上町台地の先端と付け根の湊

難波津・難波御津・難波大津
  『住吉大社神代記』の「天平甍を奉る本記」から
 猪加志利乃神、二前、一名為婆天利神(元、大神居坐して、唐飯所聞食しける地なり。)
 右大神は、難波の高津宮に御宇しし天皇の御世、天皇の子、波多毘若郎女の御夢に喩覚し奉らく、「吾は住吉大神の御魂ぞ。」と『為婆天利神、亦は猪加志利之神と号す。』託り給ひき。

 これは要するに住吉大神はかっては坐摩神社の場所に鎮座していたことを云っています。その後で、現在地の住吉へ遷座したのでしょう。また。『社伝』によれば、雄略天皇の時代に、住吉大社に神功皇后を合祀しています。

 三筒男神々を奉斎した場所について、『住吉大社神代記』は以下のように出ています。

310行目 大御栄 大津 渟中倉之 長岡峡 國
5行目   玉野國 渟名椋 長岡 玉出峡 墨江御峡

5行目は『神代記』が書かれた頃の鎮座地ですから、現在地のことで、これは「墨江御峡」で判ります。

 さて、310行は最初に鎮座したいとの希望した場所です。特徴は「大津」がついていることです。古代の大阪の湊で「大津」の冠をかぶせられているのは難波大津だけです。住吉大津とは表現されていません。難波大津とは上町台地の北方の湊のことです。310行目を解読すると、りっぱな大王の湊の聖地で上町台地の岬とでも云う意味でしょう。

 『記紀』に「大津」が出てくるのは、最初は神功皇后が三筒男神を祀った場所のお話、次は応神天皇
が兄媛が吉備に帰るのを見送ったお話で、天皇は高殿から見送ったとのお話。
 次は仁徳天皇の皇后で嫉妬深いので有名な磐之媛が怒って三つ柏を海に投げ入れて、天皇の待っている大津に泊まらずに、引き返し江から遡って山城方面に行ったとの記事です。

 このあたりに出てくる大津は難波大津のことであり、住吉津ではありえません。

 5世紀半ばに法円坂から古墳時代の高床式倉庫跡が出土しています。16棟の建物群ですが、おそらくは6群と10群とに分かれるのでしょうが、時代はつながっているように思われます。掘っ建て柱倉庫ですから建てても寿命は20年程度、合計40年程度でしょう。倉庫群がなくなった跡地に竪穴式住居が出来ています。放置され、民衆の住処になったのでしょう。民衆の住処の時代は住吉津が繁栄した時代でしょう。5世紀末から6世紀前半ではないでしょうか。

 雄略天皇の時代に、身狭村主青が呉から織媛等を伴い、住吉の津に泊まったお話がでてきます。さらに前述したように、この時代に神功皇后を住吉大社に合祀しています。住吉津が主力の時期だったのです。

 継体天皇は淀川・木津川沿いに宮をおきますが。この頃には難波津の重要性は再確認されてきたのでしょう。九州のきな臭い動きなどで。
 欽明元年に難波祝津宮に天皇以下の重臣達が行きます。この時に任那割譲の失敗の件で大伴連金村が住吉宅に引きこもります。かわって物部氏や蘇我氏が難波津に宅を設けます。住吉津から難波大津への王権の湊の移動があったのでしょう。

 大化の改新の後、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を新しい宮とします。この時にも幾つかの倉庫群が設けられます。古墳時代の倉庫と一部重なっています。この近くに難波大津があったと見るべきでしょう。

 難波大津の後裔が渡辺津であり八軒屋の湊だと思われます。丁度、谷町筋が大川に突き当たる所です。大川付近の東西方向の上下は西から登ってきて高い場所になり、それから若干下っています。そうして最後に大坂城方面に登っています。谷町筋は谷であり、後世に埋め立てられたと云われますが、まさにそのことを物語っているようです。谷に流れ込んだ水が大川方面に流れるので、難波の堀江は運河は運河でしょうが、そのには川かあったので浚渫して河内湖から大阪湾へ水が流れやすいようにしたのが、大形の土木工事と見なされているのでしょう。茨田堤を造るよりはやさしかったのではと思います。なぜなら、人柱などのエピソードが語られていないからです

難波津・難波御津・難波大津

 
難波津  上町台地の東北西岸にあった幾つかの津の総称。例えば、高津、猪甘津など。

難波大津 中心的な津で、難波御津と同義と思われる。
1.中国・朝鮮諸国と交換した使節の発着港
2.西国へ赴任する官人や防人の発着の港
3.調庸など諸国から貢進される公的な物資・商品の集散地。

難波大津に関する資料
1.仁徳は磐之媛を難波の大津で待つが、大津に泊まらず、引き返して、川から遡って山城に行った。
2.推古十六年 大唐の使人裴世清らのために、新しい館を難波の高麗館の近くに造った。六月十六日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船で、客人を江口に迎え、新館に入れた。
3.舒明四年 唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。大伴馬養を遣わして江口に迎えさせた。
4.(万葉4331)若草の 妻をも巻かず あらたまの 月日数みつつ 葦が散る 難波の御津に 大船に
5.(万葉1453)大王の 命畏み 夕されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
6.(続日本紀) 天平勝宝五年753 御津村 南風大吹 潮水暴溢 懐損慮舎 没百姓五百六拾人
7.(行基年譜) 聖武二十一年744、大福院 御津 尼院巳上在 摂津西成郡御津村
8.朱鳥元年(686) 阿斗蓮薬の家から失火、難波の宮室はことごく焼けた。
9.天平宝字六年(762)遣唐使用船が難波江口の早瀬に乗り上げた。

難波大津(御津)はどこか?

千田稔説(埋もれた港)
 御堂筋三津寺付近
 三津寺は天平年間(729-)からこの地にあると云う伝承
 三津寺の北に津村、南に難波(なんば)、湊町がある
 資料7は三津寺を大福院としているが、現在もそうである。
 堂島川の玉江橋の北に「字江之口」があった。堀江口だろう。福島駅の南
 これで、資料2,3の 難波津 → 江口 → 客館 のコースが合理的になる

日下説 高麗橋(天神橋南付近)
 資料2の記事で、難波津に泊まったのは全体の話。行路は江口から高麗新館
 資料6の記事で、そのような被害が出る場所に重要な湊を置くはずがない。
 資料7の地名は移動することがあるので拘泥されない。
 資料9では、難波堀江に入ろうとしている。

神奈備 日下説を延長させて、大川から谷町筋に入った場所
 大川沿いは時には流れが急になりがちだから、谷筋に少し入る。難波宮の中の港だから大津であり御津である。
 資料1で大津に寄らず、引き返しているのは、谷町筋(元は谷)を北上して向かった様
 資料4、5で、「葦か散る」、「鶴が妻呼ぶ難波潟」とあり、淡水の潟に位置した
 古墳時代、飛鳥時代の巨大倉庫群が真東に出来ている
 船乗りの頭領であった阿斗氏の宅が、難波大蔵の北東すぐ(谷町筋)にあった。
 石町に住吉神を祭っていた。(坐摩神社は元大神坐)まさに港を見守っている。




[8981] 谷町筋について  神奈備 2008/05/23(Fri) 21:18 [Reply]
 谷町筋があたかも古代には全部が谷であって水が流れているような印象を当掲示板[8904] 「難波大津」で表現してしまいましたが、どちらかと云うと谷町筋を谷が縦横に横切っているように見えます。古代の大阪市北部の復元図が雑誌『葦火』(大阪市の考古学会誌)113号に、寺井学芸員(大阪歴博)の労作を発見しましたので、写真を「写真掲示板」に載せましたのでご覧下さい。これを見ますと難波大津は天満橋よりやや東の大手前病院の北側となりそうです。丁度、難波宮に付属する倉庫群の北側と言えそうです。

 なお、寺井学芸員は難波大津を後世の渡辺津(八軒屋)付近に求めています。写真の左上にあたります。



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