神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、あさもよし掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十三年十二月)お名前の敬称は省略しています。
荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置

更新 H13.12.31
[2334] 皆様、お世話になりました。  Setoh 2001/12/31(Mon) 10:38 [Reply]
 物部の氏族の名前に鈴木とか穂積とかがあります。
秋の七草の尾花とはススキの穂ですが,ススキとか萱には神が宿ると言います。神の依り代ですから祭祀氏族の後裔にはうってつけの姓です。
 また穂積は稲を献じて穂積姓をもらったとされますが,ススキの穂を積み上げても穂積になり,これまた神の座になります。
 このような古代の姓は言霊の役割が入っていたのですね。

 話は変わりますが、日の谷探索の前日,石上神宮の東側山中の九龍神社を香具さんに案内して頂きましたが,朝,コンビニで弁当を仕入れたのですが,お箸が入ってなく,一本頂いてこれを折って昼食を頂いたのですが,何故,お箸が入っていなかったのでしょうか?

 熊野古道の牛馬童子の峠は箸折峠と言います。熊野詣での人々は箸を持たずに行くのが作法で,刀があれば現地調達は容易ですが荷物になると言うことより,箸には霊が依り憑くと思われていたのです。
 コンビニの店員さんは,それを心配してくれたのですね。おかげで快適な九頭社めぐりが出来ました。ありがとう。
 何事にも穏やかに,感謝の心を持ちたい,常識人の神奈備でした。
 皆様、お世話になりました。平成十四年も皆様にとってすばらしい一年でありますように。

[2333] ありがとうございました  りん [Mail] 2001/12/29(Sat) 22:37 [Reply]
 間人皇后にまつわる話が載っている本は、なかなか無かったから
紹介頂いて大変うれしいです。
 おつきあいありがとうございました。
 よいお年をお迎え下さい。

 

[2332] 無題  なにがし [Url] 2001/12/29(Sat) 21:17 [Reply]
残りあと2日となりました。小生もこれより実家に帰ります。
本年はいろいろとお世話になりました。来年もよろしくお願い致します。
それでは、良いお年を!

[2331] 神社による古代史F 『イメージとしての出雲』  kokoro [Mail] 2001/12/29(Sat) 15:48 [Reply]
 大分間があきましたが、10月16日の『神社による古代史E』の続きです。
 布留川上流域の神社郡についてはこれまで何度も触れてきましたが、その度に必ず、出雲という地名に送り届けられてきました。だが、なぜ出雲なのでしょうか。
 2回目になりますが『石上振神宮略抄』から、出雲とこの地域との繋がりを特に意識させる夜都(留)伎神社の縁起を引用します。

「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり。仍て八剣の神と申す。神代の昔出雲の簸谷の八伎大蛇は一身にて八伎あり尊(素戔男尊)剣を抜きて八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化為て聚雲の神剣に扈従して当国布留河上の日の谷(属都祁郷)に臨幸ありて鎮座す(八龍王八箇石是也)。」

この伝承を読んで僕が最初に感じるのは、出雲と布留川上流域の間にある膨大な距離があっさりと無視されていることです。例えば、大和に入るのに熊野を迂回した神武東征や播磨から出石神社へ行くまでに近江や若狭を経巡った天日槍など、古代における移動には、遠回りと寄り道がたいへん多くみられます。これに対し夜都伎神社の伝承では、退治された八股大蛇が、出雲から布留川上流域までほとんど無媒介的な早さで到達するのです。この距離の廃棄とでもいった事態には、何らかの呪術的な雰囲気が感じられないでしょうか。
 出雲のイメージのひとつに、「根の堅洲の国」のような冥界としてのそれがあります。出雲があるのは大和から見て西の果てですが、このために西=陰、東=陽とする道教的観念からいうと、出雲は強い陰極の象意をもちます。ここでいわれる出雲は、現在の行政区分でおおむね島根県に該当する地域といった実際の土地を指すのではなく、大和の西方にある場所といういたって観念的な存在です。出雲における冥界のイメージが、こうした道教的観念に根ざすものであることはよく指摘を受けますが、その背景には東西軸を陰陽軸とする世界観があるのです。
 さて、これまで述べてきたように、僕は夜都伎神社と出雲建雄神社の祭祀が宮都の守護と関わりがあったと考えています。そこで、布留川上流域に濃密に分布するあれらの出雲の伝承について、この線に沿って考えてみます。易学には、北極星を心霊化した太極とよばれる存在があります。太極は宇宙の中心なので、古代の造都計画では、日本全体の中で宮都が太極、さらにその宮都の中では天皇が政を行う場所が太極、と観念されました。藤原京等で天皇が政を行う建物を太(大)極殿というのは、そこからきているわけです。易学では、この太極は必ず陰と陽の二元を生じるとされます。両者は全く相反する本質をもちながら、完全に互角な存在です。
 太極であり宇宙の中心である大和の宮都、及びその主催者である天皇にとって、世界は陰陽の均衡がとれている状態が理想です。この均衡が崩れると治世が乱れるとされたからです。しかし、ここに深刻な問題が生じます。陰極の象意である金気と陽極の象意である木気は、五行の相剋原理「金剋木」により、金気が一方的に木気に勝るのです。つまり、東西軸を陰陽軸とする世界観では、東に対して金気である西が圧倒的優勢に立ってしまうのです。このため、「金剋木」を覆し、陰陽の均衡を確保するために、呪術を導入する必要が生じます。
 さて、夜都(留)伎神社の縁起には、この「金剋木」を覆す呪術のことが隠されていなかったでしょうか。この縁起で、退治された八伎大蛇が出雲から日の谷に到達するまで、以下の4っの過程を経ます。

  @八伎大蛇  −(切断)→ 八つの小蛇
  A八つの小蛇 −(変容)→ 水雷神
  B水雷神   −(扈従)→ 聚雲の神剣
  C聚雲の神剣 −(降臨)→ 八竜王八箇石

 @〜Cを個別に分析していくと、@で八伎大蛇は素戔嗚尊による分断によって、八つの小蛇となります。この件には、「八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となり」などという文章があり、『神社による古代史』のテーマの1つ、八に対する偏執≠ェ極端な形で現れています。これは僕の勝手な推測ですが、結局、この八≠ニいうのは美称の八=弥≠ナはなく、何か易学の八卦と強く関わっている感じがします。易学における「八」という数詞には、何かしら凡≠ニいうか一なる全て≠ニいうか、一種世界的な感情が感じられます。「金剋木」という事象の理(ことわり)を覆す強力な呪術を行うに当たり、そうした強い感情を呼び起こす必要があったのではないでしょうか。
 Aでは、この八つの小蛇が天に昇ってから水雷神に変容します。雷は八卦の「震」に該当し木気の象意であります。このことは次のBCで強い意味を持つことになります。
 Bでこの水雷神は聚雲の神剣に扈従します。強調したいのは、Aでは八つの小蛇が水雷神に変容≠オたのに対し、水雷神から聚雲の神剣へは扈従≠ニなっていることです。これは金気である剣が、木気である水雷神を「金剋木」の原理によって従えたという意味だと思われます。この伝承全体で、道教の原理がもっとも現れている部分ではなかったでしょうか。なお、ここでは、扈従が起きたのが出雲上空なのか、それとも日の谷上空なのか明記されていませんが、やはり前者であったと思われます。出雲は八千矛の国と呼ばれ、また実際に大量の銅剣が出土している地域です。こうした文脈から見ても、金気である剣は西にある出雲を象徴する存在であると思われます。
 Cがもっとも重要です。そこではこの水雷神を扈従させた神剣が日の谷に降臨し、八竜王八箇石が登場します。縁起では八竜王八箇石とこの神剣の関係を今ひとつはっきりさせていませんが、それらが等価なものとして扱われているのは間違いないでしょう。龍とは木気の代表的な象意です。また、この神剣には水雷神の神格もあるわけですが、これもまたそうです。してみると、この神剣、すなわち日の谷に降臨して八の比礼小刀子となった剣は、金気である剣でありながら、同時に龍や水雷神の神格も備えた木気の存在であるという観念があるように思われます。こうした金気と木気の両立というのは、道教の原理では不可能事であり、それを可能にするには呪術的な作為が必要です。そして、その呪術の本体とは一体どういうものだったかを説明するのが最初に指摘した、出雲から日の谷への無媒介的なこの剣の移動ではなかったでしょうか。つまり、出雲(西)と大和の日の谷(東)の間にある距離を廃棄することにより、金気(西)と木気(東)を両立させる…大略、そんな内容の操作が呪術により行われ、夜都伎神社の伝承はそれを伝えているのではないかと推測します。
 呪術の力で「金剋木」を脱却し、金気(陰)と木気(陽)を両立させる。陰陽の均衡を図り、世界の中心とされる天皇の首都を安定的に支える。これが夜都伎神社における宮都鎮護の祭祀ではなかったでしょうか。また、『神社による古代史E』で書きましたが、僕はこの夜都伎神社の本の宮とみられる日の谷が、宮都の鬼門と見なされていたと考えています。鬼門は東北の方位で、五行でいうと水気から木気に相生する移り目です。そしてそこは、陰陽の切替え地点なので、相生や相剋の運動から解放される一種ニュートラルな場所とも考えられます。したがって、鬼門というのは単に縁起の悪い方角というだけでなく、五行の原理を脱却するような強力な呪術を行うに適する方角だとも考えられます。宝治元年(1247年)5月、執権北条時頼に恨みを抱いていた鎌倉幕府の御家人、三浦光村は、鎌倉の鬼門の方角に五大明王堂を建て、祈祷師や陰陽師に時頼調伏の法会をさせたそうです(『吾妻鏡』第18)。ここで登場する鬼門は今言った文脈で考えた方が理解しやすいと思われます。
 また、この縁起の時代背景も考えさせるものがあります。八伎大蛇が登場するので舞台は神代ですが、夜都伎神社の祭祀と際だった連続性を感じさせる出雲建雄神社の縁起によれば、出雲建雄神が日の谷に降誕したのは天武天皇の最晩年、自分の病が草薙剣の祟りであると占いに出た天皇が、この剣を熱田神宮に返却した翌日です。したがって、この神社の祭祀もまた天皇が闘病生活を送っていたこの時期に関わりがあるかもしれません。『日本書紀』には天皇の重い病が印象的に描いてあります。そうして、古代最大の呪術王として彼が、起死回生の呪術を試みたことは容易に想像されます。この縁起の趣旨が、金気を押さえ込んで木気を生かすというものとすれば、あるいは天武天皇の生命の再生を意図する呪術だったとも考えられます。
 少し補足します。金気(西)と木気(東)の両立とすれば、すなわち土気(中央)であると解釈することも可能です。その場合、かって草薙剣が熱田神宮で土用殿と呼ばれる建物の中に祀られていたこと、土用殿のそばには龍神を祀る竜王社があること、等が示唆的です。

☆ 吉野裕子先生の『陰陽五行と日本の天皇』を参考にしました。
☆ 次回は最終回。最大の謎である熱田神宮と八剣宮の祭祀の二重性について考えてみます。setohさん、皆さん、今年はお世話になりました。よいお年をお迎えください。

[2330] Re[2329]:   年末、御多忙のみぎり 教えておくれ     Setoh 2001/12/29(Sat) 09:12 [Reply]
>  「△△の神」は全部の何%ぐらいかね。
極少ないのでは。具体的には『古事記』の神名をご覧下さい。

>  「愛宕」
軻遇突智命が圧倒的に多いのでは。
京都市右京区嵯峨清滝の愛宕神社が全国の約800の愛宕社の総本社とされています。
亀岡から東の方向に見える牛松山の麓にも愛宕神社が鎮座、ここの祭神は火産霊命。この神社を愛宕神社の本社とする人もいます。里宮かも知れない。
「あたご」と言う言葉は「あそ」「あさま」などと同様、火を意味する古語からとか。

[2329]   年末、御多忙のみぎり 教えておくれ     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/28(Fri) 22:18 [Reply]
 瀬藤ドン、日本の神様の名前は「○○のミコト」だらけで、「△△の神」というたらアマテル様
以外にはない……ぐらいに少ないんとちゃうやろか。
 「△△の神」は全部の何%ぐらいかね。

 「愛宕」は各地に神社となってるよな。祭神はぜんぶ同じやろか? なんという神様かね。
 愛宕(山を含む)の南限と北限はつかめるやろか。鎮火の神だよね。
 北海道渡島半島の西海岸、江差の愛宕さんの設立年、本のうえではわからんやろね。

[2328] ささ踊り  なにがし [Url] 2001/12/28(Fri) 20:18 [Reply]
ピンクの蜥蜴様
HP拝見させて頂きました。あまり関係なさそうですね。同じ「三谷」の地名と「笹踊り」が出てきたので期待したのですが。
以前高師小僧を調べているときに愛知の笹踊りを見つけけた記憶があったのです。
残念!

[2327] ホクラ & 三柱神社  Setoh 2001/12/28(Fri) 17:25 [Reply]
> 地図で見ると、保久良神社と穂椋神社は、大阪湾をはさむ位置、対岸にあるんですねぇ。
ざっくり,住吉大社を頂点とする二等辺三角形なんて,果報紋思考ですね・・。
所で,穂椋神社の元地辺り一帯には磐座的な岩がありそうには見えません。だいたい大きい岩がごろごろとある生駒山系や六甲山系と泉北丘陵とは生成のされ方が違うのでしょうね。


> 三柱神社
三柱神社について,平安月美人から下記の概要のメールを頂きました。紹介いたします。

『捜聖記』 中山市郎・木原浩勝 角川書店 のなかに少し記述があります。
これは,聖徳太子が実は物部の皇子であったという事を母方の血縁を辿りながら・・・という小説ですが、たいへんおもしろく読ませていただいております。聖徳太子の『未来記』から始まる本です。
その中の 丹後王国の章 166ページ、169ページ〜 にずいぶんまとめてあります。
との事です。

[2326]   峠のタクラ と 日の谷      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/28(Fri) 10:08 [Reply]
 タクラマカン砂漠といいますが、タクラはネパール語で峠です。しかし、このタクラの分析に
預かって力ある TA(神) KURA(神の座)はネパール語にはなく、日本語にあるのです。
 マカンは MAK(英語、アイヌ語も“うしろ”)に AN(アイヌ語;ある)の分析でいいのだろう
と思います。峠のうしろにある(砂漠)がタクラマカンだと思います。

 古代日本語にはクラという発音で「谷」という意味がありましたが、これもネパール語にはあり
ません。そしてタに(谷)の語源は通説でも紋説でもワカリまへん。
 O / I の通音(どっちでもいい)から、XO は HI にも変化可能です。また、現実的には KI と
も CHI とも……。霊と書いて「チ」とよませたり、氷川、簸川、斐川、樋川があるのは ここの
せめぎあいの結果でしょう。
 まだアナシ格でない『かむなび』ニィチャン・オッサンが追い掛けまわした「日の谷」も、こと
ばの上では「ホクラ」と同価です。
 
 日本語には多くのクラ(藏、庫、谷、鞍、開くこと)が神事に押し寄せたために、新たなタにが
必要とされた……は、タシカなスジでしょう。

 では、出雲であれほど気をつかって避けた“日”が、どうしてここで容易に用いられているのか
に多大の疑紋が湧きましょう。しかし、答えはカンタン。「ここが出雲ではなかったから」……そ
れだけ。

 穂椋のムク……アイヌ語の MUK(塞)に似いちゅう。ヒムカもいれて、これらは神社が神社と呼
ばれる前の「聖地」でしょうね。多分……、恐らく……、まちがいなく。
 ね? ホムタがいつのまにか割れてるでしょ。だから、2001年12月28日なんです。

[2325]   ボカラシ紋次郎 宝の泉      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/28(Fri) 05:34 [Reply]
 ミナシャ〜〜ン どえらいことになった。
 2001年12月28日は極東古代史と神をみる目にカッキ的な日になりました。
 これもひと重に瀬藤ドンの常識と玄松っつぁんの博識のお蔭にござんす。

 おら夜中の1時から目が醒めて、その後ず〜っとドタマんなかにボカラシ(ボキャブラ
リーの嵐)が吹きまっくッちょりますと。ボカラシくらうなぁ、25年ぶりです。
 これくらうとコロされる。だが、もうこのへんでコロされてもいい。

 「神」という語彙の別系 “XO” が視野のなかにゆるぎない位置を占めたのです。
 これまで、部分的には古代で用いられていた神と同じ意味の TA, LI , SI, MI, O, I, などは
出ていましたが、これらは時代をリードする風ではありませんでした。
 しかし、“XO”は多くの音転を伴いながら、日本列島規模で「カミ」とおなじエネルギー
で以って文化の中核を形成してた……それが出たのです。
 “XO”とはドイツ人のブッフ(本)のフにみられる狭擦音で、現代インドではそれを KH
で表示してるわけです。これは濁音化され“у(文字がないのでとりあえず)”となりま
す。すなわち、これネパール語の牛“GO”でしょう。
 XO は、KO のほか CO, SO, CHO, HA, の音転を引き出し、CHO は倭人が嫌う音ですので
TO へと変化可能です。

 ここの具体的展開を記述すると、すぐに2〜3册分の本となります。
 いままで、ワカラン・ワカランだったオシンコシンの滝とか「トヨ(豊)のくに」とか、
コポル(郡)とかシナ語の虚・空などなどが、イモズル式に次ぎから次ぎににその正体を見
せるじゃあ〜りませんか。おらの良心にかけて……でざんすぞ。

カッキ展開は「ほにゃらか掲示板」で;http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2324] 三柱神社  りん [Mail] 2001/12/27(Thu) 23:20 [Reply]
 突然関係ないお話でごめんなさい。
 瀬藤さん、いつもお返事ありがとうございます。
 パソコン初心者なもので、三柱神社の検索が上手く出来なくて、
三柱神社が調べられません。
 ここは九州のせいか、本も見当たりません。
 この間教えていただいた以外のこと、もし何か御存じでしたら
教えて頂けないでしょうか?
 暗殺したとされる駒と姉の間人皇后が建てたのだから「崇峻天
皇」の為かもしれないと思って、もしや崇峻天皇のお墓の上に建
てたのかも?とまで考えたのですが、別の事が浮かんできました。
 駒は、崇峻天皇の妃と不倫していたという事にされて、馬子に
口封じで殺されたとなっています。
 しかし共に神社を建てたのが駒ではなくて、崇峻天皇だとした
ら不倫ではなく、夫婦だから共にいた事になるのかな?
 どうして不倫ということになったのかわからないから想像する
しかないですね。
 蘇我の追手も丹後には手が出せなかったんですね。
 
 

[2323] Re[2322]: ホクラ  玄松子 2001/12/27(Thu) 21:59 [Reply]
連発・頻発で申訳ありません。

> まるで、大阪湾奥、難波の「門守」のような位置ですね。

大阪湾への入口、瀬戸内の袋小路で、「ふくろ」ってのもありかな。
「布久呂布」も「ふくろふ」ですよね。

[2322] Re[2313][2312]: ホクラ  玄松子 2001/12/27(Thu) 21:45 [Reply]
> 泉州の丘陵地帯にも式内社の穂椋神社があり,

地図で見ると、保久良神社と穂椋神社は、大阪湾をはさむ位置、対岸にあるんですねぇ。
まるで、大阪湾奥、難波の「門守」のような位置ですね。
セット、一対で考えた方が良いかもしれません。

[2321]   カミ・庫      一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/27(Thu) 20:55 [Reply]
 玄松っつぁん、まっぴらごめんね。気ぃわるぅしたらハラカイちょくれ。

 「ホ=神」………へば、いつだったか、まだ2ヶ月は経っていないと見込めるも、kKHOL(行李
・ケース)も含めての、囲ったもののなかにナンにもない」という古代インド偏執の中核への直
感がいよいよおらの胸のなかで熱く固められてゆくんだがなぁ〜。

 別おもわく……「ホ=神」&「ホ=秀」なら、神を「秀」などで表現する道理がゆるされるん
やろかね。

 瀬藤ドン、年末はやけどしやすい。気ぃつけてやナ。ヤヤコシイ紋ダイは来年まわしや。
 おら、ボンもショーガツもあらしゃいまへん。これ、セ・シ・ボ〜〜ン。

[2320] Re[2305]:   タクソさん と 生田さん     Setoh 2001/12/27(Thu) 19:42 [Reply]
> 火座は「通説」のようでした。じゃ、違うかもしれませんね。
秀座も通説ですね。

> 北九州に上陸して東進する一団」があり、そのなかで、託杜(タクコソ)神社は高磯(タコソ)神社
> イタキソ様と何らかの関係あらまほしからめや。

 年末に難しい紋題ですね。
 上記神社はいわゆる『魏志倭人伝』の伊都国に鎮座です。伊都国と紀の国との関連は大いにありそうです。
 丹生都姫神社ゆかりの丹生良広氏が『丹生神社と丹生氏の研究』で述べておられるのは,「伊都国王の後裔が紀州丹生氏や大分豊後丹生氏になっていき,和歌山の伊都郡の名はここから人々と共に運ばれていたと推測されています。
 また高磯比メ神社の祭神を丹生都姫神や阿加流比売神とする考えがあります。丹生は赤いですね。

 『仲哀天皇紀』に伊都国の五十迹手(いとて)の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志:イソシ」と名付けたとあり,伊太祁曽神社の祭神の五十猛(イタケ(ル)命と五十迹手との近さ,また五十猛命を称える呼び名の「有功:イサオ(シ)」と「伊蘇志:イソシ」が似ています。

 『新撰姓氏録』には「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」とあり,天道根命とは紀氏の祖神でもあり,この伊都国からは目を離せません。伊太祁曽の神は紀氏の本当の祖神との説これあり。

[2319] Re[2318][2317]:   ホクラと小倉山との関係は?  玄松子 2001/12/27(Thu) 17:11 [Reply]
> 「神倉」と書いて、「ほくら」と読みますが、これじゃどこも「ほくら」だらけだし。

間違い。「神庫」でした。

[2318] Re[2317]:   ホクラと小倉山との関係は?  玄松子 2001/12/27(Thu) 17:08 [Reply]
>  玄松っつぁん、通説にピョコタンとアタマ下げていたんじゃ、掲示板での会話の場はす
> ぐになくならいしょ。

「火座=通説」だから、違うかもしれないという意味で書きましたよ。
「神倉」と書いて、「ほくら」と読みますが、これじゃどこも「ほくら」だらけだし。

[2317]   ホクラと小倉山との関係は?  一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/27(Thu) 17:00 [Reply]
 小倉が出てきて、ホクラをめぐって……なんだかホクラかさ(はぐらかす)れている
みたいなような感じィ〜〜かな。双方の距離はなんぼあるとカネ。
 ホクラのホが“秀”なら、ホイワクラという地名はどこかにあってもいいなぁ。ホイワ
でなくっても、ホ山、ホ川、ホ谷、ホ室、ホ糸島(あ、こりゃ乞食島だ)などあってもい
いし、ないのはオカシイ。

 玄松っつぁん、通説にピョコタンとアタマ下げていたんじゃ、掲示板での会話の場はす
ぐになくならいしょ。
 おらにとってのヤリガイは、ひとつにはバカ学者がずらりガン首を並べてけっかるとい
うこの事実だがね。
 ミナシャンも程度の差こそあれ「そういえばそうだ」じゃちゃうんかね。
 「うんにゃ、ちがう」いうひとは、図書館に通って通説バッカスを知識にすりゃ、それ
でいいんだ。
 学者ときいたら咬みつこうぜ。

[2316] Re[2313][2312]: ホクラ  玄松子 2001/12/27(Thu) 14:33 [Reply]
> > 場所的にも、祭神を見ても、瀬戸内航路の灯台「火(ほ)座」でしょ。
>
>  玄松子さんのお説には天目一箇を置くのですが,

ネットで検索したら、火座は「通説」のようでした。
じゃ、違うかもしれませんね。

[2315] Re[2314][2313]: ホクラ  Setoh 2001/12/27(Thu) 13:44 [Reply]
> 大阪の古代の地形に詳しくないのですが、昔はどのあたりまで、海あるいは沼地だったんでしょうか。

  小倉山から海の方に6キロ許行った所に有名な池上曽根遺跡があります。
それから南東1キロの所を熊野古道が通っています。この辺りでは熊野古道は海からはそう離れてはいないようには感じますので,上記遺跡が古代の海岸沿いとも考えられます。そうすると6キロほど内陸にはいった丘陵地帯となります。 ただ,小倉山は槙尾川沿いにあり,さほど急な流れの川ではないので,水量によっては船が遡上していたかも知れません。ただ溜め池が多い所を見ると水量は少なかったのかも。
 現在この周辺は,泉北ニュータウンと言う丘陵地帯を通る阪和自動車道が並行している泉北高速鉄道の和泉中央と言う駅があり,そこから上流へ1.5kmに小倉山があります。

[2314] Re[2313]: ホクラ  玄松子 2001/12/27(Thu) 12:35 [Reply]
> 泉州の丘陵地帯にも式内社の穂椋神社があり,もとの立地は和田の小倉山と言う所で,この地は到底灯台があった場所とは思えないのです。

「和田のはら」の和田ですね。
大阪の古代の地形に詳しくないのですが、昔はどのあたりまで、海あるいは沼地だったんでしょうか。

[2313] Re[2312]: ホクラ  Setoh 2001/12/27(Thu) 11:41 [Reply]
> 場所的にも、祭神を見ても、瀬戸内航路の灯台「火(ほ)座」でしょ。

 玄松子さんのお説には天目一箇を置くのですが,泉州の丘陵地帯にも式内社の穂椋神社があり,もとの立地は和田の小倉山と言う所で,この地は到底灯台があった場所とは思えないのです。
 どうも,両ホクラ社の命名が共通だと想定しますと,磐座に突き当たりそうで・・・。
 なお,保久良神社については,『住吉大社神代記』には「布久呂布山」の名前で登場するように『式内社調査報告』にあります。ルビはついていないので紋句は受付けませんが,「梟」を思わせますね。

[2312] ホクラ  玄松子 2001/12/27(Thu) 09:39 [Reply]
場所的にも、祭神を見ても、瀬戸内航路の灯台「火(ほ)座」でしょ。

[2311] 無題  なにがし [Url] 2001/12/27(Thu) 02:24 [Reply]
ピンクのトカゲ様
丹生氏の根拠地、和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷にも「ささ踊り」が残っています。
仕事が忙しいので改めて金曜にカキコします。

[2310] Re[2303]: 保久良神社と古墳  香具 [Mail] 2001/12/27(Thu) 01:18 [Reply]
>丁度,大神神社に露骨に近い所に古墳がないのと同じ現象ですね。

『露骨』を言い替えると『遠慮』するか、しないかですね。
(少なくとも)多少は『意識していた』ということですね。

>保久良神社や生駒銅鐸出土地のごく近くに古墳があればこの仮説はボツですが

 桜ヶ丘銅鐸などは尾根の北側斜面で平野や海岸側から見れない出土地点でした。他の銅鐸出土地点も現地へ行って再検証してみたく思います。新神戸駅裏側の『原・生田神社跡地』と思われる砂子山(現・布引丸山)も、弥生時代の生活遺跡が見つかるのは、尾根の北側になる、海側からは隠れて見えないところです。保久良神社は見える=目立つことに、意味があるのでしょう。『灘のひとつ火』の伝統がいつのころまで遡れるかですね。

[2309] Re[2305]:タクソさんと生田さん     香具 [Mail] 2001/12/27(Thu) 01:02 [Reply]
 紋次郎親分、機械はまだ新しいマックでしょ? ひょっとして、キーボードに下駄を履かせず熱い炬燵の天板に置いてませんか? パソコンは結露する環境も苦手ですが、うだる暑さも苦手です。カマボコ板かなにかでPC下部に空気が出入りする隙間を作りましょう。そしてキーボードは、スイッチの集まりですので、昔のタイプライターのように音を立てて盛大に打ち込むとすぐに修理&請求書です、十分お気をつけ下さい。軽くベチャベチャと打てば長持ちします。 と言っても、愚生が知っているアップルは、ジョブスとウォズニアックが居た頃、せいぜいスカリーが気を吐いていた頃までなので、最近の機種は判りませんです。<(__)>

 さて、神戸には『生田さん』はゴロ〜と居ません。(女優さんは居たかな?)
神戸には、中尾町という『活田長峡』(イクタナガヲ)の地に住んでいた一族が、後の世に移り住んだと伝承される山麓の地域がありますので、近いうちにたずねてみます。でも生田神社の祭祀は『雷大神』(イカズチノオオカミ)の裔、海上氏のちに後神氏になりますので、『生田さん(活田さん)』まで、なかなか辿れていません。すくなくとも神戸では『長田・生田・広田』とセットで考えてみたくも思います。生田神社から西を眺めると長田神社の神奈備山『高取山』がいつも印象深く見れます。遊び疲れた旧生田区、兵庫区に住む子供達は高取山に沈む夕陽を見ながら家路につくのでした。ビルの無い昔はもっと印象深かったことでしょう。

>保久良神社には秀逸な磐座があり・・・素直に「秀座」と言う・・・
というsetohさんのご説のとおりと思いますが・・・、
『ホクラ』→『ホコラ』(祠)とは、ならないのでしょうかネ?(悪乗り自覚済)
>『ハチオン間違えりゃ命とり』・・・でしたか。

[2308] Re[2307]: 三谷祭り  ピンクのトカゲ [Url] 2001/12/26(Wed) 21:53 [Reply]
> 三谷祭りで思うこと。→ささ踊り。そんな踊りありませんか?
笹踊りは、豊川流域に一九箇所
詳しくは、弊サイト第三話拾遺及び
弊サイトからリンクしている「そうだら国にようこそ」

[2307] 三谷祭り  なにがし [Url] 2001/12/26(Wed) 21:43 [Reply]
三谷祭りで思うこと。→ささ踊り。そんな踊りありませんか?

[2306]   ヒラカタの榎本さん  一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/26(Wed) 21:26 [Reply]
 埼玉県には旧浦和、大宮、上尾、桶川、北本にまたがる広大なヒラカタ(平方)があって、そこ
には榎本さんがゴロ〜っといらっしゃる。榎本武陽さんもその一派だろう。
 榎本の E は貴人で、本はいろいろ解釈できるが、埼玉の場合は MO(くに)TO(ひと)ではない
だろうか。
 ところで、枚方市には榎本さんはゴロ〜っと纏まっていらっしゃらんカネ。
 というのは、いまいち E や BIRA には「川」という意味がある。こりゃ古い。エデン語だ。

 有馬さんは、炭焼きの前は金属精錬士だよ。そう書いてあるじゃんか。額中央上部の第三の目
が有馬だ。紋ちゃんのいうこた信じなさい。ホレ、信じなさい。
 学者のいうこた信じるな、ホレ、信じるな。ホレホレホレ!

[2305]   タクソさん と 生田さん     一級×× 焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/26(Wed) 20:55 [Reply]
 谷川健一著『青銅の神の足跡』第4章に「北九州に上陸して東進する一団」があり、そのなか
で、託杜(タクコソ)神社は高磯(タコソ)神社、や宅蘇(タクソ)に関係あらいしょ、みたい
な記事がある。いずれも百済の氏族名に還元されるので、このままでは意味は掴めない。
 朝鮮語辞書と相談してみたが、めざましい意味にはぶっつからなかった。
 イタキソ様と何らかの関係あらまほしからめや。

 香具さん、生田さんがゴロ〜っと纏まって住んでいる集落は岐阜県可児郡、室原だと教えてく
れたひとありき。「きみの名は?」と訊いたら、生田さんだった。
 可児郡というのでやっぱ、金属精錬に関係あるやろか。「室」は山かな? MUL(水・族長)か?

[2304] アリャマー エノケン  Setoh 2001/12/26(Wed) 19:56 [Reply]
 田辺市に榎本姓がそこそこ。また榎本姓は有馬姓に変更したとか。その有馬については,前に日下倭人さんが当掲示板に以下の事を書き込んでくれました。
出雲の熊野には「有馬氏というのは、もともと出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期に大挙して紀伊に移住した」という伝承があり、また、朝鮮半島から出雲東部に渡来した有馬氏がスサノオ信仰を持ち、これを紀伊に伝えたとも言われています。以上。
日下倭人さんのHPの「紀州熊野本宮大社と出雲熊野大社」に記載されています。http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/
 三重県熊野市に花窟神社が鎮座,ここも有馬です。紀の国で扼殺された有馬皇子もいましたね。

[2303] 保久良神社と古墳  Setoh 2001/12/26(Wed) 16:34 [Reply]
 保久良神社には秀逸な磐座があります。素直に「秀座」と言う宗教的言葉では。

 この神社は高地性集落のようです。そうすると銅鐸祭祀の氏族がいたところと思われ、この山上の地は古墳を造営した氏族以前の先住民の聖地だったのでしょう。八幡社が香具さんのお見立て通りとすれば,古墳の立地場所として,保久良神社の場所から少々遠慮して離れた所としたと言えるのでは? 
 丁度,大神神社に露骨に近い所に古墳がないのと同じ現象ですね。
 尚、保久良神社や生駒銅鐸出土地のごく近くに古墳があればこの仮説はボツですが・・・。

[2302]   KHOKRA 神社  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/26(Wed) 02:09 [Reply]
 KHOKRA(木のウツロのなかになにもない)という非宗教の言葉……から「ホ」という
日本固有の精神がうまれでる過程を写してらいしょ。
 「ホの國」カネ。
 紋句あるカネ。オトコほじゃきあるね。
 香具さんほめてくたしゃい。この文字の復活!! おらやっぱ、メカの天才やろカネ

[2301] Re[2296]: 保久良神社と八幡宮  香具 [Mail] 2001/12/26(Wed) 01:34 [Reply]
 神社の立地条件というか場所の選定理由などを推測(邪推?)のも面白いですね。

>2.保久良神社の持つ海運による商流を簒奪するべく・・・

 これには、本住吉神社や敏馬神社などはどうでしょうか。江戸時代では、生田神社vs七宮神社の例もあるようです。岡本郷が開拓されていったのは、鎌倉時代初期だそうです。源氏の守護神、八幡大神を祭祀し始めるのが流行ったのかも。

 保久良神社、金鳥山ともに神戸市が指定した弥生時代の埋蔵文化財包蔵地です。保久良神社を中心とした周辺も遺跡が多く、あちこちが埋蔵文化財包蔵地となっています。
 『岡本八幡神社』周辺は、岡本梅林古墳、八幡谷古墳があります。
 『鷺宮八幡神社』周辺は、本山北町遺跡散布地となっています。
 八幡宮神社 神戸市東灘区本山北町5-2-10 (小路八幡宮神社)。ここは、源頼光の四天王の一人、臼井貞光が祭祀を始めたそうで、社殿は古墳の墳丘上に位置するということです。
 『茨木八幡神社』(中野八幡神社)周辺も、神戸女子薬大構内の弥生〜古墳時代の遺跡に続きます。
 鎌倉時代やそれ以降に勧請された神社であっても、社殿の鎮座・建立場所は往古からある塚の上のような、それらしい場所が選ばれたのだろうと思います。この八幡宮群が囲むのは、保久良神社の麓の『生駒銅鐸出土地』でもあります。ここから東方すぐ近くに『森銅鐸出土地』があり、西へ2〜3kmで『渦ヶ森銅鐸出土地』『桜ヶ丘銅鐸出土地』となります。
 だからどうした、という程の理由もありませんが・・・。

[2300] 砥鹿社殿について  榎本 2001/12/25(Tue) 17:30 [Reply]
さんこうになりました、れいの社はくらがり渓谷の山荘の上の県有林の上にあるそうです。
何の社かはわかりません、ただいちお管理事務書の許可がいるはずですが。

[2299] Re[2298]: 伝承について   pin☆(^。-)ノ蜥蜴 [Mail] [Url] 2001/12/25(Tue) 08:02 [Reply]
榎本さん
> 熊野からきたというのは,口伝ですわたしの叔父がいまでも熊野に榎本一族をなのる集落があるということを調べましたが戦後の混乱期に覚書は紛失しました。
> わたしが知りたいことは熊野にあるその集落のことです、どなたかぞんじませんか、私の先祖のルーツをこの機会に文章化したいのです。
「三谷祭り」の本の中に関連事項が書いてあります。
参考になると思います。
> 話はかわりますが砥鹿神社の本宮山の北側に現在の社殿とは別に社があるのを確認しております、地元のひとしかしらないようですが参考までに。
社殿のすぐ北側の薬師堂のことですか?
薬師堂なら、スカイライン駐車場から社殿手前に鎮座する守見殿神社
それとも国見岩の近くの岩戸神社のことですか?
国見岩左手から鎖を伝わって降りたあたりにも、いくつかの祠がありますね。
私は、牛久保です。

[2298] 伝承について  榎本 2001/12/24(Mon) 23:23 [Reply]
熊野からきたというのは,口伝ですわたしの叔父がいまでも熊野に榎本一族をなのる集落があるということを調べましたが戦後の混乱期に覚書は紛失しました。
わたしが知りたいことは熊野にあるその集落のことです、どなたかぞんじませんか、私の先祖のルーツをこの機会に文章化したいのです。
話はかわりますが砥鹿神社の本宮山の北側に現在の社殿とは別に社があるのを確認しております、地元のひとしかしらないようですが参考までに。

[2296] 保久良神社と八幡宮  Setoh 2001/12/24(Mon) 20:09 [Reply]
小雪さん、香具さんから,西摂津の保久良神社を八幡宮が取り囲んでいるとの興味津々のお話をお伺いしました。調べてみますと,:ー
岡本八幡神社 神戸市東灘区岡本6-10-1
鷺宮八幡神社 神戸市東灘区本山北町6-2-28
八幡宮神社 神戸市東灘区本山北町5-2-10 源頼光の時代
茨木八幡神社 神戸市東灘区本山北町4-14-9 寛政十一年
 ざっと地図を見ると1km程度離れて鎮座している姿が浮かび上がってきます。

 何故,保久良神社を八幡宮が囲んだか,酔考しましたので,ご批判を。
 1.八幡宮は欽明天皇の頃の勧請が多いとかで,蘇我氏が欽明天皇の名を持って、各地にその勢力を伸ばしていった手段だったと見ることが出来ます。
 2.保久良神社の持つ海運による商流を簒奪するべく,物理的に物流を妨げるべく,八幡宮を設置し,神官などを送り込んで,地域の勢力としていったこと。
 3.地元の産土神を二重化していって,保久良神社の影響力を割いていった。
 4.八幡信仰は古来からの神道としては新興宗教であって,丁度天理教が石上神宮の神威にあやかるように諸設備を石上神宮周辺に配置しているのと同じように,保久良神社の神威にあやかった。
 などなど。

[2295] 熊野と三河   pin☆(^。-)ノ蜥蜴 [Mail] [Url] 2001/12/24(Mon) 15:34 [Reply]
Setohさん
もう一度確認してみます。
蒲郡の三谷あたりは、大正時代まで熊野に別邸を構えており、
材木等を商っていたようです。
榎本さんは、御津町ということですから
おそらく、御津町の佐脇だと思います。
「神社を中心としたる宝飯郡史」でも
第一七章「熊野神の入国」で「佐脇庄と佐脇神社」の一節を設けています。
同書の編者・太田亮氏は、
『当郡に来り給ひし年代は詳かならざれど、各種の資料より推測するに平安末期の事にして、最初は西三河から入り、後本郡佐脇庄を根拠として更に渥美方面に向ひ、漸次東進せい如く思はる」としています。
なお、御津町広石には、熊野から来たという鈴木氏がいます。

[2294] 夜の三輪明神  Setoh 2001/12/24(Mon) 15:09 [Reply]
冬至の三輪山登拝と夜の三輪明神に参詣いたしました。多くの神社サイト発信の方々や掲示板にご投稿頂いている方々とお目にかかれました。

何丹生さん>写真付き掲示板が「みつかりません」って出てきます。
すみませんでした。当方のチョンボでした。早速直しましたので,よろしくお願いいたします。

榎本さん>わたしの家系は熊野からきたという伝承があり、1300年くらい前。
熊野三党の名前は,榎本、鈴木,宇井だったと思いますが,榎本の系統と言うことですか。しかし良く「熊野からきたという伝承」が伝わっていましたね。「江戸時代まで禰宜をしておりました」神社とは足助八幡宮?

pin☆(^。-)ノ蜥蜴>社宮神社の元の鎮座地
小生が聞いた話では祭礼もあるようですから,「小さな祠」以上のものかも。


[2293] ご意見ありがとうございます  榎本 [Mail] 2001/12/24(Mon) 14:57 [Reply]
わたしの父が下佐脇のでです。
いぜんから砥鹿大社との関係に興味がありましたので参考になりました。
熊野修験のはなしは軽率でしたのですいません。
わたしも砥鹿神社のことはもっと知りたいのでこれからもよろしくおねがいします。

[2292] Re[2284]: とうたらりィ〜〜 の冷や汗   pin☆(^。-)ノ蜥蜴 [Mail] [Url] 2001/12/24(Mon) 13:07 [Reply]
瀬藤さん
> 桃色蜥蜴さん> 社宮神社の元の鎮座地は宝飯郡一宮町大字一宮字野添
>  一宮町の砥鹿神社里宮の北の方角に今でも社宮神社が鎮座していると聞きましたが,元の鎮座地でしょうか。

里宮の北の方角と言うことになれば旧鎮座地の野添です。
住宅地図で調べてみましたが、住宅地図レベルでは、それらしきものは見当たりません。
小さな祠のようなものがある可能性は、あるかもしれませんが、
宜しければ、社宮司社に追加しておいてください。
[2291]  御津は中央……カネ  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/24(Mon) 07:57 [Reply]
 おら パソコン オー梗塞 キー板やられた
 ドイツ戦舟 しづ 直 ドガドガ大筒うった これ尊敬あるか どうやろか
 何がしさ やっぱ 古代語彙集 送るネ

 御津……岡山県やろが

[2290] Re[2289]: 御津町   pin☆(^。-)ノ蜥蜴 [Mail] [Url] 2001/12/24(Mon) 07:41 [Reply]
御津町は、東三河の宝飯郡です。
三河湾の北岸です。
蒲郡市と豊橋市の中間あたり
律令以前の穂国(東三河)は、三河と併合され(国府は、東三河の豊川市国府(コウ)町=旧宝飯郡国府)、715年の好字二字令により穂郡が宝飫郡(ホオノコオリ)となり、飫の類字の飯が宛てられたとされています。
旧宝飯郡は、蒲郡市、豊川市、新城市の一部(境川より南)、豊橋市の一部(豊川より北)です。
地図帳で確認してください。

[2289] 御津町  なにがし [Url] 2001/12/24(Mon) 01:09 [Reply]
榎本様
御津町ってどこにあるんですか。
勝手な想像なんですが、和歌山県伊都郡(高野山が有名です)にあります、丹生氏の「丹生祝本系帳」と言う文書に「御津の柏」という言葉が出てきます。そのまま受け取ってもいいのですが、その全文からみるとその一段だけ感じの違う文章となっており、どうも丹治氏(後の丹党)の影響があるかと推定しております。その文章に隠されている内容はもしかしたら鉱山師に関わる内容ではと。鉱山師と修験者は密接な関係があり、熊野と高野、吉野とつながっています。丹生氏のこの本系帳には「美乃の国の御津のかしはを頂いた」というような文があり、御津が地名で「かしわ」がある方の解釈どおりであれば、この文章の解読の可能性が高くなります。ちなみに、多治見市の地名の起こりは多治比から来ているそうです。
少しの可能性を追い求めて想像してみました。ちなみに丹治氏が丹生氏の養子に入ったのは空海の時代で西暦790年ごろの話です。

[2288] 砥鹿神社  ピンクのトカゲ [Url] 2001/12/23(Sun) 23:24 [Reply]
榎本さんは、佐脇の方ですか?
蒲形(現蒲郡)の鵜殿氏をはじめ
熊野との関係はあると思いますが、
それは、中世以降のこと
大宝年中創建された砥鹿神社の淵源を探るには、
熊野修験と結びつけるのは、早計です。

[2287] 砥鹿大社についての意見  榎本 [Mail] 2001/12/23(Sun) 21:51 [Reply]
はじめて投稿します、わたしの地元のことについて掲示があったので意見を述べさせていただきます。
わたしの家系は熊野からきたという伝承があり、江戸時代まで禰宜をしておりました、「御津町史」によればやく1300年くらい前にこの地に移住してきたことになっています
砥鹿大社についてもまずは熊野系の移住民が海から内陸部に定住していくかていで土着の信仰と融合していったのではないかと思います。
熊野修験の活動も見逃せませんが砥鹿の山宮は修験の山の痕跡があります。
参考までに意見を述べさせていただきました。

[2286] 無題  なにがし [Url] 2001/12/23(Sun) 13:11 [Reply]
setoh様
写真付き掲示板が「みつかりません」って出てきます。御確認を。

[2285]  のうのうたらり〜 のうタラリィ〜〜    焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/23(Sun) 11:20 [Reply]
 謡曲『羽衣』でも「のうのう‥‥その衣は(ワテノモンダガネ)」と天女が言うてま。
 「のう」はいまでも「なぁ」「ねぇ」と肩を並べて大分県、鶴岡地方での女性でも使
われています。「のうのう」は神への呼び掛け、拝み始めのことばだったそうです。
ネパール語の名前は NAMのほか NAU: がありますので、起源はやはり「御名におはします
‥‥」やろもんに。

 『かむなび』がシシミ(修験・神道・密教)採りあげんのはウソやと惟ふ。
 日本人が現存するかぎりで“固有の偏執(文化)”としている「気高さ志向」の根源は
シシミ(修験・神道・密教)の精神的中核部から湧いてでていることはタシカです。

 ま、瀬藤ドンのおことばは、格ノー場所がタランことやと思う。
 それまでは『あさもよし』にカキコしたらどげじゃろか。おらはその線で書くよ。
 加藤喜八郎さんにも声かけてみっぺ。加藤喜八郎さんもカキコするパソコン持ってはる。

[2284] とうたらりィ〜〜 の冷や汗  Setoh 2001/12/22(Sat) 21:36 [Reply]

桃色蜥蜴さん> 社宮神社の元の鎮座地は宝飯郡一宮町大字一宮字野添
 一宮町の砥鹿神社里宮の北の方角に今でも社宮神社が鎮座していると聞きましたが,元の鎮座地でしょうか。

福島雅彦さん> 『表・中・底』とは、砂鉄の露出鉱床・川の中洲・川底を表現しているのでは?。
大阪の住吉大社からは「鉄」のにおいはしないようですが,住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』には住吉大神を祀る神社として、紀伊国伊都郡丹生川上天手力男意気続々流住吉大神と言う長い名前の神
名が出てきます。住吉大神を木国管川の藤代の峯に鎮め祀ったが後に針間国に渡ったと記しています。 住吉大社の祭祀を司った船木氏は住吉神を播磨に遷すのに関わっているそうで,丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ船木氏が移動していった物語の反映と見ておられます。
(この辺りの記述は『古代の鉄と神々:真弓常忠』によっています。)

nickさん> そちらも「密教の掲載」を開始されるようですね
密教にまでまだまだ手と言うよりは頭がまわりません。八頭か九頭ほしい所です。

[2283] 500年前の社寺探索  nick [Url] 2001/12/22(Sat) 17:07 [Reply]
当地の古文書にある社寺を探します。
どうやら500年前焼失したらしいのですが、、、
一応、いい伝えの場所を。。。
つい、2、3日前も古城跡を調査に出かけましたが
薮が胸迄あって難儀しました。。
それと道跡が判らない、、、これが難点です。
しかし懐かしい再発見も3件ほどありました。
真言宗の供養塚や坊主墓など、地元のいいつたえと
異なっていたりで、、、、

そちらも「密教の掲載」を開始されるようですね。
楽しみにしております。
では。

[2282] Re[2277][2276][2275]: 亀の高良玉垂尊  福島雅彦 [Mail] [Url] 2001/12/22(Sat) 01:09 [Reply]
>  『岩波日本書紀』では塩土老翁は「しほつつのをぢ」と仮名が付くように,祭神の名としては塩筒翁とか塩筒男(土佐清水 鹿嶋神社)とも記されています。特に塩筒男となれば,これはもうほとんど住吉三神です。そうすると筒の解釈もまた津の男では成り立たないようで,塩の霊,例えば塩津貴などもあり得るのかも。

※何時も拝読しています。横合いから失礼します。
『塩土老翁(しほつつのをぢ)』⇒住吉三神(表筒男・中筒男・底筒男)から、連想ですが…。
≪『鉄』⇒し、『生』⇒ほ、『つつ』⇒土≫=砂鉄ではないでしょうか?。
『表・中・底』とは、砂鉄の露出鉱床・川の中洲・川底を表現しているのでは?。
※焼尻紋次郎様
『どゥとゥたらァ〜り、とゥたらり…』の、謡曲歌詞は製鐵の事と解釈した、李寧熈 説があります。長文になりますので、コピーをお送りします。

[2281] 社宮神社  ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴) [Mail] [Url] 2001/12/21(Fri) 18:40 [Reply]
席亭
現在、砥鹿神社(里宮)の末・守見殿神社に合祀されている倉稲魂神は、
社宮神社の祭神。
社宮神社の元の鎮座地は、宝飯郡一宮町大字一宮字野添です。
出典:「砥鹿神社誌」

[2280]   とぅとうたらァ〜〜り とうたらりィ〜〜    焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/21(Fri) 15:45 [Reply]
 関東も冷えこんできて、ひるから雪が降っています。ばってん、あおむきにひっくり返っ
て首ったま右に向けると3m先にはカルメンの情熱に似た紅カタシの花が咲いちょります。

 三日ほどまえから塩土老翁とかなんとか、おらが読めねぇをカラカウが如し漢字が出てい
たが、やっと「しほつつのをぢ」と出て来た。こうなると、打たんでも響かするばい。
 「ヂ」は柱である。WODI はオトコ柱なり。潮路の舟に男柱とはドッキングじゃんか。

♪√ とぅとうたらァ〜〜り とうたらりィ〜〜
   とぅとうたらァ〜〜り とうたらりィ〜〜
   とぅとうたらァ〜〜り とうたらりィ〜〜
   とぅとうたらァ〜〜り とうたらりィ〜〜 (これが73回ぐれぇくり返される)

 なんとかいう謡曲に出てくる一節ですが、海の学者・茂在寅雄さんさんは、この言い回し
から海原を航海する様子を連想しなすった。この連想……、当たらずといえど遠くも近くも
なかっぺ。
 TO は海であり、TAL は湖。TAR は「渡る」。TARA は星でありシュロの木(神木)。
 「たら」はまた水流であり、「たらり」の「り」は奉納であり、「人・神」である。
 このへんから TUTU が出ら。
 出る先は「ほにゃらか」; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

 カタシ……山茶花の古名。おらが黒きふる里、稲築町の町花。KARTA(指揮者)。

[2279] Re[2278]: お伝えしておきます。  Setoh 2001/12/21(Fri) 13:52 [Reply]
>  崇峻天皇の墓といわれている古墳は、どれも違うと返事されるんで
> すが、赤坂天王山、倉梯岡陵、藤ノ木古墳以外に説はあるんでしょう
> か?

 りんさん こんにちは。
所で、崇峻天皇陵ですが,お書きの三つの説のようです。
ただ,河内飛鳥の王陵の谷のどれかとか,崇峻天皇=物部守屋説まで入れると膨らみますね。
物部守屋の墓は八尾市太子堂付近にあり,神社関係者が祭典をされています。


[2278] お伝えしておきます。  りん [Mail] 2001/12/21(Fri) 10:31 [Reply]
 お久しぶりです。
 玄松子さんの書き込みを読ませて頂いて、参考などにもならないと
思いましたが、書き込ませて下さい。
 武内宿禰は宇佐神宮にもお祀りされている関係なのか、お返事をさ
れる方がいて、高良大社の祭神が武内宿禰というのは○、天照大神が
神功皇后というのは×、応神-忍耳尊は×、仁徳-邇邇芸尊は×、武内
宿禰が応神天皇の父というのは、違う様ですが意味あり気でした。
 蘇我氏の先祖とされていますよね。
 
 崇峻天皇の墓といわれている古墳は、どれも違うと返事されるんで
すが、赤坂天王山、倉梯岡陵、藤ノ木古墳以外に説はあるんでしょう
か?

  真実を教えて頂いているとは限らないんですけどね。

[2277] Re[2276][2275]: 亀の高良玉垂尊  Setoh 2001/12/21(Fri) 09:10 [Reply]
> 徐福本人、あるいは徐福系の道士だと、話は壮大で面白いですね。

 徐福と徐福の子孫が記述したものとされている『富士古文書』はおそらくは偽書でしょうが,その中に「武内宿禰、富士の大神宮へ奉幣にきて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。」と出ています。
『記紀』と『史記』との年代をつきあわせて,同時代になると見ているんですね。
 「不老」については玄松子さんのご指摘通りで,神話には徐福はともかくとして道教の影響が多く入り込んでいるのでしょう。要勉強です。
 道教研究の草分けだった福永光司さんの訃報が新聞に載っていました。

 『岩波日本書紀』では塩土老翁は「しほつつのをぢ」と仮名が付くように,祭神の名としては塩筒翁とか塩筒男(土佐清水 鹿嶋神社)とも記されています。特に塩筒男となれば,これはもうほとんど住吉三神です。そうすると筒の解釈もまた津の男では成り立たないようで,塩の霊,例えば塩津貴などもあり得るのかも。

[2276] Re[2275]: 亀の高良玉垂尊  玄松子 2001/12/19(Wed) 22:14 [Reply]
> 甲羅霊足,亀の甲羅に御魂をのせた尊,とすると,塩土老翁さんなんかも。

亀・龍宮ということで、浦島太郎の元になった話かもしれません。浦島太郎の特徴は、「不老」ですが、武内宿禰も同様ですね。
徐福本人、あるいは徐福系の道士だと、話は壮大で面白いですね。

[2275] 亀の高良玉垂尊  Setoh 2001/12/19(Wed) 17:32 [Reply]
玄松子さん,福島さん,ありがとうございます。
甲羅霊足,亀の甲羅に御魂をのせた尊,とすると,塩土老翁さんなんかも。

写真掲示板が発足して,珍しい方々から投稿頂いています。ありがとうございます。

[2274] 『高良玉垂尊』の幻想  福島雅彦 [Mail] [Url] 2001/12/19(Wed) 00:26 [Reply]
 『卑弥呼』は、倭國大乱収束の時以来談合輪番で何代も何人も続いた。
『天照大神』は、“아메-딸”(ame-ddal)大神⇒天(水縄連山の東端)に属する大神。
『玉垂れ』は、“다-아메-딸”(ta-ame-ddal)⇒全・天照大神=た・あま・たる・尊。
即ち、『玉垂尊』とは、歴代天照大神と歴代卑弥呼の全部の呼称である。
 以上、福島雅彦説でした。

[2272] Re[2270][2269]: 武内宿禰についての妄想  玄松子 2001/12/18(Tue) 21:52 [Reply]
> > 高良大社の祭神は武内宿禰です
> これは定説でしょうか? 物部系との説もあったような気がしますが。

失礼しました。「一説」ですね。
明治までは、武内宿禰としていたようですが、現在公式には、高良玉垂命です。

石清水に勧請された高良二社は、上高良が武内宿禰、下高良が玉垂命。玉垂命を物部祖神とする説もあるようです。高良玉垂命=景行天皇説もあって、面白いですが、複雑。

[2270] Re[2269]: 武内宿禰についての妄想  Setoh 2001/12/18(Tue) 21:26 [Reply]
> 高良大社の祭神は武内宿禰です
これは定説でしょうか? 物部系との説もあったような気がしますが。

> 最近、武内宿禰について、少し考えてます。
神奈備もです。いろいろ教えて下さい。
 大化改新で馬子の暗殺がうまくいかなかったら武内宿禰が高皇産霊の地位についていたと読んだ記憶があります。
また,イメージとして爺から塩土老翁と武内宿禰が似ているような気がしています。
1. 翁神で物知り
2. 塩土老翁は隼人・日向系 武内宿禰は肥前辺りか 共に九州系で安曇を使役した。
3. 日の神の子天孫を導く 
 南紀往復の疲れとほろ酔いの発想です。

[2269] 武内宿禰についての妄想  玄松子 2001/12/18(Tue) 16:21 [Reply]
最近、武内宿禰について、少し考えてます。
高良大社の祭神は武内宿禰ですが、「高」の字がついてますね。ということで、武内宿禰=高皇産霊について。
天照皇大神を神功皇后とする説がありますよね(誰の説かは知りません)。
天照皇大神の子・天穂忍耳尊は高皇産霊の娘、栲幡千々姫と結ばれ、邇邇芸命を生みます。
神功皇后の子は、応神天皇で、その子は仁徳天皇です。
応神天皇 と 忍耳尊
仁徳天皇 と 邇邇芸命
ちょっとだけですが、語感が似てませんか。
高皇産霊は忍耳尊の義理の父にあたるのですが、武内宿禰は応神天皇の父ではないかと思われるふしもあります。

[2266] 灯台下暗し  ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴) [Mail] [Url] 2001/12/17(Mon) 14:05 [Reply]
瀬藤さん
砥鹿神社(里宮の方)の末社の荒羽々気社
荒羽々気社の隣(向かって左)の祠
祭神名書いてないんですよね。
あれってなんなの
って疑問沸いてきました。
一度、確認してきます。
以外と大きな収穫あるかも

[2265] Re[2256]: おっと恵比寿さん  香具 [Mail] 2001/12/17(Mon) 09:26 [Reply]
横レスの横レスにて、重ね重ね失礼します。

>一般的に水死体は、男は下向き、女は上向きであがります。
>死体は普通沈みますが、水温が余り低くないと腐敗が始まり、
>体内にガスが発生して水面に浮上します。
>このとき骨格(骨盤の形)の為、男女で向きが違ってくる。

 漁業をしていた私の祖父、曾祖父からの言い伝えも、てつさんと同じです。
早朝、漁場へ向かう途中で浮遊している水死体を見つけたら、菰を持って舳先へ行き、水死体に向かって漁の成功に協力するかどうか問うそうです。そして大漁になったならば帰路に引き上げて浜へ連れて帰ると約束し、水死体の近くに菰を投げるそうです。すると(波の影響なのですが)、やがて水死体は菰の下側へ吸い寄せられるように入っていくらしい。
 不思議なことに、そういう日は豊漁になったようで、港への帰路には、菰と共に水死体が待っていて、船に引き上げ連れて帰る。水死体を載せた船は、その菰を舳先に巻き付けて帰港するので、浜で座っている引退した爺さん達がその目印を見つけると、漁協へ伝えて駐在さんを浜へ呼ぶ段取りになっていたそうです。

 これには、水死体と豊漁という恵比寿さん的な関係が見れますね。毎回この様には成ら無いのでしょうが、願望は汲み取れると思います。この例は南九州、薩摩半島側の漁村の話しです。

 また、ガスの発生による浮上と、海面上での発散により再沈没?、さらにまた発生して浮上・・・という周期があるというのも聞きました。それで捜索のときは、遭難日からの日にちと、潮の様子などを考慮して探していたそうです。(昔の言い伝え、現代は別)

[2264] 男と女の神  Setoh [Url] 2001/12/17(Mon) 08:53 [Reply]
 習志野のてつさん またまたの蘊蓄ありがとうございます。
 まともな土左右衛門は神に,逆は神様に出来ないとも言えるのでは。
 南紀と房総、風習は似ているのかも。

 所で,柏原市の青垣の東の山である高尾山の麓に,別居している夫婦神と同居の神社が数百メートル間隔で並んでいます。
北から 若倭姫神社,若倭彦神社,鐸比古鐸比売神社です。
若倭姫神社は磐座らしい岩の前に小祠,若倭彦神社は極めて狭い社域に目をおおいたい社殿,それに引き替え鐸比古鐸比売神社は何とも言えない神々しい雰囲気の神社です。数日中にアップします。
やはり夫婦神となってしまえば,同居の方が繁栄すると言えませんかネ。
勿論,独神の女神も優雅ですし,独神の男神も雄渾です。


[2263] Re[2261][2258][2256]: 再発見&HP再開  習志野のてつ [Mail] 2001/12/17(Mon) 00:11 [Reply]
 割り込み失礼・ご参考迄

> 海から寄りつく死体で,男の場合は下向きに浮かんでいた場合には,戎神として
> 葬り祀る,また女の場合には上向きの場合神とするそうです。
> その反対の向きの死体は神にはならないそうです。
> 以上,報告です。

  何か絡まるなどの制約が無ければですが、一般的に水死体は、男は下向き、女
 は上向きであがります。死体は普通沈みますが、水温が余り低くないと腐敗が始
 まり、体内にガスが発生して水面に浮上します。このとき骨格(骨盤の形)の為
 男女で向きが違ってくる。テレビドラマでも割りにキチンと区別しています。
 もし特別なものとして神があるなら、むしろ逆ではないでしょうか?
 つまり上向きの男性、下向きの女性死体は、「祭らないと祟られる」のでは?

[2262] 写真付き掲示板の新発足  Setoh [Url] 2001/12/14(Fri) 09:12 [Reply]
 写真付きの掲示板が散見され、これに刺激されて、新発足いたしました。
 
 皆さんが参詣された神社や訪れられた聖地をご紹介下さい。
 出来れば、写真などもお見せいただければ、なお幸甚です。

掲示板のアドレス http://bbs.basking.to/jinja/
です。

[2261] Re[2258][2256]: 再発見&HP再開  nick [Url] 2001/12/13(Thu) 19:26 [Reply]
> nickさん> 御無沙汰でした。
>  こちらこそ。
>  南紀の田辺の海岸に戎神社が鎮座しています。この神社がそうだったかどうかは不明ですが,海から寄りつく死体で,男の場合は下向きに浮かんでいた場合には,戎神として葬り祀る,また女の場合には上向きの場合神とするそうです。
>  その反対の向きの死体は神にはならないそうです。
>  以上,報告です。
>
> nickさん> 南九州にもそのようなことがあるんでしょうか。

漁業関連で、そのようなシキタリがあるか、ちょっと調べてみます。
案外、南西諸島辺りにはあるのかもしれません。。
>nickさんの掲示板は http://www.hayato.com/bbs_mado-0/index.html でしょうか。

こちらは過去ログになります。
今度は画像張り付けタイプにしました。

尚、南九州の神社は次へ、一応リンクしてますが。

http://isweb32.infoseek.co.jp/area/chestman/

[2259] Re[2257]: 清水市原の砥鹿神社  Setoh 2001/12/13(Thu) 14:04 [Reply]
> 清水市原に鎮座する砥鹿神社について
> 熊襲タケルを祀ったものである
> 九万では、少ないから十万(トマ)神社

現在は大己貴命が祭神ですが,熊襲タケルを祀っていたのですか!
熊襲タケルを祭神としている神社は現在見あたりません。熊襲の国にあるんでしょうか?nickさん。

> 九万では、少ないから十万(トマ)神社
九頭神社の近くに八頭神社がありましたが,十頭神社は見あたりません。吉野には十津川はありますが・・。

かつがれているような由緒ですね。

愛知県で砥鹿神社を摂社としている神社
半田市宮本町 成石神社
豊橋市横須賀町宮元 進雄神社
   牟呂町郷社 牟呂八幡社
豊川市野口町長万 菅原神社
蒲郡郡三谷町東前一舗 若宮社
が『平成祭礼データ』にありますね。

[2258] Re[2256]: 再発見&HP再開  Setoh 2001/12/12(Wed) 13:24 [Reply]
nickさん> 御無沙汰でした。
 こちらこそ。
 南紀の田辺の海岸に戎神社が鎮座しています。この神社がそうだったかどうかは不明ですが,海から寄りつく死体で,男の場合は下向きに浮かんでいた場合には,戎神として葬り祀る,また女の場合には上向きの場合神とするそうです。
 その反対の向きの死体は神にはならないそうです。
 以上,報告です。

nickさん> 南九州にもそのようなことがあるんでしょうか。
nickさんの掲示板は http://www.hayato.com/bbs_mado-0/index.html でしょうか。

[2257] 清水市原の砥鹿神社  ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴) [Mail] [Url] 2001/12/12(Wed) 12:35 [Reply]
清水市原に鎮座する砥鹿神社について
清水市にメールしたところ
教育委員会の渡辺さんという方から
電話を頂きました。

元々は、九万(クマ)神社と呼ばれていたようです。
近くに鎮座する久佐奈岐神社(祭神・日本武尊)に対し、熊襲タケルを祀ったものであるとのこと
九万では、少ないから十万(トマ)神社とし、
江戸の中期、宝暦年間(1751〜1763)に十万(トマ)から砥鹿(トガ)になったとのこと

[2256] 再発見&HP再開  nick [Url] 2001/12/12(Wed) 10:32 [Reply]
御無沙汰でした。(~_~)

レンタルしているサーバーが今流行りのウイルスに
侵されたとかで切替えを余儀なくされたようです。

しようがないのでこの数日、あちこちへ振り分けて
掲示板も画像付きに変更しました。
やっと何とか以前の状態に。

今年は、3本、忘れ去られた石碑(石仏)をやっと捜し当てました。
所轄の担当者が思いのほかお喜びです。(~_~)
分散した内容も年内には何とか恰好だけでもと考えていますが。

先月は、神社のお祭りと登山をからめて4回出かけました。

1/8:高原、霧島東神社「火祭」

国分(バス)〜霧島神宮(タクシー)〜高千穂河原〜高千穂の峰〜二つ石〜東神社

11/10:高千穂河原古蹟、霧島神宮「天孫降臨祭」

国分(バス)〜えびの高原〜韓国岳〜獅子戸岳〜新燃岳〜中岳〜高千穂河原

11/23:霧島神宮「ほぜさ〜」

国分(バス)〜霧島神宮(バス)〜高千穂河原〜中岳〜新燃岳〜獅子戸岳〜韓国岳〜えびの高原

11/28:初冠雪「韓国岳」

国分(バス)〜えびの高原〜韓国岳〜えびの高原

今年は、隼人の抗戦の地の探索で終りそうです。

[2255] 諫早から近江へ  Setoh 2001/12/10(Mon) 11:34 [Reply]
諫早からの発信ページを紹介します。 http://homepage2.nifty.com/fnn4204/
神社へ行こう のコーナーもあります。

 この諫早の北側が多良岳のある藤津郡です。ここには丹生神社も多く、また五十猛命とも縁があるようです。
 『肥前国風土記』藤津の郡お能美の郷の條に,この地の土蜘蛛を,紀直(きのあたひ)の祖穉日子(わかひこ)を派遣し誅させたとあります。この穉日子については,『国造本紀』には紀直同祖の大名草彦命の児若彦命を葛津国造に任じたとでています。
大名草彦命を祭神とする神社
 近江伊香 高月町高野 高野神社(式内)摂社に式内天比比岐命神社[アメヒヒキ]
 近江栗太 栗東町高野 高野神社(式内)
 紀伊在田 吉備町出 田殿丹生神社
 ここの由緒では,大名草彦命は高野大明神とも言い,丹生大明神の御子神としています。

 で,近くの余呉町の高時川の中流に式内丹生神社が二座鎮座、また下流に意太神社[イタ] ,伊波太岐神社[イハタキ]共に式内が鎮座、木の本の地名も併せて,五十猛命を連想します。
kokoroさんの御投稿から,勝手に脇道にそれた思いめぐらしでした。
木の本は日の本か?

[2254] 近江の日置氏@  kokoro [Mail] 2001/12/10(Mon) 00:05 [Reply]
 福井県敦賀市との県境近く、滋賀県伊香郡西浅井町に日計ヒバカリ山という奇妙な名前の山があります。山本武人氏の『近江湖北の山』 には、「どうして日計山と呼んでいるのか、地元の人たちに聞いてみたが、昔から呼んでいると話すだけであった(P149)」とあり、山名の由来がすでに分からなくなっているようです。しかしこの山は、日置氏による太陽の祭祀と観測の遺跡ではなかったでしょうか。
 『延喜式神名帳』近江国伊香郡内に、天比比岐命アメノヒヒキノミコト神社という神社が掲載されています。『式内社調査報告 第十二巻 近江』から、現在は滋賀県伊香郡高月町大字高野に鎮座している当社の「由緒」を紹介します。

「本社原起は古昔 日置部祖神 天太玉命の神霊を奉して此地に来り山獄に登り暦日を掌り給ふと云ふ、今も其の地を称して日波加里山と字す、然るに山地にして参拝の便ならざるにより神亀元年今の地へ遷座せしと云ふ、今猶古昔の神社のありし古蹟を存す <以下略>(P541)」

当社は現在、高野の集落の北1q程の所に鎮座しています。高野の集落にはやはり伊香郡内の式内小社、高野神社があり、天比比岐命神社はこの神社の境外末社です。このやや半端な扱いからも、当社が最初日波加里山≠ニ呼ばれる別の場所で祀られていたという「由緒」の記述が納得できると思われます。
 さて、日波加里山≠ニは日計山のことではないでしょうか。だとすればこの山は、文字通り古代における太陽観測の遺跡であり、そこには日置氏も絡んでくることになります。郷土史料等を詳しく調べた訳でもないので、「日波加里山」=「日計山」説は誰か他の人がすでに書いているかもしれませんが…。
 先日、日計山に登ってみました。山頂付近は西側が急峻でしたが、東側は三輪山山頂に似て緩やかな傾斜地が広がっており、そこは一面の熊笹が生い繁って疎らに灌木が生えています。灌木は、いかにも多雪地方らしく、根元から地面に向かってS字型に屈曲していました。日計山が日波加里山であるとすれば、神亀元年以前の天比比岐命神社は、この緩傾斜地のどこかにあったと思われます。ただし「由緒」のいう古昔の神社のありし古蹟≠轤オきものは見つかりませんでした。また、古代人は山嶽で、付近の山々のどの山頂から日が昇る(沈む)かでこれを計測した、というイメージがあります。このため、山頂からの眺望にも興味があったのですが、実際に行ってみると樹々に阻まれてよく分かりませんでした。しかし『近江湖北の山』には、見通しさえよければ、なかなかのものらしいことが書いてあります。「南側の眺望がよい。野坂の山々と東山山系が長い稜線を見せる。正面の高い山頂は乗鞍岳だ(P151)」
 一応、山頂へのルートも紹介しておきます。日計山は国土地理院 2万5千分の1の地形図『木之本』に載っており、最寄りの駅はJR北陸本線 近江塩津駅です。駅からは、プラットフォームに立つと谷を挟んでちょうど西側に山頂が眺められます。ただし、『近江湖北の山』に東側からのルートはないとあるので、僕は西側から登りました。西側から登る場合、最寄り駅は湖西線の永原駅になります。登山口は『木之本』の地形図で「大浦川」と印刷してある「川」の字辺りです。現地には菱形をした黄色い保安林の看板が立っていてこれが目印です。ここから東に進むと砂防堰堤のところで道が途切れるため、そこからは右手の尾根によじ登って尾根伝いに山頂を目指します。この尾根はダイレクトに山頂には通じていません。まず東に進んで大きな尾根に当たったら今度は南東に進み、日計山の南にある山の山頂に出たら、今度は鞍部を伝って北に進み日計山山頂に到達します。この間、できれば上記地形図とコンパスを準備していくのが無難です。山頂は三等水準点があるので間違うことはありません。尾根に登ってから普通の道はありませんが、通し番号が付いた県造林のプラスチック杭があるので迷うことはないでしょう。「藪こぎ」をするような場所もなかったと思います。
 ところで現在の天比比岐命神社は、日計山山頂から東南に約12qも離れた場所に鎮座しています。日計山が当社の古社地であるとすれば、ずいぶん遠くまで遷座してきたといえるでしょう。これについては、あるいは次のようなことが考えられるかもしれません。現・天比比岐命神社の東南に山田山という標高541mの山があります。この山の山頂があるのは日計山山頂を軸に、東西のラインから東南に約24度振った地点です。全くあてずっぽうですが、日計山上から眺めると冬至の朝日は山田山の頂上から昇るのではないでしょうか。冬至は太陽の祭祀において、この天体の復活儀礼が行われる重要な日です。遷座するにあたっては、この儀礼に関わりの深い山田山の麓を、特に選んだのかもしれません。
 少し補足します。日計山山頂の東側にある緩傾斜地は、灌木が疎らにあるだけでそれほど木が多くありません。これは雪のせいかもしれませんが、登る途中通ったほぼ同標高の山の頂上には、もっと木があった記憶があります。むしろ古代人が太陽の計測をする際、見通しのため、森を伐開した名残ではないでしょうか。それからまた、前述の近江塩津駅から福井の方に向かうと、次の駅は新疋田駅です。当然、そこには疋田という地名があると思われますが、これも日置氏の遺跡である感じがします。この駅は福井県敦賀市内にありますが、こうして湖北地方から敦賀へと日置氏の遺跡が残っていることは、記紀にある都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトや天日槍アメノヒボコといった渡来人のことを連想させます。特に天日槍の伝承は太陽の祭祀の残滓を感じさせるものがあり、古代湖北地方における日置氏の存在と何か響き合うように思われます。

☆ いつか続編のAもやる予定です。(^o^)/

[2253]  宣 戦 布 告      焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/09(Sun) 14:42 [Reply]
 ♪√ ゆくぞ 進むぞ ドンとやるぞ
    大和だましい ダテじゃない
    見たか 知ったか わがこころ
    堪忍袋の緒がきれた。

 この歌は真珠湾攻撃のあとに歌われました。あの日は日曜日だったので、おれ今日が十二
月八日だとカンちがいした。数字・オンチカネ。

 ミナシャァ〜〜ン!
 『かむなび』の胸ぇ借りてバカがバカなりに研鑽すること3年、そして瀬藤ドン、玄松っ
つぁんの支援のうちに、「ほにゃらか」には得難い猛大将軍の桜左近をえて、ここに大飛躍
を迎えました。
 日本語や古い日本文化がネパールとただならぬ関係にあるとのこれまでのあっしのくり返
しは、ハタ目にはただのあっしの強執だけのことだったかもしれませんが、インド方面から
吹いてきた文化の風の中心がネパールにあることは、ズバぬけた類似をみせる類似語彙が、
なによりも雄弁にそれを証明していることでした。

 いま「ほにゃらか」に出ているサイトはネパールで喋られている120種の言語の字引きで
す。ぜひ、お取り込みおきください。
 あっしの入手した情報では、「ネパールには35の言語がある」ということでした。そし
て N H K からの情報では「首都のカトマンズには60種の氏族がある」としばしば放送され
てもいたことでした。

 こんかいのネパール国内120の言語種は、谷ごとに喋られ微妙にちがう氏族語のことだ
と思われます。それにしても、これはテテテキなことです。この120が作動し始めるとき
日本の言語、民俗、歴史、神学、宗教、社会思想、政治経済、……“国体”の考え方にま
で、のっぴきならぬ深甚な強制変革を駆動する内在力を潜在させています。

 なんじゃろか、なんじゃろかと、神様の名前考えるヒマがあったら、「ほにゃらか」で字引き
の引き方を覚えなされ、「ほにゃらか」; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi

[2252] 多士済々  Setoh 2001/12/09(Sun) 09:42 [Reply]
 7世紀に入ってから蝦夷征伐のための征東将軍がもうけれれています。阿倍比羅夫,紀古佐美,坂上田村麻呂,大伴家持など多士済々で,征夷大将軍となっています。
 大将軍の名前を付けたのは,やはり蝦夷の方角にある災厄から逃れる為の「言霊」であったと言えるのでしょう。
 しかし何故,大将軍に方除の意味があったのでしょうか。やはり四方の敵を蹴散らすのは軍の頭領であったと言うことか。

> ★ 多氏はタシではなく、オオシと読むんだったかね。
多士はタシ,多氏はオオノウジだろうね。

[2251] ありがとうございました  マルヤ [Mail] [Url] 2001/12/09(Sun) 02:29 [Reply]
Setohさん、お陰さまで掲示板始めました。

小生の掲示板設置につきましては、当掲示板の席亭Setohさんに、素晴らしい見本を作っていただいたり、アドバイスをいただいたり等々、大変お世話になりました。
掲示板設置の始めに当たり、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
今後共よろしくお願いします。


[2250] Re[2249]:   サンスクリット語族の日本上陸……が出た    玄松子 2001/12/08(Sat) 19:24 [Reply]
> >  方位を司る神です。方位の吉凶にかかわるらしい
> ★ 方位を司る“どこの(民族の)”神でしょうか。
>   シナにもあるのでしょうか? 将軍というのはシナ語からの借用らしいが……。
>   たとえば、儒教でとか道教で、はいえませんか?

日本では陰陽道ですね。中国では道教となるのでしょうか。
神奈備サイトの、このページの最後の方にあります。
http://www.kamnavi.net/yamasiro/fujinomori.htm

[2249]   サンスクリット語族の日本上陸……が出た    焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/08(Sat) 19:11 [Reply]
> ソウルの民俗博物館に「天下大将軍」「地下女将軍」の木柱がソッテの側に立っていま
  したね。
★ 天下とは「地上とその上のほう」、
  地下とは MAT(女・大地)……そして「へび」。これで確定しました。
  しかし、この思想(?)は朝鮮を中心としたものだろうか? 

>  方位を司る神です。方位の吉凶にかかわるらしい
★ 方位を司る“どこの(民族の)”神でしょうか。
  シナにもあるのでしょうか? 将軍というのはシナ語からの借用らしいが……。
  たとえば、儒教でとか道教で、はいえませんか?
  金光教あたりではまったく出てこないのでしょうか?

> 凡河内で「おおしこうち」とルビ、凡焼尻紋次郎の端倪で何がでるんかね。
★ 多氏はタシではなく、オオシと読むんだったかね。
  なんにもなくて「オオシ」だったら 1「オ(神)・押し(意味不明)」でオシの神。
  もの言わぬ天皇様とか神さまが二人いたんだったね。すると、そのときから「オシ」の
  意味がワカランごつなっちょったとですばい。こりゃ。
  それじゃコマァ〜ル。福山東に「押撫」というキー・ワード地名があるのら。
  2 「王・SI(人)」すなわち「王族」あるね。
  それにしちゃ“凡庸”の凡とは、あまりにもへりくだっていやしませんかってんだ。
  梵語の凡ならむ。
  セシボンのボン……ならまいしょ。すなわちサンスクリット語族だろう。
  するってぇと、サンスクリット語がやってきたのは、西暦紀元前300年以降というこ
  とにならぁ。

  GRASS を「クサ」なんち言う連中はサンスクリット語族にきまってら、
  お蔭で捕まえたぞ、瀬藤ドン。多氏との関係を追ってみてくれへんやろか。誰かの研究
  成果だが、多氏は大牟田(福岡県南部のアリアケ海沿岸)一帯にいたという。
  多・凡氏が日本列島に到着したのは諫早のチクシ部がふさがったあとかも知れんね。

 イやァ〜、オモシロなった、桜左近さん、タボンが残した地名を追いかけてみようや。

[2248] Re[2246]:   「大将軍」とは方位でっか      Setoh 2001/12/08(Sat) 16:23 [Reply]
>  そういえば、朝鮮系の門柱には、この「大将軍」だったか「将軍」だったかが書かれていましたね。
ソウルの民俗博物館に「天下大将軍」「地下女将軍」の木柱がソッテの側に立っていましたね。
> >  凡氏の発音おせぇてな。シムンモグ RA 。トーマンカッソー、ナップンあるね。
凡河内で「おおしこうち」とルビ、凡焼尻紋次郎の端倪で何がでるんかね。

[2247] Re[2246]:   「大将軍」とは方位でっか      玄松子 2001/12/08(Sat) 12:57 [Reply]
>  玄松っつぁん、大将軍とか将軍……探していました。これ、方位用語でっか!

方位を司る神です。方位の吉凶にかかわるらしい。

[2246]   「大将軍」とは方位でっか      焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/08(Sat) 11:52 [Reply]
 玄松っつぁん、大将軍とか将軍……探していました。これ、方位用語でっか!
 
 秋田市の海よりのところでこの「将軍」をにらみつけてこの方、糸口もみつからなかった。
 東松山市にには「将軍塚」があります。
 こどものとき、朝鮮人のまねをして「チョッコン・カマイッソ(意味不明)」と言っていま
したが、どう見ても朝鮮語の響きですので、朝鮮語かと思ってきました。
 そういえば、朝鮮系の門柱には、この「大将軍」だったか「将軍」だったかが書かれていま
したね。

 凡氏の発音おせぇてな。シムンモグ RA 。トーマンカッソー、ナップンあるね。
 (*tumakas ;朝鮮語、フィリピン・タがログ語で「逃げる」)

[2245] Re[2238]: ありがとうございます。  玄松子 2001/12/07(Fri) 21:15 [Reply]
>  所で,トコロ天遷座の例を京都で見つけました。
> 伏見稲荷 → 藤森神社 → 真幡寸神社  (注 →:左が鎮座し右を追い出した。)
> 方角は伏藤は南へ、藤真は西へとなっています。この直角二等辺三角形が結界とすれば,深草結界ですね。玄松子さんに教えて頂いた加門七海さんを読み過ぎたようで。

城南宮も藤森も「大将軍」と言われていますね。
方位に意味がありそうな気配ですよ。

[2244] Re[2235][2234]: 教えてください。  ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴) [Mail] [Url] 2001/12/07(Fri) 16:40 [Reply]
玄松子さんありがとう。
> 資料『栃木県神社誌』が昭和38年当時のものですから、今は、古里村は無いかもしれません。
> 宇都宮周辺です。
河内郡河内町中岡本でした。
ほかに愛媛県越智郡菊間町田尻にも砥鹿神社鎮座してます。
砥鹿神社調べて20年近くなりますが、こんなに沢山あるとは知りませんでした。

[2243]   うんうんと宇奈月温泉        焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/07(Fri) 13:56 [Reply]
 右や左のタンナシャマ、おありがとうごぜぇやすだ。

 ヤスズミでしたか。やっぱ訊く紋だわさ。YAS はソグド系神さま。するとここではスミだ
けが関与してくる。いちおうアズミとは絶縁となるが、アヅミ、アズミはやはり「ア(大)
ズミ」で、SUM , TUM , DUM がステムとなる。まだまだ宿題ね。

 こういうことも考えられるなぁ。
* 龍の原音が *LU だったとして、これを言えない倭〜朝鮮の民が「ツ」というた。
  ミは神ばい。ただの I も神。
* ツツは「破壊と創造」のインド文化だが、とりあえず「神」として受容した。(國造り
  の神をチチブヒコというのはまちがい。ツツブヒコが正しい)。
* ドン>志賀海神社[しかうみ]「底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神」
★ なんで底・中・表みたいなことになったかというと、基本は S-OK(童神) O(神)に  あった。ワタツミとはどこでんここでん、少年神やろが。「ノコ(N-OK-O)の島」も
  博多湾にあるもんな。S も N もネパール語の強調接頭辞。
  この OK がオキナガタラシやオキクルミ(アイヌの始祖神……少年神)になってる。
  綿津見は英語のWATER(水)と同根。綿は歴史の途中に入って来た(光明皇后?)。
  すると、「綿津見」がアテ字された年代が逆算されるぜよ。

 凡の読み方……また、教えておくれ。もし「ボン」なら、こりゃ“倭人”じゃないよ。

[2241]   ムシムシ 大阪       焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/07(Fri) 11:44 [Reply]
 このことを「文化のドーナツ化現象」ともいいやす。

 おら、いちど大阪の下町みたいなところで、泊まったことがあります。
 夏で、クーラーも普及してなかったころでした。一帯は小さな町工場と小さな家屋が建て
こんでいて、ムシムシしていてさながら蒸し風呂。となりの身体からでた汗と匂いがそのま
ま浸透してくるみたいやった。
 歴史の汗でんな。
 諏訪の職員さんが「重層の総称」とウマいこといわはった。
 近畿では錯綜の重層……汗だらけでんねん。
 ところが関東以北では、文化がとても透けていて見やすい。
 遠野方言なんちアンタ、九州弁と出雲弁だらけでんがな。

 中央で歴史とか文化みるよか、周辺に出てみるのがいい。周辺いうても西南方面はおえん
ぞな、やっぱ重層があら。関東〜東北がいいのれす。
 近畿での100年分ぐらいが2000年分となって希薄。

[2240] 安住の地      Setoh 2001/12/07(Fri) 11:05 [Reply]
安住神社は「やすずみ」と仮名をうってある。『平成祭礼データ』
草創は平安初期、摂津住吉からの勧請とある。
で,住吉大社と安墨との関係については,『日本の神々3』で大和岩雄氏は,祭神の表、中、底の筒男(ツツノヲ)神のツツについての一つの説として,対馬の豆酸(つつ)の地を本拠としていた安墨系海人の「ツツの男」との紹介がある。

紋覚上人>祭神のうえから系統は出てこんやろか。
『新選氏姓録』安墨宿禰 海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
式内社では
信濃国安曇郡 穂高神社[ほたか]「穗高見命、綿津見神、瓊瓊杵尊」
筑前国糟屋郡 志賀海神社[しかうみ]「底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神」

安曇族の一族に凡氏 紀伊水道の沿岸には凡氏の姓を持つ海人族が分布し、摂津河内にも強大な凡氏がいた。凡氏は阿波、淡路、紀伊、摂河泉 などか。あたしゃ凡人。

> アズミは物部以上に日本列島文化の基盤カネ。
対馬から南九州,瀬戸内海、摂河泉を牛耳った海賊,海軍、海運業者のイメージがしますね。

> 砥鹿の発音おしえたもれ。
蜥蜴のトカ。今は咎めるのトガとも。


[2239]   おっと、しもた。“住”じゃった      焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/07(Fri) 09:28 [Reply]
 漢字オンチカネ
 「アスミ」ということもありうるのら。まさか、アンジュじゃなかろうと、思うばってん。
 アチャラカな発音での解釈がイノチ取りなんです。

 高根沢……この地名と村びとは、ゴソ〜っと、近くからか移動してきたと言ってたよ。
 その移動時期と神社の移動時期が合致すりゃせんやろカネ。
 名前がケタタマしいので役場に電話して訊いたことこれあり。
 TAKAT(権力)NE(指導者)SAWAR(議会・騎手)とも。

 砥鹿の発音おしえたもれ。トカ か トガ か。戸隠……クシも「神社」が神社と呼ばれる
ようになる前の呼称やな、こりゃ。楠木植えちょるモンネ。

[2238] Re[2236]: ありがとうございます。  Setoh 2001/12/07(Fri) 09:07 [Reply]
> 「森の中で土の階段で登っていきますと社があるんですが、どこか思いあたる場所はございませんか?」
上記のメールを頂き,虫を決め込むのもいかがかと思い,乏しい記憶の中から引っぱり出してお答えしたのですが,虫が飛んでいます。トカゲさんの爪の垢でもってとこですかね。
 神奈備は榛名山に参詣したことはないのですが,幽厳な森だそうですね。上記の神社に該当するのかも。

 所で,トコロ天遷座の例を京都で見つけました。
伏見稲荷 → 藤森神社 → 真幡寸神社  (注 →:左が鎮座し右を追い出した。)
方角は伏藤は南へ、藤真は西へとなっています。この直角二等辺三角形が結界とすれば,深草結界ですね。玄松子さんに教えて頂いた加門七海さんを読み過ぎたようで。

[2237]   胸 つ き 温 泉      焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/07(Fri) 08:49 [Reply]
 MON 記憶ざんす。
 蘇我 / 物部戦争のあと、聖徳太子の兄さんだと言い伝えられてきた蜂子王子という人物
が、出羽三山を開いたと言い伝えられておま。
 この蜂子王子には似顔絵が伝わっていて、ひとつは顔の特徴がハッキリしませんが、あっ
しゃ何かの本でもうひとつ、線描きのイラストものを見たことがある。
 それはインドのガンジーそっくりさんだった。ところが、確認のため、もういちど見よう
と探したがアナシの身ではなかなかみつからない。
 そこで、出羽三山のうちどこだったか……に、それを確かめるべく手紙かいたら「宝積
寺」の太田というひとから「オラシラン」いうて返事がきた。
 
 いま話題にでた安積神社と絡めて、宝積寺ってぇなぁメチャ古いものを感じさせる。
これ、神仏混淆の根の深さをさらけ出してんのとちゃうやろか。
 宝積寺の宝とは当時はやりのダイヤモンド搦みじゃなかろうか。
 そして“積”とはナンぞ。
 また、こういうことにより、『かむなび』さんも神社だけでなくお寺までジャンル広げな
ならんものを感じるがどな。

 “積”がひとり歩きしている。アズミは物部以上に日本列島文化の基盤カネ。
 いままであっしゃ、安積、安曇などは「めくら神(ADHO-MI)」と解いてきて、これが蝦
夷をはじめ、あちこちにかなりの整合性を見せてきたが、このへんでタバコにしたほうがい
いみたい。
 するとナンですけぇ、安曇をめぐっては漢字のうえからは安堵、安積、安積、奈津美が展
開され、発音のうえからはアド、アト、アズミ、アツミ、(アタミ?)の二様のアプローチ
門が予定されてるみたいやが、蝦夷管令を任けられた安東・安藤はどげなるとやろカネ。
 
 ツムの船……沖縄のウリズンのズンは「UR(水)イ(に)・潜る」だった。
 アイヌ語に見られる TUM , DUM(力・権力)が気にかかる。日本語アイヌ語 TU(古)。
 
 瀬藤ドン、奈津美・宇奈月(温泉)も入れて、祭神のうえから系統は出てこんやろか。
 高根沢の安積神社はアズミと発音するのかね。愚紋蒸しされたら電話して訊いてみる。

[2236] ありがとうございます。  ピンクのトカゲ 2001/12/06(Thu) 23:52 [Reply]
やっぱり、神社で解らないときは、
わからないときは、神奈備さんです。
瀬藤さん、玄松子さんありがとう。
私も、もう少し調べてみます。

[2235] Re[2234]: 教えてください。  玄松子 2001/12/06(Thu) 22:25 [Reply]
> この河内郡古里村とは、何県(府)のことでしょうか?

栃木県です。
資料『栃木県神社誌』が昭和38年当時のものですから、今は、古里村は無いかもしれません。
宇都宮周辺です。

[2234] Re[2233][2232]: 教えてください。  Setoh 2001/12/06(Thu) 22:12 [Reply]

> > 昭和七年八月十五日河内郡古里村大字下岡本から移転したもの。旧村社。『栃木県神社誌』より

この河内郡古里村とは、何県(府)のことでしょうか?

静岡県清水市原にも砥鹿神社「大己貴命」が鎮座していますね。

[2233] Re[2232]: 教えてください。  玄松子 2001/12/06(Thu) 22:09 [Reply]
> > 栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺に砥鹿神社が鎮座しているようです。
>
> 『神社名鑑』には記載無し。

昭和七年八月十五日河内郡古里村大字下岡本から移転したもの。旧村社。『栃木県神社誌』より
下岡本の由緒は、わかりませんので、

> 高根沢町には安住神社(tel 028(675)0357)が鎮座、ここの荒井神主にお聴きされるのがよろしいようで。

[2232] Re[2231]: 教えてください。  Setoh 2001/12/06(Thu) 22:02 [Reply]
> 栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺に砥鹿神社が鎮座しているようです。

神社本庁の『平成祭礼データ』には砥鹿神社の由緒については掲載されていませんが,祭神は手力雄命、お祭りは10月16日,17日のようです。『神社名鑑』には記載無し。
高根沢町には安住神社(tel 028(675)0357)が鎮座、ここの荒井神主にお聴きされるのがよろしいようで。

[2231] 教えてください。  ピンクのトカゲ(桃色蜥蜴) [Mail] [Url] 2001/12/06(Thu) 14:24 [Reply]
栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺に砥鹿神社が鎮座しているようです。
三河一宮・砥鹿神社との関係から興味あります。
知ってること在りましたら、教えてください。

[2230] Re[2229][2228][2226][2225]: 出雲建雄神  玄松子 2001/12/05(Wed) 19:12 [Reply]
> 余談ですが「彼を祀った社」の神代神社の祭神の宇夜都辨命とは「彼女」では?
> 『神国島根』の由緒には「女工の道を教えた云々」とありますし。さほど深刻な問題ではないんですが。それよりもここの神は龍蛇神だそうで,芳しいですね。

この神は、風土記のこの部分にしか現れない神ですね、解説には「主権女神か?」となってます。これは、「都辨」を「戸辺」と見て女神と判断してるのだと思いますが、都辨志呂神社の祭神は、素盞嗚尊・岐戸神です。ただ、一説には都辨=杖と考えられていて、これだと御杖として倭姫命を連想しますね。
ほんとうに深刻な問題ではありませんが。

[2229] Re[2228][2226][2225]: 出雲建雄神  Setoh 2001/12/05(Wed) 15:40 [Reply]
> この「彼を祀った社」は神代神社ですが、荒神谷遺跡の側(500mほど東)です。
前にkokoroさんから頂いた「荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置」の資料では諏訪神社元社の辺りになりますね。余談ですが「彼を祀った社」の神代神社の祭神の宇夜都辨命とは「彼女」では?
『神国島根』の由緒には「女工の道を教えた云々」とありますし。さほど深刻な問題ではないんですが。それよりもここの神は龍蛇神だそうで,芳しいですね。
荒神谷遺跡周辺  http://www.kamnavi/log/koujinvry.htm
MAPION http://www.mapion.co.jp/c/f?el=132/51/18.927&scl=70000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=35/22/24.839&size=500,500

 所で、石上神宮に話を戻します。石上神宮の祭祀は物部の祖の伊迦賀色許男命からいつの間にか皇族の五十瓊敷命の手元にありました。それを物部十千根大連が再度物部氏の手に入れています。この功労で彼が出雲建雄神として祀られたとも考えることができます。これは稚桜神社の祭神が出雲色男命で,色=醜=強=建とすれば,出雲建雄命とも考えられ,稚桜神社の社頭掲示では祭神を物部十千根大連の祖先の出雲醜男命に当てていますが,どうも出雲醜男命はそれほどの活躍をしているような話が残っておらず,それよりは物部十千根大連は出雲の神宝を奪い取って来た英雄で,十千根大連とは出雲の神宝の化身也,奪い取ったとは王権にも出雲にも聞こえが悪いので,斐の谷に降臨と言う伝承が生み出され,出雲建雄神と祀られたとも考えることができます。
日の谷へ神剣を迎えに行ったのは布留の物部邑智という神主です。それ以前は物部守屋大連とともに石上神宮の祭祀権も失い,これは柿本・小野・春日などの和邇氏族の手に渡っていました。天武天皇が政権につき,武器庫点検の際,石上物部首の子孫の生存を再び発見しますが,これが布留の物部邑智で,再度,石上神宮の祭祀権を取り戻します。その彼が出雲建雄神社の創建に関わるとすれば,やはり祖先いや祖神の物部十千根大連だったと思うのです。

[2228] Re[2226][2225]: 出雲建雄神  玄松子 2001/12/05(Wed) 00:37 [Reply]
> 出雲国風土記に、宇夜都辨命が、山に降臨した地で、彼を祀った社がある地を
> 宇夜の里といっていたが、「健部(たけるべ)」と名を変えたとあります。

この「彼を祀った社」は神代神社ですが、荒神谷遺跡の側(500mほど東)です。
剣がたくさん出土した所ですよね。
「荒神谷」という名も意味ありげに見えますね。

[2227] Re[2226][2225]: 出雲建雄神  Setoh 2001/12/04(Tue) 21:28 [Reply]
 ある方から,掲示板メールサービスのgenkamから「3日連続でウィルスが入りました。」との指摘を受けました。小生の所には来なかったので確認のメールを入れて,返事を待っています。もし,そのようなことが生じているのなら,お詫びいたします。皆様の所にもgenkamからウイルスが行っているようでしたら,掲示板過去ログ集の上部から脱退できますので,予防策を講じて下さい。

玄松子さん,ありがとうございます。
出雲の支配者が殺される物語
 殺す方   殺される方 出典
須佐之男命   八俣大蛇 古事記神代  酒を飲ます 
倭健命     出雲建  古事記景行  太刀の入れ替え
出雲振根    出雲入根 日本書紀崇神 太刀の入れ替え
吉備津彦他   出雲振根 日本書紀崇神 侵攻
物部十千根大連  ?   日本書紀垂仁 出雲国の神宝を奪い、掌る。

 出雲建雄神社は石上神宮の御本地よりも高い場所に祭られており,石上神宮が出来る以前の元々の社とする見方があります。この場合には(八俣大蛇,出雲建,出雲振根)をワンセットで考えることが出来ます。同時に(須佐之男命,倭健命)の相似的なことも頷ける所です。
 殺す側でも,(須佐之男命,出雲振根)はセットと考えることができるのかも。
 「振」が「布留」に通じるとすれば,八俣大蛇の化身としての出雲振根との見方は面白いですね。

[2226] Re[2225]: 出雲建雄神  玄松子 2001/12/04(Tue) 17:08 [Reply]
>  出雲建雄神,この神の正体は日の谷に降った八岐大蛇の変化の水雷神と言うことですが,有名な人格神に比定するとしたらやはり素盞嗚尊が近いと言うことでしょうか。出雲も説明が付きますね。

出雲国風土記に、宇夜都辨命が、山に降臨した地で、彼を祀った社がある地を
宇夜の里といっていたが、「健部(たけるべ)」と名を変えたとあります。
その理由は、景行天皇が「朕が御子、倭健命の御名を忘れじ」と云ったため。
その時に、神門臣古禰(=出雲振根)を健部と改名したともあります。

出雲振根が健部になって、出雲健部ってことでしょうか。

[2225] 出雲建雄神  Setoh 2001/12/04(Tue) 17:00 [Reply]
 天照真良建雄神と言う神名は珍しい名前で,『式内社調査報告22巻』によると「真良」の読み方も「シンラ」「マラ」と両説がありますが地図を見ますと鎮座地の近くに地名の真良は「シンラ」です。この神は備後国の式内社加羅加波神社の祭神との説があるようです。
 さて,天照からは太陽神,真良からは渡来系か金属か,建雄神から何がでてくるのでしょうか。
 同書によると,この神社の鎮座地は瀬戸内海気候で雨が少ないゾーンですから,社名も近くを流れる干川ではないかとも言われます。またこの神社の数キロに先に龍王山と呼ばれる水神を祭った地名が残っています。
 龍王山と建雄神とが大和と遠く離れた備後国に出現しています。祈雨と建雄神の組み合わせ,祈雨から八岐大蛇や天叢雲剣と結びつきやすいと言うことはありそうです。

 で,信濃国小県郡に式内社の山家神社が鎮座、その摂社に建雄社と言う神社があり,素盞嗚尊を祭神としています。伏見稲荷大社の摂社の猛男社も須佐之男命を祭っている所からは,タケオと言う響きにはまた素盞嗚尊が似合うようです。

 出雲建雄神,この神の正体は日の谷に降った八岐大蛇の変化の水雷神と言うことですが,有名な人格神に比定するとしたらやはり素盞嗚尊が近いと言うことでしょうか。出雲も説明が付きますね。

[2224] 感謝と謝罪  kokoro [Mail] 2001/12/02(Sun) 23:02 [Reply]
無事に戻ってきました。

setohさん> 八つ岩が見つからなくても、ご尊顔が拝せただけで満足です。またお会いできる時を楽しみにしています。
香具さん > 色々とお世話になりました。想像していたとおり、心のきめ細かな温かい人でした。それから、貴重な写真もいただいてしまってありがとうございます。
ZOUさん > ご本、貸していただいてありがとうございました。ちょうど読みたいと思っていた本だったで(カバーのしてある方)、本当に助かりました。これからもよろしくお願いします。

 僕のパソコンがウィルスに感染してご迷惑をおかけしています。本当に申し訳ありません。また、もしもkokoro-t@mug.biglobe.ne.jpのメールで12月2日付けのものが来ていたら、お手数ですがプレヴューもしないで削除して下さい(添付ファイルが実行されなくても感染します)。削除の仕方は下記のサイトの通りです。万一、プレヴューしてしまってもハードディスクがクラッシュすることはありません。
http://www.trendmicro.co.jp/virusinfo/default3.asp?VName=WORM_ALIZ.A

[2223] 感動の日の谷遠征とミニオフ会  Setoh 2001/12/02(Sun) 21:58 [Reply]
好天気に恵まれて快適かつ身震いのするような感動の時を過ごしてまいりました。
ひとえにご参加された方々の人柄とご声援を贈っていただきました皆さんのおかげです。ありがとうございました。

で,日の谷一体を探索しましたが,上流からの土砂が約2〜3m程堆積し,草が繁茂,更に多くの倒木があり,鉄火場であったかもしれない八つ岩も土砂の中に埋没してしまっているようで,残念ながら確認するには至りませんでした。
それにしても藪を切り開き,倒木を迂回しつつ,道なき道を切り開いて日の谷に既に到達されていた好青年kokoroさんのご案内,詳細な地図を持って丁寧に道や谷を確認して裏付けをとっていったきめ細やかな心の巨漢香具さん,彼らの後を適当にくっついて歩いた管理人は八つ岩発見以上のすばらしい人々を見いだしました。これ以上の収穫は望めないすばらしい日々でした。

[2222]   ある第三の目にまつわる奇祭     焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/02(Sun) 20:21 [Reply]
 殉教的な強執にみちたシーア派が、7世紀末に迫害され殺されたイマム・フセインの苦痛
を忘れまいとしてとり行う命日のアシュラ祭りは、胸を叩いたり、鎖でうったり、地方に
よっていろんな自虐にみちた行事がみられるとのことです。
 ワニ文庫『アラブ人の智恵』で、著者の澤田隆治さんは目撃談として次のように語る。

 『祭りの当日、レバノン東南部のナバティエという村の“中庭”に作られた一段高い野外
ステージの前には、おんな子供だけが押し掛けていて、青壮年の男の姿が見えないことに気
がついていた。男の子供たちは日本と同じような白いハチマキをしていた。
 舞台のうえでは、殉教にいたるまでの物語りが演出されていたが、退屈なものだった。そ
れがやがて「ウwォーッ」という雄叫びがおこって村じゅうの男たちが現れてきた。
 みると、どの男も額の上を10cmも剃りあげ、そこを刃物で割って血をしたたらせてい
る。皆、その傷口を掌で叩くので顔じゅうが鮮血に染まって、出血の多い男はその場に卒倒
した。ふと見ると、坊やたちの白いハチマキもひたい中央には血が滲んでいた』……と。

 インドで見られる“ひたい中央”につける朱色のマークは、ちょっと低いのではないで
しょうか? 実際にはもう少し上のほうで「モノ」が見えているようです。
 そこ(もう、ちょっと上)はイルカさんの孔と一致します。
 第三の目には、こんな奇習……ないはずがないです。ナバティエのアシュラ祭りの起源は
7世紀どころではなく、少なくとも3000年ぐらいの伝統はもっているはずです。

     ……………………
      ★ ここちよいトンボ釣りだったとのこって。席亭、こころさん、香具さん携
        帯からの電話あがあが。だが、いい時代になりもうした、なも



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