大田・太田について(試論)

 『和名抄』に出ている太田郷・大田郷の比定地と神社など
遠江 長下  大田郷、太田郷
遠江 周智  大田郷
武蔵 埼玉  大田郷、太田郷
下総 匝嵯  大田郷
安房 安房  太田郷
常陸 久慈  大田郷
美濃 安八  大田郷
美濃 大野  大田郷
信濃 水内  大田郷
上野 吾妻  大田郷
出羽 出羽  大田郷
播磨 揖保  大田郷
播磨 佐用  大田郷
備後 世羅  大田郷
紀伊 名草  大田郷
讃岐 香川  大田郷
筑後 上妻  太田郷
日向 諸縣  大田郷
−−−−−−−−−−−−−
  摂津 島上  大田
  石見 安濃  大
  大和 磯城と葛城 相撲と大田
  その他の太田 河内、阿波、伊勢、丹後、大和、三河   
[6855] 日神を出す      
 「日神を出す」とは以下のとこ。

 手力男命や宇豆女のように天岩戸開きに努めた神々。
 船木氏の祖や紀直の祖の紀豊耳命のように日神と見なされている神功皇后や日の御子を船に乗せ、その船玉を祀ること。
 日神となった天照大御神の衣料を織る女神達。
 三輪山の神も日神として祀られていた時期があろう。これを祀った百襲姫や大田田根子。

[6853] 遠江国長下郡大田郷    日神度 ★

 『静岡県の地名』によりますと、磐田市二之宮、下大之郷付、福田町下太、南田、豊田町池田付近に比定されています。
 二之宮とは鹿苑神社のことで、江戸時代までは高根明神と言われていたようです。遠江国には高根神社「味鋤高彦根命」が十社ほど鎮座しており、賑やかです。隣の伊豆国では賀茂郡に集中して数社が鎮座、葛城鴨の進出の跡かも。
 ここの太田は海に近いと言った程度で、今の所、日神を出すなり運ぶなりの雰囲気は感じられません。葛城鴨の果たしてきた役割がどうであるかを問題とする必要がありそうです。

地域の神社
十一社神社(八十禍津日命、神直日神、大直日神 ほか)静岡県磐田市下大之郷
鹿苑神社(大名牟遲命)静岡県磐田市二之宮
八幡神社(譽陀別命  配祀 息長帶姫命、比盗_)静岡県磐田郡福田町南田10
八王子神社(天之忍穗耳命、天津日子根命)静岡県磐田郡福田町下太82
天白神社(猿田彦命)静岡県磐田郡豊田町池田


[6854] 遠江国周智郡大田郷    日神度 ★

 周智郡森町や袋井市太田に比定されています。森町の天宮神社境内からは縄文中期の遺跡が出ています。遠江国の一宮は大田郷鎮座の小国神社です。式内社。杵築大社を大本宮というのに対して遠江国地方の美称である小国を名乗ったとされています。別に許当麻知神社と呼ばれていました。
 格別に日神と関係するような土地とは思えません。

地域の神社
加茂神社(別雷命)静岡県袋井市太田710
小國神社(大己貴命)静岡県周智郡森町一宮3956番地の1
天宮神社(湍津姫命 田心姫命 市杵嶋姫命)静岡県周智郡森町天宮576番地
山名神社(素盞嗚命 應神天皇 菊理姫命)静岡県周智郡森町飯田2590番地


[6858] 武蔵国埼玉郡大田郷    日神度 ★

 比定地は埼玉県北葛飾郡鷲宮町、久喜市白岡町、宮代町、岩槻市など。太田荘の鎮守は式外の鷲宮神社、浮き島とよばれた微高地に鎮座、土師連の祀る土師宮から鷲宮に転訛したと言われる。祭神は天穂日、武夷鳥が27の氏族を率いて入植したので、祖神を祀ると言う。久喜市には太田神社が鎮座しているが、いくつかの神社を合併してこの名をつけたと言う。白岡町太田新井にも太田神社が鎮座、建御名方命、天穗日命が祭神。
 日神のお出ましとあまり関連がないようです。


地域の神社
鷲宮神社(天穗日命 武夷鳥命 大己貴命)埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮1-6-1
太田神社(火雷神)埼玉県久喜市埜久喜596
八幡神社(應神天皇)埼玉県岩槻市太田166
諏訪神社(建御名方命)埼玉県岩槻市太田44


[6857] 下総国匝嵯郡大田郷    日神度 ★

 比定地は旭市でここには太田神社が鎮座、第六天とも言われ、面足尊、惶根尊を祀る神社です。天常立尊系に神々で伊弉諾尊、伊弉册尊の一代前に面足尊、惶根尊の名が見えます。天照大御神のお爺ちゃんとお婆ちゃんと言うことになるのかな。
 当地は海上国造の支配する地で、国造は天穂日命─武夷鳥命─出雲建子命と流れる系譜上にいます。
 ついでですが、泉川村(旭市泉川)に内裏神社が鎮座、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)の妃である耳面刀自命が東国に逃れてきて、死後に祀られたようです。

 上総国になりますが、木更津市下郡の十二所神社にも耳面刀自命がまつられています。木更津市太田に鎮座の刀八神社は日本武尊、刀八大明神が祀られており、由緒としては海に身を沈めて日本武尊を無事に渡航させたのですが、尊は太田山山頂から姫を偲んだのです。里人は祠に日本武尊を併せ祀ったとです。

 上総、下総ともに日神のお出ましとあまり関連がないようです。


地域の神社
太田神社(面足尊 惶根尊)千葉県旭市ニ1522
内裏神社(弘文天皇 耳面刀自命)千葉県旭市泉川1502ー1・川口782ー2入合


[6856] 安房国安房郡太田郷    日神度 ★★

 @館山市館山、北条、豊房
 A館山市大戸、長田、山萩、南条、大網、真倉
 と比定地に説か別れているが、館山市の中央部のようでです。それぞれの村に神社が鎮座しているのですが、やはり近くの安房神社が目立ちます。延喜式内社の名神大社で、祭神は天太玉命、この神は忌部氏の祖神で、天岩戸開きの神話に登場、天照大御神にお出ましいただくことに貢献のあった神で、まさに日神を出す神そのもの。鎮座地の館山市大神宮は館山市の南西端の海に近い場所、ここを太田と強弁するつもりはないのですが、太田であってほしい(..;)。


地域の神社
諏訪神社(建御名方神)千葉県館山市北条1980
館山神社(宇迦之御魂神)千葉県館山市館山252
神明神社(天照大御神)千葉県館山市神真倉1819
白幡神社(本田別命)千葉県館山市大戸202
山宮神社(大山津見命)千葉県館山市東長田1061
諏訪神社(建御名方命)千葉県館山市西長田278
山荻神社(大己貴神 少彦名神 猿田彦神)千葉県館山市山荻273
八幡神社(譽田別命)千葉県館山市南条515

安房神社(天太玉命 配祀 天比理刀当ス)千葉県館山市大神宮589


[6862] 常陸国久慈郡大田郷    日神度 ★★★

 『常陸国風土記』によれば、綺日女命は天孫降臨に従い、日向の二上峰に降臨し、後に美濃の引津根へ移り、崇神天皇の御代に、長幡部遠祖・多弖命が美濃から久慈の当地へ遷したという。常陸国の久慈郡太田郷に、長幡部の神社が鎮座、祭神を綺日女命。多弖命としています。
 常陸太田市宮本町・幡町が太田郷で、縄文前期・弥生時代の遺跡が出ています。
 遺跡はともかく、日神の衣装を織っている女神を祀る神社があり、太田と言う地名そのものも美濃から持ち込まれた可能性があるでしょう。

 『古事記』開化天皇の条に、丹波の河上の摩須郎女を娶って生んだ皇子の中に~大根王がいて、三野國之本巣國造である長幡部連之祖とあります。美濃の引津根とは本巣付近だったのでしょう。
 なお、美濃に引常神社が鎮座しているとの情報があるのですが、確認できていません。


地域の神社
長幡部神社(多弖命 綺日女命)茨城県常陸太田市幡町539
鹿島神社(武甕槌命)茨城県常陸太田市宮本町332
若宮八幡宮(大鷦鷯命 宇迦御魂命)茨城県常陸太田市宮本町2344


[6848] 美濃国安八郡大田郷    日神度 ★★

 大垣市、安八町、輪之内町下大榑などに比定されています。
 輪之内町に加毛神社が鎮座、祭神は神別雷命となっています。由緒には、鴨君彦坐王の子、神大根王が美濃国の国造となり、その子孫達は西南濃地方に繁行したようで、祖神を祭ったとされています。昭和の『神社明細帳』には祭神は別雷命(猿田彦命)とあるようで、白髭明神と呼ばれていたそうです。
 猿田彦命が祭られているとしても、日神の出動に関係がある土地であるとの積極的理由付けは見いだせないようです。

 この地域と本巣とは少々離れてはいるものの、加毛神社にいささかかかわる者が本巣国造となったり、また長幡部の祖となっていることと関連があるとも言えましょう。
 『常陸国風土記』によれば、綺日女命は天孫降臨に従い、日向の二上峰に降臨し、後に美濃へ移り、崇神天皇の御代に、長幡部遠祖・多弖命が美濃から久慈の当地へ遷したという。常陸国の久慈郡太田郷に、長幡部の神社が鎮座、祭神を綺日女命。多弖命としています。
 この神社は織物の神が祭神です。天照大御神も織姫でもあったようで、これは日神と無関係ではありません。日神の登場を準備している神と言えます。

 ついでですが、日子坐王が鴨君と称されるのは『姓氏録』で左京皇別下の鴨県主、摂津国皇別の鴨君は日子坐命の後とされており、大国主の後裔ではない鴨君がいたようです。

 余談ですが、安八郡安八町西結の結神社(むすぶじんじゃ)は、永享〜嘉吉年間(1429〜44)頃、小栗判官と別れた照手姫は当社に祈願して判官に再会したという伝承があり、「照手姫の宮」と俗称されているそうです。


地域の神社
神明神社(天照大神)岐阜県大垣市東前町2丁目9番地
八幡神社(應神天皇)岐阜県大垣市古宮町江東1410番地の1
手力雄神社(天石門別命神)岐阜県大垣市禾森町字本郷2033番地の1
加毛神社(神別雷命)岐阜県安八郡輪之内町下大榑東井堰13017番地
日吉神社(大己貴神)岐阜県安八郡神戸町大字神戸字上ノ宮1番地の1
結神社(天御中主尊 高皇産靈尊 神皇産靈尊 猿田彦神 )岐阜県安八郡安八町西結697番地の2
墨俣神社(墨俣大神)岐阜県安八郡墨俣町大字墨俣264番地


[6873] 美濃国大野郡大田郷    日神度 ★★

 比定地は幾つかあります。
 @大野村麻生(大野町)
 A西部村
 B鶯村、大衣斐、小衣斐、領家、川合村
 C揖斐郡藤橋村徳山地区、本巣郡根尾村西部
 D大野町豊木

 国司は、『延喜式神名帳』とは別に、月次の国内巡拝のために、それぞれの国の『神名帳』を持っていたという。『美濃国内神名帳』の大野郡に正三位 大田大神との記載があるのですが、この神が現在どうなっているのかよく分かりません。
 この神社の鎮座地が大田郷なのでしょう。小衣斐との説があるようですが、現在はここには春日神社が鎮座。

 『岐阜県の地名』によれば、比定地の大野村麻生に麻続の牧が置かれていたとありました。麻続とは伊勢国の式内社に麻續神社の名が見えるように、神の服を織ることであったようです。ここも大田郷と織り物とが揃い、日神登場の衣服を織っていた場所と言えます。

 美濃加茂には三賀茂神社として、県主神社、蜂矢町の加茂神社、坂祝町の坂祝神社が鎮座しています。

 いずれにしても日神との関連は薄くありそうだと言う程度と言わざるをえません。


地域の神社
賀茂神社(別雷命 火之迦具土神 罔象女神)岐阜県揖斐郡揖斐川町脛永字北瀬古554番地
三輪神社(大物主大神)岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪1322番地
白鬚神社(猿田彦神)岐阜県本巣郡根尾村宇津志39番地
熊野神社(家都御子神)岐阜県本巣郡根尾村高尾1031番地の1
春日神社(春日大神)岐阜県揖斐郡大野町小衣斐69番地


[6864] 信濃国水内郡大田郷    日神度 ★

 『吾妻鏡』に大田庄が出てきます。また正倉院御物の布袋に太田と記載があるようです。
 @上水内郡小川村と中条村、長野市東部を加える説もあります。
 A上水内郡豊野町豊野
が比定地とされています。長野市の東部の赤沼に大田神社「大鞆和氣命」が鎮座しており、長野市東部も大田郷だったのでしょう。
 豊野町豊野には伊豆毛神社(出雲大明神)が鎮座、また豊野町石には粟野神社「天日方奇日方命」が鎮座し、出雲系の神々の名が見えます。ははり葛城鴨の存在が気になります。


地域の神社
大田神社(大鞆和氣命)長野県長野市大字赤沼字宮配1707
多賀神社(伊諾岐命 伊諾册命)長野県上水内郡豊野町大字豊野1297
伊豆毛神社(素盞嗚尊 大己貴命)長野県上水内郡豊野町大字豊野字下伊豆毛845
小川神社(健御名方命 大己貴命 言代主命)長野県上水内郡小川村大字小根山6862
小川神社(健御名方命)長野県上水内郡小川村大字瀬戸川18314
虫倉神社(磐長姫命)長野県上水内郡中条村大字御山里7038
日郷神社(大日靈命)長野県上水内郡中条村大字日下野751


[6866] 上野国吾妻郡太田郷    日神度 ★★

 群馬県吾妻町厚田に太田神社が鎮座、厚田に加えて、金井、川戸、三島を太田郷に『中之条町史』は比定しています。
 金井の一宮神社は上野国一宮である一之宮貫前神社「經津主神」を貞観年中に勧請したものだそうです。
 川戸には川戸神社、迩迩藝命に加えて何と五十猛命も祭られています。
 三島には鳥頭神社(とっとう)が鎮座、倭建命を祭神としています。
 日神とのかかわりは要検討です。日神の出動は何となく内陸よりは海に近いイメージのように思われます。


地域の神社
一宮神社(經津主神 菅原道眞 譽田別命)群馬県吾妻郡吾妻町金井481
浅間神社(木花之佐久夜比賣命 大山津見神 素盞嗚命)群馬県吾妻郡吾妻町川戸66
鳥頭神社(倭建命)群馬県吾妻郡吾妻町三島3552
川戸神社(迩迩藝命)群馬県吾妻郡吾妻町川戸1072
大宮巌鼓神社(日本武尊 弟橘姫命)群馬県吾妻郡吾妻町原町811


[6867] 出羽国出羽郡大田郷    日神度 ★

 山形県の大山川流域で、この川の古名は大田川。
 東田川郡三川町には加茂神社「御祖神」が鎮座していますが、山城賀茂系のようです。


地域の神社
皇太神社(天照皇大神)山形県鶴岡市長崎字井坪2
皇太神社(天照皇大神)山形県鶴岡市辻興屋字丸沼丙93
皇太神社(天照皇大神)山形県鶴岡市面野山字地之本180
愛宕神社(伊邪那美神 火之夜藝速男神)山形県鶴岡市中野京田字大坪176


[6868] 播磨国揖保郡大田郷    日神度 ★★★★

 『播磨国風土記』(揖保郡大田の里)の条に以下のことが書かれています。
 大田と称するわけは、昔、呉の勝が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村についた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名にしたのである。

 比定地は姫路市の西端の下太田、太子町の東側の上太田、下太田でこれらはつながっています。

 この地域を歩き回りましたが、紀伊や摂津との具体的な関連は見いだせませんでした。
 太田とは少し離れた場所になりますが、同じ揖保郡に粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社が鎮座、一方摂津には疣水磯良神社が鎮座、また摂津には新屋坐天照御魂神社が鎮座、ほぼ同じ東西のライン上にほぼのっているようです。ラインを東に引っ張りますと、水主神社(水主坐天照御魂神社)が鎮座しており、日神信仰の痕跡を語っているやに見えなくもありません。

 紀伊の国の太田には日前国縣神宮が鎮座、この神社も天照国照の神と同義が認められるのではないかとの提案↓もあり、そう言う意味では日神にかかわる「太田」の地名と人々がが移動していった痕跡があるとも考えることができます。
http://www.dai3gen.net/kunikakasu2.htm

 また摂津の太田神社は中臣太田連が祀った神社とされています。播磨には中臣印達神社が鎮座、中臣と言う場所に祭られた印達神(五十猛神)と解釈されていますが、中臣氏の移動がなければ中臣なる地名にはなるはずもなく、中臣太田連の役割も興味あるテーマになりましょう。


地域の神社
吉備神社(武彦命)兵庫県姫路市勝原区下太田字川田521
黒岡神社(應神天皇)兵庫県揖保郡太子町太田917
若王子神社(仁徳天皇)兵庫県揖保郡太子町上太田47


[6869] 播磨国佐用郡大田郷    日神度 ★

 佐用郡上月町久崎一帯の地とされています。赤穂の北20km付近。
 『播磨国風土記』に讃容の郡邑宝(おほ)の里とされています。『風土記』には「弥麻都比古命が井を治りひらいて粮を食べ、さて仰せられた。「私は多くの国を占めた」と。だから大の村といい、井を治ったところを御井の村と呼ぶ。」とあります。

 弥麻都比古命を孝昭天皇と見る説があるようです。和邇臣の祖統にある天皇です。和邇氏は大神氏や鴨氏にもつながる氏族であるのですが、欠史時代の天皇の名が風土記に登場するのはいささか疑問と思われます。


地域の神社
大避神社(秦河勝)兵庫県佐用郡上月町久崎字飯之山831
素盞嗚神社(須盞之男命)兵庫県佐用郡上月町小赤松370-1


[6870] 備後国世羅郡大田郷    日神度 ★

 広島県世羅町本郷村の東大田、西大田が比定地。山地です。式内社の和理比売神社が鎮座、櫛稲田姫を祭神としています。
 この地の日神との関連は不明。


地域の神社
和理比売神社(櫛稲田姫)広島県世羅郡世羅町本郷


[6879] 紀伊国名草郡大田郷    日神度 ★★★★

 『紀伊続風土記』には、「今の多田郷の内ならん、郷中に多田村あり」として海南市多田をあてています。ここには国主神社(国栖明神、九頭明神)が鎮座し、早くから開発されてきたところです。
 『地名辞書』は、和歌山市太田に比定、中世日前国縣神宮に大田郷があり、有力な比定地と思います。
 ここ太田村の北に黒田村があり、またがって大規模な太田黒田遺跡があります。弥生時代以降の複合遺跡で、竪穴建物跡十五棟、井戸、溝、銅鐸が出ています。建物跡の地面には丹沙と土とを幾層にも交互に突き固めた跡が見いだされ、祭祀にかかわった建物跡と思います。
、また古墳時代以降の井戸、溝など多数あります。弥生時代後期に一度途絶えているようで、大きな変化があったことを物語っているようです。

 現在この地には紀州一宮とされる日前国縣神宮が鎮座、それ以前には伊太祁曽神社が鎮座していたと伝わります。また紀伊三所神と言って、伊達、志摩、静火神社のことですが、これこそ『住吉大社神代記』に出てくる子神の一である船玉神を紀国の紀氏が祀る神々の志麻神、静火神、伊達神の元社であったと記しています。名草郡の大社は日神を出す神そのものと言えるでしょう。

 また『播磨国風土記』に言う揖保郡の大田里の地名について、呉勝がもといた紀伊の国の大田をとって里の名にしたとの話の大田と見ていいと思います。


地域の神社
日前国懸神宮
鳴神社
鳴武神
香都智神社


[6871] 讃岐国香川郡大田郷    日神度 ★★

 高松市中央部の太田上町、太田下町、松縄町、伏石町が比定地。
 廣田八幡神社が鎮座、中臣太田連が祀ったと言われます。中臣太田連と言えば、摂津の島下郡の太田神社を祀った氏族でもあります。讃岐と紀伊とは紀氏の瀬戸内の海運の経路にもあたり、関連が深いようです。それ故ではないでしょうが、当地と紀伊の太田とは東西のライン上に位置しています。東西のラインは太陽の運行の特殊なケースであり、日神との関連が思い浮かびます。悪のりをして言えば、讃岐国大内郡の水主神社「倭迹迹日百襲姫命」もそのラインにあり、山城の水主神社と同じ役割なのか、または三輪山の神妻となった倭迹迹日百襲姫命も日神を祀る神であり、ここの大田と日神との関連は匂わないではない。


地域の神社
熊野神社 香川県高松市松縄町237
廣田八幡神社 高松市太田上町1037
伏石神社 高松市伏石町848


[6874] 築後国上妻郡太田郷    日神度 ★★

 福岡県八女郡広川町大字太田。『築後国風土記逸文』「釈日本紀」に磐井の君の項があり、上妻の県。県の南方二里に筑紫君磐井の墳墓がある。云々」と記載されています。この地域の王だったのでしょうが、畿内では継体天皇が王家となり、それへの抵抗者だったものと思われます。磐井の墓は八女の岩戸山古墳とされています。八女には八女津媛神がおられることが『景行天皇紀』に記しています。巨石信仰の神社であり、北側には日出と言う地があり、何となく日の神を連想させるのです。


地域の神社
大神宮(大日ルメ貴尊)福岡県八女市大字吉田1554
日吉神社(大山咋尊)福岡県八女市大字今福1165
宇佐八幡宮(應神天皇)福岡県八女市大字岩崎461


[6875] 日向国諸県郡大田郷    日神度 ★


 えびの市の加久藤や小田が比定地。『景行天皇紀』の見える日向髪長大田根との関連が指摘されています。生んだ子が日向襲津彦皇子で、阿牟君の祖とあります。長門国阿武郡の一族の長となったと言うことでしょう。
 日神との関連は見えにくいところです。


地域の神社
幣田神社(瓊瓊杵命)宮崎県えびの市大字柳水流432
岩谷神社(日本武尊)宮崎県えびの市大字向江377
羽黒神社(蛭子命 天子命)宮崎県えびの市大字島内942ー944


[6881] 摂津国島上郡大田    日神度 ★★★

 茨木市大田鎮座の太田神社について『大阪府史蹟名勝天然記念物』から
 土俗大神宮と称せり。西南字太田山にあり。創建の年月不詳。播磨風土記には呉勝の裔として、太田の原を帰化民族とすれども、新撰氏姓録摂津神別に中臣藍連同神(天兒屋根命)十二世孫大江臣之後也、中臣太田連同神十三世孫御身宿禰之後也、とあり、而して安威、太田、耳原等の土地相接して存するを見れば蓋しこの太田連が其の祖神を祀りしものとなるべし。

 これから見ると祭神は天児屋根命と云うことになろうか。

 また太田の東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」があり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土してます。これらの出土品からでしょうが太田田根子を祭神とする説もあるようです。
 
 『播磨国風土記』(揖保郡大田の里)の条の、始め呉の勝が紀伊の国の名草の郡の大田の村についた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。
の中間の場所です。茨木市近辺の古墳の中には紀の川沿いでとれる緑泥片岩が使用されているものもあり、明らかに紀の国との関連がありそうです。


地域の神社
太田神社
阿為神社
疣水磯良神社
新屋坐天照御魂神社

[6882] 石見国安濃[おおざと扁に也]郡(おおだ)    日神度 ★

 島根県大田市三瓶町多根 国引きで有名な佐毘賣山神社が鎮座
 島根県大田市三瓶町小豆原
 島根県大田市長久町長久
 島根県大田市長久町稲用
が比定地です。

 佐毘賣山神社は三瓶山にかかわる神社で、山麓に八社の同名社が鎮座し、いずれも湧き水の出る地だとかで、そこから周辺が開発されていったそうです。『日本の神々』白水社。
 面白いのは、死体化生型の伝承が残っています。「ソシモリにオオゲツヒメと云う五穀の神がいた。荒ぶる神に切り殺されたが、その時体の各所から馬、蚕、大豆、稲、小豆、麦が出た。末子のサヒメはこの五穀の種を持って赤雁にまたがり比礼振山(益田市乙子町:ここにも式内佐毘賣山神社が鎮座)にとまり、さらに東へ進み、三瓶山に来てその種を播いた。」との伝承です。

 この伝承は素盞嗚尊、五十猛命の植樹神話と似ているようで、興味あるところですが、ここのオオダは日神を出すとか祀ると云うことには直接には関係していないようです。


地域の神社
佐毘賣山神社


[6883] 相撲と大田  神奈備 日神度 ★★

 大田について考えている頃、たまたま入った古書店で加古樹一著『遊牧騎馬民族国家大和』と言う本がありました。目次を見ますと何と!!「太田という地名」についての諸関連」の章があるではありませんか。何かやっている時、それに関連する情報と巡り合うことがありますが、これだ!と思い、\330と安かったこともあってすぐに購入。帰って見てみるとなんのことはない、章のタイトルと中身はまったく違う代物でした。
 §1 タイトル 「播磨国風土記」に登場する太田
    内容 銅鐸に関しての佐原氏のインチキをかき立てている内容のみ。
 §2 タイトル 古代朝鮮・所在の太田
    内容 ここで播磨の太田里の風土記の話が登場。それと大田田根子。
 §3 タイトル テレビコマーシャルに現れた三輪の素麺神糸・ハリマの素麺揖保の糸等々としてあらわれる「太田」の地名
    内容 ここでは三輪山の下箸墓の近くの太田の地名、また揖保の素麺産地にも太田の地名が残っていること。
 次ぎに「太田」という地名は朝鮮から出発しているという。騎馬民族がやって来たとのお話が続き、物証をいろいろあげておられる。面白いのはモンゴル相撲について触れており、高砂市曽根の天満宮の祭礼について記しています。太田と相撲の関連を指摘しているわけではなく、騎馬民族渡来説の補助資料としているようです。【引用以上】

 相撲は大きいヒントです。大和に相撲の伝承が残っています。一つは當麻町です。当麻蹴速塚があります。當麻町太田から北に1.5km程度の場所です。
 また桜井市穴師に相撲神社が鎮座、やはり桜井市太田の東1.5km。
 和歌山の井辺山八幡古墳から相撲取りの埴輪が出土しています。名草郡大田郷から3km。
 
 相撲と大田、どのような関係があるのだろうか。
 力士の埴輪が出土している古墳と太田地名の場所と近いのは高槻市昼神車塚古墳と摂津国大田で3km、橿原市四条大田中遺跡と桜井市の太田は3km強、埼玉県の酒巻古墳や土浦市天神山古墳など東日本の力士出土地と太田とは相当な距離があり、関連付けは難しいようです。
 
 相撲は土地神への儀礼や葬送儀礼と結びついているようで、日神を出すと云う神事との関係付けはしんどい所ですが、当麻蹴速の相撲は七月七日に行われましたが、これと七夕とがつながり、棚機姫、織女となれば、日神につながりそうですが、直接の相関関係はないと見るべきでしょう。




地域の神社

葛城
棚機神社
博西神社
葛木倭文坐天羽雷命神社M
海積神社
当麻寺
磯城
天照御魂神社
穴師坐兵主神社・相撲神社
大神神社

[6886] その他の太田    日神度 ★
河内国の太田
 志紀郡の太田 (八尾市太田1〜9丁目)
 羽曳野丘陵の先端部の平地、蕪の産地。明応二年(1493)文書に大田云々とあります。

 丹北郡の大田 (八尾市丹北太田、若林町1〜2)
 屯倉神社(旧三宅天満宮)、摂社に式内社酒屋神社があります。中臣酒屋連が祭祀にあたったようです。
 応永二十六年(1419)の文書に太田が見えます。


阿波の太田
 美馬郡大田(美馬郡貞光町大字太田)に熊野十二所神社が鎮座、鉄釣る灯籠の銘に「阿州太田」とあります。永徳二年(1382)。

 海部郡太田村(海部郡海南町浅川)に御崎神社「猿田彦神」など。


伊勢の大田
 鈴鹿郡に大田庄があります(亀山市太森町)南宮大神社が鎮座。
 
 安芸郡太田(安濃町太田)文禄検地帳に「太田」の地名が見えます。縄文晩期から弥生時代の竪穴式住居跡などの遺跡があります。

周芳の大田(美祢郡美東町大字大田)
 村内を船木街道が通る。仲哀紀にある「大田」に比定されています。大田八幡宮、土師神社が鎮座。
 秋吉台の台上の北馬コロビ遺跡からは後期旧石器、有史時代の土師質器、サヌカイトも出土しています。


丹後国竹野郡(京都府竹野郡弥栄町字和田野太田)
 大田庄は船木庄と隣接しています。6世紀前半の太田古墳群からは、瑪瑙製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉などが出土。儀器のようです。


大和国十市郡(橿原市太田市町) 日神度 ☆☆☆
 ここに鎮座の天満神社は式内目原坐高御魂神社二座に比定されており、顕宗天皇三年、日神、人に著(かかり)りて、阿閉臣事代に謂(かた)りて曰く。「磐余の田を以て我が祖高皇産霊を献れ。」とあります。


近江国高島郡(高島郡新旭町)
 安曇川左岸、南東は船木村。天正十一年(1593)文書に太田とあります。式内太田神社が鎮座、社伝では、延歴の頃(782)、豪族大伴氏の子孫大田宿弥の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが始めであるという。祖先の名を地名とした。


三河国加茂郡  (愛知県加茂郡旭町大字太田)
 太田川の水源にあたります。伊雑神社が鎮座。
 

[6917] 大和国十市郡飯富郷  神奈備

『大和考』橿原市飯高町に比定。飫富が飯富に、飯富が飯高に誤写が重なったのでしょう。要は、住民は自分の住んでいる地域の名前なんか知らなかった、どうでもよかった、と云うことでしょう。権力と他人が知っておく必要があったので、誤写が続いても、誰も気にしない結果がこれですね。「飫」は酒盛りの意があり、祭祀との関連があるのでしょう。

 飯高の東方に多村(現田原本町)があって、多神社とその眷属神が鎮座しています。

 日高池があり、また子部神社が二座鎮座。
 
 舒明天皇十一年、百済川辺の子部社の木を伐採して九重の塔を建てたが、社神が恨んで堂塔を焼失させたそうです。すがる神社と呼ばれています。雷神を捕らえてきた子部のすがるの名をとっているのでしょう。

 小子部と多氏と同祖を持っています。近い関係ですので、多氏の本拠の神社の近くに子部神社があるのは不思議ではありません。

 多神社は多坐弥志理都比古神社が正式名称です。祭神は志理都比古で、『新撰姓氏録』からは、弥志理都比古は神知津彦であれば、それは椎根津彦と同一神となります。海導神ということで、大和国造の祖神です。大和国造が齋祀る神社は大和神社で、中殿に大国御魂神、左殿に八千才神、右殿には御歳神が祭られている古社です。祭神については中殿神はともかく、左右の神々については未確定ですが、一に豊穣の神である大年神、御歳神、倉稲魂神の神格の神だったのでしょう。大和神社の祭神に御歳神の名が見えるのは、うっすらと多神社の祭神かも知れない椎根津彦と多氏とのつながりが見えそうです。




[6919] 上総国望陀郡飫富郷 おふ  神奈備

 延喜式兵部省に上総郡の牧として負野牛牧(おふの)があります。
 飽富神社の鎮座する飯富村(袖ケ浦市飯富)付近が比定地です。式内社で、「綏靖天皇元年、皇兄神八井耳命が創始した。」と伝えられているようです。飫富(オフ)の読みが、飽富神社(あきとみじんじゃ)となっており、これも誤写かも知れません。現在でも村人は神社の名とか祭神についてあまり気にせず、「うちの氏神さん」でいいのでしょう。
 この神社と岩井の国勝神社「事勝國勝長狹神」の神輿とが行合原で対輿式を行います。海中の御手洗井で斎払式を行います。
 
 飽富神社は多氏と同族の国造長狭国造が創建したとも云われています。長狭の地名も偶然でないのかも。




[6920] 伊勢国朝明郡大金郷(旧三重郡八郷村)  神奈備

四日市市伊坂町

 『青銅の神の足跡』には、「太鐘に大きな鐘が地中に埋まっているとの伝承があるとかかれています。」大矢地の青木山から銅鐸二基が出土しています。
 八郷地区は、縄文時代中頃から朝明川の北側、朝日丘陵南縁の伊坂町周辺で集団生活が営まれ(西が広遺跡)、弥生中期頃になると丘陵地周辺の低湿地帯で農耕が行われていたと考えられています。
 八郷地区は朝明郡の大金(おおがね)郷(萱生、平津、中村)と訓覇(くるべ)郷(山村、広永)に属していました。
 弥生後期には伊坂町に集落が形成されていました。(西ヶ広遺跡)

 菟上耳利神社が鎮座、菟上神社が耳利神社を合祀、式内社の菟上神社の論社。祭神は菟上王。
 合祀されている耳利神社も式内社。論社は数社あります。船木氏が祀っていました。
 また、大鐘には式内社の大神社(現在は太神社)が鎮座、大和の多神社の裔社とされています。神職は船木直の末裔。
 近鉄冨田駅の近くには常耳神社、舟木明神といい伝えられていました。

 朝明郡の北側は員辨郡、猪名部神社も鎮座、物部系。猪名部は造船。




[6921] 常陸国那賀郡大井郷  神奈備

 水戸市飯富村。『水府志料』には、「古名大部村 或云本字は飫富なり。
 大井神社があり、大和の三輪山と真西の多神社、これと同じ感じで、朝房山の真西に大井神社が鎮座しています。祭神は建借馬命、杵島ぶりの歌をうたって、先住民の国栖をことごとく切り殺した。
 建借馬神とは鹿島ノ神であり、武甕槌神とする考えもあるようですが、どうなんでしょうか。
 杵島ぶりの歌を歌わせたことを考えますと、『肥前国風土記逸文』にありますように肥前国の歌垣で歌われていますので、肥前の杵島に関係がある神と思われます。仲国造に任じられており、神八井耳命が仲国造の祖ですから、多氏と同祖の神です。

 『肥前国風土記逸文』
 杵島の県。県の南方二里に一つの離れ山がある。坤から艮にかけて三つの峰が連なっている。これを名づけて杵島という。坤にあるのを比古神、中にあるのを比売神、艮にあるのを御子神という。(またの名を軍神。この神が動くとこはただちに戦がおこる。)村々郷々の男も女も酒を携え、琴を抱いて、毎年春秋に手をとりあって登り見渡し、酒を飲んで歌舞し、曲が終わって帰る。歌詞は
 霰降る 杵島が岳を 険(サカ)しみと 草取りかねて 妹が手を取る

 さて、杵島の山を神奈備山とする神社の一つが稲佐神社です。
http://kamnavi.jp/it/tukusi/inasa.htm
 三つの峰に対応する神々は天神、女神、五十猛神とされています。素盞嗚尊、櫛稲田姫尊、五十猛神のことだと思います、『風土記』の軍神とはわが五十猛神のことでしょう。まさにその神が常陸国那賀郡の青山神社の祭神として祀られているのです。青山、この国に木種を播いて青山となしたがゆえの青山との説明でしたが、多氏が祀ったとすれば、青は大、多、飫富かも知れません。
http://kamnavi.jp/it/higasi/aoyama.htm
 五十猛命は紀国では紀氏に祀られており、また紀氏は秦氏と密接な関係があるのは宇佐神宮の辛嶋氏などを通して理解していたのですが、ここに多氏がからんでくる、これはこれはです。多秦ら紀して調べよう。




[6922] 和泉国日根郡呼於郷  神奈備

 後世の信達庄にあたり、泉南市の西部となります。地名としては「お」だったのを好字令で二文字とした段階で、「おお」としたようだ。紀伊と同じこと。神社は男神社、水門は雄水門と「お」の訓だから。

 信達岡中から銅鐸が出土していますが、開発の遅かった地域のようです。

神武即位前紀に山城(山井)水門、雄水門の地名が見えます。また、日根造は新羅からの渡来の億斯富使主の後裔と言われ、また神武東征のように九州からやってくる人々の到着する場でもあったのでしょう。
 多氏は普通神武天皇の皇子の神八井耳命とされていますが、もう一つは渡来系の多なる姓の人がいたようで、桧前氏を名乗っています。飛鳥の桧前か紀の国の日前国縣神宮が「ひのくま」では浮かんできます。

 どうやら、多氏の痕跡はなかなか見えないようです。日根郡の式内社に日根神社と比売神社とがあり、男神、女神の対の神社と見られています。
この日根神社は大井関大明神、比売神社は溝口大明神とも言われており、樫井川流域を開発した喜びが社名に見える思いです。紀の国の日前国縣神宮も、名草上下溝口神や溝口大明神の名を持っています。紀の川下流域の名草平野の開発にかかわった紀氏の齋祀った神社で、実に似た状況があったようです。
 進達神社は、昔、樽井の海岸に神武天皇の神像が出現、奇瑞を現したので、神意に従って当地(泉南市信達金熊寺)に祭ったと言います。
 信達神社の境内社に疫神社が鎮座、延喜式の臨時祭の「畿内堺十処疫神祭」の一で、和泉と紀伊との国境を守る神であったようです。
 金熊寺が鎮座、役小角の建立と伝わります。金峰と熊野を併せた名。




[6930] 日向国宮埼郡飫肥郷  神奈備

 日南市の飫肥、楠原、酒谷、板敷、星倉、弁分
 北郷町 大藤、郷ノ原、北河内

 広渡川の左右に田園が開け、油津の良港を擁し、古墳も諸所にあるので、古くからの拓殖の及んだ所。
 日南市は縄文早期の遺跡もあり、古くから開発されていたと言います。一大製塩地帯だったようです。
 当地には吾田邑があります。神武即位前紀に吾田邑の吾平津媛を娶ったとあります。日南市材木町に吾平津神社(乙姫神社)が鎮座、神社に対する丘上を吾平津媛陵としていますが、鵜鵜草葺不合尊の陵墓との説もあります。

 この地域は森林と水源に恵まれて待つ、楠、樫、櫟、桜など良材の宝庫と亥言えます。神武出発準備の場所としてはうってつけの所、また到着後の避難地に和泉国日根郡呼於郷があり、共にオオで多氏にからむのは偶然ではなきでしょう。太安万侶の作為かも。
神社
 南那珂郡北郷町大字郷之原乙 郷原神社
 日南市大字板敷 田ノ上八幡神社
 南那珂郡北郷町大字北河内 潮嶽神社。




神奈備にようこそ
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