神奈備掲示板の平成十三年五月ログ

荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置

掲示板のログ(平成十三年五月)お名前の敬称は略させて頂きます。
更新 H13/5.31    過去ログへ


[1173]  鹿が好物   [玄松子]  05/31

筑前の志賀海神社について、少し調べていました。志賀=鹿で、鹿の角数千本が奉納されています。安曇族により奉斎されていた神社ですが、諏訪の千鹿頭神社を思い出しました。

境内には、安曇の祖神として、宇都志金拆神も祭られています。この神は大神神社の末社にも祀られ、三輪山中磐座の遥拝所になっています。諏訪下社の大祝は金刺氏でしたね。ちょっと似てる。

対馬では鹿ノ島の志賀島神社がありますね。対馬も安曇磯良など、安曇の根拠地ですね。


[1172]  健御名方かわいや神社  [setoh]  05/31

玄松子さん>山城の式内の須波神社の論社の一として、
・賀茂御祖神社境内摂社河合神社末社諏訪社(下ノ諏訪)
立地としては、川合いですね。水神あるいは水を統べる神でしょうか。

川合神社、河合神社を調べて見ました。

茨城県常陸太田市上河合町 河合神社「武甕槌命」
新潟県北蒲原郡黒川村大字熱田坂 川合神社「多奇波世神 ほか」
新潟県北魚沼郡川口町大字川口 川合神社「天水速女命」式内論社
石川県輪島市下黒川町 下河合神社「菊理媛神 ほか」
長野県長野市真島町大字川合 川合神社「健御名方命」
長野県長野市大字川合新田 川合墾田神社「天照大御神」
長野県松本市島内 川合鶴宮八幡神社「品陀和氣命 ほか」
岐阜県恵那市笠置町河合字中切 河合神社「天照大御神 ほか 配 建南方命ほか」
三重県員弁郡藤原町大字川合 川合神社「建御名方命ほか」
京都府京都市左京区下鴨泉川町 賀茂御祖神社境内摂社河合神社(下ノ諏訪)「玉依姫命」式内論社
京都府北桑田郡美山町中勘定 河合神社「大波女命」
奈良県吉野郡十津川村玉垣内 川合神社「菅原大神」
岡山県上房郡賀陽町大字田土 川合神社「譽田別命ほか」
13社の内賀茂を入れて4社、川合と健御名方命は有意性がありそうです。玄松子さんの「水神あるいは水を統べる神」は正鵠を得ていると言えますね。

kokoroさん>諏訪信仰の源流に安曇系海人による祭祀の古層
祭祀の古層とは難解(何かい?)航海の民の真水指向でしょうか。

所で、物部の重要な神社と川合ですが、
島根県大田市川合町 物部神社 式内社
奈良県北葛城郡河合町川合 廣瀬神社 式内大社
があります。諏訪信−川合−物部とつながりませんかね。


[1170]  丹生について  [マルヤ]  05/30

kammerさん、かつらぎ町商工会のHP見ました。
近畿にも「丹生都比売の会」ができるといいですね。
名古屋にも「丹生都比売の会」のようなグループがあるようです。
何か分かればこの掲示板をお借りしてお知らせします。

setohさんに教えていただいた強力・googleで【吉野三山】を検索してみました。(小生も自分のHPに少し書いているので)
そうしたら「摩多羅神はどこからきたのか」という面白いサイトに行き当たりました。
二章の中頃に吉野三山の記事があったのですが、丹生についても書かれていて興味深く、続けて読んでいくと、黒塚古墳の記事に「施朱」の写真があり、なんと 写真提供/神奈備へようこそ とあるではありませんか。
古代史、神道、神社関連で検索すると必ずといっていいほど「神奈備」さんが出てくるのですが、考古学関連でもsetohさんは造詣が深いことを改めて知らされました。
念のためと思い、「神奈備へようこそ」のリンクページを見てみると、やっぱりありました。(超まんだらの世界)と一緒なんですね。


[1169]  玄松子さんの配慮  [Setoh]   [玄松子の記憶] 05/30

玄松子さんが、諏訪の八剣神社、葛井神社をアップしてくれました。
他に、手長神社、足長神社もあります。
出雲の出雲国諏訪大明神と呼ばれる鳥屋神社もあります。


[1168]  荒神谷遺跡付近の建御名方神を祀る神社  [Setoh]  05/30

kokoroさんに送っていただいた荒神谷遺跡付近の建御名方神を祀る神社の地図をアップしました。
荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置

風来坊さん>小県郡には生島足島神社があり、略、信濃国造(金刺舎人、他田舎人か)が6世紀後半頃に政治的要請(王権勢力の浸透)から、略、祀ったもの
風来坊さん>生島足島神社について「建御名方富命が諏訪の地にお出でになるとき、此の地にお留まりになって二柱の大神をお祭りされ、米粥を煮て供せられたというから、諏訪神より古い神様である」

 「お出でになるとき」とは諏訪に鎮座する前としますと、建御名方富命が諏訪に座り込んだのは、6世紀後半頃以降となりますね。銅鐸祭祀の終焉と絡ませて見ると数世紀の差、感覚的に風来坊さんご紹介の説のどっちかがおかしいのかも。やっぱし私の感覚がおかしいかも。
 6世紀後半には朝鮮半島は乱れていたようで、それと東国に広がった信濃の諏訪神信仰が、例えば物部守屋の残党と結びついて云々と考えると、欽明、舒明天皇がやっと国をまとめつつある段階での大和王権には脅威と写ったのかも。
 諏訪信仰と物部の残党、一つは東国、一つは駄洒落で洩矢と守屋が似ている。お粗末の一席、笑福亭純瓶のニセモノでした。

以下、妄想。
 和歌山県では那智勝浦町に集中しています。この辺り、秦氏が臭うんですよね。

 港に多い神とすると、交易の連中が持ち歩いた可能性がありますね。武将、寺社は交易で競り合って、神社は港港に分祠を置いていったようですから。安曇が交易したとすれば、建御名方神を置く方が和多積神より迫力がありそうですね。


[1167]  普通名詞的な神様のなまえ  [焼尻紋次郎]  05/30

 風来坊さん、きのふは同類項扱いしてアマカネ。
 「サ=稲」は100%でませんか。残念。だども、宮城のササニシキ……伊達家の紋所か……うううん。
 銀シャリをシッダルタさんの骨にからませた解釈……ちょとムリを感じます。やっぱ、どっかに sal の語形で「稲・米」がころがっていそうですね。
 先日、THAMBA (柱・丹波)がらみの巨大概念をみつけたばかりです。中米のサンバ / サンバおどり興味つきなし。http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi にもわらじ脱いでくつろいで下さい。

 サリセッセよ、長野から新潟にゴソーッと神様が移動なすったということですが、新潟は広い。もしかしたら「シバ(新発田市)・ムラカミ(村上市)」連合による北部平野開拓と関係あらしまへんか。地域的な偏りで、上が言えたらバンザ〜イでアマカネ。
 ここ埼玉では708年、シバ川にそって稲作が企画されている……と、おら惟ふ。

 KOKOROさん、とりとめない、おらの印象だけだどもヨォ、スワはあまりにも普通名詞的に“神様”です。スワにはいまひとつ「唇」という意味があります。ここから(海からの)入り口という意味が作用しているような気がします。
 琵琶湖西の安曇(あど)……おらは adho(めくら神=童神)と睨んだ。ケイタイ天皇・製鉄の場で有名ですが、ここに日本最古の古墳が出たそうですね。遮光器土偶が出たというハナシは聞かれませんか。
 遮光器土偶の破片は奈良盆地、神戸市内から縄文土器といっしょに出土しています。
 スミヨシのこともあるしィ↑ 安曇(アズミ)も多分に普通名詞的だと思うんだがなぁ〜。


[1166]  無題  [風来坊]  05/30

紋次郎様、ご教示有り難うございます。
「サ=稲」… 実は全くの思いつきで、小生の独り言、呟きなのです。言語分野には知識がありませんが、周辺を眺めると「サ」の付く稲作関連の言葉が散見できます。
さなえ、さつき、さおり、さのぼり、さおとめ、さの神、さんばい、ささ、などの「サ」が気になりました。以下、小生の知る範囲で解説しておきます。
「さなえ」は早苗、稲苗。「さつき」は旧暦五月で田植月で「サ月」。稲苗を植え付ける女を「さおとめ」五月女? 早乙女?。「サの神」は稲の神様で「田の神」と同義か? 「さおり」サ降りで春に神迎えをし、終わると「さのぼり」という行事を行う。「さおり」「さのぼり」は対の言葉でしょう。能楽の三番そう(捜の手偏がない)は「さんばい」様の降臨の舞で、さんばいが三番に転化されたものではないでしょうか? 因みに「さんばい」は「田の神」ではないかと思います。広島県庄原地方にウツギの花と萱と幣を結い合わせて「さんばいおろし」という田植え前の行事があるそうです。「ささ」は勿論お酒のこと。
その他に「さばえ」「さみだれ」など…是は見当違いかも?
以上、小生の個人的な見解の範疇です。


[1165]  Re[1164]: 安曇系海人と建御名方神 [玄松子]  05/30

たまたま、今、「日本の神々」を読み直していました。
これ読み直して風来坊さんの書き込みを読むと、その、簡潔なまとめ方が良くわかります。

「日本の神々」に諏訪社からの勧請社数の県別一覧がありますね。
一番多いのは新潟1595社、次いで、長野1152社、群馬451社、埼玉318社です。
海の無い県が多くないですか? それとも長野は特別、群馬・埼玉は長野に近いからでしょうか。

ちなみに、滋賀は23社だそうです。
山梨の建岡神社や山口の周方神社など、諏訪大社系列社でも社名に「諏訪」の付かないものも多いようです。


[1164]  安曇系海人と建御名方神  [kokoro]  05/30

setohさん> 建御名方命の物語の形成は安曇族の信濃入りの後からかもしれませんね。
 これは示唆的です。例えば、過去ログH13.3.7のsetohさん『御柱と梯子』に、
> 諏訪大社の由緒から
> 古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
 とありますが、水の信仰が海の守り神となり≠ニいうのには、論理の飛躍があると思います(祈雨神と航海神の混同)。むしろ、諏訪信仰の源流に安曇系海人による祭祀の古層があって、それが古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされて≠「ることと関連している、という方が自然な気するのですが。

setohさん> 阿波の国のお隣の海に小豆島があり、ここにも安曇がいても不思議ではなさそうですが、『記』では、この島の名前を大野手比売と言うとあります。福井県武生市池泉町に、式内社須波阿須疑神社が鎮座、由緒に大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座とあります。
 これはスッゴイ発見ですよ!さらに神奈備延喜式神名帳の越前國を引用すると
> 須波阿須疑神社3座[スハアスキ] 延喜式
> 須波阿須疑神社[すはあずき]「倉稻魂命、大野手比賣命、建御名方命、太田命、大己貴命」大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座、この地の開発の祖神である。霊亀二年、倉稻魂命大杉の梢に影向さる。
 なななななななななななんと!4番目の祭神が太田命ではないですか!!太田命については『日本の神々4大和』「多神社」P200で大和岩雄氏が、『住吉大社神代記』に舟木連の祖とある大田田命≠ニ同一人物であると論証しておられます(須波阿須疑神社は三座とあるのだから、4番目の祭神は本来の祭神じゃねーだろ!、という鬼のようなツッコミはお止め下さい)。舟木連は多氏と同族ですが、安曇系海人との関連を感じさせる氏族です。うーむ、こうしてみると安曇系海人によって先行される建御名方神という着想は、調査すればもっとイロイロ出てくるかもしれません。

 ということで、唐突ですが滋賀県の神社でこの着想を試してみました。なぜ滋賀県?といぶかる方もおられるでしょうが、湖西地方に安曇川という地名が残っていることからも分かるとおり、琵琶湖沿岸にはかって安曇系海人が多くいたからです。資料として『滋賀県神社誌』を使用しました。この本に掲載されているのは1439社の神社であり、滋賀県内の神社は大部分、網羅されております。ただし、合祀社はこの数に含まれておりません。
 さて、この1439社から諏訪神社を抽出します。その結果、出てきたのが以下の7社です。
  @諏訪神社 建御名方神 大津市田上関津町
  A諏訪八幡神社 誉田別尊 長浜市春近町
  B諏訪神社 建御名方神 近江八幡市小舟木町
  C諏訪神社 建御名方神 近江八幡市馬淵町
  D諏訪神社 建御名方神 甲賀郡土山町市場
  E諏訪神社 南方刀美命 蒲生郡蒲生町稲垂
  F諏訪神社 建御名方神 高島郡安曇川町北舟木
 そして、この7社の鎮座地をよーく見ると…、
 ピンポ〜ン、ア・タ・リ〜!
 Fは安曇川町の舟木に鎮座してるではあ〜りませんか。ここはかって舟木村とよばれ、近世直前まで船大工が多かった土地柄です。また、この地に隣接して新旭町太田に、近江国高島郡の式内社、大田ヲホタノ神社の論社である大田神社があり、その境内社の六所船魂大明神は住吉三神を祭神としています。『日本の神々』の橋本鉄男氏は、大田神社の本来の祭神は後者だったと推定しておりますが(現祭神は天押日命)、さらに続けて、近隣の安曇川町青柳にあるもう一方の論社、太田神社が、船魂神として大田神を祀っていることなど揚げ、オオタという地名が上記の「大田田命」を連想させ、舟木の地名とあいまって当地に舟木連が居住した可能性を示唆しております(詳細は『日本の神々5山城・近江』P366の「大田神社」の項をご参照下さい)。
 Fは由緒に「創祀年代不詳であるが、明応六年(1497年)佐々木能登守造営す、旧諏訪八幡宮と称す」とあります。明応六年に造営≠ニ分かっているのに創祀年代不詳≠ニはコレ如何ニ?ですが、滋賀県の神社にはしばしばあること。社殿が造営される前はヒモロギとして樹木等を祀っていたのです。古社とみてよいでしょう。
 詳しい説明は端折りますが、@Dは由緒を調べると中世の勧請らしく、あまり古い神社ではありません。ただし、鎮座地の地名、関津∞市場≠ヘ交通の結節点を思わせ、中世期の諏訪信仰について示唆するものがあります。
 Bは、鎮座地の小舟木町という地名がたいへん気にかかるところですが、由緒を調べると、当初、富塚大明神という名前だった神社が、江戸期に諏訪神を勧請して今の社名になったとのこと。うーん、残念!!もっと創祀が古そうなら面白かったのに。ただ、もしかすると江戸期に安曇川町舟木の人たちが移住し、それで小舟木と呼ばれるようになったのが、この地名なのかもしれません。そしてその時、Fを分祀したのがBなのでは。
 ACEは由緒からいうと何となく古そうです。Aは「往古当社鎮座地に老杉あり、祠宇を建築し、御諏訪杉の樹霊を奉祀して、諏訪八幡と称した」、Cは「由緒不詳なれど、康和四年(1102年)社殿修復すとある文書現存す」、Eは「創祀年代不詳。延宝4年の社記によれば、上古祭神が信濃国より来て、鬼塚の鬼神を征討されて古池に奉斎す」とあります。なお、Aの祭神は現在、八幡神の誉田別尊ですが、由緒から言って当初の祭神は建御名方神だったと考えてよいでしょう。
 というわけで、『滋賀県神社誌』にある1439社のうち、古社らしい諏訪神社はACEFの4社だけ。そのうちFは安曇系海人の遺跡らしい安曇川の最下流、かつ舟木連とも縁がありそうな舟木という地区に鎮座しております。はてさて、これは偶然なのかそれとも深い意味があるのか?皆さんのご賢察や如何に。チョンチョ〜ン(お騒がせいたしました)。

 以上の部分まで書いてきたところに、風来坊さんのカキコで多氏系の舟木氏のことが示唆されているのを拝見し、思わず歓声をあげてしまいました。
> 信濃国造は多(太、意富、大)氏と同祖系譜を持ち、この系譜には肥君、阿蘇君、大分君、筑紫三宅連、伊予国造と言う氏族があり、安曇氏も筑紫を本拠地とする。また、伊勢船木直、尾張丹波臣、島田臣なども信濃国造と同祖であることから、信濃国造の性格が推察できます。

 風来坊さんはじめまして。すばらしいカキコですね!僕なんかが全然、知らない先人の研究をエッセンスだけ的確に紹介して、しかも偏らず、様々な説にバランスよく目配りするのは誰にでもできることではないと思います。伊勢志摩の建御名方神についても、よい資料があれば以上と同様な調査をやってみたいです。


[1163]  丹生都比売の会  [kammer]  05/30

>マルヤ様
>「丹生都比売の会」というのがあることを知りました。
そんなのがあるんですね。知りませんでした。丹生都比売神社のあるかつらぎ町よりも近隣の市町村の方が丹生都比売に関しての活動は活発かもしれませんね。ちなみに、かつらぎ町の商工会のHPに掲示板があり、書きこみをし始めました。でも、あまり見る人が少ないのか、書きこみが少なく、あっても町会議員に関する話ばかりで、丹生に関する記載にはあまり興味がないようです。商工会のキャラクターで丹生都姫を「わかひめちゃん」となづけて作っており、国道にもその絵が書かれた看板はあるのですが、絵はいい感じの絵であるにも関わらず、丹生都比売に関してはあまりこのHPでも取り上げられてないのが残念です。かつらぎ町の観光推進されているところでも、どちらかと言うと丹生都姫より万葉集?などでよく歌われた船岡山や妹山(いもやま)、背山(せやま)の方を押しているようです。
で、マルヤ様、丹生都姫の会って言い話ですね。このような取り組みをかつらぎ町の書きこみに書いてみようとちょっと考えています。あと、白浜町や新庄市などのように同じ名前の市町村が姉妹都市のように情報交換したりしているように、丹生に関する土地どうしでそんな事をできないかかつらぎ町商工会HPの掲示板で呼びかけようと思います。
いい話を聞かせていただきました。ありがとうございます。


[1162]  丹生都比売の会  [マルヤ] [Url] 05/29

4・5年前、初めて丹生官省符神社へ参拝した折に、宮司さんに教えていただき、「丹生都比売の会」というのがあることを知りました。
先日、そのことを思い出して、いただいた資料をさがしたのですが、どこへ仕舞ったのか出てきません。
会報の新聞や会員名簿などだったと思います。
「丹生都比売の会」と書かれた鉛筆なども作っていて、それも頂き、しばらく使っていたのですが、それはなくなってしまいました。
新聞には会員の活動が載っていて、高野山を訪ねたり、紀伊の丹生都比売ゆかりの神社を参拝した記事がありました。
その会員活動の記事をもう一度見たいと思い、さがしたのですが見つからず、宮司さんの名刺を頂いていたので、電話をしてみました。

宮司さんとお話をさせていただくと、その時のことを思い出してくださり、その「丹生都比売の会」は横浜の方が主宰するグループで、ここ2・3年は音信がないとの事。宮司さんも気になっていたらしく、一度連絡をとってみて消息が分かれば教えてくださることになりましたが、
もしどなたか「丹生都比売の会」のことを何かご存知でしたら、お教えください。


[1161]  Re[1157]: 掲示板、略してKJ板。 [玄松子]  05/29

>  所で、『日本の神々 白水社』を見ていましたら、諏訪大社の近くに八剣神社が鎮座していますね。

葛井神社というのもありますよね。
さらに、諏訪上社と諏訪湖の間の地区は、(瀬藤さん好みの)中洲という地名で、八龍社なんてのもあります。由来は知りませんが。


[1160]  さぐみ(陸稲) [焼尻紋次郎] 05/29

 風来坊さん、アマカネ。これニューギニア高地石器時代人の挨拶。至便にしてイミシンです。あっしゃケツに火ぃつけて……大略同類……カネ。

 「サ=稲」……知りませんでした。これはちょっとした研究者では常識になっている部類なんでしょうか? なにか、類例がありましたらぜひお教えアマカネ。

 青森県七戸町にサグミという地名があります。平坦なにんにく畑が広がっています。この意味なんなんだろうなぁと思っていたところ、沖縄でも陸稲をサグミといってることをしりました。さらについさいきん、グミとは小枝に密集してなっているちいさな果実をいう古代語であることを知ったばかりです。「サ=稲」はじゅうぶんに言えるかと思います。
 しかし、日本語と1200ペアの類似を見せるネパール語では sag は“植物”です。

 時代により、地域によりどんどん概念が変わってゆく言語のことですので、少しでも多くの語彙を知りたいわけです。(……発音のほうは、思っているほどには変化しないものです)。

 アフリカの東海岸沖で、小学校のこどもたちがビン詰めのアマカネ・レターを流しました。
すると、3 ヶ月半で三宅島に流れ着いたのでした。
 いまから7000年前までは世界中に直系7 m の巨木が生い茂っていました。人々はこれをくり抜いて世界中に散りました。
 インド西海岸にいた人々の言語が、日本語の中核になっているかと思われます。神様の粗形もくり抜き舟に乗ってきたかもしれません。

  レバノン杉などは ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi でNOW ざんす。


[1159]  無題  [風来坊]  05/29

setoh様、コメント有り難うございます。
皆さんの建御名方のお話を拝見していて、思わず書き込みました。
>伊勢津彦が伊勢から追われたのは既に伊勢には稲作農耕が普及し、
の発想から、
> S(強調)+阿波  → さわ → 諏訪
のSは「稲」の「さ」と考えられないでしょうか? 
諏訪の鐸(さなぎ)に繋がるような…

ともあれ、有り難うございました。また、おじゃまします。


[1158]  信濃の海人族  [風来坊]  05/29

 阿波国名方郡に和多津美豊玉姫神社、天石戸別豊玉神社があり、記紀は豊玉姫を海人の女としています。またワタツミは綿津見神、少童神としていずれも安曇連の祖とされている。阿波国名方郡に安曇氏が居たことは『三代実録』に「阿波国名方郡人正六位上安曇部粟麿」が宿祢の姓を賜ったと見える事から、安曇氏が名方郡を支配していた郡領級の一族と推測できます。『新撰姓氏録』には、安曇宿祢は海人綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後裔とあって、信濃国安曇郡に安曇部真羊、安曇部百島の名が見える。「神名帳」は安曇郡に穂高神社、川会神社(祭神は海人綿津見神)、更級郡に氷鉋斗売神社(氷鉋斗売は綿津見神の子、宇都志日金析命か?)、埴科郡に玉依比売神社(豊玉比売の妹神)が見られます。また、小県郡には海部郷があり、他に海野、塩田、塩川、塩尻など海に関わる地名が多い。童女郷もワタツミを連想します。また小県郡には生島足島神社があり、生国・足国とも書き摂津の海人氏族が祀っていた神だという。「神名帳」には摂津国東成郡に生島足島神を祀る「難波坐生国咲国魂神社」が見えるが、信濃国造(金刺舎人、他田舎人か)が6世紀後半頃に政治的要請(王権勢力の浸透)から国造の所在地である小県郡に生島・足島神(国土生成と発展の神)を祀ったものと推測できます。
 生島足島神社について「建御名方富命が諏訪の地にお出でになるとき、此の地にお留まりになって二柱(生島神・足島神)の大神をお祭りされ、米粥を煮て供せられたというから、諏訪神より古い神様である」と村沢武夫氏は「信濃の伝説」で、ナカタ神は生島足島神より後であると主張しています。小生の妄想ですが、生島足島神を思うと手長足長族を連想します。手長足長は「山海経」に見え、神武天皇記に登場する土着民ですが、諏訪地方にも手長足長伝説があって、後に諏訪大社造営の棟梁が此の神を祀り、立川流彫刻などに残っています。また、手長足長神を祀る神社が尾張にもあって、立川流と伴に尾張の山車などにその痕跡を伺えるように思うのですが…。
 諏訪大社下社は小県・伊那を通る東山道と安曇から来る道の交点にあり、下社の大祝が金刺舎人氏であること、祭神の南方刀美神と伴に祀られている八坂刀売神が安曇系の神であり、安曇氏と深く結びついている。また、下社の春・秋宮の造営に東筑摩郡と南北安曇郡が関わっていることも下社の性格を表しています。安曇郡の川合神社の社伝には「建御名方命の妃は海人の女なり」とありワダツミ神、タケミナカタ、ヒメ神を祀っている。これらのことから、タケミナカタと海人系要素を否定できない。信濃国造は多(太、意富、大)氏と同祖系譜を持ち、この系譜には肥君、阿蘇君、大分君、筑紫三宅連、伊予国造と言う氏族があり、安曇氏も筑紫を本拠地とする。また、伊勢船木直、尾張丹波臣、島田臣なども信濃国造と同祖であることから、信濃国造の性格が推察できます。


[1157]  掲示板、略してKJ板。 [setoh]  05/29

風来坊さんの御名は初登場ですね。ありがとうございます。
> 風神としての須波神
「風の祝」は風神祭祀を示しているようですね。一体、風神とは、「風吹くな」でしょうか、「風吹け」でしょうか。
 富山県婦負郡八尾町でたしか八幡社にフカン堂と言う名を持つ堂がありました。フカンドウの解釈について、普通風鎮と見ますが、紋次郎氏は「いざフカン、さあ吹け!」とも理解できるとの指摘をされたことがあります。金属製錬では、風は吹いてほしいのですが、稲作普及で、あまり吹くなと変化したとの説がありますね。立地から見れば竜田神は「吹け」でしょう。須波神もそうでしょう。
 諏訪大社が南宮の本宮であり、中の宮が美濃、児の宮は伊賀の敢国神社とするそうですね。

 伊勢津彦が伊勢から追われたのは既に伊勢には稲作農耕が普及し、また天照大神を祭る神宮も出来ていて、風よ吹けの神は遠くへ行けと言うことかも知れません。追われたのは、持統天皇が三輪君の制止もきかず伊勢へお参りにいったのと関連があるのかも。

 所で、『日本の神々 白水社』を見ていましたら、諏訪大社の近くに八剣神社が鎮座していますね。御渡り観察記録をした社だそうですね。諏訪と八剣、諏訪湖の湖底が布留川につながっていたなんて。石上神宮にお水取り儀式があったなんてことはあれば面白いんですが。


[1156]  須波の神・水内の神・建御名方・海人族  [風来坊]  05/29

 日本では古来より、山の他、巨岩、大樹、滝、清水、森などの自然物や、風、雨、雷などの自然現象も神として崇めています。稲を育む大地そのものを信仰の対象として祀る信濃の生島足島神社(上田市下之郷)は古くから知られています。
 信濃で最も早く史書に名が出ているのは「須波の神」と「水内の神」です。日本書紀の持統天皇五年の条に、「八月二十三日使者を遣わして、竜田の神、信濃須波の神・水内の神を祭らしむ」と記されています。竜田神は大和に鎮座する風の神で納得できるのですが、同じ時に、天皇はわざわざ使いを出して須波・水内の神を祭らしたのは何故でしょう?記録には勅使が遠い信濃に遣わした例は、天武天皇十三年二月の条に「三野王小錦下釆女臣筑羅等を信濃に遣わして、地形を看しめたまう。是の地に都をつくらむとするか」と言う奇妙なことが記されており、その後に度々竜田の神を祀る記録があります。信濃に特別な関心があったのでしょうか? 須波は諏訪の古名で須波神は、諏訪大社だろうと推測できますが、水内神は水内郡内に鎮座する神だろうと思われますが、特定できていません。

『諏訪神社旧記』には「御名方刀美神が、出雲より逃げて州羽湖に至った時、洩矢神が入国を拒み、御名方刀美神は藤枝、洩矢神は鉄輪を持ってお互いに相争ったが、ついに御名方刀美神に屈服して、洩矢神はこの地を奉献し、それからは御名方刀美神から祭政の命を受けた」とあります。『大祝信重解状』『諏訪大明神絵詞』にも同様の話が載っており、諏訪の地は洩矢神(守矢神)の所領であったとしています。諏訪の土着神が出雲から来たタケミナカタと諏訪の地の領有を争って戦ったという伝承は、『古事記』神話の話だが、タケミナカタが出雲から来たと即断はできない。タケミナカタについて、松岡静雄は海人族宗像氏の「ムナカタ」の訛音であろう(日本古語大辞典・語誌)とし、村松武雄はタケミナカタの「竜蛇形」を宗像系海人族の信仰と見る(『日本神話の研究』第1巻)古事記神話のタケミナカタは信濃に海人族が居たことの逆説明ではないかとし、志摩や伊勢の海人の居住地にタケミナカタ信仰の多いことを指摘している。『伊勢国風土記』逸文は、伊勢津彦神が天孫に伊勢の国を譲って向かった地が信濃国とある。同様の話は『倭姫命世紀』にも書いてあり、本居宣長は『古事記伝』で、タケミナカタと伊勢津彦の伝承の類似から伊勢津彦はタケミナカタの別名と見ている。日本書紀の持統天皇五年の条の記事は、風神としての須波神を祀ったもので、諏訪明神に「風の祝」と言う祭事があること、伊勢津彦が風神であり、伊勢津彦の住む外宮の神体山高倉山の隣の高神山にある神社の祭神がタケミナカタであることを傍証としている。

タケミナカタの「タケ」は「建」で「荒ぶる神」の尊称、「ミ」は「御」で敬称、「ナカタ(名方)」が神名。「神名帳」には阿波国名方郡の多祁御奈刀祢神社、信濃国諏訪郡の南方刀美神社二座が見える。大和岩雄氏は「阿波(徳島県)の名方郡の南に接する勝浦郡、那賀郡、海部郡を総称して南方と言う。御名方の意であろう。諏訪の神が南方刀美と言われ、諏訪南宮と言われるのも、阿波の南方と無縁ではなさそうである」と指摘している。また、南方の勝浦郡に事代主神社があり、諏訪神社の下社は八坂比売と事代主を祀っている。名方郡には八坂比売と似た名の天石門別八倉比売神社が見える。伊自波夜比売神社も見え、吉田東伍は「信濃諏訪神系の建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるは、伊自波夜比売神に由あり」(大日本地名辞書)として、この神を諏訪神の御子神としています。建御名方の「名方」は名方郡のタケミナカタトミ神を奉じた海人族が伊勢、尾張を経て信濃に入って諏訪湖の辺で祀ったと推測します。諏訪には古くから信仰されていたモリヤ神はミシャグチ(御左口)と呼ばれる巨木、巨岩に降りてくるナイーブな自然神を統括する神で、ミシャグチ神を奉斎する村々の連合体を統括するミシャグチ祭政の長が、後に上社神長になる守屋氏だったようです。そしてこの守屋氏が祀る神に乗っかったのがナカタ神(神名帳に載る御名方刀美神社)ではないでしょうか。


[1155]  Re[1153]: 石上神宮と建御名方神  [香具]  05/29

 kokoroさん、半端な妄想でスミマセン。まだまだ、というか、なかなか煮詰まらないもので・・・・。落書きレベルから這い出せません。
setohさんの『[1133] kokoroさんcopy心待ちです』に感激したりしてます。
>葛を食糧に衣料に利用していた国栖の民になぞらえて九頭と漢字化した・・・
という御説は、とても素直で判りやすいです。その逆はまず無いと思えます。
 これは都祁にもいえるでしょう。都祁村史には、『韓国朝鮮語で闘鶏は「ツゲ」と言い、この地方において古代闘鶏が盛に行われ、それが地名に「闘鶏」と書いてツゲと呼称されるようになった』という説も記載されていましたが、私には、黄楊(ツゲ)の樹から名付けられた地名で、後に渡来知識人により「闘鶏」の漢字を当てられたという方が自然です。

 八頭神社周辺の件ですが、天理市史の資料編を見ても、布留川上流域の古墳が詳しく掲載していません。竜王山や藤井町、桜井市に近い山中の古墳などは細かく載っているのですが、布留川上流域あたりは分布地図が殆どカットされています。国道やダムがあるので、未調査ということはないと思うのですが。(もしや、それ故に消されたのかな)。神社は、かろうじて破壊を免れた歴史遺産なのかも知れませんね。八頭神社や九頭神社の背後の山中には、冬場の下草が枯れた時期に再訪したいものです。

 葛についてのkokoroさんの、
>かっては良質な炭水化物としてさかんに取り引きされたのでは。
というご見解には、目から鱗の落ちる思いです。今までは、鉱物資源の方ばかり探していまして、『良質な炭水化物としての葛』にはゼンゼン気付きませんでした。
すごい【重要チャート】を教えて頂き、有難うございます。


[1154]  Re[1151][1126]: 確認くださってありがとうございます。  [のりちゃん]  05/28

> 神職さんの校正も入って良いものができています。皆さんも見直して下さいね。

記憶をたどりながら書いたんで、勘違いやらなんやら・・・。
確認してから公表するべきだったんですが・・・。
ってことで、またご覧くださいまし。
次はテープレコーダー持参します!!


[1153]  Re[1127][1090]: 石上神宮と建御名方神  [kokoro]  05/27

香具さん> 布留川が山中から平野へ流れ出す処、首根っこを押さえるように石上神宮があり剣の大神が鎮座するのも『暴れるなよ、暴れると使うぞ』というような象徴としての抑止力的な呪具の祭祀でしょうか。
 これは国譲りの時、出雲の伊耶佐イザサの小浜に下り着いたタケミカズチとフッツヌシが、波頭に逆さまにして差し立てて、オオクニヌシに国譲りを迫ったという十拳剣のことを連想しますね。そうして、『日本書紀』の物語を真に受けたとすれば、この剣こそはフツノミタマであり、タケミカズチから神武天皇の手に渡って、現在では石上神宮にある訳です。してみると布留川上流域の九頭神社群に建御名方神が祀られているのは、この連想が石上神宮の祭祀へ逆流したということなのでしょうか。あるいは、逆に石上神宮の祭祀が『日本書紀』に影響しているのでしょうか。建御名方神を祀る九頭神社は、天理市だけでなく宇陀郡にも2社あることを考えると、前者は否定される気がするのですが…。

香具さん> >布留川の上流域、八頭神社、ここはなんだか古墳のような感じに見えましたが、kokoroさん、いかがでしたか?
 香具さんも、あの小さな神社の背後にある丘陵が気になりましたか?僕もそうなんです。古墳であるという考えは思いつかなかったですが、祭祀遺跡で昔は禁足地だったのではないか、という感じを受けております。とにかくあの尾根は気がかりです。
 あるいは丘陵自体は非凡な地形ではなかった気もします。むしろ周囲の環境とあの丘陵のプロポーションの構成が、ただならぬ雰囲気を感じさせたのかもしれません。八頭神社の周囲、特に前面は田圃等になっていて山間部にしてはわりと開放的な空間になっていたと思います。デコかボコかでいえば凹的の感じの空間です。そしてその中にまさに古墳のように凸的なあの丘陵があり、その突端に八頭神社があるわけです。僕は、社地に入っても後背地が気になって、思わずあの丘陵に登ってしまいました(←猿みたいな奴です)。もちろん磐座らしき岩石の露頭≠ニかはナンにも見つからなかったです。タハハ、残念!

setohさん> 葛と中州の民は取引を円滑に行うべく、布留川出口に取引所兼倉庫をつくることとなった。商取引は神前で行う習わしで、そこに神が祀られた。
 これはきっと、天理市石上町に石上市イソノカミイチノ神社があって、付近に古代の市があったと推定されていることを踏まえているのでは?『日本の神々』の同神社の項にも、そういう話が載っています。しかしこの著者は恐らく、水運で淀川を遡ってきた物資が集積された市として捉えていると思います。上流域の物資もさかんに搬入されたという視点は新しいものですね。
 ご存じと思いますが、三輪山の麓にも海石榴ツバ市という市があって、日本書紀に名前が出たりしますが、和田萃先生はやはり淀川と初瀬川の水運にだけ言及しています。しかし、初瀬川をさらに遡れば九頭神社が多い桜井市の上之郷地区があり、ここからクズの人たちが葛とか材木を下流の海石榴市に出していたかもしれません。葛というと今ではお菓子みたいなものばかりですが、かっては良質な炭水化物(と思いますが)としてさかんに取り引きされたのでは。クズの人たちの主力商品だったのでは。そうして、現在の葛餅とか葛切りはその遠い名残りでは。

 習志野のてつさん、マタギの風俗や坂上田村麻呂についてのご教示、たいへん参考になりました。例の地図はどうでしたか。ぜひ、ご感想をお聞かせ下さい。


[1151]  Re[1126]: のりちゃん様みなおしたよ  [Setoh]  05/27

> オフ会のレポートみましたよ〜。

神職さんの校正も入って良いものができています。皆さんも見直して下さいね。


[1150]  梅雨の季節近し  [瀬戸内]  05/27

前略 梅雨の季節です。
箱崎八幡宮の紫陽花園の雰囲気は最高です。
何故か はまっています。
本家の宇佐には 紫陽花園は 無かったと思います。
八幡に紫陽花は似合います。
昔の本 太宰治 富士に----は似合うとありました。
とにかく 待ち遠しいです。


[1149]    居 座 る 神 々  [焼尻紋次郎]  05/27

 諏訪・紋々カネ
 サラセッセに正面きって「『かむなび』にネパール語なんざを並べたら迷惑じゃあらしまへんか」と訊いたり、サラセッセから「神様追求には古代語の追求が不可欠だ」との言質を頂いたこともなく、ミナシャンのみ胸借り借り、ここまで厚かましくも書かせてもらっています。

 きのふもサラセッセにおエメしたとき、馬韓(辰諱・弁諱)と下関の古名の馬関の酷似に気がついてア然となったのでした。Bagwan, iswar, iswor , Cand , Durga などは多くの単シラブルの神々(例 ; i , si 、li , mi , ta , o , )のなかにあって、2シラブルを示すインドの神々の一部です。これらは貴重な残滓です。
 諏訪は iswar , iswor の日本語版以外のなにものでもありません。僧侶への尊称を Swami といいます。 mi は尊身とか神です。iswar の語頭の i は、「のっけから s が発声できない氏族語のクセによるもの」ではなく is そのものが神だったと思われます。is-o ……いその神カネ。war , wor は「土地」だと思います。
  詳しくは http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で。

 日本の国家形成期は奈良に葛城氏が抬頭してから応神支配が確立するまで……で、いいのでしょうか。
 なんで神様を「エンキ」式という罰当たりランク付けをやらかしたのか……。ここにはいろんな風があっちからこっちから吹きつけていたのでしょうが、コトの本質は「エンキ(土地神)」という言葉そのものにもあるようです。

 ハナシを前後させましたが、エンキ式が確立されるまでは、「支配的神話に登場する神々」はこの日本列島には皆無で、その代わり、鳥神、柱、男根、童神、先祖霊、へび、風雷岩など(これらを“凡極東・第一グループの神々”と呼ばせてください)が祀られる代表だった……。
 そこへ、金属製錬士たちは「支配的神話に登場する神々(ここを第三グループの神と別称させてください)」を新たに登場させるのですが、このとき、黒、剣、鏡、小人、耳、一つ目、龍、水脈・川、くなど、サエ、アマ・ナカ、クマリ・クマリ・コマラ、牛・ツノ、太陽(これらを“凡世界・第二グループの神々”と呼ばせてください)を新たに登場させて、第二グループと混在させながら“凡極東第一グループの神々”を消したのでした。
 いま、神社に祀られている神々は「第二グループの神々」が主幹となっているかと思います。
 
 金属製錬士が日本列島に上陸したということは、ものすごい意識革命で、ことばの革命でもあったわけです。


[1148]  初めまして  [まゆり] [Url] 05/27

昨日SINさんのチャットでこちらをお伺いしたので、参上いたしました。
いだきそ神社が紹介されていたのがとても嬉しかったです。
私は和歌山生まれで名付け親(本名のほうです)が「かまやま神社」なので、とても懐かしかったです。
実家にいた頃は毎年除夜の鐘を聞いてから、いだきそ→かまやま→日前宮と廻るのが慣例でした。
特にいだきそさんで頂く御神酒が美味しくてバキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
また勉強させて貰いに参ります。
よろしくお願いします。


[1147]  無題  [なちゅうー] 05/26

どうもありがとうございます。
神奈備延喜式神名帳ってすごいですね(*^_^*)
実は伊波比神社の流鏑馬が有名です。
そして、武勇を司る神様の経津主(ふつぬし)の神のまたの名を伊波比の神と言うそうです。(日本の神様読み解き辞典で知りました。)
あ、これは同じ名前なのでなのでもしかしたら、経津主の神も古い神様なのでもしかしたらいらっしゃるかなぁ?と思って聞いてみました。
でも、いらっしゃらないみたいですね(T.T)
でも、玄松子 さんのおっしゃるように本来の祭り神とは別で本当はいらっしゃるほうが出雲の頃からの歴史とロマンがあって素敵ですよね?
(私の勝手な解釈?)
ではでは


[1146]  さき越されてしまった。 [玄松子]  05/26

由緒もあるので、神奈備延喜式神名帳の方が良いでしょう。


[1145]  Re[1143]: 名前を教えて頂きたいのですが  [玄松子]  05/26

> この祭られている神様の名前が分かりましたら教えて下さい。

20もありますから、参考になるんでしょうか。周辺神社からの合祀で、本来の祭神とは別だと思いますよ。

大名牟遅神、天穂日命、須勢理比売命、息長足姫命、(明治神社誌料ここまで)
豊受姫命、菅原道真公、迦具土神、素盞嗚命、建御名方命、大山咋命、大国主命、少彦名命、上筒男之命、*大日め貴命、天鈿媛命、伊弉諾命、伊弉册命、誉田別尊、*高おかみ神、大雷神(式内社調査報告より)

*大日め貴命:「め」は雨冠に口3つに女
*高おかみ神:「おかみ」は雨冠に龍

主要祭神のオンパレードですな。


[1144]  Re[1143]: 名前を教えて頂きたいのですが  [Setoh]  05/26

 神奈備延喜式神名帳の武藏國をご覧下さい。


[1143]  名前を教えて頂きたいのですが  [なちゅうー]  05/26

レスありがとうございます。m(._.)m
なちゅうーです。
この祭られている神様の名前が分かりましたら教えて下さい。
いろいろ調べたのですが見つけられなかったのです(T.T)


[1142]  Re[1141]: 無題  [玄松子]  05/26

> 祭り神でおおなむち命と他8柱のうち8柱の方をご存じの方

明治神社誌料では四柱、神社名鑑では十六柱、式内社調査報告では二十柱となっています。
現在はもっと増えているかもしれませんね。


[1141]  無題  [なちゅうー]  05/26

こんばんは。(*^_^*)
埼玉県にある県内最古だという神社で出雲伊波比神社の由来と祭り神でおおなむち命と他8柱のうち8柱の方をご存じの方いたらおしえて下さい。
よろしく御願いしますm(_ _)m


[1140]  Re[1122]: 建御名方  [Setoh]  05/26

> 建御名方の名について、本居宣長は「阿波国の名方郡」との関係を示していました。太田亮は、それを否定しながらも、八坂刀売が安曇の女であり、阿波の名方が安曇の一根拠地なので、関係あるかも、としていますね。

> 阿波の国(徳島県名西郡石井町)に式内社の多祁御奈刀弥神社(たけみなとみ)が鎮座
> 長野県更埴市大字粟佐に式内社の粟狭神社[あわさ]「健御名方命」

「諏訪」と「阿波」の解読を紋々と考えましょう。
 S(強調)+阿波  → さわ → 諏訪
 阿波+S(強調)+a(?) → 粟狭
 いずれにしても、二重に諏訪は阿波の移転地名と言えます。(本当か?)

 安曇海人は双方に関連している氏族ですね。阿波の伊射奈美神社、信濃の穂高神社が見えますね。

 伊勢國をワンクッションにしたら思考の幅が広がるようですね。(白水社『日本の神々』参照から


[1139]  事代主神  [玄松子]  05/25

> > 事代主+建御名方は、ニギハヤヒ+長脛彦に似てませんか。

単に、神話のモチーフのバリエーションは少ない、繰り返す、という意味だったんですが、なかなか複雑。面白いですね。

>  事代主を祀る式内社は大和に鴨都波八重事代主命神社、高市御縣坐鴨事代主神社と大社として記載されていますが、出雲では、青柴垣神事の美保神社が小社で、祭神は事代主とされています。不思議なことに阿波国式内社に事代主神社が二座ありますね。忌部氏と関係があるのかも。要調査ですね。

葛城では、事代主と似た神に、一言主がいますね。で、この一言主の伝承では、高鴨神と同一視される場合があります。葛城の事代主は、みな鴨ですね。ちなみに高鴨神は土佐へ流され、土佐神社の祭神になっています。阿波経由でしょうか。

出雲には大社が2つしかないんですよね。美保神社は現在、別号大御前が三穂津姫命で、別号二御前が事代主神の二座ですが、延喜式では二座と書かれていませんね。三穂津姫命だけだったのかもしれません。出雲には、事代主神を主祭神としていた独立の式内社は筑陽神社しかないんじゃないでしょうか。ひょっとしたら、まったく無かったのかも。こちらも謎な神です。


[1138]  「ふみ」……ハチオンに間違いないあるか?  [焼尻紋次郎]  05/25

 ならば、bhumi で意味は、ただの「陸地」であ〜〜る。
 北海道旭川市チカブミカネ。


[1137]  Re[1133]: kokoroさんcopy心待ちです  [習志野のてつ]  05/25

>…中州には中州の地主神、ナカスネヒコが祀られていた。中州+根+彦である。
長髄彦の出身は以下の地と、またしても『神奈備』に出ています。ウ〜ふっ深い。

不弥国 ふみ
東南して不弥国に至るは百里。曾彌族のいた曾根崎で、富美の長髄彦の祖先の地である。
官は多模(たも)、副官は卑奴母離。
戸数は千余家。宗像郡福間町である。
http://www.kamnavi.net/ym/ymroute1.htm


[1136]  Re[1130]: 須波 と 出雲  [setoh]  05/25

> 事代主+建御名方は、ニギハヤヒ+長脛彦に似てませんか。

建御名方と長脛彦は、土地神にしたてあげると同じ意味の神になります。天津神軍に明確に敵対しかつ敗北したとの伝承は、天津神後裔が権力を握った後の記述ですから、古い土地神だった国津神は概ねこのような扱いになるのでしょうね。

 出雲の事代主は大国主の神託を伝えるメッセンジャーですね。一世一代の託宣をすると役割を終わるのでしょうね。ニギハヤヒはより積極的に天津神サイドに寄りますね。同じ天神だと言うことですから、祭祀がらみで言うと、事代主は宇摩志摩治に近いのかも。
 
 所で、事代主とは、神託伝達の親分みたいなもので、出雲にもおり、大和にもいたのではないでしょうか。
 事代主を祀る式内社は大和に鴨都波八重事代主命神社、高市御縣坐鴨事代主神社と大社として記載されていますが、出雲では、青柴垣神事の美保神社が小社で、祭神は事代主とされています。不思議なことに阿波国式内社に事代主神社が二座ありますね。忌部氏と関係があるのかも。要調査ですね。
 
> 事代主+建御名方は、ニギハヤヒ+長脛彦に似てませんか。
これは拡張して
大国主 事代主 建御名方  饒速日命、宇摩志摩治、長脛彦
の方が神柄もお似合いでは。


[1135]  股 と 竜  [焼尻紋次郎]  05/25

 キリスト教の教えによると、人間を創ったのは神様だということですが、竜を創ったのは人間だということが、これで大略結論づけっれるのではないでしょうか。いや、浅いトランスでも竜の姿は出てくる(見せつけられる)といいますので、やっぱ恐竜時代、こころにできた遺跡なんでしょうなぁ。
 おら、股にこだわりました。実は「マタ」という響きには日本人はかなりな拘泥を持っているようです。
マタの分析……神域を穢すようですので http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で続けましょう。
* サリセッセが上の『ほにゃらか』で大黒様が紀記古文書に現れていない秘密をバラしてくれました。やっぱサリッセセは大“黒”柱でした(sal = kal = 黒)。今後もアマカネ。
* サラセッセが『あさもよし』で Nagsa をめぐって、モノスゲェこと書いてらぁ。鹿児島県だったか「羽犬塚」これあり。


[1134]  無題  [のりちゃん] [Url] 05/24

>これは、のりちゃんから教えて頂いたのですが、

あ、これは、別に私が考案したわけではなく、「また」に反応する私の仲間で、こんな話になったこともありましたし、この掲示板でも玄松子さんが同じような発言されてたと思います。

>「三叉」はたしかY字形。竜にすると頭は二つ。

三叉路ってのもありますね。
でも、この場合、頭がどれやら・・・。
松下幸之助の発明、二又ソケットも尾っぽは1つ。股を考えると0ですね。
0又ソケット?
う〜〜〜ん、間抜けですね。っていうより、どこが発明なのかわからない(笑)

それよりも、出雲を走っている「オロチ号」自分で進んでオロチのお腹に入ってくのはやだなぁ・・・と思うネーミングだと思わずにおれませんです。


[1133]  kokoroさんcopy心待ちです [setoh]  05/24

 古事記 八俣(ヤマタ)の大蛇(ヲロチ) から
足名椎(アシナヅチ)のせりふ
「我が女(ムスメ)は本(モト)より八稚女(ヤヲトメ)ありしを、この高志(コシ)の八俣(ヤマタ)のをろち年ごとに来て喫(クラ)へり。今、そが来(ク)べき時なるが故に泣く」とまをしき。ここに「その形は如何(イカ)に」と問ひたまへば、答へて白(マヲ)さく、「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭(ヤカシラ)八尾(ヤヲ)あり。またその身に蘿(ヒカゲ)と檜(ヒ)・椙(スギ)と生ひ、その長(タケ)は谿八谷(タニヤタニ)・峡八尾(ヲヤヲ)に度(ワタ)りて云々 引用は以上。

 このヲロチの描写から三輪山をイメージし、後に撤回したのが、梅原猛氏。その話は別にして、これだけ「八」が出てきて、中に八頭(ヤカシラ)なる語彙があります。八俣(ヤマタ)を取り上げて九頭と言うよりは、素直に八頭とみたいですね。

 葛(クズ)を食糧に、衣料に利用していた国栖の民になぞらえて、九頭と漢字化したのでしょう。

 それには以下の物語があったのです。だれがいうた。わえや〜。

 都祁から布留川上流域は葛の民の世界で、葛を食糧や、衣料に利用していたのでしょう。焼き畑も行われていた。
 また、大和湿地帯の中州には水耕稲作の連中が侵入。これらは適当に共存していた。
 それぞれに、土地の神がいた。葛はクズの神、これを久須斯神と称し、祈雨、豊穣、安全など全てを司った。桃尾の滝とその上流の奇岩はその祭りの場であった。その神は貴い名前(を申すのも恐ろしい)神、御奈(みな)の神と呼び、桃尾(とみ)に鎮座しているので、御奈刀弥(みなとみ)の神とも呼ばれた。

 また、中州には中州の地主神、ナカスネヒコが祀られていた。中州+根+彦である。自ずから葛の民と中州の民とは布留川を通じて取引が行われ、人々も交流していった。先進文化と米は中州の民から、各種素材は葛の民から提供された。

 葛と中州の民は取引を円滑に行うべく、布留川出口に取引所兼倉庫をつくることとなった。商取引は神前で行う習わしで、そこに神が祀られた。御奈刀弥(みなとみ)の神と中州根彦が祀られたのである。双方の民人は御奈刀弥の神を建御奈刀弥(たけみなとみ)と称え、トミの中州根彦と称えたのである。

 ある日、中州の与乃登神官が香具将軍の先導で桃尾の滝を訪れた。その優美な姿に感動し、また上流の奇岩に感銘し、突然、八岐大蛇の頭が剣となって降る姿を霊視したのである。これが八剣神社や八頭神社の由緒となった。
 
 八頭神社との名前を持つ神社が誕生したのを見た、さらに山奥や都祁に住む葛の民人は、自分たちの神を祭る聖地にも名前がほしいと土地の古老(ワカヴァヴァアとか言ったか)に良き名前を要請したのである。こういうこともあろうと待ちかまえていたヴァヴァアは即座にplus oneをして、九頭としたのである。八咫大蛇だから本当は頭は九つだと絵を描いての説明に、葛の民は狂喜乱舞したのであります。  


[1132]  二股 と 三叉  [玄松子] [Url] 05/24

物干し竿を高いところにかける、「三叉」はたしかY字形。竜にすると頭は二つ。
「二股をかける」の「二股」は、足二本必要。これも逆さに考えると、頭二つ。
日本語は、感覚的な言葉ですね。

さて、ヤマタの大蛇。
・熊手や扇のように、平面的に広がった頭
・逆さクラゲのように、リング状に広がった頭
・椰子の葉のように、とにかく広がった頭
・二本の首が、それぞれ二本に分かれ、その先が、さらに二本に分かれて頭がある
可能性はイロイロ。


[1131]   霊獣の特権 [焼尻紋次郎] [Url]  05/24

 おらは漢字、数字、キカイにはメチャ・オンチなれど……。
 
 するってぇと(あ、誰かのくち真似)、霊獣だからどうにもなるわけだが、車輪の軸棒みたいになってる竜のシッポはどうなってるんだろ? イボみたいに小さいのだろうか。もし長いシッポだったら首と首の間を九つの股にするためには、少なくともシッポだけは立体的にならざるをえんわナ。
 シッポの先端部分だけで繋がるヤリクチもある。こりゃタツノオトシゴの親分だ。
 アゴのところだけでつながっている……でも「九つ頭」と言えるんやろか。
 長い首の部分が立体的になっていたら、股を数えるときの組み合わせは……あ、逃げろ、こりゃ数学だ。
 でも「どっかへ移動しようかなぁ」と「複数のアタマ」がかんがえたら、それこそシリメツレツになる。サリセッセよ、こんなアホな想いも、すでに誰かが遊んだ跡でっしゃろか?
 そこまで考えなくってもいいのが「霊獣」というとこかな?


[1130]  須波 と 出雲  [玄松子]  05/24

山城の式内に須波神社があります。論社として、
・賀茂別雷神社境内末社須波神社
・賀茂御祖神社境内摂社河合神社末社諏訪社(下ノ諏訪)
・賀茂御祖神社境内摂社三井神社末社諏訪社(上ノ諏訪)
賀茂別雷神社の方は、祭神が阿須波になっていますが、昔は建御名方でした。
立地としては、川合いですね。水神あるいは水を統べる神でしょうか。
周辺には、出雲高野神社、出雲井於神社 など、出雲系がいくつかあり、出雲族の居住地であったと思われます。伊多太神社も近くにありますね。

事代主+建御名方は、ニギハヤヒ+長脛彦に似てませんか。

>香具さん重ねて提言。八つの股のオロチ……股が八つだったら頭は九つ。

歴史は繰り返されているようです。


[1129] Re[1128]: ハヤチネ山頂に岩があるか なければ風だ [香具]  05/24

>香具さん重ねて提言。八つの股のオロチ……股が八つだったら頭は九つ。
これは、のりちゃんから教えて頂いたのですが、もし放射状になっていたら、八つの股で八つの頭になります。(柔軟思考偉い)十種瑞宝の参考図中のひとつに、そのような剣がありました。古代インド風の武器、八剣。


[1128]  ハヤチネ山頂に岩があるか なければ風だ [焼尻紋次郎]  05/24

 ミナシャァ〜〜ン ヨドコベ 「ハヤ」が出たぞォ〜。
 これも“見落とし”だったんだヨなぁ〜。こんな重要語……、ことばは古代開発に役立つという信念で、性根を据えて見ていたら、もっと早く糸口として活用できただろうに。
 現代朝鮮語にあったアジュヨ。語形は pay 意味は岩。「ハヤ」へ開音化させたのはパーリ語のクセ。
 宮崎北部の海岸べりに並んでいる岩礁のハエは朝鮮からきたものだろう。ところが長崎では「バリ」という。朝鮮語のパイの「イ」は、「リ」と発音できない朝鮮人なまりだったのだ。李さん=イーさんカネ。
 ここでも、長崎 ⇒ 朝鮮 ⇒ 日本 の図式が出た。
 そういえば、ネパール語で岩はなんだったか……。見落としではなく、たしか……辞書になかった。

* 香具さん重ねて提言。八つの股のオロチ……股が八つだったら頭は九つ。イヌが西向きゃ尾は東。
  但し、ミナシャンが「全員そう思ったということ」と「真相」は必ずしもイクオールではない。
* 「フッ」という音の周辺には「破壊」これあり。くに造りの神チチブヒコ(破壊と創造)と関係あらへんやろか。近々まとめたい。
* おらっちこのごろ『日本の神様』ちゅう気の利いた本持っちょるモンネ。みていてビックラこいた。
  「ケツ」という音を含んだ神様の名前が二つもある。漢字をそれぞれの音に当てはめただけだから、ヒックリ返してもおなじことだと思ってツケ(=都祁)にしたんとちゃうやろか。「おおらか」カネ。
  「ケツ」のケには雷、食い物、日かず、気、……そして“毛”という意味がある。シュロの毛ならむ。

  焼け尻問答 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1127]  Re[1090]: 石上神宮と建御名方神  [香具]  05/23

マルヤさん、大いに笑わせていただきました! さて、ちょっと遅くなりましたが、
kokoroさんを始め皆さんの、ご投稿で大いに刺激されています。
>布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神
これがなぜ建御名方神なのか、行ってはみたものの見当がつきませんでした。
『九頭神社』→『九頭』→『九頭龍』→『龍神』の展開も自信がありません。まだ発音、『九頭』<『くず』(国栖、葛)のほうに惹かれています。(逆かな?まさか、九頭から>国栖、葛はないですよね)。インドのナーガ像は一身多頭のコブラが、扇のように頭を広げていますが、あれが『九頭龍』のモデルでしょうか。中国の絵では多頭の龍を見かけた覚えがありません。『龍神』→『水神』・水・川の象徴はどれぐらい昔まで溯れるのか、あるいは始めからワンセットとして登場したのか、中国の龍は日本の龍神と同じような捉え方だろうか、などなど・・・。そもそも、龍体とか蛇体の神について、まだしっくり腑に落ちていません。
こんなことをグルグル思いながら、ほっつき歩いてきました。

神戸でテレビのロケによく使われる港の見える岡があります。諏訪神社が鎮座しているので、この辺を諏訪山と呼んでいます。この諏訪神社は、再度山への登り口、これから山中に入っていく処です。当然、谷川も近くにあります。(行ったことはないですが)信州諏訪も山国と湖のイメージを持っています。福井県武生市、ここもなかなか山国ですね!神話では、諏訪から外に出ないと誓った建御名方神ですが、各地に勧請されています。その中で、海沿いの鎮座地はあるのでしょうか、やはり山の関係でしょうか。えべっさんと対称的なのかなと考え始めました。

>これらの九頭神社の謎を解く鍵が剣にある・・・
>荒ぶる神であった諸国の剣を、石上神宮の祭祀氏族であった物部氏が、
>神宮の祭祀に関係の深い布留川の上流域で国栖の人たちに祀らせた遺跡
>国栖の人たちには剣を用いる祭祀の権威がある

いつもながらkokoroさんの鋭いアフターケア!ただ行きっぱなしだけの私には、とても参考になります。神宝、依り代、ご神体としての剣ですよね。本によると、剣を龍体・蛇体の象徴とみる意見もありますし、五行説から金→水の相生を説く記述もどこかで見ました。
 しかし、私には『蛇を斬る剣』のイメージがあります。フツノミタマの『フツ』を、鋭利な剣が物を斬るときの音から由来するという説もありますが(信じちゃいません)、フッと、あるいはプツッと斬るイメージはロープのような細長いものを思い浮かべます、独断と偏見でしょうか。剣は、蛇を払ったり断ち斬るのに有利な器械のような気がするのです。
ひょっとしたら、龍を鎮め制御する神器として剣があるかもしれません。
 布留川が山中から平野へ流れ出す処、首根っこを押さえるように石上神宮があり剣の大神が鎮座するのも『暴れるなよ、暴れると使うぞ』というような象徴としての抑止力的な呪具の祭祀でしょうか。平野部の入口に氾濫を押さえる剣、山中の清流沿いに流れを増幅させる鏡、源流が湧き出す処に雫のような勾玉を・・・ではあまりに妄想ですね。

>イワオシワケノ命やタジカラオノ命、建御名方神と共に・・・岩に関係
>石上神宮・・・出雲との関係

出雲にも行きたいナ〜という気持ちは一杯ですが、とりあえず初瀬川沿い『大和の出雲』に行ってきました。巻向山にある『ダンノダイラ』と呼ばれる遺跡?です。『鳴神』HPのSINさんから教えていただいた処です。
 JR巻向駅から国道169号線巻野内交差点を渡り、三輪山と穴師の間の「車谷」を通り笠山荒神へ向う「大和高田桜井線」を「辻」へ向い登っていくと、右手の三輪山と巻向山の間の谷沿いに別れ道があり、『奥不動寺』の案内看板が見えます。そこを右に折れて、山中を道沿いに進むと、『真言律宗 巻向山 奥不動寺』に至ります。明治期までは出雲地区の集落の代表者が、まずこの寺へ登り、お参りする御札を頂いてから、『ダンノダイラ』へ向ったということでした。
 そこは、巻向山の南側(出雲地区側)の斜面にテニスコート程度の杉林の平坦地があり、ところどころに1mほどの磐が散在していました。ダンノダイラの天壇跡とおぼしき処から少し先に、しめ縄を張った磐座、中規模のドルメン?があります。これが出雲地区の祭祀の中心だそうですが、まだ不勉強。磐の上からは、杉木立に遮られながらも、初瀬川沿いの街並みが遠望できました。今回は場所を確認に行っただけで、調査も整理もできていません。時機をみて再度行こうと思います。
 巻向山側から見る、三輪山の裏面はなかなか荒々しい森の深さを見せています。素人でも躊躇する雰囲気です。ダンノダイラ周辺も面白いですが、登山途中の三輪山と巻向山に挟まれた道も結構、濃さを堪能できます。

>布留川の上流域、八頭神社
ここはなんだか古墳のような感じに見えましたが、kokoroさん、いかがでしたか?

布留川上流を抜けると福住地区『氷室神社』があるのですが、ひとまず都祁方面まで進んでみようと思っています。天理市『八剣神社』は都祁と関係あるようですし、都祁を闘鶏と書く本もありました。たしかにニワトリを闘鶏にしますが、日の出を告げる鶏だから『ツゲ』なら判るのですが・・・。石上神宮になぜあんなに鶏がいるのだろう。都祁と関係するのだろうか?
クズ・イズモ・ツゲ・・・・エンドレスだぁ〜!!
setohさん、またまた妄想の落書きが長くなりました、済みませんです。


[1126]  のりちゃん様みなしたよ  [kammer]  05/23

オフ会のレポートみましたよ〜。
読めば読むほど言ってみたかったと思ってしまいます。
私も霊視してほしかった。最近いいことないし。なんか取りつかれているって感じで。
あと、ご先祖様をどうまつったらいいのかも聞きたかったなあ〜。曾じいちゃんは神葬で家では神棚を作って祭っていますが、墓に行くとちゃんと他の仏葬した人とは違いますが墓があります。で、他の人は神主なのに仏葬で、人によっては神主なのに戒名?がアジャリであったり。神道だけども仏教で、もうごちゃごちゃ。


[1125]  オフ会続編?  [マルヤ]  05/23

女性神職さんを囲んでのお話を聞く楽しい宴。競馬シーズンですので無理やりにレース仕立てで中継します。
さて女性神職さんを囲んでの質問レースの始まり。

各馬一斉にスタートしました、いや一頭出遅れているようです。
好スタートを切ったのは内枠の方から美馬?と評判のカズラノノリヒメ、一馬身抜けて先頭にたちます。続いて二番手は才媛の誉れ高いノリトモソーラ。三番手をうかがうのは人気急上昇のツルノコウザオー、好位につけた実力馬のカグノホマレ。中団グループは団子状態、後方待機は大本命のサラドンです。
出遅れのマルヤンは最後尾を追走。
1コーナーを回って、続いて2コーナーに入りますが順序は変わりません。先頭の二頭の牝馬は快調に飛ばします。
向こう正面のバックストレートに入り、出遅れのマルヤンがムチをくれて、やっと中団に追いついてはきましたが、格下条件馬のマルヤンにはこれが精一杯か。
後方では追込馬のサラドンが自信たっぷり、軽く流しています。
さて各馬、3コーナーを回り、4コーナーにさしかかります。先頭の二頭はさらに引き離しにかかります。各馬は一気に差を詰めようと追い上げにかかった、4コーナーを回った、先頭は、先頭は変わりません。本命サラドンはいつのまにか中団まで来ている、ツルノコウザオー、カグノホマレは3.4番手をキープしている、マルヤンはずるずる後退、もうゴールまで100メートル、
差は縮まらない、縮まりません!サラドンは来ないか!
先頭は、先頭は、カズラノノリヒメか?ノリトモソーラか?、、二頭並んでゴールイン。

本命サラドンの豪脚は不発に終わりました。
悔しいかな神奈備厩舎牡馬連は後塵をあびたのでした。


もうすぐダービーなので無理やりこじつけてみましたが、ちょっと無理があるようですね。
ところで33年前の日本ダービーを覗いてみませんか。33年前と言えば昭和43年ですが、その時代の日本は高度成長の真っ只中で、若者の目は生き生きと輝き、大人たちも自信に満ちて明日を疑うことはありませんでした。
あの時代を回顧しながらマルヤが書いた、日本ダービーの心象スケッチです。よろしければお越しください。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/chikyu_001.htm  地球賛歌/ダービー馬へのレクイエム

「ちょっと待てや。そうゆうのんを我田引水ちゅうのんとちゃうんけ」・・(河内弁)
「そんなへたくそ。読みとうないわ」
と言う声が聞こえてきそうです。

どうもすみません。そのとおりです。勝手な馬名のネーミングといい、しかも敬称なしで。
どうか皆様、おゆるしください。


[1124]  Re[1122]: 建御名方  [setoh]  05/23

> 八坂刀売が安曇の女
これはこれは。建御名方命の物語の形成は安曇族の信濃入りの後からかもしれませんね。そう言う意味では地元女神への入り婿扱いだったかも。出雲からの逃亡は昔は朝廷にさからった一族の子孫だ、これ以降は忠誠をつくしなさい、ということでしょか。
 年に一度湖上に姿を現して逢瀬を楽しんだ? これが御神渡りかも。湖にいつもは坐す神、竜神だったと言えますね。

> 本居宣長
 おっしゃるように阿波の国(徳島県名西郡石井町)に式内社の多祁御奈刀弥神社(たけみなとみ)が鎮座しています。現在の祭神は建御名方命・八坂刀売命です。
 阿波の国のお隣の海に小豆島があり、ここにも安曇がいても不思議ではなさそうですが、『記』では、この島の名前を大野手比売と言うとあります。

 福井県武生市池泉町に、式内社須波阿須疑神社が鎮座、由緒に大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座とあります。

 また、長野県更埴市大字粟佐に式内社の粟狭神社[あわさ]「健御名方命」が鎮座、旧知名を船山郷というように安曇族がにおいます。粟も阿波を連想させます。

 これらは、安曇族の移動経路に、諏訪大明神を祀ったのでしょうかね。

> 謎な神です。本当ですね。判らないから神様をやっているのかも。


[1123]  Re[1121]: オフ会 [のりちゃん] [Url] 05/23

> みなさん、オフ会ではどんな内容の話をされたのですか?
> 教えて、教えて。興味津々!

ということで、力足らずですが、(っていうより、記憶量も足りない)私のホームページにて、オフ会レポートをアップしました。
よろしければご覧ください。
参加者の皆さん、「それは違うやろ〜〜」とか、「この話をせんかったら、抜けすぎやろ〜〜」とか、ご意見びしびしください。その度、訂正します。
よろしく〜〜〜。


[1122]  建御名方  [玄松子]  05/22

最近、書込みが多いですね。
「日本の神々」を読み直していたら、建御名方の名について、本居宣長は「阿波国の名方郡」との関係を示していました。太田亮は、それを否定しながらも、八坂刀売が安曇の女であり、阿波の名方が安曇の一根拠地なので、関係あるかも、としていますね。

「古事記」にあって「日本書紀」にないのは、「古事記」の編者が太氏であり信濃国司等と同族であったのではないかと「日本の神々」に記されています。太氏って最近話題になってませんでしたか。本居宣長は「書記に無いのは何故か」と疑問視していますし、津田左右吉は「後世の人の付加」と決め付けていますね。謎な神です。


[1121]  オフ会  [kammer]  05/22

みなさん、オフ会ではどんな内容の話をされたのですか?
教えて、教えて。興味津々!


[1119]  ノーノー・サケノミナカタ サラセッセ  [焼尻紋次郎]  05/22

 「ナーモ−」というのは name ……すなわち「お名前を唱えるも畏れ多いお方さま」、「御名にあらせられるお方樣よ」ということです。このナーモ−は日本には「なむ(南無)」、nomi で、入ってきています。

 タケ・ミナカタはサラどんが二日酔い酔いでカキコしたように「御名」方だろうとおらも惟ふ。
 「タケ」は途中で「武」へと意味が変ってきましたが、始原的には「足きり」だと思います。
 カタは後世での「お方樣」の“方”になるのですが、ここの場合は ka(の)ta(神)でしょう。

 神様がお顕われになったときには、「オーオー・オーオー・オー・オー・」と唱えるとのことを、サラどんが教えてくれました。掘井令以知さんの『語源大辞典』を見ていたら、かなりの古代に「ノー・ノー・ノー……」とも唱えられていたことが載っていました。Nー はネパール語で強調接頭辞 ですばい。
 この「ノーノー」で、日本の海岸べりに並んでいる「のう」がつく地名の二重性が割れたような気がします。海難除けのシナの「のう姫(一種のクマリ)」は14世紀でしたか、とても新しいのです。
 また、この「ノーノー」が「ノンノさま(幼児語 ; お月さま、花など)」にもなっていることを尻えて興味シンシンです。


[1118]  Re[1117][1114][1111]: 年寄りの冷や水かね  [玄松子]  05/22

> 御神体は諏訪湖と考えて間違いはないのでは、と思っています。証拠は御神渡り。

「神が渡る湖」ということは、いつもは居ないという気がします。僕は、通説通り、御神体は「人」であって欲しいと思うのですが。
信濃に、健御名方富命彦神別 神社があります。健御名方は族長の称号って可能性はありますね。

> 建御名方命を奉する氏族が最大の勢力となったと言う事でしょう。

とすると、「出雲出身」とする理由はなんでしょう。天孫以前、出雲勢力が強大であった頃の、地方選挙ということですか。

> カキコした本人もビックリ。「信濃国には神無月はない」も書きたかった
> のですが、余りにうろ覚えで、書ききれませんでした。ありがとう。

この信濃の明神は、建御名方ではなく、甲賀三郎のことではないでしょうか。蛇体・龍体ならば、きっとそうだと思います。ちなみに、甲賀三郎が蛇になってまで探し回った奥方は、大和添上郡の地頭の娘。三郎の母も同じです。ちょっと奈良に繋がってます。


[1117]  Re[1114][1111]: 年寄りの冷や水かね  [Setoh]  05/22

> 「土着」とすると、どの地方の土着なんでしょう。
実は諏訪湖は見たことがあるのですが、諏訪大社のどこへも参詣していませんので、言いにくいのですが、御神体は諏訪湖と考えて間違いはないのでは、と思っています。証拠は御神渡り。諏訪湖は他国へ運び出せないですから。

> 信濃では侵略者ですよね。
洩矢神を祀っていた所へ侵略して、この一族を取り込んで、守屋山の祭祀も手に入れ、建御名方命を奉する氏族が最大の勢力となったと言う事でしょう。
> 記紀
 記 and 紀  、記 or 紀 、どちらの意味にもとれますね。普通は and ですかね。
『紀』の持統天皇五年に、「使者を遣して竜田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ。」とありますね。強いて言えば、建御名方命が出ているとも理解出来ますね。


[1116]  昨日は有り難うございました  [sola☆] [Url] 05/22

オフ会おじゃまして、お騒がせしました。
とっても楽しい時間を過ごせてほんと幸せでした。
次は滝行ですか?興味津々、ぜひのりちゃんともども連れてってくださいね。


[1115]  Re[1112][1108][1096][1092][1090] 石上神宮と建御名方神  [習志野のてつ]  05/22

> タケミナカタが持って現れた後、千引きの石はどこに置かれ
> たんでしょう。…黄泉の国とこちらの国の境はどこに???
千引きの石 は 固有名詞ではなく「千人力」のような表現です。
十束の剣とか八束の剣とか、乙姫(兄姫)とかと同様かと


[1113]  Re[1111]: 年寄りの冷や水かね  [のりちゃん]  05/22

>  次回オフ会はどうやら桃尾の滝での滝修行か?

昨日はありがとうございました。
現役の神職さんとあんなに近しくお話できて、とてもしあわせでした。
私の頭でも理解できるように、丁寧に説明してくださって感激でした。あれだけ質問攻撃をしたのに、家に帰ってきたら、「あれを聞くの忘れた〜〜!!」って言うことが山盛りです。
次の滝行ツアーは、張り切ってメモ持って参上したいです。


[1112]  Re[1108][1096][1092][1090] 石上神宮と建御名方神   [のりちゃん] [Url] 05/22

> ●もしイザナミがタケミナカタほどの力持ちだったら…
> 怒り狂ったイザナミは、千引きの岩をイザナギに投げつけ…
> 現在の日本国はありえなかった。−私的邪説ー

いつも気になってたのですが、タケミナカタが持って現れた後、千引きの石はどこに置かれたんでしょう。
ちゃんとヨモツヒラサカに戻してもらえたんでしょうか?
そうじゃなきゃ、黄泉の国とこちらの国の境はどこに???


[1111]  年寄りの冷や水かね  [setoh]  05/22

 次回オフ会はどうやら桃尾の滝での滝修行か?

 大宇陀町牧の九頭神社の祭神が九頭大神、由緒に、建御名方神(久須斯神)をお祀りしていると出てきます。
クスですね。諏訪大社に鉄鐸が残っているとのこと。銅鐸=クスヒ(シ)説、またまた。

 建御名方は 建+御+名+方 、建は武神、御は敬称で大でもよい、方はやはり敬称で貴、持、主と同じようなもの、結局大名持に帰してしまう。出雲建雄神も何か両神の折衷案みたいですね。
 要するに、土着の神の普通名詞ではあらしゃいませんやろか?

 なお、県別に、建御名方を祀る神社と大国主を祀る神社を比較しますと、以下の◎4県が建御名方に軍配があがります。
      建御名方  大国主
◎ 新潟 1,463座  369座
◎ 長野 1,078座  305座
  群馬   411座  419座
◎ 富山   241座  142座
  埼玉   226座  386座
◎ 山梨   189座  177座
参考島根    56座  436座


[1110]  Re[1109][1108] 石上神宮と建御名方神  [習志野のてつ]  05/22

> 龍と化し、…建物の上を、八重に巻き尻尾はまだ諏訪に…話はここに、

カキコした本人もビックリ。「信濃国には神無月はない」も書きたかったのですが、余りにうろ覚えで、書ききれませんでした。ありがとう。

ところで玄松子さんのHPで最近載った志々伎(しじき)神社、私も行きました。
しかし玄松子さんのレポートを見てガックリ。直接見た私の印象よりも詳しい。
(話は 紋次郎席亭の「Y−I」に飛ぶ)


[1109]  Re[1108] 石上神宮と建御名方神  [玄松子]  05/22

> >  龍と化し、…建物の上を、八重に巻き尻尾はまだ諏訪に…話は
>  高校生の頃読んだ民話か「日本昔話」(←好きでした)かも?うろ覚え
> ですが、印象深く、画像的記憶になってます。判ったらご連絡します。

ここに、
http://www.nbnet.co.jp/yunavi/oldynavi/mukasi.html


[1108]  Re[1096][1092][1090] 石上神宮と建御名方神  [習志野のてつ]  05/22

> 荒神谷遺跡と石上神宮では年代のギャップもありそうですし。
荒神谷は興味森々 神奈備の森 森先生の本も 森々(シンシン)

>  およそ建御名方神が好き かつ 神社が好きな…
決め付けられても個人的に大当たり 心・動いてます。古書店(古書会館含む)での立ち読みや図書館での座り読みと云う手も、あります。でも送ってください。よろしくお願いします。住所メールでお送りします。

>  龍と化し、…建物の上を、八重に巻き尻尾はまだ諏訪に…話は
 高校生の頃読んだ民話か「日本昔話」(←好きでした)かも?うろ覚えですが、印象深く、画像的記憶になってます。判ったらご連絡します。

>   しっぽがあった…しっぽが付いた衣装を…
マタギの風習です。それを真似たのが登山家。どこでも座れるように、毛皮を腰に巻いてます。まるで毛の尻尾が生えているように見えます。

>  龍や蛇を祀る民族…
海人・海士・海女など、海に潜る漁をするとき、サメの害を防ぐ為、文身(イレズミ)を体に施します。「我々は仲間だ。襲うな。」との表現。潜水漁のできない寒いところでは当然ありえない。
伊勢でも、安房でもありますが、日本海側は五島列島にはあります。

> 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が祭って、普及した可能性が大きい。
諏訪大明神画詞 (すわだいみょうじんえことば)は、坂上田村麻呂の遠征を、諏訪大明神が助けた話が載ってます。攻めあぐねていた敵を、白馬に乗った武士姿で登場、一気に形勢逆転します。

> …坂上田村麻呂は阿智族だとの未確認情報も有る。…
大納言坂上大宿禰田邑麻呂者。出自前漢高祖皇帝。廿八代至 後漢光武皇帝。十九代孫考霊皇帝。十三代阿智王。率一縣同姓百人。出漢朝入本朝。応神天皇二十六年也。
「坂上田村麻呂伝記 『群書類従』による」−又引きです。

昔岡山に住んでいて、倉敷阿智神社から辿り着きました。阿智王の13代の子孫となるのですが、阿智親子が、呉から機織りの技術者を連れてきた話と、13代との時間差等考えたいと思ってまして、全然練れてない話です。恐縮。
☆ 今もそうですが、とりわけ昔は世間の狭さを感じます。

●もしイザナミがタケミナカタほどの力持ちだったら…怒り狂ったイザナミは、千引きの岩をイザナギに投げつけ…現在の日本国はありえなかった。−私的邪説ー


[1107]  キチガイ問答  [焼尻紋次郎]  05/22

 キチガイの言には時として基礎技術開発のヒラメキ誘発剤が含まれているものです。
 ただし、一般的にいって「シガン(鼻汁)もかけなくていい」ことのほうが圧倒的に多いようです。

* おらは田沢湖西南15キロの角館市で土着のオッチャンから聞いたハナシですが「山奥にはテナガアシナガ族がいる」……と言い伝えられているそうです。
  土地のモノノベ研究家あたりが洩らしたアヤフヤ情報が、民間に根を生やしたのかもしれませんが、やっぱ、取るに足らんカネ。
* 「尊」とは「精神性」に還元できる……とすれば、日本武尊とは、これ日本軍指揮官ということでっしゃろ? おらには日本武尊さんなど数百人ぐらいいたような気(チガイ)がしてなりやせん。
  日本武尊とかタケノウチノスクネとかが、“絶対に一人だ”というシカとした根拠はあるのでしょうか


[1106]  長脛彦と足長  [玄松子]  05/22

ニギハヤヒを奉じた長脛彦。建御名方を奉じた手長・足長。どちらも同じような名前で、土蜘蛛的ですね。
諏訪は、ニギハヤヒの子孫を連れて、大和から東国へ逃げたもの達の国かもしれない。その子孫が出雲建雄で、建御名方と同じか同族。
あるいは、出雲から出雲建雄グループは大和へ、建御名方グループは諏訪へ、ということかもしれない。
建御名方が、『風土記』に見えないということは、出雲居住の神ではなく、『古事記』にあって『日本書紀』に見えないということは、意図的に隠されたか、意図的に追加されたか、どちらにしても大和周辺の神(氏族の祖)のような気がするんですが。

神話上、素盞嗚尊の剣が、日本武尊へ渡る経緯はどうなっていましたかねぇ。


[1105]  Re[1104]: 出雲建雄神社  [kokoro]  05/22

玄松子さん > 出雲国風土記には建御名方命の名前は見えません。出雲国風土記には建御名方命の名前は見えない…ちょっと記紀に偏りすぎて出雲を見ていました←日本書紀には、ありました?
 さすがに鋭いツッコミでした。本当ですね。『日本書紀』に建御名方神の名前は出てきません。僕の早トチリでした。

玄松子さん> 石上神宮で本来、祀られていたのは、出雲建雄神社ではないかというのを何処かで読んだ記憶がありますが、どなたか知りませんか。
 わっ、出雲建雄神社に着目されていたとは。さすが、お目が高い。もう、ただ、ただ脱帽です。この神社は縁起がものすごく興味深いので、それを引用します。『式内社調査報告』には『神宮舊記』にあるものが引用されていますが、もっと読み易い『石上振神宮略抄』のを。
「石上振若宮は出雲建雄神なり、この神は日本武尊帯オビる八握剣の神気御名なり、旧名天叢雲剣アメノムラクモノツルギ申、熱田祝部尾張連等掌ます神これなり、天智天皇御世、新羅の僧道行ドウギョウ、くだんの宝剣を盗逃げしが、境を出ること不能、難波浦にすて帰りしが、国人宝剣を取り大津宮に献上する、天武天皇都を浄見原に遷さる時、大殿内に留座すか、朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟に天皇病給い、熱田神宮へ送り遣さる、その夜、石上神宮神主布留宿邑智フルスクネオフチが夢に東の高山の末に八雲がのぼりその中に神剣光を放ち国を照らす、その剣の本に八っノ竜座す、明旦彼地に到て見れば霊石八箇出現す、小童に託して曰く我は尾張連女が祭れる神なり、今この地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ、よろしく敬い祭れよ、よって神託のままに神殿を造りて神を斎い奉る、出雲建雄神と申奉る」
 この縁起を真に受けたとすると、出雲建雄神社は7世紀後半の朱鳥元年に創祀された事になります。これに対し石上神宮は遅くとも5世紀には祭祀が行われていたでしょうから、「石上神宮で本来、祀られていたのは出雲建雄神社であった」ことはありえないことになります。ただし、それではあまりにも表面的な反論というものでしょう。ではなぜそのような異説があるのか(あるとしたらの話ですが)、そこに深い理由がないかを考えるのは一理ある気がします。
 いずれにせよ布留川上流域に出雲に関係する伝承が濃厚に分布しているのは、この所在不明の式内社、出雲建雄神社の祭祀と何か関係があるのでは、というのは無理のない推論ではないでしょうか。また、してみると、出雲建雄神社の古社地も、都祁村ではなく、布留川上流域で探さなければならなくなります。この縁起では霊石八箇がある場所がそこだと言っているようですが、香具さんが探求しておられる日の谷には、「ヤマタノ大蛇が素戔嗚尊に退治された時、切り落とされたその8っの頭が8っの小蛇になり、天に昇って水雷神となり、ヒレが8っある聚雲の神剣に取り付いて、桃尾の滝上流の八石という巨岩に降臨した」、という伝承があります。もしも、この八ツ石が霊石八箇のことであるとすれば、出雲建雄神社は桃尾の滝上流に鎮座していたと思われます。

玄松子さん> 現在、境内社になっていますが、他の論社には、都祁村の葛神社や雄神神社がありますね。「クズ」はこの系統?
 僕的にはこの意見には全く賛成です。

kokoro> 森浩一先生のご著書に載っていた、荒神谷遺跡とそれを囲む建御名方神を祀った6っの神社の地図
 この素晴らしい地図は、setohさんにコピーを郵送しますので、近日中にこの掲示板に掲載されると思います。請うご期待!!setohさん、よろしくお願いします。


[1104]  出雲建雄神社  [玄松子]  05/21

石上神宮で本来、祀られていたのは、出雲建雄神社ではないかというのを何処かで読んだ記憶がありますが、どなたか知りませんか。
現在、境内社になっていますが、他の論社には、都祁村の葛神社や雄神神社がありますね。「クズ」はこの系統?


[1103]  ある方からの伝言です  [setoh]  05/21

 神社参りで願いがかなったときはお礼を、かなわなかった時は願ほどきをするそうです。毎年、神社に行く最後の時に自分がよく行く神社にき願ほどきをしてもらう必要があるとのことです。
 やり方は、ワンカップと、お塩ひとつまみをもって神社に行き『今年もありがとうございました。今年一年の願ほどきを御願いします。』と言うだけだそうです。
 願ほどきをやらないと願が貯まってくるとのこと、お金ではありませんので、貯まった願いが健康に害を及ぼすことがあるそうです。
 また、神社にいって御願いするときや願ほどきをする時には必ず自分の住所と名前を言うことです。神様が誰からだったか判らなくなるそうですよ。


[1102]  Re[1097]: 鍬・靫について  [泊瀬女]  05/21

> これは、逆じゃないですか。高御魂神社は元は海の側にあったものを、学校ができるので、この多久頭魂神社の場所に移したということです。
> 対馬の上県にも、天神多久頭魂神社があり、海の側、河口部に神御魂神社がありますね。

すみませーん。私の書き方が変でしたね。
まだ、頭がゴチャゴチャしているようです。紋次郎さんが「おきあがれー」というから起き上がってみたら、つまずいてしまいました。
玄松子さん、いつもフォローしてくださってありがと。


[1100]  さるきまわる股旅者  [焼尻紋次郎]  05/21

>サラどん、わぁ〜〜るかった。ドシロートを『かむなび』レベルにアップロード(??)させるなぁ、大変な しごとだなぁ。こんなの FAQ いうんか? いちど聞いていたのだが、ケーブルちゅうのか差し込み口がイカ れていて、そのままになっちまった。おらっちレベルじゃ紙印刷していちど並べ変える必要これあり。

 ミナシャンにオネガヒ。紋に「なんぞなんぞ(謎々)」やらせたいときだけフリガナうってクダシャイ。

>ココロさん、へびは香具さんのおハコのひとつです。
 つ系は沖縄方面の南方でっしゃろか。nag 系、pam 系の三つはいえると思いますが、sal 系がどこまでいえ るのかワカリまへん。
 そういえば、猿田彦のサルに「お面」の意味があるのを書き忘れていました(朝鮮語)。
 
 ヤマタノオロチの「ヤマタ」は 「ya(神)mat(女・土)」の開音化されたものだと思います。これに似ている「大和……ヤマト」は大平楽ざんめぇの sam(集)系で jamat (集会・集り)なので別語源でした。名前が似ぃちゅうハンデ、タイジせんことには収まりがつかなかったんでっしゃろ。
 へびは「土神」ですよね。この辺「くずみ(国栖・神)」に急接近。……ウスヒが顔だした。
 mat はマチになります。土地々々をNag-are 歩くマタタビ者カネ。マタタンビはへびのチンポカネ。

 いいなぁ〜〜。


[1099]  Re[1096]: 石上神宮と建御名方神  [玄松子]  05/21

> Setohさん> 出雲国風土記には建御名方命の名前は見えません。
> そうですか。そういえばヤマタノ大蛇退治の話も出てこないとか。ちょっと記紀に偏りすぎて出雲を見ていました。

日本書紀には、ありました?


[1098]  Re[1097]: 鍬・靫について  [玄松子]  05/21

宮司さん、犬連れてませんでしたか。

> 対馬の南端・豆酘(つつ)に高御魂神社という古社があります。この社域には多久頭魂(たくずたま)神社の遥拝所があります。

これは、逆じゃないですか。高御魂神社は元は海の側にあったものを、学校ができるので、この多久頭魂神社の場所に移したということです。
対馬の上県にも、天神多久頭魂神社があり、海の側、河口部に神御魂神社がありますね。

> 多久頭魂神社は竜良山(たてらやま)の山上にあるとのこと、社はなく磐境があるのだそうです。泊瀬女がいくら物好きでもここまでは登ってみませんでした。玄松子さんは行ったみたいですね。

残念ですが、登っていません。竜良山の北麓(登山口)に祠があり、南麓に八丁角があります。そこまでしか行ってないです。


[1097]  鍬・靫について  [泊瀬女]  05/21

鍬・靫についてありがとうございます。するってーと(誰かさんみたいな口調になっちゃったわ)祭祀のとき鍬と靫をご神前に供えたのかしら。私も漠然とそう思ってました。
ところで、対馬の南端・豆酘(つつ)に高御魂神社という古社があります。この社域には多久頭魂(たくずたま)神社の遥拝所があります。多久頭魂神社は竜良山(たてらやま)の山上にあるとのこと、社はなく磐境があるのだそうです。泊瀬女がいくら物好きでもここまでは登ってみませんでした。玄松子さんは行ったみたいですね。
高御魂神社で偶然、宮司さんと会いました。草取りに来たのだとおっしゃっていました。いろいろとお話をして下さって、豆酘の赤米のこと、頭屋のことなど私にも分かるように説明してくださいました。「延喜式神名帳に鍬・靫とあるのを知ってる?何だと思う?」と聞かれて「農具としての鍬と武具としての靫ではないのですか?」というと「うん、そう。でも僕は鍬は湿田の米、靫は乾田の米だと思っているのだよ」と言って参道の大きな平たい石に小石で文字を書いて解説して下さいました。知識の足りない私は???となるばかり。
大嘗祭の悠紀田・主基田から考えて、それもあり得ることと思いますが「もう少し勉強してみます」と言うと「あまり深入りせず、軽い気持ちで楽しみなさいね」と・・・
旅から帰って、調べても分からなくてそれで皆さんのお知恵を拝借したく書き込みしました。対馬は祭祀の古い伝統が残っていて、それゆえに複雑で興味深い島です。深入りしたら大変なことになります。


[1096]  Re[1092][1090]: 石上神宮と建御名方神  [kokoro]  05/20

Setohさん> 出雲国風土記には建御名方命の名前は見えません。
そうですか。そういえばヤマタノ大蛇退治の話も出てこないとか。ちょっと記紀に偏りすぎて出雲を見ていました。大和以外の地域を考えるときに記紀はかえって落とし穴ですね。荒神谷遺跡と石上神宮では年代のギャップもありそうですし。
 ただ、森浩一先生のご著書に載っていた、荒神谷遺跡とそれを囲む建御名方神を祀った6っの神社の地図に何かこう、妙に心をうつものがあるのです。およそ建御名方神が好きな人、あるいは神社が好きな人で、これを見て心を動かされない人はまずいないでしょう(←決めつけっ)。習志野のてつさんには是非、見て欲しいです。小学館から出ている『海と列島文化』というシリーズの『日本海と出雲世界』という巻に収録された、森先生の『日本海西地域の古代像』のP74に載っています。もう多分、書店にないので立ち読みはできないでしょうから、要請があれば(誰にでも)コピーを送ります。

setohさん> 島根県では建御名方命を祭神とする神社は56座見えます。
 ありがとうございます。56座ですか。ちょっと多いような気がします。残念。しかしそれだけに、奈良県下に10社しかない建御名方神を祀った神社のうち(そのうち5社が九頭神社)、3社が布留川上流域にあるという香具さんの発見は改めてすごいです。それにしてもsetohさんの調査の早さにもびっくり。

てつさん>  建御名方神は特別なタタリ神ではない。
 僕もそう思います。ただ、大和朝廷から見た場合、建御名方神のような国津神に対し畏れの気持ちがあったため、権力者側によってその神様の本来の性格が歪めて伝えらることもあったのではないでしょうか?

てつさん>  龍と化し、出雲の神々の集まりに出た時、集会のその建物の上を、八重に巻いた。なを且つ、尻尾はまだ諏訪にあった。
 これは興味深い伝説ですね。何かに載っているのでしょうか。信濃の戸隠神社の祭神は、タジカラオ神ですが、もともとは土着の神として九頭龍神がそこにいて、タジカラオ神に土地を明け渡した、と神社の由緒にあります。こういう縄文の臭いのする土着の古い神が、しばしば伝説で龍となっているのは何か深い理由があるのかもしれません。
 神武天皇が吉野で出会った吉野の国栖の祖であるイワオシワケノ命という国津神は、しっぽがあったと記紀にあります。もしかすると吉野の国栖のような古い文化をもつ人たちは、シャーマン等にしっぽが付いた衣装を着る習俗があったのかも。その習俗を印象的に思った大和側の人たちが、そういう国津神に同じくしっぽのある龍を附会したのでは(建御名方神を祀る一方で、九頭神社はクズの人たちとも関係があるように思うので)。
 紋次郎さんに聞きたいのですが、龍や大蛇を祀る民族というのは我が国に来ていたのでしょうか?来ていたとすればその民族は2なのでしょうか、3なのでしょうか?

てつさん> 御名方神は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が祭って、普及した可能性が大きい。また坂上田村麻呂は阿智族だとの未確認情報も有る。
 このへんは詳しく教えて下さい。過去ログにあれば日付等を教えて下さい。


[1095] Re[1094][1086]:延喜式神名帳  [Setoh]  05/20

玄松子さん 出雲からお帰りのようで、早速「鍬・靫」ありがとうございます。

「ゆき」「すき」で言えば、紋チャンの『サラセッセが「こんな字ぐらい読めなくてどうするんじゃ」と、フリガナうってくれなかったせいでもアリマス。』は書きすぎであります。
実は、下記にカナ付きの古事記をいれてあるから、dawn load するか、参照するかで、古事記の案件については、いちいち人にフリカナを強いる必要はない旨お伝えしましたが、ま虫が飛んでら。 
~>')〜〜〜。
近江 水口神社の石王さんからの古事記です。
http://www24.freeweb.ne.jp/area/itakiso/kojiki1.txt
http://www24.freeweb.ne.jp/area/itakiso/kojiki2.txt
http://www24.freeweb.ne.jp/area/itakiso/kojiki3.txt

八咫鏡(ヤアタノカガミ)
八俣(ヤマタ)の大蛇(ヲロチ) 
八咫烏(ヤタガラス)
がすぐわかります。なお、紀には八咫大蛇なる漢字も。

島根県の建御名方を祀る神社一覧を仁多三成八幡神社(whatnew)に入れてあります。


[1094]  Re[1086]: 延喜式神名帳  [玄松子]  05/20

>延喜式神名帳(神奈備さんの資料)をながめていると、時々「鍬・靫」という表示が出てきますが、これってどういう意味でしょうか?

なかなか細かくて面白い所、気付きましたね。

僕も、ぜんぜん詳しくないのですが、延喜式五十巻の九・十巻が神名帳ですね。
で、一・二巻が四時祭に関する記述です。これは、恒例祭に関して、日付や、
内容、祭料の品目・数量、祭使・奉仕者・式次第が書かれています。
そのなかで、小社の祈年祭の項に、「このうち六十五座に各鍬一口・靫一口、二十八座には鍬一口、三座には靫一口加えよ。(みな神名帳に見ゆ)」と記されています。
つまり、神名帳に記されているのは、特別に鍬や靫を朝廷より賜る社ということです。

で、鍬(すき)よ靫(ゆき)ですが、ずっと以前、主基(すき)と悠基(ゆき)に関して、この掲示板でも話題になったことがありますね。大嘗祭での2つの祭祀ですが、直接的には、小社なので関係ないでしょうが、意義として、なにかあるのかもしれません。


[1093]  イシコリドメ 〜 ヤタガラス 意味わかったぞぉ〜  [焼尻紋次郎]  /05/20

 語源解釈とはロボットが昼夜辞書とか古文書を読みつづける時代が来るまでは、いつも「語源NOW」の領域でしかありえません。
 おらはいつも「これしかねぇじゃんか領域」をカキコしちょるとです。読むミナシャンもそのつもりで……。

 おらは古文書を直接読んだこたないだが、伝え聞くところによると、天地を照らしていた大神樣が怒って岩屋のなかに入ってしまったので、ほかの神々が困った。そこでオモイカネという神様が考えて、イシコリドメという神様が八咫(ヤタ)の鏡を作ったそうです。おらはヤタガラスを追いかけまわしていただが、咫という字が読めなかったので、ついぞついぞ“発見”が今になりました。サラセッセが「こんな字ぐらい読めなくてどうするんじゃ」と、フリガナうってくれなかったせいでもアリマス。
 ここんとこ、ネパール語でバラせるので、バラシの中味をここに披露カネ。

  《 アマテラス 》
 安本美典さんは「日本の神様の名前の大半はそのまま現代人でも理解できる」と、胃袋のヒダが伸びるような楽観を言われた。その見本がアマテラスでしょう。
 だがね「アマテル」という表記もあるらしい。そうすると、ここには「海人族」も含まれていそうです。thar はネパール語で「苗字」とか「一族の姓」です。主題が「照らす」なので母音が a ⇒ e へ屈折しました。
 thar as には 同じくネパール語の adhin(支配)が沖縄に残っている「按司(支配者)」を通過して「アシ」の形で入っています。アシとは足切られの、童神向きの柱でした。
 この thar as-i は「オキ(海の彼方のアマ・童神)ナガ(竜・炉・山)」の修飾をうけて神功皇后のオキナガタラシになっていますのでアマカネ。後世になって「アシ」が「悪し」に通じているからと、キラわれたとき、忍(オシ)や蘆(ヨシ)へと語形・発音を変えています。
 「アマ」とは「目が届かないところ・よくはワカラン空間」がもともとの始発概念です。ここに神様たちのくに……タカ(足きり・高・太陽神)アマヶphala(柱)……があったのですから、まずここの神様たちが困ったわけです。
 
 長くなりそう。八咫、ヤタガラス、オモイカネ、イシコリ(岩を開ける)ドメの分析は『ホニャラカ掲示板』でぶっとばしやす。
   http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1092]  Re[1090]: 石上神宮と建御名方神  [Setoh]  05/20

出雲国風土記には建御名方命の名前は見えません。
出雲国風土記の出雲郡に佐支多神社の名があります。現在の祭神は建御名方命ですが何故この神であるかの由緒は今のところ解っていません。
 また、国譲りのこともはっきりとは記されていないようで、かろうじて意宇郡山国郷の条に「布都怒志命、国廻り坐しし時・・」と目的不明ですが、その後の平定を指しているのかも。

 島根県では建御名方命を祭神とする神社は56座見えます。中には出戻りと言うか、信濃の武将が赴任して来て持ち込んだのもあるようです。


[1091]  Re[1090]: 石上神宮と建御名方神  [習志野のてつ]  05/20

> 布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神が建御名方神・・・ ←ビックリ
 香具さんの話で頭が混乱中。

> 祟りをなす荒ぶる神を・・・子孫が祭る          ←納得
  でも建御名方神は特別なタタリ神ではない。力は強いが、疫病とも雷とも縁がない。非常に穏やかな神格(?)の持ち主である。
  龍と化し、出雲の神々の集まりに出た時、集会のその建物の上を、八重に巻いた。なを且つ、尻尾はまだ諏訪にあった。余りの巨大さに、神々は怖れ、10月出雲神有月会議に出席しないでくれと頼んだ.
  この逸話は建御名方神を祭る一族の強大さを物語る(と思う)。
  また、建御名方神が信濃に進出したとき、モレヤの神と戦った。モレヤ神を破ったが、その子孫は神長官・守矢(洩矢)氏として、建御名方神と共生している。先日話題の佐奈伎(さなぎ)もそのまま守っている。
  弥生時代的対立・抗争・虐殺(←日本武尊は各地でダマシ・虐殺)ではなく、縄文的融和・協力・優しき・荒々しさを感じる。現代の共生の心だ。
  千曳の岩を片手で鞠のように扱う恐るべき力。イザナミを防ぐために、イザナギが千曳の岩で、サカを塞ぐが、やっと扱っている印象を受ける。建御名方神は カルガルト 扱う。気は優しくて力持ち(金太郎か)なのだ。
  以下「神奈備」抜粋
  連れている上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族と、国の南端に位置して開拓にあたった阿智族・・・逃亡しても建御名方神を信頼する人々がいる。

  安曇族は天皇家にとって、米国海兵隊のような、水陸両用戦闘部隊だった。
  阿智族は参謀本部隊、諏訪族は武田信玄に滅ぼされるまで、信州で名族として栄えた。それぞれ強力な一族だが、一部は建御名方神に従った。

> では、なぜ九頭神社の祭神が建御名方神なのか?・・・     
> では、なぜ祭神として附会されたのかということです。・・・
> 荒神谷遺跡の東・北・西に、遺跡を囲むようにして建御名方神を祀
> る神社が6社もある・・・まさに荒神谷遺跡を守るようにして6っの
> 神社が3方を囲んで・・・埋納された大量の青銅器を守っていたわけです。

 ムムゥ〜 「うなって判らず。心自ずから神成」(駄蛇レは誰じゃ)
 
 そもそも建御名方神は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が祭って、普及した可能性が大きい。また坂上田村麻呂は阿智族だとの未確認情報も有る。しかし、それだけで現在の様に多く祭られるとはとても思えなかった。なにか夜明けの兆しが見えた気がする。
 香具さん、kokoroさん。大変なヒントをありがとう。


[1090]  石上神宮と建御名方神  [kokoro]  05/20

 布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神が建御名方神なのは、最初に香具さんが指摘された事実ですが、やはり大変な発見だと思います。九頭神社の祭神が建御名方神であること自体が奇異であるだけでなく、合祀社等も含めて奈良県内で同神を祀る神社が10社しかなく、この神様を祀ること自体が珍しいので、さらにその意義は深まると思います。
 では、なぜ九頭神社なのか?僕は、これらの九頭神社の謎を解く鍵が剣にあると思います。古墳時代のある時期、大和朝廷が、制圧した各地域から神宝類を徴発し、それらが石上神宮に納められたのはまず間違いないと思いますが、その中には武器が多く、特に剣が多かったと推察されます。現に石上神宮の第三相殿に祀られているフツシミタマは出雲、あるいは吉備からもたらされたとされています。こうした剣は被征服地域の人たちが祀っていたものであるため、祟りをなすものと考えられ、腫れ物に触るように扱われていたことでしょう。よく古代人は、祟りをなす荒ぶる神を、山中の清浄にして幽遠な山紫水明の中で祀って鎮めた、といわれます。布留川上流域の3っの九頭神社もかってそんな場所だったと思わせる立地でした。そしてこれらの九頭神社は、こうした荒ぶる神であった諸国の剣を、石上神宮の祭祀氏族であった物部氏が、神宮の祭祀に関係の深い布留川の上流域で国栖の人たちに祀らせた遺跡ではないでしょうか。
 しかし、どうしてわざわざ国栖の人たちに祀らせたのか? 4月8日の『石上神宮とクズ』でカキコしましたが折口信夫によれば、『古事記』応神条にある吉野の国栖の歌は、大嘗祭の時、彼らが剣を用いて国栖族の守霊を大王につける服属儀礼を表現しているそうです。とすれば、少なくとも7世紀に、国栖の人たちには剣を用いる祭祀の権威がある、という観念があったとみてよいでしょう。こういうのは一種の職能のようなもので、ある集団に適当な祭祀能力があるとみられれば、権力者は荒ぶる神の祭祀を直接やらないで彼らに任す、ということが古代においてはあったようです。一例として、崇神朝において、三輪山の神が猛烈に祟って国内が乱れたとき、河内国の美努村から大田田根子を招聘して、この神の祭祀を一任したケースがあります。
 では、なぜ九頭神社の祭神が建御名方神なのか?ひとつの答えは以前カキコしたとおり、大和のクズ神社に多い祭神には、他にイワオシワケノ命やタジカラオノ命がありますが、建御名方神と共にこれらの神様は『古事記』『日本書紀』の説話で岩に関係しています。そしてクズという神社自体やその近くに鎮座する神社に岩石を祀った痕跡があるものが多いため、これらの神社に祭神として附会されたのでは、ということです。
 しかし、それでは石上神宮の祭祀と建御名方神がどうして関係しているのか説明がつきません。そのためにというわけでもありませんが、最近になって出雲との関係を考えています。布留川の上流域にはヤマタノ大蛇が素戔嗚尊に退治された時、切り落とされた8っの頭が飛んできたという伝承が、香具さんの探求されている日の谷や八頭神社に残っています。前者の場合、その8っの頭が8っの小蛇になり、天に昇って水雷神となり、ヒレが8っある聚雲の神剣に取り付いて、桃尾の滝上流の八石という巨岩に降臨した、となっています。ここでも剣が出てくるわけですが、その一方、出雲で剣というと草薙剣か荒神谷遺跡ですよね。森浩一先生のご著作で読んだのですが、荒神谷遺跡について福島一夫氏という地元の方が『女首長に後事を託す』という論文を書いているそうです。そこに山が連なる南側以外の、荒神谷遺跡の東・北・西に、遺跡を囲むようにして建御名方神を祀る神社が6社もあるという事実が指摘されているそうです。森先生の本には、遺跡と神社の配置を示した地図も載っていますが、まさに荒神谷遺跡を守るようにして6っの神社が3方を囲んでいます。天津神への国譲りに最後まで抵抗したと『古事記』にある建御名方神が、埋納された大量の青銅器を守っていたわけです。ここからどういう結論を出すにせよ、布留川上流域に出雲や剣に関係ある伝承が濃厚に伝わっていて、付近に建御名方神を祀る神社が3社あるという事実と何か響き合っているように思われます。
 ただし、荒神谷遺跡周辺の6社の中に波知神社という式内社があったので、『式内社調査報告』で調べたところ、寛文2年に付近に点在していた神社を合祀し、その中に諏訪神社があったので配祠神として建御名方神の名前が出てくるらしいです。したがって建御名方神は本来の祭神ではないと思われます。もちろんその場合でも、波知神社の付近に諏訪神社があったという事実は残ります。ただし、僕はこの福島氏の論文をまだ直接読んでいませんが、こういう場合、島根県内なら島根県内で建御名方神を祭神とする神社が、全部で何社あるのか調べてあればとても参考になると思います。県内にそうした神社が少なければ少ないほど、その発見の意義は深まると思われるからです。

 setohさん、素晴らしいオフ会ですね!こんなすごいオフ会は神奈備以外考えられないのではないですか。仕事がなければ何としても駆けつけたいです。


[1087]  Re[1084]: イチモジ セセリ  [Setoh]  05/18

>☆ だれがいうたんやろ。
 太安万侶の古事記の序文
(天武天皇が)然(シカ)れども、天(テン)の時、未(イマ)だ臻(イタ)らずして、南山に蝉蛻(センゼイ)し、人事(ジンジ)共給(ソナ)はりて、東国に虎歩(コホ)したまひき。   注:蝉蛻とは隠遁のこと也。

また、北嶺比叡、南山高野 といふ言葉もあら。だれかがいうたョ。


 オフ会
女性神職さんから友人を一人(男性)お連れします。神主ではありませんが、心霊話は大好きな人です。常識のある楽しい人ですのでご安心を。とのmsgがありました。


[1086]  延喜式神名帳  [泊瀬女]  05/18

教えてください。
延喜式神名帳(神奈備さんの資料)をながめていると、時々「鍬・靫」という表示が出てきますが、これってどういう意味でしょうか?
祭祀の際、具体的にどのような儀式になるのか、ご存知の方教えてください。


[1085]  Re[1082]: 欲辨已忘言(らく書き) [香具]  05/18

少きより俗に適する韻なく、性、本と邱山を愛す。誤って塵網の中に落ち、一去十三年。
飢凍切なると雖も、己に違えば交々病む。
但えに恨むは世に在りし時、酒を飲みて足るを得ざりしを・・・???
世外桃源は吉野・熊野に!?・・・あっ、菊を採りに行かなくっちゃ。


[1084] イチモジ セセリ  [焼尻紋次郎]  05/18

> 南山とは山界浄土を言う。
☆ だれがいうたんやろ。酔っぱらう人が言うて、近畿の人々がそれを鵜呑みに信じたんカネ。
  熊グスさんの「ムナ(南)」などへ広がるなぁ。

>  大海皇子の南山は吉野。後世、吉野の南の熊野が南山となる。
☆ 吉野の東にも南にもクマがあったんカネ。
  掘井令以知さん(言語学者)の『語源大辞典』は、おら、けふ読み終えます。それに拠ればクマとは「川の流れが曲がった内側」とある。いろんなクマがあったらしいが、これで阿武隈、球磨川、千曲川の三つのうちひとつぐらいは該当すりゃせんやろか。
  
> 石上神宮としか言いようがありません。
☆ 平戸の「シシキ」、礒城(シキ)、磯良(イソラ)、イソ(石)の神 ……どこから持ち込まれたかというと「多良岳文化から」としか言いようがア〜りまセ〜ン。

 上の『語源大辞典』から、古語約300語彙を抜きだしました。ワープロ(機械)での紙印刷もやりますので、ご希望の方は遠慮なくお申し付けください。
 例 ; ツク(直立する柱・杭 / ミオツクシ) クマ(ゴミ、木の葉) ヂ(柱……タカクラジの「ジ」) ダンヂ・ダシナ(いたどり……なにものかへの柱ならまし) クサ(恐ろしい忌むべきもの)……名草ヒメ(そんなに怖がるな、嫌いものにするなの意味か??)。

  5 月 19日には http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で披露よてい。


[1082]  悠然として南山を見る(陶淵明:飲酒詩) [setoh]  05/17

南山とは山界浄土を言う。
大海皇子の南山は吉野。後世、吉野の南の熊野が南山となる。これが、神武東征の経路に熊野が登場する由縁となった。
熊野神邑で神武軍はフツノミタマの剣で再生します。「布瑠之言の ゆらゆらと振るえ。此の如くせば、死人も生き反らむ。」です。物部氏の十八番です。高倉下、いかにも石上神宮の神庫を思わせます。
新宮のゴトビキ岩を祀る神社の祭神は高倉下、神社の名はそうです、神倉神社です。どうやら、十種神宝と布瑠之言が熊野の物語に持ち込まれたと考えられます。どこから?とすれば、大和、石上神宮としか言いようがありません。


[1081]  『かむなび』の新しい出発に初ヂヂィこころ  [焼尻紋次郎]  05/17

 『かむなび』に新しいウネリが興ろうとしているとき、イランでいいことをカキコするみたいだが、グループとして21 世紀初頭で楽しくやって行くために「初ヂヂィこころ」カネ。

 並みの言語意識では律しきれない超常現象は、昔むかしの大昔からあったんだワサ。
 それはことばが入らねぇ領域なればこそ「超常」ざんす。
 そこを喋べくり宗教がしゃしゃり出て、「おらっちの派閥に属する者が発する超常能力ならホンモノ、ほかの連中の発するのは悪魔のしわざだ」と決めつけたのでオカシくなっただけだ。
 キリスト教や創価学会でやってきた実績は、まさにその通りであることを、確認されよ。

 モンダイは喋べくり宗教としての「仏教・顕教」で、最終的な目的は自分(及び、すべて)のイノチひとつの持って行き場所作りなんだが、それゆえに集団形成作用が利きすぎて、言語意識で処理するためにいきおい教条主義に陥って超常現象には敢えて目をつぶらねばならなくなった。

 「あらぁ〜じゃぁ、そんなこと当りまえじゃんか」というのがシシミの認識である。
 だから、現実をそのまま認めるのがいいか、敢えて目をそむける(外むける)のがいいのか……三つ児でも判断できるところであらいしょ。
 だから、現実にある奇妙な現象に「自然児」さながらにみつめる姿は、ひととしてアタリマエのこってす。
ただ、それを言語意識に無反省のまま受け入れるなぁ、ちょとどうかと惟ふなれど、まぁ21世紀初頭の人間には荷がかちすぎるこったろうて。
 ついつい緊張のあまり、シカツメらしい顔をしがちな領域です。
 ウヒョ・ウヒョ・ウヒョ・ウヒョ‥‥ちココロ弾ませち、やんなぇ〜〜イヨッ。

  ことばの神様 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1079]  Re[1078][1075]: 5月21日(月)  [setoh]  05/16

 ところで香具さん、kokoroさんのトコトンの探訪、迫力を感じます。お二人が石上神宮の根元をどのように解明されていくのか、手に汗を握る思いです。

> 気合いの入った「おおーおおー」という大声
春日若宮のお渡りの際、御神体を白い布で両側からカバーしながら、「おおーおおー」と大声が続きます。大阪の高校生がかり出されていたようです。
 なぜ、「おおーおおー」とやると神様が留まってくれるのでしょうね。びっくりして逃げてしまわないのが本当の神様でしょうか。

> 石上神宮の子供に当たる神々
 分祀の場合には子供と言うのでしょうね。若宮ですね。
 格や経済力が段違いだと、歴史に関わらず、そうなっていくこともあるのでしょう。パラサイト神社?
 中央からの遠近がそうすると志賀剛さんの本にありました。
 和歌山の例ですが、伊太祁曽神社、須佐神社、花窟神社と大和から紀ノ川を下り、海岸沿いに行く場合、遠い順です。祭神は、五十猛命、素盞嗚尊、イザナミ命と遡ります。
 それでは出雲の揖夜神社(イザナミ)と熊野大社(イザナミのマナコ)の場合には、吉備のほうから見たらそうですね。(..;)


[1077]  駄作献上 おきあがれ  [焼尻紋次郎]  05/16

 紋次郎タンカ! √いきまいて 行けど 泊瀬女  こけつしま

 ワイハ〜〜 ドッテン(津軽弁) おそまつ


[1075]  5月21日(月)  [Setoh]  05/15

 突然ですが、オフ会の連絡です。
 実は、知り合いに饒速日命の末裔の女性神職さんで、面白い方がおられます。石上神宮で局所的に雨を降らした霊感の強い方です。
 この方と、5月21日(月)にデートすることになりました。場所は『神奈備にようこそ』の最下段『大阪本町絶品昼飯』に紹介の「おきん」と言う静かで美味しいけれど、美しくないお店を予定しています。
 
 小生は 6時頃以降にはそこに行きます。もしご興味がおあり、時間がとれるようでしたら、是非おこし下さい。きっと楽しいお話が聞けるものと思います。
会費 ¥4〜5000円 程度。1時間遅いと千円引き。あまかね


[1074]  Re[1070]: 対馬と壱岐  [玄松子]  05/15

>パニックに陥り何を見たのか、どこに行ったのかすら分からなくなり、頭グチャグチャです。

蛇でも出ましたか。


[1073]  伊太祁曾様のお導き  [焼尻紋次郎]  05/15

 諌早市出身じゃモンネ。
 ここんとこアワヨッチャンがさかんに寄せてくれる平戸シシギにはそのヂヂィの奥さんの実家があって、なんでもその地の古文書を読まなならんごつなったとか。
 モーレツな情報を入れてくれた。tala はシュロの木だとのあたりをつけていたのだが、ケンカ腰の強い海岸べりの連中は、佐賀〜諌早の直線の歩行を邪魔した。そこで舟の用意ができない連中は多良岳の峠を越えたそうな。その峠の名前が「黒木峠」だと。

 「ツグラ」という語彙は平戸あたりで発生し、これが「トグロ」へと訛ったという事実が掴めるらしい。言語学者の掘井令以知さんの『語源大辞典』(東京堂出版・わずか270ページ、約3割が西洋語の語源)にあった。あの辺で古代日本語が醸造〜定着しているらしい。
 サラセッセ、ヨドコベ。同著23 ページには『イタとは読誦(どくじゅ)である』とあらいしょ。
 掘井令以知さんのお住まいは枚方市で、上述ヂヂィも枚方市に住んどる。

 いま、この“大辞典”に含まれている古代ステムをテテテキに洗いだしちいやす。4日後には『ほにゃらか掲示板』に並べることができやしょう。乞う、御期待。

 『さいたま市』が決定される直前、行田市からイチャモンがつけられた。その直後、サラセッセからそのイチャモンをハネとばすスーパー情報が“問わず語り”に届けられた。
 万事この調子……。やっぱこれらはカンナリ現象のひとつならましや。ああ、伊太祁曾様よ。

  ♪ ぶんぶん古代語ぶんと飛ぶぞ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1072]  Re[1071]: 布留川上流の3っの九頭神社  [香具] 05/15

kokoroさん、毎度お世話になります。時間差オフ会みたいですね。
あのルートは車道が整備されているので、自家用車で行くと余裕楽々のコースです。
私の場合は、(昔の人達の健脚度)と(現代の道路の整備状況)を差し引きして、
ちょうど古人のペースに相当できるかなと思い、歩いてみました。

> >各村への入口になる道には、榊や藁束、御幣を括り付けた厄除けの縄が路上高くに差し渡している。
>  これは勧請縄です。オスとメスがあって、下流側にあるのがオスです。オスとメスはぶら下がっているイチモツで見分けがつきますよ。

ありがとうございます。勧請縄を見たとき、ブレア・ウイッチを思いだしました。
私は日頃の潔斎が出来ていないせいか、神社内では誰にも会えませんでした。
それでも、各村ごとで60年前の美少女達から親切に道を教えて頂きました。
この縄についても尋ねてみたのですが、『カンジョカケやったかな〜?年2回掛け替えるけどな〜。テンリシシに載っとるデ。』と、逆に突っ込まれました。ウウッ、ここで『天理市史』が出てくるとは・・・。
『村に悪いモンが入ってこんように、昔からのならいやな。』との話しに、『もうすでに悪いモンは、入りまくってまんがな!』と産廃トラックを指さしました。
苣原町の勧請縄は国道25線上に掛けてありましたね。その下をトラックは爆走。

>その日は石上神宮の神主さんが来て順番で祭祀を執り行っていく・・・
『石上神宮の神主さん』は尋ねても、いつもソッケないか、ノラリクラリでしたが、あまり外部から干渉されたくないからかな?一度、正攻法で正面突破を試みましょう。

>おじさんは去年の例祭の時、たまたま当番だった・・・
宮座が厳格に続いているのですね。

>3っの九頭神社は石上神宮の子供に当たる神々
>3っの九頭神社が石上神宮と祭祀面で連続性がある
>石上神宮を扇の要にして、そこに拡がる同一信仰圏のものと捉えるべし、
>どうやら石上神宮側でもこの鏡を非常に神聖視している
石上神宮の重層性を解体していく手掛かりのひとつですね。
今後のご検証も愉しみにしています。


[1071]  布留川上流の3っの九頭神社  [kokoro] 05/15

香具さん、メールありがとうございました。ナ、ナ、ナ、ナント!!僕も実は、香具さんが現地に行った翌日の5月13日に、石上神社及び布留川上流の建御名方命を祭神とする3っの九頭神社に行ったんですよ。一日ずれていたら絶対、どこかでお会いしたはずです。

>一般的な所感しか得られませんでした。力量不足です。
 またまた、ゴケンソンを〜。三坂神社の立地についての分析とか、僕は香具さんの投稿はいつもさえていると思いますよ(ヨイショじゃないです)。

>各村への入口になる道には、榊や藁束、御幣を括り付けた厄除けの縄が路上高くに差し渡している。
 これは勧請縄です。オスとメスがあって、下流側にあるのがオスです。オスとメスはぶら下がっているイチモツで見分けがつきますよ。

>(2)八頭神社?、須賀神社?
>   神社名、祭神名、由緒など、判りませんでした。
 何かで読んだ非常に不確かな記憶なのですが、それによると素戔嗚尊がヤマタノ大蛇を退治した時、切り落とされた8っの頭が飛んできて、それが落ちた地点に祀られているから八頭神社だったような…。この説話は八剣神社の祭神の説話と似ていますね。

>(3)九頭神社(その1)   天理市苣原町山内
僕が行ったときは当番らしいおじさんとその娘さんが、境内の清掃をしていました。おじさんの話ですと、苣原チシャワラと下仁興シモニゴと長滝の九頭神社は、例祭が同じ日付で(ただし『天理市史』では苣原→10月15日、下仁興→10月15日、長滝→10月日12なのですが)、その日は石上神宮の神主さんが来て苣原→下仁興→長滝の順番で祭祀を執り行っていくそうです。おじさんは去年の例祭の時、たまたま当番だったので苣原での役目を終えた神主さんを下仁興まで車で送ったそうです。僕が「ということはこの3っの九頭神社は関連性があるのでしょうか?」と聞いたらその通りということでした。また、「石上神宮と3っの九頭神社は関係があるのですか?」という質問には、3っの九頭神社は石上神宮の子供に当たる神々なのだそうです。したがって、3っの九頭神社が石上神宮と祭祀面で連続性があるという観念が、今でも地元に残っていることは確かです。そして、この3っの九頭神社が互いに関係があるというのは、石上神宮を扇の要にして、そこに拡がる同一信仰圏のものと捉えるべし、ということと思われます。
 「この神社の御神体は何ですか?」と聞いたところ、例祭の時、本殿の扉を開いて御神体を露出させるそうですが、鏡だということです。この方の印象では銅鏡らしいとのこと。そして、扉を開いてこの鏡がお姿を現すと同時に、その神主の方が、ものすごく気合いの入った「おおーおおー」という大声を出すそうです。どうやら石上神宮側でもこの鏡を非常に神聖視していることがお話から推察できました。
 香具さんのメールにもありましたが、この神社の拝殿にある額には「惣社九頭神社」とあります。この惣社≠ニ付く意味は、神主が祭祀する順番が苣原→下仁興→長滝であることから察して、他の2っの九頭神社を総括するような、九頭神社のなかの惣社という意味も知れません(祭祀の順番は、単純に大きい集落順に過ぎないのかもしれませんが)。そして、もしもそうであるとすれば、この神社が特に他の2っの九頭神社よりも格が高いのはこの鏡の存在によるものと思われます。古い時代の伝世鏡だとすれば、いったいどのくらい古いのでしょう。

>(4)九頭神社(その2)   天理市下仁興町垣内
>  祭 神:<建御名方神>
>  本殿がなく、玉垣で囲った御本地に神木を祭っていた。
 この御本地の左後方に、伐採した木の枝が捨てられていて分かりずらくなっていましたが、石で囲った湧水源がありました。集水升も設えてあって、御本地前方の長方形の池には、この集水升から塩化ビニール製のパイプで水を引いるようです。現在では、チョボチョボくらいの流れでしたが、付近に杉林が植林される以前の、原生林に覆われていた頃は相当の水量があったと思います(各地で話に聞くのですが、杉というのは保水能力の低い植物で、大量に広葉樹林を伐採して代わりに杉を植えると、尺イワナがいたような沢も枯れてしまうらしいです)。この神社は谷のなかにありますが、山上から沢が流れてきています。しかし、拝殿よりも奥ではこの湧水の水と沢の水が混ざらないよう、両者の間に幅5メートルくらいの細長いマウンドを作って、峻別していました。前者を聖別するためでしょう。

>(5)九頭神社(その3) 天理市長滝町長滝
>  祭 神:<建御名方神>
>  本殿の祠のすぐ後ろには、2mx3mほどの磐がありました。
 僕は、この岩は磐座と考えて差し支えないと思います。というのも、@ご指摘の通り、この岩が本殿の直背後にあること、A付近に同じような岩は特になかったので人為的に搬入された感じがすること、B本殿の載っている壇の周囲は石製の瑞垣が巡らされていましたが、この岩が本殿に接してあるため、そこだけ瑞垣が途切れていること。周りにはまだスペースが充分あるので、適当に社殿の軸をシフトすればこの瑞垣が岩に邪魔されずにこの壇を囲むことはそれほど難しくないはず、それにもかかわらずそうしないのは、意図的なものを感じさせること、C本殿の載っている壇へ登る石段が、拝殿とこの壇の間にスペースが充分ないため、一番下の段がないまま竣工されていること(この石段は、正面が拝殿にすぐ接しているので、横から入らないと登れません)、の4っです。@ABはこの岩がかって御神体として神聖視されていたこと、Cはこの神社にはある時期まで本殿がなく、拝殿からこの岩を拝していた、しかし、その後、岩と拝殿の間に無理矢理、上記の壇を築いて本殿を建てた可能性を示唆しているように思われます。
 ただし、近くの畑で作業中のおばあさんに、「あの岩はかっての九頭神社の御神体ではないですか?」と聞いたところ、「そんな岩があるなんて知らなかった」とのこと。「何かあの神社についていわれ等はありませんか?」と聞いたところ、「こんな小さな集落のお宮だからいわれなんていわれても…。もっと古い人なら知っているだろうけど」とのこと。このおばあさんがどう見ても80歳は越えているので、思わず「おばあちゃんより古い人がいるの?」とツッコミを入れると、「そうね私より古い人はおらんくなったね」というので二人で爆笑してしまいました。

 香具さん、くれぐれもお怪我に気をつけて!


[1070]  対馬と壱岐 [泊瀬女]  05/14

対馬と壱岐に行ってきました。勉強不足のまま「行ってみれば何とかなるサ」と・・・
その結果、パニックに陥り何を見たのか、どこに行ったのかすら分からなくなり、頭グチャグチャです。対馬も壱岐も私の手には負えない土地です。これから頭の中を整理して勉強し直します。疲れて落ち込んでしまいました。
神社の事を抜きにして観光として行ったのなら、壱岐も対馬も素晴らしく美しい所です。お天気も良かったし・・・


[1069]  巻向山  [Setoh] [Url] 05/14

 秦氏の祖を(秦始皇帝の五世孫の)融通王亦の名を弓月王と言います。この弓月王の名は穴師兵主神社の元の社の鎮座する弓月岳(斎槻岳)と酷似しており、これが秦氏、兵主神、天日槍命をつなぐ足がかりとなっています。
 この候補山の一つが巻向山です。もし巻向山だとしますと、伝崇神天皇陵の中心線がこの山の白山に命中していますので、崇神朝とは天日槍命一族の王朝となります。
 巻向山頂近くに見事な地肌むき出しの白山があります。と言って白山神社などがある雰囲気ではありません。ここへは山の辺の道を外れて笠山荒神へ行く途中から右に折れて不動滝地蔵の方へ登っていけば2時間程度で着きます。道はバイクなら通れそうな感じで、歩きやすいよい道です。


[1068]  > 拾羅大神  [setoh]  05/14

> 拾羅大神
玖羅大神のことであろうと香具さんと見解が合いました。
クラオカミ、闇淤加美と表記される神です。
倉丘見の表現もありますね。
富山県礪波市宮丸の木舟社に玖羅雄神と言う表記があります。
玖羅大神と同じと思われます。
玖羅大神の表記は天理市苣原(チシヤワラ)町山内の九頭神社にしか見えませんね。


[1067]  小川のほとりの社  [香具] 05/14

奈良県天理市、布留川上流の九頭神社(三社)の現地訪問を行いました。
(内訳)内馬場町:春日神社。苣原町:八頭神社、九頭神社。
下仁興町:九頭神社。上仁興町:四社神社。長滝町:九頭神社。

三つの九頭神社に関しては、
  1。各社とも布留川支流の上流部、小川の横に鎮座している。
  2。旧村社であるが、通常の村の鎮守とは何か印象が異なる。
    いわゆる、春日さんや住吉さん、八幡さん、天神さんなどを
    祭りましたという印象ではない。だから諏訪さんなのか?
  3。しっかりとした拝殿があり、村の宮座が継続しているようだ。
  4。各村への入口になる道には、榊や藁束、御幣を括り付けた
    厄除けの縄が路上高くに差し渡している。
  5。周囲の木立が印象的。山林志向は明確に感じる。
  6。本殿地として、石垣で築き上げ瑞垣を設けている。
  7。しかし、拝んでいるその先に、容易に山を意識できる。
    特別な降雨祈願のための聖地が在るように思える。
    水源地への祭祀かな?
  8。以上をまとめて、山・木・川・水源のキーワードを示す。
という、一般的な所感しか得られませんでした。力量不足です。
以下は、各社について。<・・・>は、天理市史で確認した内容です。
(1)春日神社 天理市内馬場町平畑
   祭 神:<天児屋根命、武甕槌命、経津主命・姫大神>
   境内社:<玉垣神社、白鳥神社>
(2)八頭神社?、須賀神社?
   天理市苣原町のバス亭の向い。
   神社名、祭神名、由緒など、判りませんでした。
(3)九頭神社(その1) 天理市苣原町山内
  祭 神:<建御名方神>
  境内社:5つの小祠が並んでいた。
  ・事代主命。
  ・金刀比羅大神。
  ・奥津比古大神、奥津比メ(口扁に羊の旁)大神
  ・拾羅大神
  ・天照大御神、春日大御神、鹿島大神
この中で、奥津比古大神、奥津ヒメ大神、拾羅大神がわかりません。
(4)九頭神社(その2)  天理市下仁興町垣内
  祭 神:<建御名方神>
  境内社:<白山神社、八雲神社>・・・祠はひとつだけ確認。
  本殿がなく、玉垣で囲った御本地に神木を祭っていた。
(5)四社神社  天理市上仁興町ドヤマ
  祭 神:天照皇大神。 一言主大神。
      住吉大神。 熊野大神。
  境内社:厳島神社 市杵島姫命
      金刀毘羅神社 崇徳天皇
(5)九頭神社(その3) 天理市長滝町長滝
  祭 神:<建御名方神>
  境内社:<白山神社>・・・未確認。
  本殿の祠のすぐ後ろには、2mx3mほどの磐がありました。

初夏の山村田園地帯はすばらしい風景でしたが、国道25号線の産廃トラックだけは恐怖を覚える弾丸走行でした。それに沿道の夥しい砂利やゴミは目に余ります。
婆さんたちは怯えながら、田畑への道を急いでいます。 何とかならないものかな。


[1066]  いのちの交差点を“空”と置いた [焼尻紋次郎] 05/13

 古い巨木が出す樹形は生命力にあふれています。その感動を「ふだん記」で発表した“元校長先生”がいました。やめときゃよかったに、おらはそのご仁に手紙かいた。四方から一点を指し「これが楠だ!」とやっちまった。その中心にはなにも描かなかった。……おらは“教育”に怒っていたのだった。
 だが、その元校長の胸を借りて想いのだけをブチまけたは、ヨカッタと惟ふ。

 むかでは世界的に銅山の護り神だそうで、それを討伐したは「鉄の銅凌駕」を意味してらいしょ。
 むかでの語源 ; この日本列島で「mu = 百」はありえない、mo(百)が mu になった……は断言できやす。いや、ヒョコッとしたらインドに「mu = 百」があったのかもしれやせん。ka は「○○の」。むかでの「で」は解剖的知見での「手足」ざんして、この場合の「で」は現代人から見れば足。

  語源の nabi(蝶々) ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1064] Re[1063][1062]:ローカルネタ・史跡『生田の森』  [Setoh]  05/13

> 瀬田の竜王宮
ありがとうございます。神社の名前は変わっているのでしょうか。見あたりません。

なお、明治一六年に創建された唐沢山神社には藤原秀郷(田原藤太)が祀られています。
栃木県佐野市富士町で、墓所もあるようです。


[1063]  Re[1062]:ローカルネタ・史跡『生田の森』  [玄松子]  05/13

>  将門様は神として祀られていますが、俵藤太は見あたりませんが、なぜか近江の御上神社に百足(むかで)退治の伝説を残しています。

瀬田の竜王宮で、藤原秀郷(=俵藤太)が祀られているようですよ。


[1062]  Re[1000]:ローカルネタ・史跡『生田の森』  [Setoh]  05/13

 生田の森の大楠はその樹齢数百年の堂々たる姿を示していました。齢を重ねると神の領域に近づくのでしょうね。生田の神あまかね。
 
 将門様は神として祀られていますが、俵藤太は見あたりませんが、なぜか近江の御上神社に百足(むかで)退治の伝説を残しています。京の公家には将門が百足の如く不気味に見えたのでしょうかね。


[1061]  Re[1060][1059]: 神田明神  [習志野のてつ]  05/13

> 3の宮に平将門が祀られています。
> >将門が正式な祭神(平将門命)として3の宮に鎮座したのは昭和59年になってから。
●反省=調べてから記載
もともと平将門が主祭神でしたが、明治9年天皇陛下が参拝する神田明神の主祭神が、こともあろうに朝敵平将門とはけしかんー『などと薩長馬鹿を云い』で、祭神を変更させられた。しかし庶民の平将門に対する尊敬の念は捨て難く、元に戻った。
が正解のようです。その年は昭和34年=1959年(←未確認)
  江戸時代風オヤジギャグ
 「将門の亡念、打来て、首が飛んで石をかりかり神田(かんだ)」 やはり昔から江戸の神田は将門様にご縁が深いようで…♪テケテンテン
●祟り神
 平将門はその首塚の移転には何度も祟りをなしている
 1.家康 夢枕に現れ、動かすと子々孫々に祟る と威して収まる。
 2.関東大震災後、大蔵省移転にともない、時の大蔵大臣勝田主計(かつたかずえ)の夢枕に立ち血みどろの首が脅迫、勝田蔵相は得体の知れぬ病に倒れ…ついに将門の首塚の移転は中止になり…
      東京編・平将門『首塚』異聞から
 http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/6565/HPDATA/kaidan.html
 3.戦後GHQ命令で壊すために入ったブルトーザが横転 運転手死亡 この3番は、私自身だれかから聞いたことがあります。正に祟り神
●東国と西国
 平将門は、東国をはじめて独立国として発想した、東国にとってはいわば独立の父 インドのガンジーか、ー誉めとかないと祟りが怖い?ー


[1060]  Re[1059]: 神田神社と神田祭 [習志野のてつ]  05/13

>明治以降、神田神社、神田祭になっています。3の宮に平将門が祀られています。
>将門が正式な祭神(平将門命)として3の宮に鎮座したのは昭和59年になってから。
 知りませんでした。ありがとう。
※『刎ねられた首が音を立てて鳴り止まない』ケース
 岡山県の吉備津彦と温羅(ウラ)の話
 温羅は祭られ?いまだに鳴釜神事として、日々火を焚かれている。
 一般庶民は、勝った朝廷側でなく、負けた側に理があり正しいとの感情が 強かったのでしょう。それともただ単に、『負けても人並み外れて強いも のは祭っておこう』でしょうか。


[1059]  神田神社と神田祭  [通りすがりの者]  05/13

明治以降、神田神社、神田祭になっています。1の宮に大己貴命、2の宮に少彦名命、3の宮に平将門が祀られています。神田神社の創建は天平2年で芝崎(千代田区大手町)に神田(伊勢神宮の御田)の鎮守社として大己貴命1柱を祀り、神田の宮と称したのが始まり。その後、延長元年に平将門が太刀と神馬を奉納、承平3年に社殿を再建し祭田を寄付した。一説にはこの頃に、国土開発と国鎮めのために安房国安房神社の分霊を捧持して祀ったとも。天慶3年2月24日、将門の首がこの地に落下し塚を作って葬って将門塚としたが塚の雷鳴により人々に恐れられ、将門の荒魂を祀って鎮めた。その社が九段の築土神社であるという。
その後、鎌倉時代に遊行上人真教が荒れ果てた将門塚を修復供養し、神田の宮の社殿を修復し将門の霊を相殿に合祀し、社名を神田明神として国家鎮護の社にした。更に江戸時代になって神田明神は江戸の総鎮守として江戸第一の社格を与えられ、駿河台を経て、元和2年に現在地(外神田)遷座した。明治5年、少彦名命を大洗から勧請し2の宮に合祀し社名を神田神社に改めた。以後、度々起こる災害や怪異、凶事を将門の祟りと称して手厚く鎮魂祭が行われてきた。将門が正式な祭神(平将門命)として3の宮に鎮座したのは昭和59年になってから。ちなみに神田祭は9月15日で明治25年頃から現在の5月12〜16になったようです。


[1058]  神田のお祭り  [山浜]  05/13

12日の神田明神祭ではお神輿が練り歩いて多くの見物客が出ておりました。行列の中には大己貴命の幟が上がっておりました。独特の雰囲気は江戸のお祭りのせいでしょうか?
そのほか、(時期はわすれたのですが)恵比須、大黒天の面をつけた人が参拝客に打出の小槌を振るう神事?もありました。神田あたりも面白いところです。
昨年の例ではないですが、地震がなくてほっとしました。


[1056]  Re[1051]: 将門について。  [習志野のてつ]  05/12

>人が「怨霊」になるには、「彼があんな目にあうのはかわいそう」という
>民の声が必要… 彼が朝敵だ。というような意識はきわめて希薄です。
全く同感です。『筑波山の見えるところ全て将門の支配地』とのこと。
私の住む習志野市(東京湾に接し谷津干潟が有る所)でも、冬の季節風の強いときは筑波山が見えます。大手町の『将門の首塚』でも、恐ろしさは全く感じません。むしろすぐそばの、三井物産の池で育つカルガモ一家は、将門に守られて育つことが出来ている?といった感じです。
長塚から首塚、単なるオヤジギャグ 自分でも寒〜


[1055]  クワ・ハウス と 桑の木  [焼尻紋次郎]  05/12、セ。  川崎真治さんが言ったことば ; 「このごろ、水をアクアといってるが、厳密に言うと、水をアクアなどと喋っていた古代民衆はいなかったんです」……は、いまだにおらの耳朶に残っています。
 「拙僧がアカをとって進ぜよう」のように、水はアカです。アイヌ語も aka, akka, wakka です。
 ところで、桑の木は枯れ易く、枯れた枝は幹の部分をくっつけたまま、ポキリと外れます。しかもそれが硬くて、そのまま鍬として(形態は鋤)何べんも地面に突き刺すことができます。
 「アマカネ」を連発するニューギニア高地石器時代人のモニ族・ダニ族も鍬をコバと言っています。アイヌも桑の木で杖を作ったのでしょう、杖を kuwa といっていました。シナの戈(ほこ・音はクァ)も匂います。
 
 では、なぜこの桑の木をクワと言い始めたのでしょう。ここまで詮索するのはやっぱキチガイの発想カネ。
 いや、キチガイにも三分の理これあり。ネパール語で kuwa は泉のことです。おへまのふる里、新潟県津南町では町おこしでクワ・ハウスなる温泉場を作って喜んでいますが、クアは英語……カッコいい、ぐらいに考えてるみたい。
 だけんどもヨォ、kuwa は形容詞後置形にすれば「 ku(水のみ)wa(わたり)」と、日本語にもなる。
 ネパールでは桑の木は扇状地の湧出地帯に分布しているのではないだろうか。
 √♪ だれか ネパールに 行かないか 

 おへまの親友があそびに来ました。顔をみるなりおらはそのコにガンジーというあだ名をつけました。
 おへまの実家裏の田畑山をケットー、ケッチョーラといいます。ネパール語を見はじめたとき、これはネパール語の khet(畑)と思ったのでした。しかしこの音は kett という促音が特徴です。ネパール語というよりも「これはパーリ語というべきである」と、さいきん知りました。khetta(田・畑)。
 √♪ だれか ネパールに 行かないか。

 将門が持った帝位の象徴・笏杖を作るイチイの樹は ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1054]  Re[1047]: 無題  [のりちゃん]  05/12

> 来月から若返って、新婚ほやほやの孫が司ります。また来てくださいね。

何度でも行きたい神社でした。
私も、宮司さんにかわいがっていただけるくらい、通い詰めたい!!
今の宮司さんは、引退されたら、また、研究に入られるのでしょうね。

私が訪問した日、伊太祁曽神社には細かい雨が降っていました。木が雨を吸い、なんとも言えない生命の香りがしました。神社は、生きていますから、いろんな面を見せてくれます。
でも、この神社は、特に表情豊かなんじゃないかなと感じます。
今度は、真夏の盛りに、「どんな顔してるの?」と訪問してみたいです。


[1053]  津南町  [kammer]  05/11

紋次郎様
「おんぼ」の津南町とは新潟ですか?


[1052]  Re[1050]&[1051]純友と将門   [Setoh]  05/11

藤原純友を祀る神社
愛媛県新居浜市種子川山 新高神社摂社中野神社
長崎には見あたりませんでした。

ついでに平将門
静岡県沼津市浅間町 丸子神社 配祀
東京都 神田明神
東京都九段北 築土神社、北新宿 鎧神社、奥多摩町 熊野神社 配祀
千葉県我孫子市日秀 将門神社
千葉県沼南町 将門神社
埼玉県入間郡越生町熊野神社 合祀
栃木県下都賀郡岩舟町 御門神社
茨城県新治郡千代田町 自然神社 じねん
茨城県岩井市岩井 國王神社 将門公三女如蔵尼創建
福島県双葉郡大熊町 勝善神社 
福島県双葉郡浪江町 国玉神社
福島県相馬市中村 相馬中村神社摂社國王社


[1051]  将門について。 [あかがね]  05/11

平将門が神になれた理由は、彼が「怨霊」になり、祟ったからではないでしょうか。
人が「怨霊」になるには、「彼があんな目にあうのはかわいそう」という民の声が必要だと思われます。
私は茨城県結城郡石下町在勤ですが、至る所に「平将門と長塚節のまち」という看板が立っています。付近には「将門まんじゅう」やら「将門そば」やら「将門ハーフマラソン」などがあって、彼が朝敵だ。というような意識はきわめて希薄です。

(ちなみに私は、作家「長塚節」を民謡か何かだとずーっと思っていました。
どうして生家とかあるのだろう・・・と。(爆))


[1050]  ローカル落書き  [習志野のてつ]  05/11

5月12.13日 神田明神の大祭があります。神田明神はたとえば『神田明神下の』銭形平次と云うように、大変人気がありますが、祭神は平将門です。勤め先そばの三越本店も氏子の一人?です。
ところでいつも疑問に思うのは、藤原純友です。
『承平・天慶の乱』と並んでも、純友を祭った神社は聞いたことがない。何故こんなに差が出たのでしょうか?
ー聞き覚えー
長崎県・大村湾の城の城主、大村氏は、藤原純友の子孫 鎌倉時代からの地頭・在地領主で、大村氏は、2万7千石の小藩ながらも、12代明治まで続いたそうです。


[1049]   ミンヅ ぶっかけ論  [焼尻紋次郎]  05/11

 日本語とのあいだに1200 ものペア類似を示すネパール語……で、猿田の「サル」の意味はいろいろと出ます。なかでも「移動」「世話」の意味がでるのは注目にあたいするかと思います……がねぇ〜〜。
 ネパール語とアイヌ語のあいだの類似語彙は 440 です。おらの資質のモンダイもこれあらむか。

 言っときますが、「日本語・沖縄語」にいちばん近い言語は、いまのところ大野晋教授が出されたタミル語だというのが今の世の中の常識です。しかし、そのペア類似語彙は 350 という貧困さです。

☆ ヤタガラスの「ヤタ」には手を焼いています。どのようにお考えでしょうか。温知故新カネ。

☆ 伊太祁曾神社にヂヂィ出現……。そのうちおらは「イ(ク)タ・クソヂンヂィ」呼ばわりされると思っていたが、これで音が似ぃちゅうハデ、その心配なくなったナ。


[1048]  今回も、落書きに近い。  [玄松子]  05/11

> 猿田彦神
>  猿田彦神の形姿は巨大で口のわきが明るく輝き、眼は鏡のように丸く、赤いほおずきのようだとあります。(紀)

天狗という説もありましたね。赤面ですね。烏の大将。ヤタ烏。これも導きますね。
あの鼻は「火吹き竹」の象徴かもしれません。八手の扇で風をおこします。製鉄の匂いしますね。丹生津姫は天狗姫。

> >道祖神の二面性?
>  更なる言語音痴も一言、塞の神とは、悪しきものを塞ぎり、よいものを通す導くと言う、門番神のことに見えますね。

そうですね。そういう意味で、サグメとウズメは表裏一体。どちらも侍女で、中心神の側近ですね。あるいは、両面宿禰か、ヤヌス神のような存在かもしれません。


[1047] 無題 [setoh] 05/11

猿田彦神
 猿田彦神の形姿は巨大で口のわきが明るく輝き、眼は鏡のように丸く、赤いほおずきのようだとあります。(紀)
 大陸や南米の神の顔に色は別にしてもTVで見たような記憶があります。神々の人格化初期のイメージでしょうか。

>道祖神の二面性?
 更なる言語音痴も一言、塞の神とは、悪しきものを塞ぎり、よいものを通す導くと言う、門番神のことに見えますね。村の境界に坐す神、銅鐸もその役割があったのかも。さえぎるとサナギは言語音痴論では似て非なるもの。

美人妻>このまま帰るのは惜しい!と宮司さん宅に押しかけると、いろいろお話を、お聞かせくださいました。
伊太祁曽神社の祭神に大屋津姫、柧津姫という五十猛命の妹二柱が祀られています。妹とは妻のこと。そう三人目の美人妻の登場に宮ぢぢぃは喜んだのでした。
来月から若返って、新婚ほやほやの孫が司ります。また来てくださいね。


[1046] 『かむなびザコ』があげる勝鬨の声  [焼尻紋次郎]  05/11

  『かむなび』ざこカネ。
☆ 瀬戸内さん、おらは切り株山には行ったことないんです。“その目”ができかけたころ、クルマを運転しながらチラと見ただけです。
  800mぐらい落込んだ地溝帯のなかで、ここだけむくむくと地下から湧いてきたような小山ですよね。
  ……と、いうことは? 三井・三菱資本あたりが聞いたら鼻さシガラコぶら下げでよだれコ出すべなぁ。でもやるだけのタマシコあるやろか? おんべにいばだだこどさべられで酒呑んで寝るんだべなぁ。
☆ 山浜さん ア・リ・ガ・ト・オ 。
  すげぇなぁ。ウンジュの資料も神ワザですね。身体だいじにして長生きしてくださいヨ!
  1万年前の暖ったけぇ気温を肌でしることができました。もう朝鮮とのあいだには海があったんですよね。
☆ sag には禾本科植物の意味がありゃへんやろか。ウズはウズマサと同時に解決すべし。なりまっか?

 もうすぐ人間様が寝ている間でも、ロボットがせっせと辞書読んで整理するヨカ時代がきます。それまで待ちきれないご仁は、縄文時代に使われた語彙(それは約2600語彙)ぜんぶを地球規模で総当りするのはむずかしい。そこで、辞書があるかぎりで「柱、幹、茎、杖、柵、串、剣、刀、槍、男根・女陰、立つ、真直ぐ立つ」だけを、総当りするといい……という方法論がでたわけです。神社が造り始められる直前の氏族割拠状況が出らいしょ。
 45年前、安田徳太郎は性器だけを追いかけて世に中の歓心を買ってゼニ儲けしました。性器でもエデン語にあふれていました。しかし性器だけでは文化の流れは出ません。

  こどば・ふじゃらみ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1045]  GW疲れがとれない・・・。  [のりちゃん] [Url] 05/10

一点集中すれば良かったんですが、和歌山・三重・北摂と、うろうろしてたんで、焦点が定まらない・・・。
伊太祁曽神社から帰ってきてから、このページの記事に気づいてしまいました。
なんて計画性のない!!
伊太祁曽神社には、8時ごろに着いたため、社務所は閉まっていました。このまま帰るのは惜しい!と宮司さん宅に押しかけると、お食事の最中にも関わらず、いろいろお話を、お聞かせくださいました。
紀伊の国の名前が、「木の国」から来たとは・・・。不勉強ながら全く知りませんでした。
だから、五十猛命があちらこちらの神社で祭祀されているんですねぇ。


[1044]  Re[1040]: 天宇受売神 と 天探女  [玄松子] 05/10

> 「さぐ」は、「ふさぐ」からでしょうか。

言語音痴の妄想。さえぎる・詐欺。この「さ」は、塞にも通じないかな。
でも、天探女が「塞」の神なら、天宇受売神と同系の道祖神になってしまう。道祖神の二面性?

これじゃ、ただの落書きだな。


[1043]  Re[1040]: 天宇受売神 と 天探女  [setoh]  05/10

岩波文庫日本書紀の注に 天探女について以下のような説明があります。
1.天稚彦(穀神 古代西アジアのタンムーズ神)の侍婢
2.アマノジャクはこれの転 さらにアマノザコ さしでがましいもの、干渉好きの人、おしゃべり屋
3.情けを探る女 心のねじけた女

 神話的には天稚彦の敵(探女)味方(下照姫)と言うことです。下照姫=赤留姫が成り立てば(玄松子:比売許曽神社http://www.genbu.net/data/bungo/himekoso_title.htm 参照)、魔よけ、赤色とウズ(土器や銅鐸の渦巻き模様の呪術)即ち、天細女につながります。
探女、細女、対比できる女神みたいですね。


[1042]  血しぶき トヨアシパラナカツクニ  [焼尻紋次郎] 05/10

 もう少し煮つめる必要を感じつつ記述します。
 ko は「……の」という意味ですので「トヨ」は「常世」と同じ意味です。「常」のなかにある 「to」は 日々の「と」であり、to-dayの「to」でもあります(このへん、アイヌ語ととても似ぃちゅう)。 
 たしか「トコタチ……なんとか」いう神様があったと記憶していますが、なんで立っているのかというと、それはお自らの精神性を“柱”の姿として akar(この世に顕われ……) させた神様だからです。 
 
 トヨアシハラナカツの「アシ」にも「立つ(stand)」という意味がみとめられます。現代の日本語ではせいぜい「風たちぬ」とか「雨脚」ぐらいの access ですが、じつはこれもアイヌ語のなかに顕著にみられるのです。, rera ash といえば「風が立つ」で、別に独立して ash は「立つ・起つ」です。
 ですからトヨアシハラとは水辺の風景を匂わせていながら、じつは「常世に立っている柱神」のことです。

 では水辺に生えている葦のほうはどうなったかというと、次の nakat と呼応して「葦こそ重要な柱神だぞ」と諭していたのです。ナカツクニは「ナカの国」で、ナカとは目に見えない空間“アマ”に対しての「目にみえるこの世」であることは別に述べたとおりですが、ここにはもうひとつネパール語の narkat(葦)が絡まっていたのでした。
  narkat は nal(管・切る)から成っており、ここでも「足切り」が出ています。英語の reed が日本語でアシ(足・風立つ)となっているのは注目にあたいします。

 葦は風の神をよび起こす(ash)草だったことが浮上しました。
 そして、この小さな柱(葦)は誰のための柱だったか……。ここで、粟の穂に乗っかって蜘蛛のように空へ飛んで行ったスクナヒコナの姿を想わない人はいないでしょう。古代の“童神”は現代人のわれわれが想像する以上に濃密だったのです。
 このように、いろんな、優秀な懸詞ができることばを持った氏族(秦氏)が到着したことによって、日本列島は統一国家の道を歩み始めたのでした。実にことばこそ力ならいしょ。

  ちからことばの力 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1041]  Re[1034]: ラテライト  [山浜]  05/10

>  山浜さん、日本列島のあちこちで見られる赤土とは、もと赤道に近い土地にあったラテライトと考えてもいい んですカネ。

ラテライトそのものではないのですが、地質時代で云うと洪積世(今から1万年前〜
)のある時期に温暖な気候の時期があり、その時期に形成されたようです。
年平均気温が20度となると形成やすいとのことですが・・
赤道付近にあるラテライトに比べ珪酸分がおおく、ちょっと成分が異なっています。
赤い色の多くは酸化鉄の色です。


[1040]  天宇受売神 と 天探女 [玄松子]  05/10

あめのうずめ と あめのさぐめ。
導くもの と 導かないもの。
「うず」は、「さぐ」の反対語って感じがします。
「さぐ」は、「ふさぐ」からでしょうか。
天宇受売神が猿田彦と対に扱われるのも、導く夫婦だから?


[1038] the longest name  [Setoh] 05/09

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにます−うすたきひめ−の−みこと)なる、由緒のある神社があります。
「うす」にご注目。
この近くで、綱掛祭があり、飛鳥川にカンジョ縄がかけられます。
男綱は男根、女綱はホトをかたどった藁製の模型を中央にして、里を悪霊から守ります。
男根・ホトは災難除けの功徳があったのでしょう。

さて、天宇受売神(あまのうづめ)は天岩戸前や猿田彦の前で、乳、ホトを出して危機を突破します。
また、宇豆比古神(うづひこ)は、流れの速い海峡を軍船が突破するのを導きます。この宇豆比古神は別の漢字で珍彦と書きます。チンとは読みません。しかし、棹根津彦(さをねつひこ)と言う名前をもらいます。「さお」ですね。やはり男根でしょう。魔除け、危機突破ですね。


[1037]  Re[1036]:タモリ神社でなくてかっかりちたヨ  [setoh] 05/09

埴安神は圧倒的に福岡県に多いですね。137座。
筑前那珂御笠は地禄神社
筑前早良には埴安神社、
筑前嘉麻や下座では天神社
筑前穂波から上座下座夜須辺りでは田神社

初期の稲作の神かも。夜須地方の埴土が霊験あらたかだったとか。

君知るや、禁酒の神、これぞ、五十猛命也。
参照:杉鉾別命神社など伊豆の五十猛命。http://www.kamnavi.net/it/izu/index.htm
神奈備には効かぬ・・・。


[1036]  タモリ神社でなくてかっかりちたヨ  [焼尻紋次郎]  05/09

 すまねぇ。タクト(託杜)神社見るのがあとまわしになりました。
 さいしょに何らかの意味を込められて造られた神社だったが、その意味が忘れら
れて、その地に「タク」があった……というのが、起源らしい。

 多久はta(神)ku(窯焼き・sex)で、これに do(処)がついても、付かなくて
も意味は変らない。
 オミキあがらぬ神はないと聞くが、ほんとうに禁酒の神はないのだろうか。
 「託宣」しないで祭られるだけの神さまもあったのだろうか。

いつも鳥居スネエモンですまね
けふも元気だ アサザケがうまい。


[1035]  Re[1034]:やっぱ 歴史うごかす キチガイ発想  [玄松子]  05/09

> * ところで「託杜神社」はなんと発音するんやろか。タクモリ? 

「タクト」だそうですよ。再度URLを、http://www.kamnavi.net/ny/takuto.htm

> * 十二だったらわかるが、十六とはメンヨウ。nir(低い・土地)ok(<okw……目)が原意原音ならむ。

十六(じゅろく)は、地禄(じろく)からの訛り、あるいはその逆かもしれません。
十六天神とあるのは、多分、天満宮との関係によるものでしょう。各地禄神社の神紋は梅鉢で、天満宮と同じです。
埴安神を祀る、地禄(じろく)の語源はわかりません。確かに「地」からの「禄」(収入)となっていて漢字の意味的には理解できますが、当て字っぽいですね。


[1034]  やっぱ 歴史うごかす キチガイ発想  [焼尻紋次郎]  05/09

 ミナシャァ〜〜ン あがぁ〜 あがぁ〜。おらはどこの親分でも組長でもない。黒を白だと言いまくる立場じゃない。そのおらが赤を青だと思った。
 キチガイ病院に入ったほうが世の中のためかとシンコクに悩んだあるネ。だが、『かむなび』のミナシャンのあったけぇ声で、「まんざらキチゲェでもねーんじゃねーだろーか」……ぞな。

 とくに、サリセッセの御ことば……『 当神奈備サイトに託杜神社が掲載されています。祭神は、丹生都比売神の異称ということです。http://www.kamnavi.net/ny/takuto.htm
もと、十六天神とよばれていたそうですが、福岡には、地禄(じろく)、十六(じゅろく)という神社が多く存在します。祭神は、埴安神です。この埴(はに)の「に」って「丹」の意味はないんですかねぇ。
「青丹」は、青(黒)い土ってことですよね。』 で、社会復帰カネ。

* ところで「託杜神社」はなんと発音するんやろか。タクモリ?
 * 十二だったらわかるが、十六とはメンヨウ。nir(低い・土地)ok(<okw……目)が原意原音ならむ。“nir(低い)” ; ニライカナイ(沖縄 ; 太陽おがみ)、ニルバーナ、ネーデルラント(オランダ)など。
* ハニの語源はちょっと待っておくんなせぇ。九州で「あすこんニキ(処)」はよく聞かれたと惟ふ。
  ハニヤスのヤスは、いちおう「鍛治屋」。
* 丹はもともと「土」デシタカ!「丹」はもともとが「発音は“ni”,意味は“土”」ではなかったろうか。慣用によって、意味に“赤”が発生〜定着しただけではなかっただろうか。
シナ語ではどうなってんだろ。いや、シナ語そのものがインド系の語彙をひねって借用していると看たほうがいい。
* ni- がついたら、なんでもかんでも「低い・土地・下」とは限りません。ネパール語で nillo は「青い」。
-illo は先日のべた日本語の“いや、いよ(弥々)”ざんす。故に「ni =青」。
* ni-ub は「土・ウブ(スナ)」スナはクリシュナのシュナで神。「土・産」が「ニブ」。ubja =生産。

 山浜さん、日本列島のあちこちで見られる赤土とは、もと赤道に近い土地にあったラテライトと考えてもいいんですカネ。……ならば、鉄の含有も多いと思うのはシロートの浅ましさやろか。

  ドゲン語源 ;   http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1033]  謎がいっぱい、丹生都比賣。  [マルヤ]  05/09

kammerさん、様々な情報ありがとうございます。頭の引き出しにしまっておきます。
といってもマルヤの頭からは実際、欲しい時に必要なものが何処に仕舞ったか分からなくて取り出せないことが多いのですが。
ほんとに「丹生」には謎がいっぱいですね。
大和・吉野には丹生神社や丹生川はありますが、ご存知のように例の丹生都比賣の大和系変化とやらで、丹生都比賣を祭祀している神社は一社もありません。そのすべてが、タカオカミ、クラオカミ、ミズハノメなどの水神(竜神)変わっています。とくに吉野においての丹生氏の足跡は、故意に消されたかのようでもあります。
正史ではあまり知られていない比曾寺や日雄寺、吉野三山・三神社の神宮寺にその史料が残っていたのではなかったかと私は思っています。
●吉野では丹生は「にゅう」と発音しています。


[1032]  Re[1030]: 高森神社のこと [玄松子]  05/08

> 異説としては現在の高森神社がそれということになるようです。
> 境内に残る嘉永3年(1850)銘を刻む石碑には「延喜式内社高部屋神社」とあります。拝殿内で吉田宮司さんから直接聞いた話で、神殿内には明治6年の剣札に「相模国大住郡高森村鎮守延喜式高部屋神社、朝命により社号を改正し高森神社と称える」とあるそうです。

そうですか、ありがとうございました。
瀬藤さんの書込みを見て、こちらの式内一覧には、追加しておきました。

江戸から明治にかけて、式内が流行した時期に、「当社こそ」と自己申告する神社が多く出たそうです。神社側だけでなく、外部の資料に何かあれば、もっとはっきりするんでしょうが。

地方によっては、遷座後も小祠が残り、地元民の努力で、また神社に復活するケースもありますから、高森神社もそのケースなのかもしれませんね。

高部屋神社の八幡以前の祭神は、住吉とする説があるようです。大住明神ですから。


[1031]  丹生  [kammer]  05/08

>丹生は「ニブ」「ニフ」が昔の読み方、新しい読み方はニュウです。
地域で違うのでなんとも言えませんが、四国には「にお」と読むところもあります。
「たんじょう」って読むところもありますね。丹生津姫神社のある地元では「にゅう」
って発音しますが、ふりがなは「にう」のようです(地元の病院に丹生さんがこられて
本人がふりがなをそううっていたそうです)。


[1030]  Re[1021][1018]: 高森神社のこと  [日下倭人] 05/08

玄松子さんへの返事とさせていただきます。

> > 高部屋神社には高森神社という論社があって、そこには式内社高部屋神社とも書いてあります。
>
> 『式内社調査報告』には、「古くは七社権現と称し、明治六年高森神社と改称。それを契機に式内を称するようになった。村名に高がつくだけで、根拠があってのことではない」とあるのですが、実際はどうなのでしょう。郷土史関連に詳細はあるのでしょうか。

大住大明神としての高部屋神社の鎮座地は現在地より西方700b、小字で弥杉(いやすぎ)というところだったそうです。そこから現在地に移ったことになっているのですが、異説としては現在の高森神社がそれということになるようです。

境内に残る嘉永3年(1850)銘を刻む石碑には「延喜式内社高部屋神社」とあります。拝殿内で吉田宮司さんから直接聞いた話で、神殿内には明治6年の剣札に「相模国大住郡高森村鎮守延喜式高部屋神社、朝命により社号を改正し高森神社と称える」とあるそうです。

祭神はアジスキタカヒコネとなっており、水稲文化を東に広める時、大和から持ち込んだのではと宮司さんは推測していました。(高部屋神社のかっての主祭神は、誉田別と見られますが、これは鎌倉期の八幡信仰と関係があるものと思われます。両社の祭神には大きな相違が見られるように思いました)


[1029]  Re[1028]: 八皇子神は八岐大蛇か  [玄松子]  05/08

> 青丹(あほに)よし 奈良の都  なんて和歌があったわな。
> 赤丹も花札にはある。青いのも赤いのもありそうだね。
> 丹生は「ニブ」「ニフ」が昔の読み方、新しい読み方はニュウです。

当神奈備サイトに託杜神社が掲載されています。祭神は、丹生都比売神の異称ということです。
http://www.kamnavi.net/ny/takuto.htm
もと、十六天神とよばれていたそうですが、福岡には、地禄(じろく)、十六(じゅろく)という神社が多く存在します。祭神は、埴安神です。この埴(はに)の「に」って「丹」の意味はないんですかねぇ。
「青丹」は、青(黒)い土ってことですよね。


[1028]  Re[1026]: 八皇子神は八岐大蛇か  [Setoh]  05/08

紋>二番☆の意味殆ど不明。
三郎はオオナムチで、まではTVで解る。が、何故クスミあるか?
急言とはなんぞいな。

紋>三番☆
青丹(あほに)よし 奈良の都  なんて和歌があったわな。
赤丹も花札にはある。青いのも赤いのもありそうだね。
丹生は「ニブ」「ニフ」が昔の読み方、新しい読み方はニュウです。


[1027]  Re[1016]: 波が打ち寄せるように  [setoh] 05/08

伊勢原市高森の高森神社について
 明治初年までは高部屋神社とも称されていたとのこと。
 現在の社殿は享保元年に再建されたもののようで、棟木に高部屋神社と書いてあることと、鳥居脇の石碑にもそのように刻まれているそうで、神社由緒では、「延喜式にある高部屋神社は、おそらくこの社のことを指しているものと思われます。」とのことです。

かよさん>逆に多氏は 秦氏や 小子部連スガルからたどって、また紀氏や荒田直から逆に研究すると 面白いのでは??
 
 到底「ド素人」を自称される方の発想とは思えません。もしこの書き込みをお読みでしたら、何故、上記氏族の名前が出てくるのか、本当のド素人にもわかるように解説をお願いいたします。


[1026]  クソクラテス と オオアナモチ  [焼尻紋次郎]  05/08

☆ kammer 将軍、おらのタネは大分県玖珠郡。生まれ育ちはケンカの巷・筑豊。海賊ダマシイですばい。
  あんぼは Google ; 『津南町・クアハウス』とか民族資料館に電話したら、作って送ってくれると惟ふ。
 「打たれたら、も少し響き返す」のがおらの気性なれど、あんましイランデイイコト(九州弁 ; 出しゃばり)すると、おへまが「もう、養うてやらんぞな」なぁ〜〜んち、ぬかすかもしれんハンデ……。クソ暮らテスですと。

☆ サラどん“主張”の領域ではなく「玉ぐしはクス・ヒの急言なるべし」てな常識〜通説をぶちまけた本はないカネ。
 「オオナムチ = 大穴持ち」だとすると、北島三郎もオオナムチでクスミならまし。岩手県には耳の穴が巨大な遺伝因子が凝結している。親指がスポッと入りそうなぐらいに大きい。

☆ 常識を逸脱すること甚大なれど、気になってしょうがないので公開質問; ……「ニウの“ニ”には“青”はまったく考えられないのだらうか」。丹生津姫……読みは「ニュー」でいいんやろ? 青銅は最初は赤いがロクショウ吹いたら青ざんす。この疑問、根拠を言うたらいよいよキチガイ扱いにされそうなんですじゃ。

  I.T.掲示板文化論 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi


[1025]  さっすがーァ!!!  [泊瀬女]  05/08

玄松子さん、あなたは何て人なのでしょう。さっすがーァ・・・とびっくり。よその土地の人から指摘されるとはね。
あのね、平塚八幡宮は正式には五之宮ではないかもしれません。地元では五之宮だと言いますが、そうではないとの説もあります。泊瀬女は15歳まで平塚で育ち、七五三のお参りも初詣も平塚の八幡様に行きましたので多少身びいきもあるかもしれません。地元の説を採り、平塚八幡宮を五之宮とご紹介しました。書き込みする時「これは要確認事項だな」とは思ったのですが、ローカルネタなのでまさかつっこみが来るとは思ってもみませんでしたわよ。ドッキリしました。
相模・一之宮から四之宮までは式内社ですが、平塚八幡宮は歴史は古いけど(仁徳天皇の御代に社殿造営とされる)式内社ではありませんね。
近いうち、きっちり調べてご報告しましょう。


[1024]  Re[1004]: ローカルのローカルネタ  [玄松子]  05/07

最近、質問ばかりで申し訳ありませんが、

> 五之宮・平塚八幡宮の神輿が集まります。

平塚八幡宮って五宮なんですか?


[1023]  Re[1020]: なにがし  [山浜] 05/07

Kammer様 こんにちは
> 通常は金堂に入れないのですか?

どうやらそのようで、私は金堂内にある木村武山先生の供養菩薩の仏画が好きで、結縁潅頂の時期に高野山に来ております。特に好きなのは金剛灯菩薩様です。

結縁灌頂は一般の人を対象とした密教の儀式で、目隠しをして、手に印を結び、印の前にシキミの葉を挟み、口に真言を唱えて、観想しながら、真っ暗な堂内を僧の案内で進んでいきます。やがて敷曼茶羅の前に進み、シキミの葉を落として曼茶羅の仏様がその人の守護仏となるという儀式です。5月3〜5日は胎蔵界曼茶羅、10月1〜3日は金剛界曼茶羅でやっております。いつだったか、神主さんが結縁潅頂を受けていてびっくりしたことがありました。

> 御廟にあるみろく石を持ち上げるのにトライされましたか。
はい、やりました。あれは台を利用するとうまくあがります。石があがると3人力?だったかな?それは智慧の力を加えなさいという教えのようにも思います。ちなみにその日は片手でつかんでそのまま乗せた人がいました。すごー

壇上伽藍は根本大塔もいいですが、丹生都比賣命や高野明神をお祀りしている御社がきれいでいいですね


[1022]  渡来人様のお蔭  [hin(かよ)] 05/07

私は 『もの作り』関係のHPをやっておりますが、鉄にしろ 工芸にしろ その根本は、古代日本にやって来た渡来人が 伝播してくださった技術から 始まっています。
今日の 日本の繁栄?の基礎は 渡来人様の技術のお蔭あったればこそと 思っています。特に 朝鮮半島には 足を向けて寝れません。
そういった点からも ヒボコ集団や、秦氏などの足跡をたどる事は大切と考えています。また、『お蔭』と思う事は 世界平和にも繋がるんじゃないかな?^0^と、偉そう〜〜にネ。


[1021]  Re[1018]: 相模国府祭、来年こそは! [玄松子]  05/07

> 高部屋神社には高森神社という論社があって、そこには式内社高部屋神社とも書いてあります。

以前から、少し気になっていたんですが、『式内社調査報告』には、「古くは七社権現と称し、明治六年高森神社と改称。それを契機に式内を称するようになった。村名に高がつくだけで、根拠があってのことではない」とあるのですが、実際はどうなのでしょう。郷土史関連に詳細はあるのでしょうか。


[1020]  なにがし  [kammer] 05/07

焼尻紋次郎様
>渋柿から得た甘いゼリーと小豆アンコを、餅米の粉を“がわ”にして包んで煮たマンジュウみたいなものです。
紋次郎様のご出身はどちらですか。一度食べてみたいのですが、食べさせてくれるようなお店、あるいは旅館でもいいのですが、そんなところがありましたら教えて下さい。夢に出てきそうなほど食べてみたいです。

山浜様
>5/3に行きましたが(結縁潅頂で金堂の中に入れるので・・)、
私は5/4に行きました。そういえば結縁灌頂やってましたね。通常は金堂に入れないのですか?せっかくのチャンスを入らずに帰ってきてしまいました。ちなみに、結縁灌頂って何ですか?
高野山といえばやっぱり「みろく石」の饅頭ですね。山浜様は御廟にあるみろく石を持ち上げるのにトライされましたか。私には無理でした。手の長い人は持ち上げられるかも。


[1019]  無題  [setoh]  05/07

>クスミをどうひっくり返しても「銅鐸」はでてこねぇ〜んだがなぁ。
 エデンからは出ないと言うことに過ぎません。熊野の始原の神の熊野クスヒの神と神倉山のゴトビキ岩の根元から出た銅鐸、これがつながっていると見るのは不自然ではありません。

 銅鐸とクスからは大穴持が連想できます。そうです、銅鐸にも大きい穴があります。大地の神、大穴持こそ銅鐸だったかも。

 谷川健一さんがクスミ説でも大穴持説でもありませんが、神奈備はサナギにはとらわれません。これぞ真理探究の姿勢かね!!

 出雲の玉作湯神社の主祭神は櫛明玉神(くしあかるたま)で、八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神と言われます。玉作部の遠祖です。
 赤留姫も赤い玉から生まれた美女です。赤は素直にredですね。

 天日槍が波が打ち寄せるように来ているわりには出雲にその伝承、神社は見当たりません。避けているのでしょうかね。

 その出雲の土壌は赤土が目立ちます。奥の方も、宍道湖南岸もそうです。色合いは紀の国の伊太祁曽神社の鎮座する山東や豊国の香春辺りとよく似ていました。高野山辺りは所によってはもっとドス赤い土壌ですね。

 多良岳の西側には丹生都姫を祀る神社が点在しています。どんな色の土壌でしょかね。


[1018]  相模国府祭、来年こそは!  [日下倭人] [Url] 05/07

泊瀬女さん、ご無沙汰してます。
5月5日の祭りが終わったばかりというのに、来年でもないでしょうが、泊瀬女に刺激されて来年こそはと今から心に誓っています。
お話の通りゴールデンウィーク中の混雑は大変なもので、出かけたくなくなります。神社へは混まない日をねらって行けばよいのですが、祭りとなるとそうもゆきません。でもやはり行かねば、と思っています。
連休中に新発見したので出かけたのですが、高部屋神社には高森神社という論社があって、そこには式内社高部屋神社とも書いてあります。近々にこれをHPに書き加えておこうと思います。
全部歩かれるなら、これもリストに加えておいてください。


[1017]  タ カ マ ガ ハ ラ  [焼尻紋次郎]  05/07

 ひん・かよさん、ドシロートなればこそカキコしなければイケまへんのや。クロートは象牙の塔の学会でモノ言えばええ。I.T.掲示板革命の底ぢから、『かむなび』のみんなで見せ(証明)つけてやろうや。

 日本列島のニンゲンぜんぶがイナカッペだったころ、「おらっちの先祖はタカマガハラにいたぞ」と、ダボラ吹く連中が出現しました。タカマガハラの「ハラ」が柱であること(パーリ語 ; phalaka)疑うなかれ。「マガ」は mag < *max(大)かもしれませんが、現代朝鮮語に ma(鷹)がありました。ma と表記しましたが、a の発音はマップのマ……どっちみち、日本人が聞いたら“マ”にしかならんワな。
 秀吉出兵のとき朝鮮から連れて来られた陶工の一群が筑豊を見下ろす南の岡・小石原にいます。そこから少し日田市のほうに下ったところに二軒の陶工がいて、この人々は「鷹取焼き」を商売にしています。
 おらは永いあいだ、柱にとまっていた鳥はフクロウだとばっかし思ってきました。……考えなおすべ。
 そして、柱には ma(卍の目)が描かれていた……とばっかし思ってきましたが、これも考えなおすべぇ。

 朝鮮語 ma の関連発音 ; 媒介、結ぶ、力、最高、まっさき、身だしなみ、誓い……これらに関係ある概念が含まれているのもあるだろうし、ないのもあるだろう。ごそっとドジョすくいカネ。タカミムスビ・カネ。

 Kammerさん、kammer の語形……どっかで見たんだがなぁ。
 おへまの里では、冬の朝食は餅をたべますが、それ以外は「あんぼ」が朝食です。渋柿から得た甘いゼリーと小豆アンコを、餅米の粉を“がわ”にして包んで煮たマンジュウみたいなものです。50年前まではこれでした。
 イナカッペこそ、実生活に根ざしてま。

  語源タカタカ(ばったのこと) :  http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1016] 波が打ち寄せるように [hin(かよ)] 05/07

ド素人がカキコしてはいけませんが、ヒボコ伝承を持つ集団や、氏族はすべて血縁関係者でもないし、1回きり渡来した人々でなく数100年単位で 波が打ち寄せる、また引くように繰り返し渡来してきた人々の中に生きてる伝承だったような^0^

逆に多氏は 秦氏や 小子部連スガルからたどって、また紀氏や荒田直から逆に研究すると 面白いのでは??


[1015] 逆グルメトラベル [山浜] 05/07

グルメトラベルですか?私も一度そんな旅行をしてみたいです。
連休は出雲〜隠岐(島前・島後)〜伯耆〜因幡の一の宮を参拝してきましたが、旅費ばかりかかって、食事といえばカロリーメイトとお茶という、逆グルメトラベルばかり・・・。まるで精進潔斎しないさいといわれているようです。
でもほとんどお天気がよく、宮司さんもいらっしゃって、いい神社参拝が出来ましたよ。

高野山といえば、「みろく石」というお菓子がおいしかった記憶があります。
5/3に行きましたが(結縁潅頂で金堂の中に入れるので・・)、やはり、なにか食べた記憶がありませんです。


[1014]  注釈とPR  [kammer] 05/07

マルヤ様
下記書きこみの坂上氏は坂上田村麻呂と同族だったかと思います。
マルヤ様和歌山県伊都郡かつらぎ町にいかれたのですね。かつらぎ町の名物は柿(特に干し柿)とくるみ餅(本当のくるみではないのですが)です。くるみ餅は地元の家庭でお祭りとかで作るもので、これを商品化したものです。私は大好物で和歌山に行ったときは必ず買っています。おいしいのでもしよろしければ一度御試しを。そういやあ高野山でも売ってました。


[1013]  東寺の丹生都姫 [kammer] 05/07

マルヤ様
東寺の丹生都姫祭祀ですが、もしかしたら社ではなく、掛け軸でまつっている可能性も。高野山の場合は四所明神(1200年ごろから)として丹生都姫、高野明神とその下に気比明神、厳島明神を描きこれを祭っている寺院もあったかと思います。
丹生酒殿神社について、先日和歌山県立図書館で高野山衆徒が書いた文書に「酒殿社は天野両所の本社なり」とありました。また、五来重編「高野山と真言密教の研究」(名著出版)の「高野山と丹生社について」(和多昭夫筆)p104〜105の項に、
「丹生酒殿神社の伝えるところによれば、天野の丹生社に対して三谷の丹生酒殿社はその本社とされており、酒殿社が里宮であるのに対して天野社はその山宮に当たるのであろう」また、「三谷に坂上氏の勢力が著しいことは・・・」とありました。坂上氏は天野社の掌握のため、まず本社である酒殿社の支配をした、と見ているようです。丹生氏は神主として、坂上氏は1000年以降から氏長者(社人)として丹生都姫神社を運営。実際の実権は高野山にあったのでしょう。
ちなみに、酒殿社の横にある山道を上って行くと1時間ほどで丹生都姫神社に着きます。いいハイキングコースです。天皇も三谷津まで船できて、この坂を登って高野山に行っています(おとなりの九度山から高野山へ行くルートもあります)。
狩場明神の物語(ラブストーリーにするかは未定)については、丹治氏の家系の書いた本(太田亮著「姓氏家系大辞典」(角川書店))が見つかり、丹生氏の家系との一致も確認できましたので一歩前進です。丹治氏と空海との関わりが見つかればいいのですが、このあたりは見つからないかもしれないのでフィクションにしようかと。あとは実名でいくか、偽名でいくかで迷っています。実名でいって祟りがあるのも恐いし、祟りなんてないかも知れないと言う気もあり、あとは私の勇気でしょうか。それと水銀や銅の鉱山師とからませるかも迷っています。丹治氏といえば銅というイメージもあり、丹生氏の財産相続の古文書に「大堝(おおるつぼ)」とあることから、丹生氏の鉱山師としての可能性もあるから、それをからめてもいいのですが、ただ証明できないのでどうしようかと。でもストーリー的にはからめたほうが断然面白いですよね。吉野の丹生との関わりも調べたいですね。これについては父の喪があける来年春に丹生川上へいってみたいと考えています。あのあたりに丹治っていう地名もあるし、丹治氏との関わりも出てくるかもしれませんね。


[1012]  Re[1005][962]: 多氏について、その他  [あかがね]  05/07

>  あかがねさん、お久しぶりです!!

ご無沙汰いたしております。こちらは、いまさっき、茨城に帰ってきたばかりです。

> >・大田田根子が「オオ」氏がらみの人というのは初めて聞きました。どこかに書いてあるのでしょうか?
>

と書いたのですが、色々見ていると「たたひこ」みたいな人名はよくあるようで(どこにあったか忘れました。思い出したらまた書きます。)、「おおた」の方がかえって見かけないかもしれません。大体オオ氏は三輪山の太陽祭祀に関わっていたそうですし、祖の神八井耳命は河内だか和泉とかにかかわりがあり、タネコも同様です。
 なんだか、そうに違いないような気がしてきました。

> @多氏の遺跡には太陽祭祀の痕跡がみられますが(『日本の神々4大和』の「多神社」の項をご参照下さい)、『古事記』のヒボコ伝承にも太陽祭祀の雰囲気が濃厚>

 「日本の神々」は連休中に買いました。ちょっと難しいですが、多神社の項も読んでみました。ひぼこ。といえば、連休中に現在では杭全神社摂社の赤留比売神社にも行きましたが、日矛伝承は今のところ勉強不足なんでパスです。でも新羅の人ということなら、渡来した年代が限定されるんでしょうね。とっても神話っぽいですが。

 私は茨城に来て、鹿島神宮に行ってから神社をまわるのを趣味とするようになりました。
 で、大生神社が元宮らしいというのを聞いて、多氏の素性が気になりだした者です。いくつか当たってみましたがさっぱりです。奈良県田原本か、九州か。はたまた朝鮮半島か・・・。

>  あかがねさん、宇陀郡の神社はどこに行きましたか?よければ教えて下さい。

 宇陀郡旅行は結局奈良出身であるオヤジを無理やりつき合わせ、車で行ってきました・・・。
 大宇陀町、菟田野町、榛原町といった具合で比較的行きやすそうな式内社を中心に廻ってきました。全部はさすがに無理でしたが(都祁も次回にもちこしですね)、宇陀水分や、八咫烏神社、あと元伊勢の阿紀神社、篠畑神社とか。墨俣神社は建替えが完成したとかで大騒ぎでした。しかし、桜井から一歩入っただけで結構秘境ですね。いくつかの式内社では道を聞いた地元の人に「何でこんなところに?」という顔をされてしまいました・・・。


[1011]  Re[1007]: 無題  [kokoro] 05/06

 紋次郎さんアマカネ!!ついに、多良学の始動ですね。『ほにゃらか』のカキコでは地誌的な考察から始まっているので、言語音痴の僕でも取っつきやすいです。これからどういうことになるのか興味津々です。ただ、史上に「ハタタネコ」という記述があるかどうかは寡聞にして僕にはわかりません。

 setohさん、お教示、本当にありがとうございます。出雲では天候に恵まれなかったそうで大変でしたね。僕は出雲は中学生の時に行っただけなのでうらやましいです。ところで、最近、世間を騒がせた金正男氏は、海を渡って来て、難波に行こうとしたらその海峡の神が行く手を遮って入れなかったヒボコを連想させませんか?

 下の僕の投稿、『[1005] Re[962]: 多氏について、その他』の真ん中よりやや下にある「多氏と息長氏が同族関係らしいのは…」は「多氏と舟木氏が同族関係らしいのは…」の間違いでした。スイマセン。


[1010]  グルメトラベル  [マルヤ] [Url] 05/06

kammerさん、お久しぶりです。
高野山の「丹生氏ゆかりのお寺」はまだ行ってません。
私もよく調べもせず、どこかで読んだ記事のメモを見て書き込みをし、自分も又、行きたい行きたいと思いながら、実は未だ参詣していませんでした。こちらこそすみません。夏には行くつもりでいましたので、無駄足にならずに済みます。ありがとうございます。
以前のこの時、「京都・東寺境内にも丹生都比賣神が祭祀されているらしい」と云う意味の書き込みを私がしたかと思うのですが、先日、京都に用事があり、東寺に立ち寄って境内をくまなく見て回りましたが、この確認はできませんでした。ただ境内には神社が二社(八幡社と八嶋社)あって、このうち八幡社の方には空海の像の横の立て札の説明書きに、八幡神坐像と女神坐像二体の、三柱の神様がお祭りされているとあり、この二女神が丹生都比賣と市杵島姫ではないかと考えられます。

この三月に、丹生酒殿神社に参拝して、kammerさんを思い出し、昨日も「神奈備過去ログ」で以前のkammerさんの書き込みを見ていたところでした。
昨年の12月に「丹治家信と丹生照千代とのラブストーリー」の小説構想の書き込みがあります。
kammerさん、ぜひ書き始めてみてください。きっと素晴らしい歴史ロマンが誕生することでしょう。楽しみにしています。

●グルメトラベラーですか。いいですよね。
私も 「神社詣では好きです。でも(食べ歩きさん)の方がもっと好きです」


[1009] 無題  [kammer] 05/06

ご無沙汰しておりますsetoh様。
>玄松子さんが苦労して参詣した国東半島北側の姫島の比賣語曽社の説明の中で
それって、玄松子様のHPに書かれているのですか?こちらの書きこみですか?見落としてるのでもう一度見てみます。

マルヤ様、古代編構想中なんですね。楽しみにしています。がんばって下さい。


[1008]  無題  [Setoh] 05/06

延喜式の神陵
延喜式を中下巻を座り読みしようと思いjunku-doと言う本屋さんに行ってきました。残念ながら下巻はなかったのすが、中巻にあった神陵はヒコホホデミ尊以下の皇室系統のみでした。

その本屋さんで立ち読みした上田正昭さん編集のぶ厚い本の中で、千田稔さんが天日槍や田島守の事を書いていて、呉勝・・を引用されて、解説として、日本へ来る前には半島にいたのであろうが、揚子江辺りの出自と考える事もできる。橘とされる「時じくの香の木の実」に土地勘を持つ田島守が系列に入っているのも偶然ではない云々とありました。(書き込みを読む前でしたので、相当不正確な引用ですが趣旨には間違いないつもり)

kokoroさん>呉の勝は百済系、ヒボコは新羅系です
と、決める必要はないので、お説は破綻していません。今後の展開は興味津々です。

グルメトラベラー kammerさん、お久しぶり。
 やはり、丹生都姫のことで思い出しました。
 天日槍命が追いかけたと言う赤留比売(あかるひめ)の「あかる」とは水の意味があるのか、それとも色の red の意味なのか、玄松子さんが苦労して参詣した国東半島北側の姫島の比賣語曽社の説明の中で、この女神と丹生都姫の類似を指摘されておられました。
http://www.genbu.net/data/bungo/himekoso_title.htm
 確かに「みず」でも「赤」でも類似ですね。ここへ神功皇后や住吉神を持ち込むと、世代的にはともかく、共通項がでそうですね。


[1007]  無題  [焼尻紋次郎] 05/06

 こころさんのカキコなんざは、おらが 100 回読んでもワカランと思うなれど、流派・死角がちゃうのでちょとオネガヒ旁々……。

 おらは志を立てています。『多良学をやらむ』と。それに絡むのですが、「ハタタ」と「オオタタ」が関係ねぇワキゃねぇだろーと、独断・偏見やらかしています。そこで質問ですけど、史上に「ハタタネコ」という記述はないのでしょうか?

※ ないとなったら、DAD(柱)とDAD(焼く・焦がす) の関係がモンダイになってきます。
  黒い柱……炭坑住宅のまわりは焼き焦がした直系 10 cm ぐらいの柱でズラリ囲まれていました。あれも太古々々の昔からの習慣かもしれません。


[1006]  マルヤ様へ「お詫び」 [kammer] 05/06

ご無沙汰しております。
以前高野山の○○院は丹生氏ゆかりのお寺ですと書きこみさせて頂きましたが、結論から言いますと違いました。マルヤ様、もしすでに○○院に行かれていたらすみません。この場を借りてお詫び致します。
以前インターネットで○○院のホームページをみて、そこに「天野(高野山西北約20km)の豪家天野祝の一族が奉じた丹生都比売命を祭祀する丹生家ゆかりの寺である。」と書かれていたので、こちらにも書き込みさせて頂いたのですが、先日ウキウキして念願の○○院に行ってご住職様のお話を聞かせて頂ける事ができたのですが、ご住職様のお話は次の通りでした。
「昔地主神の丹生都姫も祭っていたので昔はその名を取った寺院の名前だった。しかし、丹生氏とはなんの関わりもなく、また丹生都姫神社は高野山寺院の一角をしめ、明治より前は住吉大社・伊勢神宮・厳島神社などと同様寺院の僧侶がその祭祀をつかさどり、神主は存在していません。祭祀は高野山の四所官が行っていました」
との事でした。以前から行きたかったところだったのと、何時間もかけて高野山に行ったのとで、その時のショックは大きかったです。JAROに言ってやる〜(;_;)。
仕方なく、金剛峰寺、霊宝館なんかを廻って帰りました。もちろんお土産は「あんぷ」です。以前TVでも出てたみたいですけど、生の麩にあんこがはいっているんです。おいしかったです。ちなみに、○○院の精進料理おいしかったですよ。
と言うことで、マルヤ様及び私の書きこみで○○院に行かれた方、本当にすみませんでした。
それでは、グルメトラベラーのKAMMERでした。


[1005]  Re[962]: 多氏について、その他  [kokoro]  05/06

 あかがねさん、お久しぶりです!!4月24日の『[962]多氏について、その他』で、僕の投稿(4月22日の『Re[941]: 播磨と紀伊・北摂』)について、下記のスルドイご質問がありました。ずっと気にかかっていたのですが忙しかったり、連休中は旅行だったりで遅くなりました。

>・大田田根子が「オオ」氏がらみの人というのは初めて聞きました。どこかに書いてあるのでしょうか?

 僕が大田田根子の出自を多氏としたのは4月19日のあかねさんの投稿『[941] 播磨と紀伊・北摂』に、「太田神社(大阪府茨木市、摂津国島下郡の式内社)には大物主の息子で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残ります」とあるのを援用したものです。ただし、あの投稿でも書きましたが『日本の神々』と『式内社調査報告』で太田神社について調べても、この記録のことは何も載っていませんでした(あかねさん、もしお読みでしたらこの記録についてもう少し詳しく教えていただけないでしょうか)。一般的に言うと、おっしゃるとおり大田田根子が多氏がらみという話は通説ではないようです。
 僕の投稿の論点は、A.祭神大田田根子という説のあるタタ神社≠ェ息長氏の勢力範囲に見られること、B.上記の太田神社の記録、に着目し→そこからABを同系社とみなして、オオタ≠キーワードとして抽出し→ヒボコと息長氏が同族であるという古代史の定説に輪をかけ、「実は多氏もヒボコと同族で、ヒボコは多氏のつてを頼って将来した!」と論証しようとゆーかなり強引なものでした。ただし、@多氏の遺跡には太陽祭祀の痕跡がみられますが(『日本の神々4大和』の「多神社」の項をご参照下さい)、『古事記』のヒボコ伝承にも太陽祭祀の雰囲気が濃厚、A上許曾神社(滋賀県)と大乃己所神社(三重県)を関連させて考えると、オオタ∞大田田根子∞ヒボコ∞多氏≠ェ揃う、B垂仁天皇が長尾市と一緒に三輪氏の祖、大友主(大田田根子の近親者)を遣わしたと『日本書紀』にある、等が何となく繋がってくるのが(手前味噌ながら)この理論のうま味だと思われます。
 また大田田根子のことは度外視しても、多氏と舟木氏の関連から、ある程度の援護射撃が期待できるように思われます(多氏と息長氏が同族関係らしいのは同書同神社のP199をご参照下さい)。舟木氏は安曇系の海人で、近江の大田神社の祭祀にも関係があり(『日本の神々5山城・近江』の「大田神社」の項参照)、これは同海人による淀川と琵琶湖の水運を介して、播磨〜摂津〜近江〜上越〜但馬の経済ブロックを作っていたらしい息長氏の問題圏へとつながると思います。息長氏とヒボコが同族らしいという話は森浩一先生のご著書などに多く見えますね。
 というわけで、定説ではないとはいえ大田田根子が多氏がらみとしたら色々と面白いことが出てくるのも事実なのです。とはいえ、とにもかくにもあかねさんのいう太田神社の記録が唯一の立脚点になっているので、切実に確認したいと思います。実をいうと『播磨国風土記』にある、呉の勝が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の村に移って来て云々という記事の呉の勝≠ヘ百済系、ヒボコは新羅系ですから、すでにここでこの説には破綻があるわけで、妄説だったということになってもかまいません。まぁ素人の思いつきです。

 書き落としましたが滋賀県の余呉湖に近い、近江国伊香郡の式内社、鉛(本当は金ヘンに公と書きますが出ませんでした)練日古エレヒコノ神社は大山咋オオヤマクイ命を祭神としヒボコを配祠していて、前者は中世に勧請されたもので、後者が本来の祭神とされています。付近の地域はヒボコによる開拓伝承があり、日槍塚≠ニいう古墳や日槍屋敷≠ニ言う小字名も残っているそうです(『式内社調査報告 第十二巻 近江国』『日本の神々5山城・近江』の同神社の項参照)。所在不明の近江国伊香郡の式内社、多田神社もこの近くにあったのかもしれませんね。

 あかがねさん、宇陀郡の神社はどこに行きましたか?よければ教えて下さい。


[1004]  ローカルのローカルネタ  [泊瀬女]  05/05

ゴールデンウイークは近くの神社巡りを計画していたのですが、休日になると意味もなく車でやってくる若者たちで道路は大渋滞となります。特に神奈川県南部、いわゆる湘南の海岸通りは全く動きが取れなくなります。それで私は神社巡りはあきらめて家にこもって本や資料の整理と次の旅の計画を立てていました。
5月5日は「相模国府祭」(さがみこうのまち)が行われるので見に行って来ました。日下倭人さんが相模の国式内社を全部巡ってHPに発表されたのを拝見して、自分の住んでいる国の事を「いつでも行ける」と後回しにしていたことが恥ずかしくなりました。そこで、ボチボチと相模の国のご紹介もして行きたいと思います。
相模国府祭は寒川神社と川勾神社が一之宮の地位を争ったのが神事として残ったと云われています。大磯・国府本郷の六所神社(相模総社)近くの神揃山に相模一之宮・寒川神社、二之宮・川勾神社、三之宮・比々多神社、四之宮・前鳥神社、五之宮・平塚八幡宮の神輿が集まります。各神社の宮司が注連縄で囲んだ斎場に五本の鉾を立てます。それから寒川神社と川勾神社の神職がそれぞれに虎の皮の敷物を並べ、交代に少しづつ前へとずらしていきます。「我こそ一之宮」と主張する動作です。それを無言で三度繰り返すと、三之宮の宮司が「いづれ明年まで」と仲裁して神事は終わります。
いずれ、いずれと千年もの間、問題を先延ばしにしているとは、良い意味でも悪い意味でも、いかにも日本人らしいと可笑しくなります。神輿の出入りにも別々の通路を通ります。仲裁役の比々多神社の神輿は暴れみこしと云われ、神揃山への出入りの際、おみこしを投げ出したりして暴れるというのも何か理由があるのかと興味を覚えます。
神揃山は大磯町と二宮町の中間の丘陵地帯にありますが、この辺りで育ったン十年前の私は、自然いっぱいの山や川や海岸をまさに駆け回っていました。この山に神様方が年に一度お揃いになることを知ってはいましたが、実際にお祭りを見たのは初めてです。昔と比べると、住宅が立ち並び風景は大分変わっていましたが、小学生の頃に戻ったような感じがして草の匂いをいっぱい吸い込みました。
国府祭には、一之宮から五之宮、そして六所神社の神官、氏子が総出で集まります。若くてかわいい巫女さんも緋のはかま姿で何人も来ています。大変な人出ではありますが、一度見にきてみてください。


[1003]  Re[1002]: ローカルネタ・東京古書情報  [玄松子] 05/05

> 延喜式には神陵が記載されているようですね。

手持ちの延喜式、および関連資料を見てみましたが、見あたりませんよ。
何処に載っているんでしょうかねぇ。


[1002]  Re[999]: ローカルネタ・東京古書情報  [Setoh] 05/05

 この前、奥出雲の鬼神神社(おにかみ)別の名、上宮伊賀多気神社(仁多郡横田町大字大呂)へ参詣いたしました。社頭の由緒書きに「延喜式云五十猛神陵地伊我多気社是也」とありました。延喜式には神陵が記載されているようですね。
>延喜式全巻揃い、3千円
是非ほしいですね。他の神々の神陵も知りたいですね。


[1001]  生田さんとクスの木  [焼尻紋次郎] 05/05

 おらの本名の「生田」ったぁナンだろなぁ。かなり永いあいだおらは「エデン語 ek(1)ta(神)」だと思ってきました。しかし、香具さんから教えてもらったとこでは「第一社」が別にあって1・2・3・4・5・6と7社まであるというので、ek・ta の考えは捨てるべきだろうと思いなおしました。
 そこで浮かびあがって来るのが朝鮮語の*iku(生成)……。なんだか農耕に関係ありそうですが、生成こそいのちの基本形ならまし。こころさんのニラみつけるところです。

 おらの「生田」の場所は大分県日田市の川上、玖珠(クス)郡で、オヤジが生まれた丘こそ、千早丸という刳りぬき舟を産んだ“切り株山”です。なにしろ急成長した楠の超巨木だったというハナシです。
 けふの香具さんの報せでは、楠がでました。楠は紀伊を飾る重要なキー・ワードのひとつでんねん。ネパール語では「幸せ・健康」を意味していてジンジャエールに賑やかさを添えてらいしょ。

 そこでアタマを左向きにひねってみる。そうすると、kus の開音は kusa じゃんか。「クサ」とは舟ではなかっつろか。名草という語彙がサラセッセのキーからさかんに打ち出されていましたが、名草は地名ではないのだろうか? もし、地名でありえたら「na(土地・指導者)kusa(舟)」(形容詞後置形)の解釈が出らいしょ。「nag(へび神)・sa(里)」も有力解釈でんなぁ〜。
 くさかの江、草津、モノノベの渚鳥カネ。アイヌ語 ikusa は「川を舟で渡す」。

 サラどんよ、つるぎの語源らしい「チュルギ」はだれが言うた? 現代朝鮮語では「幹・茎」ざんす。それよかウイルタ語に見られる turu(柱)が匂ひまっせ。tala にも似ぃちゅう。ギリヤ−ク語は tola(柱)。
 「柱」の続き……おそがい・なも。バカスカでました。下へ見においでんせぇ。

  語源チューチュータコ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1000]  無題  [香具] 05/05

神戸の生田神社では、鎮座1800年を記念して史跡『生田の森』を整備しました。
ほんの小さな公園程度のスペースしかありませんが、楠の巨木が4本残っています。
奥には新しい社に建て替えた神功皇后のお宮があります。
一般公開は5月15日まで、お近くの方で機会がありましたら、どうぞお立ち寄り下さい。


[999]  ローカルネタ・東京古書情報   [習志野のてつ] 05/05

>京都市勧業館の大古書展
>古代系では、学術、一般、エセ、多いですね。仏教、民俗も豊富です。
 東京・神田 駿河台下に、古書会館があります。内容同上。
毎週金曜日と土曜日は素人向けの日です。(それ以外はプロ向け)このまえ延喜式全巻揃い(全3巻にまとまってます)を、3千円で売ってました。昭和36年発行・吉川弘文館で一冊800円だった
本が、千円に値上りしてました。混雑のため、立読み困難が欠点。
『古書会館』は時々休むので、電話してからのほうが、確実 『古書会館』Tel.03‐3295‐2828 JR御茶ノ水の交差点から駿河台下に向かって10M程の左側に、回転寿司「ひまわり」があります。All一皿130円、大トロでも鯛でも注文可能です。昼時は混むけれどお勧めです。


[998]  感激  [hin(かよ)]  05/04

麓(ふもと)神社に行ってきました。(宮津)真名井神社よりさらに奥。
億計、弘計の二王子を匿った伝説の神社。
民家(集落)の五〇mほど 奥にある。
その民家もひょっとして 5世紀からあるのでしょうか??
想像すると楽しい。
宮津にも 舟屋が二十軒ほどあるとききましたが、高速船から なんとなく わかりました。
海神ネットワーク探訪は続く^0^ 

◆沖縄の鈴石の事を載せてるHP・・・→遠く離れた西表島にも鈴石が出るとは思ってもみなかった・・・・など
http://www2.snowman.ne.jp/~syun/okurimono2.htm


[997]  Re[996]: 佐奈伎  [Setoh]  05/04

>>京都市勧業館の大古書市

>かなりの規模だったのでしょうか?
>古代系の本もたくさんあったのでしょうか?

相当な規模です。京都を中心とした古書店30店以上が出品していました。半分も回らない内に疲れ果てました。古代系では、学術、一般、エセ、多いですね。仏教、民俗も豊富です。
 春は5月1日〜5日 京都市勧業館
 夏は8月11日〜16日 下鴨神社境内
 秋は10月30日〜11月3日 百万遍知恩寺

 そこそこの学者なんかが亡くなると書斎ごと出て来るんでしょうね。


[996]  佐奈伎  [ペギラ] 05/04

さなぎについては
「類聚名義抄」で鐸の訓、オホスズ、ヌリデまたサナギとあり、「和名類聚抄」で鐸の注に大鈴也とあることから佐奈伎に関しては大きな鈴という解釈であったと思います。
でこの大きな鈴とは何なんだ!と言ったところは「諏訪大明神画詞」に「大鈴ノコトシ」とあるのが鉄鐸と思われるので、平安の有識者の方々は佐奈伎を鉄鐸と認識しているのだろうと思っています。
銅鐸消滅後も鉄鐸、土鐸といったものは存在していたようですし、平安あたりまで祭祀が続いていたらしい沖ノ島にも出土しているので、可能性としては、かなり高いものだと思います。
が前に述べたように銅鐸とすぐには繋がらないのが辛いところです。
青銅器に関しては他の銅剣、銅戈、銅矛は何て呼ばれていたのか?
謎は深まるばかりです。

>京都市勧業館の大古書市へ行って来ましたが、お目当ての本は見つかりませんでした。

かなりの規模だったのでしょうか?
古代系の本もたくさんあったのでしょうか?
「埋もれた銅鐸」今だ古本ネットにも出現せず!(悲)


[995]  生田目さん みごとなお名前でした  [焼尻紋次郎]  05/04

 けさ、クスミ・生田目・つむかり・カスミ・サマイクル・シャーマン・源為朝・霊、魂・○○樣・シャモ・スメラミコトなどに新解釈がでました。見にらっしゃい。

 ぞくぞく語源 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[994] 無題  [Setoh]  05/03

かよさん> 参道入って直角に左折れて本宮という構造も多いのでしょうか?
この前、出雲の揖屋神社へ参詣しましたが、まさに左折れでした。西から入って南向きとなりますね。
伊勢神宮はどう曲がったのか、右折れ+左折れになるのでしょうか。
伊太祁曽神社は右折れで、北から入って東向きです。
このように入ってから曲がるタイプの神社は古社が多いそうです。

> 天理教
ここの雅楽は相当なものらしいですね。新しい宗教はその本拠を古い神社などの近くに置くそうです。これはやはり霊力のお裾分けに預かろうとする気持ちなのでしょう。^0^布都御魂が今日まで頑張って来たから天理教も繁昌でしょうね。大神神社の近くにも天理教の支店がありますね。古代遺跡の上に乗っているようです。ソウカやオウムも聖地の近くを好んだのでは。

> 高師小僧
近江の蒲生町に鋳物師と言う所があります。その南の別所に「高師小僧」の碑が田圃の中に立っています。この呼び方は近世の呼称でしょうね。大阪は高師の浜とか淡輪の辺りでしょうか。

ペギラさん> 「延喜式」巻二四時祭中の鎮魂祭の祭料中に「鈴廿口、佐奈伎廿口」
銅鐸の記憶は記紀編集の人には見えませんね。延喜式の制定が905年、ま施行は967年です。平安時代も中頃です。この頃の佐奈伎とは何なのでしょうね。

京都市勧業館の大古書市へ行って来ましたが、お目当ての本は見つかりませんでした。


[993]  民俗学者にも差し出すケンカ状  [焼尻紋次郎] 05/02

 天理教はみんなにおアシ(悪し ; asin =金)を払い出させるので、中央はひたいに汗しなくてノホホンと物見遊山気分で人生を過ごせるブタ・ニンゲンが輩出しやすい構造をもっているようです。
しかし、なかには学問の重要さをわきまえたご仁も出たらしく、おらが世話になってる『基礎ネパール語辞典』は、この天理教の海外伝道部 1課(電話07436ー3ー1511)が出版したものです。
 先日、おらが「三冊くれ」と申したら「絶版ちかし、1册にアマカネ」との返事カネ。
 安く(1100円ぐらい)て手ごろな辞書なので、絶版とはショックですが、ミナシャンがバカのふりして「1册おくれ」と電話したら入手できるのではないかと思います。ぜひ確認してください。
 大学書林からも出ていますが4万円もします。詳しすぎる辞書はかえって有害です。

 サラどんよ、初期の銅鐸は小さかったのら。盛岡のチャグ・チャグ馬っこにはオオカミや熊よけにこんなのがつけられていたんかも知んねぇど。江南とかバンドンの銅鼓の影響うけて大きくなったんやろ。「チャグ」は朝鮮語でも鈴の音だと。だが suzu はパーリ語の susu「(子供) ⇒ 童神 」に大いに関係あらせんやろかネ。

 言語学者が古代語の分析をサボっているのには、おらムシャクシャ肚が立つが、言語分析になぐりこみをかけてくる民俗学者が、周辺言語をまったく当ってねぇのにオオグチ叩くなぁメチャ・ガマンならねぇ。ヤナギダなんちゅうオトコのいうことゼッタイに信用しちゃなんねど。ミナシャン。
 言語分析なくして、古代開発はあらしまへん。もっと、ノーミソがただれるぐれぇに神風特別攻撃隊の精神でぶち当るべし。
 安本美典先生は言語畑出身のお方ではないそうです。この点アマカネ。

  語源さらせ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[992]  高師小僧  [hin(かよ)] 05/02

皆さん、高師小僧って ご存知ですか?
これ褐鉄鉱の事で、大阪も出土してるらしいです。
これがあれば 諏訪のサナギと同様、全国で小規模製鉄(たたら)が可能です。
↓は、高師小僧の解説HP 
http://ns1.sun.gr.jp/~hashi/takasikozo/TakasiKozou.htm

それから 京都は天然砥石の産地です。
http://www.zenrin.co.jp/prod/lapan/vo123/05b.html


[991] 銅鐸  [setoh] 05/02

『古語拾遺』は忌部改め斎部広成さんが807年に書いたものだそうです。天照大神は天の岩戸隠れの際、天目一箇神をして 雑の刀、斧及び鉄の鐸(古語に佐那伎(さなき)といふ。)を作らしむ。
 その後、有名な天細女命(あめのうずみのみこと)のシーンで、彼女は、手に鐸着けたる矛を持ちて、桶の上で歌い舞うのです。
 漢字で解釈するとこの鐸はいかにも銅鐸を思わせます。さすれば細女は怪力女ですね。漢字に迷って言うと、太秦はウズマサ、太はウズに当たるかどうかシランが、細女は小錦と同じ発想の名前となる。

 平安時代に銅鐸が掘り出さされて、こりゃ一体なんだべ、と田舎の種子さんが言ったとか。

 本を探すのなら5日まで平安神宮前の京都勧業館で古書市が開かれていますよ。


[990]  サナギ [ペギラ] [Url] 05/02

初めておじゃまさせていただきます、ペギラという者です。
いつも覗いて勉強させて頂いております。

今回「佐奈伎」に関して少し。
自分は銅鐸のことを古代の人々は、なんて言っていたのかな?と思い、あちこち探しまわりました。
考えてみれば言い伝えが消滅しているようなものの謂れが残っているはずも無く、唯一、佐奈伎が近い物として見れる物ではないかと思っています。
「延喜式」巻二四時祭中の鎮魂祭の祭料中に「鈴廿口、佐奈伎廿口」というのがあるそうです。
「古語拾遺」の天細女命の「手持著鐸之矛而於石窟戸前覆誓槽」の形状を想像すると、諏訪あたりの鉄鐸が、その流れのものと推測できます。
と言ってイコール銅鐸とはならないのが辛いところですが。

setohさんの言ってみえた『埋もれた銅鐸』森秀人著を探しているのですが、今だめぐりあえず、中国の古い楽器の鐃(にょう)の姿がわからないのですが、今の鐃は、例えるならプロレスのゴングみたいに私には見えます。
そこから銅鐸になると古代の鐃に「舌」と何処で繋がるのか?。
この書にある鐃は、どんな形状なんだろうか?と。
もしよろしければ、教えてください!!m(_ _)m

谷川さんの「青銅の神の足跡」ですが、私には「製鉄の神の足跡」じゃないですか?となんとなく思いました。

突然のおじゃま失礼いたしました。


[988][989] 鬼瓦 [hin(かよ)] [Url] 05/02

えっと、昨日 石上神社に行きました。
初めて・・で、楼門の鬼瓦がメチャクチャ、気になりました。
鎌倉後期の楼門らしいですが、他社でも 鬼瓦がよく見受けられるのでしょうか?
それと、参道入って直角に左折れて本宮という構造も多いのでしょうか?

ついでに 天理図書館を覗きました。
吉野裕子氏の『蛇』を閲覧。
吉野先生にかかると なんでも 蛇になってしまいますが、
◆柳田国男は、「にが手の話」の中でニガテの原意を追求し、蝮捕りの名手がニガテとよばれていることをその起源の一つと考察して さらに「そのニガテの家筋をカヂハラとかフヂハラといって居る地方がある。
どうしてこんな名がついたか私にはまだ考えつかないと述べておられる。
私見によれば カヂハラのカヂは梶 フヂハラのフヂは藤。
ハラは腹で同胞、家筋の意であろう。
梶も藤も蛇を意味すると推測したのであるが、この推測を当てはめれば蝮、つまり毒蛇捕りの名手が蛇家計の名称で呼ばれたことになり、柳田提起の謎はとける。

・・・とありました。
しかし、天理教はすごいスケールですね。
その霊験に圧倒されました。布都御魂も頑張ってほしい^0^


[987]  爆笑質問 [hin(かよ)] [Url] 05/02

とにかく、無知なんで アホな事聞いて、ここのラベル(レベルだった)を下げますが、
たとえば、アマノオシホネノミコトとか ハツクニシラススメラミコトとか いかにも 神様ぽいのですが、
オオタタネコは なんだか 田舎の郵便局で「太田種子さん、おつりです」なんて局員が言いそうな、現代でも通用しそうな気がする名前なのが、逆に気になるんですが?? 私だけかな・・・


[986]  雨にふられてイサチル・サナキどんカネ  [焼尻紋次郎] 05/01

 サラ・ドンぷし戻ったあるか。自転車、ワダチカマリじゃなかったカネ。

 谷川さんとは「三宅島のペンケ岬発見」のとき電話でいっぺん話しただけだが、そのときの印象は、なかなかムコウイキの強いイゴッソウ漢だった。たしか、アサハラショーコ−と同郷だ。

 サナキのことだが、『青銅の神の足跡』小学館 P161 に「古語じゅう遺に『くさぐさの刀・斧、および佐那伎を作らしむ』とある……」のところで“鉄鐸”という文字が使われているのかどうかが、判然としない……このへんが、でっちあげかどうかの分水嶺ならまし。
 谷川さんはまだ生きてるだろう。「返事がないときゃアンタの捏造とみなす」と書いて、直接本人に訊いてみるべ。
 「鐸」の一字でヌテと呼ばれたこともタシカさんで……。
 サナキというのがあったら、これ sal(へび)nag(へび神)にも解されるなぁ。ツチに埋めたきもちわかりそう。


[985] 無題  [Setoh] 05/01

紋> 銅鐸の古語は「さなき」だときいていた。
これは谷川健一氏の出した説だよな。仮説だよ。ほらかも知れへん。実は誰も知らないんだ。
「あかがねほら」かも。「くすみ」かも。
これが古い神の名に残るとすればサナキは
佐那[サナ]、伊佐奈岐[イサナキ]、草名伎[クサナキ] 神社が伊勢国にはある。
クスミはクスで考えるとこれは多いし、鏡以前を思わせる栗栖、国津、国巣、九頭、結構古い感じだな。

石凝姥「いしこりどめ」なる神さんが坐す。磨き上げた御影石を丹砂の粉で磨き上げるとピカピカになるそうな。これをやった神とか。


[984] Re[980]: 鉄! [香具] 04/30

hinさん。香具です、宜しくお願いします。貴HP、拝見いたしました。
>うう!鍛冶ですよね。・・・
ウウッー!鍛冶なんですねー。まだ、鍛造をした経験がありません。
もっぱら、ヤスリで削りだしのナイフ造りです。鍛冶・鍛造は遠い憬れでもあります。
>新潟の三条で行われた鍛冶道場・・・
この中で、ご紹介の岩崎先生もまた、遠い憬れです。勝手ですが次に載せますね。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/336.htm
紋次郎親分、いつかお話した太平洋戦争中の『老人特攻隊説』提唱は、この岩崎先生の御父様である岩崎航介先生です。三木市の金物神社資料館で、岩崎航介先生の御著書を閲覧する機会に恵まれました。なかなか無いのです。神社には参拝するものですねー。

考古学関係や民俗関係でも、製鉄・鍛冶技術についてよく取上げられていますが、あまり研磨については出てきません。日本刀の神器としての発達について、玉鋼の製鉄や高度な鍛冶技術も重要ですが、同時に研磨技術も注目したいと思っています。日本では良質の砥石を産出したことが他国との大きな違いだそうですから。

どなたか、砥石または研磨技術に関する神社や古代氏族に関する情報がありましたら、お教え下さい。鍛造だけでは刀剣が完成しないのです。そして砥がなければスグに斬れなくなりますし〜。京都の鳴滝を押さえたのはどの氏族でしたっけ?・・・無知無知ですわ。


[983]   オリエントと日本の神  [焼尻紋次郎] [Url] 04/30

 こんどは 鹿島昇著『日本神道の謎』カッパブックス P136
 舊約“歴代志下”に書いてあることとして「ソロモンはエルサレムの“モリヤ”の山に主の宮を建てることを始めた」、「その拝殿は……中略……その上にしゅろと鞘の形を施した」、「約20mの2本の柱を建てた」とあります。

☆ シュロとは、おらがこれから始める多良学のメーン課題です。「シュロ」はパーリ語で tala 。毛を持つ黒い御神体です。
☆ 鞘はネパール語で myan 。これ「宮(ミヤ)」じゃんか。刀は神様でもあった。刀という御神体を包むサヤ=ミャン。
☆ もう40年も前のことだが、民俗学会に名を連ねていた守屋(苗字)さんがいた。おらの上司だった。たしか岡山出身。
  これでスワ神社のモリヤ、モノノベのモリヤと……四つのモリヤ。山と修行の山とモリ。ya = 神
☆ 二本の柱などという考え方は、なにもエルサレムが始まりでもあるまいが……。

  語源ゲンゲン ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[982] 邪魔だったら消してください [(1514−1575)] 04/29

偶然です。僕も瀬藤といいます。死ぬほどレアな名字だと思っていただけに嬉しいです。
本当に邪魔してすみません。僕は世界史専攻の為、大学の日本古代史の講義は勿論のこと、こちらのホームページに書いてあることもさっぱりです。このままじゃ古代史の単位落としそう・・・


[981]  柱に込められていた太陽神 [焼尻紋次郎] 04/29

☆ 同書『足跡』P196 ; ……アメのクシ・マヒトツ。
 ここに出てきている kus は『ほにゃらか・ぐだま記10』に述べている khus(シア−セ・健康)ではありません。やはりネパール語の ghus(貫く)からの派生語だと見受けられます。
 アイヌ語の柱は i kush pe(神が・貫く・もの)といいます。神様や悪魔は天から降りてくるという考え方はエデン的です。
 日本の天孫降臨はフルクシの嶺となっています。フルはアイヌ語にも入っている丘、さきに見たとおりです。
 この「クシマ」あたりも熊野を熊野として定着させた“意味添え”のひとつになったことと窺えます。

☆ 同書『足跡』P206 ……『平野神社にはクド神のほかコマラ神が祀られている』と。
 Hir は開音(母音づけ)されて“ヒラ”になります。原意は太陽の「日」であり、「目から一ひいた」……、野は神。
 コマラはパーリ語系の少年神です。-ra が強調末尾辞なのでコマだけが採用されたのが、高麗のコマでしょう。
 石川啄木のふる里、渋民の北に「こうま」という駅があります。車窓にぼつぼつ白樺が見えてくる南限です。これはおらには「川間」ではなく、台湾ブヌン語のコウマ(畑)だと思えてしかたがありません。ミナシャンに言える傍証は小澤一郎さんの人相です。人相はリッパな遺跡です。
 諏訪(swal はネパール語の神)の神社に祀られている神様にも少年神があるそうです。少年神の考え方は、これも同じく柱立て祭りをやっている飛弾高山には現代にも生きている偏執(文化)です。
 おへま(おらの女房)の里からもう少し山奥の秋山郷に関しての江戸期の紀行文が残っています。そこには、寒い季節に著者が泊めてもらった折のことが書いてありますが、家族は一本の大きな柱を燃やすいろりの傍で、筒袖のままごろんと横になって寝るそうです。著者が「これじゃ寒くて眠れない」と訴えたところ、亭主は俵むしろを一枚もってきて「これで寝なさい」と言ったそうです。
 そのいろりの上に井桁組みのマド枠みたいなのが吊りさげられていて、これは濡れたものを乾かす装置ですが、この木わくを「クド」と呼んでいたとあります。khu は「窯焼き」が原意で、九州ではカマドのことをクドといいます。
 クドの do(処)は被支配階級だった倭蛋民が数万年まえから持っていた「地ことば」みたいですが、さき紹介しました dosadh(国境ちかくの地)などにも含まれていそうです。

 言っときますが、谷川健一さんはクシも、ヒラも、コマラも、スワも、フルもぜんぜんてんで分かっちゃいないんですヨ。

  語源一直線 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[980]  鉄! [hin(かよ)] [Url] 04/28

ホアカリが出てきますと、
うう!鍛冶ですよね。
稲・鉄・鳥 毎度言われますが、興味湧きますね。
宣伝になりますが、新潟の三条で行われた鍛冶道場の画像をアップしたので よかったら 覗いて下さい。
鍛冶屋さんの おおきな道具、やっとこなど見ますと、ケルト人の道具と同じなんですよね。神社や語彙などからと合わせてもの作りと言う点からも 歴史を眺めるとまた 面白さもふかまるのでは?


[979]  かなりハッキリ ホアカリのミコト [焼尻紋次郎] 04/27

 銅鐸の古語は「さなき」だときいていたが……。sa(メロディー)na(する)ki(器)か。

 小学館ライブラリー 谷川健一著『青銅の神の足跡』 p102 に「エジプトの日の神ホルスは片目であった」。
 ホルスの「ス」は、シュメールでは「鳥」で、カラス、ウグイス、カケス、ホトとギスなどの「ス」で、この「ス(鳥)」は朝鮮語・沖縄にもみられます。そうすると、Hor は「日」になりそうです。
 セム系の言語なので一概にはいえませんが、古代では i と o は通音(どっちでもいい)だといえます。するとおらが追いかけまわしている Hir とは「日」ではなかったでしょうか。
 Hir = 太陽だとすると、伝わっているヒルメムチの所作がよく理解できます。どういうことが伝えられているかはここには書けません。知りたいひとはおエメ賜れ。
 
 ホルスはファラオ(王様)の行列の先頭をきって進んだため「権力」を象徴する鳥となりました。権力はネパール語で takat といいます。takat とはもともと“足を切ってもらう”ということでした。takat は日本では鷹となっています。古くは鷹は省略しないで「鷹鳥」と言っていました。
 片目をつぶる鳥といえばフクロウです。去年の7月7日、おらはフクロウがウインクするシーンを確認できました。日本列島に来た金属製錬士は、フクロウと片目に狂ったような偏執をみせています。

 同じく 64 ページ、「木曽川町門間に伊福部宿禰の祖・ホアカリの命を祀るイブリ部……」。
 ホアカリとは「ホ(太陽神)が akar(形となって現世に現れた)」という意味……かなりハッキリでました。
 イフキは木灰を「くちで吹く」ことによって金を得るやりかたから発達した窯焼きですが、イブリはフクロウにまつわる窯焼きの謂いです。イフキとイブリは、似ているようですがちがいます。
 門間……発音はカドマなら原意は「雷神・目」です。現実にはなにかの役職名だったことでしょう。

  欣求語源 ;   http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[978] 国巣と銅鐸  [setoh] 04/27

『埋もれた銅鐸』森秀人著から
 中国の古い楽器の鐃(にょう)はその形が銅鐸に似ているとか、日本名を「くすみ」の言うと書いてある。
 銅鐸の古語は伝わっていない。銅鐸を「くすみ」と呼んだのではないか、との見解です。

 「くすみ」とは何か? 色がくすんだのくすみか?

 熊野の熊野夫須美神は熊野久須毘命とも記され、「むすび」とかに解釈されており、那智大社では「那智のお山は夫須美神、又の御名を伊邪那美神と・・」と由緒書きに出てきます。
 また樟日のような字を当てて、楠の木や太陽信仰とからめる説もあります。

 最近、国巣が話題になりました。このクズとは銅鐸祭祀の連中を鏡を祭祀する連中が呼んだ言葉ではと思い立ちました。埋められて忘れられた被征服民の銅鐸、「くす」で解明できそうですね。

 なお、熊野久須毘神は、天照大神と素盞嗚尊の誓約で誕生した八皇子神の一で、この神の名前にはとってつけた不自然さを感じます。さらに、この神は他の七神と違い、現れて何もしていません。
 八皇子神とは、天忍穗耳命、天之穗日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須日命、多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命(後の三姫は宗像の神です)。



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