鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏



[428] 鳥見山傳称地私考(要旨)1  神奈備 2002/11/14(Thu) 17:35 [Reply]
鳥見山傳称地私考(要旨)は昭和十四年に丹波市町大字瀧本の乾健治氏の作になる手書き謄写版の小冊子で、K氏、M氏とともに桃尾の滝の麓でお借りしたものです。抄を紹介いたします。

第一章 鳥見の霊畤に就いて

神武天皇は諸虜を御平定遊ばされ、功賞の御事終わって霊畤(まつりのには)を鳥見(とみ)の山中に立てて天神を祭らせ給ひ、大孝を申(の)べさせられ、其地を号けて上小野榛原、下小野榛原とい曰ふ。これ御一代二大親祭中の其の一である。

(一)国史上に於いて
日本書紀 神武天皇四年春三月の天神郊祀と鳥見霊畤建立の記事
古語拾遺 霊畤を鳥見山中に立て、天富命の幣をつらねての祝詞の記事
神皇正統記 霊畤を鳥見の山中に立て、天神地祇を祭る記事
ほかの引用

(二)霊畤について
霊畤とは斎場(まつりのば)のことで、久米博士は「『霊畤とは前後になき漢訳なり。説文には「所基址祭地也」と解し、漢志の注に「必於高山之下畤」命曰畤是則凡土高處皆曰畤也」と解す」即ち、畤とは土地の高所をいふのである。従って、大和一国を一望する佳勝の地ならねばならぬ。鳥見山(桃尾山)は最も適し、南は吉野群山をはじめ大和三山は申すに及ばず、地は奈良木津、西は生駒信貴連峰を越えて晴朗の日遙かに堺の海まで見られるのである。霊畤伝承地六ヶ所中最も絶佳の霊山である。
更に一歩進めてその霊畤の形式を考ふるに 石上神宮舊記に「石上邑の地底に磐石を以て境となし、地に石窟を作り布都御魂横刀 左坐為東方 天爾瑞寶十種 右坐為西方 同じく共に蔵む。其の上に高く地を築く、諸を高庭の地といふ。高庭の地に神器の上に當り磐座を設け、神籬を立つ・・・・之を霊畤と謂ふ」とある。

setoh注 霊畤伝承地六ヶ所
東吉野村萩原  木津峠から深吉野への途中の山中 丹生川上神社中社の北
桜井市桜井 鳥見山の麓 等弥神社の東南
奈良市石木町 登彌神社
奈良市中町 大倭神宮
榛原萩原 鳥見山公園に「鳥見山中霊畤跡」と刻まれた石碑 
天理市滝本町 大国見山
と思われる。確かに大国見山からの見晴らしは抜群。

[430] 鳥見山傳称地私考(要旨)2  神奈備 2002/11/15(Fri) 16:34 [Reply]
第二章 鳥見山について
(一)鳥見の意義
 姓氏録に依れば鳥見姓は饒速日命の裔とある。トミの語源は支配者を意味し即ち鳥見山とは支配者の山の義に解せられる。また鳥見は富(トミ)また臣・民(オミ・タミ)で長生の意味とも言う。『国史の根源』(勝井純著)によれば「鳥見の語源より云ふも、トミ支配者即ち掌る、神、帝王を意味する言葉であるから、神の山、支配者の山のこと舊倭の山を云ったのであることは云ふまでもない。」
 内藤虎次郎博士は「民族と歴史」の一の四に「夫餘國」の始祖「東明」高句麗の先祖「朱蒙」百済の遠祖「都慕」等は何れも同じ音が種々の文字で表されたに過ぎないので、恐らくは誇大に於いて此等の國々の間に「神」若しくは「帝王」の義の語として用ひられたものであらう。従って我が国の大山祇、海神「のツミ、天富命のトミ、天皇の御諱の中にある[金且]友のトモの同系の語であろう」と。
 白鳥博士は史学雑誌第十七編に「国語に於ける敬称語の原義に就いて」の中に「君kimiは神、上kami、首kubi、株kabu、又后kisaki、渠師ukasi、等と同根の語で、一種の敬称語から起こったもの、臣omi、忌寸imikiは身mi、本moto、幹miki、親mutu、愛mede、等と語源を同じうするもので、是も敬称語である。
 トミなる地名は大和国内に多い。生駒郡の鳥見、磯城郡の鳥見、吉野郡の鳥見などは富、跡見、外山、等彌の文字を使っている。
 長髄彦は饒速日命を奉じてゐた。長髄彦の本拠は生駒郡であったらしい。饒速日命は最初河内の哮峯に居られたが、後に山辺郡の鳥見(布留を中心とする地方)に移遷なされたことは石上神宮の祝詞に明瞭である。長髄彦(古事記には一名登美毘古)の女に登美屋姫といふのが居られて饒速日命と婚せられた。姓氏録によれば鳥見姓は饒速日命の裔にて長髄彦は其の外戚に当たるのである。鳥見とは饒速日命の居られた所であらねばならぬ。即ち山辺郡鳥見(布留地方國見山をも含む)は饒速日命の子宇麻志麻治命は物部氏の祖で、石上神宮の祭神である。

[431] 鳥見山傳称地私考(要旨)3  神奈備 2002/11/17(Sun) 21:14 [Reply]
(二)鳥見山の位置(地理的考察)
奈良県山辺郡丹波市町大字瀧本の小字丸尾といふ所に(「の」)霊畤伝説地に磐岩、磐座がある。これは頂上より少し下がった所にある。その頂上は矢倉王岳といひ、同村(「町」)大字岩屋谷領である。
最高峰(頂上)は海抜496.6mである。鳥見山(桃尾山トウビ)といひ山の中に小字大國見といふのがある。鳥見山は布留川と高瀬川との分水嶺をなす。南に桃尾の元官有地があり、北に高瀬山(高橋山ともいふ)地番弐百弐拾町歩がある。これは櫟本外拾三ヶ所の大字の共有地である。元禄十三年に上郷、下郷に分割、現在上郷は私有地、下郷は共有地である。
 この王岳(頂上)より東方に八ツ岩といふ所がある。伝説(古記録あり)によれば、天より一振るの劔が降った。そして大岩が八つに割れ飛んだといふ。その劔を出雲建雄神社(石上神宮境内摂社式内社)の縁起となっている。八つ岩の近くには天狗岩、クツカケ、イワシ(レ」か)谷、日の谷、登山せんとするには大道といふ地名のあるコースをとる。
 東方の少し下った所に水の涸れない小池がある。龍神を祀り旱魃を祈願す。俗に桃尾の奥の院といふ。南西林尾の中途に龍福寺蹟があり、義淵僧正と伝える。更に降って布留瀧がある。

[434] 鳥見山傳称地私考(要旨)4  神奈備 2002/11/18(Mon) 18:38 [Reply]
(三)鳥見の地名(歴史的考察)
 古代よりの口碑として、この山を鳥見山又国見山と伝え来りしが何時の世か桃尾山と称へられるやうになった。

鳥見山 石上神宮の「鎮魂祈祷祝詞」の中に
『天祖御祖の大語を稟給ひて、饒速日命天磐船に乗りて河内國河上哮峯に天降坐て大和國鳥見の山麓白庭の高庭に遷坐せて鎮齋給ひ石上大神と号け称奉る』
と明らかに鳥見山と記されている。

桃尾山(トミノヤマ) 石上神宮十種祓に
『・・・饒速日命は天磐船に乗りて河内國の河上哮峯に天降坐て大和國桃尾山(トミノヤマ)の麓白庭の高庭に遷坐して鎮い齋奉給 号て石上大神と申奉る・・・』

桃尾山(トビノヤマ)石上神宮十種祓に
『・・・大和国桃尾山(トビノヤマ)麓・・・』とある。原本は氏子石西氏所蔵

排尾の山(ヒキノヤマ)石上神宮十種大祓(布留倍之祓とも云ふ)に
『・・・大和国排尾の山の麓 ・・・』
これは桃を排と誤写したもので、草書にすれば酷似、排はおしひらく意味でヒキノヤマとなったものであろう。

虚見地(トミノチ)布留神社略記には
『以其祓詞布瑠部由良由良止故 布留神社奉申 本源是也。舊土地定給者 天照皇大神之御宇以前 虚星天降 虚草顕給所謂 虚者 富亦臣復民是長生草之事而今神殿之北有此地 虚見地云往昔 魁神虚長髄根彦云以此名也 虚白庭山麓地是也・・・
寛保二年神籬翁著 石上神宮蔵板』
と虚は當臣民の意であるとし、長髄彦がトミを称へたのはこれによるとしてある。
(Setoh:寛保二年は1742年。饒速日尊が虚空見日本國と称したが、これとの関連は。)

太宇部(トウビ)布留社記には
『梯村にあり 其處に小社坐す 桃尾の御前と云ふ 俗訛りて太宇部能語牟膳牟と云ふ。神名不詳』

桃尾山(トウビザン)大和名所図絵(寛政三年)には (注:寛政三年は1789年)
『桃尾山(トウビザン)龍福寺布留山の北にあり』  以下考察は省略します。

この章 まだつづきます。

[436] 鳥見山傳称地私考(要旨)5  神奈備 2002/11/19(Tue) 16:18 [Reply]
(三)鳥見の地名(歴史的考察)の続き
鳥見氏 鳥見山の中腹に龍福寺があった。その寺侍に鳥見氏がいた。その子孫は士族として現存しているが、これなどは桃尾が鳥見山といったから名付けられたのであらう。或いは姓氏録「鳥見姓は饒速日命の裔とあるから由緒孵化器家柄であらうと思われる。(後項参照)

桃尾氏 モモノヲ トビ よみ不明。

鳥見の山中 『日本書紀』には「乃立霊畤鳥見ノ山中」とあって、鳥見山の中とせず、鳥見の山中としてある。鳥見といふのは地名であるか又山名であるかは疑問である。何れにしても布留の石上神功を中心として周囲を繞る山嶽丘陵をすべて鳥見といったと思われる。(布留神社略記)
 その最高峰を鳥見山と考えられる。それが桃尾にある国見山に当たるのである。大和地方の俗語として「クンナカ」「サンチュ」の言葉がある。「クンナカ」は大和平野、即ち平地部を指し「サンチュ」は山間を指すのである。(中村元次郎著の『霊地鳥見山』参照)
 鳥見山はこの山中に含まれる。

小野(上小野榛原 下小野榛原)
 今の布留から瀧本へかけて布留川に沿える一帯が布留の小野である。一名布留小野ともいふ。かきつばた(布留瀧・桃尾山龍福寺跡辺に多い)で名高い。古歌にも(山辺郡誌。丹波市町概観。参照)
 「 石上 布留川小野の かきつばた 春の日かずは へだてきにけり 」
この布留から布留瀧までの間が小野としての地勢をなしその中に掛橋、針尾がある。上小野榛原とは今の上瀧本(カケハシ)をいひ、下小野榛原は今の下瀧本(坂、針尾)をいふのではなかろうか。
 『大和名所図会』(寛政三年)にも
「布留柄小野、石上ふるから小野も野の名なり 石上ふるの中道ともよめり 小野とは枯野といふにやらとけど同音也。布留の乾(かわき)たる野といふにや 顕注密勘拾三
  君が世に ふるから小野の 本柏 もとに帰るや 我身なるらん  慈鎮

榛原(上小野榛原 下小野榛原)
一、ハリハラとは山の中腹を開拓したといふ意味ではなかろうか。ハリは墾であり小墾田(ヲハリタ)、墾道(ハリミチ)等のハリの義と考えられる。即ち新開地のことであらうと。『神武天皇御東遷聖蹟考(勝井純著)』によれば、榛原は山復の、人の身体でいへば腹のような地形の場所を墾いた所と云ふべき義でハリは即ち小墾田、墾道等のハリの義だらうと想像されます。
二、又榛原が萩原であったと考え、萩の生茂った野原とも考えられる。木村正辞博士は萩と榛と同一なることを説かれている。
三、榛原は榛の木の原とも考えられる。
四、榛は針と同じと考えられる。(榛原古風土記)
 何れにしてもハリハラは時代によって誤られ訛られてゆくのはやもうえない。大字瀧本はもとの熊橋村桃尾村針尾村の三小村を後世合併したものである。大字瀧本なる地名は明治維新後、市町村制上、前記の三小村を合併したものである。要するに針尾村は上代の榛原でそれがは針尾と訛ったのであると想像されるのである。(『山辺郡誌』、『丹波市町概観』にも同意見の文あり )
 針尾村は今の瀧本の中間に位置すれど、上代は全部が針尾ではなかっただらうか。(『播磨国古風土記』には、榛、針、萩はハリと読み、皆等しい。)
○郷中鎮守神名記(文政十一年三月布留社)には
一。八王子 桃尾村  一、弁財天  針之尾村
など、江戸時代の村名に、桃尾村、針尾村、熊橋村 とある文献の引用があるが、略。

Setoh注:和名抄 山辺郡には 都介、星川、服部、長屋、石成、石上 石上布留が出てくる。
添下郡 鳥貝の項に 登見郷 があり、鳥見、登美、迹見池などが見える。平安貴族の気まぐれではないと思うが・・・。

[439] 鳥見山傳称地私考(要旨)6  神奈備 2002/11/20(Wed) 17:37 [Reply]

鳥見山傳称地私考 第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
一、神祇鎮祭の位置
 磐座・磐境は有史以前よりの信仰遺蹟で神社は多くこの磐城・磐境。磐座に起源するものが多い。これらは単なる山嶽崇拝・巨石崇拝に留まるものではない。神の霊代としての神祇の鎮祭地である。巨石は神霊の鎮ります霊代であった。即ち嶽や巨石は信仰の対象でなく神祇鎮祭の位置選定の必要条件は
(A)土地の高層であること。
(B)土地が或る川と他の川との合流点に、聳えていること
(C)四方の景色を一眺のもとに収め得られる土地
である。その一例として三輪山は長谷川と纏向川との合流点で山上から大和平野が一眺のもとに眺られ、三河の砥鹿神社奥宮本宮山も豊川と西南方の山脈を以て海岸に及ぶ土地で三河平野が眺望され、尾張二の宮大縣神社本宮山も大山川とその支流によって挟まれている。
 斯くの如く古代神社の位置は
(一)外に向かって闘争的に最も枢要なる地域であり
(二)には生活上に於いて
(三)には土地を統御するに於いて便利なる場所であったが後世に於いて生活地帯が高地から低地に移転し、仏教の伝来と共に神社方面に影響をして来た。以上は磐城・磐境の研究者遠山正雄氏の「皇學」宇佐見景堂氏の「磐城・磐境の研究」から得たものである。

 この見地から鳥見山も山容といひ四園の眺望といひ古代人の神霊地帯として神祇鎮祭の地と首肯されるものがある。磐境をもつ山の原則としての二筋の川が分水し然もそれが山の麓で合流することはこの山に於いてぴったり適合する。鳥見山は南と北に二河流れて南は布留河となり、北は高瀬川となって遂には大和川に注いでいる。山頂即ち磐境のある地点は豁然として眺望を恣に出来る。大和平野は一眺のもとに収められる。民間伝承として昔は神聖なる地域として地方人の接近することを許されず山頂は神の鎮祭地といはれ、山そのものが神の本体とさへ言はれている。
今尚 山は森厳なる神霊清浄の場所として地方人の尊び恐れられている。其の山林を伐採し嚴石を割出すならば必ず祟れて死ぬと伝えられ、又実際に負傷し病気に罹ったりした種々の事件が起こったのである。

[450] 鳥見山傳称地私考(要旨)7  神奈備 2002/11/26(Tue) 08:57 [Reply]
第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
二、磐境の構築
磐座は神奈備とも神籬ともいふ。磐境・磐城と共に神祇の鎮祭所の意味である。磐城は自然的であり磐境は巨石を人力によって構築されたものである。
 人工を加えた磐境の実例として大和の大神神社の神体山三輪山がある。同社の古伝に依ると三輪山に辺津磐境、中津磐境、奥津磐境といふ古代民族の神祭の跡が現存するのである。
 又出雲大社の後方の山の頂上に人工を加えた磐境の形蹟がある。
 又尾張国小牧山の頂の径五十間に環状態に三十二個の巨石が配列せられてゐて有史以前のストーンサークル(磐境)であると文学博士鳥居龍蔵氏は立証せられている。
 また自然的磐境の一例として三河の一の宮である砥鹿神社の奥宮本宮山の禁足地や尾張二の宮大件神社の奥宮、尾張富士の禁足地がある。
 巨石を以て神体又は霊代とする信仰即ち磐座の一例として伊勢神宮の摂社五十鈴川御手洗場の南側の宮は岩を中心として奉齋せられ神楽殿の東の左側の自然石又は御裏御門の西側の巨石も巨石崇拝でなく、神の霊代とされている。
 有史以前の民族の神祇崇拝の形式は殿舎を設けるやうなものでなく、磐座磐境であったことは神代史が実証している。
 磐境の形式として大なる磐境を中心としてその傍らに一箇の乃至数箇の小さい磐境が設けられてある。中心は天神で傍らのものは奉斎者の祖神であらう。その実例として大神神社と砥鹿神社が代表せられる。(以上遠山氏の研究発表を参考とした。)
ー続くー

[453] 鳥見山傳称地私考(要旨)8  神奈備 2002/11/27(Wed) 21:02 [Reply]
第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
二、磐境の構築
ー続きー
 今鳥見山の磐境をみるに以上の条件に全て適合してゐるのである。この磐境は古代の儘の完全なものではない。所有者福井氏の手記にある如く「山の七合目辺から奇岩巨石が重なり合ってゐて石の間から木が殊更に生えてゐる観がありましたが、今から十二・三年前に石工との間に採取契約を結び三年間石を採取いたしまして、為に西側は表面に出て居た巨石の大部分を取り去られ、山の形を非常に損じたことを今は残念に思って居ります。」今は残念ながら不完全なる環状の磐境しか見られない。

 頂上二十平方米は砂地にて樹木もなく神聖の地域とされ不浄物を置くと祟られるとさへ伝えられ、稍西方即ち正面と思はれる所に中心石(根廻り十尺高さ二尺八寸)があってそれから十四尺離れて東南から東北へ環状に六個の巨石が弧を描いてその石と石との間隔が二尺五寸乃至三尺位となってゐる。

 中心石より南西部に又高き地上二尺八寸の巨石、それが環状の一石であり又それを一つの中心石として今「御山大神」と刻まれてゐる。南西に三個北西に三個合計六個の巨石を以て環状となし小磐境を形成している。その中心と環状との半径が三尺許である。又その前(西)にも一段下がって一個の磐境がある。この形式は前述の如く大なる磐境を中心としてその傍らに数個よりなる磐境があり上代信仰の遺蹟に相違ないと思はれる。

 頂上より少し下がれば横五尺乃至十尺の、縦五尺乃至十数尺の巨石が大磐境をなし、むしろ磐城かも知れない。何れも自然石を縦に起こし根石を入れ少々人工的に立て並べてあることが推察出来る。

[464] Re[463]: 所造天下大神  神奈備 2002/12/01(Sun) 21:38 [Reply]

鳥見山傳称地私考(要旨)9

第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
三、磐境と鳥見霊畤
 大規模な磐境構築は神社祭神関係から見ると出雲氏族と離れることの出来ないものであると言はれ、大神神社は出雲氏族の大和地方に於ける総社であったと思はれる。しかし磐境・磐城は出雲民族の独創になる神祇祭の形式ではなく、同様の方法は『日本書紀』の天孫降臨の條に「高皇産尊、因に勅して曰く、吾は即ち天津神籬及び天津磐境を起こし樹て、吾孫のために齋ひ奉らん、汝天兒屋根命・太玉命宜しく天津神籬を持ちて葦原中国に降り亦吾孫のために齋ひ奉れる、及ち二神を使はして天忍穂耳尊に陪従へて降らしむ。」とあって、神籬と磐境は神鎮祭の唯一無二のもので天孫・出雲民族が葦原中津国を修理固成するに当たり神祇鎮祭の形式であったと推察申し上げるのである。
 饒速日命(天火明命)の子孫が内つ物部として皇居を守護せしめられ、この神又はこの神裔を祭った社が延喜神名帳に全国四十一ヶ国に亘り、神武天皇が大和御平定に用ひ給うたと伝へられる布津御魂の神劔を宮中から石上神宮に移され給うた事は単に霊劔を移されたと解すべきではなく、鳥見霊畤の地と饒速日命の本拠地へ帰られたまうたと見るべきであり、これは饒速日命の後裔に当たる物部氏一族が石上神宮に奉仕せし事実から推論出来るのである。

[474] 鳥見山傳称地私考(要旨)10  神奈備 2002/12/07(Sat) 13:46 [Reply]
第四章  民俗学よりの考察
 土地所有者の手記を掲ぐ。
『鳥見霊畤伝承地ノ国見山(頂上を矢倉王岳トイフ)ハ布留川ト高瀬川ノ分水嶺ヲナシテ南ハ桃之尾(元ト官有地)北ハ高橋山(地積貮百貮拾町歩)櫟本外拾参ヶ大字ノ共有地ナレリモ元禄拾三年二、上郷ト下郷トニ分割シ現在ハ下郷ハ共有山(上郷ハ私有地)デアッテ東ニ八ツ岩ト云フ王岳ヨリ少シ高嶺ガアリマス。是ハ古シヘ天カラ一振ガ布留川ヘ流レテイッタノヲ折柄洗濯ヲシテヲッタ布ニ留マッタ為ニ布留川ト云フ。其ノ劔ヲ石上神宮ニ御祭リシテアルノダト言ヒ伝ヘテイマス。

 国見山ノ近クニ天狗岩、クツカケ、イワシ谷、マスガ谷、等ガアッテ、イワシ谷ニハ石ニイワシヲ彫リ付ケテアリマスガ谷ニハ枡ノ形ヲ石ニ彫リ付ケテアリマス。又北ノ方カラ国見山ヘ登ル所ニ大道ト云フ所ガアリマス。古来王岳ヘ 神武天皇様ニ由緒ガアッテ神聖ナル森厳ナル場所トシテ地方人ヨリ尊ビ恐レラレテイマシタ。
 其ノ山ヲ伐採スレバ必ズ祟リガアルト云フ伝ヘラレテイテ又実際ニ負傷シタリ病気ニナッタリ其ノ外色々ナ事ガモチアガッタ事ガ多イノデス。山ノ七合目辺リカラ奇岩大岩ガ重ナリ合ッテイテ石ノ間カラ木ガ殊更ニ生エテイル観ガアリマシタガ、今カラ十二三年前ニ或ル石工トノ間ニ石ノ採掘契約ヲ結ビマシテ三年間程石ヲ採掘イタシマシタ為ニ西側ハ表面ニ出テ居タ巨石ノ大部分ガ取リ去ラレ山ノ形ヲ非常ニ損ジタ事ハ残念ニ思ッテ居マス。又大岩ヲ採掘シカケテ貮年目位ニ私ノ父ガ発病シテ亡クナリマシタ。是ハ偶然ソウナッタダト思ヒマセズ一般ノ人人々ハアノ山ノ石ヲ採取サシタ為ニ死ンダノダ、外ニ石工モ種々事件ガアッテ中止シマシタ。
 又古クカラ桃尾ノ奥院ダト云ッテ今モ龍神ヲ祭ッテアル場所ガ□ノ方少シ下ッタ所ニ小サイ池ガアッテ旱天ノ為農作物ニ被害ヲ蒙ル様ナ場合ニ祈願スレバ雨ガ振ルト云ヒ伝ヘテ居マス。又其ノ池ヨハ高イ所ニアルニ不拘水ガ絶ヘタ事ガアリマセン。』

 福井氏の手記中にある鳥見山の一部高橋山(高瀬山ともいふ)は俗に タコセ といふ。高瀬の訛である。上郷と下郷とに分かれ上郷は米谷(マイタニ)、堂ヶ谷の所有で、下郷は別所、田部、小田中、指柳(サシヤナギ)、新庄、横田、櫟枝、櫟本、全(ママ)部等の所有である。もし全区域は薪刈場であったが今は分割して各村々各個人に所有し年貢を払ひ村へ配り当てゐる。高瀬川の流域の村々であるが水利関係ではない。別所、田部などはこの川の流域よりも布留川の流域である。領主関係でもない。例へば別所が藤堂藩、櫟本が東大寺領である。然からば何に関係するかといへば全く一の信仰関係によるものと謂わねばならない。この山を分水嶺とする流域の村々は信仰上から毎年の薪刈は一は神聖なる山の掃除と見なければならない。この山の背の端が国見山であり鳥見の山である。

[511] 鳥見山傳称地私考(要旨)11  神奈備 2002/12/10(Tue) 09:13 [Reply]
第五章  十二所権現と鳥見氏の存在
【鎮守十二所権現】 (龍福寺との関係)
 和州山辺郡桃尾山絵図に依れば桃尾山龍福寺本堂(義淵又は行基の開基)より東北に当たる所に鎮座せるものの如く絵図の文に曰く「鎮守十二所権現表行二間奥行丈間拝殿梁行二間桁行五間」とある。熊野十二所権現といひ天神七代、地神五代の鎮守といひ伝える。天神七代とは国常立神・(略)・・伊邪那岐神・伊邪那美神の神代七代、即ち神聖経綸の業比に基き国土既に成り神人成生す。地神五代とは天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津日高日子火能瓊々杵命、天津日高火々出見命、日子ナギサ武鵜茅草葺不合命。
 天神地神を鳥見山山頂に祀れるを後世少し下の今の地に移し龍福寺の鎮守の社としたものと考察される。口碑に依れば山頂より順々に神殿十二所建ち並びありたりといふ。何故に龍福寺が特に天神地祇を十二神祀れるか、それは鳥見霊畤伝承の故を以て特に寺域の最高處に拝殿まで設けて建てられしものと考えられる。

【鳥見氏の存在】(大字瀧本(元の熊橋(カケハシ)、今の滝本)百九十四番地の一に士族鳥見衛
 明治二十八年十月十八日生)がゐる。父は奈良作(明治五年七月二十四日生、大正十一年九月二十八日死亡)といひ、祖父を秀夫といふ。この鳥見秀夫は龍福寺の寺侍であった。鳥見山に住居する意味に於いてか鳥見氏と称す。鳥見秀夫ー奈良作ー衛(長男)
 現在この大字では士族はこの一軒のみである。考ふるに鳥見氏は現在古記録散逸してゐるが舊家らしい。姓氏録に依れば鳥見姓は饒速日命の裔とある。饒速日命は石上神宮に関係あり、又山辺郡誌に依れば桃尾山は山姓鳥見なれば鳥見と称するとある。

[582] 鳥見山傳称地私考(要旨)12  神奈備 2002/12/29(Sun) 18:13 [Reply]
第六章 石上神宮との関係

一、由緒 丹波市町大字布留に鎮座する石上神宮は明示四年五月官幣大社に列せられた。御祭神は布都御魂大神、配祀として布留御魂大神、布都斯魂大神、五十瓊敷命、宇摩志麻治命、白河天皇、市川臣の六柱である。由緒の概要は神武天皇御東遷の際、紀伊国熊野において皇軍難に遭ひ給うた。此時天照大神の大詔によって武甕槌神のもたらせる神劔「フ[音師]霊」を授けて大捷し給うた。即ちこのフツノミタマを奉斎して我が建国の巧神武天皇の守護神である。饒速日命は十種瑞宝(瀛津鏡、辺津鏡、八握劔、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼の十種 病気平癒、健康長寿の守護神である)を天照大神に授り給うて天磐船に乗り河内哮峯に降り大和の鳥見の白庭山に遷り長髄彦の妹を娶り宇麻志麻治命を生み給ふ。饒速日命は天皇に帰順し十種瑞宝を献上し、崇神天皇五年伊香色雄命は勅によって十種瑞宝とフツノミタマ劔を石上邑布留高庭に祀らる。これ布留大社である。もと神殿なく禁足地に霊劔を封埋せられていたが明示七年教部省に請い発掘し神劔フツノミタマを得て神体とされた。
 石上神宮が何故この地に建てられしか、それは鳥見霊畤伝承地との関係によるものと推察するのである。
二、『饒速日命は天孫瓊々杵尊の皇兄たる火明命の一名で天孫の日向降臨の後にも尚ほ大和に留まり其の御子に天香久山命がおり、天香久山命の裔に尾張連があって並に大和に居られたのであるが、長髄彦の奉ずる所の饒速日命が天孫の皇兄たる火明命は年代に相違があるから恐らく火明命の数世の孫たる同名の饒速日命でなければならない。若し或いは火明命であるならば非常たる長寿の方であったと申さねばならぬ。何れにしても皇統の金枝玉葉たるは勿論であるが此の饒速日命は長髄彦の妹たる三炊媛一名に鳥見屋媛また一名長髄媛を娶り給ひて可美真手命を生まれたのであるから爾来長髄彦は外戚の権を専たして威を大和に振ひ其の居を生駒山の東麓に占めて勢頗る強盛であった。』(日本民族論:中村徳五郎著)
 旧事記に云ふ「饒速日尊従河内川上上哮峯、遷座於大和国鳥見白庭山、住娶長髄彦妹」
 布留神社記「神武天皇時、饒速日命之孫宇麻志間兒命殺外舅長髄彦而帰服、天皇美其大勲賜神劔号豊布津?劔在大和石上」
三、摂社出雲建雄神社の由緒は鳥見山の一部たる八ツ岩、日の谷の伝説にその起源を発していることは石上神宮の古文書に明らかである。

[585] 鳥見山傳称地私考(要旨)13 最終  神奈備 2002/12/30(Mon) 12:13 [Reply]

第七章 結論

一、要するに石上神宮の鎮魂祈祷祝詞に「鳥見山」とあり、同十種祓詞にも「桃尾山」と記しトミノヤマと仮名付けし大和名所図絵にも「桃尾山:トウビサン」となし布留神社略記(寛保二年)には「虚見ノ地:トミノチ」とあり、更に布留社記に「桃尾の御前社」と記し、「太宇部能語牟膳牟」と読むとなし、これは鳥見山の麓なれば「鳥見の広前」といふ意味であり、この村を熊橋(カケハシ)村といひ、梯村とも書き鳥見山に登るキザハシの村といふ意味に思はれる。山腹にあった龍福寺の寺伝に鳥見氏(現在士族)のあったこと「布留小野」といふ小名があり古歌(拾玉集)が残っていることが大和名所図絵(寛政三年)に記されていること等により今の布留から瀧本の辺を指していること、針尾村は榛原の訛であること、榛(ハリ)は萩(ハリ)に同じ(木村博士の説による)萩が針と書くこと(播磨古風土記)、磐境の現存すること、磐境は古代の神祇鎮祭の形式であること、土俗方面から見てもこの山が神聖視されて来たこと、伝説から考えてもこの山一帯は石上神宮に深い関係のあること(八ツ岩と出雲建雄神社)、石上神宮は饒速日命に関係あること(祝詞)、饒速日命は姓氏録によりその裔は鳥見姓なること、石上神宮の禁足地は霊畤の形式をそなえていたこと(石上神宮旧記)義淵、行基の開基といふ龍福寺に十二所権現社あり、天神七代地神五代を祀ってあったこと。

二、鳥見山の口碑は古くからあったこと、この研究を系統的にはじめたのは明治中期からで越智敏?、西川純一、堀川慶造氏等でその結果は山辺郡教育委員会編纂の山辺郡誌に記され、その後「東洋考古」「丹波市町概要」に発表されたこと、郡誌の一節を掲げてこの章の文を結ぶ。

『因に鳥見山は即ち此処なりと云ふ説あり 其の説に曰く 桃尾は鳥見の訛にして針尾は榛原の転化なり 而して桃尾山の鎮守は十二所権現即ち天神七代地神五代を祭り 鎮守の鳥とて鳥は一の名物なるのみならず桃尾山姓は鳥見氏なればなり 如何にや鳥見氏今に存す』
   ー 完 ー

谷川健一『青銅の神の足跡』 小学館ライブラリー の248ページ に鳥見山傳称地私考を記した乾健治氏は谷川健一氏に八ツ岩の件の話をされた内容が記載されています。


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