神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十五年 六月)お名前の敬称は省略しています。

[4288] 続々「ン」音について  一学生 2003/06/30(Mon) 22:02 [Reply]
生田さん、だんだん過激になってくるようですね。

>ですから「YOUの発言」「Iの意見」などというは、今はふさわしくない。
縄文や弥生遺跡の調査により古代日本と朝鮮半島や中国大陸との交流の実態が明らかになったり、DNAやミトコンドリアDNAの解析によって日本人がどこの人種と近い関係にある・・・などという発見は無視しようというわけですか?
わかりました、でわ残された古代の文献のみで議論しましょう。
となれば話は簡単です。
上代の文献には「ン」が出てきませんね。もちろん万葉集もそうです。
もしも『「ン」の字がない=「ン」のタブー視』なら、上代文献すべてが当てはまります。
その中でも万葉集が質的量的に圧倒的な資料であるのに、これを故意に無視し「神名」だけを取り上げて「タブー視!」だというのは方法論的におかしくはありませんか?
部分にこだわらないで、全体を見てください。

中国と朝鮮の「ン」のつく神々。
「神」!、なにしろ中国の最高神「天帝」「上帝」に「ン」がついています!。
また、三皇五帝を神とするなら「神農」「舜」「黄(ホワン)帝」「帝センギョク(漢字が出ない)」

朝鮮の神話も「ン」だらけです!(「物語韓国史」金両基著・中公新書を部分引用)
天帝の名前が桓因(ファニン)、その子は桓雄(ファヌン)は天符印(チウォンブイン・三種の神器)を持って太伯山(チベクサン)の頂きにあった神壇樹(シンダンス)という神木の下に天降り、そこを神市(シンシ)と名づけた。それで桓雄を桓雄天王(ファヌンチウオヌワン)と呼ぶ。また、熊女(ウンニョオ)との間にできた子が有名な檀君王倹(ダングンワンクウォム)。檀君が隠棲した地が蔵唐京(ジァンダンギョオン)・・・・
こんなところでよろしいでしょうか?

結論
「ン」タブー視は見られないようです。

[4287]  思考方法論こそすべてだ    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/30(Mon) 06:28 [Reply]
 一学生さん、アマカネ(これニューギニア高地石器時代人の挨拶、イミシンにして至便
です)。

 「(生産・流通の)技術が変われば、その社会の政治、芸術、思考形態がガラリと様変
わりして、野蛮から高文化へと地すべり的に移行する」という見識がありますね。
 ですから、ナニかワカランものを追いかけまわすとき、資料をみる視角や考え方こそが
判断の一切を宿命づける……というこころづもりこそがダイジだと思います。
 ですから「YOUの発言」「Iの意見」などというは、今はふさわしくない。

 アイヌ語 taksetp は川のなかのゴロタ石のことです。豊後方言では転げ廻って寝相が
わるいのを「タクゼリまわる」といいます。この二つ、関係あるといえば関係あるし、関
係ないという目でみれば関係ない。
 
 撥音だけでなく、長音、促音、拗音がない日本神名の特徴のピック・アップは、神奈備
が世界初ではないでしょうか? おら、おとといからこの視角抱えてタクゼリまわってい
ます。濁音使用の頻度も万葉集や源氏物語に出る名詞とは比較にならないぐらいに低いの
ではないでしょうか。

 おれは文化とは乞食三日の偏執だと思っています。とかなんとかエサが流れてくる場へ
の凭れかかり傾向が文化です。「これで食ってこれた……それが正義」です。
 「ホットンボー」には促音撥音長音と、三つも異質な文化(!)が詰まっています。こ
んな名前が国境が固定してなかった縄文の神といえましょう。(エンキ式)日本の神名構
成は国家形成作業と密接な関係がある。

 ところで、貴重なお教え(下↓)にはビックリしています。
> それら中国や朝鮮その他の国々には「ン」音のつく神はいくらでもいます。
★ できるだけ多くの実例を教えてください。ンのつく名前だけでなく「神名」そのもの
  を渇望していますので、できるだけ多くズラリ並べて頂けないでしょうか。
  おれ、漢字オンチです。フリガナをつけてくださいネ。
  いちど、ここの板でも朝鮮の神として「ソホリ」を教えてくれたひとが出ましたが、
  別のご詳しいひとが「朝鮮の首都のソウルに似ているからだけの、あてずっぽうな意
  見ではないだろうか」と言ったので、それでケリとなったことがありました。

※ アジスキタカヒコネの adhi-sta(誤記に非ず)はネパール語だと思っています。

[4286] 続ー「ン」音について  一学生 2003/06/29(Sun) 16:43 [Reply]
生田さん、早いレスをありがとうございます。
やっと食い違いのポイントがつかめました。

>お求め“例”は「神名に“ン”がつかない現象ぜんぶ」がそれに該当
>しましょう。
 
>日本の神々はどこの文化に所属しているといえるのか……という大きな
>割り出し作業です。
>いままでは、漠然と「シナ大陸ではなかろうか……」、或いは「朝鮮から
>だろう」ぐらいのものではなかったでしょうか。
生田さんは、日本の神々が『ある文化に「所属」している』ということですね。
僕は、八百万の神を一系統にまとめて論じるのは無理があると考えています。その理由は、日本人は古代から単一の民族であったわけではないからです。一般的には縄文系と弥生系と分けますが、縄文系にしても全部一斉に日本にやってきたのではなく、少なくとも南と北からの時期も異なる2ルートが指摘されています。まして弥生系になれば朝鮮半島、中国大陸その他の地域から種種雑多な民族がなだれ込んだできたことでしょう。一口に朝鮮半島や中国といっても古代は多くの民族のあつまりであり、極端に言えばまたその部族ごとに自分たちの神様がいた可能性があります。それらの神様も一緒に日本に渡来したので、記紀に現れる神様にも当然いろいろな国、民族部族の神様の名前が反映しているはずなんです。
それら中国や朝鮮その他の国々には「ン」音のつく神はいくらでもいます。ですから生田さんのいわれるように、もし『「ン」をタブー視する日本の風習はすでにシナ大陸で興ってい』て、『タブー視とは「神名に“ン”がつかない現象ぜんぶ」』ならば、中国の大部分や朝鮮の国々からの渡来神は記紀の神々に含まれていないことになりますが、この解釈でいいでしょうか?

たしかに種種雑多な民族部族の神名が記紀に書かれると一斉に「ン」音を失っていますが、この原因は表記システムの不備(「ン」を仮名で表す方法が発達していなかった)と考えるのが妥当だと思います。

[4285]  ホットンボー神(カミ)  生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/29(Sun) 05:23 [Reply]
 一学生さん、いろいろと有り難うございます。
 おEメールを期待してましたヨ。
 タブーとは「神聖にしてアンタッチャブル」だけではなく、「忌み・厭離」での
「アンタッチャブル」をも含ませました。これ、個人言語の領域事かもしれませんが
そんときゃ、まっぴら。
 そういうことから、お求め“例”は「神名に“ン”がつかない現象ぜんぶ」がそれに
該当しましょう。
 
 日本の神々はどこの文化に所属しているといえるのか……という大きな割り出し作業です。
 いままでは、漠然と「シナ大陸ではなかろうか……」、或いは「朝鮮からだろう」ぐらいの
ものではなかったでしょうか。

 
 ところでドンどん、『日本の神様読み解き事典』(柏書店)で、ホットンボーなる神様が
あることを見い出しました。「の」だろうけれども「ン」がつくし、「ホトケ」の語源
を考えるうえで貴重な材料だと思われます。
 また、同じページ(468)に「甫登(ほと)神社」の項目があって、ここには
「木根(キネ)神社」を見よ」となっていますが、木根神社は載ってない。
 木根神社とはそもどういう神社ですか? お教え給われかし。

[4284] 「ン」音について  一学生 2003/06/28(Sat) 23:17 [Reply]
生田さん、どうも誤解が解けないようなのでまた書きます。

>山口先生はシナから帰って来られましたか?
>御存知でしたら報せてくださればありがたし。
個人の消息はネット上で明かせません。

>いまの時点では和語読みで「ン」がつく神名はゼロだと言っていいみたいです。
>ヤッタァ〜 ブラボー!!
 
>漢字辞書で「ン」を相談してみた……ら、無かった。「ン」という漢字はないの
>です。このへんにも原因の一端があるのかもしれません。

>「ン」をタブー視する日本の風習はすでにシナ大陸で興っていると思われます。
生田さん、順序が全然逆ですよ!
まず、「神名」は漢字で書かれていますね?
「ン」にあたる漢字が無いので、「神名」に「ン」が出てこないのは当然じゃないでしょうか?
また、ちょっと聞けば分かるように、中国語は「チン」「カン」「バン」など「ン」だらけです。
たとえば中国語の「感」はカンと読みますが、「ン」をタブー視したら、これが「カ」になる?とか、そういうことですか?
すみませんけれど、ンの「タブー視」の実例を教えてください。

[4283]  勝利だ カンパァ〜〜イ    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/28(Sat) 15:52 [Reply]
 『平成CD』とはドンどん記述4282 下部の赤いサイトのことやろか?
 見てもナンのことやらわかりまへん。多くの質問したらまた叱られるかな?

 貪欲神を「ドンヨク」と読むのだったら、これは漢字音であって、和訓(?和読
み)ではないんですがねぇ〜。

 おれの貧弱な堆積には「ウガジン」がひっかかってきましたが、これも神をジン
と読んだ漢字音みたい。宇賀神は「インド系 → 仏教」の色あいの強い神様みたい。

> ドンがついている神は上記のみが『平成CD』から出てきます。
★ 「ドン」ではなく「ン」の一音です。

 いまの時点では和語読みで「ン」がつく神名はゼロだと言っていいみたいです。
 ヤッタァ〜 ブラボー!! 

 百越とは上海〜ベトナムの海岸線を拠点にした「くに」だと思います。するとベ
トナム語には Ng などの語頭音や Nh の表記がみられることも、「ン」周辺を考える
うえで重要な資料となるかと……。
 「ン」をタブー視する日本の風習はすでにシナ大陸で興っていると思われます。

 漢字辞書で「ン」を相談してみた……ら、無かった。「ン」という漢字はないの
です。このへんにも原因の一端があるのかもしれません。

 西洋語の *jin には「神」のほか「宗教・悪魔」の意味もあります。意転ですな。

 「かんべ」と「神戸」がごちゃごちゃになっていましたが、これなども紀記が書
かれた8世紀からかなり経過して「かんべ」という音に落ち着いた……とも考えら
れるのかな?
 ドンどんは kamnabi とシャレちょったよな。

 日本人は長音を嫌った。かなりテテテキに嫌っている。にも関わらず「こうのさ
ん」がいる。渤海国あたりから金を運んだ今野さん、昆野さんあたりが、あんがい
河野さんに化けこんでいやしなかっただろうか。

 ドンどん、次は「長音」を持つ神名です。
 語頭に「おお」はよくみられるのですが、「くう、こう、すう、そう、つう、と
う、のう、ふう、ほう、むう、もう、よう、ろう」などの音を持つ神名はあります
か? 「無い、or 僅少」なら、またブラボーだよ。

とまれ、今夜はカンパァ〜〜イ! やったぜ、神奈備バンザイ!
 

[4282] Re[4281]:  貪欲神  神奈備 2003/06/28(Sat) 09:27 [Reply]
>  和人よみの神名に「ン」が一つも遣われてない……が判ったら、こりゃいずれにせよ、大革命・大エポックです。また「ン」がつく神名があれば、その神さまは別扱いにしていいかどうかの視野も検討されて然るべし。

ドンがついている神は上記のみが『平成CD』から出てきます。
静岡県袋井市国本 冨士浅間宮摂社斎宮司社「貧欲神、障礙神、飢■神」
万葉集などで、現在なら「ん」となる所は「む」が使われているようで、
3978  よしはあらむそ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ
原文  餘志播安良武曽 霍公鳥 来鳴牟都奇尓 伊都之加母 波夜久奈里那牟
http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html

牟や武を「む」と口語でやっていたのか、「ん」とやっていたのか、どこで判るん?
神産巣日は「かむむすひ」の訓ですが、実際に口にどう出したのか。

[4281]  ツキ呼び込みのドンじゃらホイ    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/28(Sat) 07:52 [Reply]
 訂正します。山口仲子(誤) → 山口仲美(正)。「べう」(誤) → 「びよ」。
 
 一学生さん、ご指摘有り難うございます。山口先生はシナから帰って来られましたか?
御存知でしたら報せてくださればありがたし。

 「ンのツキ」の「ツキ」にはネパール語 chuk(幸運)という意味を懸け言葉させました。

 やっぱ、「ン」はタブーの音だと置いてみるのがいいようで……。そうすると、「多くの
オカシな用法」が現代に復活してくるヨスガとになりましょう。

 和人よみの神名に「ン」が一つも遣われてない……が判ったら、こりゃいずれにせよ、大
革命・大エポックです。また「ン」がつく神名があれば、その神さまは別扱いにしていいか
どうかの視野も検討されて然るべし。ドンどんの出番ぞな。

[4280] Re[4276]:  lu(竜)と lon(竜)    ユアン [Mail] 2003/06/28(Sat) 00:28 [Reply]
>  語頭の r 音 l 音が言えなかった朝鮮では urφ:、
>  かなりのとこで、竜は ur(水と共通)とか ウラになっちょるばい、コリャ。

ウラ?吉備津神社の温羅(うら…この字であってたっけ?)
を連想します。
ちょっと気になる連想です。

二連カキコすみません

[4279] ドンドンガマ  ユアン [Mail] 2003/06/28(Sat) 00:23 [Reply]
>ラ行語頭発音が苦手な氏族は、『ろ→ど』と置き換えた?か。

http://gpzagogo.s8.xrea.com/londongama.html
上のサイトでは沖縄のドンドンガマと言う地名は
ロンドンガマの転訛ではないかと述べてあります。
漂流して洞穴に住みついた四人のロンドン人にちなんで
ロンドンガマといっていたのが、のちにドンドンガマと
呼ばれるようになったそうなんですけど。
どうなんでしょう。

[4278] Re[4271]:  尻とり遊び 「ン」のツキ  一学生 2003/06/28(Sat) 00:15 [Reply]
すみませーん、慣れないので書き込み失敗しました。
下のは削除してもらえないでしょうか?(ほんとすいません!)

お初です!
ちょっと気になる話題なのでコメントを少し・・・

>紀記が書かれた近畿王朝(こんな表現いいのかな?)当時、文化指導
>層は「ン・ん』が言えなかった、また文字もなかった……みたいな観点
>が紹介されています。
これは奈良時代のことですよね。
当時は「大学寮」もあり中国人もたくさん来ていたし、日本人(特に、文化指導者層!)は漢文を呉音または漢音で学んでいました。中国語の「ん」にあたる音(語尾のnやng)も当然発音されていたと考えられます。ですから「ん」が言えなかった、なんてことはないでしょう。ただ、「ん」を仮名で書く方法が発達していなかっただけです。
山口さんの著書も一応確かめましたが、「ん」を言えなかったとはどこにも書いてありません。
p37 『平安時代では、撥音表記が確定していません。撥音に該当する部分を表記しなかったり、「む」や「う」で表記したりしています。ですから、「ちう」「こうこう」「ちりう」の「う」が、現在の「ん」の音に近い音を表していた可能性が大きいのです。』

著書名と著者名を明記してあるので、山口先生の名誉のために少し意見を書きました。

[4276]  lu(竜)と lon(竜)    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/27(Fri) 19:56 [Reply]
 福島さん、オシタァ〜 アッ!

 蒙古語とネパール語で lu が竜ですばい。シナが lon(竜)ですばってん、
氏族がゴヨゴヨ割拠していた時代では、シナ大陸が全面的に lu じゃったとは
限らんやろうと、おれ思いますばい。
 
 語頭の r 音 l 音が言えなかった朝鮮では urφ:、
 かなりのとこで、竜は ur(水と共通)とか ウラになっちょるばい、コリャ。

[4275] どんどん、か゛…  福島雅彦 [Mail] [Url] 2003/06/27(Fri) 16:47 [Reply]
 河川の二股とは、聞き捨て成りません。
九州弁?で淡水魚の鯊科の魚に『ドンコ・ドンポ』と言うのが居ます。
九州弁?で『角の饂飩屋⇒かろのうろんや』と。ラ行語頭発音が苦手な氏族は、『ろ→ど』と置き換えた?か。これを『ドンコ・ドンポ』に代入すると『龍子・龍甫』となる。
件の魚は、顔つきは龍、性質は獰猛で正しく『龍の子・龍の成り始め(甫=肇=始=創)』。九州弁の格助詞「…の」=「ン」を代入すると『どんどん=ろんろん⇒龍の龍の』と。稲作民の雨乞い、水の神、から、河川の流れを『龍』に擬えたか?。飛躍し過ぎでしょうか。尚、『ドンコ・ドンポ⇒龍子・龍甫』は、福島雅彦説です。

[4274] Re[4273][4269]:  サン・グリーン [Url] 2003/06/27(Fri) 15:17 [Reply]
> > もともと川の合流地点のことを「どんどん」といっていたそうです。・・・
> > 雅楽の楽譜では、太鼓の音は百と表記され、「どう」と読みます。
> > フエフキ川と言う川に「百々」とかいて「どうどう」とよむ地名があります。
> な〜るほど!
>
私の知っている方で「百々」と書いて「どど」さんという苗字の人がいます。
不思議な読み方だなぁ〜と思っていたのですが、みなさまのおかげで納得しました。

[4273] Re[4269]:  習志野の 2003/06/27(Fri) 11:07 [Reply]
> もともと川の合流地点のことを「どんどん」といっていたそうです。・・・
> 雅楽の楽譜では、太鼓の音は百と表記され、「どう」と読みます。
> フエフキ川と言う川に「百々」とかいて「どうどう」とよむ地名があります。
な〜るほど!

  今の形の太鼓はいつごろできたんでしょうね?
 アメノウズメ命は、太鼓がない時代だったので、桶を裏返してドンドン踏み鳴らしていたり


[4272]  江南・百越の神  生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/27(Fri) 08:37 [Reply]
 ドンさん、ジンム、スイゼイ、アンネイ‥‥などの漢字音での神名ではなく
ハツクニシラス‥‥などの和音の神名ですので安マカ寧。

 これを辿ると、江南・百越の数氏族が、軍隊〜社会組織をそのまま日本列島に
もちこんできていて、日本の神さまの主流は、彼らのウブスナ神……が浮上するの
ではないでしょうか?
 なお、ドンその他は http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html でもドンジャらホイ。

[4271]  尻とり遊び 「ン」のツキ    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/27(Fri) 08:16 [Reply]
 オノマトペア(擬音擬態語)研究では有名な埼玉大学の山口仲子さん
の著書に『犬は「べう」とないていた』があります。

 紀記が書かれた近畿王朝(こんな表現いいのかな?)当時、文化指導
層は「ン・ん』が言えなかった、また文字もなかった……みたいな観点
が紹介されています。
 鎌倉期に入ってやっとこさで「ン」がでます。
 ひとくちに「日本人」といっても、いろんな発音ぐせをもったいろん
な氏族群がいたにちがいありません。

 沖縄の古い地名姓名にはグシケンやヘンザン(平安山)、知念、宜野
湾などのように「ン」がつきます。「ン」がついたら「古い」と思って
いて差し支えないようです。
 しかし、もし、途中でぜんいんが「ン」といえなくなったのなら、こ
のような固有名詞は継承されなかったはずです。
 しかし、マーカイメンソーチ、グワッチイサビタンのように古い挨拶
語にはちゃんと「ン」がはいっています。

 日本の天皇は「ジンム」から始まります。「ン」が忌避されたのは穢
い音という観点からではなく、「神聖」意識からかもしれません。
 いや、神聖も厭離も一つの概念(タブー)に到達するはずです。

 『青い山脈』では石坂洋次郎は、易者に主人公の「キン子」をつかま
えさせて「古来『ン』がつくのはキツネ・コンコン、犬ワンワンの類い
だから、名前が宜しくない」と言わせています。

 ところでドンさん、「ン」がつく日本の神名は何柱ほどおわすのカ
ネ。折いってお教えお導き賜りますようお願いもうしあげます。

 馬の鳴き声もヒンヒンではなかったのです。なんと鳴いたのかを紹介
しようと、『犬はべうと鳴いていた』の本を探したのですが、例によっ
て魔の4平米空間に紛失中です。
 ネパールでも馬は「hin hin-」とイナナいていますので、日本語の流
れの中での「ン」の喪失(?)は、一時的な現象のような気もします。

 小生は「サンスクリット語のなかの『訳語』こそが、実はたいへんな
マヤカシものだ」と思っています。サンスクリット語のマイトレーヤー
がミロクの語源だなどと、ボーズ(知識)たちがまことしやかに宣りま
くっています。だが、これを含めて数百の『訳語』が誤り……くさい。
 その訳語がワンサと書いてある『暮らしの中の仏教用語』も目下紛失
中で、『大黒様ものがたり』もド紛れています。

[4270] ドンフルコ  神奈備 2003/06/27(Fri) 06:55 [Reply]
 ユアンさん 面白いお話ですね。
 水量豊かな滝の音や水田に水が行き渡っていく様ををドンドと表現しているようです。

> 雅楽の楽譜では、太鼓の音は百と表記され、「どう」と読みます。
> 桃太郎の桃は「どんぶらこ」と流れてきました。

百 は もも です。

桃尾の滝と言う滝が布留川上流にありますが、この桃もドンに通じていたのかも。

[4269] 鳴る瀬の系譜  ユアン [Mail] 2003/06/26(Thu) 21:05 [Reply]
>てつさん
おひさしぶりです。「どんどん」というのは擬音語なのですが、
それだけでもないようです。
もともと川の合流地点のことを「どんどん」といっていたそうです。
江刺の田植え歌に「お台所と川の瀬は いつもどんどと鳴るが良い」
という歌詞があります。
なぜ水の流れる音が「ドンドン」と表現されるのか。
「どんどん」という音から連想されるのは太鼓の音です。
雅楽の楽譜では、太鼓の音は百と表記され、「どう」と読みます。
フエフキ川と言う川に「百々」とかいて「どうどう」とよむ地名があります。
太鼓は雨乞いに必要なモノで、そこに水とおとの類感呪術が見出せると思います。
以上が須藤先生の講義の概要ですが、私的には水と音との関連性について
もうすこしつっこんだ説明がほしいと思うところです。
なので自分なりにいろいろと考えてみようとおもいます。

桃太郎の桃は「どんぶらこ」と流れてきました。
水が「ドンドン」と流れるというのは、昔の人にとっては結構普通の
感覚だったのかもしれないですね。

[4268] Re[4267]: ?  神奈備 2003/06/26(Thu) 13:17 [Reply]
 『広辞苑』によれば、菖蒲(あやめ)はショウブの古語のようです。あやめは平安期の一時期、蕾を持ってのびた茎を見立てて、蛇の隠語でもあったようで、いづれにしても神祭り、祝儀ごとに活用された草です。
 美しい花を咲かせる今頃が見頃ですね。
 奈良市疋田町の三輪神社の近くに菖蒲池神社が菖蒲池の綾女橋の前の堤に鎮座、この綾女(あやめ)神は弁才天(市杵島姫命)で、池によく祭られている水神のようです。

 石見の物部神社の境外摂社に漢女神社(からめ)があり、たく幡千千姫命、市杵嶋姫命、抓津姫命とやはり市杵嶋姫命が祭られています上に、漢織は綾織で織姫で、たく幡千千姫命が祭られているのは、饒速日命の母神ともされているので、わからないわけではありません。
 抓津姫命は五十猛命の妹神の一柱で、植樹神話はありますが、織物についてはよく分かりません。

 来週、石見の物部神社へチョイト詣でてこようと思っています。漢女神社はどこにあるのかどなたかご存じの方は教えて下さい。


> 波浪が岩を打つ音は、確かに「ドーン…ドーン…」と、鳴ります。
ベートーベンですね。

[4267]  習志野のテツ 2003/06/26(Thu) 08:16 [Reply]
イラクにアメリカが攻め込んだ時、女性兵士「ジェシカ」さんが、戦闘に巻き込まれ、
負傷して捕虜になった。「ジェシカ」さんを米軍が奪還、あの戦争の美談になりました。
ところが、これが米軍の情報操作=やらせ、らしい。
前回のイラクのクウェート侵攻時には、黒い油にまみれ飛べなくなった水鳥を使って、
情報操作が行われました。
「DNN」ニュースも、自分の出版した本を売る為の、稚拙な操作のようです。

ユアンさん、お久しぶり。
> 水は「ドンドン」と流れるものである。
この「ドンドン」は擬音?か、擬態?か、と疑問が生じました。たとえばですが、
「魚がドンドン釣れる」といった表現も可能です。これは必ずしも「音」そのもの
ではなく、途切れなく釣れる「状態」を云っているのではないでしょうか。
*お断り:「國學院大学教授、須藤豊彦先生の学説」については、全く無知です。

水と云うか、波浪が岩を打つ音は、確かに「ドーン…ドーン…」と、鳴ります。
子供のころ、初めてこの音を聴いたとき、とても怖かった思い出があります。
千葉県の外房(太平洋側、九十九里浜)に成東と云う町があります。
ヤマトタケルが来た時、波涛(はとう)の鳴る音が大きかったので、
鳴る波涛→鳴る涛(ナルトウ)→成東(ナルトウ)になった。との伝説があります。

[4266] 水と雷、雷と花火  ユアン [Mail] 2003/06/25(Wed) 01:07 [Reply]
國學院大学教授、須藤豊彦先生の学説にそってお話します。
水は「ドンドン」と流れるものである。
水と太鼓は深い関係があった。
よって雨乞いには太鼓が使われる。
それは雷の音を意識した類感呪術だと思われる。
そして花火も雨乞いの意味があった。
そのおとによって水を呼ぼうと欲するものであった。

青草話でしたでしょうか?
たいへんお目汚しでした。

[4265] Re[4264]: いへいへ (^^;ゞ  どこでも素浪人 2003/06/24(Tue) 22:51 [Reply]
 私は他の人の発言を抑えたり制限したりするのが本意ではありませんよ。誤解を生まないように、もっと分かり易く言葉をつくして頂きたいナ、と願っているのです。その意味で、無視したり自制したりするよりも、少しずつ受け応えを展開していくほうが有意義ではないでしょうか?
 それが掲示板の楽しみだと思うのです。一方的な宣伝でしたら各自HPのサイトで十分でしょう。僭越ながら、みなさんとテーブルを囲んでいるつもりですから、疑問・質問・反論・叱正・補足に阿諛追従(これはいらんか(^^)?)、宜しくご教導下さい。m(__)m

[4264]  「日本人の原点」なぁ〜〜んち云うたら カッコいいもんな    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/24(Tue) 19:40 [Reply]
 青草発言するぐらいなら。ナァ〜〜んも云わんほうがヨカとばい。

[4263] Re[4262]: 日本人の原点が見えた  いづもの素浪人 2003/06/24(Tue) 17:52 [Reply]
>なおいくら発言しても証明はと言われかねますので・・・

難癖をつけるつもりは毛頭ないのですが、疑問に感じたことを述べさせていただきます。証明を強要するつもりもありませんので、あしからず。 m(__)m

>夜須町東小田から出た人骨のDNNの鑑定の発表をされた
>九州大学の人文学部中橋氏は朝鮮人と同じだと指摘していました。

これは九州大学自然人類学の中橋孝博教授の発言と受けとっていいのですね?はっきりと『朝鮮人と同じだ』と表現されたのでしょうか?
というのは、教授によると、『先年には朝鮮半島由来の支石墓(福岡県新町遺跡)から、縄文的形質と抜歯風習を持つ人骨が出土するなど、新たな疑問も投げかけられている』【註:半島形式の墓に縄文的な人が葬られていたということ】という記事もありまして、(学者の良心として)とても慎重な姿勢をお持ちのようですから、気になりました。

私は古代の人的交流を否定するつもりはありません。しかし、古代史上で安易に『日本人』とか『朝鮮人』とか表現すると誤解の元になるのではないかと思っています。古代の日本列島人と現代日本人、古代の朝鮮半島人と現代朝鮮人(中国も同様に)、それぞれがどのうような関係にあるか研究しつつあるのが現状ではないでしょうか。

>鳥取県の遺跡上青谷遺跡の人骨のDNNの結果弥生中期、
>朝鮮人のものと同じと発表とありました。
>母系のものでDNNの男のものは混じっているとあります。

えらい粗雑な?!(青草に行こうよ)(^^)/
 恣意的に脚色され過ぎた情報がひとり歩きしないように・・・と書くと大人気無いでしょうか?(^^) 私が今日の読売新聞の記事から読み取った内容を、抜粋もまぜて書き込んで見ます。記事自体は短いものですので、可能なら直接ご覧下さい。

 読売新聞6月24日関西版
 『鳥取・青谷上寺地遺跡の弥生人の脳−DNA抽出できず』

鳥取県青谷上寺地遺跡から出土した弥生人の脳などを解析の件で、
鳥取大学医学部の井上貴央教授が中間報告した内容を、
鳥取県教育委員会が発表したもので、その概略は、

(1)結果として、脳組織から核DNAを抽出できなかった。
(2)脳組織には、核かミトコンドリアかのDNAが含まれていることは確認できた。
(3)しかし、サンプルが少量で抽出できず、塩基配列の決定には至らなかった。
  【これらは脳組織のお話し。核のDNAとミトコンドリアのDNAと区別が必要ということ。】

(4)四点の人骨からはミトコンドリアDNAの塩基配列が判明した。
(5)いずれも母系が異なり、少なくとも四つの母系が存在した。
  【四点の人骨は母方の系統がそれぞれ別。ミトコンドリアDNAでは父方の系統は判らないということ。】

(6)『これまでに報告されている古人骨のデータと比較した結果、
   佐賀県の詫田西分遺跡(弥生中期)から出土した人骨のほか、
   現代人では本州や朝鮮半島の人と同じグループとわかった。』
  【この記事では簡素ながらも慎重に表現されている。】

(7)記事末には、国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授の談話として、
  『青谷上寺地遺跡より前の時代や他の遺跡の人骨から抽出されたDNAと比較すれば、
   日本人のルーツを解明する資料になるのでは』と結んでいる。
  【まだ現段階では青谷上寺地遺跡の人骨で日本人のルーツを解明するに至らないということ。】

(8)だから鳥取の県教委では、脳組織DNAの解析について『「別の方法を検討したい」としている』。
  【まだまだ最終報告ではないのです。】

 私が読んだ記事は以上のような内容なのですが、新聞社が異なればニュース内容も違うのでしょうね。『上青谷遺跡』と『青谷上寺地遺跡』、『DNN』と『DNA』などの語句も異なるようなので、同じニュースなのか自信はありませんが・・・(^^;)。
 DNAにしても、細胞内の核の中にあったDNAと、細胞内のミトコンドリアの中にあったDNAを分けて認識しなければなりません。ミトコンドリアDNAは母系からのみ受け継ぐということです。だからこそ、ミトコンドリア・イブなんてお話しが出てくるのではあ〜りませんか。

>母系のものでDNNの男のものは混じっているとあります。

 これでは、乱暴な表現だと受取りかねませんよ。

>朝鮮人のものと同じと発表とありました。

 この場合の『朝鮮人』とは誰をさして言っているのでしょうか? 弥生時代中期の朝鮮半島でいうと箕氏朝鮮や衛氏朝鮮、それとも高句麗? 三韓はまだですよね? 大陸の前漢や新、後漢などとの関係で半島情勢は大変な時代だったのでしょう? 比較した古人骨の出土地方でも判明すれば、納得しやすいのですが。

 私の読んだ記事からでは、古人骨では佐賀県の弥生中期の詫田西分遺跡出土の人骨と、現代人では本州や朝鮮半島の人骨と同じグループ、としか表現されていません。
 どこにも『朝鮮人のものと同じ』とは書いてありませんでした。 九州内の福岡や長崎、大分県の古人骨とはどうだったのでしょうかね? あるいは本州の山口、島根県の古人骨や、近畿圏の古人骨とは? 朝鮮半島にしても地方色があると思うのですが漠然とした表現です。

 『同じ』という言葉は、比較する要素や条件によってグループの輪が大きくにも小さくにもなりますヨ。新聞記事ではそこまで詳細な報告はできませんので大概の範囲で収めてありますが、それを逆手に取って恣意的に拡大解釈するには便利でもあります。でも、そういう話しの展開は粗雑になって破綻してしまいますネ。

 私自身は現代同様に古代においても国際間の交流は多彩であったろうと思っています。しかし、国内の都合のみならず、相手国・関係国の歴史の変遷をも丁寧に調べて発言しなければ、傲慢な侮辱に繋がりかねないとも思います。たとえ悪意はなくとも、『○○同祖論』などの展開には「贔屓の引き倒し」現象があるので気をつけたいものです。不毛な摩擦より有意義な協調を望んでいます。(重ねて書きますけど、なじるつもりではありませんので誤解なく。)
 それから、あのURLでは貴サイトへ飛ばないのですが???

[4262] 日本人の原点が見えた  夜須町情報クラブ [Mail] [Url] 2003/06/24(Tue) 11:48 [Reply]
出雲の皆さんへ。
今日は出雲と朝倉郡夜須町にとっては朝一番のビックニュースが新聞の朝刊に掲載されています。それは日本人が最も知りたかった事、いったい何者かです。
鳥取県の遺跡上青谷遺跡の人骨のDNNの結果弥生中期、朝鮮人のものと同じと発表とありました。母系のものでDNNの男のものは混じっているとあります。
私があなた方に伝えたいのは学会にとっても重要な証明となる事受け合いです。
それは夜須町の遺跡からでるモノと同じ時期が町全体に広がっている事で、出雲と同じと述べておきましょう。
最近出雲大社の柱下から祭祀の斧が出ています、夜須町の遺跡邪馬台国の王の居た筑紫城の付近の柱下からもたくさんの地鎮祭の跡、と見られるミニチュア土器が発見されており、古事記に書かれた裏付けとなります。話は人骨に戻り、夜須町東小田から出た人骨のDNNの鑑定の発表をされた九州大学の人文学部中橋氏は朝鮮人と同じだと指摘していました。夜須町からはこの時期を示す弥生の遺物は全体から
出ますし、古代出雲文字も発見しております。なおいくら発言しても証明はと言われかねますので、詳しくご覧になりたい方は書店かない時は梓書院までお問い合わせください。急がれる方は094642.2055児島宮まで。写真入で詳しく邪馬台国を発表
平山大神とはウガヤ王の神名と皆さんの知らない事ばかりで、これまでの邪馬台国論議は全然関係がなく、発表後の古い論議は止めて、事実だけの日本の原点にたどり着きましょう。考古学会の方学者さんへ。
インタネットでは中国古代も載せてありますので、見られるといいでしょう。
紀伊国屋書店福岡本店博多でお問い合わせも是非どうぞ。本の題名豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ。

[4261] Re[4260]: 今日の新聞から・・・。  神奈備 2003/06/23(Mon) 22:37 [Reply]
> 奈良・大柳生町にあります夜支布山口神社の本殿の鍵が壊され、木製の御神体像が盗まれたそうです。
> ぶっそうな世の中です。。。

ひふみさん お知らせありがとうございます。
最近参詣したばっかりです。アップいたしておきました。
盗難のニュースは下記にも出ています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030623-00000005-mai-l29
片や巨額お賽銭、普通につきあえばいいのにね。

[4260] 今日の新聞から・・・。  ひふみ 2003/06/23(Mon) 21:56 [Reply]
奈良・大柳生町にあります夜支布山口神社の本殿の鍵が壊され、木製の御神体像が盗まれたそうです。
ぶっそうな世の中です。。。

[4259]  花 と 竜    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/23(Mon) 12:32 [Reply]
 kokoro さんがカミナリと水の接近に注目されたは、けだし慧眼というべけれんや。
 あっしゃ「カニシ(金属精錬士)の強執」という概念でまとめてみました、
 でも、なぜ、カミナリと竜が入れ替わるのかが、いまだにわかりません。
 やっぱ、現代を迎えるまでにカミナリはカミナリで、竜は竜で独自に概念発達が
あったのでしょう。

 この疑問について、いま、ひとつだけ思い出すのは大野晋教授の記述です。
 高い山からみると、インドのカミナリは巨大な赤竜が大地を一瞬のうちに這い
まわるような景観だそうです。

 われわれ感覚では竜はへびの親分みたいですが、竜の始源概念はカミナリではなか
ったのでしょうか。金属精錬士からみて、異質だからこそ ya(神)mat(母・大地……
へび)を殺す。
 だからこそ、カミナリ(=竜)は水(いのち)を支配するし、人間がたのんだら雨を
降らしてくれる。

 湯殿山のように山頂に湧き出る水(いのち・神)は、列島形成の造山運動にモロに
関わっているのではないだろうか。
 数百キロ離れている沖縄の水脈が、地底でつながっていることを見抜いた力は、現代
人にはほとんど失われています。それが古代人にはあった。常識だったのではなかっただ
ろうか。

 30年前あたりに言いだされたこと……「蕗の葉と梅と卵の白味と清酒をミックスさせた
ものを、一度だけ飲むと、その後一生涯脳いっ血(血管破裂)にかからない……」を、見抜い
た力は、物質文明だけの意識ではない。

 それをすぐに神意識と結びつける処理‥‥、100年前やったことなら‥‥。

[4258] Re[4257]: 「雷神について」 水辺と山上  神奈備 2003/06/22(Sun) 11:58 [Reply]

>  『式内社調査報告』によれば、「在波多郷稲淵山々上」という文章があるのは、『五郡神社記』となっています。
>
『式内社調査報告』には気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社跡に比定の二本の木々の写真がありますね。

ところで、『五郡神社記』とは文安三年(1446年)の『和州五郡神社神名帳大略注解巻四補闕』の省略表示ですが、また『大略注解』とも略表示されます。

[4257] 「雷神について」 水辺と山上  kokoro [Mail] 2003/06/21(Sat) 13:10 [Reply]
 伏せられた桶と雷神の伝承の検討から、死と籠もり、籠もりと再生、水辺における雷神との神婚、と話を続けてまいりました。そうしてこの、水辺における雷神との神婚が、神祇祭祀に現れた例として、対馬の雷命神社の例が報告されたわけです。

 山上の神と水辺の神が神婚で結びついている祭祀は、対馬における天道祭祀の場合もそうです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 上県の佐護の天道山は男嶽と雌嶽の両峰があり、南を雄嶽、北を雌嶽と称し、雄嶽の頂上に天道菩薩が鎮まっているという。また天道女躰宮(女房神)が川縁にあり、日輪を孕んだ女神の像を祀っている。<中略>
 天道祭祀の形式は天道童子とその母神をセットにしていたことが確認される。<中略>天道祭祀(聖地)は山上(山中)にある例と水辺にある例が多いが、山上は御子神の祀、水辺は母神の祀と考えて誤りないと思う。
・永留久恵氏著『海神と天神』P139〜141

 ヤクマ(ヤクマ祭り)と称する民俗行事は各地にあった。<中略>
 天道地には山上にある例(天道山)と川縁にある例が多く、ヤクマ行事が行われるのはほとんど川縁である。前記の志多留の氏神も、川淵に臨んだ岩場に鎮座していたもので、そこは社殿が造営される以前には自然の磐座であったと推察される。そしてこの川淵に河童駒引の伝説があり、河童を捕えて詫び状を取ったという家が氏神の古い縁起と関係をもつ古族であることから、この淵が本来水神の祭祀地であったのではないかと想像される。
 このようなヤクマ行事と河童が馬を捕る伝説が各地にある。舟志(上対馬町)ではヤクマ行事をした淵をガッパ淵と称し、形の整った河童駒引伝説があり、また仁位では、七淵の一つで天道地にある祭場をヤクマゴウと称し、これに河童の伝説があり、曾(豊玉町)では、ヤクマゴウの別名を馬捕り淵というが、津和原(上対馬町)にも馬捕淵がある。ガッパ淵と称する淵は島内至るところにあるが、祭祀とは無縁な所も多く、ヤクマ行事と関係した所はたいていヤクマ淵、あるいはヤクマゴウという。ゴウは川(江)である。
・『同書』P144

 天道のある村で、シゲ(※対馬の聖地でその名の通り、樹木の茂った禁足地ちとなっているケースが多い)はあっても天道山という名称のないところが少なくない。しかしそこには嶽之神のあることが多い。大嶽・白嶽など固有名詞をもった山もあり、単に嶽之神と称する例が各地にある。現在では祭祀も廃れ、祭日も不明になった所が多いが、旧記で判明するかぎり、霜月の西の日または霜月十六日とした例が多く、その儀礼も冬至祭りとみられることが多い。嶽の神は本来天道信仰の一環だったに違いない。
 この山上の嶽の神と対照的に水辺の聖地があったのも、ヤクマゴウの名が示す通り、天道祭祀の一環であった。このように七茂・七嶽・七淵という聖地がいずれも天道信仰の類型であることを知ったが、同時に、嶽之神は御子神、水辺の神は母神という祭祀の形態が、天道信仰の基本形式であったことを知るのである。
・『同書』P144〜145

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 ここにみられる水辺の女神と、それと対になる山上の社というのは、私に宇須多岐比売命神社のことを強く想起させます。というのは、『類聚三代格』貞観16年6月の太政官符には、宇須多岐比売神社が臼瀧≠ニ表記されています。当社は、滝を祭祀する自然信仰の神社ではなかったでしょうか。
 宇須多岐比売命神社の石段がはじまる入り口で、道をわたって反対側に行き、そこから飛鳥川の流れをのぞき込むと、岩盤がえぐれて臼状になった滝があります。この臼滝が、当社における最初の御神体だったとはよく指摘をうけることです(『日本の古代』7、文庫版でP101の箇所など)。現在、この滝には農業用水路の取水口ができていたりして、祭祀されているようすはありません。しかし、付近の飛鳥川で岩盤が露出している箇所はここだけであり、飛鳥川上≠ナ臼瀧≠さがすとなるとここしかないように思われます。
 しかしながら、その一方で、宇須多岐比売命神社は神体山を祭った神社でもあります。当社は本殿なく、拝殿から背後の山を拝する形式の神社であるわけです。泊瀬女さんの報告に「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上の三つの祠が」とありますが、神体山を祀った神社には、山頂まで道が通じている場合が多く、そこに小さな社があるのもパターンなので、山上にある祠が山の宮で、宇須多岐比売命神社が里の宮である感じがします。
 してみると、水辺に女神がおり、それと一対になった山嶽に御子神が祭られているという対馬の天道祭祀のパターンを想起させられるのであり、この場合、もしもこの山上にあるという神社が氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社だったとすれば、女神と神婚した雷神と、その子供であるくず族の祖神(=石押分之子)の二座を祀ったのではないか、などと妄想してしまいます。特に、上記の引用にある「川淵に臨んだ岩場に鎮座していたもので、そこは社殿が造営される以前には自然の磐座であったと推察される。」という志多留の氏神のありようは、臼滝のことをよく思わしめるものがあります。

 神奈備先生のおっしゃられた、吉野町入野の上宮神社と国樔神社(下宮)は、祭祀面で対になっていると考えて間違えないでしょう。両社は共に石穗押別命を祀るそうですが、下宮は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのことです。この下宮は現在、遷座され上宮に合祀されているそうですが、遷座の原因は津風呂ダム(と言うのかどうか未確認)による水没だったように思います。地図で見ると入野は、ダム湖の上流端付近にあり、したがって、遷座した下宮は、比較的水辺に近くになければ水没の恐れはなかったと思われます。とすればあるいは、ここに登場する下宮の祭神とは、女神というより母神ではなかったでしょうか。その場合、上宮に祀られる石穗押別命は、その御子神であった可能性が高いです。ここにもかって、水辺における雷神との神婚という伝承が、あったかもしれません。

 いずれにせよ、雷神が水辺で女神と神婚するモチーフの雷命神社の伝承や、日神、冬至の日の祭礼、河童の駒引き等を勘案すると、私はくず族の信仰や「落ちてきた雷」型の伝承の遠い源流が、倭人によるものらしき対馬のこれらの祭祀にあるように感じるのです。まぁ、妄想ですね。


> それにしては『大略注解』に「在波多郷稲淵山々上」とあることを無視して一言も触れていないのは気にかかる論文です。眉に汗でもかいているのかな。

 気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社の鎮座地が、明日香村大字雷字初王子であるというのは、非常に多くの書物でそうなっているようです。それらの書物のなかには、ただの二次資料ではなく、著者によるすぐれた考証もなされて、現在でも権威があるとされる『大日本地名辞書』『神名帳考証』などを含みます。むしろ当社の鎮座地は、大字雷であったとするのが一般的な見解なのです。
 今の私は、稲淵山々上$烽ノ気持ちが傾いているのですが、それでも大字雷説が有力な説であるのに変わりはありません。たとえば、雷岡はあきらかに祭祀遺跡であり、有名な伝承もあります。ところが現在、その付近に古社がありません。これは不思議です。しかし、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社が大字雷にあったとすれば、この問題は解決するのです。

 前も言いましたが、私は当社が大字雷にあったとする『大和志』の考証は、単なる雷≠ニいう地名への、附会ではなかったかと考えています。当地にあった九頭明神という神社も、この記事を受けて八王子神社から改名されたのではなかったでしょうか。
 ただ、附会は附会なりに、する側とされる側の論理があって、そこにはそれなりに見るべきものがある場合があります。
 大字雷にある雷岡は、『日本霊異記』の小子部スガルが雷神を捕らえた場所です。この伝承は、「落ちてきた雷」型説話の古型だと思われます。とすれば、この伝承には、何かくず民と関係があるという観念が残っており、それが当社の鎮座地をここに比定する際、その後押しをしたかもしれません。

 『式内社調査報告』によれば、「在波多郷稲淵山々上」という文章があるのは、『五郡神社記』となっています。


> この本は平成元年発行ですから、神社跡が開発されてしまってマンションなどになっていることはないでしょうが、探索の要ありですね。

 この場所の地図と写真は、『式内社調査報告』に載っているので、探索は容易そうです。

☆ 3日ほど出かけます。

[4256] 古典と民俗学叢書12『飛鳥の祭りと伝承』桜井満他編から  神奈備 2003/06/20(Fri) 21:56 [Reply]
雷−雷神の信仰−石上七鞘氏

p196
 かってこの雷にあった神社は、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社である。雷丘から約十五分程飛鳥川にそって下ると、右手の田圃の中に塚のようになった所がこの神社跡である。塚の左右に一本ずつ樹木が生えている。
 また『大和志』によれば、「在雷土村、今称八王子」とあり、土地の人々には「八王子さん」と称されている。 setoh−−雨乞いのお参りをしたそうだ。−−
 また、この八王子は、別に九頭明神とも云われ、八岐大蛇を連想させる九頭竜(一つの体に九つの頭をもっている想像上の竜で、密教を守護する神)と、吉野の国栖の民との関わりからこう呼ばれたのであろう。

 この本は平成元年発行ですから、神社跡が開発されてしまってマンションなどになっていることはないでしょうが、探索の要ありですね。
 また筆者の石上七鞘氏の名前は何故か石上神宮を強く連想させるのですが、肩書きは東京女子館短期大学助教授となっています。
 それにしては『大略注解』に「在波多郷稲淵山々上」とあることを無視して一言も触れていないのは気にかかる論文です。眉に汗でもかいているのかな。

[4255]  えらいやっちゃ えらいやっちゃ イセの語源がわれたヨ   生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/19(Thu) 12:23 [Reply]
 ミナシャ〜〜ン 喜べ。 けふこの瞬間 イセの語源が割れました。
 次期予定のトルコ語辞書読んでいました‥‥ら、なんと esmak (風吹く)
があ〜〜るじゃないすか! -mek は同氏形成末尾辞で「○○する」。日本語には
春めく、ざわめく、さざめく、わめく等々々。
 前々から「西洋系 is , es には予談を許さぬナニモノがかある」と瀬藤ドンにも
申しあげていたところです。その中核語彙がここでゴロ〜〜ッと転がりでました。
 is も es も音転をめぐる考えのうえでは等価です。
 また、あのへんにはのっけからSを発声できない人びとがいっぱいいます。
 *S が風とおいてもいいでしょう。
 古代地中海で船乗りたちが怖れたシロッコ(南強風)へも急接近です。
 石上神社へも急接近です。もちろん伊勢はQ.E.D。

 『トルコ民族と日本民族』を書いた保科真一さんが、友人4人でトルコの小学校の
子供たちを見ていたとき、4人が同時に「アッ おしんだ!!」と叫んだそうです。

 トルコ語も凄い類似を見せています。いい(良)は iyi 焼くは yak 、山は dag .
イタキソ様のほほえみももう少し。
 まもなく http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html で全披露。ヨイヨイヨイヨ〜イ

[4254] 猪豆くうてホーイホイホイ  2  神奈備 2003/06/18(Wed) 18:02 [Reply]
 少名日子建猪心命の神を祀っている神社は以下の神社。

 富山県新湊市鏡宮228  越中国射水郡 少彦名社(すくなひこなしゃ)
 祭神 應神天皇、少名日子建猪心命

 『平成データCD』では、少名日子建猪心命は大国主と共に国造りを行った少彦名と同じ神と見なしているようですが、孝元天皇の皇子の一人で、他の兄弟としては大彦命、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)、比古布都押之信命、建波邇夜須比古です。
 少名日子建猪心命は一体何を行ったのかは記されていないのですが、武内宿禰の父親が『古事記』では比古布都押之信命、『日本書紀』では比古布都押之信命の子であろうと推測されている屋主忍男武雄心命となっています。どうもこの屋主忍男武雄心命が少名日子建猪心命とダブッテ見えてしまいます。
 武内宿禰が神功皇后を奉じて攻め上る際、敵側の皇子である香坂王が猪に喰われますが、猪はここでは武内宿禰の味方をしています。建猪心命の血が流れているのかも。

 鳥取氏は少彦名の後裔氏族とされています。この少彦名が果たして国造の少彦名かどうかですが、最近玄松子さんがアップされた宇倍神社は鳥取の因幡國一宮であり、かつ異説はあるものの祭神は武内宿禰命、また古風土記には殆ど登場しない武内宿禰がここ『因幡国風土記』逸文に登場しているのも面白い所です。

[4253] 猪豆くうてホーイホイホイ  神奈備 2003/06/18(Wed) 11:46 [Reply]
『平成祭礼CD』で”猪”の文字が入っている神名を見てみますと、少名日子建猪心命が出てきます。少彦名命のことです。その他には猪谷神、猪田神とか猪鼻王子など。猪鼻王子は熊野九十九王子社の一。

 要するに、神話などで”猪”が出てくるのは、少彦名命もそのようで、さらに久須斯神につながり、葛神につながるようなイメージで考えられます。土蜘蛛、九頭、葛の象徴としての”猪”が考えられましょう。

『出雲風土記』では”宍道”の語源説話に、所造天下大神命が狩りの際、犬に猪を追いかけさせて、共に石になってしまい、猪の像(ししのかた)のある所との意味で、宍道と言うとあります。
 また『古事記』には、八十神に赤猪をつかまえるように言われで、焼け石を抱く話があります。
 どうも、大国主神は猪とは相容れないようで、土蜘蛛を退治するほうに回った国津神だったのでしょう。そう言う意味では、クズの神と言っても、国津神社、國主神社と九頭神社、葛神社とは相容れなかったのかも。

 『播磨風土記』の託賀の郡の伊夜丘の話
 応神天皇の猟犬(名は麻奈志漏(まなしろ)愛白)が猪を追ってこの岡に走り上上った。天皇がこれを見て、「射むや」と仰せられた。それで伊夜岡という。この犬は猪と戦って死んだ。
 上の『出雲風土記』の所造天下大神命と『播磨風土記』の応神天皇の話はよく似ています。
土蜘蛛退治の話は各地に残っており、それを印象深い英雄のお話として語られたのかもしてません。

 雄略天皇が赤猪子に声をかけながら忘れ去った後、葛城山で大猪に襲われ、木の上に逃げる話があります。これは『日本書紀:神武即位前紀』の高尾張邑に土蜘蛛有り。其のひととなり、身短くして手足長し。侏儒と相類す。の生き残りかも。
 
 余談ですが、葛城と言えば土蜘蛛を埋めたと伝わる蜘蛛塚が高天彦神社の参道手前の山中にあるのですが、謡曲の「土蜘蛛」は、まさに、古くより大和国葛城山に住みついている土蜘蛛の精魂と源頼光と闘いの物語から出来たモニュメントかも。

 土蜘蛛、九頭、葛の象徴としての”猪”の仮説のお話でした。

[4252]  多重眼〜複層眼的視野の紹介〜ないし提言    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/16(Mon) 19:25 [Reply]
> 私は、産屋と喪屋が同じとは書いてないですよ。
> そうです。両義的な存在を掛け持ちのイメージで把握して見ました。

★ そうだという目で見れば「そう」ともなり、「ちがう」という目でみれば
  「違う」ともなる(この視野だけじゃねぇよ)。 万象すべてこれにしあらずや。
  理科系ちゅうか、ディジタル判断じゃダメね。
  こういうすべてが「すべてに依存する錯綜」……ここを縫って考えようぜ。
  神さまなんち、特にとくにここだんべ。

[4251] 鎮魂祭の起源は?  神奈備 2003/06/16(Mon) 09:56 [Reply]
> 私は、産屋と喪屋が同じとは書いてないですよ。
そうです。両義的な存在を掛け持ちのイメージで把握して見ました。

> またこの神話は、冬至の太陽の復活儀礼に関係しており、日没と日の出の神話である沖縄のそれからの推論は、成り立たないように思われます。

 日食と結びつける根強い説があり、天照大神=卑弥呼説の傍証に使われたりしています。

 小生は、「冬至の太陽の復活儀礼」の意味についてですが、冬至の判定が出来た(と言うことはこれ以上弱くならないことが判っていた)ので、わざわざ復活を祈念することではなく、月日の移り変わりが正確にきちっとまわっていることへの感謝、これは来年もよき収穫があることを祈るもので、太陽をたまふりすることとは違うように思っています。

 太陽に絡めれば、冬至の日没と翌日の日の出を天岩屋戸と見る、それを「てだガマ」と見ることは素直な見方だと感じています。

[4250] Re[4246]: 「雷神について」 籠もりと再生  kokoro [Mail] 2003/06/14(Sat) 22:59 [Reply]
 神奈備先生、こんばんは。

> 端的に言うと産屋と喪屋とは全く違うものであって、籠もりの空間とは言ってもかけもちをする事にはならないように思います。

 私は、産屋と喪屋が同じとは書いてないですよ。
 ただ、産屋と喪屋が等価物かどうか、というのはちょっと面白い議論です。いちがいに違うとは言い切れない気もします。


> 天照大神は天岩屋に隠れてから出てくるのですが、沖縄のお話で、太陽が西に沈み、夜と言う地下のトンネルを通って、東から現れるようなことを読んだ記憶があります。(出典不詳)
> 高天原の天岩屋に天照大神が隠れた場所と出てきた場所は違う所ではないかと思うのです。沖縄のトンネルのように。

 東京堂出版から出ている『神話伝説辞典』は、初版が昭和39年で、私の持っている平成9年のものが26版です。ずいぶん長いこと、支持を受けてきた書物と言えるでしょう。ここに載る見解は、ある程度、定説として信頼できると思われます。同書から天岩戸≠フ項を引用します。

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天岩戸神話にある日神の岩戸隠りは、「岩がくり」という語が、『万葉集』などで「貴人の死」を表す語であることを見れば、日神の死をあらわしたものらしい。その再出現はもちろん、その復活である。鎮魂祭の歌にも、日神の霊が神上がりすることが歌われる。鎮魂祭は冬至の頃衰弱した太陽の霊魂を招き返しこれに活力を与えて、一陽来復を図ろうとする呪術的祭儀で、これを日神の権化たる天子に対して行ったものらしい。
・『神話伝説辞典』P40

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 天岩屋戸が死と再生の空間である、という見解は、わりと一般的で、この神話を包括的に扱った箇所ではよく見かけます。またこの神話は、冬至の太陽の復活儀礼に関係しており、日没と日の出の神話である沖縄のそれからの推論は、成り立たないように思われます。

[4249] Re[4248]: 大滝ダム地割れ問題  サン・グリーン [Url] 2003/06/14(Sat) 13:50 [Reply]
仮面ライター一合さま

実は私も昨年仲間と上社の跡地で鎮魂祭をしたので、あの報道を見て心を痛めていました。
そこで、丹生川上神社上社の宮司様の奥様にお電話したところ、地割れが起きている地区は白屋地区の日当たりの良い山に張り付いていたところで、移転をしなかったところだそうです。
現在は村と県が避難用の住宅を建てて、そこに移っているのとのことでした。

それから、ダムに沈んだ跡地の上に浮島を作って跡地の場所が判るようにしてあるのですが、ダムの湖底となった旧社殿跡地を忘れないようにと、遷座5周年を機に、例大祭に神輿渡御が計画されています。新しいお神輿の上には鳳凰ではなく龍が乗っているそうです。
いま、その浄財を集めているのですがご時世柄、なかなか大変だと言われていました。
一万年前の縄文遺跡が発見された聖地があり、絵馬発祥の地で、平安時代の二十二社制度にも入っていた由緒ある上社のお神輿奉製に協力してやろうという奇特な方がおられましたら…、
丹生川上神社上社・07465−2−0733、平田貴教宮司さままで連絡してください。


[4248] 大滝ダム地割れ問題  仮面ライター1合 2003/06/14(Sat) 05:17 [Reply]
TVのニュース番組で見ました。奈良県吉野郡川上村の大滝ダムに試験的に水を貯めたところ上流に位置する川上村、白屋地区で、地割れや家が傾くなどの被害が出ている問題です。

丹生川上神社上社が移転したところですよね?

TVを見るかぎりですが、素人目にもひどい!村ごと、いつ地滑りしても不思議でないくらいなのですが、関係役人は専門家の調査の結果、問題は無いと言い張っていました。(普通、『裏山で不審な音がするときは地滑りの兆候かもしれませんので非難しましょう』とか言って広報してませんか?)
画面では、問題無いどころか、村中に地割れがして家が徐々に壊れ始めているのです。これは専門家云々というより、問題が大き過ぎて役人レベルでは対処しきれず保身に逃げているような状況でした。ひとつのニュースからの印象なので公平ではないかもしれませんが。扇大臣は至急、現地1泊で視察に向うべきだと思いますね。住民の方々は、夜中にミシミシと不気味な音が響き眠れないそうです。
神さま、お怒りか?無事解決を祈ります。

[4247] Re[4246][4245]: 「雷神について」 籠もりと再生  香具 2003/06/14(Sat) 00:19 [Reply]
kokoroさんのテーマからは脱線。沖縄のお話しが出ましたので、横から失礼します。
私は久高島という一地域例しか知りませんが、

>太陽が西に沈み、夜と言う地下のトンネルを通って東から現れる・・・

『てだガマ』(てだ:太陽、ガマ:洞穴)のことでしょうね。または久高風に、ちょっと訛って『ティラガマ』とか。東と西、朝日と夕陽とでは、かなり扱いが違っていました。
 東は朝日が昇るところ、はるか東方海上にニラーハラー(ニライカナイの久高弁)があり聖なる方向です。久高島の東海岸、イシキ浜は年に2回、ニラーハラーから神々が島内を祓いに来る船が停泊する場所とされています。
 久高島の西海岸にはかつての風葬の地があり『ティラバンタ』(ティラ:太陽、バンタ:崖)と呼ばれています。今では本島風の墓が舗装された道沿いにできています。かつて、ある衝撃的な事件をきっかけに風葬をやめて墓を作るようになったそうです。西は死につながる方向のようです。そして、死穢を極度に怖れる伝統は残っているようでした。
 久高島という島全体が大きな神社の境内のようで、いたるところに禁足地がある島でしたねけどね。(脱線終わり)

[4246] Re[4245]: 「雷神について」 籠もりと再生  神奈備 2003/06/13(Fri) 22:21 [Reply]
>  死と再生の装置である籠もりの空間は、両義的な存在でありました。

 H神社のS宮司様のお話を聞かせて頂いていた中に、神道は空間の祭祀を基本としているとの考え方があり、神道は、空間から空間への移動には、その準備空間で潔斎を行うこと、空間としての部族の守護を行うことなどがその特長、とあまり正確な引用ではないので、固有名詞は省略したしますが、いささか難解な所があり、よく判らない所でもあります。
 難解な所は置いておき、端的に言うと産屋と喪屋とは全く違うものであって、籠もりの空間とは言ってもかけもちをする事にはならないように思います。

 天照大神は天岩屋に隠れてから出てくるのですが、沖縄のお話で、太陽が西に沈み、夜と言う地下のトンネルを通って、東から現れるようなことを読んだ記憶があります。(出典不詳)
 高天原の天岩屋に天照大神が隠れた場所と出てきた場所は違う所ではないかと思うのです。沖縄のトンネルのように。

 ホーキング博士の何もかもを飲み込むブラックホールとつながっており、ものが生み出されるホワイトホールの概念が沖縄テダの道といっしょとは面白いですね。

[4245] 「雷神について」 籠もりと再生  kokoro [Mail] 2003/06/13(Fri) 01:02 [Reply]
 死と再生の装置である籠もりの空間は、両義的な存在でありました。すなわちそれは、生命力の衰えたものたちを格納する棺の空間であったとともに、かれらをタマフリし、新たに生命力を取り戻させて送り出す、子宮的な場所であったと思われます。

 籠もりの空間が子宮のメタファーでもあれば、そこには必然的に懐妊や出産のことがでてくるでしょう。たとえば、古代には産屋という習俗がありましたが、産屋というのは、建築的に表現された籠もりの空間ではなかったでしょうか。

 「落ちてきた雷」型説話も、出産と関係があります。「片ワの里」で、命を助けてもらうのと引き替えに、雷が農夫へ約束したのは子授けでした。
 『日本霊異記』第1巻第一は、小子部スガルの説話を載せます。この説話は、雄略天皇から雷神を捕まえてくるように命じられたスガルが、勅命で召喚すると、雷神が天から落下してきたという筋立てで、「落ちてきた雷」型説話の古型と思われます。この物語の発端は、天皇と后が交接中の御殿へスガルが、うっかりと入ってしまったことでした。
 『日本書紀』雄略6年条は、スガルが天皇から国内の蚕コを集めてくるよう命じられ、間違えて赤ん坊を集めてしまう記事を載せます。
 これはよく言われることですが、スガルの登場する説話群に、赤ん坊や交接のことが出てくるのは、こうした物語の古層に、神婚や神の子の出産といった観念が眠っていることをうかがわせます。

 また、その一方で、「落ちてきた雷」型の説話は、舞台が水辺であったとうかがわせる徴表がなかったでしょうか。
 「国栖の翁」で、伏せられた船が横たえられていたのは川辺でした。
 「落ちてきた雷」型は、雷の落下地点が井戸であったという話形も多いです。井戸も水辺の一種だといえるでしょう。
 これは記憶なのですが、河童の駒引き型の伝承の中に、伏せられた桶のモチーフがあった気がします。すなわち、河童が馬を淵の中に引きずり込もうとして、逆に引き吊り出されてしまい、カイバ桶を伏せたものの中に隠れていると、人に見つけられ、捕らわれるというような昔話をどこかで読んだ気がするのです。この場合、カイバ桶も水辺あったことになります。
 すなわち、雷神や河童や大海皇子が隠れる箱形の空間は、水辺にあったケースが多いのです。

 以上を総合すると、古代には水辺で雷神と結ばれる女神があり、懐妊した彼女は、産屋のような閉ざされた空間の中で神の子を産み落としていたのではなかったでしょうか。その場合、その子は成長してから英雄として活躍したり、あるいは一族の祖となったりしたと思われます。

 これにより、「片ワの里」を再解釈してみます。「片ワの里」では、天から落ちた雷は農夫に子授けを約束しますが、ほんらいの神話では、女が雷神と神婚して懐妊し、彼女は産屋のような空間で出産する ── こういう、産屋のような空間は「片ワの里」には出てきませんが、「落ちてきた雷」型には、そのような空間(伏せられた桶、伏せられた船、蓋をされた井戸)のモチーフが頻繁に登場するので、もともとはあったのが、脱落を起こしたように思われます。また、『日本霊異記』では、その子供がやがて怪力を発揮するようになり、道場法師として活躍するわけですが、雷神との神婚によって産まれた子供も、成長してから英雄として活動したのではなかったでしょうか。それからまた、「片ワの里」は、雷神が落ちた場所が特に水辺であったようにはなっていません。が、そこに船のモチーフが出てくるのは、雷神との神婚がもともと、水辺のできごとだった名残のように思われます。

 こうした、水辺で雷神と結ばれる女神というモチーフが、神祇祭祀として残っているケースは、対馬から報告されています。長崎県下県郡厳原町阿連に雷命ライメイ神社という神社があります。当社は、対馬嶋下県郡の式内社小社、雷命イカツチ神社の有力な論社です。現在は護岸工事がなされているようですが、古い写真にある当社は、阿連川の淵を社頭に控え、たいへん印象的な景観をしていました。永留久恵氏の『海神と天神』から引用します。

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 阿連アレ村には、八龍神(雷命神社)のほかに日照大明神(俗称オヒデリサマ)と若宮大明神があり、祭祀のうえで密接な関係がある。すなわち若宮は八龍殿と境内を接し、俗に小八龍と呼ばれていた。「お日照り」は川上の神山に鎮まる社のない聖地で、<中略>霜月九日に「元山送り」と称する珍しい行事がある。神々が出雲へ旅立つという九月末の「お出船」のあと、お日照り様が村に下って氏神のところに入り、村を守ってくださるのだという。そして霜月朔日、神々が迎える「お入座イリマセ」の神事があります。八日に氏神の大祭が行なわれ、その翌日がお日照り様の祭りで、この日、元のお山にお送りするわけである。
 このとき、お日照り様は懐妊なされているという。宝暦の『大小神社帳』が「日照大明神。祭神媛神ト云」と記しているように、お日照り様は女神だったに違いない。お日照り様懐妊の所伝は、雷命との間に神婚が行われたことを暗示している。「アレ」という地名の初見は『日本後記』延暦二十四年(八〇五)六月の記に「遣唐使第一船。対馬下県郡阿礼村に到る」とあり、この名称が古来のものであるあることが証明できる。この「アレ」の語源について、神の「み生アれ」ではないかと説いた三品影英博士の説は、的を射ていると思う。古くは日神と雷神の神婚による御子神の生誕を表す神事があったと想像するが、その御子神が若宮だったに違いない。
・『海神と天神』P383〜384

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☆ ズルズルと引き延ばしていますが、もう一回つづけます。

> 猪は神もしくは神の遣いとして記紀などに多く登場してきます。

 破滅をもたらす怖ろしい凶獣としての猪は、『古事記』で大国主神が八十神に迫害される箇所にも出てきますね。記紀にあって、わりと紋切り型なイメージではなかったでしょうか。


> 自らを健全な KOKORO とからだの持ち主じゃと自認するなら、大空むけてはばたきなせえ。

 ありがとうございます。パタパタパター ── いや、そうじゃなくて、またいつでも来ますよ。(^^;

 ただ、これまでこの掲示板をはじめ、居心地のよさに甘えて、ほうぼうのサイトに駄文を書き散らかせてもらってきましたが、最近、そろそろ自分のホームを持たないといけないな、と痛感するようになりました。

[4244]  巣 立 ち    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/12(Thu) 19:42 [Reply]
 遠慮せんでヨカとばい。
 自らを健全な KOKORO とからだの持ち主じゃと自認するなら、大空むけて
はばたきなせえ。
 ただ、はぐくんでくれた神奈備のオヤジには、ひとこと「あ〜〜りがとォ」
を元気よく云いなせぇ〜〜イヨッ♂

 巣立っても、古巣にはいつもいつも舞い戻ってもいいんぞナ。
 神奈備のオヤジはいいおとこ。 

[4243] Re[4241][4240]: アルヒーフとしての神社  神奈備 2003/06/12(Thu) 08:51 [Reply]
>  神奈備先生、こんばんは。
kokoroさん おはようございます。

 kokoroさんの『三輪山とくず』のご投稿の疋田については、赤猪話だけではなく、小生が少し前からボチボチと調べていた池の造営が絡んできて、なお興味を持ったわけです。池のことは未成熟もいいとこ。猪も思いつき程度。

 猪は神もしくは神の遣いとして記紀などに多く登場してきます。

 特に所謂河内王朝の王位継承と言うか衰亡の物語に猪が登場してくるように思います。

先ず暗示的なのが、日本武尊の伊吹山の猪、これが後の皇位継承に影響を与え、結局神功皇后の運命をあやつることとなり、河内王朝の誕生の引き金になったのかも。

正当な後継者と思われる香坂王・押熊王は神に見放されたようで、それを香坂王が猪に喰われたことで示しています。小碓命と同じ運命。

仁徳天皇前紀で、大山守命と弟の宇遅能和紀郎子の猪狩りにかこつけた暗殺。

オケ、ヲケ兄弟が逃げ落ちる際の猪飼いの翁のお話。

雄略天皇は葛城山で猪に追いかけられ、木の上に逃げるシーンがあります。

つづいて、有名な赤猪子の話で、とんと忘れていたが故に、まともな後継者に恵まれず、この王朝は衰亡に向かっていく。

 上記は日本書紀から適宜列記しただけですが、何か面白そうなお話ー青草歓迎ーを思いつかれましたら、掲示板上で発展させていきましょう。

[4242] Re[4240]: オリジナルティと青草との境  サン・グリーン [Url] 2003/06/12(Thu) 05:43 [Reply]
神奈備さま、みなさまおはようございます。

地元の郷土史家には常識だったわけで、誰も赤猪子チャンとひっつけようなどと思うわけがない、単なる青草話、

ご本人も気づかれたように、まったく青草話だと思います。
十年近い前から桜井周辺を歩く会に時たま参加させて頂いていますが、アカイ子おばあちゃんのお話は、その周辺を通る度に郷土史家の方が記紀を引用してお話してくださっていました。

[4241] Re[4240]: アルヒーフとしての神社  kokoro [Mail] 2003/06/12(Thu) 01:05 [Reply]
 神奈備先生、こんばんは。
 三輪神社の調査、お手数おかけしました。疋田町に引田部がいたというのは、悪い着想ではなかったと思っていたのですが、青草でしたね。洞察≠ノついては、示唆的な意見だと思います。ちょっと、言葉がでない状態なので、コメントはしません。

 もう一度、「それが誰のものであっても、他人のオリジナルティは尊重してほしい。」という依頼内容を検討します。

 ここで、言いたかったのは、私も含めこの掲示板に投稿する方々のオリジナルティを尊重して欲しい、というだけではありません。以前から言っているように、何かを論証するときには、そこで使ったソースやタネ本も明示してほしいという依頼でもあるのです。

 オリジナルティの尊重というのは、大部分が個人の倫理の問題であって、よほど目に余る場合を除けば、ひとがとやかく言ってもしょうがないのかもしれません。ただ、私は、自分の投稿のなかで、好きな著作家を引用するのが好きであります。優れた先人の、よい着想や深い洞察(それこそアサハカなる私のそれとは比べものにならない)をうまく引用して紹介できたときは、いつも満足と喜びとちょっとした誇らしさを感じます。
 これは別に、本に限らず、掲示板の投稿やコンテンツを引用する場合も同じです。

 全文を引用して欲しいとか、該当する個所のページ数を明示してほしいとまで言いません。書名をあげるだけでよいのです。
 隠れた名著というのがあります。ただでさえもカタい内容の本は敬遠されがちであるのに、絶版にでもなれば、せっかくの良い内容も、人に知られる機会は少ないでしょう。それをこうした掲示板で、ちょっと書名をあげることができれば、人の目に触れる機会もすこしは増えると思います。

 このように私がソースにこだわるのは、それが神社への関わり方にとってとても重要だと考えるからです。何度も言いますが、他意はありません。その理由について、少し書いておきます。
 神社について書かれた本、たとえば『式内社調査報告』『日本の神々』等を読む時、いつも感じることがあります。それは引用が多いことです。とりわけ祭神や由緒についてページは、記紀等の古代文献はもちろん、宣長や信友といった江戸期の国学者の著作、あるいは地誌の類、最近の研究等々の引用で埋め尽くされているのを見かけます。総じて、専門書や研究書に引用はつきものですが、神社のそれは、特にはなはだしい感じがするのです。
 引用だけで、自分の意見や新しい知見がみられない本は、他の分野であれば、ただの二次資料の堆積という感じになってしまいます。ですが、私は神社についての著作に引用が多いのは、むしろ神社のあり方からしからしめられた結果であり、そのまま神社というものの現れだと感じるのです。神社には、伝承・神話、社名、祭神、民俗や祭礼等々といった重要なことがらが伴います。なかんずく、その神社が古社であった場合、そうしたことがらはとりわけ興味深いでしょう。また、神社はさまざまな古代史の研究者によって言及される機会が多く、たとえば、ある地方に物部氏が居住していたことを論証するばあい、その近辺に物部神社≠ニいう式内社があれば、それがその立派なその証拠になるわけです。
 このようにして、古くて興味深い神社の周りには、だんだんと分厚い言説の堆積ができあがります。神社について書かれた本に、さまざまな言説の引用が多いのは、このようなことの結果だと思われます。極論すれば、神社とは実在としての存在(境内とか、建物とか、植生とか、湧水や磐座などの実際にある存在)であるだけでなく、言語的な存在でもあると思うのです。
 私のような霊感もなく、宗教心もとくに篤くはないものにとって、神社への興味がもっとも集中するのは、神社の存在のこの現れ、さまざまな言説の結節点であり収納庫であるところの現れなのです。そうして、神社のこうした現れに、多くのひとが気付いて欲しい、という気持ちをもって、わたしはほうぼうの掲示板に駄文の投稿を繰り返しています。
 そのような投稿の中で、自分のアホクサ的な思いつきを、何か先人の本に沿って展開させる場合、できるだけ本文を引用するか、あるいは書名等のソースを明示することにしています。それは、そうした先人のオリジナルティへの敬意であるとともに、そうした言説を成り立たせている、神社という制度への敬意であり、つまるところ、わたしなりに神社への敬意を表しているのです。

> そのようなオリジナルティでも神奈備は心から大切にしますよ。

 ありがとうございます。オリジナルティの尊重については、神奈備先生にお任せします。

[4240] オリジナルティと青草との境  神奈備 2003/06/11(Wed) 19:04 [Reply]
 奈良市に疋田と言う地名の土地に三輪神社と言ういかにも古社風な神社が鎮座、これらから、引田部の赤猪子を発想、引田部が当地に移住したのではないかとの鋭い見解がだされました。敬意を表すものです。

 小生は三輪神社のことが掲示板で取り上げられたので、写真があったと探しだし、早速_HPへ、そこに「三輪神社は大神神社と同様に本殿はなく、築地塀に囲まれた神域には神木である大きい杉の木と雑木が生えているに過ぎず、何故か上記の赤猪子の歌の築くや玉垣を連想する。 一生に一度の逢瀬もなく加齢した赤猪子の哀れさを漂わせている神域のようだ。老婆となった赤猪子が訪ねて来たとき雄略天皇は幾つになっていたのだろう。」
とやってのけました。掲示板の解説のつもりでしたが、ここに投稿された方のお名前を抜かしたままになっていました。これは小生の失態でした。m(__)m

 従って、投稿された方から以下の指摘を受けたのであります。
>  この部分にある、当社と引田部の関係、赤猪子が水辺で神婚する女神の系譜に連なる人であったという洞察は、私の『三輪山とくず』にあったものです。

「洞察」は次の二つに分解できます。それぞれのオリジナルティについて考えてみましょう。
1.当社と引田部の関係
2.赤猪子が水辺で神婚する女神の系譜に連なる人

先に2.の赤猪子についてですが、これは『三輪山とくず』にも引用されているように、また多くの先学が指摘しているように、ここで新たに登場した考えではありません。オリジナルティは全くゼロ。

次に1.ですが、疋田の三輪神社との関連は当掲示板を見られている人にとっては新鮮な驚きでした。まさにオリジナルティです。

 で、奈良市立図書館へ行って、疋田と三輪神社について、若干調べてみました。
菅原郷の疋田と言う地名は江戸時代に奈良晒しが盛んになった際、その地域につけられた村の名であり、以前は特定の名で呼ばれるような場所ではなかった。

また三輪神社はかっては山口社であった。

の二点があっと言う間に出てきました。この程度の内容を考えることを「洞察」とは言わないのです。単なる思いつきなのです。この辺りはHP三輪神社参照。

 なるほど、オリジナルティを主張する、この事は先行する文献をいわば全部調べて誰もそのように言っていない独創性の確認が必要なのですが、上記のように疋田、三輪、ともに別段古代を引っ張っているわけではないことは地元の郷土史家には常識だったわけで、誰も赤猪子チャンとひっつけようなどと思うわけがない、単なる青草話、まともには取り上げる人間はいないだろう、だから全ての先行文献を調べずにでもオリジナルティを主張できたと言うこと。
 
 そのようなオリジナルティでも神奈備は心から大切にしますよ。

[4239] Re[4237]: 大鹿首についてのお尋ねです。  神奈備 [Url] 2003/06/09(Mon) 21:10 [Reply]
> 大鹿首(オオカノオビト、又は伊勢大鹿首)
> 讃岐の国

あまり、熟成、されていないヒント。
大川郡は大鹿から、それと伊勢をひっかけて神社を探して見ますと12社ほどありますが、どうも天兒屋根命の名が出ません。

大川郡は大鹿から、更に寒川郡も相鹿などに近いかなと見て天兒屋根命を祀っている神社は以下の通り。

住吉神社 大川郡長尾町西字住吉115,旧讃岐国 寒川郡
鴨部神社 大川郡志度町鴨部2791,旧讃岐国 寒川郡
春日神社 大川郡寒川町神前26,旧讃岐国 寒川郡

[4238]   狂ってきたのは、ここ3000年     生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/09(Mon) 19:35 [Reply]
 大賀デッケンもオシカさんの「大きい鹿」も「オオガ」という発音がもたらす
固有の意味は同じではないでしょうか? 
 ここ3000年だけが狂ってるだけで、その前は悠久な時間がながれていました。
 ワカラなくなったというて嘆くにはあたいしないと思います。
 なまえにはチャンと固有の意味(王家)が付着したまま、現代を迎えていますのや。
 OO-ghar(王の家柄)。

 ダガネ、おれの先祖はアミーバーだと子供たちに教え続けていますだ。

 「オレの先祖は村松藩の家老だった」と何ベンも何ベンも「呑み屋・かねよし」で
繰り返して喋ったクリーニング屋がいました。
 そのご仁が「オレの先祖はアミーバーだ」というおれの発言きいて怒りだしたんです。
 ホント、これ、ホントのホントなんですヨ。

 AKEMIさん、お目をとめてくださって有り難うございます。
 シナだけでなく、朝鮮でも“消えた”と置いたらスッキリしますね。

 ナニが狂わせたんでしょうね。

[4237] 大鹿首についてのお尋ねです。  大鹿欣孝 [Mail] 2003/06/09(Mon) 13:58 [Reply]
「 今回アメノコヤネ命の子孫といわれる大鹿首(オオカノオビト、又は伊勢大鹿首)について問い合わせさせて頂きます。」
 
実は自分の先祖探究をしており、関係であるHPを検索したら、大鹿首(伊勢大鹿首)を知る事に。別筋で、新撰姓氏録の出典として、大鹿首はアメノコヤネの後裔との事です。また大鹿家の先祖と言われたのですが。
 
 大鹿首は、元は京都(右京区)でお生まれになったとの事。その大鹿首(伊勢大鹿首)が四国の香川県に渡っていたのかどうかご存知無いでしょうか。
 大変なデータをお持ちであり、古い文献についてもご存知ではないかと思います。 
 
 私の本家は香川県です。そこには室町時代頃から住んでおり、菩提寺に聞くと鎌倉頃までは遡れるかも知れないとの事です。
 
 また、大鹿首は、古墳時代に伊勢大鹿首小熊の記述が。
そして大鹿首の祖先は、相鹿津臣命、そして国摩大鹿島命、そしてアメノコヤネ命ということになるのでありましょう。
 大鹿首=大鹿家先祖という説がより信憑性を増す事を祈る次第であります。。
 本家のある香川県にしか大鹿家の先祖の手掛かりが無く、先祖の事をどうしても知りたいこと、そして大鹿首が先祖であることを望むあまり今回の問い合わせとなりました。
 大鹿首が、どこの出自で、またどのような経路で移住して行ったか判明すれば有り難いのですが。
 
 「それよりももっと知りたいのは、大鹿首もしくはその末裔の一族が、讃岐の国(香川県)に在住した形跡はありますでしょうか?」ということです。 

 今、各神社その他大学などに問い合わせ中ですが、全く手がかりが有りません。
 そのあたりを加味して、お返事下されば幸いです。

 どうか皆さん、私に救いの手をお願いします。
 

[4236] Re[4233]:  沖 縄 の カ ミ サ  マ    AKEMI [Mail] 2003/06/09(Mon) 10:18 [Reply]
生田さん、お知らせありがとうございます。
沖縄の神様について調べてみると、何かがわかってくるかもしれませんね。

それにしても、こちらの掲示板はすごいですね。

文献の上で「不詳」となっている事柄の裏に隠れている物語がたくさんあることを知ることができました。
皆さんどうもありがとうございます。

[4235] Re[4234]: まったく  神奈備 2003/06/09(Mon) 07:41 [Reply]
> この部分にある、当社と引田部の関係、赤猪子が水辺で神婚する女神の系譜に連なる人であったという洞察は、私の『三輪山とくず』にあったものです。ところが、このページのどこを探しても、私の名前は出てきません。これではとても困るわけです。たとえば、もしも、今後、私が自分のHPをもつとき、ここの掲示板に投稿した文章を再編してアップしたりすると、オリジナルティが曖昧になる恐れが出てくるのです。


 おっしゃる通り疋田町の三輪神社についてはkokoroさんの御投稿を契機にと云うか多分24時間以内にアップしたもので、「掲示板で話題の神社はこれですよ!」のサービス精神でした。

 kokoroさんの御投稿内容を前提としており、お名前を抜かしていました。失礼をいたしました。

 まさに「未成熟」のもので、HPは削除いたしました。

> 熟成≠ニいう言葉への、つまらない揚げ足取りと思われるのも嫌なので、念のために総括すると、この投稿の内容は、「それが誰のものであっても、他人のオリジナルティは尊重してほしい。」という依頼です。

 小生は常日頃、kokoroさんだけではなく各位のオリジナリティには敬意と尊重をするにやぶさかではありません。

[4234] まったく  kokoro [Mail] 2003/06/08(Sun) 21:59 [Reply]
> ありがとうございます。このような貴重な御見解を参考にさせて頂いて、HPを一層充実させていきたいものです。このような作業を熟成と呼んでおります。
> なお、神奈備掲示板 くず 特集 に先の投稿を入れております。

 こちらこそ、ありがとうございます。HP作成にかける先生の意気込みはスゴイですね。恐れ入ります。

 ただ、それだけにこのレスの文章は、私を不安にさせるのですよ。というのも、これは一例ですが、奈良市疋田町にある三輪神社について、最近、先生がモノされたページがここにありますよね→http://www.kamnavi.net/as/hikitamiwa.htm。そして、その中に以下の文章があるわけです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 雄略天皇が美和河に遊行し、河辺で衣を洗う童女を見初め、引田部の赤猪子と名乗っている。そのうちに喚ぶと言う言葉を80年も待ち、遂に老いてしまった物語が『古事記』に語られている。
 天皇の歌への返歌として赤猪子の歌
  御諸に 築くや玉垣
  築きあまし 誰にかも依らむ
  神の宮人

 当三輪神社は大神神社と同様に本殿はなく、築地塀に囲まれた神域には神木である大きい杉の木と雑木が生えているに過ぎず、何故か上記の赤猪子の歌の築くや玉垣を連想する。
 一生に一度の逢瀬もなく加齢した赤猪子の哀れさを漂わせている神域のようだ。老婆となった赤猪子が訪ねて来たとき雄略天皇は幾つになっていたのだろう。

 水の側で若い娘が織物を織る、洗濯をする、これは神の到来を待つ、折口信夫の「水の女」を思い起こすし、神奈備としては、筑紫の基山頂上の玉玉石から小川で洗濯しているきれいな園部谷サコ姫を見初めて結婚した物語が頭をよぎる。一種の七夕説話であるのかも知れない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この部分にある、当社と引田部の関係、赤猪子が水辺で神婚する女神の系譜に連なる人であったという洞察は、私の『三輪山とくず』にあったものです。ところが、このページのどこを探しても、私の名前は出てきません。これではとても困るわけです。たとえば、もしも、今後、私が自分のHPをもつとき、ここの掲示板に投稿した文章を再編してアップしたりすると、オリジナルティが曖昧になる恐れが出てくるのです。
 したがって、先生が「貴重な御見解を参考にさせて頂いて、HPを一層充実させていきたいものです。このような作業を熟成と呼んでおります」というならば、私にとって、そのような熟成は、あまり歓迎したくないのです。

 熟成≠ニいう言葉への、つまらない揚げ足取りと思われるのも嫌なので、念のために総括すると、この投稿の内容は、「それが誰のものであっても、他人のオリジナルティは尊重してほしい。」という依頼です。それ以上でも、以下でもありません。

 重ね重ね不躾な投稿いたしました。誠に申し訳ございません。m(__)m

[4233]  沖 縄 の カ ミ サ  マ    生田淳一郎 [Mail] [Url] 2003/06/08(Sun) 19:32 [Reply]
 下んごつ(如く)民しゃんなさかんに沖縄の神さま(みたいな)ごとカキコに及んで
来るとです。
 連続した日本列島のなかの連続と非連続……。その他いっぱい、花見よか気が利いち
ょらせんやろか。
 http://6928.teacup.com/fudangi/bbs へ
     ……………………

 「@御嶽の内奥にある神域。『琉球国由来記』などの表記ではイベ、沖縄・宮古では
 イビ、八重 山ではウブと呼ぶ村が多い。由来記ではイベを御嶽、川、殿(ドゥン)など
で祀られている神の 名、あるいはこれらの聖域の聖名の意で用いられているが、今では
御嶽の内部のもっとも神聖な場所をさす。イビには香炉が置かれ、その背後には神の依代
とみなされる巨岩、クロツグやクバなどの神木、墓などがある。御嶽のイビは神道でいう
「ひもろぎ」あるいは神坐に相当しよう。

イビで神に斎き祀るのは神女である。沖縄本島では五月ウマチーにはイビヌメー(イビの
入り口)から御嶽の裾まわりに帯綱をはりめぐらす例がある。イビヌメーから奥は男子禁制
とされる。

A神石のこと。神聖な石をイビという例がある。宮古では御嶽の一角に立てられた
  神石や、屋敷神を祀る石をイビまたはイビシという。徳之島には寄り石と伝えられ
  ている石をイビガナシまたはイビガナスとして祀っている例がある。瀬戸内海にも
  イビガナシと呼ばれる神石を祀る例がある。

[4232] Re[4223]: 「雷神について」 伏せられた桶  神奈備 2003/06/08(Sun) 18:32 [Reply]
>  わが国各地に広く残された雷神の伝承に、「落ちてきた雷」型とでも呼べそうなタイプがあります。
 kokoroさんカキコから思い当たって。
 和泉市桑原の雷井戸で有名な西福寺にも「落ちてきた雷」伝承が伝えられています。桑原と云う地名と雷との関連で調べてみたことがあります。管公の領地の桑原には雷がおちなかったとか。

 落ちてきて閉じこめられる雷、いわば間抜けな雷と云うことになります。「神」の語源ではないかと推測されているカミナリとしてはそこまで零落するのは何故なんでしょう。
 畑に水を与える、これは雨ですが、稲作になりますとその前に貯水と云うことが行われます。雨を頼ることは頼るのですが、時間は克服されていることになります。
 ここで雷雨がほしい、降らなくては枯れてしまう、と云う程の切迫感がなくなったのが、雷神をして零落させたのではないでしょうか。

[4231] Re[4230][4229][4228]: 吉野再訪  神奈備 2003/06/08(Sun) 10:51 [Reply]
> ほにゃらか掲示板≠ヨ、『Re[216]:クズの語源 参考にならんカネ』という投稿をしたことがあります。重複している部分も、多々あるようですが、よろしければ参考にドーゾ。

 ありがとうございます。このような貴重な御見解を参考にさせて頂いて、HPを一層充実させていきたいものです。このような作業を熟成と呼んでおります。

 なお、神奈備掲示板 くず 特集 に先の投稿を入れております。

[4230] Re[4229][4228]: 吉野再訪  kokoro [Mail] 2003/06/08(Sun) 10:01 [Reply]
> 隠しページと云う意味ではなく、このように置いておいて熟成させていると云うことで。

 恐れ入ります。深い深いお考えなのですね。m(__)m 私のように、ただ思いつきを並べ立てるだけの者にとって、熟成や完成は、夢想することをしか許されえない言葉であります。

 ちなみに、御霊神社や浄見原神社と大海皇子の関係については、わたしも2001年7月28日に、当時のほにゃらか掲示板≠ヨ、『Re[216]:クズの語源 参考にならんカネ』という投稿をしたことがあります。重複している部分も、多々あるようですが、よろしければ参考にドーゾ。

[4229] Re[4228]: 吉野再訪  神奈備 2003/06/07(Sat) 21:25 [Reply]
>  お! 神奈備大先生。御霊神社だけでなく、浄見原神社と大蔵神社にも参詣されたんですな。ごくろー様です。

隠しページと云う意味ではなく、このように置いておいて熟成させていると云うことで。

[4228] 吉野再訪  kokoro [Mail] 2003/06/07(Sat) 20:50 [Reply]
 お! 神奈備大先生。御霊神社だけでなく、浄見原神社と大蔵神社にも参詣されたんですな。ごくろー様です。
 なぜか、さらサイトには、御霊神社だけしかエントリーされてないようですが、せっかくの力作なのだから、他の2社も隠しページみたいになさらずともよいものを。

[4227] Re[4226][4216]: 四面神社についてです  神奈備 2003/06/07(Sat) 08:31 [Reply]
> 一帯には神社が沢山あるようです。時代は入り乱れ、古代の遺跡が沢山あるところです。

神埼郡三瀬村に下の宮神社が鎮座、祭神は息長宿禰命 (配祀)葛城之高額比賣命です。息長帯比賣の両親と云うことになっています。
以下『平成祭礼データ』から
息長宿禰命を祀る神社は他では宮崎県東諸県郡国富町の川上神社のみ。
葛城之高額比賣命を祀る神社は奈良県生駒市壱分町 住馬神社、滋賀県伊香郡木之本町 六所神社の二社のみしか見あたりません。勿論両神をまとめて祀っている神社は下の宮神社のみです。

佐賀平野は息長帯比賣や武内宿禰など、応神朝のルーツに深いかかわりがあるように見えて来そうですね。

[4226] Re[4216]: 四面神社についてです  AKEMI [Mail] 2003/06/06(Fri) 21:53 [Reply]
神埼町にある櫛田神社で聞いてきました。
現在神埼町竹というところにあり、国塊神を祭られています。
以前は違う場所(現在は資材置き場)にあったものを昭和30年代に公民館が建てられた時、公民館の中にもって来られたそうです。
その他のことは不詳でした。一帯には神社が沢山あるようです。
時代は入り乱れ、古代の遺跡が沢山あるところです。佐賀平野は圃場整備がされた時に、いろいろ出てきたものをとりあえず神社に運んだそうで、どこからどこへ運んだと言う記述がないために相当混乱していると教育委員会の方から聞きました。

[4225] 「雷神について」 死と籠もり  kokoro [Mail] 2003/06/06(Fri) 00:17 [Reply]
 だが、伏せられた桶とそこに隠れることは、何を意味するのでしょう。
 伏せられた桶は、『古事記』にも出てきます。天岩屋戸の場面で、アメノウズメが、伏せられた桶を踏みならしながら踊ったとあるのがそれで、アマテラスはこれをきっかけに岩屋戸から出てきました。
 この神話はしばしば、冬至の日に行われた太陽の復活儀礼を神話化したと言われます。儀礼の目的は、衰弱した太陽に、強烈な光熱をとりもどさせることにありました。とすればそこには、古代人の思想生活で少なからぬ部分を占めていた、あの死と再生の思想が横溢していることになります。アマテラスが隠れる岩屋も、死と再生の装置として、われわれが神話世界のいたるところで出会う籠もりの空間の一例なのです。

 ウズメが伏せられた桶を踏みならしたとき、近くには天の岩屋戸がありました。同様に「国栖の翁」でもわれわれは、伏せられた船と近接して、和田の岩屋≠ネるものが登場しているのを発見します。「国栖の翁」のこの部分は、古い時代の

 死=ィ籠もり=ィ再生

という宗教観念を基底材とし、その上に、大海皇子の

 政界をはなれ吉野へ=ィ隠遁生活=ィ壬申の乱

といった史実が、重ね合わされていなかったでしょうか。
 なお、『日本書紀』顕宗条にも、ヲケ皇子が雌伏した時期に、播磨国の縮見山にある岩屋へ逃避した、とあります。また、有名な武将や都落ちした貴人が隠れたという洞穴や岩屋は、全国いたる所にあります。示唆的です。

 籠もりの空間である岩屋のそばに見られた、伏せられた桶や伏せられた船は、それ自体もまた籠もりの空間です。『貞観儀式』の鎮魂祭条は、巫女が伏せられた槽を棒で撞く儀礼を載せます。
 鎮魂祭は太陽の光熱がもっとも衰える冬至の頃に、太陽と一体とされる天皇霊を回復する祭儀であります。『古事記』は太陽の復活について、ウズメの踊りを見て笑う神々の声を、岩屋に籠もるアマテラスが聞き、いぶかしく思って戸を開ける ── とのいささか心理に偏した説明をしています。が、本来この説話は、アマテラスの隠れた岩屋を、同質の空間を有する伏せられた桶をウズメが踏みならすことで、類感呪術によってタマフリし、籠もっていた太陽を再生させた、というのが本筋だったでしょう。

 籠もりの空間は、死と再生の装置であり、両義的な空間です。したがって、内腔した空間である籠もりのそれは、再生を目指す子宮のメタファであると共に、棺のメタファでした。伏せられた桶と伏せられた船では、おそらく、後者の方がより古型だったでしょう。なぜならば、多くの古墳から船を模した石棺が発見されているだけでなく、古代の墓地からは本物の船が、棺として利用されているケースも数多く発見されているからで、古代人にとって船は、死と近しい関係にあったのです。
 「落ちてきた雷」型の伝承に登場する雷神たちは、舟形の物体の内側へと引きこもったり、あるいは井戸の中へ落ちたり、抗いがたいタナトスに身を任せているかのように行動します。各地の雷神たちが隠れ潜んだ、あれらの伏せられた桶や、伏せられた船は、生命が枯渇したものども(=天から落ちた雷神、冬至の太陽、政争に敗れた皇族等々)の納まる籠もりの空間だったでしょう。

☆ もう一回、続けるかな。

[4224] Re[4222]: 貴別当神社について  神奈備 2003/06/05(Thu) 07:53 [Reply]
 福岡県八女郡矢部村にも菅原道眞を祀った「別当神社」が鎮座、『平成祭礼データ』では西日本では二社のみ。普通は神社内に設けられたお寺を別当寺といい、神社の管理にあたっていたとか。
神宮寺、宮寺とも云うようです。

>イナゴ
 斉藤実盛は虫送りの行事とかにも登場する若作りの武将ですね。木曽義仲に討たれたのですが、千代田町には冠者神社(現在の祭神は素盞嗚尊)が鎮座、これも源平に関係があるのかな。
そう云えば近くに熊野神社、紀の国の田辺の熊野湛増も別当でした。

[4223] 「雷神について」 伏せられた桶  kokoro [Mail] 2003/06/05(Thu) 01:07 [Reply]
「雷神について」 伏せられた桶

 先日、話題になった氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社は、社名だけでも、じゅうぶん興味深いです。

 氣吹雷響雷吉野大国栖御魂≠ヘ、風雨や雷鳴を神格化した氣吹雷響雷≠ニ、吉野の国栖のミタマを神格化した吉野大国栖御魂≠フ部分に分けられるのでしょう。当社は、『延喜式神名帳』に二座とありますが、雷神とくずのミタマの二座であったと考えることもできます。いずれにせよ、このような神社が存在していたということは、雷神とくず神とに関係があったことを示唆するものです。ということで、思い付くままに両者の繋がりを考証してみました。

 わが国各地に広く残された雷神の伝承に、「落ちてきた雷」型とでも呼べそうなタイプがあります。天から落ちてきた雷が捕らえられ、何らかの約束(例えば「もう二度とこの辺りには落ちこない」のような)と引き替えに放免される、というようなストーリーです。

 このタイプの伝承には、落ちてきた雷が捕らえられる前に、内部ががらんどうになった空間の中に入る、というモチーフがしばしばつきまといます。たとえば、奈良県によく見られるのは、雷が井戸に落ち、その上にフタをされて捕まってしまうという話形です。
 しかし、これと共によくみられるのは、伏せられた桶に入るというパターンであります。何かが天から落ちてきたので、驚いて見に行くと、伏せられた桶の中に雷が隠れているのが見つかり、捕まえられる ── 典型的なばあい、こういったようなモチーフが、残っているのです。

 さて、『日本霊異記』第1巻第三に「落ちてきた雷」型が収録されています。

 「敏達天皇の時代、尾張国愛智郡片ワの里でのこと。農夫が田に水を引いていると雷が鳴り出し、子供の格好をした雷が落ちてきた。鋤で殴り殺そうとしたところ雷は、助けてくれれば子供を授けると言ったので、請われるままに、楠の舟に水を入れ、竹の葉を浮かべて与えると、水を得て空へ昇っていった。やがて生まれた子は、首に蛇が二重に巻き付いて頭と尾を後の方にたれていた。」

 この説話に伏せられた桶はでてきません。しかしながら舟がでてきます。この船は伏せられていませんが、しかし、楠の舟に水を入れ、竹の葉を浮かべて与えると、水を得て空へ昇っていった≠ニいう場面は微笑ましく、物語的な面白みを追求した感じがします。おそらく、もともとはこの船も伏せられており、地上に落ちた雷は何らかのかたちで、その中にもぐり込んだのでしょう。それが後世、シンボリックな意味が忘れ去られるとともに、説話的な粉飾がこらされ、現在、見られる形へと改変を受けたのではなかったでしょうか。
 そのように考えるのも、くず族の伝承に、伏せられた船が登場するものがあるからです。吉野の国栖地方に残る「国栖の翁」がそれです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昔、大海皇子が吉野山におられると、ミルメ・カクハナなどが、不意に山を襲うた。皇子は敏くそれを察し、夜中に山を落ちて、国樔の川辺をさまよっておられた。敵はたちまちその後を追って、皇子に迫った。
 川には橋も舟もなかった。皇子は進退きわまった。ちょうどその時、ひとりの漁翁が川舟に乗って現れた。皇子は急に言葉をかけて、漁翁に頼まれた。漁翁はうなずいて、とっさにその舟を河原に伏せて、皇子をおおい、船底にはぬれ着物を引っ張っておいた。
 やがて敵がかけつけて、翁に皇子のゆくえをなじった。そこへまた付近の犬が一匹出てきて、鼻をクンクンといわせながら、しきりに舟のまわりをかぎ始めた。これではならぬと思って、翁は相手の大将ミルメ・カクハナのすきをねらって、一撃にこれを打ち倒した。
 手下どもは、この勢いに恐れて散り散りバラバラに逃げうせた。
 こうして、翁は皇子の危難を救い、付近の和田の岩屋に案内して、粟飯にウグイの魚をそえてさしあげた。すると、皇子はウグイの片側だけを召し上がり、残りの片側を水中に投じて、いくさの勝敗を占われた。魚は勢いよく活きて水中をはねまわり、皇子の戦勝を予示した。<中略>
 皇子は、他日帝位についたら、これをシルシに持って参上せよと仰られて、錦旗と鼓胴とを翁に賜わった。それで翁は、その後大和浄見が原の宮に参上し、勅によって歌曲を奏し、桐竹鳳凰の装束と御製とを賜った。<後略>
・高田十郎氏他編『大和の伝説』

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この伝承の後段は、国栖奏の起源を説明するものです。しかし、前段は「落ちてきた雷」と同じ観念を伝えるものではなかったでしょうか。すなわち、大海皇子が隠れる伏せられた船は、雷や河童が隠れたどうようの状態にある桶たちと等価であり、この意味に於いて「国栖の翁」前段は、「片ワの里」と通底するのです。

 伏せられた桶や船、こういう構造はとりわけ雷に関係深いようです。蚊帳を吊すと雷が落ちないという言い伝えがありますが、蚊帳もそんなような構造ですね。また、雷神の図像は、太鼓を背負っているばあいが多い ── これは激しい雷鳴を、太鼓によって表現しているのかと思っていましたが、あるいは伏せた桶を使う桶太鼓というものもありますから、そっちからきているのかもしれません。

 こうしてみると、くず民の伝承に、伏せられた船と、誰かがその中に隠れるというモチーフのあることは、彼等の信仰に雷神との繋がりがあったことを示しているように思われます。

☆ ちょっと思い付いたことがあるので、もう少しつづけます。

[4222] 貴別当神社について  AKEMI [Mail] 2003/06/04(Wed) 23:33 [Reply]
佐賀県神社誌要に載っていないことは残念です。
何を調べたら良いのでしょうか・・・・・。どなたか教えてください。
別当についてですが、イナゴのことを「べっとう」と言うらしいです。鳥居の建立年代からすると、大飢饉で人々が苦しんでいた頃です。ここは今でも農村として栄えているところなのですが、その頃も農村だったでしょうし、イナゴの害に悩まされていたのではないでしょうか?実盛祭りと言う虫送りの行事が西日本一帯であるという事も聞いたことがあります。ひよっとしたら関係があるのではないかとも思っています。
貴別当神社は東を向いて建っていますので、東方向にある神社についても調べてみたいと思っています。

追伸:管理人さんへのお詫び
先程操作を誤り、書き込みをしてしまいました。4221が誤操作による書き込みです。申し訳ありませんが削除をお願いいたします。

[4220] Re[4219]: 横から失礼します  玄松子 2003/06/04(Wed) 23:04 [Reply]
> 佐賀県神社誌要というのが大正時代に出ているそうですので、それを見つけて調べてみたいと思います。何かわかりましたらお知らせいたします。

残念ながら、「佐賀県神社誌要」には貴別当神社は記載されておりません。
斉藤実盛が祀られているのは、「別当」という社名からではないでしょうか。
あるいは、実盛を祀ったので、「別当」と称したのかもしれませんが、
他の例をしらないので、断言できませんが。

[4219] Re[4214][4213][4211]: 横から失礼します  AKEMI [Mail] 2003/06/04(Wed) 19:11 [Reply]
いろいろ教えていただきありがとうございます。大変勉強になります。
貴別当神社のある神埼郡千代田町下西は巨勢、境原に隣接するところです。
下西にりんせつす
私が住んでいる地域がどんなところだったのかますます興味が湧いてきました。
佐賀県神社誌要というのが大正時代に出ているそうですので、それを見つけて調べてみたいと思います。何かわかりましたらお知らせいたします。

[4218] Re[4217][4216]: 突然失礼いたします  チョロ [Mail] 2003/06/04(Wed) 19:06 [Reply]
宣伝していただき、ありがとうございます。
でも、ろくでもない思いつきばかりではずかしい・・・。

>  嘉瀬町の四面神社の近くに神明神社が鎮座、「とんでもニャ〜Mの推測」では、元々は四面神社だったとかなりませんかいな。

神社のような、そうでないような感じです。
確証がないので本当にとんでもない推測なんですが、
「教会」に近いもののような気がしております。
「景教」も「教会」という名称を使っているならば、ですけど。

[4217] Re[4216]: 突然失礼いたします  神奈備 2003/06/04(Wed) 17:56 [Reply]
チョロさん いらっしゃい。
お得意行基菩薩お手植えの木と伝えられる名木がある神社でしたね。ここは小生も詣でたことがあります。
四面は国生み神話の九州のことのようですね。それが仏教と習合すると、ご紹介のHPの
一の宮。千々石神、阿しゆく如来、現在の千々石町、温泉神社。
二の宮。山田神、宝生如来、現在の吾妻町、温泉神社。
三の宮。伊佐早神、阿弥陀如来、現在の諫早市、諫早神社。
四の宮。有家神、釈迦如来、現在の有家町、温泉神社。
となるんですね。

 嘉瀬町の四面神社の近くに神明神社が鎮座、「とんでもニャ〜Mの推測」では、元々は四面神社だったとかなりませんかいな。

 と云うことで、チョロさんのHP、EASYCLUBは柔軟思考の「Y&Mのお部屋」の「とんでもニャ〜Mの推測」など、楽しく読ませてもらっています。

http://easyclub.web.infoseek.co.jp/

[4216] 突然失礼いたします  チョロ [Mail] 2003/06/04(Wed) 12:03 [Reply]
はじめまして。ずっと拝見させていただいてましたが、突然おじゃましました。
神奈備さま、先日はリンクの件、ありがとうございました。
その上いろいろとお手数をおかけして、すみませんでした。

ところで、四面神社については↓に詳しくありますので、
何かわかるかもしれません。

http://www.fwd-net.com/jin/isajin.html

[4215] 貴別当神社鳥居の碑文です  AKEMI [Mail] 2003/06/04(Wed) 09:32 [Reply]
皆様、ありがとうございます。
ここの掲示板に書きこみをさせていただき、本当に良かったと感謝いたしております。
私は歴史にも全く疎く、神社仏閣への興味も全くなかったのですが、なにかに引かれるように貴別当寺神社にたどり着き、今とっても興味を持っているのです。
いろいろ教えて下さい。
鳥居の碑文は以下の通りです。
香具さんのご教示通り、ここにも大震災、大飢饉の跡が見られます。

貴別當社 鳥居碑文

右柱
西海路肥之前州神埼郡野口邨之霊廟者、不知誰
尊垂蹟、古今稱
貴別當大明神而不止祭祀矣、或曰琉球王子也、未考
事實之為恨耳、霊地所属廣互三邨、厥土生民奉信
茲神為氏系守護神、而久旱祈雨疾病禳疫祈靡不
霊矣、恭以神之徳也、雖厥蹤見不測、在当人生信一
念頭、信心清浄則如水月相映如鏡像、相望昭昭乎
而非苟不應矣、古賀氏故三郎右衛門者世世住野
口、篤信至誠其天性者也、神前以無鳥居、為鈬半減
家資、創建石柱之神門而為鳥居、正寛文庚戊歳也、
迄于今殆四十年許、客歳丁亥冬十月初四日有地
震災、山川崩裂水底起伏、鳥居亦為之砕矣、孝子今
三郎右衛門續父之志、旦欲擴勝緑、募三邨各各喜
捨浄財、命石工再造立焉、于時戊子十月初二日也、
僅一週月而復改、観以功終之前一日忽来、請銘於
予、請之急也、不遑固辞俄然諾卒然述


左柱 上部
銘曰
霊験不測 徳化無彊
日月竝光 安鎮国土
除妖怪蹟 與妙吉祥
巍巍堂堂 雖識唯貴
贍此仰此 稱貴別当

維豈宝永五次戊子歳十月吉日


左柱 下部
乾坤合徳
權護民薙
煌煌BB
未知厥詳
奉圓岳誌




[4214] Re[4213][4211]: 横から失礼します  神奈備 2003/06/04(Wed) 09:23 [Reply]
香具さん ありがとうございます。時代背景がよく分かります。

で、若干の地域背景を我田引水的に。

 神社本庁の資料の住所は神崎町下西となっていますが千代田町下西でしょうね。訓は「たかべっとう」とあり、両方の訓があったのでしょう。

 千代田町付近の地図をみていますと、列島の古代がつまっているように感じます。
AKEMIさん>徐福伝説の残る南に諸富町、ここは徐福は上陸場所を盃を浮かべて占って上陸、ここから北方の金立山を目指したと伝わっています。
 前に佐賀をうろついた時、金立山上の金立神社を目指しましたが、残念ながら時間切れで当時はあまり立派とは言えないような下宮、ごく小さい中宮の祠までしか詣でることが出来なかったことを思い出しました。

 金立山の東になるのでしょうか、日の隅山があり、更に東に有名な吉野ヶ里遺跡があります。
日の隅山の南に四面神社と云う神社が鎮座、祭神は諌早社、温泉神、志志岐神、千千岩神となっていますが、この神々は一体何なんでしょうか。海の神、山の神を対とするようにも見えますね。神社由緒など判りましたら教えて頂きたいものです。
 紀の国に日前神(ひのくま)国懸神(くにかかす)と云う二神を対としている式内大社が同一敷地内に鎮座、地名やありように何か似通ったものを感じます。

 と云うのも、西の武雄温泉辺りが生誕地との伝承を持つ武内宿禰から派生した氏族の一である巨勢氏を思わす地名があり、千代田町の中には境原と云う字があり、これは紀の国での武内宿禰の生誕地の伝承のある安原の隣に境原があるからです。

 佐賀県の北西隅の基山町、南西の有明海西北には紀の国の国魂である五十猛命の伝承が残っており、佐賀には深い由縁を感じます。

[4213] Re[4211]: 横から失礼します  香具 2003/06/04(Wed) 00:09 [Reply]
私は歴史に疎いので (^o^)、宝永五年前後を年表で見てみました。

宝永5年(1708年)の前後について。
 これより7年前の元禄14年(1701年)は刃傷松の廊下で、翌、元禄15年(1702年)12月が、赤穂浪士の討ち入りです。
 元禄15年(1702年)、凶作のため奥羽地方の餓死者多数、秋より松前飢饉。
 元禄16年(1703年)、南関東大地震、江戸市中の被害甚大。
 宝永元年(1704年)、浅間山噴火。諸国洪水、利根川出水による被害甚大。
 宝永2年(1705年)、この年、伊勢おかげ参り盛ん。
 宝永4年(1707年)、宝永地震。富士山噴火、武・相・駿の被害甚大。
 宝永5年(1708年)、京都大火。大坂大火。
 宝永6年(1709年)、将軍綱吉没。この年、琉球飢饉。
なんだか、大変な災害が続いた時代だったのですね。

 琉球に目をむけると、宝永5年(1708年)の前後は、第2尚氏王統の第11代『尚貞王』(在位:1669〜1709)の時代。尚貞王の子は、尚純、尚経、尚綱、尚紀。第12代の琉球王は尚貞の孫、尚純の子、『尚益』(在位:1710〜1712)が継ぐ。
 1709年には首里城炎上、大暴風が7度も襲来、さらに続く旱魃で農作物が全滅。琉球史上最悪の災害となり、3199人の餓死者を出す『丑年の大飢饉』と呼ばれた。この年、尚貞王が死去、翌年に孫の尚益が王位についた。薩摩藩は大飢饉の見舞金として銀二万両を琉球に贈り、さらに幕府は翌年の薩摩藩の参勤交替を免除したという。

 宝永5年(1708年)に琉球王子であったのは、後々に琉球王を継ぐことも無かった、尚純、尚経、尚綱、尚紀の誰かを指すのでしょうか?
 それとも先代である第10代『尚質王』の子、つまり尚貞の兄弟の名乗りでしょうか?ちなみに、尚質王の子は、尚貞、尚弘仁、尚弘毅、尚弘才、尚弘徳、尚弘信、尚弘善。(尚貞だけが弘がつきませんね)。
 天変地異による災害が続き、王位継承もなんとなく不自然な(いきなり孫へ)感じなのですが、歴史にくらいので見当がつきません。ウチナーの方々、お教え下さいね。m(__)m
そしてなぜ佐賀の貴別当神社なのかというのも興味あります。
 それから琉球では、線香=仏教とは限らないみたいですね。形式は仏教的な影響かもしれませんが、お香を神様にも捧げる捧げ物としての広い捉え方をしているような感じがするのです(あくまでも素人の印象の範囲内です)。

[4212] 追伸  AKEMI [Mail] 2003/06/03(Tue) 22:53 [Reply]
貴別当神社は佐賀県神埼郡千代田町にあります。今度写真を別荘に送りますね。

[4211] ありがとうございます  AKEMI [Mail] 2003/06/03(Tue) 22:46 [Reply]
神奈備さん、早速のお返事ありがとうございます。貴別当は「きべっとう」と読みます。神仏習合が残っており、境内には仏教関係の石碑も残っていますし、今でも神社に参拝する時は線香をあげます。面白いことに氏子の家でも神棚には生花と線香をあげているそうです。
先日、「琉球王子」のご縁で、沖縄出身の方たちが参拝に来られ、神社で線香をあげるのは沖縄と同じだと驚かれていました。
海の石は安山岩のようで、山の石は花崗岩です。海の石は島原半島から、山の石は背振山系の山から来ていると思います。一帯には2000年以上前から人が住んでいる跡があります。2300年前の海岸線上に貴別当神社はあります。
斎藤実盛も祭ってあるのですが、これは実盛がここを治めていたからなのでしょうか?
神社仏閣には余り興味を持っていなかったのですが、これから勉強してみたいと思います。よろしくお願いいたします。


[4210] Re[4208]: 教えてください  神奈備 2003/06/03(Tue) 21:18 [Reply]
AKEMIさん こんばんは。
> 宝永五年
 1708年ですね。

> 貴別当神社
たかべっとう、神埼町。祭神は齋藤實盛 倉稻魂命。

> 琉球王子
齋藤實盛のことでしょうか?

> 海の石・山の石を対とする巨石信仰
小生は聞いたことはありません。
京都市左京区松崎林山の岩上神社の神石は「兵庫の海中で霊光を発していたものを得て勧請したと伝わる」ようで、お問い合わせとは趣旨が違いますが、ご参考に。

[4209] 訂正です  AKEMI [Mail] 2003/06/03(Tue) 00:27 [Reply]
済みません、先程の書きこみで琺永5年とかいてしまいましたが、正しくは宝永5年です。

[4208] 教えてください  AKEMI [Mail] 2003/06/03(Tue) 00:25 [Reply]
徐福伝説の残る佐賀平野に貴別当神社があります。この神社の境内には金倉石と称す、海の石・山の石と呼ばれる巨大な石があります。この神社には琉球王の子が祭られているといい、鳥居の碑文に琉球王子とはっきりと読み取れる刻字があります。鳥居の建立は琺永5年です。神仏習合の形跡があり、今も神社にお参りする時には線香をあげています。
とても不思議なところだと思います。
海の石・山の石を対とする巨石信仰をどなたかご存知ありませんか?

[4207] Re[4201]: 吉野町小名  神奈備 2003/06/01(Sun) 10:35 [Reply]

 吉野と宇陀の境で伊勢街道沿いの所謂九頭の濃密な地域に小名牟遅神社が鎮座、小名牟遅神とは少彦名神のことのようですが、一方、春日明神、九頭明神を祀るともされているようです。『吉野町史』。
『平成データ』では、同神社の祭神は小名牟遲神、武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、姫神であり、消去法でいくと、九頭の神は少彦名神を示しています。
 日本の昔話には水辺の桃や瓜などから美しい母と云うか女に抱かれて小さい子供が誕生します。
水浸しの地母神の信仰のようで、まさに水田を思わせ、山岳地帯の棚田での稲作の豊穣を祈ったものかも知れません。
 九頭神に水神の神格に加えて稲作豊穣の神格が見えることは箸墓南の国津神社(九日神社)の九日が作物を神に供える供日の可能性があることからも推測できます。
 kokoroさんが『三輪山とくず:最終回』[4121] で、
> 三輪山の東に広がる山間部で、三輪山の祭祀と母子神信仰とを結びつける思想のあったことをうかがわせます。
と記しておられるのは、そこには山間部での稲作と云うことが背景にあり、山田の中のカカシが少彦名神を知っていたのは山田であることが必要であって、この少彦名神が去って大物主神が登場してくる『古事記』の説話は、稲作が山間の棚田だけではなく、ある程度の灌漑ができる段階になって国中が開発されてきた際に登場してきた神だと云うことを示しているとは言えないでしょうかね。山のクズが里に下りてきたのかも。
 
 現在は見あたりませんが、伊太祁曽神社にその昔九頭明神が祀られていました。また母子信仰があったようだと松前健『探訪神々のふる里』で述べています。kokoroさんが九頭と母子信仰のつながりに着目されたのは慧眼だと讃えます。

> 対馬の古い信仰のことを考えたからです
 伊太祁曽にも関係の深い土地です。

[4206] Re[4205][4203][4201]: 吉野町入野  kokoro [Mail] 2003/05/31(Sat) 21:17 [Reply]
> 「えらい神様」のお話は『吉野町史』からです。

 ありがとうございます。ソースの明示はできるだけしたほうがいいかも…。それだけで、信憑性がぜんぜん違ってきます。
 ただ今回、ソースにこだわったのは、対馬の古い信仰のことを考えたからです。他意はありません。


> 合祀の件は、地元の郵便局員と地元の方お二人からです。最近のことのようです。

 ダムで下宮だけが、水没したのかもしれませんね。


>  話は変わりますが、窪垣内の上流付近の国栖庄は、『一乗院家御領』には稲淵庄在末庄国栖庄とあり、国栖庄は南淵寺の領地だったそうで、kokoroさん[4152] の氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社について、泊瀬女さん[4153] の飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上の三つの祠が信憑性がどんどん増してきているような気がします。

 お、さすがですね。これは、山上の祠を考証する素晴らしい根拠になりますよ。

[4205] Re[4203][4201]: 吉野町入野  神奈備 2003/05/31(Sat) 08:52 [Reply]
kokoroさん、おはようございます。
> > 面白いのはともに石穗押別命を祀るが、下宮の神様は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのこと。
> このソースを教えて下さい。ちなみに『奈良県史5 神社』によれば、国樔神社(下宮)は、入野字宮ノキクに鎮座しています。

「えらい神様」のお話は『吉野町史』からです。
合祀の件は、地元の郵便局員と地元の方お二人からです。最近のことのようです。

> 女神が似合う
 水の神で有名なのが彌都波能賣命やひょっとしたら丹生都比賣神、ここらからの単純な連想です。
 尤も、少名彦名神も水神の要素がありそうで、九頭神と久須斯神をつなぐのはこの神かもなどと思っていますが・・。

 話は変わりますが、窪垣内の上流付近の国栖庄は、『一乗院家御領』には稲淵庄在末庄国栖庄とあり、国栖庄は南淵寺の領地だったそうで、kokoroさん[4152] の氣吹雷響雷吉野大国栖御魂神社について、泊瀬女さん[4153] の飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の横から登った山の上の三つの祠が信憑性がどんどん増してきているような気がします。
 どなたが三つの祠を発見するのでしょうかね。

[4204] Re[4202][4197][4196][4195][4193][4190]: 無題  神奈備 2003/05/31(Sat) 08:51 [Reply]
のりちゃん、おはようございます。

田原本の大網村がありました。今のアザ大網。
この大網は大依網の二文字化したものだそうです。『奈良県歴史地名辞典』
大依網と云えば、大依羅神社が住吉区庭井町に鎮座、住吉っさんと深いつながりがあり、かつ途中で衰亡しているようです。
摂津の国から大和へ移住した大依羅一族がお参りに行っていたが、衰亡したので住吉っさんに切り替えたのかも。

[4203] Re[4201]: 吉野町入野  kokoro [Mail] 2003/05/30(Fri) 23:57 [Reply]
 神奈備先生、こんばんは。

>  面白いのはともに石穗押別命を祀るが、下宮の神様は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのこと。

 このソースを教えて下さい。ちなみに『奈良県史5 神社』によれば、国樔神社(下宮)は、入野字宮ノキクに鎮座しています。


>  クズの神はどうやら水神でもあり、女神が似合うようで、

 くず神の神格に、水神としてのそれがあったのは、分かりやすいですね。けれど、女神が似合う≠ニ考えたのは、どういう理由からでしょうか(べつに、否定したいわけじゃないんですよ)。

[4202] Re[4197][4196][4195][4193][4190]: 無題  のりちゃん 2003/05/30(Fri) 23:42 [Reply]
> > > 田原本は桃太郎の故郷でもあるとか。

田原本町といえば、鏡作神社が三社あることも思い出されますね。

また、住吉大社さんについてですが、
畝火山口神社の境内案内板によれば、「二月祈年祭と、十一月の新嘗祭」に用いる土器を作るための埴土は、畝火山の山頂で採取するのだそうですし、
また、柏原市史によれば、河内鑑名所記の「白坂(宿奈川田)神社」の章には、「此社の前の大河にて、住吉の社務代十一日か間水こりをかきたまひ、塩こり温こりは住吉にてかき、冠を着たまふよし、里人のかたりき。」
とあるのだそうです。

お祭のごとに、いろんな神社さんと関わりを持たれているのかもしれません。

それがなぜかは知りませんが、かなり「外交的」な神社であるような印象があります。

[4201] 吉野町入野  神奈備 2003/05/30(Fri) 22:08 [Reply]
 吉野町に入野という隠里のような山間の集落がある。津風呂湖の東側にあたる。
かって入野には二座の神社が鎮座していた。共に石穗押別命を祀り、國樔神社と上宮神社と云う。立地上から上宮神社は國樔神社より高地に鎮座していたのでそう呼ばれていたようだ。國樔神社は下宮と云う。
 面白いのはともに石穗押別命を祀るが、下宮の神様は女神であるとされ、上宮の神様より「えらい神様」とされているとのこと。
 クズの神はどうやら水神でもあり、女神が似合うようで、それでもってえらいとされたのであろうか。
 なお入野の下宮は上宮に合祀されているようだ。

 出雲の日御崎神社も上宮には素盞嗚尊、下宮は天照大神とされている。どちらが偉い神様?、現在ではどうやら天照大神で女神でえらい方となる。


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