神奈備掲示板の平成12年10月ログ

ログ


更新 H12/10.30


福島雅彦 福島さんのHP  H12.10.29
これらの共通地名に、最重要地名が欠落しています。
明日香=飛鳥⇒夜明け(高天原の東=大分県日田市)。
十津川村⇒津江村(上・中・前津江村=高天原に近い方が『下』とは、畏れ多かった?)十津川村の『十』は“또”(tto)⇒(ddo=辞書形)で『又』の意。
即ち、九州からの移転地名を表している。この配置方位も、概ね合致する。
以上、福島雅彦(独創)説に就き、無断転載禁。喧伝は大いにして下さい。

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.28
>  地名ごと移転の話で典型的な例ですね。
> 九州に土地勘かないので、此処の地名のある市・町などがあれば面白いですね。地図で確認しようとしたのですが、
http://www.ne.jp/asahi/sasatuushin/tkd/chikushi-3/chikushi.htm
ここに概略の位置関係が記されています。

 せとう  h12.10.28
 地名ごと移転の話で典型的な例ですね。
九州に土地勘かないので、此処の地名のある市・町などがあれば面白いですね。地図で確認しようとしたのですが、到底探しえなかった地名があります。例えば雲提(ウナデ)などなど。人とともに移動したとすれば氏神も来ているのでしょうが、その痕跡でもあれば面白いですね。
三輪町の大己貴神社が「高天の原に氷椽高して居れ」の福島さんの御指摘の場所に近いですね。
なお、大和の織田は戦国時代につけられた地名との話を聞いたことがあります。

akuma HP 今朝の夢物語 H12.10.28
以下、お遊び(^^ゞ
九州甘木市夜須の地名。順番に…
香山(もとカグ山という)→三瀦(ミズマ)→久留米→朝倉→加美→長谷川→筑前高田→雲提(ウナデ)→三輪→小田→三井→池田→平群(ヘグリ)→野方(ノカタ)→草ヶ江→住吉神社→御笠山→春日→笠置山→田原→山田→上山田→鳥屋山→玖須(クス)→天瀬(アマガセ)→鷹鳥山→香山に戻る。
以上、一度も交差せずにこれれ地名がる。

他方、畿内・大和の地名。
香久山→水間(ミズマ)→久米→朝倉→賀美→長谷山→大和高田→雲梯(ウナデ)→三輪→織田→三井→池田→平群(ヘグリ)→額田(ヌカタ)→日下→住吉神社→三笠山→春日→笠置→田原→山田→上山田→鳥見山→国樔(クズ)→天ヶ瀬(アマガセ)→高取山→香久山に戻る。
大和の場合、額田、日下が交差するが、笠置→春日の順序にすれば交差しない。さて、これら一帯に臨むのが北九州では那の津、畿内では難波津。

以上はプロローグ。
夜須はYASU。八洲もYASUである。
したがって、夜須=八洲。八洲はのちYASIMAと読まれるようになり、原義が忘れられた。

ところでYASUは八十(YASO)とU⇔Oと母音交替が可能である。夜須、八洲の支配者は当然
YASUのドンと呼ばれる。ドン、すなわち「タケル」である。
つまりこの場合は八十タケル。八十猛、八十建。んで、これは夜須猛、八洲猛でもある。

さて、YASOは本来、YAunSIU[YAは訓、unは助詞(の、の住む)SIUは須の上古音]であったであろう。
なお子音YはWと、SはTと交替し得る。つまりYAunSIUはWAunSIUであった可能性がある。また、YAunTIUと変化した。

WA、すなわち「倭」★。WAunSIUは、倭の(住む)SIU。
これが後、YAunSIUとなり、さらにYAunTIUとなった。YAunTIUはYAumTOとなりヤマトとなる。

一方、この調子で行くと(^^ゞ 五十猛については、五(I)も訓、十(SO)も訓ゆえ、十はTOとも訓じうる。
つまり、五十猛はITOのドンである。伊都国のドン。ここで目覚める(^^ゞ


福島雅彦 福島さんのHP  素盞嗚尊の偏執 H12.10.28
 『高天原』は「たかッあまンばる」と、九州弁で読む。 
支配勢力の栄枯盛衰に拠って、地名も移転する可能性を持っていると思います。
北部九州に、其の候補地が二箇所在ります。
其の壹=福岡県浮羽郡≪“욱-일벌”(u-kil-beol)=旭日原の意≫に、「…原」の地名が、狭い山間(やまあい)に百近く犇いています。『集(たか)ッ天(あま)ン(の)原(ばる)』です。高低の高いの文字は当て字です。
其の弐=福岡県田川(たかわ)市≪元・鷹羽(たかは)=TAKAWA≫です。田川(たがわ)と、濁点は近年の発音。県立田川高校の校旗には、上記ローマ字がある。
≪鷹羽⇒集(たか)ッ ばル ≫の語尾子音欠落発音の当て字であろう。
天⇒東の端の意(浮羽は水縄連山の東端)で、田川は「天」が取れたかと。

焼尻紋次郎 気高き人の群  甦った伊太祁曾神 H12.10.27
甦った伊太祁曾神 ……… 1
神社に限らず、古代人が遺した名前の意味はわからないことばかりです。
伊太祁曾神社は和歌山市の東のほうに坐す(います)古い神社で、主祭神は五十猛命です。
ホームページ『かむなび』主催者の瀬藤禎祥氏は、この神社と神につけられている名前の意味を知ろうと解読に永いあいだ情熱を傾注してきました。
ところが、このほどそれがわかったのでした。
瀬藤禎祥さんへとE メール交信が始まったのは、パソコンを入れた年でしたので、もう3年前のことです。小生は極めつきのキカイ・オンチで、パソコンは入院ばかりしていましたので、瀬藤さんが伊太祁曾神社への執心がにことのほかつよいことを知ったのは一昨年の暮ごろでしたか。
その前に、小生は瀬藤禎祥さんの奥行きの深さに感心しました。また、処理があざやか・さわやかでズバ抜けていることにど胆を抜かれました。
あとで瀬藤禎祥さんは大阪屈指の名物おとこだと知って、“まさにさもありなん”と、自分の鑑識眼にも自信が持てたことでした。
ところが、そればかりではなかったのです。
そのころ、小生はネパール文化が日本文化の底流になっていることを突き止めていました。そこで、なにかお役に立てないかと、或いは神社関係で新しい発見はないかと、伊太祁曾神の周辺についてあれやこれ質問を始めたのでしたが、その回答の早いこと、しかも予定したボリュームの10倍ぐらいの資料が即座に折り返し届けられるのでした。小生はびっくりして瀬藤禎祥先生と呼び、資料の神様の称号を捧げました。ところが、いつのまにかそれが崩れて、少年時代の呼び名「サラヨッチャン」をもじって、今ではサラセッセ……なんです。
瀬藤禎祥さんは初心者の指導をするなどパソコンの技術にも秀でていますが、整理整頓の正確さと資料摘出の鑑識はまさにズバ抜けの神わざなんです。
 小生はネパール語の辞書と神さまなどの名前が示すとおりを導かれながら歩いて今回の解読に至ったのです。今回の解読がもしホンモノ・本筋を衝いているなら、それはサラセッセの卓越した包容力と処理能力の賜です。

 NO.2 以降は『紋次郎ほっつきある記』(かむなびホームページ左下からはいる)となります。(ヨゴレはユカの下へもぐり込むことにしやす。ここんとこ、ちょと喧しゅうござんした。アマカネ)


山浜 呼塚のいわれについて H12.10.26
焼尻紋次郎様 はじめまして 山浜と申します。
千葉に住んでいるので、「呼塚」のいわれについて調べてみました。
柏市役所に問い合わせたところ「放牧された野馬を呼んだところであるということから」(柏市の昔話)という説と「亡者が人を呼ぶところであったことから」(我孫子の史跡ハンドブック?)という説があるようです。塚という響きからは何となく後者のような気がしております。亡者は車も呼んでいるのでしょうか? あまりご参考にならないと思われますので、読み捨てください。では

焼尻紋次郎 気高き人の群  伊太祁曾神は峠で微笑んだ H12.10.26
みなの衆、おめでとさんにござんす。サラセッセにはことのほか慶賀もうしあげやす。
 伊太祁曾神の内意が五十猛神樣といっしょに解明できやした。
詳しくは、『かむなび神社』のユカの下で、御説明もうしあげやす。
 峠……ネパール語で takura ち言いやす。ta = 神 kura =日本語でも「座」
                      アマカネ

 せとう  素盞嗚尊の偏執 h12.10.26
素盞嗚尊と五十猛命のソシモリ降臨の話が日本書紀の一書(第五)にあります。素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。
これは五十猛命が大八島の国を統治する前提での話に読めます。

もうひとつ、大国主が須勢理姫をともなって根の国から脱出します。この時に素盞嗚尊が大国主命に祝福を授けます。その中に「高天の原に氷椽高して居れ」との言葉が入っています。
この二つの伝承は一体何を物語っているのでしょうか?
大国主に言った「高天の原」と天照大神の座す「高天の原」とは同じなんでしょうか、違うんでしょうか?。
モンモンと考えていると尻が焼けそうで・・・。


 せとう  h12.10.26
伯瀬に式内の長谷山口神社が鎮座しています。ここの赤い橋を渡った所に碑が建っていまして、倭姫(豊鋤入姫だったかも?)云々のあったような気がします。潔斎をする所だったそうですね。長谷は三輪山の背後に当たり、葬送の地にもなったようで、聖地との境界と言う事でしょうね。
NHKが大金を使って、由緒ある場所でもない何もない所を調査したと批判のあった番組ですね。淡路の伊勢久留麻神社は参拝客が増えたそうですね。
再建途中の飛鳥坐神社に参詣しましたが、本殿はそんなに古い物との印象は残っていません。上社のも比較的新しいものだったのでしょうか。
天目一箇命や軻遇突智命を祖神とする意味ですが、その氏族の機能に金属製錬や鍛冶的なものをもっている場合、遠祖に組み入れる事があったのではないでしょうか。忌部氏は宮大工ですから、道具類を自作していたのだろうと思っています

 鬼平 埋れ木  訂正 H12.10.26
×もっとも樺太方言では、ドイツ語のmach(マハとなります。
○もっとも樺太方言では、ドイツ語のように、mach(マハ)と発音されます。

鬼平 埋れ木  Re: 影を慕いてほっつきある記 H12.10.26
>ギリヤ−ク語やウイルタ語、ツングース諸語のほうが、日本語成立などの問題にはより効果的だったことを、思い知らされます。
どういう資料によりそう思われますか?
これらと日本語との間の比較言語論、もしくは基礎語彙の比較は、大してなされていないのが現状ですので、日本語成立との係わり合いはほとんど不明ですけれど…。

> ☆ アイヌ語は日本語と非常に近い音韻(発音クセ)をもっています。ちがうところは tsu のかわりに 英語式の tu があ  って、母音の u が日本語よりも少しだけ o に近く発音されるところだけ、だと言って良いでしょう。
アイヌ語のuがoに聞こえるのは、東北人の発するuが平唇音のため、彼らがアイヌ語のuを聞くと、oに聞こえますが、関東人が聞けばuそのままに聞き取れます。
たとえば東北人はAINUをAINOと聴きがちですが、それ以外の地域ではAINUと聴き取れます。
また、tsuのかわりにtuがあるということはありません。済みません、反論ばかりして。合意点を探ってはいるのですが(^^ゞ
アイヌ語では、ch=dz=j=tsです。区別がありません。
アイヌ語は子音で終わる単語が多く、その点、日本語と異なります。
女を意味するmatは、maと発声後、舌端を上顎に当てて塞ぐため、「マ」としか聴き取れません。もっとも樺太方言では、ドイツ語のmach(マハとなります。

>アイヌ語が学問の俎上にのっけられるようになったのは、いまから100年前外国人の手によってからです。
まったくおっしゃるとおりです(^^ゞ

>カナダの西海岸ちかくには白人から絶滅をまぬがれた10内外の氏族がいます。この人々の言語をゴリラに例えると、日本語と英語はチンパンジーとヒトぐらいに、よく似ているのです。
各インディアンの各言語と日本語を比較されたことがあるのですか?
日本語と英語の単語で似ているものがあるとすれば、サンスクリット語の一部が、印欧語族のほかに膠着語族にも洩れ入ったわづかな単語のみです。
よく似ているのなら、英語の勉強で苦労する人はいないでしょうね(^^ゞ

> ☆ ほかのすべての国語でもそうですが、大昔から今の日本語、いまのアイヌ語が一つのまとまりとして存続してきた……などという考えかたは、崩して考えるべきです。
そのとおりです(^^ゞ


山本 祐佳 忌部氏と日前宮 H12.10.25
>忌部氏…紀伊名所図絵(歴史図書社刊)に忌部里神社(和歌山市井辺村)にいろいろ由来がでていますね。今もこの神社があるかどうかはさだかではありませんが、井辺は日前宮に近いです。
21日に那賀郡桃山町から岩出町を抜け、県道岩出海南線を通り井ノ口から南下して伊太祁曽神社の鳥居前を終点に散策してきました。地名の由来と歴史、位置感覚の確認ができました。日前宮、特に国懸宮の由来と末社が不思議。天目一箇命(筑紫伊勢の忌部氏の祖)が祀られているのだもの。案外わたしの知りたい事は日前宮に隠されているのかもしれません。

玄松子 玄松子の記憶 Re[129]: 奈良・吉野をかけめぐり 4 H12.10.25
> 丹生川上神社上社は1998年3月に移転したため、きれいすぎて。
> 宮司さんはお留守とのことで社務所にいらした宮司の奥様に
ここの宮司は福岡の出身だそうです。数年前に移築の話があり、「お前行って来い」と上からの命令で来たということで、苦労されたそうです。そんな話を聞いた後で、「きれいすぎる拝殿」を見ていたら、その綺麗さ、「よくぞ」と感動します。

A.I. 与喜天神社について H12.10.25
せとうさん。与喜天神社で思い出しました。というか桧原神社の近くの池の堤防で三輪山と箸墓を眺めて、山辺の道で二上山の夕日を見ていて思い出したの。せとうさんなら覚えているのではないかしら。20年前にNHKで「謎の北緯34度32分を行く−知られざる古代」という番組があったでしょう。その後同名の本も出て、私はテレビを見て本を読んで興奮して自分の部屋の壁に地図を貼って線を引いて、毎日眺めていたものです。 本を引っ張りだして、今改めて読んでいますが、長谷寺で毎朝の勤行がはじまると全員の僧侶が本堂前の舞台に出て「与喜山礼」というのをするとか。与喜山はアマテラス大神の神体山だという。僧侶が柏手を打って山を拝むとか。与喜天神社の下の鳥居の前は上伊勢道です。豊鋤入姫ゆかりの神社として、今回私はお参りしましたが、ウーン???

A.I.  H12.10.25
玄松子さんのHP、ときどき拝見してます。10日ほど前に伊勢神宮の参道の石の灯篭のカゴメ模様のことが話題になっていましたね。それについて講談社カルチャーブック「伊勢神宮」に矢野憲一という方(1992年発刊の頃伊勢神宮禰宜であられた)が書いていますので引用します。 参道の両側の石灯篭にダビデの星のようなマークが刻まれている。これがイスラエルのシンボルマークに似るのでユダヤと皇祖神につながるとの珍説ができ、しばしば問い合わせがある。まったく関係はない。実は天皇陛下の御成婚記念ということで昭和33年頃、全国から献灯を募った石屋さんが外宮・内宮と志摩の伊雑宮を結ぶ道に「伊勢三宮奉賛献灯会」を発足させ、三宮を象徴して日と月と星を組み合わせた印を作ったところ、偶然にもダビデの星と似たまで。だから神宮は全く関知しないのだが、古代史や宗教研究家が、いかにも古くから存在したように書物に記したので、疑惑の目を向ける人がたえない。このままでは後世に迷信の種をまくからあえて記しておく。 とのことです。
もう一つ。奈良飛鳥の飛鳥坐神社のご社殿は2年前の台風7号で吹き飛ばされてしまったとか。そういえばその半年前にお参りした時には、ボロボロだったなあ。それで再建という事になったとき、ちょうど丹生川上神社上社がダム建設のために移転、ご社殿は新築されることになっていたため、古いご社殿を飛鳥坐神社の本殿として移築したとか・・・ この話、噂として聞きました。確認していません。どなたかこの事が本当かどうか知っている方はいませんか?

玄松子 玄松子の記憶 Re: 比売許曾神社関係のHP教えて H12.10.25
> 大阪のサブローといいます。比売許曾神社について調べています。
> どなたか良さそうなHPおしえてください。
このサイト内は、ごらんになられましたか?

さぶろー 比売許曾神社関係のHP教えて H12.10.25
大阪のサブローといいます。比売許曾神社について調べています。
どなたか良さそうなHPおしえてください。

A.I. 奈良・吉野をかけめぐり 3 H12.10.25
シリーズ化するのか・・・とのおびえた声なき声がきこえるわ。無理矢理付き合ってください。10月16日は朝から抜けるような青空。近鉄吉野線下市口からタクシーで丹生川上神社下社へ。バスで行くつもりで時刻表も調べてあったけど、横着してタクシーに乗ってしまった。下市口を出てすぐに洞川、天川という標識があって「天川にもいきたいのよね」と心でつぶやいて。くねくね山道を約20分で下社に着きました。ここも前日お祭りだったらしく色とりどりの旗がひらめいていて、社務所前には傘がたくさん干してありました。 本殿は崖の上らしく、覗いたらずっと上まで階段があって、許されるものなら登ってみたかった。どんなかは玄松子さんのHPに写真があります。社務所には優しそうな、たぶん宮司の奥様らしい初老のご婦人がいらして「顔につけるときれいになるわよ」とご神水の化粧水をいただきました。また下市口にもどって上市に行きました。上市では事前に頼んでおいた、タクシーで丹生川上神社上社をめざしましたが、途中大名持神社と浄見原神社に寄ってもらいました。大名持神社は吉野川に面し、妹山を背にした名神大社です。川の対岸の小さな山は背山。タクシーの運転手さんが「歌舞伎の舞台になったところ」と説明してくれて「妹背山女庭訓」吉野川の段の悲恋の舞台だわ、と気が付いた。バカだね。歌舞伎だってボーっと見てちゃダメですよね。宮滝に寄ったけど、アラァーこんな所かァとちょっとがっかり。もっと神秘的な所だと思ってた。浄見原神社は国栖奏で有名な神社だからそこそこ大きい神社だと思っていたけど、小さなお社です。崖の上にあって下は吉野川がほとんど直角に曲がって淵になっている絶景の場所です。国栖奏は寒い時期にここで奉納されるとのこと、20人も集まれない位のせまい場所なの。押されて落ちたら大変だわ。どなたか国栖奏ってどんなものかビデオか録音を聞かせてくれる方はいませんか。
神社のそばに咲いていた都忘れの花を吉野川に投げました。この川は和歌山の紀の川になるのよね。せとうさんの住む紀の国に花は流れて行ったかしら。文学少女風に・・・
丹生川上神社上社は1998年3月に移転したため、きれいすぎて。でもまわりの景色はすばらしいものです。真新しいご社殿は桧の香りがして、思わず拝殿の中に入ってクンクンしてしまいました。ここでご朱印をいただいたら、私の二十二社めぐりが終わって一段落するので、きっと一人ではしゃいでいたんでしょうね。宮司さんはお留守とのことで社務所にいらした宮司の奥様に「ここにお参りできて嬉しい」と口走ってしまいました。そしたら奥様はちょっと恐い目でじっと私を見詰めるから、何か失礼なことをしてしまったのかと不安になりました。奥様は「ちょっと待っててね」とおっしゃって拝殿の中に入っていらっしゃいました。???と見ていると、ご神前に拝礼して何かしているの。戻ってきて私の手に小さな白い紙袋に入れたものを載せてくたさいました。「旧社殿のお白石よ。あげましょう」とおっしゃって。「宮司が持ってきてずっとお魂入れしていた石です」と言われて私は慌ててしまいました。そんな貴重で神聖なものはとてもいただけないと申し上げたのですが「いいのよ。あなたなら大切にしてくれるでしょ」と。それで不覚にも涙がボロボロ出てきました。奥様は「ここでお参りの人を見ていると大体どんな人かわかるのよ。あなたは無心でいたでしょう」と。嬉しかった・・・ただ楽しいから神社巡りをしているだけですと言ったら「それでいいのよ」って。前にも出雲大社の神職さんに同じようなことを言われたことがあります。無心で楽しんで、それでいいのね。嬉しくて泣きながら上社を後にしました。感激でした。いただいたお白石は私の宝物です。

焼尻紋次郎 気高き人の群 影を慕いてほっつきある記  H12.10.25
オレもシロートですが、調べあげたところをウソ包みなく申し上げます。

☆ アイヌは和人と陸続きみたいな北海道にいたので、しかも北海道の全域を席巻したように殆ど単一(?)言語でしたので、日本では明治このかたアイヌ語の研究が流行りました。しかし、いまになって考えると、ギリヤ−ク語やウイルタ語、ツングース諸語のほうが、日本語成立などの問題にはより効果的だったことを、思い知らされます。

☆ アイヌ語は日本語と非常に近い音韻(発音クセ)をもっています。ちがうところは tsu のかわりに 英語式の tu があって、母音の u が日本語よりも少しだけ o に近く発音されるところだけ、だと言って良いでしょう。
  アイヌ語が学問の俎上にのっけられるようになったのは、いまから100年前外国人の手によってからです。
   日本同様に文字を持たなかったアイヌが、どのような言語上の変遷を遂げたか……は、外の言語と比較した上でないとわからないことです。いや、比較してもわかるとはかぎりません。また、アイヌ語をほかの言語とテテテキに突き合わせてみようとしている男は前にもあとにも、あっしのほかにはいやせん。

☆ 二つの言語が「同じだとかちがうとか」には、複雑な事情が絡むので単純にはこたえようはありません。カナダの西海岸ちかくには白人から絶滅をまぬがれた10内外の氏族がいます。この人々の言語をゴリラに例えると、日本語と英語はチンパンジーとヒトぐらいに、よく似ているのです。

☆ 青森方言とアイヌ語の差は、アイヌ語と日本標準語との差と、ほとんど同一です。

☆ ほかのすべての国語でもそうですが、大昔から今の日本語、いまのアイヌ語が一つのまとまりとして存続してきた……
  などという考えかたは、崩して考えるべきです。大昔の大昔はハッピー・マザーだけが人間で、ほかは染色体がちがう猿ばかりだったのですから。


玄松子 玄松子の記憶 素人の疑問 H12.10.24
「同音異義語」も、アイヌ語で分析すると、同じ意味になるのかなぁ。
それとも、「異義語」と思っている言葉でも、根は同じなのかな。
あるいは、「同音」と思っている言葉でも、正確な発音は違うのかな。

 D 言葉は面白いです。 h12.10.24
アイヌ語って、外国の言葉だと思っていたけれど、日本語と同じ形態の言葉なんですね。
ちゃんと交易があったという事なのか、元々は同一民族であったという事なのか。
古代日本の中央語と北国蝦夷の言葉が同じと言うのも面白いですね。
青森や、岩手など、東北の言葉はもっとアイヌ語に近いのでしょうか。

神(カミ)の‘ka’は「上に」、‘mi’は元々は‘muy’若しくは‘mui’で、その‘mu’は「覆い被さる」‘i’は「もの」・・・つまりは、「上に覆い被さるもの」=「支配的権力」(モノが発する力、行為が生み出す力、場所に取り付く力)ということでしょうか。
他の日本語で、神の‘ka’と同じ意味で使われているもの、‘mu’、‘i’と同じ意味で使われている言葉ってどんなのがあるか知りませんか?
それと、日本語で‘o’が‘u’に転化した例ってないでしょうか。

焼尻紋次郎様>
>kamuy ……これ知里真志保が言い出しっぺらしいが、キザっぽいne。
とありますが、どうしてキザっぽいのですか?
知里真志保氏は音韻からみて、‘y’を用いているのだと思うのですが、実際のトコロはどうなんでしょうね。
「カミ」とは奥深い物です。


鬼平 埋れ木  re: H12.10.24
>  アイヌ語から地名、神名を解読する場合、そのアイヌ語は古代アイヌ語でしょうね。
現代とそんなに違いません。日本語でも、たとえば大国主、一言主、豊玉姫、海彦、山彦といえば、現代でもその意味が分かるのと同じです。
安本氏によれば、おおむね八割以上は分かると言われています。
 せとう  h12.10.24
アイヌ語から地名、神名を解読する場合、そのアイヌ語は古代アイヌ語でしょうね。現在のアイヌ語とはだいぶ違うのでしょうね。ちなみにユーカラはどっちなんでしょうか?

昔も文学少女の与喜天満神社参詣、よかったですね。ご承知の事とは思いますが、与喜山は暖地性植物の原始林で有名です。長谷寺から眺めると素晴らしいですよ。与喜天満神社の場所には元々滝蔵神社が鎮座していましたが、菅原道真公がお参りの時、この地主神が「以後のここを任せる。私は滝倉に隠る。」との御宣託があり、社地を譲り、道真公が天神となりおさまったと伝わっています。今の与喜天満神社です。 関西では万葉で犬養さんの後がまに座りつつある奈良大学の上野誠さんが「国津神を追いやり、かつ国津神の庇護を受けようとするのが天津神のやりかたである。」と指摘していました。大国主と出雲国造の神賀詞の泊瀬版ですね。


焼尻紋次郎 気高き人の群 ほれほれ 鹿島だんべ H12.10.24
鹿島神宮のことも出てきていたので、この神様の名前「鹿島」もみておこう。
この神様はアイヌ社会でも活躍していた。神社などの建物はないがアイヌはイナウ(御幣)を通してこの名前の神様を祈った。その神様のお名前は atui(海)sik(目)kasima kamui とおっしゃる。内意は「航海安全の神」とハッキリしている。

鹿島樣はそのイマス(ネパール語 ; bas-……坐る )場所 に特徴がある。邑知地溝帯などの「陸繋島」文化の中心にいます。だから、日本列島はこの神樣で夜があけたといっていい。それほどにこの神様は古く、日本のイシズエである。
陸繋島というのは「あっちのシマ(領域)とこっちのシマがチ(水路・道路)で貫かれる(クシ・串)“チクシ文化”の領域」である。日本列島でも航行の安全を見守るのが、この神樣である。
だから、茨城の鹿島灘にできた鹿島神宮は、陸繋島ではないので比較的新しい神社だとなる。

casma はインドから東南アジアにかけて「めがね」になっている。あっしゃこの casma と鹿島は「よく見る」とか「警護」「監視」という概念で、関連がある……と睨んできた。ネパール語には akasmat(突然に)という語彙がある。a- は「反・非・不・否」だから、これは「警護のスキを衝かれた」ぐらいの意味とも受け取られる。

だが、このごろのあっしは、この解釈に懐疑的になった。
日本語の「ま(目)」は、周辺を mata と akha に囲まれて、かなり孤立しているようだが、それは地球が“国語”で被われたからで、それら国語のなかに溶けこんだ「ま=目」氏族はゴマンといたはずだ。m = 目は動かす必要はない。
だが、モンダイは鹿島の kas だ。橿原とか香椎とか kas のつく神社は流路や海辺、川のほとりにはあんまし関係ない地にある。

kas は xas に通じ、has となる。これは pas 、bas に繋がる。
ハシラ(柱)は神の代名詞である。-ra は強調末尾辞。bas-の坐すは先に出た。
アイヌ語にはpaspas(炭)はあるが、これは paskur(鴉……kur は鳥)からの派生語らしい。アイヌ語には古来からの「pas =黒」 はないといえる。アイヌ語; paskur は「神・鳥」だと断定できる。
すると鹿島は「神・目」ではないか……。
一切を神とか神の発動に還元してしまえば、語源探究は楽でしかたがない。
しかも神概念は古代ではあまりにも稠密である。その神の原音を一つひとつ拾うよかしょうがない現実である。               


福島雅彦 福島さんのHP 鳥肌が立ちました!!!。 H12.10.24
 こちらのサイトに御邪魔させて戴いた御蔭で、積年の謎が解けました。
『鹿島発ち』の意味がです。
瀬藤禎祥 様、玄松子 様、焼尻紋次郎 様 の情報の集積の御蔭です。
『島』の語源は『斯馬國』で、伊都斯馬⇒伊勢志摩の関連付けで、私のHPのBBSに掲載したばかりてした。この時点では、『鹿島』とは結び付きませんでした。
『田嶋』、『鹿島』、『三島』の疑問の投影と、宗像と呼子の『田嶋』の共通項から、今朝、遺跡発掘の作業に出掛ける寸前に、閃きました。鳥肌が総身にたつのを覚えました。
発掘作業中、興奮していて、思わず力が入り、右腕の筋肉に痙攣がおきています。此れから、詩吟教室に出掛けますので、詳細は後程、お知らせ致します。

玄松子 玄松子の記憶 re:御朱印帳の入手  H12.10.24
> 山笠と梅ですか....好みがわかれるところですね
僕は、太宰府の方が小ぶりで好きですね。

> 玄松子さんはどのような御朱印帳を持っておられるのですか?
一度、旅行に行くと数冊買ってきますから、数十冊あるんですよ。
本当は、一冊を、コツコツと埋めていく作業が良いのでしょうが、御朱印帳と御守りもコレクションのひとつなので。


A.I.  H12.10.24
せとうさん。文学少女とは私のことかェ? ン十年前の文学少女だわ。文章の構成力がないからズルズルと長い文章になっちゃう。
読み返してみると「てにをは」なんてめちゃめちゃではないですか。結局、頭が悪いんだわね。
神奈備のお仲間はいつも難しい討論をしているでしょ。私のみたいなバカなお話もみなさんの息抜きになるのではないかと・・・

 みせり  Re: 御朱印帳の入手 H12.10.24
[玄松子さん]
> 特色の有る御朱印帳を用意している神社はありますが、
> ほとんどが業者のもので、特色がないんですよね。
> 特色があるものでは福岡では、櫛田は山笠、太宰府は梅紋が付いています。
山笠と梅ですか....好みがわかれるところですね
玄松子さんはどのような御朱印帳を持っておられるのですか?

[A.I.さん]
鳩居堂,京都に行く機会があればぜひのぞいてみたいと思っています.

ほんとは御朱印帳なしでもいろいろ質問できればよいのですが,帰って落ち着いてメモなど見直してから,ああ聞いておけばと思うことが多いのです.....がんばってみますね


鬼平 埋れ木  re:言葉も神隠しに会った H12.10.24
>  アイヌ語 ; mu は「塞がる」であって「覆い被さる」という意味はない。
音節に分けた場合のそれぞれの意味は全体の意味とはやや異なります。
覆い被さって塞がるわけなので、覆い被さるでいいんですよ。
つまり、「MU…塞がる」の前に「KA(上)」が接頭していますので、意味が「覆う」に引き寄せられ、「上に塞がる」となり、つまりは「覆い被さる」ということになります。
MUだけでしたら「塞がる」ですが。
ですから、KAMUもKAMUREも音節全体を合わせれば「覆う」となるわけです。
アイヌ-英語辞典では「To be plased upon、To overshadow」(バチェラー辞典P225R)と明記されています。
>ひとつは、この xanu が作用したことも考えられるが、アイヌ語の kamu は「kam(肉)u(する)」が基本で熊などが自分の身を“「(人間の食う)肉にする」-i(ネパール、アイヌ、日本共通の神・人・者・物・場所・事)”がカムイということ。
これ、まずいです。知らない人は信じてしまう…。
アイヌ語Uに「する」という意味はありません。「する」は、KARA、KI、IKI、IKITI、KARU、KARAKARAなどです。「-I」「-Y」は「もの、こと、場所」であり、人、者、神などの意味はまったくありません。
>アイヌももともとは朝鮮・日本同様に God を kam と言っていたと思う。
GODはユダヤ/キリスト教の概念で、アイヌ語にはGODの概念はまったくありません。

焼尻紋次郎 気高き人の群  言葉も神隠しに会った H12.10.24
地名や人名、氏族・民族、制度の名前や天皇さまとか神さまの名前の意味はワカランことばっかりじゃ。われわれはこのワカランことに慣れっこになってしまっている。
ところが、スパーッと割り切れてみごとな意味を出す名前もある。あっしゃ、スパッと割り切れる天皇さま、先祖神の名前に出会ったので「ほかにもかなり割り切れる名前が出るのだろう」と、こう思ってかむなび神社のユカの下へもぐりこんだ。
あっしゃ異分子じゃ。いつも床下から這い出ていたんじゃ神社の体面にかかわる。
だが、ゆか上から洩れくる会話を聞いていると、タマラナクなって這い出し……喋くりまくるところとなる。

ここでは、スパーッと割り切れた名前の分析をまず紹介し、今モンダイとなっている「田島」がどれくらい難しいものを内包しているのかを記述し、つづいて鬼ニシパが呈示された「神」そのものの語源に絡むものを、記述にとどめ置きたい。
《アジスキタカヒコネ》……天皇名
azi =adhin(支配)、沖縄に按司(支配層・長官)として残っている。
-ski = -sti(英語の -est .最高)が基本。これに suk-i(健康・幸せ)をかけ言葉にしたので音が変わった。
taka = 権力。「高い」とかけ言葉。ヒコネ=ヒ(日・霊)ko(の)ne(指導者)⇒ ヒコ(男への美称)。
《イカガシコオ》……物部氏の先祖神のひとり
ik(1) akha(目)si(人)ko(の)o(神・男)。ikakhasi とは「片目人」で金属製錬士のこと。
一本足(カトマンズということ)とともに案山子の語源。ヤマ(集会)の護り神 ⇒ 田んぼの護り神。
田島の ta は神だろうから、田島は「神の領域」……で、良いような気がするが、どっこい、古い語順には形容詞後置形がある。さすれば「シマ(一帯)神」となってニュアンスが違ってくる。
「タジ・マ」ではなかろうか……と思って分析し始めたら、岐阜県には多治見市がある。 1 タジマモリを祭った神社で、その忠誠の ma(目……目付け)ではないか?  2 タジとは、第二子音が濁っている。tar(童神)。3 tal (一族) 4 沖縄、朝鮮の tari(男)……で女神に対する男神。 ma には目(目付け)とシマの二様が考えられる。

アイヌ語 ; mu は「塞がる」であって「覆い被さる」という意味はない。オホーツク・雄武(オウム)の omu petは川の o(尻 ……川口)が流砂で塞がった川。“尻が被いかぶさった川”ではない (¨ゞ(¨ゞ(¨ゞ
鬼ニシパはカムイの kam があったので kamure(被う)と混同召されたのではないか? (¨ゞ (¨ゞ。

安里屋ユンタの √マタハリ(サンスクリット語の太陽)ぬ(の)ティダ(太陽) ra(朝鮮方言太陽)カヌ(⇒ 朝鮮語に入って xanul(天と訳される))……の xanu はネパール語 ; kano(片目)と同根だった。
ひとつは、この xanu が作用したことも考えられるが、アイヌ語の kamu は「kam(肉)u(する)」が基本で熊などが自分の身を“「(人間の食う)肉にする」-i(ネパール、アイヌ、日本共通の神・人・者・物・場所・事)”がカムイということ。
アイヌももともとは朝鮮・日本同様に God を kam と言っていたと思う。そこへエデン語の *karn(肉)が朝鮮音癖(短音・末尾をmに)を経由して古代北海道に入ってきた。フィリピン各地でも karn は肉。日本はかなり前から開音(母音をつける)してkami と言っていたのだが、朝鮮語は kam , kim で子音の m おわりだった。支配階層が kam と発音するのをそのまま真似できなかった日本では kam-u と発音した一部現象もあったことだろう。
この朝鮮語 kam(神) はネパール語の kam(仕事 ⇒ ○○の守)*cam(カミナリ)をそのまま写してる。しかし、日本ではアイヌ同様に集落ちかくに動物の頭を祭る風習があって、それを*kam (英語 ; cap)と言っていた。で、これも「神」の造語に参与している。イワシの頭もシンジンカネ。

ネパール語で褒美のことを i-nam というそうな。これみてあっしゃ「アイヌ語に似てるなぁ」と感心した。
nam とは、これもエデン語で名前のこと。昔、殿様が領地を与えられないときは「△△の守」なんちゃって名前与えたじゃんか。あれ。
ところがほんとうにアイヌ語らしくしようと思ったら i nam-u と末尾に“u”をつける必要がある。アイヌ語のkamui の“u”……これである。kamui を kamuy ……これ知里真志保が言い出しっぺらしいが、キザっぽいne。
ネパール語 inam の一語は、ネパール人がアイヌみたいな氏族から借用したと考えたほうがはやい。
                           紋次郎のなにを“否む”カネ


玄松子 玄松子の記憶 re:田嶋神社/呼子の語源  H12.10.23
> 田嶋神社の神紋は『桜』でしたか?。私は、拝殿の幔幕に「菊の紋」があるのを見て、
> テッキリ、『菊』だと、早合点しました。何処の神社に行っても、瓦や手水鉢にある、
> 三つ巴紋等が目に付くと、其の侭合点していましたが、別にあるのでしょうか?。

手水鉢に「刻印」されている場合は信頼性が高いのですが、瓦にある三つ巴は、あてになりません。火除の意味で用いる場合が多いようです。
菊紋は、天皇あるいは、その祖神を祭る神社では、大抵用いていますから、それを神紋としている場合と、他にも神紋・社紋がある場合があります。
たとえば、宗像の神紋は楢紋ですが、幔幕や賽銭箱には菊が使用されています。
田島神社の場合は、拝殿・社務所・境内社の鬼瓦の位置に「桜紋」がありました。 桜と菊だったので、桜が本命と判断し社務所で確認しました。


福島雅彦 福島さんのHP  田嶋神社/呼子の語源 H12.10.23
  玄松子 様、瀬藤禎祥 様
 田嶋神社の神紋は『桜』でしたか?。私は、拝殿の幔幕に「菊の紋」があるのを見て、テッキリ、『菊』だと、早合点しました。何処の神社に行っても、瓦や手水鉢にある、三つ巴紋等が目に付くと、其の侭合点していましたが、別にあるのでしょうか?。

  ハングル表記は、「朝鮮語/韓国語入力システム&フォント」WINK98CGS社のソフト、をダウンロード(?)≪PC音痴でNTT一切合財お任せに≫してもらいました。私の研究に必要不可欠であろうとの思い入れで…。


玄松子 玄松子の記憶  H12.10.23
> 宗形の「た」を田島との想定面白いですが、そうすると鹿島は「か」、三島は「み」、屋島は「や」ですが、
大きな神社の鎮座地(町村名)は、通常それを表したものが多いのではないでしょうか。
鹿島は宮中町、三島は大宮町です。そして宗像は田島町にあるのです。
「田島」という地名が宗像と関連が無いのでしょうか。ということですね。
たんなる思い付きですから「無理」はありますし、「無理」があるから面白いですね。今は。本気で考えているわけではないのです。暇を見つけて図書館にでも行ってみましょう。

みなさんの参拝記を読ませていただいて、無性に旅に行きたくなったので、11月初めに熊野をうろつきます。多分、伊太祁曽神社にも行くでしょう。

>太宰府天満宮摂社中島神社
小さな写真追加しておきました。


 せとう  h12.10.23
福島さん、ハングルの表示はどのようにされているのでしょうか。
A.I.さん、文学少女の面目躍如ですね。山本さんの云われるようにまず地元の神社ですね。鬼平さん投稿ありがとうございます。

宗形の「た」を田島との想定面白いですが、そうすると鹿島は「か」、三島は「み」、屋島は「や」ですが、このような例はあまり聞きません。「タ」を田島の略形とするにはいささか無理がありそうな気がしますね。
ニニギの降臨に出てくる「ししのむなそうくに」のムナすなわち、「ムナカタ」は空潟、韓潟、韓国に向かう浜辺の意ではないでしょうか。

田島と言えば、非時の香果の但馬守を連想します。この但馬守を祀る神社は兵庫県豊岡市三宅の中嶋神社は本社のようです。九州では
福岡県太宰府市宰府4-7-1 太宰府天満宮摂社中島神社
佐賀県伊万里市立花町又83 伊萬里神社摂社中島神社
が中島神社で、但馬守を祭神としています。
「田島」から「中島」へもどりました。


A.I. 奈良・吉野をかけめぐり 3 H12.10.23
奈良・吉野メチャクチャ旅の報告第3報にお付き合いください。10月15日の日曜日は榛原を基点に予定を立てましたが、近辺に興味深い古社があまりに多いので、いつもなら電車・バス・徒歩で行くのですが、贅沢してタクシーを頼みました。行った神社は墨坂神社、御井神社、丹生神社、宇太水分神社下宮、阿紀神社、ヤタ烏神社、宇太水神社上宮、惣社水分神社、鷲家八幡宮、丹生川上神社中社、室生龍穴神社、篠畑神社、与喜天神社、いいかげんにしなさいよって感じでしょ。ついでに室生寺にも寄って修理が終わってきれいになった五重の塔も見てきました。タクシーの運転手さんにもあきれられました。宇太水分神社上宮、丹生川上神社中社、室生龍穴神社がお祭りで、地元の人には申し訳なかったけど、興味深く見せていただきました。でも神社そのものがじっくり拝見できないということがありました。1日でお参りする神社の数はせいぜい5社位にしないとね。印象がすべて薄くなります。反省・・・です。
与喜天神社は長谷寺のすぐそばで、玄松子さんに教えていただいたスセリさんのHPを見てから行きましたので、迷いませんでしたが、あちこち駆け回った最後だったため、階段のつらかったこと。夕方だったからちょっと恐かったけれど行って良かったわ。ここはオススメです。この日は時々雨が降りましたが、水に関わる神様を多くお尋ねしたんですものね。かえって雨が嬉しくさえ思えました。150キロ走り、アーア・・・ですわ。

鬼平 神 H12.10.23
KAMIはアイヌ語と同系統のコトバで、KAMUYが原義です。
KA(上に)MU(覆い被さる)Y(もの)。
古代日本語もKAMUと言っていました。神集う(KAMU−TUDOU)、神歌(KAMU−UTA)など。

 D  ちょっときになったので。 H12.10.23
質問です。
今話題の「mi」って何者ですか?
神(カミ)のこと?
神の「mi」って、どう言う意味なんでしょうか?
意味があるのかなぁ。「mi」=神だったら、「ka」っていうのはなんでしょう?
詳しく知りたいです。

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.22
田島神社へ行ってきました。
資料には「宗像田島宮から勧請により社名にしたという説」が紹介されていましたが、創始不詳で、憶測のようです。 隣に
田島神社資料館がありましたが、捕鯨関係の展示ばかりで、結局、なにも分りませんでした。

焼尻紋次郎 気高き人の群  カンちがいコタツで母の手をにぎり H12.10.22
クマグスさんの姓はミナカタと発音するんじゃったカネ。
宗像神社で mu = mi が出たからといって、これが即 南方と完全に同じかどうかは、周辺状況をもっと詳しく検討する必要これあらむや。ムナカタには多くの懸詞が付着していた。その事実には変がえはない。胸毛ちゃんなんかの伝説もモズクの如くまつわりついているそうな。
緒方、尾形にはウロコ伝説。この際古賀、久我、空閑(クガ)あたりもまとめて睨みつけましょう。

だがこの城攻めは伊太祁曾さんよかカンタンならまし。
今のとこ、「宗像=南方」の成立の可能性は……63%。
南をミナでちょん切ったとき「ミナミ」には「神・nam-i(一族)」の解釈もあらいしょ。

香春でも「水脈を司る」ムラ(水源・長)カミ……村上みたいな神〜豪族がありましたよね。
いつごろ、どこからどう舟を漕ぎだしたらいいか……これは海人にとってはイノチとほとんど変わらないぐらいにダイジな情報だったことでしょう。

「春分の日に江南からまっすぐ東に向かえば、串木野に到着する」という信仰じみた言い伝えがあると川崎真治さんが言っていた。これ本当かどうか、今なら福建省の海岸で確かめられるのではないだろうか。福建省……大昔から海外へ出てひと稼ぎする気風の強いところです。


山本 祐佳 伊勢部柿本神社へお参りしました。 H12.10.22
20日の朝、JR海南駅の近くの伊勢部柿本神社にお参りしてきました。海南市在住なのに参詣は初めてなんです。(地元では1月の戎祭りで有名な神社です。)
雨のせいか、参詣人は私一人だったのですが、境内の隅々まで手入れが行き届いている感じで、いい雰囲気の神社でした。少し紅葉が出始めて、そこはかとなく秋の気配が感じられ、古代に伊勢神宮があったと思うと不思議な感じがしました。
宮司様も優しそうな上品な年配の方でしたよ。忠魂碑の隣のお社は何なのか質問しました。お祓いの時の祓戸さん(字、合っているだろうか?)ということでした。
付近には、宮前、馬場町の地名から歴史ある神社という感じが伝わってきました。
 これからも地元の神社を訪ねようと思います。

玄松子 玄松子の記憶  胸形 H12.10.20
胸(身体)に刺青がある民族というのを、何処かで読んだ記憶があります。
当時は「海の男なんだね」と感心したなぁ。

福島雅彦 福島さんのHP  前便のスペル、訂正 H12.10.21
ハングル文字の語頭の文字は、母音のみの表記に成りましたが、無音価の子音の“丸=○”がくっ付きます。少し功を焦って、とちりました。其の様にして到着する土地だから、航海安全を司る神社が祀られているのかとも…。

福島雅彦 福島さんのHP  Re: 呼子には伊藤というお方が…… H12.10.21
私の閃きですが…。半島から玄海灘を漕ぎ渡り、ヘトヘトに成って到着した土地です。
“ㅖ쁘-곳”(ye-bbeu-god)=麗しいの地(直訳)、ではないでしょうか。
瀚海とは、『川ン海=潮流が速く、川の様な海』の波涛を越えて、決死の覚悟で渡る。漕ぎ渡って、歓声・喚声『yebeu-kot!』とは成りませんかネ。

 せとう  h12.10.21
建御名方もあるね。 紀の国には南方多し。ついでに熊も楠も多し。 宗像は南方に異存はないね。

焼尻紋次郎 気高き人の群  呼子には伊藤というお方が…… H12.10.21
イランデイイコトですが、呼子には伊藤という郷土歴史研究家がおらっしゃるはずです。
もし、御健在で、お会いになられましたら、紋次郎というはぐれもんが、「三協」「甘栗」「サイタマ」「宮城」のキーワードぬかしたと、こうお伝えください。
 千葉県柏市には呼塚(よばずか)という交通の激しい交差点があります。気にはなっているのですが呼子も呼塚も、その内意はジェンジェンまったくワカリマシェンと。

福島雅彦 福島さんのHP  宗像? H12.10.21
『ム・ナカ・タ』説、道の語源、興味深く拝読しました。異論、反論では有りませんが…。『胸肩』とか『匈形』とかの表記も有ります。
 地図てご覧に成れば解かりますが、『神ノ湊』を胸の谷間にして左右が女性の『豊満な乳房』の形をしています。姫神三神とも、グラマーな神様だったのかと。一寸、不謹慎かも…。

A.I. 奈良・吉野をかけめぐり 2 H12.10.20
こんばんは。日が短くなりましたね。神社めぐりはお日様が落ちたらおしまい・・・ と決めています。もっとも暗くなった神社なんて居られないわよね。バカバカしい報 告にお付き合いください。10月14日土曜日お昼過ぎに近鉄奈良に着きました。奈良市 内では漢国神社と率川神社へ行きました。なぜかというと、もちろん歴史のある古い 神社ということもあるけど、奈良へ行ったのは2年半前で神社めぐりを始めて初期の 頃だったため知識もなく、すぐ近くのホテルに泊まったのにお参りしなかったので、 後になって悔しくて悔しくて・・・漢国神社は前も覗いてはみたのよ。でも扉が閉 まっていたので、入れなかったの。今回も扉は閉まっていたけど、押してみたら開い た。いつも閉まっているんだ、鍵はかかっていないんだ。そういう事もあるのね。繁 華街の神社だからね。率川神社は小さいけど美しいお宮です。ご朱印をいただきに 行ったら、若くて美しい奥さんが3才位のかわいい女の子と一緒に出ていらしてご朱 印を押して下さいました。かわいい女の子とお話ししながら、ご祭神・イスズヒメ様 の幼い頃の幻を見ている気がしました。繁華街を通り抜け、JR奈良駅へ。桜井線に 乗ってまず桜井に行ってコインロッカーに荷物をいれて三輪に行き、大神神社に「こ んちわーまた来ましたァ」とご挨拶、山辺の道をテクテク北上、狭井神社、磐座社 (石だけ)にこれも二度目なのでご挨拶だけ。前に山辺の道を歩いた時は、天理から 始めて石上神宮から大和神社まで歩いて挫折したのよ。情けない。桧原神社に行って いなかったの。これも悔しくて気になって。でも山辺の道を歩くのは気持ちが良い し、最高の気分です。桧原神社で神職さんにいろいろお話を伺って、倭姫命御杖代奉 賛会という団体があることを教えていただいきました。12月に伊勢に行くので調べて 来ましょう。桧原神社前の茶店のあばさんに柿をいただいて、またおしゃべり。茶店 のおばさんに三輪山がきれいに見えるスポットを教えてもらって近くの池まで行って みました。

池の中に堤防があってそこから見る三輪山がきれいです。後ろを振り向くと箸墓が目 の下に横たわっています。三輪山も2年前の9月の台風の被害を受けたのではないかし ら。木が少なくなったみたいに感じました。夕方が近づいてきたので、またテクテク 北へ。穴師座大兵主神社に急ぎました。ここも良いところです。神社近くの宮司さん のご自宅まで伺ってご朱印をいただきました。厚かましいこと。近くには相撲神社な んていうのがあってちょっと覗いてみました。大兵主神社の帰り道の坂から見る大和 平野が美しくて、ちょうど夕日が二上山の向こうに沈むのが見えそうなので、しばら く坂の途中でベンチに座って夕日を見てました。いいところにベンチがあるのよ。日 が沈んでこの日はおしまい。

みせりさん、はじめまして。ご朱印をいただきに社務所にいくと「どこからいらした ?」から始まって、神職さんや奥さま、巫女さんとおしゃべりするきっかけができま す。このおしゃべりから、いろいろ教えていただけることが多いのよ。私のご朱印帳 は1冊は伊勢神宮で買ってきたもので、これは伊勢の神社と二十二社のご朱印帳にし ました。二十二社巡りは今回完結して嬉しいのよ。他の神社用のご朱印帳は文具屋さ んで買います。私は東京・銀座の鳩居堂で民芸調のかわいい表紙のものを買います。 鳩居堂の本店は京都ではなかったかしら? なぜ、神社巡りをするか。なぜ、止められないのか。いろいろ理屈をつけてはみるけ れど楽しいから・・・それだけのような気がします。長い報告でごめんなさい。


玄松子 玄松子の記憶  Re: かむなびは道をみつけた H12.10.20
>  それを玄松子氏が当掲示板に掲出された「宗像」と「道主命」の二つの語彙で“道”の mi が何だったのかが明瞭に出たのでした。
非常によくわかりました。ありがとうございます。
明日、佐賀県呼子に行ってこようと思うんですが、「田島神社(名神大)」があります。祭神は宗像と同じです。近くに玄海町があります。宗像辺津宮も福岡の玄海町田島にあります。
宗像の「田島」は、普通の地名だと思っていましたが、意味があるようです。 「ム・ナカ・タ」の「タ」を抽出する論拠になるかもしれません。

玄松子 玄松子の記憶  Re: 御朱印帳の入手 H12.10.20
> #各神社ごとの御朱印帳の特色などもあるのでしょうね
特色の有る御朱印帳を用意している神社はありますが、
ほとんどが業者のもので、特色がないんですよね。
特色があるものでは福岡では、櫛田は山笠、太宰府は梅紋が付いています。

 みせり re:御朱印帳の入手 h12.10.20
> > 福岡では、太宰府・宮地嶽・宗像にはあります。
> > 香椎は「ありません」と言われました。
> 追加です。住吉はありません。櫛田にはあります。
 香椎,住吉でめげておりました.どうもありがとうございます.櫛田に行ってみようかと思います.
 各神社ごとの御朱印帳の特色などもあるのでしょうね

焼尻紋次郎 気高き人の群  かむなびは道をみつけた H12.10.20
あのままじゃ「ミチ(道)」までスンナリと道が通らないという声がありましたので、続きを書かせていただきます。はじめのうちは繰り返しにもなります。
 簡単に言いますと、極めて古い日本語の道は「チ」一本だったのでした。これがいつのまにか「ミチ」が普通になって「チ=道」の使用が消えたのです。
 で、新しく「チ」にくっついた「ミ」とは何だったのか……が、学者さんたちの追求にもかかわらず、ここ100年もそれ以上もの間、わからなかったのでした。
 それを玄松子氏が当掲示板に掲出された「宗像」と「道主命」の二つの語彙で“道”の mi が何だったのかが明瞭に出たのでした。

一方、非常に古い日本語では、水は「 mu 」と言っていたのでした。そこへネパール語の「mul(水源・長)」という強い語彙があらわれ、mu が mul となったのでしたが、朝鮮方面の発音クセによって。mil に近い音へと訛り、第二子音を濁音化したので「ミズ」が定着したのでした。
 ところが mu が mul へ変わるとき、一方では 末尾のエルを消してしまうクセもあったたわけで、ここに「ミ」だけで「水」を表現する 別の一派とか氏族も出るわけです。その「 mi =水」が「チ(道)」についたのが「ミチ」で、それゆえ、始原てきには道とは「水路」のことだったのでした。道主命とは「水路を支配する神さま」です。

 倭人の下層階級の人々は小舟や筏に小屋がけして、江南の湖や川で暮らす蛋民(たんみん)です。これは運搬業に適しています。この人々をネパールあたりから来た金属製錬士の群れが支配しました。そしてできあがった集団が「倭人」と呼ばれたことでしょう。wa とはネパール語で「ひと」という意味ですから。
 ですから、mu から mi とか mu からmul ⇒ midu への音転はなにも日本列島内部でおこったとはかぎりません。江南の湖の中とか周辺とかも大いに考えられるわけです。
 その音転の過程をショウコとして遺しているのが宗像大社だったわけです。
 玄(界灘で貴重な)ショウコを呈示くだすったゲンノショウコさん、あっしの言うことを信じて、今夜も乾杯といきやしょうぜ。


瀬戸内 h12.10.20
前略 瀬戸内です。
何故 神社に行くのか。
私の場合は単純明快です。
@御利益の追求です。その為に 神様にお蔭をいただくためお参りにいって 時には 心からおねだりをします。
この場合利益とは、家内安全 子供の学業成就 家族の健康祈願金運等 さまざまです。より幸福になりたい為 心からお参りします。おねだりします。すがります。一心に単純ですね。
A又 御祭神の謂れは、それぞれありますが それとは関係なく 神社で私自身が感じるものがあれば 最高に幸せです。
感じるもの(神様 神霊ETC)をもとめての 神社詣は死ぬまで続きそうです。
syougo shima

山本 祐佳 励みになります。H12.10.19
紀伊続風土記、また志学館で閲覧しようと思います。
紀ノ川河口平野を中心とする名草郡には古墳は多いものの、貴志川沿いの現海草郡には古墳は少ないです。「野上八幡宮誌」にも古来この地(野上荘)には有力な豪族がいなかったことが書き記されています。
掲示板から、メールが送られてくるのを楽しみにしています。ではでは(^。^)

玄松子 玄松子の記憶  Re: 御朱印帳の入手 H12.10.19
> 福岡では、太宰府・宮地嶽・宗像にはあります。
> 香椎は「ありません」と言われました。
追加です。住吉はありません。櫛田にはあります。

 せとう  h12.10.19
何のために神社に詣でるのか? そこに神社があるから。

 神社への詣での仕方は人ぞれぞれですね。>「あんた、正気か?」とあきれるほど神社めぐりしました。真夏の道後温泉やお伊勢さんの蛇やら、その迫力にダジダジです。神奈備なんかは行動がとろいので、良く行って一日5社が限界です。1社や2社はたいていの場合探すのに手間取ります。最近は遠目にも「あそこが神社だ」と勘が少しは働くようになりましたが・・。

11月に葛城古道へ行こうと思っています。
ある方と神奈備について論議していましたら「まず、高鴨神社に行って、鈴鹿宮司さまから≪カンナリ現象≫の解説を聞いて、実際に験していただかないと」とのアドバイスを頂戴し、目下、高鴨神社さんと日程を詰めております。果たして、どのような玄松ではなく現象なのか、興味津々です。山の木霊(祖霊の声?)だろうなと想像していますが、当たっていないかもしれません。日程が決まればお知らせいたします。ご興味のあるかた、ご一緒にどうぞ。

玄松子 玄松子の記憶  Re: 御朱印帳の入手 H12.10.19
> 今は福岡に住んでおり,

福岡では、太宰府・宮地嶽・宗像にはあります。
香椎は「ありません」と言われました。


 みせり 御朱印帳の入手 h12.10.19
はじめまして みせりと申しますこのサイトはよく利用させていただいています
京都に住んでいたころから,神社巡りはよくしていました
今は福岡に住んでおり,市内の神社を地道にまわっていますご祭神,由来などわかってくるうちに興味もますばかりです.神社の方角なども調べ,意味を推測しては楽しんでいます.
最近,御朱印集めをしたいと思いはじめました.わいてきた疑問を神社の方におたずねできる機会をつくりやすいかもとも思っています.

そこでみなさんにお伺いしたいのですが,御朱印帳はどこで手に入れたらよいのでしょうか?
いくつかある程度の規模の神社でうかがってみたのですが,うちでは置いてませんと言われるばかりでした.......

焼尻紋次郎 気高き人の群  かむなびヤマに道は果てた H12.10.19
ショウあにぃ あがあが 大手柄じゃ  サラセッセ よろこべ
 皆の衆 けふは 朝からお神酒のもうぜ  ここ百有余年をかけち、学者が追いかけまわした“道”の語源が『かむなび・コラボ』で割れた。

 さて、何から話そうか……。
道の古い形は「チ」だったことは掴めていた。が、「ミ」がワカランかった。
チクシの語源などでは「チ」は陸の道でもいいのだが、どうしても「水の道」が強く匂っていた。
「チ」は紐のチにも通じるので、これは起源的な原始語をそのままひっぱり続けてきたものとも考えられた。
また、あっしゃミチの「ミ」をギリヤ−ク語に残っている mif(陸地)にも強く惹かれていた。だが水路 を意味する「ミオ」もあった。要するに暗中模索、決め手がなかった。
そこへ下段のショウ兄ぃの書き込みざんした。ここに書かれているかぎりでは、論理は飛躍しているが、これは気が短けぇので自分だけではわかったつもり……の表現になっているのにちげぇねぇ。
だが、あっしゃ求道にかけちゃぁ言うちゃワリぃが人後にゃ堕ちねぇ。なんかないかとカムナビ神社の床の下に貧乏神みてぇにツクネンと居坐っている。……それでみつけた。

日本列島でも水を「ム」とも言っていた。それはウナギが「ムナギ」と呼ばれていたことでも知れる。
nag がへび。i が「もの」……水・へび・もの がムナギだった。ウイルタ語でも水は mu 。
ところが、朝鮮語のほうで音に変化がおこった。 mil に近い音で喋りはじめたのだ。現代朝鮮語の mil の中央の i は m をでんぐり返して表記する。音はくちを横に結んで「ウ」と発音する。
いっぽう、第二子音をにごって発音する連中がいた。 l (エル)の濁音は dh か z のはずである。
今でも四国の一部では水を「 midu 」と発音する。
「ムナカタ」のムは、古代音がそっくりそのまま残っていたのだった。
長くなるので、ここでいちおうチョン切る。とにかくサラセッセ、けふは朝神酒を許す。アマカネ。

 せとう  h12.10.18
 「三国遺事」によりますと桓雄が半島の太白山の神檀樹の下に天降り熊女と結婚して壇君が生まれます。日本の太白山とは、宮崎県東臼杵郡諸塚村(日向国 臼杵郡)にある標高1342mの諸塚山とされています。(百済王族伝説の謎 荒木博之 三一書房)
 諸塚山付近の神社を見ていましたら
 東臼杵郡諸塚村大字七ツ山に松ノ平神社「木替尾命 ほか」があります。「こかえおのみこと」と読むようです。初のお目見えの神様です。
 西臼杵郡日之影町大字七折に中川神社別名嶽大明神「安穗富貴壽命」があります。「やすほふ???」と読むようです。後ろ不明「き・・」ではなさそうです。もうひとつ初のお目見えの神様。
 壇君は阿斯達(あさだる)に隠れて山神となったとの事、これは日本では阿蘇山だそうです。健磐龍神ですね。
 五十猛命の子孫に諸豆彦、いたけを威嶽、うたき、おんたけと同意とする、また磐龍もついでに・・妄想中です。

 ムムム! 武蔵、陸奥、六つ 

貴志川町は紀州飛鳥と呼ばれるほど史跡の多い地域です。
 民家の土壁からも土器の欠片がでてくるとか。尤も歩いて探してみたのですが、土壁そのものが露出していませんでした。
 貴志川町は忌部氏と言う氏族の拠点ではなかったかと思っています。
 三船神社、紀ノ川沿い三毛の上小倉神社などは忌部氏の祖神をまつっています。

>祇園社
 紀伊続風土記貴志荘の小野村小名高尾に祇園社方二間境内周六十間とあります。志学館ではフロントに言うと出てきます。和歌山市立図書館では棚にあります。どちらも貸し出し禁止です。

 山東の足守神社の御神体は石室に奉安して足守大明神と称したとあります。古墳の石室かも知れませんね。

 それにしても山本祐佳さんは短期急上昇タイプで、宇賀部さんにお参りはいりませんね。


A.I. 奈良・吉野をかけめぐり H12.10.18
こんにちは 10月14日から4日間奈良・吉野を駆け巡っていました。楽しかったァ 本来の目的は丹生川上神社、上社・中社・下社に行く事だったのですが、奈良は行ってみたいところだらけで、自分で自分に「あんた、正気か?」とあきれるほど神社めぐりしました。丹生川上神社・中社のお祭りは10月16日とのことなので、その日は遠慮したつもりで前日の15日に行ってみてびっくり、一台1トンもあるとかの太鼓台という山車みたいなのを1台を20人から30人の男たちが担ぎ上げて、神社前の広場を7台も8台も駆け回るけんか祭りといわれるお祭りがクライマックスで・・・若い人は地元を出ていてもお祭りの日は必ず帰ってきて男たちは太鼓台を担ぐのだそうです。だから、実際のお祭りは日曜日になるのだそうで。
アズマエビスの私は太鼓台というのは初めて見ました。すごいエネルギーで圧倒されました。その割に掛け声はのんびりしていて「チョイサァーチョイサ」と鄙びているというより雅びな感じさえします。神社のまわりは見物の人も含めて人がいっぱい。「あぶないよっー」「どけェー」と罵声をあびながら、よそもののオバサンはオロオロしながら神前にたどりつき、やっとのことでお参り。ご迷惑を承知で、恐縮しながらもご朱印をいただいて。でも良いもの見せてもらいました。 今回の旅でも、たくさん良い思いや感動を味わいました。話せば長いことなので、追々報告しましょう。

玄松子 玄松子の記憶  Re: ム・ナカ・タ は可能 H12.10.18
> ゲンノショウコあにぃの「ム・ナカ・タ」発想は鋭でェ。
うっ、そういう読み方もできますね。カッコ悪いですが。
宗像は「道主命」とも云うので、「道ミチ」あたりから「ム」が出てきそうな気もしますよ。
今日暇だったので、図書館で「串木野町郷土史」を見てきましたが、伊多神社の由緒はありませんでした。無格社とあったので、都道府県レベルの神社誌にも由緒はないかもしれませんね。行ってもわからない可能性もあります。

焼尻紋次郎 気高き人の群  ム・ナカ・タ は可能 H12.10.18
ゲンノショウコあにぃの「ム・ナカ・タ」発想は鋭でェ。
 「沖津宮 = mu 」はことばの上ではあり得ない音転だが、ムナカタの語源に迫る基礎を与えてくだすった。
 すなわち、ムナカタの末尾の ta は神。ナカは「アマ(天上)」に対しての地上……だが、ここで古人が言いたかったのは“ヂベタ”ではなく“海”だった。そこで mu(水)をナカの形容詞として置いて「ムナカ(海の領域?)」なる概念を浮上させている。
 古代語は懸詞(かけことば)だらけです。
 「ムナ・カタ」と考えたら「水ひと ka(の)ta(神)」ともなりましょう。「カタ」は土方や緒方などの職業・集団の「かた」とか「舟(カッター)」も連想させます。
 あ、言い落すとこにござんした。*mu は極東原音の「水」ざんす。 mu ・ na は「mu(水の)na(ほう)」という方向でもあります。

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.17
> 宗像三神ではなく、豐比め命説だったのでは
比売大神が、豊比め命なのか、台与なのか、あるいは比売許曽か、考え出すと止まりませんが、社伝宗像なので、伝承地もあるでしょうね。
以前どなたかが、宇佐奥宮の御許山に3柱の石があると書いていましたから、ここが宗像の神域だったのかもしれませんが。
真名井というのは、出雲にも丹後にも、五条(これは新しい)にもあります。固有名詞ではなく、真鶴のような普通名詞に思えます。

コレを書きながら、ふと思ったんですが、宗像は「ム・ナカ・タ」だったら面白いかも。辺津宮は「田島」にあります。沖津宮を「ム」にこじつけられないかなぁ。ちょっと甘いかな。


 せとう  h12.10.17
宇佐神宮 豊前宇佐
真那井  豊後速見
豊の国には違いないですね。
さて、延喜式では 宗像神社3座 となっていますが、宇佐の比賣神社はなにもなく、1座と言う事でしょう。
宗像三神ではなく、豐比め命説だったのでは

焼尻紋次郎 HP  イタ神社 H12.10.17
けふのサラセッセの書き込みに「イタ神社」これあり。
字ヅラに惑わされちゃいけんよ。伊太祁曾の「イタ」かもしれんしな。

山本 祐佳 H12.10.16
こんばんは。ここしばらくは「和歌山県の地名」紀伊国の部分を夢中になって読んでいました。木国の由来が五十猛神様にあったとは。常連様ならご承知の事も、私には新鮮な驚きです。
名方濱宮や伊勢部柿本神社のことも、こちらの方が勉強になりました。
最近、貴志川町にまたまた小さな神社を見つけました。貴志川町役場からすぐ北側です。石造りの鳥居には「天明七丁未(一字不明)三月」の彫りこみが入っています。 江戸時代の1787年ということでしょうか。近くの人に聞いたら祇園神社ということなのですが、それらしい名もないし、「和歌山県の地名」にも載っていないみたいです。
木枕の足守神社もすぐ西側に6世紀後半とみられる古墳が存在するとのことで、案外古い神社なのかも。それにしても貴志川町、山東、岩橋とこんなに古墳が多いなんて、歴史を知ると今までとは風景を見る目が変わってきそうです。

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.16
>  話は変わりますが、どなたかの書物に国東半島に真那井の地名が残っている事から、
宗像三女神は、真名井で生まれたので、宗像三女神を比売大神とする宇佐には当然、真名井に因んだ地があるのではないでしょうか。ちがうかな。

瀬戸内 真那井の件 h12.10.16
前略 瀬戸内です。
真那井(御前)の件 少し前に日出倭さんからメ−ルいただいたことがあります。
詳細は忘れましたが、ル−ツは、宗像大社の弁天様につながるとありました。
(記憶違いかもしれません。メ−ルは削除していました。)

 せとう  h12.10.16
伊多神社の由緒は平成祭礼データに載っていませんでした。
>島前には、宇受賀命神社
この神社には宇受賀命に大田命、大宮姫命が配されています。宇受賀命もわからない神ですね。
隠岐には五十猛命は二座、度津神社と木生神社があります。度津神社は佐渡にもあります。
15日の日曜日は伊太祁曽神社の秋祭りでした。45年ぶりに参列しましたが、何とも侘びしいお祭りになっていました。年寄りだけで神輿を石段から下ろしており、先々心配になりました。 ついでに、山本祐佳様に紹介して頂いた名方濱宮と伊勢部柿本神社へ参詣してきました。ここの神職さん(塩崎さん)も穏やかで親切な人です

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.16
> 都萬神社「木花開耶姫命、立速主命」鹿児島県曽於郡大崎町仮宿1589
「明治神社誌料」明治四十五年刊には、立速主命のみになっています。木花開耶姫命は最近のものかも。知れません。全国神社名鑑では、立速主命=彦火火出見としていますが。この書には郷社以上しか載っていないので、伊多神社は載っていないようです。残念。創祀はいつ頃なんでしょう。
>  話は変わりますが、
隠岐の島後に都万村があります。天健金草神社の所在地ですね。島前には、宇受賀命神社というのもあります。他の人名は分りませんが、このあたりも五十猛匂います。

 せとう  h12.10.16
玄松子さん>都万神社祭神、神名帳考證には抓津姫。
この都万神社とは
都萬神社「木花開耶姫命」宮崎県西都市大字妻1 式内社
都萬神社「木花開耶姫命、立速主命」鹿児島県曽於郡大崎町仮宿1589
のうちの宮崎県社の方だと思いますが、神奈備にとっては貴重な情報です。ありがとうございました。
立速主命を祀る神社はここ一カ所しか出てきませんでした。建速須佐之男命の建速が立速となったとすれば、名無しの神様と言う事になりますね。地主神なのでしょうか。

 話は変わりますが、どなたかの書物に国東半島に真那井の地名が残っている事から、豊宇賀乃売神のルーツとして、ここの一団が丹後へ移住したの仮説をだされていました。丹後と言えば天火明命を連想しますが、日向の二子山速日峯に饒速日命(天火明命?)の降臨伝説があるようです。この天火明命の子神が起位武命(五十猛命に似ている名)、その子神が椎根津彦と言う絡みも何かを言っているように感じます。
 一方、浦島子の子孫を名乗る日置氏が日向へ赴任しているそうで、丹後の伝承を持ち込んだ事も考えられます。
 日向は天孫の故郷とされただけあって、大きい古墳も残っており、徐福伝説もあり、(皇統)荒唐無稽な神話の舞台だけではない何かがありそうですね。
 高千穂神楽のHPに大屋都姫、抓都姫が登場していましたね。

 鹿児島県串木野市上名4558 に 伊多神社「饒速日命、天香山命」が鎮座しています。神社名と祭神と地名の薩摩国日置郡が妙に気に懸かります。


玄松子 玄松子の記憶 成果ゼロです H12.10.15
明治神社資料をザッと眺めて見ました。
佐賀関の椎根津彦神社祭神、椎根津彦=珍彦=宇津彦というのは豊後国史に出ている話。
児湯の由来は「産湯」や「超ゆ」があるようです。木花開耶姫の出産が都万神社らしい。地形的には「越える」かも。都万神社祭神は、ほとんど木花開耶姫。ニニギ尊の妻だから。神名帳考證には抓津姫。
ちょっと気になる神社。
東霧島神社。(つまきりしま)と読む。(つま)は(あづま)、あるいは果てという意味があるらしい。三国神社伝記では妻霧島とある。
高都萬神社。祭神猿田彦。宮崎県西諸縣郡野尻村。南へ行くと大隈国贈於郡。
都萬神社。祭神立速主命。鹿児島県大隈國噌於郡大崎村。境内社に意味ありげな名前の五林神社。都万神社と関係ありそうだが、立速主命って誰? どうして日向神話の登場人物じゃないのだろう。

更新 H12/10.15


瀬戸内 鹿持雅澄『萬葉集古義』による h12.10.14
こんばんわ 瀬戸内です。 訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』によるリンクされているのを知り ダウンロ−ドしました。実は今日も図書館行って読んでいました。もっと はやくこのサイトしていればとにかく 参考になります。作者に感謝いたします。

山本 祐佳 感謝します。 H12.10.13
図書館で「和歌山県の地名」(平凡社)借りてきました。めちゃ、面白くて、夢中で数時間読みつづけました。この本の存在を教えてもらいまして、どうもありがとうございました!

瀬戸内 ご教示ありがとうございます h12.10.13
せとう様 玄松子様 ご教示ありがとうございます。大変 参考になりました。今後もよろしくお願い申しあげます。

玄松子 玄松子の記憶 H12.10.13
>  五十猛命の子孫のいた地域について、玄松子さんから関心を寄せて頂きました。心強い気持ちです。
>  まず地域の伝承です。後世に百済王家が避難してきている事は最近知りました。(@_@)
>  また、小生の通り一遍の神社の調査ではない、地元に残る祭神なんかも知りたいですね。
>  それ以外に、思いつかないような「何か」が知りたいです。
僕は福岡なので、大分・宮崎方面は、ほとんどしらないのです。
各祭神(人名)は、残念ながら、日本神名辞典にはありません。
土日に他の資料もあたって見ますが、期待薄です。
「児湯郡」なんかの地名由来等の情報があれば、面白いですね。
図書館で、地名関連の書をあたって見ませんか。

玄松子 玄松子の記憶 「十種神宝」 H12.10.13
「十種神宝」の各名称は、具体的用途を示しているような気がします。
羸都鏡(遠くを映す鏡)、邊都鏡(近くを映す鏡)。
宮地では、比礼=剣として、三種の神器の細分化されたものと認識しているようです。
ちなみに、イザナギが禊祓で生んだ神に、奥津甲斐弁羅神・辺津甲斐弁羅神 、 奥津那芸佐毘古神・辺津那芸佐毘古神。
また、大年神系譜に 奥津日子神、奥津比売神。
能登に辺津比め神(め=口羊)神社があります。

 せとう  h12.10.13
名方濱宮のこと、山本祐佳様、お手数をかけさせました。誠にありがとうございます。 m(_ _)m
これもどこまで信をおけるかですが、{倭姫世紀}は、後人の偽作せる書なれば なんて所からみると書いている人は自信たっぷりですね。
伊勢部柿本神社の由緒書きに「井引の森」跡は、JR海南駅の東に大神宮遺跡と言う石碑があるやに書いています。名方濱宮の後裔は伊勢部柿本神社と言うことになりますね。

五十猛命の子孫のいた地域について、玄松子さんから関心を寄せて頂きました。心強い気持ちです。
まず地域の伝承です。後世に百済王家が避難してきている事は最近知りました。(@_@)
また、小生の通り一遍の神社の調査ではない、地元に残る祭神なんかも知りたいですね。
それ以外に、思いつかないような「何か」が知りたいです。

瀬戸内さん、投稿ありがとうございます。
羸都鏡 沖津宮(宗像) 奥津磐座(三輪)奥宮(神社)
邊都鏡 辺津宮(宗像) 辺津磐座(三輪の磐座神社) 田宮
八握劔   天照大神と素盞嗚尊 十握劔を咬むで奥津嶋姫 九握劔で湍津姫 八握劔で田心姫
ここまでですと宗像大社の雰囲気だありありです。
八握劔 大国主の国譲りの恫喝の剱でもあります。
生玉  生命力を付与する玉 生き生きした魂
死反玉 
足玉
道反玉 イザナギノ命が冥界の入り口に置いた磐石を道反大神と言う。
蛇比禮 大国主にスセリ姫が与えた領布
蜂比禮  上に同じ
品物比禮
 感じでしか言えませんが、取り立てて宗像大社と石上神宮との関連を示しているようには見えませんが、とことん調べていったら、宗像は遠賀川にも近いことですので、何か出るかもしれませんね。


山本 祐佳 名方濱宮のこと H12.10.13
図書館で紀伊国名所図絵を借りてまいりました。一部、旧字を新字にかえて書き写します。
「日方村の南に接する人家を名方といい、名方に接するを名高という。名方・名高合わせて今一村とす。前編名高浦の條下(くだり)を補うべし。さて当国造家旧記に、崇神天皇五十四年、天照大神吉備名方濱宮に遷座し給うことを記せり。この吉備とは、山陽道の三備の地にはあらで、この地の大名(おおな)なりしが、後世その名廃れたるなるべし。されど里伝にいささかしるすべき事もあれば、遷座の地は今の い引森にて、古は濱宮ともいいしなるべし。又{倭姫世紀}には、名草濱宮に遷座したまい、名方より大和国御室峯に遷座したまうよし記したるを以て、前編い引森の條下(くだり)に、吉備を山陽道の方とすれども、もとよりかの{倭姫世紀}は、後人の偽作せる書なれば、よりどころとするに足らず。おもうに、国造家旧記には吉備とのみありて、国の字なく、{倭姫世紀}に国の字あるは、この地の大名(おおな)なりし吉備を、三備の吉備国にまぎらわして、しか記せるならん。大和国へ遷らせ給うも、備中よりはこの地の方便あり。」 

玄松子 玄松子の記憶 五十猛命の子孫 H12.10.13
> 都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町 *都萬神社、五十猛命の妹神に抓津姫あり
これは、下のような順にならんでいるのでしょうか?
著書にある神(人)名  鎮座(支配)地  *瀬藤さんの想定神社
> 土地勘のある方から(ない人も)何かヒントが頂ければ・・・
具体的には、どのようなヒントでしょうか?

瀬戸内 辺津 沖津について h12.10.12 
十種神宝とくさのかむだから 饒速日命が高天原から降臨した際に 天神御祖から授けられた「天璽瑞宝十種」あまつしるしみずたからとくさのこと。
その中に (鏡)沖津鏡おきつかがみ、辺津鏡へつかがみ があります。
この沖津 辺津は、かの宗像大社の 沖津宮 辺津宮と何らかの関係があるように思えますが 浅学の私にはよくわかりません。

石上神宮と宗像大社の間にも深いつながりを感じますが、単に名を使っただけでしょうか


 せとう 五十猛命の子孫 h12.10.12 
山縣幡桃?さん 八幡信仰から段 親、下段 子   著者と瀬藤の注*
素盞嗚尊
五十猛命
豊都彦トヨツ   豊の国
豊津彦トヨツ   豊の国
都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町 *都萬神社、五十猛命の妹神に抓津姫あり
曽於津彦ソオツ  鹿児島県国分市 *韓國宇豆峯神社
身於津彦ミオツ  日向市美々津町 *立磐神社
照彦テル
志津喜彦シツキ  鹿児島県曽於郡志布志町
児湯彦コユ  宮崎県児湯郡
諸豆彦モロツ  児湯郡諸県
宇豆彦ウヅ  *紀氏の系図では宇遅比古の子、山下影姫(武内宿禰の母)と兄弟と同一名。椎根津彦と同一名辛島勝乙目 紀氏系図では宇之媛が宇豆彦の子、香春岳の辛國息長大姫大目命の大目は乙目をとったのではと推定されている。

土地勘のある方から(ない人も)何かヒントが頂ければ・・・


玄松子 玄松子の記憶 細かい話ですが H12.10.11
三嶋郡[ミシマ]:6座並小
御嶋石部神社[みしまいしべ]「大己貴神」新潟県刈羽郡西山町大字西池1258
この「西池」は、「石地」です。
「日本「神社」総覧」でミスプリントでしたから、国史大系でも、多分ミスしています。当然、昨日まで、玄松子もミスってました。
こういうミスを見つけ、修正していると、気分爽快なのは何故でしょう。

 せとう おやひこさま h12.10.11 
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦の弥彦神社の大森利憲宮司さんが、「峰の櫻ーおやひこさま物語」を執筆されました。
「文字のない時代のことであり、記録もありません。しかし、いい加減に書くわけにはいきません。 古事記や、この地方に伝わる民話、伝説、言い伝え、地名などを基にして記しました」との事です。
出版社は、三条市の野島出版です。定価は、1600円(税込み)です。 B6判、並製/160ページ/カバー付き
野島出版は郷土の歴史を綴るをキャッチフレーズにしているだけに、新潟県では有名です。 TEL 0256-34-3592/ FAX0256-35-1350
URL http://www.shuppan.co.jp/  一文も貰っていません。

 山浜 しみじみと・・・h12.10.10
先日、五十猛命ホームページをじっくりみましたが、私の田舎鶴岡市に五十猛命の多いことに驚きました。しかも山形では庄内だけ???
>大屋毘古の神の「大」は敬称で、これを取ると「やひこ神」となります。の話も目から鱗ボロボロです。
伊太祁曽神社に行って懐かしい気がしたのはその辺があったのかもしれません。
いつのまにか五十猛命ファンになってしまいました。

私も雅楽に興味があるのですが、近くに教えてくれるところがないようです。
龍笛なぞ、神社の境内で吹いてみたいと密かに思っております。


 D  h12.10.10
せとうさま>
たびたびありがとうございます!!
さっそく和楽器屋さんに行って篳篥の舌を買ってこようと思います。
あぁよかった。この間一つ壊したから。。。(爆)
和歌山にも結構沢山雅楽をやってる団体さん(?)多くてよかったです。(^〜^)

 せとう h12.10.9 
紀伊国名所図絵には活字の種類がいくつかあり、中にはミミズが這っているような字のがあります。
原文なのでしょうが到底読めるものではありませんので、出来るだけ普通の活字の本をお探し下さい。
上巻の中の三巻目で伊勢柿本神社の近く掲載されているはずです。名方とは名高、日方の近くのことです。

データベースに著作権は存在するや否や、と言うテーゼがあります。一般的にはないようですが、その配列等に工夫があれば著作権があるとされます。小生も年表をそっくりコピーされまして、所が小生の方に間違いがあって、コピーした方にも修正をお願いしましたが、無視されちゃいました。何かそれが恥ずかしいような気がします。コピーするよりされるHPであることを誇りましょう。


山本 祐佳 郷土史を知ることは楽しいです。H12.10.9
足守神社が「あしがみ」神社と読むとは驚きでした。立て看板によみがなが欲しいところです。
図書館へは明日参ろうと思います。「紀伊国名所図絵巻の三」でよろしいでしょうか。
名方濱宮って、名草の濱宮神社のことでしょうか。私でわかればよいのですが…(-_-;)

玄松子 玄松子の記憶 re:於美阿志神社へ行きました。足神さん? H12.10.9
於美阿志神社、本殿ありましたか。
昨年参拝したときには、石台の上に、岩があったんですが、新築ですかねぇ。

 せとう 於美阿志神社へ行きました。足神さん? H12.10.9 
>アモリ神社かねアシモリ神社かね
足守神社のサイトに「あしがみ」と書いてあります。足守で「あしがみ」のようです。

>こんどの掲示板は一筋なわではイカン
我?ながら良くできている掲示板と思っていますが、どんな操作をされたのでしょうか。何が問題だったのでしょうか。

山本祐佳様にお願いがあります。
今度、図書館へ行かれた時でいいのですが、紀伊国名所図会の第上巻にある第三巻のはじめのほうに名方濱宮の事が記載されているはずです。恐れ入りますが、その内容をメモして掲示板に紹介頂けないでしょうか。倭姫の巡行に関する記事だったと記憶しています。

スセリさん こんばんは 白岩神社の石室のこと、ありがとうございます。
台風でやられていたのですが、現在は再建されているのでしょうか。


 suseri http://www1.kcn.ne.jp/~suseri/  白岩神社の石室 H12.10.9 
せとうさん、こんにちわ。
ごぶさたしています。
先日は、書き込みありがとうございました。
龍穴神社のことを調べていて、白岩神社の石室のことがわかりましたのでお知らせする次第です。(^^)
もう、ご存知でいらっしゃったら、ゴメンンしてねん。

お隣の仏隆寺は、空海の高弟堅恵(けんけい)が嘉祥三年(850)に創建した室生寺の末寺であると。(室生寺の南の大門にあたるそうです) で
、白岩神社の玉垣の中の石室は「堅恵の廟所」なのだそうです。(重要文化財)
神社に僧侶の墓があるわけで、本来の神仏合体の形式を残しているというわけですと。
神社の玉垣の中に僧侶の墓…。
(-_-;

 紋次郎 こんどの掲示板は一筋なわではイカン H12.10.8 
アモリ神社かねアシモリ神社かね
 物言いには二通りあらぁ。喋るいじょう「他人にもわかるように」と、もひとつは木枯らし紋次郎が飛ばす楊子みてぇに「これ言わねぇと死にきれねぇ」という領域。
 先日らい、足守神社が顔をのぞけることシバシバだが、これアシモリと読んだ場合と、アモリと読めるのかどうかシランが(岡崎市の北に足助……アスケ)、アモリとでは内意に格段の差がでる。
 アモリなら「天降(アモ)る」が出る。
 アシモリなら 「has(神 < bas )を守る」とか「神の森」という内意を湧出させて、和歌山の“橋本”解釈にも大きな側面資料を提供するところとなる。和歌山の橋本先生はあっしの恩師じゃモンネ。
 一つひとつの神社が示している名前や祭神のちがいこそ「mi(神)koto(ことば)……ミコト」だ。
 ハツオンまちがや命取り。門外漢にも分るように神社名にはルビふってもらうわけにはいかんかね。

 せとう  H12.10.9 
yuka12>鳥取大地震
これは南海地震の前触れとも言われています。神戸では石の鳥居はそうとうやられていましたね。
くぐる時には、気を付けましょう。

和歌山の雅楽 情報の追加
海南市大野中の「春日神社」の三上さんとおっしゃる神主さんが、雅楽(主に管楽器)のサークルあるいは講座を春日神社で開いておられるそうです。

車庫前に和楽器屋さん(みさき和楽器 電話:073-436-3341)があります。


山本 祐佳 情報、ありがとうございます。H12.10.8
和歌山市の金屋町についての情報、有難うございます。和歌山の歴史を勉強する上でこちらのサイトは励みになりますね。(また「和歌山県の地名」探します。)
 野上荘の冷や水の高野明神社(もう一座は私にはちょっとわかりません。)は長峰の中腹にあり、どうも貴志川の曲がる辺りから長峰峠を越えて、有田郡吉備町の田殿丹生神社へとつながるルートの途中にあるみたいですね。実際参詣したわけではないのですが…
 南方熊楠翁のお父様は鍋釜の商いをされていたようで、鋳物師というのは特殊な職業で神聖なものとされていたようで、彼ら独特の祭りや神を祀っていたようです。
 それにしても鳥取大地震の余震が続きます。皆様お気をつけてください

 せとう H12.10.8 
 紀伊続風土記をみると野上荘には高野明神社が二座見えますが丹生明神は出ていませんね。
 金属に関係する若山の地名は
 内町に東鍛冶屋町、西鍛冶屋町があり、冶工の居る所なる故に名とす 丸正の西
    鍋屋町 本町七丁目と八町目の間、東に通する町なり 南海鉄橋の東
 北新町に北新金屋町があり、東御中間町の東に在て南北に続けり 紀和駅南500m
と見えます。
 吹屋町(吹屋とは金属精錬鋳造の屋)は新町 済生会病院の北側
 金谷は布施屋と紀伊小倉駅の中間の南1kmの山中

 地歴では平凡社の日本歴史地名体系の31巻目の「和歌山県の地名」に詳しいと思います。図書館にあると思います。

山本 祐佳 足守神社のこと、南方翁のこと。H12.10.8
足守神社のことでは色々お世話になりました。観音寺では人の気配を感じたので思い切って声をかければよかったと思いました。
私の神社の見方はまだまだ浅いなぁ、と反省しました。神奈備サイトの方は本当に親切ですね。(特に瀬藤さま、事前の情報をありがとうございました。)
南方翁の手紙の中の、和歌山市に金屋町があったことは幕末ではなく明治初頭の頃までだそうです。和歌山市は城下町らしく、職業に関係の有る地名が多く残されています。場所が特定できればいいのですが。
南方熊楠に興味を持ったのはここ数ヶ月からです。8月、熊野へ旅行した帰路、田辺の闘鶏神社まで参詣できればよかったのですが、田辺市内はT字路が多く車で走ると迷子になりそうです。地理音痴なので当分県立図書館の郷土史コーナーで本を探そうと思います。

 せとう H12.10.8 
奇しくも神社巡りについて投稿が続きました。
行っても解らない事はもちろんありますが、まず行かないとその神社について考えるスタートに立てないような気がします。
昨日は猪名川町から三田市方面の神社探索に行きました。田圃の畦にいかにも古老然とした老人が座っていたので、よこに腰を下ろして、色々地元の話を聞きました。実は八将神社を探していたのですが見つからず、困っていたので、聞こうと思ったのです。古老はそれは羽束ではハツカの事だと言い出しました。三田の殿様がこの地域に病がはやったとき、勧請してきたもので、あの山(羽束山)の頂上の向こう側にある。君の足なら40分で行けるよ。と酒臭い聞き取りにくい声で教えてくれました。書物では「ハッショウ神社」となっていましたが、ここではハツカと読むことにびっくりでした。  いわれは、勧請作業に二十日間を要したとか。

 足守神社は観音寺に声をかけて由緒書きをもらい、それを伊太祁曽神社へ持ち込んで、ついでに神社の書物を見ながら宮司さんとディスカッションを行っての結果です。やはり地元の古老との話の中からですね。

 神社はゆったりとした時の流れの中にあるようです。訪問するほうも、その気でお参りするのが秘訣ですね。


山本 祐佳 足守神社と丹生神社のこと。金屋のこと。H12.10.7
 どうもお久しぶりでございます。(私は和歌山県海南市在住です。行動範囲もその周辺です。他府県の方が読まれると恥ずかしいような内容ですが、あえて恥を忍んで書き込みます。) 

 和歌山市山東木枕の足守神社の記事、読ませていただきました。私も先月お参りしましたが行ってみてもわからないこともあるのですね。和歌山市と貴志川町の境にある大池と関係があったとは。

 寺院神社辞典は図書館に返却しましたが、たしかに手元に置いておきたくなる本です。(地図付きで方向音痴にも便利だ。)かわりに「丹生神社と丹生氏の研究」という本を借りてまいりました。かつらぎ町の丹生津比売神社へお参りに行く前に読んでおけばよかった。(神代における丹生津比売大神及び丹生高野御子神の御遊歴の図が興味深かったのですが、名草郡を回避していることと、野上庄を通過しているのに丹生の名が残ってないのは不思議です。)

 以前、平凡社刊「南方熊楠柳田國男往復書簡集」という本を読んだ折、南方熊楠翁から柳田國男翁への手紙の中に、鉄の残滓、いわゆる金糞塚についての問答があり、南方翁は和歌山市にも幕末頃まで金屋町があり、鍋釜を鋳たというので気になっていたのですが。岩出町にも金屋の地名はありますよね。うむむ、まだまだ考える事は多いみたいです。


玄松子 玄松子の記憶  H12.10.7
今日は、大分と阿蘇に遠征に行きました。
神社巡りを趣味にしていると、普通の観光が疎かになります。
別府では、地獄巡りを横目に見ながら、小さな神社を探し、
阿蘇では、観光客であふれている場所を避けて、廃墟のような神社に参拝。
そういえば、斑鳩でも法隆寺を素通りして路地裏の稲荷を撮影していました。家族や友人とは行けません。

 D H12.10.7 : ありがとう
せとう様、心斎橋の御津宮の吉田様
どうもありがとうございました。
和歌山にも雅楽団体があったんですね。チョット安心しました。

天理の雅楽は有名ですね。大学でも盛んに行われているとか!
宮内庁はたまにTVで拝見します。格式高さを感じさせる演奏ですよね。
今、私は天王寺雅亮会の方にお稽古をつけていただいています。
大学の授業なんですけれどね。とても楽しいです。

ご紹介していただき、ありがとうございました。

出雲大社は面白いですね。
出雲笛と言うのが有るんですね。はじめて知りました。
どこの神社でも雅楽、舞楽奉納をするのかと思っていたので、凄く意外性を感じています。

本日の地震、皆様ご無事でしょうか。
大きなお怪我をなさっていなければいいのですが…


 せとう H12.10.6 : 雅楽の追加情報
雅楽について出雲大社の方から
 世の中で最も素晴らしい雅楽演奏ができるが宮内庁雅楽部です。次にランクされるのは天理教です。
 和歌山市の天理教各教会でも、絶対に雅楽に力を入れていると思いますよ!。
 出雲大社には古来より雅楽は存在しません。どんな大祭でも出雲笛と太鼓のみです。
 地震お見舞い申し上げます。

雅楽について伊太祁曽神社の方から
 和歌山市神道青年会で雅楽講習会を行なっています。
 月に一度、岩出の大宮神社か竈山神社で開催されております。

と教えて頂きました。皆さんありがとうございます。


 せとう H12.10.6 : 紀の国の神 その一
 古事記では、国生みが終わると、イザナギ命、イザナミ命は、家屋の神とおぼしき神々(角川古事記の注)を生みます。土地を確保して住宅を建てると言う順です。理屈にかなった話です。家屋の神は六柱です。最後の神の名は大屋毘古の神です。この大屋毘古の神は、和歌山市山東の伊太祁曽神社(延喜式名神大社)の祭神の五十猛命の別名とされています。
いよいよ、紀の国の神の登場です。古事記のここでは大屋毘古の神の生成を語っているだけで、何をした云々は書かれていません。

 大屋毘古の神の「大」は敬称で、これを取ると「やひこ神」となります。弥彦神は新潟県の弥彦村の式内大社の伊夜比古神社(現在は彌彦神社)の祭神です。この「伊」も敬称でしょう。 この神社には、弥彦神は一つ目だったとする伝承があります。たたら製鉄に関係する神かもしれません。

 余談ですが、彌彦神社の一角に「アラハバキ門」があったそうで、山東の伊太祁曽神社の近くの木枕にあった履き物が奉納されている足守神社との関係なんかも面白いと思って参詣したのですが、どうもこの神社は12世紀に根来寺を開いた覺鑁上火が山城の愛宕山から勧請したとなっていました。
足守神社についての地元の説では、古事記の冒頭の別天つ神の宇摩志阿斯訶備比古遅と見る方もおられます。周辺は長く湿地帯であった事が傍証です。そうすると古い? いや古い神ほど新しく構想された?

 尤も、焼尻紋次郎さんによれば「や」もエデン語(古代世界共通語、ほんまかいな?)では神の意だそうで、伊太祁曽神社・彌彦神社の両社とも「偉大な神様」を祀っているのだと言っているだけかも知れませんが。・・それをいっちゃお終いよの世界ですね。


 せとう 雅楽 高野 H12.10.6
 おはようございます。
頂いておりました宿題になんとか一歩進みました。

【Dさん 和歌山の雅楽】心斎橋の御津宮の吉田様から教えていただきました。
「和歌山雅楽会」という会がありますよ。
天理教の方が主体でやっておられるようですが、一般の方も参加できるようです。
「和歌山県神道青年会」の方々も、何人か参加しておられますので、事務局へ問い合わせてみると詳しく説明していただけると思います。
 http://www1.odn.ne.jp/~yoshida (GaKu)
http://www.spoon.co.jp/gagaku/index.html (大阪楽所)

【都築さん 諸堂塔落雷炎上事件】
和歌山県史に正暦五年の伽藍焼失について触れてあります。3行程度です。
引用文献 和多秀乗「高野山の歴史と信仰」、「和歌山県の文化財」(清文堂)、「法蔵選書 高野山その歴史と文化」(法蔵館)、「日本の美術二二五 紀伊路の仏像」(至文堂)
 なお、これらは王朝時代の紀伊の章約200ページに対する引用文献です。念為。


都築 詳しく知りたいのですが… H12.10.5
はじめまして。都築というしがない学生です。
いきなりなのですが、皆様のお知恵を貸していただけませんでしょうか?
現在レポート(というか自主研究というか)で高野山や神奈備について調べているのですが、その中でも994年(正暦5年)に起きた諸堂塔落雷炎上事件について詳しい資料を探しています。
どんな些細なことでも良いので、何か知っている方、教えていただけませんでしょうか?
もしくは該当するサイトを知っているというお方も、是非お力添えください。
勝手なことばかり言って申し訳ありません。
それでは失礼します。

 Setoh H12.10.3
これが「自前」と言えるのかどうかです。
玄松子さんのおかげで、kammnaviサイトに掲示板が遷座できました。
見た目にはなんにも変わっていません。
これからも有意義な情報交換の場所にするべく、あいつとめます。

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.3
とうとう「自前」の掲示板ですね。おめでとうございます。

A.I. ありがとう H12.10.3
玄松子さんありがとう。スセリさんのHPからすぐに見られるようにしておいてくださったのね。スセリさんのHPも拝見したことあったけど豊鍬入姫さまと倭姫さまのご巡幸のページがあったことに気が付きませんでした。非常に便利なリストで助かりました。
神奈備のお仲間は本当にみなさん優しくて親切なのね。神様を深く知ろうとしている人達は心も穏やかになって、優しくなるのね。私も優しくなりたいな。
豊鍬入姫さまの足跡をたどって、私ももう一度和歌山に行こうかな。

 Setoh H12.10.3
山浜さん>田舎の山で遊んだ時のような懐かしいような、ほのぼのしたよう幸福な気持ち
 ありがとうございます。伊太祁曽神社を格別に大切にしている気持ちはそれなんです。

>境内は光にあふれて
 「燦々紀の国」と形容されるのですが、大阪から行くと植物相が濃く変わっていく感じと、陽光が一層きらめくように感じます。前日まで雨で心配していましたが日頃の心がけですね。
 日本国中、お宮さんは晴れの日が似合いますね。

>亥の社は寄れませんでした
 次回の楽しみですね。伊太祁曽の神は日前宮の所から亥の杜に遷座し、それから現在地に落ち着きました。

>奥宮まで
 それはよかったですね。権禰宜さんがそれほど愛想よかったのは珍しい事ですね。江戸時代の奥宮の絵をHPに入れてありますのでまたご覧下さい。


山浜 行って来ました!!!  H12.10.2
瀬藤さん 行って来ましたよー 伊太祁曽神社!!
すばらしかった。ちょうど小春日和で、境内は光にあふれておりました。
そのせいか、昔、田舎の山で遊んだ時のような懐かしいような、ほのぼのしたよう幸福な気持ちになりました。こんな気持ちは初めてです。
切り通しの土を見て思いましたが、「これなら木が育つ地質だなぁ、だから木の国かな?」とひとり納得しました。社務所で御朱印をもらって、禰宜さん?とお話しさせていただき、なんと、奥宮まで車で案内してもらいました(まことに幸せ)。
車の中では、瀬藤さんの話で大盛り上がりになり、ここまで調べられた瀬藤さんの熱意と努力と研究心に感心した次第です。
つい、境内にとどまるあまり、だいぶ時間がたってしまい時間の都合で亥の社は寄れませんでしたが、帰りにはとても名残惜しく、なんどもなんどもふりかえって、まるで自分の家を後にするような気持ちになりましたよ。
これで、和歌山にくる楽しみがまた一つ増えました。

日前・国懸神宮でも拝殿でお百度を踏んでいる人や、十言神咒を大音声でとなえる人がいたり、ちょっとカルチャーショックでした。尾張一宮の大神神社も趣のあるお社でした。今の現代社会は森を忘れてきてしまったことを痛感した旅で


 Setoh H12.10.2
呪的文化は人類共通の文化だった時代があって、科学技術は東西交互に進歩したり遅れたりの世界だったような気がします。21世紀、いよいよ東洋の時代が近づいてきたのではないでしょうか。ChinaとIndiaが力を発揮するのでしょうね。日本を見ていると一度文化や経済がクラッシュしてからの再出発になるんでしょう。これからの時代、どのような神話や童話が出来上がり、語られるのでしょうか。

瀬川照央 古代史倶楽部yokosuka  お立ち寄りください H12.10.2
日本人はどこから来たかを考える時、日本語の来た先を考えることも有力な傍証の一つになると思います。
そんな思いと朝鮮半島神話や柳田国男などもイメージしながら『日本語はどこから?』をアップしてみました。
お時間おありの折、お立ち寄りください。
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/nihongo.htm

玄松子 玄松子の記憶  H12.10.1
呪的逃走(Magic Flight)は、異類からの呪的な「逃走」がメインですよね。
白雪姫の場合、悪とされる継母が、その呪的方法を用いている事。
また、善とされる小人達が、屍肉にたかる雷神。と全く正反対の立場。

たとえば、呪的方法をアジア的、鉱山技術・医療などの科学を西欧的とした場合、アジアでは科学技術を持った異形(西欧)からの呪的逃走。
西欧では、呪的文化を持った異形(アジア)の脅威・攻撃を
神話・童話で表現していると考えることもできませんか。
などと、ジクジクと考えております。

さらに、七人の小人は鉱山技術者だと思うんですが、産鉄民であるかもしれません。温泉等にも関連しそうです。
中には医者もいますが、少彦名も、温泉・医薬の神でした。少彦名も異郷からの来訪神ですね。


 Setoh H12.10.1
>古事記黄泉国神話の類似性の説
 白雪姫につてではありませんが、呪的逃走については、
『カレワラ神話と日本神話』小泉保氏 NHKブックス
に日本、ウラル、ヨーロッパのそれぞれが紹介されています。
なお、カレワラとは森に神々のいますフィンランドの神話です。
 例を一つ ウラルのマシン族の呪的逃走
 逃げた人 モーシ姉妹
 投げた物と成った障害物
  砥石  岩山
  櫛   森
  火打石 火。

 ところで、山浜さん、伊太祁曽神社のご感想は?


玄松子 玄松子の記憶  H12.10.1
「宗像教授伝奇考」という漫画に、しらゆき姫と古事記黄泉国神話の類似性が載っています。どなたか、この説のオリジナルをご存知ありませんか。
因みに、その類似性は、
・しらゆき姫と七人の小人 = イザナミと八雷神
・鉱山(地下) = 黄泉
・ひも・くし・林檎による継母の攻撃 = かずら・くし・桃によるイザナギの反撃

玄松子 玄松子の記憶  H12.9.30
> 玄松子さんのHPにゲストブックが設置されました。
動作テスト中なので、「しばらく内密に」って、ここで書いたら意味ないですが。
単なるゲストブックなので、コラボレーションは、神奈備で。


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