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更新 H14.12.11

[3820] Re[3819]: 漢字とベトナム語の関係  Setoh 2002/12/31(Tue) 22:29 [Reply]
 ヴェトナムの風さん、こんばんは。
こちらの方にも書き込みをお願いしたい旨の書き込みがありました。個人的やりとりはメールが望ましいと思いますので、その旨の書き込みは消去いたしましが、趣旨をお伝えしておきます。
『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』 http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html
 をもご利用下さいとのことです。

 掲示板ご利用の皆様
 この一年のご利用ありがとうございました。
 引き続きよろしくお願いいたします。

[3819] 漢字とベトナム語の関係  ヴェトナムの風 2002/12/31(Tue) 14:16 [Reply]
神奈備さん、焼尻紋次郎さん、お久しぶりでございます。
ベトナム語関係の話題なので横から参加させて頂きます。

>> 大陸の影響は当然の言葉、集めて似ているのは当たり前。
> ウンニャァ〜、
>いままでは文法、語彙ともに日本語とはマルッきしちがうのがシナ語でした。
> ところが、たまたまのたまたまで出た“毒”のように、広域をあたってやるとウツボツと
>して語彙の露頭が拾えるという“ MO(広域の交易通婚圏)の実力”も擡頭してきます。

ベトナム語の語彙の約7割は中国語と関連がありますから、「毒」付近を見ても・・・

(漢字)(ベトナム語)
  団 : doan
  短 : doan
  断 : doan
  奪 : doat
  都 : do
  督 : doc
  毒 : doc
  独 : doc
  読 : doc
  対 : doi
  屯 : don

やはりこの「doc」は「毒」の借用と考えざるを得ないのではないでしょうか。
#ベトナム語の辞書などお持ちでない方々が大半だと思われますので、ご参考まで。

それでは皆様、良いお年をお迎えください。

[3818] Re[3817]: 年越の迷い  Setoh 2002/12/30(Mon) 21:41 [Reply]
> 「塩」では祓いではなく、禊になるのでしょうか
習志野のてつさん、今年はありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
さて
祓いには二通りあり
一、儀式もしくは呪術としての祓い 大麻を左右左に振る 人形ヒトガタに罪穢れを委ねて流す。
一、水に身を浸すなど
水の場合は禊ぎ(祓い)と称するようです。(『神道用語の基礎知識 鎌田東二著』から)

塩ですが、塩を身にかければ水と同じことですが、サークルソルトとなれば呪術的な雰囲気ですね。
 木の周りに石灰で円を描くのは虫除けのまじないではなく、それなりの効果があるので、塩もそうかも。いわば過渡期と云うのか、呪術と科学の間かも。

[3817] 年越の祓い  習志野のてつ [Mail] 2002/12/30(Mon) 20:35 [Reply]
『塩の道』(宮本常一著、講談社学術文庫)の中に以下の言葉が有りました。
「塩には霊がない」…「(塩は)体の中にあるものをぐるぐる回していって、最後にはこれを
排泄させるという、つまり循環の機能を助け、そして健康を保全するという働きをするものです。」
私説:読み替え『(塩は)罪穢れを捨て去る事を助け、清浄を保全する』

夏越しの茅輪は良く見かけますが、年末大越の茅輪はめったにない。
今年は塩で、身に纏ってしまった罪穢れを祓い、新しい年を清浄な心で迎えるつもりです。

「住吉大社」(改定新版)学生社、2002年12月によれば
「住吉大神の場合は“みそぎ”であって“はらい”はともなっていないように思われる。…
“はらい”には別に祓所(戸)の大神がましますから…」

住吉大社でお参りする人は、社務所で塩をいただき、その塩で境内に1M程の円を描き、その中
に座して祈りを行なっていました。となると、「塩」では祓いではなく、禊になるのでしょうか?
今二つ禊と祓いの違いがわかりませんが、来年もよろしくお願いします。
皆様良いお年をお迎えください。

[3816] スジばってるが故えに 根がふかい   焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/12/29(Sun) 20:30 [Reply]
 ウンニャァ〜、
> 大陸の影響は当然の言葉、集めて似ているのは当たり前。例が悪いんのちゃうか。
★ とは、おっしゃるが、フツーのセンスで診て、シナ語と日本語にどれほどの類似語彙が拾
 えるんだろーか? 
 たしかに、たまたま見たページに sodzu と sodoku があったので、そこを採用してしてし
 まったので例が悪かったです。
 しかし、小生の13年前の文友が二晩か三晩考え摘出した「シナ語./.日本語の類似語彙」
 は16しか なかったのでした。この数字は最低記録を見せた「ヘブライ語./.日本語」よ
 りも下廻っているのです。
いままでは文法、語彙ともに日本語とはマルッきしちがうのがシナ語でした。
 ところが、たまたまのたまたまで出た“毒”のように、広域をあたってやるとウツボツと
して語彙の露頭が拾えるという“ MO(広域の交易通婚圏)の実力”も擡頭してきます。

 大阪で「あきまへん」と言い、このごろの大阪の猫も「あか〜〜ん」となくそうです。
 その「あかん」は純然とした日本語みたいなような気がしていましたが、ここにクモンジ篩
いを当てれば、ak-anu はネパール語統語を基として同根が言えるようになるのです。

 そういうことを、出たたびにモグラ叩きをするよりま、前以って総ざらいに叩いておけば、
同じ「ワカラン」でも中身がまるでちがうのです。

 また例がわるいかもしれないが、シナの紐(チュウ)と日本語の「チ(みち糸)」は第三
言語の do 、dor があれば同根といえる。そういう第三言語としての資格は同じ MOにいた
朝鮮語・ベトナム語に求められないのだろうか……日本語とシナ語をモロにぶち当てるよりも
その前にベトナム語・朝鮮語を総あたりに見よう。そういうことです。

 すでに“菊”と“寧”で、栄えある成果はあがっているのです。

 個人負担の投資金額は 計 13000 円ぐらいです。「ああだろうか、こうだろうか」と言い続
けた方には、ぜひやってみて欲しいところです。

[3815] もういくつ  Setoh 2002/12/29(Sun) 18:11 [Reply]
苗さん> 今月の某書籍にこの辺りは載せているのが丁度折良く書き込めて、私も心なしか嬉しく思います。ただ、書籍は地方版にて全国で販売はしていないのが残念です。
苗さんが著者ですか。ご本の名前を具体的に書いて下さいな。

> 建御名方命の・・神の母神はヌナカワヒメで東北出身です。
『旧事本紀』に出ている話ですね。高志の沼河姫。『古事記』にも母神のことは記載がなく、『日本書紀』は建御名方命を無視。一体これはどう言うことなのでしょう。
物部が諏訪にどうからんでいるのか、漏矢山に守屋祠があるとか、諏訪は実に不思議な地域ですが、それでも天武持統朝の頃には吉野にまさる神仙境と思われていたようで、遷都まで考えていたとか。
 さて建御名方命は出雲の神だったのでしょうか、それとも阿波国の名方郡辺りとか、出雲からすわへの道筋は宗像海人の活躍地域であるとか、色んな可能性が感じられます。
 この前伊賀国の敢国神社や穴石神社に参詣しましたが、『伊勢国風土記逸文』に安志社の祭神の伊勢都彦(出雲建子命)が風にのって光輝いて東へ去ったとあり、諏訪へ行ったのではなかろうか、後に敢国神社が当地の諏訪信仰の中心地とあり、西の大和高原へ波及したようなことを想像しましたが、建御名方命は元の地に戻ったと言う事はないのだろうか。
 地の神がいて、その神が中央の神話に利用されて他国の神におさまるのだが、最終的には元の鞘におさまりたい、これは人も神も一緒かと。

紋さん> sodok(消毒)
「からことば」ではない。大陸の影響は当然の言葉、集めて似ているのは当たり前。例が悪いんのちゃうか。
ところで
> このところ体調も思わしくなく
ご自愛下さい。

[3814] 言語手段によって古代東洋を解明する科学的手法の紹介   焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/12/27(Fri) 08:08 [Reply]
 古代文献は漢字で書かれていますが、それが何を意味するのかがワカラナイので
多くの会話がムダに終わっています。
 それがすべて払拭できるとまでは言えませんが、大幅な“科学的”前進を約束する
手法として、ここにその詳細を記述します。

 先日から小生は「菊が極東諸国の国造りに預かった不思議」や「ニニギのニギの意味を
解明したこと」について、ここにも紹介しました。
 それは小生が乏しい朝鮮語知識のうち、アンニョンハシムニカは安寧という文字が使わ
れていること、及び 朝鮮語 kukhwa とは国花で、その実、菊の花であるということを辞書
で知ったからでした。

 でも、あとが続きません。
 小生はキカイ・オンチで数字オンチで、その上に漢字オンチなんです。
 このところ体調も思わしくなく、ちょっとしたムリで、ガタガタッといくことも考えら
れますので、以下遺言かたがた、言語手段によって科学的に古代東洋〜ユーラシア文明を
開発する方法を申し述べます。

 これはシロートでもカンタンにできるヤリクチです。
 同じ手段でも個人によって、いろんな解釈がでて、発展性のちがいがありますので、ぜ
ひ貴方の趣味の一つにお加えください。

       ……………………

※ まず、辞書ですが、ぶ厚い辞書は変化態や派生語が多いだけです。5千〜8千語ぐ
  らいを掲出した辞書が、どんな場合でも最も扱い易いです。研究が煮詰まってきた
  ときにぶ厚いものが必要となることもありますが、そんなときには辞書の著者に手紙
  を出すのがいいです。

※  朝鮮語辞書は大学書林刊;『朝鮮語小辞典』宋枝学著でいいでしょう。
  これから、ニ漢字語(二つの漢字でできた語彙)を735ばかり抜き取ります。
  小生なら表紙に用いるイタメ紙に小さな字で手書きにして一覧表にします。あとで
  捜すときには超べんりです。
  抜き取る語彙は「これなら歴史や地名、神名などに関係があるなぁ」と、感じたも
  のです。発音を記入しておくほうが便利ですが、どのページかは絶対に書き落とし
  てはいけません。
  たとえば sodzu(焼酎)などは役にたちそうもありませんが、sodok(消毒)だっ
  たら、あとで役にたつかもしれません。
  書き出すかどうかの判断基準あくまでも個人のカンでいいですので、それらをペー
  ジをいれながら羅列するのです。

※ 次に大学書林刊;『ベトナム語常用6000語』竹内与之助著 \3000 からニ漢字
  語を拾います。
  さきに朝鮮語で拾ったニ漢字で、見覚えのあるのがきっと出ています。
  それが出たら、ベトナム語と朝鮮語の二つの発音を紙に書いて辿ってみます。
  音が似ていたら、われわれの先祖も「どこか江南のあのへんで、同じような発音で
  会話していたんだなぁ」という想像に、自信が出てくることでしょう。

※ そこでこんどは学習研究社刊;藤堂明保著『漢和大字典』で呉音とシナ音を拾いま
  す。このとき、呉音がダントツに日本語に似ていることにビックリするはずです。
  ここで似たりよったりの発音と内意が拾えたら、いつの頃かは別にしても、東洋を
   MOにした古代語が科学の名において確定したのです。

※ さらにそれが日本古代語とのあいだで類似が言えるとき、ここに日本古代語が明瞭な
  意味を示しながら再浮上し確定するのです。


* 朝鮮語からどれくらい拾い出すかの数字はいいかげんで結構ですが、多いほうがい
  い……あたりまえです。
  なぜ、一覧表みたいにして拾い出すか……。新たに朝鮮語やハングル文字を覚える必
  要がないからです。
  なぜ、小生みずからが一覧表を作らないのか……。体がわるいので、そのスペースが
  確保できなからです。
* 藤堂明保著『漢和大字典』は分厚い割には安価(6000円?)で、ほかにもいろ
  いろと活用できて、なかなか充実した本です。
* こまことば(漢字が添えられてない語彙)は、先人がかなり細部に亘って対比してい
  ますので妙味は薄いはずです。でも、この作業で新しい視野を提供するようになるか
  もしれません。

[3813] Re[3812][3809] 二俣  苗(miao) 2002/12/26(Thu) 17:29 [Reply]
>ただ建御名方命の発言権は?
彼の神の母神はヌナカワヒメで東北出身です。国譲りを実力で阻止しようと謀って、
肝心の力量で負けています。仕方なく諏訪まで母の系列を頼りつつ助けてくれる人づてに
逃げ延びた。諏訪の御柱祭も心御柱も意味的には同じとみています。

先の木俣神は書面的には「母に置いていかれた」様に書いてあります、が。
出雲の八十神(やそがみ)のマドンナであり、幾多の求婚のあった彼女のこと、それなり
に求められる何らかの重大な理由が在ったと考えています。
それこそが、井戸水探索法、つまりダウジングそのもの
と考えています。彼女は息子(木俣神)が一人で生きていく事が、出来得る為の「呪」とし
ての「ダウジング」を伝授して、去った、と考えています。

今月の某書籍にこの辺りは載せているのが丁度折良く書き込めて、私も心なしか嬉しく
思います。ただ、書籍は地方版にて全国で販売はしていないのが残念です。

結局、何処までも力で勝負する(負けて死ぬ可能性もある)事と、智慧で生き延びる
事を比べて、どちらが自分の愛した子供の為に良いであろうか、という視点で見た場合、
という狭い状況での事ですが、それぞれ神でありながら非常に人間臭い、ただ、強ち違
うとは言い切れないと思っています。

[3812] Re[3809] 二俣  習志野のてつ [Mail] 2002/12/26(Thu) 01:12 [Reply]
> 国譲りに時点で既に木俣の神の母親神(ヤガミヒメ)は本妻(スセリヒメ)の嫉妬
> を恐れて隠棲…息子?神も発言力をもっていなかったと考えるのが自然と思います。
う〜む。すごい説得力。納得できますね。ただ建御名方命の発言権は?
しかし皇位継承時の母親の力は、凄いものがありますよね。
卑母の問題、奈良・平安期でも重大です。いわんや古墳時代おや!
十分に検証されているとは思えない、大問題ですね。

> むしろ木俣神=御井の神で、ダウジングの元祖…(未だにダウザー
> が山中で自然を利用して使う枝は三つ又です)
『…ダウザーが…使う枝は三つ又です』存じませんでした。
確かに二俣とは、別の見方は「三つ又」になりますね。昔の
「ヤマタノオロチ」八俣なら頭は九つ論争を思い出します。
このあたりは、そろそろ青草へ移りましょう。

[3811] 「畢」と「二俣」  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/26(Thu) 01:08 [Reply]
>亦到其兄白日子王而、告状如前、緩亦如黒日子王。
>即握其衿以引率来、到小治田、掘穴而隨立埋者、
>至埋腰時、両目走抜而死。(古事記)

>故、率遊其御子之状者、在於尾張之相津、
>二俣椙作二俣小舟而、持上来以浮倭之
>市師池、軽池、率遊其御子。(同)

「大宜津比売」の説話に「於二目生稲種」とある。
ところが「建伊那陀宿禰」は「尾張連之祖」とある。
また「二目」と「二俣」は掛詞。(目はマタと読める)

(1)小治田……両目
(2)尾張之相津……二俣
(3)尾張連(稲種)……二目

月宿の「畢」はY字の形に見える。(※西洋で言うヒアデス星団)
その一方で「畢」の訓は「ヲハリ」。
「二俣」の文脈における意味に拘らず、
それは月宿の「畢」を表わしもしている。

#古事記が繰り返し「ヲハリ」と「フタマタ」を結びつけるのは、
#月宿の「畢」の形を念頭に置くと、すんなり理解できるという話。

[3810] Re[3806][3800][3797]: ・箕・大国主  大三元 [Url] 2002/12/25(Wed) 13:30 [Reply]
yanase さん:
>  箕は、やはり鎮魂のための道具の一つですが、蓑笠と同列に扱はれ、昔はしょっちゅう箕をかぶったのかも。

魏志倭人伝の 持衰 とは 持蓑 ??? トンデモ的提起です

[3809] Re[3807][3804][3805] 二俣小船  苗(miao) 2002/12/25(Wed) 11:52 [Reply]
> この「木俣神」原始的霊力の持ち主であれば、もっと早い時期に生まれていても良
> さそうな気がしますね。しかも国譲りに一切関与していない。何故か判りませんね?

国譲りに時点で既に木俣の神の母親神(ヤガミヒメ)は本妻(スセリヒメ)の嫉妬を恐れ
て隠棲していますから、息子?神も発言力をもっていなかったと考えるのが自然と思います。
むしろ木俣神=御井の神で、ダウジングの元祖と考えた方が良い様です。(未だにダウザー
が山中で自然を利用して使う枝は三つ又です)

[3808] 箕と簑の二俣  Setoh 2002/12/25(Wed) 08:08 [Reply]
> ――< のような形
この俣の所に蝋燭を垂らすと進みます。
もしくは櫓をあてがうのに都合がよさそうですね。
実用的かも。

> 箕は、やはり鎮魂のための道具の一つですが、蓑笠と同列に扱はれ、昔はしょっちゅう箕をかぶったのかも。

箕氏 朝鮮 素盞嗚尊 の連想も働きます。素盞嗚尊が蓑笠をかぶったのは、神の行いとして呪術的です。

[3807] Re[3804][3805] 二俣小船  習志野のてつ [Mail] 2002/12/25(Wed) 00:49 [Reply]
大三元さん
> …二股なら生誕につながる、との思いこみからかもしれませんが。
 出ない声が、出るようになる。これも一種の生誕ですかね
自己レスと云うか詳説
> > まあ池に浮かべて遊ぶ小舟であれば、実用性は無くてもいいのかな?です。
 実用性と云うのは、舟を造ることを考えると、非常に難しい。単なる丸太
 を割って丸木舟なら簡単ですが、人の形を断ち割るのははなはだ疑問です。
 操船もかなり難しい。どう進むか見当もつきません。
 そんな物理的な想像で、50%程否定の気持ちが残ります。
 もし可能性が有れば、人の分かれる上がすごく長い。――< のような形なのか
 あるいはそんなに難しいものを造ったから、わざわざ歴史書?に記載したのか?

苗さん、こんばんわ
> 武角身の異母兄弟も木俣神だった。…  ですね。
この「木俣神」原始的霊力の持ち主であれば、もっと早い時期に生まれていても良
さそうな気がしますね。しかも国譲りに一切関与していない。何故か判りませんね?

[3806] Re[3800][3797]: ・箕・大国主  yanase [Mail] [Url] 2002/12/25(Wed) 00:35 [Reply]
<箕曲神>
 箕曲神社(みのわ) 三重県伊勢市小木町 (主)天児屋根命 (配)箕曲神 塩比乃御前神
 この箕曲神とともに祀られる「塩比乃御前神」に海や水との関連を感じたのですが、箕曲は地名であるようです。

<箕に釣針を盛る  古事記・海彦山彦>
「兄(海彦)、弟の弓矢を還して、己が鉤を責る。弟(山彦)患へて、乃ち所帯せる横刀を以て鉤を作りて、一箕に盛りて兄に与ふ。兄受けずして……」
 箕を使ったのは山彦ですが、箕に入れたものは釣針で、まあ山・海どちらにしても、箕が農業以前からの道具でもあったらしい姿が、少しだけ見える気がします。

 箕は、竹細工のものは、【熊手】や【箒】で集めた物を入れるのには良いですが、農業用としては、木の皮を剥いだものを編んで作ったものが、柔らかく扱ひやすく、熟練すれば自分の手のひらの一部のようになるのではと思ひます。
 静岡県袋井市見取の枡箕神社(大国主)などがあり、箕が供物の容器とされたことと関係あるかどうかです。

<蓑笠と箕  神武紀・長髄彦との決戦を目前に>
「乃ち、椎根津彦をして、弊衣服及び蓑笠を著せて、老父の貌に為らしめ、又、弟猾をして、箕を披せて、老嫗の貌に為らしめ、勅して曰たまはく、「汝二人、天香山に到きて、潜かに其の嶺の土を取りて、まゐりかへれ。基業の成否は、当に汝を以て占はむ。」とのたまふ。」
 箕は、やはり鎮魂のための道具の一つですが、蓑笠と同列に扱はれ、昔はしょっちゅう箕をかぶったのかも。
 狂言『箕被(みかづき)』に、離縁して出て行かうとする妻が箕を被って家を出ようとする話があるとか。 (Microsoft/Bookshelf Basic より。この中の小学館「国語大辞典」は意外に重宝します)

[3805] Re[3798][3797]: 木俣  苗(miao) 2002/12/24(Tue) 23:07 [Reply]
> 「二俣小船」は、しゃべれない子を載せて遊ばせると、
> しゃべれるようになるかも知れない。と思われていた。
> やはり「俣」には何か呪力がある。

応神とか、武角身の場合と似通っていますが、たしか武角身の異母兄弟も木俣神だった。(様な気が)

[3804] Re[3803][3802]二俣小船  大三元 [Url] 2002/12/24(Tue) 19:49 [Reply]
習志野のてつさん

> 私説はまだ、「二艘横に並べて何か(板木)ででもつないだもの」です。

そうですか。

> まあ池に浮かべて遊ぶ小舟であれば、実用性は無くてもいいのかな?です。

ま、允恭紀(でしたっけ)の方はどっちでもいいけど(^^;)
垂仁紀のホムチワケの方は呪術でしょうから、二股木でないとまずい、のでは。
というのは、二股なら生誕につながる、との思いこみからかもしれませんが。

[3803] Re[3802]二俣小船  習志野のてつ [Mail] 2002/12/24(Tue) 17:02 [Reply]
大三元さん、こんにちわ
「二俣小船」
> 今までカヌーっぽいものを二艘横に並べて何か(板木)ででもつないだ
> ものかと思ってましたら「二股に分れている木をそのまま二股の丸木船
> に造ったものである」(時代別国語辞典上代編)とありますね。これだ
> と、本当、生誕に因縁がつきますね!
私説はまだ、「二艘横に並べて何か(板木)ででもつないだもの」です。
ただし先日、下総麻賀多神社で、木の枝の俣部分を人の形で祀ってあるの
を見て、「二股に分れている木をそのまま二股の丸木船に造ったもの」も
有り得る(可能性30%程度)。と考えを変えました。
その後の諸兄の書き込みで、可能性50%程度かなと更に変わっています。
まあ池に浮かべて遊ぶ小舟であれば、実用性は無くてもいいのかな?です。
ただし「熊野諸手船」は、海の荒波に耐え、しかも快速艇です。
あくまでも「二艘横に並べて…」だと思ってます。

[3802] Re[3798][3797]: 木俣  大三元 [Url] 2002/12/24(Tue) 15:15 [Reply]
習志野のてつさん、ども
> 「二俣小船」は、しゃべれない子を載せて遊ばせると、
> しゃべれるようになるかも知れない。と思われていた。
> やはり「俣」には何か呪力がある。産み出す力でしょうか

今までカヌーっぽいものを二艘横に並べて何か(板木)ででもつないだものかと思ってましたら「二股に分れている木をそのまま二股の丸木船に造ったものである」(時代別国語辞典上代編)とありますね。これだと、本当、生誕に因縁がつきますね!

[3801] Re[3800][3797]: 木俣・箕・大国主  大三元 [Url] 2002/12/24(Tue) 15:07 [Reply]
setoh さん

> > 「(東北の)箕作りは山の樹木を材料とする。
> ミノですが、素盞嗚尊は青草で編んで簑笠として高天原を降っていくのですが、普通は樹木だったのか草だったのでしょうか。
> また簑笠をかぶった姿を神の姿としていましたね。

えっと、箕は、農業の用具で、ざるみたいな、もので、蓑とは違うんです。
深層では同源の語かもしれないけど???
取り急ぎ

[3800] Re[3797]: 木俣・箕・大国主  Setoh 2002/12/24(Tue) 15:03 [Reply]
http://www.dai3gen.net/nisa.htm> 淡道 は apa-ru あたりに原点があって、産道、の意味合いいと考えられる。

『日本書紀』一書第二 に蛭児(葦船で流す)の次に淡洲を生んだが子の数にいれなかった。
改めて淡路島を生んでいる物語になっていますから、淡洲を産むのはまともな出産とは違う行為と言う感じで、大三元さんの考察、十分にあり得ますね。

大穴牟遅命が木の俣から抜けて素盞嗚尊のいる根の堅州国に行くわけですが、葦船で流されるのと同じ様な神聖を磨くというか、武者修行と言うか、大穴牟遅命に大国主の神となって再生して来ています。

大穴牟遅命の大穴には木の俣の穴の意味があるのかも。大穴から登場した尊い神??

> 「(東北の)箕作りは山の樹木を材料とする。
ミノですが、素盞嗚尊は青草で編んで簑笠として高天原を降っていくのですが、普通は樹木だったのか草だったのでしょうか。
また簑笠をかぶった姿を神の姿としていましたね。

[3799] 追加  習志野のてつ [Mail] 2002/12/24(Tue) 13:04 [Reply]
しまった。何かに呪われて、途中で送ってしまた。
産み出す力でs  力でしょうか? です。 再m(_ _)m

[3798] Re[3797]: 木俣  習志野のてつ [Mail] 2002/12/24(Tue) 13:02 [Reply]
> また俣の話です、m(_ _)m
 同じくm(_ _)m
「二俣小船」は、しゃべれない子を載せて遊ばせると、
しゃべれるようになるかも知れない。と思われていた。
やはり「俣」には何か呪力がある。
産み出す力でs

[3797] 木俣・御井・箕  大三元 [Url] 2002/12/24(Tue) 10:11 [Reply]
また俣の話です、m(_ _)m
「箕がある文脈に置かれたとき、どこか妖しい性の匂いが立ち上らせることは否定できない」という赤坂憲雄の文(東西/南北考)からヒントを得ました。

http://www.dai3gen.net/mii.htm
にあげておきました。

[3796] 余談  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/12/23(Mon) 10:31 [Reply]
どうやら、木の股の神さまのお話が小休止したようですね。
箸休めに、カンボジアの巨木の写真を皆さまにちょっとご紹介させてください。
木の股には仏像は祀られていませんでしたが、一本のそのものの命と意思の強烈なパワーを感じ圧倒されました。
その巨樹の写真を神奈備写真館の方にアップしていますのでぜひご覧ください。
鳥の運んだ一粒の種の約300年後の姿です。

[3795] 微笑ましい話  yanase [Mail] [Url] 2002/12/19(Thu) 15:04 [Reply]
 双槻宮や二俣の畔などについては、要検討材料です(有り難うございます)。
 前回引用の石上堅氏の書にも、子安講の犬卒塔婆の話がありました。二俣の杖を辻に立てて安産を祈る話です。この「犬」の意味は民間伝承では犬は産が軽いからとの説明です。
 大和の葬地、二上山でも、2つの山の窪みのところに葬ったそうで、やはりそのような形状の場所であるのは、生命の再生を願ふためで、お産の場合も、生命の新たな誕生ではなく、再生であるとの認識があるためと思ひます。

 相生杉の根元に庚申塔を立てて祭った例もあるようで、品位云々よりも、微笑ましいものと見たほうが良いですね。大三元さんの励ましで「俣=クラ」と書くこともできましたが、柳田翁の時代は、それは口にもできなかったのではないかと思ひます。
 石上堅氏は、「俣=クラ」とはさすがに述べませんが、微笑ましい事例をいくつも上げてゐます。この人は折口信夫の師弟の一人ですが、『石の伝説』などの何部作かがあり、それらは皇后陛下の愛読書の一つでもあるとか。

 さて、もうじきお正月で、羽根つきの由来は、小正月の子供の鳥追行事が起源と、どこかに書いたのですが、何か種を播いてゐる所作にも見えます。羽子板ですから、イタ…といふ名の神さまを連想したのですが、羽根の付いた玉は、ムクロジでしたか?木の種だそうです。節分の豆蒔や権兵衛さん以外で、種を播く話を探してみたいと思ひます。

[3794] Re[3793][3792]: 天宮  マルヤ 2002/12/18(Wed) 10:45 [Reply]
ことば足らずでしたが、仏教よりも道教に関わりがあったと考えられる両槻宮ですから、
北極星の住まいする天空になぞらえ、「天宮」とも呼んだのではないかと考えたのですが。
[斉明(皇極)天皇も道教に傾倒していたようなので]

でも外れてましたか。やっぱり思いつきで書き込んだのでは駄目ですね。

[3793] Re[3792]: 天宮  Setoh 2002/12/18(Wed) 08:13 [Reply]
一般的には仙人の住む天上の宮を言うそうです。蓬莱山とも。
天皇の住む宮は紫宮、紫微宮と言われたとか、紫宸殿とか。神宮に対する天宮ではなさそう。

で、弓削皇子の追悼で置染東人の歌 万葉集巻二の二〇四

[原文]安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳

[訓読]やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神といませば そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 伏し居嘆けど 飽き足らぬかも

神として坐す所を言っています。

[3790]投稿後に大椋神社拝見。天宮何故だろうと思っていましたが、巨木が多かったようで、共通点は何だろう。
大椋(椋の字はムクとインップトで出しています)を大蔵との理解、または現在の祭神からは天宮はしんどい所ですね。大椋、大坐、大君の坐す所、でしょうか。

[3792] 天宮  マルヤ 2002/12/18(Wed) 01:06 [Reply]
皇極、斉明は天球に輝く星の意味だそうですね。(出典は忘失)
北極星(太白)、あるいは北斗七星のことでしょうか。
その住まいする天の宮という解釈は如何でしょう。

[3791] 椋と天宮  玄松子 2002/12/18(Wed) 00:44 [Reply]
> 斉明天皇
> 多武峰の両槻宮は天宮とも呼ばれた。

福井・横椋神社(よこくら)の側に、大椋神社(おおくら)というのがありますが、そこも天宮と呼ばれていたようです。
『式内社調査報告』では、なぜ天宮と呼ばれたか理由は不明とありますが、何か導き出せれば面白いですね。

[3790] Re[3788]: 幹(カラ) と 枯野 ヤ!ya!双ですね。  Setoh 2002/12/17(Tue) 21:07 [Reply]
> ウナテは、辞書に「田に引く溝」とあります
ありがとうございます。

yanaseさん> 樹木の間をくぐり
木の枝間
物部守屋が登って雨の如く”矢”を射た所です。一種の座(くら)の気分か。

双槻 槻はケヤキのことだそうです。
用明天皇の磐余池双槻宮は並んでいる槻が特徴的な立地。市でもあったようで境でしょうね。

斉明天皇
多武峰の両槻宮は天宮とも呼ばれた。

万葉集巻一六の三八八五
前略  二つ立つ 櫟が本に 梓弓 八つ手挟み 後略

> "大矢"毘古神・・山の霊魂をものに入れ込める神
樹種を播くイメージにつながりますね。
鳥上峰への降臨もあり、今までは「樹種を播く」で、これは「鳥の神」の印象でしたが、共に山の上を飛びますね。

[3789] 二俣と椋(クラ)  玄松子 2002/12/17(Tue) 19:33 [Reply]
福井の横椋神社(よこくら)。
鎮座地は、余座(よざ、よくらが正しい読みか)。
当地では、黍を作らず、二俣の畦を作らない。
祭神が、二俣の畦でつまづき、黍の葉で目を突いたから。
黍の葉などの、先の尖った植物はよくある話だが、二俣の畦を禁止するのは珍しい。

[3788] 幹(カラ) と 枯野  yanase [Mail] [Url] 2002/12/17(Tue) 15:43 [Reply]
setohさん> うなて
 ウナテは、辞書に「田に引く溝」とありますから、細かく分岐するものですし、溝自体が川から分岐したものでもあります。真鳥が鷲とすると「真鳥住む」は「うなでの杜」全体に掛かるように見えますが、辞書には真鳥は稀に鶴や鵜を意味することもあるとあります。
 余談ですが、南方熊楠の『鷲石考』では、鷲石は西洋の物ですが、石の中に化石を含んだり、火山石の中に小石を含んだ石のことで、日本では同類の石を「鈴石」「子持石、子孕石」と呼ぶそうです。「鷲石〜子孕石〜川俣」ではちょっと無理かも。

玄松子さん> 八幡の鳩、大雀命
 動物・虫・植物の名は、時代や地方によって別のものを意味する場合があって、難しいですね。記紀の人名には鳥の名が多く、まるで鳥人国の話のようですが、将来、一つ一つ熟考してみたいと思ってゐます。鳥の名前であることは、名前自体を呪物と見て、何かの霊を込めてゐるものとは思ひますが。『わんわん忠臣蔵』といふ漫画がありましたが、子ども向けに『チュンチュン古事記』も面白いのでは?

<幹(カラ) と 枯野>
 古事記、仁徳天皇の御世に、免寸河の大樹から作った快速船の名が「枯野(かるの)」で、朝夕「淡道島の寒泉」を輸送した話があります。伊豆でも同名の船の話がありました。播磨風土記では明石の大楠から作った船の名は「速鳥」で、やはり明石の御井の水を運びました。
  浮くこと軽くすべるように走ったから「軽野」。
  大樹の陰が常に野を覆って、草や低木を枯らしたから「枯野」。
いろいろ説明があるようですが、やはりカルは木の霊がこもったものの意味と思ひます。そばに御井があったりして水の霊でもあるので、水を運ぶ話になるのだらうと。また、そこまでして運ぶ水は、禊や神饌調理など、神事用の水でしかありません。

 石上堅『木の伝説』(宝文館)のなかに「神と人とになる木」といふ小論があり、木と禊について面白いことが書いてありました。

 久久能智神について、チは男神を意味し、女神の菊理媛神が海の禊ぎであるなら、「樹木の間をくぐり枝を折り放してはたす山の禊ぎが考への奥にあらう」と述べてゐます。現代の「森林浴」に通じるものがあります。「樹木の間」でなく木俣でもよいのかもしれませんが。
 また同書では「大屋毘古神は家屋の神・屋根の神なのだが、"大矢"毘古神としてみれば、霊魂移動を矢をもって司る神 − 山の霊魂をものに入れ込める神になる」ともあります(この論では矢と木の関係は自明のものとしてゐるようです)。

<相撲の矢>
 習志野のてつさんが、相撲の弓矢・弓取式などの疑問を上げられてゐましたが、一連の行事の最後の行事である点が解りにくいものです。神輿や葬儀の行列などの弓矢は先頭付近でして、邪神を祓ったり、霊の行く先を占ふ意味ですので。

[3787] Re[3785]: メフと眞鳥 そのU  Setoh 2002/12/17(Tue) 14:47 [Reply]
> まさかとは思いますが(本当にまさかと思ってるか???)

賣布神社の池の中に石柱と書きましたが、柱よりはズングリしていました。
賣布神社の石窟が依代だったかどうかは今となっては分かりませんが、この神社の祭神は下照姫となっていますが、物部大me布命(meは 口羊)がほんらいの祭神で、『天孫本紀』では饒速日尊七世孫、若湯坐連の祖ということです。
物部大me布命の母は真鳥姫で、伊香色雄命の后の一人です。

取りあえず茶飲み話として・・・

[3786] Re[3783][3782]: むくろ  玄松子 2002/12/17(Tue) 00:21 [Reply]
> 時代別国語辞典上代編では「むくろ」は「からだ。身体。ムは身(ミ)の交替形。クロは幹(カラ)の意という。」として、「身中化為中山祇・・・身中 牟久呂」(神代紀上・私記乙本)などを上げています。

なるほど、身幹ですか。
たしかに、むくろという場合は、首のない胴体だけの場合が多いですね。

[3785] メフと眞鳥  大三元 2002/12/17(Tue) 00:20 [Reply]
神奈備さん:

まさかとは思いますが(本当にまさかと思ってるか???)
アイヌ語 mem =泉 は mep とも訛ります(知里眞志保)

眞鳥が鷲というのも面白いです。アイヌ語で 真の鳥、本当の鳥、大きい鳥、を意味する si-chikap が尾白鷲を意味します。

取りあえず茶飲み話として・・・

[3784]  大三元 2002/12/17(Tue) 00:12 [Reply]
神功紀の大倉主・菟夫羅媛に関する岩波の補注に
洞は久岐と訓注があるので、クキとよむ。クキとは山の穴を云う。
ところが、古語に、山穴または谷を意味するクラという語がある。。。云々
とあります。

時代別国語辞典上代編ではクラに谷の意味を示していないので、
クラが谷を意味する古語、というのは出典が判りません。
ただ、クラ谷、という熟語は掲載している。

[3783] Re[3782]: むくろ  大三元 2002/12/17(Tue) 00:07 [Reply]
玄松子さん:

時代別国語辞典上代編では「むくろ」は「からだ。身体。ムは身(ミ)の交替形。クロは幹(カラ)の意という。」として、「身中化為中山祇・・・身中 牟久呂」(神代紀上・私記乙本)などを上げています。

[3782] むくろ  玄松子 2002/12/16(Mon) 23:32 [Reply]
Yahooの辞書検索で、「むくろ」を調べてみる。

むくろ みき【幹】
⇔枝 幹(かん) 〈杉の〉木(ぼく) 樹幹 木幹 樹身 木茎 幹体 高幹 喬幹(きょうかん) 強幹
▽枯幹 むくろ

むくろ【骸】 したい【死体・屍体】
⇔生体 遺体 死骸 亡骸(ぼうがい) 遺骸 死屍(しし) 屍(しかばね) 尸(かばね) 亡骸(なきがら) 骸(むくろ)
▽木乃伊(ミイラ)

むくろの「む」が何かは分からないが、木に関連するものか。
骸の場合は、身が空っぽ。ミクラからの変化かもしれない。
木の場合も、枯れている状態をいうのかも、枯れ=クラなのか?

[3781] Re[3780][3779]: クラ 川俣 うなて  Setoh 2002/12/16(Mon) 20:34 [Reply]
日曜日に宝塚の賣布神社へ参拝。
鳥居から石段への左側に、一つは池の中に石柱を立て、その向こうに石窟とでも言うのでしょうか、半円形で向こう側に石垣をした人工盆地のミニイチュアのようなものがありました。クラとでも言うべき存在に見え、このような場所に神が坐したように思われました。これがやがて祠に進化していったのかも。

余談ですが、河俣神社が鎮座しています。
大和国式内社の川俣神社(また高市御県坐鴨事代主神社の論社)は鎮座地は雲梯で『出雲国造神賀詞』では「事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ」とある宇奈提(ウナテ)の事です。
参照 http://www.genbu.net/data/yamato/kawamata_title.htm
現在の立地は川の側ですが俣にはなっていません。遷座があったのか、川の流れが変わったのかも。
万葉集に 真鳥住む卯名手の神社(もり)・・・巻十二・三一〇〇
と言う歌がありますが、川俣ー宇奈提ー真鳥 との連携があるのかも。
真鳥とは鷲のことだそうですね。

[3780] Re[3779]: クラ 道俣・木俣・川俣  玄松子 2002/12/16(Mon) 16:24 [Reply]
> <参考・雀について> 柳田国男『野鳥雑記』の中の「雀をクラといふこと」から
>  「古くはスズメは今一般にいふ小鳥の総称であったらしい」
>  沖縄の物語に雀の鳴声を「クル、クル」と表現した例あり、鳴声による名か。

この鳴き声から、鳩を連想しますね。
鳩といえば、宇佐神宮(八幡)の神使ですが、宇佐神宮の鎮座地は、小椋山。
宇佐神宮には、金の鷹や鳩の伝承もありましたね。
祭神・応神天皇の皇子仁徳天皇は大鷯(ミソサザイ)。
なかなか興味深いですね。

[3779] クラ 道俣・木俣・川俣  yanase [Mail] [Url] 2002/12/16(Mon) 16:03 [Reply]
 「手俣より漏(く)き出で」たのが、闇淤加美神と闇御津羽神でした。これに似た生まれ方をしたのが少名毘古那で、神御産巣日御祖神が「我が手俣よりくきし子ぞ」と言った神です。いはば「手俣の神」です。「手俣」は「指の俣」との注が多いと思ひます。(似た表現としては、大屋毘古神に「木の俣より漏き逃がし」てもらった大穴牟遅神もある。)
 古事記の息長帯日売命の歌には「石立たす 少名御神」ともあり、「手俣の神」の一つの姿だらうと思ひます。

 道俣も、木俣も、川俣も、同類のものと見るべきです。ですから同じ理由でそこに石を立てたり、杙を立てるなどして神を祭ったのだらうと思ひます。
 その場所、道俣・木俣・川俣を、クラと呼んだのではないか。そこに祭った神座をクラと呼んだためにそうなったのかもしれませんが、「闇〜」といふ名の神の出生場所から考へると、その逆かもしれないのです。
 「川俣」は「川+俣」の複合語ですから、それほど古い言葉とは考へられません(「落合」も同様)。それ以前の言葉として、闇淤加美神の例からしてクラが想定できます。利根川中流域では、群馬県の板倉と倉賀野は川俣の地ですが、これだけでは充分な実例には、程遠いものです(板倉は雀?、下に別記)。

 <クラについて> 柳田国男集から、重なった石、洞、立てた石など

「クラは巌石の重畳した土地をもいふが、同時に神座でありまた祭壇のことでもあって、元は一つの語の分岐かと思はれる」(5巻「伝説」)

「……クラは岩窟を意味する古い語であって、多くの府県の椀貸伝説とともに隠里が洞の奥ないしは地の底にあったといふ証拠にはなるのである。」(5巻「隠里」)

「これ(ミテグラ)に対して移動せぬもの、定まった場所に突き立て、または天然の樹に依って設けたクラは何と呼んだであらうか。……多分はクラと謂っても元は通じたのであらう。現在はクラシシ、クラツツジなどと、専ら山中の岩組みすなはち岩倉にのみ残って居るが、本来はすべて神の降りたまふべき処がクラであった……」(10巻「祭場の標示」) ※「樹に依って設けたクラ」については論述をまだ詳細に読んでゐません。


<参考・雀について> 柳田国男『野鳥雑記』の中の「雀をクラといふこと」から

 石川県富山県等ではスズメは小鳥の総称である。
 「古くはスズメは今一般にいふ小鳥の総称であったらしい」
 雀 クラ   沖縄
   フクラ  相模三浦郡
   イタクラ 紀伊西牟婁郡 大和十津川、阿波祖谷
        イタは語りごとの意(柳田説)
 沖縄の物語に雀の鳴声を「クル、クル」と表現した例あり、鳴声による名か。

[3778] Re[3774]: クラから水神へ  玄松子 2002/12/16(Mon) 15:54 [Reply]
書き忘れていました。

> 陰:、クラヤマツミ・析雷。木偏の「さく」で、クラで、陰ですね。

陰「ほと」からは、小水が出て、ミヅハノメが生れますね。水神で、御井神に通じるということでしょうか。

yanaseさん> 素直に書くと品位が落ちることがありますので、そろそろにしておきます。
この部分が品位を落とすと心配されたのでしょうかね。

[3774] Re[3773]: クラから水神へ  玄松子 2002/12/15(Sun) 15:01 [Reply]
> 古事記「火神殺される」の段
> ・(伊邪那岐命の)御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
> ・殺さえし迦具土神の  陰に成れる神の名は、闇山津見神。
> 日本書紀
>  剱の頭より垂る血、激越きて神と為る。号けて闇{##}{くらおかみ}と曰す。次に闇山祇。次に闇罔象。

クラヤマツミ以外は、さほど出自の違いは感じられませんが、剣の先と手元で違うということでしょうか。

少しの違いでいえば、マサカヤマツミ(記:頭 紀:腰)、ハヤマツミ(記:右手 紀:手)、シギヤマツミ(記:左手 紀:脚)。オオヤマツミも登場シーンが違いますね。

ここで、青草。
カグツチから八山神が生まれ、イザナミから八雷神が生れます(古事記)。
頭:マサカヤマツミ(紀では大山ツミ)・大雷。
陰:、クラヤマツミ・析雷。木偏の「さく」で、クラで、陰ですね。
右手:、ハヤマツミ・土雷。ハニヤスに通じますね。
他の神々にも確たる対応が説明できれば面白いですね。

[3773] クラから水神へ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/15(Sun) 14:30 [Reply]
> > 「闇(くら)」で始まる名の神
玄松子さん> たとえば、どのような神名でしょうか。

古事記「火神殺される」の段
・(伊邪那岐命の)御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
・殺さえし迦具土神の  陰に成れる神の名は、闇山津見神。

日本書紀
 剱の頭より垂る血、激越きて神と為る。号けて闇{##}{くらおかみ}と曰す。次に闇山祇。次に闇罔象。

以上です。みな蛇神のようですから、水の神でもあるはずです。
大三元さん> 『おもろさうし』に「クレ」が雨を意味する言葉として出てきます。
なるほど。

大三元さん> カシが井戸と関係するのは肥前風土記杵島郡条にも、カシの穴から水がでた、という記事がある。

 次の歌、「志都歌」も水辺の変若返りの呪歌の説があったと思ひます。
  御諸の いつ橿がもと いつ橿がもと ゆゆしきかも 橿原童女 (雄略帝)
 この歌は老婆となった赤猪子へ賜った歌ですが、以前に日雲さんの提示した星神に関連して、お伽草子の『天稚彦物語』を見ましたら、姫が天上へ行く途中に、カシの木の下の婆が登場したのです。
 変若返りや不老長寿の信仰を感じるのですが、浦島子の話も出たところで、水神の話も良いものです。


大三元さん> 必要なこと(と考えられる)なら虚心にお書きになったら良いと思います。
重要なことですね。お蔭様で、杉と矢と鷲鷹について長い文が仕上りつつあります。皆様に感謝申し上げます。

[3772] 来去穂別命  日下部 2002/12/15(Sun) 12:57 [Reply]
Setoh様 こんにちわ。http://www.kamnavi.net/log/yumv0211.htm
[3528]で「 日下部さんは浦島太郎の子孫のお方ですか。」とご投稿戴いた「古代への闖入者」で投稿歴2ヶ月の無作法者です。改めてよろしくおねがいします。「日下部」(ハンドル名というのですか?)は情報が得やすいかもと思っていましたが他の方がご使用なので家紋の「横木瓜」に変更しようと思っています。

[3603]で履中について投稿しました。つい最近、青草掲示板の[535][537]でも投稿しました。仁徳天皇を父とする履中天皇「来去穂別命」と「皇后久呂比賣命(くろひめ 武内宿祢の長子羽田矢代宿祢(はたのやしろのすくね)の娘? あるいは葦田宿祢(アシダノスクネ)の娘?)を祀る「真鈴宮」。安康天皇の御代、市辺王子たち、億計王と弘計王、が此の国に来た。丹波国造稲種命たちは秘かに安宮を作って奉仕した大内からその後与佐郡真鈴宮に移し奉ったという「真鈴宮」。仁徳から履中、仁賢天皇に繋がる「由来」に殆どの氏子が知らない、又は知らないふりををするのはなぜか?「興亡古代史・小林惠子」は、「履中の諡は来去穂別天皇という。彼は百済の質子として、阿華王時代に列島に来て、菟道稚郎子時代に百済王腆支として百済に帰国し、さらに履中天皇として、列島に復帰したのだから「去って来る」とは、確かに履中にふさわしい命名であるといえよう。」と決め付けています。また、「仁徳は履中の父ではない」としています。私には、「ショック」な結論です。この本は470ページで、「、、、といえよう。」、「、、、かもしれない。」、「私は、、、、と思う。」が中心で、日本を「列島」(この文字になじむのに時間がかかりました)と表現しています。
別の掲示版の主に「論破」をお願いしているのですが、「意固地」に「興亡古代史・小林惠子」を「ガイドブック」として「引用」を繰り返しているのは「異説」を論破する論客の出現を期待しているからです。この掲示板の「招かれざる客」の私がいまだにうろうろしているのはこの掲示板は「期待の論客」が多数おられると思うからです。さて、浦島太郎ですが、「釈迦に説法」をお許しください。

#「日本古代を解明する鍵は、「後漢書」「魏志倭人伝」など、中国の歴史書を除いては、「古事記」「日本書記」がまず第1級の資料」

#「「古事記」は、西暦712年、「日本書紀」は西暦720年に編纂された。これを抜きにしては、日本古代史を語ることはできない。」

#その次に「風土記」がくるそうで、「「風土記」は聖武天皇の時代に各国ごとに編纂するように命じた地誌のようなもの。」「「丹後風土記の撰述者「伊預部の馬飼いの連(むらじ)」は日本最初の法令集「大宝律令」、日本最初の漢詩集「懐風藻」の編集にも携わっている。「その中で「丹後風土記」は8世紀の半ばから末頃の成立と考えられる。」

# 「この古代史解明の第1級の資料、「古事記」「日本書記」、そして聖武天皇の勅命による、大和朝廷の公文書である「丹後風土記」に登場していたのが、「浦島太郎伝説」のオリジナル「浦の嶼子(しまこ)」の話である。」

#伊預部の馬飼いの連は当該国の国司も勤めたこともある人物で、当時の任地について詳しい知識をもっていた人物」

#「物語の主人公の「浦の嶼子」は、単なる漁師ではなく、日下部の首の始祖だと説明している。「新撰 姓氏録」では、日下部氏は、首、すくね、連(むらじ)などの姓(かばね)があるが、開化天皇の子孫で、彦坐命(ひこいますのみこと)の末裔(まつえい)で、天皇の子孫にあたる姓である。つまり「浦の嶼子(しまこ)」が充分に信用できる人物であることを強調しているのだ」

最近PC暴走恐怖症にかかっています。殴り書きのようにならないよう一旦打ち切らせていただきます。



[3771] Re[3769]: 木俣と子安木  玄松子 2002/12/15(Sun) 12:55 [Reply]
>  少し前に、記紀で出自の異なる神についての玄松子さんの問掛けがありましたが、
> 「闇(くら)」で始まる名の神がだいぶ異なるのですが、これも連想の関係で品位が落ちるかもしれず、書きづらいものがあります。

たとえば、どのような神名でしょうか。

[3770] Re[3769][3767][3753]: 木俣と子安木  大三元 2002/12/15(Sun) 12:09 [Reply]
yanaseさん

>しかしこの関連の話は、素直に書くと品位が落ちることがありますので、そろそろにしておきます。

必要なこと(と考えられる)なら虚心にお書きになったら良いと思います。
変に回りくどくすると却って趣旨が伝わらなくなったり、いやらしくなったりするでしょうし。恐らく今とは大いに価値観の異なる古代のことを考えようとするのですから、私は遠慮しないことにしてます。

> 「闇(くら)」で始まる名の神がだいぶ異なるのですが、これも連想の関係で品位が落ちるかもしれず、書きづらいものがあります。

『おもろさうし』に「クレ」が雨を意味する言葉として出てきます。他の活用形が見あたらないのですが、興味をもってバッファにしまっております。

[3769] Re[3767][3753]: 木俣と子安木  yanase [Mail] [Url] 2002/12/15(Sun) 01:13 [Reply]
> ウロ蓋でひっかかっています。

 全部が全部といふことでなく、まあ、そのようなものもあり得たといふことで。
 木俣は根の国の出入口でしたから、「五百引の石」が置かれた場所かもしれず、次のような祭神名もあるわけです。
  杉尾神社 徳島県板野郡藍住町  天石門別八倉比売神
   徳島市の勝占神社(杉尾大明神)に義経が弓矢を献じた話あり(神奈備HP)
 しかしこの関連の話は、素直に書くと品位が落ちることがありますので、そろそろにしておきます。

 少し前に、記紀で出自の異なる神についての玄松子さんの問掛けがありましたが、
「闇(くら)」で始まる名の神がだいぶ異なるのですが、これも連想の関係で品位が落ちるかもしれず、書きづらいものがあります。
 ただ、「境界」を意味する言葉には、その手の言葉が多いといふ話は聞いたことがあります。

[3768] Re[3766][3749][3747][3745] 木俣こそクラ  大三元 2002/12/14(Sat) 22:03 [Reply]
> > 木俣こそクラ

ひょっとして、と思って調べてみましたけど古語には無いようです、股座(またぐら)。用例があったら好都合ですのにねぇ

[3767] Re[3753]: 木俣と子安木  Setoh 2002/12/14(Sat) 18:31 [Reply]
磐座好き人間としましてはウロ蓋でひっかかっています。

> 深谷市の鹿島神社の御神木についても「御神霊の咎に悩むもの往々ありければ、一片の石を以てこれを塞きたり。」とあります。
穴に蓋をする岩、古墳の石室を連想してしまいます。往古はウロの中に埋葬したのかも。

> 山中で突然発見される磐座と称される石の多くは、人によって運ばれたもので、もともとは大樹のウロを塞いでゐたものなのではないかとも考へらるのです。
 この「一片の石」を以て神木が枯れ果てて、石が取り残される・・・平坦と言うか岩があることが珍しい地形に岩があれば、そのような石が後に磐座として祀られたと言うことはありうるとこととは思いますが、現在残っている大半の磐座は岩石豊富な山や地帯に多く存在し、そのままで御神体であったように感じます。

で、大半の磐座は岩長姫の御神徳にあるように、頑強長寿の象徴でもあり、その不変性が神の依代とされた場合が多かったと思われます。仁徳天皇の皇后の石の比売もその頑固な性格、強靱な愛をその名前で表しています。

[3766] Re[3749][3747][3745] 木俣こそクラ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/14(Sat) 15:08 [Reply]
あまり発言を呼ばないことを書いてもしかたありませんね。

> 木俣こそクラ

木俣について語源説は注意してなかったのですが、「木俣=クラ」(setoh氏)とすると、
 1、クラが神座の意味になった
 2、木股に芋などを貯蔵したことから倉庫の意味になった
こんな具合に意味が非常にすっきりしたものになることに気づきました。

となると、鞍掛石は、木俣の戸として掛けて置いた石で、古代の磐座の意味に訂正しなければなりませんが。

[3765] 磐座の後日譚  yanase [Mail] [Url] 2002/12/13(Fri) 00:42 [Reply]
大三元さん、有り難うございます。

<磐座の後日譚>です。
 以前に地元の旧い神社誌を通読したときに印象に残ってゐることがあります。ある地で、古墳を畑に作り替へるときに、出土した石棺について、石のどの部分が、村の庚申塔になったとか、お寺の山門の脇の碑になったとかが詳細に記録されてゐたのです。やむを得ず古墳を壊すにも、昔の人は重要なものはきちんと祭り替へてゐたわけで、日本人としての先祖に対する礼節なのだと思ひました(現代なら博物館行きか?)。
 ところで、庚申塔や馬頭観音などの石璽類は、江戸時代に急速に広まったものであると学者も言ひます。これらの石はどこから来たのでせうか。現在われわれが目にする石璽の量の多さからいって、それほど大量の古墳が各地にあったとも思へないのです。
 江戸時代といへば、河川改修をはじめ、様々な開発が行なはれた時代です。森林を伐採して田畑を作り、街道を通し、宿場などの都市が拡大されました。このとき、森の大樹の懐にあった磐座、無数にあった磐座は、間違ひなく道端の石璽などに祭り替へられたものと思ひます。
 もちろん流行が盛んとなって石不足となった場合は、山の岩場などから新たに運ばれたものもあったとは思ひます(あるいは山奥の伐採されない大樹の下から盗まれたものもあったかもしれません、そのような石ほど神霊がこもるとかなんとかで)。また逆にいへば、石璽の流行は、土地開発が拡大したことの証拠であるともいへます。
 路傍の石璽以外にも、古代の磐座は、多くの社寺で何らかの形で継承されてゐるものと思ひます。

※ 追加 路傍の石神で所謂陽物の形状のものが多いことについては、古代の磐座の中にそのような形状のものがあったためで、それは大樹に打ち立てられた「ヒメ矢」だったからかもしれません。ヒメ矢は、矢立杉の伝承からして、選ばれた若い木にも打ちこまれたのではないかと思はれ、それは木にとっては一種の成女戒のようなもの、といふのは想像に過ぎませんが。

※ 『大日本神名辞書』(明治神社誌料編纂所)を見たら、天日鷲命の子孫には「弓削連」の名もありました。「天日鷲翔矢命」は「弓削宿禰」のみです。「此神思ふに弓矢を作り始めやし給ひけん」ともあります。

[3764] Re[3762][3754]: 母の木  大三元 [Url] 2002/12/12(Thu) 15:38 [Reply]
yanaseさん

> アイヌでは木の神はやっぱりみんな女神なんですか?

そういわれると、木の中で、神と呼ばれるものの中で、性別が示されているのは女性だけ、ですかねぇ。チキサニ(春楡)はオイナカムイの母、ラルマニ(櫟)はアイヌラックルの母。

あとは??

[3763] Re[3761][3760][3755][3754]: 母の木  Setoh 2002/12/12(Thu) 15:03 [Reply]
> 昔から石を木に抱かせて聖地をつくる風習
和歌山の千種神社(百草神社)では楠の横に安置していた地蔵尊が巻き込まれてしまっています。おそらくはそのようになるのを期待していたのでしょう。

恩智についての余談
物部氏の舊姓がオチだったとの説が出ています。
鳥越憲三郎著『女王卑弥呼の国』に登場です。この書籍は『大いなる邪馬台国』の改訂版で、こちらにはなかった説です。
学術的書籍で落語ではありません。

[3762] Re[3754]: 母の木  yanase [Mail] [Url] 2002/12/12(Thu) 14:14 [Reply]
大三元さんHP> 出雲の「爾佐加志能為社」……肥前風土記杵島郡条に述べられる「船のカシ(船をつなぎ止める杭)の穴から冷たい水が自然に湧き出た」

神名にも多い「クヒ」ですが、この杭はとても重要な杭ですね。

木俣の地蔵様のうち、3つめのものは船玉様(見たことはないのですが)に似てなくもないです。http://www.town.onohara.kagawa.jp/itm/kanko/jizo.html

アイヌでは木の神はやっぱりみんな女神なんですか?

[3761] Re[3760][3755][3754]: 母の木  大三元 [Url] 2002/12/12(Thu) 13:22 [Reply]
Setohさん、早速ありがとうございます。

> 八尾ではありませんが、泉州に等乃伎神社(とのき)が鎮座、 仁徳記の「枯野(カラノ)といふ船」にからむ巨木の由来の神社かも。

「等乃伎」を「朝日・日の出」に解するのは新羅迎日郡都祁に因んだ伝承なのでしょうね。↓ご参照。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/kodaisi/right-kusaka.htm

[3760] Re[3755][3754]: 母の木  Setoh 2002/12/12(Thu) 09:18 [Reply]
> 本件に関する拙文を取り急ぎ上記Urlにあげておきました。

ありがとうございます。拝見いたしました。

> 母の木(tottoni)

八尾ではありませんが、泉州に等乃伎神社(とのき)が鎮座、 仁徳記の「枯野(カラノ)といふ船」にからむ巨木の由来の神社かも。
上記Url> 『母来国』と名付けた。後に改めて『伯耆国』とした
また八尾の東の柏原市には鳥取氏の居住地であった鳥取郷があります。西に接して鳥坂郷。

[3759] Re[3758]: 「離ちて」の訂正  大三元 [Url] 2002/12/12(Thu) 00:54 [Reply]
yanaseさん、
> サン・グリーンさん、沖縄の石を木に抱かせる風習について勉強になりました。

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/982.htm
http://www.kyoboku.com/katsura/kinomata.html
http://www.town.onohara.kagawa.jp/itm/kanko/jizo.html
http://www.asahi-net.or.jp/~kc5a-kjmt/kigi/keyakjzo.htm
など本土でも樹木の空洞(うろ)に地蔵さんなどを祀る習俗があるんですね。
お陰様で私も勉強しました。

[3758] 「離ちて」の訂正  yanase [Mail] [Url] 2002/12/11(Wed) 23:55 [Reply]
「皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて」(日本書紀、天孫降臨)
この「離ちて」の口語訳を「離れて」と思ってましたが、

「その氷目矢を打ち離ちて、拷ち殺しき。」(古事記、大屋毘古神登場の直前)
これに従って「はづして」の意味と解釈します。
ウロを塞いでゐた磐座をはづして、の意味です。
瓊瓊杵命は中に籠ってゐたことになります。

サン・グリーンさん、沖縄の石を木に抱かせる風習について勉強になりました。

[3757] 高皇産霊尊について  yanase [Mail] [Url] 2002/12/11(Wed) 21:37 [Reply]
 子安神と御井神の関係は、大三元さんの見方もすっきりして魅力があると思ひます。

 杉山神社(または高倉下)について以来の一連のレポートは、前回の高木神と磐座が一つになったところで一区切です。磐座ファンにとっては意外な結末かもしれませんが。
 杉山神社についてはsetohさんからの宿題でもあったのですが、2、3回で済むと思ってゐたのが、長くなってしまひました。急ぎ過ぎたために、誤読や間違ひも多い乱筆乱文になり、「矢立杉」の意味も説明しない不親切なものでしたが、ご迷惑の段、お詫び申上げます。

 「いたきそ」については、「五十猛尊の勲」の御教示有り難うございました。
 「はいたか神社」とは鷹匠が鷹狩に使ったといふ鷂(はいたか、鷲鷹科の小さい鳥)に関連する神と思はれ、高知県に多く、愛媛の拝高神社や福岡の隼鷹神社では祭神は高皇産霊尊です。
 高皇産霊尊は、峠の神としては「御霊神社」として祀られることがあります。夏ごろの私の書込で鎌倉権五郎にこだはりすぎた書込をしたことがありましたが、一面的で良くないものでした。
 前回の「桃太郎」は「金太郎」の間違ひです。

<高皇産霊尊とは>
 高皇産霊尊については、setohさんの発言にあるように、「皇祖」「畏れ多い」といった存在には違ひありません。同時に、畏れ多いが故に、氏神の権威を高める目的で祭神としたと見られるケースは、実際にはほとんど認められませんでした。地方の高皇産霊尊を祭神とする神社は皆、「高木神」としての伝承に基づくものと思はれるのです。
 その性格は、木の神、山や峠の神、石の神、子安神、矢の神、鷹の神といったところです。
 従来の皇祖のイメージや、梅原猛氏などが藤原不比等に擬したマイナスイメージから、高木神としての本来の姿を見過ごしてゐたようです。
 高木神には、母のイメージもありました。高木神女神説も既にどこかで説かれてゐるものと思ひます。

[3756] いたきそ  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/12/11(Wed) 20:39 [Reply]
いたきそ神社の境内には以前大きなウロの開いたご神木があったそうです。
神奈備さまは、子ども時代にはその木の穴で遊んでいたのでは?
その木が枯れて、現在では拝殿の前に記念として残されています。
私は、偶然イタキソ神社に行った時にその木の穴に出会いました。
そして古事記のおおやびこと大国主の話を知っていたので、そのアナを潜り抜けて以来
イタキソの奥鈴雄宮司さまにご神縁を頂き、自分たちの本を自費出版できたのです。
木のウロには、今でも大きなパワーがあるようですよ。

また、丹生川上神社上社の元の神社の境内にも大きなご神木がありました。
ダムのために遷座するので、その木を切った時に、木の中から人間の頭ぐらいの石が
発見されました。その石は霊石として新しい神社の拝殿の中に祀られています。
(私のHPにその石の写真をアップしています。)

沖縄では、昔から石を木に抱かせて聖地をつくる風習があったと聞いたこともあります。
なぜ木の中に石が入っているのか不思議だったのですが、yanaseさんのおかげでウロの中に石を抱き込ませたということがわかりました。ありがとうございます。


[3755] Re[3754]: 母の木  大三元 [Url] 2002/12/11(Wed) 19:01 [Reply]
本件に関する拙文を取り急ぎ上記Urlにあげておきました。
出雲の爾佐の加志能為神社がキーになりました。

[3754] 母の木  大三元 [Url] 2002/12/11(Wed) 17:35 [Reply]
神武紀の「母の木」が御井神、木俣神あたりとつながりそうに思えますが、如何でしょう。

「ある人が大樹に隠れて難を逃れた。それでその樹を指して『恩母如』(その恩、母のごとし)と言う。時の人、それに因んでその地を『母木邑』と言う。今、『飫悶廼奇』(オモノキ)と云うのは訛である。」

オモノキの地は大阪府八尾市恩智の辺りに比定する考えもあるようです。ニフティでハンドル名、河倭知さんから、土地の年配の方に面白い話しを聞きました、と下記のお話がありました。

この辺りは現在【恩智】と言ってるが、その以前は【栂木】と 書いて【おものき】と呼んでいた。そのいわれは、神武東征の時この辺りから生駒山を越えて大和へ入ろうとしたのだが逆に攻めかえされ、この地にあった大きな木の穴の中に入って身を潜めていたら、木の上から大きな蜘蛛が降りてきて穴の入口に蜘蛛の巣を張った。その結果、穴の中は捜されずに済み無事逃げ出せた。そこで、この木は私を守ってくれた母なる木と言う事で【栂木】と呼ぶようになり、その恩を知らなければならないと言う事から【恩智】と呼ぶようになったそうです。

木のウロ(nisa)、木俣、母の木(tottoni)の股、女陰(chi-puy)、井戸(sir-puy)(
カッコ内はアイヌ語)

出雲、 爾佐の加志能為神社は、ニサ(木のウロ)のカシの井、と解けようか。
カシが井戸と関係するのは肥前風土記杵島郡条にも、カシの穴から水がでた、という記事がある。

上のUrlもご参照ください。

余談:チチンプイプイもアイヌ語か???


[3753] 木俣と子安木  yanase [Mail] [Url] 2002/12/11(Wed) 12:18 [Reply]
3749/setohさん> 「御井神=木俣神」

 「木俣神=御井神」は産湯と禊ぎの信仰に関るものとは思ひます。
 また、山中の大樹のウロの中に人が籠る風習はあったものと思ひます。普段は石でこれを塞いでゐたようで、深谷市の鹿島神社の御神木についても「御神霊の咎に悩むもの往々ありければ、一片の石を以てこれを塞きたり。」とあります。
 奈良県の吉野水分神社は、水源の神ですが、俗に「子守明神」の名で幼児の守護神ともされます。「水くまり→水こもり→御子守」では単純すぎるので、やはり社伝にある通り配祀神の高皇産霊神(その娘神も含めて)などに関るもので、ウロの中で「み籠り」をする木の信仰もあったのではとの想像です。桃太郎の話など山中で山姥が子育てをする話と通じるような。
 柳田国男『山島民譚集』の「第五 榎の杖」の部分は、今回の私の一連の書込を触発したものなのですが(20頁程の量ですから興味のあるかたはどうぞ)、矢立杉や子安木などについても書かれます。そこには子安木については枝が無数に伸びて子孫繁栄の意味かとも書かれますが、ウロに籠ることも関連させたいわけです。

<子泣石はなぜ泣くか>
 大樹の木俣と磐座は陰陽石のようなものと前回書きましたが、矢立杉に立てられた矢が男性を象徴するものとするなら、石は子になります。
 山中で突然発見される磐座と称される石の多くは、人によって運ばれたもので、もともとは大樹のウロを塞いでゐたものなのではないかとも考へらるのです。大樹が伐採されたときにその石は孤立したのではないかと。石の中から赤子の泣く声が聞えたといふ「子泣石」は、母なる大樹を失って泣いてゐるのではないかと思へるのです。(この話は陰陽石の話より女性に受けるかも)

 瓊瓊杵尊の天孫降臨のときにくるまってゐた「真床追衾」は産着のようなものとの説があります。
 「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち……」(日本書紀)
 赤子のような瓊瓊杵尊は、高木神のもとにあった天磐座を離れて降臨したのです。

[3752] Re[3751]: 木、矢、いろいろ  Setoh [Url] 2002/12/11(Wed) 08:39 [Reply]
> 「いたきそ」の語義
『紀伊国続風土記』
今是等の神名の義を按するに五十猛は伊太祁 イタケ と訓 よみ五十はいの一音の假名に用ひたる例古文書に多し 此御神御稜威の雄々しく猛く坐しゝを稱へ奉れる御名なり 古來いそたけるなど訓るは誤なり 伊太祁曾と曾の字を添へたるは亦の御名有功 イサヲ の佐乎を約めて曾といふ伊は韻 ヒヽキ の言にて自畧かれたるなれは五十猛有功ノ神の義なり
又伊太祈曾と唱ふるは祁伊の約り伎なれは是又五十猛有功ノ神の義なり伊曾ノ太神の曾も佐乎の約にて有功ノ大神の義なり
青草
日本の武神 → 日本武尊
出雲の武神 → 出雲猛命 → いたけ

また、上記HPに生田淳一郎氏の労作があります。既に考えが変わっている野かも知れませんが。

[3751] 木、矢、いろいろ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/11(Wed) 00:18 [Reply]
習志野のてつさん> このときのように、射てしまうと相手方に渡ります。

 天羽羽矢はもともと祭祀用のものですから、天稚彦は使ひ方を誤って不幸なことになったのかと思ひます。そんなに何本もある矢ではないと思ひますので。
 古代では、たとへ奪ったものでも、その物を所有してゐる者が正統なのではと思ひます。その物に対して祭祀を行ってゐるわけですから。ただし十五夜の里芋のように奪ひ方や奪っても良い場面は限定されてゐたはずで、戦争はその一つではないでせうか。それ以外に奪った場合は、まだ前の所有者の呪力が籠ってゐますから危険なものとなります。
(拝高神社については後日ですみません)

習志野のてつさん> 木を楔で裂いて広げておいて、そこに大国主を立たせ(座らせ)て、楔を外した。あいだに挟まれて横死(圧死)。

 氷目矢を「打ち離ちて」が頭の中で「撃ち放ちて」になってしまひ、誤読でした。となると、「木の股」も含めて、そこはもともと生命の復活が可能となる場所であるのか?、あるいは材木を得るための代償の生け贄なのか?
setohさん> 木の俣とは、八上比売が生んだ子供を刺し挟んだ所、木俣の神の誕生の瞬間です。
 前者でしたね。
 次の例の祭神は、「産霊」よりも「高木神」の名に意味があるのだと想定してゐます。石の場合も木の股に置き据ゑられたような。
 ○子安神社,岐阜県加茂郡七宗町神淵森上道上, 高皇産霊尊
 ○子安神社,岐阜県岐阜市彦坂字穴田,  高御産巣日神 神産巣日神
 ○産石神社,大分県竹田市大字米納,   高皇産霊神 木花開耶姫命
 高皇産霊尊は、石の信仰にかんする神社でも多く祀られます。青森県の大石神社(高皇産霊尊)は岩木山の麓の石を祭ったらしいですが、どんな石かはわかりません。木股と磐座は単純に言へば陰陽石みたいなものなんですけれども。

setohさん> 出雲国斐川郡の御井神社の由緒から、御井神=木俣神とあります。

似た例として埼玉県深谷市の鹿島神社に、井戸を包みこむ欅の御神木があります(図版あり)。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/32kasima.htm

玄松子さん> 「いたて(射楯)」の大神ですね

これはビックリ。的中といふべきか。
「いたきそ」の語義についてはどんな説があるのでせうか?

[3750] Re[3748]天羽羽矢 ヒメ矢  yanase [Mail] [Url] 2002/12/10(Tue) 22:47 [Reply]
「鷲住王」は、書紀にも讃岐国造などの祖とあり、地元でもそう語られてゐまして、自分勝手なことを言ひ出しそうでしたので。他に有力資料がないなら別ですが。「中止」といふことではなく、書紀や地元の話など事実に基づいた話なら私も問題ありません。唐突な意味不明の発言で失礼しました。
他の点については後程。

[3749] Re[3747][3745] 木俣こそクラ  Setoh 2002/12/10(Tue) 19:05 [Reply]
yanaseさん >> 話変って、古事記で最初に登場する矢は、大樹に打ち立てられてゐます。
yanaseさん >> 残酷な場面ではありますが、矢と大樹と木神・大屋毘古神の深い関係を見ることができます。
玄松子さん> 「いたて(射楯)」の大神ですね
yanaseさん、玄松子さん。すごい刺激になります。イタテが出ましたか。クラクラいたします。

矢を立てたり、矢を射かけているのは八十神達。大屋毘古神は木を楯にして逃がしてやったと言うこと。
木の俣とは、八上比売が生んだ子供を刺し挟んだ所、木俣の神の誕生の瞬間です。神座と『角川文庫古事記』の注にあります。また、出雲国斐川郡の御井神社の由緒から、御井神=木俣神とあります。
但馬国養父郡大屋町の式内社の御井神社は御井神を祀るようですが、古典には大屋比古命、大屋比賣命を祭神とする説もあり(資料名紛失)、大屋毘古神もまた木の俣に座したのかも。

木の俣が空洞で入れば井戸に落ちて、根の国につながっていた。童話かな。

[3748] Re[3745]天羽羽矢 ヒメ矢  習志野のてつ [Mail] 2002/12/10(Tue) 16:08 [Reply]
「天羽羽矢」
「ハハは蛇」蛇のように威力がある。→蛇の毒を使う毒矢?(思い付きです)
> 三種の神器以前の重要な「しるし」と見て良いのではと思ひます。
 まさに「返し矢」になったあの矢です。このときのように、射てしまうと
 相手方に渡ります。もしその性能が良ければ、相手も使いますよね。
 だから「矢」を比べて、どうして味方だと確認できるかが判らないのです。

「茹矢」(ひめや)をその木に打ち立て…は、一般に楔(くさび:鏃の形)
といわれます。つまり、木を楔で裂いて広げておいて、そこに大国主を立
たせ(座らせ)て、楔を外した。あいだに挟まれて横死(圧死)。
裂かれた木の間は、何も無い空間です。『「木の俣」とはウロ』です。
丸木舟を作るとき、用材を割ります。このとき使う技術で、縄文時代には
確立した古くからの技です。(縄文系に妬まれた?―青草?―)

>(鷲住王のことは、四国に多い拝高神社の関連として注目したのですが、
> 地元の伝承を尊重して、発言は中止します)
 気を悪くされたらごめんなさい。
 私は仕事で、徳島に4年半居ました。地元といえるほどの者ではありません。
 「拝高神社」面白そうですね。初めて聞きました。

[3747] Re[3745] 天羽羽矢 ヒメ矢  玄松子 2002/12/10(Tue) 15:47 [Reply]
> 話変って、古事記で最初に登場する矢は、大樹に打ち立てられてゐます。
> 残酷な場面ではありますが、矢と大樹と木神・大屋毘古神の深い関係を見ることができます。

「いたて(射楯)」の大神ですね。

[3746] 〔3744〕追加  習志野のてつ [Mail] 2002/12/10(Tue) 13:49 [Reply]
出典は、日本書紀『履中天皇、六年二月』、岩波文庫日本書紀(二)P298です。

yanaseさんの説「ややもすると一人よがりになりがちなところ」
私こそまさにそれなので、よろしくお鍛え下さい。

> 古代に祭祀具としての矢を朝廷に納めた氏族については知りません(これからです)。
> やはり鳥や金属に関る部民を従へた氏族とは思ひます。
> 忌部氏が祭祀部族なら「天日鷲命」も矢に関連するのかもしれませんし。
 「天羽羽矢」にばかり、関心が行ってました。
 そうした見方も考えてみたいと思います。
 相撲の千秋楽の時、弓と矢を渡しますが、何か関係有りますか?(あれば青草へ?)

[3745] Re[3744] 天羽羽矢 ヒメ矢  yanase [Mail] [Url] 2002/12/10(Tue) 13:45 [Reply]
> 天孫族がお互いを確認するときの「天羽羽矢」

 饒速日尊の天羽羽矢は、正統な天孫である証拠とされ、書紀の岩波版に「ハハは蛇」の注がありました。
 また「天稚彦」のところで、「高皇産霊尊、天稚彦に天鹿児弓及び天羽羽矢を賜ひて遣す。」(書紀)とあります。雉子を射て「返し矢」になったあの矢のことですが、天稚彦も「天孫」であったことになります。三種の神器以前の重要な「しるし」と見て良いのではと思ひます。

 話変って、古事記で最初に登場する矢は、大樹に打ち立てられてゐます。

 「ここに八十神見て、(大穴牟遅神を)また欺きて山に率て入りて、大樹を切り伏せ、茹矢(ひめや)をその木に打ち立て、その中に入らしむる」(古事記)。
 「矢立杉」の起源のようで、「その中」とはウロのことみたいです。
この後、大穴牟遅神は矢で再び殺されたが、御祖命が「その木を折りて取り出で活かして」、木国の大屋毘古神の所へ逃げさせたとあります。八十神がまた追ひかけて来て矢を射んとしたので、「木の俣」から逃げて更に「須佐之男命の坐します根の堅州国」へ行ったと。「木の俣」とはウロのことかも。
 残酷な場面ではありますが、矢と大樹と木神・大屋毘古神の深い関係を見ることができます。

 (鷲住王のことは、四国に多い拝高神社の関連として注目したのですが、地元の伝承を尊重して、発言は中止します)

[3744] Re[3743] 矢!矢!  習志野のてつ [Mail] 2002/12/10(Tue) 11:15 [Reply]
> )「鷲住王」とは、鷲のことなのか、鷹匠などが祭った神なのか、
> 「履中天皇の兄」といふことになってゐますが。
「鯽魚礒別王(フナシワケ)」の子供ですね。長兄と思われます。
 妹二人「太姫朗姫(フトヒメノイラツメ)」と「高鶴(タカツル)朗姫」
 (二人は履中の嬪)の強力の兄で住吉に居て宍喰(シシクイ)の開拓者?
 
 *嬪(ヒン、ひめ):(后、妃よりも)身分の低い夫人
 *宍喰:徳島県、高知県との県境、ジャンボ尾崎、阪急の上田元監督の
 出身地。すぐ南の甲浦(カンノウラ)まで、大阪南港からフェリーが
 出ていて、(20年前は)釣り人がよく乗って来てました。

天孫族がお互いを確認するときの「天羽羽矢」:神武天皇も、長脛彦
に見せて確認したあの「矢」は、いったいどんな「矢」でしょうか?
弓と矢だけなら、相手の武器を獲れば、まあ使えるはずですが。

[3743] Re[3742][3741][3740][3739]: 矢!矢!  yanase [Mail] [Url] 2002/12/09(Mon) 20:59 [Reply]
)「鷲住王」とは、鷲のことなのか、鷹匠などが祭った神なのか、
「履中天皇の兄」といふことになってゐますが。

[3742] Re[3741][3740][3739]: 矢!矢!  yanase [Mail] [Url] 2002/12/09(Mon) 16:42 [Reply]
えーと…、ややもすると一人よがりになりがちなところ、setohさん、習志野のてつさんに補正等いただき、有り難き極みです。

setohさん> 『武蔵風土記』によりますと祭神は高御産巣日大神、天火和志命、由布津主命の三柱

高御産巣日大神(神籬)、天火和志命(矢)、由布津主命(木綿紙垂)で、祭壇の配置をイメージすることもできます。

> 高御産巣日大神 → 高木神 → 木の神 → 五十猛命

高皇産霊尊(高木神)は、青森県の高倉神社、新潟県の守門神社などでも、高倉下命(五十猛命)と共に祀られ、そこでは木の神として祀られたと見て間違ひないと思ひます。
かつて地方の祭神名を定めるときに記紀の中の神でなければならないと考へた人たちが多かったのですが、このことが後に、大社と小社で祭神名が同じなら、小社は御神徳についても大社と同じにしなければならないなどと、地方人を惑はしめることにもなったわけです。
別名の同一神があるなら、同名異神もあるはずですが、それでは頭が混乱しますので、「御祭神によっては地方的性格がある」といったところでせうか。

習志野のてつさん> 私的には『古代の「準」有名氏族』の祖神にこだわりたいです。

古代に祭祀具としての矢を朝廷に納めた氏族については知りません(これからです)。
やはり鳥や金属に関る部民を従へた氏族とは思ひます。
忌部氏が祭祀部族なら「天日鷲命」も矢に関連するのかもしれませんし。

> [2366] 祭神は神秘? 習志野のてつ  2002/01/09(Wed) 16:37
> ◎東国蝦夷征伐の折、側高の神は陸奥から馬2千頭を捕え献上したと

書込拝見しました。流石地元の神を大切にしていらっしゃって貴重な情報です。
祭当番にひげを撫でられたら酒を飲む「ひげなで祭」は、狩猟時代の名残を伝へる行事のような印象でした。イタリアでは自分のひげを撫でるのは退屈の意味とか、日本では意味は異なるものと思ひますが……はて?
昔の、陸奥の馬を「盗む」などの人聞きの悪い話もありましたが、昔は十五夜の里芋を盗んでも良いケースもあったようで……。あるいは、側高の神の一族は、古くから香取神に従った蝦夷で、陸奥の蝦夷のところへ交渉に行ったようにも受け取れます。

 さて、酒といへば、伊勢の銘酒でしたか「白鷹」といふのがあります。「白羽の矢が当る」とは目出度いことの意味ですが、白い鷹が留まった木は、御神木にほかなりません。新潟県の巣守神社も、そのような神の木を連想させますし、四国にはこんな神社もあります。
 ○高木神社,香川県丸亀市土居町2-,(主神)鷲住王
 ○大山神社,徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻,(主神)鷲住王命
「高木神社」なら祭神は高皇産霊尊であってもよかったのですが(福岡県に例が多い)、「鷲住王」とは、鷲のことなのか、鷹匠などが祭った神なのか、未調査です。

[3741] Re[3740][3739]: 矢!矢!矢!  Setoh 2002/12/09(Mon) 09:12 [Reply]
> 杉山神社,横浜市港北区茅ケ崎町,天照大神(ここは五十猛命でない)
『平成CD』ではそのようになっていますが、社記によれば(主)五十猛命、(配)天照大神、倉稲魂神、素戔嗚尊となっています。
 その以前は『武蔵風土記』によりますと祭神は高御産巣日大神、天火和志命、由布津主命の三柱とされています。
 どのような考証で祭神がこのように替わっていったのか、実に不思議なことです。それも皇祖神を国津神に変更すると言う、畏れ多いからと言う所かな。
青草遊び
●高御産巣日大神 → 高木神 → 木の神 → 五十猛命 (天孫降臨を命じた神の名に木神とする古事記があるそうですが、編集者が高木神に校訂してしまう・・との記憶あり)

●天火和志命 → 天火明命 → 天照大神 (天日鷲命の別名に天日別命などあり 日神と見なされていたのでしょう?)

矢、鋭いポイント!! この視点は今まであまり考えなかったので、これは要勉強です。

[3740] Re[3739]: 一部分のRe  習志野のてつ [Mail] 2002/12/09(Mon) 01:27 [Reply]
>  ○脇鷹神社,そばたか,茨城県稲敷郡桜川村飯出,天日鷲翔矢命
> …天日鷲命でなく「天日鷲翔矢命」とは?…
  「天日鷲翔矢命」とは、天日鷲命の詳細な名で、同神です。
> 「そばたか」とは何のことか?
 今年の初めに側高神社について、書き込みました。
 [2366] 祭神は神秘? 習志野のてつ  2002/01/09(Wed) 16:37
香取神宮第一の摂社は側高(そばたか)神社です。
千葉県神社庁発行『房総の祭事』では「祭神は神秘」と書かれています。
 http://www.city.sawara.chiba.jp/tizu/frsobataka.htm

◎東国蝦夷征伐の折、側高の神は陸奥から馬2千頭を捕え献上したと
云われます。簡単な話、陸奥から騙し取ったか、盗んできたか?…

「蝦夷の復讐を恐れ、祭神を隠している」との説も有ります。

> 他に茨城県内2社、…下総国に14社。…
こんなに有るとは存じませんでした。ビックリしました。
> <結論>
> 木の神と鷲・鷹との密接な関連は、鷲・鷹が矢の神を意味するためだらう。矢には鷹など> の羽根を付け、矢の威力は鷹の神の威力を借りたものだからである。…
 ありえますね。『天日鷲翔矢命』は、正にそんなイメージが膨らみます。
> <方法>
> 古代の有名氏族の祖神にこだはらず(鷹揚に)、江戸〜明治の祭神選定者
> の思考を再現する。
 私的には『古代の「準」有名氏族』の祖神にこだわりたいです。
 やはり祭神にはそれを祀る一族が居たと思いたいです。

[3739] 杉山神社と矢  yanase [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 23:31 [Reply]
 横浜近辺の五十猛命が祭神であることが多い杉山神社についてのレジュメです。
 読みにくいかもしれませんが。

 ○杉山神社,横浜市港北区茅ケ崎町,天照大神(ここは五十猛命でない)
武蔵風土記稿によると、天日鷲命を祭神としたらしい。この神名が忌部氏の祖神であるとされることからの論評もあるようだが、東国では安房国近辺は別として、必ずしもそれにとらはれなくて良い。
次の例に「大鳥神」とあるが、大鳥とは鷲(または鷹)のことを意味する。
 ○熊野神社,群馬県前橋市千代田町,(主)櫛御気野命 (配)大屋津姫命 五十猛命 大鳥神

祭神名に「鷲」とあるのに、神社名は「鷹」であるものがある。
 ○脇鷹神社,そばたか,茨城県稲敷郡桜川村飯出,天日鷲翔矢命
桜川村は大杉神社のある村で、脇鷹神社はすぐそばである(大杉神社の北方)。天日鷲命でなく「天日鷲翔矢命」とは? 忌部の祖神ではないだらう。
 ○側鷹神社,茨城県行方郡麻生町小塙,高皇産霊尊
この「高皇産霊尊(高木神)」は矢の神の意味か? 「そばたか」とは何のことか?
他に茨城県内2社、天津彦火火出見命、誉田別命(側鷹八幡神社)
「そばたか神社」は下総国に14社。高皇産霊尊6(相馬高神社ふくむ)、火火出見命3、側高神3、国常立尊(蘇羽鷹神社「国常立」とは矢を立てた様をイメージしたものか)、素盞嗚(素羽鷹神社)など。

<結論>
 木の神と鷲・鷹との密接な関連は、鷲・鷹が矢の神を意味するためだらう。矢には鷹などの羽根を付け、矢の威力は鷹の神の威力を借りたものだからである。また、柳田翁によれば、その矢を立てることによって樹木は神籬となる(矢は武を意味するものではなかった)。
 杉山神社の旧祭神名の天日鷲命は矢の神の意味があった。源氏の庇護も矢の神であるためだらう。一部の杉山神社の日本武尊の祭神名も「矢=武神」から出たようだ。安房に遠くないことから誤解を避けるために名を改めたか公表しなくなった。

<方法> 古代の有名氏族の祖神にこだはらず(鷹揚に)、江戸〜明治の祭神選定者の思考を再現する。

[3738] ありがとうございます  ユアン [Mail] 2002/12/08(Sun) 23:31 [Reply]
>hvhyさん
ヒマラヤの言葉の意味、どうもありがとうございました☆

[3737] Re[3736]: 無いものは見つからない  玄松子 2002/12/08(Sun) 23:18 [Reply]
青草へ。

[3736] 無いものは見つからない  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 22:49 [Reply]
>並び順が決まっているからこそ、決まった規則に
>沿って「使えそうなもの」が探せるのです。

これは意味がよく分かりませんでした。
名辞の対応なり性格の対応なりが有れば、
それを見つけられますが、もし無い場合は、
探したとしても、見つからないと思われます。
「探しやすい/探しにくい」は別問題でしょう。

-------------------------------------------------------------

「尾**底***********畢**婁*******箕」
 ↑  ↑           ↑  ↑       ↑ 
 ↓  ↓           ↓  ↓       ↓
 第  第           第  第       第
 0  0           1  1       2
 1  4           6  9       7
 代  代           代  代       代

・第1代の御陵は「畝火山之北方白檮尾上」(尾を含む唯一の御陵) ←→ 月宿「尾」
・第1代はまさしく天皇の「元」(はじめ) ←→ 月宿「Mula」(尾)の意味は「根元」
・第4代「大倭日子鋤友」は名前に「友」(トモ)を負う ←→ 月宿「底」の和名は「トモ」
・第16代は「木菟」(ツク)と名前を交換 ←→ 月宿「Rohini」(畢)は「Soma」(月)に縁が深い
・第19代「男浅津間若子宿禰」の「浅津」は「薊瓊」にも作られる ←→ 月宿「Asvini」(婁)
・第19代の治世に「医薬」に関する記事 ←→ 月宿「Asvini」の主宰神「Asvinau」は医薬の神様
・第27代の御名代として「牛」が放たれる ←→ 月宿「箕」の形は「牛歩」(あるいは牛角)

天皇と月宿(二十七宿)の組み合わせは、形式的に見れば「54通り」あります。
その「54通り」の組み合わせのうちの「1通り」で、例えばここに挙げた事柄が、
同時に一気に言えるわけです。ここで仮に他の「53通り」の組み合わせに対しても、
これに近い程度の「使えそうなもの」が見つかるということなら、話は違ってきますね。
でも、ただ「1通り」において「使えそうなもの」が一気に見つかるということになると、
「なぜ1通りにおいて使えそうなものが一気に見つかるのか?」の説明がつかないはずです。

#この「1通り」の組み合わせに関してよく見れば、
#もっと「使えそうなもの」が見つかるかもしれない。
#私が書いているのは、せいぜい私が気づいた範囲です。
#記紀編者と同等の知識背景(諸々)を持っていない以上、
#「使えそうなもの」を見落としてる可能性のほうが大きい。
#そういう意味で、話が逆ではないか?という印象を持ちます。

[3735] Re[3726]来年の羊 矢に聞く こと  習志野のてつ [Mail] 2002/12/08(Sun) 21:26 [Reply]
来年の羊
天の羊 シュメールの羊飼いは、天空の星を見てそう呼んだそうです。
羊が一匹、羊が二匹…は、実は星の数を数えていたのかもしれない。
スモッグの公害も、お正月には減っているはず。来年の天の羊を数えてみたい。

> 矢を射て落ちた場所に神社を作る、
話を勝手に変化させて恐縮ですが。
 :矢を放つこと・射ること
矢を発射するには、二通りの仕様があります。
1、矢の届く限り→遠方まで飛ばす→45度で放つ
2、的に当てる →正確にとばす →水平に射る
  これは、馬から射る流鏑馬(ヤブサメ)と徒歩で射る場合があります。
千葉には「おびしゃ」と云う祭りが多く見かけられます。
御歩射(オブシャ)のなまったもの、と云われ、元々は2の様式であったと
思われます。弓を射て、害獣(害敵?)を追い払ったのが最初だと私見して
います。現在では既に弓を射ることの無い祭りとなったものも有ります。
例:市川市大野、駒形神社「にらめっこおびしゃ」
私の住む習志野市でも、同名の祭りが、かなりあります。
   習志野ネット:http://www.narasino.net/index.html
   「市内の祭り 便利帳」をご参照下さい。

[3734] Re[3733]: 月宿には並び順がある  玄松子 2002/12/08(Sun) 19:14 [Reply]
> #そもそも二十七宿の並び順が決まっている以上、
> #使えそうなものを探して当てはめるのは不可能。
> #並び順が決まっている点を念頭に置いて下さい。

並び順が決まっているからこそ、決まった規則に沿って「使えそうなもの」が探せるのです。
順が決まっていないものの法則をゼロから導き出すのとは、労力は格段に違います。

ある組み合わせは名前の一字、あるモノは御陵地名の一部、あるモノは別称、あるモノは家族の名の一部、あるモノは事績の一部。
そのように一貫性の無い共通点を並べただけでは「コジツケ感」を払拭できません。

#誤解しないで欲しいのですが、hvhyさんの説を全否定しているわけではありません。
#提示の仕方、論の進め方が独善的であり、情報を提供する姿勢に見えないということです。
#言いたいことを自分のペースで語るだけなら、ご自身のHPで行えば良いことです。

[3733] 月宿には並び順がある  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 18:59 [Reply]
>二十七宿を念頭において、使えそうなものを探す行為は、
>「吟味」とは云えないのではないか、と思います。

漠然とした話では仕方がないので、
前の発言から項目を絞ってみます。

--------------------------------------

問題1:神武も崇神も「ハツクニシラス」と言われる(書紀)

問題2:雄略の都が「纏向之日代宮」かの如き表現(古事記)

問題3:允恭の治世に「医薬」に関する記事(古事記、書紀)

問題4:安閑の御名代として何故か「牛」が放たれる(書紀)

--------------------------------------

解釈1−α:葛城王朝から纏向王朝へ。神武は前者の「ハツクニシラス」、
崇神は後者の「ハツクニシラス」。ある意味での権力交替を反映している。

解釈1−β:「尾」の天皇も「星」の天皇も「ハツクニシラス」と表現するのは、
月宿(二十七宿)に付随する「九進法の構造」(十は一)を端的に提示するため。

解釈2−α:古事記を編纂する段階で、もともと景行を賛美する歌が
雄略の物語に紛れ込んだ。そのため物語と歌の間に矛盾が生じている。

解釈2−β:「壁」の物語に「鬼」の都を賛美する歌を盛り込んだ背景には、
月宿に付随する「九進法の構造」で「鬼」と「壁」を同一視する見方がある。

解釈3−α:書かれている通り、允恭の病を治すため、
異国から「医」あるいは「薬」の専門家を呼び寄せた。

解釈3−β:允恭に当たる「Asvini」(婁)の主宰神は古くは「Asvinau」。
「Asvinau」(アシュヴィン双神)は医薬の神様。だから医薬の記事を配置。

解釈4−α:書かれている通り、安閑は自分の名を残すため、
「牛」を放った。どうして名を残すことになるかは全く不明。

解釈4−β:安閑に当たる「箕」の形状は「牛歩」(または牛角)。
だから「安閑が自らを牛に見立てて牛を放った」という記事を配置。

--------------------------------------

「α」の系列は、その説明に相互の連関はありません。(※しかも疑問に対する答えになっていない)
然るに「β」の系列は、関係なさそうな四つの事柄を
全く統一的に説明している。これを見てどう思うのか。
「紛れ込んだ」などという根拠に乏しい解説を読んで、
果たして素直に納得できるのか。そういう話でしょう。

#そもそも二十七宿の並び順が決まっている以上、
#使えそうなものを探して当てはめるのは不可能。
#並び順が決まっている点を念頭に置いて下さい。

[3732] Re[3699]: 訂正と雑文  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 15:41 [Reply]
>もし「ヒマラヤ」がサンスクリット語でどいう意味なのかご存知でしたら

ご存知の方から伺ったところによりますと、
「hima」が「雪」で、「a-laya」が「家」で、
合わせて「雪の住処」という意味らしいです。

[3731] Re[3728][3727]: 季節ではない秋  アキツ  鱶飼 2002/12/08(Sun) 15:07 [Reply]
> 「開囓」を「アキクヒ」とは読まないという論証があれば、お願いします。

上代語で「飽く」は四段活用、

仮説A:上代で「開く(あく)」は下二段活用である、とする場合
 飽咋と開囓は出自が大同小異であるから同神だとして
 アククヒ、アケクヒ

仮説B: 飽咋と開囓 はともにアキクヒと読むのであり
 これが上代の「開く(あく)」は四段活用だった証拠となる

アクと読むと、ユマリから生まれたワクムスビのワクの音が近く、
アク、ワクに「水」という意味を認めて良いことになるか



[3730] 「秋」と「波邇」  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 14:45 [Reply]
「飽」「開」「秋」が掛詞であることは認められる。
「飽咋之宇斯」は「冠」から。「開囓」は「褌」から。
ならば「久須婆」〜「屎褌」〜「褌」〜「飽咋之宇斯」。
ここにも「KSP」(アラム語)と「秋」の関係が見える。(※発言[3632]参照)

>水戸神の孫、櫛八玉神、膳夫と為りて、天の御饗を獻りし時に、
>壽き白して、櫛八玉神、鵜に化りて、海の底に入り、底の波邇を
>昨ひ出でて、天の八十毘良迦を作りて、海布の柄を鎌りて、〜

この記事の「水戸神」は「速秋津日子神」のことだから、
やっぱりこの記事においても「膳夫」は「秋」に結びつく。
ところが「屎」に成れる神は「波邇夜須」(埴安)であった。
「飽昨」(アキクヒ)は「波邇昨」(ハニクヒ)かもしれない。

#「波邇(これは何?)を昨ふ」という行為が、
#実は「飽昨」という言葉の背景にあるという話。

[3729] 「褌」と「道俣」  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 14:42 [Reply]
>褌(はかま)の二股の形状から想像することになりますが、(※発言[3727]yanaseさん)

これは見落とせないと思います。というのは、
書紀では「褌」から「開囓」が生まれているが、
古事記の場合「褌」から「道俣」が生まれている。
「道俣」(チマタ)は「巷」(チマタ)に通底する。
然るに一方で「水戸」(ミナト)は「港」(ミナト)。

#「開囓」と「道俣」の関係は、
#「秋」と「水戸」の関係に平行。

[3728] Re[3727]: 季節ではない秋  アキツ  玄松子 2002/12/08(Sun) 13:49 [Reply]
> 鱶飼さん> #上代(奈良時代)には四段活用ではなかったのか
> 玄松子さん> 開囓神と書かれると、日本書紀で、褌から生れるのです。

一応、古事記と同時代の日本書紀での「開」の例、と思ったのですが、説明が足りませんでしたか。
「開囓」を「アキクヒ」とは読まないという論証があれば、お願いします。


> 記紀で違ふとなれば、記紀の時代から名前の意味の解らなくなった神なのかなと、思はざるを得ません。

他に、記紀両方伊登場するが、出自が異なる神名の例ってありませんか。

[3727] Re[3725]: 季節ではない秋  アキツ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 13:24 [Reply]
鱶飼さん> #上代(奈良時代)には四段活用ではなかったのか

これは大変失礼しました。
アキツは湊に出入りする浮遊物に象徴される物の発生の源としての水の霊の意味が原義であるといふのが、私見ではあります。それでは良い漢字がないので、湊が海に開いてゐることから後で開の字を使った(平安以降?)。それは禊ぎによって開かれた気持にもなりますし、泡から生まれ直す気分にもなれるといふ意味ですが。

玄松子さん> 開囓神と書かれると、日本書紀で、褌から生れるのです。

書紀を確認しませんでした。褌(はかま)の二股の形状から想像することになりますが、記紀で違ふとなれば、記紀の時代から名前の意味の解らなくなった神なのかなと、思はざるを得ません。夕べは書きすぎでした。

矢については「磐座=神籬」の観点から高木神をめぐって後程。

[3726] Re[3710]: 来年の羊と、高倉下 矢に聞いてくれ  Setoh 2002/12/08(Sun) 11:54 [Reply]
矢を射て落ちた場所に神社を作る、神宮皇后の伝承では、紀北に射矢止神社、射箭頭八幡神社などが鎮座しています。
南紀では矢倉神社が多く鎮座(今は『平成CD』では一社)し、天から矢が落ちてきた云々の伝承が語られていますが、矢は弥など敬称美称であり、倉が本来の言葉であり、この倉は南紀の信仰の原点とされる磐座祭祀の座であったり、yanaseさんのご指摘のように境であったりするものと思われます。さらに矢放神社は面白いですね。矢を放つ場所に鎮座とすると、この場所もまた占いなどで神意に沿った所と言えそうですね。

 何れにしても神意に沿う場所と言えそうですね。それが、武家の時代になっても、恐らくは現在でも、矢を射る時に南無八幡大菩薩と唱えるとこにつながっているんでしょう。

[3725] Re[3723][3719][3718][3717][3711]: 季節ではない秋  鱶飼 2002/12/08(Sun) 11:34 [Reply]
竹取物語は成立年代不明ながら平安初期のものと考えられている。
時代別国語辞典上代編(このシリーズでは上代語と平安時代語を区別している)に
四段活用の「開く」が見あたらない。

#用例が無いに過ぎないのか
#上代(奈良時代)には四段活用ではなかったのか


> ◇「開く」について
> あ・く【開く・空く】《自動詞・カ行四段活用》─ひらく。
> 《竹取物語・かぐや姫の昇天》 「立て籠(コ)めたるところの戸、すなはち、ただあきにあきぬ」(学研スーパー日本語大辞典)

[3724] Re[3723]: 季節ではない秋  玄松子 2002/12/08(Sun) 01:45 [Reply]
チャチャです。

> 鱶飼さん> …黄泉から生還したイザナギの禊祓いで生れた神に、飽咋之宇斯能神

残念!
これは僕が書きました。


> この神はまた兵庫県姫路市と島根県迩摩町の「冠神社」の祭神です。由緒は知りませんが、
> 冠から生まれた神なので、(これはホント)

惜しい!
飽咋之宇斯能神は、古事記では冠から生れますが、
開囓神と書かれると、日本書紀で、褌から生れるのです。
褌は本当で、流れてきたのがウソでした。

[3723] Re[3719][3718][3717][3711]: 季節ではない秋  yanase [Mail] [Url] 2002/12/08(Sun) 01:39 [Reply]
鱶飼さん> …黄泉から生還したイザナギの禊祓いで生れた神に、飽咋之宇斯能神

この神はまた兵庫県姫路市と島根県迩摩町の「冠神社」の祭神です。由緒は知りませんが、
冠から生まれた神なので、(これはホント)
神社名にちなむ祭神名なのかも。
飽咋は、川の杭の意味なら「みをつくし」を連想しますが、冠から想像できる形状ではありません(この前後の神は皆、生まれた物の形状から名を想像できる神が多い)。

◇「開く」について
あ・く【開く・空く】《自動詞・カ行四段活用》─ひらく。
《竹取物語・かぐや姫の昇天》 「立て籠(コ)めたるところの戸、すなはち、ただあきにあきぬ」(学研スーパー日本語大辞典)

[3722] 今日は書きすぎか?  玄松子 2002/12/07(Sat) 23:09 [Reply]
> 展開が早いので、旧聞のようですが、

家に閉じこもっていると、神奈備MLからメールが届くのですよねぇ。(ちょっと反省)

> 九州で禊ぎをおこなって生まれた神、知多半島までは舟で来たのだろうか?
> また何故「開囓神」だけが、知多半島に坐のだろうか?

褌から生れた神なので、流れてきたのでしょう。(うそ)
阿久比郷は、阿佐比古の変化したものだそうで、阿佐比古という人物は成務天皇の時代の人、阿久比郷の祖神だそうです。ということで、「アキクイ神」は付会かもしれません。「神社覈録」「特選神名蝶」では祭神不詳。「阿久比神社鎮座記」ではサルタヒコ・ニニギ・オオナムチが祭神とあるらしい。(式内社調査報告より)

[3721] Re[3711]の一部分、 飽咋之宇斯  習志野のてつ [Mail] 2002/12/07(Sat) 22:47 [Reply]
展開が早いので、旧聞のようですが、昨日の書き込みで
> …黄泉から生還したイザナギの禊祓いで生れた神に、飽咋之宇斯能神
> (アキグイノウシノカミ)という神がおられます。ここでは「飽(アキ)」
> の字が用いられ、速秋津日子神同様に穢祓いに関連します。…
禊ぎに関心があるのですが、この飽咋之宇斯能神が祀られているのは、
尾張の国、知多郡の阿久井神社です。
 「阿久比神社[あぐい]「開囓神」愛知県知多郡阿久比町大字阿久比北下川49」
                        ―神奈備神名帳―
九州で禊ぎをおこなって生まれた神、知多半島までは舟で来たのだろうか?
また何故「開囓神」だけが、知多半島に坐のだろうか?

[3720] Re[3716][3714]: アキツ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/07(Sat) 22:35 [Reply]
玄松子さん> この煮物の「あく」が、穢祓いに通じる、

 速秋津姫が芥から砂州を生むまでを逆にたどれば、最後はケガレが泡と消えるかもしれませんが。
 速秋津姫が速秋津彦より格段に有名な存在になったのは、禊ぎに関る「水の女」だからでせうが、神名の語義はむづかしいといふ他はありません。

 ところで、速秋津姫=湊神、瀬織津姫=川神との認識でゐたのですが、[3714]自書込で、速秋津姫は川の神でもあるのかなと感じ、調べたところ瀬織津姫は古事記に登場しないのですね。日本書紀では国生みで「川を生む」とか「山川草木を生む」といふ単純な記述がありますが、名をもった神はありません。古事記では川の神そのものが出て来ない。また疑問が増えました。
 瀬織津姫のヲリの語義も、芥やアクに類似の濁ったものの意味にも感じます。八塩折酒も色の濁った酒のようで。

[3719] Re[3718][3717][3711]: 季節ではない秋  鱶飼 2002/12/07(Sat) 20:02 [Reply]
> これは、(他)動詞として使われた場合のことですね。

(自)動詞では違うのですか? 四段活用なのかな?
手元辞書には見あたらないので教えて下さい

> 延喜式祝詞では「速開都」と記されております。

アクツまたはアケツと読んで居たから「開」の字を使ったのか
奈良朝文法から平安文法に変遷して、開く(あく)が四段活用になったんか
祝詞を文字化した人の無教養(間違い)なのか
開く(あく)が下二段活用というのが間違いなのか

どれでしょうね。他にもあるかも。

[3718] Re[3717][3711]: 季節ではない秋  玄松子 2002/12/07(Sat) 19:06 [Reply]
>
> 調べた範囲ですが、古語で「開く、明く」はいずれも下二段活用で、そうだと「アキ」という活用形が無いようです。無理ではないでしょうか。

これは、(他)動詞として使われた場合のことですね。
延喜式祝詞では「速開都」と記されております。

[3717] Re[3711]: 季節ではない秋  鱶飼 2002/12/07(Sat) 18:17 [Reply]
> 「論証」は求めても、なかなか得られるものではないのではないでしょうか。

たしかに「論証」は望みすぎでした。いずれにしても今(最近、近過去)の知見を大過去に適用するときに、もっと考えては、ということとご理解ください。

> 速秋津日子神の神名の字義に関して、通説では、流れの速い河口部ではなかったでしょうか。秋津は、河口=開けた水口。秋は「開き」と解釈されているのでしょうか。あるいは穢れが明けるということでしょうか。

調べた範囲ですが、古語で「開く、明く」はいずれも下二段活用で、そうだと「アキ」という活用形が無いようです。無理ではないでしょうか。

> 黄泉から生還したイザナギの禊祓いで生れた神に、飽咋之宇斯能神(アキグイノウシノカミ)という神がおられます。ここでは「飽(アキ)」の字が用いられ、速秋津日子神同様に穢祓いに関連します。

一方「飽く」は四段活用ですので「アキ」という語形があります。意味は現在の飽きるよりは「満足する」という意味が強いようです。打ち消しを伴うと、いやになる・飽きるの意味が出てくるそうです。

> 「秋之水穂国」は、同様の解釈によると、「開けた穢れの無い水穂の国」と読むことも可能です。(あくまでも、「可能」であった、論証には程遠いですが)

[3716] Re[3714]: アキツ  玄松子 2002/12/07(Sat) 16:18 [Reply]
大三元さん> 「河俣毘賣之兄 縣主波延之女 阿久斗比賣」というのがあって
yanaseさん> 煮物料理に浮く「あく」も同源語かも。

この煮物の「あく」が、穢祓いに通じる、ってのは青草い?
「ハエ」も出てくるので、穢れそのものをも意味するとまで言うと、言い過ぎかな。

[3715] Re[3711]: 季節ではない秋 補足  玄松子 2002/12/07(Sat) 16:10 [Reply]

> 「秋之水穂国」は、同様の解釈によると、「開けた穢れの無い水穂の国」と読むことも可能です。(あくまでも、「可能」であった、論証には程遠いですが)

古事記の「豊葦原千秋長五百秋之水穂国」、日本書紀では「豊葦原千五百秋之瑞穂地」(ただし場面はイザナギ・イザナミの国生み)。
「千秋長五百秋」の解釈は、手持ちの本では、どれも「いつまでも」「ゆたかな」となっています。古事記では「長」が加えられているので、「豊かさ」「収穫」だけではなく、千秋に「長さ」の属性が付加されていると解釈すると「いつまでも」と見ることができるのでしょう。
(勿論、手持ちの本の著者が、現代における「千秋」の意味を、吟味せずに古代の言葉の解釈に持ち込んだものだという指摘も可能です)

[3714] アキツ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/07(Sat) 15:56 [Reply]
古事記では、アキツは、大三元さんの示唆のようにアクツの意味かも。
河岸の地名に「阿久津、明戸(あけと、あくと)」が多くあり、流水の変動によって生成した土地の意味とも。
軽いものでは「芥」、煮物料理に浮く「あく」も同源語かも。
アキツは川の流れが、砂州や扇状地を作ったり陸を作り変へたりし、その強い(=速)エネルギーが陸そのものを作ったと見たのかもしれません。

次に海の神、名は大綿津見神を生み、(海ができた)
次に水戸神、名は速秋津彦神、次に妹速秋津姫を生みき。(陸を生成するエネルギー)
この速秋津彦、速秋津姫の二はしらの神、河海に因りて持ち別けて生める神の名は、
 沫那芸神、沫那美神、      (泡)
 頬那芸神、頬那美神、      (波の穂、芥)
 天之水分神、国之水分神、    (砂州ができた=川が分かれた)
 天之久比奢母智神、国之久比奢母智神、
        (? 神代七代でも、宇比地迩神(地)の次に角杙神(クヒ))
 風の神、名は志那都比古神を生み、(風)
 木の神、名は久久能智神を生み、 (木)
 山の神、名は大山津見神を生み、 (山)
 野の神、名は鹿屋野比売を生みき。またの名は野椎神と謂ふ。

[3713] ハヤアキツ姫  大三元 2002/12/07(Sat) 14:43 [Reply]
玄松子さん、ハヤアキツヒメなんですが、第三代天皇の后に
「河俣毘賣之兄 縣主波延之女 阿久斗比賣」というのがあって
「ハヤ」にも「アキツ」にも近い音が入って居るんですよね。
面白いんですが、どうもここから発展できない(^^;)

[3712] お邪魔します  D.K [Url] 2002/12/07(Sat) 14:29 [Reply]
アラハバキ研究を色々としてきましたが、
今回研究成果を出そうかと思いHPを立ち上げました。
宜しければご覧下さい。

http://members.tripod.co.jp/dreagon/m2.html

[3711] 季節ではない秋  玄松子 2002/12/07(Sat) 14:16 [Reply]
「論証」は求めても、なかなか得られるものではないのではないでしょうか。

ということで、「季節ではない秋」について。
速秋津日子神の神名の字義に関して、通説では、流れの速い河口部ではなかったでしょうか。秋津は、河口=開けた水口。秋は「開き」と解釈されているのでしょうか。あるいは穢れが明けるということでしょうか。
黄泉から生還したイザナギの禊祓いで生れた神に、飽咋之宇斯能神(アキグイノウシノカミ)という神がおられます。ここでは「飽(アキ)」の字が用いられ、速秋津日子神同様に穢祓いに関連します。
「秋之水穂国」は、同様の解釈によると、「開けた穢れの無い水穂の国」と読むことも可能です。(あくまでも、「可能」であった、論証には程遠いですが)

[3710] 来年の羊と、高倉下  yanase [Mail] [Url] 2002/12/07(Sat) 14:02 [Reply]
 年の話といっても、来年のエトの羊の話を少し。

 現在の羊は、明治以降に移入されたもののようですが、何故か古い大和言葉に「ひつじ」があり、「和名抄」にもあるようです。
 宮城県石巻の零羊崎神社(ひつじざき)の周辺では、ヒツジとはカモシカのことといひます。古代に輸入された中国の暦に「羊」の漢字があったはずですから、「羊」をカモシカの意味のヒツジと読んだと想定して良いと思ひます。カモシカは「氈(カモ)に織る鹿の意。……その毛を毛氈(モウセン)などを織るのに用いた」(広辞苑)とあります。

 カモシカの異称に、クラシシ、クラジシがあります。広辞苑では、
「くら-しし【鞍鹿】(多く座(クラ)と称する場所にすむからいう)カモシカの異称。」とあります。「クラと称する場所」については、確かに山の名で「〜くら山」は多いのです。
 小学館の『日本国語大辞典』を見ると「くら【谷】たに。谷間。上代文献から推定される語」とい項があり、古事記の「天之闇戸神」などから「推定」して記載したらしく、万葉歌の例も引いてあります。
  鴬の鳴くクラタニに打ちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ 万葉集3941
 しかしこのクラは小鳥の意味のクラ(沖縄方言他)で、東日本の地名の「倉沢」と同じで、鳥に教へられた沢・谷といった意味と思ひます。「闇戸」も谷とは限りません。
 (横道にそれますが、全国に多い「鞍掛石」は、石から不思議な鳥の声が聞えたといふ「鶏石」と同じもののような気もします。カケは鶏またはその鳴声の意味で、後世に武将などが休憩したときに鞍を掛けた話が付会されたのではないかと。「鞍掛松」にも同様の武将などの話が付随しますが……)

 それはともかく「クラと称する場所」を全て鳥に関するものとするのには無理がありますので、クラの地名の多い新潟県の地図を見ましたら、北魚沼郡の守門村周辺(小出から福島県の只見へ抜ける街道沿)にも多くあります。守門(すもん)村周辺には守門神社が十数社あり、北東方の守門岳の神とされます。守門岳の北西の栃尾には巣守神社の名でやはり十数社。「巣守(すもり)」とは「鷹の古言」(吉田東伍)ともいひます。
 守門神社は高皇産霊尊を祭神とするものが多いのですが、高倉下命も二社あり、神奈備HPの「高倉下命、天香語山を祀る神社」一覧にもあります。
> 越後魚沼 守門神社 「高倉下命」 北魚沼郡守門村大字高倉109
> 越後魚沼 守門神社 「高倉下命」 北魚沼郡守門村大字高倉2168
 高倉下命は弥彦神社の天香語山のことともされますので、新潟県にクラの地名が多いのはそのためかと思ひました。
 神武天皇東征のとき、紀州熊野で、高倉下命は高木神(高皇産霊尊)から鹿の角のような横刀(七支刀)を授かって賊を倒した話があります。以前から高倉下の持ってゐた刀もあったはずなのですが、たぶんその刀はクラジシ(かもしか)の角のようで短くて威力がなっかったのかもしれません。
 記紀風土記では諸国平定のときに刀や剣はよく使はれますが、必ずしも武器として使はれたとは限らず、土地に挿し立て、二つの勢力の境界を定めた場合もあります。石を打ち立てれば、それは磐境、磐座です。古代には巨樹はそれこそ山ほどあったと思ひますので、巨樹を境とするには、巨樹に矢などを添へるように挿し立て、道中の安全を祈るようになったと柳田翁が言ってゐました。高倉下命は、刀を挿し下したのではないかと思ひます。旅人は、刀の代はりに柴などの枝を挿した例もありますし、動物の角などもあり得たと思ひます。高木神から授かったので、その刀は木の霊のようで、神籬の性格になります。高木神は、高天原から天稚彦の住む方向に矢を放った(射返した)こともありますが、天稚彦は、そうした神籬の祟りで命を落としたのかもしれません。
 守門神社も、もとはそのような山間の境界を定めた神なのではないかと思ふのです。守門村から西方の中魚沼郡には、「矢放神社(やはなち)」が16社ありますが、矢で境界を定め祀った神のようで、祭神はほとんど高皇産霊尊(高木神)です。青森県では鯵ヶ沢町を中心に「高倉神社」が9社あり、ここも高皇産霊尊です。
 以前setoh氏に教へていただいた、紀州の「羊の宮」も、矢を祀った由緒があります。
(やっと羊の話に戻って来ましたが、長すぎるので今回はこれで終りです)

[3709] Re[3708][3705] 千秋 一般論  鱶飼 2002/12/07(Sat) 13:25 [Reply]
> 玄松子[3672]> ただし、「速=秋」ではなく、「速」であるところの「秋津」と理解されます。
> と同義を否定しています。

判りました。

> 秋を季節に限定している書き込みに対して、
> 習志野のてつさん[3694]> 千秋とつながると、季節ではなく年のことになるのが一般的です。
> と書いているので、「秋=年である」とも「秋=年でない」とも言っているわけではなく、「秋を用いていても季節を意味しない【場合がある】」という一例を挙げられただけではないでしょうか。

それで、それは現在ではそうだとしても、古事記編纂の頃でも「秋」字を使って季節を意味しない場合があった、 という論証はどうやるのだろうか、という問題意識なんです。

> ところで、千秋の秋(年を意味する)が、季節の秋の転用であったとしても、その意味するところは年なのではないかと思います。
> 言語の好きな方は、その語源を求め、意味を特定しようとしているようですが、使われ方が最重要なのではないでしょうか。
> 「おはよう」という挨拶が、「お早い」という時間的な早さから出た言葉であり、一日の早い時間帯に用いられる言葉ではありますが、人が「おはよう」と言う時に「早いこと」を意識・指摘しているわけではないのではないでしょうか。(これは青草か?)

上記と同様に、今ではおはようは「早い」を意識していないでしょうが(おそよう、という戯語もありますが)、文献の解析において、その文献が書かれた時代にはどうだったのか、という配慮が必要だと思います。

大歳神は恵方、恵方の恵はアキとも読む、から「アキ」は「秋」に限らない(アキは歳か、ということでしょう)という論法も見られましたが、それも、いつからある考え方なのかが提示されない。今は(少し昔でもいいけど)どうだ、ということから、大昔(このスレの中では、古事記編纂時、も同様であったとする論証が欲しいのです。

ここがそのようなことを論ずる場でないなら、帰りますけど、テーマはとても面白いので


[3708] Re[3705] 千秋 一般論  玄松子 2002/12/07(Sat) 12:03 [Reply]
> そのものズバリではありませんでしたが、スレッドをまとめると、
> 虚、骨、南、速、秋、年 が同義になるということではないでしょうか。

少なくとも僕は、
玄松子[3672]> ただし、「速=秋」ではなく、「速」であるところの「秋津」と理解されます。
と同義を否定しています。

> 千秋=千年 だが 秋=年 ではない、と読むべきだったのでしたか>習志野のてつさん。失礼しました。

秋を季節に限定している書き込みに対して、
習志野のてつさん[3694]> 千秋とつながると、季節ではなく年のことになるのが一般的です。
と書いているので、「秋=年である」とも「秋=年でない」とも言っているわけではなく、「秋を用いていても季節を意味しない【場合がある】」という一例を挙げられただけではないでしょうか。

ところで、千秋の秋(年を意味する)が、季節の秋の転用であったとしても、その意味するところは年なのではないかと思います。
言語の好きな方は、その語源を求め、意味を特定しようとしているようですが、使われ方が最重要なのではないでしょうか。
「おはよう」という挨拶が、「お早い」という時間的な早さから出た言葉であり、一日の早い時間帯に用いられる言葉ではありますが、人が「おはよう」と言う時に「早いこと」を意識・指摘しているわけではないのではないでしょうか。(これは青草か?)

[3707] Re[3706]: 秋と年  苗(miao) 2002/12/07(Sat) 10:05 [Reply]
>ユアン さん
>収穫の意味合いでの特殊な「秋」の観念が古くは有ったように思われます。
この部分は確かにそうだと思います。
例えば
http://www23.big.or.jp/~lereve/saijiki/74.html
の様な表現は良く使われています。植物の収穫時の事ですが、植物名プラス「の秋」と。
文、歌詠みや詩の世界では季語の様にして使うことも多い。

[3706] 秋と年  ユアン [Mail] 2002/12/06(Fri) 23:56 [Reply]
一年の大歳神の方位のことを「恵方」といいます。
この「恵方」のコトを「アキ方」というところもあります。
運勢が開けているからという意味で「開き方」なのだとも考えられます。
その場合、「アキ」という言葉に「秋」の意味は失われていると思われます。
でも「アキ」と「年」の関わりがひとつ解明できたのでは?と思います。
もっとも、ユアン的にはyanaseさんが書いていらっしゃるように、
収穫の意味合いでの特殊な「秋」の観念が古くは有ったように思われます。

[3705] Re[3704][3702] 千秋 一般論  鱶飼 2002/12/06(Fri) 14:03 [Reply]
> どなたが、この「アキ=年」と書かれたのでしょうか?

スレッド読んでいるうちに少し混乱したようで失礼しました。
そのものズバリではありませんでしたが、スレッドをまとめると、
虚、骨、南、速、秋、年 が同義になるということではないでしょうか。

玄松子さんが反証として出された(と思いますが)、ハヤアキツのアキだって、
年と考えるのは疑問、と同意したものです。

しかし、どうやら、
千秋=千年 だが 秋=年 ではない、と読むべきだったのでしたか>習志野のてつさん。失礼しました。

[3704] Re[3702] 千秋 一般論  玄松子 2002/12/06(Fri) 13:38 [Reply]
習志野のてつさん> 千秋とつながると、季節ではなく年のことになるのが一般的です。

千秋に関する「一般論」だと、題名にも書かれていますね。


鱶飼さん> つまり、ハヤアキツヒメの「アキ」を「年」の意味に解することへの疑問であります。

どなたが、この「アキ=年」と書かれたのでしょうか?

[3703] 秋を恋ふ  yanase [Mail] [Url] 2002/12/06(Fri) 12:30 [Reply]
春の祈年祭は「としごひのまつり」と読み、トシを乞ふ(請)祭りです。このトシとは何かといふと、秋の稔り、収穫のことです。人の名で稔と書いてトシと読む場合がありますが、年齢を重ねることを「年をとる」と言ひ、「とる」とは収穫の意味からきた言葉といはれます。だから年に2回収穫があれば2つ年をとることになりますが、十何代かまでの天皇の年齢は、普通の1年を2倍に数へればつじつまが合ふので、そのような日本独自の暦法があったのではないかとの説もあります。
「豊葦原の千五百秋の水穂の国」の「秋」の用字はぴったりで、千五百秋は豊さや永遠の意味になりますが、ハヤアキツヒメのアキの語義は別かもしれませんが。
「一年を十日で暮らすいい男」とは年一場所時代(一場所は十日)の関取の話でしたが、私の知人に、12月31日生まれの人で、千秋さんといふ人もあります。

[3702] Re[3700][3695] 千秋 一般論  鱶飼 2002/12/06(Fri) 09:06 [Reply]
鶴は千年、亀は万年など持ち出して説明しようとしているから、その無理を指摘しているのです。「秋」字が「年」の意味に「転用」されているのであって「秋」字自体に「年」の意味があるのではないでしょう、という指摘です。一秋、十秋などと言わず(寡聞にして知らない)、千秋という場合だけじゃないのかな、年を意味しているのは?

つまり、ハヤアキツヒメの「アキ」を「年」の意味に解することへの疑問であります。

[3701] Re[3696]: 具体的な対応  玄松子 2002/12/06(Fri) 07:06 [Reply]
> (数価)(天皇名)(摩登迦経の訳語)(月宿名)

神名の発生は、もう止めたのですか?

それと、再掲。
>> #「火之迦具土」が「秋葉」に祀られる筋が見えるのです。
>これは、いつの時代のことを云っているのでしょうか。

[3700] Re[3695] 千秋 一般論  習志野のてつ [Mail] 2002/12/06(Fri) 00:52 [Reply]
「千秋万歳」について、もしかしたら常識では無いのかとGoogle検索しました。
で「約556件」と出ました。ご自分でお調べ下さい。

> 「現在」では、そうであることは認めますが。
別に認めて下さらなくても結構です。
もしまだ何か有りましたら、「青草掲示板」にカキコみ下さい。

[3699] 訂正と雑文  ユアン [Mail] 2002/12/06(Fri) 00:42 [Reply]
下の「神明」は「神名」のまちがいです。すみませーん。
あと、二連カキコもすみませーん。
てゆうか、ユアンが下の文章を書いてるうちに、hvhyさんはあれだけの
文章を短時間で書いてるのがすごいなと思いました。
>hvhyさん
サンスクリット語に詳しいのですか?いつもすごい知識量で圧倒されます。
もし「ヒマラヤ」がサンスクリット語でどいう意味なのかご存知でしたら
教えて下さい☆

[3698] 神の名  ユアン [Mail] 2002/12/06(Fri) 00:32 [Reply]
今話題にしている、神明の成立とは少し話題が外れますが、
ユアンは神の名前って面白いなあと思います。
「ヒルメ」と「ヒルコ」の名前の相似性も不思議に思います。
むしろ三貴神よりも、このふたつの関係が深いように思えてきます。
また、「ヒ」「チ」などの音は、あふれる生命力やエネルギーなどを意味すると
なにかの本で読みました。
漢字は外来のモノですが、それがはいってくる以前のやまとことば。
つまり純粋な日本文化によって形成された名前は原始の神道の形を伝えるモノだと
思います。(外来の文化が混じったモノもまたカタチ的に興味深いですが)
記紀ではもとからあるやまとことばの神の名を美しい言葉で飾って作ったモノだと
いう気がします。
でも成立年代を特定するのは大変な事でしょうね。
でも逆に言えばいろんな説を立てる余地が沢山あって面白そう☆

>秋について
秋を一年の事ととらえるのは、秋が収穫の時期である事と関係があると思います。
「一日千秋」という言葉も、なんでわざわざ秋を指定するかなと思いもしますが、
秋が収穫の時期であるため、一年の終りととらえられると考えれば秋=一年という概念も
無理なく理解できそうです。(ユアン的には納得です)

[3697] 具体的な対応の説明  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/06(Fri) 00:10 [Reply]
前項のような対応があるかどうかに関し、
さほど詳細な議論をしなくてもよい項目を
以下に列挙しました。一つ一つ見るだけなら、
偶然のようにも見えますが、その全体を評して
偶然と言うことは、なかなか難しいと思われます。

【九進法や系譜の循環を示す部分】

・第1代も第10代も初代のような性格を持つ ←→ 第1代も第10代も【一】
・第1代も第19代も「白檮」に縁がある ←→ 第1代も第19代も【一】
・第11代も第20代も御陵が「菅原」にある ←→ 第11代も第20代も【二】
・第16代も第25代も「雀」を名に負う ←→ 第16代も第25代も【七】
・「大長谷」の都が「纏向之日代宮」かの如き表現 ←→ 第12代も第21代も【三】
・「白髪大倭根子」の妹に「若帯比売」がいる ←→ 第13代も第22代も【四】
・「市辺之忍歯」は「福草」で、第0代は「葺草」 ←→ 第0代も第18代も【九】
・恐れる者に代わって敵を伐つ(神沼河耳、天命開別) ←→ 第2代も第38代も【二】
・「師木津日子玉手見」と「沼名倉太玉敷」の名辞が共通 ←→ 第3代も第30代も「房」
・「国押人」の兄に「天押帯日子」(隋書の)がいる ←→ 第6代も第33代も「角」

【名辞の直接的対応が認められる部分】

・第1代の御陵は「畝火山之北方白檮尾上」(尾を含む) ←→ 月宿の「尾」
・第2代「神沼河耳」は「耳」を負う ←→ 月宿「Jyestha」の意味は「耳環」
・第4代「大倭日子鋤友」は「友」(トモ)を負う ←→ 月宿「底」の和名は「トモ」
・第18代「蝮之水歯別」の「蝮」の古訓に「ミハラ」 ←→ 月宿の「Bharani」
・第19代「男浅津間若子宿禰」の「浅津」は「薊瓊」にも作られる ←→ 月宿の「Asvini」
・「豊耳聡聖徳」も第25代も「片岡」に縁がある ←→ 月宿「Sravana」は「耳聡」(舍頭諫経)
・「邇邇藝」は「邇藝志」と言われ、「女鳥」は逃げる ←→ 「邇邇藝」は月宿の「女」
・第1代の皇后は「多多良」(タタラ)を負う ←→ 月宿「婁」の和名は「タタラ」

【性格や事績が月宿から説明できる部分】

・第1代はまさに天皇の「元」(はじめ) ←→ 月宿「Mula」の意味は「根元」(舍頭諫経の訳語)
・第16代の「大雀」は「木菟」(ツク)と名前を交換 ←→ 月宿「Rohini」は「Soma」(月)に縁が深い
・第19代の治世に「薬方」に関する記事 ←→ 月宿「Asvini」に繋がる「Asvinau」は医薬の神様
・第27代の治世に「牛」が放たれる(名代) ←→ 月宿「箕」の形は「牛歩」あるいは「牛角」

[3696] 具体的な対応  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/06(Fri) 00:09 [Reply]
(数価)(天皇名)(摩登迦経の訳語)(月宿名)

・【一】神倭伊波禮毘古……………尾……Mula
・【二】神沼河耳……………………心……Jyestha
・【三】師木津日子玉手見…………房……Anuradha
・【四】大倭日子鋤友………………底……Visakha
・【五】御真津日子訶恵志泥………亢……Svati(音訳例:佐波遅)
・【六】大倭帯日子国押人…………角……Citra
・【七】大倭根子日子賦斗邇………軫……Hasta
・【八】大倭根子日子国玖琉………翼……Uttaraphalguni
・【九】若倭根子日子大毘毘………張……Purvaphalguni

・【一】御真木入日子印恵…………星……Magha
・【二】伊久米伊理毘古伊佐知……柳……Aslesa
・【三】大帯日子淤斯呂和気………鬼……Pusya
・【四】若帯日子……………………井……Punarvasu
・【五】帯中日子……………………参……Ardra
・【六】品陀和気(大鞆和気)……觜……Mrgasirsa
・【七】大雀(木菟?)……………畢……Rohini
・【八】大江之伊邪本和気…………昴……Krttika
・【九】蝮之水歯別…………………胃……Bharani

・【一】男浅津間若子宿禰…………婁……Asvini(音訳例:薊瓊)
・【二】穴穂…………………………奎……Revati
・【三】大長谷若建…………………壁……Uttarabhadrapada
・【四】白髪…………………………室……Purvabhadrapada
・【五】袁祁之石巣別………………危……Satabhisaj
・【六】意祁…………………………虚……Dhanistha
・【七】小長谷若雀…………………女……Sravana
・【八】袁本杼………………………斗……Uttarasadha
・【九】広国押建金日………………箕……Purvasadha

ここに名前を挙げた天皇は、いわゆる仏教公伝(書紀)の直前までの天皇です。
特に「神倭伊波禮毘古」あたりは、言わば「神代」に近しい存在。しかしながら、
こういう系譜が連綿と伝えられていたわけではなく、例えば7世紀の後半の時点で、(※あるいは8世紀)
月宿(二十七宿とか二十八宿とか言われるもの。右蘭)を題材にして一気に創作した。
という風に私は考えてます。その際に参照した典籍の筆頭が『摩登迦経』『舍頭諫経』。
結論はこうですが、この結論はやはり「コジツケ」か「トンデモ本」に見えると思います。

しかし、系譜に「九進法の構造」が見られるかどうか。そういうあたりを確認し、
それぞれの月宿のキャラクターと、それぞれの天皇のキャラクターを詳細に比較し、
その後に「コジツケ」かどうかを判断しても遅くはないと思います。なんと言っても、
双方の内容を吟味しないことには始まりません。そして仮に吟味してみた結果において、
「神代」に近しい存在の「伊波禮毘古」も月宿の一員(星座の一つ)ということになれば、
結局のところ「先に在ったのは月宿に関する知識」という話になってくるように思われます。

#サンスクリット語の正確な表記は、
#『密教占星術』などをご覧ください。
#上記において「底」「鋤」は宛字です。

[3695] Re[3694][3672] 千秋 一般論  鱶飼 2002/12/05(Thu) 23:22 [Reply]
> 通常「千秋」は「鶴は千年」の千年を意味します。

その謂いはいつ頃からあるものでしょう?

> 漢文(高校で習う程度のことで恐縮です)では、「千秋万歳」と
> つながります。万歳は「亀は万年」の万年の意味です。

秋が千回来れば千年ということに過ぎないのであって、秋は autumn
秋、という字も、禾を束ねる、から造られたようです。

> 例えば相撲の千秋楽は年6回、別名千歳楽とも云います。
> 季節としての秋の意味は失われています。

これもいつ頃から使われている意味あいでしょうか?

> 「千と千尋」ならぬ「千と千秋」、いや「秋と千秋」は異なり、
> 千秋とつながると、季節ではなく年のことになるのが一般的です。

「現在」では、そうであることは認めますが。


[3694] Re[3672] 千秋 一般論  習志野のてつ [Mail] 2002/12/05(Thu) 17:28 [Reply]
> 「秋」を季節の秋に限定する必要はないのではないでしょうか。
通常「千秋」は「鶴は千年」の千年を意味します。
漢文(高校で習う程度のことで恐縮です)では、「千秋万歳」と
つながります。万歳は「亀は万年」の万年の意味です。

例えば相撲の千秋楽は年6回、別名千歳楽とも云います。
季節としての秋の意味は失われています。

「千と千尋」ならぬ「千と千秋」、いや「秋と千秋」は異なり、
千秋とつながると、季節ではなく年のことになるのが一般的です。

[3693] Re[3692][3691]: 神名の成立  Setoh 2002/12/05(Thu) 16:40 [Reply]
白山姫や名草姫などのように、地名+姫で神の名にしているものもあるようで、地名が7世紀後半に成立したとは考えられず、一部の神名は仏典引用で解釈できるとのことでしょう。
豪族の首長(の祖先)を神格化していったりすると、族の名がつくと言うこともあったことでしょう。族名も太古からあったものと思われますね。息長氏と志那都比古など。
尤も、葦の芽生えを神としたような、宇摩志阿斯訶備比古遅の神などは、元々は自然神でしょうからこんなやっかいな呼び方をしていなかったでしょうから、創作神名かも。

ところで王仁が百済からやってきたのは、『日本書紀』によると応神朝ですが、今週の『神社紀行宇佐神宮』には3世紀に百済の王仁が『論語』などをもたらしたと書いてあります。卑弥呼の頃に魏へ遣いをやっていますので、漢字は伝わっていたのでしょうが、3世紀に百済はあったのでしょうか。
3世紀と断定している『神社紀行』、引き続き買うのがなにかいやになって来ました。

[3692] Re[3691]: 神名の成立  鱶飼 2002/12/05(Thu) 15:44 [Reply]
> 「風」の話は尽きたので、次は「神名の成立」ですかね。

3671の
>>そもそも天皇の系譜は月宿(インドのナクシャトラ)から作られたもの。
上記HPを見て頂くと、「天忍穂耳」は月宿の「虚」(イルカ座)ですが、〜後略〜

というのが引っかかっていますのでね。本当かよ、、、って。

[3691] 神名の成立  玄松子 2002/12/05(Thu) 12:49 [Reply]
「風」の話は尽きたので、次は「神名の成立」ですかね。

ところで、この成立時期を問題にしている神名は、古事記に出てくる「すべて」の神名ということでしょうか。
ならば、異名同神は、なにゆえに存在するのでしょうか。
7世紀後半に成立した神名が、8世紀初頭(異説はある)に書かれた古事記では、すでに幾つかの異名、異字が用いられているのは???

[3690] Re[3689][3688][3687]: 神名の成立  苗(miao) 2002/12/05(Thu) 11:54 [Reply]
修正です
> ワタシとしては、不改常典をたてに、文武−聖武を立太子−即位という流れで押し進めた一つの

[3689] Re[3688][3687]: 神名の成立  苗(miao) 2002/12/05(Thu) 11:28 [Reply]
> > その時期ですが、私は7世紀の後半と考えます。諸々の神名の成立もほぼ同様でしょう。

> しかし諸々の神名の成立が同様、というのは首肯できません。

ワタシとしては、不改常典をたてに、文武を立太子−即位という流れで押し進めた一つの統一した流れに則っての下地的存在として統計づけられた、

>太陽やその象徴物を祀る行為において実質的には古くから存在していたかもしれませんが、この名前そのものとなると、 それほど古い由来は持っていない

という、神名の成立は肯定できるのでは、と見なしています。

[3688] Re[3687]: 神名の成立  鱶飼 2002/12/05(Thu) 09:52 [Reply]
> 「天皇」なる呼称が成立した時期と全く同じ時期に成立した呼称ではないでしょうか。
> その時期ですが、私は7世紀の後半と考えます。諸々の神名の成立もほぼ同様でしょう。

これは支持し難い。天皇(てんのう)という明らかに漢語の呼称は7世紀後半に使われ始めたとしても良いのでしょう。
しかし諸々の神名の成立が同様、というのは首肯できません。
解読し切れないものはあるものの神名はやまとことばでしょう?

天皇(てんのう)と呼ぶ以前には、おほきみ、すめらみこと(?)とでも
呼ばれていたでしょう。
それと同様に、神名も、やまとことばで呼ばれていたと考えるべきでしょう。
やまとことばで呼ばれていた神名が7世紀後半に各種経の思想によって変更・改名された、というのでしょうか?

[3687] 神名の成立  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/05(Thu) 00:38 [Reply]
「神代の名前」というのは、具体的には例えば「天照」といったものですね。
これは「日神」とも書かれているので、太陽やその象徴物を祀る行為において
実質的には古くから存在していたかもしれませんが、この名前そのものとなると、
それほど古い由来は持っていないのではないでしょうか。と言うよりもおそらくは、
「天皇」なる呼称が成立した時期と全く同じ時期に成立した呼称ではないでしょうか。
その時期ですが、私は7世紀の後半と考えます。諸々の神名の成立もほぼ同様でしょう。

>以上の典籍は網羅的ではないが、上代資料として文献あるいは現物として残るために、
>その伝来を外証によって推定することは比較的容易なことである。しかし本書の目的
>の一つとする上代人の文学的表現の源泉を探るためには、単に現物として残る典籍の
>書誌的考証はあまり大した意味を持たない。むしろ数多の漢籍を如何に借用利用した
>かに重点がある。ここに更に改めて内証によって漢籍伝来を推定する必要が生ずる。

これは小島憲之氏が『上代日本文学と中国文学』において述べていることですが、
まず言えることは、漢籍伝来を推定する方法に、外証による推定と内証による推定
の両方があるということです。「上代人の文学的表現の源泉を探る」目的ではなくて、
例えば「古事記の神名や人名や地名の源泉を探る」目的においても、決め手になるのは
どちらかと言えば「内証」でしょう。つまりは「双方の中身を当たってみること無くして、
漢籍や漢訳仏典からの影響の有無は判断できない」という話です。とりあえず一般論として。

#日本書紀と古事記を比べると、古事記の場合には、
#文体も用語も漢訳仏典からの影響が顕著と言われる。
#古事記が「中国ではないものを指向している」ならば、
#しかしこれは当たり前かもしれない。漠然とした話だが。

[3686] Re[3680][3668]: ケガレでないもの  yanase [Mail] [Url] 2002/12/05(Thu) 00:01 [Reply]
 ケガレについては、謎のまま胸にしまっておくのも良さそうですね(どなたかと同じ結論?)。

ユアンさん> 「禊」とはもともと海の水を浴びること。常世波を浴びて生れ直すという意味が有ります。
> 「死と再生」の意味合いが強い気がします。

 禊ぎのメカニズム的なものを、自分なりに勉強してみたいと思ひます。

[3685] Re[3683]: 典籍の受容  鱶飼 2002/12/04(Wed) 14:10 [Reply]
> 書紀が述べる7世紀初頭かどうかは不明ながら、7世紀中の受容は認められます。

とした場合、7世紀とそれ以降の人名がそれらの典籍(参照しておられる各種の『経』)を意識して名付けられている可能性は論理的にはありうる、となりますね。

しかし、神代の名前を各種の経で判じるのはどうしてですか?
次のような仮定(のどれか)でもして居られるのでしょうか?
#神代の名前も記紀編纂時に各種経を意識して作られた
#もっと大昔から各種経が日本に知られていた
他にどんな前提があれば有効なのだろう?

[3684] 「東」と「南」の錯綜?  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/04(Wed) 11:28 [Reply]
>魏志倭人伝の邪馬台国への経路も、東を南としているとの見方があるようです。
>この辺りの謎解きが出来れば面白いことになりますね。(発言[3652]Setohさん)

まさしくおっしゃる通りで、なぜか「東」と「南」が錯綜している。
魏志倭人伝だけでなく、古事記における「日下」という言葉の使い方。
これも「意図的に錯綜させるような使い方」です。そのあたりが難しい。

「日下」について確認すると、サン・グリーンさんからのご指摘の通り、
地理を念頭に置けば、「瀬戸内海→大阪湾」は明らかに「西→東」であり、
その意味で「日下」は「東」に違いない。しかし「日下」という言葉自体は、
そもそも単独では「南方」を意味する言葉です。この「日下」の意味を踏まえ、
実際の「東」が「南」であるかの如く読めるように古事記は記述しているのです。

「春、夏、秋、冬」を「北、東、南、西」とする方位観の場合には、
「南」は「秋」(文月、葉月、長月)ですが、「葉月」は「婁月」で、
「婁」の主宰神は「香神」だから、「日下」が「南」を意味することと、
書紀が「香」という漢字を用い「草香」に作ることは、実は呼応している。
逆に言えば、「日下」〜「南」〜「秋」というグルーピングを念頭に置く時、
「なぜ香という漢字を用いたのか?」という理由が難なく説明できるわけです。

---------------------------------------

また「沙本毘古、袁邪本、沙本毘売、室毘古」が兄弟と言われ、
「室之秋津嶋」と言われ、さらに「日下部連、甲斐国造」の祖が
「沙本毘古」と言われる点も、実は「秋七月」は「室月」ですから、
「甲斐」〜「日下」〜「秋」というグルーピングから旨く捉えられる。
このことに関連して無視できないのは、(これも古事記の)以下の記事。

>即ち其の国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌曰ひたまひき。
>  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
>爾に其の御火焼の老人、御歌に続ぎて歌曰ひき。
>  かがなべて 夜には九夜 日には十日を
>是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東国造を給ひき。

「其の御火焼の老人」とありますが、「其の」とは、
「甲斐の」あるいは「酒折宮の」という意味でしょう。
そもそも「甲斐」は「香火」にも作られるわけですから、
「香火」と「御火焼の老人」は言い換えのようにも見える。

>まして、東京では、十月ごろの未明か二月初めの夜、
>南の地平とすれすれに現われ、西へ動いて間もなく
>隠れる。発見には細心の注意が要る。(日本星名辞典)

この記述は「南極老人星」について野尻抱影氏が述べたものですが、
「十月」は旧暦では「八月〜九月」ですから、この記述を信ずる限り、
「南極老人星」の見えやすい時期のひとつとして「秋」があるわけです。
したがって、古事記の「御火焼の老人」は「南極老人星」かもしれません。
仮にそうならば、ここでも「甲斐」と「南」が結ばれていることになります。
ならば明らかに「南」であるものに対し、「東国造」と言っているわけだから、
これもまた「東」と「南」の(意図的な?)錯綜と言えるでしょう。とりあえず。

[3683] 典籍の受容  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/04(Wed) 00:22 [Reply]
どうも風のほうに話が行ってしまったのですが、私が言いたかったのは、
「虚方」(虚の方角)が「南方」(南の方角)になる時期を「秋」と見る。
そういう方位観が記紀(とりわけ古事記)の基層に見られる。という点です。

しかしながら、この方位観には風も絡んでいるようであって、
そのことについても述べましたが、方位観を規定しているのが
風であるという話は一度もしてませんので、宜しく確認ください。

>ここで風向きなどで参照されてる幾つかのお経って
>いつ頃日本に入ってきた物ですか?

ということですから、仮に参照した経典があったとしても、
その経典に風向と季節のことが出てくるわけではありません。
諸々の星に関する知識や、それに付随する方位観というものを
参照したのならば、したのであって、そもそもはそういう話です。

-------------------------

で、日本に入ってきた時期ですが、これは避けて通れません。
例えば9世紀に入ってきたようなものを参照して、日本書紀が
書かれたなどという話は、物理的に全く有り得ないことですから。

そこで問題は、しばしば名前を出す『摩登迦経』『舍頭諫経』。
いずれも『シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ』からの翻訳。
但し付加されている部分があり、純然たる翻訳というわけではない。
『摩登迦経』については「その観測はサマルカンド付近の実測による」
との善波周氏の研究もある。翻訳者のひとり「支謙」は「月支」の出身。
これら経典の背後には、インドに加えて中央アジアが見え隠れしています。
ちなみに「経」となっていても、その内容は「恋物語」とでも言うべきもの。
仏教の経典と聞いた時に思い浮かべるものとは、まったく内容が違っています。

それはともかく前者の翻訳が3世紀、後者は3世紀ないし4世紀。
ですから、「百済の僧観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、
并せて遁甲方術の書を貢る」という推古朝(便宜的な呼称)の記事の
「暦の本及び天文地理の書」にこれらが含まれていた可能性はあります。
正倉院文書から733年、738年の写経も確認できるので、少なくとも
「月宿の知識の受容は空海が持ち込んだ宿曜経から」というのは間違いです。
高松塚古墳やキトラ古墳にいわゆる月宿が描かれている点なども踏まえるなら、
書紀が述べる7世紀初頭かどうかは不明ながら、7世紀中の受容は認められます。

#単に「漢訳仏典からの潤色」という程度の話だったら、
#『金光明最勝王経』からの潤色が知られているようです。
#また「沙本毘売」の物語の出典は『経律異相』にあるとか。

[3682] Re[3681]: 夏秋の交叉(ユキアイ)の季節  鱶飼 2002/12/03(Tue) 20:41 [Reply]
> > 古事記や日本書紀編纂に影響するようなタイミング
> 仏教伝来以降のことが記紀には多く記載されています。

なるほど。書き方が悪かったようです。
神代の神様のお名前が各種のお経の知識ベースで名付けられたのだろうか、
と書き直してみます

[3681] 夏秋の交叉(ユキアイ)の季節  Setoh 2002/12/03(Tue) 20:14 [Reply]
七夕姫が水辺で若神を待つ季節だそうです。アイが話題のアイの風や鮎とどう言う関係があるのか(ないかも)等と思いながら、拝見しておりました。柳田国男翁の『風位考』には「海上から陸上に吹く風をアイの風」と言っているそうです。場所によって方角が決まっている風で、入港に適した風向きですね。
航海の神様も船出の神、途中の荒波を越えていく時の神。入港の神が坐るようです。因みに、船出は住吉神、荒波は五十猛命、入港は海積神だったか、これは記憶違いがあるかも知れませんが。

言葉も言霊で、それぞれのTPOがあるのは当然でしょう。そう言う意味で
> イロイロを掘り起こすこと
が出来ました。

さて、掲示板はブレーンストーミングの場でもあります。また応答がなければつぶやく場ともなります。それは書き込みされる人の問題よりは、席亭を含め御覧頂いている各位の問題かも。
hvhyさんの書き込みに端緒にしての知的議論に発展していったことは、疑問を呈された玄松子さんの鋭い能力があってのことで、席亭は言うに及ばず、hvhyさんをはじめ各位はありがたいことと思っていると信じています。正直、勉強になりました。

> http://www62.tok2.com/home/woodsorrel/k_data/kazamuki01.gif
時代の申し子のようなかたばみさんの労作ですね。

> 古事記や日本書紀編纂に影響するようなタイミング
仏教伝来以降のことが記紀には多く記載されています。

[3680] Re[3668]: 罪ケガレでないもの  ユアン [Mail] 2002/12/03(Tue) 20:10 [Reply]
>yanaseさん
ユアンのカキコに対するリプライ、ありがとうございます☆
>ユアンさんのおっしゃってゐた「海の民族の穢れ」のいくつかについても、前記の要約に該当するものがありそうな気もしてゐます。
なるほど「穢れ」については漁師の民間伝承の方面からも色々な解釈ができそうですね。
特に「死者の魂を魚が運ぶ」という考え方はとても面白いと思います。
普通死者の魂を運ぶモノは鳥ですよね。上記の考え方は「ゑびす信仰」にもつながるようなきがします。この場合の「ゑびす」とは海からの漂着物です。
ただ、ユアンが採取した福岡の漁師さんたちの信仰では、「穢れ」そのものを忌むという意識が強く、また、海神を祭る志賀海神社でも穢れの禁忌が強かったように見受けられました。
「禊」とはもともと海の水を浴びること。常世波を浴びて生れ直すという意味が有ります。
罪穢れというよりも、「死と再生」の意味合いが強い気がします。
「穢れ」についてはまだまだユアンも勉強が足りませんね。
これからもご指摘よろしくお願いします☆

[3679] お経って  鱶飼 2002/12/03(Tue) 18:36 [Reply]
ここで風向きなどで参照されてる幾つかのお経って
いつ頃日本に入ってきた物ですか?
古事記や日本書紀編纂に影響するようなタイミングなんでしょうか?

[3678] 日本の風向き  かたばみ [Mail] [Url] 2002/12/03(Tue) 18:15 [Reply]
下記HPに日本の各地の風に関する詳細データがあります。
http://hurban.urban.eng.osaka-cu.ac.jp/~miki/WindDVR/
ここから抽出したいくつかの年間の風向きデータをごらんください(緑は夜間の風)。
http://www62.tok2.com/home/woodsorrel/k_data/kazamuki01.gif

日本の太平洋岸では総じて夏は東風で、南風が吹く地域は沖縄や宮崎など少数かつ短期間のようです。
(三重県の熊野は例外的に春〜秋に南風です)
対して日本海側での風向きは地域によって様々です。

対馬では夏の短期間に風向きが大きく変化していて航海には危険な期間になりそう。
風に注目するのは海の民だろうな。


東風ふかばにおいおこせよ梅の花・・
太宰府で東風が吹くのは真夏のみですが、夜は年間を通じていつも東風が吹くのが面白い。
菅原道真は夜になると都を思い出していたのかも。


[3677] 補足  玄松子 2002/12/03(Tue) 08:46 [Reply]
誤解されるといやなので補足。

> 問題は、特徴的な初夏の風が東から吹くとして、東=夏となるかどうか。さらに、南=秋、西=冬、北=春とまで言い切れるのかどうかです。

「この掲示板で、なんらかの結論を出せ」と主張しているわけではありません。
一つの文言にも、イロイロな考えがあり、イロイロの思考が存在します。
そういったイロイロを掘り起こすことが最重要だと思います。正誤の問題ではありません。

以前、青草で、hvhy氏の発言に対し、
> 「選択的仮定」と「意図的選択」を繰り返し、ひねり出した結果を「断定」するという方法は、そろそろ修正されるべきではないでしょうか。
と書きましたが、独断的な説のみを繰り返しても、情報の共有化にはなりません。
それが望みなら自身のHPでやれば良いことです。
一歩一歩の階段を、皆にわかりやすく、時には討議しながら進むのが掲示板なのではないかと、僕は思います。

[3676] 初書込み  さわらび 2002/12/03(Tue) 08:19 [Reply]
春・・・一月、二月、三月
夏・・・四月、五月、六月
秋・・・七月、八月、九月
冬・・・十月、十一月、十二月

現在使われている太陽暦と昔ながらの暦(太陰暦)では
少しばかりのズレがありますね。
そのことをを考慮にいれて考えると楽しいかもしれませんね。

[3675] Re[3673]: 無題  玄松子 2002/12/03(Tue) 07:54 [Reply]
> 万葉集では1例だけ、大伴家持の越中での長歌4006で「あゆの風」が歌はれ、ホトトギスが出てくるので、夏の風、夏の到来を告げる印象的な風のようです。

「アユノカゼ」は夏風(初夏の風)なのでしょう。そして、富山ではそれは北東から吹くのでしょう。万葉脚注に「越の俗」とありますから。

玄松子> http://www.mitene.or.jp/~nishio/kazenouta.htm
玄松子> -谷川健一『日本の地名』によれば、「アユの風」(アイカゼ・アイノカゼ)は秋田県仁賀保では「北風」を指し、越(越中=富山県)では「東風」を指し、さらに、「年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」という万葉集巻七の歌を引用して、名古屋市熱田あたり、つまり太平洋側では「アユの風」は「南風」だと述べる。

時間が有れば、『日本の地名』を確認してみましょう。
谷川健一氏が、絶対に正しいと主張しているわけではありませんが。

http://www.ishikawashokokai.or.jp/uchiura/kurashi/hogen/ainokaze.html
引用-「全国方言辞典」の「あいのかぜ」の項で日本海側に用いられ、風位が所により異なることを知ったからである。

問題は、特徴的な初夏の風が東から吹くとして、東=夏となるかどうか。さらに、南=秋、西=冬、北=春とまで言い切れるのかどうかです。
春一番は南風じゃなかったでしょうか。

[3674] Re[3673]: 無題  yanase [Mail] [Url] 2002/12/02(Mon) 21:20 [Reply]
「ハヘ」は正しくは「ハエ」でした。

[3673] 無題  yanase [Mail] [Url] 2002/12/02(Mon) 21:14 [Reply]
 自書込3660 北前船の話は後世のもので、出船の追風の意味のアイも同様です。北前船以降九州のハヘ、ハイが追風の意味になって日本海へ伝はって転訛したアイと、古代からのアユが混同されていった可能性もあながち否定できません。
 万葉集では1例だけ、大伴家持の越中での長歌4006で「あゆの風」が歌はれ、ホトトギスが出てくるので、夏の風、夏の到来を告げる印象的な風のようです。これが東風とされます。年魚市潟の由来もアユに間違ひないと思ひますが、万葉集ではこの風については詠まれません。その限りでは、アユ=東風=夏風は、もっともな話と思ひます。
 季節を期間として考へてその期間内での統計的に多そうな風といふのでなく、季節を訪れるものとして捉へその到来を導く風に着目するhvhyさんの視点も、良いと思います。

[3672] 「大倭豊秋津島」は南の島なのか?  玄松子 2002/12/02(Mon) 14:56 [Reply]
> 例えば「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、我が御子、
(中略)
> これら兄弟の名前は「千秋長五百秋之水穂国」という表現に何処かしら繋がっている。

ここまでは、「秋」という語が、水穂(水)に関連するということですね。

その「秋之水穂」という美称を冠された神名の中で、「骨」に関係する神が存在し、
「上記HP」の説では、「虚」であり「南」に関連するということでしょうか。

「上記HP(見ていませんが)」の説が正しいと【仮定】し、「骨」と「南」に関連ありとして、
それを、秋に特定・限定される過程が、まったく理解できません。


「ハエ」と「秋」の関係だけに注目するならば、速秋津彦神を見れば想像できるでしょう。
ただし、「速=秋」ではなく、「速」であるところの「秋津」と理解されます。
これ(秋津)が、水に関連することは明白。


> 記紀の諸々の名辞がまったく説明できない。特にこの点なんです。

「秋」を季節の秋に限定する必要はないのではないでしょうか。

[3671] 「天忍骨」と「神骨」  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/02(Mon) 14:02 [Reply]
「春、夏、秋、冬」が「北、東、南、西」という方位観は、
『摩登迦経』に言う「虚」(イルカ座)の見える方角により、
それぞれの季節を呼んだという意味。この点をご確認ください。

#但し「北」については沈んでしまうので、
#「北」に見えるということではありません。

これ以外の方位観が日本になかったというわけではなくて、
中国流も入ってきたからこそ、「東宮」を「春宮」にも作る。
私が強調したいのは、しかし中国流(淮南子等)の方位観では、
記紀の諸々の名辞がまったく説明できない。特にこの点なんです。

-----------------------------

例えば「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、我が御子、
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ」云々とあって、(※書紀でも「千五百秋之瑞穂国」)
まずここで「秋」に「水穂国」が結びつけられていますね。
また「天忍穂耳」を書紀は「天忍骨」(骨を含む)にも作る。

ところが「息長水依比売」の子を並べてみると、「丹波比古多多須美知能宇斯」
「水之穂真若」「神大根」「水穂五百依比売」「御井津比売」。いくら捜しても、
「水穂」を負う名前はこれ以外にない。「神大根」は書紀で「神骨」(骨を含む)。
これら兄弟の名前は「千秋長五百秋之水穂国」という表現に何処かしら繋がっている。

注意すべきは、「天忍穂耳」も「神大根」も「骨」と言われる点です。(※何らかの意味で同一視される)
そもそも天皇の系譜は月宿(インドのナクシャトラ)から作られたもの。
上記HPを見て頂くと、「天忍穂耳」は月宿の「虚」(イルカ座)ですが、
これは中国の「瓠瓜/敗瓜」に当たります。だいたい四角形が二つに見える。
だからこそ「神大根」の別名を古事記は「八瓜入日子」に作っているわけです。(※但し書紀では「矢釣」)
即ち「虚方」(虚の方角)が「南方」(南の方角)になるのが「秋」だからこそ、
「千秋長五百秋之水穂国は天忍穂耳の知らす国」と言われる。そういう話なんです。

#「秋」が「南」というのは、夜空に見える「イルカ座」、
#この方位を言っているのであって、それ以外の意味合いは
#とりあえず定かでない。定かでないが、仮に風の「ハエ」が
#台風シーズンの「南風」を指す言葉としても存在するのならば、
#「ハエ」という言葉も「秋と南」を繋ぐ要素として浮上してくる。
#記で「蝿(ハエ)伊呂杼」が「意富夜麻登久邇阿禮比売」と言われ、
#「阿倍(OPY)之波延(ハエ)比売」と言われるあたりを鑑みれば、(※過去ログ参照)
#少なくとも古事記では「ハエ」を「秋」に繋がる言葉として用いている。
#この「ハエ」が「南風」の意味である保証はないが、可能性はかなり高い。

[3670] Re[3669]: 無題  玄松子 2002/12/02(Mon) 10:31 [Reply]
> 春はすべての始まる(草木の萌え出づる時)なので私の中のDNAが納得しているようです。


「東=夏」に対し疑問を呈してる人間がおり、それに対して回答がない段階での、この書き込みは、早計ではないでしょうか。

東風とかかれる「アユノカゼ」は、yanaseさんがおっしゃるように、また、谷川健一『日本の地名』の記述にあるように、方位・方向を示すものではなく、
方位・方向を示す東風は、依然として「春」なのではないでしょうか。

[3669] Re[3666]: 無題  サン・グリーン [Mail] [Url] 2002/12/02(Mon) 09:57 [Reply]
hvhyさま。皆さま。ありがとうございました。

> > 例えば「東風」を「アユ」と言いますが(万葉集)、
> > これは実際には「夏風」です。(※「これ」は「アユ」のこと)
>

いろいろと勉強になりました。
来年から私の机に、北が春になって時計回りに季節が巡る図面を貼り付けることにしますね
春はすべての始まる(草木の萌え出づる時)なので私の中のDNAが納得しているようです。
流行歌にもありましたよね。北(国)が春だというような?(~_~;)
また、何か教えて頂きたいことがありましたら。お邪魔させてくださいね。
ありがとうございましたぁ〜。

[3668] 罪ケガレでないもの  yanase [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 23:43 [Reply]
[3574] ユアンさん> 海の民族はことのほか穢れをキライますし。

 だいぶ前の書込についてですみませんが、気になってゐたので、そのことを書きます。
 吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社)によると、高知県周辺では、葬式のあった漁師は、七日間は海に出ないといひます。船には船霊様が祭ってあり、また漁場を聖なるものとみて、死のケガレの問題から論じられることもありますが、しかしこれは、ケガレの問題とは異なるものではないかといふのです。以下は同書の要約です。

 高知県などでは、葬式のあったばかりの漁師が海へ出ても、魚は獲れないといひますが、一方では、女房が妊娠してゐる漁師が船に乗ると、大漁になるといひます。死と生、不漁と大漁の対応関係が見られます。
 その他の事例は省略しますが、漁師たちは魚が霊魂を運ぶものと見てゐるようなのです。
 死があったときは、霊が海の彼方へ帰るので、魚を獲ってしまっては霊の行き場がなくなります。また、魚はその漁師の船を見つけると名残惜しくなるので、船を避けて泳ぎ、そのために不漁になるらしいのです。
 一方、妊婦があるときは、霊が海の彼方から人間の世界へやって来ます。霊とともに大量に群れて来る魚は、人間の世界へ現はれようとするものですから、捕獲してもよいわけで、それで大漁になるらしい。

 要約は以上ですが、死や生についてケガレによるものであるかのように見えた事例も、霊の行き来、あるいは鎮魂に関する習俗なのであって、直接的なケガレの問題ではなくなって来るわけです。
 葬祭関係で、死んだ人の罪ケガレを祓へ清めると説明されてゐた事柄で、実は霊の通り道を祓へ清めてゐると思へるものが多いのが、前々から気になってゐたのです。
 ユアンさんのおっしゃってゐた「海の民族の穢れ」のいくつかについても、前記の要約に該当するものがありそうな気もしてゐます。

[3667] Re[3665]: 補足(秋葉について)  玄松子 2002/12/01(Sun) 23:25 [Reply]
> #「火之迦具土」が「秋葉」に祀られる筋が見えるのです。

これは、いつの時代のことを云っているのでしょうか。

[3666] 無題  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 22:59 [Reply]
> 例えば「東風」を「アユ」と言いますが(万葉集)、
> これは実際には「夏風」です。(※「これ」は「アユ」のこと)

については、

> 例えば万葉集に「東風」としての「アユ」が出てきますが、
> この「アユ」はいわゆる「コチ」とはまったく別物であって、
> 「コチ」が「春風」であるのに対し、むしろ「夏風」なのです。

と補強しておきます。

#誤解を招いたようですが、
#その点お詫び申しあげます。

[3665] 補足(秋葉について)  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 22:42 [Reply]
発言3659を補足しますと、こういうことが言えます。
「秋」〜「日下」〜「甲斐」(香火)という繋がりを
もし念頭に置くならば、「秋葉」が「火」であることが
難なく説明できるということ。むろんここに言う「火」は、
「木火土金水」(五行)の「火」を特に表わすわけではない。

#仮に「木火土金水」の「火」なら「夏」ですから、
#「秋葉」なのに「夏」という変な話になってきます。
#むしろ「大日本豊秋津洲」といった名義のなかにこそ、
#「火之迦具土」が「秋葉」に祀られる筋が見えるのです。

[3664] Re[3663]: 「東風」としての「アユ」  玄松子 2002/12/01(Sun) 22:33 [Reply]
> 万葉集や民俗語彙で知られる「アユ」(アイ)に注目すると、「東」と「夏」を結ぶ痕跡のようなものがそこに見えるという話。

以前は、
> 例えば「東風」を「アユ」と言いますが(万葉集)、これは実際には「夏風」です。
という事でしたが、痕跡のようなものだったのですね。

再掲。
> 仮に、アユノカゼが夏風であったと仮定して、
> 『実際には』「東風!=アユノカゼ」 なので、「東風!=夏風」となりましょうか。

それから、
元の話題は、古事記における特殊な「方位と季節の関係」の話だと思っていましたが、「万葉集や民俗語彙」、つまり当時の一般的な認識までそうなのだということなのでしょうか。

[3663] 「東風」としての「アユ」  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 22:15 [Reply]
>東風 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許藝可久流見由(万葉集4017)
>(越俗語東風謂之安由乃可是也)

ここに出てくる「東風」(安由乃可是)は、
民俗語彙として知られる「アユ」(アイ)と
同じものを言っている。そのように思われます。

>鳥取市賀露の老年層漁民は、「アイ」は「ハルゴチ」が吹き終わる
>ころから初秋にかけて吹く北東風で、沖合から多くの魚介類や海藻
>を浜近くに吹き寄せてくれる風だと言って、歓迎する。

>ナツノ アイワ スズシーシ イオモ ガイニ 
>ヨッテ クダッケー ミンナ ヨロコビマス ジェ。
>夏のアイは涼しいし魚もたくさん
>寄って来るから皆喜びますよ。
>(兵庫県美方郡香住町)

『アユノカゼの文化史』からの引用ですが、これらを信ずる限り、
万葉集4017の「東風」(安由乃可是)は「コチ」とは別物であって、
その吹く時期も、大雑把に「夏」を中心としていることになります。

#玄松子さんの辞書に「東風=春風」ということが載ってるとしたら、
#それは「コチ」と呼ばれるものを念頭においた話でしょう。ですから、
#私の話と矛盾してるわけではありません。この点にご注意くださいませ。
#まさに玄松子さんがおっしゃる通りで、「東風=夏風」という一般法則が
#あるわけではありません。万葉集や民俗語彙で知られる「アユ」(アイ)に
#注目すると、「東」と「夏」を結ぶ痕跡のようなものがそこに見えるという話。

[3662] 一般論  習志野のてつ [Mail] 2002/12/01(Sun) 19:35 [Reply]
◎南風を、いまでも「ハエ」と呼ぶ。
 「ハエ」とだけ云い、「ハエの風」とは言いません。
東風を「コチ」と云いますが、「コチの風」とも言わない。
「ハエ」や「コチ」には、風を含むからです。
「馬から落ちて落馬した、女のお婆さん」みたいなもの。
> 「アユ」(またはアイ)が「夏風」である点は、
> 『アユノカゼの文化史』などを参照してください。
読んでもいないのに、恐縮ですが、些か疑問を感じます。

◎>…「日下」というのは、太陽が南中した時に日影が無くなる場所…
「頭の真上から日が射す」と云う意味では、日本ではほぼ有り得ません。
夏至の時の南回帰線まで、だから、東京都小笠原村では有ります。
それ以外の考え方なら、日本全国同じ。つまり、『太陽が南中した時』
であり、『時間』しか示さないのでは?

[3661] 東風と夏風  玄松子 2002/12/01(Sun) 18:00 [Reply]
整理すると、

仮に、アユノカゼが夏風であったと仮定して、
「東風=アユノカゼ=夏風」 の図式において、「東風=夏風」となりえますが、
『実際には』「東風!=アユノカゼ」 なので、「東風!=夏風」となりましょうか。

「南風=秋風」というのは根拠があるのだろうか。(僕の辞書では「南風=夏風」)

注 「!」は、否定の意味。「!=」で同じじゃないということです。

[3660] Re[3657][3656]: 「アユ」とか「ハエ」とか  yanase 2002/12/01(Sun) 17:25 [Reply]
西九州の天草(牛深)や平戸の民謡のハイヤ節の掛声のハイヤは、船出に受ける南風(ハユ、ハイ)の意味で、この曲は北前船で津軽まで伝はってアイヤ節になったと民謡研究家竹内勉は言ひます。アユは、沖からの豊漁をもたらす風の意味ともいはれますが、日本海岸では出船のときの追風の意味でも使はれるようで(風向きをいふのではない)、アイはハイの言葉が移入されたときの訛りのような気もするのですが……。
 「あいや山せ早上らせて、とのが下るを待つばかり」(佐渡の民謡)
下りの船ですから、このアイは南風です。
ハユは西日本の言葉のようで、2つは使用される土地があまり重ならないので、アユもハユも同じもの(もとは南風)と思ってゐるのですが。山陰で両方使ふかどうかは知りません。

[3659] 「下氷」について  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 16:52 [Reply]
「秋葉」の神として最も一般的なのは「火之迦具土」。
「火之迦具土」は「美蕃登」(御陰)で発生した「火」。
また「迦具」(カグ)は「火」を意味するイラン系の言葉。

ところが一方で「秋」〜「日下」〜「甲斐」と繋がっており、
しかも古事記の「甲斐郎女」は書紀の「香火姫皇女」。よって、
この「香火」という名辞は「火之迦具土」(秋葉)に全く重なる。

さらに加え「志比陀君」(椎田君)の祖は「火穂王」(火焔皇子)。
「志比陀」が「下」の音仮名表記なら、「秋山之下氷」の「下氷」は、
「氷」(ヒ)でありながら「火」(ヒ)かもしれない。どうなのだろう。

>是に、日羅、桑市村より、難波の館に遷る。徳爾等、晝夜相計りて、殺さむとす。
>時に、日羅、身の光、火焔の如きもの有り。是に由りて、徳爾等、恐りて殺さず。
>遂に十二月の晦に、光失ふを候ひて殺しつ。日羅、更に蘇生りて曰はく、〜

「火焔の如き」と描かれているのは「身の光」だが、
ならば「下氷」の「氷」は「炎のような光」であって、
今まさに問題の「秋山之下氷」は「下光比売」に重なる。

「光」は「カゲ」とも読むが、「陰」も「影」も「カゲ」。
「宇豆比古」の妹は「山下影日売」だが、「宇豆」は「珍」。
そして「珍彦」の別名を「椎根津彦」(槁根津日子)とも言う。

書紀で「椎」を冠する名前は、「椎田君」と「椎根津彦」に限る。
これら鑑みれば、「下光比売」も「山下影日売」も実は同じだろう。
「光」でも「影」でもあるところの「炎」。それが「秋山之下氷」だ。

#そもそも「秋葉」は「秋八月」を表わす。ここで「葉月」は「婁月」だが、
#「婁」の主宰神は「香神」。また「婁」の和名は「タタラ」。このことから、
#「富登多多良伊須須岐比売」と「秋葉」(つまり下氷)の繋がりも見えてくる。

[3658] 鮎の風(補足)  玄松子 2002/12/01(Sun) 15:35 [Reply]
手持ちの資料になかったので、ネット検索してみました。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/kazenouta.htm
-谷川健一『日本の地名』によれば、「アユの風」(アイカゼ・アイノカゼ)は秋田県仁賀保では「北風」を指し、越(越中=富山県)では「東風」を指し、さらに、「年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」という万葉集巻七の歌を引用して、名古屋市熱田あたり、つまり太平洋側では「アユの風」は「南風」だと述べる。

『日本の地名』を確認していないのですが、これも一説かな。

[3657] Re[3656]: 「アユ」とか「ハエ」とか  玄松子 2002/12/01(Sun) 15:08 [Reply]
> 「アユ」(またはアイ)が「夏風」である点は、
> 『アユノカゼの文化史』などを参照してください。

せっかくご紹介いただきましたが、東風=夏風の確認だけを目的に、この本を読む気にはなれませんよ。
「そういう説もある」と理解してよろしいでしょうか。

余談。
書籍を紹介なされる場合は、書名だけではなく要約等を付けていただけると、ありがたいですね。その要約によっては、「読んでみようかな」という気になるかもしれませんし。

[3656] 「アユ」とか「ハエ」とか  hvhy [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 14:41 [Reply]
>うちの辞書では、東風=春風、南風=夏風となっている。うちの辞書が間違いなのかな。
>「実際には」とは、具体的にどういうことなんだろう。「一説には」なら、まだ理解の範疇だが。

「アユ」(またはアイ)が「夏風」である点は、
『アユノカゼの文化史』などを参照してください。

#但し「ハエ」については、梅雨の頃の南風に対し、
#そう呼んでいる場合、台風のシーズンの南風に対し、
#そう呼んでいる場合の両方が見られます。したがって、
#「ハエ=秋風」と言い切るには、もっと材料が要ります。

[3655] お蔭様で…  福島雅彦 [Mail] [Url] 2002/12/01(Sun) 12:07 [Reply]
 >出雲の熊野は、イヤ、ユヤが本来の読み方…。
※勉強になりました。熊には、辞典にも、イゥ、ユゥ、xiong がありました。
又、研究してみます。有難う御座いました。

[3654] Re[3637]: 季節と方位  玄松子 2002/12/01(Sun) 11:43 [Reply]
> 例えば「東風」を「アユ」と言いますが(万葉集)、これは実際には「夏風」です。

うちの辞書では、東風=春風、南風=夏風となっている。うちの辞書が間違いなのかな。
「実際には」とは、具体的にどういうことなんだろう。「一説には」なら、まだ理解の範疇だが。

[3653] 「南方より」は古事記だけ  hvhy [Mail] [Url] 2002/11/30(Sat) 21:47 [Reply]
>すみません、私が何か勘違い
>して居るようでしたら〜

勘違いじゃありませんよ。現実の地理に即して言えば、
「日下」へ上陸した時の進行方向は「西から東へ」です。
書紀においては「東胆駒山を踰えて、中洲に入らむと欲す」
と書かれてますので、盆地へ入る方向は「西から東へ」です。

>「吾は日神の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。
>今者より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ」と期りたまひて、南方より廻り幸でましし時、

「日に向ひて戦ふ」が「西から東へ」ならば、「日を負ひて撃つ」は「東から西へ」。
その場合でも、「東から西へ」(宇陀→忍坂→師木)というコースで盆地へ入るために
「南方」(紀国とか熊野とか)へ迂回した。というような理解で読むことも可能でしょう。
というか普通このように読まれてるわけですし、このことを否定する材料は別段ありません。

#細かく見ると、古事記の「日下」は書紀で「草香」。
#この「草香」から「南」を想起することはできません。
#「南方より」という表現も書紀にはありません。つまり、
#書紀においては「南」を意識させるものは何もありません。
#だからこそ古事記の「南方より」が特に問題になってきます。
#書紀は「倭漢」を「東漢」にも作る。古事記に「東漢」は無い。

[3652] 南方熊楠  Setoh 2002/11/30(Sat) 18:46 [Reply]
 魏志倭人伝の邪馬台国への経路も、東を南としているとの見方があるようです。この辺りの謎解きが出来れば面白いことになりますね。余談ですが、企業内でも偉い人の机の向きは南、次の東が好まれるようです。君子を気取っているんです。

 大和の青垣にもクサカと言う地名があったとか。

 出雲の熊野はイヤ、ユヤが本来の読み方ではなかったでしょうか。
福島さんのおっしゃる通り、出雲の熊野より紀伊の熊野に勧請する途中、「当社に熊野神が一時留まりませる」という神社が鎮座、熊野神社と書いて、イヤ神社と読まれています。 伊賦夜坂や揖夜神社、阿波の祖谷などを考えますと、イヤと読む熊野のルーツは出雲かも。

 南紀の熊野には、寡聞ですが、どうもイヤとかユヤと読んだ気配が感じられません。別の存在なのかも。狗奴を狗野とすればもう一息で熊野。熊襲辺りの民人が海流に乗れば南紀と出雲はそのコースになります。熊野樟日神が似合うのは南紀のようですし。いささか青草話でした。


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