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掲示板のログ(平成十四年 十一月)お名前の敬称は省略しています。

更新 H14.11.30

[3652] 南方熊楠  Setoh 2002/11/30(Sat) 18:46 [Reply]
 魏志倭人伝の邪馬台国への経路も、東を南としているとの見方があるようです。この辺りの謎解きが出来れば面白いことになりますね。余談ですが、企業内でも偉い人の机の向きは南、次の東が好まれるようです。君子を気取っているんです。

 大和の青垣にもクサカと言う地名があったとか。

 出雲の熊野はイヤ、ユヤが本来の読み方ではなかったでしょうか。
福島さんのおっしゃる通り、出雲の熊野より紀伊の熊野に勧請する途中、「当社に熊野神が一時留まりませる」という神社が鎮座、熊野神社と書いて、イヤ神社と読まれています。 伊賦夜坂や揖夜神社、阿波の祖谷などを考えますと、イヤと読む熊野のルーツは出雲かも。

 南紀の熊野には、寡聞ですが、どうもイヤとかユヤと読んだ気配が感じられません。別の存在なのかも。狗奴を狗野とすればもう一息で熊野。熊襲辺りの民人が海流に乗れば南紀と出雲はそのコースになります。熊野樟日神が似合うのは南紀のようですし。いささか青草話でした。

[3651] Re[3648]: 「日下」は「南方」  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/11/30(Sat) 12:44 [Reply]
hvhy さま。
私の素朴な疑問に、とても立派な(重厚な)回答を頂きまして大変恐縮しています。
初心者なので、すぐには難解な文献が理解できません(辞書があっても無理かも?)。
本当にすみません。
お返事を見ていて、またまた、疑問がわきました。
私は大阪に住んでいるので、神武が上陸したと言われる所の地理がよく判るのですが、
昔の日下だと言われているところから大阪湾に入って上陸するには、東向き(昇る太陽に向かうことになる)のですが?
だから日に向かって戦うというのは南北軸ではないと思うのですが…。
すみません、私が何か勘違いして居るようでしたら教えてくださいね。


> >「吾は日神の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。
> >今者より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ」と期りたまひて、南方より廻り幸でましし時、
>
> まずテキストそのものが何を言っているか。虚心坦懐に読んでみましょう。
> そもそも「日下」というのは、太陽が南中した時に日影が無くなる場所です。
> それは北半球においては「南方」です。これを踏まえて図示するなら次の通り。
>
>  「日に向ひて戦ふ」  │ 「日を負ひて撃つ」
>             │
>      南(日下)  │     南(日下)
>      ↑      │     ↓
>      ↑      │     ↓
>      北      │     北
>

[3650] Re[3649][3645]: 『籠神社』  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/11/30(Sat) 01:32 [Reply]
> 福島さん こんばんは。
> >『狗奴神社⇒高(氏)ン(格助詞)神社⇒籠神社』の線です。
>
> 狗奴はコノを表現した文字と言うことですね。許之国、基山のある国、筑紫の山地ですね。
> 奴国はノ国となりますが、野国、筑紫の平地と言うことでしょうか。
>
> > 檀君神話の熊女⇒熊襲⇒熊野大社の線と何処かでクロスしないかと。
> 熊襲と南紀熊野、これはやはり海流・気候、つながっていること、同感です。

※早速にご回答を賜り、有難う御座います。
・狗奴國は熊本県菊池郡から邪馬臺國を侵し男王として立ち、復壹與が卑彌呼職に就く⇒天照大神の岩戸隠れと再生、素盞嗚尊の出雲追放、と重ねて考えています。
・熊野大社(熊野三山)は、元来は出雲の神様とか、何処かで聴いたような気がしますが…。
・籠神社の在る丹後?半島北麓にも、水縄連山北麓にも『竹野(たかの)郡』が在ります。
この『野』も、奴國の意味かと、思っています。

[3649] Re[3645]: 『籠神社』  Setoh 2002/11/29(Fri) 20:31 [Reply]
福島さん こんばんは。
>『狗奴神社⇒高(氏)ン(格助詞)神社⇒籠神社』の線です。

狗奴はコノを表現した文字と言うことですね。許之国、基山のある国、筑紫の山地ですね。
奴国はノ国となりますが、野国、筑紫の平地と言うことでしょうか。

> 檀君神話の熊女⇒熊襲⇒熊野大社の線と何処かでクロスしないかと。
熊襲と南紀熊野、これはやはり海流・気候、つながっていること、同感です。

[3648] 「日下」は「南方」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/29(Fri) 19:20 [Reply]
「春、夏、秋、冬」を「東、南、西、北」とする方位観は、
最も暑くなる「夏」を「太陽の南中」に見立てているわけで、
極めて納得しやすいものですね。しかしながら問題となるのは、
この方位観がそのまま記紀の方位観になっているかどうか?です。

>「吾は日神の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。
>今者より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ」と期りたまひて、南方より廻り幸でましし時、

まずテキストそのものが何を言っているか。虚心坦懐に読んでみましょう。
そもそも「日下」というのは、太陽が南中した時に日影が無くなる場所です。
それは北半球においては「南方」です。これを踏まえて図示するなら次の通り。

 「日に向ひて戦ふ」  │ 「日を負ひて撃つ」
            │
     南(日下)  │     南(日下)
     ↑      │     ↓
     ↑      │     ↓
     北      │     北

仮に「日下」を「日本」と理解する限りにおいて、この古事記の方位観は、
書紀の「鼠、馬尾に産む。釋道顕占ひて曰ふ。北国の人、南国に附かむとす。
蓋し高麗破れて、日本に属かむか」という記事に整合します。どうでしょうか。

聖書では「秋」の天象が「SWSYA、AWKMA」(黒駒)と表現される。
ところが書紀に「甲斐黒駒」とあり、古事記に「日下部連、甲斐国造」とある。
しかも「大日本豊秋津洲」とか「大倭豊秋津嶋」とか言われる。これら鑑みれば、
「南国」であるところの「日本」が「秋」という季節で理解されていること明らか。

---------------------------------------------

このように「秋」を「南」とする方位観は、
よく知られる中国のものと異なるわけですが、
いわゆる月宿について述べる各種経典において、(※『摩登迦経』『舍頭諫経』など)
実は次のような月宿と方位の関係が示されている。

・「昴畢觜参井鬼柳」(夏)は「東」
・「星張翼軫角亢底」(秋)は「南」
・「房心尾箕斗牛女」(冬)は「西」
・「虚危室壁奎婁胃」(春)は「北」

ここで「昴畢觜参井鬼柳」が「夏」という意味は、
「日」(太陽)が「昴畢觜参井鬼柳」の範囲を動く、
即ち「青牛宮、陰陽宮、巨蟹宮」の範囲を動く期間が
大雑把に「夏」という意味です。記紀に見られる方位観、
述べたような「秋」を「南」とする方位観はこれに等しい。
である以上、記紀の方位観を中国思想に求めるのは疑問です。

>葛木倭文神社の本来の鎮座地小字七夕や七夕神社、棚機の森などの呼称は、文布を織る
>倭文氏の祖神、天羽槌雄神と対になり、神衣を織ったという天棚機姫神、さらには倭文氏
>と七夕の関係をも想起させる。また、七夕に背景を持ちつつ葛城を舞台とするオトタナバタ
>の歌物語伝承の場についても示唆的である。(※平林章仁『七夕と相撲の古代史』より引用)

例えば「倭文」と「七夕」の関係がこのように取り沙汰されていますが、
「七夕」(七月七日)はまずもって「文月」ということが前提にあります。
そもそも「文月、葉月、長月」(室月、婁月、昴月)は「秋」。その一方で
「倭」(日本に同じ)も「秋」。こういう背景があってこそ「倭文」でしょう。

---------------------------------------------

やや細かくなりますが、もう少し古事記の系譜で確認してみます。
「沙本毘古」は「日下部連、甲斐国造」の祖。ところがその一方で
「都怒郎女」の子供は「甲斐郎女、都夫良郎女」。両者を見比べると、
「日下」〜「甲斐」〜「都夫良」という繋がりが見える。さらに加えて
「阿倍之波延比売」の子供は「若屋郎女、都夫良郎女、阿豆王」であった。
今ここには「日下、甲斐、都夫良、阿倍、波延、若屋、阿豆」が並んでいる。

「阿倍」は「OPY」(葉)で、「阿豆」は「Asvini」(婁)の略称。
いずれも「葉月」(婁月)を表わす。つまり「阿倍、阿豆」は「秋」。
「若屋比売」は「倭飛羽矢若屋比売」で、「倭飛」は「南に見える虚」。
「南に見える虚」は「秋」の天象。したがって「若屋」もやっぱり「秋」。
ここまでで「阿倍、若屋、阿豆」は「秋」に属する言葉ということが分かる。

ところが「波延」(ハエ)は「南風」。また「日下」は「南方」。
「甲斐」と「都夫良」の名義は不明ながら、(※実は不明ではない)
「日下部連」〜「甲斐国造」〜「甲斐郎女」〜「都夫良郎女」だから、
「日下」(日本)が「南」である限り、「甲斐」も「都夫良」も「南」。
またそもそも「阿倍之波延比売」という名前は「葉月の南風」という意味。
即ち「日下、甲斐、都夫良、阿倍、波延、若屋、阿豆」という名前の並びは、
「南」であるところの「秋」の範疇(カテゴリー)として全体が理解されます。

#これに加えて「大日本豊秋津洲」とか「大倭豊秋津嶋」とか言われ、
#「甲斐」の「黒駒」(SWSYA、AWKMA)まで出てくるわけで、
#どこからどう見たって「日下」であるところの「南」は「秋」でしょう。

[3647] Re[3640][3637]: 季節と方位  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/11/29(Fri) 09:30 [Reply]
久々ついでに、閃いたことがあるので、もう一回書き込ませてこださいね。

hvhyさん> 少なくとも古事記の方位は「春、夏、秋、冬」が「北、東、南、西」。
>
いま仕事上、沖縄、琉球の古代祭祀と世界観にはまっているのですが、琉球では神は海の彼方から水平にやってくるとされていますよね。
だから海洋民族にとって、神の居る最上位の方向はお日さまの出る所(ニライカナイ)となります。
首里城が中国や日本、韓国の王城と違うのは東側に王宮が建っているところだそうです。
海の民(海幸彦)は水平思考。
ところが(山幸彦)たちの神は天(空)から降臨して天下ってくる(上下関係)。
古事記の時代は海洋民族の思考の影響が強かったので、
少なくとも古事記の方位は「春、夏、秋、冬」が「北、東、南、西」だっのかなぁ〜〜?
と昨日、なんで北が春?なのか不思議だったので、図面に描いて考えながら寝ていて閃いたのですが?
でも、東(ひがし)の語源は日の頭(カシラ)だと言われているから???
やっぱり、おかしいのかなぁ〜?
方向音痴の素人が、横から口出してごめんなさい。
どなたか、くわしく教えてください。お願いします。

[3646] Re[3634]: 謝辞  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/11/28(Thu) 23:36 [Reply]
11月23日(土)に、日の谷『八つ岩』へ登拝できました。

香具さま。仕事に追われて、久々にここに来させて頂き日の谷に行かれたことを知りました。
じつは、私も時間があれば、ご一緒にと神奈備さまにお誘いを受けていたのですが、原稿書きに忙殺されて残念ながら断念したのです。
永年のご苦労を知り、感動しました。(パトカーにまで乗られたのですね)

古代を尋ねる旅が現代にリンクしてきました。未来を想うとき、天に梢を伸ばす大樹が地に深く根を張るが如く、歴史を振り返る思いが大切になりましょう。今を生きる人が考えるかぎり、歴史は過去の遺物でなく、未来への足がかりになることと思っています。

未来を知るためにも、過去を振り返ることは大切だとよく言われていますよね。
私たちも、未来を担う子どもたちにすこしでも日本の神話を知ってもらいたいと思って
「古事記のものがたり」を広めています。
石上さまには大変お世話になっているので、いつか日の谷に参拝したいと思っています。その節にはまた、いろいろ教えてください。よろしくお願いします。



[3645] 『籠神社』  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/11/28(Thu) 22:24 [Reply]
 突如として、何の脈絡も無く闖入して済みません。何時も興味深く拝読しています。
以前から、この『籠神社』の語源を考えていました。
ここの過去トピに登場したかも知れませんが…。突然閃いたものですから。
『狗奴神社⇒高(氏)ン(格助詞)神社⇒籠神社』の線です。
・檀君神話の熊女⇒熊襲⇒熊野大社の線と何処かでクロスしないかと。
 何の根拠もありませんが、直感的なものです。失礼しました。

[3644] Re[3641]: 無題  yanase 2002/11/28(Thu) 11:46 [Reply]
春山の霞ヲトコの話は、hvhyさんおっしゃる通りごちゃまぜの要素の話で、天日矛の一族との関連以外は、古事記では前後の脈絡も不明で、勝った春山さんの子孫すら判明せず、お手を煩はせた割には成果が少なく、相済みません。あまりに強い母親に従順の話でもあり、日本の物語ではなかったかもしれません。
蛇足ながら、この母親が使用した呪物に竹で作った「八目の荒籠」があり、六目なら篭目紋になりますが、竹のある地方では珍しいものではないのかも。

[3643] Re[3631][3627]: 参道の両側の石灯篭にダビデの星  日下部 2002/11/28(Thu) 03:51 [Reply]
> 籠神社に竹籠を編んだ時の籠目マークがあるのが自然だと思うくらいです。
> 籠神社、今「この」神社と読まれるけど、籠山、おっと、香語山を祀ったのが元々じゃないのか、と思ってるんですが、史料にはそう書いてないようですね
>
失礼します。[3627]の説明不足を補わせてください。
http://www.kamnavi.net/mn/kinki/manai.htmの注釈のとおり、マークは籠神社ではなく真名井原の真名井神社(主祭豊受大神)にあります。参拝は外宮から先にするのが本式とされている伊勢外宮、マークがどちらもトヨウケの参道にあるので、おや!と思って書き込んだしだいです。ややこしいことになってすみません。

[3642] 『名草の神々』から  Setoh 2002/11/27(Wed) 21:45 [Reply]
 水先案内の宇豆比古の場合、やはり海流の流れの強い海峡に現れて神武東征(天孫降臨の水平版?)の軍を導き、海峡を突破して行きますまた大和の宇陀の方で立ち往生の神武軍をやはり平野へ導く役割を果たします。
 「ウヅ」には突破する打破すると言うような意味がありそうです。それも平和裡に行っているように見えます。従って、「撃つ」の変化ではないように思います。「渦」とすれば螺旋状で、土器や銅鐸などの模様に使われています。なにか、呪術的な意味があるのでしょう。
 ホトの露出や珍彦からの連想ではないのですが、別に棹根津彦(さをねつひこ)と言う名前をもらった所を見ますと、男根を出して安全を祈願するような呪術が往古にあったのかも知れません。

[3641] 無題  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/27(Wed) 18:45 [Reply]
「伊豆志袁登売」に関して考察してみましたが、
今ひとつ未完成なので、青草のほうに書きました。
「春山之霞」は「大国主」に比されるという話です。

[3640] Re[3637]: 季節と方位  yanase 2002/11/27(Wed) 13:21 [Reply]
hvhyさん> 少なくとも古事記の方位は「春、夏、秋、冬」が「北、東、南、西」。

 応神天皇のころ、但馬のイヅシヲトメ(天日矛の子孫だったか)をめぐって秋山の下氷ヲトコと春山の霞ヲトコが争ふ話がありますが、この秋と春の対立は、西と東ではなく、南北対立だったことになり、北(春)が勝ちました。
 何となく当たってゐるような気がします。「下氷(したひ)」の意味がわかりませんが。
 北の民は春を待ちわび、南の民は秋冷を待ち望むことと関係ありますかどうか。

[3639] 「阿倍」と「波延」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/27(Wed) 00:00 [Reply]
>「阿倍之波延比売」の子は「若屋比売、都夫良比売、阿豆王」。
>ここで「阿倍」は「OPY」(葉)。即ち「葉月」(婁月)だが、
>(……中略……)
>「波延」は「南風」との掛詞。あるいは「南風」そのものを表わす。

ここに言う「阿倍」(葉)と「波延」(南風)の関係は
古事記における他の系譜にもしっかりと表現されています。
「阿部臣」の祖は「建沼河別」ですが、また「神沼河耳」は
「建沼河耳」と言われる。これは名前が「建沼河別」に重なる。

       (南風)  (秋津)
     ┌─縣主波延──阿久斗比売
     │        ┃              (南風)
     └─河俣毘売   ┠─師木津日子──和知都美──蝿伊呂泥
        ┃     ┃              (大倭国)
神倭伊波禮毘古 ┠─師木津日子玉手見
   ┃    ┃
   ┠───建沼河耳……建沼河別は阿部臣の祖
   ┃             (葉月)
多多良伊須気余理比売
(葉月)

つまり「建沼河耳」を「阿部」に重ねてみると、
この系譜でも「阿部」と「波延」が横一線に並ぶ。
並ぶように系譜が作ってある。そういう話でしょう。
「秋」の要素が並んでいることが確認できるはずです。
「葉月」(八月)はインドで言うところの「婁月」だが、
「婁」の和名は「たたら星」。故に「多多良」も「葉月」。

[3638] Re[3636][3635][3634]: このくにのかたち  Setoh 2002/11/26(Tue) 20:30 [Reply]
> 木国造之祖、宇豆比古之妹・・・」(孝霊記)

 比古布都押の信の命が木の国の造が祖、宇豆比古の妹、山下影日売に生ませた子が建内宿禰と言うお話ですね。
 この山下影日売ですが、神として祭られています。
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
福岡県小郡市力武 竃門神社
福岡県八女郡水田町 玉垂神社
佐賀県武雄市朝日町 黒尾神社
の四社しか『平成祭りCD』には出てきません。京都も和歌山もありません。これはどう見ても山下影日売は北九州の女神であること示しているように思います。
この場合の木国は肥前国基肄郡辺りとなるでしょう。

 尤も、和歌山市の南に「山下」姓の人が多く住んでおり、子孫ではないかとの話が残っていますが。


[3637] 季節と方位  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/26(Tue) 02:18 [Reply]
『淮南子』などに見られる中国の五行配当を前提とする議論はポピュラーですが、
根本的な見直しが必要だと思います。古事記にしても日本書紀にしてもその中には
もちろん「火」だの「金」だの出てきますが、それが中国式である保証はありません。

例えば「水戸神、名は速秋津日子神」(水門神等を速秋津日命と號す)にしても、
まさに「秋」であるところの「葉月」(インドで婁月)が十二支の「申」に相当し、
「申」(サル)が「水」であるところから、実際はこのように書かれているのでした。(※発言[3554]参照)

方位に関しても「春、夏、秋、冬」を「東、南、西、北」と見るのは問題がある。
例えば「東風」を「アユ」と言いますが(万葉集)、これは実際には「夏風」です。
中国のこの配当では矛盾します。もし「夏」が「東」ならば、この命名に一致します。

少なくとも古事記の方位は「春、夏、秋、冬」が「北、東、南、西」。こうです。
これは『摩登迦経』『舍頭諫経』『大集経』などの示す方位にむしろ重なっている。
古事記や日本書紀を説明するのに、短絡的に五行を持ち込むのは「間違い」でしょう。

では「春、夏、秋、冬」が「北、東、南、西」とは、どういう意味合いのことか。
その内実こそが問題です。これは「虚」(イルカ座)が見える方角を言っています。
例えば「秋」ならば、概ね「虚」が「南」に見える。この意味で「秋」が「南」です。

「日下」が「東」というのも錯覚です。そのように受け取れる書物もありますが、
もともと天文学的には「日下」は「南」です。このことは前に引用した記事の中で (※天智元年四月)
「日本」(日下の言い換え)が「南国」と言われているあたりに実は表われています。

--------------------------------------------

「秋」が「南」であること、即ち「秋においては虚方が南方である」ということ、
さらに加えて「日下」が「南」であることを仮に念頭に置くと、当たり前のように
「大倭豊秋津島」という言葉や「虚空見日本国」という言葉が了解されると思います。

それだけには留まりません。「意富夜麻登久邇阿禮比売」は「蝿伊呂泥」の別名。
「蝿」は「南風」との掛詞でしょう。「南」〜「秋」〜「大倭」と繋がっています。
「倭飛羽矢若屋比売」の「羽矢」(ハヤ)も同じ「南風」との掛詞として捉えられる。

「虚」の形を『摩登迦経』は「飛鳥」(読み下せば「飛ぶ鳥」です)としている。
ならば「倭飛羽矢若屋比売」とか「倭者師木登美豊朝倉曙立王」の「飛」(登美)、
これは「南」に見える「虚」(イルカ座)のことを言っているのではないでしょうか。

「文月」(インドで室月)も「秋」ですから、「室之秋津島」という地名も当然。
とかなんとか、「何故そのように書かれているのか」という一端がよく見えてくる。
いずれにせよ言えることは、中国思想によって日本を見るのは危ないということです。

#「阿倍之波延比売」の子は「若屋比売、都夫良比売、阿豆王」。
#ここで「阿倍」は「OPY」(葉)。即ち「葉月」(婁月)だが、
#「若屋比売」は「倭飛羽矢若屋比売」(つまり秋)を示唆している。
#もちろん「阿豆」は「Asvina」(婁月)の頭の部分だけを言ったものだ。
#また「波延」は「南風」との掛詞。あるいは「南風」そのものを表わす。

[3636] Re[3635][3634]: 謝辞  大三元 [Url] 2002/11/25(Mon) 20:49 [Reply]
>  別に、『山城国風土記』逸文には、「宇治の元の名は許之国(コノクニ)」とあり、これは分割前の紀伊郡のことのようで、ここかも。

そっか。「又娶木国造之祖、宇豆比古之妹・・・」(孝霊記)は↑と整合するのか
ウヂとウヅも同じ、と。。。

[3635] Re[3634]: 謝辞  Setoh 2002/11/25(Mon) 19:10 [Reply]
八箇岩、香具さんおお書きの通りです。Setohは最後尾をのんびり付いていっただけでしたが、御神酒だけは人並みに頂きました。
この近くにストーンサークルがあるとか、これも見てみたいですね。

> 神櫛王者、木国之阿比古、宇陀酒部之祖
「木の国」はひょっとしたら、紀の国? と調べて見ましたが、神櫛王命を祭神とする神社は、讃岐国にのみ鎮座しているようです。(『平成データ』)。
例えば、琴平町の櫛梨神社など。船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり。
そそりますね。
そうしますと、木の国は、豊国、山城の紀伊、毛野国などを指すのでしょうが、神櫛王命を祀る神社とは関係なさそうです。
 
 別に、『山城国風土記』逸文には、「宇治の元の名は許之国(コノクニ)」とあり、これは分割前の紀伊郡のことのようで、ここかも。
籠神社が元々香語神社だったのか、許之神社とか木之神社だったのか、御祭神の火明命の児の武位起命が五十猛命と訓が似ているのもさもありなんなど我田引水。木積神社も近くに鎮座。

大角はひとつは熊襲の住む大住、また熊野大角の表記は『岩波文庫の日本書紀』の注釈に角はクマと訓める、更にその場合には神の意味がある、とかで、「角」と言う字は熊襲と熊野を結んでいるような気がします。

丹後と紀国、熊襲と熊野、和歌山は南北文明を融合させた接点の様子が神々に残っている地域かも。


[3634] 謝辞  香具 2002/11/24(Sun) 23:19 [Reply]
個人的な、私的な投稿で失礼いたします。m(__)m
 何度もあきらめかけた『八つ岩』でしたが・・・、11月23日(土)に、日の谷『八つ岩』へ登拝できました。清冽な山の気の漂う静かな神奈備でした。
 奈良県天理市布留川上流の日の谷、滝本町と長滝町の奥の山林の中。石上神宮摂社の出雲建雄神社創祀伝承にまつわる磐座群です。私自身は出雲建雄神社の御由緒を読んで『八つ岩』に興味を持って以来、3年がかりで登拝達成となりました。
 当日は4人もの方々にご先導頂き、登り難く迷い易いルートを無事踏破できました。今まで別々に探索していたメンバーが、はじめて全員揃って一同で登拝できたことに不思議な感慨を覚えます。

ご同行、引率(^^;)して頂いた方々、神奈備先生ことSetoh様。kokoro様。与乃登先生。みえこ様。
お忙しい中わざわざ愛車でお送り頂きました、ZOU様。
いつも熱い応援と厚いお気遣いを頂きました、泊瀬女様。
ご親切な声援を頂きました、マルヤ様、橘風流様。
長滝町のA様、Y翁ご夫婦様。滝本町のM様、下滝本のY様。詳しいお話しや証言、貴重な資料を頂いたばかりでなく、とても親切なおもてなしまで受けました。
布留川沿いの内馬場町、滝本町、長滝町、仁興町、苣原町、さらには都祁村の方々。社への道を尋ねるに、みなさんがご丁寧にお教え下さいました。
山道で出会った登山好きなオジサン達、情報交換ができましたね。
山中に迷いボロボロになって桃尾の滝まで辿り着いた私を、駅までパトカーで送って下さった天理警察のおまわりさん。
温かく見守って下さった石上神宮の禰宜さま。
『八つ岩』を現代まで大切に祀ってこられた方々。

磐座登拝というささやかなことに過ぎませんが、みなさまのご協力により、やっと目的を無事達成できました。神奈備掲示板のこの場をお借りして、心から御礼申し上げます。

 本来、無神論者でノンポリの私でしたが、
滝本石上神社、長滝九頭神社の神さま。のろし山「りょうさん」の神さま、大国見山の嶽神さま。桃尾奥の院の龍神さま。出雲建雄神さま。そして布留の大神さま。
 かしこみかしこみ感謝申し上げます。古社史蹟を探すにも、人々と出会い尋ねることの大切さをお教え頂きました。

 『八つ岩』の神さまは、大和盆地の人々が朝な夕なに振り仰ぐ東方の山の稜線のひとつに降臨されて、岩から水を生みだして里人の生活を潤す恵みを垂れる神さまでした。しかし案じていらっしゃるのは、今の言葉でいう『環境』の問題とか。
 ここよりさらに奥の福住では工場団地誘致に造成された土地が破綻して放置されたままですし、苣原では産業廃棄物の埋設処分場とされています。天理市が反対しているにもかかわらず、奈良県が進めているそうです。山の中に突如出現する異様な光景。何とも理解しがたいのは水源地でこのような暴挙が推進されていることですが、水は布留川となり大和川に合流して、大阪府下を流れ大阪湾に注ぐのです。こんな現代では、古代を未開の時代だったと言えないですね。

 古代を尋ねる旅が現代にリンクしてきました。未来を想うとき、天に梢を伸ばす大樹が地に深く根を張るが如く、歴史を振り返る思いが大切になりましょう。今を生きる人が考えるかぎり、歴史は過去の遺物でなく、未来への足がかりになることと思っています。

この掲示板がきっかけで、上記のほかにも多くの方々にお世話になりました。
深く感謝致しますとともに、これからも宜しくお願い申し上げます。

[3633] Re[3629]: 菊花紋とダビデ紋  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/24(Sun) 18:06 [Reply]
≫ダビデ紋(カゴメ紋)は聖徳大使時代に日本へはいってきている可能性が高い

考えが変わりました(^^; 訂正です。
渡来した可能性の高いのは景教のみ。

古来から使われたのはメノラという樹木状の燭台の図柄で、ダビデ紋は近世以前に存在した様子がみえません。

対してカゴメ紋は鎌倉時代に存在するようです(未確認ですが法然上人絵伝、1237)。
カゴメ紋がなぜ籠神社以外で用いられたのか??、こちらに興味移行(^^;


[3632] 「カシハ」は「KSP」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/24(Sun) 15:29 [Reply]
>西周に「善夫」(善と膳は同義)があり内容は日本の膳夫と類似のようですが、
>周では宰相でもあり要職です。当時は祭祀が中枢にあったからだろうと思います。
>時代はわかりませんが、その文字が日本にはいったのが膳夫だと思います。

「膳」を考えるにあたっては、「善」と「膳」が同義に使われる場合があるという点。
このかたばみさんのご指摘が重要ではないでしょうか。他にもこういうものがあります。

>善元宿者。有一要星。形圓色黄。行十五須臾。而侍從矣。
>以果為食。主于風天。姓善所乘。〔舎頭諫経より〕

これは「善元」(中国で大角、西洋でアルクトゥルス)という月宿に関する記述。
この資料から分かるのは、3世紀末あるいは4世紀あたりに「善」なる氏族がいて、
しかもその氏族は「善元」(大角)に関連づけて理解されていた。そういうことです。
「善元」と漢訳された元の言葉は「Svati」(梵語)。「阿部臣」と「膳臣」に関しては、
とにもかくにも、この「善元」(大角)という星を理解することが大前提になってきます。

「大角」について端的に述べているのは、例えばヨハネ黙示録6−5。
「黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた」とありますが、
ここに言う「黒い馬」(SWSYA、AWKMA)が「大角」です。また、
「秤」は「大角」が属すところの「秤宮」(つまり天秤座)を言っています。
この黙示録の描写は、「仲秋の名月」即ち「満月(東)虚空(南)大角(西)」
という美しい空の配置を述べたもの。ここで「仲秋」が「葉月」である点に注意。

『舎頭諫経』に言う「善」という氏族が日本の「膳臣」の源流ならば、
「膳臣」は「大角」に縁があり、「葉月」に縁があることになりますが、
書紀は「葉」と綴って「柏」(箇始婆)と読ませている。そうである以上、
その意味合いはともかく、「膳臣」と「葉月」の繋がりは間違いありません。
むろん「阿部臣」「膳臣」は親戚ですが、ヘブル語「OPY」の意味は「葉」。
「阿部」の語源を「OPY」(葉)と捉えると、この繋がりがよく理解できます。

------------------------------------------

ところが「大角」の和名を「あみ」と言う。「依網之阿毘古」の「網」は
「大角」の和名そのものだから、まず「阿毘古」が「阿部」に重なってくる。
ならば「神櫛王者、木国之阿比古、宇陀酒部之祖」という系譜の「阿比古」も
当然ながら「阿部」に重なる。古事記に「御酒柏」(柏は葉)が出てくることと、
同じく古事記に「阿比古」と「酒部」が並置されることは、まったくパラレルです。
「阿部臣」「膳臣」はその意味合いはともかく、「酒」に繋がりを持っているのです。

>秋九月の庚子の朔に、依網屯倉阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に獻りて曰す、
>「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇びて獻る」。
>天皇、酒君を召して、鳥を示せて曰ふ、「是、何の鳥ぞ」。酒君、對へて言す、
>「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷く飛びて諸の
>鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を號けて倶知と曰ふ」。是、今時の鷹なり。
>乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、
>則ち韋の緡を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、〜

「神櫛王」は「倭建」の弟。この記事の「酒君」は「百済の王の族」。
そのまんま「宇陀酒部」を「酒君」に結びつけるわけにはいきませんが、
「依網之阿毘古」(依網屯倉阿弭古)も「木国之阿比古」も「阿部」なら、
日本書紀のこの説話も「阿部」と「酒」の結びつきを示していることになる。
その「阿部」と「酒」の結びつきを端的に表わすものが「御酒柏」と言えます。

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説話において「依網屯倉阿弭古」は「鷹」を知らなかった。
「酒君」は「鷹」を知っていた。しかしここで重要なことは、
「鷹」を「阿弭古」が捕まえて「酒君」が飼い慣らすのだから、
これは共同作業ということ。問題になるのは「韋」と「鈴」です。

だれが「韋」と「鈴」を作ったのか。「鈴」については分かりませんが、
少なくとも「韋」については「阿部臣」「膳臣」が関与したと思われます。
「阿部=OPY」は「葉」(箇始婆)だが、「柏」の樹皮はタンニンを含む。
それで「柏」(箇始婆)は「皮を鞣す」のに用いられます。ところがどっこい、
ヘブル語「KSP」は「皮を剥く」(例えば果物や樹木の皮を剥く)という意味。

「御綱葉」とも「御綱柏」とも言われ、また「依網之阿毘古」とも言われる。
そもそも「綱」や「網」はやっぱり樹皮で作ります。このことを念頭に置いて、
さらに「柏」の樹皮が「韋」を作る過程で必要なものであることを考慮するなら、
「葉」とか「柏」を「箇始婆」と読む由来は、ヘブル語「KSP」に求められます。
つまり「OPY/KSP」が「阿部/膳」の語源と考えられます。ここで面白いのは、
「OPY」(80・90・20)も「KSP」(30・70・90)も「190」だが、
「子供」を意味する「OLYM」(80・40・20・50)も「190」という点です。

#「阿倍倉梯麻呂−−小足姫−−有間皇子」という系譜に注意。
#「190」という数字は「第19代」の允恭天皇を暗示するが、
#その允恭天皇は月宿の「婁」(Asvini)。一方「葉月」は「婁月」。
#「有間」は「阿倍」の孫だから、「OLYM」が「190」なのは、
#「OPY」が「190」であることを承け継いだものと理解されよう。
#ここで允恭天皇に関しては「http://www.platz.jp/~hvhy/keifu/k030.html」参照。

[3631] Re[3627]: 参道の両側の石灯篭にダビデの星  大三元 [Url] 2002/11/24(Sun) 13:25 [Reply]
籠神社に竹籠を編んだ時の籠目マークがあるのが自然だと思うくらいです。
籠神社、今「この」神社と読まれるけど、籠山、おっと、香語山を祀ったのが元々じゃないのか、と思ってるんですが、史料にはそう書いてないようですね

[3630] 菊花紋  習志野のてつ [Mail] 2002/11/23(Sat) 23:58 [Reply]
菊花紋は、いつ頃から日本にあるのでしょうか?
そもそも家紋、神紋はいつ頃から日本にあるのでしょうか?

植物としての『菊』は、中国が原産で、奈良時代の末期頃に
日本に伝わり、当初薬草と考えられていた…らしい。

つまり「野菊の墓」は、奈良時代にはありえない。
縄文時代に「犬の墓」があり「猫の墓」がないように。
戦国時代に「野良猫」はいたんでしょうか?
この話題は今後、青草で採り上げる話題にしませんか?

[3629] 菊花紋とダビデ紋  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/23(Sat) 17:56 [Reply]
エルサレムの嘆きの壁やユダヤ教会に「菊花紋」があるからうんぬんという論をみかけますが・・
下図左はアケメネス朝ペルシャのダリウスT世(BC522-486)の宮殿の装飾用タイル。
右はアッシリアBC1400頃の石の壺(側面と蓋)。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/rossettes.jpg

ロゼッタあるいはロータス文様です。
ハスの花の文様がエジプト〜中近東で好まれギリシャでも用いられていろいろな変形があるようです。
水が貴重となった時代にその象徴にもなったのではないかと考えています。
フセインさんの紋章もこれらしいけど、ペルシャの栄光よ再びといったところかな。

インドでは蓮花紋となってこの系譜の文様は奈良飛鳥の瓦で使われています。
http://www.narahaku.go.jp/meihin/kouko/kouko_fra.html
(こちらは中央部の丸の中にハスの実になる部分がはっきり描かれてる)


ダビデ紋(カゴメ紋)は聖徳大使時代に日本へはいってきている可能性が高いと考えています。
(その当時のものが現存するかどうかは別の話)
道教、仏教、景教などの渡来思想が渾然一体に拡大していた時代。
秦氏が景教者であればその影響力は甚大のはず。

景教は医術と技術に優れる有色人種の宗派でヨーロッパからは異端とされ、西アジアから東方へ浸透してゆきます。
中近東にイスラムが広まっても抗争はせず、後のアラビア科学の母体となります。
景教ではキリストはダビデの子孫という解釈によって、キリストをダビデとも呼ぶそうで、台湾で柯大闢先生とか大闢牧師(David Masson)といった宣教師名がみえます。

聖徳太子の貧民救済、この概念は当時の道教にも仏教にもないもので、聖徳太子は渡来思想の良い部分をいろいろ取り込んでいたのだろうと考えています。


[3628] 細男について  ユアン [Mail] 2002/11/22(Fri) 20:16 [Reply]
古表神社の傀儡舞は、ビデオで見たことはあるのですが、実際に見た事はありません。
いつか見に行きたいなと思ってます。でもあれは四年に一度らしいですね。
細男舞について、細男(せいのお)は春日大社で神楽の演目のひとつになってます。
福岡県の志賀海神社で神幸祭の時に舞われる羯鼓の舞も、細男舞の一種だと言われています。
羯鼓の舞では顔に白帛をたらした姿で舞われますが、それは海神安曇磯良を模したものだといわれています。
細男については鈴鹿千代乃さんの著書が参考になるとおもいます。

[3627] 参道の両側の石灯篭にダビデの星  日下部 2002/11/22(Fri) 17:36 [Reply]
[A.I.  H12.10.25
玄松子さんのHP、ときどき拝見してます。10日ほど前に伊勢神宮の参道の石の灯篭のカゴメ模様のことが話題になっていましたね。それについて講談社カルチャーブック「伊勢神宮」に矢野憲一という方(1992年発刊の頃伊勢神宮禰宜であられた)が書いていますので引用します。参道の両側の石灯篭にダビデの星のようなマークが刻まれている。これがイスラエルのシンボルマークに似るのでユダヤと皇祖神につながるとの珍説ができ、しばしば問い合わせがある。まったく関係はない。実は天皇陛下の御成婚記念ということで昭和33年頃、全国から献灯を募った石屋さんが外宮・内宮と志摩の伊雑宮を結ぶ道に「伊勢三宮奉賛献灯会」を発足させ、三宮を象徴して日と月と星を組み合わせた印を作ったところ、偶然にもダビデの星と似たまで。だから神宮は全く関知しないのだが、古代史や宗教研究家が、いかにも古くから存在したように書物に記したので、疑惑の目を向ける人がたえない。このままでは後世に迷信の種をまくからあえて記しておく。とのことです。]

上記についておせっかいにも下記情報を送らせていただきます。ご笑覧ください。

  http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda/manai/sekihi.jpg

をご覧下さい。
「石碑は長いこと土の中に埋もれていたのだが、、、、地元の有志によって掘り起こされ、新しく復刻され、きれいな御影石になっていた。上部中央にそのダビデの紋「カゴメマーク」がついており(これは最近誰かによって消された)、「一、伊勢神宮ノ元宮」と書いてあった。つまり、真名井神社は伊勢神宮の元宮であり、ここから、伊勢に移されたのだった。」

祭りの「のぼり」にも昔はこのマークはありました。地元で否定する人はありません。

どこかから圧力?でもあったのかな。いまはどちらもありません。

   http://millnm.8m.com/phileo/html/pht3.html

もどうぞ。

 http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda/manaij.htm

をご紹介させていただきます。





[3626] Re[3625] いつになったら図書館行けるやら  日雲 2002/11/22(Fri) 00:57 [Reply]
>それが掲示板でしょ。
そういうものなんですか(もう言われるがまま)。

[3625] Re[3624]:おんくろう    玄松子 2002/11/21(Thu) 12:59 [Reply]
> (本当、きっちりデータ管理するか、それが出来んならカキコミしないか、どっちかにしないといけませんねえ……(;ーー))

その必要は無いと思いますし、僕もデータ管理などをしているわけではありませんよ。
出典が分かれば明記すれば良いし、分からなければ、その旨を書いておけば良いだけですね。分かる人が補足してくれるかもしれないですからね。それが掲示板でしょ。

[3624] Re[3623][3622]:おんくろう    日雲 2002/11/21(Thu) 12:19 [Reply]
> ということは、「新しいものだ」という記述には多く出会ったということでしょうか。よろしければ具体的に教えてください。
多く……といっていいのかは疑問ですが、前掲の本を読む前にもう同様のことは聞いていて、その後に『××期をさかのぼることはないだろう』といった記述にも出会った、という感じだったはずなので、少なくとも三つはあったと思うんですが……これが申し訳ないことに、書名はおろか、神社系の本で読んだのか、芸能系の本で読んだのか、郷土史系の本で読んだのかも、まるで覚えておらず……(多分、脳が七三分けになっていて、右脳が極端に小さい)。
ただ、旅先の図書館ではなかったように思うので、身に覚えのある図書館を当たり直してみますね(時間のあった時に、ということになりますが)。
判明したら、御報告します。
(本当、きっちりデータ管理するか、それが出来んならカキコミしないか、どっちかにしないといけませんねえ……(;ーー))

[3623] Re[3622]:おんくろう    玄松子 2002/11/21(Thu) 08:04 [Reply]
> いや、いかんせん、私が読み聞きした中では、
> 「『「――神」と記紀神話に登場する神々の名が付けられているが、これは新しいもので』といった説があるが、必ずしもそうとは言い切れない。何故なら〜」
> というような記述には出会わなかったもので、てっきりこれは定説として固まっているものだとばっかり……。

ということは、「新しいものだ」という記述には多く出会ったということでしょうか。よろしければ具体的に教えてください。
途中で倒されるザコキャラはともかく、孤軍奮闘で勝利する「おんくろう」には、何らかの意味を求めたいのは僕だけではないはず。


> > 隼人族の霊を慰めるという放生会の意義が明白ならば、そこで演じられる人形相撲の勝利者・住吉=隼人族と、(名前を付けた人々は)考えていたのかもしれません。

この文章は、「比較的最近」を受けて書いておりますので、「比較的最近」の放生会の通説である「隼人族の霊を慰める」を前提にしています。『政事要略』にはすでに隼人云々と書かれているようですから。放生会の起源というレベルの話ではありません。言葉が足りませんでしたか。
住吉の名を付けた時代に、放生会が佛教以前の何らかの祭祀であると伝承されている場合は、「住吉=おんくろう」にも違う由来が考えられるかもしれませんし、一般に知られていない伝承に由来する可能性も高くなります。

[3622] Re[3619] Re[3615]おんくろう    日雲 2002/11/21(Thu) 01:36 [Reply]
> 「可能性」という観点でいえば、個々の人形の名が、何らかの伝承によって付けられている可能性もあるわけで、「比較的最近」と一言で処理すべきではないのではないでしょか。「比較的最近名前が付いたとする説がある」程度に留めるべきです。

ああ……すいません、私はあまり人と議論する経験がありませんで……そういうものでしたか。気をつけます(何か謝りっぱなしですね、私)。
いや、いかんせん、私が読み聞きした中では、
「『「――神」と記紀神話に登場する神々の名が付けられているが、これは新しいもので』といった説があるが、必ずしもそうとは言い切れない。何故なら〜」
というような記述には出会わなかったもので、てっきりこれは定説として固まっているものだとばっかり……。

>八幡古表で、「住吉を最強」とする根拠は何でしょうか。なぜ、誉田大神ではないのでしょう。
正直、解りません。
前者については、『八幡愚童訓』などで、物語展開上のボス的な位置に描かれているからというだけかも知れません。やはり。
ただ――勝手なことを申せば、「最強の『おんくろう』は傀儡子側から見れば、必然的に住吉大神であった」という方が、星馬鹿である私的には希望するところではあるのです。そうであってくれた方が、自分の仮説的にはイイ感じなのだがなあ、と。
ですから――新しいのか、という素直な受容は、妄想増殖の自戒も籠もってるんですね。そんなもん知ったことか、って話でしょうが(;^^ 「最近付けられたものだ」ということに対する有力な反駁や、かなり明快な「各々の命名の必然性」が見つからないうちは、それは横に捨てておくべきだと。そこから古代を考察しようとて、それは客観的に通用するネタにはならん、新しいものだというのが定説なら、素直にそれに従っておいた方がいいだろう、という感じで。
しかし――この傀儡子に付けられた神名(のチョイス?)についての考察をされた方というのは、これまでにいらっしゃるのでしょうか? 
最初に現れた誉田大神が二戦目でさっさと負けるとか、誉田大神を破った鹿島・並びに香取を『若宮』(春日の?)が破ったとか、住吉が現れるまで連勝していたのは『三島』であるとか、結構、星馬鹿の私的には、妄想的にそそられる構成になってはいるのですよね。
うがってみれば、何やら傀儡子を操ってきた海人系芸能民の鬱積した情念が、読み取れなくもない、という……。

因みに、私が「最強の傀儡子が住吉」ということに引っかかったのは、芸能民の奉じた「シュクジン」が「第一に住吉」として顕現するという、金春善竹の『明宿集』の記述からでした。
『明宿集』では住吉に続いて、シュクジンの顕現に「諏訪明神」が挙げられていますが、先のレスでも挙げました山梨の天津司社――ここには奇跡とも言われるほど、古態を残した傀儡子舞が残っているそうですが(祭を見てきましたが、どの辺が「古態」なのかは、私にはサッパリ)、この社は諏訪と密接な関係がある可能性が極めて高い上に、妙な星信仰性がありまして……。
《傀儡子〜被差別芸能民〜シュクジン(≒星宿神&獣献)〜住吉(星神説あり)&諏訪(前宮に北斗信仰&獣献)》――このつながりは何なのか? 宇佐八幡の地主神が北辰神社とされているのは何故? ということとも合わせまして、この辺がどうも気にかかるのですね。
(というか、私のテーマは「シュクジンの源流は何ぞや?」ということなのですが)
神功皇后がらみで折に見られる「住吉&諏訪」が加勢する伝承というのも、あれは本当に「軍神だから」ってことでいいのか? それだけか? などと。
青草掲示板ではないので、これ以上はよしておきますが(青草掲示板ですら書けないかも)、古表・古要の傀儡子は隼人云々だけではなく、こちら側方面からの考察も必要になってくるかも知れません――という、これも可能性の話。

> 隼人族の霊を慰めるという放生会の意義が明白ならば、そこで演じられる人形相撲の勝利者・住吉=隼人族と、(名前を付けた人々は)考えていたのかもしれません。
放生会の始まりが本当に「隼人族の霊を慰める」ためだったのか、それを明白としていいのかは、私は保留しておきたいと思います。先行した獣(魚鳥)献祭祀がなかったか? というあたりが若干気になっていますので。いずれ大分界隈に行った時に調べようと思って、放置したままになっていますが。
先の鈴鹿千代乃著「神道民俗芸能の源流」にも、
「そもそも放生会という祭事の根本は、柳田国男もすでに見抜いたとおり、仏教以前の形として鳥魚を生贄として捧げた神事であり〜」
などとありましたし…(と言いつつ、柳田の原典はまだ当たっておりません。yanase様ならお詳しい?)

> 「住吉→黒い人形→黒男神社→武内宿禰」という図式から、住吉=武内宿禰と考えるのも可能性の一つ。
そうですね……上記と共に、
「住吉→黒い人形→黒男神社/武内宿禰」
「住吉→黒い人形/黒男神社/武内宿禰」
「住吉/黒い人形/黒男神社/武内宿禰」
「住吉→黒い人形/黒男神社→武内宿禰」
「住吉/黒い人形→黒男神社/武内宿禰」
「住吉/黒い人形→黒男神社→武内宿禰」
「住吉/黒い人形/黒男神社→武内宿禰」
これら全てに可能性はありますね。
個人的にリクエスト出来るものならリクエストしたいのは、
「住吉→黒い人形→黒男神社/武内宿禰」
の形なのですけれども――これも知るかっちゅう話ですね(;^^

[3621] 無題  日下部 2002/11/20(Wed) 23:37 [Reply]
神奈備様 この掲示板は私のような素人でもとても勉強になり感謝します。大変露出過剰で申し訳ありません。あまりにも知りたいことが多くて、つい書き込んでしまいます。お許しください。
「2499」ピンクのとかげさま。はじめまして。
「書紀顕宗条は、二皇子を連れて逃げたのは、日下部連使主であり、逃れた先は、丹波与謝郡であり、その後、播磨国明石郡に行ったとする。そして、袁祁王、意祁王は、丹波小童と呼ばれたという。
古事記は、狭穂彦を日下部連の祖とする。
二皇子の父・履中の母は、葛城襲津彦の娘・磐之姫である。また、二皇子の母は、葦田宿祢(羽田矢代宿祢)の娘・黒姫である。二皇子及び市辺押磐王と日下部連との関係はうかがえれない。
しかし、二皇子は、日下部連使主に助けられ、丹波与謝に逃げ、その後、播磨明石郡で匿われ、丹波小童と呼ばれている。」

京都府宮津市字須津小字吉里に
吾野神社[ワカヤ]須津彦神社[すづひこ]「去來穗別尊、黒比賣命」があります。
日下部連使主と息子の吾田彦が仕え、海部稲種(縣の子)がおけ、をけを匿う。*真鈴山(21世孫海部直縣の墓地といわれている)
この地は日下部系の糸井、小谷姓だらけで匿うのに安全なところです。「履中の皇孫億計,弘計の2王 難を此地に避け給い来去穂別命と久呂姫命を祀り奉り宮」
履中の皇孫とあるのですが、、、もっと詳しく教えていただけませんか。



[3620] 無題  日下部 2002/11/20(Wed) 19:21 [Reply]
<、「阿蘇海」が気になってくるのですが。

日雲 様
トホホホ(汗)
阿蘇海は与謝海の入り江です。地元では内海と呼んでいます。ごかんべんを!

[3619] Re[3615]おんくろう  玄松子 2002/11/20(Wed) 19:16 [Reply]
> 同様に『黒男』も「そんな読みするのか?」といった音がかつてはあった可能性もなくはありませんので……。

「可能性」という観点でいえば、個々の人形の名が、何らかの伝承によって付けられている可能性もあるわけで、「比較的最近」と一言で処理すべきではないのではないでしょか。「比較的最近名前が付いたとする説がある」程度に留めるべきです。

> 私個人の妄想としては、「おんくろう=最強=(八幡愚童訓などの文脈での)住吉」という、「これ最強!」的なノリから習合命名されたのかな、という風にみていたのですけれども――。

八幡古表で、「住吉を最強」とする根拠は何でしょうか。なぜ、誉田大神ではないのでしょう。
隼人族の霊を慰めるという放生会の意義が明白ならば、そこで演じられる人形相撲の勝利者・住吉=隼人族と、(名前を付けた人々は)考えていたのかもしれません。その根拠はなんだったのでしょうか。


「住吉→黒い人形→黒男神社→武内宿禰」という図式から、住吉=武内宿禰と考えるのも可能性の一つ。
黒男神社が「くろお」と創建時から読むのかどうかも、創建時から武内宿禰を祭神としたかも、わかりませんが、それらが否定されない限り、この可能性は残ります。

ちなみに、福岡の黒島神社・黒男神社(くろどん)・黒殿社、大分の黒男神社・黒人社の祭神は武内宿禰。

[3618] 黒い男  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/20(Wed) 18:35 [Reply]
≫黒男神社の祭神は、元から武内宿禰だったのか?

万葉3844「ぬば玉の斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも」

土師宿禰水通(はにしのすくねみみち)が、巨勢斐太朝臣と巨勢朝臣豊人(の顔)の黒いのをちゃかした歌。
単純に受け取るならそういう形質をもつ渡来人の子孫。
記紀系譜では巨勢氏は武内宿禰の後裔、そこに黒い色(あるいは褐色?)の形質が流れていた??


[3617] 「ヒキ」について  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/20(Wed) 18:14 [Reply]
>そうですね、私もどこかで「ヒキカミ」とあるのを見てなんだろうと思っていたのですが、
>心当たりのあった本を見てみましたが出てきません。ただ、当時「土」は「ヒヂ」とは
>読めるので「ヒヂ」と「ヒキ」の間の揺れかなぁ、とは思いました。

「葛木土神剣根命」の「土」の部分の古訓に「ヒキ」があるのかどうかは、
校本を当たったりしないと分かりませんが、そう読まれる背景は分かります。
古事記は「大山守」を「土形君、幣岐君、榛原君」とする。古典文学大系では、
「幣岐は日置とも書いて、ヘキともヒキともヒオキともいう」と書いていますが、
これは認められると思います。「土形」と「幣岐」(日置)がこう並べられるのは、
もともと何らかの意味で「土」と「ヒキ」に結びつきがあるからではないでしょうか。
その結びつきを認識している人が「土」を「ヒキ」と訓じた可能性は十分にありますね。

#ということは、「土」と「ヒキ」(あるいはヘキ)の結びつきの
#その中身が問題ですが、この系譜だけではそこまでは分かりません。

[3616] 日下部様  日雲 2002/11/20(Wed) 17:25 [Reply]
私も知らないことだらけの初心者ですので、こちらこそ宜しくお願い致します。

犬戎……これは大陸だけでの呼び名なのでしょうか? 日本国内で、そんな名前のものがいた訳ではない? 後者だったら、調べてみなければならないのかなと思ったのですが、どちらなのでしょう?

それから、
>与謝の海は匏宮(よさみや・真名井神社)からきているらしい。
これは逆の可能性はないのでしょうか? 「与謝の海にあったから、よさ宮」という方は。
「よさ宮があるから与謝の海」が正しいのであれば、「阿蘇海」が気になってくるのですが。
「近くにあそ宮があったのか?」と。

質問ばかりですみません……。

[3615] Re[3607][3605]おんくろう  日雲 2002/11/20(Wed) 17:24 [Reply]
> 「比較的最近」とは、昭和でしょうか? 明治でしょうか?
> 「かって」とは、創始された頃は、どの人形も無個性だったということですか?
> 誤解を招きかねない書き込みをする場合は、より具体的であってほしいのですが。
こ、これは失礼致しました。えー、とりあえず手元にある鈴鹿千代乃著「神道民俗芸能の源流」によりますと、

「現在古表社に四十七体、古要社に六十体の傀儡子が保存せられ、いずれも重要民俗資料に指定されているが、神社では、昔から『お神さま』と呼んで御祭神に准じた扱いをしてきている。すでに明治時代、浜田青陵博士が調査せられ、鎌倉期の製作にかかるものもあると論じられたが、そのほとんどは古要社の傀儡子を納める唐櫃の蓋裏に記すように、元和三年、宇佐八幡宮放生会再興に当たり、藩主細川公によって新造せられたものとされている。その後、また宇佐放生会が断絶し、両社はそれぞれの社で放生会を行い、傀儡子舞を『細男舞(くわしおのまい)・神相撲神事』として伝えてきた。古表社では相殿の神に四十柱大神というのがあって、傀儡子はもと四十体で、この神社の御祭神であった」
「古表社の四十七体の傀儡子にはそれぞれ『――神』と記紀神話に登場する神々の名が付けられているが、これは新しいもので、今、住吉大神とされているのが『おんくろう(黒か・全身真黒である)の神』といっていた他は、名前は一切なかったという。古要社六十体の傀儡子には、白覆面の二体を磯良神といっている位で、他は名前がない。その顔面極めて醜怪なものが多く、概してこういうものが古いという」

――といった風にあります。いつ頃から記紀的神名がついたかということについては、すいませんが、今ちょっと解りません。
『××期をさかのぼることはないだろう』
といった記述も何かで読んだのですが、果たして何に書いてあったのだったか……山梨の天津司社について調べていた時に一緒に読んだということは覚えているのですが、幾らなんでも昭和ということとはなかったはずです。ただ、「この『おんくろう=住吉』の等号から古代史の某かが読めるようなことは、どうやらないな」という感じではあったかと存じますが。
私個人の妄想としては、「おんくろう=最強=(八幡愚童訓などの文脈での)住吉」という、
「これ最強!」
的なノリから習合命名されたのかな、という風にみていたのですけれども――。

> 「かって」とは、創始された頃は、どの人形も無個性だったということですか?
につきましては、上記引用からも伺えますように、「おんくろう」のキャラは立っていたのかなとは思います。強いて言えば、最期に戦う巨人(祇園)もライバル的にキャラ立ちしていたとも言えますが、これは元はどうだったのか……『語り』を紡ぐ上で、効果上の問題としてそういう姿に進化していったのかも知れず、ちょっと何とも言えません。
この辺のことについては、「福岡県文化財調査報告書・十八輯『八幡古表神社の傀儡子』『中津市伊藤田の古要相撲』」あたりに詳しく載っていそうです(私は未読ですが、上記の著書の記述出典に挙げられている箇所から察するに)。

ただ――「おんくろう」が元からキャラちしていたのであれば、私も「=黒男神社」の可能性は気になります。
時に、ここの祭神の祭神が武内宿禰であるというのは、創建からのものだと確認されてあることなのでしょうか? 
この界隈では宿神社の祭神が、恐らくは『宿』つながりだけで武内宿禰になったりなど、どうも祭神不明の上に乗っかっただけではないか、という疑いも私的には覚えるのですが……。
高良大社境内を始め、印ヤク神社(印とカギ)の祭神も武内宿禰になっているものがポツポツありますけれども、高良境内の印ヤク神社も、「福岡、佐賀、熊本三県の県境あたり」を中心に点在する印ヤク神社群と同系列のものであるならば、これの祭神が元から武内宿禰であったかは、私にはかなり疑わしいように思われます(上記の地域に点在する印ヤク神社群は、なかなか謎の存在です。各地の国府跡にあるとされる「印とカギを祀った印ヤク神社」とは別物の、地域信仰的なものと見ざるを得ないように思います)。
黒男神社の祭神は、元から武内宿禰だったのか? 
例えば、妄想を巡らせますと……「八幡系と接点を持つ存在ではあったが、八幡大神(誉田別)自体と習合出来るようなものではなく、さりとて女性(神功)でもないという在り方であったために、何となく武内宿禰ということになってしまった」のではなかったか? など、これはあくまで「例えば」の妄想ですが、こういう視点から、
「おんくろう=黒男神」
という可能性を考えてみても面白いかも? などと思ってみたり致しました。隼人など、先住系の信仰だった可能性はないか、といった風な(くれぐれ妄想ですよ)。
ただ、元から「黒男=くろお、くろおう」という訓みであったかは解りませんが――「細男=せいのう、くわしお」であるものを、『豊前志』では「ほそお」とそのままに訓んでいるようで、同様に『黒男』も「そんな読みするのか?」といった音がかつてはあった可能性もなくはありませんので……。

[3614] 無題  日下部 2002/11/20(Wed) 16:44 [Reply]
日雲 様
「えびすは少彦名神(すくなひこなのかみ)であるという説があります。」
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/yebisu.htm

真名井神社の祭神は豊受大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神 です。この神社のひょうたんのマークがきになるのです。
籠神社 の5色もです。わけのわからないこをいってすみません。

[3613] Re[3611][3610]: 少彦名  大三元 [Url] 2002/11/20(Wed) 13:06 [Reply]
setohさん

> 葛木土神剣根命の土神のルビに「ヒキカミ」とある(『古代倭王朝論 畑井弘著』)のですが、これの出典は承知していませんが、

そうですね、私もどこかで「ヒキカミ」とあるのを見てなんだろうと思っていたのですが、心当たりのあった本を見てみましたが出てきません。ただ、当時「土」は「ヒヂ」とは読めるので「ヒヂ」と「ヒキ」の間の揺れかなぁ、とは思いました。

ヒキ、ヘキあたりから、蛙につながるでしょうから、そうすると、スクナヒコの名を知っているのはソホド(かかし)であることを知っていたのが蛙(タニグク)ということでリンク、ヨソタラシ・ヘキ・蛙・スクナヒコ・・・なんてリンクが出来てきそうですね

スクナヒコはヒキヒトで葛木、、、なるほどぉ

[3612] 「後漢書」(南蛮西南夷列伝)  日下部 2002/11/20(Wed) 12:19 [Reply]
日雲 様 はじめまして。知らないことだらけの初心者です。宜しくお願します。
[3606] は私の妄想です。


但し、「、、、、、この頃、帝は一匹の犬を飼っていた。犬は五色の毛を持ち槃瓠(ばんこ)という名だった。、、、、、」の犬伝説を引用されていす。

「、、践そ大嘗祭の時、隼人が朝堂の前に並んで犬の鳴き声を発する。犬は天皇の即位行事にかかわっているのである。、、、、」

「、、葛城氏は槃瓠説話の瓠、つまり、ひょうたんと深い関係にある。このことは後述する。私は、吉野国樔部=尾張氏=葛城氏であり、いずれも同じ犬戎の一支脈と考えている。、、、、」

「、、、槃瓠伝説を持つ犬戎と呼ばれる北方民族が中国南部の江南、南越、東南アジアにかけて南下した。、、、春秋戦国時代の動乱の余波を受け、中国南部にも留まれなくなった犬戎は南海から海上を北上して、波状的に列島の南西諸島にたどり着いた。そして南西諸島から薩摩半島に上陸し、九州を通りぬけて、本州の近畿地方に定着した。それが「記紀」でいう葛城氏である。、、、、」『興亡の古代史/小林恵子著』


 私は,与謝の海で育ちました。与謝の海は匏宮(よさみや・真名井神社)からきているらしい。真名井神社の入り口には瓢箪のマークがある。真名井神社は日下部族が建てたらしい。古代という闇のなかで引っかかるものはなんでも吸収したいと思っています。どうか間違っていることを教えてください。失礼しました。

[3611] Re[3610]: 少彦名  Setoh 2002/11/20(Wed) 11:48 [Reply]
『先代旧事本紀』天孫本紀 には、世襲足姫、亦名 日置姫命 とあります。
葛木土神剣根命の土神のルビに「ヒキカミ」とある(『古代倭王朝論 畑井弘著』)のですが、これの出典は承知していませんが、ヒキカミの娘がヘキ姫は妥当。
浦島太郎の出身地は丹後は日置の里で、丹後の火明命の四世孫天忍人男の娘が日置姫命、つながっているような。

犬戒と葛城
>「少彦名が槃瓠伝説の葛城氏だったことは後に証明するが」(小林恵子)ですかぁ。
小林恵子さん、同姓同名の方は知っていますが、読んだことはありません。
『吉野へようこそ』のマルヤさんが、H12.11.25に投稿された一部を再掲いたします。
高尾張邑の部族は、天孫族に土蜘蛛といわれ葛で絡め取られて誅されました。それでこの地方を葛城と云われるようになったそうです。この部族は採鉱の民で井光や国栖の係累と思われます。又、尾張は「尾があり」という意味があり、日本書紀の記事と符合します。私はまさか本当に尾を生やしていたわけではないと思うので、中国の「犬祖伝説」の事を言っているのだと思います。つまり井光は中国北西部の遊牧民「犬戒」の子孫だと書記の編者は言いたいのでしょう。

少彦名と葛城
侏儒のルビに「ヒキヒト」(前掲書)があります。土蜘蛛も侏儒の表現でもありそうで、小柄な先住民かも。これを代表する神が少彦名神、その昔は半島から渡来、その内にはじき飛ばされてしまったのはまさに先住民の姿、それででしょうか、高橋克彦著『火怨』と云うアテルイを描いた小説に、「アラハバキ、鉄の山を支配する神、(中略)アラハバキは少彦名神とも申す。」と記されています。

算段論法でした。

[3610] 少彦名  大三元 [Url] 2002/11/20(Wed) 09:39 [Reply]
日下部さん

「少彦名が槃瓠伝説の葛城氏だったことは後に証明するが」(小林恵子)ですかぁ。

記紀(+風土記?)のスクナヒコに関わる説話に、少しでも葛城さんとのつながりのあるものがありましょうか。私は知らない。

ただ、オキツヨソ、ヨソララシ兄妹の母が葛木土神剣根の娘(カナラチ姫)なので、この「ヨソ」が「ヨソツラ、ヨサツラ」(吉葛)につながり丹波(丹後)とつながってくるのかもしれない、とは思っています。

[3609] kas ha 手  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/11/20(Wed) 08:49 [Reply]
 kas は日本草創期、混成歴史のなかで定着した“貴人”だと思われます。
 ha も wa もその当時の“ひと”です。
 ha に“逆”という意味があるのは面白いです。
 これらはタジク語です。ミナシャン、ちょっとだけでいいのでタジク語も見てけれ。
 大学書林で語彙集が売られています。

 ワカランことがあったら、日本語領域を離れてみるこってす。
 古代人はいろんなところから moro してるんですから……。

[3608]  腰痛の治しかた  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/11/20(Wed) 08:38 [Reply]
このごろここの掲示板読んでなく、久しぶりにみたら、腰痛ダとか。

まっすぐ立って両手を前にだし、足の膝(の裏)はゼッタイに曲げないようにして、息
を吐きながらゆっくりと、両手の掌が床につくようなマネごとをやってみてください。

つかないでしょう。床につくようでしたら、腰痛なんかにはなっていないのです。
で、諦めないで、続けましょう。
まず、窓を開け放し、空気を入れ替えます。
時計、メガネ、腰のバンドは取り外し、きついももひきパンツの紐は緩めます。

床をめがけて両の掌を伸ばすのですが、このときゼッタイに“反動”をつけたらダメ。
1回に1ミリ平均づつ下がってゆけば大成功……ぐらいの気持で、くりかえします。

鼻から息を吸って、これを口をつぼめて、ゆっくりと15秒ぐらいかけて吐きます。
 吐くときに腰を徐々に曲げます。
 永年の悪癖が、今出たのです。短気を起こさず、最低50回ぐらいやってみてくださ
い。1回の時間は40分ぐらいかけるぐらいを覚悟して始めてください。
ギックリ腰でも、これで少なくとも、とても楽になっている筈です。これを毎日最低2回
はやってください。

両手の掌のつけねが床についたときには、腰痛は完全に治っています。

身体や健康はゼニだして買うものではありもはん。
自分で治すのが生命体のミチです。

くれぐれも足の膝の裏を曲げないこと、反動をつけないこと。

少しいいからといって、中断しないように。この際、掌を床につけてください。
4〜5日で、掌はゆかにつくはずです。
なぜ、窓を開け放つか……くさい息が出るからです。

※ 腰をごまかしごまかし暮らしたいひとは、うつ伏せになって両足を交互にパタンパタ
  ンと曲げたり伸ばしたり……を10分間ほど続けてみてください。
  軽度の腰痛なら4〜5日後には、朝起きるときふとんの上で5分間ぐらいやったらい
  いでしょう。

[3607] Re[3605]おんくろう  玄松子 2002/11/20(Wed) 07:35 [Reply]
> >勝ったのは住吉大神
> ここの傀儡人形に、住吉などの神名がついたのは比較的最近のことで、かつてはどれも無名だったそうですね。

「比較的最近」とは、昭和でしょうか? 明治でしょうか?
「かって」とは、創始された頃は、どの人形も無個性だったということですか?

誤解を招きかねない書き込みをする場合は、より具体的であってほしいのですが。

[3606] Re[3604]: [3527] Re[3526]: 少彦名  日雲 2002/11/20(Wed) 01:21 [Reply]
はじめまして。横から一つお伺いして、よろしいでしょうか?
> 北方騎馬遊牧民(犬戎)と「戎」、槃瓠という名の5色の毛をもつ犬
というが何なのだかよく解らないのですが(無知ですみません)、これについても『興亡の古代史/小林恵子著』というのを読めば詳しく出ているのでしょうか?


[3605] Re[3599]おんくろう  日雲 2002/11/20(Wed) 01:09 [Reply]
>古表神社の相撲には高良大神は土俵にあがっていません。
>勝ったのは住吉大神
ここの傀儡人形に、住吉などの神名がついたのは比較的最近のことで、かつてはどれも無名だったそうですね。
いつか見に行きたいと思ってはいるのですが、4年に一度となるとなかなか……。

[3604] [3527] Re[3526]: 少彦名  日下部 2002/11/19(Tue) 20:38 [Reply]
大三元様 少名彦の調査結果をご報告させていただきます。大変お世話になりありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
「少彦名が槃瓠伝説の葛城氏だったことは後に証明するが、、、。,,,,私は赫居世と瓠公は同一人ではないかと考えている。「新羅本紀」は新羅の始祖が列島から来た事実を隠蔽するために大臣の瓠公という人物をつくりだしのではないか。私は赫居世その人が倭人瓠公だったとおもう。、、、、、舞鶴市には笶原神社があり、、、、かつては最古の八幡神社があった場所ともいわれている。笶原神社はまたの名を「ヨサの社」といい、匏宮と書いたといわれる。「匏」はヒサゴでひょうたんのことである。私は葛城氏の「葛」はカツと読み、ひょうたんの「瓠」カクを表していると考えている。、、、、、笶原神社では祭りに竹を用いた弓矢を作るが、その矢竹の藪は江戸時代まで「磯葛、島」にあったといわれている。これは大和の葛城勢力が大和から半島に渡る際、この日本海側の舞鶴地域に一時、留まったことの痕跡ではないだろうか。、、、、、、、」{興亡の古代史 小林恵子}
笶原神社、真名井神社どちらも匏宮です。
北方騎馬遊牧民(犬戎)と「戎」、槃瓠という名の5色の毛をもつ犬と、籠神社の「唯一神明造の御本殿の高欄上に並ぶ青・黄・赤・白・黒の五色の座玉(すえたま)は、伊勢の神宮と当宮にしか許されておらず、元伊勢としての高い格式を表わしています。」、5色の布
など新たな疑問が増える今日このごろです。

[3603] [3349] 天橋立の東海を与謝海、西海を阿蘇海と言う。  日下部 2002/11/19(Tue) 19:11 [Reply]
Setoh 様 いつも勉強させてもらって感謝します。
今日は感謝をこめて与謝の海を紹介させて下さい。
私は6歳から与謝の入り江の白砂で泳いだり蛤を取ったり(歩くと自然につるっと蛤を踏む)、して大きくなったものです。なにを聞いても全て信じる日下部を知りたい古代初心者ですが、これからもどうぞよろしくおねがいします。

かつて「履中の皇孫億計,弘計の2王 難を此地に避け給い来去穂別命と久呂姫命を祀り奉り宮なりと、、、、」の真鈴宮や、「唄和津神社(雌鳥皇女、隼総別皇子所祭)は元倉椅山(文殊堂はみえませんが、あまのはしだてが横一文字に観える)の王下にありしを明治7年今の地(宮津市須津小字吉里)にす、、、」の須津彦神社があります。日下部連使主と息子の吾田彦が仕え、海部稲種(縣の子)がおけ、をけを匿う。この地は日下部系の糸井、小谷姓だらけです。*真鈴山(21世孫海部直縣の墓地といわれている)
溝尻の地名もあります。以上ショート情報でした。

[3602] Re[3600][3591][3589][3587][3586][3585]: かしわで  大三元 [Url] 2002/11/19(Tue) 18:35 [Reply]
カシハデと呼ばれる所作の源流探しになってきましたね
私はカシハデという単語の出自に興味がありましたが、どうやら謎のままに
しておくのが良さそうですね。ありがとうございました

[3601] Re[3592][3595] : かしわで  苗(miao) 2002/11/19(Tue) 09:07 [Reply]
>玄松子 さん
>折敷
なるほど
折敷紋を最も著名にしたのは伊予の国、大三島にある三島神社です。神紋として「折敷に縮み三の字」。
出雲大社の亀甲紋も折敷紋の可能性もあるらしいと聞くので、これは。と思います。
とても参考になりました、ありがとうございました。

[3600] Re[3591][3589][3587][3586][3585]: かしわで  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/19(Tue) 00:53 [Reply]
≫アイヌの習慣では、他人の家を訪れるときのノックの機能としても咳払いするそうです

川を渡るのは本土だったですが、ノック代わりの咳払いもありますか・・ふーむ。

トイレに入るときにも咳払いをするのを子供心ですがみた記憶があります。
トイレの神様にお供えをおいたりしますから、これも本来は合図なのではないかと思ってます。

森へ入るとき、海へ入るとき、神域へ入るとき、自分がそこにいることを神々に知らせる合図ならば「カシワデ」に自然につながると思うのです。


≫かしわで、縄文以来の風習?ですかぁ。。。どうかな。
≫とにかく、古語にはなさそうなのでねぇ。

パンパンと手を打つ作法が縄文からというわけではありませんが・・
以下長文(^^;


周礼音義(7世紀の周礼の解説書)に「四曰振動」に関して「倭人は拝するに両手をもて相打つ、古の遺法であろう」とあるそうで、唐の学者にも倭人以外には未知の所作だったとみえます。

西周に「善夫」(善と膳は同義)があり内容は日本の膳夫と類似のようですが、周では宰相でもあり要職です。
当時は祭祀が中枢にあったからだろうと思います。
時代はわかりませんが、その文字が日本にはいったのが膳夫だと思います(役職となってからは膳部かな)。

膳夫が移入されただけなら漢風の発音になると思います。
パンパンと手を打つカシハデは古来からあり、膳部が神饌を掌ることから後にカシハデを以て読みとしたのではなかろうか。
カシハとは樫の実、椎の実、栃の実など有用植物の木の葉の総称だったのではないかなあ。
ブナ科の木、縄文の最重要食料、それを神に捧げる・・


以下関連事項羅列(^^;
仁徳紀に皇后が熊野岬で御綱葉(ミツナカシハ)を採りにゆく話がありますが、わざわざ皇后が採りにゆくのはなんらかの儀式に使うからだと思います。このカシハは箇始婆で、柏とは書いてない。

応神紀では「大御酒の柏」がでてくる。
「貞観儀式大嘗会儀」(858-876)では酒柏とは弓弦葉を以て白木に挟み・・とあります。
弓弦葉はユズリハのこと、それを酒柏と称しています。

中国での柏の文字は「松柏」のこと(おおよそ杉)、日本でいうカシワは「槲」コクです。
杉は日本酒に香り付けをする木。酒樽は杉に限ります。造り酒屋のシンボルは杉玉。
書紀編纂時代では柏はカシハとは違うとみえます。

万葉4301では我之波で柏は使ってないけれど、紅葉したとみえる柏もでてくる(4301)。
4169に松柏(まつかへ)あり。
この頃にカシハとカシワと柏がごっちゃになり始めているのではなかろうか。


[3599] Re[3596]: 八陣図、古表  Setoh 2002/11/18(Mon) 20:44 [Reply]
>「おんくろうの神」は木偶の中で一番小さい美豆良の住吉神?、なら「小兵」かなど思ったり、です^^。
前に(平成十三年一月)ここで書いたのですが、九州には武内宿禰命を祭神とする神社に黒男神社が多いのです。これが高良大社の訛の可能性のご指摘が玄松子さんから頂いたのですが、古表神社の相撲には高良大神は土俵にあがっていません。勝ったのは住吉大神、どうやら神功皇后のパートナーは住吉大神=おんくろうの神=武内宿禰命が成り立つのかも。

[3598] 無題  yanase 2002/11/18(Mon) 16:28 [Reply]
前々回などの書込にいつくか早合点があり、御指摘有り難うございました。

[3597] 天の逆手 ほか  yanase 2002/11/18(Mon) 16:07 [Reply]
「天の逆手」について、美保神社では古事記の訓と違ひまして、
「海中に青紫垣(アオフシガキ)を造り、天の逆手(アメノムカエデ)を打って海中に身を投じました。」http://mihojinjya.shimane.to/ebisu_izumo.html
とありました。
「迎へ手」の反対は「帰る手(楓)」?ではシャレですが、意味はわかりません。

 柏は、落葉樹なのですが、枯れた葉が枝に付いたまま冬を越し、春の新芽が出るまで枝にぶらさがります。虫にとっては良い住み処かもしれません。こんな葉の生命力が珍重されたのではないかとも考へられます。柿は、葉が全部落ちても赤い実だけが残りますし、桜は、葉が芽吹く前に花だけが満開になります。

 柏手の音の意味についてはともかく、祭の太鼓や音楽など音響効果によって場を祓へ清める(非日常空間となる)といふ見方もできると思ひます。
 咳払ひは、咳によるハラヒですし、音の他に息を吐きますから、唾に準ずるような祓つ物ともなり得ます。唾を吐いてそれを相手に預け、もし危害を及ぼしたらその唾に呪をかけてもよい、といふ信仰がありました。大祓のときの形代には息を吹きかけます。
 海の民は穢れへの意識が強いとのことですが、アイヌの場合も、咳払ひをするのですから、穢れに対する信仰はあるように思へますが。
 唾や息のほか、髪、爪、歯、糞尿その他、肉体から離れてゆく物に対しては、深い信仰や禁忌などが多く伝へられますね。
 ところで江上波夫さんが亡くなったそうです。

[3596] 八陣図、古表  s_tan 2002/11/17(Sun) 22:54 [Reply]
 瀬藤さん、こんばんわ

> 蜜柑畑から竹薮を通り・・・
# 私もたまに。。^^。祠でなく古墳ですが、滑って胸ポケットの中味を撒き散らした事もあります。
神社探訪の作戦は昔の地勢を思う事から始めています、近所まで行っても近所の人さえ知らない、というのがあったりしますが、偶然尋ねた方が昔の地主だったり古くからの氏子さんだったりしますと、この社とは縁がある、など思ったりしています。

仰るように陣形は縦横無尽、基本の方陣もその内部には魚麟、長蛇、鶴翼を含んでますし、臨機応変への指令伝達の言葉が、鶴翼、魚麟などでしょうか。四頭八尾は字の通りで舞に見られる様に八尾は左右に上下に、臨機応変に前の1つに1〜8の隊列が応援できる陣形と思います。
平地での指揮官は4頭立の馬車に座乗し、方陣ではほぼ中央に位置しますが、これが四頭八尾では指揮官が前面に出ていたのでは等思ったりしてます。

兵法の真髄を記したという奇門遁甲、最初に黄帝が、次に太公望が3年がかりで釣あげて、諸葛がまとめる、といった感じでしょうか。使われる虚星を配置した遁甲盤は南北の位置が逆で、孔明が陸遜との戦いで使ったという「八陣遁甲図」は「休、生、傷、杜、景、死、驚、開」の8門を使ったのは記録にあるが具体的な陣形などは分っていないようです。(休が北で時計回りに続く)
漢字を見るとなんとなく奇策と言いますか、陣形(戦術)は欺く為の物というのが基本なのでしょう。

古表神社は現地探索未でしていまいち固まらないのですが、40体の木偶の神々と笛と太鼓の単調なリズムでの時には静かに時には上下左右に強く運動するという舞が四頭八尾を連想させてくれます。
現地に精しい清輔氏は古表・古要は「故郷」との説ですが、おん相撲の神22体で優勝するという「おんくろうの神」は木偶の中で一番小さい美豆良の住吉神?、なら「小兵」かなど思ったり、です^^。

社の位置、社殿の配置は、先ず自然地形、次に当てはまるモノ(理由)を選別する、といったイメージでいますが現地・地図上の探索検証まだまだこれからです。

[3595] Re[3592]: かしわで  玄松子 2002/11/17(Sun) 13:53 [Reply]
> >玄松子 さん、質問してもよろしいですか?

祭器に関しては、神職の方にお聞きになる方がよいと思いますが。

> 三宝と奉書紙はいつ頃使用されたか文献はありますか?

文献に関しては存じあげませんが、「神道事典」などによると、三方は、もともとは特に祭器というわけではなかったようです。三方に穴のあるものが三方で、他にも四方や穴の無いものもあるようですが。これらは、折敷に台が付いたものなので、古さでいえば折敷の方ではないでしょうか。これについても文献での初出は、知りません。

[3594] 柏と八陣図    Setoh 2002/11/17(Sun) 13:40 [Reply]
> 神に供する物は、昔は柏の葉に盛った
有馬皇子の歌に 家にあれば 筍に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る があり、これは神に供する際の歌とされています。
丹生都姫告門では「三津柏又濱木綿:ミツカシハマタハハマユフ」とあり濱木綿も使われていたようです。
仁徳天皇の大后は南紀潮岬に御綱葉(御綱柏)を採取に往っています。
http://www.kamnavi.net/ki/nanki/sionomisaki.htm
 松も榊とされるように、柏もいろんな木の葉が使われたようですね。

s_tanさん、こんにちは。

大阪は素晴らしい天気ですが、腰痛でくすぶっています。
昨日、伊太祁曽神社からの帰りに、岡崎、井辺と云う市内の地域の探訪を行って来たのですが、山の上に神社があると聞いたので、蜜柑畑から竹藪を通り後は雑木林を遮二無二頂上へ出たのですが、何にもなく、再度、今度は一応の道を降りて、帰りかけましたら、山裾に求めていた神社がありました。あれを山の上と云うのかな・・・。
 やはり神社探訪も作戦が要りますね。孔明さんには及ばなくとも、張飛さんよりはましでありたいと思っています。
 八陣図の概略、ありがとうございます。
神社建物のレイアウト、若しくは八幡社がそのような分布している地域でもと思っていましたが、八門遁甲などが該当するのでしょうか、縦横無尽の戦法でもあるようで、固定して考えるものなのかどうかですね。
 四頭八尾、最近のTVなどで出てくる「怒っている」マークに近いのかも。
 戦陣と祀り、これから八幡古表神社を思い出しました。古表とは四表?

[3593] 八陣図  s_tan [Url] 2002/11/17(Sun) 02:04 [Reply]
神奈備さん、お久しぶりです。

>八陣の布陣の図とはどのようなイメージだったのでしょうか

#久々に拝見し、ちと、気になりましたので、
 八陣というのは、時代毎に多少違うと思われますが代表的な8つの陣形、四頭八尾はそのひとつ。 舞は四表八幡。

・戦国時代の兵法家・孫{月賓}そんびん)の兵法書にもみえる。
・日本の戦国にも八陣という言葉は使われた。魚麟、鶴翼、長蛇、偃月(えんげつ)、鋒光矢(ほうこうし)、方円、衡軛(こうやく)、雁行。

・「唐太宗李衛公問対」上中下3巻のうち中。
「臣(李靖)窃かに陛下製(つく)る所の破陣楽舞を観るに、前に四表(4つのしるし=桙)を出だし、後に八旛(幡と同じ)を綴(つら)ね、左右に折旋(おれまが)り、趨歩(すりあし)でうごき、金鼓(金と太鼓)に各おの其の節(りずむ)を有(あわ)す。
此れ即ち(古の諸葛孔明の)八陣図の四頭八尾の制(さだめ)なり。人間(よのひとびと)は但だ楽舞の盛(いみじ)きを見るのみ、豈(あに)軍容(陣形)の斯くの如きを知るもの有らんや。」

・李靖:唐の太宗の貞観3(629)驍騎(驍:勇猛)3千を率い優勢な突厥・頡利(けつり)河汗の大騎馬軍団を撃破し、太宗により「威(勢)の北狄に振るうこと、古今に未だあらざるところ。」と激賞された騎馬戦法の名将。「旧唐書」李靖伝。
太宗の製作した四表八幡の破陣楽舞というのも李靖の偉大な「馬」の軍功を顕彰し記念するためのもの。馬の軍功を賛美する一種の戦勝祝賀の行事。八幡というのは軍事行動のシンボル、勝利を記念する祝賀パレードの旗印。

・八幡は、蜀の軍師諸葛孔明(181-234)の四頭八尾の八陣図戦法の武勲を象徴する軍旗。


[3592] Re[3584][3582][3578]: かしわで  苗(miao) 2002/11/16(Sat) 18:24 [Reply]
>玄松子 さん、質問してもよろしいですか?
> yanaseさんが書かれている通り、神に供する物は、昔は柏の葉に盛ったと記憶しています。(皿がなかったから?)
> 以来、神に供物を捧げる人は、「膳部」と呼ぶんじゃなかったでしょうか。

三宝と奉書紙はいつ頃使用されたか文献はありますか?
宜しくお願いします。

[3591] Re[3589][3587][3586][3585]: かしわで  大三元 [Url] 2002/11/16(Sat) 16:52 [Reply]
かたばみさん、
> 大三元さんこんにちは。旧niftyでは古より拝見しております(^^)

そうでしたか、どうもありがとう御座います。

> 魏志倭人伝にも「大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ」とありますね。

なるほど。

> 神の住む川を渡る場合に神様を驚かさないようにエヘンエヘンと咳払いをしてから渡る習慣を聞いたことがあります(日本ですがどこの川か忘れました)。

川を渡るときの咳払い、アイヌの習慣にあったような気がします。
アイヌの習慣では、他人の家を訪れるときのノックの機能としても咳払いするそうです。

かしわで、縄文以来の風習?ですかぁ。。。どうかな。
とにかく、古語にはなさそうなのでねぇ。(時代別国語辞典上代編)
(カシハデはごちそうとか料理人、膳部の意味だけ、で拍手の意味はあげていない)

[3590] Re[3583][3578]: 歴史と風景  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/15(Fri) 19:30 [Reply]
ユアンさん
≫かたばみさんは、中国のコトに関してお詳しいのですか?

まるっきり(^^;
風景を眺めるのが好きなんです。
あれ、あれはなにかなと思ったときにちょっと近づいてみる、その程度です。


[3589] Re[3587][3586][3585]: かしわで  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/15(Fri) 19:21 [Reply]
大三元さんこんにちは。旧niftyでは古より拝見しております(^^)
魏志倭人伝にも「大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ」とありますね。

神の住む川を渡る場合に神様を驚かさないようにエヘンエヘンと咳払いをしてから渡る習慣を聞いたことがあります(日本ですがどこの川か忘れました)。
熊と出会いそうな山道では声を出すとか鈴をならすなどで熊に人の存在を知らせると安全だそうですが、これも類似のように思えます。

柏手は葉っぱをゆすって音を出すとか、自然界の神々に対する合図が源になっているのではないかと考えています。
ドングリはカシワの実。
ブナ科の落葉広葉樹の代表ですから、食料を木の実に依存していた縄文時代に源を求めたいところです。
(ちなみにカジノキも布になり木の実は食料になる重要植物で諏訪大社の紋所)


周礼にいろいろな拝として以下が書かれています。
「一曰稽首.二曰頓首.三曰空首.四曰振動.五曰吉拜.六曰凶拜.七曰奇拜.八曰褒拜.九曰肅拜」
どれがなんだかはわかりませんが(^^; 四曰振動というのが音を出すとか叩くといった所作ではないかと思えます。


[3588] カシワ  日雲 2002/11/15(Fri) 18:16 [Reply]
ユアン様>鶏肉を「カシワ」ともいいますが
大三元様>いつ頃からある言葉でしょうね

http://www.kbc.co.jp/radio/powershovel/consult/20020211.html
――だそうです。

[3587] Re[3586][3585]: かしわで  大三元 [Url] 2002/11/15(Fri) 17:59 [Reply]
> この部分ですね。「逆手」とはどんな所作なのか。美保神社の現在の神事でも行なはれてゐるのかどうか?

手の甲の方で叩くのかなぁと思ってましたが、想像に過ぎません

> 雄略天皇と一言主神については、手を打ったのは一言主神のほうでした。この拍手の意味はわかりやすいです。
> 記「一言主大神、手打ちて其の(天皇の)捧げ物を受けたまひき。」

捧げものをした方が服従したのか、とも思えたりしません?

> 軽太子のとき、近臣の大前小前宿禰が降参して館から出てくるときの所作は、手を打ったのではないようですが、同類の所作と言へるかもしれません。
> 記「大前小前宿禰、手を挙げ膝を打ち、舞ひ訶那伝(かなで)、歌ひ参来つ。」

隼人の所業と似てる?似てない?
日本書紀 (第4の一書)
「足をあげて踏み鳴らして苦しんだ様子の真似をしてみせた。はじめ潮が足をひたしたときは足占(つま先立ち)をし、潮が膝まで及んだときには足を上げ、股まで来たときは走り回り、腰まで来たときは腰をなで、腋まで来たときには手を胸に置き、頚まで来たときはてをあげて飄掌し(手をひらひら振る)た。それ以来今にいたるまで、この子孫である隼人達は一度もやまずにこの所作を繰り返している。」

[3586] Re[3585]: かしわで  yanase 2002/11/15(Fri) 15:02 [Reply]
> 柏手の最初・・・
> 事代主の方が古いかな、と思ったのですが「逆手」で打ったようですね。呪術だとか。

記「その船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき。」
この部分ですね。「逆手」とはどんな所作なのか。美保神社の現在の神事でも行なはれてゐるのかどうか?
青柴垣に対して空手のように打ったのかと思ってましたが、広辞苑での解釈は次の通りです。
【天の逆手】呪術の一つで、事の成就を誓うためや、人を呪(ノロ)う時に打った拍手(カシワデ)。記上「〜を青柴垣(アオフシガキ)に打ち成して」。伊勢「かの男は〜を打ちてなむのろひをるなる」

雄略天皇と一言主神については、手を打ったのは一言主神のほうでした。この拍手の意味はわかりやすいです。
記「一言主大神、手打ちて其の(天皇の)捧げ物を受けたまひき。」

軽太子のとき、近臣の大前小前宿禰が降参して館から出てくるときの所作は、手を打ったのではないようですが、同類の所作と言へるかもしれません。
記「大前小前宿禰、手を挙げ膝を打ち、舞ひ訶那伝(かなで)、歌ひ参来つ。」

3例とも服従する側の行為になってゐるような気がします。

[3585] Re[3584][3582][3578]: かしわで  大三元 [Url] 2002/11/15(Fri) 08:58 [Reply]
各位、レスありがとう御座います。

柏の葉を皿に使ったり、酒までホホガシハで飲んだようですね。

> 以来、神に供物を捧げる人は、「膳部」と呼ぶんじゃなかったでしょうか。
「膳部」で「カシワデ」、外にも「部」を「テ・デ」と読む例がありますか?
葉江の男弟「猪手」も「ヰベ」と読むべきか。。。

柏手の最初・・・
事代主の方が古いかな、と思ったのですが「逆手」で打ったようですね。呪術だとか。

鶏のカシワ、いつ頃からある言葉でしょうね

[3584] Re[3582][3578]: かしわで  玄松子 2002/11/14(Thu) 23:32 [Reply]
> 3、古代に膳部(かしはで)が供へ物を供へて手を打つ所作をしたことに由来。供へ物は柏の葉に盛ったとも。

yanaseさんが書かれている通り、神に供する物は、昔は柏の葉に盛ったと記憶しています。(皿がなかったから?)
以来、神に供物を捧げる人は、「膳部」と呼ぶんじゃなかったでしょうか。
古来、社家の家紋に、柏が多いのはそのためです。

[3583] Re[3578]: かしわで  ユアン [Mail] 2002/11/14(Thu) 23:23 [Reply]
> 急に思いついたのですが何でカシワデって云うんでしょうか?
> 拍手 と 柏手 と読み違えた???
あ、それ私も気になります。神社の祭式儀礼作法では拍手といってますよね。
柏の葉っぱは五月の端午の節句でのマストアイテムですが、そこに柏を使うコトに
なにか意味はあるんでしょうかね。
あと、鶏肉を「カシワ」ともいいますが、それとカシワデとは何か関係は
ないでしょうかね。

かたばみさん、どうも。はじめまして☆
人気のある神様は、どうしても民間に流布するあいだに様々な変化をとげますよね。
八幡神もその中のひとつでしょうね。道祖神などもそうだと思います。
だから、中国から入ってきた時のそのままの形はまず残してないでしょうね。
かたばみさんは、中国のコトに関してお詳しいのですか?
ユアンは中国の古い信仰の形にすこし興味があります。

>アイヌのネズミさん、Gさん
おいしい情報をどうもありがとうございます☆
「平成祭データ」をゲットしたら、そのプログラムも是非利用したいと思います。

[3582] Re[3578]: かしわで  yanase 2002/11/14(Thu) 23:12 [Reply]
> 急に思いついたのですが何でカシワデって云うんでしょうか?
> 拍手 と 柏手 と読み違えた???

定説はないと思ひますが、こんな説があったと思ひます。
1、おっしゃる通り漢字の混同ないしシャレ
2、手の形が柏の葉に似てゐるため(現在は五指を揃へて打つのが普通ですが)
3、古代に膳部(かしはで)が供へ物を供へて手を打つ所作をしたことに由来。供へ物は柏の葉に盛ったとも。
ちなみに、古事記の物語では、雄略天皇が葛城一言主に逢ったときに手を打ったのが最初かもしれません。

[3581] Re[3574][3572]: 中国における八幡  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/14(Thu) 20:43 [Reply]
ユアンさんはじめまして。
日本の文化にはいろいろなものが混じり合っていると思いますが、その最大の影響力が中国文化だと考えています。
でも、その中国文化自体がいろいろの混合体で、道仏習合とか道儒習合みたいな状況もあるようで???
八幡様は人気がありますから、いろいろ変化が起こりそう。
その点ではかえって簡単ではないかもですね。

神奈備さん
≫八陣の布陣の図とはどのようなイメージだったのでしょうか

唐で舞楽化されて矛を持つ四人の男子と幡をもつ八人の乙女が舞うそうです。
またびき参照なのでそれ以上はわかりませんが・・
唐太宗李衛公問対の翻訳は全訳「武経七書」2/プレジデント社に含まれているようです(現行本)。

八幡様の神楽を見たことはありませんが、渡来していても残ってはいないだろうなあ。
ちなみに旗は四角、幡は長細いものをいうようです。

ps.
国立情報学研究所の図書検索は最強と思います(最近スタート)。
http://webcatplus.nii.ac.jp/
唐太宗李衛公問対で検索すると所蔵図書館などもわかります。


[3580] 「幡」にも色々あるが。。。  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/14(Thu) 18:42 [Reply]
>「萬黄幡豐秋津師比賣命」としては、広島県呉市の亀山神社に配祀の祭神名。
>日本書紀では、栲幡千千姫他。
>大三元さんの、http://www.dai3gen.net/ninigi.htm を参照してください。

>ちなみに、「天萬栲幡千幡比賣命」は、奈良の池坐朝霧黄幡比賣神社の主祭神。

玄松子さん、どうも有り難うございました。昔の人にとっては、
「萬幡豊秋津師比売」の「幡」が「黄幡」ってことは常識だった。
そういうことなのかどうなのか。単なる後の時代の「習合」なのか。

#これはあくまで私の考えなのですが、
#「羅喉」という言葉が出てこなくても、
#やはり「萬幡豊秋津師比売」の「幡」は、
#いわゆる「羅喉」を言っていると思います。
#「池」という地名も、ちょっと気になります。

[3579] 「贄持」の「贄」は?  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/14(Thu) 18:25 [Reply]
既に「申」が「水」であることは述べました。(※発言[3554]参照)
「辰」が「水」であることもやはり述べました。(※発言[3566]参照)

・「辰」……「壬生門」(蟹宮へ通じる門)
・「申」……「佐伯門」(蝎宮へ通じる門)
・「子」……「丹治比門」(魚宮へ通じる門)

ところが「蝮之水歯別」という名前が示すように、
「子」も「水」なのです。このことは端的に言って、
「蟹宮、蝎宮、魚宮」が「水」であることに対応する。(※西洋占星術で言うエレメンツ)

#十二支のうち「辰」「申」「子」は「水」なのです。
#このことを念頭に置くと、祭神に見通しが与えられる。
#例えば「丹生神社」に「彌都波能売」という組み合わせ。
#「辰=水」という話に他なりません。(※かなりシンプル)

----------------------------------

ここでレヴュー。「辰」に当たる「箕」(Purvasadha)は、
「尼拘類」(丹生)であるところの「木皮」(マキ)でした。(※発言[3566]参照)
その「木皮」(マキ)は、「木」でありながら「魚」でもあり、
またその「魚」は、具体的には「年魚」(いわゆるアユ)でした。

>吉野河の河尻に到りましし時、筌を作せて魚を取る人有りき。
>爾に天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、
>「僕は国つ神、名は贄持之子と謂ふ」と答へ曰しき。
>此は阿陀之鵜養の祖。〔古事記〕

「鵜養」で取るのは「年魚」ですから、ここで言う「魚」も「年魚」です。
ということは、「贄持」の「贄」は「丹生」と言えるのではないでしょうか。
さらに細かいことを言うなら、どうして「河尻」と書かれているのか?も問題。

>素戔嗚尊の曰はく、「韓郷の嶋には是、金銀有り。若使(たとひ)吾が兒の
>所御す国に、浮宝有らずは、未だ佳からじ」。乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち
>杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は是、木皮に成る。(※「木皮」は一字)
>眉の毛は是、豫樟に成る。已にして其の用ゐるべきものを定む。〔書紀〕(※「豫」は木偏が付く)

「箕」(篩)の高級品は、馬の「尻の毛」で作られるらしい。(※これは要確認!!)
それだからこそ「尻の毛は是、木皮に成る」と言われるのなら、
別の脈絡からも「木皮」(マキ)は「箕」に他ならないわけです。
然るに「木皮」(マキ)は「年魚」。それを取るのが「贄持之子」。
「河尻」で「年魚」を取る。「尻の毛」が「木皮」に成る。同じこと。

#少し付け加えると、「〜之子」という表現は、
#「辰」と同じく「水」であるところの「子」を
#言っている可能性があります。しかしそれならば
#「石押分之子」に関してはどうなのか。これは後考。

[3578] かしわで  大三元 [Url] 2002/11/14(Thu) 18:22 [Reply]
急に思いついたのですが何でカシワデって云うんでしょうか?
拍手 と 柏手 と読み違えた???

[3577] Re[3572]: 中国における八幡  Setoh 2002/11/14(Thu) 17:28 [Reply]
> 八幡とは諸葛孔明がとった戦術「八陣図四頭八尾」(騎馬戦術)を表す軍旗のことだそうです。

八陣の布陣の図とはどのようなイメージだったのでしょうか。昔探したことがあるのですが、わかりませんでした。・・・

[3576] Re[3575]: 中国における八幡  G 2002/11/14(Thu) 09:13 [Reply]
> 現在の環境ではGさんのWindows版検索プログラムも必需品です。

気恥ずかしいので、「YさんとGさん」としといてください。
いずれにしろ、平成祭データCDそのものが無いと、役立たずです。

[3575] Re[3574][3572]: 中国における八幡  アイヌの鼠 2002/11/14(Thu) 01:12 [Reply]
> 「平成祭データ」ですか。ステキな情報をありがとうございます☆さっそく入手します!

現在の環境ではGさんのWindows版検索プログラムも必需品です。
http://www.ne.jp/asahi/matu/gen/sai/index.htm

[3574] Re[3572]: 中国における八幡  ユアン [Mail] 2002/11/13(Wed) 23:57 [Reply]
>かたばみさん
> 八幡とは諸葛孔明がとった戦術「八陣図四頭八尾」(騎馬戦術)を表す軍旗のことだそうです。
> 八幡大菩薩と祈願するのは武将ですから、八幡神と諸葛孔明は無関係ではなさそうです。
それは興味深いお話ですね。八幡信仰というのは神仏集合などの影響で、実態がつかみ
にくい存在です。八幡様とはなにかという問題でも、諸説入り乱れた様相を呈しています
しね。私も八幡系の神社で巫女のバイトをしたとき、参拝者から「この神社の神様は何?」
とか「どんなご利益があるの?」とか聞かれた時に、八幡信仰についてどう説明しようかと
頭を悩ませたことがあります(笑)
でもこの説明はとても理解し易いですね。八幡神が戦の神とされた理由も簡単に説明が
つきますし。
> だが、応神は八幡や宇佐に直結する、再び北方系になったようにみえる。
> 南方系(海洋系?)と北方系(内陸系?)が錯綜しているのが興味深いです。
このあたりもホントに錯綜してて読み解きがたいですね。
私見では天孫系の伝説が付加されたのは大和政権支配の後で、それ以前は土着の信仰
(九州北部なら南方系海人族の伝承)が元となったのではと思います。
>神奈備さん
やはり「黄泉神」は概念的な神だったと考えた方がいいのかもしれませんね。
あるいは黄泉の国を統べる神として「イザナミ」があまりにも有名になり過ぎたため
その由来が忘れ去られた神であったのではとちょっと期待したのですが…。
「神の死とはなにか」とは考えさせられる問いかけですね。
簡単に考えれば「信仰の消滅」ととらえることができますが、その神が八百万の神をさす
とすれば、ことさやぐ国である日本においては「森羅万象の消滅」と考えることもできます。
その考えはあまりにもコワすぎますが(笑)
けど現在それがシャレになんない状況になりつつあるというのが一番コワいですね…。
>yanaseさん
西の境の神に「穢れ」の観念が強いとすると、もしかすると海人族の勢力圏となにか
関係があるのかもしれませんね。海の民族はことのほか穢れをキライますし。
>玄松子さん
「平成祭データ」ですか。ステキな情報をありがとうございます☆さっそく入手します!
神社めぐりの旅のいいお供となること請け合いですね(笑)
きっと民俗学をやっている学生のお役立ちアイテムとなることも必至でしょう(笑)

[3573] Re[3566]: 「丹生」と「壬生門」  Setoh 2002/11/13(Wed) 21:04 [Reply]
> 「十二支」で「辰」。さらにこれに「十二門」の「壬生門」が対応します。
> 「辰」自体が「丹生」(ニフ)を表わします。ところが「箕」(Purvasadha)も「丹生」に結びつく。

丹砂を辰砂とも言いますし、丹生と壬生が誤植ではないことがこれで裏付けられました。
それにしても、五十猛神の樹種神話の中からの「木皮=槙」
> 日本書紀の「木皮」(マキ)。「尼拘」の類の「樹皮」ですから、
> この「樹皮」は、この「木皮=槙」は、つまり「尼拘」(丹生)ですね。
と丹生と結びついてくるのは面白い。ともに紀の国の大神です。

そこへ箕がからむ。箕氏朝鮮の箕ですね。素盞嗚尊が高天原を追われた際、蓑笠をかぶり雨の中を降臨していったとされますが、朝鮮の新羅へ、箕は蓑、雨と水神、確かに作為を感じる所ですね。

[3567] yanaseさん>常陸の「あんば大杉大明神」を連想
茨城県稲敷郡桜川村に鎮座する大杉明神ですね。「あんばさま」と言われ、Setohは福島県双葉郡浪江町の苔野神社を思い出します。この社も「あんばさま」で、祭神は闇淤加美神、五十猛神、大屋津姫命、抓津姫命と、素盞嗚尊の御子神達が関係しています。

[3572] 中国における八幡  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/13(Wed) 18:59 [Reply]
横から失礼の余談(^^;

直感的に黄幡神などの名に道教的を感じますので少々。

中国での「八幡」は「唐太宗李衛公問対」という唐の太宗とその名将である李靖との軍事問答に初出のようで、
八幡とは諸葛孔明がとった戦術「八陣図四頭八尾」(騎馬戦術)を表す軍旗のことだそうです。
八幡大菩薩と祈願するのは武将ですから、八幡神と諸葛孔明は無関係ではなさそうです。

中国で「八」など偶数を重んじるのは北方系文化で、七五三のごとき奇数を重んじるのは南方系文化のようです。
伊勢神宮の遷宮儀式では岩に五色の布をかけるそうですが、ここでは五です。
(道教の「抱朴子」には岩にかける五色の絹が呪術効果を持つとある)

北では「右」が上位にあり、南では「左」が上位にあります。
(和服は左前、呉服だからでしょう、左大臣右大臣では左が上位、平安時代では南方系)
赤(太陽)は北では男性ですが、呉越など沿岸系では女性です(記紀の天照大神は女性)。

以下推定。
秦漢時代の北方系の道教的思想が山東半島経由で北九州に流れ込み、後の出雲の拡大で九州以東へ広まって日本化(在来文化と結合)していった、と推定しています。
(山東の瑯邪八主などは春秋時代に越王が山東の瑯邪に入ったこととの関連もありそう)

出雲消滅後の大和朝廷(崇神以降)では南方系文化に切り替わったようにみえる。
だが、応神は八幡や宇佐に直結する、再び北方系になったようにみえる。
南方系(海洋系?)と北方系(内陸系?)が錯綜しているのが興味深いです。

[3571] 泉津道守神と泉守道者  神奈備 2002/11/13(Wed) 18:19 [Reply]
[3531]ユアンさん>「泉津道守神」がでてくる文献はあるのでしょうか?
『日本書紀一書第十』にイザナミ命の言葉(この国に留まる意)を伝える者として、泉守道者(ヨモツチモリビト)が出ています。
この者を泉津道守神としています。そうしますと、この神は
[3529] ユアンさん>> どこにいったんだ!「黄泉津大御神」!
[3530] setoh>泉津道守神ではないでしょうか。
とはなりません。泉津道守神は黄泉の国の言代神のような神でしょうね。伊布夜社、言屋社にその名残が見えるのかも。
[3556] 日雲さん> 「泉津道守神(=イザナミ)が、性格の類似性から黄幡名義に変化した
この等式はどうやらあやしいようですね。[3556] の論旨に関係ありませんが。
[3560] 玄松子さん>明確にして欲しいというだけです。
明確にはなりえないのでしょう。

「黄泉津大御神」は
[3534] 玄松子さん>黄泉に限らず、根元的な神ほど、新しいとは云えないでしょうか。
と言うことで、イザナミ命をして黄泉津大御神とするために先行する大神の存在が構想されたのかも。

そうすると、黄泉の国の象徴として比婆山が取り上げられ、そこに鎮座する神を黄泉津大御神としたのでしょうが、比婆山と言う名もまた、山姥の霊の鎮座を思わせます。

余談ですがこの比婆山は火山だったのでしょうか。この山の神の体から火の神カグツチが誕生しています。

[3534] 玄松子さん>で、疑問。イザナミが死ぬ以前には、いったい誰が死んでいるのだろう。イザナミ以前に死んだものはいるのだろうか。

「神が死ぬとはどう言うこか、君、考えて見たえ。」と昨年八坂神社の真弓宮司さんから宿題をだされていたことを思い出しました。
「素盞嗚尊も根の国におはいりになった」と『日本書紀』に書いてあるのですが、イザナミ尊や素盞嗚尊は神として機能している限り、「神は死んだ。神社を壊せ」とはなりませんよね。

[3570] 平成祭データ  玄松子 2002/11/13(Wed) 17:14 [Reply]
各地・各社の祭神や鎮座地に関するデータベースが、神社本庁から発売されており、一般の方でも入手可能です。(僕も持ってますから)

『平成祭データ』 CD1枚と、データの解説書が付いて、2万円です。
神社本庁に電話すると、郵送してもらえます。
http://www.jinjahoncho.or.jp/

神社に興味のある方は、是非、ボーナス使って入手しましょう。

[3569] Re[3568]: 「移鼠」について  玄松子 2002/11/13(Wed) 16:10 [Reply]
> #ここでマヌケな質問ですが、「萬黄幡豐秋津師比賣命」は、
> #日本書紀に出てくるものですか。祭神に見られるものですか。

「萬黄幡豐秋津師比賣命」としては、広島県呉市の亀山神社に配祀の祭神名。
日本書紀では、栲幡千千姫他。
大三元さんの、http://www.dai3gen.net/ninigi.htm を参照してください。

ちなみに、「天萬栲幡千幡比賣命」は、奈良の池坐朝霧黄幡比賣神社の主祭神。

[3568] 「移鼠」について  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/13(Wed) 15:37 [Reply]
>萬黄幡豐秋津師比賣命は、栲幡千々姫命の別名ですが、
>降臨した邇邇芸命を神の子イエスと見ると、
>栲幡千々姫命はマリアです。

これに関して。もちろん後の時代の九星気学の場合でも、
巡りによって配置が変わり、したがって方角も動きますが、
本来の位置?みたいなものがありますね。これと同じ意味で、
「黄幡」の本来の位置?みたいなものがあり、それだからこそ、
この「萬黄幡豐秋津師比賣」という名前になっていると思います。
名前そのものが既に「黄幡」〜「秋津」〜「秋」という対応を示す。

#ここでマヌケな質問ですが、「萬黄幡豐秋津師比賣命」は、
#日本書紀に出てくるものですか。祭神に見られるものですか。

-----------------------------

次に「邇邇藝」について。今ここで「イエス」と見たのは玄松子さんですが、
例えば古事記や日本書紀において、そう見なしている節があるとなってくると、
これは驚くことです。しかし、そういうことは有り得ない話では全くありません。

★★★★★←→★★★★★←→★★★★★
★二七九★←→★水月金★←→★486★
★一三五★←→★計土羅★←→★531★
★六八四★←→★火日木★←→★972★
★★★★★←→★★★★★←→★★★★★

発言[3544]において、「有間皇子」の「有間」は、
アラム語の「OLYM」から来ていると述べました。
「YΣWO」(中国では「移鼠」など)を見てみると、
「20/400/7/80」→「507」→「3」です。
即ちこの方陣において【三】が「YΣWO」(移鼠)です。

ところが【三】は「渟中倉太珠敷」で、【七】は「大日本根子彦太瓊」。
実は「珠」も「瓊」も同じであり、これらはいずれも「布刀玉」(忌部)。
「邇邇藝」も【七】だから、「邇邇藝」は「YΣWO」(移鼠)と言えます。
これだけでは材料がまだ少ない気もしますが、書紀に以下のような記事がある。

>(天智元年)夏四月に、鼠、馬尾に産む。釋道、顕占ひて曰ふ。
>「北国の人、南国に附かむとす。蓋し高麗破れて日本に属かむか」

この記事の他にも天智天皇の時代には「鼠」が「移る」という話が多い。
例えば「京都之鼠、向近江移」とあります。それぞれの文脈がありますが、
ともかく引用した記事は「鼠=高麗」ということを述べている。これが重要。
というのは、(漢風諡号を付けたのは、書紀の編纂より時代がやや下りますが)
「北」に当たる【七】の「大日本根子彦太瓊」こそ「孝霊」(高麗)だからです。

#書紀の編者が「YΣWO」の漢字表記の「移鼠」を知っていて、
#さらにはその末裔たる「解夫婁」の系統として「高麗」を認識し、
#「京都之鼠向近江移」とか「夏四月鼠産於馬尾」とか記事を書いた。
#そういう可能性はあるように思います。いささか青草に入ってますが。

[3567] 大杉の黄幡さん  yanase [Url] 2002/11/13(Wed) 15:07 [Reply]
http://www.fureai-ch.ne.jp/~emiria/machi/ouban.htm
↑ここを見ると、広島市の大杉(広島市最北部の大林)といふ場所の黄幡(おんばん)さんの伝説が書いてありました。「おんばん、大杉」と来ると、常陸の「あんば大杉大明神」を連想してしまひますが、悪魔祓ひ、疱瘡送り、船運など、共通項がなくもないのですが、それはひとまづ置きます。
 広島市の大杉のおんばんさんは、高貴な白髪の老人の姿でおんばん谷に最初に現はれ、大盤石に血を残したとあります。石にしるしを残す神は多いです。石になる婆も多いですし、老婆の血なら奇瑞かもしれませんが、老人の性別は不明です。
 黄幡神の基層に地母神的性格ありとのことで、オンバンのバンは元は婆の意味かどうか考へ始めたところです。

[3566] 「丹生」と「壬生門」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/13(Wed) 13:53 [Reply]
続いてまさに「夏」であるところの「5月」を見てみましょう。
インドでは「箕月」(Asadha)と言います。「十二支」で「辰」。
さらにこれに「十二門」の「壬生門」が対応します。注意すべきは、
「壬生部」が「乳部」にも作られる点。もちろん「丹生」に関係する。

「辰星」は「水星」ですが、例えば西方では「水星」は「水銀」。
したがって、そもそも「辰」自体が「丹生」(ニフ)を表わします。
ところが「箕」(Purvasadha)も「丹生」に結びつく。以下は引用です。

>箕宿四星。形如牛歩。一日一夜。而與月倶。尼倶陀果。
>以用為祭。屬於水神。姓迦旃延。〔摩登迦経〕

>前魚宿者。有四要星。其形類象。南廣北狹。尼拘類樹皮師為食。
>行十五須臾。而侍從矣。主於木天。姓財所乘。〔舎頭諫経〕

特に「尼倶陀果以用為祭」「尼拘類樹皮師為食」の部分。
ここには「尼倶陀」とか「尼拘類樹皮」とか出てきますね。
「尼倶陀」「尼拘」「樹皮」という単語をよく見てください。
インドなど西方の「ハ行」は漢訳により「カ行」に変わります。
例は「Haritaki」→「訶梨勒」、「Hariti」→「訶梨帝母」など。
ならば、例えば「尼拘」は「ニフ」に近しい音を漢字で写したもの。
このことを念頭に置いて、以下の日本書紀の「五十猛」の記事を読む。

>初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。
>然れども韓地に殖ゑずして、盡に持ち帰る。遂に筑紫より
>始めて、凡て大八州国の内に、播殖して青山に成さざる莫し。
>(……中略……)
>杉及び豫樟、此の両樹は以て浮宝とすべし。(※「豫」は木偏が付く)
>檜は以て瑞宮を為る材にすべし。木皮は以て(※「木皮」は一字)
>顕見蒼生の奥津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。
>夫の口敢ふべき八十木種、皆能く播し生う。(※「口敢」は一字)

「樹種」とも「木種」とも言われるもの。そのなかに「木皮」(マキ)がある。
この「木皮」(マキ)は、神武天皇が「丹生之川」を通過する場面でも出てくる。

>如し魚大きなり小しと無く、悉に酔ひて流れむこと、
>譬えば木皮の葉の浮き流るるが猶くあらば、吾必ず能く
>此の国を定めてむ。如し其れ爾らずは、終して成る所無けむ。

「木種」のうちの「杉」は「木皮」ではありません。
しかし「杉」も「浮宝」と言われ、さらに古事記にも
「二俣杉を二俣小舟に作りて(中略)浮かべて」とある。(※「杉」は宛字)
即ち「木皮」と「杉」は性格において重なる面があります。(※これは別項で補足する予定)

そのことはさておき、件の『舎頭諫経』では「前魚」に関し、
「尼拘類樹皮師為食」と言っている。ここで言う「樹皮」こそ
日本書紀の「木皮」(マキ)。「尼拘」の類の「樹皮」ですから、
この「樹皮」は、この「木皮」は、つまり「尼拘」(丹生)ですね。
ところが「譬えば木皮の葉の浮き流るるが猶く」と表現されるものは、
「魚」(年魚とも言われる)に他なりません。「箕」が「木」とすると、(※発言[3334][3339][3340]を参照)
実は「箕=前魚」(Purvasadha)は「木」でもあり「魚」でもあるわけです。
「木星」は「歳星」ですから、当然この「魚」は「年魚」ということになる。
いったい「木皮」(マキ)は「木」なのでしょうか?「魚」なのでしょうか?

いずれにせよ、「尼拘」(尼倶陀)が「丹生」であるなら、
「夏」の「5月」を表わす「箕=前魚」(Purvasadha)に関し、
「尼倶陀果以用為祭」「尼拘類樹皮師為食」と言われることが、
まんま「箕」が「壬生門」であることに反映していると言えます。

#そして「壬生門」は「辰」でもある。
#「辰星」は「水星」(水銀)ですから、
#この意味合いにおいて『摩登迦経』では、
#「箕」の主宰神を「水神」に作っています。

[3565] 「香来山」の方角は?  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/13(Wed) 13:51 [Reply]
       A  B  G  D  H  W     Z  X  Θ  Y
 角‥‥亢‥‥底‥‥房‥‥心‥‥尾‥‥箕‥‥斗‥‥牛‥‥女‥‥虚‥‥危‥‥室

 2     3     4     5        6        7
 月     月     月     月        月        月
<寅>      <卯>      <辰>   <巳>   <午>   <未>

インドでは「望」(15日)の月宿を以て月の名前にしています。
例えば「4月」は「心月」、「5月」は「箕月」という具合です。
ところが「十二支」と「二十八宿」の対応において「卯」は「房」、
「午」は「虚」なのです。よって「4月の始まり」(夏の始まり)が
「十二支」で言うところの「卯」と見なされました。持統天皇の歌です。

>春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

もちろんこの歌は総じて「天之香来山」を謡ったものですが、
「春過而夏来良之」という部分は「夏の始まり」を言っている。
それは「卯」の方角。このことを藤原宮は完全に体現しています。
藤原宮の中心あたりから見ると、「香来山」は「的門」の方角です。(※発言[3553]参照)
「卯」を「東」と見なす立場の場合、実は「的門」は「東」と言える。
実際の方角は「東」ではないにも拘らず、また「東」と言えるわけです。
しかし繰り返して言うと、その実際の方角は断じて「東」ではありません。

#「4月の始まり」で思い出されるのは、
#神宮皇后が「年魚」を釣る話。ところが
#中国で「あゆ」は「香魚」。また古事記に
#「又娶香用比売生子大香山戸臣神次御年神」。
#「香来山」は実のところ「年魚」を暗示します。

[3564] ちょっとだけ整理  玄松子 2002/11/13(Wed) 10:38 [Reply]
苗さんの書き込みで、
> こうしたことからイザナミは黄泉の神として王幡神と習合し、
という一文がありました。
それに対し、僕が、
> イザナミと王幡神の関係がわかりません。
という質問をしております。

苗さんの最初の書き込みでは、「泉津道守神を祭神とする真旗神社」の例を上げ、泉津道守神←→黄幡神(情報)を説明されていましたが、イザナミ←→黄幡神の部分が、僕には、読み取れませんでした。

そこで、上記の質問をするとともに、「スサノオを祭神とする真幡神社」の例が複数存在すること(情報)を上げ、風土記から八将神→牛頭天王→スサノオという流れが普通に考えられるという考察を加えています。

その考察に対し、「現在の概念」云々という指摘がありましたが、この考察は、スサノオ←→黄幡神という情報に対する考察でしかありませんし、勝手な考察によって、情報を曲げたものでもありません。
この情報と考察は、スサノオ←→黄幡神というものも、周辺にはあり、泉津道守神←→黄幡神だけえではない、ということを示しています。
その後、yanaseさんから、黄→土→埴安もあったのだろうとの指摘もありました。

苗さんの投稿の結論が、
> こうしたことからイザナミは黄泉の神として王幡神と習合し、
であることに対し、僕の質問は、
> イザナミと王幡神の関係がわかりません。
という単純なものですね。

ひょっとすると、泉津道守神を含めた黄泉の神=イザナミという仮説を、周知の事実、公然という前提に立っての書き込みなのでしょうか。

[3563] Re[3562]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  玄松子 2002/11/13(Wed) 09:36 [Reply]
> >その意味で往時の棟札は重要です。
>
> 何度も申しますが、社史は棟札などを元に作られた往時を偲ぶ唯一の手がかりです。
> その情報を書いたまでの事、その根拠を更に述べよといわれても困惑するばかりです。

「その情報」とは、

> 泉津道守神を祭神とする真旗神社での古名は「おうばんさん」といい、元和三年(
> 1617)往来が極めて困難な場であり、風雨の災害を何度も受けた為、神助を仰
> ぐため勧請したもの。その時点で既に「王幡=黄幡」という神格であった。
> 明治維新の時の廃仏毀釈によって、殆どの神社の神名が改められたとされる。
> 依って、最初に勧請された時には「おうばん」神であり、その後の改訂で併合され
> た元の神名が表示されたと考えられる。その根拠に併合時の棟札があったか確かで
> あるかは定かではない。

この一文のことでしょうか。で、どこにイザナミが出てくるのでしょう。
あるいは、違う文章のことでしょうか。具体的に指摘していただければ幸いです。

[3562] Re[3546][3539]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  苗(miao) 2002/11/13(Wed) 09:26 [Reply]
>その意味で往時の棟札は重要です。

何度も申しますが、社史は棟札などを元に作られた往時を偲ぶ唯一の手がかりです。
その情報を書いたまでの事、その根拠を更に述べよといわれても困惑するばかりです。
そして、社名は「始めに名前ありき」です。
勧請した時点での名前と現在の名前は著しく違うことは周知の事です。
その類似点を集積する前に、複数の神名が在る場合、併合された時期や現世利益の
実状も計る必要が在ります。一番大事なのは何の為に何処から勧請されたか、です。
解らない場合も多いですが、その神名等から解る事も多いものです。
何度も書きますが重要な根拠は棟札と社史と、勧請の原因なった現世利益の在りようと変遷です。

[3560] Re[3556]: 無題  玄松子 2002/11/12(Tue) 16:12 [Reply]
> という関係性を取っていたイザナミに通ずると、“ある時点の広島の一部では認識された”のではなかろうか、そう類推される例も一部にはある、

その「例」はどこに書かれているのか、見当たらないのですが。(私の誤読だろうか?)


> 「泉津道守神(=イザナミ)が、性格の類似性から黄幡名義に変化した(後に旧名に復した)」

「泉津道守神(=イザナミ)」これは、周知のことですか?


> あくまで仮定の問題ですが、これは、
> 「泉津道守神(=イザナミ)⇒黄幡神⇒牛頭天王(スサノオ)」
> という流れもありえたと言うような種類の話なのではないでしょうか……?
> (玄松子様の疑問は、こういうこととは全然違うのか?)

考え方や観点に疑問があるというのではなく、(人様の考え方に疑問を持っても仕方ないですから)
泉津道守神=イザナミの関係式や、泉津道守神=黄幡、さらに、イザナミ=黄幡(王幡)の図式を、明確にして欲しいというだけです。
泉津道守神とイザナミが違うものであったり、泉津道守神と黄幡が違うものなら、成り立たない方程式です。

> 「泉津道守神(=イザナミ)⇒黄幡神⇒牛頭天王(スサノオ)」

神々の習合と混同は、多くのバリエーションが考えられます。
イザナミと黄幡神が習合し、その共通部分が、泉津道守神や素盞嗚尊へ変化したという考えも、ある意味合理的です。
無理やりひねれば、黄幡神と豹尾神の性格が、素盞嗚尊と共通する疫神であり、牛頭天王の蘇民将来一族を生かし、巨旦一族を全滅させる説話から、イザナギイザナミを連想し、中国地方に多い黄泉伝説から、イザナミに焦点されたとも説明はできますが、すべて憶測。

> 因みに、黄幡神や城は愛媛の一部では、どうしてだか隠れシキリタンの社になっていたとの見解もあるようです。

これは、知りませんでした。
以下は妄想。
・黄幡の文字から織物を連想しますが、キリシタン大名織部を思い出しました。
・萬黄幡豐秋津師比賣命は、栲幡千々姫命の別名ですが、降臨した邇邇芸命を神の子イエスと見ると、栲幡千々姫命はマリアです。
・黄幡神=イザナミとすると、地母神であり、これもマリアを連想させますね。

[3559] Re[3551][3550]: 無題  yanase [Url] 2002/11/12(Tue) 16:07 [Reply]
玄松子さん> 中国地方の社日には、五角形の石柱に「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」と書かれています。

「玄松子」さんのページで写真も拝見しました。埼玉県神川町の阿保神社の境内で見たのとほぼ同様のもので、神名も同じです。
「古代であそぼ」の用語解説のページによると、九州から千葉までこの形の分布を確認したとのことで、五社様とも呼ばれ、五社神社にこの五柱を祭るものもあるようです。社日は「さじつ、さじ」と呼ぶ例もあるとのこと。

> 西日本でもサルタヒコは人気者です。

 確かに猿田彦は全国区でして、東日本や南九州に英雄的なものをイメージしてゐたわけです。

[3556] 無題  日雲 2002/11/12(Tue) 14:57 [Reply]
玄松子様>イザナミと王幡神の関係がわかりません。
Setho様>この観点への注目は流石。慧眼。

?……ビッグ2にこう書かれますと自分の目が疑わしくなってきますが、苗様は、
>月日の光を覆って食を起こすといわれる「羅猴星」の精で太歳神の墓。
>土を司る凶神、摩利支天王ともいう。万物の墓の方位ともいう。
といった黄幡神の性格が、この世に戻ってきて日月を生んだイザナギに対して、
>「是以一日必千人死、一日必千五百人生也」
という関係性を取っていたイザナミに通ずると、“ある時点の広島の一部では認識された”のではなかろうか、そう類推される例も一部にはある、と報告されているだけなのでは……?
(私の誤読だろうか?)

苗様>その後の改訂で併合された元の神名が表示されたと考えられる。
と書かれておりますように、苗様は
「泉津道守神(=イザナミ)が、性格の類似性から黄幡名義に変化した(後に旧名に復した)」
と見られている訳で、
玄松子様> 黄幡神は八将軍の一で、牛頭天王と結びつくのが自然では。
というのとは、認識のあり方の順序というか、立っている土俵が違っているのでは……。
あくまで仮定の問題ですが、これは、
「泉津道守神(=イザナミ)⇒黄幡神⇒牛頭天王(スサノオ)」
という流れもありえたと言うような種類の話なのではないでしょうか……?
(玄松子様の疑問は、こういうこととは全然違うのか?)

ただ、星馬鹿の私としては、
苗様>広島芸北地方では王幡神は大元神ともいい
というのは存じませんでしたので、非常に嬉しかったのですが、こうとなると私的には、

苗様>泉津道守神を祭神とする真旗神社での古名は「おうばんさん」といい、元和三年(
1617)往来が極めて困難な場であり、風雨の災害を何度も受けた為、神助を仰
ぐため勧請したもの。その時点で既に「王幡=黄幡」という神格であった。

というのは、「道を守る神(泉津道守神)」を勧請したのではなくて、「風雨の災害を避ける神」を勧請したのではなかったか、との思いを抱いてしまいます。
一身上の都合により、今、長々と書いてはいられませんが、四国の星信仰「星神社≒大元神社」を初めとする、私が馬鹿の一つ覚えに扱っている星信仰の中には、「土砂崩れ避け」が折に見られます。これは川の氾濫防止などと合わせての、「水害避け」の一種ではないかと思っています。
広島の大元信仰が四国の大元信仰と同じもの――すなわち、広島の黄幡信仰全体が、四国の星神社と同様に「≒大元神社」であるならば、これに田の神、稲の神といった性格があるのも、私的にはうなずけます。やはり「水神」ということです。馬鹿の一つ覚えのようですが。
(牛馬の神もうなずけるのですが、これについて書いている時間は今ちょっとありません。すいません)
つまり、件の真幡神社についておさらいすると、
「風雨の災害という“原因”を取り除くためにに黄幡神(水神としての星神に与えられた一名)を勧請したが、これが『道を守ってくれる神さん』という“結果”に焦点が当てられるようになったため、神仏分離時に『泉津道守神』とされるようになった」
――のではなかったか、と私は見るのですが、どうでしょう?
ただ、じゃあ「何で水神としての星神に特に黄幡の名が与えられたの?」と言われると、これが解らないのですが。実は、前々からの疑問です。どなたか、いいアイデア(?)はお持ちじゃないでしょうか。どうして、八将神から黄幡だけが独立してチョイスされて祀られたのか?

因みに、黄幡神や城は愛媛の一部では、何故だか「隠れシキリタンの社」になっていたとの見解もあるようです。
当時、キリスト教に『星』のモチーフが強く感じられたんだろうか? などと思っていたのですが、そうか、『墓』というのも重要なのかも……。
まあ、最初に隠れシキリタンの社化した時に、「それが手近にあった社の中で、一番隠しやすそうだったから」とか、そんなくだらない話かも知れませんが。

[3555] 方位  玄松子 2002/11/12(Tue) 13:15 [Reply]
どうでも良いことかもしれませんが。

黄幡神を含めた方位の神・八将軍の方位は、西とか東に固定したものではなく、毎年循環していくものです。
たとえば、黄幡神の方位は、子年から、東東南→南東南→西西北→南西南と循環します。
(不正確な方位情報かもしれませんが、循環は本当)

[3554] 「申」について  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/12(Tue) 11:24 [Reply]
ここで話題になっている「黄幡」について考えてみます。
それは、つまり「羅喉」の方角であり【五】の方角である。
また前項の「十二門」でそれは、「申」の方角に当たります。

【五】には「Svati」(佐波遅または佐波夜遅)が照応しますが、
この「Svati」は西洋で言うところの「アルクトゥルス」。これを
中国では「大角」と書きます。この星は古事記・書紀に出てきます。
というのは、古事記の「熊野久須毘」を書紀は「熊野大角」にも作る。
「アルクトゥルス」の意味は「熊の番人」。偶然の一致ではありません。

ところが「久須毘」は「夫須毘」に作られる場合もあって、(※祭神名など)
言葉としては「ふすべ」(黒子という意味)と全く同じです。
何らかの意味合いで「黒いもの」が「久須毘」(夫須毘)です。
一方でアラム語の「AWKMA」(オークマ)の意味は「黒い」。
(中国では読まないが)日本では「大角」を「オホクマ」とも読む。(※「オホスミ」とも読む)
「西」は「四神」で言うと「白虎」ですが、「四龍」というのもあり、
面白いことに「西」には「黒龍」が対応します。まとめるなら「申」は、
「羅喉=黄幡」〜「Svati=佐波遅」〜「AWKMA=大角」〜「黒龍」。

・【一】……「橘大郎女」
・【二】……「酒見郎女」
・【三】……「木梨之軽王」
・【四】……「長田大郎女」
・【五】……「境之黒日子」
・【六】……「穴穂」
・【七】……「軽大郎女」(衣通郎女)
・【八】……「八瓜之白日子」
・【九】……「大長谷」

古事記にはこのような照応も載っていますが、(※これの詳細は別途)
要するに【五】は「境之黒日子」です。これも、
また「申」の方角の要素のひとつということです。
印欧語の系統に「境」を意味する「カスプ」がある。
「熊野久須毘」の「久須毘」とおそらく同源でしょう。
「境」であると同時に「黒」であるものこそ「久須毘」。

その「境」には、しばしば「猿田毘古」が祀られる。ところが、
アジアのかなり広い地域で「サル」という音は「水」を意味する。
いわゆる「八方天」において「西」は「水天」。さらにまた加えて、
中国の「五行」で「水」は「黒」。(※なぜ中国で「北」かは別項で)
以上を俯瞰すれば、「申」の方角は「水」と言えそうです。然るに一方、
「次に水戸神、名は秋津日子神、次に妹速秋津比売神を生みき」と古事記。

ここで前項の「十二門」を見てください。「申」は「秋」です。
もっと具体的には「8月15日」(秋分)を指します。それはそれ。
「水戸」は「水門」ですから、「佐伯門」は「水門」とも言えます。
「秋津日子=水戸神」という等式は、「申=水」という等式なのです。
である以上、「Svati」(佐波遅)と「サラスヴァティー」は縁語です。
「申であるところのSvati」が「サラスヴァティー」(弁財天)でしょう。
「黄幡」の話から外れてしまったわけではありません。(※続きは改めて)

[3553] 「十二門」について  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/12(Tue) 11:23 [Reply]
飯島氏の東洋天文学の本などを読んでみると、
いわゆる五行というものも、その元をたどれば、
五惑星に由来する。そういう意見もあるわけです。

方位との対応が語られるものは極めて多い。(※五行、四天王、八方天、等々)
だから、日本における方位の古層を見る場合、
真っ先に五行で考えていいかのどうか問題です。

★★★★★←→★★★★★
★九七二★←→★金月水★
★五三一★←→★羅土計★(※方角を地図に合わせた)
★四八六★←→★木日火★
★★★★★←→★★★★★

例えばこの古事記に見られる九曜の配置。
これをよく知られる五行の配置と比べると、
「土」が中心に位置するのは同じなのですが、
それでも「土」=「五」にはなっておりません。

-----------------------------------

というわけで、方位に関して改めて考える場合、
まずは宮城十二門が参考になります。というのは、
「十二門」が「十二支」にまんま対応するからです。(※詳細は別途)

        戌  亥  子
       
        海     丹
        犬  猪  治
    ┌─  養  使  比  ─┐
    │   門  門  門   │
        =  =  =

酉 伊福部門‖    冬    ‖山門  丑


申  佐伯門‖ 秋  ×  春 ‖建部門 寅


未  玉手門‖    夏    ‖的門  卯

        =  =  =
    │   若  大  壬   │
    └─  犬  伴  生  ─┘
        養  門  門 
        門

        午  巳  辰

例えばこの配置に対して「師子宮」は「亥」に位置します。
「大伴門」は「師子へ通じる門」という意味合いがあります。
このことが実は古事記にも盛り込まれております。以下は引用。

>此の太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、
>初めて生れましし時、鞆の如き宍、御腕に生りき。

[3552] 無題  Setoh 2002/11/12(Tue) 10:48 [Reply]
> イザナミと王幡神の関係がわかりません。

この観点への注目は流石。慧眼。

hvhyさんの解説をフムフムと読んで、わかったようなわからなかったような。

益々わけのわからないお話を一つ。
柳田国男翁の「山の人生」、日向椎葉大河内に伝わる「狩之巻」から

そもそも山の御神、数を申せば千二百神、本地薬師如来にておはします。観世音菩薩の御弟子阿修羅王、緊那羅王、摩喉羅王(まごらおう)と申す仏は、日本の将軍七代になりたまふ。天浮き橋の上にて、山の神子千二百生まれたまふ也。此の山の神の母御名を一神の君と申す。云々。

山姥の話のようですが、柳田翁によれば、陸中、羽後のマタギの村にも同じような話が残っているようで、この国の基層の物語として語られていたのではないでしょうか。

天浮き橋、母御名を一神の君、など、深層でイザナミをイメージでき、また摩喉羅王=「羅喉=黄幡」とはいかないのかな、と思っています。

また『石神問答』によると、姥神は、高麗より渡来した女が姥石の下に隠れたとか、蝦夷人の祖は姥神(北海道江差の伝承)とのことがでており、実に基層っぽい話と裏付けられます。

> 境の神に東西の差があるのは面白いですね。
余談ですが、松江市の十六島の許豆神社にそれらしき単体の二石像があるようですが、道祖神とは確認できないようですね。十六島は「ウルップイ」と読みますが、アイヌ語がそのまま地名に残っているのですね。

参照 http://www.dai3gen.net/upruy.htm

[3551] Re[3550]: 無題  玄松子 2002/11/12(Tue) 04:42 [Reply]
>  境の神については西のものはあまり知りませんが、

西日本全体では、確信がありませんが、福岡の路上にある道祖神的石碑のほとんどは、サルタヒコです。西日本でもサルタヒコは人気者です。


>  社日様は普通は土の神のお祭りですが、

中国地方の社日には、五角形の石柱に「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」と書かれています。春秋の社日には仕事を休み、土をいじらないということで、土の神であり、穀神であると同時に、暦に関係するものだと思います。五行でしょう。

[3550] Re[3549][3547]: 無題  yanase [Mail] [Url] 2002/11/12(Tue) 02:46 [Reply]
> 境の神に東西の差があるのは面白いですね。

 網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫)などを読むと、やはり東と西には微妙な違ひがあって、穢れ観についても、所謂同和問題に見られるように、東ではこだはりが少ないのです。
 境の神については西のものはあまり知りませんが、黄幡神もその一種とすると、苗さんの書込などを拝見しますと、東ではいきなり黄泉の話はあまり出て来ませんので、そんな違ひがあるかなと感じたまでなんです。
 黄幡神と八幡神の関係は、詳しい人の書込を拝見したいのです。

> 方位の神は境界の神でもあるとのことですが、……

一社の黄幡社に木火土金水の五柱が祀られる例はなく、あちこちの黄幡社から五柱を揃へて来るといふ説明は、我ながら問題があります。

「方位の神は境界の神」といふのは、各地の「五社神社」について村の四つの方角の境界を祓ひ清めた神を村の鎮守とし、五社とは五行からきた名だといった意味のことを柳田翁がどこかに書いてゐまして、そんな意味です。現在の実際の五社神社には単純に五社の合祀によるものもあり祭神はさまざまになってゐますが、次のような例があります。

埼玉県熊谷市 大栄神社(旧称 五社稲荷神社)
【祭神】倉稻魂命… 句句廼馳命 軻遇突智命 埴山姫命 金山比古命 水速女命 ……
東京都西多摩郡桧原村 五社神社
【祭神】大日靈貴命 句句廼馳命 軻遇突智命 金山彦命 罔象女命
 (※土の神が大日靈貴命になってゐる)

 社日様は普通は土の神のお祭りですが、埼玉県本庄市の周辺では、五柱を祭るといふ話もありますので、逆に土の神だけを祀っても村の四方全部の鎮守になるのではないかとも思ひます。土の下は黄泉国に通じるかもしれませんし。(話がまとまりませんが)

[3549] Re[3547]: 無題  ユアン [Mail] 2002/11/12(Tue) 00:39 [Reply]
>yanaseさん
>  東日本では、境の神は、猿田彦、手力男などが人気があるのですが、西日本の境の神、特に黄幡神の場合は、千引の岩、黄泉、穢れといった観念が色濃く感じられるように思ひます。

境の神に東西の差があるのは面白いですね。西日本には出雲や熊野など、黄泉の国に
通じるといわれる地があるのがその理由でしょうか。道祖神信仰は東日本が中心ですね。
道祖神信仰には近親婚譚がつきものですが、中国大陸の神話の影響もありそうです。

方位の神は境界の神でもあるとのことですが、それは時間的境界の意味でしょうか。
よかったら教えて下さい☆

[3548] Re[3547]: 無題  玄松子 2002/11/11(Mon) 22:49 [Reply]
>  その他、一部の黄幡神社の埴山姫は、五行の「黄=土」から来たと見ることもできます。

なるほど、これは気づきませんでした。

八幡と黄幡の遠い関係。暦家は、弓を射る時は、黄幡の方位に最初に射ると吉。

[3547] 無題  yanase [Mail] [Url] 2002/11/11(Mon) 21:39 [Reply]
玄松子さん> 黄幡神は八将軍の一で、牛頭天王と結びつくのが自然では。とも思う。

 その他、一部の黄幡神社の埴山姫は、五行の「黄=土」から来たと見ることもできます。
 土の神のほか、この神社名には、火産霊神、金山彦、市杵島姫命(水)、高木神の祭神名も見られます。火や金の神も、五行思想の習合後には案外、方位の神だったりするかもしれません。方位の神は境界の神でもあります。
 黄幡神は柳田国男『石神問答』の巻末の「現在小祠表」http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Cupertino/5991/shousi.htm の54番目にもあり、広い意味では要するに境の神の一種といへると思ひます。
 東日本では、境の神は、猿田彦、手力男などが人気があるのですが、西日本の境の神、特に黄幡神の場合は、千引の岩、黄泉、穢れといった観念が色濃く感じられるように思ひます。
 以上は客観的なクールな見方でして、黄幡神の個別的な研究に関するものではありません。

【参考】広島、島根、山口、愛媛、高知5県の「おうばん社(通称含)」44社の主神
黄幡神8(ほかに大幡神1、黄幡星神2)、素盞嗚尊9、泉津道守神4、
大国主神・大己貴神3、埴山姫2、大山祇命2、磐長比売命2、
(以下各1)国常立命 伊弉諾神 伊邪那美命 火産霊神 奥津彦奥津姫神 
熊野久須美命 速玉之男命 保食神 宇賀御魂神 金山彦 高木神 
大田命 柿本人麿 少名彦神 市杵島姫命 天照大神

[3546] Re[3539]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  玄松子 2002/11/11(Mon) 20:00 [Reply]
> > イザナミと王幡神の関係がわかりません。
>
> >月日の光を覆って食を起こすといわれる「羅猴星」の精で太歳神の墓。
> と書いておりますが、何故に??。王幡神に関しては件の事など更に他の文献などで調べられると良く解ると思います。

言葉が足りませんでしたが、苗さんの書き込みで、「イザナミと王幡神」の関連が読めなかったという意味で、質問させていただきました。
手持ちの資料(といっても三才図会や陰陽道関連の本程度ですが)でも、イザナミとの関連は読めません。
知りたいのは、王幡神に関してではなく、イザナミとの関連なのです。


> > 広島には、真幡神社と書く神社がいくつか存在し、なかには通称「おうばんさん」と呼ばれるものもありますが、祭神は、スサノオ、サルタヒコ、ハニヤスヒコですね。
> > 黄幡神は八将軍の一で、牛頭天王と結びつくのが自然では。とも思う。
> どう自然であるかは、往時の精神性と結びつくものでありますから、一概に現在の概念を、ましてや個々の概念を付加できるかどうかはしっかりした基盤と根拠なしには危うい事と思います。その意味で往時の棟札は重要です。

真旗(あるいは真幡)に祀る神を泉津道守神とする例が一例ほどしか見つけることができませんでした。スサノオは2例。泉津道守神に関しては、「基盤と根拠」はあるのでしょうか。
どの部分を「現在の概念」と指摘されているのか不明ですが、八将軍(八柱御子)と牛頭天王(武塔、スサノオ)を関連付けるのは、現在の概念とも言い切れません。

[3545] 「宮主」は「月経」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/11(Mon) 13:59 [Reply]
>此の神、葦那陀迦神、亦の名は八河枝比売を
>娶して生める子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神。

「足名椎」は「宮主稲田須賀之八耳」という称号を貰っています。
また「八河枝比売」は「宮主矢河枝比売」ともともと同じでしょう。
即ち「葦那陀迦=八河枝比売」には「宮主」(美夜受)が隠れている。

「宮主」は「宮の主」という意味ですが、「美夜受」は「月経」です。(※ビルマ語に残る)
もちろん「月経」は「朔」。これは「太陽」と「月」が重なる巡りです。
実のところ「宮主」という言葉は、こういう意味での「食」を意味します。

ところが一方、「佐波夜遅奴美」は明らかに「佐波遅比売」の別名です。
その「佐波遅」は「Svati」(亢)。九曜で言うところの「羅喉」(黄幡)。
したがって、「佐波夜遅奴美」が「葦那陀迦=八河枝比売」の子とされるのは、
「羅喉」(黄幡)と「朔」(美夜受とも宮主とも)の関係がその背景にあります。

#「宮主矢河枝比売」の子は「宇遅能和紀郎子」「八田若郎女」「女鳥」。
#後の時代になりますが、「宇遅」(宇治)に「黄檗宗」が開かれます。

[3544] どうして「有馬村」なのか  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/11(Mon) 12:54 [Reply]
>「一書(5)に曰はく、伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。
>故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、この神の魂を祭るには、
>花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」

この記事については、どうして「有馬村」かという問題もあります。
これは「有間皇子」の記事を読むことで、ほとんど明らかとなります。
「有間」(有馬)も実は「羅喉=黄幡」を表わす言葉のひとつなのです。

>或人諫めて曰はく、「可からじ。計る所は既に然れども、徳無し。
>方に今皇子、年始めて十九。未だ成人に及らず。成人に至りて、
>其の徳を得べし」といふ。(斉明天皇4年11月より)

この記事の趣旨は「有間は未だ子供」というところにありますが、
アラム語の「OLYM」(アリーム?)の意味には「子供」がある。
ところが、この「OLYM」(80/40/20/50)は「190」(1)で、
【五】の「羅喉=黄幡」に照応します。したがって「有間」は「黄幡」。

#もし「有馬村」の「有馬」が「黄幡」ならば、
#最初に引用した「伊弉冉」に関する記事自体が、
#そもそも「伊弉冉」と「黄幡」を結びつけている。
#という話ですから、後の時代の習合ではありません。
#「伊弉冉」と「狭穂姫」の共通性には既に触れました。
#その「狭穂姫」の別名「佐波遅」は「Svati」(善元)。
#また「Svati」(善元)は「羅喉=黄幡」。ということで、
#「有馬村」からも「狭穂姫」からも「黄幡」に繋がる存在。
#それが「伊弉冉」(伊邪那美)です。もちろん文献からの話。

[3543] Re[3536][3535][3533]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  苗(miao) 2002/11/11(Mon) 12:09 [Reply]
>yanase さん どうも。
>  八幡神にはときどき死のイメージを感じことがあります。「若宮八幡」にはそれが色濃い場合も多いのですが、稀に「八幡」だけでもそうであるようです。何故なのかはわかりませんが。
八幡神は元「はちまん」ではなく「やはた」であったようですが、ともかく、渡来系の神という見方も多く成されています。渡来人=秦氏であったり、渡来神=韓神としたりと大雑把な捉え方もされていますが、案外「まん(幡)」=「はた(秦)」という事もあり得ないはなしでも無いでしょう。八幡神が全国区になったのは石清水八幡宮以降ですから、往時は記・紀にも乗らない小社であった事が解ります。

八は専ら出雲族に関して語られる折りに頻出する数ですが、幡という概念も、元は「機織り」であって(≠七夕信仰)一つの部族が織りなす色や折り方、或いは折り目も指定されていたとも考えられる点から、八種類の部族を統括する長、という意味での「八幡」か、或いは「多くの部族を統括する」という意味で使われたという考え方も出来ます。「万幡豊秋津師比売命/栲幡千々媛」も近しいものであると考えています。

ただ、大陸の氏族で「八氏」というのがありますので、現在、ちょっと調べています。

>「幡旗」が気になりますが、それはともかく、紀州の海岸は常世のイメージですので、ここから黄泉と常世は古くは一体の観念のものといふ見方も出てきたものと思ひます。
トキジクノカグノコノミを探して蜜柑が定着したのも似た観点で語れるでしょうね。

> 比婆山と熊野は、山に葬ったか海に葬ったかの土地柄の違ひなんでせうが……、あとは
葬る場=あの世であって、黄泉とするなら、墓標のある場という見方もできますが、紀州は専ら「補陀落海渡」の地ですから、海の向こうは=黄泉(常世)であって、それが日本海に面した場では「漂着物=お宝」と見なされ、「外国=常世」でもあるかも知れない。小さな地域で見ると、いわゆる「賽の神」よりも依り外側は、既に別世界でもあった訳ですから、ミクロなあの世。そして国という目で見た場合のマクロなあの世という二面性を持って語られていたとも考えられます。
すると、「朝鮮半島(及び大陸)=黄泉」ともなり得る。少彦名あたりとも符号してくるとも思います。往時は、結構、あの世とこの世を頻繁に往来出来る、と考えていた節もありますから。

[3542] 表記の訂正  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/11(Mon) 12:05 [Reply]
前項の[3541]で「沙本比売」と書いたところがありますが、
「沙本毘売」です。それから「羅喉」の「喉」の偏は「目」。

[3541] 「黄幡」の関連で  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/11(Mon) 11:31 [Reply]
「子供を生みつつ死んでいく」という点で「伊邪那美」は「沙本毘売」に重なりますね。
「沙本毘売」とは「地黄」のことですが、また「沙本毘売」の別名は「佐波遅比売」です。
yanaseさんが挙げられた「泉」(黄泉)の「地黄八幡」(つまり黄幡)などを踏まえるなら、
「佐波遅比売」の「佐波遅」は「Svati」(中国では「亢」です)の音写ということが分かる。

★★★★★←→★★★★★←→★★★★★
★二七九★←→★水月金★←→★486★(※ここで「羅」は「羅喉」の略)
★一三五★←→★計土羅★←→★531★(※【五】に属すのは「亢」「参」「危」)
★六八四★←→★火日木★←→★972★(※「参」は舎頭諫経で「生目」に作られる)
★★★★★←→★★★★★←→★★★★★

「Svati」は摩登迦経や宿曜経では「亢」ですが、舎頭諫経では「善元」です。(※これは「大元」に関連)
それはさておき、この「Svati」(佐波遅または佐波夜遅)は九曜では「羅喉」。
既に苗さんの書き込みにありますが、この「羅喉」(ラーフ)が「黄幡」ですから、
結局のところ「沙本毘売」は「黄幡」ということになる。ここまでは宜しいでしょう。

---------------------------------------------

次に「伊久米伊理毘古伊佐知」と「沙本比売」が夫婦として描かれている点が重要です。
「伊久米」は書紀では「活目」に作られますが、この「活目」(生目)は「参」そのもの。
ところが「参」も「羅喉」(つまり黄幡)なのです。名前に「伊久米」を負っていることと、
「沙本比売」を娶ることは、いずれも「黄幡」を示すという意味で全く同一線上にあるのです。

しかし注目すべきは、「伊久米伊理毘古伊佐知」は【二】に属するということ。
その【二】は「艮」の方角ですが、「艮」には(八方天の)「伊舎那天」が照応。
【五】は「西」の方角ですが、「西」には(八方天の)「水天」が照応。ところが、
九曜で言うと【二】は「水」なのです。「伊佐知」と「沙本比売」が夫婦であるのは、
つまりこのような【二】と【五】(九曜では「水」と「羅」です)の密接な連関を示す。

>「一書(5)に曰はく、伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。
>故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、この神の魂を祭るには、
>花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」

ところが【二】に属す「Revati」(奎)の意味は「小鼓」です。
その「Revati」(奎)は九曜の「水」。そして「水天」は【五】。
「水」を介して「Revati」(奎)も「羅喉」(黄幡)に繋がります。(※【五】は九曜で「羅喉」だから)
「黄幡」とも見なされる「Revati」(奎)が「小鼓」ということです。

>流灌宿。有一要星。形圓色黄。行三十須臾。
>而侍從矣。鹿麋為食。主富沙天。姓曰妙華。

これは舎頭諫経からの引用。「流灌」は「奎」に同じ。
「Revati」の訳語です。「小鼓」であり「色黄」であり、
また属する氏族が「妙華」であるのが「Revati」なのです。
その「Revati」(奎)は言わば「Svati」(佐波遅)の親戚。
「花」や「鼓」や「幡」が云々されている日本書紀の記述は、
故に「Revati」(奎)とか「Svati」(佐波遅)に繋がります。

#最後に確認すると、「Revati」(奎)は【二】。
#その【二】は「艮」で「伊舎那天」に照応します。

[3540] 修正  苗(miao) 2002/11/11(Mon) 11:12 [Reply]
すいません、文字が無くて宛っていました
>羅猴星の精

>羅侯星の精
の事です。やっと見つけましたので修正してお詫びします。

[3539] Re[3537][3533]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  苗(miao) 2002/11/11(Mon) 10:55 [Reply]
>玄松子 さん、どうも。

> イザナミと王幡神の関係がわかりません。

>月日の光を覆って食を起こすといわれる「羅猴星」の精で太歳神の墓。
と書いておりますが、何故に??。王幡神に関しては件の事など更に他の文献などで調べられると良く解ると思います。

> 広島には、真幡神社と書く神社がいくつか存在し、なかには通称「おうばんさん」と呼ばれるものもありますが、祭神は、スサノオ、サルタヒコ、ハニヤスヒコですね。
> 黄幡神は八将軍の一で、牛頭天王と結びつくのが自然では。とも思う。
どう自然であるかは、往時の精神性と結びつくものでありますから、一概に現在の概念を、ましてや個々の概念を付加できるかどうかはしっかりした基盤と根拠なしには危うい事と思います。その意味で往時の棟札は重要です。

[3538] 無題  日下部 2002/11/11(Mon) 06:43 [Reply]
Setoh 様
<日下部さんは浦島太郎の子孫のお方ですか。

もしかして、と思って調べております。情報を下さい。

宇良神社と龍宮伝説
http://www5.nkansai.ne.jp/users/oushiama/special-1/04-densyou/02-ura/ura.htm

[3537] Re[3533]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  玄松子 2002/11/11(Mon) 06:05 [Reply]
疑問をひとつ。

> こうしたことからイザナミは黄泉の神として王幡神と習合し、

イザナミと王幡神の関係がわかりません。


ちなみに、

> 泉津道守神を祭神とする真旗神社での古名は「おうばんさん」といい、

広島には、真幡神社と書く神社がいくつか存在し、なかには通称「おうばんさん」と呼ばれるものもありますが、祭神は、スサノオ、サルタヒコ、ハニヤスヒコですね。
黄幡神は八将軍の一で、牛頭天王と結びつくのが自然では。とも思う。

[3536] Re[3535][3533]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  yanase [Mail] [Url] 2002/11/11(Mon) 01:57 [Reply]
[3533]苗さん> 王幡神・大元神(基本的性格)馬・牛・稲作の守護神 広島福山地方では王番神と書き、馬を守る神と伝えられる。……

 東日本の馬頭神(馬頭観音の古形、柳田国男「山島民譚集」などによる)にも少し似てゐるので、何かの参考にさせていただきます。最近地方独特の神に関心がありまして、勉強になりました。

[3535]setohさん> 八幡神と黄泉神、驚くべき結びつきが出てきましたね。

 八幡神にはときどき死のイメージを感じことがあります。「若宮八幡」にはそれが色濃い場合も多いのですが、稀に「八幡」だけでもそうであるようです。何故なのかはわかりませんが。
 また、平成祭データで「黄」がつく鎮座地名は多くはありませんが、八幡に関連するものが2社あり(同一神が複数の黄地名に関係するのは八幡だけ)、ほかに泉野といふ地名の地黄八幡神社といふのもあります。例が少ないので偶然かもしれませんが。
 地黄八幡神社 石川県金沢市泉野     応神天皇
 宇佐八幡神社 石川県松任市藤木町黄   応神天皇ほか
 六所神社   愛知県南設楽郡鳳来町黄柳野字深沢 猿田彦命 誉田別命

 八幡から話はそれますが、祭神名に「黄泉」のつく神は、平成データでは「黄泉道守命」の他に1柱あり、「黄泉事解男神」で、紀州の熊野那智神社(大社)などの祭神です。黄泉事解男神とほぼ同時に黄泉国で伊弉諾尊の唾から生まれた神に、速玉男があり(書紀)、同じ熊野の速玉神社などの神です。伊弉冉尊は、熊野の海岸の有馬村に葬られたともあります。
 書紀「一書(5)に曰はく、伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、この神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」
 「幡旗」が気になりますが、それはともかく、紀州の海岸は常世のイメージですので、ここから黄泉と常世は古くは一体の観念のものといふ見方も出てきたものと思ひます。
 比婆山と熊野は、山に葬ったか海に葬ったかの土地柄の違ひなんでせうが……、あとは書くべきものがまとまりません(失礼)。

[3535] Re[3533]: 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  Setoh 2002/11/10(Sun) 22:55 [Reply]
苗(miao) さん 体系的なお話、ありがとうございます。

おっしゃる通り地母神である西王母の性格を持つ伊耶那美神ですから、箒木をその神とすることはありえることです。
それにしても、大元と黄幡、これはどうしても宇佐八幡を思い起こします。
八幡神と黄泉神、驚くべき結びつきが出てきましたね。

[3534] Re[3529]: 黄泉神  玄松子 2002/11/10(Sun) 22:23 [Reply]
> どこにいったんだ!「黄泉津大御神」!
> というワケで、イザナミ以前の黄泉神について
> 皆さんの御意見を伺いたく存じます。

黄泉に限らず、根元的な神ほど、新しいとは云えないでしょうか。
天御中主神も行方不明です。
身の回りにあるものや、生活に関わる神が最初に考えられ、その起源を説明する段階で、創造された神が、天の神や黄泉の神。と考えるのが普通(じゃないかな?)。

で、疑問。
イザナミが死ぬ以前には、いったい誰が死んでいるのだろう。イザナミ以前に死んだものはいるのだろうか。

[3533] 黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神  苗(miao) 2002/11/10(Sun) 22:02 [Reply]
はじめまして、時々訪れてはいたのですが、書き込むのは初めてです。
神社に興味を持っています。丁度話題に出ている黄泉の神に関して私で解る範囲で
書くことにします。

黄泉津大神=道敷大神=伊耶那美神
千引きの石を挟み、互いに「是以一日必千人死、一日必千五百人生也」と言った。
これらから生死の起源説話か、地母神的性格で冥府・死との関係が濃厚とした為か、
日の神とも認知される伊耶那岐に相対する位置づけとしての夜(月)神の性格とし
たか、諸説在る。

道敷大神=伊耶那美神
恐ろしい姿に変化した伊耶那美神から逃げ出した伊耶那岐が、黄泉比良坂で追いつ
かれた事(道及き)から付加された名前(記)
伊耶那岐が逃げる途中で投げ捨てた沓に化生した神名(紀)
両方共に賽の神的信仰の基盤が見える。

道反之大神=塞坐黄泉戸大神
上記、千引きの石の神格化したもの
これから横穴式石槨の羨門に大石材を据える陵墓の構造と関連付け、古墳の閉塞儀
礼の表象神話とみる説、道祖神的役割で賽の神とした説など、諸説在る。

以上から、道祖神、賽の神という側面で見ることが出来るようで、その後、神仏習
合から「黄幡神」と同化されていく。

黄幡神(基本的性格)
陰陽道、五行で取り入れられた神、八将神の一人。暦の方位の法則に従って年々移
動する。
月日の光を覆って食を起こすといわれる「羅猴星」の精で太歳神の墓。
土を司る凶神、摩利支天王ともいう。万物の墓の方位ともいう。

泉津道守神を祭神とする真旗神社での古名は「おうばんさん」といい、元和三年(
1617)往来が極めて困難な場であり、風雨の災害を何度も受けた為、神助を仰
ぐため勧請したもの。その時点で既に「王幡=黄幡」という神格であった。

明治維新の時の廃仏毀釈によって、殆どの神社の神名が改められたとされる。
依って、最初に勧請された時には「おうばん」神であり、その後の改訂で併合され
た元の神名が表示されたと考えられる。その根拠に併合時の棟札があったか確かで
あるかは定かではない。

王幡神・大元神(基本的性格)
馬・牛・稲作の守護神
広島福山地方では王番神と書き、馬を守る神と伝えられる。王馬(おうば)とも。
同じく広島千代田では「とうばん様」と呼ぶ。牛馬の神として堂祠を祀る。山中に祀
る場合もあり、山の神ともいう。牛馬が躓いて死ぬことから祀るという伝承も。
広島芸北地方では王幡神は大元神ともいい、田の神、稲の神とされる。元は出雲系の
神と思われるがはっきりしない。所に依っては境内の木(多くは箒木)を神として祀
る。(箒木に関しては風土記にも説話がある)

王幡神の祭礼は、七尋半(約13.5メートル)の長さの縄で、七五三(良く解らない)
で蛇形を作り御幣を立てる。氏子の数だけ「なえの子」と呼ばれる小さい御幣を作
り縄に植え付けて五穀豊穣を祈る。
島根県邑智郡・那賀郡一帯では大元信仰が多い。箒木を大元神(王番神)として、
「さんばい様(田の神。三杯、三拝、三把などと書く)と呼ぶ。大歳神、御歳神、若
歳神を祭神とする。

こうしたことからイザナミは黄泉の神として王幡神と習合し、祠などの置かれた場所
から、その神意は変遷し、五穀豊穣の神としての性格を持たされていく。文字という
概念の無い農民、文盲率の低い過去の人々にとっての拠り所である神、その言葉だけ
を頼りに神名を定義していった人々が、その発音記号だけで(おうばん、おうば等)
氏子達は連綿と信仰を綴ってきた事が理解できると思う。

以上、とりとめも無い形になってしまいましたが、如何でしょうか。

[3532] 石上神宮の神宝  神奈備 2002/11/10(Sun) 16:50 [Reply]
石上神宮の神宝と禁足地を拝見してまいりました。

禁足地内には勾玉や剣が埋められていた神地が丁度本殿前にあり、太刀の出土地の上には丸い石がおかれていました。
また、禁足地の中程に東西にのびた、少し土の盛り上がったところがあり、本殿建築以前の禁足地の境だそうで、その北側が後に拡張されたところだそうです。
禁足地は剣先状の瑞垣に囲まれ、その中の木々と苔生した一帯はそれなりに太古からのもののような雰囲気が出ていましたが、本来はないはずの本殿がそこに建っていると言う意識が抜けきれない目で見ていたせいか、大きい本殿のその大きさも場違いな感じを受けてしまいました。

七枝刀を至近距離で拝見することができました。思ったより薄いようで、隣のレプリカの太さから見ても、当時の鍛冶の技量の高さを思わせます。また刀面に金象嵌の文字が所々に見えていました。へたな字です。石上神宮では「六叉鉾」と称されてきたそうです。Nの叉はN+1の頭の原理です。
『日本書紀』神功皇后摂政五十二年
百済からの使者が「七枝刀一口・七子鏡一面・種種の重宝を献る。」との記事があり「谷那の鉄山の鉄を取りて奉らむ」とあり、この七枝刀に比定されているようです。

日の御盾と言う鉄盾があり、5世紀後半の制作と推定されています。大小各形の鉄板を重ねて鉄鋲でとめてあるもので、幾何学模様のついた重い盾で、置盾だったそうです。
『日本書紀』仁徳天皇十二年に「高麗国、鉄の盾、鉄の的を貢る。」との記事があり、これに比定されています。

 今回の神宝をごらんになられる方々の名簿を勝手に拝見いたしました。見覚えのある善男善女の方々のお名前を拝見できました。これが一番の感激だったかも。

[3531] Re[3530][3529]: 黄泉神  ユアン [Mail] 2002/11/10(Sun) 02:21 [Reply]
> 泉津道守神ではないでしょうか。
ありがとうございます、setohさん。
それは始めて聞く神の名です。
しかも実家のある福岡にもその神様を祭っている神社があるとは…。
これは是非おまいりしたいですね。
> なお、黄泉津大神の地位は、その後伊邪那美命、素盞嗚尊、大国主命と受け継がれたと記紀は語っているような。
ということは、黄泉神というのは役職名みたいなものなのですかね。
泉津道守神は一番最初の黄泉神というコトですか。
「泉津道守神」がでてくる文献はあるのでしょうか?
それらの神社の縁起にはなにか書いてあるでしょうね。
島根や広島まで、ちょっくら足をのばしてみようかしら?(笑)

[3530] Re[3529]: 黄泉神  Setoh 2002/11/09(Sat) 15:59 [Reply]
> どこにいったんだ!「黄泉津大御神」!
泉津道守神ではないでしょうか。
伊邪那美命や事解男命との混乱も見えますが、比婆山を囲む島根、広島両県に泉津道守神を主祭神とする神社が鎮座しています。
広島
真旗神社 広島市南区北大河町23-17
堤平神社 広島市安佐南区東野3-19-7
島根
熊野大社摂社伊邪那美神社
山口
白坂神社 阿武郡田万川町大字下小川第1038
福岡
白山神社 鞍手郡若宮町大字金生1704
白山神社 鞍手郡若宮町大字金生2320
長崎
八幡神社摂社白山神社 島原市八幡町7681番地
白山姫神社 南高来郡吾妻町阿母名1002番地

なお、黄泉津大神の地位は、その後伊邪那美命、素盞嗚尊、大国主命と受け継がれたと記紀は語っているような。

[3529] 黄泉神  ユアン [Mail] 2002/11/09(Sat) 02:53 [Reply]
突然ハナシを折るようで恐縮ですが、「黄泉神」についての説を
皆さんに是非教えて頂きたいと思います。
古事記などではイザナミが幽世に身罷った時、
イザナギが迎えにくる記述があります。
その際イザナミは「黄泉津大御神」にお伺いをたてるのですが、
其の後はイザナミが黄泉の国の支配者にとってかわります。
どこにいったんだ!「黄泉津大御神」!
というワケで、イザナミ以前の黄泉神について
皆さんの御意見を伺いたく存じます。

○スクナヒコと豊受神について
私見ですが、スクナヒコは常世からの遣いとしての性質を持つように思われます。
同じく常世から富をもたらす海神は、「少童命」と表記されます。
「少童命」の表記は中国の伝説から輸入されたモノともいわれますが、
逆に富をもたらす童の伝承は日本の東北を中心に展開されています。
このコトから、スクナヒコにも富をもたらす属性が後から付加されたとしても
不思議ではないと考えます。
となると、豊受神の属性とも重なりますよね。
それぞれ、海のモノと山のモノとの違いはあっても、
同じく幸をもたらす神として同一に扱われるのもそれなりに納得いきませんかね?
もしその二柱の神が合祀されているのであれば、
そうした理由からであっても不思議ではないと思います。
あくまで私見ですので悪しからず。てゆうかむしろ妄想?(笑)

[3528] Re[3526]: 少彦名と豊受大神との関係を教えてください。  Setoh 2002/11/08(Fri) 10:57 [Reply]
大三元さん ありがとうございます。

日下部さんは浦島太郎の子孫のお方ですか。
前半は「やさか掲示板」のヤルヤさんの書き込みの引用ですね。興味深く拝見いたしておりました。
> ○小彦(スクナヒコ)と大彦(オオナヒコ)つまり大男と小男ではなかったか。
伊賀の敢国神社はまさにこれらの神々を祀っています。要注意の神社ですね。

高産霊の手の間からこぼれたとされる少彦名神
産霊神の御子とくれば米、粟などから穀霊を思わします。また一方砂鉄などともされます。
マルヤさんは土雲との関連を指摘されておられますが、蜘蛛は体の割には手足が長く、長髄彦ではありませんが、先住の民人をして形容するに相応しい表現です。これを昇華して天津神の御子にしたてたのが少彦名の名かも知れません。
一方、籠神社の祭神の海神は小童神とも呼ばれ、少彦名を連想しますね。

いずれにしろ、少彦名神的な神への強い信仰があり、これらが『記紀』神話の元となったのでしょう。

> 匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪
ここらは面白いところです。「ヨサ」の海と「アソ」の海とが対で天橋立を境としています。言語的には「アソ」に相当する何か、おそらくは神の魂の入れ物のような神座的なものを表す言葉と意味がでてくれば一歩前進でしょう。
 できたら同じような国の言葉がいいですね。片や西アジア、片やメラネシアでは困りものですよね。

[3527] Re[3526]: 少彦名と豊受大神との関係を教えてください。  大三元 [Url] 2002/11/08(Fri) 09:44 [Reply]
スクナヒコの語義を考えたサイトをあげておりますので、よろしかったらご覧ください
アイヌ語で奇妙に合致する要素がいくつかあり、スクナヒコ伝説が縄文に遡るのではなかろうか、と考えています

http://www.dai3gen.net/sukunahikona.htm

トヨウケ、トヨウカなどについても、トウカと訛って、稲荷と書かれ、イナニ、からイナリに転じてきたものでしょうか
http://www.dai3gen.net/inari.htm


[3526] 少彦名と豊受大神との関係を教えてください。  日下部 2002/11/07(Thu) 22:50 [Reply]
.第一渡来人(朝鮮半島あるいは中国南部・福建省辺りを経由して海よりイカダ、舟で渡来した)
 ●部族名:狗族(中国西北の遊牧民・犬戎の一派)
 ●信  仰:狼・犬を先祖として崇めた。
 ●部族長:スクナヒコナ
 ●俗  称:イヒカ、イワオシワク、ツチグモ

○彼らを率いてきた部族長、スクナヒコナは海より渡り来て、また海より何処ともなく去ったが、その子孫はツチグモなどと言われ、採鉱・精錬を生業とした。
○彼らは身長は低く、手足は長かったのではないか(矮人、侏儒)。
○少彦名はガガイモの舟に乗ってきたと言うが、ガガはカガ、カカで蛇に通じ、蛇は金属精錬に通じはしないか。
○少彦名と国づくりを共にした大己貴も精錬に関連した部族ではないか。
○少彦名も大己貴もいわゆる綽名であり通称である。
○小彦(スクナヒコ)と大彦(オオナヒコ)つまり大男と小男ではなかったか。

記・少彦名は熊野(島根県八束郡八雲村)の岬から常世の国に去った。三国史記〜新羅本紀」赫居世38(B.C.20)年、瓠公を馬韓に派遣した。瓠公は倭人で瓠ひさごを腰に付けて海を渡って来た。
匏(ヨサ)。ひさご、瓢箪のことだが、小林恵子さんは、辰韓で、ひさごを朴と云う、このあたりから、赫居世、脱解、瓠公、と日本との関連を論じている(二つの顔の大王 P38)
京都府・天橋立の内海のことを与謝の海といいます。ここは真名井神社(籠神社奥宮)があります。神社の入り口には瓢箪のマークがあります。以前はカゴメのマークもありました。
匏宮は真名井神社です。少彦名と豊受大神との関係を教えてください。

[3525] ありがとうございます  初心者 2002/11/05(Tue) 22:18 [Reply]
数多くのアドバイス、大変ありがとうございます。

実は二、三年前まで休日に図書館で調べていたのですが、
駐車場に車を停めることすらままならなくなるほどの混雑となってしまい、
御無沙汰となっていました。

これからは各地への出張が増える可能性があり、
その土地土地の神社へ訪れてみようかと考えていたのですが、
とぼしい基礎知識ですから、補強策が必要でした。
助っ人外国人ならぬ、久しぶりの新書を買うつもりです。

これからもどうぞよろしくお願いします。

[3524] 二宮神社  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/11/05(Tue) 18:15 [Reply]
神奈備さま。
二宮神社をアップして頂き、ありがとうございます。(*^_^*)
神主の村山左近さんは舞の名手で、長年各地の神社で舞を奉納されていました。
一念発起されて通信教育で神主の免許を取得し、この春から二宮神社の神主になられて張り切っておられます。左近さんとは古神道の勉強会で知り合いましたが、とても楽しい気さくな人柄です。
機会がありましたら、ぜひぜひ参拝してあげてくださぁ〜い。

それから、初心者さんへ。
私たちの「古事記のものがたり」などはいかがでしょうか?
10話までHPで無料公開していますので、もしよかったら読んでみてくださいね。
ちょっと、宣伝してしまいました。すみません。(~_~;)

[3523] Re[3522][3521]: 名前で混乱しています  setoh 2002/11/05(Tue) 16:27 [Reply]
大三元さんのおっしゃる通りだた思います。
> setohさんはどうやって勉強されたのかしら?
行き当たりばったりで、未だに混乱の最中にいます。

この前、河内の二宮神社へ参拝して来ました。ここは宿奈川田神社の元地とされている場所で、杵築神社と春日神社の二つの神社を統合した神社です。アップしましたのでご覧ください。

 宿奈川田神社の祭神は鳥取氏の祖とされる宿奈彦根命が祀られており、少彦名命と同一神とされています。少彦名命は国作に協力した神とされていますが、妃神や子作の物語は『記紀』に出てきませんね。

[3522] Re[3521]: 名前で混乱しています  大三元 2002/11/04(Mon) 22:37 [Reply]
直接のお答えは持ち合わせませんが、お勧めしたいのは古事記、日本書紀(さらに祝詞、風土記)を何回も何回も読むことだろうと思います。遠回りのようでいて、やはり自分で書き出したりしながら、系図にしたりしながら、やって行くと身に付きましょう。
setohさんはどうやって勉強されたのかしら?

> 歴史関連書籍、神社の祭神を掲示した板、などなどで、
> ひとりの人物にいろいろな名前があり、ちょっと混乱しております。
> 「まず間違いないであろう」同一人物を記載したサイトなどはあるでしょうか?。

[3521] 名前で混乱しています  初心者 2002/11/04(Mon) 09:45 [Reply]
歴史関連書籍、神社の祭神を掲示した板、などなどで、
ひとりの人物にいろいろな名前があり、ちょっと混乱しております。
「まず間違いないであろう」同一人物を記載したサイトなどはあるでしょうか?。

[3520] Re[3517][3515]: 「雀」について  setoh 2002/11/03(Sun) 22:05 [Reply]
> 鳥は死んだ人の霊魂を運ぶとも、死んで人は鳥になるともいはれ、古代の葬地であった大和の初瀬の周辺には、鳥にちなむ地名がないほうが不思議なのです。

近辺に鳥見山が二つありますが命名時期はわかりません。一つは鳥見霊畤に係わるので古いのでしょう。
鳥葬なども霊魂を運ぶものとされた所以といえましょう。
また『万葉集』にも鳥の歌が多いです。
0182 鳥座(とくら)立て飼ひし雁の子巣立(た)ちなば真弓の岡に飛び還り来ね
鳥座は鳥を飼う垣のようなもの。
1540 今朝の朝明雁が音寒く聞きしなべ野辺の浅茅ぞ色づきにける
雁と野辺、葬送のイメージ。
3676 天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ
4366 常陸(ひたち)指し行かむ雁もが吾(あ)が恋を記して付けて妹に知らせむ
これらは伝書鳩ではありませんが、言霊を運ぶ役割もありそうですね。
『古事記』の雉女もそうですね。

鳥の出現は死と再生の物語に続くような感じですね。

[3519] 「大雀」も「聡耳」も「聖」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/02(Sat) 20:40 [Reply]
日本書紀は、皇太子に何時なったとか、
天皇に何時なったとか、諸々の時を示す。
闇雲に書いているのだろうか。どうだろう。

まず「厩戸皇子」に関して特筆すべきは、
死んだ月日を「2月5日」としている点だ。(※もちろん旧暦)
同じ「2月5日」に「慧慈」が殉死している。
そして両人とも「聖」と呼ばれた。意味は何か。

・2月1日……「奎」……「水」
・2月2日……「婁」……「計都」
・2月3日……「胃」……「金」
・2月4日……「昴」……「日」
・2月5日……「畢」……「月」(※ここで「女」の九曜も「月」という点に注意)
・2月6日……「觜」……「火」
・2月7日……「参」……「羅喉」
・2月8日……「井」……「木」
・2月9日……「鬼」……「土」
・2月10日……「柳」……「水」

これはいわゆる月宿傍通暦から2月の上旬を抜粋したもの。
「厩戸豊聡耳」の「聡耳」が月宿の「女」である点は述べた。
ところが「軫」「畢」「女」はいずれも【七】。九曜の「月」。
全く同じく「聖」と呼ばれる「大雀」に該当する月宿の「畢」に、
「豊聡耳」の死亡の月日を設定した。そういう可能性が想定される。

・【七】軫……大倭根子日子賦斗邇(第7代)……片岡馬坂上
・【七】畢……大雀(木菟宿禰)(第16代)………毛受之耳原…………聖帝
・【五】危……袁祁之石巣別(第23代)……………片岡之石坏岡上
・【七】女……小長谷若雀(第25代)………………片岡之石坏岡………豊耳聡聖徳

その「畢」であり「聖」である「大雀」に関して見てみると、
「崩」は「1月16日」(軫)で、「葬」は「10月7日」(危)。
ここで「軫」も「危」も「片岡」に縁を持つ月宿であってみれば、
「大雀」の崩御や葬送の月日は「豊聡耳」との関係により設定した。
そういう可能性が高いだろう。つまり、いずれも「聖」である両者は、
崩御(あるいは葬送)の月日においてもまた、極めて強い繋がりがある。

#繰り返して言うと、「厩戸皇子」が「2月5日」に死ぬのは、
#月宿の「畢」に設定することで、「大雀」との関係を示すため。
#そういう意図に基づく。仮に本当にそのようなことが言えるなら、
#「厩戸皇子」の実在性は問題にならない。「片岡」の地名にしても、
#何事かを表現するための「媒介変数」として設けられていると言える。

[3518] 「女鳥」と「厩戸皇子」  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/02(Sat) 15:34 [Reply]
・【七】軫……大倭根子日子賦斗邇(第7代)……片岡馬坂上
・【七】畢……大雀(木菟宿禰?)(第16代)……毛受之耳原…………聖帝
・【五】危……袁祁之石巣別(第23代)……………片岡之石坏岡上……天照
・【七】女……小長谷若雀(第25代)………………片岡之石坏岡………女鳥(建比良鳥)
・【五】亢……長谷部若雀(第32代)………………倉椅岡上(※女鳥は倉椅山に逃げる)

「長谷」(ハツセ)が「椅」(ハシ)に通じることは述べた。とすると、
「小長谷」〜「小椅」〜「阿比良比売」〜「建比良鳥」と繋がるわけだが、(※「長谷」は「土師」でもある)
この「建比良鳥」は、書紀では「武日照」「武夷鳥」「天夷鳥」に作られる。

仮に「照」が「鳥」とすると、「天照」は「天鳥」に書き換えられるが、
一方で「天照」は「日神」でもある。即ちこの「天鳥」は「日」でもある。
「武日照」にも「武夷鳥」にも「天夷鳥」にも作られる記の「建比良鳥」は、
したがって「天照」そのものと考えられる。(※この段階ではかなり意外かも)

然るに「小長谷若雀」は月宿の「女」であり、「女鳥」として描かれている。
である以上、実は「天照」も「女鳥」も同じ何か。いわゆる「服織女」だろう。(※昔話では「夕鶴」に変化)
ここで確認すべきは、「宇遅能和紀郎子は天津日継を知らしめせ」とあることだ。(※「天照」に準えられている)
「宇遅能和紀郎子」「女鳥」は同母兄弟。「女鳥」が「天照」でも特に不思議ない。

----------------------------------

さて「片岡」という地名に縁があるのは、御陵が「片岡」にある三人。(※「軫」「危」「女」に該当)
書紀の全体を見回しても、他には「手研耳」と「厩戸皇子」しかいない。
こういう場合、「手研耳」と「厩戸皇子」は特別な結びつきがあるのが常。

まず「手研耳」が「阿比良比売」の子供である点に注意しなければならない。
「手研耳」〜「阿比良比売」〜「阿多之小椅君」〜「小長谷若雀」と結びつく。
ところが「小長谷若雀」(月宿の「女」に該当する)は「片岡」に葬られている。
そういうわけだから、「手研耳」は月宿(lunar mansion)の「女」と見なされる。

「厩戸皇子」もこの点は全く同じ。「更名豊耳聡聖徳」と書紀にある。
また月宿の「女」に関し、『舎頭諫経』に「沙栴宿者一曰耳聰」とある。(※「耳聡」の出典は『舎頭諫経』ということ)
「耳聡」というのは、インドで言うところの「シュラヴァナ」に他ならぬ。
「女」も「畢」も同じ【七】。そして「畢」に該当する「大雀」は「聖帝」。

#つまり「大雀」が「聖」と賛美され、さらに「厩戸皇子」が「聖」と賛美されるのは、
#以上のような背景を持っている。人物が先にあるわけではない。先にあるのは「月宿」。

[3517] Re[3515]: 「雀」について  yanase [Mail] [Url] 2002/11/02(Sat) 13:22 [Reply]
 hvhyさんの指摘〜 長谷部若雀天皇(崇峻天皇)の御陵が倉椅の岡の上にあり、宮殿も倉椅の柴垣宮であったこと 〜により、倉椅のクラが、沖縄方言に残る「雀(クラ)」ないし鳥の古語(ツバクラのクラ)である可能性が高まったと思ってゐます。
 雀の王の系譜も面白いと思ひます。雀神社、雀宮神社は、関東を中心に十数社ありますが、共通の祭神名はほとんどありません。

 鳥は死んだ人の霊魂を運ぶとも、死んで人は鳥になるともいはれ、古代の葬地であった大和の初瀬の周辺には、鳥にちなむ地名がないほうが不思議なのです。
 初瀬周辺には倉椅山のほかに、朝倉や高倉山などが吉田東伍の上代地図に載ります。
 朝倉は、雄略天皇(大長谷若建命)の朝倉宮があったところですが、朝倉にゆかりの人に、曙立王(日子坐王の孫)があります。

 曙立王は、ウケヒにより、鷺巣池の鷺を殺してまた生き返らせ、甜白梼(あまかし)の前にある葉広熊白梼を枯らしてまた生き返らせたことから、垂仁天皇より「倭者磯城登美豊朝倉曙立王」の名を賜ったと古事記にあります。
 また、垂仁天皇の御代に、言葉をしゃべらぬ皇子・本牟智和気王のために、山辺の大鷹が、鵠を追って因幡国や諸国を経て越国で捕獲し、その鵠を皇子に見せても効果がなかったのですが、天皇の夢に現はれた出雲の大神のお告げにより、出雲の宮を再建することになり、本牟智和気王とともに曙立王が出雲へ旅立ったのでした。
 曙立王の功績もあり、皇子が言葉をしゃべれるようになってのち、皇子の御名代として、鳥取部や鳥飼部が定められたとあります。
 もともと古事記には、あちこちに鳥や鳥の名をもつ人が登場するのですが、本牟智和気王の物語は、最も頻繁に鳥が出て来る部分です。

[3516] Re[3513][3509][3507]: 「クラ」について  大三元 2002/11/01(Fri) 14:13 [Reply]
setoh さん、こんにちは

> 火明命の御子神の武位起神も読み方はタケイタテと思っていましたが、タケクライオキなのかも。

もう一歩進んで(^o^)、タケクラキ、でいいのでは?(古語では二重母音はなかった)

> 大三元さんHP>愛宕の本尊(?)はカグヤマではないか

まぁ、カグツチとカグヤマが混同されるケースがあるようだ、という話とご理解ください。

> カグツチ、ツチが神名共通の言葉で、一方、ヤマにも神の意味を見ると言うところあたりからの解きほぐしでしょうか。言語音痴が思いつくレベルではないでしょうが・・・。

いや、単に「カグ」つながり、で調べていたら、混同しているかもしれない、と思っているものです。ヤマが神体、というのは良く聞きますが、ヤマが神を意味するSuffixと考えられる事例を存じません。ツチ、ツミ、ツヌミ、なんてのは同源かも、とは思っています。

[3515] 「雀」について  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/01(Fri) 12:58 [Reply]
「クラ」が「雀」を意味するのがタミール語だけかどうか、
よく検討が必要でしょうが、「クラ」という言葉と「雀」が
古事記において、いわゆる掛詞になっていることは明らかです。

-----------------------------------

古事記の天皇の系譜は「月宿」(lunar mansions)に依り、
循環しています。(※これは上記のHPを参照してください)
またそこには「九進法」及び「勾股弦」が盛り込まれています。

例の「天若日子」の葬儀において「雀為碓女」とある。
したがって「雀」〜「碓」〜「石坏」と結びつきますが、
「袁祁之石巣別」(第23代)「小長谷若雀」(第25代)は、
いずれも「石坏岡」に葬られている。ここで注意したいのは、
「25」は「5×5」で、「勾股弦」の「弦」を表わすことです。

・「袁祁之石巣別」(第23代)「長谷部若雀」(第32代)……【五】
・「大雀」(第16代)「小長谷若雀」(第25代)……【七】(五×五)

「袁祁」(顕宗天皇)は「雀」を負っていませんが、
その御陵は「石坏岡」で、「石坏」は「雀」に繋がる。
である以上、四者は総じて「雀」に繋がってるわけです。
天皇の系譜における「雀」のグループ?と言えるでしょう。

・【七】畢……大雀(第16代)
・【五】危……袁祁之石巣別(第23代)
・【七】女……小長谷若雀(第25代)……邇邇藝
・【五】亢……長谷部若雀(第32代)

この四者が「雀」のグループであることを理解したうえで、
改めて「長谷部若雀」の御陵に着目すると「倉椅岡」とある。
「小長谷若雀」と「長谷部若雀」の名前は瓜二つになっている。
しかもまた面白いことに「邇邇藝」は「逃げ」を想起させる名前。
四者を睨んで頂けば、ここに「女鳥が逃げる説話」が見えてきます。

-----------------------------------

「倉椅山」(自分の縁故地)に逃げる「女鳥」は、
言わば「邇邇藝」であるところの月宿の「女」です。
それは天皇の名前で言えば「小長谷若雀」に該当する。

即ち「雀」(クラ)は「倉」(クラ)に通じ、
「長谷」(ハツセ)は「椅」(ハシ)に通じる。
だから「小長谷若雀」であるところの「女鳥」は、
「倉椅(クラハシ)山」に逃げる。そういう話です。
何を以て古事記が創作されたかを示す典型的な例です。


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