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[3876] Re[3875] 忌火屋殿燃える!  神使い 2003/01/29(Wed) 09:31 [Reply]
> 神使いさん こんにちは。
> 伊勢神宮崇敬会事務局の方から下記のように教えてもえらいました。
> 忌火屋殿の改修工事の時は隣の建物に竈の神様をお移しして御饌の調理等を行っていますので、今回もそれに倣っていると思われます
> とのことです。

神奈備さん、こんにちは!
早速返信ありがとうございます。
噂では、現在斎館で行ってるとか聞きました。
隣の建物に移しているとは初めて聞きました。また後で教授にでも確認してみます。
ありがとうございます。

私は忌火屋殿を実際に見させてもらったこともあるので、今回の出来事はショックでした。
日別朝夕大御饌祭も見させて頂いたこともあり、これは絶対に途絶えさせてはいけないことだと実感させられました。何があっても、どんな天候でも続けていかなければならないのはすごく大変なことです。私たちも見習わなければいけませんね。

(日別朝夕大御饌祭は一般の方は絶対に見れませんが、神職課程の者は見ることができます。)

[3875] Re[3871]: 忌火屋殿燃える!  神奈備 2003/01/29(Wed) 09:18 [Reply]
> 初めて書き込みします。私は大学で神道を勉強している者です。
> ところで忌火屋殿が燃えてしまった今、どこで御饌は調理してるのでしょうか?

神使いさん こんにちは。
伊勢神宮崇敬会事務局の方から下記のように教えてもえらいました。
忌火屋殿の改修工事の時は隣の建物に竈の神様をお移しして御饌の調理等を行っていますので、今回もそれに倣っていると思われます
とのことです。

[3874] Re[3873]: 井光神社の井  習志野のてつ [Mail] 2003/01/29(Wed) 01:16 [Reply]
> 井氷鹿こと井光神社の祭典日時が 10月の第二土曜が千本餅つき 日曜日が例祭と成りましたお知らせいたします。
吉田眞一様、お知らせ、有り難うございます。
ところで、当時の「井」は、今の井戸と違い、掘り下げるのではない。
「泉に枠を作って、それを利用した。」との説がありますが、いかがお考えですか?
確かに、あふれ出る水の周りに井桁を組んだと考えたほうが、振る下げた井戸よりも
考えやすい。山幸彦の姿が映るには、浅いほうがいいと思います。どうですか?

[3873] 祭典日時  吉田眞一 2003/01/28(Tue) 20:05 [Reply]
井氷鹿こと井光神社の祭典日時が 10月の第二土曜が千本餅つき 日曜日が例祭と成りましたお知らせいたします。

[3872] Re[3870]: 補足  サン・グリーン 2003/01/28(Tue) 17:42 [Reply]
>  話は違うのですが、『アイヌの叡知とユーカラの夕べ』と題して、語り部でシャーマンのアシリ・レラさんがユーカラを語るそうです。1月31日神戸、
> http://www.office-ten.net

神奈備さま。
アシり・レラさん講演会の案内をアップしてくださりありがとうございます。
レラさんはアイヌの聖地・北海道、二風谷で生まれ育った女性です。
雷と共に誕生した不思議なパワーを持つシャーマンなのです。
アイヌ民族の歴史と共に、戦うことの愚かさや「いのち」の尊厳などをカムイユーカラ(神々の叙事詩)にのせて語り伝えようとしています。
皆さま、ぜひ、ぜひ「魂の語り」を聴いてくださぁ〜い。

[3871] 忌火屋殿燃える!  神使い 2003/01/27(Mon) 22:41 [Reply]
初めて書き込みします。私は大学で神道を勉強している者です。
よろしくお願いします。
いつも皆さんの知識の豊富さに驚いています。

25日のよるに忌火屋殿が燃えてしまいました。漏電が原因みたいですね。
正宮が燃えなくてよかったです。
ところで忌火屋殿が燃えてしまった今、どこで御饌は調理してるのでしょうか?
ご存知でしたら教えてください!
(教授に聞けばわかるかもしれないですが、当分学校に行かないので…)

[3870] 交野ヶ原の古老からの情報  神奈備 2003/01/27(Mon) 18:33 [Reply]
 アテルイとモレの処刑場として枚方市は片埜神社の近くに比定し、碑も建てられています。宇山、上山、杉山と候補地があって、宇山に当たる場所なのでしょう。
 この前、交野ヶ原に住む古老が小さい頃に聞いた話として、枚方市田口の山田東小学校の近くが本当で、かつアテルイとモレの身代わりを処刑して、二人は故郷に帰ることが出来たと言うよくあるパターンのお話でした。100年前にはそのように伝わっていたことは事実です。
 杉山はJR長尾駅の東の方でしょうから、上山とされている所からかも知れませんね。
 余談ですが枚方の地名には”X山”が多いようです。

大三元さん、本のご紹介ありがとうございます。
 話は違うのですが、『アイヌの叡知とユーカラの夕べ』と題して、語り部でシャーマンのアシリ・レラさんがユーカラを語るそうです。1月31日神戸、
http://www.office-ten.net

[3869] HP紹介★地質屋情報局★  G-NET master [Url] 2003/01/27(Mon) 17:42 [Reply]
 地質出身の者として、少しでもこれまでにお世話になった関係者(地質屋、地球物理屋、土木屋、測量屋、建築屋、設計屋等)に役立とうとの思いで1年半毎日休まずHP★地質屋情報局★を維持しています。
 地質屋は、全てのプロジェクトにおいて最も川上の情報発信者です。活用 可能な最新・豊富な情報を有しています。中でも土木・建築の調査 ・測量・設計・施工等に今後重要となる資格 ,CALS/EC,ISO等非常に多くの情報を整理し、それらの情報を速やかに随時(最低1日間隔)で発信しています。
 皆様もご利用ください。私の30年近い実績がきっと役立つでしょう。

[3868] 一万年の旅路  大三元 [Url] 2003/01/25(Sat) 21:25 [Reply]
神奈備さん

>  シベリアで寒気と乾燥の中で進化しつつ、列島へまた大陸へ住み良い土地を求めて旅に出た人々、祖先達、まさに遠祖そのもの、その勇気に敬意を表したい所です。彼らは各地で土器を工夫していったのでしょう。列島の縄文人が直接太平洋を渡る必要はなかったのでは。

アメリカ先住民族の一、イロコイ族の末裔がイロコイ語で聞いた伝承を英語にしたものの和訳本で『一万年の旅路』というのがあります。地中海と思しきあたりから、ユーラシア大陸を横断して、シベリアからアラスカへ渡り・・・・という伝承が出ています。土器については印象がないのですが、色々示唆に富むものがあります。

[3867] Re[3866][3865] お知恵拝借  神奈備 2003/01/25(Sat) 14:43 [Reply]
> 三内丸山遺跡が、1500年続いたあと消滅します。その一部は海へと進み、太平洋を漕ぎ渡った…無理ですね。

 日本列島から出張しなくてもよかった。
1998年発行の『日本人の来た道』池田次郎から
長崎県福井洞穴で出土の隆起線文土器は約12先年前
同時代の土器がシベリアのアムール河流域、バイカル湖南岸、長江流域などで発見
→いくつかの所で別々に発生
1万年前までは氷河時代でベーリング海や千島列島は陸続き。

 この本はあの藤村某氏の捏造発覚前ですので割り引いて読む必要があります。(迷惑なこと、彼は何故逮捕も告訴もされないのだろう。)

 シベリアで寒気と乾燥の中で進化しつつ、列島へまた大陸へ住み良い土地を求めて旅に出た人々、祖先達、まさに遠祖そのもの、その勇気に敬意を表したい所です。彼らは各地で土器を工夫していったのでしょう。列島の縄文人が直接太平洋を渡る必要はなかったのでは。

 池田で思い出しましたが熊野王子社に池田王子があります。阪和線久米田駅西側。
場所がはっきりしなかったのですが、最近ようやく特定できましたのでHPを更新しています。お知らせまで。

[3866] Re[3865] お知恵拝借  習志野のてつ [Mail] 2003/01/24(Fri) 09:50 [Reply]
> 縄文土器のルーツは日本列島なのでしょうか、土器の技術を持った民人が広いシベリアか
> ら1万年の旅路で列島へ、またアメリカ大陸へ渡っていったこともあったのでしょう。
バヌアツで発見された縄文土器は、「青森県出土の典型的な円筒下層c、d式土器の鉱物添加物と組成、量とも一致」
三内丸山遺跡が、1500年続いたあと消滅します。その一部は海へと進み、太平洋を漕ぎ渡った…無理ですね。

海のモンゴロイド『ラピタ人』が、縄文人ではないか?との仮説があります。
義経ジンギスカン説よりも信憑性があり、少数の人たちは真剣に調査しています。
『ラピタ人』は今から3500年前突然登場。黒曜石、土器を持ち、金属器を持たない海洋民族です。
http://www.asahi-net.or.jp/~NA2Y-YMMT/p1.html

話は変わりますが、キャプテンクックがハワイに行ったとき、ハワイ人は既に鉄の存在を知っていました。
鉄製の釣り針の有用性を知っており、クックの船から釘を抜いて持ち去ろうとした話が残っています。
海に孤立しているハワイに、何故どのようにして、鉄が伝わったのか?
日本人が漂流。鉄を伝えたのではないか?と云う説があり、海幸山幸の釣り針話、魏誌倭人伝の一年かかる
国の話などが、現実味を帯びて身近に感じられます。

[3865] Re[3864][3863] お知恵拝借  神奈備 2003/01/23(Thu) 22:17 [Reply]
> 悪意のある書き込みに疑心暗鬼なもので、失礼しました。
ご配慮ありがとうございます。
悪意よりは無思慮書き込みが原因だったのしょうか、stanさんの「こらぼれ」は惜しいことになりました。早急にRAM復活を期待しています。
縄文土器のルーツは日本列島なのでしょうか、土器の技術を持った民人が広いシベリアから1万年の旅路で列島へ、またアメリカ大陸へ渡っていったこともあったのでしょう。

> 寒川神社
ススキも稲霊の管轄下ということでしょうか?

[3864] Re[3863] お知恵拝借  習志野のてつ [Mail] 2003/01/23(Thu) 10:16 [Reply]
> ある会合の宿題に「葦」が出ていまして、…
『イモや、アワ、キビ等を畑栽培していた葦原中国が、稲が渡って来て豊葦原瑞穂の国になった。』。
稲穂を持って天下る話にもなっていますから、信憑性高いです。?「葦」が生える処を耕して稲を植えた。

[3861] 間違いの自己訂正
> 葦舟流しの一例   船橋市三山の二宮神社(寒川神社)…
> …小さな葦舟(1m弱)を、毎年、泉からの流れに乗せ流します。大きな舟だと流れないから?
調べましたら、葦ではなく、ススキでした。毎年7月15日にススキの舟を流す「お舟流し」です。

> 『雨蚊帳史話』の筆者でしょ。
悪意のある書き込みに疑心暗鬼なもので、失礼しました。

[3863] Re[3862][3861]: お知恵拝借  雨蚊帳 2003/01/22(Wed) 16:25 [Reply]
> 『雨蚊帳史話』の筆者でしょ。
> 席亭とも呼ばれる人じゃないでしょうか。(違うかな)
そうでした。席亭の連続の投稿もどうかと思いチト無駄をいたしました。

三成が淀川の葦を採取する人にかける税金を領地のかわりにもらったとか、この時代までずいぶん役に立っていたようですね。
ある会合の宿題に「葦」が出ていまして、カンニングでした。よろしくお願いいたします。

[3862] Re[3861]: お知恵拝借  玄松子 2003/01/22(Wed) 13:47 [Reply]
> 雨蚊帳 さん、こんにちわ。
> ご自身のことも少しご紹介いただけるとカキコミ易いのですが。

『雨蚊帳史話』の筆者でしょ。
席亭とも呼ばれる人じゃないでしょうか。(違うかな)

[3861] Re[3860]: お知恵拝借  習志野のてつ [Mail] 2003/01/22(Wed) 13:30 [Reply]
雨蚊帳 さん、こんにちわ。
ご自身のことも少しご紹介いただけるとカキコミ易いのですが。

> …巨大葦船が日本にもあったと言う根拠・証拠・手がかりなど何でも。
…巨大葦船…私の知る限りありません。無かったと思います。
竹の舟、土の舟までは、云われています。(私は考えていませんが)

葦舟流しの一例
船橋市三山の二宮神社(寒川神社)
神奈備神名帳 http://www.kamnavi.net/en/simofusa.htm
御由緒に「二.治承四年、藤原師経当国へ左遷の際…」とあります。
地元の伝承で、たどりついた人々の一部は、この地での暮らしを嫌がり、翌年都へ帰ったそうです。
それを記念した祭りが有り,小さな葦舟(1m弱)を、毎年、泉からの流れに乗せ流します。大きな舟だと流れないから?

> 縄文時代古代モンゴロイドが中国や日本から太平洋を渡ったといわれる仮説を立証できそうな事柄・
> 根拠などあれば教えて下さい。
古モンゴロイドと縄文人とは違う概念です。縄文人は古モンゴロイドの直接の子孫かもしれませんが。
古代モンゴロイド?あまり聞かない言葉です。該当するかどうか判りませんが、一応。
「海を越えた縄文人」テレビ東京開局35周年記念制作、特集番組をまとめた本
『バヌアツのエファテ島で5000年前の縄文土器が発見され、これが5000年前にこの島に来たものだという
ことはたぶん確定している。また、エクアドルの太平洋に面した漁村で、縄文土器に似た模様を持つ土器片
が出土していることもわかっている。…』どちらも存在は認めても、縄文人が行った根拠とは認められていません。

[3860] お知恵拝借  雨蚊帳 2003/01/22(Wed) 11:48 [Reply]
葦船伝説があれば教えて下さい。
各地にある精霊舟=葦船が原型のなかで大型の物が残る神社や祭り、巨大葦船が日本にもあったと言う根拠・証拠・手がかりなど何でも。

葦にまつわる民話や説話
 葦・菅・イグサなど水生植物全般の利用方法や今に残る民芸品等またその加工方法
葦を使った葦船以外の加工品など

縄文時代古代モンゴロイドが中国や日本から太平洋を渡ったといわれる仮説を立証できそうな事柄・根拠などあれば教えて下さい。

[3859] Re:[1336]元伊勢の元は摂津  2001.6.23  Setoh 2003/01/20(Mon) 21:59 [Reply]
> 摂津国の風土記逸文から

> 摂津国の風土記にいう、稲倉山。昔、止与う可乃売神(う=口篇に宇、とようかのめ)は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
> またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむおえず、ついに丹波の国の比遅(ヒヂ)の麻奈韋(マナゐ)に還られた。

この稲倉山が判りましたヨ。宝塚の売布神社の背後の山だそうです。
売布神社は小浜村の米谷に鎮座、米谷は売布(メフ)谷の訛とか。『伊丹台地の史話と昔話』より。

この辺り一帯は伊奈野、猪名野と呼ばれ稲作地帯を感じさせます。また風土記にあるように豊宇可乃売神を奉ずる人々が去った後に、下照姫を奉ずる部族がやって来たのでしょうか、売布神社の祭神になっています。小浜の地名は出雲の伊那佐小浜からか、伊那が猪名か、無関係かは不明。

[3858] リンクありがとうございます  大三元 [Url] 2003/01/18(Sat) 18:32 [Reply]
setoh さん、表紙に立派なリンクを張って下さったのですね。
ありがとうございます。ビジターが増えてます(^_^)

[3857] 砥鹿神社社名考  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/18(Sat) 02:11 [Reply]
貴重な情報、ありがとうございました。
おかげさまでサイトが完成しました。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/t6/tabi632.html

[3856] 中山寺以外の押熊王  Setoh 2003/01/17(Fri) 22:18 [Reply]
『宝塚風土記』と云う地元の歴史家がかいた本があります。これによると:−
忍熊王を祀る神社として
奈良市押熊町の八幡神社には香坂神、押熊神
京都府宇治市の宇治離宮下社(宇治神社)押熊王
が記載されていました。根拠出典は記載なし。
宇治神社は宇治上神社の下社で定説では菟道稚郎子が祭神
ところで
大山守 猪を捕ろうとさそわれてだまされて死ぬ
大雀命 = 仁徳天皇
宇遅和紀郎子 自殺?
また
香坂王 猪に食われて死ぬ
押熊王 だまされて死ぬ
誉田別 = 応神天皇

大山守の死に方の話を香坂王、押熊王に分けて物語りを造ったのかも。

[3855] 砥鹿神社の名の由来を教えて下さい!  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/16(Thu) 20:11 [Reply]
 AYAです。

 一宮がどこかって言うのは、複雑ですね。「○○神社が一宮だ!」と言ったときに「確実な誤解」とまで言えるかどうか。「出雲大社の御祭神は(ずっと)大国主」こそ「確実な誤解」と思いますが。
 実際、インターネットで「出雲国 一宮」で検索すると、PONTAのサイト以外にも出雲大社について触れたサイトがヒットしますから、出雲国一宮=出雲大社という説もあっていいのでは?まぁ、ネットのサイトは、「現在、一宮制があったら、出雲国一宮は出雲大社」という意味で載せてるのかもしれませんが。

 基本的には、私は近所(西遠&東三河)の研究をしてるので、実は、出雲国のことは、全くと言っていいほど知りません。地元も調査中で、0.4%くらいしか分かっていませんが。

 遠江と三河の一宮は、みなさん、ご存知でしょうか?

 遠江国の一宮は小國神社か己等乃麻知神社(現在の事任八幡宮?)のどちらかだと思います。『大日本国一宮記』等では、一宮は己等乃麻知神社だとしていますが、それは当時、己等乃麻知神社が「我こそが一宮なり」と主張していたので、それを認めたのだそうです。私に言わせれば、勝手に言ってるだけで、一宮は小國神社ですが。ただ、小國神社の由緒書に「当社は古 来より許当麻知神社とも事任神社とも 固有の別名がある」って書いてあるから、話は複雑?(余談ですが、神社に行くと、看板に「由緒」と「御由緒」があるけど、「由緒」でいいのでは?「御祭神」と「祭神」は、「御祭神」の方がいいと思います。)

 三河国の一宮は砥鹿神社です。三河に住んでいない一般の人は読めないでしょう。なぜ、こんな字にしたのか悩んでいたのですが、紀記と不比等の関係を読んでいて分かりました。今、この説を文章化しています。ただ、私以外にこのことに気づかれた人もいるかもしれません。お手数ですが、どなたか砥鹿神社の名の説の一覧をメールしていただけると幸いです。

[3854] 出雲一宮  玄松子 2003/01/15(Wed) 13:56 [Reply]
一宮は、赴任した国司が最初に訪れる神社であるとか、神階の最上位の神社であるとか、勢力が一番強い神社であるなど、イロイロな見方があります。
また、尾張の熱田宮は一宮ではありませんし、伊勢神宮は一宮制の外に存在します。
単純に、「国中第一之霊神=一宮」ではないと思います。

出雲での神階に関しては、中世においては熊野社の方は杵築社よりも上位。風土記の神戸の記載順も熊野社が先です。
中世後期から勢力は逆転しますが、延喜式吉田家本の注に熊野社を一宮と書かれており、鎌倉期になっても、まだまだ熊野社を上位とみていたようです。
勢力の逆転は、単に出雲国造家が意宇郡から出雲郡へ移住したからだと考えられています。

ちなみに、中世を通じて、杵築社を一宮としている文書はありません。
(近世以降は、また別の話。)

[3853] Re[3849][3847]: 答発見!  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/15(Wed) 01:46 [Reply]
>メルマガのアドレス?また掲示板に載せて下さい。よろしく。

> HPを拝見、一宮について、誤解しておられるような気がします。
> これだけは、確実な誤解と思えることを一点。
> 出雲の国の一宮は、熊野大社です。

メルマガは
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/mm.htm
です。

出雲の一宮について。
「出雲大社」は明治以降の呼び名で、前は「杵築大社」。
古代や近世以後の祭神は大国主だが、一宮制当時(中世)はスサノオ。
古代の、大国主が祭神の時代は熊野神社の方が上位。
しかし、中世への移行期において、国造が杵築に移住したこともあって、地位が逆転。
11世紀中頃には、一国平均役による造営が行われるなど、杵築大社が一宮としての地位を確立していった。
鎌倉期には「国中第一の霊神」であるとして、鎌倉中期には、惣社さえ、末社として取り込んでしまい、完全に独走態勢に入った。
<結論>
古代は、熊野神社の方が上だった。
一宮制の時代(中世)は、杵築大社の方が圧倒的に上で、出雲国一宮だった。

[3852] Re[3851][3847]: 答発見!  yanase [Mail] [Url] 2003/01/15(Wed) 01:36 [Reply]
 玉砂利については、気づかなかった着目点でした。
 確かに参道などを歩く人間にとっては禊ぎの意味もあるようで、ただ神社関係の説明では、禊や祓が出てくると、そこで説明終了とは、よくあることかも。
 参道と呼ぶ道は人間ばかりが通る道ではなく、人間が歩くときは中央を避けて通ります。伊勢神宮の御正殿の真下にもこぶし大の石が敷き詰めてありまして、人間が禊ぎをする場ではないようです。海の彼方から神霊が川を遡って来て、船か何かに乗ってですけれども、そして祭の場に鎮まったような、そんな神の来臨が毎年続くことを意味してるような気もします。

PONTAさん> 山の神と海の神が神社で出会うのかなと。

この発想も悪くはないのでは?

玄松子さん> 基本的には、神社の施設や建物は、寺院の影響がほとんどではないでしょうか。

実証的な意見は出ませんが、禊や祓などの人間中心の解釈とは、寺院の影響かもしれません。

[3851] Re[3847]: 答発見!  玄松子 2003/01/14(Tue) 23:48 [Reply]
> 禊ぎでした。ということは「川」が正解ですね。
> だから「白い」玉砂利がいいのかな。汚れていなくて清潔感があって。

現代の神社で、そのように説明しているからと言って、それが真実なのだろうか、と思います。
禊であるとすると、手水舎と同様、門の外にあるべきだし、その上を歩くべきですね。実際は門の中だけの場合が多く、別に設置された道を歩きます。
また、寺院の場合も、禊なのでしょうか。

基本的には、神社の施設や建物は、寺院の影響がほとんどではないでしょうか。
(でも、寺院や茶室にも手水鉢はあるよね。あれは何だろう。単に手を洗うだけかな)

[3850] Re[3848]: メルマガ  習志野のてつ [Mail] 2003/01/14(Tue) 23:35 [Reply]
> 広場は海だ!白い玉砂利は塩だ!でも、実際は川だった。でも、禊って、
> 塩を使って行うもので、海でないといけないんだよ〜。ただ、当時の神社
> は内陸部にあったので、『海につながる清流で代用可能』ってルールが出
> 来たんだよ〜」ってなるかな。
 すばらしい!お若いの、やりますな〜!とじじむさく。
 異論はあるとおもいますが、おっしゃる通りのルールが、出来たと思います。
  メルマガのアドレス?また掲示板に載せて下さい。よろしく。

[3849] Re[3847]: 答発見!  習志野のてつ [Mail] 2003/01/14(Tue) 23:28 [Reply]
> 禊ぎでした。ということは「川」が正解ですね。
いだしっぺで恐縮ですが、「川」が正解とは限らない。
なにしろ、禊と云えば、最初は伊耶那岐(いざなぎ)の尊
「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして禊ぎ祓へたまひき。」
「住吉大社」学生社、住吉大社編、2002年12月改訂版では、「橘の小門」について、
日向国説も記しつつも、筑前国志賀海神社近くであろうとしています。
要するに、「禊」が最初に現れたのは、川ではなく、海でなのです。
流れが速い、遅い、調度良いなど云い変ですが、やはり海です。
大分前になりますが、福島説(神奈備リンクにあります)もそうでした。
 筑紫の日向(チクシのヒムカ)云々=福岡県北部の海 説です。
結論:イメージ川で、海も有りかな?程度にしていただきたいです。

HPを拝見、一宮について、誤解しておられるような気がします。
これだけは、確実な誤解と思えることを一点。
出雲の国の一宮は、熊野大社です。 『亀太夫神事』
出雲大社は、熊野大社から、燧臼(ひきりうす)・燧杵を受け取る。
http://www.vill.yakumo.shimane.jp/14kankoh/kumano2.html
いわば大国主は、スサノオの家督を継いだので、スサノオ(熊野大社)に
頭が上がらない。で、毎年丁寧に挨拶をしに行くのかなと思います。

玄松子さんのHPにも、出雲国國一之宮として、熊野大社のきれいな
御朱印が掲載されています。

> だから「白い」玉砂利がいいのかな。汚れていなくて清潔感があって。
すいません。これは私の間違い。
「白い」玉砂利 ではなくて、「白い玉石」とすべきでした。
上を歩くと、汚れて白くない状態になる。
歩かないところに、「白い〜」を配置してるようです。

でも「玉砂利」と「コーヒーミル」、知らなかった。面白かったです。

[3848] メルマガ  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/14(Tue) 23:14 [Reply]
 PONTAのAYAです。
 PONTAでは無料のメルマガを発行しています。私の担当は、神道です。
 明朝発行の原稿のタイトルは「広場は川だった!」。
 かなりの長文ですが、要約すれば、「図書室で調べて確信を得た。巨石の周囲には祭りのスペースがないので、広場を作った。これは前方後円墳の成立時期と一致する。しかし、フィールドワークを始めて、直感した。広場は海だ!白い玉砂利は塩だ!でも、実際は川だった。でも、禊って、塩を使って行うもので、海でないといけないんだよ〜。ただ、当時の神社は内陸部にあったので、『海につながる清流で代用可能』ってルールが出来たんだよ〜」ってなるかな。

[3847] 答発見!  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/14(Tue) 01:22 [Reply]
禊ぎでした。ということは「川」が正解ですね。
だから「白い」玉砂利がいいのかな。汚れていなくて清潔感があって。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/xa2/mayu-ito/sobo20000316.html
http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/24.htm
http://jiten.cside3.jp/seminar/gimon_197.htm

[3846] 玉砂利考  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/14(Tue) 01:04 [Reply]
 玉砂利は、「川であって、そこを通ることにより禊になる」という説も捨てがたいですね。
 私の場合、天白磐座遺跡に不思議な説明図が貼ってありまして、
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/t6/1.jpg
山があって、神社があって、その前に川と海が描いてあったのです。
でも実際に、神社の前は広場であって、川も海もない。
だいたい、神社って、林の中に1本の参道があればいいだけで、こんな広場は必要ないはず。
と考えていくと、山の神と海の神が神社で出会うのかなと。

 日本最古の神社は大神神社だそうですが、当時、三輪山は、奈良湖に浮かぶ島だったと聞いたことがあります。とすると、やっぱり海かなと。(昔は「湖」も「海」も「うみ」と言った(どうしても区別したい場合は、海を「しほうみ(塩海)」と言った)そうですから。)

 私が住んでる遠州は波が荒いです。サーフィンで楽しめます!
 海岸は「南遠大砂丘」と言って、天竜川が運んできた細かな砂で出来ています。浜名湖の海岸線は複雑で、砂ではなく玉砂利です。(海水浴場は砂をまいてありますが。)

 あと、考えられるのは、「神仏習合で、神社様式=寺院様式になってしまい、玉砂利の広場は、お寺にあるべき物で、神社がそれを真似しただけで、意味はない」という説でしょうか。京都の平安神宮は広い広場がありますね。ご神体が山で、山裾や山腹に神社を建てる場合は、広い土地を確保できないでしょうね。

[3854] 出雲一宮  玄松子 2003/01/15(Wed) 13:56 [Reply]
一宮は、赴任した国司が最初に訪れる神社であるとか、神階の最上位の神社であるとか、勢力が一番強い神社であるなど、イロイロな見方があります。
また、尾張の熱田宮は一宮ではありませんし、伊勢神宮は一宮制の外に存在します。
単純に、「国中第一之霊神=一宮」ではないと思います。

出雲での神階に関しては、中世においては熊野社の方は杵築社よりも上位。風土記の神戸の記載順も熊野社が先です。
中世後期から勢力は逆転しますが、延喜式吉田家本の注に熊野社を一宮と書かれており、鎌倉期になっても、まだまだ熊野社を上位とみていたようです。
勢力の逆転は、単に出雲国造家が意宇郡から出雲郡へ移住したからだと考えられています。

ちなみに、中世を通じて、杵築社を一宮としている文書はありません。
(近世以降は、また別の話。)

[3853] Re[3849][3847]: 答発見!  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/15(Wed) 01:46 [Reply]
>メルマガのアドレス?また掲示板に載せて下さい。よろしく。

> HPを拝見、一宮について、誤解しておられるような気がします。
> これだけは、確実な誤解と思えることを一点。
> 出雲の国の一宮は、熊野大社です。

メルマガは
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/mm.htm
です。

出雲の一宮について。
「出雲大社」は明治以降の呼び名で、前は「杵築大社」。
古代や近世以後の祭神は大国主だが、一宮制当時(中世)はスサノオ。
古代の、大国主が祭神の時代は熊野神社の方が上位。
しかし、中世への移行期において、国造が杵築に移住したこともあって、地位が逆転。
11世紀中頃には、一国平均役による造営が行われるなど、杵築大社が一宮としての地位を確立していった。
鎌倉期には「国中第一の霊神」であるとして、鎌倉中期には、惣社さえ、末社として取り込んでしまい、完全に独走態勢に入った。
<結論>
古代は、熊野神社の方が上だった。
一宮制の時代(中世)は、杵築大社の方が圧倒的に上で、出雲国一宮だった。

[3852] Re[3851][3847]: 答発見!  yanase [Mail] [Url] 2003/01/15(Wed) 01:36 [Reply]
 玉砂利については、気づかなかった着目点でした。
 確かに参道などを歩く人間にとっては禊ぎの意味もあるようで、ただ神社関係の説明では、禊や祓が出てくると、そこで説明終了とは、よくあることかも。
 参道と呼ぶ道は人間ばかりが通る道ではなく、人間が歩くときは中央を避けて通ります。伊勢神宮の御正殿の真下にもこぶし大の石が敷き詰めてありまして、人間が禊ぎをする場ではないようです。海の彼方から神霊が川を遡って来て、船か何かに乗ってですけれども、そして祭の場に鎮まったような、そんな神の来臨が毎年続くことを意味してるような気もします。

PONTAさん> 山の神と海の神が神社で出会うのかなと。

この発想も悪くはないのでは?

玄松子さん> 基本的には、神社の施設や建物は、寺院の影響がほとんどではないでしょうか。

実証的な意見は出ませんが、禊や祓などの人間中心の解釈とは、寺院の影響かもしれません。

[3851] Re[3847]: 答発見!  玄松子 2003/01/14(Tue) 23:48 [Reply]
> 禊ぎでした。ということは「川」が正解ですね。
> だから「白い」玉砂利がいいのかな。汚れていなくて清潔感があって。

現代の神社で、そのように説明しているからと言って、それが真実なのだろうか、と思います。
禊であるとすると、手水舎と同様、門の外にあるべきだし、その上を歩くべきですね。実際は門の中だけの場合が多く、別に設置された道を歩きます。
また、寺院の場合も、禊なのでしょうか。

基本的には、神社の施設や建物は、寺院の影響がほとんどではないでしょうか。
(でも、寺院や茶室にも手水鉢はあるよね。あれは何だろう。単に手を洗うだけかな)

[3850] Re[3848]: メルマガ  習志野のてつ [Mail] 2003/01/14(Tue) 23:35 [Reply]
> 広場は海だ!白い玉砂利は塩だ!でも、実際は川だった。でも、禊って、
> 塩を使って行うもので、海でないといけないんだよ〜。ただ、当時の神社
> は内陸部にあったので、『海につながる清流で代用可能』ってルールが出
> 来たんだよ〜」ってなるかな。
 すばらしい!お若いの、やりますな〜!とじじむさく。
 異論はあるとおもいますが、おっしゃる通りのルールが、出来たと思います。
  メルマガのアドレス?また掲示板に載せて下さい。よろしく。

[3849] Re[3847]: 答発見!  習志野のてつ [Mail] 2003/01/14(Tue) 23:28 [Reply]
> 禊ぎでした。ということは「川」が正解ですね。
いだしっぺで恐縮ですが、「川」が正解とは限らない。
なにしろ、禊と云えば、最初は伊耶那岐(いざなぎ)の尊
「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして禊ぎ祓へたまひき。」
「住吉大社」学生社、住吉大社編、2002年12月改訂版では、「橘の小門」について、
日向国説も記しつつも、筑前国志賀海神社近くであろうとしています。
要するに、「禊」が最初に現れたのは、川ではなく、海でなのです。
流れが速い、遅い、調度良いなど云い変ですが、やはり海です。
大分前になりますが、福島説(神奈備リンクにあります)もそうでした。
 筑紫の日向(チクシのヒムカ)云々=福岡県北部の海 説です。
結論:イメージ川で、海も有りかな?程度にしていただきたいです。

HPを拝見、一宮について、誤解しておられるような気がします。
これだけは、確実な誤解と思えることを一点。
出雲の国の一宮は、熊野大社です。 『亀太夫神事』
出雲大社は、熊野大社から、燧臼(ひきりうす)・燧杵を受け取る。
http://www.vill.yakumo.shimane.jp/14kankoh/kumano2.html
いわば大国主は、スサノオの家督を継いだので、スサノオ(熊野大社)に
頭が上がらない。で、毎年丁寧に挨拶をしに行くのかなと思います。

玄松子さんのHPにも、出雲国國一之宮として、熊野大社のきれいな
御朱印が掲載されています。

> だから「白い」玉砂利がいいのかな。汚れていなくて清潔感があって。
すいません。これは私の間違い。
「白い」玉砂利 ではなくて、「白い玉石」とすべきでした。
上を歩くと、汚れて白くない状態になる。
歩かないところに、「白い〜」を配置してるようです。

でも「玉砂利」と「コーヒーミル」、知らなかった。面白かったです。

[3848] メルマガ  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/14(Tue) 23:14 [Reply]
 PONTAのAYAです。
 PONTAでは無料のメルマガを発行しています。私の担当は、神道です。
 明朝発行の原稿のタイトルは「広場は川だった!」。
 かなりの長文ですが、要約すれば、「図書室で調べて確信を得た。巨石の周囲には祭りのスペースがないので、広場を作った。これは前方後円墳の成立時期と一致する。しかし、フィールドワークを始めて、直感した。広場は海だ!白い玉砂利は塩だ!でも、実際は川だった。でも、禊って、塩を使って行うもので、海でないといけないんだよ〜。ただ、当時の神社は内陸部にあったので、『海につながる清流で代用可能』ってルールが出来たんだよ〜」ってなるかな。

[3847] 答発見!  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/14(Tue) 01:22 [Reply]
禊ぎでした。ということは「川」が正解ですね。
だから「白い」玉砂利がいいのかな。汚れていなくて清潔感があって。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/xa2/mayu-ito/sobo20000316.html
http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/24.htm
http://jiten.cside3.jp/seminar/gimon_197.htm

[3846] 玉砂利考  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/14(Tue) 01:04 [Reply]
 玉砂利は、「川であって、そこを通ることにより禊になる」という説も捨てがたいですね。
 私の場合、天白磐座遺跡に不思議な説明図が貼ってありまして、
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/t6/1.jpg
山があって、神社があって、その前に川と海が描いてあったのです。
でも実際に、神社の前は広場であって、川も海もない。
だいたい、神社って、林の中に1本の参道があればいいだけで、こんな広場は必要ないはず。
と考えていくと、山の神と海の神が神社で出会うのかなと。

 日本最古の神社は大神神社だそうですが、当時、三輪山は、奈良湖に浮かぶ島だったと聞いたことがあります。とすると、やっぱり海かなと。(昔は「湖」も「海」も「うみ」と言った(どうしても区別したい場合は、海を「しほうみ(塩海)」と言った)そうですから。)

 私が住んでる遠州は波が荒いです。サーフィンで楽しめます!
 海岸は「南遠大砂丘」と言って、天竜川が運んできた細かな砂で出来ています。浜名湖の海岸線は複雑で、砂ではなく玉砂利です。(海水浴場は砂をまいてありますが。)

 あと、考えられるのは、「神仏習合で、神社様式=寺院様式になってしまい、玉砂利の広場は、お寺にあるべき物で、神社がそれを真似しただけで、意味はない」という説でしょうか。京都の平安神宮は広い広場がありますね。ご神体が山で、山裾や山腹に神社を建てる場合は、広い土地を確保できないでしょうね。

[3845] Re[3843][3841]: 玉砂利って?  Setoh 2003/01/13(Mon) 09:51 [Reply]
> 境内に白い玉砂利なんか敷いてあると、すがすがしさを感じますね。
雑草よけにもいいですよね。

丁度昨日参拝した泉州の泉井上神社の摂社の厳島神社は昭和30年頃までは池の中に鎮座していました。この池は元社を考えますと宗像神社にしても安芸の厳島神社にしても、海のイメージでしょう。ところが水が涸れてきて池が池でなくなってしまい、代わりに白玉砂利を敷き詰めています。
昔は神社に行くのに橋がなかったそうで、川の中を歩くことで、身を清めていたのです。最近の参詣では手水舎で手と口をすすぐだけになりましたが、足や身体などは清められていません。従って玉砂利の上を歩いて清めると云うことのようです。
上記から考えると海もしくは川そのものを表しているのでは。

[3844] Re[3840]: Setoh様へ  Setoh 2003/01/13(Mon) 09:50 [Reply]
>> 天白付近の磐座は水源と関係のある所だけ祀られているとか。
> どうでしょうか?天白磐座遺跡は山の上ですが・・・。山裾には、川がありますが・・・。
AYAさんのHPでもふれられています辰己和広さんのレポに天白磐座遺跡のある薬師山と神宮寺川との関連が述べられており、同遺跡は水分の地を占めていると結論されています。さらにその周辺の浜名湖北部一帯には巨岩の露頭が多いようですが、古代祭祀の跡は見つけることが出来なかったそうで、天白磐座遺跡は水との関係で磐座祭祀が行われたとしています。引用:『風土記の考古学』より。
 奈良県東部の山地、所謂大和高原でも磐座は多く、神社の御神体として遺跡ではなく現役の磐座として祀られています。鎮座する山をリョウサン(竜王山か竜山か竜様)と呼ぶのが多いようで、下流の地域のそれぞれの水源地として大切にされているようです。

> 神社のサイトは、
> http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/tabi5.html
> です。
拝見いたしました。白菊稲荷(白菊大明神)横の階段には女神のお美しいお姿が拝見できますね。

[3843] Re[3841]: 玉砂利って?  習志野のてつ [Mail] 2003/01/13(Mon) 08:23 [Reply]
こんにちわ AYAさん。
掲示板、ざっと見ましたが、示唆が多く面白いですね。ゆっくり拝見します。
> 神社によっては玉砂利がまいてありますが、その意味をご存知ですか?
> 今日、突然、「あれは海だ!」とひらめいたのですが、…
玉砂利:考えたこと無かったですが、考えてみました。
◎ 歩きやすさ。雨が降ったりすると、ハネがあがらず歩きやすい。土だけだと、
「玉砂利ぐらい敷いておいて欲しい」と思います。これは靴ではなく、草履や下駄
で参拝してぬかるんでいると,間違いなく思います。
◎ 玉砂利=海(正確には海岸、波打ち際)。いい発想ですね。
でも少し無理筋、又は(AYAさんお住まいの地域の)特殊筋かと。
理由:海岸が玉砂利になるのは、波の荒い海岸だけ。一般的に海岸は岩か砂浜。
波が荒い処だけが玉砂利かゴロタ石になります。
 太平洋・遠州灘の荒波がぶつかる三河遠江の海岸は波が荒いほうです。
 サーフィン(ウインドではない)が出来そうな所はそんなに無いです。
しいて云えば、むしろ河原のほうが、イメージはあると思います。
境内に白い玉砂利なんか敷いてあると、すがすがしさを感じますね。

[3842] Re[3840]: Setoh様へ  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/13(Mon) 00:37 [Reply]
AYAです。
レスは下に入れないとだめでしたね。失礼。

[3841] 玉砂利って?  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/12(Sun) 23:59 [Reply]
AYAです。
みなさんに質問です!

神社の拝殿前は広場(?)になっていて、神社によっては玉砂利がまいてありますが、その意味をご存知ですか?

今日、突然、「あれは海だ!」とひらめいたのですが、玉砂利の広場を海だと言った学者さんはおられるのでしょうか?

また、その意味をご存知の方は教えて下さい。

[3840] Setoh様へ  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/12(Sun) 23:56 [Reply]
AYAです。
巨石信仰・・・大きい物への憧れではなく、しいて言えば
1.古代の神社・祭祀に興味があるから
2.家の周囲はカルスト地形の山々で巨石がごろごろしてるから
が理由でしょうか。
神社のサイトは、
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/tabi5.html
です。
「日本中」ではなく、「近所」だけ行っています。

>天白付近の磐座は水源と関係のある所だけ祀られているとか。
どうでしょうか?天白磐座遺跡は山の上ですが・・・。山裾には、川がありますが・・・。
住所は、引佐郡引佐町字井伊谷大字天白です。
天白のある井伊谷の語源は「井戸」「泉」です。
井伊谷自体が水のまつわる話が多いので、必然的にそうなるのかも?

geoは、ファイルマネージャーを使うとイライラするので、
FTPでアップしています。

[3839] Re[3837]: はじめまして☆  Setoh 2003/01/12(Sun) 07:54 [Reply]
PONTAのAYAさん、こんにちは。

「少女が磐座を訪ね歩く。」タイトル。
巨石信仰、強くて大きいものへの憧憬でしょうか。
拝見致しました。
天白付近の磐座は水源と関係のある所だけ祀られているとか。
それにしてもgeocitiesは時々重たいですね。
アップするのも辛抱がいるでしょう。

[3838] Re[3816]: スジばってるが故えに 根がふかい   Orikabe [Mail] 2003/01/11(Sat) 13:28 [Reply]
焼尻紋次郎さん、ご無沙汰いたしております。
こちらの方々には初めまして。

漫然と眺めていましたら、見掛けましたもので、失礼します。レスと質問を少し。

> して語彙の露頭が拾えるという“ MO(広域の交易通婚圏)の実力”も擡頭してきます。

MOについては私も漠然とあってもおかしくないんでないかな〜と思っていました。
この辺りいろいろなケースでご教示いただきますれば幸いかと存じます。

> 朝鮮語・ベトナム語に求められないのだろうか……日本語とシナ語をモロにぶち当てるよりもその前にベトナム語・朝鮮語を総あたりに見よう。そういうことです。

これは、愚問かもしれませんが、漢語以外の要素で近似ないし共通要素が見られるということでしょうか? ちなみに小生、漢語での4ヶ国語比較の本(日、韓・朝、中、ベトナム)を持っていますが・・・

[3837] はじめまして☆  PONTA [Mail] [Url] 2003/01/10(Fri) 23:55 [Reply]
はじめまして。
サークルPONTAのAYAと申します。
「巨石の旅」というサイトを作ってみました。
(と言っても、試験的にアップ中で、完成度70%)
感想をお聞かせ願えれば幸いです。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/2905/tabi6.html

[3836] Re[3835][3831][3830]: 七社神社  nick [Mail] [Url] 2003/01/10(Fri) 07:49 [Reply]
yanaseさん、早速のお調べ感謝です。

> (2)七社神社  鹿児島県姶良郡霧島町川北 八十枉津日神 (配)神直日神 大直日神 天伊佐布玉命 天表春命 天背男命 經津主神

これは、当地です。この近くにも数社ありましたが。


> 妙見信仰の関連の「七社星神」(北斗七星)は別の神ですが、72例の中には、混同されたものもあるかも。

当地でもその可能性もありますが、権現の方が強いようです。

>  (ほかに愛知、大分県などで七所神社が28例)

隼人の叛乱後、大分方面から統治で移住してきていますから
その影響もあるかもしれません。
大分の方を調査したいとは思ってますが。。
この春見物にと。

御多忙のところありがとうございました。(~_~)

http://www.hayato.com/

proxy-on で閲覧可能です。

http://hayato.com/

こちらはproxy-off ですが
掲載内容は半分です。


[3835] Re[3831][3830]: 七社神社  yanase [Mail] [Url] 2003/01/09(Thu) 15:41 [Reply]
新年お目出度うございます。今年も宜しくお願ひ致します。さて

 平成CDでは、【七社神社】は福島県以南で72社表示されます。5社以上の県は、新潟、岐阜、長野、静岡、福岡、鹿児島です。このうち福岡県を除く5県などでは、祭神を1柱とするところが目立ちます(大己貴神、大山咋神など)。

 祭神名に特に特徴のあるもの
(1)七社宮神社 福島県福島市渡利字七社宮 下八王子 王子宮 早尾 大行事 聖女 刹行子 牛御子
(2)七社神社  鹿児島県姶良郡霧島町川北 八十枉津日神 (配)神直日神 大直日神 天伊佐布玉命 天表春命 天背男命 經津主神

{1}はかなり特殊な例で熊野権現の関係かどうか、聞いたことのない神さまばかりです。 {2}は禊ぎの神で、全国では水の神も少なくありません。
妙見信仰の関連の「七社星神」(北斗七星)は別の神ですが、72例の中には、混同されたものもあるかも。

長野県などで【七面社】が6例あり、柳田翁の『石神問答』では「七社権現」と同じとされます。祭神名に水辺の神が多く、熊野の神もあります。

・羽黒神社(七面様) 茨城県行方郡麻生町富田 倉稻魂命 (配)饒速日命 伊弉册命 事解男命 速玉之男命
・七面神社    千葉県松戸市小金原    美都波能賣命
・蛭子神社(七面大明神) 神奈川県鎌倉市小町 大己貴命
・水神社(七面さん)長野県上水内郡豊野町豊野字泥ノ木 罔象女命 野田正道
・七面社     長野県上水内郡三水村赤東字上赤塩十王堂 市杵嶋姫命 水波能賣命
・徳民於賀神社(トミオカ,七面神社) 岡山県笠岡市富岡   大國主命

 柳田翁の『賽の河原の話』では、越後の国上山の近くに賽の河原と呼ばれた場所があり、七面明神が出現した地だとあります。「七人ミサキ」とか「七人塚」などの不幸な死に方をした霊と元は関係があったのかもしれません。悪七兵衛平景清も、名に「七」があります。七は葬式や供養の関連でよく意識される数でもあります。

 七社神社には、七つの社を合祀したためにその名となっとのも少なくないわけです。
 「七福神」は江戸時代以降の神のようですが、「七軒百姓」といふ伝承が各地にあり、村の草分けとなった家が七軒だったとされる話で、なぜか七の数なんだそうです。
 (ほかに愛知、大分県などで七所神社が28例)

[3834] 馬立  Setoh 2003/01/09(Thu) 15:33 [Reply]
正月に茨木市福井の新屋坐天照御魂神社に参詣、宮司さんと約一時間お話をさせていただきました。単立神社(神社本庁に加盟していない)で、神社庁の神職階位を持っておられませんでした。祭祀儀礼は父親の前宮司の仕込みだそうです。「神主とは階位で決まるものではない。氏子からの支持で決まる。」と強調されていました。最近単立になろうとの動きが出てきているようですね。

前の宮司さんの著作になる『記紀前の古社 新屋坐天照御魂神社の謎に迫る』を求めて読んでみました。さすがに多くの資料を駆使されて説きおこされていますが、神道関係の古文献から疑似歴史に分類にされそうな川崎真治氏や原田常治氏の著作まで目を通されているようです。

この神社の祭神は『神祇志料』や『神社覈録:カクロク』鈴鹿連胤著には
天照御魂神、伴馬立天照神、伴酒着神としています。 
この「馬立」ですが、一体何のことか、これについて著者は真竜ではなかろうか、と推測しています。これは大阪の書店主の足代健二郎氏のサジェッションであるとしています。
余談ですが、神奈備リンク集のトリに坐す http://www1.sphere.ne.jp/ajiro/  の発信者です。

真竜(まだち)とは近くの真竜寺の奥の院に祀られている竜神のことで、小池があり、その中に祠があるとのこと、赤井と呼ばれ、福井の語源となったのではとの説もあるようです。

馬立には兵馬を並べた場所とか、馬の蹄の跡とか、「馬」にとらわれた語源説が多いのですが、秀逸なのは馬がタタラを踏んだ所と云うのがありました。
新屋坐天照御魂神社に近くの山には所謂金糞が今でも見つかるそうで、真竜は水に関係し、水はタタラに関係しと云うことかも知れません。
 他に馬立では青草[306]で豆石煌さんが兵庫県新宮町の馬立古墳群を紹介頂いていますが、揖保川沿いには揖保坐天照御魂神社や栗栖川と云う物部系と思われる神社や地名が残っているのも茨木福井に近い連想をさせるのが面白い。西河原の新屋坐天照御魂神社には疣水神社が鎮座しています。
また奈良県橿原市大字和田には馬立伊勢部田中神社が鎮座、これは玄松子さんが紹介されています。

『旧事本記 天神本記』に出てくる船子倭鍛師等の祖の天津真浦の鎮座地を探して新屋坐天照御魂神社付近との説に遭遇し、タタラの跡があるとの事で一応満足。
   
 なお、馬は甘いに通じ、これは宇麻志となりましたが、カミと読むべきとの説(畑井弘氏)があります。馬立は神立と理解しますと、nickさんの七社神社が出てきましたので追加報告いたします。
奈良県北葛城郡新庄町笛堂 七社神社「少彦名命 天太玉命 天忍日命 天思兼命 天神立命 ■幡千千姫命 三穗津姫命」

摂津の新屋、播磨の新宮、大和の新庄、皆「新」がつきます。新年のお話でした。

[3833] 新著宣伝  大三元 [Url] 2003/01/08(Wed) 11:42 [Reply]
『初期天皇后妃の謎』
−欠史八代、失われた伝承の復元−
二月上旬刊行予定

予約販売開始しました。
http://www.dai3gen.net/
からお越し下さい。

[3832] Re[3831][3830]: 七社神社  nick [Mail] [Url] 2003/01/08(Wed) 08:04 [Reply]
Setohさん
おはようございます。
早速のご回答ありがとうございます。
参考になります。

[3831] Re[3830]: 七社神社  Setoh 2003/01/08(Wed) 07:07 [Reply]
> 今年も宜しくお願い致します。
>
nickさん 今年もよろしくお願いいたします。

七社神社、多くの県にありますね。御祭神にお国柄が出ているのかも。

和歌山県海南市阪井 杉尾神社境内神社七社神社
宇賀魂神

徳島県美馬郡脇町 七社神社
大山祇命 水波賣命 (配祀)草野姫命 久久能智命 埴山姫命 豐受姫命 志那都比賣命

岐阜県県揖斐郡谷汲村 七社神社
天兒屋根命 天太玉命 天穗日命 天思兼神 天手力男神 天鈿女命 武甕槌神

京都府府与謝郡伊根町 七神社
天之御中主神 豐雲野神 高御産巣日神 天之常立神 宇麻志阿斯訶備比古遲神 國之常立神 神産巣日神

大阪府守口市大庭町 八坂瓊神社<通称>七番の宮さん(趣旨違いですが)
素盞嗚尊
以上は居住府県履歴でした。

ついでに愛知県
大府市吉田町森ノ上 七社神社
日本武尊 須佐之男命 宇賀御魂命 天穗日命 天忍穗耳尊 宮簀媛命 乎止與命

名古屋市中村区岩塚町 七所社
日本武尊 天照大神 豐宇氣大神 草薙御劔 宮簀媛命 乎止與命 高倉下命

[3830] 七社神社  nick [Mail] [Url] 2003/01/07(Tue) 19:56 [Reply]
今年も宜しくお願い致します。

当地の霧島山中に「七社神社」がそれも七カ所
点在します。

この祭神についてお尋ねしたいのですが。

私が参考にする「国分郷土誌:国分諸古記」には

「 高千穂の峰に降臨された随神七神を祭る」

とあります。

1. 天忍穂耳神(アメノオシホミミノカミ):稲穂の神、農業神
2. 天鈿女神(アメノウズメノカミ):芸能の神(演劇・俳優の神、舞楽の神)
3. 天香久山神(アメノカグヤマノカミ):農業神、倉庫の神神
4. 天石門別命(アメノイワトワケノカミ):山の神、石の神、門の神、櫛岩窓神
5. 思兼神(オモイカネノカミ):知恵の神
6. 天手力男神(アメノタヂカラオノカミ):強力の神
7. 天目一箇神(アメノマヒトツノカミ):山の神、火の神、金工の神、鍛冶の神
----------------------------------------------------------------------------
降臨の道先案内:
8. 猿田彦神(サルタヒコノカミ) 天鈿女神(アメノウズメノカミ)と夫婦となる。

また、全国各地に同じ神社があると聴いています。
検索で幾つかヒットしましたが、この掲示板をご覧の方で
近くにもあるよとお知らせ戴ければ嬉しいです。

[3829] Re[3828]: 仕事始め(小寒)  Setoh 2003/01/06(Mon) 22:55 [Reply]
サン・グリーンさん、こちらこそよろしくお願いいたします。

『大阪の歴史』などに書かれている堀田啓一さんの説ですね。氏によれば少なくとも前方後円墳ではなさそうで、墳墓であれば円墳。
その墳丘東斜面の表面から奈良時代の瓦片が出土のようで、年代的には和気清麿が河底池を掘った年代にあいそうですね。
近くの四天王寺伽藍地はそこを後円部とする大型前方後円墳だそうで、この辺りにも古墳が多かったのかも。
応神。仁徳朝に比定される時代に上町台地に多くの古墳が作られたようで、天王寺の茶臼山については何とも言えない所ですが、茶臼が墳墓の古語だとの仮定が正鵠を得ているならば、逆算で古墳説も有力になるのかも。

[3828] 仕事始め(小寒)  サン・グリーン [Mail] [Url] 2003/01/06(Mon) 21:40 [Reply]
神奈備ご一族さま。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
良いお正月を過ごされましたでしょうか?
未熟者ですが、本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年は、こちらの掲示板でたくさんのことを学ばせて頂き、ありがとうございました。
あまりにレベルが高くて、いつも唸りながらご高説を拝見しておりました。
また、今年も時々初歩的な質問を挟ませて頂きますので、仲間に入れてくださいね。
それから、setohさん。
大阪の四天王寺の茶臼山は、和気清麻呂が運河を掘った残土を盛り上げた山で、どうやら古墳ではないらしい。 という話を先日聞きましたが、 どう思われますか?

[3827] Re[3826][3825][3824]: 塚宇豆  大三元 [Url] 2003/01/04(Sat) 13:55 [Reply]
setohさん
> > http://www.dai3gen.net/茶臼山.gif
> うまく出ませんが・。

ありゃ、ファイル名が漢字だといけないのかな?
こちらをお試し下さい↓
http://www.dai3gen.net/chausuyama.gif

[3826] Re[3825][3824]: 塚宇豆  Setoh 2003/01/04(Sat) 12:00 [Reply]
> setoh さん、みなさん、今年もよろしく。
大三元さん こちらこそよろしくお願いいたします。
> >茶臼はアイヌ語のchas-us アイヌ語地名好事家には広く知られていることです。
そうでしたか。・・・
> http://www.dai3gen.net/茶臼山.gif
うまく出ませんが・。

[3825] Re[3824]: 塚宇豆  大三元 [Url] 2003/01/04(Sat) 09:35 [Reply]
setoh さん、みなさん、今年もよろしく。

>茶臼はアイヌ語のchas-us (城砦のある)とは大三元さんの喝破ですが、

折角ですが、私のオリジナルじゃないのです。アイヌ語地名好事家には広く知られていることです。誰が言い始めたのか知りませんけど。北海道にも茶志骨などchas-(us-i)らしい地名があるのも魅力的です。

茶臼山 の分布地図をあげておきましたのでご参考まで。setohさんが掲げられた西日本、そして、長野県にも多い。茶臼山だと72件、茶臼*だと120件ほど出てきます。
http://www.dai3gen.net/茶臼山.gif

[3824] 塚宇豆  Setoh 2003/01/03(Fri) 21:13 [Reply]

 最近四天王寺のことを調べていましたら、その隣が家康の陣地で有名な茶臼山でした。古墳です。
 聖徳太子陵のある太子町には銅鐸出土地の茶臼山があり、聖徳太子のお爺さんにあたる継体天皇陵と伝わる古墳も太田茶臼山古墳。
 茶臼はアイヌ語のchas-us (城砦のある)とは大三元さんの喝破ですが、古墳は城を築くのに都合がよい存在だったとの符合かも知れない。もっと荒陵とか塚とか、古墳の当時の名前だったのかも。
なお茶臼山の名を持つ山も多く、特に島根、広島、山口が多そうで、アイヌ語地名となじみの少ない地域であるのも面白い。
参考HP(茶臼山一覧) http://www.bigai.ne.jp/~miwa/powder/j_chayama.html

[3823] 鳥居之祓  Setoh 2003/01/01(Wed) 15:24 [Reply]
新年おめでとうございます。また新年のご挨拶ありがとうございます。

鳥居に向かい一揖してこれをとなう
神の在座(ます)鳥居に伊禮(いれ)ば此身より日月の宮と安らげくす

祝詞集にあります。難しそうですが、単に鳥居をくぐれば心が平安となると云う程度ではなさそうで、鳥居をくぐれば神のサイドに立つ、一体化すると云うことのように思います。
今年はそのような事を一層意識して鳥居をくぐりたいと思っております。

[3822] 新年のご挨拶  泊瀬女 2003/01/01(Wed) 12:56 [Reply]
神奈備のsetoh大権現に初詣。
明けましておめでとうございます。
別荘にばかり入り浸っていましたが、お正月くらいはご本殿にご挨拶せねば・・・と。

setohさん、そして神奈備のお仲間の皆様、今年もよろしくご指導ください。

[3821] 謹賀新年  マルヤ [Mail] [Url] 2003/01/01(Wed) 12:47 [Reply]
ひそみ居しふちの龍らも時を得て雲居に登るかげのめでたさ

             <元伊勢・籠神社 第二番大吉>

あけましておめでとうございます。
Setohさん、神奈備ファンのみなさま、昨年はありがとうございました。
今年もどうかよろしくお願いもうしあげます。

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