青草掲示板ログ平二十二年 六月 2010.6
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[5631] Re[5629][5628][5627][5624][5622]: 銅鐸の話  神奈備 2010/06/28(Mon) 17:49 [Reply]
> 「朝妻」は、"石積み" の可能性がありますね。石製鋳型かも?

 この辺りのことはよくわかりません。

 谷川健一氏によりますと、鍛冶や鉱山ではたらく人を小人(こびと)と見るのは世界的に分布しているそうです。
 
 葛城の高尾張邑には侏儒がいることが『神武紀』にあります。侏儒はヒキヒトと読まれるようで、かれらをまとめて土蜘蛛なる蔑称を与えています。小人伝承につながっているのかも。赤銅の八十梟帥とは、この高尾張邑にいたここの土蜘蛛のことです。

 『先代旧事本紀』には葛城土神剣根の名が出てきます。神武天皇によって葛城国造に任命されています。この「土神」は「ヒキカミ」と訓。蜘蛛はkumo → KM → kami。

[5630] Re[5625]: 四国古事記  神奈備 2010/06/25(Fri) 11:22 [Reply]
> こんどムーから四国古事記の記事がでます
> 私はムーではもったいないとおもってますが・・

http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html

いろいろ疑問点もありますので面白い。

[5629] Re[5628][5627][5624][5622]: 銅鐸の話  琉球松 2010/06/25(Fri) 09:34 [Reply]
 「朝妻」は、"石積み" の可能性がありますね。石製鋳型かも?

 それと、赤銅なんですが、奄美沖縄の神歌には「アカガネ(銅)の世直し」がみえていて、クロガネ(鉄)の対として、英雄的に語られていますね。

[5628] Re[5627][5624][5622]: 銅鐸の話  神奈備 2010/06/23(Wed) 15:33 [Reply]
> 今の米原は琵琶湖の朝妻筑摩の入り江があり船運の基地だったのでしょう。
> 朝妻氏は多分金属加工の工人でしょう。

 朝妻! 御所市に朝妻地名があります。五百家の西。イフカ。伊福部の転訛と推測されています。風の森の近く、高鴨神社の近く、赤銅の八十梟帥が跋扈していたのかも知れません。
 五百家の北側には朝町銅山があり、鉱脈が続いているとされる唐傘山には式内の大穴持神社が鎮座、この山にはタタラ製鉄の跡が点在しているとされていますが、見たことはありませんが。

[5627] Re[5624][5622]: 銅鐸の話  とみた 2010/06/23(Wed) 09:54 [Reply]
考古学資料と伝承を繋ぎます。

銅鐸は、菱環鈕式→外縁付鈕式→扁平鈕式→突線鈕式の順番で変遷します。

最古の菱環鈕2式のものは、(a)三重県高岡山のものと(b)岐阜県大垣市十六町に出ています。

東海地方です。

a)の高岡山は雲出川の流域で松阪一志、まさにアザカで猿田彦の地です。
b) の十六町は、美濃一宮の不破郡垂井の南宮神社のところです。
民俗学の谷川健一さんは、南宮大社は金山彦命を祀り、銅を精錬する地、伊福部が銅鐸製作に関与したという場所です。

伊吹颪で精錬をしたのでしょう。

伊吹は息吹としたら伊吹山から流れる川は息吹川です。
息長村は米原の東北、醒ヶ井の西で、息長氏の本拠です。その北は坂田です。継体とのつながりが深い。

今の米原は琵琶湖の朝妻筑摩の入り江があり船運の基地だったのでしょう。
朝妻氏は多分金属加工の工人でしょう。

弥生時代から継体ー飛鳥時代まで脈々と繋がっているような気がします。

南宮は、諏訪神社が本宮で、中の宮は美濃の不破の南宮で、児の宮は伊賀の敢国神社(安部氏のルーツ 大彦命と金山彦を祭る)

とする説があります。

まさに南宮は銅や鉄の精錬の拠点、伝播の道かもしれません。





> > 伊勢市中村町の桶子遺跡で発見された銅鐸は、突線鈕式銅鐸の新しい3-5式で大型vで近畿式のものと考えられるようですが弥生末から古墳時代初期の祭祀に利用するとなると磯部の猿田彦の正体と関係づけるとどうなるでしょう。

[5626] Re[5625]: 四国古事記  神奈備 2010/06/21(Mon) 14:10 [Reply]
> こんどムーから四国古事記の記事がでます

http://www.gainendesign.com/taizan/awayamataikoku.pdf

この記事が面白そうです。

[5625] 四国古事記  縁MADOKA [Url] 2010/06/21(Mon) 12:36 [Reply]
ひょんなことで 阿波古事記の大阪支部立ち上げにかかわることに

こんどムーから四国古事記の記事がでます
私はムーではもったいないとおもってますが・・
どういう記事扱いかはまだ読んでないのでわかりませんが

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[5624] Re[5622]: 銅鐸の話  神奈備 2010/06/20(Sun) 12:03 [Reply]
> 伊勢市中村町の桶子遺跡で発見された銅鐸は、突線鈕式銅鐸の新しい3-5式で大型vで近畿式のものと考えられるようですが弥生末から古墳時代初期の祭祀に利用するとなると磯部の猿田彦の正体と関係づけるとどうなるでしょう。


 猿田彦神は邪視で魔物を排除すると言います。銅鐸の中にも邪視の紋があり、同じ様な機能を有します。

 さらに猿田彦は猿に例えられていますように尾を持っています。「尾ある人」です。金属採取を仕事としており、辰沙、自然銅、錫を採取していたのでしょう。

 黄金の鈴と言うのは、銅に数%の錫が混ざった青銅で造った銅鐸を言うのでしょう。これは銅鏡の成分にも似ています。

[5623] Re[5622]: 銅鐸の話  琉球松 2010/06/19(Sat) 10:56 [Reply]
神奈備さん、とみたさん、どうもです。

こちらも、ドのド素人で、銅鐸にはほとんど縁のない島の青草でありますが、河童の系統からアプローチできるのではないかと考えています。

銅鐸に伴侶があるとは興味深いですね。
シュモク鮫は集団で遊泳しますが、知人の海人によると、多くの鮫は雌雄で行動すると言っています。奄美のケンムンや沖縄のキジムナーにも雄と雌がいて、いろいろ悪さをしますね。
そう言えば、「大田田根子」を祭神とする高知県香北町の美良布神社の"見る銅鐸"も雌雄一対と聞いています。

それと、荒神谷遺跡から出土したのは銅矛ではなく銅剣でしたね。訂正です。

[5622] 銅鐸の話  とみた 2010/06/19(Sat) 08:47 [Reply]
私は所詮、銅鐸についても素人であることを前置きにして、最近の認識を述べさせていただきます。専ら耳学問、目学問の類です。

出雲の荒神谷の方が賀茂岩倉の方が古いですね。いずれも小さく聞く銅鐸。

近江の野州の古墳は大型で大きくなり見る銅鐸です。

野州博物館の学芸員が、愛知の朝日遺跡(清洲ー名古屋)が菱環式で最古かもとの指摘を受けました。

後日、明治大の石川比呂志先生のセミナーの懇親会で、銅鐸は朝日遺跡と越前の八日市地方(ジガタ)遺跡が本場ではとの指摘がありました。ここが東西文化の交差する地域である。

新潟の信濃川と長野の千曲川は同じ川ですが、千曲川の中野市柳沢には銅鐸が5個出ています。

くずさんが報告されている有名な遺跡です。銅鐸の最北端出土地です。

非常に古い外縁付鈕一式が出ています。
寺澤薫さんは銅鐸の研究をされていて、この柳沢の銅鐸は東海の青銅器生産が松本平ルートで北上した説を唱えられています。

面白いのは銅鐸を模擬した土器、これを銅鐸形土器といいますが越前、福井県の大野盆地ーー九頭竜川の福井県と岐阜県の中間に出ていることです。

突線鈕式銅鐸の見聞者が製作したのであろうとされています。
銅鐸を区分していろいろな絵が描かれています。寺澤さんは、これは弥生時代の稲作に関与すると見ておられます。

春は稲の生長を促進するために稲魂を外敵から守り、秋には採れた稲穀を翌年の種まきに使えるように稲魂が逃げ出さないように守る。そのための祈りを込めて描かれているという見方を提唱されています。

伊勢市中村町の桶子遺跡で発見された銅鐸は、突線鈕式銅鐸の新しい3-5式で大型vで近畿式のものと考えられるようですが弥生末から古墳時代初期の祭祀に利用するとなると磯部の猿田彦の正体と関係づけるとどうなるでしょう。






[5621] Re[5620][5619][5618][5617][5616]: かきくけこ  神奈備 2010/06/18(Fri) 15:09 [Reply]
> この時期の中国地方は重要な転換期だったと考えられますし、出雲神の名が細分化し、大量に派生する頃かも?

 出土した銅剣の数が358本、『日本書紀』神代上一書第六 に、「大国主神の子は皆で181柱おいでになる。」とあります。それぞれの子が伴侶を持っていたとしますと、362柱、似た数になります。

 国譲りで大国主が幽界に隠れたのと同じように御子神達もここに隠れたのかも。

 御子神が隠れて、その替わりに多くの神々が生じて風土記記載の神社数に似た配置に分布したのかも。

意宇郡 67社   一列目は34本

島根郡 59社
秋鹿郡 26社
楯縫郡 28社 計113社 二列目は111本

出雲郡 122社 三列目の120本

神門郡 37社
飯石郡 21社
仁多郡 10社
大原郡 29社  計 97社 四列目の97本

一列目の34本は半分の数字で、ここがよくわからない所。

[5620] Re[5619][5618][5617][5616]: かきくけこ  琉球松 2010/06/18(Fri) 09:56 [Reply]
 これは重要な指摘だと思います。

 荒神谷遺跡の銅鐸は、近畿以東のものに比べれば小さめですが、初期の小銅鐸よりは大きいですから、中型って感じですかね。

神奈備さん推測のとおり、この時期の中国地方は重要な転換期だったと考えられますし、出雲神の名が細分化し、大量に派生する頃かも?

[5619] Re[5618][5617][5616]: かきくけこ  神奈備 2010/06/18(Fri) 08:24 [Reply]
> >  荒神谷遺跡から出土している銅鐸は大きめのものが多いように思われます
>
> 荒神谷遺跡から出土している銅鐸は、小さめです。
> あげあしとりのようで、すいません。
> 誤認識が広がる前に、一言。
>

ご指摘ありがとうございます。そうしますと紀元前のものですね。
>

[5618] Re[5617][5616]: かきくけこ  ペギラ 2010/06/17(Thu) 23:51 [Reply]
>  荒神谷遺跡から出土している銅鐸は大きめのものが多いように思われます

荒神谷遺跡から出土している銅鐸は、小さめです。
あげあしとりのようで、すいません。
誤認識が広がる前に、一言。


[5617] Re[5616]: かきくけこ  神奈備 2010/06/17(Thu) 10:38 [Reply]
 荒神谷遺跡から出土している銅鐸は大きめのものが多いように思われます。弥生後期に使用されたもの。これらが埋められたのは弥生時代から古墳時代への転換期と見ていいにでしょう。政権交代の大嵐が出雲でも行われたのでしょう。

 大国主の隠居が天照大神側に政権が移行したのではなく、出雲国内での政権交代(東出雲が西出雲を席巻など)だったのかも知れません。この名残が火鑚の悪態なのでしょう。

 出雲については、出雲振根のお話もありますが、神話の時代、もっと後の時代に蘇我氏が制圧したとの説もあるようで、これが神話化されて天照大神側への国譲りになったとも思われます。


> すでに穏健派と強硬派に分裂していたんじゃないかとの
 
 蘇我氏の侵攻時に、このようになる工作を行ってから、と云うのは十分考えられますね。

[5616] Re[5615][5614][5599][5598][5597]: かきくけこ  琉球松 2010/06/16(Wed) 11:27 [Reply]
ご紹介の記事からも、出雲はアマテラス側使者との交渉段階で、すでに穏健派と強硬派に分裂していたんじゃないかとの印象を持ちますね。

 琉球圏には古文献や古神社の縁起などなく、ついつい俗っぽい話になって申し訳ないのですが、よろしくご教示下さい。

[5615] Re[5614][5599][5598][5597]: かきくけこ  神奈備 2010/06/14(Mon) 20:41 [Reply]
> 出雲の荒神谷遺跡に、双方が仲良く?埋納されているのは象徴的ですし、その縁結びの最大の功労者は大国主命なのでしょう!?

 これについては、かって↓
http://kamnavi.jp/log/koujinvry.htm
で意見を書きました。

 オオクニヌシはさせられた側ですが、功労者とも言えるのかも。


> 銅鏡は、月の依り代としてだけでなく、太陽をも統一した光モノと考えることが可能じゃないでしょうか。

 弥生時代の九州北部の遺跡からの鏡の出土は稲作(=太陽)を行っていた人々の祈りに使われたようですから、月も太陽も、とのご意見に賛成です。

[5614] Re[5599][5598][5597]: かきくけこ  琉球松 2010/06/14(Mon) 13:31 [Reply]
神奈備さんへ

 銅鏡は、月の依り代としてだけでなく、太陽をも統一した光モノと考えることが可能じゃないでしょうか。

 つまりは、「銅矛+銅鐸・高天原+葦原中津国・高御産巣日+神産巣日・アマテラス+スサノオ・九州瀬戸内海勢力+出雲穏健派 etc 」とすることで、古代史の大枠が見えるかもしれないと考えてみたわけです。

 出雲の荒神谷遺跡に、双方が仲良く?埋納されているのは象徴的ですし、その縁結びの最大の功労者は大国主命なのでしょう!?

 そうすると、天下統一を成した神武(イワの鋳型から現れた?)は銅鏡を擬人化したものとも考えられますから、一般的には太陽の依り代とされているのかもしれませんよ。

[5613] Re[5612][5609][5608][5606][5605][5603]: 大月姫 磯部氏  神奈備 2010/06/11(Fri) 15:51 [Reply]
> 難波根子建振熊王が武内宿禰という説もあります。

 こちらの方面の武内宿禰といえば伯耆の宇部神社が終焉の地との伝承があります。

 建振熊は丹後の海部氏の系図にも登場します。応神王朝の成立に丹後の海部氏の勢力がおおいに役に立ったということでしょう。

[5612] Re[5609][5608][5606][5605][5603]: 大月姫 磯部氏  とみた 2010/06/11(Fri) 11:40 [Reply]
>  伊勢津彦が国譲りの後、夜に八風を起こして波をあげ、光輝いて日(昼)のごとく、と形容されており、火雷神のように見えます。抵抗勢力だったのでしょう。
 伊勢は磯、石からの転と思われます。石上神宮もイソノカミ、ここの摂社の出雲建雄神社が鎮座しているのも面白い。

本居宣長は、伊勢津彦を建御方と見ているそうですね。
石上はイソの上と読むのは磯で、出雲建雄に関係しているとなると、やはり三輪や伊勢=磯は出雲族のいたところなんでしょうか。

追い出されて、黒潮に乗って北上する。途中下船して、天竜川を遡り洩矢神と戦い勝利する。

一部は房総まで流れて行きます。房総には阿波国造と伊甚国造と海上国造は出雲建子系です。
常陸の高国造も出雲系です。

一つ面白い物語が隠されている気がします。
出雲系の海上国造は上総市原から利根川下流域に住んだ豪族ですが、五十狭茅宿禰の系統です。

この五十狭茅宿根は忍熊王側の将軍です。難波吉士部の祖です。

と言うことは、幼い応神を引き連れた武内宿禰が和邇系の振熊王の協力で琵琶湖の周辺で負かされた側です。難波根子建振熊王が武内宿禰という説もあります。

出雲族が負かされて追放されたのが、諏訪であり房総ー常陸の奥地である。青草です。

要は、継体以降、安閑・宣化 −大伴、物部 VS 欽明ー蘇我 。大伴が失脚し物部 が馬子に滅ぼされるのが用明時代。

その間、敏達が息長系の広姫を娶って息長が伸してきて、押坂大彦命ー舒明が出てくる。蘇我 VS 息長 が大化の改新(乙巳の変)以降。息長優勢となる。



蘇我 vs 息長




[5611] Re[5610][5609][5608][5606][5605][5603]: 大月姫 磯部氏  神奈備 2010/06/11(Fri) 09:39 [Reply]
>  沖縄の伊平屋島では、石を「アシャ」とも言ってますから「安志」もそうだと思いますよ。

 安師、穴石(アシャかも) こちらでは北西風をアナシと云います。冬の風でしょう。タタラなどに役に立つ風だったのかも知れません。

[5610] Re[5609][5608][5606][5605][5603]: 大月姫 磯部氏  琉球松 2010/06/10(Thu) 13:27 [Reply]
 沖縄の伊平屋島では、石を「アシャ」とも言ってますから「安志」もそうだと思いますよ。

「イシ・イワ」などは、銅製品の鋳型じゃないでしょうか? 銅鐸製造集団は優秀な石工でもあるはずです。

[5609] Re[5608][5606][5605][5603]: 大月姫 磯部氏  神奈備 2010/06/10(Thu) 11:03 [Reply]
> 倭王権に対する反乱があったとの事です。

> 四日市大金の銅鐸と伊勢船木氏、これは伊勢津彦の正体。

 『伊勢国風土記逸文』に、天日別命が伊勢津彦に迫って国譲りをさせるお話があります。また「伊勢と云うのは伊賀の安志の社においでになる神は、出雲の神の子、出雲建子命、またの名を伊勢津彦の神、中略、この神は昔、石をもって城を造ってここにおいでになった。云々。

 この神と大金とのつながり、伊勢船木氏とのつながり、よくわかりません。


 伊勢津彦が国譲りの後、夜に八風を起こして波をあげ、光輝いて日(昼)のごとく、と形容されており、火雷神のように見えます。抵抗勢力だったのでしょう。

 伊勢は磯、石からの転と思われます。石上神宮もイソノカミ、ここの摂社の出雲建雄神社が鎮座しているのも面白い。

[5608] Re[5606][5605][5603]: 大月姫 磯部氏  とみた 2010/06/10(Thu) 06:04 [Reply]
神奈備さん いろいろ深掘りすると見えてくるものがありますね

> いそべ 全国区ですね。
>
> 下野国 河内郡 栃木県河内郡南河内町 磯部神社
> 安房国 平郡  千葉県安房郡鋸南町  磯邊神社
> 加賀国 江沼郡 石川県加賀市大聖寺敷地町 菅生石部神社
> 丹後国 与佐郡 京都府与謝郡野田川町 阿知江磯部神社
> 周防国 熊毛郡 山口県光市大字室積村 磯邊八幡宮
> 土佐国 安芸郡 高知県室戸市元    磯辺神社

皇學館大学の岡田登先生の論考です(神社新報 平成17年4月11日掲載)を抜粋引用します。

宇治土公氏は猿田彦の後裔ですが、磯部氏です。伊勢市中村の興玉の森で猿田彦を祀っていますが、この周辺の桶子遺跡から銅鐸片が平成16年に出たのだそうです。

これは近畿式銅鐸で突線鈕3−5式です。古事記によれば猿女君の段では、阿邪カ(阿坂、松阪市の阿坂に猿田彦を祀る阿射加神社ある)に猿田彦神がいたことが記されている。

旧一志郡でしょう。私はここで連想します。東海式土器に詳しい考古学の赤塚次郎さんによれば、雲出川流域の一志郡のアザカの里は東海式土器のs字甕の発祥地で倭王権に対する反乱があったとの事です。

ということは、反乱軍猿田彦を服させて、天原からニニギ尊を道案内する役にしたのでしょう。

四日市大金の銅鐸と伊勢船木氏、これは伊勢津彦の正体。

岡田先生の話に戻れば、三河渥美郡に磯部郷があるとか。ここにも銅鐸が出土し近畿式銅鐸で突線鈕3−5式です。

また脱線します。多分、ここは三島由紀夫の潮騒の舞台でしょう。そして神島(甕?、亀島)。ゲーター祭で新年にはグミの輪で太陽を擬え、それを突いて蘇らせる儀式がある。ここから上った太陽が伊勢神宮を通り、最後は淡路島の船木伊勢の森に沈む。これは海の民の磯部氏に相応しい。

船木氏に戻ります。


[5607] Re[5604]: 変若水(をちみづ)  琉球松 2010/06/09(Wed) 10:02 [Reply]
宮古島の伝承では、月には変若水と死水とがあって、本来人が浴びるはずだった変若水を蛇が横取りしたために、人は死を免れなくなり、蛇は脱皮を繰り返して生き続けることになっています。 類話では、人は微量に残った変若水を手足に浸けることで爪だけが脱皮?できるようになったと。。。

それと、変若水とオチ氏との関係性は感動的です。
同氏は、八幡の「うつぼ舟伝承」や伊予水軍、百襲姫、木花之開耶姫など、瀬戸内海周辺の海人と関わっていますね。
海部が月を重視するのも、海の動きと女性の身体的変化をそこに見るからと解釈できます。

蛇神の「三輪山伝説」と宮古諸島は繋がりがあるとされていますし、大和国造の祖は瀬戸内海の海人ですね。

[5606] Re[5605][5603]: 大月姫 磯部氏  神奈備 2010/06/08(Tue) 18:07 [Reply]
とみたさん、ありがとうございます。

いそべ 全国区ですね。

下野国 河内郡 栃木県河内郡南河内町 磯部神社
安房国 平郡  千葉県安房郡鋸南町  磯邊神社
加賀国 江沼郡 石川県加賀市大聖寺敷地町 菅生石部神社
丹後国 与佐郡 京都府与謝郡野田川町 阿知江磯部神社
周防国 熊毛郡 山口県光市大字室積村 磯邊八幡宮
土佐国 安芸郡 高知県室戸市元    磯辺神社

[5605] Re[5603]: 大月姫 磯部氏  とみた 2010/06/08(Tue) 13:06 [Reply]
大宜都比売は大月姫とも書かれるようです。月の女神。知りませんでした。
>  さて、和奈佐老夫婦の名は、不思議なことに阿波国那賀郡の神社に現れます。式内社和那佐意富曽神社で現在は徳島県海部郡海陽で祭られています。
>  これ以外でも、阿波には天椅立神社、天村雲神伊自波夜比賣神社など丹後・海部つながりの神社があります。後者は伊勢の度会神主にもつながりそうです。

●京都府船井郡丹波町曽根に式内社、出石鹿 イソ(山石)部神社。
●京都府与謝郡に丹波国造と同族の海部直の関わる式内社 阿知江イソ(山石)部神社
●和銅4年(711)磯部祖父・高志二人が渡相(ワタライ)神主という姓を賜る
●1160年代に曽根重房・政忠が外宮の禰宜になっている。渡会神主が阿波の海部と同じく曽根を名乗っている
●伊勢国曽根庄が三渡川の下流、一志郡にあり、伊勢市に曽根町がある。

このような、丹波・伊勢・阿波は曽根によって結びつくがその結びつきの糸となるのが海部、磯部であります。

渡会氏は阿波の天日鷲命(天日別、阿波忌部の神)を祀ります。天村雲も渡会氏の先祖(偽書かも)?。
磯部は漁撈、航海に従事し海産物を貢納する職掌の伴造氏族。

太平洋岸の伊賀、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、相模、下総、常陸、
日本海岸の隠岐、但馬、丹波、丹後、越前、越中、越後、
瀬戸内海の播磨
東山道の近江、美濃、信濃、上野

と分布する。
遠江 浜松あたりの740年の戸籍では、住民75人の中、32人が敢石部(あえの磯部)です。

伊勢の内宮は元々の神官は伊勢国造の渡会氏と宇治土公氏(猿田彦の子孫)でこれは磯部氏です。

天武時代になると中臣(藤原)氏一族で常陸の鹿島からやってきた荒木田氏(鹿島命の船を造った巨狭山命の系統)が伸してきて内宮の神主を奪います。


こんな感じで見ていますが・・・

[5604] 変若水(をちみづ)  神奈備 2010/06/08(Tue) 08:31 [Reply]
 火明命を月神としますと、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と合成された物部氏の遠祖の饒速日尊も月神かも知れません。

 3245 天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読(つくよみ)の
    持たる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉りて 変若(をち)得しむもの

 要は月読神は変若水(をちみづ)を持っているのです。若返りの水とされています。この水で死人も生き返るのかも知れません。まさに物部のふるえふるえの呪術の水といえます。

 物部は河内では恩地、四国では越智、東国では越の国に多く分布しています。変若水(をちみづ)を越水とも書きますが、物部の水と言えます。

 やはり饒速日尊は月神だったと言えるのかも。

[5603] 大月姫  神奈備 2010/06/07(Mon) 15:29 [Reply]
 天女はどこから降りて来るのでしょうか。例えばかぐや姫は月からでした。『丹後国風土記』(逸文)には、八人の天女が降りてきて一人が和奈佐老夫・和奈佐老婦の元に留まりました。豊宇賀能売命です。後に御餞神として伊勢外宮の神として祭られます。

 伊勢の内宮は日神の天照大神、外宮は豊受大神、月神でしたらバランスはよさそうですね。

 さて、和奈佐老夫婦の名は、不思議なことに阿波国那賀郡の神社に現れます。式内社和那佐意富曽神社で現在は徳島県海部郡海陽で祭られています。
 これ以外でも、阿波には天椅立神社、天村雲神伊自波夜比賣神社など丹後・海部つながりの神社があります。後者は伊勢の度会神主にもつながりそうです。

 国生み神話で諾冉二神が阿波国を生み大宜都比売と称しています。豊受大神と同体の神です。

 『古事記』では速須佐之男命が大気津比売神を殺します。この神の身体の各所から蚕・稲・粟・大豆など五穀の種が出てきます。

 『日本書記』では、この役割は月読神が果たしています。五穀を司る神としては月神のほうが遙かに相応しい役割です。

 さて、大宜都比売は大月姫とも書かれるようです。月の女神、月読命の配偶神と言えるようです。

[5602] 大隅二宮・存続の危機  たんかんさ〜 [Url] 2010/06/07(Mon) 12:34 [Reply]
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<a href="http://hayato.com/jisya/hiruko.html">蛭子神社(ひるこ)</a>は昔から大隅国二ノ宮として
この地域の要所として
住民の心の拠り所となってきました。

この神社のある<a href="http://hayato.com/mado/nagekinomori.html">奈毛木(なげき)の杜</a>は
大隅国の景色の良い場所として
古くから後鳥羽天皇を始め、
多くの歌人達に詠まれており、
また、この周囲は明治維新の立役者である
西郷隆盛も狩ををし温泉を楽しんだ所です。

この蛭子神社も昭和5年に再建され、
今や、存続が危ぶまれています。
先祖たちが守ってきた、
この文化遺産を存続(再建)させ、
私たちがこの時代に生きた証(あかし)として
後世の残すことが責務と存じます。

この思いをご理解いして頂き、
皆様方もご協力して頂くよう
伏してお願い申し上げます。


====== 募金方法 ======

 ○郵貯銀行

  口座名:蛭子神社再建実行委員会
      (ヒルコジンジャサイケンジッコウイインカイ)

  口座番号:01700-5-67620

 ○鹿児島銀行

  口座名:蛭子神社再建実行委員会
      (ヒルコジンジャサイケンジッコウイインカイ)

  口座番号:201858

支店名:日当山(ヒナタヤマ)店番号:441

 ○JAバンク

  口座名:蛭子神社再建実行委員会 会長 今村安隆
      (ヒルコジンジャサイケンジッコウイインカイ
       カイチョウ イマムラヤスタカ)

  口座番号:0085536

店番号:9319-123

============================================

蛭子神社再建実行委員会

会長 今村安隆

〒899-5116

住所:
  鹿児島県 霧島市 隼人町 内 2181-1

電話:
  0995-42-0143

Fax:
  0995-42-2222

[5601] Re[5600][5599][5598][5597]: かきくけこ  琉球松 2010/06/07(Mon) 11:35 [Reply]
訂正

『おもらさうし』を『おもろさうし』。

太陽の古名とされているのは『しの(てるしの etc)」のみでした。

[5600] Re[5599][5598][5597]: かきくけこ  琉球松 2010/06/07(Mon) 11:18 [Reply]
 これは、"昼間(日)は人の世界、夜(月)は神の世界" で考えたほうがいいかもしれません。
 伊波普猷の『つきしろ考』や首里王府の『おもらさうし』また、第一尚氏を出した伊平屋島の神歌からも月神との関係はなかなか見当たらないわけです。

琉球国王はいつの時代も「てだ(太陽)」ですが、過去の政権はそうではなくなります。つまり、後の第二尚氏王統によって月神に振り替えられたんじゃないかと。。。
これはどうでしょう、国譲り後の大国主命と同じように、新政権は過去神?を抹殺するのではなく、その霊力を認め軍神などに昇格させ、タタリを鎮め、政権の正当性に取り込まれたとは考えられないでしょうか。

「しろ・しの・しる」が月を意味するかは、もう少し探ってみたいと思いますが、今のところの通説では太陽の古名ということになっています。

[5599] Re[5598][5597]: かきくけこ  神奈備 2010/06/05(Sat) 10:56 [Reply]
>  スクナヒコナの素性を知っている「案山子」を銅鐸神とする説を補強できるかもしれません。

 銅鐸と鏡が一緒に出土した例が大和葛城の名柄にあります。鏡を月の依代としますと、それより古い祭器である銅鐸も月を祭るものだったかも知れません。昼間は人の世界、夜は神の世界としますと、鏡も銅鐸も夜に使用されたのかも。

 カカを月の光と理解すれば、銅鐸だったかも知れません。

 所で、『をなり神の島』によりますと、第一尚氏の産土神を「つきしろ」と云うようですが、月神の子孫と云う伝承があったのでしょうか。

 『おもろ391』
 てるかはわ 照に居り
 てるしのは 押し居り 
 
 上を「日の事」、下を「御月の事」との注を見た記憶がありますが、「しの」は月なのでしょうか。

[5598] Re[5597]: かきくけこ  琉球松 2010/06/04(Fri) 20:58 [Reply]
 「カ」などが月をも意味すとすれば、太陽一辺倒ではなく、色々と解釈を拡げることが可能になりますね。

 スクナヒコナの素性を知っている「案山子」を銅鐸神とする説を補強できるかもしれません。

[5597] かきくけこ  神奈備 2010/06/03(Thu) 17:37 [Reply]
 暦(こよみ)とは「月読」のこと。月=こ

 月は「つき」、「つく」の読み。「つ」は接頭詞 月=き。月=く。 

 「月に異(け)に」とは「月々に」の意味 月=け

 三日月とは三日(three daies)後の月です。月は夜に出ますから、三日月は三夜後の月となります。日を「か」と読みますが、この「か」は夜、月夜の意味です。

 まとめますと、「かきくけこ」はみんな月のことです。

 春日(かすが)は、月が清いと云う意味かも。


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