神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十六年 四月)お名前の敬称は省略しています。

[5100] Re[5098]: 迷っています。  神奈備 2004/04/30(Fri) 14:59 [Reply]
 西大寺と薬師寺の間に伝垂仁天皇陵があります。
 唐招提寺には今年一月の末に参詣したのですが、工事中でした。もう済んだのかな。
 お寺参りが主たる目的でしたら、小生はよくわかりません。
 明日香に橘寺があります。本堂の中には田道間守の像などがありました。

 岩波新書に『奈良の寺』と言う新刊がありますが、名刹の解説があるようです。

[5099] Re[5097]: 埴安媛と埴山媛  神奈備 2004/04/30(Fri) 14:58 [Reply]
住吉大社から神官が埴土を採取するために現在は畝傍山に来るそうです。その昔は香山だったとか。『崇神紀』に、武埴安彦と妻吾田媛が香山の土を「これ大和の物実なり」としています。埴土で祭器を作り、国を支配すること(安国)を、埴安と言うのでしょう。その神格化が埴安神では。

埴土のとれる山が埴山、埴山に坐す神が埴山神とでも言うのでしょうか。

 神社本庁発行の『平成祭礼データ』では、埴安神と埴山神とは同一神とはしていません。多分、上記の理由などからでしょう。

[5098] 迷っています。  おおしか [Mail] 2004/04/30(Fri) 12:06 [Reply]
神奈備様、いつもお世話になっております。宝塚のおおしかです。
今回の連休は、奈良・大和路一日周遊です。
数年前に、興福寺→春日大社→東大寺のコースは経験しました。
平城京の北東です。
今回は、西大寺→薬師寺→唐招提寺と廻りたいのです。
しかし、底から先が問題なのです。
まっすぐに南下して橿原神宮へ行くかそれとも、
斑鳩の法隆寺方面に行くか大変迷っています。
私としては、大和王権・藤原京・飛鳥京の息吹を感じたいと思っています。
地理的には橿原神宮でしょう。
しかし、明治の創建、新しいのが気になります。
また、斑鳩は大和王権の発祥の地から遠ざかります。
橿原神宮か法隆寺か、さてどちらがお薦めですか。
両方行ければ良いのですが。時間の都合が・・・。

[5097] 埴安媛と埴山媛  「ほだらか」改め「大刻庵笑寿」 [Mail] 2004/04/30(Fri) 00:11 [Reply]
皆さま、こん**は
以前、社日さまの事で御伺いした「ほだらか」改め「大刻庵笑寿」です。
その後、私なりに元社調べや神格調べなどしていたのですが、基本的な質問で申し訳ありませんが、埴安媛と埴山媛は同一神格なのですか?
図書館などで調べてみると同一神格と扱われている事が余りにも多く、何故違う名前で同一神格なのか解らないのが現状です。
もし同じなら「埴山媛」を勧請して「埴安媛」としてお祀りする事は許されるのでしょうか(同じ事は「大国主」と「大己貴」にも当てはまりますよね)
本当に基本的なことですがどなたかアドバイスを頂ければ幸いです。
                               大刻庵笑寿

[5096] Re[5095][5094]: 味原姓  大三元 2004/04/29(Thu) 23:04 [Reply]
かたばみさん wrote:
> > 新編姓氏家系辞書によれば、能登に藤原頼道の子孫と称する粟生氏アワフがあって、能登国粟生五郎の6代目に粟生永幸がありその子が粟生廣基でこの人物が味原姓を名乗っているようです(家紋は舞鶴)。

なんと。。。播磨国風土記賀古郡「鴨波里」を「粟々(あはは)里」と云う、とありますが、これがこれかぁ!!! やはり味原は鴨がらみ、、、か。粟鹿、なんかもこれに列する語のようですね。


[5095] Re[5094]: 味原姓  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/29(Thu) 01:56 [Reply]

≫一概に、日本神話と関係があるとも言えないようですね。

新編姓氏家系辞書によれば、能登に藤原頼道の子孫と称する粟生氏アワフがあって、能登国粟生五郎の6代目に粟生永幸がありその子が粟生廣基でこの人物が味原姓を名乗っているようです(家紋は舞鶴)。
ご親戚か祖先に粟生さんがいらっしゃるようならこのラインがあるかもです。


味耜高彦根の文字がどこまで意を伝えているかによってはこの名を、アジガモのいる原(水辺)を耕した(耜高)祖先(彦根)、と解することができると思います。
あるいは鴨が泥中の餌を探る様子を「アジガモが耕している」とみて、その土地の祖先の意、こちらのほうが神話っぽくていいかな(^^;
古代の有力氏族「鴨氏」のカモはここからきていると空想することもできそうです。

ま、情報が少なすぎるので味原姓を味耜高彦根につなげるのはロマンの段階にとどまりますね。


[5094] 無題  chocolat [Mail] 2004/04/28(Wed) 01:13 [Reply]
レスありがとうございます。

>>神奈備さん
漫画の名前ですが、「神武」という安彦良和氏の漫画です。
この漫画の前に「ナムヂ」という大国主の物語もあります。

>>かたばみさん
なるほど。アヂガモの住む原ですか。
一概に、日本神話と関係があるとも言えないようですね。

昔は珍しさゆえに嫌いだった名前ですが、最近は好きになりつつあります。
自分でもできるだけ調べてみたいと思います。

[5093] Re[5092][5091][5090]: 味という鳥  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/27(Tue) 20:01 [Reply]

北海道へ移住した人々には新潟出身者が多いみたいですね。
アヂという鳥の名からは、なんとなく瀬戸内→日本海沿岸→北海道の流れがみえるような気もします。


[5092] Re[5091][5090]: 味という鳥  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/27(Tue) 19:53 [Reply]
万葉1062
安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲せ 夕薙丹 櫂合之聲所聆 暁之 寐覺尓聞者 海石之 塩干乃共 <b>渚尓波 千鳥妻呼 葭部尓波 鶴鳴動 視人乃 語丹為者 聞人之 視巻欲為 御食向 「味原」宮者 雖見不飽香聞

略・・・御食向ふ 「味経」の宮は 見れど飽かぬかも

(その他、参:万葉928)

万葉2751
味乃住 渚沙乃入江之 荒礒松 我乎待兒等波 但一耳
あぢの住む渚沙の入江の荒礒松我を待つ子らはただ独りのみ
あぢのすむ、すさのいりえの、ありそまつ、あをまつこらは、ただひとりのみ


葦は安之か葦みたいですから、味は葦ではなくアヂ。
辞書には「有+鳥」をアヂと読んでアジガモというトモエガモの一種とあります。
アヂガモの住む原、じゃないかな。


http://www.kt.rim.or.jp/~hira/birding/index.html
ここの日本産鳥類辞典→地方名など(和名辞書)から

あじ(新潟、石川、愛媛)、あじかも(東京)、あじがも(石川、鳥取)、さじさい(山梨)、あじろがも(新潟)、かも(愛媛、佐賀)、しまつぐみ(鳥取)、おしがも(熊本)、しまあらし(鹿児島)

あじがも(東京、福井、石川、兵庫)、ともがも(山形)、どろあし、よし、よしがも、かも、あじ、あじがも、すずがも(兵庫)、でつちがも(大阪)、あじさ(石川)、つぶて(埼玉)、あじがも、たおし、かも(佐賀)、づん(宮崎)、おしがも(福岡)、うまおし(熊本)


[5091] Re[5090]: 味原 という苗字  神奈備 2004/04/27(Tue) 08:01 [Reply]
> 大阪の地名で味原という場所があるようなのですが、苗字としての味原とも何か関係性などはあるのでしょうか?

名字の中には住んでいる地区の名をそのまま頂いたり、また逆に自分の名字を地名につける場合もあります。
カシミールで見ますと、大阪以外は、広島の東野町(大崎上島)に地名の味原があります。

> 古事記・古代史に興味を持ったのは漫画の影響です。
その漫画の題名を教えて下さい。

[5090] 味原 という苗字  chocolat [Mail] 2004/04/27(Tue) 02:00 [Reply]
みなさん、初めまして。ボクの苗字は「味原」といいまして、味原で検索をかけていたら、ここにたどり着きました。
大阪の地名で味原という場所があるようなのですが、苗字としての味原とも何か関係性などはあるのでしょうか?
ここの過去ログによると、(http://www.kamnavi.net/log/yumv0307.htm の中ごろ)
日本神話の味鋤高日子根命の話と共に出ているようですが、ちょうど古事記などにも興味があり、どんな小さな事でも知りたいです。
僕自身は生まれたときから横浜に住んでおり、親戚はみんな北海道のためであまり付き合いがないため、自分のルーツ的な事が何もわかりません。
どなたか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、どんな小さな事でも構いませんので、教えて頂けませんか?お願いします。

(歴史はもともと好きですが、古事記・古代史に興味を持ったのは漫画の影響です。大国主の息子を主人公にした漫画だったのですが、それって味鋤高日子根命ですよね?)


[5089] Re[5088][5087]: カシミールの検索  大三元 2004/04/26(Mon) 21:23 [Reply]
かたばみさん

> > 検索結果の覧の一番下をみると、検索結果が多すぎるので最初の100件まで・・うんぬんとあります。

わ! 見てなかった・・・本当ですね。そういうことでしたかぁ。
たびたび有り難うございました。

[5088] Re[5087]: カシミールの検索  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/26(Mon) 21:15 [Reply]
≫これも使ってるのですが、実は「長谷」で検索して出てこなかったのです。

検索結果の覧の一番下をみると、検索結果が多すぎるので最初の100件まで・・うんぬんとあります。
これでけられてるんだと思います。

「検索対象」のなかの「山旅倶楽部オンライン地名」の「+」をクリックすると県別の範囲指定ができます。
めんどくさいですが北海道だけを指定すればOKです。
ひょっとして東北あたりでも見逃してるのあるかもですね。

1県だけで100件越えたら・・うーん(^^;


[5087] Re[5085][5084][5082][5078][5077][5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  大三元 2004/04/26(Mon) 09:44 [Reply]
かたばみさん、お手数掛けました。ありがとうございます。
> > フリーソフトのカシミール3D、お勧めします。
これも使ってるのですが、実は「長谷」で検索して出てこなかったのです。
ところがお知らせを頂いたので念のため「長谷川」で検索したら、出てきました。
(「多摩」で検索すると「多摩川」も出てくるのにぃぃ。。)
どういうロジックなんだろ・・・

> > どうも明治あたりの入植者の人名じゃないかなあ。

そうなんですよね。宗教色(?)が感じられませんね。

[5086] Re[5083]: 白龍  神奈備 2004/04/26(Mon) 08:47 [Reply]
なおさん こんにちは。

 南九州の地域のことでしたら
 http://hayato.com/
の発信者がお詳しいので、お聞き下さい。

鹿児島の坊津町に竜女信仰があります。
娘媽、天妃、媽祖とされる神です。
何故、竜女かですが、明の何喬遠の『閔書』に、
「生時はすなわちよく席(むしろ)に乗って海を渡り、海人は呼びて竜女となす」
とあるからです。『日本の道教遺跡を歩く』から

[5085] Re[5084][5082][5078][5077][5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/25(Sun) 23:02 [Reply]
≫北海道の 長谷 地名のある所、詳しく教えて頂けませんか?

フリーソフトのカシミール3D、お勧めします。
http://www.kashmir3d.com/
本来は地形CGソフトですが国土地理院の2万5千その他がフルに使えて地名検索もできるので常用です。
(地図を使うには年会費が必要ですけど)

以下は日本地名索引の北海道で表示される順番での地図です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase01.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase02.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase02x.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase03.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase03x.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase04.jpg
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hase04x.jpg
(ごらんになったらこれは削除いたします)

どうも明治あたりの入植者の人名じゃないかなあ。
04の小樽の近所の長谷沢川の隣には豆腐屋沢川なんてのがあるし(^^;

山形県の長谷山は日本地名索引では「はせやま」だけど国土地理院では「ながたにやま」・・どっちが正しいのか??


十勝平野から石狩平野にかけて多数の縄文遺跡があります。
釧路川流域〜根室〜知床〜常呂川の沿岸にも縄文遺跡が並びます。
青森から漁猟系の縄文が展開したのかもしれない。

青森の三内丸山遺跡からは沿岸じゃ採れないはずのブリの骨多数、意外やサケは少なくてタイやヒラメのほうが多くて贅沢(^^;
十勝沖あたりまで黒潮が北上していたのかもしれません。

苫小牧市の東に縄文中期BC3000〜2000の最温暖期の静川遺跡があって、おそらくは最古の環壕があります。
聖域の境界の説と防御用の説がありますが、私は先住者との抗争がらみとみています。
コロボックル伝承、少彦名命系列の到来ではないかと。

庭にはえてきたフキでキャラブキ風を制作中(^^;


[5084] Re[5082][5078][5077][5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  大三元 2004/04/25(Sun) 00:17 [Reply]
かたばみさん

北海道の 長谷 地名のある所、詳しく教えて頂けませんか?

50万地名のデータでは一箇所も見つからず、山田秀三著『北海道の地名』にも、『北海道の地名』(平凡社、郷土歴史大事典)でも探し出せず、手持ち地図でも見つからず、郵便番号検索でも引っかからなかったのでお手数掛けますが。。。


[5083] 白龍  なお 2004/04/24(Sat) 23:26 [Reply]
いつも興味深く拝見させて頂いております。
鹿児島〜沖縄にかけて、龍神もしくは龍(白龍)と関連のある、神社や場所を探しています。もしご存知であれば教えてください。

[5082] Re[5078][5077][5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/24(Sat) 20:46 [Reply]
≫アイヌ語で pase kamuy というと「重い神」つまり重要な神のことです

地名検索してみました。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/chimei_hase.png

直感的にこの分布からは長谷のハセは縄文系がみえるような気がします。
(縄文形成時→BC10000に遡る〜BC4000、持論:南方系文化の北進時代)
北海道の長谷は最北の縄文遺跡のある地域に一致しています。

面白いのが長谷だがハセと読まない地名で、黄色がそうです。
これ、なんとなく持論での出雲の版図に重なる。
ハタではでてこなかった鹿児島にあるのが興味深いところで、なにかヒントを含むのかも知れない。
(私にとって、ですけど(^^;)


[5081] Re[5078][5077][5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  神奈備 2004/04/24(Sat) 14:24 [Reply]
>> 真妻神社の方は近隣の熱田神社の摂社であった長谷神社の神ですが、熱田神社が合祀された際、ともに合祀されており、由緒来歴にはたどり着けていません。
> これが新情報で、重い神(国持ち老女神){普通、老女神は火の神なのですが)が真妻に翻訳・翻案されているのか、と久しぶりに追加情報を頂いた次第です。

御坊市の東に真妻山と云う秀麗な神奈備山があり、ここに丹生都比賣が降臨されたとの伝承があります。
『丹生大明神告門』から
「下坐天日高郡江川丹生爾忌杖刺給比(クタリマシテヒタカノコホリエカハノニフニイムツエサシタマヒテ)日高郡川上荘に下江川上江川の二村あり 村中に川あり即江川といふ 其源真妻山の麓の尾続き切目荘松原村に真妻明神の社あり 土人丹生の真妻明神といふ 是江川の丹生社なるへし 今松原村の隣村に丹生村あり」
の真妻神社で、古い地名です。丹生都比賣には国持ち老女神の要素はありますが、ここの場合、ハセと直接つながっているのかどうかは不明。
 真妻神社の由緒では丹生都比賣神は伊勢からの飛来となっています。高野山ともめたか?
 
 ついでに『紀伊国続風土記』を見ていましたら、松原の真妻神社とは離れた所ですが、
http://www.mojikyo.gr.jp/gif/015/015374.gif
川村があります。ホクソと発音。火草とか。ここの氏神神社の祭神が「不老御前」です。この神社はその後どうなったかは判りません。長谷神社とは無関係なお話でした。

[5080] 大和誕生と水銀  なにがし 2004/04/24(Sat) 04:15 [Reply]
恋川亭様
先日本やによったおり、ご紹介されておられました主題の本を見つけましたので早速購入いたしました。大阪で探していて見つからず、まさか広島でみつけるとは思ってもいませんでした。
まだ全部呼んでいませんが、まず自分の興味のあるところだけ読みました。なかなか面白い内容でした。著者は奈良の人なんでしょうね。地元の人でないと出てこない面白い話でした。共感するところもあり??ってとこもあり。ただ、地元和歌山の部分については??でしたけどね。船岡山のあたりの話は、私地元ですけど最初は蛇島と言う名前しかしりませんでしたね。船岡山と言う名前は大きくなってから知りました。
結構ふぃーるどわーくをされておられるようで、かなり勉強になりました。

[5079] Re[5074]: 物部の一族の事跡(?)  恋川亭 2004/04/24(Sat) 01:18 [Reply]
> ・僕の(父方の)祖父は兵庫の出で、・・・

兵庫で長谷といえば・・・。
 JR山陽本線姫路駅からJR播但線に乗換え生野へ向う。播但線生野駅のひとつ手前が長谷駅(筆者通過)。兵庫県神崎郡大河内町長谷。「長谷山」が、あるかどうか?知りません。ご参考まで。ここは市川水系の支流犬見川沿いの地(長谷ダム)。遡れば砥峰高原を越えて宍粟郡一宮町福知の一宮神社(筆者未拝)とか(伊和神社とは別)。
 JR播但線をそのまま生野を越えて和田山に向うと、途中の青倉駅に朝来郡朝来町「物部」があります(筆者通過、未訪)。そこに物部八幡神社(筆者未拝)。
 文字通り、通りすがりの者に過ぎませんでした、失礼。

[5078] Re[5077][5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  大三元 2004/04/23(Fri) 22:17 [Reply]
神奈備さん、長谷山さん

> > > 長谷神・長谷大神
> > この神様は、一体どのような神様なのでしょうか?

ずっと暖めていながら満足が行かずに未発表ですが・・・
アイヌ語で pase kamuy というと「重い神」つまり重要な神のことです。
用例の一つに:
Moshir-kor huchi, kamui katkemat moshir-kor huchi, tan pase kamui, kuhekote kamui, kamui katkemat.
(大意)国・持・老女(女神)、神・貴女 国・持・老女、この重い・神、?神、神・貴女

があり、

> 真妻神社の方は近隣の熱田神社の摂社であった長谷神社の神ですが、熱田神社が合祀された際、ともに合祀されており、由緒来歴にはたどり着けていません。

これが新情報で、重い神(国持ち老女神){普通、老女神は火の神なのですが)が真妻に翻訳・翻案されているのか、と久しぶりに追加情報を頂いた次第です。


[5077] Re[5076][5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  神奈備 2004/04/23(Fri) 20:28 [Reply]
> > 長谷神・長谷大神
> この神様は、一体どのような神様なのでしょうか?

よくわからないので書かないつもりでしたが、出羽方面でしたので、記載しました。
真妻神社の方は近隣の熱田神社の摂社であった長谷神社の神ですが、熱田神社が合祀された際、ともに合祀されており、由緒来歴にはたどり着けていません。

[5076] Re[5075][5074]: 物部の一族の事跡(?)  長谷山 2004/04/23(Fri) 20:07 [Reply]
> 長谷山さん ようこそ。
御丁寧にどうも。

> この山の守り役を長谷山直と云うようで、これは役職でしょうが、それが物部系氏族の長谷山直になったのか、違うのか、よく判りません。
>
そうですか。まあ、遥か昔の事ですので、僕も中々分からないとは思っています。

> > 長谷寺の”山号”を由来とする「長谷山」地名
> 長谷寺の山号は豊山だと記憶しています。「長谷」と云う地名が山についたということですね。
すいません、”「長谷山という山号(ex.長谷山 本土寺←千葉県)」を由来とする地名”の間違いでした。

> 長谷山あれこれ
有難うございます。ところで…、

> 長谷神・長谷大神
この神様は、一体どのような神様なのでしょうか?
恥ずかしながら、初めて拝見致しましたもので、宜しければ御教授願います。

[5075] Re[5074]: 物部の一族の事跡(?)  神奈備 2004/04/23(Fri) 17:36 [Reply]
> こんにちは、長谷山と申します。

長谷山さん ようこそ。

先ず、長谷山口神社は、大和特有の神社で、長谷に鎮座する山口の神を祀るとの理解が通説のようです。一応、”長谷山”と云う山は西側が原生林の暖帯林で有名な与喜山のこととされています。この山の守り役を長谷山直と云うようで、これは役職でしょうが、それが物部系氏族の長谷山直になったのか、違うのか、よく判りません。

> 長谷寺の”山号”を由来とする「長谷山」地名
長谷寺の山号は豊山だと記憶しています。「長谷」と云う地名が山についたということですね。

長谷山あれこれ

神社名
青森県三戸郡南部町大向字飛鳥63 長谷山神社 伊佐那岐命
彌陀八幡宮を明治初年に長谷山神社と改名してうる。

地名
宮城県登米郡中田町浅水字長谷山315 白山神社 伊弉冉命 菊理媛命

長谷神
秋田県横手市大屋新町字小松原4 榮神社<通称>太子堂境内神社長谷神社 長谷大神
和歌山県日高郡印南町松原158 真妻神社 丹生津姫命 (合祀)長谷神

[5074] 物部の一族の事跡(?)  長谷山 2004/04/23(Fri) 14:49 [Reply]
こんにちは、長谷山と申します。
初めて書き込みをさせて頂きます。こちらには色々と詳しい方が多いようで畏れ多い
ですが、どうぞ宜しくお願いします。

ふとしたきっかけで古代に興味を持ち、ネットサーフィンを楽しむうちに、波に誘われる
がごとく(サーフィンだけに(笑))こちらに辿り着きました。
僕の姓(←とりあえず)は「長谷山」と言いますが、これが果たして「カバネ」なのか
「苗字」なのか「名字」なのかはイマイチ分かりません。
身の回りに家族以外の「長谷山」さんに出会う機会も無く、おぼろげながら「ひょ
っと
したら僕の姓は珍しいのかな?」位に思っていたある日、当時高校生だった僕は、図書館
で別件の調べ物の最中に(タイトルは忘れましたが)「姓氏○○事典」の類いの分厚い本
を見つけ、「どうせ僕の姓は(珍しいから)載ってないだろうな」と思いつつページを
めくると、「物部氏の末裔」的な記述が…。
その時は物部氏についての知識もほとんど無く、「へ〜、そうなんだ」位に思うのみで、
その事を一緒に居た友人に話してみても、「嘘クセーな、何だそりゃ(笑)」とのリアク
ション(ま、当然か(笑))でした。

その後、そんな記憶は天の岩戸の中に隠れていた(笑)のですが、時は流れに流れ、
祖母が亡くなり、久々に父親と向き合った時の事…。
・僕の(父方の)祖父は兵庫の出で、その家系には、「平家の落人」との伝承があった。
・同じく(父方の)祖母は、秋田(横手市付近)の出身で、近くの本家には武具(陣笠
等←時代等不詳)があり、どうやら武士だったらしい。
・その祖父・祖母共に、姓が「長谷山」(近親婚というわけじゃなく)で、家紋が「丸に
二つ引両」であり、宗派が「真宗本願寺派」という奇妙な一致があった。

との事を知り、「何かミステリアスで面白い!」と思いました。
そこで当時始めたネットで「長谷山」を検索すると、レースクイーンのおねーちゃんやら
洋食屋やら学者やらうどん屋やらが引っ掛かった(しかし、気のせいか引っ掛かる「長谷山」さんは、出羽が多いような…?)中に、「新選姓氏録」なるものが!
…で、そこには「長谷山直…大和国神別…ニギハヤヒの六世孫、伊香我色男命の後なり」
などという(当時の僕にとっては)暗号(笑)のような文字が。
加えて、こちらのサイトの桜井市初瀬の「長谷山口神社」のページがヒット。
それから、筑紫の遠賀川上流にも「長谷山」(筑紫&大和の地名の一致は「長谷山」
を含めて沢山)があり、三重県津市にも「長谷山」並びに「長谷山古墳群」なるものが
ある事も知りました。

…どうやら「長谷山」という場所が複数あるようだ。しかも、古代の「長谷山」さんが、
その山を管理していたのかも知れない…。

となりました。とは言え、そこから先は「長谷山」で辿る事は難しいようで(後代の
長谷寺の”山号”を由来とする「長谷山」地名との区別が難しいのです(泣))、従って
ここでニギハヤヒ&物部氏から辿ってみました。
結果、どうやら先に挙げた遠賀川流域は、物部氏の(大和流入以前の?)痕跡(アラカ
ヒの時の物と紛らわしいようですが)があり、大和の長谷(初瀬)も物部氏勢力の中に
あったようだという事がわかり、物部氏の職掌が”祭祀”だった事と併せ、少し光明が
見えて来たような…?

更に更に、冒頭の祖母の故郷のほど近くに、唐松山天日宮という物部氏ゆかりの神社が
あり、そこの宮司さんは物部守屋の裔と言うではありませんか!
しかも、その唐松山天日宮がある秋田県仙北郡協和町から雄物川を上流に向かった羽後町
田代には、「旧長谷山邸」なるモノが!
で、その「旧長谷山邸」(←これが本家なのか不明です(汗))の歴代当主は、この田代
地区の地主だそうで、さらに家宝の「昇り龍&降り龍」の水墨画(屏風)があって、
これを出すと雨が降るという伝説があり(雨乞い神事の名残りか?)、実際に秋田のロ
ーカル紙の記事によれば、水不足の年に出した所、大雨が降ったらしいのです(ホント
かよ(笑))

…ん、あれ?…待てよ?…そう言えば…、

北九州:遠賀川     物部氏の痕跡有り  上流部に「長谷山」
大和 :大和(初瀬)川 物部氏の痕跡大有り 上流部に「長谷山」
出羽 :雄物川     唐松山天日宮    上流部に「旧長谷山邸」
                                          
こ、こ…これは物部氏とその一族の移住の痕跡か!?


…何だか私的な事が多くて申し訳ありませんが、ここの皆様はどう思われますでしょう
か?
また、「長谷山口神社」・「長谷(初瀬)山」及び「長谷山直」について何か御存知の方
がおられましたら、是非ともお教え下さいませ。
(ちなみに、上記の祖父の方については、物部氏絡みの事跡も含めて、しっぽすら掴めて
いません(泣))
                    

[5073] Re[5072] 鉾その他  恋川亭 2004/04/22(Thu) 23:48 [Reply]
> 下図でしょうね。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/yari_hiiragi.jpg
> 時代は5世紀中葉〜後半。雄略時代。

 これこそ見せて脅かさせる形状ですね。砥いだり磨いたりする人は大変そうです。元祖セレーション(波刃)? (^^)
 ズレてしまいますけど、葦原志挙乎命の「葦」に(葦原中国や葦原水穂国の葦原にすぎないのですが)、矛のイメージも持たせていないかな?と思いついました。八千矛神の矛。葦原の如き八千矛の軍団。呪術系の古典に葦を矛に見たてて魔を祓う話しが載っていたものですから。

[5072] Re[5071][5070][5068] 鉾その他  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/22(Thu) 22:04 [Reply]
≫ヒイラギの葉っぱみたいな矛の刃でしょうかネ?

下図でしょうね。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/yari_hiiragi.jpg
時代は5世紀中葉〜後半。雄略時代。

これに先行して五世紀前半では身が蛇のようにうねった蛇行剣(槍)が諏訪のフネ古墳から出土。
類似が京都椿井大塚古墳、石川県狐塚古墳から出土しているそうです。


[5071] Re[5070][5068] 鉾その他  恋川亭 2004/04/21(Wed) 21:37 [Reply]
> 出雲伊波比神社・入間郡毛呂山町岩井2915
> の御神宝として「比々羅木の矛」があります。

ヒイラギの葉っぱみたいな矛の刃でしょうかネ?
中国の昔の兵器が載っている『武経総要』の抜粋を見ると、宋代の兵器のところにヒイラギの葉っぱのようにギザギザした刃の矛がありました。もっと古くから有ったかもしれませんね。

> ただ時間的に『景行天皇五十三年八月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり』
> となると、そんなに長生きはしていないような?

御由緒ということで気持ちの問題もあるかと。
そのへんは、昔話・伝承として、大目に大目に見て下さりませ。(o^-')b

[5070] Re[5068] 鉾その他  QUBO [Mail] 2004/04/21(Wed) 16:04 [Reply]
杉じゃあなかった!! ヒヒラギの八尋矛(ヤヒロホコ)でした
恋川亭さん、すいません。書き込んでから調べて訂正

出雲伊波比神社・入間郡毛呂山町岩井2915
の御神宝として「比々羅木の矛」があります。

神奈備神名帳によれば『景行天皇五十三年八月、倭建命が東征凱旋のとき
およりになり、平国治安の目的が達 成せられたことをおよろこびになられ、
天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝とし、侍臣武日命に命じて創立
された社である。』
ただ時間的に『景行天皇五十三年八月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり』
となると、そんなに長生きはしていないような?



[5069] 春うらら  きらきら 2004/04/20(Tue) 00:33 [Reply]
 島根県安来市にある足立美術館が米国「ザ・ジャーナル・
オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」誌のコンテストで、桂
離宮を抜いて日本庭園世界一に選ばれました。
 同美術館には横山大観の名作「白砂青松」の持つ雰囲気を
表現した白砂青松庭、枯山水、苔(こけ)庭、池庭が美術館
を囲むように造られている。床の間の壁をくりぬき、庭をあ
たかも絵画のように見せる仕掛けも。広さ四・三ヘクタール
の庭園を常駐の庭師七人がきめ細かくメンテナンスしている
とのこと。
また、同市は刃物鋼出荷量日本一で、安来鋼(ヤスキハガネ)
というブランド名で知られている。それは日本刀の原料で、
古代製鉄法たたら吹きによりできる和鋼の技術を基盤として
最新のテクノロジーとの融合された製造を行っているためで
ある。なかでも特に剃刀の刃は高品質が求められるが、こ
れが世界一のマーケットシェアーを誇っており、その他の刃
物鋼も一流の職人の間では切れ味世界一と評されている。
 この和鋼に関する日本一の総合博物館である和鋼博物館や、
山陰最大の天台宗の古刹、清水寺など和のもつ美しさを堪能
できる場所になっている。
 西日本にお住まいの方などは、ゴールデンウィークあたり
に、ちょっとした小旅行を楽しまれてはいかがでしょうか。

[5068] Re[5067]: 鉾その他  恋川亭 2004/04/19(Mon) 20:31 [Reply]
 QUBOさん、お久しぶりです。鉾立山のどこからか「杉の八広矛」は出土していませんか?有ったら国宝物!(^^)
 壮士は・・・そうですねぇ、出雲の壮士ならば健御名方命が有名ですもんね。ですから、アレは青草として。(^^;)
 しかし、日本書紀や出雲国風土記には健御名方命が出てこないですし〜。記紀や出雲国造神賀詞では味耜高彦根命と事代主命は別神ですし〜。記紀の国譲りの場面で味耜高彦根命は出てこないですし〜。なかなか難しいですね。

『神奈備にようこそ』サイトの「味耜高彦根神を祀る神社一覧」から、
http://www.kamnavi.net/jm/adisuki.htm
 味耜高彦根命と事代主命・健御名方命を祀っている神社を抜粋してみました。(漢字が表示されない箇所はカナに代えました)
【以下引用】
・出羽(羽後)国 秋田郡 総社神社「天照皇大神、豐受比賣大神、大己貴神、八重事代主神、味スキ高彦根神」
  『八重事代主神と味鋤高彦根神を左右相殿として祀った』
・下総国 結城郡 日光神社「大己貴命、事代主命、味スキ高彦根命」
・下野国 塩谷郡 東護神社「大己貴命 配祀 味耜高彦根命、事代主命」
・下野国 那須郡 示現神社「事代主命、味耜高彦根命」
・下野国 足利郡 板倉神社「大己貴命、味耜高彦根命、事代主命、田心姫命」
・越後国 蒲原郡 日光神社「味耜高彦根命、 健御名方富命 」
・越前国 今立郡 須波阿須疑神社「倉稻魂命、大野手比賣命、建御名方命、太田命、大己貴命」
  『阿須伎大神とは味鋤高彦尊のこと』
・信濃国 高井郡 逢瀬神社「健御名方命、軻遇突智命配祀、味耜高彦根命」
・駿河国 安倍郡 諏訪浅間神社「建御名方命、木花咲耶姫命、阿治志貴高日子根神」
・遠江国 城東郡 三嶋神社「事代主命、譽田別命、伊邪奈美命、味耜高彦根命」
・三河国 設楽郡 海老神社「建御名方命 配 味耜高彦根命 ほか」
・但馬国 出石郡 石部神社「奇日方命、大山積神、大己貴神、大物主神、事代主命、健御名方命、高彦根命、瀧津彦命」
・因幡国 八東郡 隼神社「下照媛神、都味齒事代主神、高照光媛大神、建御名方神、大屋都媛神、葛木一言主神、味耜高彦根神 ほか」
・伯耆国 河村郡 波波伎神社「八重事代主命、天稚彦神、下照姫神、味スキ高彦根命」
・伯耆国 河村郡 倭文神社「下照姫命、事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高彦根命」
・出雲国 島根郡 日速神社「大己貴命、大山津見命、大山咋命、味耜高彦根命、事代主命、下照姫命、高照姫命、建御名方命」
・美作国 吉野郡 入江神社「大己貴命、事代主神、建御名方神、味耜高彦根神、美穗津姫神、高照姫命、下照姫命」
・伊予国 風早郡 葛城神社「味スキ高比古根命、八重事代主命」
・土佐国 高岡郡 五所神社摂社三福神社「大國主神、事代主神、味スキ高彦根神」
・豊後国 国東郡 諏訪社「建御名方神、八坂刀賣命、大己貴命、事代主命、味スキ高彦根命」
・日向国 諸県郡 粟野神社「大己貴尊 配祀 少名彦名尊、事代主尊、味スキ高彦根尊、下光照姫尊、高光照姫命、御井神、建御名方尊」
【引用終わり】
そこそこ有りました。やはり『名前が違うと別神』なのかな???

 今このログ特集↓と併せて青草掲示板を読んでいます。
「神奈備掲示板 迦茂の大御神考 特集」
http://www.kamnavi.net/log/kamokamo.htm
 ここで神奈備先生のご指摘にあるように、味耜高彦根命を『迦茂の大御神』と『大御』を冠していることは重要なポイントでしょうね。語られていない、伝わっていない『何か』があるカモ。

[5067] RE[5063] 鉾その他  QUBO [Mail] 2004/04/19(Mon) 12:51 [Reply]
恋川亭さん、皆さんご無沙汰してます。
鉾について、1.2のように考えています。
1、銅鐸文化圏と銅矛文化圏の争いで、銅矛文化圏が勝利を収めた。
2、日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に…の矛は、古事記に出てくる杉の八広矛
私説*日本武尊がたどり着いた日高見の国は、現代の福島県

馬場の都都古別神社と八槻都都古別神社は、元々は同一神社。
『大同二年に坂上田村麿が伊野荘(棚倉城跡)に奉遷し、寛永元年(1624)、
棚倉城築城のため、当社へ移された。…』のであり、同一の神社だったと思います。
従って神紋が変わっているのはそれ以降だとおもいます。
あるいは、それ以前に二種類の紋を持っていたので、以降分けて使用するようになった?

「葦原中津国一の壮士(たけきひと)、顕国玉の子」は、むしろ建御名方命に
ふさわしい名前だとおもいます。事代主は、むしろ「ちえのひと」とかのほうかな。

[5066] Re[5063]: 青草・色男(金はなかりけり)  恋川亭 2004/04/18(Sun) 16:49 [Reply]
 五十猛命が植林し、大国主命や味耜高彦根命が開拓した「豊葦原水穂の国」は、いろんな人々がワイワイガヤガヤと賑やかで、実り豊かなイメージを受けます。それに引換え「高天原」のイメージが、今ひとつピンときません。田圃や機織小屋や河原はあるようですが、天国・極楽といった感じではありませんね。葦原の国は、天の神々が執拗に欲しがる魅力的な土地だったのでしょう。

> こちらでは若い神が喜ばれたのかも。
> そう言えばXX御子などが目につきます。

 プリンス・オブ・東国→東宮、なんちゃって。兵庫五国の県民として播磨国風土記を見るも、大汝命(大穴持命)、伊和大神、葦原志挙乎命と、名前がいろいろと替わっていて、同神なのか異神なのか、よく判りません。採録した時点でバリエーションがあったのでしょうね。

 「あしはらのしこを」という名前は、ヒーローに称賛を込めて呼ぶ通り名のような印象を受けます。初代・二代・・・と襲名されたかも。葦原志挙乎命、葦原色許男命と漢字で書けば、出雲色男命、鬱色雄命、伊香色雄命を連想します。

『神奈備にようこそ』サイトより【引用抜粋】『石上神宮』
http://www.kamnavi.net/mn/nara/isokami.htm
〔稚櫻神社の祭神に出雲色男命が神として祀られています。この神社にゆかりの物部の祖と言えば、物部十千根です。即ち出雲色男命のしこ名で祀られていると考えていいのでしょう。
 同じように石上神宮の出雲建男神社ですが、物部十千根の代に石上神宮の祭祀権を取り戻しています。功労者として、祀られたと考えられないことはありません。
【問題】 醜=建 か?
ということです。この前に提起しましたが、そのときに大三元さんからの例示として、葦原シコヲ、出雲シコ(タリ)、鬱シコ、伊香シコがあげられていました。葦原シコヲの名は大国主が出雲から須佐の男の坐る根の国に行ったときに、須佐の男の「こは葦原色許男の命と謂ふぞ」との台詞があります。大国主は八十神との戦いの後でした。出雲では「醜」です。
 倭男具奈は熊曽建との戦いの後で、倭建命となりました。九州では「建」です。『古事記』では和建命の物語の直後に出雲建を討ち取る話が出てきますが、これは大和から見たので出雲建と表記したのでしょう。自分で名乗っているわけではありません。
 【解答】 醜=建 である。敵対者を打ち倒すほどの強力さという意味があるのでは。
 物部系図の饒速日命の三世孫に出雲醜大臣の名が見えますが、第四代懿徳天皇に仕えた程度のことしか『先代旧事本紀』にも出ていません。愛知県岡崎市百々町字池の入の七所神社には饒速日命、可美眞手命、彦湯伎命、大彌命、出雲醜大臣命、出石心大臣とこの辺りの物部の遠祖の一人として祀られてはいますが、特段のことをなしたようではありません。〕

 壮士(たけきひと)・建男=色男・醜男・志挙乎(シコヲ)、とするならば・・・
葦原の壮士(たけきひと)・味耜高彦根命は、葦原の志挙乎だったと言えるカモしれませんネ(何代目の襲名かは別として)。
 ∴「あしはらのしこを」=「あじすきたかひこね」???
   ただし<注:青草限定>

[5064] 鴨、神、熊、黒  神奈備 2004/04/18(Sun) 09:12 [Reply]
恋川亭さん 東国への視点、参考になります。
こちらでは若い神が喜ばれたのかも。
そう言えばXX御子などが目につきます。


> 大己貴命が大黒天に習合?されたのは大黒だったからでは??
出雲の神のイメージは、海からやってくる背黒海蛇です。
http://www2.pref.shimane.jp/kodai/jintai.html
に写真があります。

青岸渡寺の開基の裸形上人はインド人。上人像があれば黒いのでは。
インドの摩訶陀国の王のグループが熊野権現となるお話もあり、インドと熊野とは黒潮でつながっていたんですね。

[5063] Re[5060]: 青草・禰宜を背負って  恋川亭 2004/04/18(Sun) 02:12 [Reply]
 青草掲示板の「鴨と市、最古の王権」シリーズを神奈備サイト内の各箇所と併せながら拝読しています。

> あしはらのしこお/あじすきたかひこ
> この二柱の名、同義である証明

 ミステリーのように、設問者の手許にヒントがあるのカモ?と。よく知らないので、まずは「アジスキタカヒコネ」神様から下調べを。引用ばかりになりましたが、リンクメモということで失礼します。

(1)『神奈備にようこそ』サイトから【引用】
『味耜高彦根神を祀る神社一覧』
http://www.kamnavi.net/jm/adisuki.htm
『高鴨神社』
http://www.kamnavi.net/as/katuragi/takakamo.htm
『追着神社』
http://www.kamnavi.net/as/katuragi/outuki.htm
【当社祭神は八重事代主命(鴨都波神社の祭神)・一言主神(一言主神社の祭神) と異名同神の阿治須岐高彦根命(阿治須岐高彦根神社の祭神)でいずれも葛木山頂から山麓に鎮まる賀茂神のことである。】

『三澤神社』
http://www.kamnavi.net/it/izumo/nitamisawa.htm
【大穴持命の子、阿遲須枳高日子根命は成人するまで昼夜泣き続けていた。大穴持命は夢に祈願して、子供に問うたところ、御沢で水浴をすると直るとのことであった。三沢の語源説話である。】

『阿須伎神社』
http://www.kamnavi.net/it/izumo/asuki.htm
【社頭掲示から  祭神の阿遲須伎高日古根命は御父神(大国主命)と共に、「切れ味のよい鋤」をおとりになって、国土創世におおいなる御神威を発揚なされました。 その御事蹟により、御名とともに御神徳が高く讃えられています。】
【阿須伎神社(社頭掲示板)『平成祭礼データ』  当神社の主祭神 阿遅須伎高日子根命は大国主命の長男神にして、かってはこの地に阿須伎神社と称する同名の社が、出雲国風土記に38社、延喜式(905)に11社もある、かっては著名な神社であったが現在は同名の社は当社を遺すのみである。】

『阿遅速雄神社』
http://www.kamnavi.net/ym/ajihayao.htm
【味鋤高彦尊を祭神とするが、阿遅速雄尊は祭神の御子神である。高鴨神社の古文書にも味鋤速雄尊として摂社に祭祀された記録がある。】

つまり、今のところ、
 味耜高彦根神は、大国主命(大穴持命)の御子神で、阿遅速雄尊の御父神。
ということが一般的な?説明でしょうか。また、
 味耜高彦根命 = 八重事代主命 = 一言主神。
これも一般的なのでしょうか?

(2)玄松子さんの『玄松子の記憶』サイトから【引用】
都都古別神社(つつこわけ)(福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場)
http://www.genbu.net/data/mutu/tutuko2_title.htm
【社伝によると、立鉾山に日本武尊が鉾を建て、三森に都都古和氣神を祀ったのが創祀。面足尊,惶根尊,事勝國勝長狭命,大己貴命,味耜高彦根命,少彦名命,事代主命を合祭した神で。近津社と呼ばれる理由は、「事勝」のことであると言う。】
【神紋は、珍しい鳳凰紋。各地の大鳥神社では使用されることが多いのだが、どうして当社の紋となったのだろう。】

 スルドイですね〜神紋の指摘。名探偵のセリフみたいで意外なヒントだったりして。味耜高彦根命(天稚彦の葬礼)、事代主命(遊鳥するを楽)、日本武尊(白鳥伝説)。
さらに『平成祭データ』からの引用として、

【都都古和氣神社栞  延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社で、凡そ一千九百余年まえ人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)】

都都古別神社(福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮)
http://www.genbu.net/data/mutu/tutuko_title.htm
【社伝によると、日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大将と戦い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現。味耜高彦根命の鉾を授けた。日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を立て、味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという。】

 鉾とあります、アイテムは『味耜高彦根命の鉾』。神代に全国平定のシンボルにしたという『大国主命の広鉾』がありましたネ。
日本武尊は草薙剣を持って行かなかったのかな? (^^)
布都御魂大神の御剣は、もう石上布留の高庭に祀られていて、飛んで行けなかったのかな? (^^)
 いや、それより味耜高彦根命といえば、名剣『大葉刈』(オオハガリ)こと『神戸剣』(カムドノツルギ)があったのでは・・・脱線しました。このページには、さらに『平成祭データ』からの引用として、

【都々古別神社要覧  御祭神は味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。】

 味耜高彦根命は大国主命を手伝って東北開拓を行ったということですが、当然、日本武尊が遠征するより遥か昔に???
 『関東奥羽の味耜高彦根命を地主神』とは、遠征地で元々、味耜高彦根命が崇敬されていたのか? 日本武尊一行が、味耜高彦根命を崇敬していて持ち込んだわけではないのか?
 上記の神奈備サイト『味耜高彦根神を祀る神社一覧』を見ると、関東奥羽に限らず、かなり全国的に広がっていますヨネ。なんだか、よくわかりません。。。

(3)s_tanさんの『古代であそぼ』サイトから【引用】
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/fk1ttk.htm
【場所からすると古い一時期、近津が(国造)館で棚倉が軍団の置かれた場所だろうか。旧社地といわれる都々古山の西5km程に白河関がある。 (つつこわけ)の語源は苞子別という新米の籾を入れた奉納のツツミ、などの論がある。】

 国造館、軍団、白河関。神話から一挙に現実的な歴史へ繋がりはじめます。ツツコワケについては次から↓

(4)伊達青衝さんの『神のやしろを想う 神社本館』サイトから【引用】
「奥州棚倉を想う」
http://shrine.s25.xrea.com/tanagura.html
【素朴な疑問がある。なぜ「ツツコワケ」というのか。これらの神社がある地域ではモミを入れたワラツト(ワラの包)を供える風習があり、このワラツトを「ツトコ」あるいは「ツツコ」と呼び、参詣者は自分のツツコを供えるとともに、他人のツツコを受けて帰り、翌年作柄に関係なくツツコを倍にして供えるという。これらの風習は現在では絶えているが八槻では秋祭り(霜月祭)の際に収穫を終えた農家がモミをツツコに入れて供えるとともに、他の人の供えたツツコを「チカツサマのお種」として受けていき、翌年はツツコを二個にしてお返ししたという。こうした信仰で様々な品種が飛び交い、自然な品種交換が行われてきた。この祭は広域に渡り、郡山周辺・岩瀬郡・田島郡・会津各地・茨城北部にまで及んでいたという。馬場の方でも盛んであったが、こちらは明治の頃に農産物の品評会のようになってしまったという。つまり祭礼で「ツツコ」を分けてきたから「ツツコワケ神社」という。この「ツツコワケ神社」という神社の言霊は真に美しいと思うのは私だけではあるまい。】

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 さて、日本書紀の神話では、味耜高彦根命が高天原に昇って天稚彦の葬儀中に大暴れします(高天原で暴れるのは祖先伝来の血か?)。 (^^;)
 その原因は天稚彦の遺族が、味耜高彦根命を生き返った天稚彦だと見間違ったことにあります。『味耜高彦根命と天稚彦が、そっくりだった』から、だそうです。では天稚彦とは、どんな神様だったか。
 なかなか進展しない豊葦原中津国進出に困った高皇産霊尊が、諸神を集めて派遣するに相応しい神を問わせたところ、諸神一致で、「天国玉の子天稚彦、是壮士なり。試みたまへ」と推薦。壮士(たけきひと)という諸神の評価でした。
 紀には、この後「この神、亦忠誠(まめ)ならず」と書いてありますが、なかなかどうして、顕国玉(大己貴神)の娘・下照姫を娶り、味耜高彦根命とは親友(義兄弟)となる逆玉の輿です。大己貴神・下照姫・味耜高彦根命に認められるほどの壮士だったわけです。
 天つ神の諸神も、国つ神の諸神も認める壮士(たけきひと)天稚彦。この天稚彦とそっくりだと遺族に錯覚させた味耜高彦根命もまた、壮士(たけきひと)だったのではないでしょうか。天界で大暴れもしてますしね。そこで強引ですが、まとめ。

高天原一の壮士(たけきひと)、天国玉の子、天稚彦。
葦原中津国一の壮士(たけきひと)、顕国玉の子、味耜高彦根命。

まだ「あしはらのしこお」までは行けません、でした。難しいですね。

[5062] Re[5058][5055][5052][5051][5050][5047]: 箱型炉  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/17(Sat) 19:47 [Reply]
≫鉄器において、江南系の伝播がなくて、(江南系特異の鉄器ってあるのかな?)
≫砂鉄製鉄だけやってくるということが可能なのだろうか?

あると思います。
まったくなにもなかったところに新文化が渡来した場合は、まずは全てを模倣すると思います。
しかし、道具の形がすでに定着しているなら、その手慣れた使い勝手はそのままで素材だけが変化する、これは自然だと思います。
良い部分だけを取り込むわけです。

≫となると鉄器流入の弥生時代にすでに砂鉄製鉄が日本にないとおかしい。

錆びた鉄器の成分分析だと土中の成分を吸着?するようで、錆びていない部分の鉄が取り出せない場合は砂鉄かどうかの判断はむずかしいようですね。
また、具体的な手法は知りませんが、鉄を精錬する過程で砂鉄を脱炭用に使うこともあり、原料は砂鉄ではないのに砂鉄成分が含まれる鉄になるそうです。

弥生製鉄の原料は褐鉄鉱だろうと思ってます。
一般の砂鉄はその組成から原料とするにはまだ無理だったんじゃないか、ただし・・

下記は塩釜の砂鉄その他の分析表です。
http://www.nittech.co.jp/M97/M9702.html

餅鉄はそのまま鍛造するだけで鉄になりそうなとんでもない組成です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/mochitetu.jpg
それが水流で細粒になればむろん砂鉄。

密接とみえる出雲と蝦夷のつながりはここにあるんじゃないかとみています。
出雲は餅鉄の鉄塊を求め、細粒化した餅鉄も利用し、さらに他の地域での砂鉄にも注目しはじめたのではないか。
しかし、他の地域の砂鉄は桁違いに不純物が多く、実用化はできなかった。

鉄鉱石が得られる場合は砂鉄ははなから原料としては無視されると思うのです。
しかし鉄鉱石の乏しい列島では利用しようとする試みが繰り返されていたんじゃないか。
必要は発明の母、そして、なにかのきっかけで成功したのではないか。
そんな流れを考えています。

さてな、インドのダマスカス鋼などの製法はいまだに謎のようですが、古代インド製鉄とはいかなるものだったのか。
http://www.nittech.co.jp/M99/M9906.html



[5061] Re[5049][5046]: 空想、列島と半島6  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/17(Sat) 18:38 [Reply]

≫八幡古表神社で相撲を取る人形で一番強いのが、色が黒い住吉大神です。

海神で色が黒い、単なる日焼けじゃなくてひょっとしてインド(^^;
伽耶の金官駕洛国の首露王(AD42頃とされる)にインドのアユダ国から王妃がやってきます(現在の金海付近)。
(タイのアユタヤの地名の源はインド南部の交易都市アヨーディーヤ)

三国遺事の駕洛国記に到着を伝える伝令故事として、二手に別れた若者が二艘の船で競争する行事があったことが書かれています。
美保神社の諸手船神事にそっくり。

あちらにインド人がやってきたのなら、こっちにもきてるはず(^^;
大己貴命が大黒天に習合?されたのは大黒だったからでは??


[5057] Re[5056][5053][5047]: タタラ  大三元 2004/04/16(Fri) 09:18 [Reply]
かたばみさん

> > 注目するのは柳田国男が「タタラという地名が古く周防・長門・筑前・・・などの海辺に存した事実・・」といっている、これです(和名類聚抄の地名あたりが根拠かしらん?)。

ご趣旨は判りました。『倭名抄』に出てくるのは『地名の由来』が引いている安房国平群郡の達良郷だけですね。柳田の「古く」とはいつ頃の意味で、根拠は何か、ということになりますね。

> それが箋注和名類聚抄の著者が注釈した原文かもしれないですね(でも、2語だけ??(^^;)。

でも、2語だけ? という意味が分かりませんが、これは「蹈鞴 とあるのは タタラと読む。」という意味に理解するのですが・・・ ピンボケたかな?

> > 日本紀私記をまったく知りませんが、(712)812,843,878,904,936,965年に行われた講釈記録の残片とHPにあります。
> いつごろの記録を引用しているのかわかりませんが、もし書紀が完成してから200年程度の記録であるなら書紀完成時から蹈鞴はタタラの読みだった可能性が高くなりそうです。

はい、私も日本紀私記、良くしりません。要するに、↑にお書きになった各時代に、『日本書紀』を講義する際の教授(?)複数人のメモなんでしょう。多分、完本の写本は無く、外の文書に引用されていることで窺い知られているものではないでしょうか。

> > ならば書紀は蹈鞴をなぜタタラと読んだのかにしぼれそうです。
> (フィゴという言葉との関連もちと気になるところ)

鞴 の一字を フキガハ と読みます(『倭名抄』)。これの音便が フイゴ なのではないか、と思います。

なお、タタリ については肥前国風土記姫社の条にも出てくるのがご参考。

[5056] Re[5053][5047]: タタラ  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/16(Fri) 00:25 [Reply]
大三元さん
≫タタラ地名は海辺にもあるが、山間の方に多くあるように見えます。
≫良いトコだけ取りになってませんか?

注目するのは柳田国男が「タタラという地名が古く周防・長門・筑前・・・などの海辺に存した事実・・」
といっている、これです(和名類聚抄の地名あたりが根拠かしらん?)。

同じく地名の由来に「東北地名のタタラ地名は近世型の小さな製鉄所にすぎない・・」とある通り、近世のタタラ製鉄がらみの地名のほうが圧倒的に多くなるはずで(たぶん山間に)、いつの地名かですね。
(鑪崎なんてのはタタラ製鉄の影響で鑪の文字に変化した可能性もあって単に地名だけじゃ危ない)


あえてコメントを前後させます。

≫『倭名抄』には『日本紀私記云、蹈鞴 太々良』とあるのが最古かしら。

ありがとうございます、和名類聚抄をもってないので原文がどんなものかわからなかった。
それが箋注和名類聚抄の著者が注釈した原文かもしれないですね(でも、2語だけ??(^^;)。

日本紀私記をまったく知りませんが、(712)812,843,878,904,936,965年に行われた講釈記録の残片とHPにあります。
いつごろの記録を引用しているのかわかりませんが、もし書紀が完成してから200年程度の記録であるなら書紀完成時から蹈鞴はタタラの読みだった可能性が高くなりそうです。

ならば書紀は蹈鞴をなぜタタラと読んだのかにしぼれそうです。
(フィゴという言葉との関連もちと気になるところ)

≫むしろ金のタタリ(機織り道具)を献上したのでタタラ公と名づけた

任那帰化族ですね。
神功紀に蹈鞴津が登場しますが、釜山の南の「多大浦」とされ、現在は海水浴場みたい。
新羅本紀の記述から弥生のこのあたりには倭人がいたとみえます。
(対馬横断シミュレートの半島側の港と推定できる場所です)

で、任那→伽耶とみて、媛媛踏鞴五十鈴媛が出雲かつ神武の妃であるところから出雲に弥生製鉄の存在した可能性がみえてたいへんに面白くなってきます(^^)
この関係だと海岸にタタラ地名があっても問題は少ないかもしれない。

持論:伽耶は半島側で素盞鳴尊後裔が興した国、出雲と兄弟、出雲に伽耶の製鉄技術が伝授されないはずがない。
以前書いた霧島の韓国岳や宇都の地名の意味も明るくなってくる→褐鉄鉱か。

で・・ペギラさんへのコメントに戻ります(^^;
日本以外に砂鉄を使う製鉄があるのか。
砂鉄が鉄原料になることに気がつくとすれば、砂鉄と鉄鉱石が併存する場所であろう(例えば岩手の餅鉄)。
砂鉄利用を工夫したのはだれか。

任那のタタラもtatala舟であって応神〜倭王五代時代(半島の前方後円墳時代)に南方系製鉄がはいってきているのではないか。
ま、空想の楽しみとしておきます。


[5055] Re[5052][5051][5050][5047]: 箱型炉  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/16(Fri) 00:20 [Reply]

ペギラさん
≫鍛冶遺跡・青銅器鋳造遺跡には鞴羽口が存在します

青銅でもフイゴはあったと思いますが形式はわからないようですね。
蹈鞴が足踏みフィゴであるなら書紀編纂者は「神武時代」にそれがあったことを示しているということになります。

≫その「たたら」という発音の語源というところで「舟」を推察されているんですよね。

その通りです。
水に浮かぶ手段が舟であって、弥生人がポリバスみたら舟だと思うんじゃないかしらん。
中国では腰に瓢箪をつけて浮かぶのを腰舟というそうです。

≫そしてその「舟」が製鉄に関わるものだろうと。

舟と製鉄は無関係です。
炉の名前として舟のような炉という呼称が生じたのではないか、そこ止まりです。
(tatala舟のある場所は海岸、海岸にタタラという地名があるならそれはtatala舟の由来ではないかとは考えています)

製鉄がむずかしいのは温度ではなく還元作用という化学反応をコントロールする必要があるからだと考えています。
砂鉄を使う製鉄は日本以外にあるのでしょうか。

列島独自の工夫である可能性があります。もっとも興味深いのはここです。
いまのところ箱型炉の年代と砂鉄による鉄刀出土年代の一致、それとタタラという呼称が唯一のヒントとみています。

それがtatalaとつながるならば、台湾ないしフィリピンの海洋民とつながる。
その先に南方系製鉄があるなら、そことの関係はどうなるか。
タイの粒状褐鉄鉱を炭で還元する炉の存在、これが砂鉄製鉄に関連するのではないか、といったところです。


[5054] Re[5051][5050][5047]: 空想、列島と半島7  大三元 2004/04/14(Wed) 15:39 [Reply]
> それ以前に「踏鞴」が足踏みフイゴでありタタラであるという記事を知りません。

『倭名抄』には『日本紀私記云、蹈鞴 太々良』とあるのが最古かしら。
これとて、『古事記』を参照してそう云ったものか、独立の情報なのか判断できないですけど。

[5053] Re[5047]: タタラ  大三元 2004/04/14(Wed) 15:30 [Reply]
> 大三元さんご紹介の地名の由来入手、ほほーっ「タタラの地名は古来海辺に存在していた事実」とあるなあ。
> これは強力なバックアップ(^^)

その箇所に掲載されているタタラ地名の分布図を見ると、
タタラ地名は海辺にもあるが、山間の方に多くあるように見えます。
良いトコだけ取りになってませんか?

むしろ金のタタリ(機織り道具)を献上したのでタタラ公と名づけた、という記事から「タタリ」と「タタラ」が通用していた(同義語)、通用し得た、洒落になり得た、ということに注目してみる。そうすると、女性の名前に機織りに関する道具の名前が付いている、というのも判りやすいことになる。これが原点で、そこから、蹈鞴に転じて行った、と言う見方が出来ないか。なお、ヒメタタラは、小さいタタリ、という義かも。


[5052] Re[5051][5050][5047]: 箱型炉  ペギラ 2004/04/14(Wed) 10:57 [Reply]
> 舟のような炉の中で真っ赤な火が燃えている、迫力のある印象的な情景だと思います。
> 足踏みフィゴを使っているでしょう。
> この箱型炉をなんと呼ぶか・・足踏みフィゴの炉と称するでしょうか。
> 「舟形の炉」と呼ぶのではないでしょうか。
>

大舟・小舟とは関係なく、箱型炉が舟形の炉に見えるということですね。
う〜ん、見えるというのを、見えないといっても仕方ありませんが、
1m弱の方形の炉です。
舟に見えるのかな〜??
小さなお風呂のような感じにも見えるから、見えなくはないか〜。

大舟・小舟は、まさしく舟に見えます。
ほとんど丸木舟、さらに形もサイズも近いものがある。

> 竪型炉でも足踏みフィゴを使っているはずです。
> 青銅造りでも使っていたかも知れない。
> 足踏みフィゴでは他の炉と区別できなくなってしまいますし。
>

たたら製鉄に捕われ過ぎでは?

高火力を生み出すのには必要なものが、送風機。
たたら製鉄のように大規模なものができるのは、中世以降。
日本書紀に「踏鞴」という文字が存在するということは、
大規模なものでなくても、踏み鞴は認知されている。
製鉄だけに必要な道具ではなく、ひろく使われているはず。
鍛冶遺跡・青銅器鋳造遺跡には鞴羽口が存在します。

その道具を「たたら・多多羅・太々良」と呼んでいるということで、
間違いはないと思います。
その「たたら」という発音の語源というところで「舟」を推察されているんですよね。
そしてその「舟」が製鉄に関わるものだろうと。

私は「たたら」=「製鉄」という感覚はありません。

踏み鞴は弥生時代から存在していると思います。
鍛冶や青銅器鋳造に必要な温度を作るには、人力の強力な送風装置が必要不可欠。
踏み鞴無しでその火力を造るということになると、他の方法が見当たらない。

たたら製鉄の天秤鞴みたいな、巨大なものじゃなくて、
今現在使う浮き輪を膨らませるジャバラの空気入れみたいなものの大きさでも
いいのではないでしょうか。
さらにその想像されている踏鞴の姿は、男性の一物に見えなくない。
鞴羽口と踏鞴、そんな関係も見え隠れ。

いつのもように意味不明の文章になってしまいました。
すいません。m(__)m

[5051] Re[5050][5047]: 空想、列島と半島7  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/13(Tue) 20:24 [Reply]
ペギラさん、こんにちは。

≫そしてこの舟型の地下構造が構築されるのは、随分と新しい話では?
≫日本書紀完成当時の製鉄炉の地下構造は舟型ではない。

炉の話は以下においておきますのでよろしく。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/tatala.html

現代のタタラの大舟、小舟の呼称などは下記その他を参照しています。
http://www.science-inc.co.jp/meguri/meguri.html


≫日本書紀で踏鞴を「たたら」と読むことはやはり、鞴のことではないでしょうか。

媛踏鞴五十鈴媛の踏鞴をタタラと読むのはいつだれがそう決めたのか、がありますね。

古事記
赤く塗った矢に化けた大物主がトイレにしゃがんでいる美人のお尻をつっついた(^^;
キャーってんで矢を床に放り出したら大物主になった。
その美人が勢夜陀多良比賣、生まれた娘が富登多多良伊須須岐比賣。

古事記注では、名前(富登ホト)がまずいので比賣多多良伊須気余理比賣と改めたとあります(^^;
この娘が神武の妃になります。
書紀では、神武の妃は事代主と玉櫛媛の娘の媛踏鞴五十鈴媛です。


箋注倭名類聚抄(1827)に「人これを盛んに踏みて風を生じせしむるなり、すなわち太々良なり、排・鞴は古今の文字なり」とあるそうです(字訓/白川静より)。
それ以前に「踏鞴」が足踏みフイゴでありタタラであるという記事を知りません。

梁時代(502-557)に編纂された玉篇という漢字辞書に、「鞴」を革嚢で火を吹き盛んならしむるべし、とあるそうです(同じく字訓/白川静より)。
フキガワ・吹き革と辞書にありますが、これがフィゴなのでしょう。

500年頃の中国で鞴にフィゴの意があるのは確実だと思います。
また「鞴」は矢をいれる革袋の意でもあります。

玉篇は中国では原本が失われ改訂版が残るだけで、日本に原本の一部が残っているのだそうです。
書紀編纂者がこれで漢字を勉強したであろうことがうかがえます。
では、書紀編纂者は「鞴」の文字をどういう意味で使ったのか。


もし、フィゴの意で使ったのだとすると、足踏み式フィゴが弥生から存在し、媛踏鞴五十鈴媛が鉄(青銅)生産に関与していた人物である情報を持っていたということになります。

伽耶の鉄生産はAD1頃、持論で神武即位は36- 66で同年代。
この可能性はあるのですが、それを示すなにかがでることを楽しみにしています。

で、書紀の踏鞴は足踏みフィゴであって、古事記の「多多良」から踏鞴をタタラと読むとだれかが解釈した、でもいいのですが可能性はそれだけなのだろうか。


書紀編纂者は「鞴」を矢袋の意で使った。
玉櫛媛が「矢袋を踏んづけた」(^^; そして娘が産まれたので媛踏鞴五十鈴媛と名付けた・・
そういう伝承を書紀が持っていたとしても無理はなく、矢という古事記との共通項が生じます。
で、媛踏鞴五十鈴媛はヒメ・トウヒ・イスズヒメとなる(^^;

地名の由来によるタタラの古地名は海岸、が効いてきます。
製鉄は山地の斜面で行われますが、燃料確保と風通しと湿気(水はけ)の問題からだと思います。
古くに鉄(青銅)が海岸で作られた様子は知る限りみえません。
海岸にあるタタラ地名は足踏みフイゴの関係とは考えにくいですからなにか別の解釈を必要としてしまいます。


私の判断はいたって感覚的ですけれど・・

再度福岡の箱型炉、箱型炉は600〜800年頃、書記編纂時代の炉です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/seitetu_hakogata.png

舟のような炉の中で真っ赤な火が燃えている、迫力のある印象的な情景だと思います。
足踏みフィゴを使っているでしょう。

この箱型炉をなんと呼ぶか・・足踏みフィゴの炉と称するでしょうか。
「舟形の炉」と呼ぶのではないでしょうか。

竪型炉でも足踏みフィゴを使っているはずです。
青銅造りでも使っていたかも知れない。
足踏みフィゴでは他の炉と区別できなくなってしまいますし。


[5050] Re[5047]: 空想、列島と半島7  ペギラ 2004/04/12(Mon) 13:54 [Reply]
こんにちは、かたばみさん。
かたばみさんにレスするほど知識があるわけではありませんが、
大舟・小舟について感じたこと。

> で、タタラ製鉄では炉の主要構造を大舟、小舟と称しています。
> 倭鍛冶の炉が舟に似ていたからその炉をタタラと称したことが語源ではないかと考えています。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/seitetu_hakogata.png
>

大舟・小舟というのは、製鉄炉の地下構造の話です。
この地下構造が駆使されたあとその上部に、製鉄炉が作られる。
「一床、二土、三村下」の床、床釣りの部分です。
その上部構造に見える施設として炉があり踏鞴がある。

そしてこの舟型の地下構造が構築されるのは、随分と新しい話では?
日本書紀完成当時の製鉄炉の地下構造は舟型ではない。
ですから、日本書紀で踏鞴を「たたら」と読むことはやはり、
鞴のことではないでしょうか。

これは=(イコール)製鉄としなくても、
鍛冶でも青銅鋳造でも、土器づくりなんかでも使用されるのでは。

ちなみに鍛冶施設には、舟型地下構造はないと思いますが。
あったら、すみません。m(__)m

[5049] Re[5046]: 空想、列島と半島6  神奈備 2004/04/11(Sun) 21:14 [Reply]
> 万葉3844 ぬば玉の斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも
> 巨勢斐太朝臣の真っ黒けの顔を見るたびに巨勢朝臣豊人の浅黒い顔を思い出す・・

宇佐神宮摂社黒男神社、福岡県糟屋郡久山町の黒男神社、福岡県大野城市の黒男神社、大分県日田市の玉垂神社<通称>黒男社など九州の黒男神社の祭神は武内宿禰です。強い男なのか、八幡古表神社で相撲を取る人形で一番強いのが、色が黒い住吉大神です。

文の聖徳太子、武の日本武尊、ともに妃の名に橘の字。TVにも一理ありか。

[5048] Re[5047]: 空想、列島と半島7  大三元 2004/04/11(Sun) 20:06 [Reply]
かたばみさん

> > で、タタラ製鉄では炉の主要構造を大舟、小舟と称しています。
> 倭鍛冶の炉が舟に似ていたからその炉をタタラと称したことが語源ではないかと考えています。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/seitetu_hakogata.png
> > ps.
> 大三元さんご紹介の地名の由来入手、ほほーっ「タタラの地名は古来海辺に存在していた事実」とあるなあ。
> これは強力なバックアップ(^^)

オモシロイですね。私はどうも興味を覚えない象限なのですが、興味をもって御覧になると、同じ本を見ていても、そういうことが観察できる、ってことですねぇ。

[5047] 空想、列島と半島7  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/11(Sun) 19:31 [Reply]

古事記には応神天皇の段で秦造と漢直の祖が渡来とありますが、弓月氏はでてきません。
書紀は17縣を引き連れてきた漢直についてはその祖を書いているのに、弓月氏が渡来とあるだけで秦造の祖とは書いてありません。

「秦公の祖弓月」と書いているのは古語拾遣807が最初とみえます。
次いでそれを書くのは新撰姓氏録815のようです(原文未確認)。

なぜ、記紀は秦氏と弓月氏の関係を書いていないのか・・
製鉄関連(韓鍛冶)のありようを国家機密としていたからだと考えています。

なぜ、古語拾遣や新撰姓氏録は秦氏と弓月氏の関係を明記しているのか・・
800頃には韓鍛冶を国家機密にする必要がなくなったからだと考えています。
(古語拾遣や新撰姓氏録が嘘を書いたのではないことが前提ですけど)


タタラ製鉄(倭鍛冶)が実用化されたからだと考えています。
砂鉄を使ったとみられる最古の鉄刀出土は、500年代後半の長野県上原古墳と600年初頭の神奈川県皆原の横穴墓です(古代刀と鉄の科学/雄山閣)。

下図は蕨手刀の分布図です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/warabite_bunpu.png
×印が最古の砂鉄原料の鉄刀出土地。
600〜800年間に砂鉄製鉄が発達し、蕨手刀もそれで作られるようになったことが推定できます。
(大和朝廷軍も蕨手刀の優秀さを知って使い始めます→正倉院御物など)

どこでも採れる砂鉄でどこでも製鉄ができるようになれば韓鍛冶の状況を隠す必要はなくなるでしょう。
(実際には近畿の大江山の鉄鉱石が発見されて製鉄は複雑な状況になるようですが、略)
(大江山の鬼・・製鉄に関与していた西域人のイメージによるものと推定)
この状況をふまえて古語拾遣と新撰姓氏録は弓月氏と秦氏の関係を明示したのではなかろうか。

タタラ製鉄の登場は、倭王五代時代の南朝との交流と南方系製鉄のありようにその秘密があるとみています。


媛踏鞴五十鈴姫のタタラが弥生からの発音を伝えているなら、このタタラは製鉄関連じゃない。
(弥生にタタラ類似の構造をもつ製鉄炉があったことが証明されないかぎりは)
タタラの語源を中央アジアなどの火とか熱いという意の言葉に求めるのが定説ですが・・

台湾の海洋民のヤミ族は舟のことをtatala と呼んでいます。
(ペルーの漁民は古来の葦船をトトラと呼んでいますが・・これはおいときます)
タイのバンドンブロン遺跡(BC200頃)から粒状褐鉄鉱を炭で還元する製鉄炉が出土しています。
素人考えでは、粒状褐鉄鉱を砂鉄に置き換えればタタラ製鉄に移行できるように思えるけれど。

で、タタラ製鉄では炉の主要構造を大舟、小舟と称しています。
倭鍛冶の炉が舟に似ていたからその炉をタタラと称したことが語源ではないかと考えています。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/seitetu_hakogata.png

ps.
大三元さんご紹介の地名の由来入手、ほほーっ「タタラの地名は古来海辺に存在していた事実」とあるなあ。
これは強力なバックアップ(^^)

続く

[5046] 空想、列島と半島6  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/11(Sun) 19:28 [Reply]

さて、成務、仲哀までは弥生の「ハタ氏」の後裔や多臣族の葛城直が渡来者と商業を統括していたが、応神大王となって体制が変化する、
葛城直の名と役職を受け継いで渡来者の統括をおこなったのが葛城臣だと考えています。

その配下にあったのが弥生のハタ氏でありこれが「秦造」の本家。
少なくとも天孫降臨時代に遡る系譜を持ち、渡来文化を運んでいた人々。
応神朝に渡来の「新羅系秦氏」もこの秦造に加わった(半島における弥生のハタ氏)。

下図は半島での支石墓の分布です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shisekibo_hantou.png
単純に弥生系ハタ氏の行動範囲もこれに重なると考えています。
(列島側分布図は未完成(^^;)

半島西南部に密集していますが、ここが中国との沿岸航路の最大拠点だったからじゃないか。
東シナ海や山東半島との直行便もあったと思う。
半島の前方後円墳の地域とも重なっています。応神〜倭王5代の中国交流ルートでもあったと考えています。


武内宿禰の後裔に葛城臣、波多臣、巨勢、蘇我、平群、木角宿禰(紀臣の祖)など後の有力者の祖がずらりと並びます。
武内宿禰が応神朝の功労者であることから、後に有力となった渡来者の祖を武内宿禰の子としてつないだもので血縁関係はないと考えています。
せいぜいが養子に入った程度のつながりで、ほとんどは先の半島西南部あるいは経由の人々ではないか。
(波多臣は弥生のハタ系かもしれない)

ただし葛城臣は武内宿禰の直系かもしれません。
允恭紀に葛城襲津彦の孫の玉田宿禰が誅せられたとき武内宿禰の墓域に隠れたとあるから、程度の理由ですけれど。

万葉3844 ぬば玉の斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも
巨勢斐太朝臣の真っ黒けの顔を見るたびに巨勢朝臣豊人の浅黒い顔を思い出す・・
土師宿禰水通が巨勢氏の顔の黒いのをあざけった歌で、巨勢氏が黒い肌の渡来者を祖にすることを示唆すると考えています。

巨勢氏が応神時代の渡来なら西域系、真っ黒けだったならインド近くか。
蘇我氏はどうかなあ、どうも乱暴なところがみえるけれど・・
紀臣は「紀」にこだわるなら山東半島あたり。


応神に続く倭王五代時代では五胡十六国は次第に北魏に集約され440頃に北魏に統一されます。
(倭王五代とはなにか、がありますが略)
北魏(北朝)に盛んに朝貢しているのは半島では高句麗だけです。
倭王五代は南朝側への朝貢だけで北魏との関係はないので、応神以降では西域との関係は途絶えて南朝系の文化と人の流入がメインになったと思われます。

続く

[5045] Re[5043]: わしゃ、神様にほれておる  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/11(Sun) 19:25 [Reply]

≫明日(2004/04/10(土)21:00〜)のTV番組・世界ふしぎ発見は「新説・ヤマトタケル」だそうです。

見ました・・TVでやると信じてしまう人、いるんだろうなあ。
なんかちぐはぐで、苦笑いしながらみてました。


[5044] わしゃ、神様にほれておる 2  恋川亭 2004/04/09(Fri) 22:40 [Reply]
 「神様にほれて」いらっしゃった前・宮司さまの話しでしたが。では逆に、神様から歓迎されると、どうなのか?
 今年、とても肯首できる書込みを、玄松子さんの掲示板の中に、見つけました。そこの席亭である当の玄松子さんからの投稿です。以下、引用抜粋します。

『玄松子の記憶』芳名帳 平成16年2月11日より
http://ucgi.genbu.net/cgi-bin/bbs.cgi
 【神の存在】 (玄松子)
『参拝をしていると色々なことが起こる、というか気づく、というか錯覚する。
 さて、今回の奈良では。柳生の神社に入り、鳥居を見上げていると、空から何やら落ちてくる。一つ、二つがアッという間に無数になって、境内に積もっていく雪。曇天の中、春日大社で中門を撮影しようとカメラを構えると、中門に日がさして来た。
 初瀬の素盞嗚神社。境内に入ると急に風が出始め、周囲の木々がどよめく雰囲気。拝殿で拍手を打つと、風は止み、日がさして来た。
 室生の龍穴に到着し、車を降りると、サワサワと小雨。降り出すのか? まずいな、と思いながら参道を降り龍穴を拝すると、雨は止んだ。
 こういうことが続くと、神の導きと勘違いしてしまうのも仕方がないのかもしれないなぁ。実際は、何も起こらない事の方がはるかに多いし、「起こった」と呼べるほどの事件でもないのだが。僕としては、神は、神を敬う貴方の中にある、と、信じている。勿論、僕の中にも。それだけ。』〔2004/02/11(Wed)〕(引用終わり)

 敬虔な皆様には同様な経験をお持ちと思います。この事象の『さりげなさ、淡さ』こそが、まぎれもない神様の歓迎のシルシに思えるのです。
 では、歓迎以上にもっと求められると?どうなるのか。かなり以前に放映されたNHKスペシャルで、沖縄のユタの特集があり、神に求められた人の苦難が克明にレポートされていました(カワイソ〜の連続)。今、その番組の題名を覚えていないのですが、同様のレポートが、谷川先生の著書に詳しく記述されています。

 『神に追われて』
  (谷川健一・著、新潮社・版、2000年07月・発行、1,575円)

 この本は、鬼道とか巫呪とか述べる前に読んでおく必読書かもしれないと思いました。巫女さん側の立場に立ったものとして、シビアですよ〜。
 もっとシビアやな〜と思ったのが、色々な宗教宗派の開祖の話しですね。しかし、水戸黄門さまによると、庶民は(専門職で無い限り)あまり深入りせずに距離を保つことが肝要とか。
 気象により歓迎される程度が一番良い塩梅かもしれませんね。

[5043] わしゃ、神様にほれておる  恋川亭 2004/04/09(Fri) 21:24 [Reply]
 私的な投稿ですが、天理市の石上神宮からのご通知より。
先代の森(名誉)宮司さまが、3月9日に86歳でお亡くなりなられたそうです。私は一般参詣者としての挨拶程度で、直接にご懇談頂いたことはございませんが、記憶をたどるとご生前の優しげな面影が偲ばれます。
 たちばな出版『古神道入門』の中で著者の吾郷清彦先生が、『わしゃ、神様にほれておる』と先代宮司さまから言われたと紹介されています。この言葉、とても印象に残っています。毎朝どなたよりも早く起床されて、暗いうちから拝殿で御魂振りを続けていらっしゃったとか。
 先代宮司さまの御魂は惚れなさった神様の元へまっすぐ向われたことでしょうね。石上神宮葬は5月13日に行われるそうです。(しのびうち)(-人-)

諏訪では「下社木落とし」が始ったとか。諏訪大社・御柱祭は7年に1度でしたね。

明日(2004/04/10(土)21:00〜)のTV番組・世界ふしぎ発見は「新説・ヤマトタケル」だそうです。

[5042] 首狩りと首取り  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/09(Fri) 19:18 [Reply]

首狩りについては定義の問題がありそうですね。
祭祀や呪術のために首を取る、これを首狩りとするならば・・

福岡県市島半島の志摩町遺跡出土の支石墓とみられる墓の人骨(BC400前後とされる)には半島系の石鏃が刺さっています。
で、この人骨の足の下に小穴が掘られ中から10歳代とみられる人の歯が出土。

支石墓ですが埋葬者は縄文系の骨格だそうで、相手の首を埋めたとみられるそうです。
歯しか残っていませんが、首切りはこの頃には登場しているとみえます。

これは武士が主君の仇を討って主君の墓前に仇の首を供えるのと変わりない感覚とみえます。


BC3000頃の長江良渚文化から「玉鉞」エツが出土しています。首切り用かどうかは不明。
「殷」より古い「夏」との説もある鄭州の二里岡遺跡からは100人分の頭骨が溝に放り込まれているのが発掘され、捕虜を犠牲にして祭祀がおこなわれたとされるようです(頭骨の加工をしている)。

「殷」は良渚文化の影響を受けているとみられ、やはり青銅の「鉞」があり、こちらは首切り用。
明確ではありませんが祭祀的首切りである可能性あり。

「周」の武帝は殷王の首を旗の先に掲げていますから周も首切りありですが、これは祭祀じゃない。
祭祀のための首切りがあったかどうかは不明。

下図は中国戦国時代の青銅器(河南省出土)に描かれた戦の様子です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/sengoku01.png
左側の2人が首を切り落とされています。


長江中流域の楚の昭王(BC515)が、書物に書かれている「天地の通行を遮断した」とはどういう意味かを学者に聞いたそうです。
はじめは神霊と民はいっしょにいて、巫の能力に優れたものが自由に媒介をしていたが、民がいいかげんに巫を行うようになって自然界が乱れたので、神霊と民の居所を切り放して乱れを防いだ。
これがその意である、と学者は答えたそうです。

周あたりから祭祀と首切りが分離し、「戦での勝利の証」に変化していったのではなかろうか。


BC100頃の福岡県筑紫野市の隅・西小田遺跡からも甕棺の首無し人骨出土。
頭骨だけをいれた甕棺も出土しています。
吉野ケ里の首無し人骨も同時期で、この頃では首の取り合いをしていたのはまず確実。

しかし、これらの首切りはBC400頃の志摩町遺跡の首の様子からも「戦の勝利の証」に近いものを感じます。
祭祀や呪術とからむものを「首狩り」とするなら、これらの首切りはそれとは違うものじゃないか。


古墳時代から平安にかけての情報がないので、その後首切りがどうなったかがわからない。
神功紀で「新羅王」を殺害する場面ではいたぶり殺しています(^^;
雄略紀で安康天皇は刺し殺されている、雄略は焼き殺している、武烈は刺し殺している・・(^^;
700年頃、書記編纂時代には首を切るという感覚は消えているようにみえる。

遣唐使廃止以後〜鎌倉時代は渡来文化が熟成して日本独自文化に変化する時代。
この頃に武士の登場と首を取ることが復活しているのは間違いないと思いますが、弥生の習慣が復活したのかどうかは??

祭祀や呪術とからむ首切りを首狩りとするのなら、列島に首狩りがあった物証はない・・
いまのところはその程度しかいえずです。

会社を首になる・・これは処罰の感覚。
大将の首をとったみたいな気分・・これは大手柄の感覚。
首を切る、実行はしなくても今も残ってますね。


[5041] インフォウェブ  玄松子 2004/04/07(Wed) 20:55 [Reply]
昨日から、インフォウェブユーザーと思われる方から
ウィルスメールが送信され、神奈備メーリングリストにも
影響を与えているようです。

送信者と思われる方のアドレスは、eatkyo*.adsl.ppp.infoweb.ne.jp 。
これはインフォウェブ(現在はニフティユーザーですね)で
ADSL接続の方、eatkyo は東京の方でしょうか?
心当たりの方は、ご自分のPCをチェックしてみて下さい。

下記サイトにウィルスの駆除ツールが公開されています。
http://www.symantec.co.jp/region/jp/sarcj/data/w/w32.netsky@mm.removal.tool.html

[5040] 真珠について  金平糖 [Mail] 2004/04/07(Wed) 11:31 [Reply]
こんにちは。よろしくお願いします。
安東到著「もともと日本は国際国家であった」(1988年刊)を読んでから、「“真珠”が古代史のキーワードなのかなぁ。」と関心を持ち、皆様がどんなふうに、“真珠”をとらえていらっしゃるか、教えていただきたく思っています。
同書P.99から写させていただきます。

●日本列島開拓の目的は日本産真珠の現地量産体制の確保にあった

・・・・・
呉越百年戦争は中国大陸の戦いではなく、南シナ海の戦いであったろう。つまりそれは真珠採取海域の争奪戦であり、真珠採取の労働力である潜水漁民の争奪戦であった。そして南シナ海で敗れたのが越であったのだ。
            中略
まもなく越の偵察艦隊の長年にわたる調査の結果、真珠採取地としての理想的な
条件を備えているのが日本列島だという結論が出された。そこで、呉と越は互いの
抗争をやめ、合同で日本列島に恒久的な根拠地を造ることにしたーーーーー。
とすれば、そのためにこそ彼らは艦隊を南シナ海から引き揚げ、隷属民たちを集結して大艦隊を編成し、紀元前四七三年、列島移住のための準備をする臨時基地とし
て、山東半島南部の琅邪(ろうや)へ入ったのである。彼らが日本列島への大移住を
行なうのは、それからしばらくしてのことだった。
                        後略

[5039] Re[5038]: 出てぃる?デティール  恋川亭 2004/04/07(Wed) 02:27 [Reply]
PIKKIさん、私も全く同様。
 「古代史は一度も勉強したことがない上に、夜はほとんどいつも泥酔状態」というか、古代史に限らず歴史全般、文科系の「勉強」はしたことがないです。神奈備掲示板にお世話になってはじめて調べるようになりました。(^^)/
 でも、なかなかよく判りません。知りたいことの答えはすぐに転がってませんね。だから出来る範囲で、丁寧にイメージしたいと思っています。引用は別として、私が考えた部分は殆ど空想・妄想レベルですから。(^^;
 丁寧にイメージしていくと、実はイメージが描けない部分があることに気づくはずです。そこがデータの無いところです。調べるべきポイント。

 ラフ・スケッチだけではイメージと言えません。全体的なデザインと、部分の詳細(デティール)の両方とも重要です。デティールを詰めていないとイメージはボロボロと崩れていきます。あ〜でもない、こ〜でもない、とデティールを作っては壊し、造っては崩しながら積み上げていくのが、仮説を形にする面白みでしょうね。
 言葉の集合から、映画のシーンのような映像をイメージできるか? 画面の背景、端々までちゃんとイメージできるか? そう考えながら再生していくのが、今の私の遊びです。そうすると言葉も重要なデータですから大切に扱いたいですね。
 蕨手刀・蕨手紋の前に、まず蕨手という言葉です。「早蕨」という題は「蕨手」を示しています。「蕨」ではダメなのです。詩を語る人にこそ言葉とイメージを大切に願います。
 竹カンムリの下に前という字は、箭(セン)です。弓矢の矢のこと、弓箭はキュウセン、ユミヤです。

 養老令でわざわざ禁止しているということは、発令以前には、禁止内容が行われていたということでしょうね。んで、禁止されると闇に潜り継続する輩がいるのも世のならい。隼人の里の蝦夷のナイフ、面白いストーリーが湧いてきそうでしょ。
 鉄に限らず、製造技術が伝来するより以前に製品が流通するのが普通だと思います。需要が増えて、離れた所からの流通では間に合わなくなったときに、製造技術が伝わるのでは。
 また、製鉄と鍛造とは一応わけて考えるべきですね。普通、鍛冶屋は製鉄までしないですから。逆に製鉄は意外に小規模でも可能なようです。現代の刀工で、庭先で精錬(製鉄)する方も居ます。ヒッタイトからの鉄の伝来には、やはりインドを無視するわけにはいかないでしょう。ぺぎらさんの掲示板でも紹介したので、ルール違反になりますが、こんな本もありました。↓
 『鉄のシルクロード』 窪田蔵郎・著、雄山閣・版

 ヤマタノオロチ伝説でいいますと、欠けた方の剣こそ鉄製!かもしれません。鋼を硬く焼き入れすれば、脆くなって欠けたり折れやすくなるからです。オロチの尾から出たという剣、つまり草薙剣が鉄製という決め手はあるのでしょうか? 『越から鉄刀が伝わった』とする場合、オロチ伝説以上にデティールを補強してほしいところです。
 鉄に関しては、武具以外に工具・農具への目配りも重要です。磨耗の激しい部分、私は船のパーツも睨んでいます。ヒッタイトでは戦車の車軸受けが重要な製品でした。古代の馬についてはどうだったのでしょうね。昔の蹄鉄の話しを殆ど見ないので疑問に思っています。金属は錆びるだけでなく、鍛造・鋳造で再利用されるので、そのまま残りにくいものだといえます。
 このように、デティールに目をやると、いくらでも疑問が湧いてしまいますナ〜。(^^;)

 これにて私からのレスは一区切りとさせて頂きます。鉄・鋼・武具も同様。これ以上は神社と関連づけていきましょう。

[5038] *古代史は一度も勉強したことがない上に、夜はほとんどいつも泥酔状態  PIKKI [Url] 2004/04/06(Tue) 23:50 [Reply]
蕨手刀の映像も、一度インターネットで市来遺跡のそれを見ただけなので・・蕨手紋のような形なのかと勘違いしたうえに、蕨手刀は東北にもあったんでははなかったかと・・ふっと疑問に思った次第です。
 8世紀初頭の養老令の注釈書の「令義解」巻九に「凡そ弓○(竹カンムリの下に前という字・・漢字転換不能許しを!)兵器は、並に諸蕃と与に市易することを得じ。それ東辺北辺は、鉄冶をを置くことを得ず」とあり、また「令集解」の逸文には、東辺北辺とは蝦夷に接する陸奥・出羽などの国、つまり現在の東北地方を指す事を古記に言うとして、また鉄冶を禁ずとは製鉄を知らせず、金物類についても同様な扱いにする、と穴に言うと記されているらしいのですが・・そうなると遥か彼方の隼人の地で蕨手刀が出土するのは、かなり重要な意味を持つのではないかと思った次第です。
 越から鉄刀が伝わったかというようなヤマタノオロチ伝説や・・日本書紀の景行記の《是以^○(竹カンムリの下に前という字)蔵W(ニの小文字の代わり)頭中 ̄(一の代わり)。刀○(ハイという字か?)W衣中 ̄》(漢文記号と漢字転換がうまくいかずお許しを!)
 これらは蝦夷が早くから鉄器を用いていた事を明らかにしているのではないでしょういか?おそらくこれは、製鉄発祥の地と言われているトルコ北部から、ステップの道を太平洋まで真っ直ぐやってきた製鉄技術が、日本海北側周りで、日本列島にやってきたものではないのだろうか?
 8世紀の福島・宮城の製鉄遺跡とは違って、青森県鯵ヶ沢町の平安時代の製鉄遺跡は蝦夷のもので、もっともっと古い時代に遡るものではないんだろうか?

[5037] Re[5027]: 早蕨の  恋川亭 2004/04/06(Tue) 21:24 [Reply]
> 最後に、蕨手紋刀が市来遺跡などの隼人の遺跡からも出土するのは何故なのでしょうか?

 ハイ、菊川テイでございます。m(__)m(怜さん見てるかな?)『最後に』ということですので指摘だけ。
 『蕨手刀』を『蕨手紋刀』と入力する時点で翔んでいるのですが、『蕨手紋』と『蕨手刀』とは全く異なるものなので、ちょっとした思い違い程度で『蕨手紋刀』となることは、アリエナイケドナ〜と申し添えておきますネ。
『蕨手刀』とは、持ち手(柄)のところをクルリと曲げて、蕨のような形にした刀です。
『蕨手紋』とは、蕨のような絵の紋様(模様)のことで、装飾古墳の壁画などで有名ですね。
『蕨手刀』のどこにも『蕨手紋』の模様はありません。柄と絵で大違い。(^^)/

 鍛造品では、現在でもナタやナイフの持ち手を蕨手形にする物があります。一種の『共柄』です。野鍛冶って雰囲気ですね!これだと木の柄を付ける必要もなく、紐や革をグルグルと巻き付けて使えます。量産簡易型だと思いますヨ。
 しかし、強く使用した時には、掌に反動が直に伝わって痛いので、かたばみさんの画像にあるように、『毛抜き』と呼ばれる中空構造にして緩衝させたのでしょう。手元も軽くなるし。改良型ですね、ユーザーの意見を反映させているのです。

念の為、『市来遺跡』の確認をしてみました。
 『鹿児島県埋蔵文化財情報データベース』より
http://www.jomon-no-mori.jp/japanese/index.asp
  遺跡番号: 8−52−0
  市町村名: 出水市
  遺跡名 : 市来遺跡(イチク)
  所在地 : 鹿児島県出水市武本上中
  時代  : 縄文〜平安
  遺物等 : 弥生土器・土師器・須恵器
  備考  : 昭和62年分布調査、平成4年確認・本調査
出水市だったんですねぇ。つい、日置郡の市来町(イチキ)にある遺跡かナと錯覚しやすいです。市来式という土器の形式があるので、その方面では有名な遺跡なんでしょうね。
(私の検索方法が下手な為)このデータベースでは蕨手刀まで探しきれませんでした。そこで、代りに鹿児島県肝属郡高山町出土の蕨手刀です。
 『鹿児島県歴史資料センター黎明館』
http://reimeikan.pref.kagoshima.jp/kgs01_s5_4.htm

 蕨手刀は全国で約200振(口)ほど出土しているそうです。エミシの刀として有名ですね。北海道・東北・関東が多いようですが、中国・四国・九州でも少数ながら見つかっています。隼人が持っていたらイケナイのかな?(私は日本人ですが、スイス製のポケットナイフも持っています)。
 それに、隼人の遺跡から出土したからといって、隼人が持っていたとは限りません。昆布売りのエミシが客人として過ごしていたかもネ。昔の人達だって、ウマシカじゃないのです。(^^)/

[5036] Re[5033]: 知らない間に  神奈備 2004/04/06(Tue) 20:49 [Reply]
> 分水・弥彦・寺泊合併協議会 2004.02.20.解散。
> 弥彦村の名は存続するようですね。

 昨年9月に弥彦神社の大森宮司さんの呼びかけに応じて、当掲示板でも呼びかけさせて頂きました。ご協力に感謝いたします。
 当面の合併はお流れ、一つには弥彦村の財政状態も悪いようで。

> 小さな村や町の名がどんどん消えていくようです。
小字が消え、大字が消え、村が消え、・・、神社名は貴重な資産になってきました。
 神社合祀に反対した南方熊楠翁の住んでいた和歌山県田辺市には、八立稲神社が鎮座、「八王寺」「八幡」の八「出立」の立「稲成」の稲を組み合わせた神社名になっています。
 出立は熊野王子社のひとつ。
 http://www.kamnavi.net/kumano/nhj/detati.htm

> 元社探し
で思い出しました。
> 稲倉魂命は伏見稲荷大社
この田辺市稲成町1124の稲荷神社は社伝によりますと神武天皇即位のお祝いに創建と言う古い歴史。また空海が稲穂を背負った白髪の翁にであったのもこの辺りだったとか。

 ついでにお国自慢。
和歌山県有田市糸我町中番329鎮座の稲荷大神社には「大神は伏見よりも170余年先に糸鹿の郷に降臨された」との言い伝えがあります。
 http://www.kamnavi.net/kumano/kii/itoga.htm

 要は伏見稲荷大社は有名ですが、だからと言って元社とは限らないということ。

[5035] Re[5034]: ただし・・・  大三元 2004/04/06(Tue) 20:19 [Reply]
> > 小さな村や町の名がどんどん消えていくようです。

重要文化財なのにねぇ、無神経無教養ですよね。

[5034] ただし・・・  玄松子 2004/04/06(Tue) 12:58 [Reply]
人口が一万人未満の小規模自治体を対象とし、半ば強制的な再編を図る合併新法が今国会に提案されました。

小さな村や町の名がどんどん消えていくようです。

[5033] 知らない間に  玄松子 2004/04/06(Tue) 12:38 [Reply]
分水・弥彦・寺泊合併協議会 2004.02.20.解散。
弥彦村の名は存続するようですね。

[5032] Re[5031]: 書き間違いと不正確さを訂正をー  神奈備 2004/04/06(Tue) 06:28 [Reply]
PIKKIさん
「菊川亭さん、玄末子さん」
一体何を見ているのですか?
1/3は誤読、あまりにも雑な神経ですね。
 

[5031] 書き間違いと不正確さを訂正をー  PIKKI [Url] 2004/04/06(Tue) 02:07 [Reply]
質問への答えです
■大三元さん どうも書き間違ったようです。ユーカラに頻発する表現は、人食い熊などをその罰として切り刻んでばら撒く・・などという表現だと思います。何故書き間違えてしまったか考えたのですが・・どうも僕の一番好きな山本多助氏の「カムイ・ユーカラ」(平凡社)を読み返したばかりだったので・・その中の「アイヌ・ラッ・クル伝」の”暗黒の国の魔神退治”の《コタンの人々をおどかしていた大シカの頭は、コタンに運ぶことにしました。》という文章が心に残っていたのではないかと思います。前後をよく読むとこの大シカの頭は、むしろ熊祭りの熊の頭のように、尊敬の対象のようです。
■玄末子さん 不正確で申し訳ありませんでした。正確にはー
《僕の考えは、首狩に関係あるものはすべて、同じ信仰・起源から来たのではないか(という可能性を)疑ってみることが必要ではないかと思います。》

[5030] Re[5027]: かたばみさん、恋川亭さんどうもありがとうございました  玄松子 2004/04/06(Tue) 00:49 [Reply]
ちょっと分からないのですが。

> 僕の考えは、首狩に関係あるものはすべて、同じ信仰・起源から北のではないかと疑ってみることが必要ではないかと思います。

これは、
1.「首狩に関係あるもの」は、「すべて同じ信仰・起源から来た」という結論を導きたいのでしょうか、
それとも、
2.「首狩に関係あるもの」は、「すべて同じ信仰・起源から来たのではない」という結論を導きたいのでしょうか。

どちらを疑ってみる必要があるのでしょうか。

[5029] Re[5027]: かたばみさん、菊川亭さんどうもありがとうございました  大三元 2004/04/05(Mon) 23:58 [Reply]
>  アイヌでは、ユーカラにもしばしば出てくるように、首と胴体を切り離して復活を防ぐという信仰・儀式があったようです。

これは何に出てるのでしょうか。幾つかのユーカラで戦闘場面を読んでみましたが見あたらないので教えて下さい。

[5028] 武具とは・・・  くしこ [Mail] [Url] 2004/04/05(Mon) 22:26 [Reply]
権威の象徴と聞いたことがあります。

[5027] かたばみさん、菊川亭さんどうもありがとうございました  PIKKI [Url] 2004/04/05(Mon) 21:07 [Reply]
僕自身もうろ覚えの記憶に基づいての疑問なので、あまり話しを発展させられないのが残念ですが・・秀吉の朝鮮侵略で、首では腐ってしまうというので、急遽鼻や耳に変わるまでは、その歴史や規模からみても世界一の「首狩族」といっても過言ではないのではないのでしょうか?幕末にもまだその習俗が残っていたいうので約千年近く日本人が首を狩っていたというのは尋常ではないと思えるのですが・・他の民族と比較すると。
 アイヌでは、ユーカラにもしばしば出てくるように、首と胴体を切り離して復活を防ぐという信仰・儀式があったようです。南方の首狩族も似たような考え方ではないかと思うのですが・・
僕の考えは、首狩に関係あるものはすべて、同じ信仰・起源から北のではないかと疑ってみることが必要ではないかと思います。
 それと、狩猟や遊牧と農耕の比較でいうと、前者は毎回違う状況への適切な対応可能な能力が求められるのに比べると、農耕では個人の才能よりも、同じ事の繰り返しという共同体のルールや規制が重視されるのではないでしょうか?
最後に、蕨手紋刀が市来遺跡などの隼人の遺跡からも出土するのは何故なのでしょうか?
それと、武士の起源ですが、平将門の出兵の際の理由が国内ではなく、渤海の滅亡だったりと「新皇」の理由も海外にあったらしいかったり、多賀城碑での北方の重視や、東北・関東の武士の成立もまた、高句麗のあとを受け渤海(”同族の国”と言って朝貢してきた)の日本海北周り交易路の馬によって成立したのではないのでしょうか?高句麗の滅亡前後に、半分は渤海へ、半分は主に係累が多かった関東へとやってきたとのではないかと思うのですが。

[5026] Re[5010]: 武士と首狩り  恋川亭 2004/04/05(Mon) 20:59 [Reply]
> PIKKI 殿

追記です。昨夜は探し出せなかった本ですが、今でてきました。
ご参考までにいかがでしょうか?

『刀と首取り』(平凡社新書)
鈴木眞哉・著、平凡社・版、693円(税込)
2000年03月発行、ISBN4-582-85036-7

 古代ではないけれども、我が国武人の日本刀に対する感覚も判ります。もったいなくて、なかなか実用には使えなかったのですね。これ、実は銅剣や銅矛、鉄剣のような出土品などにも言えるのではないかなァ〜?

[5025] Re[5023]: 社日さま2  玄松子 2004/04/05(Mon) 20:39 [Reply]
> 社日碑は太平洋岸を中心にあちらこちらにあるようですね。

太平洋岸が中心なんですか?
出雲や四国、九州でも見かけましたが、その情報はどこから?

[5024] Re[5022][5010]: 武士と首狩り  恋川亭 2004/04/05(Mon) 02:16 [Reply]
> PIKKI 殿

ウ〜ム、武士に対してこんなに誤認(偏見と言えば失礼でしょうから)があると、時代劇を観ても理解できないのではないでしょうか???なんて余計なお世話。。。
以下は本来、日本人として常識的範囲の意見として。。。

> 何故日本人が明治維新まで、世界でも有数の首狩族だったかがわからなくて、

 まず、何をさして『首狩族』なのか判りません。『明治維新まで』ということなので、合戦で首級を挙げることではなく刑罰で斬首することを指しているのでしょうか。しかし、それはいわゆる『首狩』とは異なるので、やはり武士が戦場で行う『首取り』のことなのでしょうね。

 弓矢取る身、日本の武家が代々誇りにしていたのは、まず戦場においての活躍、軍(イクサ)働きでした。怖気づくことなく先頭で一番最初に切り込みしたとか(一番鑓の手柄)、敵の将士をどれだけ倒したか、などです。その手柄により、合戦後の報償や地位が決まったのですから。敵の将士を倒した証明を『首取り』で行うのです。取った首を『首級』と書いて「しるし」と訓むならいです。

 合戦後に検証が済んだ『首級』を、加工して保存したり、供養以外の儀式に使ったような話しを知りません。いわゆる『首狩族』の習俗に多い、相手の霊的威力を取り込むとか、首長の家にずらりと並べて誇示するといった例はなかったでしょう。首と胴を分けることにより、完全なる復活阻止といった側面はあったかもしれませんが・・・。武士の刑罰である切腹斬首にしても、その刑罰を命令した者(あるいは代理)は斬首した首を検証する慣わしです、といか以後は手厚く葬るのみです。これを首狩りと言えば、ギロチンも同類となります。

 このように、日本の武士の『首取り』は、まず検証目的が第一義でしたので、これをもって『首狩りの風俗』とするのは疑問です。また『日本人が世界有数の首狩族』と、「族」指定で記述されるのは、武士階級にかかわらず、公家・農民・商人・工人・賤民ともに民族全般に慣習として行われていたかのような表現に受取られます。
 このあたり文化人類学に詳しい方のアドバイスを賜りたいですね。

> 武士の先祖の高句麗とかの騎馬遊牧民の風俗だとして・・
> 中国の史書から引用されていたような記憶があるのですが・・

この文章を整理しますと、
 @ 首狩りは、騎馬遊牧民の風俗
 A 高句麗は、騎馬遊牧民
 B 武士の先祖は、高句麗
 C 中国の史書に、記載されている
ということになり結局『武士の先祖は高句麗だ』と主張されたいのが目的なのかナ?プロパガンダの一環かナ?と思えますが、@〜Cを個別に証明して頂きたいところです。武士に関しては、[5022]で、かたばみさんが詳述されている通りです。
私の感想は、この中国の史書とやらの偏見と無知です。

> ほとんどがアフリカや東南アジアや南米とかの首狩族の話ばかりで、そうなると縄文文化からなのでしょうか?

 翔んでいます。(^^)

> ジョーゼフ・キャンベルという神話学者の本に、食人や首狩が、狩猟から農耕文明へとの過渡期の信仰・儀式と書かれていたので・・

 あまりに古い認識ではありませんか? 前世紀いや前前世紀以前のパラダイム。この神話学者の偏見と無知です。

> 農耕文明には不要な個性や才能主義やシャーマン的な信仰などの抹殺を正当化するものではないか

 農耕文明にこそ、個性・才能・シャーマン的な信仰が必要かと思います。鋤鍬を担いで田畑へ出てみてください。あるいは、せめて一年を通して「現実の」農作業を細かく観察してみてください。没個性的共同作業への従事、なんて大誤認ですから。そして日本の「農耕文明」には、農民だけでなく武士も多大な貢献をしているのです。

・・・やっと神奈備分野に突入 (^^;
「農耕でのシャーマン的な信仰」、有りますよね。何をもってシャーマン的と言うか幅があると思いますが、まずもって「作の占い」をはずせないです。今年は豊作か凶作か、日照り・風水害・虫害はどうか等々。田の神様やらなんやら・・・農耕には信仰習俗が豊富にあります。

[5023] 社日さま2  ほだらか 2004/04/04(Sun) 22:58 [Reply]
社日碑は太平洋岸を中心にあちらこちらにあるようですね。
でも、そこから勧請するのは少し不満な気が
『HP:玄松子の記憶』は最初に拝見いたしました。

元社探しですが、大己貴命は吉野の大名持神社が良さそう、三輪の大神神社・福岡県三輪町の於保奈牟智神社は少し違う気がします(少彦名命もご一緒ですし)。
稲倉魂命は伏見稲荷大社、埴安媛命は奈良の畝尾坐健土安神社かな?
一番の天照皇大神がお伊勢さまから勧請できないなんて・・・・
だと次の有力候補は東京大神宮か?

社日さまは江戸の頃から流行りだした後れたムーブメントですね。
でも一番重要な神さまが一杯!
五穀豊穣こそ国の根幹な気がします。

[5022] Re[5010]: 武士と首狩り  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/04(Sun) 20:13 [Reply]

≫武士の先祖の高句麗とかの騎馬遊牧民の風俗だとして

私は高句麗や騎馬民族が武士の先祖だとは考えていないです。
騎馬上で弓を射るなど騎馬民族の戦闘手段を導入している可能性はありますけど、騎馬民族の弓は短弓で長弓を騎馬上で使うのは日本の武士くらいではないかなあ。
藤原秀郷916頃(俵藤太)が騎射の祖とされるようですが、実際には蝦夷が最初でそれを高度化したのが藤原秀郷じゃないかと考えています。

で、魏志倭人伝では、弓を上を長く下を短く持つ、とあり、銅鐸などの絵でもそのようにみえます。
こういう弓の使い方をする民族が他にいないか探していますが、いまのところみつけていません。

盾を使わないうんぬんはまさに矛盾の話で、日本での戦の攻撃手段と防御手段がどういうように変化してきたかから追っていかないと危ないですね。
剣と刀にしても鎧武者に刀ではまず切れない(宮本武蔵クラスの剣聖ならいざしらず)。
接近戦になれば組み討ちで短刀で鎧の隙間に突き刺す。

平安時代の東北争乱で蝦夷が蕨手刀という柄が刀身に対して角度がついた短い刀を使い始めています。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/warabite01.jpg
これが日本刀の湾曲した刀の原形とされるようです。
騎馬上ですれ違う相手をなぎ払うように使ったとされます。

柄の部分を中抜きしていますが、毛抜きと呼ばれるようで後の太刀にもこの手法が使われています。
理由ははっきりしませんが斬撃のさいの衝撃を吸収するためとされるようです。

中近東あたりの円月刀やサーベルも同様で湾曲刀は騎馬兵が使う。
剣は突き刺すわけですが、動きの早い騎馬では容易には突き刺せないわけです。
しかし騎馬武者が鎧をつけたら・・着ることはできなくなる・・矛と盾。

戦国時代では槍が主戦武器です。
突き殺す方が確実で(^^;この時代では殺すための最善の武器が使われたからだと考えています。
(刀は象徴であって主戦武器ではなくなった)

鎌倉時代の戦に槍がみえません。
鎌倉時代あたりの武士の戦は勝敗を決めるための戦で、殺すことが目的ではなかったからだと考えています。
(ただし、勝った証として必要なら首を取る)

そういう流れのなかで矛と盾がどう扱われたか、ですね。


≫食人や首狩が、狩猟から農耕文明へとの過渡期の信仰・儀式と書かれていたので

これも納得しないです(^^; (といって持論があるわけじゃないけど)
食人とか首狩りなどに対する論がキリスト教的文化圏からのものだと、私は先入観からの論ではないかと疑いを持って読み始めます(^^;

日本で食人慣習があった可能性を示すものはいまのところないようですが、首狩りについては東南アジアや雲南の首狩り族、日本人の南方系祖先の習慣の継承だろうと思っています。
(長江の河姆渡遺跡BC4000頃からは小児を食べた痕跡がでています)

最古の物証は吉野ケ里遺跡の甕棺の首無し骨の出土かな。
首がないのだからもってゆかれてるわけで、明らかに首狩りだと思います。
問題はこの首狩りをだれがやったか、なんですが吉野ケ里遺跡の主が年代によって変わっている可能性もあっていまのところなんともいいにくいところです。

日本のほとんどが酸性土なので骨は溶けてしまって残らないようですが、甕棺に葬られていたので残った。
剣で刺されたとか鏃が打ち込まれているとかいろいろあります。
甕棺に葬られるのは有力者でしょうから、そうでない戦死者がはたしてどれだけいたのか・・

その後首狩り情報は消えますが、東京丸の内に平将門の首塚がありますから、少なくとも900年頃には再登場してる?
弥生〜古墳時代ではどうだったのかなあ。

なお、首狩りと処刑は別に考えないとまずいですね。


[5021] <俵なにがしさんへ  古代鋼 2004/04/04(Sun) 14:59 [Reply]
背景を知らない方へ多少説明がいるかと思います。
 江戸時代までは、出雲-伯耆で生産された和鉄、和鋼は量・質
共にその他の地区を圧倒的に引き離していました。たとえば江戸
期にもうひとつ大きな和鉄の生産地として、釜石があります。
ここは量も出雲-伯耆には劣り、質にいたっては刃物の生産に
必要で高品質を要求される和鋼を製造できない状態でした。そ
れで釜石周辺は昔から、鉄瓶、茶釜といった鋳鉄性の廉価な
ものが名産の中心でした。これらの鋳鉄のことを大正以降、
和鉄と称していました。つまりたたらで出来るものにもピン
からキリまであるということです。
 鉄とは現在は鋳鉄の意味が薄れ、Feという元素を主体とする
材料の総称となっていますが、たとえば英語のIronは鋳鉄の
意味のほうが強く残っています。
 このような背景を背負いながら、菅谷たたらは和鉄を生産し
ていたと出雲-伯耆地区で主張していたわけですから、この地区
の質的シンボルの和鋼が忘れ去られそうになっていったわけで
す。そのために和鉄で日本刀を作るなどということが堂々と語
られるような状況を作り出した菅谷の罪は重いということにな
ります。

[5020] Re[5019]: 社日さま  神奈備 2004/04/04(Sun) 09:18 [Reply]
『平成データ』では、特定の地域に分布しているようです。但し、地域で社日碑を神社データとして登録するのかしないのか、と言う考え方の差かも知れませんが。最近参詣しました和歌山の粉河寺の近くの須佐神社に社日神の石碑が鎮座、しかしデータにはなっていませんでした。
 社日神が多く登録されているのは、上野、武蔵、越中、信濃、丹後、淡路、出雲、伊予、筑後、特に出雲、築後に多いです。僅かな経験ですが、出雲では、社日碑が多くあり、これが登録されているようです。

 社日神については、『HP:玄松子の記憶』の「雑記帳」
http://www.genbu.net/zatu/zatu004.htm
に写真と解説が出ています。それによりますと、神様は、天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命の五柱です。

> 天照皇大神(皇大神宮)ぐらいで大己貴命・稲倉魂命・埴安媛命・少彦名命は何処が元宮でお祀りしているのか全く解りません。
> 出来れば正式に勧請したく思います。
この書き込みからは五柱の神々をその元社から個々に勧請されされされたい事ですね。気宇壮大、素晴らしい事ですね。
 現在、お伊勢さんは、分霊を行っていない旨聞いておりますが、元社探しと言うテーマは面白いですね。
大己貴命は出雲大社らしく思えますが、大和には三輪の大神神社、御所の大穴持神社、吉野の大名持神社、福岡県三輪町の於保奈牟智神社などの古社も有力かも。
皆様方にお知恵拝借いたしたい所。

[5019] 社日さま  ほだらか 2004/04/03(Sat) 23:45 [Reply]
神奈備さま、その他の皆さま、はじめまして

今度、新築する神棚に社日さま(五柱)をお祀りしたいのですが、出来れば正式に勧請したく思います。
社日さまをお祀りしている神社を教えてください。
解っているのは
三澤神社(島根県仁多郡仁多町)
白髭神社(埼玉県大里郡寄居町)
社日神社(北海道江別市)
阿須利神社(島根県出雲市)
伊賀武神社(島根県仁多郡)
これくらいです。あと、
天照皇大神(皇大神宮)ぐらいで大己貴命・稲倉魂命・埴安媛命・少彦名命は何処が元宮でお祀りしているのか全く解りません。
神社初心者なので宜しくお願い致します。

[5018] アマミを考える  大三元 2004/04/03(Sat) 10:26 [Reply]
恋川亭さん

アマミ、、、私もこの語の周辺をうろついています。
http://www.dai3gen.net/amami2.htm
への追記の形でまとめておきましたので、御覧頂ければ幸いです。
アマミ・シネリ の対で考えたいというのが基本的スタンスです。

[5017] Re[5016]: 天孫降臨神話の里  神奈備 2004/04/03(Sat) 09:39 [Reply]
> 「大将」の論
 某女史が宿泊されて、団欒の際、倭姫の巡幸の事を話題にされたら、えらい剣幕でその話を拒絶されたとか。土蜘蛛さん、天孫嫌いここに極まれり。

> 天の川がベストにマッチ古来からの聖地や神社あるいは遺跡がないでしょうか?
 京洛と摂津の境の山崎の山から交野方面を眺めますと、天の”天の河”が、地上の”天の川”とつながって見えると言います。

> 有れば神話が作られた場所かナ? と思います。
おっしゃる通り、織物神社など星の神話の拠点です。

[5016] 天孫降臨神話の里  恋川亭 2004/04/03(Sat) 01:14 [Reply]
あ、連続投稿になりましたね(謝)。
妄想をひとつ。本来なら青草掲示板用の話しですが、あちらが今、席亭の『鴨と市、最古の王権 』が好評連載中なので、腰を折らないようにこちらへ来ました。

「アマミ」とは何なのかと囚われているところです。
  天・水(アマ・ミズ)→アマミ→アメ(雨)?
  天・海(アマ・ウミ)→アマミ→水平線の彼方(ニライカナイ)
そんなとき福島先生のレスより「阿倍仲麻呂」に触発されまして有名な和歌を思いだしました。(うろ覚えですが)
『あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも』
 遮るもののない大陸の広大な夜空。月が出るまでは満天の星。古代のことですから当然、外灯やネオンもなく、真っ暗な地と対称に膨大な星々と濃厚な銀河が見えたはずです。そこへ、ポコッと月が昇る・・・?

 現代でも、まったく人工の光で邪魔されない星空を見上げたなら、星々の数と輝きに『にぎやかな(ニギニギシ)』と感じることでしょう。そして、銀河もかすかなボーッとした光ではなく、はっきりと銀色に輝く大河に見えます。古代なら、もっともっとよく見えたでしょうね!
 そこで妄想。。。銀河・ミルキーウェイ・天の川が、もっとも印象深いシルエットの山の峰にさしかかったとき、『天孫降臨』の昔話の舞台となったのかもしれません。
 星明かりに浮かんだ高千穂の峰に、天の川がベストにマッチして、まさに天孫降臨OK!と見えるような角度と距離をもった場所。そんな遥拝ができるような最適の場所に、
古来からの聖地や神社あるいは遺跡がないでしょうか? 有れば神話が作られた場所かナ? と思います。
 「高天原」から「降臨」する為には、特定の季節や時間に「天河」がそれらしく峰にかかる「神奈備山」と、その状況を遥拝できる聖地が必要だったかも。。。(^^)

荒海や 佐渡によこたふ 天の河

[5015] Re[5014][5013][5012]: 「土ぐもさん」再び  恋川亭 2004/04/02(Fri) 23:26 [Reply]
 数年前、あのペンションに宿泊しようと調べたところ、当時は休業中だったのです。今は普通に営業されているようですね。機会があれば訪ねてみたいです。膨大な蔵書があるとか・・・?
 今回出版の同書も、「まえがき」の1頁目から角閃斑糲岩の話しが述べられています。私も初めての登拝のときに気になっていたのですが、この鉱物については、故・樋口先生の著述により知りました。三輪山の秘伝のひとつに繋がっていく岩石ですね。講の方々にご迷惑のないよう、これ以上は控えさせて頂きます。
 しかし、そんな気遣いも無用で「大将」の論は、どんどん展開していきます。前著では、イケナイ写真も掲載されてますし〜。(^^;
 代々この地で生まれ育ち、長年の研究を積まれた著者だからこそ、あえて許されることでしょう。ふらりと来た余所者が勝手にしてはイケナイことです、ネッ。(あ、誰かがコケている)

[5014] Re[5013][5012]: 「土ぐもさん」再び  ZOU 2004/04/01(Thu) 23:12 [Reply]
みなさん、どもです。

> 旅館の大将だったかな。

ここの大将ですね↓
http://www.adbest.net/sun.html

>『大和誕生と水銀 − 土ぐもの語る古代史の光と影』(彩流社刊、2800円)

書店に立ち寄った時も気付かなかったので、先程さっそくネット注文しました。
恋川亭さんがご紹介下さる本は面白い物が多いです。
先日の「歪められた日本神話」、現在読書中ですが、この本もなかなか(^-^)
日本神話の理解に比較神話学的な視点は大事ですね。ヤマタノオロチが、斐伊川の支流や砂鉄の象徴ではなく、八つの頭の大蛇そのものであるとズバリ言いきってしまうのには壮快ささえ覚えます。

[5013] Re[5012]: 「土ぐもさん」再び  神奈備 2004/04/01(Thu) 22:27 [Reply]
>  あの独特な語り口調の本、「大和誕生と神々−三輪山のむかしばなし」の著者、田中八郎氏。

旅館の大将だったかな。

[5012] 「土ぐもさん」再び  恋川亭 2004/04/01(Thu) 21:57 [Reply]
 あの独特な語り口調の本、「大和誕生と神々−三輪山のむかしばなし」の著者、田中八郎氏。お元気でいらっしゃったのですネェ。続編が発行されていました。↓

『大和誕生と水銀 − 土ぐもの語る古代史の光と影』(彩流社刊、2800円)

私のヘタな解説よりも、本書の目次の中からキーワードを抜書きしてみます。
【さんちゅう・宇陀水銀・辰砂・水分神・大和の丹生・紀伊の丹生・丹生川上神・大仏鍍金・ツバ市・イワレ・エウカシ・葛文化・宇陀の誇り】
 今回も奈良の地元の言葉で述べられています。関西弁ネイティブ以外の方々が、その言葉を曲解されないように祈ります。(^^;

[5011] Re[5008][5007][5006]: 空想、列島と半島5  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/01(Thu) 18:09 [Reply]

前後関係を含めたシミュレート手法なので、毎度長文になっております(^^;

≫漢字圏(大陸、半島)ではなさそうで、南方からの焼き畑の伝達と。

最初は南方系の海洋文化と渾然一体でBC2000〜1000頃に九州縄文を最初に近代化させたと考えてます。

次いで水田がひろまるけど、作って数年で雑草がどんどんはびこるようになって収量が落ちてしまうので、野焼きで休耕させて地力を復活させていたという論があります。
当時の肥料=野焼きじゃないかと思ってます。
稲の穂先だけを刈り取る方法でもやっぱり肥料は必要じゃないかな。

次いで畑作が第2段階へ、出雲系譜の畑作がこれで山東半島からとみています。BC100頃からか。
(山東半島は現在も畑作がメインの土地柄です)
これも野焼きして場所を交代しながら畑としていたのではないかな。

出雲の版図がいかなるものかのひらめきを得たのが以下のハタの地名分布です。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/10/hata.gif
(このうち、漢字で秦は2カ所しかありません)

http://www.kasugano.com/wakakusayama/
若草山の野焼きっていつごろからはじまっているのかなあ。
人口が増えるに従って農地が足りなくなるから畑地の交代ができなくなって肥料を使い、草取りも人力でやるようになって、儀式(祭祀)として残ったんじゃないかと思ってます。


延喜式の平城京の瓜畑の記事で耕すのに2人、畦ほりで3人、糞はこびに12人・・という記事(927)があるそうで、人糞を肥料に使うとみえる最初の記事らしい。
で、当時のトイレからはお尻を拭く竹べらとか木べらがでてくるんですが、鎌倉時代ではそれが消えてしまうのだそうです。

肥料にするのにそんなものが混じっていたらやりにくいからだという論があります。
葉っぱにしたのかな(^^;


[5010] *先日はリンクのお許しをどうも有難うございました  PIKKI [Url] 2004/04/01(Thu) 04:08 [Reply]
僕のリンク集のトップにおかせてもらいました。神奈備さん、かたばみさんどうも有難うございました。
 今日伺いましたのは、何故日本人が明治維新まで、世界でも有数の首狩族だったかがわからなくて、どなたか詳しい方がおられないかと思いやってきました。僕が以前に読んだ本(題名失念)では、武士の先祖の高句麗とかの騎馬遊牧民の風俗だとして・・中国の史書から引用されていたような記憶があるのですが・・検索したら、ほとんどがアフリカや東南アジアや南米とかの首狩族の話ばかりで、そうなると縄文文化からなのでしょうか?
 何故首狩族かというと・・少し前の日記にも書いたのですが、ジョーゼフ・キャンベルという神話学者の本に、食人や首狩が、狩猟から農耕文明へとの過渡期の信仰・儀式と書かれていたので・・魔女狩りと同じように、農耕文明には不要な個性や才能主義やシャーマン的な信仰などの抹殺を正当化するものではないかと思い調べてみようと思った次第です。
その一部の検索結果は、全然学問的なものではないようですが、一応リンクしておきます。
■<a hre="http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/koppou/data020526_1.html">「日本武道傳骨法會師範 堀辺正史先生講話」</a>
■<a href="http://member.nifty.ne.jp/bintaro/touken/zadankai16.htm">「第16夜 侍が盾を使わないのは・・・」</a>


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