神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示板、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十五年 四月)お名前の敬称は省略しています。

[4091] Re[4090][4089]: 質問させて下さい。  神奈備 2003/04/30(Wed) 08:28 [Reply]
玄松子さん、ありがとうございます。
 当地の神社の由緒は大友宗麟が神社を焼討しているようで、ほとんど不明です。
敢えて推測で申し上げますと、甘木市上秋月の白木神社は、玄松子さんのご指摘にもありますように、新羅ゆかりの神で、例えば素盞嗚尊や五十猛命が祭られていたのでしょう。
 しかし時代が経るに従って、その由緒が失われ、当地の近所では式内社として著名であった麻氏良布神社の祭神を分祀したのではと思われます。
 麻氏良布神社は今でこそイザナギ尊を祭りますが、アまてらであり、天照國照彦神を祭神としていたと『神名帳考証』には書いてあるそうです。『式内社調査報告二十四巻』。
 あくまでも素人の推測です。

[4090] Re[4089]: 質問させて下さい。  玄松子 2003/04/30(Wed) 08:09 [Reply]
> 筑前夜須 白木神社「天照國照彦」
> という神社を見つけたのですが、

これは、甘木市上秋月の神社ですね。旧社格は無格社。
現在の主祭神は、彦火明命ですが、祭神には五十猛命や素盞嗚尊も含まれて居ます。
福岡の白木神社のほとんどが五十猛命を主神としており、
「白木」の社号は五十猛命に由来するものではないでしょうか。
http://www.kamnavi.net/it/itakeru-nisi.htm#kyushu

[4089] 質問させて下さい。  ともこ.K 2003/04/30(Wed) 07:22 [Reply]
はじめまして。
このサイトの
http://www.kamnavi.net/mn/monomap-nisi.htm
で、
豊前京都 白庭神社「天照國照彦天火明櫛玉饒速日命」
筑前夜須 白木神社「天照國照彦」
という神社を見つけたのですが、
白庭神社という名前は、祭神名から、何となく分かりますが、
白木神社の「白木」と「天照國照彦」は、
私には、どうも結び付かないのです。
白木造りだからという訳ではありませんよね?
見てはいませんが。
何かご存知でしたら、教えて頂けませんか。
よろしくお願いします。

[4088] Re[4087]神奈備さん ビンゴ  習志野のてつ [Mail] 2003/04/30(Wed) 00:31 [Reply]
> 大和では勧請縄が正月11日などに架けられます。稲淵の勧請縄など。勧請縄の風習は
> 大和の青垣の東西に多く見られますが、平群谷にも残っています。
 実は安房(千葉県館山市:半島の南端に近い)に平群川があります。

> 井野の辻きりに通じるように思いますね。ルーツを南紀の花窟神社とすれば、一方は
> 北上して吉野から、一方は黒潮にのって安房方面へと伝承したと考えることも出来ます。
 「勧請縄」について、知らなかったので調べてみました。勧請縄は別名「道切り」でした。
 『なっ!なんと〜!』
 「辻切り」も、別名「道切り」。神奈備さんご明察。全く同じ名称でした。
 内容もほぼ同じ。「千葉県立房総のむら」HPの「千葉県「道切り」分布図」
 http://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/wazawai/top.htm#michikiri

> クズ神社とはクズの民はここより平地に降りるべからずの神社と言うこと????
青草話と言い切れないかも知れません。
少なくも「ここには入ってくるな」との結界にはなってます。

[4087] Re[4086][4085]: 水仕女  神奈備 2003/04/29(Tue) 21:36 [Reply]
ユアンさん、習志野のてつさん、面白いお話ありがとうございます。

> ところで土地の境にある木に、角のある蛇を架ける風習は今もわずかに残っています。
以下青草話。
箭括麻多智が夜刀神を祭りました。麻多智は真竜で竜神との説があります。水神とも言えます。

大和では勧請縄が正月11日などに架けられます。稲淵の勧請縄など。勧請縄の風習は大和の青垣の東西に多く見られますが、平群谷にも残っています。

井野の辻きりに通じるように思いますね。ルーツを南紀の花窟神社とすれば、一方は北上して吉野から、一方は黒潮にのって安房方面へと伝承したと考えることも出来ます。

大和では何かクズ神社の分布と重なるように思いますが、大和にお詳しい方々のご意見はいかがでしょうか。
クズ神社とはクズの民はここより平地に降りるべからずの神社と言うこと????

[4086] Re[4085]: 水仕女  習志野のてつ [Mail] 2003/04/29(Tue) 19:22 [Reply]
ユアンさんお久しぶりです。
> …水の女の存在を見るとあらたな解釈が生れますね。水と布。
> …穢れを祓うための禊を教えたミツハノメ、水の女ではなかったか。
 何となくミステリアスな展開。続きをお聞きしたいですね。
 「布で穢れを祓う」って「比礼をフル」みたいなことですか?

> クズというのは…国の巣と名乗り自らが原日本人であるとした、一つのグループ名ではなかったか…
> 農耕以前の社会生活を営んでいれば、へびをそのトーテムとするモノですしね。
ユアンさんの話を読んでいて、角の生えた蛇・常陸風土記の「夜刀神」を思い出しました。
夜刀(ヤト)は谷地、谷津つまり谷状の湿地。稲作民が狙ってくる土地で、当然蛇も好む土地です。
そこから追い出されると、山にすんでいる。山が彼らの本拠地だからで、縄文系。
穴に住んだり、井戸から出てきたりのクズ族。イメージさせますね。

ところで土地の境にある木に、角のある蛇を架ける風習は今もわずかに残っています。
佐倉市井野には角のある蛇を木に架ける「辻斬り」があります。(他船橋市、市川市にも)

国立歴史民俗博物館のある千葉県佐倉市の公式HP。
http://www.city.sakura.chiba.jp/bunka/bunkazai/mukei.htm

[4085] 水仕女  ユアン [Mail] 2003/04/29(Tue) 02:50 [Reply]
どうもみなさんお久しぶりです☆忙しくってなかなかネットできないでいる間に青草なくなっちゃったんですね。プチ寂しいです。
でも、ここ最近のログ見てるととても面白そうなコトがたくさんありますね。丹塗りの矢の神話は有名ですが、そこに水の女の存在を見るとあらたな解釈が生れますね。
大学の『お伽草子』の講義のときに教授がいっていたのですが。山に現われる老人と、川で水仕事をしている女性は、コレまでの話のターニング・ポイントに必ず現われる重要なモチーフであると話していました。ユアンはそれを聞いて、七夕信仰を想起しました。水と布。そしてそれは穢れを祓うための禊を教えたミツハノメ、水の女ではなかったか。

ところでクズというのは高麗、唐、などの様々な人種が日本にいたとき、それらと区別するために国の巣と名乗り自らが原日本人であるとした、一つのグループ名ではなかったかと思います。ならば龍神信仰も納得のいくモノではあると思います。農耕以前の社会生活を営んでいれば、へびをそのトーテムとするモノですしね。

[4084] 三輪山とくず4「引田部とくず」  kokoro [Mail] 2003/04/29(Tue) 00:09 [Reply]
 曳田神社の現祭神、大己貴命、高オカミ神、豊受比賣命のうち、大己貴命以外の2柱は合祀された祭神でした。このうち、高オカミ神は、白河集落の東垣内にあった葛神神社のそれで、白河にもくず神の信仰があったということになります。が、むしろ注目したいのは、葛神神社の祭神が高オカミ神である点です。
 以前、香具さんからもメールで指摘されたのですが、桜井市東部の小夫、瀧倉、和田、芹井、白木、萱森といった上之郷地区には、高オカミ神を祀る高オカミ神社という神社が多く分布しています。そして、これらの神社は、かって九頭神社と呼ばれていたらしいのです。それらのうち、下記の1と2は、旧名や俗称が九頭神社であり、

 1.高オカミ神社【高オカミ神】桜井市萱森字清水山(九頭神山) ※旧名「九頭神社」
 2.高オカミ神社【高オカミ神】桜井市和田字宮山 ※俗称「九頭大明神」

3〜6は石灯籠などに九頭大明神%凾ニ彫られています(1〜5は『桜井市史』(上)P1063〜1073、6は『榛原町史』本編P990による)。

 3.高オカミ神社【高オカミ神】桜井市中谷字下水ケ口
 4.高オカミ神社【高オカミ神】桜井市北白木字辻カ城
 5.高オカミ神社【高オカミ神、天照大神】桜井市中白木字石段
 6.高オカミ神社【天児屋根命】榛原町角柄

 このほか、『奈良県史5』には萱森字口ノ倉にも高オカミ神社を載せています。これも九頭神社だった可能性が高いでしょう。
 また、上之郷地区には、萱森字弥寿垣内に九頭神社が、滝野に九頭神社跡があります。前者は本殿がなく、御神体として玉垣の中に複数の自然石を祀っています。拝殿左手にはすさまじい岩の露頭があって、かなりの岩フェチです!

 それはともかく、こうしてみると、上之郷地区を中心として、一群のくず神社の分布があり、曳田神社に合祀された葛神神社も、そうしたものの1つであったと考えられるでしょう。奈良県におけるくず神社の分布は、主として、中東部から北東部にかけてですが、その中にもバイアスがあって、顕著な集中は、吉野の国栖地方、都祁村、布留川上流域、名張川上流域などに感じられます。これはくず族が、そうした地域にコロニーをつくっていた名残のように感じるのですが、そうしたコロニーの1つが、上之郷地区にもあったようです。

 さて、『大和名所圖會』巻四「城上郡」には、栗栖原 引田村にあり≠ニあり、竹林寺と瀧倉神社の中間あたりに記されているそうです。
 「赤猪子」条に、老いた赤猪子を悲しんで、雄略天皇の賜った歌が採録されています。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 引田の若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

次田真幸氏の訳によれば、「引田の若い栗林。そのように若いときに、おまえと共寝すればよかったものを、今はすっかり年老いてしまったよ。(『古事記』(下)P122)」ですが、『大和名所圖會』によれば、旧引田村に栗栖原という地名があったそうなので、この若栗栖原≠ヘ、地名の栗栖原に掛けてあるのではないでしょうか。その場合、雄略天皇がことさらに栗栖原を、赤猪子に贈る歌の掛詞として用いたのは、そこに引田部の部民が多く居住したからだったと思われます。

 栗栖原はだいたい瀧倉神社あたりです。瀧倉神社が鎮座するのは上之郷地区の中心部であり、上之郷地区にはくず族のコロニーがあったと推測されました。とすれば、引田部の部民には、くず族の人たちが多く含まれていたのではなかったでしょうか。地名学の方面から、クルス・クリスが、しばしば、クニツ・クニス・クズと同じような音価を持っていると指摘を受けるのも示唆的です。

☆ 「オカミ」は、「雨」に、「口」を横に3っに、「龍」と書くわけですが、出ないんですよね。
☆ くず神社≠ニは、葛、国栖、国樔、九頭、国津神社等を指します。

[4083] 三輪山とくず5「くずと倭人」  kokoro [Mail] 2003/04/29(Tue) 00:08 [Reply]
 寄り道になるかもしれないですが、ここで、くず族は『魏志倭人伝』に登場する倭人と呼ばれる人たちの末裔ではなかったか、という話をしておきます。

 上之郷地区の高オカミ神社群は、ほんらい、九頭神社とか九頭大明神と呼ばれていたようです。
 かつて、くず神社と呼ばれた神社が、別の名に変化するケースは、いくつかあります(桜井市横柿にある戸隠神社の旧名が、九頭神社だった等)。しかしながら、1つの地域に鎮座するくず神社が、ことごとく別の名前になってしまったのは、上之郷地区の高オカミ神社群だけでしょう。何か特別な理由がありそうです。
 高オカミ神社に見える九頭大明神%凾フ記銘ある石灯籠を見ると、概ね江戸後期ぐらいまでの年記があります。となると、「九頭神社」→「高オカミ神社」の改名は、比較的近世になってからなされた、ということになります。

 室生龍穴神社のケースが参考になります。龍穴神社の祭神も高オカミ神です。しかしながら、かっての当社は、善女龍王という龍神を祀っていました(『三代実録』貞観9年の記事等)。また、室生村三本松の海神社(祭神:豊玉姫命)、同大野の海神社(祭神:豊玉姫命)、同向淵の堀越神社(祭神:豊玉姫命)、榛原町赤埴の白岩神社(祭神:須勢理姫命)もそうでした。
 善女龍王は、空海が唐からもたらした東密系の龍神です。このため、明治初期の神仏分離の際、これらの神社で祀る善女龍王は、神道系の高オカミ神や豊玉姫命等へと変更されたらしいのです。

 上之郷地区の高オカミ神社群も、かっては善女龍王を祀っていたのではなかったでしょうか。
 曳田神社のある大字白河の、字北山にも、高オカミ神社(『桜井市史』では高オカミ神社だが、『奈良県史5』では高山コウゼン神社)という神社が鎮座しています。社殿の立て替えを行った際、この神社で天保10年の棟札が発見されました。そこには、「(梵)奉建立善女龍王<後略>」とあり、祭神が善女龍王だったことが分かります。ここからも、上之郷地区の高オカミ神社の祭神とは、ほんらい、善女龍王だった可能性が示唆されるのです。それが神仏分離の際、高オカミ神に変更され、社名も九頭神社から高オカミ神社になったのではないでしょうか。

 こうしたことにこだわるのは、くず族と龍神に関係のあったことが、ここにとてもよく現れているからです。くず神は蛇神だという説があります。しかしながら私は、くず神は蛇神というより、龍神ではなかったかと思うのです。くず神社の分布する地域には、龍神の伝承が多いことや、くず神を祀る神社の本殿に龍神の絵が描かれているケースがあることについては、以前、ここの掲示板で書いたので(平成14年2月22日付け『くずと龍2』)、再説はさけます。ただ、蛇神と龍神は、龍蛇神≠ネどと一括される場合もありますが、こと、くず神の場合は、両者を分けて考える必要があると思います。しかし、こうしたくず族と龍神の関係は何を意味するのでしょう。

 くず族が記紀に最初に登場するのは、神武天皇が吉野に入った際、尾のある国津神、石押分之子に迎えられるくだりです。彼は吉野の国栖の祖です。
 森浩一先生は、次のように述べています。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「『後漢書』西南夷伝によると、今日のチベット自治区の東部に哀牢夷アイロウイという集団が住んでいた。その集団の伝説では、「一人の女が水中で沈木に触れて妊娠し、十人の子供を産んだ。すると、沈木が龍となって姿をあらわしたので、九人の兄たちは逃げた。逃げなかった末子が龍に背中を舐められ、やがてその集団の王となり、他の兄たちも栄えた」という。それにちなんで、この集団は龍の入れ墨をし、衣服に尾をつけているという。
 「尾のある人」、言い換えれば龍を意識した仮装をすることは、中国西南の住民の一習俗を示しているのである。このことは吉野を理解する基本資料といってよかろう。
・『日本の神話の考古学』文庫版でP234

※ ついでに言うと、一人の女が水中で沈木に触れて妊娠し≠ヘ、丹塗り矢型の一変奏なんですよね。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この論考は、やはり吉野で神武天皇が出会った井光について書かれたもので、石押分之子について述べたものではありません。しかしながら、井光も石押分之子も同じ吉野の住民であり、尾があったため、それはあまり問題とならないでしょう。とにかく、くず族の人たちが、龍を意識した仮装をしていたという指摘は興味深いです。

 『魏志倭人伝』には、倭人と会稽を比較した有名な箇所があって、「男子は年齢の大小にかかわらず、みな顔や身体に入墨をしている。<中略>夏王朝の王であった少康の子は、会稽に封ぜられると、髪を切り身体に入墨をして、そうして蛟や龍による被害を避けた。いま倭の水人アマは好んで水中に潜り魚や蛤を捕っており、ここでも身体の入墨は大魚や水鳥を鎮めるためであったが、後にはしだいに飾りとなった。」とあります。会稽に封じられた少康の子は、龍や蛟をトーテムとしており、龍の身体を模した鱗の入墨を入れることで、龍族の子孫だと判らせ、その害を防いだのです。

 このような入墨の習俗は、古代の宇陀地方にもありました。『日本書紀』雄略天皇11年冬10月に、「鳥官トリツカサの鳥が宇陀の人の犬に食われて死んだ。天皇は怒って顔に入墨をして、鳥養部とされた。(講談社学術文庫版P302)」という記事があります。
 この記事では、宇陀の人が罰として顔面に入墨をされたとありますが、これは宇陀の人たちがもともと、顔に入墨を入れていたのを、後世、この説話でその風俗を説明したように思われます。顔の入墨は、ほんらい、通過儀礼であり聖なる習俗でしたが、後に野蛮な風とされ、刑罰となったのです。なお、ここの記事では、顔面の入墨と鳥養部のことが関連づけられていますが、『魏志倭人伝』でも倭人の入墨は、水鳥を鎮めるため≠ニあり、両者は関連させられています。示唆的ですね。
 宇陀の人たちの入墨も、会稽に封じられた少康の子と同じく、トーテムとしての龍神を意識したものであったとすれば、尾のある扮装をしていた石押分之子に通ずるものがあります。そうして、宇陀地方にもくず神社の分布が多く見られるのであり、顔面に入墨をしていたという宇陀の人は、くず族の人であった可能性があります。

 くず族の人たちがこうした習俗を持っていたというのは、彼等が『魏志倭人伝』に見える倭人と呼ばれる人たちの末裔で、もともとは紀ノ川を遡って吉野から宇陀、都祁、名張方面等々へと住み着いたことを示唆しているように思われます。和歌山県の沿岸部にも、くず神社が分布しているのが示唆的です。
 そして、くず神社の分布圏に、しばしば龍神の伝承が濃厚に伝わっているのは、彼等が龍神をトーテムとしていたことの名残だと思うのです。室生龍穴神社の起源についても、この神社が、くず族の居住した地域のまっただ中にあることを、視野に入れて考える必要があると思います。

 またまた、余談になってしまいますが、この前、奈良市疋田町には三輪神社という古社が鎮座しており、引田部の人たちが居住したのではないか、と書きました。さて、引田部にくず族の人たちが多くいたとすれば、興味深いことがあります。当該三輪神社付近には、竜王社(疋田町)、竜王神社(西大寺町野神町)、弁財天社(あやめ池北三丁目、八大竜王ほかを祀る)、竜王神社(旧鎮座地は西大寺西北竜王谷、現在は西大寺芝町の八幡神社に合祀)が、この神社を取り巻くように鎮座し、周辺いったいは、龍神信仰が非常に濃厚なのです。県西部でこれだけ龍神を祀った神社がかたまっているのは珍しく、引田部の人たちがここに居住していたことと、関連があったのではないでしょうか。

☆ 続きは、来週くらいになりそうです。

[4082] Re[4081]: 改めて  神奈備 2003/04/28(Mon) 19:24 [Reply]
> さらサイトの「神奈備掲示板ログ くず 特集」を読み直しました。
kokoroさんからご提言を頂き、まとめてみました。
また掲示板ログに一部表示が欠落した部分のご指摘を頂き、修正しました。今のように掲示板を丸ごとHPに入れる術を知らない時代の誤りで、ご迷惑をおかけしました。

九頭神社は京都府京北町にも鎮座、ここの神主さんとお目にかかる機会を頂き、お話をお伺いいたしました。日本野あそび協会の代表をされており、野あそびを通じて子供達に明るい未来をがモットーの活動をされています。また「富士山登山禁止運動」をされていますのは、日本のシンボルの山が糞尿汚染されていることを憂慮されているからです。
九頭神社へは連休以後なら季節もいいので参詣したいと思っていますが、いささか不便な所です。

> 話は変わりますが、「八王子」
八王子神社の祭神
多くは五男三女神が多いようですが、中には次のような祭神も見られます。
兵庫県三田市香下字岸崎 若年神、大市姫命、大屋姫命、若山姫命、事代主命、須勢姫命、八嶋篠命 、五十猛命
八坂神社では八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命
『平成祭礼データ』では八王子神と五男三女神とは違うよう表示されます。

> 備後風土記の「武塔神」は、南のアマテラスの処へ往って、北へ帰るスサノオの姿と思います。
添御縣坐神社の由緒書きでは
中央の間は八王子、向かって右の間には牛頭天王、左端の間に は婆利采女と刻銘がある。牛頭天王と婆利采女はそれぞれ速須佐之男命、櫛稲田姫之 命の仏教的な呼び名であるが・・
となっており、大した根拠もなく、武塔神はてっきり婆利采女に会いに行ったように思っていました。

[4081] 改めて  習志野のてつ [Mail] 2003/04/28(Mon) 10:06 [Reply]
さらサイトの「神奈備掲示板ログ くず 特集」を読み直しました。
  http://www.kamnavi.net/log/kuzukuzu.htm
そのとき読んでいたはずなのに、意外にも新鮮でした。渦中にあると
「見れども観えず、聞けども聴こえず」実感しました。
まとめてくださると、とても判りやすいです。

話は変わりますが、「八王子」(青草話)
「八王子」とは、アマテラスとスサノオの誓約(ウケイ)で生まれた3女神5男神。
兄弟仲の良い、八柱の御子神だと思っていたのですが、単一神格(一柱)なのですか?
一神格として考えているかのようなのが有ったもので、ついお尋ね。

備後風土記の「武塔神」は、南のアマテラスの処へ往って、北へ帰るスサノオの姿と
思います。茅の輪くぐりや「蘇民将来の子孫」の話は、かくも全国に拡がっており、
古来の人々が、その様に信じていた証だと思うのです。八柱の御子が、みな一緒に
付従うスサノオは、子供の面倒見の良い父親か?一方アマテラスは、仕事にせいだす
キャリアウーマン?確かに、卑弥呼をアマテラスと見立てると、子供を持つわけには
いかないけれど。

[4080] Re[4078][4071][4070][4069]:大和神社  神奈備 2003/04/26(Sat) 17:01 [Reply]
> 800m四方の広大な神域に四至の固めとなる4つの神社を置き、上記の兵庫の須佐之男神社は大和神社の武器庫でもあったそうですから、大和神社が大きな力を持っていた時期があったことがわかります

これだけの力を持つ神社を遷座させる権力、藤原氏かも。
長丘寺は鎌倉時代に興福寺の支配下に入ったとのこと、長丘寺の増築に伴い、遷座したと言う可能性はどうなんでしょうか。

> [4071] 大和神社も御旅所や長丘寺付近から現在地に遷座し、旧社地の方向を向いているのかも。
現在の大和神社から長丘寺方向は南南東で、東方向との誤解を与える文章になっていました。m(__)m

[4079] Re[4073]: 三輪山とくず2「引田部の赤猪子」  ZOU 2003/04/26(Sat) 01:30 [Reply]
>  それからまた、雄略は、崇神と並んで三輪山の神と縁が深かった天皇です。

「大物主神伝承論」という本では、雄略紀の小子部スガルの説話を「三輪氏の関与しない三輪山伝承」と指摘していました。kokoroさんの論は、その指摘の不備を補う形になっています。続きを期待します。

★下段[4078]は「大和神社」のことです。タイトルつけそこねm(__)m

[4078] Re[4071][4070][4069]: 御諸国魂神の青草話  ZOU 2003/04/26(Sat) 01:20 [Reply]
>  神を祭りながら蔑む、祖先だから祭る、

延喜式の時すでに現社地にあったともいわれていますが、東向きに鎮座しているため、西から(おそらくは舟を使って)大和入りした者が崇神王権ゆかりの場所に向かおうとしたとき、崇神が祭ったはずの倭の国魂の神はそっぽを向いている形になっているわけです。神を崇める大王は神に祟られる大王でもありました。となると、神を祭り分け、遷座を命じ、さげすんだのはやはり権力側であったかと思えてしまいます。神がやむなく低い場所への遷座を承諾したのも、神の故地が山のむこうに見えたからでしょうか。神の開き直った態度を感じるようで、なかなか皮肉が効いているように思います。

>  それにしては鎮座地が三輪山の神を祀るには離れていっています。

確かに三輪からは離れていってますね。
今の鎮座地はどうも竜王山&その背後の山並みを意識しているような気がします。竜王で連想するのは祈雨神で、大和神社の境内末社に高オカミ神社があり、これが丹生川上神社の元宮といわれています。もとは山におわす祈雨神を祭っていた場所に「庇を貸して母屋をとら」せたか、またはミムロ神の祈雨の機能のみをこの地に移したのかもしれません。竜王山の三十八神社に「的打ち神事」が伝わっていることを以前にKokoroさんが指摘されたと記憶していますが、同様の的打ち神事が大和神社そばの兵庫の須佐之男神社にもあり、山と里のつながりを感じさせます。

かつては800m四方の広大な神域に四至の固めとなる4つの神社を置き、上記の兵庫の須佐之男神社は大和神社の武器庫でもあったそうですから、大和神社が大きな力を持っていた時期があったことがわかりますが、今ではその面影はありません。旧い時代の民衆の支持がどうだったかはわかりませんが、現在では氏子さんたちが祭りの度に大勢集合し、その人たちの努力で大和神社や祭りが維持されていることがわかります。面白いのが、「的射ち神事」だけでなく、私が興味を持っている「野神神事」もがここに伝わっていることなんです。

[4077] Re[4076]: 割り込み質問ですみません。  神奈備 2003/04/25(Fri) 23:25 [Reply]
 古事記の物語の作者さんのサン・グリーンさんからのご質問、光栄です。

古事記中巻の応神天皇の「蟹の歌」歌謡番号四三
  この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹
  百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹
  横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る
  伊知遲(いちぢ)島 美(み)島に著(と)き
  鳰鳥(みほどり)の 潛(かづ)き息づき
  しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を
  すくすくと 我(わ)が行(い)ませばや 
  木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし孃子
  後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも
  齒並(はな)みは 椎菱なす(以下略)

敦賀から琵琶湖経由で宇治へたどれます。ここに「鳰鳥(みほどり)」があり、どうやら琵琶湖の別名のようです。鳰鳥はカイツブリなる鳥で、におどりとも仮名が見えます。

> 割り込み質問ですみません。
いえいえ、応神天皇の歌で「葛野の歌」が先ずでてきます。京都市です。北側山中に九頭を頂く神社が残っています。次が「蟹」これは夷を想起させるとZOUさん
http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/shikinokuni/index.html
の掲示板にあったばかりです。「国主歌」の出てきます。

kokoro さんのこれからの論術へのヒントかも。

[4076] 割り込み質問ですみません。  サン・グリーン [Url] 2003/04/25(Fri) 21:55 [Reply]
ごぶさたしています。
私のところに下記ような質問が来たのですが、手に負えなくて皆様にお知恵を拝借させて頂きたいのです。どうかよろしくお願いいたします。

私は、今、「琵琶湖」の昔の呼び名に
ついて調べております。色々文献をあたりますと、「古事記」の中では、「近淡海
(ちかつおうみ)」が登場するということです。

もし、ご存じなら教えていただきたいのですが、「古事記」の中で、「近淡海(ちか
つおうみ)」以外の琵琶湖の呼び名はないのでしょうか?聞いた話なのですが、琵琶
湖は昔は、「みほどおうみ(女性の子宮の意味)」と言われていた
ということなのですが、どなたか何か心当たりはないでしょうか?



[4075] Re[4072]: 三輪山とくず3「曳田神社」  神奈備 2003/04/25(Fri) 13:31 [Reply]
>  余談ですが、奈良市の西部に疋田町というところがあり、三輪神社という神社が鎮座しています。当社は、「大神神社のように本殿なく、三方が築地塀に囲まれた中の神域は禁足地になっている。その中心に神木杉の巨木があり、神霊の依代である。祭神大物主神。(『奈良県史5』P283)」だそうで、どうやら相当の古社です。あるいは、ここにも引田部の人たちが居住したかもしれません。

『神奈備大神三輪明神』には村社磯城郡三輪明神の分祀とあり、大物主大神を祭神としています。
 近鉄奈良線菖蒲池(あやめがいけ)南東1km程の神奈備山麓に鎮座、創建年代は不詳で、境内にも説明板もありませんでした。兼務神官はおられるそうです。
 新しい鳥居をくぐり小川を渡ると古めかしい鳥居が現れ、清掃の行き届いた境内には清冽な雰囲気が漂っていました。神奈備山は神社ほかの私有地で立ち入ることはできません。拝殿は東向き、kokoroさんの引用のように本殿はなく、築地塀に囲まれた神域には神木である大きい杉の木と雑木、雑草が生えているに過ぎません。

 写真掲示板に写真を若干掲載しましたのでご覧下さい。

[4074] 三輪山とくず1「洗濯する少女」  kokoro [Mail] 2003/04/25(Fri) 01:01 [Reply]
 バビロン再訪ですね………。


 丹塗り矢型というタイプの神話に興味があって、ほうぼうの掲示板で話題にしています。

 ところで、このタイプの神話の1つに、例えば石上神宮の鎮座している布留の地名起源説話があって、

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

=布留の地名のはじまり=
 むかし昔、若い娘が布留川で洗濯していると、一ふりの剣が泳ぐように流れてきよった。それは岩や木などふれるものを次から次ぎへと切っていったそうや。娘が避けようとした瞬間、洗っていた白い布の中に流れ込んでしもうた。布が切れたと思ったが、剣は布の中にぴたりと留まっておるやないか。こんなに鋭い剣やのにと娘はたいそう驚き、神様のしはる事やと思い神社に奉納したそうや。それからこの辺り「布留」と呼ぶそうや。(『YKNET』の「やまと川の歳時記15」http://www.yamato.moc.go.jp/YKNET/press/saijiki/sai15A.htmlより)

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

川辺で洗濯していた乙女の所に、ミアレ木≠ナある霊剣が流れ来より、この説話では脱落を起こしていますが、本来、かの乙女は、この霊剣に感精して、神の子を出産したのでしょう。ちなみに、その子の名は、おそらく出雲建雄だったと思われます……、しかし、それはまた別の話。

 乙女が洗濯していた布は、おそらく子宮あるいは胞衣のメタファです。
 布というのは、表面が滑らかで柔軟で、体をすっぽりと覆ってしまえます。それから、よく子供がやりますけど、タオルとかセーターに顔を突っ込んでスリスリしたりする、すごく触感的な体験を喚起させる物体です。こういうことから、布というのはセクシュアルなものを含意し易いんですよね。
 映画でも、布がエロチィックなものとして提出されることがあります。ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラスト・エンペラー』には、エロチィックな存在としての布が、視覚的に強烈で直裁に登場しました。

 映画の話は余談です。丹塗り矢型の神話に、話を戻しましょう。

 「布留の地名のはじまり」で、霊剣が流れ寄るのは、川辺で洗濯している乙女の所です。
 典型的な丹塗り矢型の神話として有名な、『山城国風土記』逸文「賀茂社」条では、石川の瀬見の小川で川遊びをしていた玉依日売のところに、丹塗り矢が流下します。この説話で、姫はべつだん、川で洗濯していたわけではありません。しかしながら、平安朝の『本朝月令』に引く『秦氏本系帳』には、次のような説話を載せます。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昔、秦氏の一女子が、葛野川で、衣を洗っているとき、一本の矢が流れてきたので、持ち帰り戸上に刺したところ、娘は孕み、男子を生んだ。父母がこれを責め問うが、知らぬと言うので、親は宴を張り、一族を集め、その児に「父親と思う者に盃をさせ」と言ったところ、その児は戸上の矢を仰ぎ見、そのまま雷神になって、屋の棟をうがち、昇天した。これが賀茂の別雷で、上賀茂社の祭神となり、母はその御親神として、下賀茂社の祭神となった。戸上の矢は松尾大明神となったという。
・松前健『古代王権の神話学』P95より

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「賀茂社」条の変奏らしきこちらの説話では、神婚の乙女が、川で洗濯していたのです。
 4世紀の『華陽国志』には、夜郎国の英主竹王が、洗濯をしていた女の脚にまといつく竹幹の中に孕まれていた、とあります。桃太郎の桃は、川へ洗濯に行ったお婆さんの所に流れてきます。
 こうしてみると、丹塗り矢型の神話には、「川辺で洗濯する乙女」というモチーフが、執拗に現れてくることに気付くでしょう。

 以下、「川辺で洗濯する乙女」は、丹塗り矢型の神話にあって特権的なモチーフである、として論をすすめます。

[4073] 三輪山とくず2「引田部の赤猪子」  kokoro [Mail] 2003/04/25(Fri) 01:01 [Reply]
 『古事記』に、「川辺で洗濯する乙女」の登場する箇所があります。雄略天皇の「赤猪子」条です。以下のようなストーリーです。

「雄略天皇が、美和河に遊びに出かけると、川のほとりで衣服を洗っている少女があった。その容姿はたいそう美しかった。天皇が名を問うと、「私は引田部の赤猪子(ヒケタベノアカヰコ)と申します。」と答えた。天皇は、今に宮中に召そう、と約束して朝倉の宮に帰還した。
 赤猪子はそれから、80年間待っていたが、何の音沙汰もなかった。
 そこで赤猪子は、もはや召される望みもないだろうが、せめて自分の気持ちだけでも天皇に伝えておきたい、と考えて献上の品をもって参内した。ところが、天皇はすっかり忘れてしまっており、「おいおい、お前はどこの婆さんだ。何しに参内したんだね。」と言うので、赤猪子は参内した訳を説明した。
 天皇はすっかり驚き、赤猪子がすっかり年老いて結婚できないこと悲しんで、歌を賜った。」

 この説話には、どこか釈然としないものがあります。ほんらい、もっと別の説話であったのが、何らかの歪曲で、今、見られるような形になったのではないでしょうか。講談社学術文庫版の『古事記』には、訳者の次田真幸氏による、以下の解説を載せます。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 赤猪子は『古事記』では童女とされているが、歌の中に用いられていることばからも、原型としては三輪の大神神社に仕える巫女であったろうと考えられる。これについて守屋俊彦氏は『古事記研究−古代伝承と歌謡』の中で、神と巫女の神婚説話という原型が、それを伝承していた三輪氏の失敗敗北によって、宗教性の失われた天皇の妻求ぎ説話になったと考えられた。
・『古事記』(下)P125

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

私は、守屋俊彦氏の『古事記研究−古代伝承と歌謡』を読んでいませんが、「赤猪子」条が三輪山の神との神婚説話を原型としていた、という意見に賛成します。この説話に登場する「川辺で洗濯する乙女」のモチーフは、丹塗り矢型の神話に特有なものです。氏がそこまで述べているのかどうかは、分かりませんが、この説話はほんらい、丹塗り矢と化した大物主神が美和川を流下し、衣を洗っていた赤猪子が感精する神婚談であったと思われます。それが脱落・歪曲によって、現在見られる雄略の妻求ぎの物語へと変容したのでしょう。

 だが、何故、「赤猪子」条は、『古事記』編纂時に、そのような脱落・歪曲にさらされたのでしょうか。
 赤猪子のフルネームは、引田部の赤猪子です。引田部は、『和名類聚鈔』にみえる大和国城上郡辟田ヘキタの部民であり、彼等を統括した引田氏は神ミワ氏の末裔でした。したがって、『古事記』崇神条にある、神氏の祖、大田田根子が、大物主神と活玉依姫との神婚で生まれたという記事と同じく、引田氏にも、一族の祖が、大物主神との神婚によって生まれたという始祖伝承があったかもしれません。その場合、「赤猪子」条のほんらいの形姿が、丹塗り矢に感精した赤猪子が、大物主神の子を出産するというものであったとすれば、その神の子は、長じて、引田氏の祖となったように思われます。

 ところが、丹塗り矢型の神話による大物主神との神婚は、セタヤダタラ姫による、神武の皇后、イスケヨリ姫の出生談としても、『古事記』にみえます。
 通常、神婚によって生まれる神の子は男性です。そしてその子が成長してから、ある一族の祖となったり、英雄として活躍したりするのです。ところが、セヤダタラ姫の神婚談では、産まれてくるのは女で、しかもその子は神武の皇后となった以外、とくだんの事跡を残していません。これは不自然です。あるいは、引田氏の出自を語るものだった本来のそれが、皇室神話に簒奪され、『古事記』編纂時にセタヤダタラ姫のものとして改変を受けたのかもしれません。
 その場合、簒奪を受けた赤猪子の物語は、彼女が80年間、待ちぼうけをくったという、どことなくヘタレな物語へと置き換えられました。また、そうなった背景には、三輪氏の権力基盤の失墜も考えられるでしょう。
 それからまた、雄略は、崇神と並んで三輪山の神と縁が深かった天皇です。さらに彼の住まう朝倉宮は、美和川の流れる初瀬渓谷にありました。「赤猪子」条が、雄略天皇の妻求ぎの物語となった背景には、こうしたことがあったと思います。

[4072] 三輪山とくず3「曳田神社」  kokoro [Mail] 2003/04/25(Fri) 01:00 [Reply]
 大和国城上郡の「辟田」は、現在、そういう地名が桜井市内には残っていないものの、初瀬川上流域を比定するのがほぼ定説です。さて、初瀬渓谷の最奥部近く、大字出雲と大字初瀬の中間あたりで、白河川という支流が北の山中から初瀬川に合流します。この川を1.5qほど遡ると、白河シラガという集落があり、ここに、城上郡の式内小社、曳田神社が鎮座しています。
 当社は、この地に居住した引田部が、その祖神を祀ったものとされ、現祭神は、大己貴命、高オカミ神、豊受比賣命の3柱です。ただし、大己貴命以外の2柱は、明治期に合祀されたもので、本来のそれではありません。
 曳田神社は、『延喜式』に二座≠ニあるので、かっては2柱の祭神を祀っていたはずです。『式内社調査報告』には、大己貴命以外のもう1柱が、よく分からないようなことが書いてありますが、私などは、もしかすると大己貴命さえもほんらいの祭神ではなく、赤猪子と、引田氏の祖となったその子供を祭神としていたのではないか、などと考えています。

 地元の伝承では、現在の曳田神社はもとから今の所にあったわけではなく、昔は谷ひとつへだてた西の丘上にあって、そこは古宮址とよばれ、三輪引田君難波麻呂の屋敷跡と伝え、その下方(南方)に轟の瀧・轟の淵があったといいます。
 すでにみたように、『山城国風土記』逸文「賀茂社」条では、石川の瀬見の小川にいた玉依日売のところに丹塗り矢が流下します。石川の瀬見の小川とは、賀茂川です。そして、この賀茂川をずっと遡ったところに貴船神社の奥宮があります。このため、「賀茂社」条の丹塗り矢は、この宮から流れてきたともいわれます。
 『古事記』で、赤猪子が川で衣を洗っていたとする美和河は、三輪川で、三輪山に近いあたりの初瀬川のことです。曳田神社の古社地付近には、轟の瀧や轟の淵があったといいますが、そういった水の流れは、やがて白河川→初瀬川→三輪川となり、赤猪子が衣を洗っていた辺りへと至ります。貴船神社から類推するのですが、赤猪子のところに流下する丹塗り矢は、あるいは曳田神社から流れてきたかもしれません。
 もっとも、丹塗り矢が曳田神社から流れてきたとすれば、当該丹塗り矢は、大物主神であったと思われるため、彼はわざわざ三輪山から白河まで足を運んだことになりますが。ただし言うまでもなく、「赤猪子」条がほんらい丹塗り矢型の神話で、その丹塗り矢の正体は大物主神であったという話自体が、私の仮説ですけど。

 余談ですが、奈良市の西部に疋田町というところがあり、三輪神社という神社が鎮座しています。当社は、「大神神社のように本殿なく、三方が築地塀に囲まれた中の神域は禁足地になっている。その中心に神木杉の巨木があり、神霊の依代である。祭神大物主神。(『奈良県史5』P283)」だそうで、どうやら相当の古社です。あるいは、ここにも引田部の人たちが居住したかもしれません。

☆ 今回は、くず族のことが出てこなかったですね。それはまた次回に。

[4071] Re[4070][4069]: 御諸国魂神の青草話  神奈備 2003/04/24(Thu) 17:28 [Reply]
 大和高原から三輪山はどのように見えるのでしょうか。巻向山より西にあり、100mも低いのですから、見えにくい印象があります。見えても秀麗な山容には見えないのでは。カシミールさんはどのようにおっしゃっていますか。西側の平野から見ての三輪山が秀麗であって、平地の民が祀っていたのでしょう。そこにモモナヒトや百襲姫が住んでいたのでしょう。

 神を祭りながら蔑む、祖先だから祭る、しかしその祖先は崇敬には値しない、と言うことはあり得たのかも。例えば裏切り者だったりすると。
 
 丹生川上神社上社は山の上に遷座しました。旧社地の方を向いています。今は北向きです。大和神社も御旅所や長丘寺付近から現在地に遷座し、旧社地の方向を向いているのかも。偶然でしょうが、丹生川上神社(雨師神)は大和神社の別社との伝承があるそうです。

 平凡社の『寺院神社大辞典』によれば、倭大国魂神は大倭神とも称し、大神神(三輪の神)とともに地祇の代表神と『令義解』に記載があるそうです。後に伊勢と同様に大倭も国家神となっていたようです。
田中八郎氏> 御諸山のミムロ神がオオモノヌシとオオクニタマに分けられたとなります。
初期の祭祀の形としてありえるのでしょう。三輪山の神の祭祀権の争奪ということでしょうか。結果としては天孫系では祭りきれなかったと言うことですね。

 それにしては鎮座地が三輪山の神を祀るには離れていっています。神威は距離には影響されないのでしょうが・・・。祀り負けで、知恵者が大国魂神と命名して巻き返したのかも。

[4070] Re[4069]: 御諸国魂神の青草話  ZOU 2003/04/24(Thu) 12:19 [Reply]
>蔑まれた神?

蔑んだのは誰でしょう。

田中八郎氏流にいうなら、御諸山のミムロ神がオオモノヌシとオオクニタマに分けられたとなります。
応用。三輪氏の大物主神や海人系倭直氏の倭大国魂神に変化していった、ヤマト土着の国魂の神がこのミムロ神みたいな神格ではなかったかと思うんです。これがオオクニヌシかどうかは別の話。
あげく、大和神社は総国分寺化した?

崇神が大殿に祀る以前の神格で、ニギハヤヒが先行し神武が「東方に良い土地があり、青い山が取り巻いている」と狙った土地の、「エミシヲヒタリ モモナヒト」といわれた人達が祀っていたのがミムロ神かと思うのは青草い想像ですが。

[4069] 国魂神の青草話  神奈備 2003/04/22(Tue) 20:28 [Reply]
 山辺の道に大和神社の御旅所があり、少し西に下ると大和神社(オオヤマト)が東向きに鎮座、従って鳥居から神殿へはやや下り坂。蔑まれた神?
二上山に大国魂神が降臨し、更に三輪山へ遷座と考えると、その中間が橿原市中曽司と言う所です。だからと云って国魂神を長髄彦のことだと云うわけではありません。

 各国にはそれぞれ国魂神が鎮座しているはずです。紀の国では伊太祁曽神社に鎮座の神が紀国魂神のように思えます。これには紀の国の人々もさほど異論はないでしょう。
 
 アメリカ猿田彦神社には米国国魂神が祀られています。ブッシュより偉いのかも。

 国内の地域名を頂く国魂神をリストアップしてみます。
福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社摂社会津大國魂神社「會津大國魂大神」
長野県東筑摩郡坂井村字舟窪 安宮神社「信濃大國魂命」古くから御鎮座する大国主命の小石祠を命名か。
愛知県稲沢市国府宮 尾張大國霊神社「尾張大國靈神」
三重県一志郡美杉村川上 若宮八幡神社摂社高宮「伊勢大國御魂神」
奈良県天理市新泉町星山 大和神社「日本大國魂大神」日本の全国土の地主神に坐します。
兵庫県神戸市灘区国玉通 河内國魂神社「大己貴命」摂津は元は河内
兵庫県三原郡三原町榎列上幡多 大和大国魂神社
徳島県美馬郡脇町字拝原 倭大国敷神社「倭大國魂命」

 淡路島の大和大国魂神社は椎根津彦の後裔が大和から文遷したと由緒にはあります。由緒では大和神社を王権が大和の各豪族を従えるべく祀った神としています。確かに民衆が地元の大地豊穣水利を祈念する神に敢えて国魂神とは呼ばずに、自然体でおつきあいをしたのでしょう。
 国魂神のネーミングはそれこそ外来の王権らしいやり方と思われます。神々を分類し、天津神、国津神などとするのは権力のなせる業で、土地の神に対する畏敬の念の薄い連中の仕業と思えますね。
『古事記』では伊怒姫命が須佐之男神の子の大年神と結婚して、大国御魂神を生んだとしています。大年神の子は秦氏の持ち込んだ神とも云われます。一見国津神風の存在ですが、渡来神と見ていいのでしょう。

 崇神天皇の大殿に祀られていたと云う二神、太陽神と国魂神、天と地ですが、国魂神は三輪神の神威を削ろうとして構想されたのかも知れませんね。しかしどっこい大和の民人には通じなかったと云うことです。

[4068] Re[4067][4066][4065][4064][4063][4062][4061]: 倭姫命の歌碑  大三元 2003/04/20(Sun) 22:27 [Reply]
神奈備さん

> 言葉足らずでした。注釈です。

御確認有り難う御座いました。

[4067] Re[4066][4065][4064][4063][4062][4061]: 倭姫命の歌碑  神奈備 2003/04/20(Sun) 21:42 [Reply]
> > 吉川弘文館『和名類聚抄郷名考証』池辺彌著
> > p215 伊勢國飯高郡の項です。
>
> 早速に有り難う御座います。どうやら『和名抄』の郷名を考証するにあたり『皇太神宮儀式帳』を参照した、ということかな、と思われます。

言葉足らずでした。注釈です。

先住民を根絶やしにしたら古地名が伝わらず、共存したから重ねて地名としたとの説だったかと記憶しています。それが枕詞の源とか。

照る日の飯高、押す日の飯高、大和辺りだったら飛鳥春日になったのかも。

[4066] Re[4065][4064][4063][4062][4061]: 倭姫命の歌碑  大三元 2003/04/20(Sun) 19:50 [Reply]
神奈備さん、

> 吉川弘文館『和名類聚抄郷名考証』池辺彌著
> p215 伊勢國飯高郡の項です。

早速に有り難う御座います。どうやら『和名抄』の郷名を考証するにあたり『皇太神宮儀式帳』を参照した、ということかな、と思われます。(和名抄には出てこないので)

> サネサシ、吉本隆明氏、先住民はサネサシと呼び、後からの倭人は相模と呼んだ。暴力での征服でない証かとありました。書名は「詩人のための  言語、、」だったかな。

先住民の地名を借用するのは暴力征服ではない証、ということでしょうか。良く判りません。米大陸を見ると、二つの事象の間には何の関係ないと思いますが。。。

[4065] Re[4064][4063][4062][4061]: 倭姫命の歌碑  神奈備 2003/04/20(Sun) 17:25 [Reply]
> > 『和名抄』に「忍飯高国」(皇太神宮儀式帳)とあります。
>
> うーむ。見つけれない。。。巻・ページがお判りになりますか?

吉川弘文館『和名類聚抄郷名考証』池辺彌著
p215 伊勢國飯高郡の項です。

サネサシ、吉本隆明氏、先住民はサネサシと呼び、後からの倭人は相模と呼んだ。暴力での征服でない証かとありました。書名は「詩人のための  言語、、」だったかな。


[4064] Re[4063][4062][4061]: 倭姫命の歌碑  大三元 2003/04/20(Sun) 17:13 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。

> 『和名抄』に「忍飯高国」(皇太神宮儀式帳)とあります。

うーむ。見つけれない。。。巻・ページがお判りになりますか?

> 『飯高郡史』には相模神社の名が見え、サネサシなどが話題になりました。

アイヌ語で岬のことを esasi とか enkor などと言います。
また、san には(浜から海へ)出る、という意味があり san-enkor 出崎 という複合語もあります。そうすると san-esasi という複合語も成立しうる。サネサシは三浦半島か、伊豆半島か???

[4063] Re[4062][4061]: 倭姫命の歌碑  神奈備 2003/04/20(Sun) 16:01 [Reply]
> 細かいことですが:

大三元さん、ありがとうございます。

> 倭姫命は「飯高しと白すこと貴し」と悦ばれた。

 言語音痴の神奈備が何か申しあげた所で、インパクトはゼロですが、一言。
『和名抄』に「忍飯高国」(皇太神宮儀式帳)とあります。意須比飯高国と並べて見ますと、大三元さんのお説は一押しだと思います。

 非言語的裏付け
1.倭姫命が貴しと悦ばれたのは、山盛りのご飯ではなく、日が高いを意味する地名への称え。
2.某氏の車に乗せてもらって大和から高見山トンネルを越えて飯高郡に入りました所、まだまだ山奥の筈ですが、明るい太陽の国、海洋の国のような印象を受けました。
 道沿いの桜や花々、木々も美しく、秀麗な山々もよく見え、大和とは全く異なった風景に感動いたしました。日が高い国、もっともです。

 余談
「飯高の山」と言うパンフレットによりますと、舟戸には蘇我入鹿の首塚、また標高930mの飯盛山、久保宮司さんの父上も著述されている『飯高郡史』には相模神社の名が見え、サネサシなどが話題になりました。

オシテル難波、テルテル坊主?

[4062] Re[4061]: 倭姫命の歌碑  大三元 2003/04/20(Sun) 14:11 [Reply]
細かいことですが:

> 【飯野の高宮】
>  二十二年[癸丑]、飯野の高宮に遷り、四年間奉斎。この時、飯高県造の祖の乙加豆知命(おとかづち のみこと)に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「いすひ 飯高国」と申上げて、神田・神戸を進った。倭姫命は「飯高しと白すこと貴し」と悦ばれた。

「意須比飯高国」の「意須比」の読みについて:ご紹介のURLでも、また、海部穀定著『元初の最高神と大和朝廷の元始』所載の『倭姫命世紀』でも「いすひ」としてありますが、「おすひ」と読むのが相応しいのではないかと思われます。

理由は『時代別国語大辞典・上代編』に「おすひ」の項があり「枕詞 地名飯高に掛かる。かかりかた未詳。」とあり、また、「いすひ」という項目がないからです。

さて、「おすひ」と読む場合の意味ですが、上着の意味もあるけど、飯高に掛かるには相応しくなさそうです。ここの「おすひ」は「押す日」であり、「押す」とは「照らす」ではないか(参考:拙著『初期天皇后妃の謎』p72〜)と思っています。

そうすると「飯高」の意味も(従来は字面から稲、米、メシへの連想が強い訳ですが)「い・日高」という分解が出来ないものか。「い」が接頭辞となるのは動詞に対してではあるが、「斎、忌」などの意味で「い」を冠することもある。つまり「斎・日・高」が原義ではなかろうか。そうすれば「照る日のいひだか」が、すっきりと枕詞+掛かり言葉になっているように見える。

仮に「いひだか」の原義が「斎・日・高」でなかったとしても、そう理解することで「おすひ」が枕詞たりえた、ということになるまいか。

[4061] 倭姫命の歌碑  神奈備 2003/04/20(Sun) 09:30 [Reply]
三重県の飯高町の水屋神社に複数で参詣いたしました。久保宮司さんの親切なはからいで神社内は言うに及ばず、周辺の伝承の神社跡、もの、碑などに案内頂きました。久保宮司さん、ありがとうございました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mizunoya/
水屋神社の祭神に乙加豆知命と言う神名が見えます。伊勢飯高の神で、東は松阪市の加世智神社に祭られています。共に合祀されたようです。
倭姫の巡幸の際、受け入れた地元の神で『倭姫命世記』では次のように記載されています。

【飯野の高宮】
 二十二年[癸丑]、飯野の高宮に遷り、四年間奉斎。この時、飯高県造の祖の乙加豆知命(おとかづち のみこと)に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「いすひ 飯高国」と申上げて、神田・神戸を進った。倭姫命は「飯高しと白すこと貴し」と悦ばれた。
http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/kyodo/yamatohime.htm から。

この物語は松阪市の飯野高宮神山神社の由緒にも記されているようですが、櫛田川の上流の飯高町の水屋神社付近にも乙加豆知命と倭姫の物語があるようです。乙加豆知命の支配地が高見山から櫛田川沿いの海辺一帯、旧飯高郡だったと思われます。

 伊勢と大和の国境を決める春日神と伊勢神とのやりとりの礫石が川中にあり、その上に倭姫命の歌碑がありました。倭姫が詠った歌ではなく、倭姫を歌った歌のようです。

 流れては 昔に帰る川俣川 礫石立つ 水のしら浪 弘化四年(1847年)春 滝野智雄

歌碑の写真を別荘にアップしておきました。


[4060] Re[4056][4054]: 読んでみた〜い!  市杵島姫 [Mail] 2003/04/19(Sat) 02:43 [Reply]
>家島の三つの区の内の1つ、真浦区では、・・・共有地の土を切り売りしてその場しのぎの生活、末路を思えば気の毒なような気がしますね。

一昨年、仕事で小豆島へ行った帰り、家島の真浦区にある飯盛山を見に行こうと思い、姫路経由で家島にフェリーで渡りました。途中、家島諸島の採石跡の凄惨な姿にはショックを受けました。本州側から見るより小豆島側から見ると、島の大部分が消滅した小島がたくさん・・・生きたままライオンに食われたバッファローの屍骸のようでした。家島諸島に沢山あったという、貴重な山岳信仰の磐座がダイナマイトで吹っ飛ばされているのです。こうやって採石したセメントで日本の地面が舗装されて行くのだなぁと、磁場が歪んだ感じの都会のビル内の会社に戻って行くのが少し憂鬱になりました。

>飯盛と稲積、似ているようですね。和歌山の周参見に稲積島という島があります。まさに飯盛山と言う形容にふさわしい形です。

ホントに似ていますね。ヒモリ時代と別の意味を持つ農耕信仰になった後は、飯盛信仰は、稲荷信仰と結びついて行ったようです。何かの辞書で、「飯盛信仰は稲荷信仰より古く、その前身である」というのを読んだことがあります。飯盛と稲積は関連があるかも知れません。今日、『古代遺跡と神山紀行』の本を買ってきました。これから読んでみます。




[4059] Re[4058]: ご助言を  泊瀬女 2003/04/18(Fri) 22:50 [Reply]
行き届いた案内のサイトをご紹介くださって、ありがとうございます。
よく調べて計画をたててみようと思います。

[4058] Re[4057]: ご助言を  神奈備 2003/04/18(Fri) 22:16 [Reply]
> 少しでも気力・体力が残っているうちに、熊野古道を歩いてみたいと思っています。

海南市の藤白王子から、(在田)山口王子の道も熊野古道らしい道です。
中辺路は
http://www.aikis.or.jp/~joyfullm/kumanokodo4/kumanokodo4.htm
を参照下さい。トイレ事情も掲載があります。本宮に近い方が熊野古道らしい道です。
鳳駅前の熊野古道はアーケード付の商店街で、このような所は歩くには及ばないようです。岩波新書『熊野古道』をご一読してご出発下さい。

おひとりで大丈夫だとは思いますが、ご心配でしたらお供いたします。神奈備は多分無害な人物です。

[4057] ご助言を  泊瀬女 2003/04/18(Fri) 21:04 [Reply]
少しでも気力・体力が残っているうちに、熊野古道を歩いてみたいと思っています。
きついコースは無理なので、中辺路なんてどうでしょうか。
オバさんが一人で歩いても大丈夫ですか?
旅の途中、どこで行き倒れても本望ではありますが、できれば他人さまにご迷惑をかけたくないと・・・
途中のトイレ事情はどんなものですか? 
これって結構重要な条件なのですよ。


[4056] Re[4054]: 読んでみた〜い!  神奈備 2003/04/18(Fri) 19:14 [Reply]
> 同感です!埼玉県の武甲山の中にあった飯盛山も神奈川県厚木市の飯盛山も小笠原諸島の父島にあった飯盛山も、みんな石切り場になって跡形もなく「破壊されてしまった神奈備山」です。飯盛山フリークの私としては、とても残念です。

香春岳の無惨な姿には衝撃を受けました。

宇佐郡辛国宇豆高島と称された稲積山も採石で切り取られているようです。

讃岐平野も形の良い山が削り取られているようです。観音寺市の稲積山に高屋神社があり、山頂に元社の稲積神社があります。ここはどうなんだろうと思い、下記をみましたら
http://www.genbu.net/data/sanuki/takaya_title.htm
無事に残っているようですね。

家島の三つの区の内の1つ、真浦区では、区の財産、約32億円の半分、15億円を約2200人の区民に分配したそうで、共有地の土を切り売りしてその場しのぎの生活、末路を思えば気の毒なような気がしますね。

飯盛と稲積、似ているようですね。
和歌山の周参見に稲積島という島があります。まさに飯盛山と言う形容にふさわしい形です。



[4055] のぼる、のぼり?  林 幸三 [Mail] 2003/04/18(Fri) 14:32 [Reply]
新宮速玉神社の祭りの{のぼる}・{のぼり}の呼称問題があるのですか?

[4054] 読んでみた〜い!  市杵島姫 [Mail] 2003/04/18(Fri) 00:18 [Reply]
>井上香都羅さんの『古代遺跡と神山紀行』彩流社と云う興味深い本
>神奈備山信仰、磐座信仰は祖霊信仰で、
>日本でも縄文遺跡、銅鐸発見の地からは必ずと言っていいほど、形の良い神山(頂上に磐座あり)の中心線(左右対称など美しく見える場所)上にある。

是非読んでみたい本ですね!石器時代はわかりませんが、縄文時代の日本人は吉野ヶ里や三内丸山遺跡から判るように星を観測して非常に精巧な測量技術を持ち、それを元にして自分達の文化圏を形作っていました。神奈備山は、星を測量する時の目印だったと思うので、集落を形成する時に不可欠だったのではないかと思います。
それから、古墳時代になると石を組み合わせて巨大な古墳を創る技術を持っていたのがこの国の祖先です。奈良の石舞台を切り出し運ぶ技術は、いったいどういうものだったのか、今は謎ですが、少なくともあの石を動かせた民族だったのです。神奈備山の頂上の磐座は、人工的にどこからか運ばれて来たものと思います。磁石を持って磐座に近づくと、よく磁気異常を起こしますが、あれは岩が固まる時に地球の磁力線に沿って磁気ができるたのを、別の場所に運んで設置した結果の磁気異常だと言われています。
何故、磐座を山の頂上に置く必要があったのか・・・測量の目印だったからだと思います。現代で言えば、三角点みたいなものですね。でも、大きな違いは、自然と共存して生きることを知っていた古代人にとっては、磐座は単たる「三角点」ではなく、星の測量「天の意志」を宿す「神聖な石」だったという事でしょう。多くの頂上の磐座(今は上宮になっているケースも・・・)は平地のにある磐座(今は殆んどが神社)と特別な配置になるように測量されていることが多いです。特別な配置というのは、相互に「気脈を通じる道」を通しているのではないかと思います。だから、磐座は動かしたり破壊したりしてはならないものとして特別に神聖視されて、やがてそれが祠になり、神社になっていったのではないでしょうか?

<神奈備山は重要な史跡と言える。破壊から守るべき・・・
同感です!埼玉県の武甲山の中にあった飯盛山も神奈川県厚木市の飯盛山も小笠原諸島の父島にあった飯盛山も、みんな石切り場になって跡形もなく「破壊されてしまった神奈備山」です。飯盛山フリークの私としては、とても残念です。

nickさんが以前に教えて下さった、
>地名、公共施設名による検索

http://mapbrowse.gsi.go.jp/mapsearch.html
は、とても便利ですね。本の索引に載っているものがなかったり、その反対に本にないものがあったり・・・両方探すと随分解ってきますね。

[4053] 青草話  神奈備 2003/04/17(Thu) 17:55 [Reply]
 井上香都羅さんの『古代遺跡と神山紀行』彩流社と云う興味深い本を読んでいます。

 神奈備山信仰、磐座信仰は祖霊信仰で、石器時代は云うにおよばず、ひとが心を持った時から始まっている。
 日本でも縄文遺跡、銅鐸発見の地からは必ずと言っていいほど、形の良い神山(頂上に磐座あり)の中心線(左右対称など美しく見える場所)上にある。
 神奈備山は重要な史跡と言える。破壊から守るべきと訴えています。

 多くの遺跡を歩いての写真などもあり、なかなか説得力がある本です。

疑問1 日本では大抵の場所から一つぐらいは形のいい山が見える。
疑問2 頂上に磐座があるのは、磐座があるから浸食作用で頂上となったのでは。

などとネガティブなも思えるのですが、洞穴遺跡からは中からチャント神山が見えるとのことで、疑問1は解消かも。

ここから青草話

猿は山に住んでいて、そのボスは山の頂上に陣取っていた。彼らが平地におりて進化しつつあったが、何かあると元の山に戻った。頂上はボスと言うか酋長が座った。
やがて、平地を主な居住地とするようになったヒトは太古の記憶で、山の頂上には歴代の酋長が座り、従ってその魂も頂上に降臨するように信じた。

今、磐座がもてはやされているのは、先祖帰りの一環で、耳にピアスをするのと同じような気持ちかも。

[4052] Re[4051]: 次回調査は・・・  神奈備 2003/04/16(Wed) 21:14 [Reply]
功満王とは秦始皇帝の後裔で秦氏の祖にあたる王でしたね。
大井神社とからんでいるのなら山城秦氏の開拓した大井堰に関係した神社が嵐山に鎮座していますが、秦氏との関連があるのかも知れませんね。いよいよ泥沼へかも。
少名彦神も秦氏が祭ったとか。

[4051] 次回調査は・・・  PONTA [Url] 2003/04/16(Wed) 00:44 [Reply]
PONTAのAYAです。
東三河と西遠の式内社の調査が終わったので(調査結果はPONTAのHPにあります。このHPの記載とは違ってる部分も多々ありますが(汗;))、今度は大井川水系の大井神社(約100社?)と敬満神社(4社?)の調査です。私の直感では、大井神社の御祭神の「水神」の正体はうまみやの滝のせおりつ姫(由緒書きではせおりつ姫かみづはのめの神。この2神は同一神?)、敬満神社の御祭神の敬満神の正体は功満王(敬満大井神社以外の由緒書きでは少彦名命)かと。

あと、日本武尊ですが、調べたところ、西日本と東日本では日本武尊の神社数が数的に全く異なるなど、草薙剣の使用はあなたのおしゃるように九州ではなく、静岡の可能性が高いようです。また、焼津は天然ガスが燃えてその名がついた可能性が高く、実際に使用したのは静岡市のようです。(4/1から清水市は静岡市になりました。)ただ、日本武尊は実在しなかったとか、モデルがいたとか言われてますけどね。特に『古事記』の記述で矛盾してることもありますから。

[4050] Re[4049][4048]: 「麻槌」で想いつく  神奈備 2003/04/15(Tue) 16:54 [Reply]
習志野のてつさん、励ましのお言葉ありがとうござます。勇気凛々です。

『古語拾遺』の石窟幽居に、手置帆負・彦狭知の二柱の神をして天御量を以て大峡・小峡の材を伐りて瑞殿を造り・・云々と出てきます。
『姓氏録』和泉国神別に穴師神主があり、天富貴命の五世孫、古佐麻豆智命の後なり。とあります。
天富貴命は貴と命とが重複と見れば天富命と同じ。
古佐麻豆智は小狭槌命とも書き、「大峡・小峡の材」にも似ていますし、彦狭知からヒを消し、ツを加えれば小狭槌となります。加減算には無理はなさそうです。ホント?

 おっしゃる通り忌部氏ー紀の国忌部氏ーであれば、高野山付近の地名に現れても不思議ではありませんし、和泉国はその南部は紀の国と同じ勢力圏であったこともあり、穴師神主なる氏族が出ても忌部氏の枝らしい名前です。
 
 祭祀氏族だった忌部氏は中央構造線との分布からは阿波と紀の国には現れているようですが、この氏族は蘇我氏の手下的な時もあったようで、多岐に渡る活動をしており、どうも丹生と特定しにくい所があるようです。

[4049] Re[4048]: 「麻槌」で想いつく  習志野のてつ [Mail] 2003/04/15(Tue) 13:52 [Reply]
諸般の事情からご無沙汰でした。少しの間に色々変化があるものですね。
とりあえず席亭及び掲示板の危機に、おっとり刀で馳せ参じつつ。

> 泉州の式内社に泉穴師神社があります。祭神に天富貴神、古佐麻槌大神との説があります。
> 聞き慣れない神々ですが、古佐麻槌大神の子玉櫛命は八咫鏡を鋳るとされいます。

 「麻槌」で思いついたのですが、徳島県に「麻植」(オエ)郡があります。
 姓でも、麻植(オエ)さんがいます。忌部(インベ)神社の正統争いを
 した地でもあります。
 「古佐麻槌大神」は、忌部一族とも係わりがあるのではないでしょうか。

 紀伊と阿波は深いつながりがありそうですし、そもそも丹生比賣の「丹」。
 「丹」の多くとれた徳島県名西郡あたりと必ず繋がると思います。
 丹生都比売伝承 http://www.kamnavi.net/ny/nyutu.htm

 最後に♪「フレー、フレー、カ・ン・ナ・ビ!」チャチャチャ♪

[4048] 富貴、古佐で想いつく  神奈備 2003/04/14(Mon) 22:26 [Reply]
泉州の式内社に泉穴師神社があります。祭神に天富貴神、古佐麻槌大神との説があります。
聞き慣れない神々ですが、古佐麻槌大神の子玉櫛命は八咫鏡を鋳るとされいます。
饒速日命降臨の防衛として天降り供へ奉る三二五部衆に天玉櫛彦命(間人連等の祖)がおり、物部との関係もあるのかも知れませんが、はっきりわかりません。

所で高野山のある東側に富貴と云う地名があり和泉山脈の父鬼辺りからの地名移転かとも思っていましたが、共に祭られている古佐麻槌神ですが、橋本市は元々高野山麓の古佐田村の一部の荒地を開いた町のようで、何となく高野、丹生を思わせる泉穴師神社の祭神です。
丹生氏の系図にも、小佐非、古佐布の名が見えます。(なにがしさんHP)
富貴、古佐に関連のある泉穴師は大和穴師すなわち兵主、天日矛につながり、赤留比賣の名も丹生比賣に通じるのかも。

[4047] 阿智乃大神  ムカイエ  [Mail] 2003/04/12(Sat) 23:22 [Reply]
三女神 宗像 大島 沖の島 辺津宮 天照

[4046] Re[4045][4044]: Re[4042] [4043]  日雲 2003/04/10(Thu) 00:48 [Reply]
>八代神社には平安時代に妙見信仰が持ち込まれたと書いてあった書物に記憶があります。
細かい話ですが、790年の年号が入った「妙見菩薩」の文字が刻まれた石碑だかが、界隈の寺から出ておりますので、平安よりはほんの若干遡るようです。

>なお、素盞嗚尊五十猛命祭祀と妙見祭祀には供に秦氏の影を感じています。
八代と並んで「日本最初妙見」とされ、場合によっては一体ともされた、山口県の降松神社の方でも、創建由緒に秦河勝が出てきますものね。推古天皇に遣わされて、百済の王子を出迎えた、とかいうことで。
件の赤穂の大避神社の別当寺も妙見寺ですし。
この辺のいわゆる「妙見信仰」には、秦氏系、ことに河勝系(?)の匂いが強いと、私も思います。
あと、確か鹿児島県の白木神社の創建に、名に「ウズマサ」と付いた人物がいたんじゃなかったでしょうか。

>名草彦は一説には素盞嗚尊や五十猛命の子孫とされており、紀の国では星とのつながりはなさそうですが
ザッと見渡しているだけですので探りが浅いのかも知れませんが、どう〜も星臭さが乏しいことが、逆に気になり出してもいます。
何かもうちょっとそこはかとなく「高知っぽさ」を帯びてる方が、個人的な印象としてはスッキリするのですが……。
神社としては何か別の形に変わったのか、或いは、空海がらみの某かがあるのならば、強く仏教化してしまったのか……。
調べる機会が出来た時には、ちょっとお寺の方も探ってみます。

>やはり養父の中ですね。
――おあとがよろしいようで。

[4045] Re[4044]: Re[4042] [4043]  神奈備 2003/04/09(Wed) 22:10 [Reply]
> 兵庫県の名草神社(妙見)に天御中主が祀られていて、和歌山の方に祭られてないのはどうしてなのか?

 熊本の八代神社は白木山に鎮座、九州の白木は新羅で素盞嗚尊や五十猛命を祭っている場合が多いようです。八代神社には平安時代に妙見信仰が持ち込まれたと書いてあった書物に記憶があります。名草彦は一説には素盞嗚尊や五十猛命の子孫とされており、紀の国では星とのつながりはなさそうですが、兵庫県に勧請された名草神社は覚醒遺伝的に妙見信仰がでたのかも知れません。
 なお、素盞嗚尊五十猛命祭祀と妙見祭祀には供に秦氏の影を感じています。半島でつながっていたのが持ち込まれたのかも知れませんが、やはり養父の中ですね。

[4044] Re[4042] [4043]  日雲 2003/04/09(Wed) 01:14 [Reply]
神奈備様>交野に大知谷と云う地名があります。
交野も調べなきゃ調べなきゃと思いつつ……記憶しておきます、「大知谷」。

なにがし様>このあたりは帰化人がほとんどだったようです。丹治家信はこの地から織物ができる人を伊都郡の地につれて来た可能性はあります。丹生都姫とつなげようとするとそうなります。

「犬のフォークロア」という本があり、その中にこうあるのですが、どうでしょう?

『北朝鮮の平安南大安市にある五世紀初の高句麗古墳である徳興里古墳の天上に牽牛織女伝説が描いてあって、牽牛は牛を引き、織女は黒い犬を伴っている』

いや、どうでしょうと言われても困るかも知れませんし、そもそも御存知だったかも知れませんが、上記の一文を読んでフと思い出しましたもので、また忘れてしまわないうちに書きとめておこうと思いまして(;^^

>空海は「自分は大名草彦の分かれである」と言っています。
そういえば以前、兵庫県の名草神社(妙見)に天御中主が祀られていて、和歌山の方に祭られてないのはどうしてなのか?
兵庫に名草彦が勧請されてから後に合祀されたのか、同時に勧請されたが後に和歌山の方で立ち消えになったのか、どっちだろう?
と気になって、確かモノの本でザッと調べてみたような記憶がありますが……
どっちだったかは、スッカリ忘れてしまいました……
自分で体使って調べない駄目ですね……
どっちだったでしょう?(;−−

[4043] 丹生大明神告門→訂正丹生祝氏本系帳  なにがし 2003/04/08(Tue) 23:11 [Reply]
>なにがしさんがご覧頂いていれば、よりお詳しい話が出ると思いますが・・・。
神奈備様すいません。私も分かりません。以下私の推測です。
空海の時代丹生惣神主(丹生祝氏)へ養子に来た丹治家信(実家は明日香村島庄)のご先祖様は宣化天皇とされています。そう言えばどこかのHPで仏教を伝来させたのは宣化天皇だと書いてた方おられましたね。それはともかく、丹治氏系図では宣化天皇のあとに檜前?の皇子になっています。恐らくは檜前に住んでいた皇子でそう呼ばれていたのではと思うのですが。で、この地は坂上氏のご先祖様が応神天皇の時代に中国から連れてこられ与えられた土地で、このあたりは帰化人がほとんどだったようです。丹治家信はこの地から織物ができる人を伊都郡の地につれて来た可能性はあります。丹生都姫とつなげようとするとそうなります。
ちなみに、家信は空海を高野山に導いた狩場明神であるとされています。家信と仏教の関係は丹生に来るまでに出来上がっていたのかも知れませんね。ついでに、空海は「自分は大名草彦の分かれである」と言っています。本当に「分かれ」かどうかは分かりませんが、丹生氏は高野山を譲るだけではなく、協力を惜しまなかったのはこのあたりにもあるかも知れませんね。
大分の話がでましたので。1200年代に大伴の某が都から大分に船で向かっている途中、船が難破し、丹生都姫に助けられたことから、大分到着後赴任先で丹生都姫を大事に祭ったとか。伊都郡の丹生惣神主の昔の屋敷内には竃門神社(奥津彦奥津姫)があり、大伴氏が祭っていた模様です。丹生氏の伝承に、大伴氏は丹生津姫が丹生川上からこの伊都の地に来る時お供してきたと書かれています。空海がくる前からこの地には大伴氏もいたと言う事です。佐伯ということを踏まえると空海と大伴氏と丹生氏の繋がりも考えられますね。いろいろな面で空海と伊都の地のつながりが見られます。話はそれましたが、この竃門神社は和歌山にはほとんどないのですが、九州には多いようです。


市杵島姫様
丹生大明神告門ではなく、丹生祝本系帳の間違いでした。神奈備様のHPにもありますのでご参照下さい。

[4042] Re[4041][4038][4037][4035][4034]: 妹背山  神奈備 2003/04/08(Tue) 20:23 [Reply]
日雲さん、空海と星など、参考になるお話ありがとうございます。


> この一帯で、最もよく祀られていたお宮が、石拆であったと言ってもいい状況にあったようなのです(その辺りにお住まいになってらっしゃるのは、ほとんどが小千氏の裔の方々であるそうです)。


 交野に大知谷と云う地名があります。森古墳群があり、未発掘の国内最古級の竪穴式石室を持つ前方後円墳として脚光を浴びた「鍋塚古墳」などがあります。基底部は240m。物部の首長の墓との説があります。
 時代に差があるのですが、この地域は星田牧とよばれ、牛馬の放牧地になっていました。当然、牛を牽く男もいたでしょうし、神祭のために機を織る女もいたでしょう。交野は七夕伝説で有名な所です。

[4041] Re[4038][4037][4035][4034]: 妹背山  日雲 2003/04/08(Tue) 14:28 [Reply]
>共通項は物部、当麻寺の元寺が交野の万法蔵院との説、役小角と空海、などなどの所までです。 
私も四国に行った時に、「修験道(役小角)と真言密教(空海)について勉強しないといかんなあ」と思ったきり、あとはどうにもこうにも……。
まず、役小角については、愛媛の越智郡玉川町にある石拆神社の境内にあった由緒書きに、「当社は持統四年三月に国司小千宿禰玉興味が、大和国葛城山より役小角が優婆塞を迎えてこの地を拓いた時、石拆神、根拆神、石筒男神、天御中主神、天満尊神を奉斎して祀ったものである」
玉川町にはこれも含めて二社、石拆神社が現存しておりますが、その二社の間あたりにある妙見社を管理されている宮司さん(太夫さん)宅へ伺って、資料を見せて頂きましたら、どうもその付近には、少なくとも6社の石拆宮があったらしく、かつてには、この一帯で、最もよく祀られていたお宮が、石拆であったと言ってもいい状況にあったようなのです(その辺りにお住まいになってらっしゃるのは、ほとんどが小千氏の裔の方々であるそうです)。
そして、上記の由緒のものではない、もう一社現存している方の石拆神社は、自元では「妙見さん」と称されており、そこに天御中主が合祀されたような気配もなく、どうもやはりこの界隈の石拆も星信仰の社であった風。
しかし、どうしてイワサクだったのか? 何のために建てたのか? これと役小角の関係は? といった辺りがサッパリ解らず、ちょっと修験も齧ってみなければなと思ったものの、ちょっと齧ったくらいでは、蔵王権現がどうしたとか通り一遍のことしか解らず、非常に困っているところです。
尚、このイワサク信仰は今治市周辺を中心とした愛媛県内に点々と見られるのですが(大部分は廃絶したり、合祀されたりで姿を消していますが)、大三島の大山積神社の境内社・「十七社」の中に合祀されているイワサクも同様のものらしく、これは「付近に点在していた宮を集めてまとめて祭祀したもの」で、十七社建立前はどこだか近くの島に独立してあったそうです。
これらのイワサク神社の中で、創建由緒のあるものは上記の玉川町のものだけで、あとは御神得も何も一切不明、恐らくは宮の建立密度から言っても、玉川町界隈が愛媛イワサク信仰のメッカだったのではないか、と思われるような状況になっています。
また、大山積神社で聞いたところによると、何処の誰がそういうことを言われたのかは不明ですが、一部には大山積を妙見とする見方もあるそうで(大山積神社では、あくまでも大山積大神として奉斎しているとのこと)、加えて、明治頃までは静岡の方の三島と同様に、神使をうなぎとすることも多分にあったらしい(白鷺を神使とするのは「八幡愚童訓」以前には見られない由)。どうも、この界隈の越智系の物部には星臭さが……?
例祭に鹿の頭を奉納していたことも、件の一人相撲神事の存在も、どうも気にかかる……?
それと役小角が絡む創建由緒のイワサクとの関係は……?
と、何だかよく解らないのであります。

空海については、高知の星信仰とどういう関連を持っているのかが……明らかに「空海が明星を感得したとの伝承成立以後」の、虚空蔵系の信仰も寺院を中心に見られるのですが、そこに源があったとは到底思えない星神社信仰が他に山ほどあって、その両者に果たして関連があるのかどうか……?
つまり、空海が明星を感得した(虚空蔵求聞持法を会得した)とされる場所が、室戸岬であったというのは、ただの偶然なのか、それとも星信仰の盛んだった土地柄であったからこそのことなのか――関連ゼロなのか、幾らかかはあるのか、その辺がどうも解らないのです。
天白が高野に降りたという「てんはくのうた」と合わせて考えてみても、どうも何となくひっかかるところで、空海についても色々見てみなきゃなあとは思うのですが、やはりちょっと齧ったくらいでは通り一遍のことしか出て来ず、これまた困っています。
その一方で、虚空蔵のお使いがうなぎだという見方が、何処から出て誰が広めたものか、これも全く不明のようですが、一部からは「修験者が絡んでいたのではないか」との推測も出されており、そうなると空海がらみの虚空蔵信仰と役小角がらみの修験の関係にも目を向けなければならず……。
次は大分に出かけて宇佐や宗像界隈を見てくるつもりだったのですが、なにがし様の方から丹生について齧らせてもらいましたら、大分も丹生の盛んな土地であるとの由(そんなこと全然知りませんでした)――そうとなれば、ある程度は丹生についても解った上で大分に行った方がいいのだろうかとなり、さらには住吉にある星信仰=竈神信仰との絡みで、竈神信仰も。も一つおまけにどうも気になる天稚彦もとなると、大阪・奈良・和歌山界隈は課題のてんこ盛りで、地理関係もサッパリつかめてない状況ですので、どこから手をつけていいのかも解らず、まごまごしているうちに、世間の浪に流されて阿呆に輪をかけてしまったという次第でございます。

伊都郡の丹生都姫については、「手工業全般の中の一つ」ではなく、明確に「織物単品」の上達祈願ということなのですね。これはこれで興味深いところです。

[4040] Re[4039][4034]: 妹背山  神奈備 2003/04/08(Tue) 07:34 [Reply]
> 丹生大明神告門というものをはじめて知ったのですが、原文を読んでみたいです。

http://www.kamnavi.net/ny/nyuhime.htm

に『紀伊国続風土記』からのものを採録しております。

[4039] Re[4034]: 妹背山  市杵島姫 2003/04/08(Tue) 05:35 [Reply]
なにがしさん、はじめまして

> ちなみに、丹生大明神告門の「犬の口代として飯地を奉る、・・・かしは、はまゆう、飯盛る器と寄せ給ひき」を何かの暗示と勝手に思っている私は、この部分と飯盛山が気になってしょうがないんですよね。
そして彼等の飯地(働き場所)として飯盛る器(飯盛山)を頂いたのではと。

この祝詞の原文を貴殿のHPで探したのですが、辿り付けませんでした。前後の部分を読んでみたいのですが・・・。私は、飯盛山が「ヒモリ山」に接頭語イがついて「イヒモリ」になったのは、国津神と天津神が政権交代した頃だと思っております。五十猛命は国津神だと思いますし、本州の飯盛山の周辺には古い鉱山が多く、青銅の民の山でもあったようです。その点において、丹生の神と重なる地域もあります。それが大和朝廷成立後に農耕神に変化して行くと、五穀豊穣を祈願する「御笥(みけ)の神」として飯の文字が当てられて行ったようです。
「飯盛山はご飯を盛ったような形をしている形状から命名された」というのが一般的な見解ですが、ヒモリの名前の方が先で、飯の文字が当てられた後にこの逸話が繰り返し語られています。風土記によく出てくる「〜がよこ訛れるものなり」という記述は、いつも無理やり何かの言われを意図的に変化させた匂いがするのですが、飯盛山にも同じものを感じます。丹生大明神告門というものをはじめて知ったのですが、原文を読んでみたいです。飯降の場所、解りました。ありがとうございます。

神奈備さんがおっしゃっていた、
>>三重県飯南郡飯高町大字赤桶の水屋神社
のの中の飯南郡の地名も、日南でヒナと読ませる地名が日本中にたくさんあるので、たぶん元はイヒナだと思います。三重県飯南村飯高町の奥香肌湖の東岸に飯盛山(809m)があります。これは2万5千分の1の地形図にも載っていなかったので、探すのに苦労しましたが、吉野の修験者の方にあるらしいという話を聞いて探した所、「山と高原」地図に載っていました。非常に奥地なので、まだ登れていませんが、何系の神さまが祀ってありのか、興味がある所です。

[4038] Re[4037][4035][4034]: 妹背山  神奈備 2003/04/07(Mon) 22:05 [Reply]
日雲さん、こんにちは。

七夕も重要な星祭りですね。当麻と交野、これをベースにお勉強中です。
共通項は物部、当麻寺の元寺が交野の万法蔵院との説、役小角と空海、などなどの所までです。何か思い当たる所がございましたら、御指南下さい。 

>> 伊都郡では丹生都姫にお願いました。
「和歌山のワカ、これはワカヒルメのワカ、伊都郡のイトは糸、皆大神の御恩徳を忘れないための名称です。この神のおかげで高野町付近は織物の産地(パイル織り)として今なお名高いのです。」とまで神社の由緒は述べています。織り物の技巧上達の神として崇敬されており、四六時中のお願いと申せると思います。七夕については瀬藤の推測に過ぎません。
なにがしさんがご覧頂いていれば、よりお詳しい話が出ると思いますが・・・。

> 地形というか状況になっているものなのか
 現在では脊山(167m)は紀ノ川から北700m程離れており、妹山(124m)は紀ノ川から南200m程の距離です。妹山は女性に自信のない男を連れていくと自信が出る山との伝承があったようですが、小生の調査観察ではなんのことやら。従って未だに自信がありません。
 両山は上流からは川を挟んで似合いのカップルに見えます。
 
> 「蛇島」の語源は
http://www.kamnavi.net/ki/itonaga/funaoka.htm
 本名は舟岡山、紀ノ川の中にある中之島のような島、昔は橋もなく、あまり人が足を踏み込まなかったようで蛇がうじゃうじゃと聞いています。

 粗雑なことで失礼いたします。

[4037] Re[4035][4034]: 妹背山  日雲 2003/04/07(Mon) 02:42 [Reply]
御無沙汰しております。
世間の浪にさらわれて、すっかり輪をかけて阿呆になっておる昨今でございます。
ところで、

>伊都郡では丹生都姫にお願いました。
――というのは、
「特に時期を問わず、裁縫技芸一般を祈る際は丹生都姫に」
ということだったのか、
(或いは、手工業的なもの全てが対象となる中、その一ジャンルとして裁縫技芸も含まれていたのか?)
それとも、
「丹生都姫を対象にして、七夕祭りを行った」
ということだったのか、どちらなのでしょう?
それからもう一つ、

>宗像の神が背山妹山を結ぶ川の中の蛇島に祭られています。
これがどういう地形というか状況になっているものなのか、今ひとつ想像が付きませんが、
「蛇」に絡む何かがある(あった)のでしょうか?
この「蛇島」の語源はお解かりになりますでしょうか?

すいませんが、お手隙ございましたら、御教授下さいませ。

[4035] Re[4034]: 妹背山  神奈備 2003/04/05(Sat) 12:05 [Reply]
 なにがしさんが『丹生祝氏本系帳』の「飯盛る器」に注目されておられるのは慧眼だと思います。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html
これが飯盛山か妹山につながるのかどうかですが、今の所は見えていません。

 紀の川を挟んで背山妹山があります。これはなんとなく彦星と織女を思い起こします。
 彦星は牽牛で、その別名を「犬飼い星」と云います。
 七夕祭りは女性が裁縫技芸の上達を願ったようです。伊都郡では丹生都姫にお願いました。
神衣を織るのは川の側の棚状の織機だったとか、妹山は織女でもある丹生都姫が「犬飼い星」である背山との年に一度の逢瀬を待った棚かも。
 
 『日本書紀』(丹生都比賣神社の祭祀にかかわった)坂上氏の祖先の阿知使主らが呉から織女達を引率して筑紫に着き、そのときに宗像大神が工女らをほにしいといわれたので兄媛を大神に奉ったとあり、宗像と織姫とは無関係ではなかったようです。宗像の神が背山妹山を結ぶ川の中の蛇島に祭られています。藪をつついて何がでるかですね。

[4034] 妹背山  なにがし 2003/04/03(Thu) 23:00 [Reply]
神奈備様

>那賀郡麻生津中の南朝方の飯盛山城址のある山のことでしょうか
確かその山だったかと思います。
ちなみに、丹生大明神告門の「犬の口代として飯地を奉る、・・・かしは、はまゆう、飯盛る器と寄せ給ひき」を何かの暗示と勝手に思っている私は、この部分と飯盛山が気になってしょうがないんですよね。根拠は全くないんですが。
例えば、狩場明神のお墓がある宮本。私はここは丹生家信が実家の丹治家から連れてきた人々が住んでいたのではと推測しています。そして彼等の飯地(働き場所)として飯盛る器(飯盛山)を頂いたのではと。なかなか想像力たくましいでしょ。聞き流してください。

>坑道が走っているのは飯降のほうでしょうか。天野でしょうか
天野の丹生都姫神社の下らしいのですが、私も初耳で、和歌山の県立図書館かなにかで誰かの講座の資料に書かれていました。自分で実際に確かめたわけではありません。確かめたい気はしますが。しかし、神社を建てた後に掘ったのであればなんとバチあたりな。


>妹山も飯盛山の変化なのかな。
なるほど。そうとも考えられますね。全く思いもつきませんでした。さすが神奈備様。



[4033] ありがとうございました。  しま [Mail] 2003/04/03(Thu) 15:15 [Reply]
4018でいろいろ教えていただいた、しまです。
母親にも報告して、皆でわくわくしています。
地図を購入して探してみます。
また何かわかったら、お礼方々寄らせていただきます。
ありがとうございました。

[4032] Re[4030]: 神奈備さまへ  神奈備 2003/04/03(Thu) 08:25 [Reply]
>>  まぁ、深いお考えがあってのご回答とは思いますが。

せっかくですが、たいして深くありませんので、あしからず。

景行天皇がいかにも大和の大王のように『記紀』では書かれています。しかし戦闘の舞台は九州です。その大叔父さんの屋主忍男武雄心命を紀伊国に派遣、その系統から武内宿禰が生まれています。宿禰も九州産の気配が濃厚、そうすると、九州の大王の物語が『記紀』に取り込まれたとの「九州王朝説」もこの辺りでは成り立つのかも。そうすると倭建命も概ね九州内で活躍かと。
八木津と云う古地名が水巻町辺りにあったと記憶しています。

[4031] Re[4029][4027][4026]: 稲佐神社  神奈備 2003/04/03(Thu) 08:04 [Reply]
なにがしさん おはようございます。

飯降の丹生津姫命を祭る神社は、このことですね。
伊都郡かつらぎ町西飯降 丹生神社 昔は丹生七社大明神 丹生官省符神社を勧請

> 余談ですが、丹生津姫神社の西の方に飯盛山があったかと思います。
那賀郡麻生津中の南朝方の飯盛山城址のある山のことでしょうか。
また紀ノ川を下ると背山と対の妹山も出てきます。二つの山は川をはさんで高圧電線で結ばれています。妹山も飯盛山の変化なのかな。

> 丹生津姫神社
坑道が走っているのは飯降のほうでしょうか。天野でしょうか。

[4030] 神奈備さまへ  PONTA 2003/04/03(Thu) 00:38 [Reply]
 九州ですか???
 九州での活躍はクマソ征伐で、草薙剣はその後にもらって、蝦夷征伐で使ったのでは?
 まぁ、深いお考えがあってのご回答とは思いますが。

[4029] Re[4027][4026]: 稲佐神社  なにがし 2003/04/02(Wed) 22:22 [Reply]
はじめまして、市杵島姫様

> > 飯降となれば、紀の国伊都郡の地名にあります。
> 「いいふり」と読むのですか?今の何村か解れば、教えて下さい。
読みは「イブリ」です。丹生津姫神社のあります、伊都郡かつらぎ町にある地名です。例えばかつらぎ町中飯降とか。

余談ですが、丹生津姫神社の西の方に飯盛山があったかと思います。でもって全く関係ありませんが、狩場明神こと?丹生家信は犬山師です。犬山師とは犬を使って狩をする人です。丹生が犬山師ということではなく、養子に来る前の丹治氏が犬山師だったからです。
ついでに、地元豪族の家信君は空海当時の丹生惣神主で、密教を守護することを約束して、空海のバックアップをします。そんな地元の人々が高野山寺院の行人方となっていき、高野山を運営していきます。だからでしょうか、高野山では丹生津姫だけでなく、狩場明神も大切にお祭りするのは。
ついでのついでに、丹生津姫神社の下には坑道が走っているそうです。いつの時代のものか分かりませんが、鉱山師の臭いがしたりしなかったり。

[4028] 丹生川上神社上社の旧社と水屋神社  神奈備 2003/04/02(Wed) 17:42 [Reply]
三重県飯南郡飯高町大字赤桶の水屋神社へ一度参詣したいと思っています。
春日大社への閼伽桶の神水奉納が復活したとか、丹生川上神社の元地の石が移設されたとか、宮司さんの大学でのご活躍とか、話題の多い神社です。
古社のようですが、式内社ではありません。

所で、丹生川上神社上社の元社の配置と水屋神社の配置とが相当な所まで同じとの話を聞いたことがあります。水屋神社の宮司さんにたまたま会った時に尋ねてみたのですが、そのような話はきいていないとの事でした。

 上社の旧社と水屋神社と両方に参詣された方がおられましたら、その辺のことを教えて下さい。

以下を眺めていてもなかなか分かりませんね。
水屋神社
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mizunoya/annaizu.htm

宮の平遺跡
http://www.kashikoken.jp/from-site/2000/miyanohira.html

[4027] Re[4026]: 稲佐神社  市杵島姫 2003/04/01(Tue) 21:55 [Reply]
> 白岩山、犬山岳、勇猛山が杵島三山、
風土記が、「三山が丑寅から申未に連なる」と言っているのに、この方向に並ぶ山がないため、特定できないと郷土史では言われているらしいです。私が見た限り、稲佐山ー飯盛山ー白石山はこの方向に並んでいましたが、杵島全体から見ると犬山岳の方がメインです。稲佐山には修験者の兵力が集結していたので、「丑寅の嶺が動くと戦いになる」という記述とは一致しますが、勇猛山という説も強いようですね。

>イヌヤマが飯盛山と変じたのでしょうか。
飯盛山は、犬山岳と白石山の中間にある別の峰です。普通の県地図にも載っています。犬山と白石はハイキングコースなのに、飯盛だけは国有林で立ち入り禁止、道はありません。国有林の管理者に頼み込んで一緒に登ってもらったことがありますが、雑木を伐採しないと進めませんでした。頂上に烽火を上げた石組みの遺構が2箇所あり、「飯盛権現」という小さな祠が祀ってありました。頂上からは東に有明海をまたいで熊本の山々が見渡せ、西には武雄をはじめ、佐賀の主要な山々が素晴らしく見渡せました。

> さて、勇猛山はイミョウヤマと訓むようです。勇猛神は五十猛命のことと神社本庁発行の『平成データ』ではしています。
それは、初耳です!なぜ、勇をイと読むのか、前から気になっていましたが、五十(イ)の音に猛と同じ意味の勇の字を重ねた結果かも知れません。飯盛山・稲佐山と並んで、飯族の祖神が杵島山のそれぞれの嶺に祀られているという事になりますね。とても興味深いです。

> 飯降となれば、紀の国伊都郡の地名にあります。
「いいふり」と読むのですか?今の何村か解れば、教えて下さい。

> 武雄市から勇猛山が見えるのかどうかですが、武内宿禰もまた勇猛山に降った神だったのかも。
見渡せます。楽勝だと思います。武雄から伊万里に抜ける旧街道沿い、山内町との境に梅ノ原という所があり、武内神社があります。たしか、武内宿禰の身代わりになって死んだ「いきまねこ」の遺体を埋めたとかいう伝説がある神社でした。この神社のそばにも小さな飯盛山があって、地元の人は「いもうさん」と呼んでいました。

明日から今週いっぱいは台湾へ行ってきます。飯砲山という二つ同じ名前・同じ高さの山が並んでいる所があるのですが、関係ないかナ?

[4026] 稲佐神社  神奈備 [Url] 2003/04/01(Tue) 16:35 [Reply]
> 杵島山の中の稲佐山には、稲佐神社がある

 その稲佐神社だと思います。雄渾と云うか雰囲気のいい神社でした。また行きたくなりました。それから北へ行くと妻山神社があり、遠目に勇猛山が見えているようです。
 白岩山、犬山岳、勇猛山が杵島三山、白岩山のある有明町には山の神と海の神を祀る神社がひしめいている感じの地です。犬山岳の端山に稲佐神社、イヌサンがイナサになったのでしょうかね。イヌヤマが飯盛山と変じたのでしょうか。
 さて、勇猛山はイミョウヤマと訓むようです。勇猛神は五十猛命のことと神社本庁発行の『平成データ』ではしています。
 麁猛神はアラブル神と訓するので、勇猛神はイブルなど?、飯降となれば、紀の国伊都郡の地名にあります。

 武雄市から勇猛山が見えるのかどうかですが、武内宿禰もまた勇猛山に降った神だったのかも。

[4025] Re[4021]: 次の旅行  神奈備 2003/04/01(Tue) 08:11 [Reply]
> 日本武尊が草薙剣を使った場所に行きたいと思っていますが、

福岡県鞍手郡には八剣神社が多く、田川市には白鳥神社が散見されます。『日本書紀』などでは景行天皇の活躍ゾーンは九州となっており、その息子の倭建命も九州で活躍したのかも知れません。
水巻町辺りではなかったかとも。

[4024] Re[4023][4022][4018]: 教えてください  市杵島姫 2003/04/01(Tue) 02:59 [Reply]
> 筑波の県は昔は「紀の国」といっていたと『常陸国風土記』に見えますし、行方の郡の条では建貸間命が部下に「杵島ぶりの歌」を歌わせていますが、この杵島は肥前国の杵島の歌垣での民謡だとか。>市杵島姫さんがご指摘のように、肥前ー紀の国ー常陸とラインがつながっているようですね

茨城県の鹿島と同じ地名が佐賀県の鹿島市ですね。「かしま」は、杵島に由来しているそうです。杵島山は列山で、肥前風土記にも「三つの山が連なる」と記述されています。(真中の山が飯盛山なので、調べましたヨ!)この杵島山全体は、たくさんの古墳群が点在していて、地元の方に弥生土器の欠片が簡単に出る場所を教えてもらった事があります。歌垣山とは、杵島山全体の事を指しているようです。ご指摘の杵島謡りが、ここが発祥の地である事は、風土記の時代には既に肥前と常陸が何らかの繋がりを持っていた事を示唆していると私も思います。
杵島山の中の稲佐山には、稲佐神社があるのですが、これが以前、五十猛命が祀られていると教えていただいた神社ですか?訪ねた時は気が付きませんでしたが、神仏こんこうの大きな神社でした。

佐賀と奈良の地名の類似は沢山ありますが、下記は地図を見比べて解りやすいと思います。
佐賀県天山周辺: 天河川、天川村、天川神社、熊の川、葛の尾、大和町、川内
奈良県吉野周辺: 天ノ川、天川村、天河弁財天、熊野川、葛、大和、河内

佐賀は「あまごがわ、あまかわ村、あまかわ神社」、奈良は「てんのかわ、てんかわ村、てんかわ弁財天」読みます。天山の上宮には弁財天が祀られていますし、あたり一帯の神社には宗像の三女神が祀られています。末娘の市杵嶋姫は、仏教と習合すると、弁財天と呼ばれまが、
天河弁財天は江戸時代には、「吉野にいます宗像の市杵嶋姫」と呼ばれていたそうですから、肥の国から紀の国に遷宮されて来たのでしょう。



[4023] Re[4022][4018]: 教えてください  神奈備 2003/03/30(Sun) 18:17 [Reply]
> 九州の佐賀県周辺と紀伊半島の中央部には同じ地名がたくさん見られます。

これは面白いお話ですね。武内宿禰の子孫の氏族名は基肄郡など有名な話ですし、五十猛命がらみの園部、また丹生程度しか気がつきませんでした。
五十猛命が木を植えはじめたのが基肄郡の荒穂神社、終焉は伊太祁曽神社。ほかに記憶に残っているのは武内宿禰の誕生の地が両方にあること。
 佐賀 武雄市武雄町 武雄神社 和歌山安原 武内神社
 その母親とされる山下影日売を祭神とする神社は佐賀では伊万里神社、和歌山には見あたりませんが、山下さんが多く住んでいる地域は安原の近くにあります。
 また『肥前国風土記:藤津の郡』に紀直らの祖穉日子を派遣して土蜘蛛を誅滅しようとした話や確か国造にしたちょうな話があったような気がします。
 有田焼きを江戸に仲介したのは有田の箕島の商人達でした。ミカン船だけではなかったのです。

> 「常陸の国」
筑波の県は昔は「紀の国」といっていたと『常陸国風土記』に見えますし、行方の郡の条では建貸間命が部下に「杵島ぶりの歌」を歌わせていますが、この杵島は肥前国の杵島の歌垣での民謡だとか。

市杵島姫さんがご指摘のように、肥前ー紀の国ー常陸とラインがつながっているようですね。


神奈備掲示板、青草掲示板 写真掲示板 過去ログ集目次




神奈備ホームに戻る


inserted by FC2 system