倭国の海外交流

百済は是多反覆しき国なり。
かえかえ

 倭国は力持ちで幼い心の兄、百済は狡賢い弟、と言う感じ。現在の韓国と日本の関係も似ているような気がする。竹島の不法占拠・さらに船着き場の拡大を目指しているようだ。韓国は日本の技術と資本のおかげで近代化をしてきたが、いまや通貨のウオン安など国家の危機を迎えている。そこに最貧の北朝鮮、いずれ日本が丸抱えをしてやらねばならなくなる。第二次日韓合併となれば、竹島どころの話ではなくなる。


 鎌足は百済から来た豊璋ではなかろうか。@孝徳天皇を難波に置いてきぼりにして、中大兄皇子らが飛鳥へ行ったが、鎌足には翌年紫冠を授けられていることから、難波にとどまったと思われる。人質ゆえに行動の自由がなかったのではなかろうか。
 鎌足は神祇官に任ぜられたが断っている。いつか百済へ戻る気持ちがそうさせたのではなかろうか。摂津の三島に引きこもったことになっているが、三島には百済から大山祇神が渡来して来ている(伊予国風土記)。三島は百済に縁の土地だったのではなかろうか。


 白村江の戦いで百済・倭側が敗北、百済の王族・貴族などが大量渡来。彼らが後に貴族となり、戦前まで爵位をもった支配者であった。日本人は外国人官僚に苛烈な支配を受けてきた。その官僚の伝統は今日にまで引き継がれているのか、あまり民衆のことを考えていないようだ。そこに藤原氏まで半島系とすれば、日本の民衆に救いがない。


 古代の外交は次期大王候補が担当していたようだ。安閑、聖徳太子、山背大兄皇子、中大兄皇子など。


西暦       倭国                百済国
                            百済建国以来高句麗とは不仲、百済475年に一度滅亡。
478       倭王武、宋に遣使。以後600年の遣隋使まで大陸との交流の記述なし。
479       倭にいた百済王子が帰国し倭の支援を受けて東城王となる。倭系百済官僚が出現。
501       倭にいたとされる武寧王が即位。百済、高句麗と戦う。


         
倭は気分として百済を配下の国と見る癖の始まり。加耶諸国は倭の後ろ盾で独立していた。

503       隅田八幡宮所蔵人物画像鏡 斯麻(武寧王)から孚弟(継体)への進呈とされる。

5世紀の朝鮮半島

隅田八幡宮の鏡

        継体と武寧王とは何らかのつながり(兄弟とか従兄弟とか)があったのだろう?


506    武寧王は太子の淳陀(桓武天皇の母系祖先)を派遣。

507 継体元 継体即位。
512 継体六
百済より使者が到来。百済に隣接する任那四国の割譲を倭国に申し入れる。
        大伴大連金村が賛意を示す。故、認可。物部大連麁鹿火が宣勅使に任命。
        物部大連麁鹿火の妻、息長足姫尊以来の地を他国に渡すのは綿世ナガキヨの刺ソシリとなる。使を辞退。
        他にたてた宣勅使が朝廷の決定を難波館で待つ百済使に伝える。


        
勾大兄皇子、百済使に対して詔勅の撤回を告げるも聞き入れられず。


          
百済、倭に五経博士を送り始める。

伽耶侵攻の模様

513 継体七 大伽耶への百済の侵攻についての会議を倭国で開催。百済、新羅、安羅、供跛(大伽耶)。
        新羅、南加耶(金官国)へ侵入。加耶諸国南部は百済、北部は新羅に侵攻されている。
        倭は百済の加耶領有を認める立場。加耶諸国、倭国に失望。

516 継体十 百済、五経博士の高安茂を倭に派遣。支援の対価としての文化文物の提供。おもちゃに喜ぶ。

523 継体17 百済武寧王死去。聖明王たつ。

527 継体21 倭、近江毛野に衆六?万を与えて渡海・新羅討伐をさせようとしたが筑紫君磐井が妨害。
528 継体22 磐井の乱は物部大連麁鹿火によって平定された。

529 継体23 百済、倭国への朝貢の道筋として加羅の多沙津を利用したい旨、倭国駐在に申し込む。
            これは百済領にいれる意味
、加羅王反発し新羅と婚姻関係を結ぶ。後、新羅人加羅国内
        を跋扈。加羅国王怒り、新羅との同盟は破綻。

        近江毛野を安羅に遣わし、新羅と交渉して南加羅(金官国)・トク己呑を復興しようとする。
        交渉は安羅で行われた。百済は将軍君らを遣わすが、新羅は高官を派遣してこなかった。
        高堂で交渉が行われたが、百済・新羅の代表は登れなかった。百済将軍君これを怨む。

        近江毛野、百済の首都の熊川に移る。百済・新羅の王を召集するも応じず。
        再度召集、新羅の上臣、兵三千を率いてくる。毛野恐れをなし、己叱己利コシコリ城に立て篭もる。
        河内馬飼首が上臣を撃つまねをし、殺意と判断、金官国の主邑四邑を抄掠して帰国。

530 継体24 毛野、失政。帰国命令に従わず、安羅王を連れて籠城。王、百済・新羅に引出を依頼。
        倭は百済に安羅に侵攻の口実を与えてしい、
結局、安羅は新羅・百済により蹂躙された。
531 継体25 近江毛野 帰国途上対馬で病死。
        継体天皇死去。安閑をしりぞけて欽明天皇が即位とする有力な説がある。


532      金官国=狗邪韓国=大駕洛=任那=南加羅、新羅に降伏。
       金官国、新羅に降伏。王族に相応の地位を与え、国政
       新羅の戦略 への参加を求めた。加羅諸国これを注視。


540 欽明元 物部尾輿、かっての「任那四国の割譲」を批判、大伴金村住吉宅に閉居。
541 欽明二 第一回任那復興会議
        新羅の侵攻にいかに対処するかがテーマ。交渉は成果なし。百済、安羅への侵攻に利用。


544 欽明五 第二回任那復興会議
        百済が南韓に設置した郡令・城主は任那守護のため必要と主張。
        安羅と任那日本府(滞在倭人)は、百済に疑いを持った。双方得ることなし。


550 欽明11 倭国、百済に軍事援助開始。 半島動乱期に入る。新羅西海岸に進出。

552 欽明13 百済聖明王、仏教を倭国、欽明天皇に伝える。
553 欽明14 倭国、「医博士・易博士・暦博士の交代、卜書・暦本・種々の薬物の送付。」を要求。

新羅の領土拡大

554 欽明15 軍数千、馬百匹、船四十隻を百済におくる。
        百済聖明王敗死。子の余昌即位、威徳王。

555 欽明16 百済弟王子恵来日、倭国の援兵を求める。大臣蘇我稲目、まず国家体制の安定を教示。
        吉備に白猪屯倉、児島屯倉を設置。瀬戸内交通の拠点、中国山地の鉄資源掌握。

556 欽明17 筑紫国船師と勇士千人が渡韓。

560 欽明21 新羅使、倭国に来る。加耶諸国を新羅が併呑することの承認を求める。倭国拒否。

562 欽明23 新羅、任那の官家を討ち滅ぼす。加耶諸国は全滅。
        倭、任那に派兵するも敗退。 新羅、加耶地域併呑完成。

571 欽明32 欽明天皇死去、後継敏達天皇に、「新羅を討って、任那を封し建つべし。」の遺言を残す。

575 敏達四 百済、使いを遣わして調を貢上、普段より多い。
        新羅、倭国に使いを遣わし、任那使が旧金官国の調を貢上。倭国との融和を図る。
        任那復興の形を整え、百済への軍事援助を牽制。倭国も調さえもらえればそれでいい。
        倭は半島の紛争を利用して、新羅に圧力をかけ、任那調を得ると言う外交方策をとった。

577 敏達六 百済、新羅への軍事行動を起こす。旧加耶諸国の奪回を図るも失敗する。
        百済の任那復興とは 旧加耶地域を百済に併呑すること。
        新羅の任那復興とは 任那使をでっちあげ、旧金官国の調を貢上する。倭も同意。

583 敏達12 日羅を招聘。筑紫の火葦北国造阿利斯登の子。百済官位第二位の官僚。
        
倭、日羅招聘を百済と交渉。百済、日羅を惜しみ、許さず。日羅案の脅迫的招聘で来日。
        日羅、「倭国は百済の要請があっても拙速な出兵は避ける。民政安定国力充実が先。」
        日羅、「百済は筑紫に拠点をつくり、兵を養い、軍事力を導きたいとの考え。あつかましい。」
        日羅、「百済の任那復興は倭国の利益にならない。」
        
日羅、同行の百済人に暗殺される。

587 用明二 蘇我馬子・聖徳太子ら、物部守屋を討伐する。

588 崇峻元 百済使が来朝し、仏舎利、僧、技術者を献上。善信尼らの百済行きが実現。
589 崇峻二 随建国。 百済はいちはやく慶賀 隋の高句麗討伐にも百済参加。

595 推古三 高麗僧慧慈来朝。百済僧慧聡来朝。慧慈とともに「三宝之棟梁」となる。
        
聖徳太子(摂政・皇太子)が外交を進めていた。
598 推古六 高句麗、遼西を侵略、隋と戦い撃退。
        百済は隋に味方。
599 推古七 百済が駱駝一匹・驢(うさぎうま)一匹・羊二頭・白雉一隻を貢上。

6世紀の朝鮮半島


600 推古八 第一回遣隋使。倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比狐、阿輩雛弥と言う。倭王は天を以
        て兄と為し、日を以て弟と為す。日出づれば政を弟に委ねんと。高祖文帝、それ義理なし。
        これ以降、国政改革進む。冠位十二階、十七条憲法制定など。

602 推古十 百済僧観勒が来朝。暦本・天文地理・遁甲方術(占星術)之書を献上。

607 推古15 第二回遣隋使。日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々。
608 推古16 遣隋使小野妹子らが百済を経由して帰朝。送使裴世清が来る。

611 推古19 新羅使・任那使が来日。倭が隋を中心とする国際秩序に参加する姿勢を見たから。
612 推古20 百済より路子工(芝耆摩呂)が来て須弥山形・呉橋を作る。また伎楽に通じた味摩之も来る。
        『随書倭国伝』新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しと為し、敬仰し、通使・往来す。

618 推古24 随滅亡。唐建国。
619 推古27 高句麗、唐へ遣使派遣。
621 推古29 新羅・百済、唐へ遣使派遣。
622 推古30 新羅使・任那使が来朝、仏像・金塔・舎利・大潅頂幡・小幡を貢上。遣隋留学生ら帰朝を送る。
聖徳太子死去。 626 蘇我馬子死去。 628 推古天皇死去

623 推古31 田中臣曰く、「百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く。凡そ彼の請す所、皆非す。
        故、百済に附くべからず。」 田中臣は蘇我の一族、この考えは日羅以来。
        中臣連国は「旧加耶地域の領土的奪回と百済への付与。」を主張。二つの方針、決められず。
        均衡外交の継続。
630 舒明二 倭、遣唐使派遣。朝鮮三国より大きく出遅れる。

632 舒明三 唐から高表仁が倭に遣わされる。倭の王子と礼を争い、朝命を伝える役割が果たせなかった。


 
山背大兄王に、推古天皇は、「おまえは未熟である。」と言っており、上記王子とは山背か?

639 舒明11 遣隋留僧恵隠・恵雲が新羅送使とともに帰朝。

640 舒明12 遣隋留僧清安・学生高向漢人玄理らが新羅を経由して帰朝。百済・新羅の送使が来朝し朝貢。
642 皇極元 百済義慈王、新羅に侵攻、旧加耶地域を奪回。
        百済、太子豊璋を倭国に「質」として派遣。
        高句麗、泉蓋蘇文が全権を掌握。
643 皇極二 蘇我入鹿、上宮王家を討滅する。
        新羅、唐に百済・高句麗の領土侵犯を訴える。唐は三国和親の説諭を下す。高句麗は無視。百済は表面上謝罪。
百済の太子余豊、密蜂の房四枚を三輪山に放すが、うまく繁殖しなかった。

644 皇極三 中臣鎌子連(鎌足)を神祇伯に任じたが辞退、病と称して摂津三島に住んだ。

645 孝徳元 乙巳の変 中大兄皇子・中臣鎌足ら蘇我入鹿・蝦夷の蘇我本家を討滅する。
        軽皇子、孝徳天皇として即位、中大兄皇子が皇太子となる。鎌足は内臣。
        唐、高句麗征討。それにじょうじて百済が新羅に侵攻。

648 孝徳四 百済、新羅の十余の城を奪い、王都慶州に迫る勢い。
650 白雉元 白雉について豊璋に尋ねると、「後漢の明帝の年に、あちこちにあらわれた。」と答えた。
        左右大臣、百官及び百濟君豐璋、その弟の塞城と忠勝などが中庭に進んだ。
651 百済入唐、新羅との和解を指示される。従わねば征討も。
653 白雉四 この年、中大兄皇子は皇極上皇・間人皇后らを連れて飛鳥にはいった。鎌足は同行せず。
654 白雉五 紫冠を中臣鎌足に授けた。

659 斉明五 百済、新羅の二城を奪う。新羅は唐に救援を依頼。
        唐は高句麗征討の一環として百済の成敗を決意。


        
皇太子の中大兄皇子が外交を司っていた。


660 斉明六 百済救済を決定、斉明筑紫。 百済滅亡。百済遺民が蜂起、倭に豊璋帰国と支援の要請。
        有史以来の百済との関係。百済との一国中心の外交。文物輸入ルートの確保。
        文物輸入ルートの確保。モノへのこだわりと傭兵的行動。
        百済王を臣下として、優位な関係を確立したい。
        新羅とは戦うものとの意識、逆に唐と戦うとの国際認識が不足。
661 斉明七 五千余の兵をつけ豊璋を衛送。 鬼室福信、豊璋の帰還を乞う上表文を呈する。
        斉明逝去。天智、豊璋に織冠を授ける。
663 天智二 3月 新羅を討つべく、27000人の兵を渡韓させる。 豊璋、福信を殺す。
        8月28日 倭の水軍、白村江で大敗。 豊璋、いずこかに姿を消す。
        百済人、倭への亡命を決定。

白村江の戦い


664 天智三 中臣内臣(鎌足)、沙門智祥を遣わして新羅使の郭務そうに品物を贈った。
665      大野、基肄城を築く。 666 高安、屋嶋、金田城を築く。
667 天智六 大津宮に遷都。
668 天智七 天智即位。新羅使来日。倭・新羅外交再開。高句麗滅亡。亡命高句麗人を受け入れ。


朝鮮式山城の分布


669 天智八 中臣鎌足に大織冠・大臣位・藤原姓を授ける。鎌足死去。鎌足「生きては軍国のためにお役に立てず。」
670      新羅、唐の支配する旧百済領に侵攻開始。
671      亡命百済人を官職に登用。
672 天武元 壬申の乱。天武即位。
676      新羅、半島を統一。この後新羅は唐への朝貢を継続。
694      藤原京に遷都。
701      大宝度の遣唐使。日本国号を認定される。
710      平城京遷都。

鎌足と豊璋            鎌足         豊璋
     報償           紫冠 大織冠    織冠       これら以外に「冠」は出てこない。
     インテリ         文官         白雉の知識   白雉元年の行列の並び。
     出現           豊璋来日後     白村江前後   鎌足654から664まで記載なし。
                   豊璋行方不明後           軍国の為とは、百済再興か?

 中大兄皇子らが飛鳥に帰ってしまった時、鎌足は難波にとどまっているようだ。何故か?
 二人は同時には登場しない。





神となった百済王


河内国古市郡 飛鳥戸神社 牛頭天皇
当神社は延喜式内の古社にして古来飛鳥の産土の神として鎮座し、天王宮と稱せられて来ました。
創建年代は不詳、奈良朝以前に飛鳥戸氏が祖神昆伎王を祀るのに始められたと伝わる。
昆伎王 武寧王の父親。人質として倭に来ているが、素性については幾つかの説がある。
百済に帰っているが、百済国王にはなっていない。

阿波国那賀郡 日吉神社 大山咋命 配祀 飛鳥戸百濟祢昆伎王 ほか

日向国臼杵郡 神門神社 百濟國禎嘉王、百濟國伯知王
西暦660年、百済王国は新羅・唐の連合軍に滅ぼされた。さらにその三年後の白村江の海戦で負
けると、百済亡命王族が、倭を頼って畿内に逃れてきた。
壬申の乱以後の倭王権の政争に巻き込まれた亡命王族の一団は、難を避けるため二隻の船に分
乗して北九州へ向かった。一隻には禎嘉王と次男の華智王などが乗り、ほかの一隻には、長男の
福智王と母親の王妃達が乗った。伊予灘を過ぎようとする時、激しい時化に襲われて漂流し、二隻
乗して北九州へ向かった。一隻には禎嘉王と次男の華智王などが乗り、ほかの一隻には、長男の
船は別々に漂着した。
 日向市金ヶ浜に漂着した禎嘉王達は、西方の山中に分け入って南郷村神門に住んだ。
 南に漂着した福智王達は、宮崎市の北西の比木に住んだ。共に穏やかな日々が続いた。
 やがて禎嘉王達の所在を突き止めた(新羅の)追討軍が、神門に迫って来た。福智王らも加わり
地方の豪族達も参戦して撃退することができた。しかし陣容を整えて追討軍が再度攻撃してきた。
禎嘉王達は戦ったものの、ついに戦死した。彼らはこの地域で神として祭られた。

日向国児湯郡 比木神社 大己貴命、三穂津姫命、事代主命、素盞嗚命、櫛稲田姫、福智王
大年神社 大年神、稻田姫命、合祀 御年神、若年神、禎嘉王妃
伊佐賀神社 華智王

河内国交野郡 百済王神社 百濟王神、進雄命
百済王敬福が当社を創建したと言う。 大仏建立の際、陸奥国で金を産出し、これを聖武天皇は喜
び天平感宝と改元した程であった。 敬福は河内国守に任命され、当地に居を移したと言う。

御狩野神社 大鷦鷯命、進雄命、百濟王

長門国美禰郡 秋吉八幡宮 應神天皇 ほか、百濟王

周防国熊毛郡 百濟部神社 百濟部大神


神奈備にようこそ
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