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掲示板のログ(平成十三年八月)お名前の敬称は省略しています。
更新 H13/9/1 


[1763]  瀬藤先生わかります。  [桃色蜥蜴]  08/31

瀬藤先生の今の心境わかります。
私も瀬織津姫受け容れるまで抵抗ありましたし、時間かかりましたから
ゆっくり待ってます。


[1762]  Re[1760]: のりChan  [Setoh]  08/31

> 目を見開いて...

南紀の海岸沿いに瀬織津姫は似合いません。現在の南紀の神社にも瀬織津姫は全然出てきません。尤も、祓えの神は常勤する必要はなく、必要な都度降臨して貰えばいいので、これを以て等式を否定しようとしているわけではありません。
 さて那智の滝は四十八滝あると言われ、一の滝は飛瀧権現(大己貴命)、二の滝は速玉、三の滝は櫛御気野となっています。この一の滝へは当然の事ながら川が流れており、
> 瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬に禊祓の式典
が行われていても不思議ではありません。しかしこれを以て
> 那智の滝=瀬織津姫という等式
のみが成り立つのではなく、(那智の滝)=(大己貴命、速玉、・・)と祀られていると理解できるのではないでしょうか。
 さて、那智の滝に丹生都比売が降臨したのではないか、との発想は滝の前で思いついたのですが、小生は鈍感な人間で神懸かりのタイプではありません。
 理屈の一部は本日更新の「那智大社」を見ていただければいいのですが、他に、天野の丹生都比売神社に伝わる丹生大明神告門に『美野国乃三津柏又濱木綿奉給』とあるのですが、植物としては南紀名物の御綱柏(潮岬)浜木綿(南紀ならどこでも)とのことで、これを奉じているのは、丹生都比売と南紀との深い関係を示しているものと思っています。
 
> 伊勢と熊野の同体説
熊野にイザナギ、イザナミが持ち込まれたり、密教、修験道など、辺境の聖地の割にはゴチャゴチャにされています。熊野の海、山を見ていますと「原点はムスビ信仰」との説がうなずけます。伊勢から伝わるものと熊野にうごめくものとは、感覚としては相当違うと感じています。要勉強ですね。

> アズナヒ
アヅナヒが正しいと思いますよ。のりちゃん。


[1761]  狸ばやしで ポンコロリ  [焼尻紋次郎]  08/31

 わぁ〜〜賑やかになったきゃぁも
 去年の暮ごろじゃったか、ことしの初めごろじゃったか、瀬藤ドンからおエメか来たんですよ。
 そこに「学者はまだ、だぁあれも解いていないのだが、おめえアズナイがわかるか」と、ありま
した。そこに、ボケ記憶ですが「この世が闇になってしまうような大罪……」みたいな解説が付記
されていたのでした。んならカンタンじゃンか……と、おらは折り返し返事したのでした。

 だが、今回のミナシャンの反応拝むと、どうもトップ貴人の埋葬と関係あるのですか?
 ならば、ADHIN は支配者やしィ、初代新羅王の別名のなかに NAI(役職名?)があるしィ、別途
アタマをひねらなならんとやろかぁ〜……と、思いおる次第でありんす。
 原文周辺はどないなってまんねん。はぁ、ススキも穂を出し始めたころだっしょうけぇ。


[1760]  のりChan  [桃色蜥蜴]  08/31

のりChan
おれ丹生津姫については、ホントなにも知りませんから、宜しくご教授お願いします。
おれも、楽しみにしてます。瀬藤先生のご意見
目を見開いて...
のりChan耳の方頼みますよ。
紋の旦那がニオイとアジと感触担当してくれますから...多分
紋の旦那
お願ぇしやす。


[1759]  Re[1746]:愚紋と言われようと 真理の徒カネ  [なにがし]  08/31

紋次郎様
>  名詞を解釈するときには、そこに若し「普通では思い付かない事象」が記述してあれば、それに沿って解釈しなければなりません。アズナイには「昼・夜」という“オヤッ”が顔を出しています。ここを捕まえないとマイネぞな。

「あづない」って「メクラする事」と書かれていましたが、夜がつづく現象をいうようにも受け取れますが、「の罪」に注目すると、「メクラする事の罪」ともとれますよね。つまり、同じ墓に葬ってはいけないのに合葬したことを村人が隠していた罪、とも解釈できそう。メクラとは、例えば現代の言葉でみると、プラント業界では使わない穴にネジ蓋をする事を「メクラする」と言います。「そこメクラしといて」と言う風に使います。連想すれば「アヅナイ」とは「くさいものには蓋をしろ」の罪だったりして・・・ <m(_ _)m>


[1758]  無題  [梵]  08/31

setoh様、どうも有難うございました。
今後もこちらを拝見させてもらいます。


[1757]  Re[1756]: そうなんですか?  [のりちゃん]  08/31

> また、そうであれば、単純に稚日女=丹生津姫→天照大神の妹君との等式は成り立ちません。

そうですね(笑)多分単純じゃぁないと思いますです。

「丹生津姫伝承」を考証しておられる(トップから行けます・・・って言わずもがなかな<
桃色蜥蜴さん)瀬藤さんの那智の滝と丹生津姫の関連に関するご意見、楽しみに耳を大きく
しておきますです(^。^)


[1756]  そうなんですか?  [桃色蜥蜴]  08/31

のりちゃんさん
ありがとうございます。
ところで、瀬藤先生
1723で何やら丹生津姫と那智の滝が関係があるような言い回しをされていますが、瀬織津姫について書いた風琳堂刊「エミシの国の女神」で那智の滝が瀬織津姫であるとしています。
同書は、その証明として「熊野三所は、伊勢太神宮と同体である。本宮並びに新宮は、太神宮、那智は荒祭である」という大江匡房の「江談抄」を引用しています。
荒祭=瀬織津姫ということです。
また、同書は、「熊野市史上巻」の「3月21日川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬に禊祓の式典あり。」との記載を引用しています。
那智の滝=瀬織津姫という等式が成り立ちます。
私は、丹生津姫については、詳しく知りませんが、丹生津姫が那智の滝と関係があるのなら、瀬織津姫を考慮する必要があります。
また、そうであれば、単純に稚日女=丹生津姫→天照大神の妹君との等式は成り立ちません。
のりちゃんさん


[1755]  Re[1754]: 「太陽=天照大神」の妹君の神社?  [のりちゃん]  08/31

> のりちゃんさん
> 「太陽=天照大神」の妹君の神社ってなんですか?

天照大神の妹君(娘というお話も)・稚日女(丹生津姫)の神社ですよね。
天野大社。

・・・でもって、なにがしさんのHP丹生川上神社下社の説明

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/simo.html

に大山氏の説が紹介されていましたね。
見逃していました。申し訳ありません。


[1754]  「太陽=天照大神」の妹君の神社?  [桃色蜥蜴]  08/31

のりちゃんさん
「太陽=天照大神」の妹君の神社ってなんですか?


[1753]  Re[1741]: 阿豆那比・ロコポロ!  [のりちゃん]  08/31

> 『大山源吾氏は著書「天河への招待」で次の如く書いている』そうです。
> ―『「アヅナヒノ罪」とは天つ神と国つ神を同列に取り扱う罪』―
> 同じ所に葬られること=同じ扱いをすること…非常に明快。演繹法で
> 考えれば納得できます。象徴的であっても、昼間が夜になる罪、大罪で
> しょう。もし同性愛が罪なら、生きている時の行為に罪があり、同じ所
> に葬られることが罪ではないはず。

天野の祝が、もしも、天野大社のはふりなのだとしたら、「太陽=天照大神」の妹君の神社
ですものね。

小竹宮がどういう神様であったかは分からないにしても、同列に扱われることは罪になるか
も知れませんね。

新羅王の死体の下に日本の使いの死体を埋められただけで怒った天皇(現人神)(神功皇后
紀の、あずないの罪の段の少し手前にこのストーリーがあります)の時代のことであれば、
すごく説得力がありますね。

> 「ロコポロ!」はまだ著作権法に引っかかる言葉かしらん??

コピーライトは、原田宗則氏にあります。「スバラ式世界」が大ヒットしましたが、小説も
なかなかいいのがあります・・・でも神社には全然関係ないのですけどね(^-^;;


[1752]  Re[1733]: アヅナヒ  [のりちゃん]  08/31

> 日 azun-afi あずなひ??
> タ azin-oy  leprosy(道徳的腐敗)

あぁあ、ごめんなさい。
反応し遅れた上に、
「大三玄」さんと書いてしまいました。
「大三元」さん、ここで訂正してお詫びします。ごめんなさい。

私ときたら、いろんな検索エンジンで、
「あずない」「アズナイ」「阿豆那比」ばっかり検索してましたが、
もっと違う文字で検索してみないとダメですね。

これまた、ロコポロです。


[1751]  Re[1746]:愚紋と言われようと 真理の徒カネ  [のりちゃん]  08/31

1日顔を出さないと、こんなに書き込みが・・・。
失礼しました。

>   しかしそのとき、ミナシャンは、神様や神事などの“意味”の把握ができたら大助かりとは
>   思わないのでしょうか。

思います。
「アズナイ」の罪については、
>  名詞を解釈するときには、そこに若し「普通では思い付かない事象」が記述してあれば、それ
> に沿って解釈しなければなりません。アズナイには「昼・夜」という“オヤッ”が顔を出してい
> ます。ここを捕まえないとマイネぞな。

そうですね。確かに
大三玄さんが書いてくださったように、

日 azun-afi あずなひ??
タ azin-oy  leprosy(道徳的腐敗)

が関係あるならば(これ、反応し遅れてすいません。アタマの整理がつかなくて)
「アズナイ」ってのは、「原因」じゃなくて、「結果」の説明なのかも・・・。
としたら、「アズナイ」の罪ってのは、
「夜が続くほど大きな罪」っていう意味だったりして・・・。トホホ。


[1750]  なみだロコポン・ロコポン  [焼尻紋次郎]  08/31

 さっそくのご教導有り難うございます。
 御教えくだすったご仁のみに栄光あれかし。
 あとはホニャホニャね。


[1749]  Re[1741]: 阿豆那比・ロコポロ! [Setoh]  08/31

【源吾音痴】
ロコポロ大山源吾氏の名前が飛び交いますね。鬼門鬼門。一冊読まなきゃ。

【アブナイ罪】
同じ所に葬られること、やはり古墳への追葬で、家柄があわないと云うことですか。神社に祭るのは、問題がないんですね。天照大神と大国主命の合祀
> もし同性愛が罪なら、生きている時の行為に罪があり、同じ所に葬られることが罪ではないはず。
失楽園ラストシーンのイメージですね。罪深いなー。

【筒男神】
住吉三神の筒男神については、星(オリオン座の三ツ星?)、津(湊)津(之)男、対馬の豆酸[つつ]とか諸説があります。『古事記』ではイザナギノ命と禊ぎ祓えの時に生成されとと記されています。
 実働としては、神功皇后の渡韓物語の時に「天照大神の御心なり。また底筒の男、中筒の男、上筒の男三柱の大神なり。」と顕れています。そうして、新羅の国で皇后が御杖を国主の門に衝き立て、墨の江の大神の荒御魂を、国守る神として祭り鎮めて帰還しています。帰還後も祭っています。
 これは古代版靖国神社を思わせます。即ち、筒男三神とは皇后が動員した兵士であって、半島での戦死者を墨の江の大神の荒御魂として葬り祭り、その英霊を住吉神社に祭って軍神、航海神としたと考えることができます。


[1748]  Re[1746]:愚紋と言われようと 真理の徒カネ  [玄松子]  08/31

部分的回答。

> 風の気吹戸主も水の神なんやろか。「風の気吹戸主」はなんと発音するのでしょう。

「気吹戸主(いぶきどぬし)という神」という呼ばれ方をします。風の神です。
他の三神が水の神で、この神だけが風の神とされているので、「風の」とつけてしまいました。

> ☆ 瀬織津比売……なんと発音? 「織」がオリなら“run down ”になる。これを朝鮮語でやると逆に“遡上”の意味となる。

瀬織津比売(せおりつひめ)、速秋津比売(はやあきつひめ)、速佐須良比売(はやさすらひめ)。


[1747]  紋の旦那わかりやした  [桃色蜥蜴]  08/31

まずは、とかげの分だけ
蠶影神は、『こかげ』です。けっして、トカゲではありやせん。筑波の蠶影山神社ってぇのが元締めです。
瀬織津姫は、「せおりつひめ」です。
樽井ですが、これ元々、枝村でして、本村は、三蔵子(さんぞうご)です。
因みに、三蔵子は、江戸時代までは、三尊子と記載されていました。
また、同じく、三蔵子の枝村の長草に「美佐々木」(みささぎ)の字があります。
この長草の素盞嗚神社の末に蠶影山社(祭神・稚産霊神)、三蔵子の西隣の大崎住吉神社末に蠶影社(祭神・小錦姫)が鎮座します。
三蔵子から大崎にかけては、字は戸狩、戸刈等字はまちまちですが、砥鹿神社(とがじんじゃ)社家・トガリ氏の同族の密集地です。
蠶影社の祭神・小錦姫は、天武時代の位階に関するものと思われ、トガリ氏の姫を祀ったのではと考えています。
紋の旦那あとはおねげぇしやす。


[1746]  愚紋と言われようと 真理の徒カネ  [焼尻紋次郎]  08/31

 やっぱワカランので質問しやす。愚紋と思うご仁は愚藤しなくていい。

☆ これは一般的な質問やけど、古文書に出ている「神様ごと」を不思議がったり、埋め合わせ
  作業をするとき、ミナシャン方はその発音はシッカリ掴む必要はないらしい。これさいきん
  分かってきました。
  しかしそのとき、ミナシャンは、神様や神事などの“意味”の把握ができたら大助かりとは
  思わないのでしょうか(ここ質問)。若しそう思うのなら、答えたほうがいいと思うよ。

☆ 「苗稼を潤し」……なんで“稼ぎ”なんやろか。稼はこの場合アテ字で、「ビョウ・ケ」と
  発音させたかったのではなかろうかと思えるのだが、そう読めまへんか。
☆ 蠶影神……これも発音おせぇてぇな。
☆ 水の神様として『瀬織津比売・速秋津比売・速佐須良比売、風の気吹戸主』があげられてい
  ますが、風の気吹戸主も水の神なんやろか。「風の気吹戸主」はなんと発音するのでしょ
  う。「主」で終わっていて「オオクニヌシノ・ミコト」のようにはなっちゃいねぇ。これで
  も神様なんやろか。
☆ 瀬織津比売……なんと発音? 「織」がオリなら“run down ”になる。これを朝鮮語で
  やると逆に“遡上”の意味となる。
  なお、速佐須良比売はおらの分析では「風の神」。神直毘神は舟の神。広瀬の瀬がワカラン
  も、これ太陽神。椿は竜神(バキが神……原音 BHAG-I)となる。アラハバキ……カネ

 とかげのだんな、『豊川市樽井町の素盞嗚神』……樽井こそキー・ワードでは?
 『七夕伝承を思わせるミワタリ神事』……ミワタリは温度差で冬の湖面に奔る亀裂だと、明瞭
なんでは? タナバタがシナから入ってきたのはいつごろでしょう? これ、新しいのではなか
ろうか。牛が顔だすしィ。

 名詞を解釈するときには、そこに若し「普通では思い付かない事象」が記述してあれば、それ
に沿って解釈しなければなりません。アズナイには「昼・夜」という“オヤッ”が顔を出してい
ます。ここを捕まえないとマイネぞな。

 けふはサクナダリどま蹴とばすか ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1745]  まさしくそうです。  [桃色蜥蜴]  08/30

玄松子さん
まさしくそうです。
厳密にいえば、男神・アマテルノオオカミです。それと対で祀られていたのが、瀬織津姫です。
つまり、倭姫が巫女として仕えたのは、この男神・アマテルノオオカミ=火明命と言うことになります。
この男神・天照大神という点に関しましては、三輪神社に天照大神を男神として書いた掛け軸(江戸時代のもの)のほか、『エミシの国の女神』では、オシラの男神に天照大神と書かれたものもあるというネフスキーの報告が引用されています。
因みにオシラの故郷・遠野早池峯の女神がこの瀬織津姫です。
また、倭姫は、丹波道主家の血を引いているわけですが、丹波道主家も火明命に連なる系譜です。
詳しくは、折々書きこみますが、記紀崇神条の出雲神宝献上事件は、丹波のことです。


[1744]  出雲の神さん  [玄松子]  08/30

「麁魂〔荒魂〕川・天竜川・広瀬川」という図式から、
天照大神を巫女として、伊勢神宮に祀られているものの本質(荒魂)は、蛇神・龍体(天竜)、つまり出雲系の「どえらい神さん」で、それは、(広瀬)社の宅内に密かに祀られている、饒速日命である、と読むのは変ですか。


[1743]  奪衣婆に脱帽  [桃色蜥蜴]  08/30

さすが瀬藤先生
奪衣婆までは、浮かびませんでした。
瀬織津姫=八十禍津日神の等式は、当然成り立ちます。
さらには、瀬織津姫=大忌神の等式も成り立つわけです。
ご指摘の通り瀬織津姫は、川の中瀬を司る神であり、矢作川「中流域」の天白社が瀬織津姫を祭神とするのも『大祓祝詞』により証明される事柄であります。
また、下流域で星神・カカセオを祭神とするのも住之江の筒男三神との関連かと思います。
さて、ここで何故、筒男神でなく、諏訪神を連想させるカカセオをわざわざ祭神としたかという疑問が残ります。
八十禍津日神という記紀編纂者にとって、もっとも禍禍しい神という連想から同様に記紀編纂者にとって禍禍しい神としてカカセオを祭神としたことも考えられます。
一方、指摘したように天竜川は、かつて、麁魂川、広瀬川と呼ばれていました。
この天竜川の伊那あたりにもう少し天白社が分布していたように思います。
また、『神社を中心とした宝飯郡史』の編者・太田亮氏は、豊川市樽井町の素盞嗚神社末の天白社(祭神・宇迦之御魂命)及び蒲郡市三谷町七舗の天白社(天白天王社)をあげ、蠶影神と同種の神としています。
天竜川は、鎌倉時代には、天中川(アマノナカガワ)と天の川を連想されるなで呼ばれてとり、その源流の諏訪湖では、七夕伝承を思わせるミワタリ神事が行われています。
一方、風琳堂刊の『エミシの国の女神』http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/では、『椿大神社二千年史』を引用し、同社の『石大神』と御幣川を挟んで対峙する『祓塚』を同社の神歌が瀬織津姫であるとしています。
ここで、天竜川流域に分布するミシャクジと石神が関係してきます。
『椿大神社二千年史』をさらにミシャクジ=石神と対で祀られる神が瀬織津姫と言うことになります。
以上、取り止めのない話ですが


[1742]  祓戸神  [玄松子]  08/30

汚れや塵を綺麗にするには、水か風が必要です。
穢れを祓うのも同じこと。よって祓戸の四神は、水流をあらわす瀬織津比売・速秋津比売・速佐須良比売、風の気吹戸主になっていますね。
広瀬を瀬織津比売とするなら、竜田は気吹戸主となるはずですが、どうでしょう。

延喜式に登場するこれらの神々は、多分に象徴的・観念的で、総称・統合的な意味合いのもとに想像された神々のような気がするんですが、もしそうなら、水・風に関わる多くの神々の性格を内包してしまっているわけです。

「日本の神々」では、諏訪・水内と竜田・広瀬を対応付け、広瀬の大忌祭は、大巳祭というのが紹介されています。水内(蛟)=蛇ということですね。


[1741]  阿豆那比・ロコポロ!  [習志野のてつ]  08/30

『阿豆那比の罪』(伝聞と推理)
『大山源吾氏は著書「天河への招待」で次の如く書いている』そうです。
―『「アヅナヒノ罪」とは天つ神と国つ神を同列に取り扱う罪』―
同じ所に葬られること=同じ扱いをすること…非常に明快。演繹法で
考えれば納得できます。象徴的であっても、昼間が夜になる罪、大罪で
しょう。もし同性愛が罪なら、生きている時の行為に罪があり、同じ所
に葬られることが罪ではないはず。
ただ私の知識不足。いずれが国津か判らない。「クヅ〜イ・お払い」
「ロコポロ!」はまだ著作権法に引っかかる言葉かしらん??


[1740]  瀬織津比女神と大忌神  [Setoh]  08/30

瀬織津比女神が奪衣婆だったんですね。
桃色蜥蜴さん> さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に
この速川が三途の川で「生死分別河也」で、ここで罪の衣をはぎ取り、これが祓えです。三途とは地獄、餓鬼、畜生の三道ですが、神道では三瀬の川で、イザナギノ命の禊ぎ祓えの物語の上の瀬、中の瀬、下の瀬に当たるそうです。この時に、八十禍津日神や神直毘神の神に続いて、安曇の三祖神や墨の江の三前の大神が生成しています。禍津日神や直毘神は大相撲の四本柱の上に祭られていたそうです。

桃色蜥蜴さん> 『荒祭宮』は、天照大神の荒魂とされ、一説には、瀬織津姫とされます。
また内宮の荒魂宮の祭神を八十禍津日神とする説もあるようで、
桃色蜥蜴さん> 大忌神=瀬織津姫との等式
が更に、八十禍津日神=瀬織津姫も成り立ってしまいそうです。

桃色蜥蜴さん> 広瀬の大忌神
清浄を斎い、不浄を忌むのですから、広瀬は大不浄を忌むと云うことですね。大忌祭は「山谷の水を変じて甘水となし、苗稼を潤し・・」の祭りですが、大和平野を流れる河川の合流点で、悪水を良水に変えて、渇水・洪水を防いだり、五穀豊穣を祈願したようですね。『式内社調査報告』によると、天照大神の御膳を掌り、特に潔斎をし、その職責を奉ずるを以て大忌神と呼んだそうです。


[1739]  大山鳴動  [Setoh]  08/30

マルヤさん > などという言い方には不快感が伴います
失礼いたしました。なにがしさんフォローありがとうございます。はやとちりはお家芸です。
謎の多い神社 > のようですね。吉野へは早々に行っておきたいですね。参詣していないと、発想のベースにはなりにくいものです。

所で神功皇后はその実在が疑われている云はば神話上の女神でしょう。しかし和歌山の日高郡には濃密と言えるかどうかですが、神社由緒などに多く出てきます。一説には斉明天皇の足跡を以て、神功皇后伝承の地が出来ていったとか。九州まで足をのばしていますので、丁度はまりますね。


梵さん > 麻を、祭ってあるような神社は、あるんでしょうか?
梵さん、こんにちは。「麻を祭る」とは「麻の祖神」を祭ると同じ様な意味でしょうね。[1697] の玄松子さんの書き込み通りです。
梵さん > シャーマンの様な文化
インデアンの祭りについてはどなたかお詳しい人にお願いしたいのですが、あの天照大神や稚日女命は機織りをしていました。神の使う布を織っていたわけで、祭事の重要な要素だったのでしょう。現在でもお祓いの幣に麻を少々混ぜていたんでは。


[1738]  鳥 と 大伴氏  [焼尻紋次郎]  08/30

 禎ドン、その「いろいろ」の一部を披露しておくれ。
 「友」は朝鮮語の「トング・モ(友)」と同根らしい。五島列島では、この「ウング」が
みごとにそのまま残っている。
 そうすると、ここでも「江南〜諫早〜朝鮮」原郷……カネ。
 「あり過ぎて困る“ト”」は少しでも逐一片付けておきたい。

 ミナシャァ〜ン、「アズナイ」は語源的に明瞭だよ。目明きにならねぇのがアズナイの罪だべ。

  今回はダンジリだけ ;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1737]  Re[1735]: 日高から小竹宮へ遷る  [なにがし]  08/30

マルヤ様
>・・・言い方には不快感が伴いますが、
まあ、setoh様もたまにははやとちりもあるでしょう。「紀直」あっても書かれたのが当時ではなく後世ですから、書く時点では紀氏も紀直になっていたとも解釈できるので、紀氏がその当時どこにいたかも考える必要ありかも。

「アヅナイの罪」さっぱりわかりませんね。
以下想像
1)丹生川上より丹生都姫と一緒に大伴氏がついてきたと思われるので、大伴氏の長は吉野付近に残っていたと思われます。天野祝が丹生氏とすると、大伴氏と丹生氏の間柄はいいが、大伴氏の内部には天野の地を丹生氏にとられたと思う人もいたかもしれません。ですから、祝としての大伴氏と丹生氏がともに吉野に葬られたことを快く思わなかった人がいたかも。
2)丹生氏が伊都郡にきたのは神功皇后の播磨風土記の記述部分の時代以降と考えられるので、神功皇后が紀伊国にきたころはまだ伊都郡に住みついていなかったかも知れません。となると、当時天野付近にいたのは奥津彦奥津姫を祭る隼人あるいは大伴氏。これが天野祝であったかも。隼人であるなら、大伴氏が九州よりつれてきた部下であったとすると、吉野であれば大伴氏とその部下との埋葬はもしかしたら身分不相応だったかもしれません。小竹が吉野でなければそれなりの身分の豪族と隼人との身分不相応な埋葬だったのかもしれませんね。

まあ是と言った決め手がどの地にもないといった状況でしょうか。天野祝も一般的には伊都郡といわれていますが、これも有力というだけで決定的な証拠はないわけで。これが歴史のおもしろさと言うことでしょうか。


[1736]  Re[1731][1728][1721][1713]: 困らなくとも神奈備頼り  [のりちゃん]  08/30

> なるほど!合点承知の介(「良く判った」合点承知の駄洒落です)

おぉ。ロコポロ!(目からウロコがポロリの略です)

> 全く同感です。支配する上で「仲良くしてはいけない」一族があった?
> たとえば源氏と平家の様に、常に対立する様に、仕組んだ?

ありえると思います。
支配階級により、たくみに操られた氏族同士の抗争なんてのはあり得るでしょうね。
もののべ氏と曽我氏のいさかいなど、強力な豪族がいがみ合い、手を組まないように謀った、
朝廷の意思を感じますもの。

> 子供の時乳母と一緒に居た谷崎潤一郎も、あやうい目に会ったそうです。

谷崎ですか・・・。実は私、(超)谷崎ファンなんですけれども・・・。
彼の結婚の歴史を見ると、「面食いであるな?」とは思いますが・・・。
彼が男色の餌食になったというのは、初耳でした(^。^)
三輪明宏氏は結構何度も危機に遭われたようですが。

> そうです。南蛮兜、赤マント、地球儀等と同レベルです。
> 当時彼らは、白人以外、まっとうな人間とは思っていません。
> 一番盛んな奴隷商人の子孫が、一番盛んな人権論者になってます。

・・・・・。キリスト教が宣教する度に新しい「悪魔」が生まれる。
そんな風に感じるのは別に珍しい考え方じゃないですよね。
でも、宣教するために、自分達が禁じている「男色」を薦める(?)ってのは、なんだか、
許せないですねぇ・・・。
えぇ、今でも、白人は、白人以外を「人間ではない」と考えている・・・と思うことはあり
ますけれども。

> アリガトウならイモムシハタチ 蟻が10歳なら芋虫20歳
> 単なる掛詞(かけことば)ダジャレです。「フーテンの寅さん」の言葉
> ありがたいならいもむしゃくじら 蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨 詳しくは下記

拝見しました!!!(シャレの説明させるなんて、気がつかない人間です。すいません。)
こういうシャレとか言いまわしってのは、エスプリを感じちゃいますね。
すごくおもしろいです。ありがとうございます。

さて、和泉市に「小竹大神神社」ってのがあるのを発見しました。訪問したら、また報告し
ますね!!
んでは!!!


[1735]  日高から小竹宮へ遷る  [マルヤ]  08/30

setohさん、
<紀直祖豊耳曰くのアヅナビの罪の天野祝は丹生都姫神社の神官説への異説は見たことがありま<せんが、相方の小竹祝の居住地で、小竹宮の場所については、
<紀の国 小竹八幡神社の鎮座地(御坊市)
   <志野神社の鎮座地(那賀郡粉河町北志野)
<等の説があります。この二つが有力だと思っていました。『日本書紀』では紀伊国と明記しているからです

「・・・神官説への異説は見たことがありませんが・・」などという言い方には不快感が伴いますが、次の文言にははっきりと、違うと言わねばなりません。
「小竹宮の場所については・・・『日本書紀』では紀伊国と明記しているからです」 これは違うでしょう?このように明記しているわけではなく、
・・・皇后船南方詣木齊國會太子於日高以議及於群臣遂欲攻忍熊王更遷干小竹宮・・・とこのようで、
(皇后は南の方の紀伊の国に詣り、太子に日高で会い、群臣と議して遂に忍熊王を攻め給はんとして、更に小竹宮へ遷る・・)と言うような解釈が普通ではないでしょうか。つまり日高から更に小竹宮へ移動したと書かれているのみで、その小竹宮が紀伊の国とはどこにも書かれていません。

この小竹宮について、「波寳神社神宮寺宝物記」に
・・・・神宮皇后元年、香坂忍熊両王朝敵トナルニヨッテ皇后南紀日高ヨリ小竹宮ニ遷リ此白銀神蔵ニ御座アリ・・・と伝承を書き残しているといいますが、私はその文書の現物を見ていないこともあり、はっきりとは言えないので今西吉野の地元の郷土史研究者に聞いたりしながら、地元湯川出身の故、田村吉永博士の著作を見せてもらったりして吉野の古代史を教えてもらっていて、最近は有栖川宮韶仁親王がなぜこのような不便な山奥の神社を、(天皇に次ぐ筆頭の宮家が)祈願所と決め、何度も参詣なされたのかを調べています。本当にこの吉野の波寳・波比賣は謎の多い神社なのです。


[1734]  無題  [梵]  08/29

setoh様、レス上げていだだきありがとうございます。皆さんが、詳しい事は、setoh様に、聞くように、と 言われましたので、質問させていただきます。
麻を、祭ってあるような神社は、あるんでしょうか?それと、日本に、インディアンとかが、植物を使用しての、シャーマンの様な文化はあったんでしょうか?

しかし、私の様な見ず知らずの無知なるものに、色々教えていただきまして、
感激しております。
また、この質問も、皆様の御手をおかけすることになると、思いますが、
どうかよろしくお願いします。


[1733]  アヅナヒ  [大三元]  08/29

(^^ゞさんの掲示板、発言番号90に
こんなのがありました。

日 azun-afi あずなひ??
タ azin-oy  leprosy(道徳的腐敗)


http://211.9.194.194/php/msg.php3



[1732]  第三の骨  [Setoh]  08/29

> 血沼県主倭麻呂 「ちぬのあがたぬしやまとまろ」と読むのでしょうか?
そうです。
萬葉集 巻第十九の4211番の歌に
二人の男性に妻問いされて悩んで自殺する摂津葦原処女の話が歌われています。

男性の一人は「智渟壮士」、「血沼壮子」、と表記されて、チヌヲトコ と訓まれています。
また「小竹田壮士」との表記もあるようで、シヌダオトコ ともよまれます。
もう一人の男性は菟原壮士「ウナヒヲトコ」と記されています。
両祝とともに女が一人墓の中、ってことはないでしょうね。

所で烏の話ですが、邪淫の雌烏が空を飛ぶ描写は「心に就きて共に空にハフり、北を指して・・」とあります。ハフリの漢字は「者の下に羽」の字です。ハフリは「祝」に通じますね。烏からは大伴氏、色々考えさされます。


瀬織津比女神
この神を祖神とする氏族なんて見当たりませんね。神は観念的存在でしょうが、輪をかけて観念の産物のように見えます。瀬織津比女神のみを主祭神としていり神社で土地勘のあるのは、京都は宇治の橋姫神社、奈良は天理市森本町の姫大神社 程度ですが、立地は急流やましてや滝のイメージではなく、すこしきつく流れる程度に思えます。中流域の流れに坐す祓いの神でしょうね。
那智の滝はほぼ垂直落下、その後の流れに瀬織津比女神が坐すという構図で納得と云うことです。


[1731]  Re[1728][1721][1713]: 困らなくとも神奈備頼り  [習志野のてつ]  08/29

> 原因は、黄砂のせいだとかいろいろ科学的な側面からも説明されていますが、
> 実際に真っ暗だったというより、比喩なんじゃないかな?とも思ったりします。
なるほど!合点承知の介(「良く判った」合点承知の駄洒落です)

> 「違う神社の祝を同じ棺に入れること」?
以前調べた時、当時は神社そのものが無く、職業「ほふり」が存在しない
と解説があった気がします。何となく変だな?それでもう一度調べようと
思ってました。 祝職業がいなくても、一族の長(氏長者?)は居たはずですし、
一族としての祭祀は、長が主催したのだと思います。

> 「アズナイの罪」が、具体的にどういう罪なのか、分かればいい・・・。
全く同感です。支配する上で「仲良くしてはいけない」一族があった?
たとえば源氏と平家の様に、常に対立する様に、仕組んだ?

> 戦国時代、「男色」は武士のタシナミと考えられていたのではないか
そのとおりです。明治の初期でも、薩摩出身者の稚児好みは有名でした。
子供の時乳母と一緒に居た谷崎潤一郎も、あやうい目に会ったそうです。

> マレーシアは、何教が盛んでしょうか?
キリスト教と同根・異種のイスラム教です。
唯一の神を祭る一神教です。

> 森乱丸…訂正…蘭丸です
> 宣教師が献上したのですか???
そうです。南蛮兜、赤マント、地球儀等と同レベルです。
当時彼らは、白人以外、まっとうな人間とは思っていません。
一番盛んな奴隷商人の子孫が、一番盛んな人権論者になってます。

>芋虫二十歳。
アリガトウならイモムシハタチ 蟻が10歳なら芋虫20歳
単なる掛詞(かけことば)ダジャレです。「フーテンの寅さん」の言葉
ありがたいならいもむしゃくじら 蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨 詳しくは下記
http://isweb23.infoseek.co.jp/novel/koyotei/jiten/a.html
「小竹をシノと読む」なるほど・・・
…篠竹は確かに小さい竹…もっと駄洒落を練習しようとの意です。


[1730]  Re[1729]脱帽です  [のりちゃん]  08/29

> のりちゃんの大てがら!

誉められると、単純にすごく嬉しいです♪
泉井上神社から、小竹宮について少しだけわかったことを報告にこようと思ったら、私が調
べた何倍もの情報を、Setohさんが書き込んでくださってました・・・。
心の底から脱帽です(^.^)

泉井上神社には、聖武天皇の離宮、和泉宮和泉離宮・別名「珍努宮(ちぬのみや)」があっ
たという伝承もあるようです。

血沼県主倭麻呂(「ちぬのあがたぬしやまとまろ」と読むのでしょうか?)もそうですが、
この地域と「ちぬ」という呼称の関係はかなり古いと言えると思います。

もう一点、神功皇后紀に、
新羅王の妻が、王の屍の下に、日本の使者の屍を埋めて、「身分の尊いものと賤しいものと
の違いはこのようなものだ」と言ったため、天皇が怒ったっていう話が載っていますね。
「アズナイの罪」の物語は、このお話の続きにありますね。
関係あるでしょうか?


[1729]  Re[1719][1716][1713]: 困ったときの神奈備頼りですいません  [Setoh]  08/29

のりちゃんの大てがら!

> 大阪の和泉市にある伯太神社では、祭神10柱のうちに祭られているのですが、どういう経緯で祭祀されるようになったのかがわからないのです。

和泉市の伯太神社はあの安倍晴明誕生の伝承のある信太です。小竹田とも書くんです。
紀直祖豊耳曰くのアヅナビの罪の天野祝は丹生都姫神社の神官説への異説は見たことがありませんが、相方の小竹祝の居住地で、小竹宮の場所については、
紀の国 小竹八幡神社の鎮座地(御坊市)
    志野神社の鎮座地(那賀郡粉河町北志野)
等の説があります。この二つが有力だと思っていました。『日本書紀』では紀伊国と明記しているからです。

 所が、のりちゃんの発見で、和泉国の伯太神社近辺が小竹宮の候補地でったことがでてきました。
まず、和泉国とは今やダンジリで名を馳せていますが、その昔は和泉国をまとめる豪族すら登場しない独立性の弱い地域でした。当初は紀伊国、後に河内国の配下でした。ご承知の神武東征でも男水門の候補地も和泉と紀の国にあるように、紀の国の一部であったと見ていい地域でした。そう云う意味では和泉の小竹宮も面白い存在ですね。


 以下『和泉市史第一巻』から
 小竹宮は尾井村にあり 尾井村西方の雨降塚と称する小社小竹の社、和泉国式内舊府神社[ふるふ](和泉市尾井町)、『和泉国神名帳』にある信太雨降社などに比定する見方があり、これらもまた所在地や元の所在地がはっきりしていないようです。また和泉井上神社に小竹神社と呼ばれる末社があるそうです。この神社も神功皇后伝承があります。(引用end)

 さて、伯太神社の祭神に小竹祝丸、天野祝丸の名前がでていますが、上記の小竹宮のどれかが伯太神社に合祀されているのでしょう。この神社は珍県主(これは姓で官名ではありません)の斎祀る神社で、豊城入彦命(紀の国造荒河戸畔の娘と崇神天皇の子)の三世の孫御諸別命の後裔とされ、ここも一応は紀の国につながっています。

 この地域に伝わる民話が『日本霊異記』に載っています。
信厳禅師は和泉国の郡長で血沼県主倭麻呂です。家の門に烏が巣を作って卵を生み、温めていた。雄烏はあちこち飛び回って餌を求めては卵を抱えている雌烏を養っていた。雄烏が餌を求めて留守をしている間に、他の烏がやってきて雌の烏と交尾した。雌烏は新しい烏と気ままに空を飛び交い、ひな鳥を捨てて、顧みなかった。云々。これを見ていた郡長は雌烏の邪淫を見て世の中が厭になり、出家したとか。
 これがアヅナビの罪と関係があるのかないのか、古墳への追葬が忌避される風潮があったのか、小竹祝と天野祝が共に祀られていることが墓を暴かれ離された怨みを鎮めるためのものか、墓は罪だが、神霊ならよろしいとか、謎謎ですね。


[1728]  Re[1721][1713]: 困らなくとも神奈備頼り  [のりちゃん]  08/29

> アズナイの罪?、探してました。ありがとう。
> 日が翳り夜のようになる大事件の原因ですね。

「常夜」というくらいですから、よっぽど暗かったんだと思います。
原因は、黄砂のせいだとかいろいろ科学的な側面からも説明されていますが、実際に真っ暗
だったというより、比喩なんじゃないかな?とも思ったりします。

> 同感です。考えられるのは「本来力の有る人を、道徳的
> 理由をこじつけ、排除した」のではないでしょうか?

ということは、「祝」らに、何か崇拝されるべきポイントがあったということでしょうか?
あり得るように思います。
オオクニヌシが、祟ったりするのも、それだと思ってます。
が、「道徳的理由」ってのが、「同性愛」なのか、「違う神社の祝を同じ棺に入れること」
なのかが、はっきりしないですよね?
「アズナイの罪」ってのが、具体的にどういう罪なのか、分かればいいんですが・・・。

> マレーシアで、マハティールが政敵を倒す為使いました。
> 「あいつは同性愛者だ」。これで一発で終わりました。
> そんなに重要なのか?私は違うと思います。
> 有る意味で個人の趣味でしょう。

戦国武将のHPを開設している方に伺ったのですが、戦国時代、「男色」は武士のタシナミ
と考えられていたのではないか・・・ということです。
ただ、キリスト教では、同性愛は、はっきりと罪ですから、「同性愛者」のレッテルは、痛
いでしょうね。マレーシアは、何教が盛んでしょうか?

> 歴史に残る黒人男性との同性愛者=織田信長です。相手は
> 宣教師が献上した黒人奴隷で、「弥助」と命名され、
> 本能寺の変で、敵の攻撃に勇敢に戦っていたところまでは
> 判っています。森乱丸と同じですね,但しその後は不明。

宣教師が献上したのですか???

> 生き延びて、日本人の多様化に貢献したかもしれません。
> 刺激的です(あくまでも知的に)。

想像が広がりますね。楽しいです。

>芋虫二十歳。

これは、何かの謎かけですか???「春夏冬ニ升五合(あきないますますはんじょう)」み
たいな?


[1727]  Re[1720][1716][1713]: 困ったときの神奈備頼りですいません  [のりちゃん]  08/29

> 小竹宮の比定地は、setohさんの「紀国古代史」に記述されている和歌山県那賀郡粉河町、同じく御坊市薗のほか、大山源吾氏も言われる説の吉野があります。

今、たまたま、「泉井上神社」の栞を見ていたら、(この神社は和泉国総社ですが、応神フ
ァミリーもお祭りしています)この神社にある史跡として、「小竹宮(神功皇后離宮)」と。
泉井上神社なら、伯太神社とも近所ですが・・・。

> 私はこれらの「祝」らを必ずしも男性として特定してはいなかったのですが、「天野祝丸」「小竹祝丸」の神名を見ると、マル・マロでやはり男性かな?と少しがっかりしたりしてます

あ・・・。確かに、「祝」が男性だとは限らないですね。そうだとすれば、「同性愛」とは
限らないわけですよね・・・。

> 〇参照ください http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinoji_002.htm

拝見しました。
地名が今に伝わってるのですね。(ってポイントが違うところで感心してしまってすいませ
ん)マルヤさんが、吉野をとても大事に思われてるのがよくわかります。


[1726]  Re[1725]: タキ  [桃色蜥蜴]  08/29

紋の旦那
タケをタカならありやすぜ。
古事記開化条の丹波の竹野姫をタカノヒメと読ませていやす。
瀬藤先生
那智の滝も瀬織津姫って言う説ありますよ。
瀬織津姫に関するHP『エミシの国の女神』
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/


[1724]  むかしは紋をおもはざりけり  [焼尻紋次郎]  08/29

 なんだ、元気にnath(○○様)の瀧カネ。電線はひっぱって行かんかったとみえる。

※ 瀧に柱を直感……。ウレ(足)しかねぇ。瀧の足切り行が水かぶり……やろね。/ アビセクは
  聖水をふり撒くこと。
  瀧と書いて「タカ」と読ませる例、あらしまへんか。TA-KAT のほうが本筋ならむ。
※ 一年前のカキコあが。「しどけ」……なぁ〜んだ、おらの排泄物だったのか。
  ジャガスカと書いていたんだなぁ。のびのびと書かせてくれて有り難う。いまは少し尻すぎ
  ちゃったモ〜ン。でも、死んでもバカでありたい。

  アズナイも再びナウいモ〜ン ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1723]  元気で留守がいい  [Setoh]  08/29

 玄松子さん、麻の件をはじめ、ありがとうございます。那智の滝でマイナスイオンを存分に頂き、滝とはやはり神が寄りつく柱そのものと実感してきました。また那智の浜辺は穏やかな波が打ち寄せて風も心地よく吹き、とは言え、ここから常世の国へ行きたいと言う気持ちにはなりませんでした。未練んでしょうか?
 所で、サボッテいる席亭が言うのも何ですが、この掲示板、実に勉強になりますね。
 
稲積で、稲祇として、山祇、綿祇と同じ様にも考えられますね。
和歌山のすさみ町の稲積弁天神社の鎮座する稲積島は神奈備タイプに見えますし、
http://www.kamnavi.net/kumano/ohj/inadumi.htm
玄松子さんお神社記憶の稲積六神社の項の稲積山も「眼前に円錐形の典型的な神奈備山が見える。」と写真が出ています。
http://www.genbu.net/data/buzen/inazumi_title.htm

紋の倭文について > かなり前、シヅから王様の傘を連想したことがあったが、あれ何だったカネ、
http://you-i.org/setoh/hotaru.html#sizu
が参考にならまいしょ。

香香背男命を祀る神社と天白神を祀る神社の一覧を
http://www.kamnavi.net/jm/kakaseo.txt
に入れてあります。
ミシャクジと関連はどうでしょうか。これからは見えてこないような思いますね。
あかがねさん > 「くず」などと同じく失われた種族だったんでしょうね。(この辺が共通点ですか?みしゃぐち神などとの。)
縄文的雰囲気ですね。建御名方神などの国津神以前の古国津神が跋扈していたんでしょうね。

 那智の滝と丹生都姫のマイマスイオン思考
 所で、那智の滝で半日ボヤットしていましたら、これは神の依り代の柱に相違ないと思えました。水柱です。そうしてここに降臨する神は水神のはずで、丹生都姫神ではなかろうか・・・

 南紀那智勝浦はご承知の通り神武東征伝承の多い地域で、那智の滝方面への熊野古道の入り口に熊野三所神社が鎮座、丹敷戸畔の墓と彫られた石もあるほど、丹敷戸畔を誅したとされる場所に近いと思われる所です。丹敷戸畔が丹生都姫として祀られたのか、丹生都姫は丹敷戸畔の祖神とか守護神であったのかはともかく、銅鉱山の多い那智山系と那智の滝はこの地域の豪族の聖地とみていいでしょう。
 丹生都姫については紀北や吉野が大いに語られますが、南紀も一度勉強しなくては、と思っています。


[1722]  こちらこそありがとう  [桃色蜥蜴]  08/29

あかがねさん
こちらこそ勉強になりました。私は、問題を整理しただけです。
ひふみさん
もう少しカカセオ、筒男神等の星神について教えていただけませんか?
ミシャクジ糸口掴めそうな気がします。
あかがねさん、ひふみさん、そして皆さん
もう少しやりません?この問題


[1721]  Re[1713]:困らなくとも神奈備頼り  [習志野のてつ]  08/29

アズナイの罪?、探してました。ありがとう。
日が翳り夜のようになる大事件の原因ですね。
> (日本最古の同性愛者という見方もあるようです)
> が、神となる理由がよくわからないのです。
同感です。考えられるのは「本来力の有る人を、道徳的
理由をこじつけ、排除した」のではないでしょうか?

マレーシアで、マハティールが政敵を倒す為使いました。
「あいつは同性愛者だ」。これで一発で終わりました。
そんなに重要なのか?私は違うと思います。
有る意味で個人の趣味でしょう。

歴史に残る黒人男性との同性愛者=織田信長です。相手は
宣教師が献上した黒人奴隷で、「弥助」と命名され、
本能寺の変で、敵の攻撃に勇敢に戦っていたところまでは
判っています。森乱丸と同じですね,但しその後は不明。
生き延びて、日本人の多様化に貢献したかもしれません。
刺激的です(あくまでも知的に)。有難う。芋虫二十歳。


[1720]  Re[1716][1713]:困ったときの神奈備頼りですいません  [マルヤ]  [Url]  08/29

> > 天野祝と小竹祝を神様として祀っている神社をご存知の方、いらっしゃいますか?
> 初めて知りました。おもしろそうな展開になりそうな気が!!!
「和泉市・伯太神社に、天野祝丸、小竹祝丸の神名で祀られている(なにがしさんHP掲示板を拝見)」
私も初めて知りました。たしかにおもしろい糸口になるかもしれませんね。
小竹宮の比定地は、setohさんの「紀国古代史」に記述されている和歌山県那賀郡粉河町、同じく御坊市薗のほか、大山源吾氏も言われる説の吉野があります。
現在の吉野郡は古代は賀美、那珂、資母、吉野(輿之努)の4郷に分かれていました。
氏はこの吉野は吉野三山周辺、丹生川流域の現代の西吉野村であり、またヨシノ(ヨシヌ)の「輿(ヨ)」は接頭語で、本来は「之努(シヌ)又はシノ」であったという。
そして「日本書紀」巻九本文の注釈[小竹此云之努]をして同義としています。
また氏は「豊耳」については丹生族の族長とし、後に紀国に移り住んで「紀直の祖」となったとしています。
「天野」については、天に開けた土地を天野(天原、高野、高天原)といい、「天野」と呼ばれる地名が丹生川周辺だけでも3ヶ所あると言っています。
この高台(山頂)での秘儀式を氏は【天野祝い】と名づけている訳です。
私は殆ど大山氏の説を支持(と言うより氏の説に依拠しているが、吉野宮の比定地は意見が違う)しますが、私は「豊耳」は井光の族長(丹生族)、「小竹祝」「天野祝」も共に丹生族のハフリで「天野祝」はやはり伊都郡天野の祝(後の丹生氏?)のことではなかったかと思っています。
私はこれらの「祝」らを必ずしも男性として特定してはいなかったのですが、「天野祝丸」「小竹祝丸」の神名を見ると、マル・マロでやはり男性かな?と少しがっかりしたりしてます
〇参照ください http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinoji_002.htm


[1719]  Re[1716][1713]:困ったときの神奈備頼りですいません  [のりちゃん] [Url]  08/28

>天野祝は一般に伊都郡かつらぎ町の天野にあります丹生都姫神社であろうとされています。しかし、小竹は「しの」「しぬ」ですので、私の知っている所では、御坊と紀北のどこか(忘れてしまいました)と奈良県は吉野(マルヤ様の物語はこの説をとられてますね)の3つの説があり、実際どれかは分かりません(どれも可能性あり)。

私が持っている「日本書紀 現代語訳 講談社学術文庫」では、御坊市説をとっているよう
ですね。神功皇后が、忍熊王と戦うため、身を寄せた・・・となっていることが、何かの、
ヒントになるでしょうか??

伯太神社の祭神は、応神天皇 比売神 伯太比古命 伯太比売命 天照皇大神 小竹祝丸 天野祝丸 熊野大神 菅原道真 天児屋根命の十柱。
この顔ぶれ(?)を見ると、総社的な神社であちらこちらから合祀しているのでは?と感じ
たんですが、としても、小竹祝と天野祝はどこから合祀してきたのか、わからないです。

>小竹祝が何氏なのかがキーですね。

なるほど。
そういう見方してませんでした。目からウロコです。
神功皇后に味方をするであろう氏族だとは思うのですが・・・。
具体的に・・・となると、不明です。
また、小竹祝と天野祝は、「とても仲がよかった」んだけれども、
「一緒に埋葬される」ことは、「阿豆那比の罪」にあたるわけですから、氏族自体が仲がよ
かったとは限らないような気がします。


[1718]  桃色蜥蜴さま  [あかがね]  08/28

> ご教授というほどのことはできませんが、

 とんでもございません。勉強になります。

> 筒男の神とカカセオあるいは、アマツミカボシあたりの整理誰かお願いします。

 私がカカセオと関係あるかな、と思ったのは「磐筒男命」のほうです。
 イザナギがカグツチを切った時には、タケミカヅチも生まれております。
従って、磐筒男命とタケミカヅチは兄弟関係にあると言えます。
 そして、日本書紀の一書によるとカカセオは「天津甕星」とも呼ばれていた。と。
 何だかみんな微妙につながっているような感じですよね。

 今一整理しきれていないのですが、ご参考までに。

※ついでですが磐筒男命を星神としていたのは岩波文庫日本書紀の注でした。


[1717]  すみません。書き忘れました。  [桃色蜥蜴]  08/28

あかがねさん、皆さんすみませんでした。
天竜川の古名と左口神について書き忘れました。
天竜川は、諏訪湖を水源とし、遠州灘に注ぎます。
天竜川と呼ばれ出したのは、室町以降で、奈良時代は、麁魂川(アラミタマガワ)、平安時代には、広瀬川、鎌倉時代は、天中川(アマノナカガワ)と呼ばれていました。
麁は、荒と同意ですので、麁魂川は、荒魂川となります。ここで、『荒祭宮』を介して、天竜川の古名・麁魂川と瀬織津姫、天照大神の荒魂が関係するわけです。
また、広瀬川の名からは、広瀬の大忌神との関係が思い浮かびます。
大忌は、禊に関するものであり、竜田の風神と一対で記載されることから、大忌神は、水神としての性格が汲み取れるからです。
また、奈良時代に麁魂川と呼ばれた天竜川が広瀬川と呼ばれるようになったということは、広瀬と麁魂=荒魂が関係あると当時の人が意識していたからと思われます。
つまり、大忌神=瀬織津姫との等式が導き出せるわけです。
一方、広瀬、竜田の両神は、天武時代に急に祀られ出すわけで、広瀬の神と麁魂川から広瀬川への改名も何らかの関係があると思われます。
そして、瀬織津姫にまつわる「サクナド」、「サクナダリ」の音と「左口(サクチ)」の音との関連が気になるわけです。
また、長白羽神は、機織の神ともつながってくるわけで、ミワタリ神事→七夕伝説との関連、さらに、天の河を思わせる天中川の名もつながりがあるように思われるわけです。


[1716]  Re[1713]: 困ったときの神奈備頼りですいません  [なにがし]  08/28

> 天野祝と小竹祝を神様として祀っている神社をご存知の方、いらっしゃいますか?

初めて知りました。おもしろそうな展開になりそうな気が!!!
天野祝は一般に伊都郡かつらぎ町の天野にあります丹生都姫神社であろうとされています。しかし、小竹は「しの」「しぬ」ですので、私の知っている所では、御坊と紀北のどこか(忘れてしまいました)と奈良県は吉野(マルヤ様の物語はこの説をとられてますね)の3つの説があり、実際どれかは分かりません(どれも可能性あり)。問題はそれほど仲がいいとすると、小竹祝が何氏なのかがキーですね。豊耳の名が出ていますから紀氏ではないとして、大伴氏や丹治氏、あるいはそれ以外にあったのか?ただし、あくまでも天野祝が丹生氏であったとした場合です。


[1715]  あかがねさん  [桃色蜥蜴]  08/28

ご教授というほどのことはできませんが、問題を整理していきます。
まず、大祓祝詞は、『高山低山(ひきやま)の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津姫』ではじまり、その後に水戸の神である『速開津姫』が出てくることから、瀬織津姫は、川の中瀬の神であり、滝の神と考えられます。
そのことから、宣長は、イザナギの禊の川の中瀬の神・禍津日神に否定したと考えられます。
滝神社の祭神が、瀬織津姫とされるのも、滝の神であるからです。
したがって、玄松子さんが、『1696』で『長白羽神』を祭神とする三重県多気郡の竹神社あたりも、長白羽神→天白神→瀬織津姫という等式が成り立つのなら、滝神社であったと考えられます。
つぎに、ひふみさんが指摘している『太一』ですが、これは、内宮の『荒祭宮』を指します。
『荒祭宮』は、天照大神の荒魂とされ、一説には、瀬織津姫とされます。
天照大神の荒魂は、紀神功条で天疎向津姫(現広田神社)の名で住吉の筒男の神とペアで登場します。
こんなところですが、
筒男の神とカカセオあるいは、アマツミカボシあたりの整理誰かお願いします。


[1714]   布のこと、編むこと、織ること  [習志野のてつ]  08/28

布には二種類あります。――織布と編布(あんぎん)。
織には織機=はたが必要で、技術は輸入品。(秦さんか?)
編布=編む布は不要で、縄文時代から有りました。

中世でも時宗の僧侶は、編布である阿弥衣(あみごろも)を着て
いました。これ、阿弥陀仏と編の掛詞、洒落だったのです。
秋田県五城目町中山遺跡(縄文晩期・2,500年前と云われる)から
出土した編布は非常に細かく編まれ、13cmに経糸91本もあり、
(1cmに7本で)十分な保温性を持つ(だろう)そうです。

「静織ノ里」(シツオリ)→「倭文」(シドリ)→「静神社」
いずれも布に関係する。当然「瀬織津姫」も。

以下バイブル的存在の神奈備神名帳に拠ります。
何度か読んでますが、いつも製作者に頭が下がります。
感謝!感謝!

・常陸國 久慈郡
◎長幡部神社[ながはたべ]「多弖命、綺日女命」
久慈太田の郷に機織りの用具を携えて来往し,機殿を建てて長幡を織ってこの地
の人々に指導し…その業を継承した子孫が,祖神である多弖命(タテノミコト)
をまつったのがこの長幡部神社であると伝えられています。
「以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。」
◎武蔵の国・多磨郡[タバ]:布多天神社[フタテノ]
布多天神社[ふだてんじんしゃ]「少彦名命」昔、広福長者、神のお告げによって
布を多摩川にさらし製し朝廷に献った。この布を調布と称す。
東京都調布市長府ヶ丘1丁目8-1 … フ が落ちると「タテ」になる。

編む事、タテに関係しそうな、常陸国・信太郡[シダ]
・楯縫神社[たてぬい]「經津主命」
・阿弥神社[あみ]「健御雷之男命 配 經津主命、天兒屋根命」
・阿彌神社[あみ]「豐城入彦命」 も気になるところ。

祭神は、神仏習合ならぬ神神習合説が有り、迷っています。
荘園を有力者に寄進する如く、その時の有力な神を、適当に…?


[1713]  困ったときの神奈備頼りですいません  [のりちゃん]  [Url] 08/28

天野祝と小竹祝を神様として祀っている神社をご存知の方、いらっしゃいますか?
大阪の和泉市にある伯太神社では、祭神10柱のうちに祭られているのですが、どういう
経緯で祭祀されるようになったのかがわからないのです。

天野祝と小竹祝といえば、「日本書紀」の神功皇后紀で登場する仲むつまじい二人です。
(日本最古の同性愛者という見方もあるようです)
が、神となる理由がよくわからないのです。
何かご存知ならば教えてください。


[1712]  Re[1709]: etc  [あかがね]  08/28

> あかがねさん

> 大祓の祝詞って、『高き山、低き山』って言うあれですよね。
> 本居宣長は、この神を禍津日の神としていますよね。
> 禊の神であり、水の神でもあるわけですよね。
> 竜田の『風神』とセットで出てくる広瀬の大忌神なんていうのも、やはり、禊と関係あるように思いますが...

すいません、この辺はさっぱしです・・・。

> カカセオは、国津神として理解すればよろしいでしょうか?
> 私は、なんとなく、諏訪神を連想しますが...

カカセオは日本書紀本文では神扱いされてないみたいですね。
ただ、それは体制側からの認識であって

http://homepage1.nifty.com/j-tei/k010430-1.htm

のような意見もあり、一概には言えません。
「天津甕星」とかいう呼び名もあり、建甕槌命との関係も気になります。
そもそも、かぐつちの命が切られ建甕槌命と共に生まれた神を火花や星の神とする
説もあるようで(出典忘却)、なかなか一筋縄ではいかないものがあると思います。
お諏訪さまとの関係については、不勉強のため全くぴんときません。
宜しければ、ご教示願えませんでしょうか?

いずれにせよ、「くず」などと同じく失われた種族だったんでしょうね。
(この辺が共通点ですか?みしゃぐち神などとの。)


[1711]  佐久奈土&左口神  [桃色蜥蜴]  08/28

大祓の祝詞には、「サクナダリ」の言葉が出てきます。
瀬織津姫を祭神とする佐久奈土神社は、この「サクナダリ」と関係があるのでは?
さらに、ミシャクジに関連する左口神と佐久奈土なんか関連があるのでは?
瀬藤先生
ご教授お願いします。
まてよ、これは紋の旦那の領域か?


[1710]  日本のマラソン 瓜連町静神社  [焼尻紋次郎]  08/28

 紋次郎旅籠連名に載っかっちいやすが、瓜連(ウリツラ)の「まきば旅籠」にわらじぃ脱
いだときのこってござんす。そこの仲居さんが教えちくれやした。
 「そこの静神社には、毎年暮れになると那珂湊の漁師さんたち百数十名が真夜中に走って
くるんですよ」と。
 そのとき、みんなは「ヨイショ、ヨイショ・ヨイショ、ヨイショ(最初と三番目のヨにア
クセントをおいてできるだけ早ぐちで喋ってください)」とかけ声をかけているそうです。
 那珂湊から静神社までは20キロ近くもあります。
 水戸市街は一面沼沢に囲まれた台地にひとが定着してできあがったことを匂わせますね。
 そして、ひょっとしたら、ここには大きな縄文海退があったことも考えられます。

 あっしがもっとも関心を持つのは、全員参加型の古代の祭りがここに見られるのではない
か……というこって。神社や神主さんが出現する前です。

 「ハ鎚」は http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi で果し合いカネ。


[1709]   etc  [桃色蜥蜴]  08/28

ひふみさん
決して、暴言だとは思いませんよ。解明しましょう。猿田彦とカカセオ等々
あかがねさん
大祓の祝詞って、『高き山、低き山』って言うあれですよね。
本居宣長は、この神を禍津日の神としていますよね。
禊の神であり、水の神でもあるわけですよね。
竜田の『風神』とセットで出てくる広瀬の大忌神なんていうのも、やはり、禊と関係あるように思いますが...
カカセオは、国津神として理解すればよろしいでしょうか?
私は、なんとなく、諏訪神を連想しますが...
瀬藤先生
ミシャクジと関連があるのでは?


[1708]  星を祭る人々  [ひふみ]  08/28

お久しぶりです。いつも、楽しく拝見させて頂いております。
皆様の話題の内容が、最近考えていた事とあまりに近い所にありそうなので、横合いから少し。

私は、生まれが徳島なのですが、自分の産土様は大麻比古神社に祭られているサルタヒコ様だと感じています。
それで、ずっと気になっていたのですが、伊勢のサルタヒコ神はカカセオの神と同じ星神として祭られていたのではないかと。(いきなり暴論ですみません。)

千葉県の白井町のあたりの昔話にやはりカカセオの事であろうと思われる話があり、ただちがうのは、カカセオ神ではなく、サルタヒコ神がお手植えされた椿の木があたりを暗く覆う程大きく育ちすぎ、その木に住まう魔物、という記述になっている事です。(記紀等では、カカセオ神は巨石となっている。)サルタヒコ神は、その時伊勢にいて、その事を知らなかったという事になっています。サルタヒコ神とカカセオ神。どう関係があるのでしょう。

サルタヒコ神については、先代旧事本紀において、伊勢神宮が実は伊雑宮と合わせて三つの社からなると書かれてあるらしい事から、伊勢はもともとは、太陽信仰のみならず、太陽と月と星が祭られていたのではないかと、思い始めたからです。
伊勢のあたりは、稲作というよりは海と共に暮らしているように思えます。度会家など、海洋民族がもともと住んでいましたし。漁師さんの生活をみていると、太陽のみならず、月、そして星がとても大切なのが見て取れます。
稲作民のサイクルとはちがい、漁業は夜暗い内から動き、太陽の活発になる頃には、仕事は終わっています。(例えば、熊野有馬のあたりは漁師時間のようで、朝のお勤めも他の地域より早く5時頃から始まります。)
又、水先案内として海洋民に大事にされているのが、北極星でしょう。
この北極星が、伊勢においてサルタヒコ神ではないかと思うのです。
道案内の神様としては、ぴったりだと思うのですが。
「サルタ(サタ)」の語源を英語の「スター」と同じ所に求める方もいますし、何より伊勢における「太一信仰」も見逃せないと思います。この場合の「太一」とは、やはり北極星です。実際、津の辺りの方は、アマテラス神はよそからきた神として、サルタヒコ神を身近に感じるそうです。内宮参道の真前にある猿田彦神社の位置も気になります。
又、外宮に祭られているトヨウケ神のもともとの出自である丹後の天女伝説では、トヨウケ神は北斗七星の八番目と言う話もあったように、うろ覚えですが記憶しております。
聖地伊勢には、いろいろな部族がいろいろな祭り方をしている場所なのでしょうか。
そういえば、庚申さんのお祭り。あれも、登場するのは猿と北極星でしたね。

ところで、天白神。太白神が、たしか金星を表わしているし、やはり、星神のひとつかもしれませんね。三重から東というのも、面白いですね。
又、白鬚明神。琵琶湖の高島町にある白鬚明神は、たしかサルタヒコ神です。
伊勢では死んだ事になっているけれど、ここではたしか伊勢をアマテラス神に譲ってここに退いたとあったと思います。
(管理人さん長々とすみませんでした。)


[1707]  皆様、どうも有難うございました。  [梵]  08/27

どうも、ご親切に有難うございました。とても勉強になりました。
現在、私しどもは、名古屋に住んでおりますが、父親は、九州の出身で、子供の頃に、
1度 「ここが、稲積の名の、??なんたらだ。??」って感じで、行ったところが、
大分の、稲積山でした。かすかな記憶の中に、「稲積山権現!」って、言ってたのを、
憶えていました。
神社もあったんですね。知りませんでした。
これからも、勉強させていただきます。


[1706]  Re[1704]: カガセ男についていくつか。  [玄松子]  08/27

つづき

> 玄松子さん、天羽槌雄命という神名は始めてなんですが「建羽槌命」と同神なんでしょうか?

僕の基本的スタンスは、「名前が違えば、違う神」なのですが、
全国にある、倭文神社の祭神は、天羽槌(雄)命か建羽槌命ですから、同神あるいは同種の神でしょう。一部、建羽槌命からの連想だと思われる武甕槌命になってるところもあります。
このサイトのトップページから、神奈備サイト内検索へ行き、「倭文神社」で検索すれば、各所在地が分かりますよ。


[1705]  Re[1703]: アサァ〜〜  [玄松子]  08/27

紋> 漢字アレルギーのおらは、そんな立派な辞書持ちません。やっぱ買わなあかんやろか。

infoseek(インターネットの検索エンジン)で利用できる辞書ですよ。
http://jiten.infoseek.co.jp/Kokugo?pg=jiten_ktop.html&col=KO&svx=100302

紋> 長野県更埴市の西南方にある「麻績」はオミと読ませるのですが、この「績(ミ)」は「神名読ませの集積」から、なにか必然はないでしょうか。

上の辞書では、こうなってます。
〔「おうみ(麻績)」の転〕青麻(あおそ)を績むこと。また、それをする人。

ついでに、「績」は動詞で、「うむ」ですね。
う・む 【▽績む】(動マ五[四])
青麻(あおそ)を湿しながら指先で細く裂き、よってつなぐ。

紋> もひとつ、麻は渡来種でしょうか? 

参考:http://www.mmjp.or.jp/tosco-osaka/asatoha.htm
麻が渡来種かどうか知りませんが、麻績村の語源は、渡来人が「麻績」を教えた事によるそうです。

紋> 白神はシロカミと読むのでっしゃろか、シラヒゲ神社とはまたちゃうのやろな。

天白神は、三重から東の地方に多いらしいですが、どう読むのかすら知りません。


桃> 瀬織津姫、カガセ男について、ご教授願います。

「村瀬正則さん」の著したものにはありませんでしたか。


[1704]  カガセ男についていくつか。  [あかがね]  08/27

> 天白神については、矢作川下流では、カガセ男を祭神にするってあったと思います。
> 瀬織津姫、カガセ男について、ご教授願います。

横合いから失礼します。
瀬織津姫というと大祓えかなんかの神様だった様な、うろ覚えの記憶ですが、
カガセ男というと「星神、天香々背男」でしょう。国譲りの後もまつろわぬ国津神で、
建甕槌命が常陸の国まで討伐に行ったという。そして、その際実際に征討の任にあたった
のが「建葉槌命」で瓜連町静神社(式内名神大)の祭神でもあります。あと日立市に
大甕神社があって、カガセ男の根拠地とされています。祭神は同じく「武葉槌命」です。
「静(しず)」が倭文(しつ)織に由来するとのことで、微妙に絡み合ってますね。

玄松子さん、天羽槌雄命という神名は始めてなんですが「建羽槌命」と同神なんでしょうか?

毎度のことながら、まとまりのない書き込みで恐縮至極です。


[1703]  アサァ〜〜   [焼尻紋次郎]  08/27

玄さん(これもども、しっくりこんばい)あが。
 漢字アレルギーのおらは、そんな立派な辞書持ちません。やっぱ買わなあかんやろか。
 朝倉は「神座・王座」ともなるので、麻の把握はとてもダイジです。
 長野県更埴市の西南方にある「麻績」はオミと読ませるのですが、この「績(ミ)」は「神
名読ませの集積」から、なにか必然はないでしょうか。
 青森の麻虫温泉なども、麻に関わる作業等よく知ってかからねば、つばめの子安貝カネ。
 もひとつ、麻は渡来種でしょうか? 

 白神はシロカミと読むのでっしゃろか、シラヒゲ神社とはまたちゃうのやろな。
 ちょっとした発音の微差でシロは *ZIR(英知、長老)の傾向が強くなり、これは「シロシ
メス(君臨・支配)」へ、シラは「光輝」の意味へと移ります ガネ〜〜。
 あ、音転からだけで言うと、ZIR は倭文に変るね。ヒェ〜〜。かなり前、シヅから王様の傘
を連想したことがあったが、あれ何だったカネ、瀬藤しゃん(これも……)。

 村瀬、カガセ、ミシャグチ、ミワタリは ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgiでホニャウイ。


[1702]  天白神  [桃色蜥蜴]  08/27

玄松子さん
天白神については、岡崎地方研究史会研究紀要で村瀬正則さんっていう方が、矢作川中流では、瀬織津姫、下流では、カガセ男を祭神にするってあったと思います。
瀬織津姫、カガセ男について、ご教授願います。
瀬藤先生
ミシャクジ
天竜水系を中心に分布していますね。
天竜川の古名なんかも関りあるんじゃないですか?
それと、ミワタリ神事ですか諏訪湖の


[1701]  あれま!生田さん  [香具]  08/27

神奈備 What's New、岩清水八幡宮、面白かったです。
長田・生田・広田神社が、あんな形で出張してるんですね。
地元の神様を余所で見たことがないので、びっくりしました。


[1700]  Re[1698]: 福井県か石川県方面で「ナズミ」あり  [玄松子]  08/27

>  玄松子さん(ども、調子でねぇなぁ)麻の古代語は「オ」でしたか「ヲ」でしたか。

古代語なら、そちらが専門でしょう。
「大辞林」では、を(苧)が歴史的仮名遣いとなってますから、「ヲ」じゃないでしょうか。

> 天白神との関係などもお願いします。

長白羽神は、天白羽神とも書かれている場合があります。天白神については、よくわかってないようですが、一説には、天白羽神と同神とされています。「天白信仰の研究」三渡俊一郎著(三重県郷土資料刊行会三重県郷土資料叢書第101集)に、詳説されているようですが、見たことはありません。


[1699]  玄松子さん  [桃色]  08/27

長白羽神、興味あります。
天白神との関係などもお願いします。
瀬藤先生
これ突き詰めてくと、広瀬の大忌神についても解決すると思うんですが
何で水神じゃなくて大忌神かってこと


[1698]  福井県か石川県方面で「ナズミ」あり  [焼尻紋次郎]  08/27

 おらのバカのひとつ覚えだども、安曇を追いかけたとき、北陸の近接地で「アズミ」が
「ナズミ」に変っていることを発見した記憶があります。宇(大)奈月温泉これならむ。
 だから、稲積の発音が「イナヅミ」なら、語頭に神を示す「イ」を接頭した語形だろうと
思うんですが。
 玄松子さん(ども、調子でねぇなぁ)麻の古代語は「オ」でしたか「ヲ」でしたか。


[1697]  Re[1696]: inazumiって?  [玄松子]  08/27

> 質問よろしいですか? 前記にあるように、麻を祭ってある神社なんてあるんですか?

「麻」そのものを祀っている神社は、瀬藤さんに任せますが、「麻の祖神」を祀る神社ならあります。
「長白羽神」という神が麻の祖神で、伊勢の麻績氏の祖ですね。
徳島県麻植郡山川町忌部山の忌部神社、三重県多気郡明和町斎宮の竹神社に祀られています。
また、長白羽神は、天羽槌雄命とも呼ばれる場合がありますが、全国の倭文神社や服部神社に祀られています。この場合は、麻というより、機織の神ですね。


[1696]  inazumiって?   []  08/26

はじめまして。私は、麻を祭ってあるような神社を検索してまして、ふと、自分の苗字と同じ名前の神社?権現?山?があった事を、思い出しまして、検索の結果ここに辿り着きました。(過去ログにありました。)ちなみに、私の名は、稲積と、いいます。
質問よろしいですか? 前記にあるように、麻を祭ってある神社なんてあるんですか?
神奈備掲示板さんは、カナビ0から名を??・・・あさもよし紀の国って?もしかして?
尚、この書き込みは、管理人さんの判断で、削除していただいてもかまいません。
よろしくお願いします。


[1695]  まきむく  [香具]  08/26

 『巻向』という地名の語感に興味を覚えるのは、遺跡発掘のTVニュースでよく耳にするからでしょうか。JR桜井線の巻向駅で運転手に切符を渡し無人駅に降り立つと、まず三輪山、車谷の向うに巻向山、大兵主神社のある穴師の山、龍王山が見えます。南方すぐそばには、箸墓古墳ヤマトトトビモモソヒメ陵があります。(勝手に「ヤマト」と「トビ」・モモ・ソ・媛と舌を噛まないように区切って覚えていますが。)

 巻向山は大神神社からみて三輪山の裏、東方にあります。三輪山が禁足地なので、巻向山に向うにはJR巻向駅から笠山荒神へ向う県道を進み2.5kmの処にある「辻」という三叉路で山へ入ります。この別れ道から2km、巻向山の山頂まで1kmを残す山中に『真言律宗・巻向山 奥不動寺』という簡素ながら趣きのある寺院があります。高齢の、しかしながら矍鑠とした御住職夫妻がお寺を守っていらっしゃいました。ご本尊の不動明王尊像は、なんでも最古のものだとか・・・。年一回、大晦日に御開帳とのこと。

 この奥不動寺の裏から、藪に覆われた細い山道を15分ほど分け入った先に、初瀬川沿い出雲地区の方々が古来から信仰されてきたという聖地『ダンノダイラ』があります。現在は杉の植林の中に大きな磐座があり、周囲に50cm〜1mの小岩が散在していました。
 また、奥不動寺から道を挟んで、北方に巻向山山頂の一段下『白山』(シロヤマ)と呼ばれる樹木の生えていない、岩が剥き出しの小山がありました。
 『ダンノダイラ』及び『シロヤマ』ともに、古代史でどういう位置を占めるのか、その評価を知りません。今回は現地に行って写真を撮影して来ただけですが、これらの由緒について、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示を頂きたくお願い致します。

写真については、
http://photo.goo.ne.jp/user/ixtlan
にて、パスワード『makimuku』で公開しています。setohさんのご好意により神奈備リンクからもアクセスできるようにして頂きました。有難うございます。

 今回パスワードを設定しましたのは、信仰や研究目的以外で入山された人達による、不法投棄、迷惑駐車、道迷い・行方不明、事故等、良識皆無の悪質なトラブルが増加している為、一般に広く公開したくないという奥不動寺のご意向を汲んでの措置です。(ご住職ご夫妻は、とても親切で優しい方々です。しかも明るく闊達!)

 『ダンノダイラ』は地図には載っていません。そこへ行かれる方は、奥不動寺に立寄り、登り口の説明を受けて、帰りも寺に戻ってくるコースでお願いします。
 また付近の地図には、この奥不動寺から、出雲地区や白河地区方面への山道が記載されていますが、土地の人の案内なしで初入山されるのはお勧めしません。藪漕ぎには地図と磁石など役に立ちませんから、民家のすぐ近くの里山でも大変危険なものです。
 今後は無謀な事故のないようにと思い、コースを写真でレポートしました。
以上、神社とは関係のない報告ですみません。


[1694]  三星堆仮面と目 ヒメの目  [焼尻紋次郎]  08/26

 「物凄い大火を一瞬に消すいちばん効果的な方法とはナニか」というシッダルタ
さんのハナシ(設問)です。古代人は見るべきものはチャンと見ていたようです。
答えは「眼をつぶること」……デシタ。

 ここんとこあしゃ「ヒメ」を追い掛け回しています。妄想たぁ思うが、どうして
も三星堆遺跡出土の仮面でのピョコっと飛び出た両眼が「ヒメ」ではなかったかを
直感しやす。
 和歌山市出身で、おらの生涯の恩師だった橋本先生は、小泉純ちゃんと、三星堆
仮面をたして2で割ったような顔だった。

 有馬とは「第三の眼」か、又は「片目」だし、安曇は「めくら神」だった。
 アトウは「大塔・火神」にもなるが adho(めくら)との関連は否定しがたい。

 目をつぶってごろうじろ。世の中みんな消えるじゃんか。
 目こそイノチ。命と書いてミコトいうじゃんけ。
 古代人が認識する目には余分のものが付着してなかった。裸眼だった。


[1692]  おっと……待ちねえ  [焼尻紋次郎]  08/26

 人間の脳や目は超精密キカイです。メタルやプラスチックでできた紋ではありやせん。
 下でカキコしたは「自分の目を自分がどれくらい、痛めつけているのか」の点検作業だけ
のことで、決してマッサージとか治療ではございません。

 目の疲れを取るマッサージ方法や、老眼・近眼の治しかたをあわてて、『YOU-I 掲示板』
に書き上げますので、それまではけっしてムチャはしないでください。
 永年に亘って痛めつけたものは、1時間や2時間で治すことはできません。そんな気持で
やったら取りかえしのつかぬことにもなりかねません。3〜5ヶ月という永い矯正の習慣だ
けが最後の勝利を約束します。
 眼眼でミョウなこと考えちゃった。


[1691]  慈尊院  [なにがし]  08/26

続いて、
ちなみに、慈尊院は丹生酒殿社から3〜4KMほどでしょうか、車で10分ぐらいです。
大阪からなら、橋本市かむろの人魚のミイラのあるお寺?→真田幸村のいた真田庵→慈尊院→高野山なんていかがでしょうか。では。


[1690]  阿刀氏  [なにがし]  08/26

setoh様
>熊野本宮には阿刀氏(安曇?)が居て、
おもしろそうですね。例えば、空海は消息不明の時代実は熊野の阿刀氏の元で修行し、阿刀氏から高野山を教えてもらっていた。なんて事もありうるかも知れませんね。阿刀氏がいつから熊野にいるかにもよるのですが。
ちなみに、伊都郡九度山町には空海の母が晩年住んだ慈尊院がありますが、その時ついてきた空海の身内(親戚か兄弟か忘れました)がこの地に住み、確か中橋氏を名乗っていたと思います。この家に残っている文書についての冊子が山口県の図書館でも見かけましたので、結構有名???


[1689]  馬鹿な考え、休みに似たり。  [Setoh]  08/26

> 席亭が休んでる
休んでいた訳ではないのですが、失礼いたしました。
これからの紀州熊野行きと9月上旬のソシモリツアーの下調べなど、そこそこゴチョゴチョしておりました。
 熊野に跋扈した豪族と有馬皇子との関連は何だったのかと妄想しております。
有馬皇子が中大兄皇子に絞殺されていますが、謀反に際して「先ず宮室を焼いて、五百人で一日二夜、牟婁の津(田辺市の港)に迎え撃ち、 急ぎ舟軍で淡路の国をさえぎり、牢屋を囲んだようにすれば、
計画は成りやすい。」と言ったと『日本書紀』にありますが、この五百人は中辺路を通って行く計画だったはずです。
 熊野の有馬も面白い所です。有馬皇子と無関係ではなさそうですね。
 熊野本宮には阿刀氏(安曇?)が居て、これが空海の母親にからみ、高野に、丹生に絡んでくるはずだと睨んでいます。丹生にご関心の多い方々、面白いと思いませんか?


[1688]  天野山金剛寺  [なにがし]  08/26

金剛寺に関するサイト見付けましたので、ご報告致します。もしかしたらご存知の方もあられるかもしれませんが、その時はすみません。
http://www2g.biglobe.ne.jp/~y-maki/rekisi-1.html#t02
金剛寺の創建および丹生明神・高野明神が歓請された理由が書かれていました。また何故女人高野と呼ばれたのかも書かれていました。私がもっていた金剛寺の疑問は全て解決しました。


[1687]  紋の旦那ありがとうございます。  [桃色蜥蜴]  08/25

私姿形は、一回り以上若く見られるんですが
目だけは、老人性何とかで
早速試してみました。
効果ありましたよ。


[1686]  眼の疲れを実感しましょう  [焼尻紋次郎]  08/25

 ミナシャァ〜〜ン、瀬藤席亭が休んでるあいだ、眼のことについて考えましょう。
 まいにち、パソコンで眼を酷使してるんですよね。

 まず、顔を洗うときのような格好で両眼を双の掌で覆ってみてください。そのとき親指
は両耳よりも鼻のほうに来てますね。それを確認したら、こんどは親指だけを3〜4cm真
下にさげて、奥歯の上におきます。
 こんどは、奥歯の上に置いた親指はそのまま頬っぺたから離さないまま、4〜5才の子
供が「ウエ〜〜ン」と言って泣くときのような真似をしてみてください。すなわち、親指
も少しは曲りますが、残る4本の指は、かがんだ状態になっていますね。
 そして、ひと指しゆびの第二関節は両方の「まじリ」に来ている筈です。
 そこで、そのひと指しゆび第二関節の腹で、「まじリ」部分を上下に軽くマッサージし
てみてください。
 おそらく、全員のひとがビリビリした異常を感じたことでしょう。

 次ぎに、二つの親指を同様に両側の「こめかみ」に持って来て当てたまま、ひと指しゆ
びの第二関節で、眉の真下にそって、中央から「眼尻」にかけて、すこし力を加えた程度
でマッサージしてみてください、指のうごきは眉間から「眼尻」の方向へ、です。
 どうです。これもビリビリ痛いでしょう。 

 このようにビリビリしているということは、眼のまわりの神経や血行が限度にきている
状態が続いていた……ということです。
 眉の下をやったついでに、眼の下の骨にそってもやってみてください。
 あなたは「こりゃイカン」と思ったことでしょう。
 このシコリはマッサージによって完全に取ることができます。マッサージのやりかたは
眼の医院で教わってください。文字で表現するのはちょっとむずかしいのです。
 「そんなことしたって……」という眼医者はインチキです。
 でも、眼医者にかかる前は、このシコリだけは取っておきましょう。でないと御先祖さ
まに……、いや貴方自身への冒涜です。
 マッサージのやりかたや、老眼・近眼の治しかたは、近々『 YOU-I 掲示板』に掲出しま
しょう。
 瀬藤先生、いよいよ眼が悪くなったんでなければいいですが、ネェ〜〜。


[1685]  大忌祭 [桃色蜥蜴]  08/23

瀬藤さん
広瀬神社です。竜田の風神っていうのは解るんですけど、どうして広瀬は、大忌神なんでしょうね?
それと、易姓革命についてもう少し補足しておきます。
皇統が、一本の糸で繋がっているという万世一系の下、記紀は編纂されています。
記紀編纂に当たって、各氏族から資料を(強制的に)提出させたのも、歴史的事実云々よりいかに万世一系に整合性を持たせるかといったものからと考えられます。
換言すれば、この万世一系を将来において、いかに担保するか(易姓革命からの回避)、この問題を解決するため、姓を捨てたと考えられるわけです。
つぎに、易姓革命の起源ですが、フレーザーの金枝篇にやはり求められると思います。
フレーザーの『王殺し』→『王の使い捨て』に象徴されるように、王の霊力がなくなり、災いが起きるようになったら新しい王に代える。さらには、これが、人徳がある一族が王になり、この一族の人徳が薄れ、世が乱れれば、この一族に代わる新たな一族が出現するというように、一代限りの『王殺し』から時間的スパン、個人から一族へとの進展があったと考えられるわけです。


[1684]  Re[1683]: 元伊勢について 4  [Setoh] 08/22

泊瀬女さん
紀の国の女酋長と言われます。
荒河刀弁を紀氏の祖の鬼刀彌(天道根命の二代目)のこととする説があります。
崇神天皇と遠津年魚眼眼媛を結びつけたのを四道将軍の一人の吉備津彦命と推測しています。
三船神社の鎮座する桃山町は桃の産地で安楽川と言う地名も残っています。桃のブランドは「荒川桃」です。ボチボチオフですね。

荒河刀弁やその娘さんを祭る神社は和歌山を含めて他県でも見いだせません。

豊鍬入姫さんは下記に祭神として祭られています。
麻續神社 三重県多気郡明和町
糸井神社 奈良県磯城郡川西町
大神神社摂社豊鍬入姫宮 奈良県桜井市三輪
鋤崎八幡神社 岡山県川上郡備中町平川
鋤崎八幡神社摂社若一八幡神社 岡山県川上郡備中町平川

ところで三船神社は豊鍬入姫命の創建と伝わり、足跡の一つですが、この神社の祭神には天照大神は見えず、由緒にも元伊勢をにおわす文言は入っていません。
和歌山でのきらびやかな神社の筆頭です。他に丹生都姫神社、鞆渕八幡神社が名をはせています。

泊瀬女さんの参詣を今や遅しと待っています、との神様の声、聞こえますよ。


桃色蜥蜴さん
昨日の22日の大忌祭とはどこのお宮さんの祭りでしょうか?
この日には都祁南之庄の国津神社で風鎮祭がありました。おかげで風害は少なかったようです。


[1683]  元伊勢について 4  [泊瀬女]  08/22

元伊勢伝承地4番目の地は木乃国です。木乃国は紀の国、今の和歌山県。
崇神天皇51年から木乃国・奈久佐浜宮(なくさのはまのみや)に豊鍬入姫によって3年間奉斎されたと云う。倭から紀ノ川を舟で下って行かれたのかしら。それとも川沿いに歩いてか。

伝承地としては
1.日前国懸神宮(和歌山市 秋月)
2.浜の宮神社 (和歌山市 毛見)
3.三船神社  (那賀郡 桃山町)

豊鍬入姫の母君は、紀伊国の荒川戸畔の女・遠津年魚眼眼媛(とおつあゆめまぐはしひめ)。木乃国は豊鍬入姫の母方の故郷です。
【setohさん、荒川戸畔は紀伊の女首長なのでしょうか?】
豊鍬入姫が浜宮に留まられた時、日前の神も琴浦の海中の岩上から浜宮に遷されたとされます。後に日前国懸神宮が元伊勢の伝承を包含して秋月に遷ったのでしょう。
元々、秋月の地には伊太祁曾神社が祀られていたが、垂仁天皇16年日前国懸神社にその地を譲り山東に移られたとのこと。日前国懸の神が毛見から秋月に移り、伊太祁曾の神が押し出されたということでしょうか。この玉突き遷座は豊鍬入姫がこの地を去ってから約30年後のことになります。
今、日前国懸神宮は深い森に囲まれて鎮座しています。神社の森は各地にありますが、秋月の森は特別に深く魅力的な森です。晴天の日でも森の中は、雨が降った直後のようにじっとりと湿っていて、不思議な神域を作っています。
これは言ってはいけない事かもしれませんが、あの森は木の神である五十猛さまにこそ相応しい・・・

玄松子さん。元伊勢シリーズは単なる候補地・伝承地のリストアップと考えてください。
予告編にもなっていません。できるだけ、伝承地を尋ねて自分の目で確認しようと考えています。自分のHPを作れたら良いけど、ダメでもこの掲示板をお借りして何らかのレポートしたいとは思っています。最初、26〜27箇所の伝承地を廻るなんて楽勝だワと思っていたのですが、そんな簡単なものではありませんでした。


[1682]  大忌祭 [桃色蜥蜴]  08/22

瀬藤さん
昨日の大忌祭なんかも効いたんじゃないですか?


[1681]  Re[1646]: 砥鹿神社 [1680] 雨乞い  [Setoh]  08/22

桃色蜥蜴さんの18日の投稿に
> 穂国(律令以前の東三河)いま渇水で昨日、奥宮で雨乞いやったようです。
ってありました。いささか期待しておりましたが、やっぱり来ましたね。
山浜さんのご覧になったニュース、この雨乞いですね。

日本には多くの神社がありますが、何故だか判るような気がしますね。


[1680]  雨乞い  [山浜]  08/22

御無沙汰しました。
たしか1週間ほどまえのNHKのニュースで、砥鹿神社の奥宮、本宮山での雨乞い神事の模様をやっていたように思いましたが、強烈に効いたようですね。
平成6年のときも雨が降ったと聞いております。
ただ降りすぎで甚大な被害がないことを祈るばかりです。


[1679]  あさひに匂う 山ざくら花  [焼尻紋次郎]  08/21

 瀬藤さん、さっそくの……有り難うございます。
 扶桑樹に関してもそうですが、シナというても広うございます。そのどこらあたりかとか
時代などは、わからないでしょうね。
 小生はこれを機にシキシマとキシとシキを同時俯瞰してみようと思います。「マ」は、こ
の一音だけでも島ですので、「シキ・キシ・シマ」。
 アイヌ語の SI は親とか方角の意味が強いのですが、日本語の SI には能のシテ(主人公)
のように本筋という意味が強ようでございます。そして計らずもまた、平戸のシキが出まし
た。習志野さまもさぞおよろこびの御こととぞんじます。
 とまれ、ことしじゅうにはほんとうのイタキソさまを拝めそうです。

 ヒミルコはかなり前にここか、「ほにゃらか」で掲出しました。その資料(と、いっても
僅かですが)が掲っているの本は2m(キロ抜けないで)も先にあります。

 あ〜、べろがどかなった。だれか莨くれへんかいの。ワァ〜〜台風も来たぞォー。


[1678]  Re[1674]:Re[1676]  [Setoh]  08/21

>  サラセッセ、ものすごいこと言わはる。
この「サラセッセ」と言うのはやめよう。この掲示板を頻繁に見ていただいている方にしか判らない隠語だわな。Setoh(管理人、瀬藤、愚藤)は、もっと開かれた掲示板にしたいと思っています。
玄松子さんに対しても同様だと思う。

> 「この国が姫氏とよばれ……」という時代
江戸時代のポルトガル人宣教師が「シナ人は日本を姫氏国(キシコク)と読んだ」と書いているようだ。『日本教会史』と言う本の中にあるそうだが、孫引きなので、姫氏の出典までは不明。


> ヒミコはエジプトのフォルス(鷹・太陽神)を写したヒルミコへまで辿れます。
これこそ、を「ほにゃらか」せむ。だよ。

> 儒教においては、避諱というものがあります。先祖の名前(諱)を避けるというものです。
桃色蜥蜴さん、ありがとうございました。
八左衛門 松楠 正夫 禎祥 威夫 瀬藤家は、鷹志望の鳶の家系みたい。

> 易姓革命
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-hina/tyuugokumametishiki.htm


[1677]  おなじみ倭の5王  [hin(かよ)]  08/21

岩波新書『日本の誕生』吉田孝著より、抜粋。

東アジアの諸国は政治的・外交的目的から、中国の皇帝から『王』に冊封されるが、同時に中国文化や制度を取り入れていく。朝鮮諸国や倭は、4〜6世紀に中国の「姓」の制度を継受する。・・・略・・朝鮮半島とおなじように日本列島にも中国の姓を称する渡来人はいたが、独自の姓の初見は、421年に「倭讃」が宋に朝貢して冊封されたという『宋書』倭国伝の記事である。「倭讃」の「倭」が姓にほかならにことは、讃・珍の次の「倭国王済」が451年に宋に朝貢したときの『宋書』文帝紀に、「安東将軍倭王倭済、安東大将軍に進号す」と記されていることから自明であり、略・・・このようにいわるゆる倭の五王とその一族は、中国王朝からの冊封を契機として「倭」という姓を称し、中国の「姓」の制度を継受したのである。
66ページ

。。。。。。。。。ギョギョって感じ。。。


[1676]  ものすごいこと 言やはる  [焼尻紋次郎]  08/21

 サラセッセ、ものすごいこと言わはる。
 いやさ、おらがシランかっただけやろばってんが……。
 訊ねたら……愚紋いわれるは、ほかのところなら一向にかめへんが、こと[1666] の下記一
文に関しては軽くイナサないでおくれ。
      ……………………     ……………………
天皇家の姓で思い出しますのが『日本の古代1』(中央公論社)の下記の文章です。
平安時代の『日本書紀私記』に「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに
対して、「始祖の天照大神 が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されている
そうです。愚紋ならず愚藤ですな。呉の太伯の後裔説がありますが、その影響とコメントさ
れています。
殷王朝や周王朝の王家の姓が「姫(キ)」で、天皇家がその流れを受けていると言うことで
しょうね。天照大神の弟とされた蓑をかぶった素盞嗚尊も「箕(キ)」氏、和歌山の紀氏も
そうです。
      ……………………      ……………………

 これ、イタキソ様解釈がモロにかかってらいしょ。
 また、あっしこだわりの「ヒメ」(神名でのヒメの半分は男じゃ)にも大きな解答資料を
提供してらいしょ。
 なぜ日本人が「姫」という文字をヒメと発音するに至ったか……いやさ、かりに柱の間に
ある聖域がほんまに「ヒ」で、その聖域にかかわる“尊身”がヒメであった……という考え
方が永く続いていたら、どうしてその男女尊身の呼称に「姫」の文字をあてたか。
 由々しきことなり。
 「この国が姫氏とよばれ……」という時代、これほんまにあったんかいな。
 その時代に、「ヒメし」とも読んでもいいという社会的コンセンサスは成立してなかった
か、ここが焦眉焦点ならまし。あちち。
 存念(あてずっぽ・かまわず)のほど、なにかカン愚 RI (奉納)コメントしなせぇ。
 それから、易姓革命とはどういうことかオラシランので、解説しておくれ。愚紋か?

 おらの「バカのひとつおぼえ」……、百済の王家もキシさんだった。さいたま市の旧浦和
中心部に岸町これあり。SI はネパール語で「ひと」ざんす。
 姫路のジとタカクラジのジ……このへんでドッキング可能。ここと「○○さん」との関係
を「ほにゃらか」せむ。http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi なも。


[1675]  Re[1671]:50+50=SAIT・SAIT=MOMO 幸せね  [福島雅彦]  [Url] 08/21

> ※ アマテルではなく、アマタルと発音した例……誰で構いません。ご存じのかたいらっ
>   しゃいましたら、お教えがた伏してアマカネぞな。

御亭主の趣旨に逸れますが…。福島の語源説を少し述べさせてください。
※『天照大神』⇒『“아마-딸”(ama-ttal)大神』である、と認識しています。
“딸리다”(ddal-li-da)=付く、(物事に付)属する(民衆書林・韓日辞典)の語幹です。
即ち、『天に属する大神』⇒高天原所属の大神⇒固有名詞ではなく、出自説明に成っています。
※『阿毎多利思比孤』も『あめのタルしひこ』の転化ならむ。


[1674]  Re:易姓革命  [桃色蜥蜴]  08/20

瀬藤さん言葉が足りませんでした。
易姓革命でなく、世襲制の確立という意味で似たようなとしました。
儒教においては、避諱というものがあります。
先祖の名前(諱)を避けるというものです。
この避諱からすれば、日成の息子に正日と『日』をつけることは反します。
同様に、正日の息子に正男と『正』の字をつけることも反します。
一方、日本においては、代々同じ字をつけること(継名)が知られています。
正日→正男がこれにあたります。
また、継名に似たものに偏諱というのがあります。
自分の諱の一字を家臣等に与えるというものです。
例えば、吉宗→宗春(尾張)などです。
日成→正日も該当するのではないかと思われるからです。
偉大な首領任・日成から正日は、王位を継承し、日成を神格化し、正日の血統を継ぐものが王位を継承するという意味です。
また、韓半島では、避諱をさらに発展させ、五行説に基く廻字(トリムチャ)というものがあり、韓国では今でも、この法則が守られていますが、北朝鮮関係の報道を見ると、国民の間で崩れて?いるように思われるわけです。
姓氏による新たな(世襲)制度の確立という意味で似たような発想(漢字=中国→儒教思想からの離脱)からとしたわけです。
誤解与える表現で申し訳ありませんでした。


[1673]  易姓革命  [Setoh]  08/20

賢紋> ヒミコはエジプトのフォルス(鷹・太陽神)を写したヒルミコへまで辿れます。
「ル」は消えやすいんでっか? この理屈を「ほにゃ」で具体的になっておくんなせー。

賢桃色> 姓をなくしたのは、易姓革命のがれるためじゃないですか。
賢蜥蜴> 金日成→金正日→金正男 何かも似たような発想だと思います。→これ愚藤には意味不明ョ。
殷から周は姓は「姫」で変わっていませんよね。易姓革命はいつ頃からの思想でしょうかね。

所で、九住山のある玖珠郡では今でも蛇のことを「ヤアタ・ロ」と言うそうですね。
九住、玖珠はクス・クズ、一時この掲示板で話題になった吉野の国樔、国津、葛また更に櫛、奇もそうかいなと思います。素盞嗚尊がやった渠埋め、畔の破壊などは縄文人のイメージですが、八咫蛇退治を行ったと記紀に書かれたのは、縄文の親玉をして、縄文のあがめる蛇退治を強いた物語だと思います。
また、奇稲田姫の名もクズの女神に稲作を強いた天孫族の仕業でしょう。


[1672]  Re[1667]: 阿毎  [習志野のてつ]  08/20

> 旧唐書でしたか?阿毎氏って言うのありましたよね。
阿毎多利思比孤 号は阿輩[奚隹]彌(オオキミ)
で、隋書倭國傳に。推古天皇の頃と…推測される。
「天皇」になる前は「大王」だったのでしょう。

> 阿毎→海人じゃないかと考えますが?
賛成!実は海を渡ってきた人じゃないか…と思ってます。
おまけですが。
五島列島最北の宇久島だと海人でアマンドと読みます。

> 姓をなくしたのは、易姓革命のがれるためじゃないですか。
> 金日成→金正日→金正男 何かも似たような発想だと思います。
オット、すごい発想ですね。
囲碁や将棋で、「相手の打ちたいところに打ち、その手を消す」
高等テクニックがありましたね。

一般的に信じられているのは、中国では、政権は天(テン)から
与えられるものであり、日本では「姓は臣下に対し、与えるもの」。
天皇は=天孫だから= 誰からも与えられない。だったと思います。

一応。「推」の「推古」、「政権」と「姓」かけことば のつもり。

ユダヤ教でも、キリスト教でも、唯一最高神は 「YHB」。ヤーベ
とかエホバとか発音するらしいけど、どうやって名を付けたのだろう?
やっぱり「姓はない」と解釈するのか、しらん。

Re.[1671]梅原猛…を“哲学”の場に追い返しやしょうぜ。→大賛成。

私が最高裁判事だとして、歴史についてしゃべるなら、肩書きは
「公務員」とでもしておく。
「八百屋」、「魚屋」、「床屋」として歴史について語ったら
「哲学者・梅原」ほどには売れなかっただろう。世の中によくある。
「ファイアー」とか云ってる国会議員と同じと思えば腹は立たない。


[1671]  50+50=SAIT・SAIT=MOMO 幸せね  [焼尻紋次郎]  08/20

 とかげのだんな、お初にシッポへブラさがりやす。
 あのなぁ、梅原猛ちゅうヤツは悪い梅毒もちだっせ。わずか1ヶ月しかアイヌ語みなかっ
たクセして、大野晋教授に噛み付いてアシハラのシコオの「シ」がウンコだとぬかした。
 こんなこと、どんなに心証強く思えても言うちゃならねぇし、まして書いちゃァならねぇ
こと5才児でもわかろうってぇ紋じゃござんせんでござんせんけぇ。
 梅原猛とみたら、みんなで寄ってたかって、ヤツを“哲学”の場に追い返しやしょうぜ。

※ 桃色は「いいこといっぱい」、とがげは「鳥(神)のえさ」……とみたはヒガ目か。
  犠牲精神がこめられた古代語での「いいお名前」ざんすが……。
  Hin さん、こーゆーときの「ト」ならわかるんだぜ。後続の語彙が明瞭だもんな。
※ 「あめの」とか「あまの」という表現がしてあれば、そこにはもう「天からの降臨」が
  言わずもがな裡に込められています。誰かさんたちゃ、異民族だったハンデ長げぇあい
  だ気がつかなかったものと思われます。
※ ヒミコはエジプトのフォルス(鷹・太陽神)を写したヒルミコへまで辿れます。
  また、クマリの一(いち)文化(偏執)形態として把握するのがよかっぺぇよ。
  だから、イヨはナマの少女の名前だった……という福島さんの穿ちは正鵠ならめ。
※ 古代人の名前観についても、http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi の 
  「ほにゃらか」でほにゃらか。
※ フレーザ−の金枝……何のことでしょうか、お教えくださればアマカネ。
  「とぶさ」などのことかな? *ThVb……柱文化の核語彙。
※ アマテルではなく、アマタルと発音した例……誰で構いません。ご存じのかたいらっ
  しゃいましたら、お教えがた伏してアマカネぞな。


[1670]  アマテラス  [桃色蜥蜴]  08/20

瀬藤さんの趣旨とずれちゃってすみません。
福島さん アマテラスのモデルの一つとして卑弥呼があげられることはトンデモではないですよ。
天孫降臨が持統―不比等ラインで採用されたことは、梅原猛さんが指摘していますよね。
そうすると卑弥呼と大和朝廷の連続性がどうなるのかという問題も考慮する必要があるのでは、
ヤマタイ論争も結局、ここに帰着するわけだけど
それとフレーザーの金枝扁でしたかね?古代においては本名を隠していたって言うの和歌なんかでもありますよね。なかなか名前告げないの
俗名って本名のことなんでしょうか?


[1669]  Re[1667]: 阿毎  [福島雅彦]  08/20

> 旧唐書でしたか?阿毎氏って言うのありましたよね。
> 阿毎→海人じゃないかと考えますが?
> 姓をなくしたのは、易姓革命のがれるためじゃないですか。

 横合いから、失礼します。
卑彌呼⇒天照大神⇒阿毎多利思比孤⇒天――皇(あめのすめらみこと)と、一貫して職掌名、出自“아-메”(a-me)⇒高天原、を指していると思います。
BBSですので、説明不足で、トンデモに取られても仕方ありませんが…。
 卑彌呼に就任した時点で、俗名を捨てた、と。壹與は捨てる前からの就任記録で(魏志倭人伝)ね俗名が残った、と。


[1668]   Re[1664]: どーも、どーも  [福島雅彦] [Url] 08/20

> この アツタも妙な音ですね。名古屋の人は熱田神宮は『あつたさん』と呼びます。
> この『さん』はなんやろ?
> 『すみよしさん』、『えべっさん』、、、、、京都の人々は天皇を『てんのうさん』だったけ?

 横合いから、失礼します。
私は、古代倭語の語源探しをして、古代史の謎解きに挑んでいます。
古代倭語のルーツが『華南語』に在ると睨みを付けています。朝鮮語にも臍の緒を留めている、と。

『〜さん』⇒人称に付く、『誰々さん』も元来、神様とかとても偉い人に使って居た物が、唯の人にまで下がってきた物ではないでしょうか。
※『上』⇒(shang)は、中国語音ですが、九州弁では『〜さん』を『〜しゃん』と発音しますので、其のままの意味でしょう。
※『上』⇒“상”(sang)⇒上(うえ・じょう)、最も秀でていること(民衆書林・韓日辞典)。
※“상;감”(sang-gam)=上監⇒王の尊称(民衆書林・韓日辞典)。
※素盞嗚尊⇒“쇠-상”(soe-sang)王⇒(製鐵王)尊。
 以上の様に、『○○しゃん』から『○○さん』へと、変遷した物と思います。


[1667]  阿毎  [桃色蜥蜴]  08/19

旧唐書でしたか?阿毎氏って言うのありましたよね。
阿毎→海人じゃないかと考えますが?
姓をなくしたのは、易姓革命のがれるためじゃないですか。
金日成→金正日→金正男 何かも似たような発想だと思います。


[1666]  君の姓は  [Setoh]  08/19

> 天皇家には姓が無い」問題を含め、議論の余地大と思います。
習志野のてつさん、こんばんは。
天皇家の姓で思い出しますのが『日本の古代1』(中央公論社)の下記の文章です。
平安時代の『日本書紀私記』に「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうです。愚紋ならず愚藤ですな。呉の太伯の後裔説がありますが、その影響とコメントされています。
殷王朝や周王朝の王家の姓が「姫(キ)」で、天皇家がその流れを受けていると言うことでしょうね。天照大神の弟とされた蓑をかぶった素盞嗚尊も「箕(キ)」氏、和歌山の紀氏もそうです。


[1665]  ミジャグチ……バレましたよ  [焼尻紋次郎]  08/19

 砥鹿は語頭に「ト」がありますので、今の分析レベル(高かすぎて)では、意味をとること
は不可能です。もし、これを語源から解く説がありましたら、十五分の十四ぐらいの確立でま
ちがっています(「ト」には十五ぐらいの意味がある)。 

 砥鹿は分析できませんが、ミジャグチは整然と http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
で解けたと思います。
  ATA は「火」です。火の神は ATA-TA になります。おらの嫌いな“音転”ちょとやらかしたカネ
 愛宕さんもその別表現でしょう。


[1664]  どーも、どーも  [hin(かよ)]  08/19

姓の問題やら 鳥海山やら、砥鹿神社やら
いろいろ有り難うございます。
夏休みはどこにも行けませんでした。暑いし〜
一番身近い、『あつたさん』 を散策するのも面白いかも・・

しかし、たいがいの神社が山を背景に祭ってあるのに
あつたさんは、海を眼前にひょっこり鎮守の森があるんです。
ちょっと考えると 妙な場所だな〜と思う。昔はあたり一面
海ですがね。
この アツタも妙な音ですね。名古屋の人は熱田神宮は『あつたさん』と呼びます。
この『さん』はなんやろ?
『すみよしさん』、『えべっさん』、、、、、京都の人々は天皇を『てんのうさん』だったけ?


[1663]  Re[1656]: hin様   [習志野のてつ]  08/19

なんとなくご無沙汰でした。
夏休みで、鳥海山西方海上40Km、飛島に行きました。
小物忌(オモノイミ)神社、遠賀見(オガミ)神社に参拝。
大分の姫島にもぜひ行きたいと思いました。

  ー姓についてー
◎秀吉は平姓を名乗っていました。平姓だと近衛大将にはなれ、
幕府を設けられます。しかし武家としては、やはり征夷大将軍
になりたかった。征夷大将軍になるのは、源氏でなければなれ
ません。そこで信長に追放された足利義昭に「養子にしてくれ」
と頼みました。が断られました。それで征夷大将軍にはなれな
かった。たまたま争いが有り、関白の座が空位となっていた。
関白になれるのは、藤原姓の人に限られていた。そこで、藤原家
である近衛前久の養子か猶子になり、藤原姓を得て、関白位を得た。
16世紀でもこんなに規制がありました。

◎天皇家の正室=皇后=后と、次の位の妃の問題
昔は后は、特に位の高い一族の人間しかなれませんでした。
いわゆる皇族で、臣ではその位に就けませんでした。
藤原姓の人間でも、最初は妃までしかなれなかったのです。

◎今の英国でも、チャールズ皇太子がカミラさんと再婚しても、
后(プリンセス・オブ・ウェールズ)としては扱わない?とか。

◎弟橘姫は、后ではなく妃だったと思います。日本武尊は少なく
とも皇太子ではあったので、「天皇に準ずる扱いをされた」との
前提ですが。

◎「天皇家には姓が無い」問題を含め、議論の余地大と思います。


[1662]  西吉野の鉱山  [マルヤ]  08/19

昭和25年、地下資源協会発行/地質には
●大和鉱山(平沼田)・・・銅、硫化鉄/含銅硫化鉄鉱床
●光陽鉱山(唐戸)・・・・・・・同上
●八宝鉱山(唐戸)・・・・・・・同上
●黒石鉱山(黒淵)・・・・・・・同上
●川俣鉱山(西日裏)・・・・・・同上
●銅ケ峯鉱山(西日裏)・・・・・同上
 その他一箇所あり、いずれも鉱種は銅と硫化鉄で含銅硫化鉄鉱床とされている。

また、大正九年発行の吉野郡史料に記されている西吉野の鉱山名は
●大久保辻鉱山 ●川俣鉱山 ●銀峰鉱山 ●西谷峰鉱山 ●黒石鉱山 ●大谷鉱山 ●宝永鉱山 ●紅陽鉱山 ●宗日鉱山 
とあり、何れも鉱種は銅と記されている。
以上の内、大和鉱山は相当量出鉱したといわれ、銅のほか金、銀も少量記されている。
このうちの一鉱は昭和30年代まで細々とだが操業されていた。その他にも試掘されたような痕跡が散在しているが、これは明治から大正時代のものであろう。          ・・・・・いずれも昭和38年発行の西吉野村史より

このように吉野(特に西吉野)は銅鉱山の多いところだったようです。


[1661]  Re[1657]: 無題  [なにがし]  08/18

マルヤ様
>その会社の所在地は吉野郡吉野町丹治なのです。 丹治氏と何か関係あるのでしょうか。
私も関係があるのではと、町史やその近辺をうろちょろしてみたのですが手がかりがありませんでした。多分丹生を調べるより丹治氏を調べる事の方が多いかも知れません。
丹治氏の系図からいくと、「29代宣化天皇の末裔で影家のときに故あって大和国志摩の庄に籠居させられます。その子宮内太郎犬山師の家義をへて、家義の子家信は嵯峨帝(809〜822年)の時の人、その子武信は陽成院(876〜)の時の人、嵯峨帝から陽成帝元年に至るまで、68年、この間又中絶といへり」とあります。
ちなみに、丹生総神主家家系図の家信の項でも宣化天皇を29代と間違っていますが、正しくは28代。また家信が丹生氏に養子に入るのが延暦12年(793年)となってますから、中絶の時期とだいたい符合するかと。ただ武信までの間が長いんですよね。822年に家信が亡くなりますから、死ぬ前に生まれたとしても武信は陽成帝元年54才になるんですよね〜。丹生の方の家信の子は延暦14年(795年)に生まれていますから、武信の年代がうまく合わない。この間に何があったのか?例えば当時は1夫多妻であったとか(伊都郡かつらぎ町宮本には(ここの丹生神社(神主は丹生総神主家兼帯)はsetoh様のHPにあります)、狩場明神(=家信)の3男を葬ったとされる荒神社があります)。あるいは武信は90歳まで長生きしたとか。まあそれは置いといて、武信は元慶元年に武蔵国秩父に配流され、丹治氏が表舞台に戻ってきます。丹治氏には銅の地名がまとわりつきます。秩父も銅で有名ですし志摩庄近くには丹生の地名もあり、吉野にも近い。高野山も銅が多く、銅鉱山を狩場ともいいますし。
ほんと丹治氏についてははっきりしない部分が多いです。


[1660]  Re[1646]: 砥鹿神社  [Setoh]  08/18

鳥と蛇の融合
 北方系 天津神 ー 鳥神 金鳶(天皇)、八咫烏(大伴)
 南方系 国津神 ー 蛇神(naga)、八咫蛇、長髄彦、長尾市(物部)
とイメージしているのですが、八咫蛇を退治した素盞嗚尊は天津神グループから追放されて国津神の祖
とされます。長髄彦をやってけた物部氏の遠祖も中途半端な位置づけですね。
 神様でも「鳥蛇神」と言うのがいます。
尾張国:愛知県知多郡南知多町大字内海字内田 八幡社摂社村雨神明社「鳥蛇神」です。
現在でも祭神に「蛇」の字が残っている神社が幾つか在ります。しかし流石に近畿地方では祭神名からは消え去っています。

なにがしさん> 文章を書くのって難しいですよね。
同感です。小生はその上に鈍感で、お恥ずかしい次第です。

桃色蜥蜴さん> 足助八幡宮縁起には、熊野から来た『鬼』だとしています。
熊野の鬼と言えば熊野本宮の宮司家が九鬼(くがみ)氏、また水軍の九鬼一族が出ています。要するに熊野の『神』と言うことでしょうか。

桃色蜥蜴さん> 縄文の水の女神アマチカルミズヒメ
豊年祈願の大年神に娶られた女神の天知加流美豆姫命ですね。鎮座地からは渡来系の雰囲気も感じますね。
三重県一志郡美杉村川上 若宮八幡神社摂社天水社「天知迦流美豆比賣命」
滋賀県大津市坂本5 日吉大社 摂社新物忌神社「天知迦流水姫命」
鳥取県日野郡日南町新屋 多里神社「倉稲魂命 合 天知加流美頭姫命」
福岡市西区大字宮浦 大歳神社「大歳大神、天知加流美豆姫命 ほか」
佐賀県神埼郡神崎町大字的 仁比山下宮神社「天知加流水姫命 配 大山咋命」以上


[1659]  Re[1657]: 無題  [あかがね]  08/18

> あかがねさん、
> >私もその日、午前ですが春日大社に行ってました。
> 私は午後一時には奈良公園に着いていましたが、奈良市内のどこかですれ違ってたかも知れませんね。あかがねさんは奈良県の方でしたか?

 すれ違ってたかもしれません。その時間帯ですと漢国神社か率川神社あたりで死にそうな顔で、御朱印を貰ってたと思います。それにしてもあの日は暑かったですよね。殆ど熱射病になってました。漢国神社で頂いたお茶はおいしかったです。そういえば、堺の脇浜戎大社では伊勢の宮水というのをいただきました。冷やして呑んでみて、といわれたのでその場で飲めず、もって帰ったまま忘れて大阪を離れてしまいました(爆)なんかもったいなくて、普通に飲んだり、水割り作ったり出来ないですし・・・。

 ちなみに私は奈良県人じゃないです。
 和泉生まれ(泉大津市穴師)、南河内育ち(美原町、菅生神社氏子地域)、現住所茨城県つくば市です。で、父の田舎が天理市柳本なんです。奈良県人としてはハーフか?


[1658]  ちゃうちゃう  [hin(かよ)]  08/18

おこってませんよお。
自分でチャチャを入れた事に自分で こらーと
表現してるんです。誤解です。皆様のカキコにこらーなんて
書きませんよ^0^
ほんと、文字で表現は難しいですね。ご安心を・・

それに 確か、苗字の本にあったけど、
現存する 藤原姓は、ほとんど、
鎌足直系の藤原とは違うらしいですね。
しかし、続日本紀なんか ちろっと見ますよ。
かゆくなるほど 藤原家をたたえていますね。

浜島書店:資料カラー歴史(中学の歴史)には、
平安時代、藤原氏の左大臣で、32億の年収とあります。平均的
公民10人家族で、年41万〜70万円。
私もホンマものの こう言う藤原に生まれたい。とくに現代で年収32億がいいな〜


[1657]  無題  [マルヤ]  08/18

あかがねさん、
>私もその日、午前ですが春日大社に行ってました。
私は午後一時には奈良公園に着いていましたが、奈良市内のどこかですれ違ってたかも知れませんね。あかがねさんは奈良県の方でしたか?

hinさん、
>藤原です!こらー
すみません。わたしも藤原氏の悪口を言ったつもりはないのです。それに私も藤原姓と無縁ではありません。
「そごう」の灯籠には、私も気付きませんでした。

なにがしさん、
多くの情報ありがとうございます。いつもながら丹生氏の情報の多さと、質の高さにおどろきます。
ところで話は少し違いますが、小生のHPのリンク先にYoshino-Web アオイコンサルタントさんがありますが、その会社の所在地は吉野郡吉野町丹治なのです。
丹治氏と何か関係あるのでしょうか。


[1656]  hin様  [なにがし]  08/18

語弊がありましたらすいません。
要は藤原姓をもらうと言うことは、天皇に近づけるだけの地位を与えられたようなもの、あるいは褒美として藤原姓を頂いたと言うことになります。藤原姓を頂くと言うことは同時に地位のようなものもついてくると言うことで、他の姓とはやや性質が違います。
しかし、当時ではありがたいことだったかも知れませんが、今から考えてみると丹生氏にとっては丹生の姓では天皇に近づけないと言われたのと同じような事だと思ったわけです。自分の家の歴史を無視されたようなものですね(差別されていたと言うことです)。例えば私は自分の姓に愛着があります。それを結婚で変わるならともかく、強制的に違う姓に返られるのはいやだなあと思います。だから「名乗らされた」と表現した次第です。
以上なわけで御了承頂ければと思います。藤原姓を侮辱したわけではありません。


[1655]  いわくつき灯篭?  [あかがね]  08/18

> 春日大社参道に『そごう』の大きな灯籠がありましたが、
> つぶれても まだ あるんでしょうか?(`ヘ日\(▼▼メ)  

 そこまでは気づかなかったですが、今宮戎神社で山一證券のを見たことがあります。
 別につぶれたから、灯篭まで撤去。ってわけじゃないでしょう。
 住吉大社の灯篭なんて、殆どが現存してないお店やらのばっかしでしょうし。


[1654]  私も本名、  [hin(かよ)]  08/18

藤原です!こらー \(`o'゛;)  

春日大社参道に『そごう』の大きな灯籠がありましたが、
つぶれても まだ あるんでしょうか?(`ヘ日\(▼▼メ)  



[1653]  Re[1648]: 春日大社の大蛇  [あかがね]  08/18

> 14日の午後、万燈会の準備であわただしい春日大社を久しぶりに訪ねました。

私もその日、午前ですが春日大社に行ってました。
奈良市内の式内社を回ろうとレンタサイクルの旅だったのですが、春日大社は思ったよりもこじんまりとしたイメージでした。神域は広大なので、全体像をつかみきれていないだけなのでしょうが。
ただし、夥しい灯篭と奉仕している職員さんの数にはかなり驚かされましたが・・・。
国宝の本殿に近づくべく、500円を払って特別参拝を申し込む際、写真を撮ってもいいか尋ねたところ、「巫女さんはだめですよ」と言われてしまいました。これにはちょっとへこんでしまいました・・・。


[1652]  丹生氏の藤原姓  [なにがし]  08/18

マルヤ様
>さすがに丹生総神主家は古い家柄で、名家と認知されていたということでしょうね。
藤原姓を名乗ったあるいは名乗らされた理由は詳しくは分からないのですが、古い家柄だからではないような気がします。というのは、
●紀伊続風土記より「光俊以前は丹生を氏とす光俊初めて藤原を冐す。・・・秀澄 元和の初改めて丹生氏に復す」とあります。光俊は丹生総神主家3男で1300年ごろの人、元和元年は1615年ですから、丹生総神主家は1300年ごろから1615年ごろまで藤原氏を名乗っていた事になります。とは言えこの2人の間の丹生文書では丹生を名乗っているわけで。
●丹生廣良氏の著書には「長慶天皇宣旨 ・・・ 藤原光俊 宣任左近将監」とありますので、確かに藤原姓を名乗っております。

当時丹生都姫は軍神としての色が強く丹生総神主は南朝に呼ばれ調伏を行っていたのかもしれません。その褒美としてか、あるいは丹生の姓のままでは天皇近くに上がる事ができなかったかで藤原姓を名乗った(名乗らされた)のでは、と。
ところで、「左近将監」ってどんな役職なんでしょうか。どなたか御存知でしたら教えて下さい。

空海の足跡について、五来氏は次のようにも書かれています
「空海の青年時代に高野へ入ったのは東の方の吉野からで、のちの「御遺告」が北の天野から、狩人の案内で入ったと言う説とは違う。私は最初吉野から入ったときも狩人の案内で入り、北の天野を下りて、紀ノ川筋をへて吉野へ帰ったであろうと思う。したがって高野は、伊都郡の南に当たることがわかったのである。」
私はこう考えています。丹治氏家系図より、丹治家信の父家義は高野山を知っていたようですね。当時丹治氏は現在の明日香村で住んでいましたので吉野を通って高野山に入っていたのでしょう。もしかすれば、空海が修行していた時に家信や家義に会って高野山に連れってもらったのかも知れません。空海が天皇に高野山をほしいと上申するころにはすでに家信は丹生総神主家に養子に入っていますので、丹治氏は高野山が伊都郡の南にあたる事は知っていたでしょう。そして空海がふたたび高野山に登るときは、丹治氏より家信がそのあたりで住んでおり、紀ノ川沿いを下るのが近道である事を教えてもらったのではと思っています。奈良から紀ノ川の北側を下り、五条市犬飼で「南山の犬飼」こと犬山師である家信に再会し、家信の案内で伊都郡かつらぎ町三谷の丹生総神主家に立ちより、家信の案内で天野をへて高野山に登ったんだろうと考えております。
ちなみに、丹治氏家系図には高野山は「好犬山」と書かれていますので、犬が好むほどの狩猟の場であったのか、それとも鉱山師としての犬ととって鉱山師が好むほど豊かな鉱山(おそらくは銅山)だったのかなどと思わされる記載です。


[1651]  Re[1642]: 名前  [玄松子]  08/18

> 元伊勢シリーズ、次は木の国ですが、管理人さんの手前ヘタなことは書けませんので慎重に調べ直しています。

出来れば、各候補地・比定地の住所や、論拠、出典などを簡単に記していただけないでしょうか。
でも、いつか、ご自身のHPで詳説されるということなら、その必要はありませんよ。
今回のシリーズは、「予告」として拝見しますから。


[1649]  蛇と云えば  [マルヤ]  08/18

蛇といえば出雲大社の近く、日御碕神社のご神体も或は蛇かと思わされます。
ご存知日御碕神社の御祭神は、日沈宮:天照大御神、神の宮:神素戔嗚尊ですが、社務所正面には、蛇がとぐろを巻いてかま首をもたげた絵の掛け軸が飾られていました。
また、この掛け軸の小型版が売られていたような気がします。
日沈宮(ひしずのみや)は伊勢神宮の日の出に対して日の入りの意味だといいますが、この宮は村上天皇の天暦二年以前は、経島(ふじま)又の名日置島(ひおきじま)に祀られていたということです。


[1648]  春日大社の大蛇  [マルヤ]  [Url] 08/18

14日の午後、万燈会の準備であわただしい春日大社を久しぶりに訪ねました。
この日の奈良公園は特に外国の旅行者が多く、人目で外人と知れる人たち以外に、日本人とまったく変わらない人たちが話す中国語や韓国語と思しき言葉がいたるところで溢れていました。
春日大社に参詣すると本殿内の庭で、本日奉納するのか歌の練習が行われていました。
「ふるさと」などの唱歌を、男女混声で合唱しているのですが、伴奏が笙の笛などの和楽器のほか主旋律はピアノで演奏されているのです。まったく違和感はなく古都の風情に融けこんでいて、歌声も美しく澄み切ってしばらく聞き入っていました。
その後、拝礼を済ませて本殿の左下裏手の方へ下りたところで、大蛇を見たのです。
いや、大蛇と見紛う、ふぢの巨樹でした。それは巨大な太さで樫の古木に巻きつき、木を圧倒して天にむけ繁茂しているのです。こんな巨大なふぢの木を見るのは初めてで、藤原氏を思い身震いすら覚えました。
隣接して「春日大社神苑」があり、ここでは藤や蔦、葛が多く栽培されています。

なにがしさん、
仁和寺は宇多天皇以来、門跡寺院の筆頭とか。
さすがにそのご威光はすごいものがあるようですね。

藤原の姓は南北朝時代でもなお、名乗りたくても名乗れない特別な姓だったと思います。
さすがに丹生総神主家は古い家柄で、名家と認知されていたということでしょうね。

吉野から高野山への、空海の足跡の情報ありがとうございます。
天誅組が吉野から敗走した道と重なる部分があるのではないかと勝手に考えたりしますがよくわかりません。
来週、村岡 空住職の紹介で吉野の長老とお会いできると思いますのでお聞きしてみます。


[1647]  素早く感謝  [hin(かよ)]  08/18

っわあ!早い。
『トガ』の 音が何故か、ひっかりますが・・・
意味は何でしょう??
資料希望!!
ミシャグチ神と関係ありますか?


[1646]  砥鹿神社  [桃色蜥蜴]  08/18

菅江真澄みの「ふでのまにまに」だったと思いますけど、
奥宮・本宮山を『刀鹿の峯』と表記しています。あまり漢字の表記にこだわる必要はないと思います。
それと、足助八幡宮縁起には、熊野から来た『鬼』だとしています。
穂国(律令以前の東三河)いま渇水で昨日、奥宮で雨乞いやったようです。
縄文の水の女神アマチカルミズヒメあたりも真の祭神の一つかも?
持統行幸でかなり祭神変更されてますから


[1645]  三河・砥鹿神社  [hin(かよ)]  [Url] 08/18

毎々、唐突ご容赦!

三河一宮砥鹿神社の『砥鹿神』って なんじゃろけ??
砥が砥石の『砥』と 
結果が良の時のカミ『鹿』がミックスされてる名称が
いたく 気になります。ご存知の方、教えて下さい。
これも 縄文のカミ様かえ〜〜〜??


[1644]  Re[1642]: 名前  [なにがし]  [Url] 08/18

> 以前、私の母方の家系図を整理したことがあります。親戚に伝わった家系図をつき合わせていったのですが、合わない名前があるのです。家系図に載っている名前、戸籍上の名前、周りの人達が呼んでいたという名前がみんな違っていました。

昔に限らず、今でもありますよ。家系図ではありませんがうちの母や母の妹なんかも戸籍上の名前と実際に使っている名前とがあります。それは名前が固かったりややこしかったりするのが理由のようです。要は現在風ではなかったと言うことですね。
あと、家系図で言いますと、確かに女性の方は「女子」と書かれていますね。男性は名前なのに。丹生氏の系図でも女子となっていますが、その下に名前が書かれており、院号も書かれています。それは嫁ぎ先で亡くなっても、出の家の家系図に書かれていると言うことなので1つの女性の文化がみられます。また、丹生氏の家系図でもっとかわいそうなのは江戸時代より前はお嫁さんの名前が書かれていないと言うことです。江戸時代になっても「号宮内娶紀昌之長女」と書かれるだけで姓は分かっても名前がわからない状況です。そう考えると女性は虐げられてきたのでしょう。ただし、そう思うのは現在人としての観点からであって、実際名前が無かったわけではないので、もしかすると当時の女性はそれが普通で、生活には影響しないので、虐げられたと言うイメージはなく、幸せに暮らしていたかもしれませんね。


[1643]  最近の悩み  [なにがし]  08/18

あたしゃのHPには夢がないなあって最近悩んでおります。もっと行った所のいいところを、あるいは行ってみたいなあって感じるような書き方をしないといけないなあと感じております。なんかひとりよがりのHPなんですよね。HPで論文発表をしているのではないのだから、もっと分かりやすく、楽しいHPにしたいと思う今日この頃です(いつか大幅に改装しないといけないなあとおもっております)。それにしてもわたしには文章力がないので、とうとう「狩場明神物語」も夏休みにはいってしまいました。文章を書くのって難しいですよね。マルヤ様の物語なんかみるとすごいなあって思うばかり。最近はそういう観点で皆様のHPを見させて頂いて勉強させて頂いている次第です。しかし、皆様のHPを見るたびに、「こりゃ感性が違いすぎるな」と、その表現力だけでなく感じ方の豊かさの差を思いしらされる毎日でございます。なにがしの勉強の道は長いなと感じております。

紋次郎様
以前食べ物で「おんぼ」か「あんぼ」でしたっけ、柿の食べ物ありましたよね。和歌山県伊都郡かつらぎ町の食べ物でそのような名前を先日聞きました。まずはそれをgetしようと考えております。地元の方曰く食感は「ほたほた」との事。「ほたほた」ってなんだあああああ。

マルヤ様
空海の足跡について、先日入手した五来先生の著書には高野山に至った道順を次のように書かれておりました。吉野金峯山→洞川→天川村坪内→栃尾→和田→庵住→籠山→塩野→大塔村阪本→中原→今井→平川→柞原→天狗木峠→桜峠→高野山奥の院。五来先生は確か高野山大学の教授が高野山のお偉いさんだったかと思います。本も何冊か出されていますので読む機会が多いのですが。五来先生はこの工程を自分の足で歩いて確認したようです。以前マルヤ様が言われていたのはこの工程のことかなと思いまして書きこんでみました。


[1642]  名前  [泊瀬女]  08/17

伊勢神宮の創祀者とされる倭姫命のお名前が、普通名詞であるとか土地の名であるとかの説があるのは知っています。神名・人名のことは本当に分かりませんね。倭姫様も実際に何という名前だったのか。ひょっとすると本当にヤマトちゃんだったかもしれないし、誰かさんが言ったようにワヒメさんと呼ばれていたかもしれませんよ。
天智天皇の皇后も倭姫ですね。倭姫という名がなかったとは言い切れませんでしょう。
神様の名前も錯綜していて、五十猛さまだって大屋毘古ともイタテとも云うのでしょ。他の呼び名もあるのでしょうか。
以前、私の母方の家系図を整理したことがあります。親戚に伝わった家系図をつき合わせていったのですが、合わない名前があるのです。家系図に載っている名前、戸籍上の名前、周りの人達が呼んでいたという名前がみんな違っていました。出身地の古老に聞いたら地元で使っていた名前が他にもあり、一人の人間に4つの名前がありました。私のひいおじいさんです。もっと前の女の人なんて家系図には「〇〇の女」とか「××室」としか書いてなくて何という名前だったのかすら分からないのですよ。「女」だけの記載もあります。ホント、失礼だわよ。ことほど左様に、名前の虚実なんて確かめようがないのです。
天照大神を奉じて各地を巡幸し伊勢まで行ったと云われる「あの方」はやはり倭姫様とお呼びしましょうね。
蛇は怖いですよ。誰が何と言っても嫌いです。
神様がたにまつわる蛇のお話はあまり深く考えないようにしてます。だって蛇にまつわる伝承を持っているがゆえにその神様まで嫌いになったら困りますもの。
そういえば、日下倭人さんが三輪山に登った時、白蛇を見たんですって。奥様がびっくりして走って逃げたそうです。これはきっと三輪山の神様ではないでしょうか。怖いけど、これはちょっと羨ましくもありますね。
私は蛇はほとんど見たことがありません。あまりにも蛇を怖がるから、神様が見せないようにして下さっているのだと理解しています。
怖いと云われているミシャグチの神様だって、イタズラ好きのお茶目な神様ですよ。
元伊勢シリーズ、次は木の国ですが、管理人さんの手前ヘタなことは書けませんので慎重に調べ直しています。愚問(アレッ!愚紋?)にメゲているわけではありません。
暑さでちょっと頭がボケて、ノーテンキなお話で失礼しました。


[1641]  下戸  [なにがし]  08/17

マルヤ様
お盆休みに天野山金剛寺に初めて行ったのですが、下戸の私が朝っぱらからビールをコップ1杯飲んだもんですから、頭がグルグル回って丹生神社まで登る元気がなく、お寺の由緒も聞かずに帰りました(自宅に帰ってからマルヤ様のHPでお参りさせて頂きました)。女人高野って書いてあったので高野山から歓請した丹生神社でしょう。返る途中もう限界とばかり、酔っ払いの私は道端でしばらく寝ておりました。昔はかなり大きなお寺だったようですね。今でも大きいですけど。
お寺の御住職は仁和寺の門跡さんですので、なにやらいにしえの御縁を感じます(丹生都姫神社の人事権など高野山の実権は仁和寺が握っていたんですよ。伊都郡の天野付近は御室領なんです。1280年ごろからは実権は高野山に移りますが丹生氏の神職はそのまま維持された様です。と言っても南北朝時代丹生総神主家は藤原姓を名乗らされていたようですので、ほんとに権力はなく、時代の流れにまき込まれていたようですね)。
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[1639]  神功皇后の念持佛  [マルヤ] [Url]  08/17

盆休みに奈良国立博物館へ行き、吉野・光明寺に伝わる波宝神社の宝物の仏像を見てきました。
それは神功皇后が新羅より持ち帰ったとされる黄金佛で、桜花紋入りの白旗(絹地で7尺2寸×幅1尺3寸)と共に、波宝神社に皇后から下賜されたものと伝わるものです。
明治の廃仏毀釈の折、波宝神社神宮寺から里寺の光明寺に預けられ、神功皇后の念持佛と云われ大切に保管されていたそうです。(この前までは東京に貸し出され、今は奈良国立博物館に貸し出されている)
この仏像が世間に発表されたとき大騒ぎになり、韓国からも学者が何人も来て、「元々韓国(朝鮮)のものだから持ち帰る」
、「祖国に帰ればすぐ国宝になる一級品の文化財」などと言われ、現時点では日本の国宝には指定できない事情があるらしいのです。
この仏像は高さが30センチ足らずの金銅製で、日本側の調査では8世紀の新羅産とされ、4層にも金が渡金されていて、今でも眩いばかりに金色の光を放っており、博物館では「釈迦如来立像」と表示されていますが、お姿、表情とも実に素晴らしい如来像で、しばらく見とれてしまいました。
〇展示場所は奈良国立博物館・旧館常設展示場、入り口すぐ左側付近。・・・(春日大社の近くです)

ところでこの仏像が保管されていた西吉野村の光明寺、ここのご住職は詩人で、「浄化の怒り・不動尊」、「密教への道」、「弘法大師空海全集」などの著者でもある、村岡 空氏でした。
私が「河内長野に住んでいます」と申し上げたら、「近くの寺は何処ですか?」と聞かれ、私が「近くで有名なところでは天野山金剛寺です」と言いますと「堀さんのところですね。よく存じ上げていますよ」と知己のようでした。
なにがしさん、天野山金剛寺の御座主はやはり、なにがしさんご親戚の堀様なのですね。


[1638]  Re[1615]: 元伊勢について 3  [Setoh]  08/17

泊瀬女さん> 崇神天皇の時、天照大神の御魂代を豊鍬入姫に託し倭の笠縫邑に祭ったのをはじめとして、途中で垂仁天皇の皇女倭姫に引き継がれ・・

祭った姫の名ですが、豊鍬入姫は崇神垂仁天皇系の名ですが、倭姫と言う名は土地の姫の名です。と言うことは天照大神は地祇であったことなります。最終的には伊勢で落ち着いたとのですから、海との関わりが濃いところから見ますと、南方系の人々の祭った神かも知れません。初めから崇神天皇の宮殿にはいなかった蛇神の天照大神だったかも。荒祭宮は蛇神だとの説はなかったですか。

 一般に南方系は蛇神(naga)信仰と言われ、大和の先住の長髄彦のnagaの名前が出てきます。また三輪山の神が蛇形であった説話や『日本書紀』雄略紀に少子部スガルに三諸岳の神の形を見てビックリする話があります。異伝に墨坂神とあります。榛原の東すぐの朱色のきれいな墨坂神社は蛇嫌いの泊瀬女さんのことですから既に参詣されているでしょうが、蛇神かも知れないってご存じでした。

 諏訪のミシャクチは赤蛇だそうです。信濃の式内社に墨坂神社があり、大和からの移住説ですが、これは要再検討ですね。


[1637]  中村さんメールありがとう  [桃色蜥蜴]  08/16

嬉しかったです。中村さん これからもご教授宜しくお願いします。
瀬藤さん
蛇神伝承ですか?私も前から気になってることがあります。
引馬神社(愛知県宝飯郡御津町御馬)の末社に蛇毒神っていうのあるんです。
例の『神社を中心とした宝飯郡史』でも、太田亮さんも不詳としているんです。
瀬藤さんの説参考に再考してみます。
それと、昨日の中日新聞(ローカルですみません)の連載記事『いまどきの東海道』で三河二ノ宮・知立神社が「蝮よけのお守りで有名」だって書いてありました。
蜥蜴よけじゃなくてよかったよ(笑)。でも、全国の神社の中にゃあるのかな?蜥蜴よけのお守り
なんてくだらないことにはのらないでください。でも、情報あったら欲しいよ〜
その神社には、裏口から参拝します。桃色蜥蜴としては...鳥居くぐった途端、干乾びたりしたら困るから あ〜ぁウロコが痒〜い、これは日焼けか
ほんとにありがとう。中村さん
蜥蜴のウロコじゃなくて、目からウロコ落とせそうです。


[1636]  Re[1635]: 中村さん瀬藤さん  [Setoh]  08/16

 桃色蜥蜴さん、お気になさる必要はございません。
 神職の方が本名で登場されることは珍しいことと思います。通りすがりのチョットと言う感じで恐らくは匿名でヒントをくれたりでしょう。中村さんも今後機会があれば匿名でをお勧めしました。

 所で、古事記の伝本で良質とされているのが「真福寺本」だそうです。角川文庫もこれを基本にしていると序文にかいてありますが、同時に他の伝本を校訂を加えたと書いてあります。
 角川では、熊野の山中で八咫烏に道案内を命じるのは高木大神となっていますが、真福寺本では、木大神となっているそうです。神武東征記の熊野辺りの話の中に、木の国の神や紀氏が登場してこないのはおかしいと思っていたのですが、「木大神」なら、大屋毘古神や国懸神などが考えられそうです。

 ついでにローカルな話ですが、南紀の勝浦と新宮の間に三輪崎と言う岬があります。この辺りには蛇神伝承があったようです。現在は八幡神社になっているのですが、上諏訪神社、下諏訪神社がありました。祭神に経津主神が勧請されています。安房国の人の仕業のようです。
 経津主神=剣=蛇=竜=建御名方神と言う連想が働きます。布留川上流につながるのかも。


[1635]  中村さん瀬藤さん [桃色蜥蜴]  08/16

瀬藤さんすみません。言葉足りませんでした。
中村さん
靖国問題について言ってるのではありません。崇神についての見解について、お聞きしたいんです。


[1634]  Re[1633][1632]: ??? [Setoh]  08/15

玄松子さん>楯井神社
 流石ですね。熊野大社の摂社の伊邪那美神社の祭神と合祀された神社の祭神を熊野大社主典の中村様がひつつひとつつきあわせをされて、残ったのが伊邪那美神社の五十猛命対楯井神社の大田命であったことが発端です。明治41年に熊野の里の太田と呼ばれる地区にあった小祀であった楯井神社などを合祀しています。
また、熊野氏子太田地区の更に奥へ行ったところに昔「イソタケ」と呼ばれた地区があり、現在も五十猛命を祀っている御神木があるだけのような祠に近い物があるそうです。「伊達」「安達」の2氏の苗字が多いそうです。この地の人々が、太田地区に移住して来て、元々鎮座している楯井神社の大田井命を五十猛命として仰いだと考えられるのではないだろうか、と推測されています。
 
 瀬藤としては、かねてから大田、太田と五十猛命との関連を『播磨風土記』揖保郡太田の里に記載されている紀の国の名草の太田、呉の勝の渡来の話、更に五十猛命を祭神とする伊太祁曽神社が鎮座していたとの古伝などを組み合わせて、上記の熊野大社主典の中村さんが今回の御研究で打ち立てられた「五十猛命説」を応援したいと思っています。
 各地の神職さんが中村さんのように地域の祭祀を掘り起こして頂けるようになれば、実にありがたいですね。


[1633]  Re[1632]: ???  [玄松子]  08/15

> 私も当社の摂社の御祭神大田命は一般論では猿田彦命ですが、今回研究し、五十猛命説を
> 打ち立てました。

式内・楯井神社の祭神のことですかね、これ。
「タテ・イ」が「イ・タテ」ということかな?


[1632]  ???  [中村]  08/15

桃色蜥蜴さま>Setohさんの[1629]『 Re[1628]: 靖国 』で靖国について終わりに
しようと言われたことに対してですが・・・。
意見がある方に対してはお答えしますが?
一線をひくという事は現在の一般論は多くの資料のもとに成立したものであり一人の研究
よりも長く研究されてきたことが公的に認められており、確かにもしかすると『逆説』が
正しいのかもしれませんが、一般論として成立しないことを考えますとやはり慎重に見な
いといけないのでは?ということです。
私も当社の摂社の御祭神大田命は一般論では猿田彦命ですが、今回研究し、五十猛命説を
打ち立てました。これも小さな逆説ではないのでしょうか?新しい説はなかなか認められ
ない物ではあります。それを実感しておりますので、このような事を発言しました。
お気を悪くされてしまったのでしたら、申し訳無く思います。失礼致しました。


[1631]  禊ですか?  [桃色蜥蜴]  08/15

『逆説』については、大本営発表とも絡めて書かれているところあります。
ご自分の意見だけ述べて、『終わりにしましょう』ですか?
記紀の成立大本営発表と軸を一にするのでは?


[1630]  終わりましょう  [中村]  08/14

神職をしている立場では神社愛好家としてすべての神社を愛してほしいものですがそれは
それぞれの考えですね。
私自身としては争いごとが好きではないので(誰もそうでしょうが)靖国に関しては教訓
として同じことを(戦争を)繰り返さないことを日本に限らず世界的に平和な世の中に
なってもらいたいです。ただただ、平和に暮らせる日々を祈ります。
以上。

ところで私の五十猛命の研究はあんな内容で役に立てるのでしょうか?
お恥ずかしい限りです。


[1629]  Re[1628]: 靖国  [Setoh]  08/14

 戦死者をきれい事にしてしまうのは靖国の本質をはずしてしまいます。

 ビルマ撤退作戦での敗走の道は何という名前で呼ばれたのでしょうか。「靖国の道」です。
虫けらの如く多くの兵士が、一家の大黒柱であるべき兵士が、後ろ髪を引かれつつ死んでいったのです。手紙も残さず、遺骨も残さず、中には女を知らずに死んでいったのです。
 死ななければならない状況に追い込んだシンボルが東条英機なのです。彼を怨んで死んでいったのです。
 中村さん、神職さんとしては、靖国のことは口に出せないものです。 言えば、お書きいただいたように言わざるをえません。
 しかしそれが、神社一般への日本の多くの人々の偏見となるのです。その意味でも靖国の存在は、私のような神社愛好者にとっては、あまり好ましいものとは評価しにくいのです。

 中村さん、反論はおありでしょうが、靖国の件はこの辺で終わりにしたいと思いますがいかがでしょうか。


[1628]  崇神天皇について(私的ver)  [中村]  08/14

今度は神職の視点ではなく個人としての意見を述べさせてください。

まず『記紀』について2書の違いから考えますと、『日本書紀』は原本は漢文体で書かれ
ていることから、天皇の権力・由緒などを強調し当時の大国(中国)を意識して作られた
ものと考えています。ですから、この点を考えますと、Setohさんや玄松子さんと
同じような意見です。
また、『古事記』は完全な漢文体ではなく国語的表現も使われており、日本の神話を始め
中巻以降の歴史的話は『紀』に比べ大国を意識せずに作っていると思われ真実に近い物が
あるのではないかと思います。
また、『逆説〜』についてはタイトル通り逆に考えて論しているのでありますから「こう
すればそうなってた」「実はこう考えていた」と読み物としてであり古文書や史書とは
一線ひいて考えたほうが良いかも知れません。

靖国神社については神社として述べさせていただきますが、神道として反してはいまん。
神社本庁を本宗として全国の神社は各県の護国神社をそして靖国を支持しております。
戦没者は何かを恨み散っていったのでしょうか?いいえ、彼らは愛する国を祖国にいる
家族を守るために散っていったのです。私も特攻に行く前の手紙や詩を集めたものを持っ
ていますが、彼らは一心に家族を想い散っていったことが分かります。祖国を守るこれは
日本だけじゃないほかの国々も同じように考えています。
彼らは愛するものを守ることに命をもやした漢(おとこ)たちです。
彼らの遺した手紙などにはほとんど「靖国で待っています」等の言葉が使われています。
敵地で散っても魂は日本の靖国に帰る。戦友と共に家族が参ってくるのを待っているので
す。それはマインドコントロールでもなけれな強制でもありません。ただ国宗が神道に
偏ったので靖国となっただけではないでしょうか。
みなさんが神社に、神道に興味がおありでしたら今日の神社神道をもっと知ってみては
いかがでしょうか。神社(神道)としてのこの問題についての資料が各県の神社庁でも
無料で配っている冊子が何冊か出ているはずですのでご覧になってはいかがでしょうか?

長々となりましたが、崇神天皇の個人的意見そして靖国神社の神社神道としての意見を
述べさせて頂きました。


[1627]  Re[1625]: 崇神天皇について  [Setoh]  08/14

出雲國一之宮熊野大社の中村様、投稿ありがとうございます。
また、熊野大社のHPの発足、おめでとうございます。

 『日本書紀』によりますと崇神天皇は「神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず」として、天照大神と日本大国魂神を宮殿から出しています。神を遠くに追いやる話は、「出雲国造神賀詞」を思い起こしますが、去っていく大国主神は守護の対象である皇室の祖神ではありません。これから連想しますと崇神天皇は、この二柱の神を追い出しているわけですから、[1619] で玄松子さんが書かれている通り、天照大神や日本大国魂神の後裔とは違う系統の出自であるとの認識が『日本書紀』編集者にあったのではないでしょうか。

hin(かよ)さん、こんばんは。
 所で、時事問題化している靖国神社で不思議に思うことがあります。祀られている戦死者の多くは、怨みを持って飢え死にしたり、戦地で病死したり、戦死したりしている日本軍の兵士が多いのです。一体彼らは誰を怨んだのでしょうか。敵国でしょうか、天皇でしょうか、それとも戦地へ派遣した日本軍でしょうか、人それぞれでしょうが、東条英機に怨みを懐いて死んだ兵士も多かったものと思います。その怨霊鎮めの神社にまさか東条英機が合祀されました。
 これでは怨霊鎮めの役割は到底果たせるはずがありません。
 また、戦犯として全責任をかぶって絞首刑になった東条英機も不本意なことでしょう。
 かねてより、神社は社会的な(勿論宗教的な)存在だと思っていますが、このような靖国神社のやりかたはどう見ても神道のありかたから逸脱しているように思えてなりません。傾国神社ですね。


[1626]  Re崇神天皇について  [桃色蜥蜴]  08/14

『逆説の日本史』の主として『T』で、井沢元彦さんが、天皇の諡について書いています。
あの説発展させれば、実は、崇神は、神(特に縄文以来の神)を崇めていなかったのでは?
記紀の成立考えますと、私は、そのように思いますが


[1625]  崇神天皇について  [中村] [熊野大社] 08/14

少し前のログにあります皇太神宮と崇神天皇について神道教化学からの視点で語らせてください。

崇神天皇以前は、ご存知方もいると思いますが、天照大神の三大神勅のひとつであります「天照大神寶の鏡を授け給う神勅」にもありますように「吾が御子此の鏡を見まさむことまさに吾を見るが如くすべし 共に御床を同じくし御殿を一つにして斎いの鏡となすべし」という同床共殿の祭祀をしてまいりました。そして崇神天皇は漢字からも分かりますように神様を厚く信仰しておられ、同じ寝床で、同じ社殿で生活するのは恐れ多いと感じられ、崇神天皇6年に特別にお宮を造営しようと考えられました。
その後はご存知の通り各地を天照大神のご意向のもとに転々としながら現在の伊勢の「うまし処」にお鎮まりになられたわけであります。

私の専門分野が神道教化と神道祭祀概論なもんで神職としての視点から述べさせて頂きました。


[1624]  歴史は難しいから 連想して [hin(かよ)] [Url] 08/14

いや〜〜、このところの靖国神社問題を耳にしますと、やはり 神社って、日本人にとって 何なんだろう?とあらためて考えさせられます。
ここは 古代の神社がメインですが、現在の我々に何が引き継がれ、また 将来どう神社と向き合うか!を考えていまいます。
すんません、横からチャチャでした^0^


[1623]  Re[1622][1620]: 歴史は難しい  [なにがし]  08/14

おはようございます。今は朝11時、寝苦しくて4時間しか眠れず起きてしまいました。

> 『続風土記』に言う「総神主以下神参後於紀川垢離於三谷村石口瀧祝言」の「三谷村石口瀧」とはこの滝のどれかのことでしょうか。
これは七尋の滝だと思います。これに関する資料は「続風土記」しかありません。地元の方に聞いたところ砂防ダムの奥との事で、酒殿社から南に300〜400Mのところにあります。写真は近々HPにアップする予定です。ちなみに砂防ダムができたおかげで近くには行けず、上の道路から撮りました。

> > 風土記に記載されている丹生祝本系帳の内容からだと偽作の可能性が高い
> この文章の主語は「丹生祝本系帳」ですね。
そうです。断定はできないのですが。今までの資料でそう思える部分を羅列します。
●「紀伊続風土記」には「総神主系図第九 丹生祝氏文」とあるのに、総神主家だけでなく、丹生相見氏の家系まで書かれ、また最後には不自然な書き出しで丹生人と言う姓についても書かれている。
●その文章の総神主家の家系についてはこれを書いたとされる天平12年(740年)の伊賀津なる人物がもし存在していたとして、総神主丹生真人が天平2年に総神主を相続しており、天平12年で真人50歳であるので、伊賀津はおじいさんあるいは100歳まで生きていたとしても真人より2代上となります。この2代の間に12人もの子孫がいます。総神主家の家系で男児が3人あったのは一人だけで、それ以外は一人か二人。つまり、家系的に12人と言うのは異常で、かつその中に真人やその子供の名前が入っていないと言う所が非常に不自然です。
●丹生文書は1100年以降がほとんどで、1100年までの文書は740年の告門、800年の丹生祝本系帳だけです。

大筋は以上の通りですが、細かく書くと面倒なので書きませんが、つまり丹生総神主家の家系図でありながら、総神主家の家系が正しく書かれていないのです。
恐らくは、1280年までに書かれたもので、その当時武士集団としてこのあたりまで進出し氏長者(経済的支援者および神馬の世話担当)となっていた坂上氏と高野山と丹生神主家(総神主氏および相見氏)がみんなで作りあげたものではないかと思います。
すべてが作り話だとは思いませんが、高野山としては丹生津姫神社の格上げとともにその祭祀者である丹生氏の格上げが狙い、坂上氏については後発であったため社人として昔からいたとされる文献(丹生人の部分)がほしかった、丹生氏としては武力では坂上氏の支配をうけ、権力では高野山の支配をうけており、権力はなかったのですから従うほかなかったのでしょう。

参考に坂上氏について
坂上氏は応神天皇20年、後漢の霊帝の曾孫阿知使主の子都如使主を連れて日本に帰化。都如使主は現和歌山県橋本市に住んでいたようです。空海の当時田村麻呂を輩出しております。また同じ時代に豊田丸がおり、彼は高野山創建時経済的な援助を行っております。覚鑁上人の「打聞集」には、かつらぎ町において坂上氏は生え抜きの土豪が成長して氏長者となったものではないと述べています。恐らくは、高野山ともども天皇家との関わりの強化、勢力拡大を目的に丹生津姫神社を政治的道具として利用しようとしたのでしょう。1280年ごろには高野山と坂上氏は対立し、坂上氏は氏長者からはずされています。


[1622]  Re[1620]: 歴史は難しい  [Setoh]  08/14

> 丹生酒殿神社の近くにある七尋ノ滝の写真をとり、また酒殿社横の小さな滝=「宮の滝」

『続風土記』に言う「総神主以下神参後於紀川垢離於三谷村石口瀧祝言」の「三谷村石口瀧」とはこの滝のどれかのことでしょうか。

> 風土記に記載されている丹生祝本系帳の内容からだと偽作の可能性が高い
この文章の主語は「丹生祝本系帳」ですね。

泊瀬女さん、「歴史は難しい。」です。しかし、なにがしさんが書かれているように、それが「おもしろい」。神社は巡りは面白いし、神社も面白いですよね。愚紋に愚答しなかったのは流石。
余談ですが、ひきた神社の漢字は「乘田神社」です。「のぎへん」で探すと出てきます。

『元伊勢シリーズ』楽しみにしております。


[1621]  そォ〜〜ッかぁ……  [焼尻紋次郎]  08/14

 泊瀬女姐さん、サリセッセ、あがぁ〜あがぁ〜。

 ほこらが一種の神社だった時代もあったし、空とぶ鳥が神様だった時間帯もあったし、柱がプレ・
神社だったこともあった。
 しかし、神社が歴史のなかで最大の盛り上がりを見せたのは官営神社出現以降で(これもまた、見
方のひとつで)たまたま全国的に散布していたホコラや氏神をインドのシッダルタさん分骨になぞら
えた……このへんがおらにはコングラガリの中心部分にみえる。
 そういう視野・視角も一種の見方としてオモシロイし、ミナシャン夫々にとってヒントになる。
 そういうことカネ、サラセッセ。

 ところで、お盆でやんす。草葉の蔭から……という言い回しは日本人にとって馴染みふかい。これ
は佐賀に伝わる「葉隠れ」と関係あらへんやろか? その葉隠れの意味わかったよーー。
 クズともかかわる ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1620]  歴史は難しい  [なにがし]  08/14

実家から下道を8時間かけてやっと帰ってまいりました。
1)和歌山では図書館にて「紀伊続風土記」の伊都郡の部分をコピーしました。そのたの資料もコピーしました。風土記は仁井田好古の私見が入っていますが、昔の少ない情報の中での見解なのでイマイチでしたが、参考になるところもありました。風土記に記載されている丹生祝本系帳の内容からだと偽作の可能性が高いと思いました。あとほかの本で高野山の相浦に残っている山神の絵には、丹生津姫と思われる姫神が岩穴の前でたち、その横に岩を砕く道具が置かれ、またその前に狩場明神らしき男神が斧をもって座っていました。ちなみにその前には犬が2匹座っていました。
2)7月に丹生酒殿神社の近くにある七尋ノ滝の写真をとり、また酒殿社横の小さな滝を撮りましたが、この小さな滝は片方が大きな岩の壁となり、その上に木が生い茂り、非常に神聖に感じたのですが、暗すぎたのかフラッシュが効いていなかったようでうまく撮れてませんでした。そこで、今回再度写真を撮りに出かけたのですが、急に車のDVDの画面が消えたり、夕立が降って来たりで結局撮れませんでした。ちなみに、風土記で知ったのですが、この小さな滝は「宮の滝」といって、丹生総神主が6月晦日に胡瓜を供したようです。6月晦日まで丹生氏は胡瓜を食べなかったとの事です。ちなみに丹生総神主家の口伝では「丹生津姫が三谷の地に来たとき、食事に出すものがなく、瓜しかなかったのでこれを出すと、丹生津姫がおいしいと言って食べて下さったので、それ以降この家では6月晦日まで瓜?を食べないようになった」との事です。
3)マルヤ様の話で、大阪の天野山金剛寺に行って来ました。しか〜し、親戚の家で朝っぱらからビールを飲んだので、へろへろで丹生神社まで山を登れませんでした。仕方なく、金剛寺の写真を撮って帰ってきました。

歴史を調べると言うのは難しいですね。風土記で感じましたが、少ない情報で推測し、書かれている部分もあり、またその根拠となる記述が無いこともあり、それが正しいか調べる必要がある。また、その根拠となる元の古文書が分かっても、それが偽書なのかどうかを調べなければならない。しかし、その判断は非常に難しい。なぜなら昔の事など誰も分からないのだから真実はわからないのである。それが最近やる気をなくさせられる点でもあるのだが、ただ、それを言うと歴史の調査はなりたたない。つまり歴史と言うのはそう言うもので、いろいろな事実からつなぎ合わせて、それがつながる様に推測で書かれるものなのでしょう。少ない事実からは多くの推測のし方があるので、多くの見解があってもおかしくないと思います。それを「なるほど」と見るか、「それはどうかなあ」と見るかは読者の判断にゆだねるしかないのでしょうね。歴史って難しいですよね、だからおもしろいのかも知れません。


[1619]  Re[1616]:泊瀬女 書け書け  [玄松子]  08/14

「選手交替」ということではありませんが、
ここにある質問は、どれも神話・伝承の類に関するものなので、泊瀬女さんの言われるとおり、「答えは出せ」ないと思いますよ。
邪馬台国は何処か、に似た質問ですね。仮説を立てても、反論も容易です。正解はむずかしいですね。

> ※ スジン天皇のおやっさんは誰れかいな。
> ※ その親ッさんはアマテラスをまったく気にしなかったんカネ。
> ※ スジン天皇はなんでまた、「どっかこかの土地へもってゆけ」と追い出しにかかったんカネ。
> ※ 最初にあったアマテラス神社はどこだったんカネ

崇神天皇は、第十代天皇ですが、ハツクニシラスとも云われ、初代天皇のように扱われます。
それまでと違う系統の出自なのかもしれません。そういう意味で、当時まで宮中に祀られていた天照を外に出したのは、「旧勢力を追い出した」と見ることも、「神意による祀りなおし」とも取れます。
また、天照を豊鍬入姫によって笠縫邑に祀らせると同時に、大和大国魂神を渟名城入姫によって長岡岬に祀らせています(現・大和神社)。さらに、三輪の大物主も大田田根子に祀らせています(現・大神神社)。
天照(伊勢)だけのことではありません。単なる、「祀り好き」だったのかもしれませんし、深い意味があるのかもしれません。


[1618]  風のまにまぁ〜ぁに、吹き曝しカネ  [焼尻紋次郎]  08/13

 「逃げた」たぁ、思いたくねぇが、質問、ムズカシかったんやろか。
 神経の塩漬けもタマランやろが、おらの質問はトンガラシ漬けに相当した……んやろかね?

 サラセッセ、サリセッセ、「選手交替」で、少しでも宜かっちゃ、この際少しお教えたもれ。

 どこまで厚かましいのか……だってぇ? シラン!


[1617]   Re[1616]: 泊瀬女 書け書け  [泊瀬女]  08/12

あのね、伊勢神宮の変遷については古事記、日本書紀、神道五部書倭姫世紀などに記述がありますが、それが歴史的真実かどうかはたぶん誰も答えられないと思います。
伝承、言い伝えの世界ですからね。でも、神社がある、これは事実。
事実と空想を合わせて、さらに空想を広げる・・・ということ。
従って、アイソナシで申し訳ないけど、ご質問に対して答えは出せません。


[1616]  泊瀬女 書け書け  [焼尻紋次郎]  08/12

 泊瀬女の姐さん、好きなことたぁいえ、オタキ吐かせた MAPHI RA なも。
 聞けばきくほど、なんでそーゆーこと言えるのかがワカランようになる。ここに紋次郎ちゅうアカン
ぼうが生まれたと、こう思いなせぇ。ただ、こいつぁ生まれながらに日本語がわかる。そーゆーアカン
ぼうにお教えたもれ。

※ スジン天皇のおやっさんは誰れかいな。
※ その親ッさんはアマテラスをまったく気にしなかったんカネ。
※ スジン天皇はなんでまた、「どっかこかの土地へもってゆけ」と追い出しにかかったんカネ。
※ 最初にあったアマテラス神社はどこだったんカネ
※  「伊勢に落ち着かれるまで遍歴された26カ所とも27カ所ともされる奉斎地を、伊勢の元の地とい
   うことで元伊勢と称します。」……とありやすが、
   そういうことは、どこに(何という書物に)書いてあるのカネ。
   先日訊いたときはサラセッセも「それは○○と△△……26〜27箇所だ」と明快な返事はくれ
   なかったが、どういうイキサツやったんカネ。
   「称します」とは、その大昔から「モトイセ」の通称はあったという意味じゃろか、将又、後世
   の読書家が呼んでいるだけ……やろか。
※ 奉斉とは? 意味がハッキリしねぇ。いちいちヤシロを建てたのだろうか? 
※ 次ぎから次ぎに祭ってる土地を換えた理由は何じゃろカネ。
  スジン天皇にしてみるとアマテラスがけったいな神様だった……と、しよう。ところがその土地人
  にしてみたら、スジンから睨まれた旧王朝の神を祭ったらスジンから睨まれる……だったんやろカ
  ネ。
※ 27箇所としやしょう。すると、この27箇所はアマテラスの息が強くかかっていた土地柄だった
  ……は、言えないのカネ。これらに共通な地方性なナンダ。
※ 三重の今の土地なら、絶大な「あがり」が期待できるし、実際にちょとやってみたら、熊野への街
  道筋やし、十分なミカシメ料が入ってきたので、スジン天皇もきげんよくウンウン言うたんとちゃ
  うやろカネ。
※ 元伊勢 1〜3 の区分はナニに拠るもんですカネ。
 あと73日後ぐらいまででいいですので、部分的に気の向いたやつを蹴っ飛ばしてくだされ。
 ドシロートのレベルわかったカネ。
                       ☆ BADSAHA……王
                       ☆ BAD(神)・SE(セニョ〜ル)
                       ☆ オタキ……イタキソ様とは関係あらへん。


[1615]  元伊勢について 3  [泊瀬女]  08/11

伊勢神宮の変遷について3〜7回にわけて・・・との紋次郎さんの要請ですが、詳しく解説するほどの知識を固めていませんので、簡単に書きます。
元伊勢シリーズでできるだけ書いていきますが、まだ調査中ということで、おかしな箇所があったらご指摘ください。

伊勢神宮は最初から今の三重県伊勢市に鎮座していたのではなく、崇神天皇の時、天照大神の御魂代を豊鍬入姫に託し倭の笠縫邑に祭ったのをはじめとして、途中で垂仁天皇の皇女倭姫に引き継がれ大和、伊賀、近江、美濃と各地を放浪すること89年、伊勢の地が神慮にかない五十鈴の宮に宮処を定めた・・・とのこと。
伊勢に落ち着かれるまで遍歴された26カ所とも27カ所ともされる奉斎地を、伊勢の元の地ということで元伊勢と称します。

元伊勢3として、崇神天皇43年から51年の8年間、豊鍬入姫が奉斎した
伊豆加志本宮(いつかしのもとのみや)の伝承地
1.長谷寺(桜井市初瀬)
2.与喜天満宮(桜井市初瀬、泊瀬山南麓)
3.関連の考えられる神社として滝蔵神社、長谷山口神社、ひき田神社など
4.笠縫邑と同じとの説

このあたりは、隠国の泊瀬(こもりくのはつせ)と云われる地で、伊勢街道(初瀬街道)の出発点ともされます。泊瀬女の名にゆかりの地です。ゆえに思い入れも格別深いのです。

元伊勢2でsetohさんご指摘のとおり、豊受大神(外宮)関連の神社は、ある意味では元伊勢ではありますが、私が目標とする豊鍬入姫・倭姫の巡幸の地ではありませんね。
筆ならぬ指が走りすぎました。由良の奈具神社、峰山の名木神社についてご指摘ありがとうございます。
でも、こうして書くことにより、中途半端だった認識がかなり固まって来ます。


[1614]  アハァ〜ン、そーゆーコンタンだったのか  [焼尻紋次郎]  08/11

 泊瀬女ちゃん、あが。
 ミナシャンの楽しいお喋りのなかに、ギグギグする神様の名前が聞こえてくるので、おらは「なんじゃ
ろか、なんじゃろか」と、薄々気になりながらも、これまではあまりにも神様の名前の意味バッカスを追
い掛けまわし過ぎたキライこれあり。
 おらも、泊瀬女宮の女神主さぁのお話きいて、ふと興味をもってみようカネ。
 だども、おらホナコツ、シランかっとってんですばい。ウソ言わんっちゃぁ。
 「イセ神宮の変遷についてのなが〜〜いお話」……3〜7回にわけておっぴろげてくりゃれ。

 空想が許されるとのこってござんす。伊勢設置のナリユキのおらのカングリはこうだ。
 まんず、ゴトビキ派とナチ滝派がケンカした。だが蟻の行列は絶えない。そこで新宮トンビを作って油
揚げを狙った(「山道よりも海岸伝いのほうが安全だよ」)……が、こんどは三位一体が三つ巴になって
ケンカする。それでも蟻の行列は絶えない。
 そこで、いよいよ海岸べりで、「ここ詣ったらあと三つ詣るのと同じご利益がありまっせ」……と、現
伊勢さまを持ってきた。
 こんなこと言うとバチ当たるカネ。
                ※ スジン様が朝鮮語で50という意味であること、5年前に発見せ
                  り。サイサイの「五十文化」あるね。
                ※ “豊”の意味、いまだに掴めずザンネン至極。さかんに美称とし
                  て遣われているのだが……。トヨスキのスキは STA(最上級)の
                  意味と懸け言葉になってるよ。コレ。
                ※ スジン天皇もハツクニシラスではなかったカネ。この天皇様は
                  実在だと、おら惟ふ。
 アメノコヤネ……意味わかったよ、見においで; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1613]  祖父からの伝承  [桃色蜥蜴]  08/11

よくいわれるように神農=新皇=将門と聞いております。
いわゆる否定住と言うことで薬屋(薬師)も同様に神農を祀っています。
蝦蟇の油売り等、香具師配下でもありますし、種々混同が生じたと思います。
私は、本来、火明命―丹波道主(カグヤ姫)―朝廷別王(本牟津別王)という線だと思っています(穂国=東三河に限られるかもしれませんが)。
ちょっとそれますが、漂白の民・サンカについても同様(かぐや姫→竹取の翁→箕作り&=道宗=酒呑童子→弥彦山で生)と考えております。
ちょっと答えになっていませんが
おりおり書きこみます。


[1612]  Re[1601]: 元伊勢について 2 など  [Setoh]  08/11

桃色蜥蜴さん> 共有できる情報は共有
この掲示板のモットーです。ご参加、大歓迎です。
桃色蜥蜴さん> 穂の国の香具師
香具師の守護神とは神農さんでしたね。どうつながっているんでしょうか。例えば、
ヤシ → 薬師 → 神農さん と言うことでしょうか。
愛知県には見あたりませんね。大阪2、長野1と言った所です。


なちゅうーさん、お久しぶりです。
氏神様ですか。元々は一つの氏族が祀る祖霊を言っていたのでしょう。
物部氏と表現していますが、複数の氏族の集合体のようで、物部連とでも言うのが正しいのでしょう。

なちゅうーさん> ふつぬしの神、ふるのみたまの神、石上神が祭り神
布留宿禰が大和の石上神宮の祭神をふるのみたまの神として祀っていました。この布留氏と結びついた物部氏が、この神をふつのみたまの神(大蛇退治の剣)としたと言うことでしょう。また、ふつぬしの神とはふつのみたまの神と同義と見ていいのでしょう。
なお、石上神宮をして物部氏の氏神とはしていないようです。

泊瀬女さん> 7.奈具神社(舞鶴市?)
宮津市由良宮ノ上3537−1 にも 奈具神社が鎮座しています。小生の資料では今のところ舞鶴市には見あたりません。
泊瀬女さん> 元伊勢とは、豊鍬入姫・倭姫についての伝承がある・・・という条件です。
これは元内宮の場合ですね。元外宮を考える場合には、豊宇賀乃ヒ命が外宮より先に祀られていれば、とりあえず必要条件の一はクリアーですね。峰山町の名木神社なんかも豊宇賀乃ヒ命を祭神とする『風土記』ゆかりの神社です。


[1611]  Re[1610]: 誰かが歩いたら「もと」なんじゃろか   [泊瀬女]  08/11

> クワイレ・ヒメとワヒメは同一人物なんですか。別人としたら、このお二神様が歩かれた
> あとが、どうして「モトイセ」となるのでしょうか?

来たぞ、きたぞ、紋爺の逆襲だァ! 皆さァ−ん、紋次郎さんは分からないわけでもなく、読めないわけでもないんですよ。イジワル言ってるわけでもないの。初めてこの掲示板を覗いた人にでも分かるようにしろ・・・ってことなのよね。
そうよね、私だって数年前には何も知らなかったものね。伊勢神宮の倭姫宮の神職さんのお話を聞いてふと興味を持ったことが神社にのめり込んだきっかけだったんですものね。
伊勢神宮の変遷については、ながーいお話があるので、項を改めて書きましょう。

何事にもあてはまることでしょうが、ここでは神社にまつわる事柄を知ろうとする場合、伝承・文献から空想し、考察し、自分なりの仮説を立てていきます。
ああでもないこうでもないと考えるのが楽しいのです。
言語や音から組み立てていく方法もありますし、もっと深く考えて古代史の入り口として構築していく人もいます。どの方法も楽しいし、紋爺や私などボケ防止にもなるかもね。
私たちは学者ではありませんので、自由に考え言いたいことを言えます。
いろいろなアプローチがあって、それで互いに刺激しあって。
それぞれの考え方を尊重しあって、神奈備さんの掲示板は楽しいですよね。
私の神社に対する今の考え方は、まず神社に行ってみること。そこに祭られている神様のことを考え、空想すること。
土地柄やご祭神を少し知ることで空想(時として妄想)を広げるきっかけが与えてもらえます。理性的・学術的な方法は取れなくて、多分に感覚的です。

豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)崇神天皇の皇女
倭姫(ヤマトヒメ)垂仁天皇の皇女、豊鍬入姫の姪

歴史上、実在の人物かどうかは不明ですが、私は実在の人物として思いをめぐらせます。


[1610]  誰かが歩いたら「もと」なんじゃろか [焼尻紋次郎]  08/11

  クワイレ・ヒメとワヒメは同一人物なんですか。別人としたら、このお二神様が歩かれた
あとが、どうして「モトイセ」となるのでしょうか?
 アンタらがなにを根拠にそういう「分りきった常識」を展開されているのか、おらにはサッ
パリわからん。
           ※ このお二神(お一註?)はどのような理由で“イセ”と結びつくのか
             いざ、ありていに白状しなせぇ。
           ※ クワイレ、ワの一応二柱の性格……できたらこれも白状ねがいます。


[1608]  Re[1599]: わくわくします。  [Setoh]  08/11

> 本牟津別祭神にする神社ってありますか?

誉津別命を祭神とする神社を四社見つけました。

富山県射水郡大島町鳥取527
八幡社「誉田別命、息長帯比売命、誉津別命」

島根県簸川郡斐川町大字求院731
八幡宮摂社 鵠神社「伊邪那美命、誉津別皇子」

島根県出雲市所原町3549
富能加神社「本牟智和気命、肥長比売命」
鳥羽天皇以前に創祀

福岡県北九州市八幡西区大字則松縄手口864
高見神社「速玉之雄神 合 誉津別命」


[1607]  物部氏について。  [なちゅうー]  08/10

こんばんは。
物部氏について教えて下さい。
物部氏とはどんな方なんでしょう?
よく近所の神様のことを何でもかんでも、氏神と言いますが
これは実は本来は物部氏にゆかりのある神社
で使っていたものなのでしょうか??

後、物部氏ゆかり神社にはふつぬしの神またはふるのみたまの神、石上神社
の名前が祭り神としてでてきますがこの辺の関係を
ご存じの方いたら教えて下さい。

ではでは


[1606]  setohさんありがとう  [桃色蜥蜴]  08/10

私も参加できそうです。
元伊勢、出雲、丹波、それに迦具土で揃いました。
setohさんいいですか?参加させていただいても
穂の国(律令以前の東三河)の香具師の末裔の伝承
共有できる情報は共有 出し惜しみはしません
(詳しい資料は送信します。) なんなりと


[1605]  Re[1589][1585]: 出雲の元伊勢  [ふじた]  08/10

> ふじたさん>玉置神社の神職関係者
> 書き込みありがとうございます。 「神職関係者」とは神職さんのことでしょうか、
> HP作成なんかの出入りの業者さんのことでしょうか?

玉置神社の地元の方で、高校生時代には神楽も舞ったそうです。その後石上神宮で神職としてのトレーニング(?)を受けたということですが、フルタイムの神職ではなくパートタイムでお手伝いをしているそうです。


[1604]  Re[1603]元伊勢について 2  [泊瀬女]  08/10

> その27 まであるのかな。このシリーズ。

そのつもり・・・なんですが、甲賀・美濃・近江のあたりがちょっと不安ですね。
遠江の国にまで伝承はあるそうなので。
今のところ机上の空論的になるのでしょう。
実証は伴わなくても、この暑い季節クーラーをきかせた部屋で、まわりに地図や資料を散らかしてゴソゴソやっているのも楽しいものですね。


[1603]  Re[1601]: 元伊勢について 2  [玄松子]  08/10

> 行きがかり上、元伊勢伝承地をシリーズ化します。

その27 まであるのかな。このシリーズ。


[1602]  Re[1587][1585]: 出雲の元伊勢  [ふじた]  08/10

レスが遅くなりました(^^;;

> 「元伊勢」というのは、豊鍬入姫命や倭姫命の御巡幸した跡だと認識していたんですが、
> 出雲にも行かれたんですか?

一般論としてはそうだと思います。ということで、御巡幸を調べてみても出雲が出こないので調べあぐねているところです。

玄松子さんのページは良く参考にさせてもらってます(^^)


[1601]  元伊勢について 2  [泊瀬女]  08/10

行きがかり上、元伊勢伝承地をシリーズ化します。中には???というのもありますが、お許しを・・・
崇神天皇の皇女・豊鍬入姫は崇神天皇即位6年から39年までの33年間、天照大神を笠縫邑に奉斎します。39年から43年の4年間、但波の吉佐宮に遷ります。

但波(丹波)吉佐宮の伝承地は・・・かなり私見も含んでいます。
1.丹後・籠神社、籠神社・摂社 真名井神社
2.大江・皇太神社(元伊勢内宮)、豊受大神社(元伊勢外宮)
3.比治麻奈為神社(比沼麻奈為神社)
4.奈具神社(竹野郡弥栄町)
5.藤社神社(峰山町)
6.矢原神社(舞鶴市)
7.奈具神社(舞鶴市?)
8.大宮売神社?
9.天橋立・智恩寺?

丹波、丹後は豊受大神や羽衣伝説、浦島伝説など入り乱れて様々な空想を誘う土地柄です。
皆様にお願い。ここも元伊勢では・・・という神社、その他がありましたら教えてください。元伊勢とは、豊鍬入姫・倭姫についての伝承がある・・・という条件です。


[1600]  註釈のひつよう  [焼尻紋次郎]  08/10

 『かむなび』のカキコ読んでいたら、とくにオラの漢字知らずと非常識のなせるワザか、その
文章でナニが不明(モンダイ)なのか、推論としての領域はナニなのかがヨウとして掴めないこ
と……の連続ばかりです。

       ちょっと、テストかたがたやってみますが、左をぐぐ〜〜っとあけて、ハッキリ
       分っている部分とか、漢字の読み方、通説などに就いては、右下あたりへコメン
       トつけてくれるわけにはいかんですかね。
       ここはロマン展開が基本……とものたもうた。
       エラ〜〜イ先生ばかりが話す場では、こりゃロマンたぁ言えねべし。おらみてぇ
       なインチキ野郎にも解るようなコメントつけてくだせぇやし。
       そうすると、ワカラン・ワカランでも読み続けて行くうちにバカも少しバッカス
       利口になら。
       こんな調子…… なも。


[1599]   わくわくします。  [桃色蜥蜴]  08/10

丹波と出雲のつぎは、迦具土ですか。なんかわくわくします。Setohさん
足助八幡宮縁起に砥鹿神社の由緒、紀州に求めていますし、『牛窪密談記』にも紀州との関係書いたりますし、
穂別の祖・朝廷別王、実は、本牟津別王の誕生逸話 迦具土そのものですし、
朝廷別王祭神とするの宿のお宮だけですけど、ついでに聞いていいですか?
本牟津別祭神にする神社ってありますか?


[1598]  便利なWindowsの検索機能  [Setoh]  08/10

『古事記』の神武天皇記の不思議  神武天皇の表現について

1 東遷
神倭伊波礼毘古命そのいろ兄五瀬命と二柱、

2 布都御魂(フツノミタマ)と八咫烏(ヤタガラス)
神倭伊波礼毘古命・・熊野村に到り
神倭伊波礼毘古命・・伏しき。
【熊野の高倉下の登場シーン】
天つ神の御子の伏したまへる地
天つ神の御子その横刀を獲し所以を問ひたまへば
高木大神の命「天つ神の御子を、これより奥つ方・・」
石押分之子「天つ神の御子幸行すと聞きし故・・」

3 兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ)
八咫烏「今、天つ神の御子幸行(イデマ)せり。」
兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し

4 久米歌(クメウタ)
天つ神の御子の命以ちて、饗を八十建に賜ひき。
邇芸速日命・・天つ神の御子に白さく、「天つ神の御子、天降(アモ)りましぬと聞き」

【熊野の高倉下の登場シーン】から、呼称が、神倭伊波礼毘古命から天つ神の御子に変わります。神倭伊波礼毘古命は消えてしまいます。何故でしょうか? 高倉下の秘密が何かにおいませんか?

仮説としては、素直に、高倉下から布都御魂を受け取った事が、伊波礼毘古命をして天つ神の御子と認知されることになった。

もしくは、伊波礼毘古命は熊野で死に、高倉下が天つ神の御子として東征を完成した。これは古事記が書かれた頃は周知の事実として知られていた。天皇家や藤原氏としては具合がよろしくないので、天つ神の御子との一見正しい表現をして、読む人にいかにも、伊波礼毘古命が継続したように思わせた。

熊野は高倉下の支配する地域であったと見ていいのでしょう。この地域の花窟神社や産田神社の祭神に軻遇突智尊が祭られています。伊弉册命に縁の場所とされていますが、その関係で軻遇突智尊が祭られたのか、生まれたすぐの軻遇突智尊を斬り殺していますが、その扱いも、高倉下を隠したのかもしれない神武記と一連の動きかも知れません。


[1597]  ありがとうございます。  [桃色蜥蜴]  08/10

やっぱり宿のタミカワツだけですか。ミカドワケノミコト祭神とするの
盆休みに南北設楽郡の社宮司確認して、送付します。
ホントこのサイトには、感謝してます。


[1596]  Re[1588]: 出雲と丹波  [Setoh]  08/10

> それと、丹波道主王を祭神にする神社、朝廷別王を祭神とする神社について知ってる方いましたら、ご教授願います。

神社本庁発行の平成祭礼データから

朝廷別王を祭神とする神社
愛知県宝飯郡小坂井町大字宿字宮脇33
多美河津社(たみかわずしゃ)の一社のみでてきました。

丹波道主王を祭神にする神社は下記の四社。
岐阜県武儀郡武芸川町跡部703番地
大跡部神社(おおあとべじんじゃ)
祭神は「大跡部王子」で丹波道主王の別名。
ここは物部がにおいますね。

京都府加佐郡大江町天田内東平65
二宮神社「丹波道主命」

京都府竹野郡丹後町上野15
六神社「天照皇大神、譽田別命、天津兒屋根命、月讀神、豐受神、丹波道主命」

京都府熊野郡久美浜町小谷
神谷神社(通称:太刀の宮)
丹波道主命 配 八千矛神、天神玉命、天種子命
由緒
四道将軍中、随一と言う神谷太刀宮の祭神、丹波道主命が鎮撫のため、山陰地方に向われるに際し、出雲大社を奉斎する出雲地方の人々の心を和らげ、前途の平安を祈願し、但馬の国境である神谷の里に出雲国より、八千予神、天神玉命、天種子命の三座の御魂を迎え、久美谷川の清流の川上に社を創建奉斎されました。
丹波道主命は山陰地方平定後、国人となって永くこの久美浜の地に留まり、幽邃の地で海をかけ野をひらき人心の安定に当られ、遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国熊野の郷、河上庄(現川上地区)の豪族の娘、河上麻須郎女を妃として四子をもうけ給い、その御一人日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后に上がられました。命が去られた後、佩帯されておられた神剣「国見剣」を神璽として奉安し、小谷の里に出雲国の神々を合せ祀り、神谷太刀宮大明神と称え奉るを創始とする。


[1595]  Re[1594]: 元伊勢について  [Setoh]  08/10

元伊勢は多いのですね。そう言えば吉備国の名方の元伊勢の比定地が和歌山の海南市名高に坐した伊勢部柿本神社との説がありました。

現在の志貴御県坐神社の坐す所は崇神天皇の宮だった磯城瑞籬宮の推定地でもありますから、これが成り立てば出発点ですから、元伊勢とは言わないのでしょうね。
所で、泊瀬さんんはとっくにご承知のことでしょうが、志貴御県坐神社の坐す所は泊瀬の象徴である与喜山の麓の与喜天満神社だとの説があるそうです。(『大和・紀伊 寺院神社大事典 平凡社)
そうすると、元々ここに鎮座していた滝蔵神社(桜井市滝倉)もその伝承を持ったまま遷座したのかも知れません。

穴師坐兵主神社の元の場所候補も、掲示板[1127] 05/23で香具さんが行かれら巻向山にある『ダンノダイラ』か巻向山頂上か、または小川光三の言われる「ゲシノオオダイラ」なのか、特に後者はそれ以来確認できた人はいないようで、
泊瀬女さん> 気が遠くなりそうです。
と言われるのは実感できます。

元伊勢巡りとは伝承の地そのものを訪れるのか、はたまた遷座や合祀先の社寺を追いかけるのか、やはり現存する社寺と言うことになるのでしょうね。これですと何とか手が届くと言うか足が届きますね。


[1594]  元伊勢について  [泊瀬女]  08/10

泊瀬女という名を付けていただいた行きがかり上、元伊勢について何か発言しなくてはならないのでしょうが、これが調べれば調べるほど大変なことになっています。
崇神天皇の時、宮殿内から天照大神、倭大国魂の二柱の神をなぜ外に出さねばならなかったのか、神が天皇を嫌ったのか、天皇が神を嫌ったのか、諸説紛々。
崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命は父の命により天照大神の御魂を奉じて倭の笠縫邑に祭る。
この笠縫邑だけでも数ヶ所の伝承地があります。
1.大神神社・摂社 檜原神社
2.檜原巻向坐若御魂神社 (穴師坐大兵主神社に合祀・旧社地不明)
3.穴師坐兵主神社 (穴師坐大兵主神社に合祀・旧社地不明)
4.神浅茅原 (三輪山の西麓)
5.秦楽寺境内 笠縫神社
6.志貴御県坐神社
7.小夫天神社
8.笠山三宝荒神
9.多神社摂社 姫皇子神社
10.飛鳥坐神社
他にも、伝承地といわれる場所があるようです。現在鋭意調査中ですが、元伊勢といわれる伝承地を調べていったらどれだけの数になるのでしょうね。気が遠くなりそうです。
年内に、豊鍬入姫・倭姫の巡幸地を全部まわってみようと思っていたけど、こりゃ無理だわ。
とりあえず、9月になったら泊瀬(初瀬)を中心にボチボチ回ってみようと思っています。さしずめ泊瀬女の里帰り・・・ですね。


[1593]  Re[1592]: 「モト・イセ」なる発音が示すもの  [玄松子]  08/09

>  結局、モトイセとかで、イセがつくお宮は何軒あるのですカネ。

あまりくわしくないのですが。
前にも書き込みましたが、スセリさんのホームページに御巡幸先が載っています。
http://www1-1.kcn.ne.jp/~suseri/gojyunkou.html
ここで挙げられている「比定地」が、元伊勢だと思います。
ただし、個々の神社が「元伊勢」と称しているかどうか知りません。
また、別の比定地がある場合もあります。たとえば、第一番の笠縫邑は、通常、檜原神社ですが、飛鳥にあるとする説があって、飛鳥坐神社でも「元伊勢」と主張しています。


[1592]  「モト・イセ」なる発音が示すもの  [焼尻紋次郎]  08/09

 結局、モトイセとかで、イセがつくお宮は何軒あるのですカネ。
 「モト」は「國びと」「50人組みの人」「隅っこの人」も考えられますが、やっぱこれ
「元」でしょう。
 すると IS は“風”という解釈が出たのは、あとのことで、外国……とくに中東系の神々
を IS と総称していた……んじゃないかなぁ。
 IS が ISE になるのは強調形であって、意味は変りません。
 ここまで言うとコジツケ偏執となるが、エビスのなかにも IS があって、横浜の建林賢司
さんは BIS には「海外の、外国の」の意味があると言っておられる。この場合 B が迷子に
なるが……。
 「伊勢」は普通名詞である……これ,確定的じゃなかろうか。
  語源ムシャムシャ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1590]  Re[1589]: 出雲の元伊勢  [玄松子]  08/08

>  もしくは元伊勢と言われる神社の元社がかって出雲にあったとか、久留米の伊勢天照御祖神社が出雲経由で丹後の籠神社になったとか、文書に残っていない歴史があったのかも。

一般に、「元伊勢」と呼ばれる社は、崇神天皇の時代に、天照大御神の御神体を宮中から移し、その鎮まる地を求めて、豊鍬入姫命や倭姫命が御巡幸した地を言いますよね。
そういう意味で、久留米の伊勢天照御祖神社を「元伊勢」と表現するのはおかしいのではないかと思います。

ただ、天照大御神が現在言われている皇室の祖神としての女神ではなく、天照国照天彦火明命などにそのオリジナルを求める説もあります。そういった天照大御神「以前」の、天照の神という意味で、「元」ではあります。


[1589]  Re[1585]: 出雲の元伊勢  [Setoh]  08/08

出雲の松江市の真名井神社の由緒書きには「伊勢」と云う言葉は見あたりません。
大社町杵築西に森荒神社が鎮座、祭神は天照大神で、通称を「お客さん」と云います。巡幸跡を匂わす呼び方ですね。鎮座場所は出雲大社の南側と言えます。
出雲ドームに近い出雲市里方町の高濱神社は祭神は天照大神、通称を「高濱伊勢宮」と云います。藤原氏の専横にごうを煮やした橘末麻呂が延暦六年、伊勢大神宮を勧請とありこれは違うのかも。
出雲市大島町の大島神社も祭神は天照大神、通称は「伊勢の宮」ですが、由緒不明。
出雲大社の鎮座地極近くが真名井ですから、出雲大社そのものか、天照大神を祭神とする摂社の下宮だったのかも。

 もしくは元伊勢と言われる神社の元社がかって出雲にあったとか、久留米の伊勢天照御祖神社が出雲経由で丹後の籠神社になったとか、文書に残っていない歴史があったのかも。

ふじたさん>玉置神社の神職関係者
書き込みありがとうございます。 「神職関係者」とは神職さんのことでしょうか、HP作成なんかの出入りの業者さんのことでしょうか?

玄松子さん> 「元伊勢」というのは、豊鍬入姫命や倭姫命の御巡幸した跡だと認識していたんですが、出雲にも行かれたんですか?
書き込みありがとうございます。出雲には行っていないでしょうね。久留米はどうなんでしょうか?
玄松子の記憶の芳名帳の2001年02月の履歴に久留米の元伊勢天照社のことがでていますね。


[1588]  出雲と丹波  [桃色蜥蜴]  08/08

もっとも興味ある話題です。どんな展開になるか楽しみにしてます。
それと、丹波道主王を祭神にする神社、朝廷別王を祭神とする神社について知ってる方いましたら、ご教授願います。


[1587]  Re[1585]: 出雲の元伊勢  [玄松子]  08/07

> 出雲の元伊勢というと真名井神社というのが一般的だと思うのですが、

「元伊勢」として一般的なのは、丹後の真名井神社だと思うのですが、出雲の真名井神社も「元伊勢」と呼ばれているんでしょうか?
「元伊勢」というのは、豊鍬入姫命や倭姫命の御巡幸した跡だと認識していたんですが、出雲にも行かれたんですか?


[1586]  Re[1582]: 無題  [なにがし]  08/07

> なにがしさん> 当時仁和寺は真言宗を統括していた。人事権も仁和寺が握っていた。
> かって、あさもよしMLに某氏の下記の投稿がありましたね。
> 年代的には高野山が荒廃して冬場は人も住まなくなっていた(冬場は天野に退避)10世紀ごろか?、天野大社を宿として利用した仁和寺の法親王が天野大社の格上げ運動を起こしたという史実があります。
>  式内大社になれたのは仁和寺のおかげということですね。

おかげと言うか、もともと山宮で大きな神社ではなかったわけですから、法親王が泊まるのにふさわしい格と建築にしようと親王自身がされたのでしょう。
天野が開けたのは空海が来てからです。それまでは山宮がこじんまりとあっただけで、それが密教の御陰で法親王が来るようになり、高野山に近いところに宿をとったのが契機で丹生津姫神社は里宮の酒殿社より大きくなったのでしょう。つまり、もとをたどれば高野山のおかげですね。疑問は仁和寺は天皇家が代代門跡をしていたと思うのですが、どういったいきさつで空海に授けた領地を仁和寺が掌握するに至ったかですね。

> なにがしさん> 高野山検校は、天野社を紀伊一宮に格上げすることを画策し、鎌倉幕府に上申し認められる。
> 天野社の気比明神と厳島明神は、北条政子が祀ったとか云いますね。本当かな?
> 紀伊一宮になれたのは、高野山のおかげということですね。

そうですね。大きき、古さ、由緒からいけば日前・国懸神社が一宮ではないでしょうか。
さみしい事ですが、丹生津姫神社は実際古いかもしれませんが、大きくなったのは高野山のおかげで、またそれを利用しようとした武士達によってさらに大きくなったのだと思います。

空海の純粋な思いは10世紀にはすでになくなって、政治、権力の渦巻くところと化してしまったのでしょう。それに丹生津姫神社がまきこまれていったということですね。丹生津姫神社は高野山の影響が強すぎて、丹生氏の儀式の中でも高野山とのからみでできたものもあるかもしれませんね。そう思わせるのは、1280年ごろ(一宮への格上げごろ)丹生津姫神社の祭祀が忙しくなって丹生祝氏が子供に三谷を譲って天野に引越してしまった事です。


[1585]  出雲の元伊勢  [ふじた]  08/07

出雲の元伊勢というと真名井神社というのが一般的だと思うのですが、玉置神社の神職関係者から聞いた話では、出雲大社の南にも元伊勢があるということなので、出雲周辺の神社を調べているところですが、どうも見当たりません。
真名井神社以外には出雲周辺で元伊勢と呼ばれるところってないんでしょうか。


[1582]  無題  [Setoh]  08/07

大三元さん>「武位起」は多分普通には「タケイタテ」
『古代海部氏の系図』金久与市著 には「タケイタテ」とフリガナが付いています。
神社本庁の『平成祭礼データ』では「タケイオキ」と読んでいます。
また「タケクラオキ」と読んでいるHPもあり、印刷物でも見た記憶があります。
そうですね。こちらからも高倉下に迫れるとなると、確率アップが期待できます。ありがとうございます。

桃色蜥蜴さん>『神社を中心とした宝飯郡史』
ありがとうございました。社宮社を追加しました。

なにがしさん>当時仁和寺は真言宗を統括していた。人事権も仁和寺が握っていた。
かって、あさもよしMLに某氏の下記の投稿がありましたね。
年代的には高野山が荒廃して冬場は人も住まなくなっていた(冬場は天野に退避)10世紀ごろか?、天野大社を宿として利用した仁和寺の法親王が天野大社の格上げ運動を起こしたという史実があります。
 式内大社になれたのは仁和寺のおかげということですね。

なにがしさん>高野山検校は、天野社を紀伊一宮に格上げすることを画策し、鎌倉幕府に上申し認められる。
天野社の気比明神と厳島明神は、北条政子が祀ったとか云いますね。本当かな?
紀伊一宮になれたのは、高野山のおかげということですね。


[1581]  暑気払い  [Setoh]  08/06

急なことですが、下記三人で暑気払いをすることになりました。

8月7日(火) 午後18時 阪神電鉄梅田駅階段

武庫川の物部系の神職の方 紳士だそうです。
与乃登さん
瀬藤 の三人です。

ご興味とお時間のおありの方はご参加歓迎です。


[1580]  情報共有 [桃色蜥蜴]  08/06

『神社を中心とした宝飯郡史』社口司社のコピー添付してメールで送信しました。
追加しておいてください。
豊川流域から諏訪にかけては、古代から交流があったと思われます。宝飯郡だけでは、方手落ちになるので、設楽郡についても当たっておきます。
これからも宜しく。情報共有しましょう。


[1579]  高倉下 [大三元]  08/06

瀬藤さんの神社データにはいつもお世話様になります。
「高倉下、天香山命と武位起命を祀る神社の一覧」を見ていて
高倉:棚倉 が通用している例があることを知りました。その目で見てみると
「武位起」は多分普通には「タケイタテ」と読んでいるのだと思いますが
これも「たけ・くらい・起」→「たけくらき」あたりになりますね!
「たかくらじ」の幅が広がってきそうです。


[1578]  Re[1576]: 美作の五十猛  [Setoh]  08/06

玄松子さん> 御坂明神 真島郡にある(真庭郡久世町三坂の三栄神社か)祭神一座 五十猛神という。

「五十猛」情報、ありがとうございます。例のCDによりますと:−

三榮神社
現在の祭神は 瓊瓊杵命 五供神 大國主神
配神として  軻遇突智神 少彦名神 猿田彦命 素盞嗚神

由緒 後醍醐天皇正中二(1325)年、三十八社の勧請せる神社と伝えられている。以来六百年、三十八社宮と称したが、明治六年 三榮神社と改称。
明治四十二年 地区内の 御前神社 愛宕神社 荒神社 宝大神社 薬師神社 猿田彦神社 等を合祀
本殿は弘化三(1846)年。以上

 御前神社が御坂明神かも知れませんね。美作?
さて、三十八神社からの勧請とありますが、奈良で12社、京都に3社、岡山はゼロ、主祭神を瓊瓊杵命としているのは見あたりません。
八尾にもあるようですね。

葛城三十八皇神、鹿嶋御子三十八神などの神名が見えます。三十八柱神社などがあるのですが、三十八は数値とは限らないのかも知れません。

参考サイト
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~tada/sub01-14miturugi-misoya.htm#misoya
三十八(みそや)神社由来
三十八神社の名前の由来は、三は御祭神三体(天照大神・八幡大神・春日大神)を表し、十八は、神々に対する敬語と伝えられている。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwky4834/green.htm#三十八社大明神
邪 馬 台 国 大 作 戦
には数値で解説していますね。


[1577]  バカのひとつ覚え・ウコチャランケ [焼尻紋次郎]  08/06

 すでにカキコしたことですが、ミマサカという地名は任那(朝鮮)にも香川県にもあって、日本国
形成直前の姿を写しています。マに助詞「……の」が言えると楽ですけどネ。
 また、久世町には白猪の三宅(発音はミヤカ?)があって、これが日本最古の屯倉だと考えられて
いるらしいです。

 きのふ、午後2時から N.H.K で萱野茂チャチャが喋っていました。そのなかで「ウコチャラン
ケ」の語源分析に関してウソを続けていました。同チャチャにはもう5〜6年前に従来の語源分析は
間違いであることを報せたところでしたが、国会議員になるとかなんとかで、忙しかったのか、はた
またボケたか。
 チャチャとは「品のあるヂヂィ」という意味のアイヌ語。「品のないヂヂィ」はオラシラン。

 チャラチャラ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi  お茶の水、ネェチャン……。


 [1576]  美作の五十猛  [玄松子]  08/06

『和漢三才図会』美作の項 を見ていたら、以下の記述がありました。

御坂明神 真島郡にある(真庭郡久世町三坂の三栄神社か)
 祭神一座 五十猛神という。

このサイトでは岡山県真庭郡の熊野神社に配祀されていますが、三栄神社の祭神は誰なのでしょう。この「御坂明神」は、本当は何処なのでしょう。


[1575]   蒙古 [なにがし]  [Url] 08/05

蒙古と言えば今NHKで「北条時宗」をやっていますが、時宗の重臣安達泰盛は高野山石道を作りましたので、現在かつらぎ町商工会のHPに記事が掲載されております。
さて、先日setoh様に紹介頂きました紀伊国天野郷現地調査書には次の様な事がかかれてました。
「12世紀半ばまでに仁和寺は天野丹生社領を所領していた。天野丹生社は本家を京都の仁和寺を仰ぎ、天野院主のもとで丹生一族が総神主を、地元の有力武士団坂上一族が氏長者がつとめる独立した権力機構をもつ荘園領主であった。当時仁和寺は真言宗を統括していた。人事権も仁和寺が握っていた。鎌倉時代に入って荘園領主を目指す高野山と仁和寺・東寺は対立。検校を中心に結束した高野山の政治運動により天野社の諸職は仁和寺の手を離れて行った。13世紀前半にまず総神主職の人事権を確保、1283年氏長者である坂上氏を解任されている。高野山検校による天野社の政治利用はエスカレート。蒙古襲来に目をつけた当時の高野山検校は、天野社を紀伊一宮に格上げすることを画策し、鎌倉幕府に上申し認められる。・・・。高野山は寺領に丹生社の末社を勧請。丹生社を祭ることが高野山領住民として支配に服従した証となった。」
さて、もう一つ気付いたことを。丹生文書の年代がほとんど1100年以降のもので800年ごろの文書は丹生大明神告門と丹生祝本系帳のみ。これは何を意味するのか?口伝であったため文書に残していなかったのか。それとも度々の火災でなくなったのか。高野山との関わり上文書を書かなくてはならなくなったのか。いづれにしても1100年を境にくっきり分かれています。だからと言ってこの2つの文書が偽書であるとも言えないのですが、吟味は慎重にする必要があるかなあと感じました(後世書かれたものであっても口伝を書面にした可能性もあるので)。
しかし、地元の古文書の真偽を測りかねる現状、ほかの地域の資料の真偽など判断するのはさらに難しい事だと感じました。まあそれはそれで大学の教授殿達に任せて、素人の趣味ですので勝って気ままに書こうと思っているのですが。


[1574]  旅籠連名、すこし充実しました  [焼尻紋次郎]  08/05

ミナシャン、アマカネ
 サラセッセもつつがのう石鎚山でどたまのイルカ孔ぁおっぴろげて、パクパク響かせなが
ら大阪に御帰還アラしゃったとか。
 これから旅に出ようとするとき、旅に関してドシロートのミナシャンは、予定地での旅籠
はいかが決めていなさるのだろうか? 
 目をつぶったら王宮も商人宿も同じ風景、また日本人はバイキンも共有している(ある程
度のバイキン吸わぬとアレルギー体質になります)。

 安くて、安心できて、その地の歴史をからだで感じ取ることができるヤド……紋次郎旅籠
連名は資料不足で行き悩んでいましたが、このほど昔の領収書の一部が出てきて、少し充実
しましたので、この旨おしらせします。
 キカイ・オンチのおらだが、画面の遠隔操作のヤリクチ……マグレでできました。
 鳥海〜象潟方面、少しゃお役に立つカネ。北海道はこれで十分に一周できて20日間過ご
すと12万円の SAVE となることマチガイなし。一夜々々がこれまたズッシーンと重い。
 あ、芋の煮ッ転がしとか、焼き魚とか味噌汁などのフツーの食事を採らねぇと、4日以上
の旅のあとには、必ず身体の変調があるもんです。これ忘れちゃマイネぞな。旅先での刺身
や肉料理は毒だと思いなせぇ。
 www.you-i.org 「紋次郎旅籠連名」。


[1573]  無題  [桃色蜥蜴]  08/05

ミシャクジ神 宝飯郡分 『神社を中心とした宝飯郡史』から抜粋し、情報提供します。赤孫日子神社だけでなく、かなりあったように思いますよ。
こうご期待


[1572]  紀伊国天野郷現地調査報告書(和歌山中世調査会)  [なにがし]  08/03

setoh様
以前教えて頂きました主題の冊子本日自宅に届きました。中世以降について高野山との関係が簡単ですが載っておりました。新たに分かったこともあり非常に参考になりました。私としてはもしかしたら丹生氏の祭祀について書かれていたらとの淡い期待もあったのですがそれはありませんでした。ただ、この本には他にどんな資料があるかも載っておりましたので、大事に保管しておく本の1冊となりました。ありがとうございました。


[1571]  了解  [桃色蜥蜴]  08/03

ミシャグチ神 古本屋で研究書見た覚えがあります。
ありましたら、連絡します。
シャグチ社、シャクジン社も含まれますか?
宝飯郡については、『神社を中心とした宝飯郡史』に神社の摂社・末社網羅されています。
手元にあり、ほぼ把握していますので何なりと
皆で情報が共有できる掲示板にしたいですね!


[1570]  Re[1569]: 貴重な情報ありがとうございます。 [Setoh]  08/03

桃色蜥蜴さん> 情報は、共有しましょう。東三河について何かありましたら、連絡ください。

ミシヤグチ神を探していましたら、諏訪に次いで三河が多いのですね。神奈備whatnewからどうぞ。


[1569]  貴重な情報ありがとうございます。  [桃色蜥蜴]  08/03

Setohさん貴重な情報ありがとうございます。
亀岡に出雲大神宮が鎮座していること知りませんでした。
更に検討重ねます。
遠州の三島大社って知ってます?そこにアラハバキ社あるって噂聞きました。遠州方面の方に情報流してあります。確認できたら、神奈備に情報提供するように言ってあります。
インターネットの発達で情報の交換と共有益々進みますね。共有できる情報は、共有しましょう。っていうことで皆さん東三河について何かありましたら、連絡ください。大体把握しているつもりです。


[1568]  Re: 狗→犬→ん? :物部十千根  [Setoh]  08/03

randyさん> 何をもって犬としたのでしょうか?民族?国主?
先ず、福嶋さんのHPをご覧下さい。 ↓
http://chance.gaiax.com/home/x228mzk0


桃色蜥蜴さん> 崇神条の出雲神宝献上事件は、丹波の事件
丹波の出雲としたら出雲大神宮が鎮座している亀岡市ですね。物部の十市根は「出雲」の神宝をせしめたから出雲建雄神ではなく、石上神宮祭祀の功労、物部氏と出雲との関係、醜は出雲弁であり、九州や大和の建と同じ意味という所を根拠にしています。

 物部十千根を祭神とする神社
岐阜市伊奈波通り
  伊奈波神社 主 五十瓊敷入彦命 配 物部十千根 ほか」市内長森岩戸の物部神社を合祀
岐阜県本巣郡真正町
 物部神社 主 物部十千根 ほか 

物部十千根の後裔が美濃で繁栄したとのことです。


[1567]  「気高さ志向」の根源  [焼尻紋次郎]  08/03

 あんまし自信のないことでも、ミナシャンの御胸借りてカキコし、それによって心証
固めを促進させることができる……。これ I.T. 掲示板“馬力”の根源ならずや。
 そんなとこですので、そんなつもりで聞いて……いや、読んでくだせぇやし。

 ゲルマン人の群れが柱偏執(文化)を持っていたことはタシカです。インド亜大陸の
先住民のドラビダ人の群れには「聖木」はあっても、柱はなかった……と仮説してみる
とハナシが早い。
 アイヌは柱を I-KUSH-PE(神が貫くもの)としていますので、これはカイラス山の
頂きに降りかかる神霊の通過道筋を謂っています(2万年前、諸氏族共通の偏執)。
 ところが、日本は「柱そのものが神」という、きわめて特異な偏執を持っています。
柱の語源も意味も「*BAS(神)RA(強調末尾辞)」のほかは考えられません。

 「クズ」の構成概念に“歌♪”がありました。郷には固有の歌があった。その「歌プ
ラス“歌で讃えられる神”」の領域がサトでした。
 旅人は夕方、次の“その歌の世界”に足を踏み入れ、その神と一夜を過ごしたあと、
その郷を通過しました(天皇に成るとき、王子は神とともに三昼夜を過ごします)。
 峠や郷の境に柱が建てられたことは間違いありません。これは漁村にあっては二本の
柱を建ててその「柱と柱との間」を人々や物資が通過することによって祓い浄められた
……ものと思われます。
 領界という概念になった「シマ」は、もともとは「境界線」の「シマナ」から発達し
た語彙です。
 おらにはいま、このシマナの SI が神でいいのかどうかがワカリません。目に見えて
くるもの……が「著し」に代表される“SIR〜JHIL”なので、柱を SIR とみて、その
柱と柱の空間を「シマ」と言ったか……オラシラン。
 いずれにしろ、この「マ」とは柱と柱の間であって、絶対にケガレが存在することが
許されない神域です。そこに日本人は住み続けたのでした。
 その住居はいつもキチンと整理され、掃き浄められ、その行為はイサギよく、メリハ
リが利いていました。オトコどもは垂直に背骨を伸ばし柱となって暮らしました。

 空とか無という概念はシッダルタさん出現以前からあった聖域でした。有象無象の象
は空があるからこそ出現したもので、神聖とは象をHALLA(はしら・無にすること)
で得られます。これが「祓い」です。
 
 これ、二重投稿、アマカネぞな              暑気祓いカネ
 語源ぼつぼつ ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi


[1566]  ミシャクジ 社日 クズ神社  [Setoh]  08/02

「ミシャクジも実はアラハバキの仮の姿だった」との見解があるそうです。(『謎解き 祭りの古代史を歩く』近江雅和 彩流社)根拠は諏訪の大祝の家系が八十代近いから縄文時代からの神主であるとのことのようです。ミシャクジ神は御社宮司、御社口、左口、社護などと表記され、信濃、駿河などに祀られています。
 静岡県の千代田村誌には、「 川合と上げ土との中間の沿道の小詞を社口神社という。祈願が聞き届けられた時には、スグリ藁のままの大草履を作って納める。」とある処から、アラハバキが匂うようです。

 所で、 名前から、社口の流れを汲んでいるのではと思っていた社日神と言う五角の石柱の神がいます。出雲や九州にあるようです。アマテラスオオミカミ・ウカノミタマ・ハニヤスヒメノミコト・スクナヒコナノミコト・オオナムヂノミコトと彫られています。
これは、文化文政期から流行ったようです。
 流行り神は「えじゃないか」等にもありましたが、紀の国ではクズ神も一時流行ったのではないかと考えています。とことん古い縄文的な神なら、アラハバキにつながるのかもしれません。

 闘鶏(都祁)国造は允恭天皇紀に忍坂大中姫が皇后になる前に失礼があったとして稲置に格下げされています。この地域はまさに闘鶏が盛んだったようで、仏教好きの女帝に嫌われたようで、これが允恭天皇紀に反映しているのかも知れませんが、国造がいた頃には国造が祀る神社があったのでしょうが、山添に吸収された段階で、国造神社がクズ神社に名前を変えさされた可能性も考えておく必要があるのかも。


[1565]  狗→犬→ん?  [randy@Jo-Ei] [Url] 08/02

ご無沙汰しています。ちと質問させて下さい。
狗邪韓国、狗奴国と「狗」の字を当てる国名がありますが、「犬」ですよね。
何をもって犬としたのでしょうか?民族?国主?
あくまでも個人的な感覚ですが(根拠は全然ありませんが)、
新羅系を指しているのかなあと感じたりするのですが、いかがでしょうか?

最後に管理人様、リンクの紹介文ですが、現在は掲載しておりませんので、
バナーだけにして頂けませんでしょうか?宜しくお願いします。
でわでわ。


[1564]  物部十市根連について  [桃色蜥蜴]  08/01

崇神条の出雲神宝献上事件
あれは、丹波の事件であり、同条の「氷香戸辺の子供の神託」、垂仁条の「狭穂彦の乱」、『本牟津別王』等とリンクさせて、記紀を読むべきです。
十市根の性格についても、それで解明できます。
詳しくは、メールに別途資料添付して送付します。


[1563]  追記  [Setoh]  08/01

道後温泉では先に神社巡りをしました。泊瀬女さんがA.Iさんの頃の愉快なカキコを思い出しながら、汗だくで石段を登りました。後のビールや温泉がより楽しめました。

 物部では五世孫に鬱色雄命、六世孫弟に伊香色謎男がいます。戦いの匂いは記述されていませんが、開化天皇、崇神天皇の時代に対応し、動乱の日々を送ったとも考えられます。
 また、物部そのものは天孫族ではなく、出雲系であったとも考えられます。饒速日命が大国主命の八世孫であるとか、饒速日命が大国主命の怒りにふれて死んだとか、出雲を裏切った存在だったのかもしれません。


[1562]  Re[1561]: 道後温泉  [setoh]  08/01

目的は石鎚山登山で、帰りに一風呂です。入浴前後にビールが主でした。後は讃岐うどん。

ところで、出雲建男神について、一文を。
 石上神宮の出雲建雄神社は神宮の禁足地より高い所に西を向いて建っています。人工的に高くしたとは思えません。このことは、石上神宮は、もともと出雲建雄神社のあるところに鎮座していて、石上神宮の変遷から脇にある神宝を人質ならぬ「宝質」で集めた保管場所《宝蔵》が大きくなって、そちらが本殿になったと考えるのが自然です。

 『古事記』では印色入日子命は、横刀壱仟口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り、すなはちその宮に坐して云々。と記されています。
 次ぎにこの印色入日子命が年老いて、大中姫を経由して祭祀を物部十千根に委ねる話が『日本書記』
に記されています。これ以降、物部連が石上神宮の神宝を治めます。
 この物部十千根はその前に出雲国の神宝を確保しに行きます。出雲の豪族を征服したとも考えられます。物部十千根が選ばれたのは、物部氏が元々出雲系だったとも考えられます。
 物部十千根は饒速日命の七世孫で、遡れば六世孫の伊香色雄命、五世孫の鬱色雄命、四世孫に大水口宿禰命、三世孫に出雲醜大臣、出石心大臣の名前が見えます。

 桜井市池之内に稚櫻神社が鎮座しており、式内若櫻神社の論社の一つです。祭神は出雲色男命 配 履中天皇 神功皇后となっています。由緒は履中天皇が磐余市磯池で遊び、季節はずれの桜の花が飛んできたのを、物部長真胆連に桜を探させた。というものです。この物部長真胆連は『姓氏録』に神饒速日命三世の孫出雲色男命の後、四世の孫。とあり、物部十千根と同時代になります。多分、同一人でしょう。

 稚櫻神社の祭神に出雲色男命が神として祀られています。この神社にゆかりの物部の祖と言えば、物部十千根です。即ち出雲色男命のしこ名で祀られていると考えていいのでしょう。
 同じように石上神宮の出雲建男神社ですが、物部十千根の代に石上神宮の祭祀権を取り戻しています。功労者として、祀られたと考えられないことはありません。
【問題】 醜=建 か?
ということです。この前に提起しましたが、そのときに大三元さんからの例示として、葦原シコヲ、出雲シコ(タリ)、鬱シコ、伊香シコがあげられていました。葦原シコヲの名は大国主が出雲から須佐の男の坐る根の国に行ったときに、須佐の男の「こは葦原色許男の命と謂ふぞ」との台詞があります。大国主は八十神との戦いの後でした。出雲では「醜」です。
 倭男具奈は熊曽建との戦いの後で、倭建命となりました。九州では「建」です。『古事記』では和建命の物語の直後に出雲建を討ち取る話が出てきますが、これは大和から見たので出雲建と表記したのでしょう。自分で名乗っているわけではありません。
 【解答】 醜=建 である。敵対者を打ち倒すほどの強力さという意味があるのでは。
 物部系図の饒速日命の三世孫に出雲醜大臣の名が見えますが、第四代懿徳天皇に仕えた程度のことしか『先代旧事本紀』にも出ていません。愛知県岡崎市百々町字池の入の七所神社には饒速日命、可美眞手命、彦湯伎命、大彌命、出雲醜大臣命、出石心大臣とこの辺りの物部の遠祖の一人として祀られてはいますが、特段のことをなしたようではありません。
  出雲建男とは誰のことか? 
 稚櫻神社、石上神宮の出雲建男神社を考えると、物部十千根大連のことと考えるのが自然です。
 前には建御名方命と仮定しましたが、石上神宮や都祁村に現れる必然性が少ない上に、建御名方命が出雲に持ち込まれたのは近江佐々木氏が鎌倉末期に出雲に根を下ろし、自家の守護神として持ち込んだのでは、との説があります。室町時代でしょうね。


[1561]  道後温泉  [なにがし]  [Url]  07/31

setoh様
道後温泉行ってきたんですか?いいなあ〜。
私は四国に行ったことがなく、いま四国旅行も、私の行きたいところの上位にランクされております。その場所として道後温泉、食べたいものとして高知のカツオのタタキ。あとは四国88箇所巡りでしょうか。道後温泉どうでしたか?何か変わったもの食べました?グルメトラベラーとしては旅行もいいのですが、実は郷土料理が一番の目的なのです。


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