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更新 H15.3.1

[3972] Re[3965]: 鉄鐸の推理  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/03/01(Sat) 01:05 [Reply]
> 私の進行中の推理。
>
> まず、鉄鐸とは「佐奈伎」であるということが前提となる。

※どなた様もお久しぶり、とお初に…のお方とへ、横から失礼します。
≪鉄鐸⇒佐奈伎≫を拝見して、其の意味する所が判りました。
※「サ」行の音は全て、“쇠”(soe)=鉄、真金、金属の総称(民衆書林・韓日辞典)の意で解釈できます。
 私が、高天原(倭國の首都)と比定している処へ到る峠に『牛鳴き峠』が在ります。前述の“쇠”は「牛」とも同音語です。『牛鳴き⇒佐奈伎』が成立します。
 私は、『ソウル』(韓國の首都)の語源は、古代倭語に由来する、と仮説しています。
古代に在っては、製鐵が国を制す、です。『鐵錚々⇒鉄唸る⇒鉄鳴く=佐奈伎』、と。
即ち、『ソ(佐⇒鉄)・ウル(奈伎⇒ウル=鳴く)』です。現代日本人でも、お涙頂戴の芝居とか観て「ウルウル」来たね、と謂う、あれです。
 以上、福島雅彦説でした。

[3970] さなき  統一 2003/02/28(Fri) 04:57 [Reply]
>★音を発する道具であった。
>★その音に何らかの霊力があったと認識されていたように思われる。
>★その霊力を使っての、何らかの『使用目的』があったはずである。
>――古代人がその音をどう聞いていたのか、が追感出来ればいいのですけれどね。

チャングという韓国の伝統的な打楽器があり、漢字では「杖鼓(異説あり)」です。
鐸では「舌」と呼ばれる棒が鐸身を打ち鳴らす構造になってますね?
このことから「棒で鳴らす鐘」だと考えるのはどうでしょうか?
つまり、元は朝鮮語じゃなかったか。偶然かもしれないけどれ「舌」は韓国語でチャング
といいます。
楽器としてのチャングは高句麗時代の壁画にも表されているくらい古いんですよ。

[3969] Re[3967][3966][3965]: 鉄鐸の推理  日雲 2003/02/26(Wed) 20:09 [Reply]
> 武蔵・金さな神社
> 伊賀上野・佐奈具(さなぐ)
――あたりから、「さな/ぎ(ぐ)」だとばかり思い込んでいた時期があったのですが、
最近は「さ/なぎ」だったのかなあ? とも、ようやく思うようになった次第です。
★音を発する道具であった。
★その音に何らかの霊力があったと認識されていたように思われる。
★その霊力を使っての、何らかの『使用目的』があったはずである。
――古代人がその音をどう聞いていたのか、が追感出来ればいいのですけれどね。

[3968] Re[3925][3924][3923]: 吉葛  神奈備 2003/02/26(Wed) 19:36 [Reply]
> 丹後と吉野の共通点、というか、接点までは見つけてきたけど・・・

楡山神社概要(大正七年)
 御祭神
当社は伊邪那美命を奉斎す
 祭神の御事歴の一部
心悪しき子を生み置きて来ぬと宣ひて、返坐して更に子を生み給ふ、水神、匏、川菜、埴山姫、四種の物を生み給ひて、この心悪しき子の心荒びそば、水神、匏、埴山姫、川菜を持ちて鎮め奉れと事教へ悟し給ひき云々

弥都波能賣神−匏  波尓移麻比メ神−川菜 のペアです。
鎮火祭ゆかりのものですから、匏は容器で水をかけるのでしょうが、川菜は濡れた水草のようなもので燃えているものをたたいたりつつんだりしたのでしょうか。匏と川菜は同時に解明するものかも。

 『仁徳紀』茨田堤を作る記事に、武蔵の人強頚(コハクビ)、河内人茨田連袗子(コロモノコ)の二人を河伯に祭ることになりましたが、袗子は匏を沈めれば真の神として、生け贄にならずに堤ができたとあります。匏−袗子−浮く、?−強頚−沈む、の組み合わせが見えます。

 これ以上の事が出てきませんが、どなたか発展させて頂ければ・・・

 話は変わりますが、阿波踊りの囃子に「瓢箪ばかりが浮くものか、私の心も浮いてくる」との一節があります。囃子の言葉は「よしこの」と言われ、都々逸のルーツだそうです。吉野の吉がでました!
この阿波國美馬郡の式内社に伊射奈美神社、弥都波能賣神社、波尓移麻比メ神社、天椅立神社の名が見えます。内の二座は伊射奈美神が軻遇突智命を生んで死にかかっている時に生まれた神々です。この時に天吉葛を生んだと一書(第三)にはありますが、軻遇突智命、天吉葛命を思わせる社名の式内社は見あたりません。
 軻遇突智命、天吉葛命と並べて見ますと、伊射奈岐命の禊ぎの際に生じた八十枉津日神と大直日神のように災いとそれを消す神のセットかも知れません。
 天椅立神社、麻殖郡の天村雲神伊自波夜比賣神社、那賀郡の和奈佐意富曾神社の名が阿波に見えるのですが、どうも丹後を思わせる社名ですね。


[3967] Re[3966][3965]: 鉄鐸の推理  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/26(Wed) 15:47 [Reply]
青草への移動命令が聞こえそうですが、、、(笑)

「さなき」の区切りがどこにあるのかは、
いつも、いつも壁にぶちあたる日々です。混沌。

そのヒントになるのが、「さなき」の地名ではないかと思ったりもしました。
谷川健一著「青銅の神の足跡」にいくつか提示されています。
(そういえば、日光の話も、猿と朝日、猿女と小野、猿と馬で考察ありますね。)
記述順
伊賀上野・佐奈具(さなぐ)
静岡県・佐鳴(さなる)湖
愛知豊田・猿投(さなげ)神社
大和広瀬郡散去(さぬき)郷(馬見村大字三吉(みつよし))
因幡散岐(さぬき)郷・(八頭郡河原町佐貫(さぬき))
小豆島大鐸(おおぬて)
但馬国朝来郡佐嚢神社
三重県桑名郡佐乃富(たのとみ)神社(多度町八剣宮)
武蔵・金さな神社
といったところでした。

これは銅鐸を追っての地名ですが、古代の鉄を追っての地名で
福士幸次郎著 「原日本考」では上記以外に
四国の讃岐
佐柳島
近江高島郡川上村酒波
越後西頚城郡青海町大澤三波長者
宮城県宮城郡大澤村定義如来・作並
羽後南秋田郡太平山三吉神社
福岡県糸島郡福吉村の佐波サナミ

「サナキ」「サナミ」男女両柱の神ということも考えてみえます。



[3966] Re[3965]: 鉄鐸の推理  日雲 2003/02/25(Tue) 22:49 [Reply]
「さなぎ」なのか、
「さ/なぎ」なのか、
「さな/ぎ」なのか、
どれなのでしょう……?

[3965] 鉄鐸の推理  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/25(Tue) 11:32 [Reply]
私の進行中の推理。

まず、鉄鐸とは「佐奈伎」であるということが前提となる。

「古語拾遺」の着鐸之矛
この姿は諏訪などにある鉄鐸がその後裔であろう。
「延喜式」の巻二四時祭中の鎮魂祭の祭料中にある「鈴廿口、佐奈伎廿口」
これは日光二荒山の遺跡から、鉄鐸とともに出土した
銅鈴50口・鉄鈴大小137口・鐘鈴9口があったことが
この裏付けになるのではないか。

単純に見ると神具の一つとして、神の御料として使われたように見える。
鈴類を好む神への信仰は、私にはまだわかりません。

そして、今思いを馳せている所は、
「佐奈伎」
「さなき」は「さなぎ(蛹)」の姿から、そう命名されたと思っていたが、
どうも、違うようです。私の調べたもの↓
http://homepage1.nifty.com/moritaya/atogaki.html

「佐奈伎」が存在していることを知っている人が「さなぎ(蛹)」と
命名したようである。
となると、鉄鐸と養蚕に繋がりがあるのではないか?
養蚕の日本での起源は、考古学的に弥生時代になっている。
まさしく、銅鐸のはじまる時代。

日光ニ荒山の遺跡が仏教遺跡だということは、
その険しさから、修行、などに使われたのではないか。
修験道と同じような流れで。
そして、この険しい山などには、養蚕も存在する。
養蚕の神といえば、白山。そして馬の神。
こんなところと融合されていった可能性はあるのではないか。

古語拾遺の世界にある「鉄鐸」と
修験道に近い神仏融合した「鉄鐸」が存在する。

そんな推理です。

蛇足:日本書紀の養蚕のはじまりにある保食神
この人の「眉の上に蚕が生まれる」で、
なるほど!!それで繭(まゆ)は「まゆ(眉)」から来ているんだ!!!
とか思ってしまいました。(爆)

[3964] Re[3961][3958]: 一応、御報告  日雲 2003/02/24(Mon) 21:54 [Reply]
> 参考にならないものを紹介してしまって、
> 責任を感じて、
いえいえそんなとんでもないです。
銅鐸の勉強を始めるいいきっかけになりそうですし。
いつかしなきゃなるまいとは思いつつ、後回し後回しになってしまっておりまして……。

> あとは、自分の仮説を、
> ノーベル賞の田中さんのように、
> 一つ一つ、実験してみるしかないのでは?
あの方のように、好きだったり向いていたりすればいいのですが、全然そうではないので、
どうにか尻を叩きつつ……が、がんがります……(;==

[3963] Re[3959]: 神武東征久米歌の解釈  神奈備 2003/02/24(Mon) 16:04 [Reply]
曲学の徒さん こんにちは。
http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/cgi-bin/albumbbs/albumbbs.cgi
を拝見いたしております。

[3962] Re[3957]: 姫路の皆さん  神奈備 2003/02/24(Mon) 16:04 [Reply]
> 今日は、始めての投稿です。
菅原眞道さん こんにちは。
青草掲示板の方で応答いたします。

[3961] Re[3958]: 一応、御報告  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/24(Mon) 11:32 [Reply]
日雲さん、ペギラです。
参考にならないものを紹介してしまって、
責任を感じて、私の言い訳を。(笑)

「銅鐸」p116
「ははあ。鐸には出土品ばかりでなく、
伝世品(伝えられてきた品)もあったんだな」

私はこの文章に、感じるものありました。
銅鐸など、埋まった姿しか解らないものに比べたら、
遥かに、実体に近い考察ができるだろう。と。

同じページにある
「この代表的な古い神社の本態を究明することは、
銅鐸の本質にもつながらないともかぎらない。」

改めて、そうだろうな〜とは、思ってみても、
その究明が、銅鐸の究明よりも難しいのではないか?
謎が謎を呼ぶ話に見えてしまいます。(^_^;

あとは、自分の仮説を、
ノーベル賞の田中さんのように、
一つ一つ、実験してみるしかないのでは?

その実験の過程を、ああじゃないか、こうじゃないかと
いろんな人からご助言をいただくのが、
このような場なのではないでしょうか。

と、私は勝手に思い込んでいますが。(爆)

[3960] 無題  菅原眞道 2003/02/24(Mon) 00:26 [Reply]
広島の厳島神社に伊都岐島千僧供養日記があり、
大鳥居の、神社側の額には、伊都岐島神社と、書かれています。
日本後記には、伊都岐島神を名神に列しています。

兵庫県の北部の、出石の別の書き方は、伊都志です。
出雲大社の別名は,巌神之宮,そして、巌と厳の発音は、同じくガン。
よって、出雲の出は、厳島と同じ伊都ではないでしょうか。

厳島の意味は、姫路に居た伊都族(倭国の男王)が、伊都国に行く時に、
立ち寄り、水や食料を、補給する島と言う、意味が有るのでは

出雲の意味は、卑弥呼との争いに、負けた伊都族(スサノオウ)が、喪に服する
つまり、慎む、と言う意味ではないでしょうか。
だから、発見された,銅剣などに書かれた×は、魚吹神社の祭りの時に、
提灯に書かれている、×と同じで伊都族の印で、メ,目の意味ではないでしょうか

[3959] 神武東征久米歌の解釈  曲学の徒 [Url] 2003/02/23(Sun) 13:09 [Reply]
久米歌はなぞらえ歌である。
文字の無かった時代、自分達がどのように戦ったかを後世に伝えるため、歌と踊りにした。
したがって巧みに具体的な地名や人物を詠み込んでいる。
この歌から神武軍の戦いの様子を再現できる。
この説にご批判を。
『大和王権成立の時』 http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/

[3958] 一応、御報告  日雲 2003/02/23(Sun) 04:38 [Reply]
藤森栄一「銅鐸」
を取り寄せて読んだのですが、すでに読んでいたこと以上の何も載っておりませんでした。
この本に書いてあるのは、要はかいつまんで言えば、

★鉄鐸は、中臣神道以前の忌部氏が統括していた祭式の中にも、重要な要素の一つとして入り込んでいた。
★諏訪界隈では守矢氏を中心として用いられていたが、鎌倉期あたりまで非常に閉鎖的な土地柄であったため、ここに限っては伝世の形で保たれ得た。

――ということかなあ思うのですが、これの何処に、
>鉄鐸に関してはある方向性が見えている
のか、私には残念ながら全く理解不能です(;==

「守矢氏の保ってきた祭式や伝承は全く忌部氏のそれと同じものであり、それが諏訪でのみ現役で保たれたのは、かの地が閉鎖的な土地柄だったからである」
というなら話は解るのですが、これは、
「全く違う趣を見せている守矢氏と忌部氏の祭式の共通項は、せいぜい鉄鐸くらいのものである」
ということでしかないのではないでしょうか……?
「じゃあ、何でこんな現象が起こったのか? 系譜も祭祀の趣も全く違う守矢氏と忌部氏双方に鉄鐸をもたらした『鉄鐸の使い始め』は誰なのか?」
といった謎の始まりにこそなれ、何でこれだけのことから方向性が見えるのか……?
何処にその鍵があるのでしょう?

私は先に挙げた出土地のうち、日光と美作中山くらいしか現地には行っておりませんが(諏訪は勿論行きましたが)、この二つと諏訪については、いずれも狩猟祭祀(鹿頭奉納)と星信仰が並存している点に、非常に興味がそそられています(中山ではすでに鹿頭奉納は廃絶していますが)。
鉄鐸と、星と、鹿頭。
三ヶ所しか現場に行っておらぬ身ですから確たることは解りませんが、少なくとも、その三ヶ所では全て上記の要素が伴っておりました。
これは果たして偶然なのか……?

尚、群馬の二つに関しては、地図上で見る限り、ともに出土地付近に諏訪神社があり、その一方で赤城と諏訪をつなぐ伝承などもありますから、おそらくこれは諏訪の伝世品と同じ筋のものではないか、と思われます。

で……ついでに申し上げれば、記紀成立以降において、「伝世されていたらしい鐸」は、必ずしも諏訪界隈の鉄鐸だけという訳ではなかったようです。
現在、残念ながらそれを実見することは出来ませんが、清水坂の非人らしき者が、「坂の交らひをしてまだ三年足らずで『宝鐸』を許された」「これは非常に出世である」としていたというような話もあるようで。
この『宝鐸』が鉄鐸か銅鐸か、或いはどちらでもない第三の鐸なのか、そしてそれはどんな用途のものであったのか、など一切不明ですが、どうやらこうした「伝世の鐸」もあったらしいのです。
それにしても何故、『坂の者』がそんなものを持っていたのか?
その『伝世の鐸』と、旧被差別民らが信仰していたというシュクジンが、「毎月1日に肉を供えなければならない神」であったことや、そこに「星宿神的信仰性」が多分にあったことなどとは全く無関係、単なる偶然でしかないのか?
それとも、「鐸」「獣献」「星信仰」をワンセットとする祭祀があったのか……?

と、こうして見ていると、藤森さん御生存時点での考察で、すでに方向性が示されているというようには、とてもではないですが、私には思われません。
藤森さんは鐸を水の祭祀と関連付けて考えておられたようですが、そうすると、その一方に見られる「水神としての星神」とは接点ゼロなのか、といったことなども含め、どうにもこうにも謎めいておるように感じられます。

で、私がまだ行ってない、他の鉄鐸出土地にはどんなものがあるのかな? どんな人達がいたのかな? 
と気になっていたのですが……まあ、自分で調べろって話ですね。はい(;==

[3957] 姫路の皆さん  菅原眞道 2003/02/23(Sun) 00:07 [Reply]
今日は、始めての投稿です。
邪馬台国の読み方は、やまたいこくで良いのでしょうか。
日本の文化には、謙譲の精神があるのでは、自分の妻を愚妻と言い。
贈り物を粗品と言う。西洋の社会では離婚されたり、そんな安物なら持って来るなと、突き返されるのではないでしょうか。

そうなると、卑弥呼の卑は謙卑、自卑の卑であって、中国人が蔑んだ文字ではなく
自ら謙った文字では無いでしょうか。
そして、倭国の倭は小さいという意味で、自分の会社を小社、自分を小生と謙る
のと、同じではないでしょうか

だから,邪馬台、も謙りする意味があり、姫路の方言で、弱い、たよりがいが無い
と言う意味の、やばたい、と読むのが正しいのではないでしょうか

伊都も、いと、では無く、姫路の地名である、いつ、と読むのではないでしょうか

[3956] Re[3955][3949]: ???  神奈備 2003/02/22(Sat) 14:37 [Reply]
> 陽主=向日、陰主=御蔭。

 陽主からは東のイメージ。
昨年9月21日の泊瀬女さん御投稿の日向大神宮、これは東山の麓。
長岡京の東、平安京の西、鎮座の向日神社、この神社も曰くありげですね。賀茂の親神とも。

御蔭神社は上賀茂神社の摂社ですね。賀茂がからむのは「らしさ」をアップします。
西に探すと、男爵曰くの「秦氏の結界説を受け入れているとされる平岡八幡神社」などか。

> 四時主は、どう解釈するかによるのでしょうが。

 季節の移り変わり説からは 
 松尾大社の四大神社「春若年神、夏高津日神、秋比賣神、冬年神」なんちゃって。
 伏見稲荷の四大神はは単一の神なのか、五十猛命、大屋津姫、抓津姫、事代主の四柱説にのるのか、どうも山東半島ー秦氏ー紀氏ー五十猛命ー八王子ー素盞嗚尊、方位の所を重視すると大将軍八神社なども関係しそうで、『玄松子の記憶の雑記帳』などを読んで、思案しております。

[3955] Re[3949]: ???  玄松子 2003/02/22(Sat) 10:54 [Reply]
> > 陽主・陰主・四時主
> これらはどうなったのでしょうね。水主神社に名を変えたようなことはないのかな。

あえてこじつければ、
陽主=向日、陰主=御蔭。
四時主は、どう解釈するかによるのでしょうが。北か南に求めることになるかも。

[3954] Re[3951][3950][3947][3945][3941][3938][3937][3936][3922]: 石部神社  大三元 [Url] 2003/02/22(Sat) 00:56 [Reply]
神奈備さん

おお、『常陸国風土記』久慈の郡、兎上命と福(サチ)ですね。なるほど。
ご教示ありがとうございました。

>久慈の郡の物語には、太田の里、長幡部の祖、多弖命など気にかかる言葉があります。

久しぶりに読み直してみましょうかね、常陸風土記


[3952] Re[3949][3948][3943]: ???  神奈備 2003/02/21(Fri) 22:21 [Reply]
> 個々の場所についてはその目で再度参詣してみます。

「神社へ行けば判る」と言う事はありませんでした。
北野天満宮は丁度梅が見頃で写真を撮りたい人々と多分修学旅行の生徒でしょうが、実ににぎやかでした。天主神座や八神の件を神職さんに尋ねましたが、聞いたことはないとの事でしたが、菅公鎮座以前に地主神社と火之御子社があり、後社ではなかろうかとの意見でしたが、定かではありません。

 少し足をのばせばわら天神すなわち敷地神社でしたが、由緒書きを頂いてびっくりしたのは、菅生石部神社(加賀国江沼郡)からの勧請でした。加賀の菅生石部神社はやはり中世以降に敷地天神とよばれていたようです。

 ついでに大将軍八神社へ立ち寄りました。ここにも地主神社が鎮座、別名を大杉神社といいます。大きい杉の木は土地神の顕現した姿と思われていたのでしょう。
 高知県吾川郡池川町竹ノ谷ち鎮座する地主神社も杉の宮とよばれています。

[3951] Re[3950][3947][3945][3941][3938][3937][3936][3922]: 石部神社  神奈備 2003/02/21(Fri) 17:38 [Reply]
大三元さん、ありがとうございます。

『常陸国風土記』久慈の郡
 太田里から北のかたに薩都の里がある。昔、土雲と名のる国栖があった。ここに兎上命は兵を発してその罪を問うて攻め滅ぼした。その時、「兵によく殺させて福(サチ)なるかも」と言われた。それによって佐都と名付けられた。

 http://www.dai3gen.net/sirousagi.htm
 isepo 兎
 ise  幸
風土記の物語も兎と幸のつながりを示しているようですね。

 久慈の郡の物語には、太田の里、長幡部の祖、多弖命など気にかかる言葉があります。

[3950] Re[3947][3945][3941][3938][3937][3936][3922]: 石部神社  大三元 [Url] 2003/02/21(Fri) 10:11 [Reply]
> 所で、ついでと言っては何ですが、『初期天皇后妃の謎』p146に、鯨(イソ)が出てくるのですが、幸、シャチ、鯨との連想でしょうか。

連想、というよりはもう少し直接に iso=鯨(など)とできると思います。各種辞書より抜き書きしておきます。これらを勘案すると、iso は、海山の幸、獲物、熊、鯨、アザラシ、などを意味する、と総括できましょう。

なお、シャチは「鯨を陸に追い上げる神」という形で関連しています。(isoがシャチを意味するのではない。)

《動植物》isoyankekur [<iso-yanke-kur (海さち (クジラ)を・浜へ上げる・神)] 《ホロベツ》

iso ['えもの'] アザラシをさす《K.----Torii, pp. 56, 60》
注.----この語は北海道では 'えもの' を云うが, カラフトではクマをさす

うさぎ
≪八≫≪幌≫≪沙≫'isepo
≪帯≫≪美≫≪旭≫'isepo

イソ [iso] 豊猟.
《中川》イソ [iso] 【名】 獲物。

《地名》イそ [iso] @水中の波かぶり岩; 海または川の中にあって, しければ隠れ, なぎれば現われる平たい岩。B狩または漁のえもの。
イソアン [iso-an] 豊猟である
イソン [ison] 狩上手(な).
《Jhon》イソンベ [Isonbe] 多ク漁セシ人. n. A successful hunter or fisher.

[3949] Re[3948][3943]: ???  神奈備 2003/02/21(Fri) 08:32 [Reply]
 平安京に八主があるだろうとは思っていました。だから納得。
個々の場所についてはその目で再度参詣してみます。痕跡が残っておればいいのですが。
北野神社にも地主神社がありますし。平野神社にも前史があったのかも。

> 陽主・陰主・四時主
これらはどうなったのでしょうね。水主神社に名を変えたようなことはないのかな。

 天気もよさそうなので、とりあえず、北野平野へ出発します。

[3948] Re[3943]: ???  玄松子 2003/02/21(Fri) 02:41 [Reply]
瀬藤さんは納得しているみたいですが。

> 奈良時代まで、どうしようもない湿地帯だった京都盆地を開拓したのが秦氏族だったのですが、東の若王子神社が兵主で、東南の清水山に地主神社があり、東北の比叡山に日主(日枝)神、逆方向の西南の桂川の河原に月主神の祭祀場があったのです。それで「月の桂」とか、月読神社が祭られたりしたのですね。地主神の反対方向にあるのが平野天神の天主神座でした。何で平野に天神があって、何で比叡に天照皇大神と違う太陽神が存在するのか、これでよくわかるでしょう。

若王子神社は後白河上皇が熊野から勧請したものではなかったでしょうか。
平野の天神が北野天満宮のことなら、道真を祀ったものではないだろうか。
地主は清水創建時に清水の地主として立てられたのではないだろうか。

[3947] Re[3945][3941][3938][3937][3936][3922]: 石部神社  神奈備 2003/02/20(Thu) 23:02 [Reply]

「五十」は幸、昔紋次郎氏がしきりに五十のネパール語はsaitだと強調されていたのを思い出します。
倭迹迹日百襲姫の「百」は「五十」plus「五十」で幸せの絶頂、それが奈落の底へ転落とあいなるお話、青草かも。
所で、ついでと言っては何ですが、『初期天皇后妃の謎』p146に、鯨(イソ)が出てくるのですが、幸、シャチ、鯨との連想でしょうか。

[3945] Re[3941][3938][3937][3936][3922]: 石部神社  大三元 [Url] 2003/02/20(Thu) 09:43 [Reply]
> > 大彦の甥に御間城入彦五十瓊殖、この五十を「イソ」と読むと
> それは間違いです。
> 古事記に崇神天皇は「印惠命」となっていますから、「イ・ニエ(五十・貢)」
> と読むのが正解です。

『古事記』が間違ってる可能性を考えませんか?

書紀の倭迹迹日百襲姫を『古事記』はヤマトトモモソと読める仮名で書いているが「百襲」を「モモ(それも乙類)ソ」と読むように書いている、などは、書紀(他?)を見た、後代の人(八母音システムを知ってはいたが、完全には知らなかった人。「百」を「モモ」と読む時の「モ」は甲類である)が作った可能性を伺わせる。「百襲」は「ホソ」と読むものであろう、と推定している。(『古代史料に見る縄文伝承』)

今度の本(『初期天皇后妃の謎』)でも論じたが「大目、太目、フトマ」あたりは「大目」が原点で「太目」と誤写されたものを、『古事記』の作者が「フトマ」と誤読したのではないか、ということを伺わせるものがある。

どうして「イ」という一音節を表すのに、「五十」と二文字使うのか、おかしくないか(不経済だ)、という疑問をもって見ております。

なお、「五十」ニシキが「兎砥河上宮」で作らせた刀についても、先代旧事本紀はこの川のことを「幸乃河上宮」としている。「兎」も「幸」もアイヌ語(恐らく縄文語の後裔言語)では、それぞれ、 iso-po、 iso である。この刀の名称も「川上部(かわかみのとも)、又の名を、裸伴(あかはだがとも)」とされるが、アイヌ語で考えると、これら二つの名称の間は同語に近い。(iso-po)ruypeneとoruypene。更にこの刀は「石上」神宮に納められる、と「イソ」という音が散りばめられている伝承である。「五十」を「イソ」と読む妥当性が高い。裸・兎(素兎)のオハナシもここらに原点または接点があるのではないかと思っている。男里が含まれる地域が日根郡というのも、アイヌ語pinne が男の意味であり、この説話と舞台の周辺にはアイヌ語で解けることが多い。

[3944] Re[3943]: 無題  神奈備 2003/02/20(Thu) 08:10 [Reply]
男爵教授、ありがとうございます。
 八神のうち兵主神社が目立って、次に清水寺の地主神社がそうらしい所までは何となくいっていましたが、これでよく分かりました。貴重なお話です。短期集中の名講義、ありがとうございました。
 尤も、伊達神の由緒(最悪の結論か!?)、但馬母理都市牛利説、土佐と鴨、色々と宿題が並びました。ぼちぼちと考えたいと思います。
 またお時間が出来、かつ気が向かれましたらご参加下さい。

[3943] 無題  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/19(Wed) 23:39 [Reply]
神奈備さま
兵主神社について。
これはね、雄略朝に来日した帰化人の代表・秦氏族が持ち込んだ古代中国の八方位神の思想に由来する神社なんです。平安の陰陽道信仰以前に八方位神信仰が持ち込まれて、その一つが兵主神なんです。これは史記封禅書・漢書天文志にも明記されているのですが、秦の始皇帝が泰山・梁父山で封禅の星祭を再興したとき、兵主・地主・天主・日主・月主・陽主・陰主・四時主の八神を八方位に祭祀したのです。
奈良時代まで、どうしようもない湿地帯だった京都盆地を開拓したのが秦氏族だったのですが、東の若王子神社が兵主で、東南の清水山に地主神社があり、東北の比叡山に日主(日枝)神、逆方向の西南の桂川の河原に月主神の祭祀場があったのです。それで「月の桂」とか、月読神社が祭られたりしたのですね。地主神の反対方向にあるのが平野天神の天主神座でした。何で平野に天神があって、何で比叡に天照皇大神と違う太陽神が存在するのか、これでよくわかるでしょう。
 秦氏族が京都盆地全体を支配していたとき、この八方位の結界の中心は神泉苑の湿地帯の中にありました。それで陰陽道や修験道の祭祀も、この前時代の結界システムを重視して神泉苑でお祭りしたのです。
 秦氏族は太秦に引っ込んだ後も、八方位神の祭祀を続けていました。若王子神社と嵐山を結ぶ中心線上に、神泉苑跡と太秦寺は並んでいます。幾何学的平行移動ですね。そこで松尾大社や伏見稲荷神社を造営したわけです。そして自分たちの建てた太秦寺を八方位結界の中心として「蜂ケ岡」と呼んだわけです。これは冗談じゃありません。各地の兵主神社の西に「鉢山」とか「八神」という地名があるでしょう。大和の巻向にある穴師坐兵主神社ですが、田原本町秦庄の秦楽寺を中心とする結界の一角なのです。京都の豊岡市土師谷の大生部兵主神社も、結界の中心は「鉢山」といって、その西に八社宮神社があります。氷上郡春日町の兵主神社は、西に八柱神社・霧山という結界の中心があり、東南の地主神座にあたる山を清水山といいます。京都と同じですね。その山麓にある石部神社は、要するに祭祀を空中からハイジャックされた状態であるわけですが、善意に言えば共生しているというか。
大阪の交野市の交野山は実に優美な神奈備山ですが、その祭祀場だったところは機物神社で八方位信仰になっています。完全に占拠されましたね。関東でも湘南の寒川神社は八方位信仰があって、天主座が大山阿夫利神社、結界の中心は秦氏族が開拓した秦野というわけです。
何で私がこんなことをクドクド言うか。実は賀茂朝臣家の一人に、唐の中宗皇帝に謁見し、欧陽旬や虞世南とも交流した遣唐使次官の賀茂吉備麻呂がいまして、天文や陰陽など自然科学を持ち帰った人なんです。役小角・安倍清明もその後継の系譜にあるわけです。これにて失礼。

[3942] Re[3941]: 石部神社  玄松子 2003/02/19(Wed) 22:57 [Reply]
どうでも良いことかもしれませんが。

> 大三元さん
> > 大彦の甥に御間城入彦五十瓊殖、この五十を「イソ」と読むと
> それは間違いです。

大三元さんは、「読むと」と仮定しているだけですから、
「間違いです」という発言は、どうなんだろう。おかしくないだろうか。

[3941] Re[3938][3937][3936][3922]: 石部神社  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/19(Wed) 22:23 [Reply]
大三元さん
> 大彦の甥に御間城入彦五十瓊殖、この五十を「イソ」と読むと
それは間違いです。
古事記に崇神天皇は「印惠命」となっていますから、「イ・ニエ(五十・貢)」
と読むのが正解です。
また垂仁天皇の名前は「イ・サチ(五十・幸)」です。日向王家から九州の混乱
を平定して、大和王権を実力で奪った景行天皇は「大帯日子」を自称しましたが、その弟の名は「イ・ニシキ(五十・錦)」と前二代の名前を継いでいます。
実は神武天皇の長兄も「五瀬=イ・セ(五十・稲)」だし、もっと後に、仲哀天皇と神功皇后が博多湾に来たとき、伊都県主(魏志の伊都国王)が出迎えて、「五十迹手=イ・タテ(五十・盾)」と名のります。彼は三韓征服の後に、功績を認められ、岡山や和歌山に領地をもらい、その子孫が「因達神(播磨風土記)」として祭り、延喜式には「伊達神社」となるのです。つまり、これは肥前・肥後・日向・人吉(日豊)の文化圏で首長の尊称として認められていた表現だったと考えられます。

[3940] 無題  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/19(Wed) 21:56 [Reply]
石部神社について、情報が集まってきましたね。
でも「大物主命」というのは三輪山の祭神なんですよ。その血統を継ぐものとして祭主になったのが大多々禰子尊で、その嫡孫が大賀茂積尊という賀茂君・賀茂朝臣の家姓の始祖なんです。
だから、近江の石部神社が湖東地域の開拓神として天日方奇日方(久斯比賀多)尊を祭神としているのは意味がありますね。そして平安時代になると石部氏(石辺公)は祭神の子孫を称したわけです。ただ続日本紀なんかを読んでいると、家来だった一族が主家の姓をもらったり、渡来した外国人がまぎらわしい姓をもらったり、いろいろあるんでわからないですね。
今の京都の上賀茂・下鴨の社家ですが、実は「鴨禰宜真髪部某」という人々の子孫で、本姓は白髪部・矢田部という本姓があったのです。写経なんかの名簿に登場してくるんです。矢田部氏はヤタガラスの子孫、殿守(塔森)県主でした。
白髪部は白髪(清寧)天皇の御名代として結集された開拓民でしたが、帰化人の集団だったと考えられます。白壁(白髪部)王が光仁天皇に即位したとき、同じ名前であることを遠慮して「真髪部」と改めたのです。

それからね。天之日矛尊は古事記に「新羅の王子」と明記されていましてね、その子孫が但馬母理(魏志倭人伝の都市牛利)、その子孫に神功皇后が出てくるんです。つまり、神功皇后は「私は新羅王家と日本の天皇家の血筋を両方引き継いでいるんだ」という強い自覚があったはずだよねえ。それで新羅王家の内紛状態に干渉戦争を起こすことになったんですよ。ブルボン王家がイスパニア継承戦争を起こしたようにね。
帰化人の話と、石部と賀茂の話と混同したら、大和の神々に呪われますぞ。

[3939] Re[3937]: 石部神社  玄松子 2003/02/19(Wed) 20:02 [Reply]
> 大彦命は古志の国に派遣されたことになっていますので、大彦命と石部がまた重複分布です。、
> 大彦命の子の波多武日子命と新羅国の王子天日桙命の姫の天美明命との婚姻関係で、石部=鴨と天日矛=大彦命(=はグループの意)が重なっているとか。

重なるかもしれません。
波多武日子命は、越後の三宅神社に祀られていますが、京都舞鶴の三宅神社は多遲麻毛理命ですから天日矛の末裔ですね。

> 石辺公 大物主命子久斯比賀多命之後也。
>がありますね。『古事記』での櫛御方命ですね。

越後の石部神社に祀られていますね。
天日方奇日方とも書かれますが、天日方って天日矛に似てる(これは青草かも)

[3938] Re[3937][3936][3922]: 石部神社  大三元 [Url] 2003/02/19(Wed) 16:00 [Reply]
> 大彦命は古志の国に派遣されたことになっていますので、大彦命と石部がまた重複分布です。

おもしろいですね。
大彦の甥に御間城入彦五十瓊殖、この五十を「イソ」と読むと
変わった展望が開けると論じていますので(『初期天皇后妃の謎』P145−)
興味を持って拝見しています。


[3937] Re[3936][3922]: 石部神社  神奈備 2003/02/19(Wed) 15:24 [Reply]
> オリジナルの拠点
石部の名を持つ神社と言うことでしょうか。

> 越後や加賀にも石部・磯部と名の付く式内社は並んでいるように思います。日本海側の特徴なのかもしれません。
そうですね。但馬以東以北と言う感じですね。
大彦命は古志の国に派遣されたことになっていますので、大彦命と石部がまた重複分布です。、
大彦命の子の波多武日子命と新羅国の王子天日桙命の姫の天美明命との婚姻関係で、石部=鴨と天日矛=大彦命(=はグループの意)が重なっているとか。だんだん苦しくなって来ますね。

『新選姓氏録』の 山城国神別 地祇
 石辺公 大物主命子久斯比賀多命之後也。
がありますね。『古事記』での櫛御方命ですね。
 大物主と活玉依毘売との子、親の名前が子に伝わっていないのかな、と思っていましたら、大物主櫛甕玉と名を称え、の櫛甕玉に似ています。父神。

[3936] Re[3922]: 石部神社  玄松子 2003/02/19(Wed) 12:32 [Reply]
久しぶりですが。

> > 南近江の神奈備山の一つ、石部町の石部山に由来するのではないかと
> 石部の名を持つ式内社
> 近江国蒲生郡 石部神社
> (以下略)

越後や加賀にも石部・磯部と名の付く式内社は並んでいるように思います。
日本海側の特徴なのかもしれません。
どこかの神社の資料に、「石邊公大物主命・・」というのを見た記憶があります。

鴨と兵主に関しては、鴨の分布はかなり広いので、その一部ですね。
その一部になにか特徴的なものが見られるのでしょうか。
(鴨分布はかなり広いけど、多くは勧請。オリジナルの拠点となると兵主に重なるのでしょうか)

[3935] Re[3934][3931]: 鴨と日矛  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/19(Wed) 10:45 [Reply]
鴨と日矛
地図を見ていて、私も感じました。
鴨関連に何かないだろうかと、目を凝らしていると、
そこには、なぜか、兵主神社が。(笑)

こんな風に重なるなんて想像もしていなかったので、
思考回路がショートしています。(^_^;

神社系は、まだまだ勉強が足りませんので、、、

本朝世紀に
「天慶四年(941)十月廿六日、
但馬国朝来郡朝来郷に居住する蔭孫賀茂貞行」
というのがあることを氏族辞典(どの本か忘れてしまいました)
で見ましたが、「但馬の加茂氏」
その時はどうして但馬に加茂?
日子坐系の鴨と関係するのかな〜とか思っていましたが、
今回の捜索で、おおおおっという感じです。

[3934] Re[3931]: 無題  神奈備 2003/02/19(Wed) 08:04 [Reply]
> 石部神社は、ここから福知山盆地を経て、出石盆地に抜ける《日子坐尊の行軍路》に式内社が点在して分布しています。
 
 石部の名を持つ式内社が鎮座する郡に鎮座する天日矛神に関係する神社をあげてみます。
近江国蒲生郡 鏡神社、苗村神社
近江国野洲郡 兵主神社
丹波國氷上郡 兵主神社
但馬國朝來郡 兵主神社
但馬國出石郡 伊豆志坐神社、大生部兵主神社、諸杉神社、中嶋神社
 他に伊勢國多氣郡に穴師神社が鎮座。
五つの郡で重なっています。銅鐸出土は七つの郡でしたが・・

 鴨と日矛、下照姫と赤留比賣、神の語源だったかも知れない鴨、また神社のルーツだったかも知れない熊の神籬一具を持ち込んだとされる日矛、縄文人と弥生人を代表する二氏族、提携しているように感じますね。

> 高天山

この山の名を持った式内社
葛上郡 高天彦神社
宇智郡 高天岸野神社
宇智郡 高天山佐太雄神社
 昨年末に高天岸野神社に参詣できました。金剛山の中腹に鎮座、普段はとても行けないような場所でしたが、祭礼日の午前中をねらいました。山道の雑草、枝木を刈り取っていてくれましたので、道がわかった次第です。次は高天山佐太雄神社にチャレンジしたいものです。ここは登山者が立ち寄っているようですので、体力と天候で行けるようです。

[3933] 四国山中に遺る皇室に関わる封印された真相   [Mail] 2003/02/19(Wed) 02:13 [Reply]
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kenzan.htm
徳川光圀は江戸に修史局を開き、元禄10年(1697)、突然徳島藩江戸留守居役であった老中土屋相模守を呼びつけ、覚書を手渡し、阿波及び淡路両国にある古代天皇葬場の調査が続けられたのであった(阿波国国史研究会編『道は阿波より始る』に詳しく述べられている)。

[3932] 淡路の神秘   [Mail] 2003/02/19(Wed) 01:09 [Reply]
http://www.atc.ne.jp/seikindo/elelohe.htm
淡路の神秘
エル、エロヘ.イスラエル
BOOKS成錦堂
白山義高・発行人
武智塩翁・解説者

昭和26年9月8日...淡路島の神秘に迫った1冊の書物が発行された。
そして平成14年10月8日...現代に再版としてここに甦る!

・・・古代、あるユダヤ人が淡路島の南海岸に渡来した。
その男が伝えたユダヤの歴史と文化の交差。
そしてその遺跡が洲本市の温泉街の中心・四州園にある。
このおとぎ話のような史実にふれてみて下さい。

鍬入式 白山会長の先導にて〔写真〕
鍬入れするローゼン師〔写真〕 ユダヤ教大司祭〔写真〕、T・ローゼン師と淡路人形〔写真〕、典参會の記念写真〔写真〕 秘蔵されていた女根の彫像〔写真〕


1771円(税別)


淡路の神秘 エル、エロヘ.イスラエル BOOKS成錦堂 白山義高 単価 1,771円 購入数 012345 冊



[3931] 無題  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/18(Tue) 22:43 [Reply]
宇加乃日子尊というのは、神武天皇が井光谷を越えていった峠道に今でも祭られている神様で、地名も宇賀神といいます。私も行きました。
宇加御魂とは違う神様です。
喜志比売・喜知日子というのは、いわゆるヒコ・ヒメ制度ですね。男と女の族長がそれぞれの同性を統治していたのです。これは漁民の習俗として世界的に類例が知られているもので、男は海、女は浜辺、仕事と職場が異性ではっきりと分かれているために必然的に発生してくる社会指導体制であるわけです。
天孫降臨の時も、迩迩芸尊と天之宇受売尊がいて、天孫族に出くわした猿田彦の側からすると、「ヒコ・ヒメが出てきたぞ」と受け止めたはずです。
伊勢は近畿でも特殊なところで、中世にも九州西部・千葉南部とも定期交通していました。中小船の航海技術は、二世紀もほとんど変わらなかったと思います。
特に阿佐加は猿田彦が亡くなり、天之宇受売尊の子孫、猿女君が本拠としていたところです。しかし、多気連の先祖は倭姫尊を積極的に受け入れることで、同地域に大和王権の代理店として新興勢力を伸ばしたわけですね。
伊勢風土記逸文には、神武天皇とともに東征した天之日別尊が出雲の神、伊勢津日子尊と戦い、信濃国に追い出したことになっています。
古事記には出てきませんが、久米歌の一つに、伊勢で久米部が戦ったことをあらわす内容もありますね。しかし、近江の石部神社とは関係なさそうですなあ。
やはりコミュニティーが移動したので、廃棄されたか、別の祭神にのっとられたんでしょう。

藤原京太極殿遺跡は、公園整備と発掘がおこなわれていますが、基壇の上に御神木があり、その囲いの石柱に《奉納・鴨公神社》とあります。つまり遺跡そのものが鴨公神社だったのです。「縄手」は四条「畷」と同じで中世の言葉です。中世に地域を割譲して住み着いた人々のコミュニティーの名前なんです。

高鴨神社の真上にある金剛山は別名を高天山(たかまやま)といい、大阪側では千早山です。楠正成はここに千早城を築いて、その城址公園もあります。高鴨神社の氏子さんたちはその楠党の仲間の子孫なんですね。

[3930] Re[3928]: 吉野国巣  神奈備 2003/02/18(Tue) 21:15 [Reply]
男爵教授、ありがとうございます。

> 石部鹿鹽上神社
倭姫命世記十八年
阿佐加の加多なる多気連等の祖、宇加乃日子の子、吉志比女、次に吉彦の二人が現はれ参上したので・・
(複写: http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/kyodo/yamatohime.htm から)
 阿佐加、多気と来ると伊勢、磯部も関係していそうな記がしますが・・・

> 藤原京の大極殿遺跡に鴨公(かものきみ)神社
鴨公小学校の近くでしょうね。橿原市縄手町。石部鹿鹽上神に当たるのか石部鹿鹽下神社になるのか。後裔社の吉御子神社は石部町大字石部ですが、その西に隣接して縄手町がありますね。

縄手は土手道ですから立地に関係するのでしょうが、川の土手付近を守った神だったの鴨。

> 高鴨神社も、神社紋は楠正成の菊水
四條畷神社は楠正行が祭神、つながるのかな。

> 巨勢山口神社の最寄り駅にJR国巣駅
今は吉野口と言う名ですね。近鉄吉野線には葛駅があります。つい最近行って来ました。丹生神社の太い材木でできた小祠が残っており、昔は干ばつ時には祠を池に投げ込む雨乞いの祭りがあったようです。

[3929] Re[3926]: 石部と銅鐸  神奈備 2003/02/18(Tue) 21:14 [Reply]
ペギラさん ありがとうございます。
> なんの参考にもならないかも。
大いに参考になります。相当な関連だと思います。出土物でこれだけ繋がるのなら、これから発見されるものもあるのでしょうから、もっと重なるのかもしれませんね。
埋まっているであろう銅鐸のうち、どのくらいが出土しているのでしょうね。出雲でもかたまってありそうな場所がまだあるそうですね。費用と人手がない。

[3928] 吉野国巣  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/18(Tue) 19:01 [Reply]
吉野国巣氏について。吉野の十津川の人々は明治維新の功績で、全家が士族になったけれども、以前にも壬申の乱で、元々は巨勢朝臣の領地だった地域を吉野に合併したことがありました。それで巨勢山口神社の最寄り駅にJR国巣駅があるわけです。賀茂・三輪・宗像の三族も壬申の乱で将軍として功績を挙げたわけですが、律令制の施行で本貫の領地を奪われてしまい、土佐と大和を行ったり来たりしたのです。したがって、石部神社や賀茂の社が賀茂族の氏子を失った後、吉野十津川人が移住して、自分たちの神さまを祭ったのは大いに考えられますが、これは現場に行かないとわかりませんね。
というのは、吉野の神は川の神なんです。吉野は山が多すぎて、山の上に住んでいるので、山を眺めて拝むようなところじゃないんです。むしろ洪水や生活にかかわる命の水を崇拝する。
賀茂の神は神奈備山なんです。吉野川の上流だと支流との合流点の一つに妹山という神奈備があるでしょう。あれは熊野の河原にある元宮と同じ地勢配置ですね。
だいたい高鴨神社も、神社紋は楠正成の菊水なんです。これは楠党の人々が氏子になって高鴨神社を守ってきたからですね。住民がすっかり入れ替わってしまったんです。それで賀茂族はどこに行ったかというと、藤原京の大極殿遺跡に鴨公(かものきみ)神社があって、ここで平安・鎌倉時代をのんびり過ごしていたようです。
でも口碑はどこかに残るのです。
高鴨神社の真下に「風ノ森峠」があり、そこに風の神・志那津日子神社があるですが、九州の宗像大社で古い記録を調べたら、大社の摂社の一つに風降(かぜのもり)神社というのがあったのです。行ってみたら、そこは前方後円墳なのです。
「あっ、これは私のご先祖だ」とDNAレベルで実感しましたね。
それから賀茂朝臣蝦夷が初代土佐国守として祭った土佐神社ですが、宗像大社のように御神体を船団に載せて周回する祭りを「志那禰祭」というのです。

[3927] Re[3922][3921]: 石部神社  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/18(Tue) 18:26 [Reply]
> 男爵@中央大学様、ありがとうございます。
>
> > 南近江の神奈備山の一つ、石部町の石部山に由来するのではないかと
> 石部の名を持つ式内社
> 近江国蒲生郡 石部神社
> 近江国野洲郡 馬路石邊神社
> 近江国甲賀郡 石部鹿鹽上神社
> 近江国愛智郡 石部神社二座
> この内、石部町に当たるのは石部鹿鹽上神社です。
> 余談になるかも知れませんが大和国吉野郡には川上鹿鹽神社が鎮座、吉野国樔の始祖を祀るとの説もあります。(『平成CD』では味鋤高日子根尊も祭神の一です。)
>
> > 福知山盆地を経て、出石盆地に抜ける《日子坐尊の行軍路》に式内社が点在して分布
> 播磨國賀茂郡 石部神社
> 丹波國船井郡 出石鹿石部神社(石は山篇)
> 丹波國氷上郡 石部神社(石は山篇)
> 丹後國與謝郡 阿知江石部神社(石は山篇)
> 但馬國朝來郡 朝來石部神社
> 但馬國朝來郡 刀我石部神社
> 但馬國出石郡 石部神社
>
> 男爵閣下ml> 銅鐸文化は出雲と近江が中心です.。湖東を開拓したのは賀茂族の祖先の一人・天日方奇日方尊です。出雲族と大多々禰子尊以前の賀茂族をつなぐもの、これが銅鐸だったのではないかという考え方です。
>
>  近江、丹波、但馬の石部の流れと銅鐸出土とはどうなんでしょうね。あれば賀茂族と銅鐸、重なってくれば、これは面白いことになりますね。
>
> 男爵閣下ml> 徳島市国府町には賀茂神社があり、大賀茂積尊を祭っています。吉野川も、何ゆえに葛城の吉野川と同じ名前かといえば、やはり土佐の賀茂族が関係しています。土佐から阿波・紀伊に抜けて、紀ノ川から葛城にもどるルートを開拓したのです。これは続日本紀の記事なので、奈良朝に由来があります。
>
>  中央構造線沿いに向かい合う吉野川の名が同じなのは何でだろうと思っていましたが、その謎に一歩前進した気分です。石部鹿鹽上神社の現在の論社が吉御子神社、吉姫神社であり、また吉野に川上鹿鹽神社が鎮座、なにか「賀茂」と「吉」との関連がありそうですね。
>  越前國今立郡の石部神社の祭神が吉日古命、吉日売命となっているのも気にかかります。

☆神奈備さん
「閣下」はやめてくださいよ。私の高校時代の同級生・デーモン小暮みたいなので。
情報データはさすがですね。もうこの場で賀茂と石部の関係は実証されたと思います。皇学院・国学院に論文が出せますよ。やっぱり口碑はつなぎあわせるとどこか真実があるんですよね。ちなみに鈴鹿宮司さんの御祖父さんは皇学院の創立者です。
ところで今立郡について。ここに式内社の諏訪阿須疑神社があるのですが、この「阿須疑」は出雲で味鋤高日子尊を祭っている阿須伎神社、リコール騒動で揺れている滋賀県豊郷町の阿治岐神社と同じなんです。石部神社とも関係があるわけです。
諏訪大神は大国主尊と沼河媛尊の子で中部・北陸一帯が勢力圏だったとすると、近畿圏の味鋤高日子尊と、この足羽川上流の今立郡が国境線なんですね。
静岡県の日本平に関西風うどんと関東風うどんの店が並んでいるようなものです。

[3926] 石部と銅鐸  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/17(Mon) 11:26 [Reply]
ご近所ものを調べてみました。
結果。
う〜ん(-_-;)、、、、
○近江国蒲生郡 石部神社
滋賀県蒲生郡竜王町七里
銅鐸出土地・・・滋賀県蒲生郡竜王町山面―扁袈(型文)

○近江国野洲郡 馬路石邊神社
滋賀県守山市吉身
銅鐸出土地・・・滋賀県守山市古高町―突近
     ・・・滋賀県守山市新庄町―外流

○近江国甲賀郡 石部鹿鹽上神社
滋賀県甲賀郡石部町大字石部

○近江国愛智郡 石部神社二座
滋賀県愛知郡愛知川町大字沓掛
銅鐸出土地・・・旧滋賀県愛知郡愛知村・不明
        (彦根市稲里か?)

○播磨國賀茂郡 石部神社
兵庫県加西市
すぐそばに鴨谷
中国自動車道に沿って西へ行くと
銅鐸出土地・・・飾磨郡夢前町神種―菱横
さらに西へ行くと加茂神社、菅谷地名

○丹波國船井郡 出石鹿石部神社(石は山篇)
京都府丹波郡曽根
となり蒲生(こも)
銅鐸出土地・・・京都府北桑田郡京北町下弓削―扁袈

○丹波國氷上郡 石部神社(石は山篇)
兵庫県氷上郡氷上町石生
賀茂・鴨内・鴨野
銅鐸出土地・・・兵庫県氷上郡春日町野上野―外袈・扁袈

○丹後國與謝郡 阿知江石部神社(石は山篇)
京都府与謝郡野田川町岩屋
銅鐸出土地・・・京都府与謝郡野田川町比丘尼城―突近
     ・・・京都府与謝郡加悦町明石和田―扁流
     ・・・京都府宮津市・舞鶴市―突近・突三

○但馬國朝來郡 朝來石部神社
兵庫県朝来郡山東町滝田
○但馬國朝來郡 刀我石部神社
兵庫県朝来郡和田山

○但馬國出石郡 石部神社
兵庫県出石郡出石町下
銅鐸出土地・・・兵庫県豊岡市九日市上町女代―突
     ・・・兵庫県豊岡市気比字溝口―外流
     ・・・兵庫県城崎郡日高町久田谷―突

なんの参考にもならないかも。

[3925] Re[3924][3923]: 吉葛  大三元 [Url] 2003/02/17(Mon) 09:30 [Reply]
> よさぬかの吉葛ですね。

ははは。

> 『日本書紀一書第三』伊弉冉尊が苦しみながら生んだ神の一柱ですね。『古事記』では和久産巣日の神に代わって伝えられています。穀物の神の具体的なものとしての「葛」を表しているのでしょうか。

ひさご、ヒョウタン(?)だとされていたと思いますが。

> 大和の東部南部の産地はクズの民の跋扈した所で、吉野クズは大海人皇子に助力したことで知られています。瀬戸内の西国や美濃もそうでした。また『丹後國風土記残欠』も海部氏であり、大海人皇子に力添えをしたのでしょう。

その丹後風土記残欠に天吉葛がでてきます。カゴヤマがらみで。
ご参考: http://www.dai3gen.net/tango.htm

> さてここでどう賀茂を取り込むのかですね。山城の賀茂、大海人皇子の先駆けで美濃へ走ったとか、八咫烏だった?

丹後と吉野の共通点、というか、接点までは見つけてきたけど・・・

[3924] Re[3923]: 吉葛  神奈備 2003/02/16(Sun) 23:20 [Reply]
よさぬかの吉葛ですね。
『日本書紀一書第三』伊弉冉尊が苦しみながら生んだ神の一柱ですね。『古事記』では和久産巣日の神に代わって伝えられています。穀物の神の具体的なものとしての「葛」を表しているのでしょうか。
美濃国不破郡 南宮大社摂社吉葛神社
備前国児島郡 早瀧比メ神社
安芸国安芸郡 亀山神社
に祀られています。吉葛神については上記の事を紹介する以上のものは『平成CD』にはなさそうです。
大和の東部南部の産地はクズの民の跋扈した所で、吉野クズは大海人皇子に助力したことで知られています。瀬戸内の西国や美濃もそうでした。また『丹後國風土記残欠』も海部氏であり、大海人皇子に力添えをしたのでしょう。

さてここでどう賀茂を取り込むのかですね。山城の賀茂、大海人皇子の先駆けで美濃へ走ったとか、八咫烏だった?

[3923] 吉葛  大三元 [Url] 2003/02/16(Sun) 10:22 [Reply]
神奈備さん

> ・・・、なにか「賀茂」と「吉」との関連がありそうですね。

「吉葛」がキーワードの一つ鴨ね。面白そうな課題です。


[3922] Re[3921]: 石部神社  神奈備 2003/02/15(Sat) 22:39 [Reply]
男爵@中央大学様、ありがとうございます。

> 南近江の神奈備山の一つ、石部町の石部山に由来するのではないかと
石部の名を持つ式内社
近江国蒲生郡 石部神社
近江国野洲郡 馬路石邊神社
近江国甲賀郡 石部鹿鹽上神社
近江国愛智郡 石部神社二座
この内、石部町に当たるのは石部鹿鹽上神社です。
余談になるかも知れませんが大和国吉野郡には川上鹿鹽神社が鎮座、吉野国樔の始祖を祀るとの説もあります。(『平成CD』では味鋤高日子根尊も祭神の一です。)

> 福知山盆地を経て、出石盆地に抜ける《日子坐尊の行軍路》に式内社が点在して分布
播磨國賀茂郡 石部神社
丹波國船井郡 出石鹿石部神社(石は山篇)
丹波國氷上郡 石部神社(石は山篇)
丹後國與謝郡 阿知江石部神社(石は山篇)
但馬國朝來郡 朝來石部神社
但馬國朝來郡 刀我石部神社
但馬國出石郡 石部神社

男爵閣下ml> 銅鐸文化は出雲と近江が中心です.。湖東を開拓したのは賀茂族の祖先の一人・天日方奇日方尊です。出雲族と大多々禰子尊以前の賀茂族をつなぐもの、これが銅鐸だったのではないかという考え方です。

 近江、丹波、但馬の石部の流れと銅鐸出土とはどうなんでしょうね。あれば賀茂族と銅鐸、重なってくれば、これは面白いことになりますね。

男爵閣下ml> 徳島市国府町には賀茂神社があり、大賀茂積尊を祭っています。吉野川も、何ゆえに葛城の吉野川と同じ名前かといえば、やはり土佐の賀茂族が関係しています。土佐から阿波・紀伊に抜けて、紀ノ川から葛城にもどるルートを開拓したのです。これは続日本紀の記事なので、奈良朝に由来があります。

 中央構造線沿いに向かい合う吉野川の名が同じなのは何でだろうと思っていましたが、その謎に一歩前進した気分です。石部鹿鹽上神社の現在の論社が吉御子神社、吉姫神社であり、また吉野に川上鹿鹽神社が鎮座、なにか「賀茂」と「吉」との関連がありそうですね。
 越前國今立郡の石部神社の祭神が吉日古命、吉日売命となっているのも気にかかります。

[3921] 石部神社  男爵@中央大学 [Mail] 2003/02/15(Sat) 20:49 [Reply]
神奈備様
メールに追加します。石川県の石部神社はちょっと興味があります。
石部姓は磯部姓と同じで、伊勢部が訛化したものという説がありますが、
私は南近江の神奈備山の一つ、石部町の石部山に由来するのではないかと
考えています。この石部神社に賀茂朝臣の祖神の一柱で、大多々禰子尊の
直接の先祖でもある天日方奇日方尊が祭られています。
石部神社は、ここから福知山盆地を経て、出石盆地に抜ける《日子坐尊の
行軍路》に式内社が点在して分布しています。つまり古代に近江の人々が
丹波の出石一帯を占領しに出かけ、そこから発展した足跡が石部神社なの
です。それから面白いことに、石部神社には山間地なのに宗像女神が合祀
されている例が多い。これは賀茂族の祖神・味鋤高日子尊の母親が宗像の
多霧媛尊であることの名残りの一つなんです。素朴な口碑というものは、
なかなか正直で、むしろ生半可な知識をふりまわした漢学者くずれが祭祀
のあり方を変更したり、地誌伝承を稚拙に改変した例が多いですね。

[3920] Re[3919][3918]鉄鐸  日雲 2003/02/15(Sat) 04:12 [Reply]
> 森本ろくじさんの一番弟子といわれる藤森栄一氏の著作「銅鐸」を
> 読まれているのでしょうか?
「銅鐸」……は読んでいないです……。
「藤森栄一全集」というのに入っていた、鉄鐸についてだけ書かれた50ページもないようなごく短いものはコピー取って読んでたのですが、
あれが藤森さんの鉄鐸観の全てかと思い込んでいましたが……もしや……あの後にずいぶん変わったのでしょうか……?

>鉄鐸に関してはある方向性が見えていると思います
あららら……読んだ論文の方には斎部氏がどうこうということと、守矢氏が云々というようなことしか……(;==
あの頃は、日光から出たことがホットニュースだったような頃で、80年代以降に出土した分などが考慮に入っていない以上、
諏訪の話以外はそれほどアレなのかな、などと勝手に……。

すいません、とりあえず「銅鐸」探して読んでみますね。

> そのあとで、さんの質問された方がいいと思いますよ。
> >日雲さん
は、直して参ります。
神奈備様もすいませんでした。下のモノ、しばらく放置願います。

[3919] Re[3918]鉄鐸  ペギラ 2003/02/15(Sat) 01:18 [Reply]
話を横道にそらしてしまった責任で、

これだけの出土地を上がられているのなら、
森本ろくじさんの一番弟子といわれる藤森栄一氏の著作「銅鐸」を
読まれているのでしょうか?

鉄鐸に関してはある方向性が見えていると思います

そのあとで、神奈備さんの質問された方がいいと思いますよ。
>日雲さん


[3918] Re[3914] [3915]  日雲 2003/02/14(Fri) 23:31 [Reply]
ぺギラ様>通りすがりの旅八咫烏だと思って、さらりと流して頂いてよかったのにな。(笑)
いえいえ、そんなこと仰らずに。八咫烏でいらっしゃるなら、お導き頂きませんと。(笑)
HPの方、ゆっくり拝見させていただきますね。
お勧めの本も探してみます。
ともあれ、返レスありがとうございました。

神奈備様>神寶と銅鐸を連想した程度のこと。
あ、やっぱり、それで……いえ、書き込んだ時点では、マヂでさっぱり解らなかったのですが、
昼、電車に乗ってぼーっとしていた時に、いきなり前後脈絡なく、
「さなぎ」
と脳裏に……で、ああ……その「さな」だったのか……と(;==。

そこですみません、またぞろお知恵拝借してよろしいでしょうか?
鐸つながりで、前々から気になっていた「鉄鐸」についてなのですが、
平成9年春段階までに出土し、鉄鐸と確認されたのは以下の通りだそうです。

★栃木県・日光団体山遺跡(時期不明)【トレンチ/131点】
★群馬県高崎市倉賀野万福寺遺跡6号墳(5C 後半〜6C前半)【竪穴式小石室/1点】
★群馬県甘楽郡甘楽町天引向原遺跡(11C)【竪穴住居他/4点】
★長野県各地(14箇所の遺跡。多いので略)
★奈良県桜井市外鎌山北麓忍坂第3号墳(6C末〜7C前半)【横穴式石室/8点】
★奈良県天理市竜王山E-14号墳(7C初頭)【横穴式石室/1点】
★大阪府枚方市小倉東遺跡2号墳(6C末?)【木棺直葬/1点】
★兵庫県三木市久留巳字田井野大池7号墳(6C後半)【第4主体部/1点】
★岡山県津山市西吉田北1号墳(5C後半)【箱式石棺/2点】
★岡山県苫田郡奥津町杉遺跡(6C末〜7C前半?)【?/5点】
★福岡県嘉穂郡稲築町大字口春かって塚古墳(5C後半〜6C)【横口式石室/7点】
★福岡県・沖ノ島祭祀遺跡(古墳時代〜平安時代)
★福岡県福岡市博多区金の隈堤ヶ浦10号墳(6C末〜7C初頭)【横口式石室/1点】
★福岡県筑紫郡那賀川町大字松木字カクチガ浦3号墳、6号墳(6C前半)【墳裾部、横口式石室/各1点】
★福岡県宗像市名残高田遺跡6号墳(6C後半)【横穴式石室/1点】
★福岡県前原市大字本字辻ノ田1号墳、3号墳(7C前半〜末)【共に横穴式石室/各1点】

――尤も、鉄鐸は出土遺物として研究がまだ始まったばかりで、今後も出土されるだろうし、またすでに出土しながら、鉄鐸とは認識されていない例もあるのではないか、
とのことですので、ここで何かを推測してみても、後々ひっくり返る疑いも甚だ強かろうかとは思いますが、とりあえずこの出土分布と推定時期から、何か濃厚な関連が想定される氏族のような存在は思い浮かばれますでしょうか?
(資料は岡山の杉遺跡以外は、津山市西吉田遺跡の調査報告から取りました)

[3917] Re[3916][3912]再度千木について   [Mail] 2003/02/14(Fri) 23:02 [Reply]
> 前回の書き込みでは、イメージが湧かないかと思い、探してみました。
>
> 『庇(ひさし)の木が、そのまま貫いて千木になります』
> 訂正:庇ではなく、破風板です。
>
> どうも、詳しい説明ありがとうございます。
>
>

[3916] Re[3912]再度千木について  習志野のてつ [Mail] 2003/02/14(Fri) 14:59 [Reply]
前回の書き込みでは、イメージが湧かないかと思い、探してみました。

『庇(ひさし)の木が、そのまま貫いて千木になります』
訂正:庇ではなく、破風板です。

伊勢神宮の形式
破風板を延ばしてつくった千木は、かなり長いのが通例。
http://www.city.miyazu.kyoto.jp/bunkazai/data/26.html

ほとんどの神社の千木
置き千木は『鎮木』とも表記され、屋根押さえのような感じです。
http://www.teleservice.co.jp/ikeda/html/yo_go.htm

千木に孔を開けていますが、この孔の名は風穴(ふうけつ)です。
この数も最大3個、女神の場合、2個半が最大のようです。


[3915] Re[3913][3907][3908]{3909]  神奈備 2003/02/14(Fri) 13:28 [Reply]
> 多家良(タカラ)、佐那河内村(サナゴウチソン)等も。

神寶と銅鐸を連想した程度のこと。

多家良、山間の盆地のような場所ですが、山方比古神社(字立岩)と建島女祖命神社の二式内社が鎮座。金谷川をさかのぼると佐那河内、佐那具を連想、銅鐸につながるのかも。

[3914] Re[3913]敷地  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/14(Fri) 10:51 [Reply]
日雲さん、はじめまして、ペギラです。

通りすがりの旅八咫烏だと思って、さらりと流して頂いてよかったのにな。(笑)
作文能力、説明する技量が、不得手なのに、発言しちゃってすいません。

字数や時間に制限がなければ、トコトン説明したいんですが、
そんなわけにもいかないし、、、(^_^;

とりあえず、銅鐸と鴨については、参考書物として
「古氏族の研究」大場磐雄著 1975年 永井出版企画
の銅鐸私考という論文などを読んでみると、私の説明より間違いなく
わかりやすい。決してこれが結論だ!ということではないですよ。

銅鐸出土地については、自分のHPにも必死になって作成しましたが、
最近、すばらしい資料があげられていますので、そこを↓
http://www.pref.shimane.jp/section/maibun/pdf/seido.pdf
PDFで40ページを超す代物ですのが。。。

で、敷地ですが、
河川敷というのは、見た目の話でして、
シキチという発音の言葉に、なにかありそうな。。ということです。

希望・願望的な見方ですが、賀茂大神・アヂスキ、アジシキさんの
「シキ」が同意語となってくれれば、いいな〜(^_^;

神奈備さんの追加していただいたデータを見ても、
銅鐸出土地範囲を逸脱するものはありません。

九州・関東・東北に、ボコボコ「敷地」地名地があるならば、
この妄想は、削除してゴミ箱行きになりますね。

今、上文を読み返してみても、やっぱり、さっぱりわからんですね。(爆)

[3913] Re[3907][3908]{3909]  日雲 2003/02/14(Fri) 01:53 [Reply]
神奈備様> おっしゃる通り意味深な地名が見えますね。多家良(タカラ)、佐那河内村(サナゴウチソン)等も。
すいません……これはどのあたりが意味深なのでしょう?(#`ゝ′
マヂで解りません、「タカラ」「サナゴウチ」とは何でスか……?

ペギラ様> 加茂と敷地の関係は、なにかしらあるのだろうと以前より思っていました。そして銅鐸出土地とも。
はじめまして。
いかんせん無知なものですから、挙げられた一覧がどうカモや銅鐸等に関係するものやら、
また神奈備様の追って挙げられた分を含めても、やはりそうした結論がでるものなのやら、
私にはサッパリ解りませんが、「川?」という感じは地図で見る限りはそうなのかなとは。
>まさに河川敷ですね。
「敷地」の「敷」とは、「河川敷」の「敷」なのでしょうか……?
しかし、そうすると一般名詞の筈……?
けど、ここに「カモ」や「銅鐸」が関連するものなら、ただの一般名詞では……?
どう考えればよいものやら、まるで解らないのですが、何かお考えは御座いますか?

[3912] Re[3911] 淡路島の古代イスラエル文化遺跡発見  習志野のてつ [Mail] 2003/02/14(Fri) 00:35 [Reply]
> > > 神戸新聞昭和27年10月15日版…
> 本によると 出雲大社造の屋根の千城がx型、伊勢神宮神明造の千木がv字型
泉さん、こんばんわ。面白そうな話題、ありがとうございます。
 二点疑問があります。
@ 『出雲大社造の屋根の千城がx型、伊勢神宮神明造の千木がv字型』とは?
 伊勢神宮の千木は、庇(ひさし)の木が、そのまま貫いて千木になります。
 いわばおおきな×
 出雲大社の千木は、置き千木とも云い、小さな×を屋根に乗せた形です。
 いわばちいさな×
 違いは「建物の構造そのもの」か、「建物に後から乗せた付属物」か、です。
 V字と言われる根拠がわかりません。
   
A V字型とイスラエルの関係が不明で、理解できません。
 通常V字は、牛の角を意味します。シュメールとかの話になりやすいのですが。
 モーゼも出エジプトのとき、黄金の牛を神として祭ったイスラエルの民を怒っています。

>学界で注目された  > その後 この謎はどうなっていったのでしょうか?…
 私見ですが、「単なる勘違いとして忘れられた」のではないでしょうか。

[3911] Re[3909][3906]: 淡路島の古代イスラエル文化遺跡発見   [Mail] 2003/02/13(Thu) 23:46 [Reply]
> > 神戸新聞昭和27年10月15日版
> 神戸市立図書館で見ることができるのでしょうね。
> さて、V字石がイスラエルに何故、どう繋がるのでしょうか。

淡路島の洲本市図書館にある本で私は知りました。昭和27年に東大教授内藤博士等が調査発掘し ローゼン大司教を先頭に東京から淡路出身の永田代議士などが集まり視察を行っている 
本によると 出雲大社造の屋根の千城がx型、伊勢神宮神明造の千木がv字型
ユダヤ人の祖先が太古の日本に渡来したとゆう謎の学説は しばしば これまで流布されてきたが その遺跡が淡路にあると発表され 学界で注目された

その後 この謎はどうなっていったのでしょうか?淡路の神秘と関連があるように思えるのですが v字型の説明も記載されていたが 私には本の内容が難しくて一部分しか読んでいません


[3910] Re[3908][3907]敷地地名と鴨と銅鐸  神奈備 2003/02/13(Thu) 18:06 [Reply]
ペギラさん 貴重な情報ありがとうございます。
『平成データ』で地名に「敷地」を入れますと、屋敷地までいれて他にも出ました。神社名を記しておきます。
岐阜市下奈良字向前堤塘敷地 水天宮
羽島市桑原町大字小薮字下堤塘敷地 八幡神社
岐阜県養老郡養老町瑞穂堤塘敷地 金刀比羅神社
岐阜県大野郡丹生川村大字折敷地 住吉神社、笹山神社
静岡市向敷地 神明宮
静岡県磐田郡豊岡村敷地 野邊神社
名古屋市港区宝神町字敷地 熱田社
名古屋市港区土古町字屋敷地 八剣社
愛知県一宮市千秋町一色字屋敷地 神明社
愛知県丹羽郡扶桑町大字山那字屋敷地 山那神社
兵庫県小野市敷地町 大年神社、八幡神社、住吉神社
徳島県板野郡藍住町東中富字敷地傍示 八坂神社
徳島県那賀郡那賀川町敷地宮の本 若宮神社
徳島市国府町敷地鶴の本 御寄神社
広島県双三郡吉舎町敷地 艮神社

最近は大字や字がなくなって番地のみになっていますので、不便ですね。

[3909] Re[3906]: 淡路島の古代イスラエル文化遺跡発見  神奈備 2003/02/13(Thu) 18:05 [Reply]
> 神戸新聞昭和27年10月15日版
神戸市立図書館で見ることができるのでしょうね。
さて、V字石がイスラエルに何故、どう繋がるのでしょうか。

[3908] Re[3907]敷地地名と鴨と銅鐸  ペギラ [Mail] [Url] 2003/02/13(Thu) 12:38 [Reply]
ひさびさにおじゃまいたします。m(_ _)m

加茂と敷地の関係は、なにかしらあるのだろうと
以前より思っていました。そして銅鐸出土地とも。

敷地地名地
茨城県大子町敷地・・・・福島との県境
石川県加賀市敷地・・・・菅生石部神社あたり、近くに加茂町あり
静岡県磐田郡竜洋町敷地・・・天竜川河口
静岡県磐田郡豊岡村敷地・・・野辺神社あたり、西の谷に銅鐸
静岡県静岡市敷地・・・・登呂遺跡より海岸線へ南
静岡県静岡市敷地・・・・足久保川流域
和歌山県伊都郡花園村敷地・・・有田川上流
広島県賀茂郡豊栄町敷地・・・・黒川下陰地の銅鐸に近いかな?
広島県双三郡吉舎町敷地・・・・三次市の南西
徳島県徳島市敷地・・・・勝浦川流域
徳島県徳島市敷地・・・・国府町
徳島県那賀郡那賀川町敷地・・・旧那賀川河口付近
徳島県板野郡藍住町敷地・・・旧吉野川流域
徳島県麻植郡鴨島町敷地・・・吉野川流域
徳島県麻植郡川島町敷地・・・吉野川流域
徳島県三好郡三好町敷地・・・吉野川中流域
高知県中村市敷地・・・・四万十川流域

こんなところを見てみましたが、
まさに河川敷ですね。
山中でも、河口でも。

徳島市八多町居内でも推突線鈕近畿式(所在不明)があります。
敷地のあるところ銅鐸ありって感じです。(茨城以外)

ただの偶然なんでしょうかね?(^_^;
川と龍(蛇)と水と山。
銅鐸のキーポイントと個人的には思っています。

考察年代がずれた話で申し訳ありません、、、
加茂と敷地で飛びついてしまいました。(( ( (ヽ(;^^)/


[3907] Re[3903]:青草[661] 敷地神社と石神、社口について  神奈備 2003/02/13(Thu) 08:38 [Reply]
> 平成CDには京都以外の敷地神社は出ませんでした。

間違でした。
徳島市八多町居内49に鎮座していました。

八多はハタですね。五王神社に犬飼の農村舞台があり、人形芝居があるとか。
おっしゃる通り意味深な地名が見えますね。多家良(タカラ)、佐那河内村(サナゴウチソン)等も。3年住んだ徳島市ですが、改めて秦氏を含めた古代の人々の足跡が残っているのを感じました。


[3906] 淡路島の古代イスラエル文化遺跡発見   [Mail] 2003/02/13(Thu) 01:43 [Reply]
神戸新聞昭和27年10月15日版
V字石の謎 解明へ  イスラエル遺跡発掘いよいよ進む
イスラエル遺跡の系統に属するとみられるツカは 諭鶴羽山より悔濱にむかって すでに21箇所発見されている 

[3905] Re[3904][3903]:速報阿波の敷地  神奈備 2003/02/12(Wed) 20:12 [Reply]
検索エンジンから

下記神社はお互いに近いようで同じ社かも知れません。共にカモですので・・・。
加茂野南郷町敷地神社
http://www.museum.comet.go.jp/hasegawa/db/itabi.htm
若宮神社摂社地神社かも。

鴨島町敷地神社
http://www.anabuki-town.jp/bunokaisio.html
麻植郡鴨島町大字敷地の敷島神社の誤植かも


また敷地の住所の神社
板野郡藍住町東中富字敷地傍示40-1
八坂神社の摂社に地神社

那賀郡那賀川町敷地宮の本235
若宮神社摂社地神社・八社

徳島市国府町敷地鶴の本340
御寄神社
以上

[3904] Re[3903]:青草[661] 敷地神社と石神、社口について  日雲 2003/02/12(Wed) 17:48 [Reply]
えーと、とりあえず記憶に残っていた四国の二社ですが、

★徳島県徳島市八多町居内 【祭神】天之御中主神
★高知県中村市川登字諏訪山 【祭神】敷地民部藤康

まず、すいません。いきなり訂正からですが、
日雲>「敷地」という字地名にある敷地神社というのもありますが、
これは私の大勘違いだったかも。てっきり徳島のがそれだと思っていたのですが……。
徳島県内に二箇所、高知県内に一箇所、「敷地」という地名がありましたもので、恐らく、
「この近い方の敷地と何か関係があるとかなんだろうな、きっと?」
と思ったことが、知らぬ間にすりかわって記憶違いとなったのではないかと……。
すみません。
しかし、今にして思えば、京都の敷地神社祭神がアワ開拓関係なら、何かつながりが……?

神奈備様>徳島の敷地神社については、板状立石があるとか。石神かも。
あ、そんなものがあるのですか……? 見に行ってみたいですね。 

神奈備様>なお鎮座地がカモであり、
? これは間違いないでしょうか? 
二社あるのか、八多町居内の旧地名がカモであったか、宮内以下に小字があったか……?

個人的に気になるのは、この八多町内に「鹿首」「犬飼」「中山」といったような字地名が三つ並んで今でも残っているということなんですが……これを見る限り、美作中山をどうしても思い出してしまいます。
また、ほど遠からぬ、勝浦郡勝浦町や、那珂郡羽ノ浦町などまで視野に入れれば、「星河内」「星の岩屋」「妙見(星取寺がある)」など、妙に星臭い名が散見され(空海の虚空蔵信仰?)、羽ノ浦町の隣の那賀川町にまで行くと、そこに「敷地」の地名がある。
そういう環境下で天御中主を祭神名として、板状立石があるとなると、これは……?

とはいえ、徳島県内のもう一方の『敷地』地名(麻植郡鴨島町)には、別に星臭いものは見当たらず(カモ?)、敷島神社(旧・敷地西宮)という事代主命を祭る神社が一社あるだけで(四国八十八霊場の藤井寺が近くにあるようですが、ここも薬師如来で特に……?)。
これは事代主で西宮ならえべっさんの分社かな? と思うのですが。
で、結局何だかよく解りません。

一方、高知県中村市の方ですが、これ、記憶になかったんですが(全くすいません)、敷地神社名義は明治初年からだそうです。
『中村市史』によると、
「川登の城主であった藤康は天文二年二月十五日戦死した。その後、人民その霊に祈れば霊効あるよりここに勧請、もと諏訪大明神と称し、鵜ノ江、勝間、久保川、田出ノ川、楠、高瀬、川登、手洗川、悪瀬々九カ村の惣鎮守であったが、明治元年敷地神社と改称、明治五年川登村一村の小社となった。土佐州郡志で諏訪大明神、昭和二十八年宗教法人設立」
とあります。
敷地民部藤康というのは、どういう方なんだかよく解りませんが、
http://www.nx.sakura.ne.jp/~gumi/sengoku/ichijyo/fuki.htm
によれば、
「敷地村(現中村市)に居住した国侍。三原郷(現幡多郡三原村)・川登(現中村市)・敷地の領主となる。三原・歓喜山上に柚ノ木城(城主・敷地官兵衛) 一条房冬の幼時の守り役をつとめたという敷地民部少輔藤康は、娘・椿姫>が房冬の妻となったために同輩諸臣の妬みをうけ陥れられ自刃。
一族郎党は三原や川登で一条家に抗して戦ったがことごとく戦死されたと伝えられる。 三原柚ノ木の興福寺境内には、藤康をはじめとする敷地一族の墓があり、大小90の五輪塔群がある」
とのことで、また、
http://www.tanutanu.net/roots/database/k/kano1.htm
を見ると、狩野氏の分かれ? だそうで、これが『国侍』の敷地氏と同じ敷地さんなのか良く解りませんけれども、中村市の敷地地名(式地とも書いたそうです)が敷地氏と直結しているであろうことは間違いないものの、ただここが幡多荘の一部であったことを見ると、徳島の八多町とも関係がある……?(ない?)
高知県内には「シキ地ノ村(高岡郡窪川町)」「敷ノ岩村(長岡郡大豊町)」といった地名もあって、これらが同じ「シキ」であるのかも解りません……で、何をどう捕えたらよいものやら。
中村市の敷地神社が諏訪だというのも気になりますが……これは諏訪神社に敷地民部藤康のミタマが合祀されて、そっちがメインになったのだろうかと思われますが、しかし、その場合であったとしても、
「諏訪と敷地に関係があったから合祀された」
のか、
「たまたま諏訪に合祀されただけ」
なのか、これもよく解りません。

これ以外の敷地神社がどこにあったのやら、ちょっと今すぐには思い出せません。
熊本の「シクンジ神社」界隈だったかなあ……?
いや、ちょっと怪しいです。すいません。

[3903] Re:青草[661] 敷地神社と石神、社口について  神奈備 2003/02/12(Wed) 12:20 [Reply]
> この京都の敷地神社の場合、社名の語源は何だと考えられましょう……?

京都の敷地神社(シキチ)については玄松子さん
http://www.genbu.net/data/yamasiro/wara_title.htm
に紹介されています。

 また徳島の敷地神社については、板状立石があるとか。石神かも。なお鎮座地がカモであり、創建の由緒を調べる必要がありそうです。平成CDには京都以外の敷地神社は出ませんでした。また柳田国男の『石神問答』にも敷地神社は登場していません。

 清水寺の舞台にの横など京都市内には地主神社9社が鎮座、他に多いのは高知、福岡など、この地主は兵主などと同じように山東半島からなのか、単に土地の神なのかですが、漢字にとらわれれば敷地と同様の意味ですね。

 各位の叡智と情報を期待いたします。

[3902] Re[3901]: あかずきんちゃん  習志野のてつ [Mail] 2003/02/12(Wed) 12:00 [Reply]
> 赤染氏は秦氏の一派だそうで、豊前国田川郡の香春神社の宮司家に赤染氏の名前が見えます。赤染氏は八世紀に常世連に改姓されていまして、河内国大縣郡常世岐姫神社に関係しているようです。銅をアカといいますが、赤留姫を追いかけたのは天日矛ですが、やはり秦氏につながっている証。

   全くの偶然ですが、公孫氏から、常世連を調べていました。
『新撰姓氏録』河内国諸蛮に「常世連 燕国王公孫淵之後也」とあるそうです。
神奈備さんの処に、きちんとありました。
常世岐姫神社 トコヨキヒメノ、ツネヨコヒメノなどの訓がある。式内社
http://www.kamnavi.net/en/kawati/tokoyoki.htm

ところが常世岐姫神社 埼玉県深谷市 大里郡藤沢村にもありました。
HPアドレスでびっくり。nireyamajinja?楡山神社、「yanase」さんでした。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/46tokoyo.htm

世間は(ネットの世界は)広いようで狭い。 yanaseさん、よろしくお願いします。

[3901] あかずきんちゃん  神奈備 2003/02/11(Tue) 20:50 [Reply]
赤染氏は秦氏の一派だそうで、豊前国田川郡の香春神社の宮司家に赤染氏の名前が見えます。赤染氏は八世紀に常世連に改姓されていまして、河内国大縣郡常世岐姫神社に関係しているようです。銅をアカといいますが、赤留姫を追いかけたのは天日矛ですが、やはり秦氏につながっている証。

秦氏の齋祀った神社の代表格は宇佐神宮、松尾大社、伏見稲荷などですが、鳥居をはじめ社殿も赤い印象が残っています。大陸では魔よけの色だったそうで、秦氏と大陸とのつながりは若干はあったのかも。
『日本霊異記』は景戒が書いたそうですが、小子部氏の子孫とかで、部族の功績譚として小子部栖軽の雷を捉えた話を第一に置いたのではとの解説もあります。『古事記』ー『日本霊異記』と正史ではない流れが見えるのも面白いです。
 雷を捉えに行く栖軽の姿は赤い色の縵を額につけ、赤い小旗をつけた桙を持って・・とあります。
 赤ー幡ー矛 が並んでいます。小子部氏と秦氏との関係がこのあたりからもうかがえるような気がいたします。

[3900] 神道の興隆  千田寛仁 [Mail] 2003/02/11(Tue) 11:11 [Reply]
http://www3.ocn.ne.jp/~coco62/goaisatu.html

神社参詣を21年続けてきた筆者が、日本の神道の大切さを物語る。

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〒024−0013岩手県北上市藤沢19−114−7
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千田寛仁敬具

[3899] Re[3898][3887][: 秦氏−その1  神奈備 2003/02/08(Sat) 20:18 [Reply]
>  ただし幡羅郡には上秦郷、下秦郷(妻沼町東部?)がありましたが、秦氏の話は聞きません。

摂津国の豊嶋郡に秦上郷、秦下郷があります。
後に東漢の後裔と称する坂上氏が入り、秦上社を穴織神社へ、秦下神社を呉服神社に変更しているようです。
秦上神社はさらに衰退した式内社の伊居太神社を名乗り、今日に至っています。神社の重層の典型とも言えます。
それぞれ現在も整備されたよい神社のたたずまいを見せながら鎮座しております。

 と言うことで、伝承は途絶えても秦上郷、秦下郷と言う地名そのものが秦氏の居住を語っているように思われます。

[3898] Re[3887][: 秦氏−その1  yanase [Mail] 2003/02/08(Sat) 01:58 [Reply]
興味深く拝見してゐます。
武蔵国の地名について若干補足させてください

苗さん> 埼玉には男衾郡(現寄居町・嵐山町・小川町を中心とした地域)に幡々郷(幡多郷)があり、……
このハタ郷は畠山重忠の住んだ川本町畠山あたりと普通にはいはれます。

> 幡羅郡(現熊谷市・深谷市・妻沼町)には幡羅郷(現原郷)があった。
幡羅郡はハラノゴホリと読み、別地名になります。ちなみに幡羅郷(ハラノサト)の地名は遠江ほか数ヶ所にあったようで、幡良の字のものもあります。
 ただし幡羅郡には上秦郷、下秦郷(妻沼町東部?)がありましたが、秦氏の話は聞きません。深谷市では利根川に近い大字新戒(しんがい)の古櫃神社(http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/26kohitu.htm)が秦氏の祖神を祀ったと由緒にありますが、平成CDではその「本領」とする長野県南佐久郡臼田町大字田口の新海三社神社の由緒に秦氏のことはありません。確かなことは地名や文字だけが類似してゐるといふことで、あまり参考にもならず失礼。

[3897] Re[3892][3879][3878]: 秦氏−その1  神奈備 2003/02/07(Fri) 22:06 [Reply]
紀伊国安諦郡幡陀郷について地元の榎下さんから教えてもらいました。  http://www.micocoulier.com/itono/"
有田郡最東部にあたり、現在は有田郡清水町安諦地区で、地区には 板尾、押出、北寺 等の地名が残っていますが、ハタ・ハダの名は残っていません。
ただ、板尾には三大神社が鎮座、祭神に御食津大神、大年神、三筒男神の名が見えます。
創建の起源や由緒はわかりませんが、大年神の子神は秦氏が祭った神との説、三筒男神の住吉大神は神功皇后とのつながりでやはり秦(波多)氏との関係が深く、板尾は秦氏がいたのかもしれません。

[3896] Re[3895][3890]: しまった、忘れ物  習志野のてつ [Mail] 2003/02/06(Thu) 12:16 [Reply]
> 最近十種神宝の形に似たものが気にかかるのですが、ここにも色々ありそうですね。

そうなんです。『「十種神宝」に天日矛が持ってきたものが紛れ込んでないかな?』
だとすれば、朝鮮にその名残・類似品が無いかな?と云うのがそもそものきっかけでした。
なにか有りそうなんですよ。

[3895] Re[3890]: しまった、忘れ物  神奈備 2003/02/05(Wed) 22:08 [Reply]
習志野のてつさん、HPのご紹介ありがとうございます。
最近十種神宝の形に似たものが気にかかるのですが、ここにも色々ありそうですね。

[3894] 皇大神宮(内宮)御垣内参拝  神奈備 2003/02/05(Wed) 21:44 [Reply]
皇大神宮(内宮)御垣内参拝
http://www.shinto.org
参照、ここから申し込めます。3月7日(金)午後一番

[3893] 秦氏ーその3  神奈備 2003/02/05(Wed) 09:34 [Reply]
> 応神天皇は秦氏の血を受けていると。
自己レス。
 神功皇后は天日矛の末裔、秦氏もどうやら天日矛の裔でしょうから、その胎中天皇の応神天皇と秦氏とは同根であるのは何も不思議なことではありません。
 また波多氏の民らしい百二十県を率いた弓月君の渡来に際して葛城襲津彦が遣わされており、葛城氏の本拠地の近くである高市郡波多郷に波多氏は居住しています。
 波多ミカ井神社が鎮座。明日香村にも波多神社が鎮座。
 神功皇后の母親は葛城の高額比賣でやはり葛城、ようするに応神天皇からは波多(秦)氏の皇子をたてて残り六つの武内宿禰の子とされた六氏族の国ができた。青草で言う六合。

 ところで、神功皇后の密通のお相手は住吉の神だったとか、住吉大神は特定氏族の祖神になっていないのですが、筑前国那珂郡(福岡県筑紫郡那珂川町)に現人神社が鎮座、筑紫の住吉神社の発祥の神社とされています。祭神は住吉三神、しかし現人を都怒我阿羅斯等と考えてみると、天日矛の別名ともとれ、住吉の神の皇子が応神天皇となったとも思えます。河内王朝と言われるのもむべなるかなと。

[3892] Re[3879][3878]: 秦氏−その1  苗(miao) 2003/02/04(Tue) 22:42 [Reply]
> > 近江国長下郡(幡多郷)
> 遠江国ですね。これは。

おや、ホントだ、確かに。
失礼しました、再校抜きに書くとダメですね〜。

[3891] Re[3887][3880][3879][3878]: 秦氏−その1  神奈備 2003/02/04(Tue) 18:33 [Reply]
> 近江国長下郡(幡多郷)
遠江国ですね。これは。

[3890] しまった、忘れ物  習志野のてつ [Mail] 2003/02/04(Tue) 17:04 [Reply]
新羅のガラス瓶について忘れました。
 http://japan.koreainfogate.com/museum/sankoku/sankoku-silla10.asp
この韓国の博物館のHP、面白いので、暇なときあちこち見ています。
アドレスを見る限り、新羅は「シラギ」ではなく「シルラ」ですね。
もっと古い時期のガラスについてhttp://japan.koreainfogate.com/museum/sonsa/sonsa-iron-7.asp

[3889] Re[3887] 誤解?  習志野のてつ [Mail] 2003/02/04(Tue) 16:39 [Reply]
誤解があると思われますので、書き込みます。
苗(miao)さんの論旨とは、無関係です。
> > > 古代ローマングラス
> >  出土した、、もしくは正倉院?
> 「佐波里水瓶」と呼ばれるモノが出土している…

佐波理
『佐波理は響銅といわれ、銅と錫の特殊な合金…』
名神大社、赤城神社のある 宮城村のHP
http://www.myg.or.jp/myg/kohun.htm
広辞苑第4版:さはり=銅を主とし…合金。

ガラスのことは、通常「瑠璃」とよびます。
正倉院宝物に「白瑠璃碗」があります。
これと対であろうと思われる碗が江戸時代に安閑天皇の御陵から出土
井上靖の小説「玉碗記」の題材となっているそうです。(全然知らない)
「海の正倉院」沖ノ島から瑠璃碗断片が出土
  これは古墳時代後期(A.D. 6 〜 7C)の遺跡から。
イランのギラーン州、ササン王朝時代の古墓から出土したと伝えられる…
カット・グラスと「瓜二つ」でした。

詳しくは瑠璃腕について筑波大のHP
http://www.sakura.cc.tsukuba.ac.jp/~elrouj/museum/eureka/eureka3/miyake.html

[3888] Re[3887][3880][3879][3878]: 秦氏−その2  神奈備 2003/02/04(Tue) 09:36 [Reply]
苗(miao)さん、ありがとうございます。
> いきなり豪「族」というスタイルで歴史に急に現れる
武内宿禰の子供として波多八代宿禰がいますが、一挙に中央氏族に現れることをさしているのでしょうか。北九州にいた幾つかの氏族が集団で大和を押さえたと言うことでしょうね。
 
 皇子崇拝と言うか、王子信仰が秦氏周辺に目立つように感じています。新羅の花郎に通じるのかも。
 兵主神(蚩尤) 炎帝神農氏の王子ではありませんが子孫。敗北。
 天日矛   新羅の王子 普通なら渡来しない。赤留比賣を追いかけるだけでは根拠不足。
 応神天皇  胎中皇子
 聖徳太子  太子信仰の頂点
 
 秦氏が納税の民を束ねたこと、他豪族とのかかわりよりは王権にかかわっていること、その割には妃を出していないこと、等を考えますと、王権とは秦氏そのものとも考えることができます。
 応神天皇は秦氏の血を受けていると。

[3887] Re[3880][3879][3878]: 秦氏−その1  苗(miao) 2003/02/04(Tue) 01:03 [Reply]
>  景教が大陸に入ったのは唐の時代だったと記憶しています。後からやってきた秦氏が持ち込んだと言うことでしょうか。
中国の文献による景教の初見は635年、当時は随、日本で言えば「舒明」期ですね。記、紀編纂よりも前の
話しですね。
文献の初見という現実から言えば、その以前に伝わって、某かの問題が持ち上がった、だから
文献にも載る、というのは常套と思っています。依ってもすこし古いと見ている。
随崩壊とも関わりがあるかも知れない(混乱に乗じての布教)かも、等という考えも出来る。
(随の崩壊は617、唐建国が618)まぁ一書に曰く、としておきましょう。
秦氏は元は新羅の出自というのも意味深。特に「海の人」という新羅言語での解釈も必要。
実際は3世紀に朝鮮半島南部で栄えた加羅・加耶の国から渡ってきたことが明らかにされている。
そいう意味では始皇帝子孫説はこじつけは否めない、が、相応の理由があると見ている。

>持ち込んだ、
という依りも、持ち込む以前に、同じ信仰性のある人との交流を通じて、日本への
足がかりを掴んだ、という方が現実性がある、と感じている。
秦氏という氏族全体を一度に送り込む、という以上、それなりの準備と移動性実力は必至。
なにしろ、いきなり豪「族」というスタイルで歴史に急に現れるあたり、相応の準備と工作は不可欠であったろう、と思える。
朝鮮半島(新羅)からの渡来の波は、大きく分けて、1、元前2世紀〜3世紀、2、5世紀、3、5世紀後半〜6世紀、4、7世紀後半の四波に分けられるといわれている。
秦氏を起源とする地域は全国的に広がっていて、神奈川県の秦野市、高知県の幡多郡などが知られている。また、幡多郷
と書く地名は、三河国渥美郡(幡多郷)、近江国長下郡(幡多郷)、紀伊国安諦郡(幡陀郷)、肥後国天草郡(波多郷)などが
ある。
武蔵國や関東近辺にも多く、埼玉には男衾郡(現寄居町・嵐山町・小川町を中心とした地域)に幡々郷(幡多郷)があり、幡
羅郡(現熊谷市・深谷市・妻沼町)には幡羅郷(現原郷)があった。東京にも幡ケ谷(渋谷区)がある。また、かつて武蔵國に属
し、今の神奈川県にあった都筑郡には幡屋郷(現横浜市)があった。

> > 古代ローマングラス
>  出土した、、もしくは正倉院?
「佐波里水瓶」と呼ばれるモノが出土している、これなど東中海産のローマングラスの典型
新羅と日本しか無い。
> > 満州族はまだマシだ、主義主張
>  おもしろそうなお話ですね。ヌルハチさん?少し具体的にお願いできますか。
誰もが知ってると言える満州国建国説話から言えば、民族の独立に終始した様子は誰も
異論の無いところでしょう。(多大な犠牲を払ったのは否めない)
問題は、それまでの民族性、みたいなものですか。
清廉潔白に民族の保守に掛かったかどうか、という点では、漢民族に比べ潔いところが多い、
それは確かに満州建国時の愛新覚羅溥儀の思想に反映されている、とか、思っていますよ。
ブクリ=ヨンションに始まり(それは定かでは無いが)ヌルハチ(太祖武皇帝)を経て西太后に至り載淳から溥儀に到る。
古くは粛慎人(みしはせひと)として紀、記にも反映されている。鬼とも形容された。
鬼の角とも言える修験者の額の飾りモノ、その形から言えば、
ハシディック派のユダヤ人もヒラクトリーと呼ばれる、よく似た帽子を被っている
民族性が明確に表示されている、という点では、曖昧模糊としていない。これが主義主張の
明確だと言った元の話し。
その後、外国人=鬼、というスタンスが出来上がっていく、というのが自分の意見。
で、在る意味で、鬼=反逆者=そのうち十把一からげで外国人、要は日本的狭義の意味、とか言えるかも知れません。
最後に、秦氏と言えば稲荷、なんてのもアリですが、あの三つ巴紋も結構全国でみる事が出来る。
あの三つ巴紋はケルト紋とも同義である、かも知れない、とか、(もごもご)以下不詳。

[3886] 日進様、神奈備様  日雲 2003/02/03(Mon) 22:37 [Reply]
>「捜聖記」(角川書店)
ああ、そんなのだったかも知れません……!
「黒っぽい表紙で漢字三文字くらいの題でハードカバー」
だったことは見た目的に覚えてたんですが……書名人名は片っ端から……天然のせいで…。

>この本を読む前に別に読んだ記憶がある
他にもある……のであれば、何らかの文書は実在するのでしょうかね?
フィクションだっただけに「でっちあげ?」とも思っていたのですが。
確か……文書の名前も載ってたような……。
ともあれ、近々もう一回「捜聖記」当たってみます。

どうも有り難うございました!

[3885] ありがとう  神奈備 2003/02/03(Mon) 22:05 [Reply]
神使いさん、ありがとうございます。
立地が頭に入っていませんのですが、隣の建物と外宮斎館とは違う建物と言うことですね。

日進さん 聖徳太子の未来記を云々する『捜聖記』と言う小説ですね。ありがとうございます。
 小生、この本を読む前に別に読んだ記憶があるのですが・・・。年のせいで・・。

[3884] やはり斎館でした。  神使い 2003/02/03(Mon) 21:35 [Reply]
本日神社新報が届きました。
やはり現在、外宮斎館で調理しているようです。


[3883] Re[3881]: 便乗で質問させて下さいませ。  日進 2003/02/03(Mon) 21:15 [Reply]

> もう一つ、太秦の大酒神社についてでなのすが、以前に聖徳太子がらみの本を読んでいた時に、
> 秦氏が祭祀する以前は、物部氏が管轄していたことが知れる記録がある、
> といったような記述があったのですが、そうした記録について何かお聞きになったことはございますでしょうか?
> また、その記録が現存するなら、それは活字で読めるのかもお伺いしたいのですが……。

その本は「捜聖記」(角川書店)ではないでしょうか?
確か大酒神社はもとは物部氏の神社で、物部守屋が管理していたのではないかといったことが
書かれていたような気がします。

私も不勉強でこの程度ですが、ご参考になれば幸いです。

[3882] Re[3881]: 便乗で質問させて下さいませ。  神奈備 2003/02/03(Mon) 21:08 [Reply]
日雲さん お久しぶり。相変わらずお詳しいですね。
青草的回答になりましたので、青草へ。

[3881] 便乗で質問させて下さいませ。  日雲 2003/02/03(Mon) 19:22 [Reply]
浪速でなくて申し訳ないのですが、秦氏がらみで前々から解らなかったことがありますので、
ちょっと一つよろしいでしょうか。
中世の伊雑宮神職の中に見える秦姓について、三重の磯辺町史下巻に、
「鎌倉末期成立の『古老口実伝』に、『神宮法 不知姓職掌号秦氏例 其儀相叶本記』
 とあり、荒木田・度会(磯部)姓以外の姓不明の者を、秦氏と称して任用することに
 よったものである」
とあるのですが、どういうことなのだか、どうも良く解りません。
こういったケースはまま見られることなのでしょうか?

もう一つ、太秦の大酒神社についてでなのすが、以前に聖徳太子がらみの本を読んでいた時に、
秦氏が祭祀する以前は、物部氏が管轄していたことが知れる記録がある、
といったような記述があったのですが、そうした記録について何かお聞きになったことはございますでしょうか?
また、その記録が現存するなら、それは活字で読めるのかもお伺いしたいのですが……。

[3880] Re[3879][3878]: 秦氏−その1  神奈備 2003/02/03(Mon) 17:56 [Reply]
苗(miao) さん、早速ありがとうございます。
> 狭い日本という枠組みを越え世界規模でモノを見る必要がある
同感です。それに輪をかけて砂漠の中の弓月から、などの主張もあるようですが、証明が難しくると言った者勝ちの世界になりそうですね。
 山東半島のつけね付近の兵主神が日本では天日槍になったあたりまでが、勉強不足の神奈備としてのworldwideな限界と言った所です。m(__)m
 景教が大陸に入ったのは唐の時代だったと記憶しています。後からやってきた秦氏が持ち込んだと言うことでしょうか。
> 古代ローマングラス
 出土した、、もしくは正倉院?
> 満州族はまだマシだ、主義主張
 おもしろそうなお話ですね。ヌルハチさん?少し具体的にお願いできますか。

[3879] Re[3878]: 秦氏−その1  苗(miao) 2003/02/03(Mon) 11:31 [Reply]
>  お願いがあります。秦氏について面白い情報がございましたら、カキコかメールで教えて下さい。

個人的意見にとどめたいですが、景教(ネストリウス派キリスト教)の流入と秦氏は深く関わって
いる、と見ているし、遊牧民との関わりも見逃せない、古代ローマングラスが日本に存在し、そのグラス
のルーツを探ればケルトにも通じてくる。
ケルトのルートはシルクロード依りももっと北の民(トッケツ)辺りを媒介している。
仰る時代は混沌としており、故に狭い日本という枠組みを越え世界規模でモノを見る必要がある、と認識しています。
秦氏はもとより、どうやら漢系民族は何でもアリの人々であったらしい。
その点満州族はまだマシだ、主義主張が明確に見える。
コレくらいで良いかな?。

[3878] 秦氏−その1  神奈備 2003/02/03(Mon) 10:19 [Reply]
大阪には渡来人が多く住んでいました。「秦氏」と言う巨大豪族もいたようで、枚方市には太秦や広隆寺の前身と言われる寺も残っています。
秦氏についてはわからない所だらけですが、浪速の秦氏を調べて見ようと思いつきました。

通説と言うよりは冗談に近いのでしょうか、秦始皇帝の子孫の弓月君に率いられて渡来したと『新撰姓氏録』に書かれています。年代的に合わないとの論調もあるようです。
系譜 秦始皇帝──故亥皇帝──孝武皇帝──功満君──弓月君
紀元前200年には既に秦は滅びています。始皇帝から五代目が弓月王(融通王)となっていまして、それが応神朝の頃になるので合わないとされています。
 秦の政治にこれはかなわないと半島に逃れた人々がいたそうで、馬韓の中に多くの異質な民がいたので、辰韓(秦韓)として分離したとあります。彼らが紀元前からだらだらと列島に渡来してきたと考えることができます。
 後世、秦始皇帝の末裔を称して出自を飾ることは十分ありうることで、本当は秦からの亡命者の末裔だったのでしょう。

 秦氏の持っていた技術、土木、養蚕、機織、精錬、鍛冶など多岐にわたるようで、次から次へと渡来して来た技術者を通じて最新の技術を確保しつづけたのでしょう。大陸か半島にピッチャーがいて、列島にキャッチャーがいる、と言う現在で言う技術指導のスタイルがあったのかも。

 『魏志倭人伝』に以下の記述があります。
人々は稲や貯麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸をつむぎ、麻糸・きぬ・綿を産出する。倭の国々には牛・馬・虎・豹・羊・鵠などはいない。兵器は矛・楯・木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている。やじりには鉄あるいは骨を用いる。その土産文物の有無の状況は、タン耳や朱崖(ともに海南島)の土俗と同じである。

 この中に養蚕から製織までとか鉄がでてきています。卑弥呼の国にも秦氏の原型となる人々がいたようです。

 この連中には秦始皇帝の末裔と言う意識はなかったのでしょう。後から渡来して来た連中は新しい技術とこしらえたルーツを持ってきて、古くから居る渡来人の上に君臨したのかも知れませんね。

 お願いがあります。秦氏について面白い情報がございましたら、カキコかメールで教えて下さい。


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