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掲示板のログ(平成十四年 十月)お名前の敬称は省略しています。

更新 H14.11.1

[3514] 倉橋山  yanase [Mail] [Url] 2002/10/31(Thu) 23:30 [Reply]
 ツバやクラから、ツバクラへ飛んでしまったのは、少々脱線ぎみでしたが、
地名などのクラが、雀や鳥の意味であるものは、やはり多くはないわけです。

 大和の倉橋山については、その可能性がある一つです。

 仁徳天皇(大雀命)の御代に、鳥の名をもつ二人の皇子・皇女が、謀反の疑ひをかけられ、大和の倉椅山を越えて宇陀郡へ逃げようとしました。二人の名は、速総別王(隼別王)と女鳥王で、速総別王が詠んだ歌が古事記にあります。
  梯立ての 倉橋山を 嶮しみと 岩かきかねて 我が手取らすも
  梯立ての 倉橋山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず
 この山を越えることが自由への第一歩だったのかもしれませんが、二人は宇陀郡で討たれました(古事記)。
 ハシ(橋)とは、異界との橋渡しとなる場所のことで、要するに境界です。その境界を簡単に越えられるのは、鳥であるわけです。クラハシのクラは鳥の意味である可能性が高いのです。しかし二人は、鳥の名前を持ってはゐましたが、簡単には山を飛び越えられませんでした。否、死んでその霊が鳥となって、クラハシ山を飛び交ってゐたのかもしれません。そのことを伝へた歌が、倉橋山の二首であるような気がします。

[3513] Re[3509][3507]: 「クラ」について  setoh 2002/10/31(Thu) 17:39 [Reply]
『平成CD』によると、御祭神名を高倉下と入力すると、御饌津大神も出てきます。
奈良県香芝市尼寺の厨神社(くりやじんじゃ)など。
このクラを雀とすると焼き鳥ですが、貯蔵庫に近いのかも。

火明命の御子神の武位起神も読み方はタケイタテと思っていましたが、タケクライオキなのかも。

大三元さんHP>愛宕の本尊(?)はカグヤマではないか
カグツチ、ツチが神名共通の言葉で、一方、ヤマにも神の意味を見ると言うところあたりからの解きほぐしでしょうか。言語音痴が思いつくレベルではないでしょうが・・・。

[3512] 続き  ユアン [Mail] 2002/10/31(Thu) 01:58 [Reply]
ともうあれいまは、「いざなぎりゅう」
「その伝統的い研究しています、
海と山の文化の違いについの比較も考えています。
漁業と焼畑についてはその性質にいつて
居通点があるようです。
じつに興味深いテーマなので
コレからも研究を進めていきたいとおもっています。
ではまた。

[3511] 海のモノと山のモノ(笑)  ユアン [Mail] 2002/10/31(Thu) 01:18 [Reply]
setohさん>こんにちは、これからどうぞよろしく(・ω・)b
たしかに海洋民族と焼畑民族は全く別個のモノですよね。
もともとは漁撈民族の文化が興味の対象でした。
ソレは今も変わってません。
でも今研究会で「伊弉諾流」を取り上げていて、
わたしも視野を広げるために今焼畑文化について
とりくんでいるのです。
赤痢に関する言い伝えはわたしもフィールド調査で
聞き書きをする機会を得ることができました。
「明治時代に赤痢が流行した。
衛生目的から巡査が太夫さんの家に石灰をまいた。
太夫さんは怒って巡査に呪詛をおくった。
赤痢の疫神を巡査にまくりかけた」
赤痢などは太夫さんに取って扱い易いモノであったそうです。
家をかこって赤痢をくいとめるのだそうです。
ちなみに「ほうそう」「はしか」「へぼ(詳細不明の病気)」は
かこうことが難しいそうです。
「囲う」というのは疫神をとじこめるための方法だそうです。
海洋民族と焼畑民族はそのルーツを南方系に見出すことができます。
海と山を制覇すればまた新たなヴィジョンを見い出すことができそうです。
ちなみにわたしは御祈祷に間する研究よりも
むしろ食文化について(焼畑による自給自足に興味を覚えました)
儀礼食や日常食をテーマとして選びました。
食文化をテーマに選んだ 

[3510] Re[3505]: はじめまして  setoh 2002/10/30(Wed) 21:57 [Reply]
ユアンさん ウエルカム。
> 卒論のテーマは「志賀海神社の祭礼と漁撈民族の信仰」です。
> いまは高知県物部村の伝統的食文化について研究しています。

志賀島と物部村、はてはて、どう言うつながりがあるのでしょうか。

物部村の祈祷や呪詛を行う太夫は、人の病を他の人に移し替えるようなことをするそうですね。
風邪はうつしたら直ると言いますが、赤痢をそのようにしたそうです。

[3509] Re[3507]: 「唾」について  yanase [Mail] [Url] 2002/10/30(Wed) 20:24 [Reply]
 最近読んだ大野晋『日本語はどこからきたのか』(中公文庫)85p に、こんな記述がありました。

 「…… クラ(雀)は沖縄のことばです。…… 考えてみるとツバメをツバクラまたはツバクラメといいます。…… タミル語ではクラは雀です。そしてツバにあたる単語としては、タミル語に tuv-u があって、これは、水が「飛び散る」という意味です。するとツバクラメとは、「水がとび散るように、すばやく飛ぶ雀」という命名であったのかもしれません。」

 福島県の棚倉町は近津明神のある地(近津明神の旧地が棚倉城)ですが、クラの地名のいくつかは雀ないし鳥の意味かもしれません。
 水を蹴るのは蛇ばかりでないようで、和歌の世界では良く「ケリ、カモ」と言ひますから(?)

[3508] 無題  yanase [Mail] [Url] 2002/10/30(Wed) 18:23 [Reply]
3488:香具さん> 神社に参拝したとき自分が願う以上に、(無数の先祖から)願われているかもしれない・・・『幸あれ』と。
> そのような世代の累積、時代の繋がりを形にしたものが神社かな?

 まったくその通りで、ふだん見落しがちな視点と思ひます。
 ただ先祖供養といふ形では無限に行ってゐては生まれ変はることができませんので、30年程度になってます。百年後の子孫に自分を供養せよとは謙虚ではないので、仏から神になって「幸あれ」と祈ってくれてゐるものと思ひます。

3484:かたばみさん> 神武の妃が事代主の娘、綏靖の妃がその妹、安寧の妃が事代主の孫娘。母系社会の意識で考えれば神武以降は出雲の子孫です。

 誰か母から娘への母系の古代系図を作ってくれないかと思ってます。

3493:hvhyさん> (野見宿禰と当麻蹶速 阿治志貴高日子根)「七夕」「葬送儀礼」「蹴るという動作」に関係している
3500:hvhyさん> 「火照」は「火鳥」(火の鳥)かもしれない

 面白い指摘と思ひます。阿治志貴高日子根が喪屋を蹴ったのは、以前はかかとで蹴り倒したのではないかと思ってゐたのですが、「蹴る」の古語の用例からしても、爪先で空中に蹴り上げたのだと考へるようになりました。蹴鞠や石蹴りの動作と同じです。蛇体なら尾の先で蹴ったのです。記紀などで蹴り上げる対象になるものに波や飛沫などもあり、波を起すのは蛇体の神なのでせう。相撲のシコは何らかの鎮魂の所作に違ひないと思ひますが、蛇体の神との関連ですね。
 玄松子さん紹介の当麻町のページは充実してまして、平林章仁著「七夕と相撲の古代史」なども読んでみたい書です。
 野見宿禰の埴輪で殉死が廃止になったといふ書紀の記述は、説話ですので、日本で殉死が行なはれたことの証拠にはならないと思ひます。
古墳と埴輪は同時発生と見たいのですが、最初の古墳が山の尾根の先端部分を切り離して造られたとしたら、蛇体の尻尾のようなもので、同じ大きさの神なら、蹴り上げれば美濃まで飛んで行くかも。

[3507] 「唾」について  hvhy [Mail] 2002/10/30(Wed) 13:17 [Reply]
>いつものように神奈備HPさんのお世話になりましたが:
>山城綴喜 棚倉孫神社「天香古山命 別名 手栗彦命」綴喜郡田辺町田辺棚倉49
>という神社があり、「手栗彦命が棚倉孫に転じたと言われている」
>という瀬藤さんの注釈があった。(棚倉孫:たなくらひこ)

この大三元さんのお話ですが、「御倉板挙」と「多具理」(手栗?)の関係ならば、
古事記に描かれています。「火遠理」が「綿津見神之宮」を訪問する場面がそれです。

>爾に火遠理命、其の婢を見て、水を得まく欲しと乞ひたまひき。
>婢乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進りき。爾に水を飲まさずて、
>御頸の王與を解きて口に含みて、其の玉器に唾き入れたまひき。(※「王與」は一字。以下同様)

ここで「火遠理」が「御頸之王與」(御頸珠)をしているのは、
「伊邪那伎」→「天照」→「火遠理」と継承されたと考えられる。
即ち「御頸之王與」は「御倉板挙」(御クラタナ)です。ところが、
「御頸の王與を解きて口に含みて、其の玉器に唾き入れたまひき」は、
原文は「解御頸之王與含口唾入其玉器」です。「唾」を名詞と受け取り、
「御頸の珠を解いて、口に含んで、唾(タグリ)として其の玉器に入れた」
と理解することも可能。この場合まさしく「御倉板挙」が「唾」(タグリ)。
ますますもって「棚倉」は「倉板挙」(クラタナ)ということになるでしょう。

#「天若日子」の「門」の「湯津楓」の上に「鳴女」。その一方で、
#「綿津見神」の「御門」の「湯津香木」の上に「火遠理」(火折)。
#話の展開は異なりますが、場面設定は同じです。このことを鑑みると、
#やはり「火遠理」が「綿津見神之宮」を訪問する話は、意外だとしても、
#「天若日子」と「アヂスキ高日子根」の話に大いに繋がっているわけです。
#ならば、「當摩蹶速」(阿多隼人)と「野見宿禰」(大隅隼人)にも繋がる。

[3506] Re[3504][3502]: 「膽武」は「板挙」(手)  大三元 2002/10/30(Wed) 09:25 [Reply]
イタケ、イタテなどを考えてみたサイト:
http://www.dai3gen.net/itate.htm

タカクラ、タナクラ、タクリ、などを考えてみたサイト:
http://www.dai3gen.net/takakura.htm

ご参考になるかどうか

[3505] はじめまして  ユアン [Mail] 2002/10/30(Wed) 00:23 [Reply]
皆様どうもはじめまして。
わたしは國學院大学の学生で、民俗学を学んでいます。
卒論のテーマは「志賀海神社の祭礼と漁撈民族の信仰」です。
いまは高知県物部村の伝統的食文化について研究しています。
でも実家が福岡市内ということもあり、海神信仰について
フィールドワークを何度もかさねました。
過去ログをみて、安曇磯良に関する記述があるのをみて
興味をそそられました。
民俗学に造詣の深い皆様と、ここでいろいろと
雑談を交わすことができればと思います。
どうぞよろしくお願いします。

[3504] Re[3502]: 「膽武」は「板挙」(手)  setoh 2002/10/29(Tue) 22:12 [Reply]
> 特に面白いのは、「板挙」の湯桶読みが「膽武」に近い点。
柳田國男翁は「板挙」を湯桶読みを気にせずに「イタケ」と喝破しています。
加良比乃神社のページから採録 http://www.kamnavi.net/it/kinki/miekarahino.htm

柳田國男が明治末期に発表した論文の『「イタカ」及び「サンカ」』が発端である。
 津軽にては> 婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり。(中略)イタコの語原に関する自分の仮定説は左のごとし。イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。(中略)
 さらにこれを本邦の古典に徴するに『古事記』諾尊得三貴子の条下に即御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者所知高天原矣。事依而賜也。故其御頸珠名謂御倉板挙之神とあり。御倉は神几にて祭壇の義なるべし。 この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。おそらくはイタケの神にして、姫神が神父を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。
> 「棚倉」は「御倉板挙」(御クラタナ)でしょう。
棚倉をイタケと出来れば、棚倉孫=高倉下で、どうやら五十猛尊に近づいてきそうです。ともに紀の国が初出の神のようです。

[3503] Re[3501][3497]: 王朝とは  かたばみ [Mail] [Url] 2002/10/29(Tue) 18:18 [Reply]
≫この場合の王朝と村の違いって何ですか

長くなるので青草に書きます。

[3502] 「膽武」は「板挙」(手)  hvhy [Mail] 2002/10/29(Tue) 17:07 [Reply]
>(垂仁天皇)是より先に、山背の苅幡戸辺を娶したまふ。三の男を生む。
>第一を祖別命と曰す。第二を五十日足彦命と曰す。第三を膽武別命と曰す。

これを古事記と較べてみると、
「膽武別」は「伊登志別」です。
ところが以下のような記事がある。

>(仲哀)天皇、即ち五十迹手を美めたまひて、「伊蘇志」と曰ふ。
>故、時人、五十迹手が本土を号けて、伊蘇国と曰ふ。
>今、伊覩と謂ふは訛れるなり。

したがって「膽武」は「五十迹手」に繋がりますが、
古事記に「御倉板挙之神、板挙を訓みてタナと云ふ」。
「五十迹手」という名前のうちの「五十迹」(イト)は、
地名の「伊覩」(イト)そのものですね。そういう意味で、
「五十迹手」は「伊覩」の「手」。名前は「手」と言えます。

仮にそうならば、「膽武」は「手」(タナ)であり、
したがって「板挙」(タナ)ということにもなります。
である以上、おそらく「膽武」も「板挙」も中身は同じ。
特に面白いのは、「板挙」の湯桶読みが「膽武」に近い点。

-------------------------------

>まず一方に「都都古」と「棚倉」のセットがあり、
>一方に「綴喜」と「棚倉」のセットがあることから、
>「都都古」〜「綴喜」〜「続」と結びつくわけですが、
>「続」は「糸媛」。古事記の「糸井比売」を示唆します。(※発言[3325]より)

前に書いたこの話ですが、地名や神社の祭神のなかに、
「糸」(イト)と「棚倉」の関係が残っているわけです。
やっぱり「棚倉」は「御倉板挙」(御クラタナ)でしょう。

そもそも「伊邪那岐」が持っていた神器(のようなもの?)は、
見る限り「伊都之尾羽張」(十拳剣)と「御倉板挙」です。即ち、
「伊邪那岐」なる神様を介して、「伊都」(糸・伊覩・五十迹)は
「板挙」(タナ・手)に繋がっている。多分そのような繋がりこそが
「五十迹手」という名前に盛り込まれている……そういうことでしょう。

#発言[3325]をご覧いただくと分かる通り、
#この話は「七夕」にも大いに関係してます。

[3501] Re[3497]: いつの世も、男はものの数ではなかった。  玄松子 2002/10/28(Mon) 20:22 [Reply]
ひとつだけ質問。

> またこの時代では王朝ではなく「村と村長」、村長会議の議長、といったイメージで捉えています。

この場合の王朝と村の違いって何ですか。
人口や面積じゃないですよね。

[3500] 記紀が描く「火の鳥」  hvhy [Mail] 2002/10/27(Sun) 22:19 [Reply]
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/bokei/bok-33.htm

玄松子さんにご紹介いただいた上記HPの筆者は、
「なぜ葬送儀礼の一貫として相撲神事があるのか?」
という問いから始めて「火の鳥」に辿り着いています。
まったくその通り。「角力」は「火の鳥」に繋がります。(※「角」は手偏が付く)

まず「武日照」の別名に「武夷鳥」がある。これは、
「照」という文字が「鳥」を表わす可能性を示唆する。(※記紀において)
実は「火照」は「火鳥」(火の鳥)かもしれないのです。
そして古事記には「火照命。此は隼人阿多君の祖」とある。

>(天武十一年)秋七月の壬辰の朔甲午に、隼人、多に来て、方物を貢れり。
>是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝庭に相撲る。大隅隼人勝ちぬ。(紀)

かなり昔になりますが、「隼人・曾婆加里」の「曾婆加里」は、
「曾富騰」や「當麻勾君」に繋がるものである。そう書きました。
そもそも「當摩蹶速」〜「當麻勾君」〜「隼人・曾婆加里」と連関。

然るに「野見宿禰」と「當摩蹶速」が角力をして「當摩蹶速」が負ける。
「大隅隼人」と「阿多隼人」が相撲をして「阿多隼人」が負ける。ここで、
仮に「當摩蹶速」〜「阿多隼人」〜「火照」(火鳥)と繋がるものであれば、
まさしく「當摩蹶速」は「火の鳥」(いわゆる不死鳥)ということになります。

[3499] 伊太祁曾神社  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/26(Sat) 21:41 [Reply]
伊太祁曾神社の奥宮司さまは、私たちにとって生涯忘れてはならない大恩人です。
神奈備さまとのお出会いも、1300年祭の直会席上でした。
宮司様が勇退されるなんて思いもかけないことでしたが、記念式典のご神事で古式の舞を奉納させて頂いたことは光栄なことでした。
立派な跡取りもおられるので、おおやびこさまも五十猛さまもさぞ安心なことでしょう。

それにしても、ネット復帰されて一安心。神奈備一族も危機を乗り越えたようで、おめでとうございます。

[3498] 伊太祁曾神社  setoh 2002/10/26(Sat) 21:07 [Reply]
伊太祁曾神社の奥宮司爺さんが、遷座1、300年記念式典の挙行を花道として引退されました。
戦後、学校の先生を兼ねながら、また神社への逆風の中、大変ご苦労様でした。
奥宮司のかざらない素直な人柄は多くの人々をひきつけ、神社への関心の心を育ててこられました。
これからは「語り部」として、ますますお元気で、伊太祁曾神社への参詣の善男善女とユーモアあふれる会話をされることでしょう。
ありがとうございました。

なんとかインターネットに接続に成功しました。いくつかの受信メールを紛失したかも知れません。失礼があればお許しくださいね。

[3497] Re[3492][3491]: いつの世も、男はものの数ではなかった。  かたばみ [Mail] [Url] 2002/10/26(Sat) 00:33 [Reply]
≫神武の妃が事代主の娘、綏靖の妃がその妹、安寧の妃が事代主の孫娘。
≫これが史実だとすると、

あちらをたてればこちらがたたないという矛盾が含まれてますが、かえって記紀がなにをやったかのヒントになると思ってます。
総合的判断(^^; によって婚姻は正しいとみました。
(神武東征というひとつだけを偽とすれば他の問題はなくなるようにみえるのです)

≫葛城王朝 vs 大和・出雲連合軍 で、連合軍の勝ち ってのは青草?

神奈備さんとこの説のことですね。
神武東征と邪馬壹国(あえて魏志倭人伝の表記でゆきます)。
この前提をどう考えるかで根本的に変わってしまうので・・

大和への神武東征説話は神武の九州統一(≒大国主の国譲り)を拡張した創作、邪馬壹国は九州日向〜宮崎とみています。
邪馬壹国東遷論とはちょっと違う、分家論とでもいうかな(後に分家が優勢になる)。
したがってもとから違う土俵になってしまいます。

ただし葛城(の祖)や物部(の祖)は婚姻によって出雲と同族といってもよい関係が生じていたと考えています。
同時に天孫と同族でもあって、白か黒かにはならない。
物部(の祖)は最古参の海運の元締め、葛城(の祖)は瀬戸内と北九州の海運の元締め(弥生の新参)だったと推定しています。

海運者に境界線はありません、交易に利があるなら天孫とも出雲とも交易する。
そのあたりが饒速日やナガスネヒコ伝承にもつながってゆく。
またこの時代では王朝ではなく「村と村長」、村長会議の議長、といったイメージで捉えています。


[3496] Re[3489][3488]: タイマノケハヤ  かたばみ [Mail] [Url] 2002/10/25(Fri) 18:26 [Reply]
≫いつまでたっても、人は増えません

あ、どじりました(^^;
香具さんの書かれてる祖先の人数が何人になるかの計算を逆にしただけでやってしまった。
一組の夫婦は2人ですから4人産まないと倍々にならないです。
失礼して再計算
3人産むと1.5人の世代乗かな、50世代(1500年〜1000年)で6億。

2005年だったかな、このあたりで日本の人口は減り始めるとどこかにありました。

[3495] 立ち往生  setoh 2002/10/25(Fri) 18:17 [Reply]
パソコンの再セットアップをしましたら,インターネットに繋がらなくなりました。com ポートが使えないと出て,往生してまんねん。
暫く書き込みやメールへの応答が遅くなると思いますがご容赦ください。

[3494] Re[3493]: 「相」と「藍」  玄松子 2002/10/25(Fri) 16:34 [Reply]
> 角力の話においては、このyanaseさんのご指摘が
> 最も重要であるように思われます。勝ち負け以前に、
> 葬送儀礼に関連づける観点そのものに意味があります。

http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/bokei/bok-33.htm
「野見宿禰の相撲が葬送の一貫と指摘されて・・・」

http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss03.html
「この相撲と葬送に関する百済の習俗との間に何らかの関係・・・」

http://www4.kcn.ne.jp/~t_kankou/kanko/minwa/main.html
「棚機と相撲との関係」

参考。

[3493] 「相」と「藍」  hvhy [Mail] 2002/10/25(Fri) 13:01 [Reply]
>野見宿禰と当麻蹴速の戦ひは、葬送儀礼の
>転換を物語る説話のようにも思へます。

角力の話においては、このyanaseさんのご指摘が
最も重要であるように思われます。勝ち負け以前に、
葬送儀礼に関連づける観点そのものに意味があります。

そもそもこの話は「垂仁7年7月7日」の記事です。
「7月7日」はいわゆる「七夕」ですが、述べた通り、
「阿治志貴高日子根」の説話も「七夕」に関係あります。

>大怒曰、我者愛友故弔来耳。何吾比穢死人云而、
>抜所御佩之十掬剣、切伏其喪屋、以足蹶離遣。
>此者在美濃国藍見河之河上、喪山之者也。(記)

ところが「切伏其喪屋、以足蹶離遣」とある。
ここに「蹶」(蹴る)という動作が出てきます。
いずれも「七夕」「葬送儀礼」「蹴るという動作」
に関係している以上、別々に見える説話は実際には、
何か同じことを別のアングルから述べているわけです。

>二人相對立。各挙足相蹶。則蹶折當摩蹶速之脇骨。
>亦踏折其腰而殺之。故奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。
>是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。(紀)

ここで注意すべきは、「蹶速」という名前は、
「蹶」(蹴るという動作)に由来することです。
この用字が問題でしょう。「蹶」の母字は「厥」。
他に名前に「厥」を負うのは「三嶋溝木厥耳」です。(※「木厥」は一字)

その一方で「袁本杼」(継体天皇)の御陵は、
古事記に「三嶋之藍御陵」、書紀に「藍野陵」。
但しここで言うところの「三嶋」は「摂津」です。
つまり和名抄の「嶋上郡」と「嶋下郡」がその範疇。
「嶋下郡」には確かに「安威」(アイ)と載っている。
また「嶋上郡」に「濃味」(ノミ)。これ即ち「野見」。

***

以上の繋がりから「三嶋溝木厥耳」の「三嶋」は、
おそらく「摂津」と想像されますが、実際そこには
「溝昨神社」(安威川に近接)が今も鎮座しています。
逆に言うなら、この神社が今も鎮座していることにより、
ここで述べた連関が文献以外の要素から補強されるのです。

翻って「二人相對立、各挙足相蹶」という部分を見ると、
「相」(アヒ)は「藍」(アイ)に通じます。である以上、
実のところ「二人相對立、各挙足相蹶」という表現において、
「アヒ」あるいは「アイ」という言葉を強調しているわけです。
どうしてこの言葉を強調するのか。そういうことを追究するのが、
「文献を読む」ということだと私は思っています。長くなりました。

[3492] Re[3491]: いつの世も、男はものの数ではなかった。  玄松子 2002/10/25(Fri) 08:42 [Reply]
> 女の数、産む子供の数、子供の死亡率、食糧確保などがポイントですね。

そうですね。
夫婦が常に2人づつ生んだのでは、絶対数は増えませんからね。

ところで、
かたばみさん> 神武の妃が事代主の娘、綏靖の妃がその妹、安寧の妃が事代主の孫娘。

これが史実だとすると、

玄> 葛城王朝 vs 大和・出雲連合軍 で、連合軍の勝ち ってのは青草?

これも青くなくなってくる気がしますよ。(紅葉の季節ですからね)

[3491] いつの世も、男はものの数ではなかった。  Setoh 2002/10/25(Fri) 08:24 [Reply]
女の数、産む子供の数、子供の死亡率、食糧確保などがポイントですね。

> 私たちの「古事記のものがたり第六話・黄泉つ軍との戦い」には書きました(~_~;)
神奈備掲示板[2639]で この頃の人口はどの位だったでしょう。
と出題しております。

[3490] 人口増加  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/25(Fri) 07:41 [Reply]
人口増加の原因が古事記に記されている?

よもつひら坂でいざなみといざなぎが大喧嘩をして離婚?した時に
いざなみが「お前の国の人間を毎日千人しめ殺してやる!」とわめきました。
するといざなぎが「それなら俺は毎日千五百人子どもを産んでやる!」と言い返します。
以来、人口が増え続けているそうですよ。
…と私たちの「古事記のものがたり第六話・黄泉つ軍との戦い」には書きました(~_~;)

でも、この掲示板は読んでいてとても楽しいですね。
難しい討論の場だけではないことが判ってほっとしています。

ところで、本題はなんだったのでしょうかね?


[3489] Re[3488]: タイマノケハヤ  玄松子 2002/10/24(Thu) 23:15 [Reply]
>  ま、だぶりを無視しての計算ですからいくらでも増えるのですが、例えだぶった分を除いたとしても、かなりな数になるのでしょう。

2組の夫婦が、2人づつの子を生むと第2世代は4人。その4人が婚姻すると、第2世代には2組の夫婦しかできません。この2組の夫婦が、2人づつの子を生んで・・・・
いつまでたっても、人は増えません。

実際は、もっと多くの夫婦がいますが、一定の地域の中でこの関係を繰り返すので、人はあまり増えないのではないかと思いますが。違うかなぁ。

[3488] Re[3487][3486]: タイマノケハヤ  香具 2002/10/24(Thu) 23:03 [Reply]
 1世代遡ると倍になるのですから、さらに1000年遡った弥生時代なんて地球上の全人口を遥かに上回る数になりますね。ま、だぶりを無視しての計算ですからいくらでも増えるのですが、例えだぶった分を除いたとしても、かなりな数になるのでしょう。すべての人が『万世万系』ですね!
 そして、両親から始めてご先祖さまを累計していくと・・・30世代前でも相当な数です。ご先祖供養も大変ですな!もし、この各世代のご先祖さま方が、子や孫をなしたとき『我が裔に幸あれ』と願ったとすると、もの凄い数のエールが発せられてきたかもしれません。時間と空間を越えて(良き)想いを感受したいものです。
 そのような世代の累積、時代の繋がりを形にしたものが神社かな?などと妄想しています。現代となっては、天津神系であれ国津神系であれ、どこの神社でも遥かな遠い時代のご先祖さまと言えるかもしれませんネ。先のエールからの空想ですが、神社に参拝したとき自分が願う以上に、願われているかもしれない・・・『幸あれ』と。
 信心などカケラも持たない者の寝言でした。<(__)>

[3487] Re[3486]: タイマノケハヤ  玄松子 2002/10/24(Thu) 20:11 [Reply]
> ≫1000年で30世代?
>
> はい、1世代30年として900年、単なる倍々計算で、2の30乗は約10億。

一世代30年とすると、1000年で33.3世代だから、2の33乗で、約80億。
20歳で子を産み続けるとすると、1000年で50世代なので、2の50乗で、約1000兆ですね。(計算あってるかな?)

[3486] Re[3485][3484]: タイマノケハヤ  かたばみ [Mail] [Url] 2002/10/24(Thu) 20:02 [Reply]
≫1000年で30世代?

はい、1世代30年として900年、単なる倍々計算で、2の30乗は約10億。

島国日本の1億人なら遡ればみんなどこかでつながってると思います。
北海道と沖縄がつながるチャンスは少ないとは思いますけど。

[3485] Re[3484]: タイマノケハヤ  玄松子 2002/10/24(Thu) 00:54 [Reply]
> 2人の子を産んで千年たてば子孫は10億人いるわけで、

どういう計算式なんでしょうか。1000年で30世代?

[3484] Re[3481][3480][3477][3476]: タイマノケハヤ  かたばみ [Mail] [Url] 2002/10/24(Thu) 00:29 [Reply]
≫これはまたどえらいことを!

当麻文書でも残っていればどえらいのですけど。
2人の子を産んで千年たてば子孫は10億人いるわけで、だれでも子孫になりそう。
人類皆兄弟(^^;

神武の妃が事代主の娘、綏靖の妃がその妹、安寧の妃が事代主の孫娘。
母系社会の意識で考えれば神武以降は出雲の子孫です。
子孫が祖先をだれだと意識したか、それだけの問題だと思うのです。

婚姻関係から神武と大国主はほぼ同時代の人物ということになります。
神武東征と大国主の国譲りにどういう関係があるのだろう??
そこからスタートしていろいろを総合すると、ある時代では大和が出雲の中枢だったと考えざるを得ない、それが持論になっています。

≫当麻とは西の出雲の象徴、すなわち負けたのは島根出雲、勝ったのが大和出雲と言う構図でしょうか

これは青草にて・・

[3483] Re[3479]: 教えてください。  yanase [Mail] [Url] 2002/10/23(Wed) 00:01 [Reply]
> 日本の神話、もしくは伝説で、海龍が船を沈めたり、
景行天皇の御代に、讃岐の海で大魚が荒れ狂ひ多くの船を沈めたので、皇子の讃留霊王(さるれいおう)が退治した話がありますが、鹿島のナマズなど、細長い魚類が竜神のようにふるまふことも日本の伝説では多いと思ひます。海に棲む竜が荒れ狂った話もどこかにあるかもしれませんが。

野見宿禰と当麻蹴速の戦ひは、葬送儀礼の転換を物語る説話のようにも思へます。当麻・二上山あたりが古い葬地でしたが、その後に、埴輪だけでなく、古墳そのものが作られるようになったと見ることができないわけではないわけです。

[3482] Re[3481]: タイマノケハヤ  玄松子 2002/10/22(Tue) 23:50 [Reply]

> > 国譲り以後の出雲の中枢は奈良
> 当麻とは西の出雲の象徴、すなわち負けたのは島根出雲、勝ったのが大和出雲と言う構図でしょうか。

葛城王朝 vs 大和・出雲連合軍 で、連合軍の勝ち ってのは青草?

[3481] Re[3480][3477][3476]: タイマノケハヤ  Setoh 2002/10/22(Tue) 20:53 [Reply]
> 言い伝えにすぎませんが、うちの先祖がタイマノケハヤなんです(^^;
かたばみさん、こんばんは。これはまたどえらいことを!
たかが相撲で蹴り殺されるのはいかにものこと、鼻っ柱をへし折られた程度か、野見宿禰に代表される勢力と当麻蹴速の勢力との戦争の物語でしょうね。埴輪を提案する優しさ。
 戦争と見ると、大和対出雲とすれば出雲の勝ち、大和西側対東側とすれば東側の勝ち、勝ったのは出雲ではなさそうですから、大和東側の勢力の勝ち(=野見宿禰は桜井の出雲)と出来るのかも。

> 国譲り以後の出雲の中枢は奈良
当麻とは西の出雲の象徴、すなわち負けたのは島根出雲、勝ったのが大和出雲と言う構図でしょうか。

[3480] Re[3477][3476]: タイマノケハヤ  かたばみ [Mail] [Url] 2002/10/22(Tue) 12:04 [Reply]
言い伝えにすぎませんが、うちの先祖がタイマノケハヤなんです(^^;

国譲り以後の出雲の中枢は奈良、島根出雲は大国主の引退場所、が持論です。
崇神に抵抗したとみえる三輪山の大物主とはいかなる神なのか、これが問題だと思います。

かたばみ

[3479] 教えてください。  whiskey [Mail] 2002/10/22(Tue) 09:43 [Reply]
日本の神話、もしくは伝説で、海龍が船を沈めたり、または寝ている間に寝返りをうって地震を起こす、というようなものを聞いたことがある方、そのことについて詳しく教えていただけないでしょうか?またそのことが書いてあるウェブサイトなどご存知でしたら教えていただけないでしょうか?

[3478] 無題  チョキ 2002/10/21(Mon) 22:15 [Reply]
皆様、こんばんは。

Setohさん。サン・グリーンさん。
ちょっと、順不同になってしまいますが、記してくださったことについて。

>>この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた事件の現場」の一つ
>となろう、と書かれています。
>千田稔先生の『王権の海』の中からの引用です。
あ。すいません。森先生、千田先生共に失礼致しました。

>setohは仁多米を送ってもらっています。おいしいですよ。
これも、仁多の人達に失礼でしたね。そうですか、おいしいのですか。食べてみたいものです。

>>〈1〉 「日の谷」伝説が、伝説を語る上で天武天皇を持ち出していること。
>壬申の乱で美濃や尾張の豪族が大海人皇子に味方していますが、おそらくこの中にも物
>部一族が参画していたのでは。

>天武天皇の登場は布留宿邑智と同時代と言うことかも。

Setohさんのおっしゃるとおり、私も壬申の乱にて物部は大海人皇子と拘わっていたと思っています。但し、私の場合、資料的な部分から導いた結論ではなく、最初に書き込みしたような想像を経て「なんとなく」というだけのことですが。
知識という点に関しまして、サン・グリーンさんがキャベツ一個なら、私は茗荷一本くらいですので(~_~;、理論的なお話にならなくて、本当に申し訳御座いません。

>出雲での大蛇伝承はどうやら江戸時代に盛んになって、伝承地が作られていったとか、
>そうしますと、サン・グリーンさんが書かれているように大和での話だったのかも。

伝承地の成立時期については、さもありなんという感じです。出雲神楽の成立と似たような時期だったのかも知れませんね。
神話が芸能や文芸に(ある意味において)堕したとき、村自慢のような形で作られていったものではないのでしょうか。案外、伝承地は国学が発達した後、幕末近くまで下るのかも。
ただ『古事記』の記述においては、八岐大蛇は「出雲國」「肥の河上」あたりにいたことになっています。現簸川の伝承地も、そこを踏まえてのことでしょう。
大和説。すごく魅力的ですが、もし大蛇伝説の源が大和にあったとした場合、『古事記』がそれを出雲とした意図はどこにあったのか。言い換えるなら、大和の伝説とするのに、不都合な部分はどこにあったのか。
サン・グリーンさんのお話が、鍵となるようにも感じます。

>しかし、ナガスネ一族の大倭の伝承は、皆さまにはきっと興味深いものがあると存じます。
是非、窺ってみたいものです。


[3477] Re[3476]: 無題  玄松子 2002/10/21(Mon) 22:01 [Reply]
> ノミノスクネはタイマノケハヤを蹴殺したけど、タケミカヅチはタケミナカタの命を助けましたよね。この点はものすごく大きな違いだと思うのですが?

タケミナカタは、神代の神であり、タイマノケハヤは、個人であるということでしょうか。神は基本的には死にませんから。

> (なんか、質問するのが緊張して、ドキドキしていますう。)

買いかぶりですよ。無責任な思いつきしか投稿しませんし。

[3476] 無題  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/21(Mon) 21:28 [Reply]
神奈備さま。

ダンノタイラのイワクラを村の人が再発見した時はとても感動でした。村の方々に案内して頂いて、一緒にお祭りにも参加しました。あそこはきっと、トヨスキイリ姫とヤマト姫がバトンタッチした場所、幻の三輪の元伊勢の場所だと直感して地元のみなさんと大喜びしたものです。その時村の皆さんが、子供の時に村中でお弁当をもって一年に一回、ダンノタイラに集まったものだと言われていました。その後、某先生をご紹介した時に古代出雲の検証して頂き例の本の中にも書かれていました。三輪山頂から長谷まであの道を通ればすぐですし、長谷寺にアマテラスが祀ってあり、与喜山にアマテラス降臨神話がある(長谷の山頂に太陽の道線上のイワクラがある)ことなどを考えると、あの周辺はほんとにあやしい!(笠荒神の周辺も…)


玄松子さま

ノミノスクネはタイマノケハヤを蹴殺したけど、タケミカヅチはタケミナカタの命を助けましたよね。この点はものすごく大きな違いだと思うのですが?玄松子さまはいかがお考えでしょうか?。(なんか、質問するのが緊張して、ドキドキしていますう。)

[3475] Re[3474][3472]: 無題  Setoh 2002/10/21(Mon) 20:31 [Reply]
『古事記』と『日本書紀』の記事の一致しているのを事実として、古代史を組み立てる論法がありましたが、違う所に着目のほうが、まだ科学的に見えますね。

> 建御名方神に勝った武甕槌大神には雷のイメージがありますが、当麻クエハヤに勝った野見宿禰の裔である菅原道真も天神と呼ばれ、雷のイメージですね。

この発想は凄い。時代を超えて、管公の雷神化のルーツを見定めようとする見解に初めて遭遇いたしました。ほんと、宮廷を雷が撃った段階で、時の藤原氏のインテリはピンと来たのかも。これは凄い。

[3474] Re[3472]: 無題  玄松子 2002/10/21(Mon) 17:50 [Reply]
> 「記紀」にと表現の場合『古事記』and『日本書紀』が正しいのでしょうが、実際、or の意味を持たしたいことがありますね。

建御名方神の力較べは『古事記』にしか登場せず、野見宿禰の相撲は『日本書紀』にしか登場しませんよね。これが重要(だと思う)。

モチーフの借用か、同じ事跡の言い換えか、単にネタ不足だったのか。

当麻クエハヤと建御名方神の共通点なども考えてみたいところです。
負けたということ、追い出されたということ以外になにかないでしょうか。

もう一つ。
建御名方神に勝った武甕槌大神には雷のイメージがありますが、当麻クエハヤに勝った野見宿禰の裔である菅原道真も天神と呼ばれ、雷のイメージですね。

[3473] 無題  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/21(Mon) 14:00 [Reply]
ひぇ〜(~_~;)

ここには、あの玄松子さまも降臨されているのですかぁ〜?
ホントニ、私たちの知識は平べったいので、ただ教えて頂いたことを信じてしまう。
というか、幼稚なんですよねぇ〜。すみません。
小林晴明が、神奈備一族さまを称して、僕たちは大農場主に家庭菜園のキャベツを一個持って行ってるような感じやねっ〜と、言っていました。
まさに、薄学を恥じ入りまぁ〜す。
それでも、それでも、ですね!
古代出雲は三輪〜長谷周辺だったと、なぜか私は信じ込んでいるのですう。昔そこで、ものすごい戦(国譲り)があったような気配を感じずにはいられません。嫉妬深いスセリ姫?も大国主が大和(三輪?)に帰る?のを色仕掛けで必死で止めていますよね。大和にはそれほど魅力的な何かが存在していたのでは???(霊能がないので直感だけで判断するしかないのですが)

しかし、ナガスネ一族の大倭の伝承は、皆さまにはきっと興味深いものがあると存じます。(ちょっと、急には信じられないというか?大倭には不思議な霊的なこともからむのですが…)


[3472] Re[3471][3468]: 無題  Setoh 2002/10/21(Mon) 13:58 [Reply]
> ちょっと気になったので。
> ・「その日のうちに島根の出雲から来」たのではなく、その日のうちに遣いを出したのではなかったでしょうか。
『日本書紀』垂仁天皇の七年
即日に、倭直の祖 長尾市を遣わして、野見宿禰を喚す。是に、野見宿禰、出雲より至れり。(岩波文庫)
その日に、倭直の祖、長尾市を遣わして、野見宿禰を呼ばれた。野見宿禰は出雲からやってきた。(講談社文庫)

野見宿禰はその日に来たのか後に来たのか読解力不足のsetohには決めかねますが、当麻クエハヤは近辺に自分より強いのはいない、と豪語したようですから、三輪山周辺に野見宿禰が居たのであれば耳に入っているはずですから、遠い出雲国ではなかったかと思われます。

三輪山の南麓に野見宿禰の墓とされた所があって、工事か何かで取り壊されたと、桜井市出雲に鎮座している十二柱神社のご近所の榮長増文氏の著作の『大和出雲の新発見』で読んだことがあります
三輪山の東に連なるダンノダイラが古代の出雲の地とされている本です。ここに牛三頭ほどの磐座があります。

「記紀」にと表現の場合『古事記』and『日本書紀』が正しいのでしょうが、実際、or の意味を持たしたいことがありますね。

[3471] Re[3468]: 無題  玄松子 2002/10/21(Mon) 11:11 [Reply]
ちょっと気になったので。

> 三輪周辺〜長谷にかけてが本来の出雲だったと桜井を開く会の方々は言われています。
> なぜなら、當麻のケハヤとノミのスクネに相撲をとらせた時、その日のうちに出雲から呼び寄せたと記紀に記されているのですが、相撲神社の場所までその日のうちに島根の出雲から来れるはずがない。三輪〜長谷周辺が出雲であった証拠だと教えて頂きました。

・「記紀」ではなく、日本書紀だけではなかったでしょうか。
・「その日のうちに島根の出雲から来」たのではなく、その日のうちに遣いを出したのではなかったでしょうか。

[3470] Re[3467]: 御意  香具 2002/10/20(Sun) 22:36 [Reply]
> 日の谷は陽気漂う所だと思います。妖気ではありません。楽しいハイキングにしたいものです。ね、香具さん。

はい、了解いたしました。
事前に詰めておきたい件がありますので確認をしてきます。

[3469] 無題  Setoh 2002/10/20(Sun) 22:20 [Reply]
>〈1〉 「日の谷」伝説が、伝説を語る上で天武天皇を持ち出していること。
壬申の乱で美濃や尾張の豪族が大海人皇子に味方していますが、おそらくこの中にも物部一族が参画していたのでは。
例の蘇我物部戦争で物部の貴人が石上神宮に匿われて、その子孫の布留宿邑智が日の谷の八つ岩の剣を得て出雲建雄神としたとのことですが、その事もあったのでしょうか、物部姓を名乗ることを認められています。
天武天皇の登場は布留宿邑智と同時代と言うことかも。

>〈2〉 信濃に天武天皇が遷都を企てたこと。
吉野も神仙境、諏訪はどえらい神仙境、と言うこともあったのかも。

> 鉄分の多い土地が、良い田になったとは思いませんし
setohは仁多米を送ってもらっています。おいしいですよ。

>この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた事件の現場」の一つとなろう、と書かれています。
千田稔先生の『王権の海』の中からの引用です。

> 三島鴨神社の祭礼について
今日、大阪市の中央図書館で調べて見ましたが、祭礼の資料は見あたりません。
若い神職さんがおられました。直接問い合わせたら教えてくれるでしょう。

> 相撲神社・兵主神社の上の龍王山
穴師山にも何かがあるとか。

[3468] 無題  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/20(Sun) 18:10 [Reply]
さっ、さすが神奈備さま!

ご明察! 恐れ多くも、その大倭神宮のイワクラなのです(*^_^*)
そこには楊貴妃の娘さんのイワクラまで(別の場所ですがあるのですよ?)
三輪周辺〜長谷にかけてが本来の出雲だったと桜井を開く会の方々は言われています。
なぜなら、當麻のケハヤとノミのスクネに相撲をとらせた時、その日のうちに出雲から呼び寄せたと記紀に記されているのですが、相撲神社の場所までその日のうちに島根の出雲から来れるはずがない。三輪〜長谷周辺が出雲であった証拠だと教えて頂きました。

相撲神社・兵主神社の上の龍王山の龍神様の池2ヶ所には今も水が沸いていましたが、岩くらは見つかりませんでした。どこかにはあるはずなのですがねぇ〜?

神奈備さまの掲示板にはまりそうな、私めでございます。

[3467] Re[3465]: 無題  Setoh 2002/10/20(Sun) 16:06 [Reply]
> さすが神奈備さまの掲示板ですね。
> 書き込みが学術的でなくて申し訳ありませぇ〜ん。
ここは神社好き、磐座好き、古代好きの人々の集いです。掲示板は情報を掲示し、さらにKJ法のようなブレーンストーミングの場です。その訳の分からない論議を見るに見かねて、前進させてくれるべく、学術的に説きおこしていただける方々が、現れていただけます。これが実にありがたいことです。

この前、矢田坐久志玉比古神社へ参詣した際、宮司さんから長随彦の本拠の話を聞きましたが、奈良市中町の大倭神宮の祭神が奇稲田姫、素戔嗚尊で、長随彦の子孫(?)がおられるとか。この辺の磐座でしょうか。

日の谷は陽気漂う所だと思います。妖気ではありません。楽しいハイキングにしたいものです。ね、香具さん。

出雲と諏訪
 信濃源氏の諏訪氏や信濃国ご家人の桑原氏などが出雲へ赴任して、諏訪神を勧請しているようです。建御名方神の名は『出雲国風土記』『日本書紀』には出てきません。『古事記』にしか登場しないのですが、出雲と建御名方神の話は果たしてご家人や武家が知り得たものでしょうか。
『島根県の地名』によれば簸川郡斐川町大字学頭の諏訪神社は天文八年頃の米原氏の建立になるものだそうです。
御佐山の佐伎多神社は諏訪大明神と言われていますが、この名前そのものが諏訪からの勧請を表すものではないでしょうか。島根県の神社誌である『神国島根』によりますと佐伎多神社の祭神に八坂戸賣命
の名も見えます。
佐伎多神社は丘陵の上に鎮座しているそうですが、付近はかっては沼沢だったそうで、古来より開拓されていた所なのか、宍道湖に浮かぶ島だったのか、風土記記載社に比定できるのか、簡単に結論にはいかないようですね。
出雲での大蛇伝承はどうやら江戸時代に盛んになって、伝承地が作られていったとか、そうしますと、
サン・グリーンさんが書かれているように大和での話だったのかも。梅原猛氏もそのような見解をだされていましたね。三輪山の形と大蛇の描写が似ているとか、これ撤回されたのかな。

[3466] またも長書き、ご容赦を。  チョキ 2002/10/20(Sun) 15:12 [Reply]
hvhyさん。
詳細な検討、御礼申し上げます。
書き込みを拝見した当初、思わずたじろいでしまいました(笑)。

>全体的に見ると、「真髪触奇稲田媛」の「触」は「布礼」(フレ)かもしれません。

>「日触使主」と書きましたが、本当は「日觸使主」です。
>「真髪触奇稲田媛」と書きましたが、「触」は「觸」です。
>即ち「燭」も「觸」もその母字は「蜀」。以上を踏まえると、
>件の「真髪觸奇稲田媛」の「觸」(布礼?)が示すものは多分、
>古事記が「燭一火入見之時」と言う時の「燭」あるいは「一火」。
>私はそう考えます。潜在的に「燭」(秉炬)であるところの「櫛」。
>そういう意味合いの「觸奇」(フルクシ or フレクシ)だと思います。


うーん。そうなると、完全に私の素人説は……。ちょっと悲しいですが、慌てておかしな過ちを犯さずに済んだことは幸いです。
とはいえ、懲りない私はhvhyさんのお話から新たな妄想を抱いてしまいました。
即ち、和珥臣と真髪触奇稲田媛から、最初にお話しした「鬼の舌震」伝説を想起してしまったのです。
あの「恋山」「志多布留山」の地名伝説は、玉日女命を慕った和爾が川を遡る話でしたよね。和珥臣と和爾を簡単に繋げて良いのかという問題がまた出てしまうものの、簸川周辺における和珥臣の影というものを考えてしまいました。
「志多布留山」にもまた、なぜか「布留」が登場しますが……。

玉日女命(どんなお方やら)に勝てない和爾。
和珥臣の系列に連なる者としての真髪触奇稲田媛を助けた須佐之男命。
真髪触奇稲田媛を元々支配する立場にあった八岐大蛇。
そして、意宇郡安来郷にて、天武期、語臣猪麻呂に復讐される和爾。

関連があるような、滅茶苦茶なような。
皆様は、如何お考えですか?


Setohさん。
「荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置」拝見しました。
森先生の御著作は持っていたものの、神奈備的な解釈が加わるとまた、ぐっと面白くなりますね。
御射山のことも出ていましたね(笑)
〈神奈備からの余談〉中、長髄彦との親近さ、經津主命、天日槍集団の存在、非常に面白く感じました。確かにものものしい感じです。
しかし、森先生の
>この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた
>「事件の現場」の一つとなろう、と書かれています。
というのには、私は疑問を持っています。
中国の遺跡において、祭祀を放棄しただろう場合、祭具等はばらばらに、穴に捨てられた状態で埋まっています(三星堆とか)。
にも関わらず、荒神谷・神庭の銅剣と銅鐸は、見事なまでに美しく並べて埋められてありました。この差を日中のフェティシズムへの考え方の差と言うこともできるとは思うものの、荒神谷とはあきらかに異質な精神性を感じます。
心情的にも「放棄」という形であれば、こうまで大事に埋める必要はなかったのではないかと思う次第です。
つまり、荒神谷の祭具は宗教的・呪術的目的から、埋めるべくして埋められたのではと、私は推理するのです。
まぁ、私が森先生に反論しても仕方のないことではありますが(笑)
私はあの「現場」は放棄された「祭りの墓所」ではなく、ある時期まで大きな意味を保ち続けた「活きた祭りの場」であったと考えています。
そして、その意味の上で周囲の神社について考えていきたいかと。

ところで、「日の谷」ですが。
>桃尾の滝の源流は平松山篠谷山とありました。この篠谷はどうやら日の谷でしょうね。

桃尾の滝の源流は即ち、布留川の源流と見なしてもいいのですよね? 
確か、石上の伝説に、布留川の上流から剣が流れてきて……というものがありますよね。「日の谷」を訊ねるにしても、石上の源を追うにしても、布留川の源はどうにも外せない感じです。
地図で見る限り、現在、布留川の源は長滝町(九頭神社)と苣原町(八頭神社)の二点になっています。苣原町の龍王山にある古墳群も、何か関係があるのでしょうか。
ただ、河川の流れは時代と共に変わるもの。埋没した水脈も存在するかも知れません。この辺りを記した古地図を見てみたいものです。(とりとめのない記述ですいません)


サン・グリーンさん。
始めてまして。よろしく、お願い申し上げます。

>また、クシナダ姫に関しては、これも偶然なんですが奈良の富雄の某所にクシナダ姫の
>お墓(イワクラ)があり、つい最近お参りしてきました。なぜここに?と不思議だった
>のですが、そこはナガスネヒコの土地で、記紀とは全く異なった神話が伝わっていまし
>た。
>それによると、スサノオは富雄に住んでいて、ヤマタノオロチは古代大和盆地が湖だっ
>た頃、三輪山周辺から石上にかけて住んでいた怪獣(産鉄民族?)だったと記述されて
>いるのです。だとしたら、日の谷の八つの岩は?????意味深ですね。

興味深いお話だと思います。
上の荒神谷と長髄彦の関係にも関わってくる気がしますね。石上と出雲はやはり、偶然ではなく八岐大蛇を通じて繋がりがあるように感じました。

[3465] 無題  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/20(Sun) 11:31 [Reply]
さすが神奈備さまの掲示板ですね。
みなさまの博識には圧倒されていまいます。

ところで、問題のクシナダ姫さまの島根県横田町の稲田神社なのですが、今はとてもさびれていて常駐の神主さんがいないそうです。10月26日午後1時からお祭りがあるそうなのですが、氏子さんの参加もまばらでさびしいとのことです。
今その社務所に住んでおられる染色家(つちしょうせん染め)の奥さんとふとしたご縁があって最近お知り合いになりました。(クシナダ姫の産湯の井戸があるそうです)

また、クシナダ姫に関しては、これも偶然なんですが奈良の富雄の某所にクシナダ姫のお墓(イワクラ)があり、つい最近お参りしてきました。なぜここに?と不思議だったのですが、そこはナガスネヒコの土地で、記紀とは全く異なった神話が伝わっていました。
それによると、スサノオは富雄に住んでいて、ヤマタノオロチは古代大和盆地が湖だった頃、三輪山周辺から石上にかけて住んでいた怪獣(産鉄民族?)だったと記述されているのです。だとしたら、日の谷の八つの岩は?????意味深ですね。
イワクラ探検隊の私としては(もし機会があれば)神奈備さまや香具さまに案内して頂きたくなりましたぁ〜!

書き込みが学術的でなくて申し訳ありませぇ〜ん。

[3464] 「真髪觸」の「觸」は「燭」  hvhy [Mail] 2002/10/20(Sun) 01:36 [Reply]
今一度ここで「触る」という動詞について見てみると、
四段か下二段かに拘らず、確実に「触る」という動詞で、
しかも音仮名表記されている例は、たぶん以下に尽きます。

>斯多那岐爾、和賀那久都麻袁、許存許曾婆、夜須久波陀布礼
>した泣きに、我が泣く妻を、昨夜こそは、安く肌触れ(古事記)

>箇多儺企貳、和餓儺勾菟摩、去尊去曾、椰主區半娜布例……「多」「尊」「半」は本当は偏が付く
>かた泣きに、我が泣く妻、昨夜こそ、安く肌触れ(日本書紀)

>宇具比須能、伎奈久夜麻夫伎、宇多賀多母、伎美我手敷礼受、波奈知良米夜母
>鶯の、来鳴く山吹、うたがたも、君が手触れず、花散らめやも(万葉集)

>宇麻勢胡之、牟伎波武古麻能、波都ゝゝ尓、仁必波太布礼思、古呂之可奈思母
>馬柵越し、麦食む駒の、はつはつに、新肌触れし、子ろし愛しも(万葉集)

偶然なのか何なのか、音仮名表記として残っている事例は、
(他に例が無いとすれば)全部が「触れ」という形なのです。
それぞれ音仮名表記は「布礼」「布例」「敷礼」「布礼」です。

>次妃、和珥臣の祖日触使主の女宮主宅媛、
>菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女を生めり。(日本書紀)

>又丸邇之比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売を娶して、
>生みませる御子、宇遅能和紀郎子、次に八田若郎女、次に女鳥王。(古事記)

ところが、「日触」という名前の人物(あるいは氏族)が日本書紀に出てくる。
これを古事記は「比布礼」に作る。ここでも「触」の音仮名表記は「布礼」です。
全体的に見ると、「真髪触奇稲田媛」の「触」は「布礼」(フレ)かもしれません。

-----------------------------------

>次に和珥臣日爪が女糠君娘、一の女を生めり。是を春日山田皇女とす。一本に云ふ、
>和珥臣日触が女大糠娘、一の女を生めり。是を山田大娘皇女とす。更の名は赤見皇女。
>文稍に異なりと雖も、其の実は一なり。(日本書紀)

音の問題に関して、これ以上のことは不明です。次は語義の問題に入りましょう。
引用した日本書紀の記事を見れば、「日触」は「日爪」でもあることが分かります。
どうして「日触」が「日爪」でもあるのか……これは古事記の説話を読むと判明する。(※書紀でも同じ)

>故、左の御美豆良に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、
>一つ火燭して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖、(古事記)

>爾に、速須佐之男命、乃ち湯津爪櫛に其の童女を取り成して、
>御美豆良に刺して、其の足名椎手名椎神に告りたまひき。(古事記)

「櫛名田比売」は「湯津爪櫛」に化身するわけです。したがって、
イザナギが刺していた「湯津津間櫛」も「櫛名田比売」に相通ずる。
この相通ずるということを、まず頭の中にイメージしてみてください。
「真髪【触奇】稲田媛」は「湯津【爪櫛】」に化身する。ところが一方、
「日触」は「日爪」でもある。この両者は結びついているのかいないのか。

「日触使主」の娘を「宮主宅媛」と言うが、その一方では、
「真髪触奇稲田媛」の母を「稲田宮主簀狭之八箇耳」と言う。(※いずれも「宮主」を負う)
「宅」は「ヤカ」と読むが、また「八箇」も「ヤカ」と読める。
こういう名前の連関は、偶然で済ますことのできる範囲ではない。
「日触使主」と「真髪触奇稲田媛」の繋がりは「触」だけじゃない。

「日触使主」と書きましたが、本当は「日觸使主」です。
「真髪触奇稲田媛」と書きましたが、「触」は「觸」です。
即ち「燭」も「觸」もその母字は「蜀」。以上を踏まえると、
件の「真髪觸奇稲田媛」の「觸」(布礼?)が示すものは多分、
古事記が「燭一火入見之時」と言う時の「燭」あるいは「一火」。
私はそう考えます。潜在的に「燭」(秉炬)であるところの「櫛」。
そういう意味合いの「觸奇」(フルクシ or フレクシ)だと思います。

#「石上振神宮」とか「石上振之神榲」の「振」からは、
#離れてしまったように見えますが、それは分かりません。
#「和珥臣」と「石上振神宮」の関係もある。さらに要検討。

[3463] 追伸  チョキ 2002/10/20(Sun) 00:22 [Reply]
Setohさん。
すいません、ご紹介頂いた「荒神谷遺跡周辺の……」ページ、拝見したつもりだったのですが、今、見直しましたところ、未見でした。粗忽です。
改めて、じっくりと拝読させていただきます。
ではまた。

[3462] ありがとうございます!  チョキ 2002/10/20(Sun) 00:13 [Reply]
hvhyさん。Setohさん。早速のお返事、ありがとうございました!

まず、hvhyさん。
すごいです! さすがです!
実は、HP等への書き込みは初めてに等しいものでしたので、皆様のこの反応の早さと情報収集能力にはちょっとドキドキです。興奮します。
こういう文献整理の仕方というのは身につけたいところですが、どうも私のオツムではうまくいかないのです。本当にありがとうございました。

>「振る」の已然形の「振れ」も、「触る」の已然形の「触れ」も、
>ともに「布礼」という表記で示される音ですから、これらの動詞は、
>まったく同じ音(但しアクセントは不明)で発音されたと考えられる。
>以上をまとめると、「真髪触奇稲田媛」の「触」という部分の音に関し、
>仮に「触る」という動詞の終止形で読まれたものと仮定する限りにおいて、
>「石上坐布留御魂神社」の「布留」と同じ。という結論に導かれるはずです。
#ところが厳密に言うなら、「真髪触奇稲田媛」の「触」の部分を、
#動詞の終止形で読んだかどうか。終止形で読んだ保証はありません。
#この点については改めて考察することにして、一旦ここで終わります。

続報、是非、お手透きの時に御願いできればと思います。
しかし、「布留」=「触」であるならば、クシナダヒメの正体にも迫れる感じがしてきます。
私は製鉄民に興味があるので、そちらにやや牽強付会気味に解釈し勝ちなのですが、「奇稲田媛」の「田」というのも、製鉄に関係するのではないかと踏んでいるのです。
なぜなら、タタラ師の隠語として、鉱物資源のある土地を「田」と呼ぶことがあるからです。
『出雲風土記』阿用郷にて目一つの鬼が出た「山田」。仁多郡「横田」郷(八岐大蛇の舞台と言われるところですが)にて良鉄が採れるという記述。これらの地名を稲作と直結して良いかどうか、私は疑いを持ってます。鉄分の多い土地が、良い田になったとは思いませんし(いや、私は農耕にも疎いので、断定はできませんが)。
ですので、「真髪触奇稲田媛」がもし、「布留」を通じて物部にシフトすることが可能なら、かの女神は「物部所縁の布留大神のおわす鉱床を守る女神」という言い方もできるのでは、と妄想する次第です。
で、となると、八岐大蛇はタタラ民の象徴であり、タタラ民が農耕民族を害しようとした、という従来の解釈は崩れるのでは……?


Setohさん。

>同好の士の登場歓迎いたします。

嬉しい、お言葉をありがとうございます!

>この岩を見ないことにはなかなか次に進めない気持ちでしたが、チョキさんの書き込み
>に刺激を受けてこの掲示板上でも再度考えていきたいものと思います。

そうですね。私も是非、自分の目で確認したいと思い続けているのですが……。新参者でいきなり御願いするのも何ですが、もし機会がございましたら、日の谷探求の会を設けていただければと思います。
生憎、私は東京者なので、ご同行が叶うかどうかは微妙なのですけれど、Setohさん達が辿り着くことができましたら、その結果報告だけでも窺いたいものです。

>おっしゃる通り、御射山は気に掛かる名前です。『風土記』記載社の佐支多神社は、
>『神国島根』によると別名が御射山ですが、この呼称が一体いつ頃からなんでしょうね。

『神国島根』。不勉強で存じ上げません。すいません。もしよろしければ、年代等のデータを教えて頂けないでしょうか。(お願い事ばかりで、ごめんなさい)

あと、でしゃばりついでに、弥生さんへ。
「和歌山のくじ運の良くなる神社」
以前、テレビで放映されていました。偶然、視たので、詳細はわかりませんが、「宝島」とかいうメデタイ名前の島にフェリーで渡ったところにある、島の氏神様だったと記憶しています。
宝くじの発売前後は臨時船が出るほどの賑わいということでしたので、案外、市役所等を当たっていけばすぐにわかるのではないでしょうか。
ただ、テレビを視ていて気になったのは、宝くじが当たった御礼の手紙等は沢山あるものの、その神社自体、決して潤っている感じではなかったことです。もちろん、神様は営利目的で御願いを叶えるものではないのでしょうが、人のがめつさにはちょっと、うんざりしました。もし、弥生さんが一億円当たったら、少しは神社に還元してあげて下さると嬉しいかも。

[3459] Re[3457]: 布留い話を蒸し返しますが。  Setoh 2002/10/19(Sat) 21:14 [Reply]
チョキさん こんばんは。同好の士の登場歓迎いたします。
 丁度、今日偶々奈良県立図書館の郷土資料館に立ち寄っていまして、日の谷についての情報探索のため桃尾の滝の所をみていました。何も出なかったのですが、桃尾の滝の源流は平松山篠谷山とありました。この篠谷はどうやら日の谷でしょうね。昨年末にkokoroさん、香具さんの導きで日の谷まではたどり着いたと思っていますが、八つ岩を発見できませんでした。
この岩を見ないことにはなかなか次に進めない気持ちでしたが、チョキさんの書き込みに刺激を受けて
この掲示板上でも再度考えていきたいものと思います。

ご覧頂いているとは思いますが、「荒神谷遺跡周辺の建御名方を祀る神社配置」については
http://www.kamnavi.net/log/koujinvry.htm
に紹介しております。
おっしゃる通り、御射山は気に掛かる名前です。『風土記』記載社の佐支多神社は、『神国島根』によると別名が御射山ですが、この呼称が一体いつ頃からなんでしょうね。

[3460] 「真髪触」の「触」(後半)  hvhy [Mail] 2002/10/19(Sat) 21:15 [Reply]
次に「触る」という動詞が音仮名表記されている例を見ます。
一般的に「古くは四段、後に下二段」と言われてます。例えば、
手元にあった小学館の古語大辞典だと、四段の例は次の通りです。

>於保吉美能、美許等可之古美、伊蘇尓布理、宇乃波良和多流、知知波波乎於美弖
>(大君の、命かしこみ、磯に触り、海原渡る、父母を置きて)[万葉集]

しかし「大君」は「神」にも等しい存在だったわけですから、
実のところ「磯に触り」の部分は「磯に降り」でも意味が通る。
「触る」という動詞を音仮名表記している確実な例には入らない。
確実な例で考えなければ意味がないので、この例は除外しましょう。

>〜、斯多那岐爾、和賀那久都麻袁、許存許曾婆、夜須久波陀布礼
>(〜、した泣きに、我が泣く妻を、昨夜こそは、安く肌触れ)[古事記]

>〜、箇多儺企貳、和餓儺勾菟摩、去尊去曾、椰主區半娜布例(※「多」「尊」「半」は本当は偏が付く)
>(〜、かた泣きに、我が泣く妻、昨夜こそ、安く肌触れ)[日本書紀]

次にこれですが、「こそ……已然形」という形なので、
「触れ」は已然形ということになって、これは四段です。
つまり、動詞「触る」の已然形であるところの「触れ」が、
古事記で「布礼」、書紀で「布例」と音仮名表記されている。
この記紀の例を見ると、たしかに「触る」は古く四段であった。

ところが一方の「振る」も四段です。四段の場合、
已然形と命令形は同じ「振れ」という形になります。
また命令形の「振れ」は万葉集に「布礼」とあります。
したがって、已然形の「振れ」もまた「布礼」という音。

>可敝流未能、美知由可牟日波、伊都婆多野、佐可尓蘇泥布礼、和礼乎事於毛波婆
>(帰る身の、道ゆかむ日は、五幡の、坂に袖振れ、我をし思はば)[万葉集]

「振る」の已然形の「振れ」も、「触る」の已然形の「触れ」も、
ともに「布礼」という表記で示される音ですから、これらの動詞は、
まったく同じ音(但しアクセントは不明)で発音されたと考えられる。
以上をまとめると、「真髪触奇稲田媛」の「触」という部分の音に関し、
仮に「触る」という動詞の終止形で読まれたものと仮定する限りにおいて、
「石上坐布留御魂神社」の「布留」と同じ。という結論に導かれるはずです。

#ところが厳密に言うなら、「真髪触奇稲田媛」の「触」の部分を、
#動詞の終止形で読んだかどうか。終止形で読んだ保証はありません。
#この点については改めて考察することにして、一旦ここで終わります。

[3458] 「真髪触」の「触」(前半)  hvhy [Mail] 2002/10/19(Sat) 21:14 [Reply]
|>太子の御方は、丸邇臣の祖、難波根子建振熊命を将軍と為き。

|>伊奢阿藝、布流玖麻賀、伊多弖淤波受波、邇本杼理能、〜 
|>(いざ吾君、振熊が、痛手負はずは、鳰鳥の、〜)

|以上は古事記からですが、「振熊」という名前に対し、
|歌謡においては「布流玖麻」と音仮名表記されています。

|>太子、便に石上の振神宮に居します。

|>石の上、振の神榲、本伐り、末截ひ、〜

|>伊須能箇彌、賦屡鳴擬底、挙慕摩矩羅、柁箇播志須擬、〜
|>(石の上、布留を過ぎて、薦枕、高橋過ぎ、〜)

|こちらは日本書紀です。「振」という地名に対し、
|歌謡においては「賦屡」と音仮名表記されています。

|>茜草指、武良前野逝、標野行、野守者不見哉、君之袖布流
|>(あかねさす、紫野ゆき、標野ゆき、野守は見ずや、君が袖振る)

|さらに万葉集です。「振る」という動詞に対し、
|「布流」と音仮名表記されているのが分かります。

これらを踏まえると、延喜式神名帳の「石上坐布留御魂神社」、
新撰姓氏録の「石上郷布留村」で知られる地名の「布留」の音は、
古事記の音仮名で「布流」、書紀の音仮名で「賦屡」と分かります。
また加えてその音は、動詞の「振る」と同じであることも分かります。

逆に言うと、動詞の「振る」と同じ音を持つ地名だったからこそ、
日本書紀は「石上振神宮」とか「石上振之神榲」とか記したのです。
「真髪触奇稲田媛」の場合も表記の原理は同じでしょう。したがって、
この名前の「触」の部分の音は、動詞の「触る」の音ということになる。
ならば問題は、「振る」と「触る」の音が同じだったかどうか?という点。

[3457] 古い話を蒸し返しますが。  チョキ 2002/10/19(Sat) 13:58 [Reply]
 初めまして。神社巡りが趣味で、ひとりでぼちぼち巡っている者です。
 ここ数年、クズ族→吉野→石上と連想ゲームをし続けて、つい二月ほど前、遅ればせながら、このHPを知りました。
 石上の「出雲健雄命」にはずっと引っかかっていたので、ここでの情報の濃さに仰天かつ狂喜乱舞致しました。
 私自身、「日の谷」の存在まではなんとか知り得ていたのですが、場所がわからず、桃尾滝付近で呆然と山を見上げて帰ってきたりしていたので、「ああ、もっと早く、皆様に出会っていれば」と……。でも、神奈備にようこそ! に出会えたことは、とても幸いだったと嬉しく思っています。
 その幸いに乗りまして、今回、ちょっと皆様からお知恵を拝借したいと思いました。最近のお話の流れから外れて恐縮ですが、ご容赦下さいますよう、お願い申し上げます。

・荒神谷の諏訪社
 過去ログでもご指摘のありましたとおり、荒神谷の周辺には諏訪神社が数社あります。
 ここの地図(1/5万)を見ましたところ、荒神谷の北・佐支多神社側に「御射山」という地名を発見しました。ご存じの通り、信濃の諏訪にも「御射山」という山があり、そこは元々、前宮の聖地、即ち建御名方神以前の諏訪神・ミシャグジ神信仰の一拠点でありました。諏訪大社(前宮)における建御名方神の名は建御名方神侵攻ののち、ミシャグジ神の上に上書きされたのですよね。
 そこで、仮説なのですが……この「ミシャグジ神に建御名方神を上書き」方式、荒神谷にも当てはまらないものでしょうか。
 ミシャグジ神は狩猟民と製鉄民族を通し「佐久地」「佐口」「将軍地蔵」などと名を変え、信濃以西にも分布。また、ミシャグジ神の御贄を調整したという仮説のある千鹿頭神は「近津神社」と名を変え、これまた伊勢にまで勢力を及ぼしているということです(未確認)。
 そのような分布を知るにつけ、諏訪の古い製鉄民が出雲に流入するのは不可能ではないように思いました。ミシャグジ神が蛇体であったという説を容れるなら、尚更、イメージは膨らみます。
 それで、もし、この仮説が有効ならば、皆様が仰っていた出雲健雄=建御名方神は、出雲健雄≒ミシャグジ神となる可能性も出てくるのでは、と。
 ただ、この話は荒神谷「御射山」の地名成立時期如何によって崩れます。生憎、今のところ、調べあぐねておりまして……。どなたか、この地名成立時期について、ご存じの方、いらっしゃらないでしょうか。
 ちなみにミシャグジ神を奉祭していた守屋氏は、物部の系譜に連なるということを一族の方(傍系の傍系ですが)から伺ったことがあります。飽くまで、噂ですが。

・天武天皇との関係
 私が信濃・石上・出雲を結びつけた理由のひとつに、天武天皇の存在があります。文章にすると長いので、私がひっかかっている理由をとりあえず箇条書きにしますと、
〈1〉 「日の谷」伝説が、伝説を語る上で天武天皇を持ち出していること。
〈2〉 信濃に天武天皇が遷都を企てたこと。
〈3〉 八岐大蛇伝説を記した『古事記』が天武天皇の勅令によること。
〈4〉 文献上、初めて名前の確認できる出雲守が、壬申の乱に戦功のあった忌部子首であること。

〈1〉は、たかが伝説ですが、私はこの中にわざわざ、天武天皇を持ち出したことが不思議なのです。八岐大蛇を語るのに、天武天皇を持ち出すのが不適切であることは、語り部もわかっていたばすです。なのに、天武さんの名を入れたというのは、何か意味があるのではないかと疑う次第です。
〈2〉は『日本書紀』の作者ですら、遷都理由に疑問を持っていることです。計画は簡単にポシャッたようですが、天武さんがなぜ信濃に目を付けたのか、その理由は記されていません。天武さんの名が大海人皇子であったことと、穂高から諏訪に分布していた安曇・海人族の関係は、こちらが認識している以上に深いのかも……。
 また、天武天皇に関してはクズ族と石上等の問題もあるのですが、これはまだ頭の整理が付いてませんので、仮説を立てるのは控えます。
 ひとつだけイメージを記させていただくなら、クズの龍蛇信仰は、藤原の藤・徳川の葵にも繋がるカズラ(葛)にも関係しているような気がします。
 葛が蛇神の象徴であることは、先学の研究により明らか(?)ですし、飛鳥浄見原神社での祭礼では社を日陰蔓で飾ります。新嘗祭・大嘗祭などの神事に用いる日陰蔓とクズ族の関わり、天武天皇とクズ族の関わり、石上周辺の九頭神社と、大蛇伝説のある日の谷の位置……。なんとも気になる存在です。

・フルと八岐大蛇
 次に「日の谷」の伝説から、八岐大蛇を調べての想像を記します。
 『出雲風土記』にはないとして、出雲を語る際には疎かにされがちな大蛇伝説ですが、いくつかのキィワードは隠されていると思います。ふたつ、箇条書きにしますと、
〈1〉 八岐大蛇伝説の舞台となった簸川上流にある「鬼の舌震」は『風土記』表記は「恋山{シタフルヤマ}」ですが、『出雲風土記抄』では「志多布留山」。
〈2〉 クシナダヒメは『日本書紀』一書では「真髪触稲田媛」「=マカミフルイナダヒメ」となっている。
 これらの「フル」と石上の「布留」に繋がりを求めるのは無謀でしょうか? 「真髪触」は「真神布留」?
 今のところ、私は八岐大蛇伝説に物部の影を見ているのですが、生憎、言語学には暗いので、「真髪触稲田媛」の「フル」が「布留」と同音かどうか、意味の共有が可能かどうかわからないのです。これもまた、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示下さいますと嬉しいです。
 あと、『出雲風土記』中、数ヶ所に出てくる布都怒志命・和加布都怒志命も気に掛かったりしてるのですが……。

 以上。とりとめもないまま、いきなり長い書き込みとなって申し訳御座いません。ご迷惑でしたら、無視してくださいね。また、私が読み損ねた過去ログに、既に答えが用意されていましたらごめんなさい。細かい疑問(愚問?)はまだ沢山あるのですが、あまり長くなるのも失礼ですので、今回はここまでにしておきます。この一文に興味を抱いて頂けて、何かご教示くださればホント、嬉しく思います。

[3456] Re[3453]: 質問  Setoh 2002/10/19(Sat) 08:30 [Reply]
> 和歌山にくじ運が良くなる神社があると聞きましたが、どこでしょうか。

これは知りませんでした。『和歌山県神社誌』を見ましても、御神徳についてはあまりふれられていません。
強いて言えば、朝椋神社(市駅近く)は九頭大明神と言われ、大いなる神徳をうたっています。九頭から籤への発想でした。
田辺に闘鶏神社が鎮座、源氏につくか平家に味方するかを占った神社です。
上記はHPに収録しております。
だた、一見さんとしてお参りしてそれほどの功徳があるものなのか、講などを組織し、時につけて境内の掃除など神への奉仕を積み重ねての御神徳の顕れと思われます。
神社名を教えてくれないのは、積み重ねのない人に即効性がないからとの考えによるものかと。

[3455] 陽気な日にむかつくもんね  Setoh 2002/10/18(Fri) 17:19 [Reply]
熱田神宮の鎮座地は台地で、往古には海に突き出ていたミニ半島だったそうだ。
徐福渡来伝説があるように蓬莱山と見なされていました。
『伊勢と熊野の海』(小学館)によれば、『尾張名所図会』には小蓬莱と書いて、これを「をはり」と読ませる詩句があることを紹介している。
熱田神功へは二度参詣しましたが、実は清水社なる祠は気がついていません。ここは、本宮の下から湧き出る清流を清水と言い、その泉の中に苔生した石があるそうで、なんと楊貴妃の墓のカケラだとか。
『伊勢と熊野の海』によれば、唐の玄宗皇帝楊貴妃とともに蓬莱宮に至る。熱田明神是なり。とあるそうだ。
熱田神宮に楊貴妃伝承が出来た背景に日本武尊がからんでいるとの説もあります。
玄宗皇帝が日本を攻めようと企てているので、美人を送り込んで、腑抜けにしてしまう、と言う作戦だそうです。まさに日本武尊が女装して熊襲建を討ち取った話の拡大版のようです。
何かアジア大会の北鮮の美女応援団を思わせます。被拉致者の帰国も腑抜け作戦かも。
楊貴妃伝承が先か徐福が先かは知りませんが、蓬莱山に擬せる話が先行したのでしょう。

所で、山口県の西海岸の油谷町向津具(むかつく)にも、楊貴妃漂着伝説があるようです。死にそうになった楊貴妃が漂着、手当のかいなく亡くなり、墓が作られたとか。
油谷町には別に熱田神社や日本武尊を祀る神社は見あたらず、独立した伝承かと思われます。ここは実際に漂着美人が居たのかも知れませんね。それを楊貴妃としたのでしょうね。

[3454]  言語考古学に 科学 の曙光    焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/10/18(Fri) 12:49 [Reply]
 日本人ということを見ると、どうも海外から来た連中ばかりらしい。そこで固有名詞
の意味を知ろうとしたら、ほかのくにの言葉を当らねばならなくなります。
  関連していそうな言語群をあたる……これは云うに易くおこないは至難のワザです。

 ところで、二つの言語に含まれている類似発音とそれが内包している意味を考えるとき
それらの語彙が類似関係にあるのかないのかの判断領域では、微妙なところが次から次に
起ってきます。ここはこれまでの手法では まったく、個人の見解内の領域事だと放任され
てきたのでした。
 古代の固有名詞の意味は知りたいが、具体的に提示された異言語の内意は、すぐに飛びつ
いては承服しがたい……、これがここの板でもかなり永い間続いたかと思えます。
 
 そこに、万人が認めることができる手段はなにかないものでしょうか?
 それがあったんです。それをみつけたので、ここ4日ほど、嬉しさのあまり、おらの頭
は狂っています。
 その大略は、『古代史の謎と言語・掲示板』
 http://chance.gaiax.com/www/chance/x/2/x228mzk0/bbs.html に書きま
したので、興味とヒマのある方はご覧ください。
 一つひとつが三つの漢字を傍証とし、漢字から見守られながら、誕生するのです。

 この手法で生まれ、新しい資格をもって得られた古代日本の語彙が、仮に20か30語彙
だとしても、それは言語考古学史上に占める意義はあまりにも大きく、且つ、重いと云わな
ければなりません。
 早いハナシ、スサノオなどに用いられている「日本語としての漢字が採用された必然」ま
でをも、この手法は“科学する”のですから……。

 ボンクラ頭は強執29年目にして、ようやく科学の手法にたどりつくことができました。
その間、ここの掲示板にも世迷いごとと受け取られるカキコを随分とさせて貰いました。
 ついには追い出されたような格好になったり、ミナシャンにもご迷惑をかけました。
 だが、その紆余曲折、試行錯誤の末に、人跡未踏の新しい「科学」にたどりつけたのは、
席亭・瀬藤どんの寛大さがあったればこそデシタ。
 改めてここに感謝の意を表明します。

[3453] 質問  弥生 [Mail] 2002/10/17(Thu) 18:38 [Reply]
和歌山にくじ運が良くなる神社があると聞きましたが、どこでしょうか。その方は、なにか抽選がある度に神社へ行かれて、当てられています。絶対に教えてくれないのです。

[3452] Re[3450]: 本が置いてあるところ  香具 2002/10/17(Thu) 10:18 [Reply]
石上神宮、楼門を入った左手の西の回廊の角、ご祈祷の待ち合い処ですね。
ここは居心地が良いのでよく座っています。(^^)
夏は日陰ですし、冬は足元に火鉢が。崇敬会会報のバックナンバーが置いてありますので、調べたりメモしたりします。(変人か?)
ふと顔を上げると拝殿の落ち着いた佇まい、いいアングルです。初宮参りの赤ちゃんを囲んで家族がご祈祷の順番を待っていたりして、こちらもなごんでしまいます。
そういう環境ですから、たまたま手に取った『古事記ものがたり』の見本も読みふけってしまいました。<(__)>
この本を読ませたい少年少女達が何人かいますから、冬休み前には人数分を購入しますネ。
待ち合い処、来月は七五三で賑やかになるでしょう。

ところで稗田阿礼さまは男性でしたヨネ?女性として描かれた漫画を見て以来、こんがらがっています。どのようなビジョン、印象なのか興味津々です。
古事記に読み慣れてから、『声に出して』読み上げるてみると、とてもドラマチックで面白く思います。(音読の流れに乗らない部分もありますが。書き足し部分かな?)
磐座シリーズのアップ、楽しみにしています。

[3451] Re[3450]: すっごいパワーアップ(^^♪  サン・グリーン様へ 2002/10/17(Thu) 09:27 [Reply]
>もしかして、そこで、立ち読み?(座り読み?)してくださったのでしょうか?(~_~;)
社務所に置いてくださっているのですが?………。
なにとぞ、なにとぞ、お買い上げくださいませ、ませ、(~_~;)

ここに書き込んだことのない者ですが、ここの部分気にかかりましたので。
立ち読み(座り読み)も奨励する位の太っ腹であった方が、より神様の御加護をいただけるものではないかと思いました。「どうか古事記を広めてください」ということですから。
そうするとお買い上げの方は何もしなくても就いてきますよ、きっと。

外野のお節介、少々失礼致しました。
サン・グリーン様の更なる御健闘をお祈りして。

[3450] すっごいパワーアップ(^^♪  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/15(Tue) 23:30 [Reply]
神奈備さま。
さっそくトップページに派手にリンクしていただきまして恐縮です(~_~;)
とたんにカウント数がグッとアップして今日はもう既に140件を軽くオーバー!ビックリです。(気に入ったらネット注文してくださぁ〜い!)
本当にありがとうございます。一般書店には置いて頂けないので、こんなビックサイトで広めて頂けるなんて夢のようです。それもこれも、いたきそ様のおかげです。ありがとうございます。
香具さま。
石上神宮はとてもお世話になっている神社の一つです。
休憩所に見本誌を置いて、だれでも中身が読めるようにまでしてくださっています。
もしかして、そこで、立ち読み?(座り読み?)してくださったのでしょうか?(~_~;)
社務所に置いてくださっているのですが?………。
なにとぞ、なにとぞ、お買い上げくださいませ、ませ、(~_~;)
なにしろ稗田阿礼に「どうか古事記を広めてください」と(夢で)頼まれたので、私としてはじっとしてはいられないのですう。
イワクラは、ホントハもっと、もっと探検しているのですが、アップする時間がなくてすみません。これからもぼつぼつ更新していきますね。

[3449] Re[3447]: ついに会えましたぁ〜(*^_^*)  香具 2002/10/15(Tue) 11:40 [Reply]
サン・グリーンさん、はじめまして。横から失礼します。
『古事記ものがたり』の作者さんですか! 天理の石上神宮で拝読しました。わかりやすい文章と可愛く美しいイラストで惹きつけられました。素晴らしいお仕事です。もっともっと普及されますように。
 さっそく貴HPも拝見、岩くらのコーナーに感激!私も登拝したいナと思う処ばかりです。ご丁寧な『危険』の表示も感心しました。本当にそうですね、危ない所があります。追体験される方は注意すべきことだと思います。現地で案内してくれる人を見つけるのは、難しいですが大切な手順ですね。そういう意味で磐座探訪は、人に恵まれ、機会に恵まれ、天候や体調などに恵まれてできる『邂逅』かなと感じています。機が熟していないときには、あと僅かな距離であっても無理をせず次回(自戒)を期するようになりました。

[3448] Re[3447]: ついに会えましたぁ〜(*^_^*)  Setoh 2002/10/15(Tue) 08:38 [Reply]
伊太祁曽神社の拝殿の御神木は戦後枯れたものです。確か落雷だったような。
他にも神戸の証誠神社(熊野から勧請、祭神は五十猛命)でも神木が枯れています。
高度成長のかかり、その頃の大阪駅などは煤煙が漂っていて、逆に元気のよい国のようにも思えましたが、古木は耐えられなかったのでしょう。

> 日前宮(紀氏?不比等?)がイタキソ神のご神威をおそれて三分したはずです。
おっしゃる通りだと思います。どこから三分したかですが、今の所現在の伊太祁曽神社の東の亥の森からと言われていますが、亥の森に残る祠は南向き、伊太祁曽神社は東向き、それぞれ故地を眺めているほどめめしいものではないでしょうが、亥の森から三分と言うのはいささか苦しいのかも。
日前国縣神宮から半径5kmと地点に、三分された伊太祁曽神社、大屋都姫神社、抓津姫神社(いずれも式内大社)が鎮座しています。ビッグバンは日前宮だったもかも。

『古事記ものがたり』今日でも御津宮へ行って入手します。一部をネットで拝読いたしました。随所にそれぞれの神々のイメージを分かりやすくする工夫された表現に感心しております。
またHPの岩坐(いわくら)見ぃ〜つけた新聞、これは面白いですね。

[3447] ついに会えましたぁ〜(*^_^*)  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/10/14(Mon) 22:07 [Reply]
神奈備さま。
今日はイタキソ神社御鎮座1300年祭でお会いできて本当にうれしかったです。
(きっとお会いできると思っていました!)ありがとうございました。
私たちは奥宮司さま(おおやびこ様)にはどんなにご恩を頂いているか判らないのです。おかげさまで「古事記のものがたり」も一万冊を越えて広がっております。
それもこれも、イタキソ神社拝殿のご神木の洞をくぐり抜けたおかげなのです。
イタキソの神さまのお力はものすごいものがありますね。
日前宮(紀氏?不比等?)がイタキソ神のご神威をおそれて三分したはずです。
今後ともよろしくお願いいたしまぁ〜す。
教えてくださった石上の桃尾の瀧の上、怖いもの見たさで行ってみます。
それから、さっそくリンクさせて頂きますのでよろしくお願いします。

[3445] Re[3444]: 宮浦宮(鹿児島県福山町)  Setoh 2002/10/12(Sat) 09:17 [Reply]
nickさん お元気でご活躍のご様子、お久しぶりです。
> 岳東(がくとう)神社、にぎ速日神社
これらは宮浦神社の摂社でしょうか。
『平成データCD』ではこの名は出ません。
摂社では石上神社があり、祭神には經津主命、甕速日命となっています。
にぎ速日神社とは石上神社のことでしょうか。
岳東(がくとう)神社の岳東とは冠嶽のこと?。

[3444] 宮浦宮(鹿児島県福山町)  nick [Url] 2002/10/11(Fri) 18:21 [Reply]
過日、当地福山町の「宮浦神社」へ詣出ました。
たまたま、霧島神宮の千葉さんにお話を伺う機会を得ました。
次の予定で造営を行うとのことでした。

宮浦宮 勅宣正一位御宣下 250年祭

1.仮殿遷座祭:平成14年9月20日
2.奉祝大祭 :平成15年5月15日
3.造営工程:

1)御本殿(高床式、神明造)奥の宮、摂末社
2)勅使殿、拝殿、斎館、社務所
3)大鳥居(海に浮かぶ高さ15間(27m))
4)岳東(がくとう)神社、にぎ速日神社
5)宮浦祖霊殿、神官職舎


尚、宮号裁可については
昨年11月29日 東園神社本庁統理からの裁可を受け
正式に「宮浦宮(みやのうらぐう)」の宮号が認められました。
現在、境内に設置の由緒には「宮浦神社」となっています。

[3443] Re[3442]: 捨てる神あれば拾う神あり  日雲 2002/10/09(Wed) 20:32 [Reply]
> 孫引きですが『羽咋市史』に次のような話があるとか。
私は加賀の方の生まれなので、ここは限りなく地元に近いのですが、羽咋といえば、
「『モーゼの墓』と『UFO目撃情報』で町おこしをしてるところ」
というイメージがあまりに濃厚で(この青草風味は私のせいではありません(;^^))、神社関係の話はついついフッ飛びがちなんですが、全く知りませんでした、こんな話↓は。
> オオナムチはクシイナダヒメとの間に二子をもうけるが、川に流したという。子の捨てられた土地(捨越:七尾市八幡)を平国祭の神幸が通るときに鈴をならさないのは、子神があとを追ってくるのを嫌うからといい……
秩父夜祭にも、「后神が嫉妬するから」という理由で諏訪社の前を通る時は太鼓を叩くのをやめるといった風習がありますが、こうした「××の前を通る時には静かにする」ケースというのは、結構、定型的に広く見られるものなのでしょうか? 

>平国祭は外来神オオナムチの能登平定神話によるものだそうで、スクナビコナが協力しています。順路の途中には宿那彦神像石神社が鎮座……
能登は意外なことに(私が勝手にそう思っていただけかも?)、少名彦信仰がかなり盛んなのですね。「実家に帰って時間のゆとりがあった時に」なんて下手に思ったがために、実地調査は全く出来ていませんが、薬師如来と深く習合したり、「天神」を通して菅原道真と一緒になったり、かなりワヤクチャな形になりつつも、ずいぶん盛んなようです。
時に、民衆宗教史叢書シリーズの「薬師信仰」は読まれましたでしょうか? この中の「能登の薬師信仰」は、この地の少名彦信仰を見る上で必読のレポートです。大変豊富な事例を取り上げています(このせいで現地調査いらないかも、とか思ってもいるくらい)。
要約は不可能ですので、興味が続かれるようでしたら、いずれ図書館ででも御覧になってみてください。面白いです。
因みにここにも、
「能登では少名彦が天神さらに菅原神社となるケースが多い」
とある上、また明星石とからむケースもあったり、地すべり防止のために少名彦を勧請したというケースもあったりで(これは天白なんかによく見られます)、御周知の通りにかなり偏っている私の見方的にも、非常に興味深い――って、いや、こんな風なのばかりでもないのですけれども。

> 青草[350] で日雲さんが、(スクナビコナは、記紀風土記では:神奈備入れる)何ゆえに「死亡して常世に渡って末裔を残さなかった」風に描かれたのか?
> とされていますが、能登生国玉比古神社の由緒書きにはその子孫の話がでていると言えます。
うろ覚えで何で読んだかも定かでないのですが、確か鳥取だったかの何処かで、スクナヒコ“ネ”だったか、ともあれスクナヒコナに酷似した名前の祖の裔という方がおいでませんでしたでしょうか?
それで当人達はスクナヒコネとはスクナヒコナのことだとして、我々はスクナヒコナの末裔だと宣言したものの、「ネ」と「ナ」は違う、それはただのこじつけの付会だと、学者さんかに退けられてとかいうような……おぼろげな記憶で申し訳ないのですが、何かそんなような話はありませんでしたか? 鳥取氏とか、何かそんな滅茶苦茶解りやすい名前だったような気がするのですが……(すいません、記憶違いがあるかも知れませんが)?
勿論、人様の家の伝えを頭ごなしに否定するつもりなどは毛頭ありませんが、
>菅根彦命
>金鋺翁菅根彦命
の「根」の字から、何かそんなエピソードを思い出したりしました。
少名彦の末裔……本当にあったらあったで非常に面白いのですが。しかし、能登にとは盲点でした。勉強になりました。

> その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。
ここはとりあえず要記憶、としておきたいですね。

[3442] 捨てる神あれば拾う神あり  Setoh 2002/10/09(Wed) 09:38 [Reply]
孫引きですが『羽咋市史』に次のような話があるとか。
オオナムチはクシイナダヒメとの間に二子をもうけるが、川に流したという。子の捨てられた土地(捨越:七尾市八幡)を平国祭の神幸が通るときに鈴をならさないのは、子神があとを追ってくるのを嫌うからといい、抓津姫に拾われ洗われた兄妹は、それぞれ、奈鹿曽彦神社(鹿島町曽根)、奈鹿曽姫神社(羽咋市曽根)に祀られている。以上。
注:平国祭 羽咋史の気多大社から七尾市の気多本宮へ能登半島の付け根を通る6日かけて300kmの道を順路とする壮大な祭。


『日本書紀』によると、抓津姫命は五十猛命の妹神として大屋津比賣命とともに樹種を播いた神ですが、石川県には能登島の伊夜比メ神社のみ祭神として残っています。(平成祭礼CD)。

青草[350] で日雲さんが、スクナビコナを「幼子の守り神」
として崇敬されていることを私的あされておられましたが、オオナムチの捨てられた子を抓津姫命に託したのかも。

 さて、平国祭は外来神オオナムチの能登平定神話によるものだそうで、スクナビコナが協力しています。順路の途中には宿那彦神像石神社が鎮座、その近くに能登生国玉比古神社が鎮座、こちらの神社の由緒に、
スクナビコナの子孫のことがでています。
 由緒 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。
その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。
これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。
神主梶井氏はその裔である。

青草[350] で日雲さんが、(スクナビコナは、記紀風土記では:神奈備入れる)何ゆえに「死亡して常世に渡って末裔を残さなかった」風に描かれたのか?
とされていますが、能登生国玉比古神社の由緒書きにはその子孫の話がでていると言えます。

[3441] Re[3440][3439][3438]: 数えかた  Setoh 2002/10/07(Mon) 21:34 [Reply]
> 同じように大和國高市郡の54座も数が合わないと思ってましたが、玄松子様のホームページの延喜式神名帳と見比べた結果、クシタマノ神社が4座ということがわかりました。
> 多分これで正解ですよね。

一度『国史大系』と比べて見ます。ありがとうございました。これを「ご縁に」よろしくお願いいたします。

[3440] Re[3439][3438]: 数えかた  emu 2002/10/07(Mon) 21:16 [Reply]
Setohさん ありがとうございました。
同じように大和國高市郡の54座も数が合わないと思ってましたが、玄松子様のホームページの延喜式神名帳と見比べた結果、クシタマノ神社が4座ということがわかりました。
多分これで正解ですよね。

> 差し支えなければ、ひょんなことを紹介くださいな。

本当にくだらないことなんです。
神社の看板に「延喜式内」と書かれているのを女房が見て、「あれ何のこと?」と聞くので、僕は「縁起を担ぐ」のえんぎじゃないの?と答えました。
しかし、おいおい字が違うだろう。と思って調べ始めたのがきっかけなんですよ。
神様が縁起を担いでどうすんだよって感じですかね。

[3439] Re[3438]: 数えかた  Setoh 2002/10/06(Sun) 22:28 [Reply]
> 最近ひょんなことで神社に興味を持った者です。

emuさん こんばんは。
高角神社は
高角神社[タカツノ]二座です。これで目出度く一七座です。
ご指摘ありがとうございました。
二座とは大高角と小高角の 両社とことと由緒書きにはあります。

差し支えなければ、ひょんなことを紹介くださいな。

[3438] 数えかた  emu 2002/10/06(Sun) 21:45 [Reply]
最近ひょんなことで神社に興味を持った者です。
初めて書き込みさせていただきます。
延喜式神命帳の中で、例えば大和國宇陀郡には17座と書いてありますが、
私には16座としか数えられません。
何か特殊な数え方でもあるのでしょうか?

[3437] Re[3436]なるほど、有難うございました。  ジバゴ [Mail] 2002/10/05(Sat) 15:48 [Reply]
 埼玉某宮司様
よくわかりました。今度から仰せの通りいたします。助かりました、有難うございました。

[3436] Re[3435]: 油揚の行方  埼玉某宮司 [Mail] [Url] 2002/10/04(Fri) 23:57 [Reply]
> 油揚の行方が気になるのです、腐ったりしたらどうするんだろう。

 社務所に神職さん職員さんの常駐する神社では、聞いてみるのが一番ですが、そうでない場合の一般的な例を説明します。

 鎮守様(氏神様)やその境内の稲荷様に油揚をあげる場合は、皿の上に乗せてあげるのが、階段などを汚さずにも澄みます。皿の下には半紙を風に飛ばされない大きさに折って敷きます。
 昔は上げっぱなしでも良かったのですが、今は何日も上げっぱなしにするのではなく、賞味期限が過ぎたと思った頃、再びお詣りして下げるのが良く、上げた物は自宅に持って帰るのが良いと思ひます。
 朝早く神棚に上げた米は、神様のお下がりとして夕食の米に混ぜて御飯に炊けますが、外に長く置いた油揚などは今の人は食べませんから、人の責任で処分することになります。乾燥させて庭でお焚上げする、あるいは細かく刻んで土に埋めて木や野菜の肥料にする、動物の餌にするなど。
 神仏に上がった食べ物は、子どもや浮浪者などが食べても罪にならないものとされてきましたが、最近は油揚を生でつまんで食べる子も少なくなりました。数日後にもう一度お詣りをして、そのまま放置されてあったら、自分で下げるのが良いと思ひます。
 神社の祭礼の日やその前日などに上げる場合は、氏子総代などの役員さんが、定められた場所に埋めるかその他の処分をしてくれるので、上げっぱなしでもかまいません。地域でのルールがある場合にはそれに従ってください。

[3435] 油揚の行方  ジバゴ [Mail] 2002/10/04(Fri) 18:44 [Reply]
こんばんは、はじめまして
母の突然の命令で新田稲荷神社に油揚をあげてきました。形式が分からなかったので
階段の上に置いてきただけなのですが、正式な方法があるのかと後から気になりました。
それと、油揚の行方が気になるのです、腐ったりしたらどうするんだろう。母は、
犬が食べるからいいというのですが、最近の犬は飼い犬ばかりですから気になります。
 どなたか今後の為、あるべき油揚の奉納?形式を教えてほしいのです。

[3434] レス ありがとうございました。  杜 かじか [Url] 2002/10/03(Thu) 23:07 [Reply]
Setoh さん こんばんわ。
はじめまして。
レスありがとうございました。
アニメ「アテルイ」のことですが、すでに製作されて、東北のあちこちで上映されておりました。 今回、10/8に大阪でアテルイの試写会がおこなわれますので、関西での上映は恐らく11月以降だと思います。 詳しい情報が入り次第、またお知らせしますね。

[3433] Re[3432]: 無題  Setoh 2002/10/03(Thu) 09:10 [Reply]
杜 かじか さん 初めまして。

自然を守る、人間を守る、心の心棒を取り戻す、そいいった本能がアテルイを呼び返しているのでしょうね。
所で、東北の方ではアテルイの映画ができつつあると聞いていますが、公開は全国的なものになるんでしょうか。何か情報をお持ちでしたら教えてください。


>> 倭文のシトリは下照比売のシテリの訛だそうな。
日雲さん> えっ? このソースは一体何でしょうか?

神奈備のオリジナルではありませんので上記の表現としました。賀茂氏の末裔の方から聞きました。

[3432] 無題  杜 かじか [Url] 2002/10/03(Thu) 03:58 [Reply]
 神奈備さん、そして掲示板のみなさん、こんばんわ。
初めてお邪魔いたします、杜かじかです。
こちらのサイトはちょくちょく覗きにきていたのですが、書き込みはお初です。 これからどうぞよろしくお願いいたします。
ZOUさん、私の代わりにシンポジウムの宣伝をしてくださってありがとうございました。
 

[3431] すいません、ちょっと自己レス  日雲 2002/10/02(Wed) 20:02 [Reply]
>千葉氏系の妙見が合祀される以前から、武甲山は星神の聖地であった
これは
「千葉氏系の妙見が“秩父神社に”合祀される以前から」
でした。

[3430] Re[3428] [3429]  日雲 2002/10/02(Wed) 19:56 [Reply]
玄松子様>なんて読むのでしょうか?
につきましては、

yanase様>滋賀県信楽町に日雲(ひくも)神社がありますが、
とありますとおりに、「ひくも」と読み……と申しますか、ここの社名から勝手に拝借させて頂きました次第で。
我ながら、畏ろしいことをやってしまったものですが、今となっては、何でこれをHNにしようと思ったのかも思い出せず……?

yanase様>「日雲」とはどんな意味なのでせうか。
これはよく解らないのですが、「くもい」という所在地名と関連あるようです。
(日雲神社については、以下のHPをご参照下さい)

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~hikumo/

日雲神社、誤解を恐れずに言えば、大好きな神社なんです。
御祭神も解らぬまま、何となく行ってみたような感じだったのですが、ここと伊勢神宮別宮の伊雑宮は、「実家」という言葉がハマるほどの懐かしさと親しさを私は覚えました。
(まだ星の調査を始める前のことですが)
参堂を線路が横断してるようなえらいことにもなっておりますが、非常に素敵なお社ですので、皆様、機会がありましたら、一度脚をお運びになってみてください。
「こういうお宮を鎮守にして暮らしてらっしゃる方々は幸せだなあ」
という風な気分になれるお社です。
――と、こんなことだけ書いても何ですので、ちょっと小ネタを。

雨乞いの星神は、長野県に幾つかある「大星神社」などもそうですね(茅野市の大星神社については、急ぎで参拝だけはしましたが未調査です)。
で、これと同じものが、秩父の武甲山(武光山)にかつて祀られていた大星太神ではないか、と私は思っています。
『秩父大宮妙見宮縁起』に、
「欽明天皇の御宇、国司の申し上げによりて、大星太神ならびに香香背男命を祝祀給ふに、勅使降もふき給ふて真名井の原に勧請ましましき」
「しかるを今、名真井原(なまいはら)といへる訛たることにそ。この時に薄の郷に少彦名を祀りて真名井土の天神と御名を奉りしも、同じ心に侍りぬる」
とあり、文中の名真井原とは武甲山の北麓にあった土地なのだそうですが(秩父神社は北西麓)、この武甲山の山頂から少し北に下ったところにはかつて「雨乞岩」があり、どうもこれの遥拝所的に社殿を設けることにしたのが、名真井原の宮だったのではないかと(現在は廃絶。雨乞岩も石灰岩掘削のため現存しないと思われるが……?)。
「雨乞岩」については、
『新編武蔵風土記稿』に、
「頂より少し下なる北嶺に、雨乞岩なる数十丈の高岩あり、土人のウ祭(ウは雨かんむりに汚のツクリの字)をなせし所にて、必ずその験ありと云」
とあります。

因みに、『秩父大祭』という本を書かれた秩父在住の千嶋寿氏は、諏訪ミシャグジが秩父にも流入し、深く浸透したことをほぼ指摘できる、としており、大星太神もこうしたことと合わせて考えなければいけないものかと思っております。
つまり、千葉氏系の妙見が合祀される以前から、武甲山は星神の聖地であったのではないかということで、これも「北斗を信仰対象とした」という諏訪の守矢氏との関連を伺わせます。
前にも書きましたが、そのような武甲山の山頂にあった神社群を祀っていたのが、物部守屋の末裔(を自称する)守屋氏でした。
一方、いつ頃からか、諏訪前宮の神体山ともされる守屋山頂には、物部守屋祠が建てられている。
どこかに伝の錯綜があったものとは思われますが、この絡みはどうも見過ごし難い。
で、諏訪大社の祭神に一時期ホアカリ説があったらしく、かつ一方、秩父市内の某神社でも、
「タケミナカタ以前に諏訪に入り、その後、秩父にも渡ってきたのは天照国照だ」
との伝を聞き及びました。史実かどうかは存じませんが、そういう口伝があることは事実です(秘伝だそうで、その全ては聞いていませんが)。
さて、ホアカリが出てくるとなると、気になってくるのは「真名井原」という地名。
そうすると逆に気になってくるのは、丹後の籠神社奥宮の比沼真名井神社の神紋のカゴメ紋の意味。

日雲>「八星信仰」なるものを伝える国東半島の猪群山では、カゴメ紋型に組んだ木材の真ん中に、蛇の抜け殻をつけた棒を立てて、火を焚いて雨乞いをした

……もうグチャグチャですが、どうもこの周辺には何かありそうなのです。

[3429] Re[3427][3426]: 月の水  yanase [Mail] [Url] 2002/10/02(Wed) 18:01 [Reply]
> 雨乞いの際に火を焚くのは、恐らく広く全国的にあるのではないかと思うのですが、意外と源流はこの星の水神と絡んだところにあったのかも
 ごもっともです。雨乞は干魃のときだけ行ふのかもしれませんが、毎年決まった日の水神祭があったはずで、その方式にのっとって雨乞も行ったと考へられます。
 吉成直樹といふ人は高知大学教授で、十五夜に里芋を盗む話など、最近のものでは最も印象に残る一冊でした。
 星については自分の意見は大してまとめられず、いまだ闇空ですが。

> > 浅間の神は、月から来た神でもあり、
『神道集』の駿河国富士郡のかぐや姫の話です。右上の[Url]からたどれるかも。

 滋賀県信楽町に日雲(ひくも)神社がありますが、平成CDではデータなしですが、県内別神社の同名境内社では天御中主命を祭るそうです。「日雲」とはどんな意味なのでせうか。

[3428] 日雲  玄松子 2002/10/02(Wed) 13:44 [Reply]
なんて読むのでしょうか?

[3427] Re[3426]: 月の水  日雲 2002/10/02(Wed) 04:12 [Reply]
>  高知県などでは、里芋の葉に降りた露をためておいて、葉で露を包んで七夕の日に、供へるといふ。この水を肌につけると奇麗になり、疣につけると治るともいふ。
これは存じませんでした。勉強になります。どうも有り難う御座います。

>沖縄では、里芋の露は、月から落ちてきたものらしい。
普通、里芋や水といえば月を思い出しますよね。
月見や月待ち行事に里芋を供えるところは多いですし、また、「水徳」といえば、日に対しての月が語られるところですし。

>高知県では盆の松明の火は、水神のために焚くのだといふ。
「八星信仰」なるものを伝える国東半島の猪群山では、カゴメ紋型に組んだ木材の真ん中に、蛇の抜け殻をつけた棒を立てて、火を焚いて雨乞いをしたといいますし、確か彦山でしたでしょうか、「天御中主」の御札とともに火を焚くという、雨乞いの神事があったようです。
分布を調べたわけではありませんが、雨乞いの際に火を焚くのは、恐らく広く全国的にあるのではないかと思うのですが、意外と源流はこの星の水神と絡んだところにあったのかも知れません(修験者が広めたのだろうか? という風な印象を勝手に抱いているのですが)。

>浅間の神は、月から来た神でもあり、
? そうなのですか? 知りませんでした。これはどこで見られる見解(?)なのでしょう?

[3426] 月の水  yanase [Mail] [Url] 2002/10/02(Wed) 01:53 [Reply]
 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社)に、七夕のことが書いてあったので、次の通りメモした次第です。

 高知県などでは、里芋の葉に降りた露をためておいて、葉で露を包んで七夕の日に、供へるといふ。この水を肌につけると奇麗になり、疣につけると治るともいふ。
 沖縄では、里芋の露は、月から落ちてきたものらしい。
  天橋も長くもがも。高山も高くもがも。
  月読の持てる変若水(をちみづ)、
  い取り来て、君に奉りて、変若得しむもの   万葉集3245
 正月とともに、七月にも若水汲みのようなものがあったらしい。水神は月から降りてくるらしく、七月十五日の祭は、もとは水神祭ではなかったかといふ。高知県では盆の松明の火は、水神のために焚くのだといふ。古くは夏の終りの水神祭があり、後から先祖祭りが加はったのではないかと。水神祭は、変若返りの祭であり、水神(蛇)と機を織る娘の聖婚を祝ふ祭でもある。

 平成CDで下照姫の別表記に「木花開耶姫尊」が表示されたのを訂正するプログラムができたのですが、山梨県の浅間神社の夏の火祭のことを思へば、訂正しなくても良かったかも。そういへば、浅間の神は、月から来た神でもあり、笠沙の岬に棚を設けて機を織って天孫を迎へた神でもありました。
 星からも露が降りてきそうですが。

[3425] 無題  日雲 2002/10/01(Tue) 23:04 [Reply]
おぉおおお、すみません大勘違い。
『常陸風土記』の記述と、“地元の伝承”の内容をごっちゃにしてしまってました。
一緒に読んだものですから、頭の中で一つにくちゃくちゃに。
言うなれば、
「ハヅチオを軍神とした荒唐無稽な地元の伝承は、朝廷よりの記述で『常陸風土記』を編纂した人間達が関与して出来たものではなかったか」
といった風なことを申したかったのでした。大訂正。失礼いたしました。

[3424] Re[3423][3420][3415][3417] [3418]  日雲 2002/10/01(Tue) 22:17 [Reply]
> 倭文のシトリは下照比売のシテリの訛だそうな。
えっ? このソースは一体何でしょうか?

> 異常な程このペアは多いように思います。
そうですねえ……今の今まで気付いていませんでした。
が、これで見る限り、下照姫は「山陰の倭文社の特徴」ではないでしょうか?

>弟棚機は織り姫でもあり下照姫でもあるのかも。
この等号を是とすれば、甲斐の社も入る以上、「山陰の倭文社の特徴」と断言はしにくくなりますが、弟棚機を静岡などをはじめとする倭文社周辺に散見される「星信仰」の一種と見れば、

> 倭文神も星神かも。
というところに落ち着きつつ、下照姫との関連は、「山陰の倭文社の特徴」と落とし込めるように思うのですが……それで、

>星神天香香背男を退治するのも星神。同族にやらせる風習か。
なのですが、私は実に一般教養に乏しい人間なので、一つ質問があるのですが、書紀の
「建葉槌命を遣わして服させた」
という、この「服させる」という言葉には、必ず軍事的な討伐性が含まれるのでしょうか?
単に「建葉槌命を遣わしたら恭順した」ということではいけないものなのでしょうか?
私としては、
「カカセオとタケハヅチは同族で、先に服したタケハヅチがカカセオを説得した」
というのはどうだろうか? などと思っていたのですが。
『常陸風土記』にはタケハヅチのカカセオ討伐のことがなんやかやと書かれていたりしますが、『常陸風土記』はかなり朝廷よりの記述で、内容的には結構アンフェアだと聞いたことがあるのですけれども、この辺で結構作られちゃったところはないものだろうかと。
「タケ」と冠しているのですから、軍神性はあるのでしょうが……。

しかし、挙げて頂いたデータからすると、丹後の方ではもう見られないのですね、下照姫。
但馬〜出雲間でしか見られないというのが、重要な気がします。
で、思ったのですが……青草の方に移動しますかね……?

[3423] Re[3420][3415][3417] [3418]  Setoh 2002/10/01(Tue) 20:59 [Reply]
ZOUさん お知らせありがとうございます。行くつもりで申し込みをいたしました。

話は東国のカカセオに戻ります。
倭文のシトリは下照比売のシテリの訛だそうな。
倭文神社の祭神の中で下照比売が入っている式内社は2社。

伯耆國川村郡 建葉槌命、下照姫命 ほか
伯耆國久米郡 經津主神、武葉槌命、下照姫命

七夕姫は
甲斐国巨摩郡 天羽槌雄命 天棚機姫命

式内社でない神社
但馬国朝来郡 天羽槌雄命 (配祀)照日女命
伯耆国久米郡 經津主神 武葉槌命 下照姫命 同郡の式内社からの勧請か
出雲国能義郡 八幡宮摂社 下照姫命

異常な程このペアは多いように思います。

若日子の葬儀の後で味鋤高彦根神の名を歌って
天なるや 弟棚機の うながせる 云々
の弟棚機は織り姫でもあり下照姫でもあるのかも。

倭文神も星神かも。星神天香香背男を退治するのも星神。同族にやらせる風習か。

星神天香香背男が悪神とされたのは草木等数の多い神で、多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有りの一味と思われていたのでしょうね。要するに権力者から見た民人、すなわち有象無か。

[3422] シンポジウムのお知らせ  ZOU [Mail] [Url] 2002/10/01(Tue) 20:16 [Reply]
神奈備さん、掲示板お借りしますね。
みなさんこんにちは。ZOUです。
この場をお借りしてイベントの紹介をさせて頂きます。

今年は、古代東北の勇者アテルイが没して1200年の節目にあたります。来たる10月19日に、奈良新聞社が主催し、私がネット上でお世話になっている杜かじかさんが企画された、アテルイや古代東北史に関するシンポジウムが奈良で開かれます。当日は、かじかさんが、あでやかな奈良時代の女官の衣装に身を包み司会を務められるとのことです。

以下に、杜かじかさんのサイト「日高見国見聞記」http://www9.ocn.ne.jp/~aterui/のイベント紹介のページhttp://www9.ocn.ne.jp/~aterui/tour.htmlから転載させていただきます(ZOUが一部加筆しています)。

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第10回 歴史街道シンポジウム
「古代の東北と畿内〜黄金ロードから、東北の強者アテルイまで」

奈良時代、東大寺大仏造建時の黄金発見から、東北の強者アテルイが登場した東北地方に焦点をあて、黄金を巡る軋轢など、当時の東北と畿内との交流、東北の独自性を浮き彫りにする。

日時>>10月19日 (土曜日)>午後1時30分〜4時(1時開場)

場所>>奈良県文化会館国際ホール
     〒630-8213奈良市登大路町6-2
     TEL(0742)23-8921
     FAX(0742)22-8003
     http://www1.nara-i.net/~narabun/
     交通案内http://www1.nara-i.net/~narabun/koutuuannai.htm

定員>>1300人(先着順)

参加費>>1500円(まほろばネットワーク会員は無料、歴史街道倶楽部会員は500円)


第1部
DVD上映「知られざる古代史〜大和政権と東北との劇的関係」
講師  作家/豊田有恒氏


第2部
パネルディスカッション
<パネリスト>
豊田有恒氏
井上満郎氏(京都産業大学教授)
工藤雅樹氏(福島大学教授)
浅川肇氏(元禰宜/談山神社相談役)
<コーディネーター>
中路正恒氏(京都造形芸術大学助教授)


☆お問合せ先、参加申し込み

奈良新聞社 大阪支社
参考情報http://www.nara-shimbun.com/event/ev0209d.html

〒542-0076
大阪市中央区難波2-3-11  ナンバ八千代ビル9F
TEL06-6211-2797
FAX06-6211-2827
osaka@po.nara-shimbun.com

はがき、Eメール、Faxにて住所、氏名、年齢、電話番号、参加希望人数(倶楽部会員は会員番号)を明記の上、上記までお申し込みください。
定員になり次第締め切り。折り返し参加券発送。参加料は当日会場でいただきます。
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もひとつ、中路先生のサイトはこちらです。
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/index.htm
宮沢賢治の「原体剣舞連」や、古代東北史に関する興味深い考察もありますので、シンポに参加される方への参考になると思います。

ね、すごい先生方が揃うでしょ(^^)
なのに私ことZOUは所用にて行くことができません。泣きそうです(T_T)
みなさん、私の分まで話を聞いてきてください。

では、以上よろしくお願いいたします。


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