本紀173に卑弥呼の使者の記事、お隣への新任挨拶でしょう(持論、孝昭105-137、孝安137-175、孝霊175-204)。
すなわちこの頃の新羅とは仲がよい、新羅王朝は中国系の降臨であろう赫居世系(朴)〜脱解系(昔)です。

余談
いろいろな論ではその論に不都合な資料が無視されることが少なくないと思っています(原資料をみないとわからない)。
「倭」と朝鮮半島関連の中国史書及び半島史書の原文を抽出した「日韓古代資料集/太田亮/光洋社/昭和47年」があります(漢文のみ、解釈文はありません)。
倭関連と半島情勢を総合的に確認するのに貴重で、発見されたら即入手お勧めいたします。

だいぶ古い本ですが「倭・倭人・倭国/井上秀雄/人物書院」は文献における「倭」とその解釈への優れた考察と思います。
これも一読をお勧めいたします。
ここに、山海経(海内北経)での「蓋国は強大な燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」についての論があります。
山海経は後漢あたりで完成されたようで、以下では史書ではなく文学に分類しています。
http://www.chinapage.com/china.html

余談の余談
山海経の「倭は燕に属す」、漢書の「倭は燕の分かれなり」、解釈困難で無視されるようですが、持論の歴史観では解釈可能(^^;
というより持論の傍証。

戦国時代では斉や燕などから大量の戦争避難民が半島へやってきており(魏志韓伝など)、列島まで渡った人も少なからずと思います。
そしてBC194に箕子朝鮮は燕の衛満に簒奪され、脱出した人々が韓を名乗って半島南岸と列島(九州北岸)にやってきた(素盞鳴尊の渡来)。
半島では伽耶の前身となり、列島では古出雲の源となる(後の伽耶の鉄は燕文化の流れに発するとみる)。
考古学的には遠賀川土器の時代がまだ続いています。

五十猛命、山東半島あたりか、紀氏の流れか。素盞鳴尊より早い渡来じゃないか。
大年神の妻の伊怒比賣と同系かもしれない大屋彦命(おそらくは南方系)と伝承が混じり合うこともあるのではないか。
(後漢書などの書く百余国とはこれらの集団をいう)

九州や半島南岸で祖先が燕につながりある人々(すでに倭人化)がそれをいえば、「燕之分也」という伝聞も生じるでしょう。
初期の吉野ヶ里は古出雲の一部とみていますが、燕の遼寧式銅剣が出土(朝鮮半島では各地から同類が出土)。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/09/yoshinogari06.gif
唐津湾の菜畑遺跡や糸島の曲田遺跡も同じく。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/09/karatu01.gif

ただし、北九州は天之忍穂耳尊渡来(BC154頃)以降に激変する。
神話における素盞鳴尊と天照大神(記紀での天孫降臨)との「抗争」の結果ですね。


[5486] Re[5485][5484]: 座敷童子  神奈備 2010/04/04(Sun) 14:04 [Reply]
琉球松さん

写真掲示板を参照下さい。失礼いたしました。 

[5485] Re[5484]: 座敷童子  琉球松 2010/04/04(Sun) 10:14 [Reply]
 座敷童子は女の子(7才?)との印象がありますが、この話は面白いですね。
これは人柱なんでしょうか、あるいは仏教でいう仏舎利なんでしょうかね?

[5484] 座敷童子  神奈備 2010/04/01(Thu) 08:42 [Reply]
 座敷童子(ざしきわらし)が出ると言われていた岩手県二戸市の金田一温泉郷にあった緑風荘と言う旅館が昨年秋に全焼してしまったのです。八戸市の南西30km付近の温泉郷です。
 ご承知のように座敷童子は南北朝時代に南朝に加担して破れた一族が、東へ東へとこの地に逃れてきたのです。その一族には、二人の男児があった。座敷童子の正体は,この二人のうち、病死した兄の亀麿で享年六歳であったと言われています。

 その後の緑風荘旅館のことはテレビでも取り上げられ、再建に向かっているようですね。

 焼け跡から発見されたものがありましたが、報道されなかったお話があります。それは槐(エンジュ)の間の跡地からで、多くの人形の燃えたものの中に小さい骨片が残っていたのです。人体の一部分のようでした。

 地元警察は岩手大学医学部に鑑定を依頼したのです。子供の骨のようで、約700年程前の骨と言うことです。放射性炭素測定ですが、このような短い期間の測定には数百年単位の誤差がありますのではっきりとは言えないようですが、700年前としますと不思議なことに丁度南北朝の頃にあたります。

 亀麿の骨が槐の間の壁土の中に混ざっていたのかも知れません。亀麿の墓の場所はわかっていませんが、緑風荘の敷地内に亀麿神社が祭られています。まさかその付近に墓があると言うことはないでしょうが。緑風荘の南側に近隣公園があり、その一角が古くからのこの地の墓地だったようで、一族やその子孫達もその墓所に眠っているものと思われます。

 発見された骨は銀器に入れられて、取り敢えず亀麿神社の某所に奉納されています。座敷童子は今の所、旅館の再建もできていないようで、近隣のご家庭の奥座敷などを彷徨っているようですが、神社から座敷童子として出現できる槐の間のような座敷が再建されるのを待っているのかも。
2010 4 1 神奈備記す


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