神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

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掲示板のログ(平成十六年 五月)お名前の敬称は省略しています。

[5177] Re[5175][5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 21:07 [Reply]
> 葛木御歳神社は落ち着いた雰囲気の神社です。
> 神奈備はディスクトップの背景にしていた時期がありました。
> HP拝見いたしました。

ありがとうございます。
背景にして頂いていたとは感激です。
氏子が少なくなって高齢化して、
きちんと維持できなくて申し訳なく思っています。
もう少し整備できればと思っています。
>
> > 自然石の磐座(いわくら)
> これは一般論でしょうか。それとも葛木御歳神社の神奈備山に存在しているのでしょうか。

私は見ていませんが、義父の話では、御歳山の頂上に大きな石がごろごろしていて、
そこだけ、木が大きくならず、山の上から、四方が見えたそうです。
たぶん木の下にも石があるのだと思います。
それで、本にあった磐座だと解釈しました。
ただ、今は台風の影響と、たぶん虫害だと思いますが、かなりの木が倒れてしまっています。
頂上まで上がれませんでした。
何とか、頂上まで上がれるようにして、頂上にも鳥居を置けたらいいのになあと
義父は話しています。

>
> 何故、葛城の谷間ですが、さほど広い稲作地を背景とはしていないような立地ですね。何故御歳神社なのでしょうね。赤銅八十梟帥あたりがうろついていたような感じの場所に思えます。『古語拾遺』に言う大地主神は土蜘蛛の神かも知れませんね。農作業が上手ではなかったような伝承もあるようで。

大地主神のご指摘ありがとうございます。
あるHPや、本で大地主神は大国主神だとありましたが、
どうしてもそれは信じたくなくて、そのことも明らかにしたいと思っていました。
よかったです。
大国主神では高照姫命があまりにかわいそうですものね。

ある本によれば、高鴨の地が先にひらけて、その次に中鴨、その頃は
焼畑農業をやっていた時代だそうです。
下鴨が最後にひらけて、そこで水稲農業が始まったとありました。
それで、鴨都波神社は水に関係が深い神様が、いらっしゃるそうです。

>
> > そうすると高照姫命と下照姫命は同一神となりますね。
> いろんな考え方がありましょう。朝日と夕日は同一なりや。明けの明星と宵の明星とは如何。

あるHPの書き込みで高照姫命と下照姫命は金星ではないかとありました。
それはとても魅かれる話です。
ただ、日本神話には、ギリシアのように星の伝説が少ないですね。
朝鮮半島や中国には七夕の例に見られるように星の神様がおわすのでしょうか?

>
> > 朝鮮からのアカルヒメ
> 拉致家庭の子供のようなもので、「我が御祖の国に行く」とこの国に来ました。どちらの国の神様?
>
> > 素朴な疑問ですが、葛城の神様と大己貴神の関係はどうなのでしょうか?
> 僭越ですが
> 「鴨と市、最古の王権」http://www.kamnavi.net/jm/city.htm
> 「迦毛の大御神と下照比賣考」 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kamosimo.htm
> 尤も、真に受けないでね。
>
ごめんなさい。面白い話には飛びつきたくなるもので。。。
ただし、正式な書面には不確実なことは書かずにおこうと思っています。
口頭の逸話なら、許せるかもと思っています。

> 『神社の若妻の物語』のようなタイトルの本が有名になりましたが、期待しております。頑張って下さい。

若妻の年齢は過ぎてしまいましたが、まだ、人生の半分まで少しあるかなと、思っています。
暖かいお言葉ありがとうございました。

[5176] Re[5174]: 葛木御歳神社の神階  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 20:41 [Reply]
お調べくださり、ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

[5175] Re[5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  神奈備 2004/05/31(Mon) 20:05 [Reply]
葛木御歳神社は落ち着いた雰囲気の神社です。
神奈備はディスクトップの背景にしていた時期がありました。
HP拝見いたしました。

> 自然石の磐座(いわくら)
これは一般論でしょうか。それとも葛木御歳神社の神奈備山に存在しているのでしょうか。

何故、葛城の谷間ですが、さほど広い稲作地を背景とはしていないような立地ですね。何故御歳神社なのでしょうね。赤銅八十梟帥あたりがうろついていたような感じの場所に思えます。『古語拾遺』に言う大地主神は土蜘蛛の神かも知れませんね。農作業が上手ではなかったような伝承もあるようで。

> そうすると高照姫命と下照姫命は同一神となりますね。
いろんな考え方がありましょう。朝日と夕日は同一なりや。明けの明星と宵の明星とは如何。

> 朝鮮からのアカルヒメ
拉致家庭の子供のようなもので、「我が御祖の国に行く」とこの国に来ました。どちらの国の神様?

> 素朴な疑問ですが、葛城の神様と大己貴神の関係はどうなのでしょうか?
僭越ですが
「鴨と市、最古の王権」http://www.kamnavi.net/jm/city.htm
「迦毛の大御神と下照比賣考」 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kamosimo.htm
尤も、真に受けないでね。

『神社の若妻の物語』のようなタイトルの本が有名になりましたが、期待しております。頑張って下さい。

[5174] 葛木御歳神社の神階  玄松子 2004/05/31(Mon) 19:47 [Reply]
僕がわかる範囲で(参考『古代諸国神社神階制の研究』)

仁壽2.3.24庚申 従二位 文徳実録
仁壽2.10.2甲子 正二位 文徳実録
貞観元.正.27申申 従一位 三代実録

貞観元年には、多くの神社に神階が授けられていますが、
祈年祭の主神として、葛木御歳神に高い神階が与えられたようです。

同時に従一位になった神社は、
 葛木御歳神(正二位→従一位)
 高鴨阿治須岐宅比古尼神(従二位→従一位)
 高市御縣鴨八重事代主神(従二位→従一位)
 大神大物主神(従二位→従一位)
 大和(従二位→従一位)
 石上(正三位→従一位)
 高鴨(正三位→従一位)

つまり、貞観以前は、葛木御歳神が鴨最高位でしたが、ここで並びます。

ちなみに、当時正一位だった、あるいは同時期に正一位になったものは、
 春日
 大己貴(従一位→正一位)

その後、正一位になったものは、
 大神大物主神
 石上

[5173] Re[5171][5170] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 18:42 [Reply]
由緒は祖父の代に書かれたものをベースにしています。
ここはきちんと調べていませんが、
852年10月2日の文徳実録に正二位とあります。
葛城地域では最高位でなのでしょうか?

[5172] Re[5169][5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 18:31 [Reply]
言葉が不適切で申し訳ありません。
神社を継ぐことは、かなりの覚悟を持っていないと出来ないと思っています。
私に勤まるものかとかなり思案しました。
神職講習を終えれば身につく感覚もあるはずです。
両方を覚えておきたいと思っています。


[5171] Re[5170] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  ペギラ 2004/05/31(Mon) 18:29 [Reply]
> 御歳神社の今昔のところで、
> >仁寿二年(857年)には大和国で本社が唯一最高位を授かり
>

ごめんなさい、私の勘違いですね。m(__)m

御歳神社のなかで、唯一、葛城の本社が、ってことですね。

すいませんでした。

[5170] Re[5169][5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  ペギラ 2004/05/31(Mon) 18:10 [Reply]
はじめまして、鴨探検好きのペギラと申しますm(__)m

玄松子さんの厳しいお言葉の後で何なんですが、
HPを覗かせていただいて一つ。

御歳神社の今昔のところで、
>仁寿二年(857年)には大和国で本社が唯一最高位を授かり

この資料は、どこからなんでしょうか?
大和国の最高位は、文徳実録によると、
嘉祥三年(850年)に春日大社の
建御賀豆智命大神・伊波比主命大神が正一位となっていますので、
この記述はどうか?と思いますが。
三代実録の貞観元年(859年)でも葛木御歳神は従一位ということですので、
ちょっと、身びいきかもねぎ。

重箱隅ツツキのペギラでした。m(__)m

[5169] Re[5168]: はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  玄松子 2004/05/31(Mon) 17:52 [Reply]
> まだ神職講習にも出ていませんし、殆ど(というより全く)素人です。
> でも素人の感覚で、むしろ型にはまらないお祭りのあり方を考えたいと思っています。

「型にはまらないあり方」は、型を正確に知らなければできません。
祀るということは、個人の問題ではありませんから、感覚的では困ります。

勉強する前から、「型にはまらないあり方」などという発言に疑問を感じました。
ちゃんと勉強して下さい。

[5168] はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。  葛木御歳神社 [Mail] [Url] 2004/05/31(Mon) 17:00 [Reply]
はじめまして葛城の中鴨社、葛木御歳神社の者です。
義父の跡を継ぐべく、今夏神職の資格をとるつもりです。
こちらに嫁いで来ましたが、今まで神社のこともあまり知りませんでした。
継ぐにあたって、お祀りする御歳神、相殿の大年神、高照姫命について
色々調べていくうちに、神話や古代史の面白さに はまってしまいました。

神社も大変歴史のある神社で、これは本腰を入れてしっかりお祀りしなければと思っています。ただ、当地は過疎化が進み、氏子だけではお護りするのは難しくなって来まして、
すっかり寂れてきています。
この度、広く御歳神社について知っていただきたいとHPを立ち上げました。

せっかくですから、きちんとお祀りする神や、神社について調べたいと思っています。
調べるに当たって、地元御所市の図書館と、多くのHPを参考にしました。
神奈備さまをはじめ、本当に深い考察がなされているのを驚きを持って参考にさせていただきました。
あちこちから引っ張ってきてとりあえず書きましたが、まだ詳しい方に見てもらっていません。色んな方に見ていただき、ご意見、ご指摘を頂けたら幸いです。

まだ神職講習にも出ていませんし、殆ど(というより全く)素人です。
でも素人の感覚で、むしろ型にはまらないお祭りのあり方を考えたいと思っています。
神奈備の山ふところで、心地よい空気を感じることが何よりだと思っています。
その一つとして、神社復興にご協力いただける音楽家の方を中心に、秋に奉納コンサートを開くつもりです。

御歳神社のHPです。
http://www.geocities.jp/mitoshijinjya/

よくわからないことがいくつかあります。
ご教示いただければ幸いです。

〔高照姫命について〕
本当によくわかりません。
古事記で高比売命とあるのは高照姫命のことでよいのでしょうか?
自明のように書いてあるので。。。
そうすると高照姫命と下照姫命は同一神となりますね。
加夜奈留美命も同一神ですね。?
下照姫命とアカルヒメも同一神 =高照姫命も同一神?

色々読んでいくと高照姫命はどうもはるかに古い土着の女神様のようでもあります。
それに朝鮮からのアカルヒメ(加夜奈留美命も)が一緒になったんでしょうか?

ここ葛城の地には古くから朝鮮の渡来人が来ています。佐味や朝町、朝妻の地名もあります。近くの宮山古墳からも朝鮮の鉄器がたくさん出土しています。あるいは、それが葛城氏の力の元でしょうか?
高照、下照が太陽の天中の姿と朝日夕日の姿だともありますね。
どちらも父神は大己貴神ですが、母神が文献によって違いますね。

〔大己貴神について〕
素朴な疑問ですが、葛城の神様と大己貴神の関係はどうなのでしょうか?
おとなりの八重事代主命が大己貴神の子神なのに出雲で知られていないのが不思議です。
葛城王朝論の鳥越憲三郎氏の本だった(?)と思うのですが、実は、大己貴神ももともとヤマトの神様で、実は国譲りの話は葛城氏が鴨氏を吸収した話を、後の人が日本全国のスケールにするのに出雲国を使ったとか、ありました。ちょっとそこまでは、飛躍が大きいように思いますが、八重事代主命についての疑問とともになんか、しっくり来ません。
高照姫命も大己貴神の娘神なので、結構興味が惹かれます。

高天の神様についても知りたいし、一言主神が強いのか弱いのかについても、なぜ逸話が色々なのかについても知りたいです。

掲示板に書き込みすることも初めてですが、今後ともよろしくお願いします。



[5167] えべっさん  神奈備 2004/05/31(Mon) 08:52 [Reply]
 宮本常一著『日本文化の形成』にエビスと鴨のお話が出ています。
大和の山中に古くからまつられている鴨都味波八重事代主命神社のことですが、この辺りに

は鴨と呼ばれる部族が住んでいた。後に山背に移って賀茂と書くようになった。もとは字の

如く鴨をはじめとして鳥類を捕らえることを生業としていた狩猟民であったと思われる。引

用終わり

 出雲での国譲りのシーンでは事代主命は釣りをしていたように、漁労の神でもありました

。後世に蝦夷(えみし)と呼ばれた漁労狩猟の民の齋祀る神がエビスの神であり、鴨族の人

々が祖神である事代主神をエビス神として祀ったのでしょう。

 で、エビス神には他にどのような神様がいるのかと見てみました。

1.蛭子神 最も有名なエビスの神で、諾册の最初の御子神でした。葦船に乗せて流されて

しまいます。不満足な出来の児だったのです。前に青草でも書いたのですが、浪速では家鴨

(アヒル)のことを「ヒル」と言います。飛べない鴨は不具と見なされ、葦船で流されたよ

うです。蛭子は縄文的な神のだったので、諾册を奉じる王権からは疎まれたのでしょうが、

先住民族の崇拝が広がっていたので、日留児として棚上げしたのでしょう。
 蛭子神は鴨の神で、幼い頃不具だったとされる阿遅鋤高日子根神に相当し、妹神の下照姫はMADOKAさん曰わく「天照、高照、下照」と言う太陽神の一柱かも。

蛭子神ゆかりの神社
石津太神社 http://www.kamnavi.net/en/izumi/sitasitu.htm
西宮えびす神社  http://www.genbu.net/data/settu/nisinomiya_title.htm

2.事代主神 前述

3.少彦名神 長崎市矢上町322番地鎮座の矢上神社
由緒 少彦名命は恵比須様で商売繁盛・病気平癒の御神助として名高い。

4.安曇磯武良 アズミのイソタケル
対馬の和多都美神社 http://www.genbu.net/data/tusima/watatumi_title.htm
参道左脇の池に三柱鳥居があった。磯良恵比須という鱗状の岩が祀られている。

えべっさん、情報を頂ければ幸甚です。

[5166] 報告(最後の書き込み)  YUUKO [Url] 2004/05/30(Sun) 01:33 [Reply]
・村積神社へ行って毒石を見てきました。あることが確認でき、全ての謎は1つにつながりました。真の山の神の使いにも会えましたし(笑)。会報の8月号でレポートします。(6月号は「シルクロード(2)赤引糸」、7月号は「遠州七不思議」)
・紫麦は茎は紫でしたが、穂はもう紫ではありませんでした。5月中旬でないと、鮮やかな紫の写真は撮れないようです。
・中間テストは・・・まぁ、こんなもんかな(苦笑)。
・神社について↓のようにまとめてみました。ただし、「定説」と「PONTAオリジナル説」を混ぜて書いてあるので、区別して記述すべきかと反省しています。
知立神社
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jin/chiryu.htm
糟目春日神社
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jin/kasume.htm
糟目犬頭神社
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jin/kentou.htm
謁播神社
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jin/atuwa.htm
矢作神社
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jin/yahagi.htm

[5165] Re[5157]: 饒速日と物部  神奈備 2004/05/25(Tue) 09:27 [Reply]
> 前後関係を推定した物語の概略をおいておきます。ご興味あらばどうぞ。
> http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kannabi155.html

拝読いたしました。大きい流れは同感。

> 敗れた出雲勢力の一部は東海から関東へ脱出した。
出雲→大和→東海→東国の流れ、鴨族も流れていったようです。

> 伊豆の来宮社縁起(大己貴命)の「波の音の聞こえぬところへ我を祀れ」が印象的です。
熱海市西山町の来宮神社の縁起とすれば、五十猛命のお話です。\(^O^)/
http://www.kamnavi.net/it/izu/atamiki.htm

[5164] Re[5161]: 失礼しました  玄松子 2004/05/25(Tue) 08:13 [Reply]
> この掲示板の趣旨と違うというようメールが多く寄せられていますので、

どこから、どのようなメールが来たのか気になりますが、
掲示板書き込みに対する反論・指摘は、掲示板で行うのがよろしいでしょう。
名前を出したくなければ、適当なハンドル名を使用すれば良いですしね。

[5163] Re[5161]: 失礼しました  神奈備 2004/05/25(Tue) 08:04 [Reply]
> この掲示板の趣旨と違うというようメールが多く寄せられていますので、書き込みはこれで打ち切りにします。
 この掲示板の管理者は「趣旨と違う」とは思っていませんが、「神社や古代」がテーマでしたら、来る方は拒まず、去る方を追わずです。節度ある自由の範囲でお遊び下さい。

 とりあえず、古代史の特異点からの面白い素材を提供頂き、ありがとうございました。

[5162] Re[5161]: 印象派  恋川亭 2004/05/25(Tue) 00:30 [Reply]
どうなんでしょ?私も雰囲気というかイメージでしか語れませんので。学問的でないといけないのかなァ?
しかし、そのイメージの由来を語りたかったり、聞きたかったりはします。夢で見たかもしれないことを、もう少し詳しく知りたいのです。リアルな夢のほうが面白いから。

> 「浪漫紀行」の一環として、古代史ロマンを語ってるので・・・

早口ではなくて、ひとつひとつ、ゆっくりと語って頂けるとウレシイです。知らない土地の知らない時代の「紀行」ですから、聞こうっと。

> この掲示板の趣旨と違うという・・・

そうですか?神社も古代史も語ってませんでしたか???
ま、整理して判りやすく届けて頂けるよう期待してます。毒石なんて掘り下げると面白そうで興味津々なんです。青草分野ですけど。テスト頑張ってね。

[5161] 失礼しました  YUUKO 2004/05/25(Tue) 00:10 [Reply]
 私の書き込みは、イメージ的で学問的でないと批判だれていますが、大前提は、私は学者として研究・調査しているわけではなく、「浪漫紀行」の一環として、古代史ロマンを語ってるので、「夢で見たことを語ってるのか?」とも言われます。この掲示板の趣旨と違うというようメールが多く寄せられていますので、書き込みはこれで打ち切りにします。
 HPの更新は中間テストもあって、進んでいません。今日は神社データベースの目次をアップしました。

[5160] Re[5151]: 矢作川流域2  恋川亭 2004/05/24(Mon) 22:36 [Reply]
あくまでも「語句」についての範囲なんですけどね。

> 「天白」は天山山脈のことで、万年雪のために白山とも呼ばれ、この白山信仰がシルクロードで北朝鮮に渡って太白山信仰となり、北朝鮮から加賀に伝わって白山信仰(新羅からの渡来神・白髭明神→白山姫→菊理姫?)となり、多くの白山神社が建てられるのです。

という解説を何度か読んでも・・・、

> PONTA編集部内では「天白(てんぱく)の天は中国的、白は北朝鮮的で、とても日本の神とは思えない」という感じ。

という「〜的、〜的」と印象を受けられる論拠がはっきりと理解できなくて。
「茶」ならばピーナッツ的なのだろうか、チャーリー・ブラウン?
「日ならば須らく日本的でかまわないサ」とスヌーピーは言うけど、それじゃ大変に困る方もいらっしゃると思うよ。・・・なんて書くと、右翼崩れかの如く叩かれるンだろうナ。
して・・・、そのあまりにステレオタイプな見解の源は???

[5159] Re[5156]: 矢作川  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/24(Mon) 20:58 [Reply]

カシミールを使った情報整理をしていますがきっかけがないとなかなか進みません。
この地域のよいきっかけになっています。

平成祭データをカシミールのLMLファイルという地名クリック一発で画像や文章を参照できるシステムとリンクできると万歳なんですけど・・だれにいってるんじゃい(^^;

≫物部がこの辺りに居たのは確からしいようで、矢作の名も、『新撰姓氏録』

名前からは手工業関係の氏族ですね。

サンカ、この人々は物部の支配化にあった手工業生産の人々で、物部氏が滅びて統率者を失い、新たな支配者に従属することをきらって独立した人々の子孫だと考えています。
したがって歴史はたいへんに古く、孤高といった意識をもつようにみえるのはその歴史の重みによると思っています。


[5158] 文化の変化  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/24(Mon) 20:28 [Reply]
≫「天白(てんぱく)の天は中国的、白は北朝鮮的で、とても日本の神とは思えない」という感じ

天白も白山も変化があることを念頭に置く必要があると思います。

近畿の饒速日降臨には天之背男命(海部の祖とする)など特有の神々が随伴しています。
濃尾付近に天白が多いのであればこれが源だからの可能性もありそうですね。

なお、岡崎市上青野町に榊宮神明宮があるようです。
面足尊ないしカシコネ尊を祀るようですが、この第六天神を祀る社が東京周辺に多数あって調査中です。
(伊弉諾伊弉冉神が第七代、第六天神はその前の代の神、通常は夫婦神)

平田篤胤はそういう神を祀ることはありえないとして、高御産巣日神のことであるとしたために、御祭神が変化したと見える社もあります。
榊宮神明宮の情報をなにかご存じでしたらよろしくお願いいたします。

アラハバキも興味ありますがいまのところノータッチ、これも縄文系がからむだろうとは思っています。



縄文文化は北方系の旧石器文化に温暖化と共に海からの南方系文化が北上して混合してできたもので、日本の海神族の最古はその海洋民だと考えています。
この海洋民がもたらしたとみえる磨製石器が沖縄や九州、さらには小笠原列島などから発見されています。
(丸木船製作用に特化した石器です)

この人々はなにを目印に航海していたのでしょうか。星だと思います。
(惑星は目印になりにくい、恒星でしょう)

縄文最温暖期、BC4000頃、照葉樹林文化がやってきたとみています。
日本の植生も照葉樹林が拡大する時代です。
雲南などの照葉樹林文化との類似性はこのころに第一陣がもたらされたと考えています。

陸稲も運ばれたでしょう、やはり海路だとみています。
陸上ではまだ国家など存在しない時代、10m先になにがあるかわからない。
しかし海なら晴れていれば何十キロも先まで見通せて陸よりずっと安全だったかもしれません。

縄文中期〜末期、BC2000〜1000頃、長江河口域の最強文化である良渚文化が渡来したと考えています。
良渚文化は大洪水によってBC2000頃に壊滅していますが、その人々が周辺に散っていった痕跡があります。
中国の禹時代の三苗伝説がそれであり、殷成立の一方の基礎文化がこれだと考えています。

日本の弥生文化(半島南部も含む)の源流もここにあり、照葉樹林文化の第2陣が到来したと考えています。
最新の水稲技術到来もこのときです。
これらにはみな海洋民が重要な働きをしているはずです。

良渚文化では太陽を鳥が運ぶ図柄がでています。
九州縄文がそれらの影響を受け、祭祀のパターンも変化していったと考えています。
神話上では神産巣日神がこれに相応すると考えています。

それ以降では中国の文化の影響を次々に受けてゆくでしょう。
その影響を受けた半島系の人々もどんどんやってくるでしょう。
徐福もやってきたかもしれない。
これらが神話上の高御産巣日神と考えています。

道教の発達する時代になるとその概念での星も登場してくるでしょうね。
それまでの航海の星とクロスオーバーしてもきそうです。
そして日本での航海が沿岸航海となり、大海原の航海をしなくなったとき、星はかっての星ではなくなっていったと思います。
あるいは星は過去のもので悪神にさえされてしまうこともあったと思います。

≫ヨーロッパでは金星はマリア様で、船乗りは、この星を見て自分たちの位置を知ったといいます

これを知りませんが、これもキリスト教が広まってから変化したものだと推察します。
惑星では短期間の航海か、複雑な計算をしないと目標にはしにくい。
恒星の方がはるかに簡単確実な目標になると思います。
金星はたいへんに目立つ、しかし目立つことと目標になるかは別だと思うのです。

羅針盤が登場すれば星を読めない航海者も登場すると思います。
失礼ながら現代の航海者で星で航海できる人はいないんじゃなかろうか。
現代では人工の星を使って車の運転までしますけど。

唐時代、宋時代、明時代・・
その都度、それらが役に立ち日本の状況にマッチするなら導入されてゆき、過去のものは変化してゆくでしょう。
鎖国状態でもないかぎり、文化が常に同じであることのほうが不自然だと思います。
現在見えるものが、いつのどういう状況のものなのか、ここですね。


[5157] 饒速日と物部  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/24(Mon) 20:05 [Reply]

≫なぜ、山神が海神に?

縄文文化のメインは山、その人々が海神族と接して海の技を得たとき、それまでの神々を捨てて海神族の神々だけを祀ったりはしないんじゃないかな。
舟は山の木がなければ作れませんから海神族もまた山を大事にするはずです。
海(太陽)と山(各種あるかもしれない)の合体、それが後の天照大神の原形とみています。

≫村積神社は物部真福が建てた神社で、祭神は当然、ニギハヤヒ

証拠があるといいですね。
神社やその伝承は時代の影響を受けて常に変化するもので、その変化は歴史を示すヒントになると思います。



饒速日って何者でしょうね。

古事記、書紀、先代旧事本紀、どれにも書かれていますが内容がそれぞれ違う。
旧事本紀が最も詳しいですが記紀の影響をうけて編纂(再編纂)されている可能性を考える必要がありそうです。

年代的に神武東征談が事実かどうか、これが重要になりますが記紀の内容には変造があるとみています。
それはおいて、記紀でも先代旧事本紀でも饒速日あるいはその子は神武に協力する存在であるのは間違いないですね。

神武と同祖である証の宝をもち、先代旧事本紀では瓊々杵尊の兄です。
持統との関連であれば、当時の物部系氏族の動向に注目する必要がありそうです。
天武持統では記紀編纂まっさかりのはずで、神武に協力したとする饒速日の子孫である物部氏を天武持統が敵対視していただろうか??

ただし、先代旧事本紀のいう天孫降臨は2人であり、ひとりは近畿に降臨した、という記述は記紀編纂の主眼からはうまくないですね。
記紀で饒速日の出自が明確にされていないのはそのためだと思います。
それを明確にしようとするのが先代旧事本紀の登場なのでしょう。

記紀から消されたのは出雲、それに関連する綏靖〜開化の事象のほとんども消された。
むろん倭国争乱も消された(その代わりに神武東征説話がある)。
饒速日もこれらと無関係ではないから影響はうけると思いますが、饒速日の存在が問題になる理由はないと思います。


孝昭〜開化、ここで倭根子の名が登場しますが、倭国争乱の時代です。
争乱ある故に彼らこそ倭の子孫なりを意識したのでしょう。
むろん意識したのは記紀編纂者です。天武持統時代がメインでしょう。

持統もまた意識していたゆえに自らも同じに「倭根子」を用いる(用いられた)とみるのが自然だと思います。
後の元明、光仁、桓武、平城、惇和、仁明も倭根子を名乗るのもこの系譜を意識するからだと思います。

壬申の乱は氏族抗争でも怨念でもなく縁戚者同士の権力闘争とみえます。
持統から見て、父の子と父の弟かつ夫の戦い、さあだれを支援するか。
家臣団の思いも同じだったのではないかなあ。



先代旧事本紀では天之押穂耳に二人の子があり、天孫降臨では瓊々杵尊が九州へ、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は近畿へ降臨したとしています。
瓊々杵尊降臨は記紀と大同小異。

降臨地が河内国となっていますが後の物部氏の勢力地が河内であることがこの記述を生じさせたとみています。
饒速日の子、天香語山は熊野に坐すとあり、熊野は古来から海人の拠点。
「着岸地」は熊野〜伊勢志摩であり、ここから勢力を広げたとみています。

この頃の大和は出雲の中枢になりつつありますから(持論ですが略)、河内へ入ったら喧嘩をふっかけることになる(^^;
その代わりずっと弱小だったであろう伊勢津彦が追い出されたとみています。

以下の勢力推定図をごらんください(毎度だしていますが(^^;)
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif

神武〜懿徳時代は出雲と天孫の協調時代です(温暖の時代、天孫が出雲系妃を入れている)。
先代旧事本紀の天孫本紀でも宇摩志麻治命が事代主の子である天日方奇日方命と共に「食国」の政事を行うという記事があります。

近畿でも同時代では出雲勢力と濃尾天孫が協調混在していた可能性があります。
(宇摩志麻治命→長髄彦伝承の源とみる)
ただし、このあたりは記紀の神武東征説話(出雲抹消)の影響で書かれ方が変化している可能性大ではありますが。

前後関係を推定した物語の概略をおいておきます。ご興味あらばどうぞ。
三河高原の状況推定も加えてあります。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kannabi155.html


[5156] 矢作川  神奈備 2004/05/21(Fri) 09:51 [Reply]
かたばみさん 地図ありがとうございます。
 矢作川の流れは、色々と変わっているのでしょう。大友皇子の神明社は、現在では矢作川の西側1km以上に鎮座のようです。
 矢作川の東にまつろわぬ者達、西側に王権側などこじつけて見たいところです。

 物部がこの辺りに居たのは確からしいようで、矢作の名も、『新撰姓氏録』によりますと、矢作連は布都怒志命の後裔とあります。弓削大連物部守屋の子孫の真福さんは矢作連でもあったのかも。


YUUKOさん 頑張りやさんですね。
> 持統上皇が来るので(来たので)祭神変更されたと考えています。
> 持統上皇に見られたらまずいものは見られてもいいものに変えるか、隠すかどちらかでしょう。
 紀の国でも、持統さんが牟婁の湯(白浜温泉らしい)へ行幸の頃、日前国縣神宮の祭神が皇祖神になったり、伊太祁曽神社の神々が三分割されて遷座さされていると伝わっています。王権の確立時期で、王権側も必死の思いと地方では思われていたのでしょう。

> ヨーロッパでは金星はマリア様で、船乗りは、この星を見て自分たちの位置を知ったといいます。金星が船を導く。

 船を導く神、船霊神、これが金星。いいですね。船霊神はタクの神ですから、私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女ですと、『尾張国風土記』にあるのですが、この神は天甕津姫命で、天甕星神の配偶神に、名前だけではなく、神格としてもおさまりがよくなりました。

[5155] Re[5149]: 二の丸  YUUKO [Url] 2004/05/20(Thu) 18:47 [Reply]
> 丸」地名がそのような目的だとしたら、紀元前に遡るのかも知れません。

丸地名ですか・・・。
今、PONTA編集部の最新の説は、増刊号『菟足神社』で発表した「宮路山・本宮山入れ替え説」です。本宮山も宮路山同様、フタコブラクダで、低い方の山頂に砥鹿神社があり、高い方の山頂(地図上の本宮山山頂)を「丸山」と呼んでいます。

[5154] Re[5152][5150]: 阿知和神社  玄松子 2004/05/20(Thu) 18:46 [Reply]
> > 知識の羅列が問題の本質を隠してしまった感じですが。
> > この質問だけでも、答えていただけませんでしょうか。
>
> だから、重要な件については、

なるほど、この質問も「重要な件」に含まれていたんですね。わかりませんでした。
その他、お答えいただいていないことも「重要な件」と認識しておきます。


> > 知識の羅列が問題の本質を隠してしまった感じですが。

多くのことを一度に書かれると、何が言いたいのか見えません。
個々の記述の真偽も見えず、玉石混交。結論も曖昧なままになってしまいます。

私信であれば、それでも構いませんが、掲示板は多くの方の目に触れ、
記録として残りますから、もう少し配慮していただけませんか。みなさん。

[5153] 近代建築及び古建築を見て歩こう  びから たいしょう 2004/05/20(Thu) 18:39 [Reply]
近代建築及び古建築めぐりをしています。
毎月、第二土又は日曜日の午後、現地に集まり、関西の近代建築物 (駅舎、喫茶店、大学、学校、和風建築、寺院、寺社、産業遺跡、教会、銭湯、醤油醸造会社、酒造会社、を含む)を中心に、名庭園、水琴窟、町屋、寺内町、史跡、資料館、美術館、博物館、企業博物館、石橋、木橋、煉瓦橋、鉄橋、戦争遺跡、廃線跡、廃墟、B級グルメ及び古建築巡りをし、その後飲み会を行っています。ROMも歓迎しています。
入会金、年会費は無料です。
近代建築探検家クラブ関西本部
びから たいしょう
bikara_2@hotmail.com
http://circle.excite.co.jp/club.asp?cid=i2600449

[5152] Re[5150]: 阿知和神社  YUUKO [Url] 2004/05/20(Thu) 18:35 [Reply]
> 知識の羅列が問題の本質を隠してしまった感じですが。
> この質問だけでも、答えていただけませんでしょうか。

だから、重要な件については、先輩に資料も見せてもらってお答えするとレスしています。ちなみに、手元にある本のコピーには「謁播神社(阿知和神社)」と書かれています。ですが、何の本ののコピーなのか先輩に確かめないと。出典は分かりません。

[5151] Re[5147][5146]: 矢作川流域2  YUUKO [Url] 2004/05/20(Thu) 18:30 [Reply]
>古村積神社と村積神社が大山祇神を祀っています。
>大山祇神は縄文系の自然神が後に人格化されたものと考えています。
>(瓊々杵の妃の木花開耶姫、素盞鳴尊の妃櫛稲田姫、等々がその子とされる)

ワタツミが「ワタ(海)+ツ(の)+ミ(霊)」なら、オオヤマツミは「オオ(大いなる)+ヤマ(山)+ツ(の)+ミ(霊)」でいいと思います。
大山祇神=山神

>瀬戸内の海人系の拠点であろう愛媛県越智郡大三島の大山祇神社、海人の神です。

そうなんです。大山祇神=山神であると同時に、大山祇神=海神なのです。
なぜ、山神が海神に?
一般には「海で活躍した越智氏の氏神が大山祇神だから」と説明されていますが、大山祇神自身が海人族だからという説もあります。
大山祇神は鹿児島の薩摩半島に住んでいた海神族・阿多族(鵜飼の祖)の長で、宮崎の瓊々杵に娘の木花開耶姫を渡すことで服従を誓うのです。
そして、瀬戸内海を経て大阪府高槻市の御島(みしま)に居を構えるわけです。
伊予国一宮・大山祇神社の社伝では「大山祇神は摂津の御島からやって来られた」となっています。
その後、三島神社の東征が始まるわけですが、この東方伝播と同時に徐福伝説が広まるので、大山祇神=徐福説が登場しました。神武天皇=徐福説よりよく出来ています。
ただ、この説だと、「なぜ、海神が山神に?」という疑問が湧きます。
大山祇神は正体不明ですね。

>村積神社の大山祇神はこの流れを引く大山祇神ではないかと思います。

大山祇神が主祭神なら、「大山祇神社」でも「山積神社」でもいいのに。「村積」ってどういう意味?
PONTA編集部の考えは、村積神社は物部真福が建てた神社で、祭神は当然、ニギハヤヒ。
持統上皇が来るので(来たので)祭神変更されたと考えています。
持統上皇に見られたらまずいものは見られてもいいものに変えるか、隠すかどちらかでしょう。
日本で1番権力のある人ににらまれたら何をされるか分かりません。その場で騎馬隊に殺されるかも?

村積山麓に龍渓院に封印された白蛇池の他にも「大沢の白大蛇」「峰の観音池の雄大蛇」の伝説があることが分かりました。
やはり、祭神はニギハヤヒでしょう。

「この山が三河富士なら祭神はコノハサクヤヒメよね。そうだ、花園山と名付けましょう」
なんて持統上皇の言葉には惑わされないぞ!!

>東海道本線と矢作川の交差する位置に天白神社があって瀬織津姫を祀ってる。
>アマノカカセヲとからみそう(古代海人の星神とみています)。

「天白」は天山山脈のことで、万年雪のために白山とも呼ばれ、この白山信仰がシルクロードで北朝鮮に渡って太白山信仰となり、北朝鮮から加賀に伝わって白山信仰(新羅からの渡来神・白髭明神→白山姫→菊理姫?)となり、多くの白山神社が建てられるのです。
私たちの地域には、いくつかの天白神社がありますが、天白山にあるか、境内社で、「祭神は不明」となっています。それで、天白神社=白山神社だと思っていました。
ところが、岡崎を調査したら、矢作川沿いに多くの天白神社が建てられていて、『岡崎市史』によると、「天白神は伊勢からやってきた風水の神で、水防のために矢作川沿いに建てられた」とありました。
水防というと、大井川の場合は大井神社。明治元年の調査では、大井川沿いに約100社あり、祭神はセオリツヒメですが、多くの神社がミズハノメに祭神変更させられたり、「一村一社」で合祀させられました。
その西の大河の天竜川沿いにあるのは八幡宮と諏訪神社です。(坂上田村麻呂神社も川沿いにあったとか?)ともに水防のためだそうですが、諏訪神社の祭神は水神なのでいいとして、何で八幡宮が水防なの?
その西の大河の豊川ですが、ここはいろんな勢力が豊川を抑えているような気がします。ちなみに、河口にある水神社(鳥居が壊れたままで再建されていないので、普通の家に見えます)の祭神はセオリツヒメです。
その西の大河の矢作川は川沿いに天白神社が建てられ、しかも、なんと、祭神が分かっています!
中流の神社がセオリツヒメで、下流の神社が星神・アマノカカセヲです。(同じ神社なのに、なぜ中流と下流では祭神が違うの?)
アマノカカセヲは平田篤胤に言わせると、金星(太白星)だそうですから、太白が天白になったのかもしれません。
ヨーロッパでは金星はマリア様で、船乗りは、この星を見て自分たちの位置を知ったといいます。金星が船を導く。
マリア=ステラ・マリス(海の星)です。「海星」「海の星」「明け星」高校は、どれもカトリックの高校です。(プロテスタントではマリアは単にイエスの母親でしかありません。)

PONTA編集部内では「天白(てんぱく)の天は中国的、白は北朝鮮的で、とても日本の神とは思えない」という感じ。
野間岬に野間神社があり、西宮の祭神はノウマ神です。この神は、中国の航海安全の女神で、霊験あらたかなため、歴代の皇帝から天后、天上聖母(金星=マリア?)等の尊号が与えられました。
日本には「天后」が誤って「天妃(てんぴ)」と伝えられ、海岸に天妃神社が建てられました。
たとえば、新撰(選)組で有名になった北茨城市の磯原海岸の天妃神社(弟橘姫を合祀し「弟橘媛神社」とも)。この磯原で捕れる海鵜を長良川で鵜飼に使います。
(芹沢鴨は元服して、神官、下村祐斉義次の娘と結婚し、名を下村継次と改めました。この天妃神社の神官を義次から受継ぎ、その神官時代に尊皇攘夷の精神を学びました。)
愛媛県今治市の三島水軍(大山祇神の一族)の越智氏関連神社「式内・野間神社」の祭神の1柱の野間姫はノウマ神です。
そういえば、岡崎には「鵜飼」という苗字の人がいたかと。
話がそれましたが、天白も天妃同様、外国の神に思えてなりません。
天で白いものは白く輝く金星か・・・白いミルクをこぼしたMilky Wayだったらロマンチックだし、川神・セオリツヒメにつながるのに。

とにかく、私たちの地域では、天白神は天白山の山神なのに、他地域では天白川の下流や河口に多く、川神ですから、大山祇神=山神=海神同様、編集部員は混乱状態です。

岡崎市には天白神社だけを30年以上も研究してる方がおられるそうです。
私の年齢の倍以上研究しても正体不明の神社ですから、今の私には手におえません。

>東海には記紀あるいは中央では消えてしまった西日本系の痕跡がいろいろ残っているかもしれない。

特に東三河はそうですね。アラハバキ神社もありますから。しかも三河一宮に。

>持統天皇は吉野へ何度も行幸しています。癒しを求めていたんじゃないかな。

でしょうね。
持統天皇に「生涯で1番楽しかったのはいつか?」と尋ねたら、「天武天皇と吉野で過ごした時期」と答えるでしょうね。
夫と過ごした場所で、夫の思い出にひたって、政務に疲れた心身を休めるとか、初心に戻ろうとしたのではないでしょうか?
私はそう思っていますが、他の部員は「穢れた体を清めに行ってる。吉野でお祓いしないと怨霊に呪い殺される」のだそうです。
回数がはんぱな数ではない(31回でしたっけ?)ので、そこへ行かなければならない「必要感」を感じます。「疲れ」か「穢れ」か。

>大倭根子天之広野日女、「大倭根子」や「天之」の名をもつのは古代の倭国の子孫を意識していたからだと思うのです。
>その古代倭国を支えていたのが物部の源流ともなる海人であり、天火明の濃尾到来とすれば、古来の海人系譜を信頼してここに行幸するのは自然な流れになりそうです。

これはどうかなぁ。
壬申の乱の時に草壁皇子が城を構えたところを行宮に改築したということは、それなりに外敵から身を守るためでは?
『続日本紀』を見ると、三河から奈良へ戻って、「同行した騎士の調を免除した」とあります。
ということは、騎馬隊に囲まれての旅だったということになります。
大宝律令によって穂国は消えてしまったわけですから、当然、穂国の人々は怒っています。
セオリツヒメやアラハバキが今でも残っている国ですから、元祖・三河武士の魂を見せつけたのでは?
「国府は旧穂国内に置く」「立派な三河一宮を旧穂国内に建てる」等々の条件を提示してかんべんしてもらったのでは?
でも、そうすると、今度は三河国の人が怒って・・・調停に40日かかってしまったたのでは?
朝廷による調停だなんてしゃれを言ってる場合ではありません。
「いづくにか」の万葉歌は、「いつまで続くか分からない」「どういう方向に進むか分からない」調停を歌人は海に浮かぶ小船にたとえて歌ったのかも?
「引馬野に」の万葉歌の馬は騎馬隊の馬。三河に「引馬野」が見つかっていないのは地名ではないから? はんのきが高木であっても、歩いて林へ入っていくわけではなく、馬に乗って入っていくわけだから問題ない?
持統上皇は、奈良に帰ってしばらくしてお亡くなりになられたわけで、死の直前の兵士に囲まれての旅は「癒しを求めて」「骨休めに」という温泉旅行のような気分ではないと思います。
死ぬ前にどうしても伊勢神宮の鬼門に当たる地の祭神を変更しておかないと、死んでも死に切れないと思ったのでしょう。
ですから、訪ねた先(たとえば村積神社)は、朝廷勢力が住んでいた場所ではなく、反朝廷勢力が住んでいた場所だったのではないでしょうか。だから騎馬隊が必要だった。
そういえば、.倭姫が神宮の建てる場所を求めて回ったというのも、「大和朝廷に友好的で、神宮を建ててくれそうなところを回った」のではなく「大和朝廷に友好的ではないところを回った。人質になったこともあったかも?」と、倭姫も倭健もやり方が違うけど、目的は全国平定で同じとも考えられます。
確かに「大和朝廷に友好的で、神宮を建ててくれそうなところを回った」のなら、最初に行った先でOKが出て、何十年も探し回る必要は無いはずです。

豊橋市にはおびただしい数の神明宮があって驚きますが、これも鬼門封じの一策かと。

>そういう背景があるなら物部真福がここにいてもいなくても、その名を冠する寺が登場することすらありえそうです(^^;
>最初は庵程度の寺があり創建者不詳だった、後に立派に建て替えられたとき至近の祖の名が冠せられた。
>あるいは子孫の菩提寺が必要になったときに。
>物部真福の子孫の関与だったのが本人の関与に変化してしまうパターンです。

『聖徳太子伝暦備講』に、「太秦の広隆寺、信州の善光寺、三洲の真福寺、讃洲の善通寺等、其の本願施主名をもって其の寺号とす」とあります。

>なお、持統天皇のしだれ桜といったお話は石と同じく歴史ロマンの楽しみといったところでしょう(彼岸桜なら樹齢千年超もありそうですけど)。

奥山田の枝垂桜は、桜の中では最も長寿の「江戸彼岸」です。
日本一古い桜の「神代桜」(日本武尊お手植え)も江戸彼岸ですね。

PS.おかげさまで村積神社の毒石を見つけました。やっぱりあの注連縄で封じられた石(と言うより岩)でした。
 今度の土日に晴れたら撮影に行く予定です。藤川宿の紫麦はまだ残ってるかしら? それも撮影しないといけない。中間テストは・・・。

[5150] 阿知和神社  玄松子 2004/05/20(Thu) 17:35 [Reply]
知識の羅列が問題の本質を隠してしまった感じですが。


>> >この「式内社」は、糟目春日神社のことではないのですか?
>>
>> 違います。私が考える区域内にあるのは阿知和神社です。祭神は物部氏の祖先です。
>
>謁播(あつわ)神社のことですか? 祭神知波夜命(物部連祖出雲色大臣命の五世孫)。
>この社を阿知和神社とも呼ぶのですか? それとも別に阿知和神社というのがあるんですか?


この質問だけでも、答えていただけませんでしょうか。

[5149] 二の丸  神奈備 2004/05/20(Thu) 08:14 [Reply]
三河 宝飯 愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路4
宮道天神社「宮道大明神、緑大明神、客人大明神」
現在の祭神は 建貝兒王(讃岐の祖)、草壁皇子、大山咋命 の三座。

奥宮は宮地山の二番目の山頂付近に鎮座しているそうです。
そこの地名は「二の丸」だそうですから、多分頂上は「本丸」。
平安時代以降に城郭が出来たとは伝承されていないようで、城の要所を「丸」と言うことは、藤原時代にまで遡るそうです。

 以下、青草話。
 『伊都国が日本を征服した』石井好氏著によりますと、伊都国の主要遺跡を取り囲むように、「丸」地名が点々とあたかも防衛拠点のように並んでいるそうです。「丸」地名がそのような目的だとしたら、紀元前に遡るのかも知れません。
 対馬海峡には何百年かの王朝のようなものがあったのかも知れませんね。『上つ文』のウガヤ王朝?

[5148] Re[5146]: 矢作川流域1  YUUKO [Url] 2004/05/19(Wed) 21:45 [Reply]
>矢作川流域の古代史に論点がずれてきたようですね。

私は今まで頭の中にあることやPONTAの会報に書いてあることを書いてきたのですが、これ以上、細かなことを書こうとすると資料が必要で、その資料が先輩が持っているので書けないというのが現実です。

>壬申の乱にからむ鍵がありそう。

「壬申の乱」に三河軍が参戦したかしないかで学会が2分されていますね。

>縄文以前の遺跡は堀内貝塚をのぞいてほとんどなく、

私が注目してるのは「村上遺跡」です。
乙川と東名高速道路が交わる周辺です。
丘陵地に縄文時代の村上遺跡があり、そのふもとに神明宮と神明宮古墳(神明宮境内)があります。
乙川は、ここで大きく蛇行し、めのうず・おのうずという2つの大きな淵を作っています。
この淵に、昔、斧を落とした若者がいて、取ろうと潜ったら龍宮に通じていて、乙姫様が出てきたそうです。
現在は「乙川竜宮渓谷」と呼ばれ、龍宮六所弁財天があります。海人族の痕跡?
乙川の語源は知りませんが、勝手に乙姫川の略だと思っています。

>奈良飛鳥時代には岡崎市を東西に抜ける陸路(東海道)が確立し、海から矢作川を遡上する水運路との交差位置が要衝になった、

北上するのは矢作川だけではなく、塩の道・足助街道があります。
足助街道を北上するとすぐに、挙母街道(挙母市と新城市(豊川上流。新羅系の渡来人が居住)を結ぶ山の道)と交差します。
その足助街道の始点が私が言う古代の中心地(岩津)にあります。足助街道や挙母街道を使って、塩と交換して得た山の幸をここで船に乗せて矢作川を使って運んだと考えています。
挙母市は「挙母神社がある町」の意味ですが、昭和34年に商工会議所が「『挙母』を『ころも』と読める人はいない」「トヨタ自動車の本社がある町だから」と言い始めて、名称を「豊田市」に変えました。

>そこにはさまれているのが糟目春日神社で湿地帯にはさまれた丘陵地帯。
>ここを利用していたのは野鳥(水鳥)・・ならば鳥を狩るに絶好だろうなあ(^^;

「持統上皇鳥狩の碑」がある場所は、田んぼ、川、池(公園)って感じです。
でも、鳥狩って、鷹狩のことでしょ? 
鳥も狩るでしょうけど、私のイメージでは兎ですね。

>猿を投げたりする地名もあるし、

黄色い鳥居の猿投神社ですね。
三河では砥鹿神社・知立神社とトリオを組んでいます。

>高原→薬草を思い浮かべますけれど、三河高原あたりになんらかの資源の痕跡はありやなしや?

豊川を上ると「鳳来寺(ほうらいじ)山」があります。「鳳凰がやって来た寺がある山」の意味です。
鳳来寺開山の利修仙人は、役行者と兄弟で光明皇后は利修仙人と鹿(山の女神?)の間に生まれた子だそうです。で、藤原氏に預けて、後に皇后になった。
だから、足が鹿のように2つに割れていて、「足袋」を発明したとか。(学者によると足袋の発明は光明皇后でも和泉式部でもなく、江戸時代だそうですが。ちなみに、日本で一番最初に靴下を履いた人は水戸黄門です。)
文武天皇が病気のとき、桐生山(霧生山)の利修仙人が「鳳凰の乗って奈良にやって来て助けた」ので、そのお礼に寺を建て、「鳳来寺」と名付け、桐生山を鳳来寺山に変えました。
昨年、鳳来寺開山1400年祭が開かれ、豊橋市出身の喜多郎氏が神秘的なコンサートを開きました。
鳳来寺山は蓬莱山(不老不死の薬がある。東三河には徐福伝説あり)ともいえるほど薬草の宝庫です。ご本尊は、もちろん、薬師如来です。
ただ、私的には、鳳来寺は「病気を治してくれる寺」ではなく、「子供を授けてくれる寺」です。
お大の方が鳳来寺へ男児懐妊の祈願に行ったら、夢に老翁が現れ、金の玉を授けられました。そして、寅歳の寅月の寅日の寅刻に徳川家康が生まれ、鳳来寺薬師如来の12神将のうち、寅の方角の真達羅大将(通称「寅童子」)像が消えたそうです。(徳川家康が死ぬと戻ったそうです。)
この話を聞いた徳川家光が鳳来寺に東照宮を建てました。看板には「日光・駿府と並ぶ三大東照宮」と書かれていましたが、岡崎市の滝山東照宮にも同じことが書かれていました。
また、岡崎市にはとてつもなく広い土地を所有する兼高長者が住んでいました。子供が無かったので、鳳来寺に祈願したら、夢に老翁が現れ「子を授けるので、浄瑠璃姫と名付けるように」と言って生まれたのが中世三美女の1人の浄瑠璃姫で、後に源義経と結ばれる話が「浄瑠璃」の語源です。
この話は悲劇で(来年の大河ドラマに出てくるかしら?)、浄瑠璃姫の墓は岡崎市、蒲原、それに平泉の難を逃れた源義経が北海道に渡るときに亡くなったということで青森県の貴船神社に墓があります。神社にお墓って珍しいのでは?

今日はPONTAのサイトを大更新しないといけないので、レスはここまでです。

[5147] Re[5146]: 矢作川流域2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/19(Wed) 20:25 [Reply]

古村積神社と村積神社が大山祇神を祀っています。
大山祇神は縄文系の自然神が後に人格化されたものと考えています。
(瓊々杵の妃の木花開耶姫、素盞鳴尊の妃櫛稲田姫、等々がその子とされる)

縄文の流れを引く最古氏族は大山祇神を祀っていたのではないかと思っています。
むろん記紀にいう大山祇神といった呼称でもイメージでもなかったでしょうけれど。

瀬戸内の海人系の拠点であろう愛媛県越智郡大三島の大山祇神社、海人の神です。
村積神社の大山祇神はこの流れを引く大山祇神ではないかと思います。

純粋に水神などの自然神の変化であれば秋葉のごとく謎めいたものになるか、クラオカミやミズハノメの方向になるんじゃないか。
ここでは陸に上がった海人勢力があったためにそうはならなかったのではないか。

オオヒルメムチを祀る社が複数あるのも面白い。
九州発の古代海人が運んだ「より人格化した大山祇神」の痕跡じゃないか。

東海道本線と矢作川の交差する位置に天白神社があって瀬織津姫を祀ってる。
アマノカカセヲとからみそう(古代海人の星神とみています)。
東海には記紀あるいは中央では消えてしまった西日本系の痕跡がいろいろ残っているかもしれない。


持統天皇は吉野へ何度も行幸しています。癒しを求めていたんじゃないかな。
その持統天皇がここへ鳥を狩りにきたとしたら・・やっぱり癒しかも知れないなあ。

大倭根子天之広野日女、「大倭根子」や「天之」の名をもつのは古代の倭国の子孫を意識していたからだと思うのです。
その古代倭国を支えていたのが物部の源流ともなる海人であり、天火明の濃尾到来とすれば、古来の海人系譜を信頼してここに行幸するのは自然な流れになりそうです。

(磯部は太平洋系の海人、日本海系は安曇氏、物部と海部は両方に含まれているとみる)
(表筒之男、中筒之男、底筒之男は後に太平洋、瀬戸内、日本海に分化した海専門の神と推定)


そういう背景があるなら物部真福がここにいてもいなくても、その名を冠する寺が登場することすらありえそうです(^^;
最初は庵程度の寺があり創建者不詳だった、後に立派に建て替えられたとき至近の祖の名が冠せられた。
あるいは子孫の菩提寺が必要になったときに。
物部真福の子孫の関与だったのが本人の関与に変化してしまうパターンです。

なお、持統天皇のしだれ桜といったお話は石と同じく歴史ロマンの楽しみといったところでしょう(彼岸桜なら樹齢千年超もありそうですけど)。

縄文杉の樹齢も推定による樹齢で、6千年とかになってしまったのは観光パンフレットからはじまったようですね。
江戸時代あたりの伊勢参りブームでだれかが宣伝すればあっさりそうなる可能性あり(^^;


[5146] 矢作川流域1  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/19(Wed) 20:18 [Reply]
矢作川流域の古代史に論点がずれてきたようですね。
真福寺に関しては私の推察はほとんど終わりなのですが・・

矢作川流域に関しては別の点でたいへん興味深いです。
壬申の乱にからむ鍵がありそう。

この地域の遺跡関連地図にちょっと書き加えたものを以下に。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/aichi_yahagigawa.png



図の左下10kmが三河湾です。
道路も市街地もなし、現代に惑わされないイメージを作れると思います。
神社は鎌倉以前の縁起が残るもののみ表示、寺はすべて廃寺。
土器マークのyは弥生、kは古墳、nは奈良、hは平安の遺跡を示す。

縄文以前の遺跡は堀内貝塚をのぞいてほとんどなく、岡崎市南部に弥生遺跡が集中しています。
縄文ではこのあたりまで海がはいりこんでいて、その後の洪積平野に弥生集落ができていったのでしょう。


奈良飛鳥時代には岡崎市を東西に抜ける陸路(東海道)が確立し、海から矢作川を遡上する水運路との交差位置が要衝になった、そこに烏捕駅ができるのは妥当なところ。
縁起をもつ神社が多数あって古墳がない、人の住んだ場所、中心街はやはりここ以外にはないと思います。

大友皇子が逃げて住んだという伝承をもつ社があるのがたいへん興味深い。
もし事実なら・・いろいろな空想が楽しめる(^^;

矢作川西側の現在の豊田市付近には遺跡も古墳もない。
市街地化で発掘できないだけかもしれないけれど、よーく地形をみますと周囲より低い地形が2カ所ある。
水色部分です。
湿地帯か沼沢だったんじゃないかと推察します。

そこにはさまれているのが糟目春日神社で湿地帯にはさまれた丘陵地帯。
ここを利用していたのは野鳥(水鳥)・・ならば鳥を狩るに絶好だろうなあ(^^;
烏捕駅の名からも鳥がたくさんいたことがうかがえますね。


湿地帯?の北の挙母盆地になぜか古墳時代の遺跡が集中しています。
挙母コロモの地名から垂仁朝の許呂母別系譜か、この氏族の内容は不明。
方形墓が複数あるけれど、天孫系にはあまり見受けない形式じゃないかな。
猿を投げたりする地名もあるし、湿地帯?の南とは性格が異なる集落とみえます。

湿地帯以南では八柱神社(磯部系)、謁播神社(物部系→海部直?)といった海人系の痕跡がみえます。

物部氏は海運から総合商社化して最強氏族になったとみています。
商いの種があればどこにでも出没するわけで考察がやっかい(^^;
磯部氏は伊勢系の海人、祀るは五男神3女神で真福寺内の八所神社に同じ。
(新編姓氏家系辞書によれば磯部氏は海部氏とは別系)

なぜ海人系がここへ進出したのか。
三河高原は自然を満喫できそうな一帯ですね。
高原→薬草を思い浮かべますけれど、三河高原あたりになんらかの資源の痕跡はありやなしや?


[5145] 『万葉集』(3)  YUUKO [Url] 2004/05/19(Wed) 19:30 [Reply]
>いづくにか船泊てすらむ。安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟   高市黒人

 この歌の論点は、「安礼の崎」がどこかです。

 説1:「静岡県浜名郡新居(あらい)町」(新居の関所で有名):これを言ったのは賀茂真淵です。今は否定されています。国語学者によると「あらい(正確には「あらゐ」)」が「あれ」に変化することはありえないそうです。
 賀茂真淵は『万葉集』研究の権威者であるので、江戸時代の古地図を見ると、現在の浜名湖競艇場の付近に「安礼の崎」と書かれ、そのすぐ西に式内・角避比古神社が書かれています。これは、「あれ」が「神の森」という意味だからだそうです。
 ちなみに、「新居」は「しんきょ」「にいい」と読むのが普通で、「あらゐ」と読むのは、その語源がアイヌ語の「泡」だからだそうです。アイヌ民族は海洋民族で、日本の海岸線にある変わった読み方の地名はアイヌ語で説明できる(内陸部の地名はアイヌ語で解釈しない方がいい)のだそうです。

 説2:賀茂真渕は、「持統上皇は40日も三河にいたのだから、浜名湖を見ようという風流心で遠江国(静岡県西部。浜松市や新居町がある)まで足を伸ばしたのだろう」と言っていますが、遠江国には持統上皇が来たという伝承が伝わっていません。やはり、「引馬」も「安礼崎」も三河国内で探すべきでしょう。
 「安礼崎」は音羽川の河口か、西浦温泉の御前崎(「万葉の小径」があり、多くの歌碑がたてられ、はんのきも植えられている)だとされています。

 『続日本紀』には、三河行幸の帰路のことが詳しく書かれていますので、帰路は陸路だとして、三河へは船で(伊勢から御津=音羽川河口へ?)やって来たとされています。

 持統天皇の行宮は、蒲郡市の三谷(みや。語源は「宮」)町、音羽川河口、宮道天神社(里宮)等に建てられました。
 宮道天神社(里宮)は、壬申の乱の時に持統天皇の子の草壁皇子が城を構えた場所とされ、祭神に草壁皇子が加えられています。里宮は、宮路山の山麓にあります。宮路山はフタコブラクダのような山で、高い方の山頂に持統上皇の石碑、低い方の山頂に宮道天神社の本宮があります。「宮路山」の語源は、宮道天神社があるからではなく、持統上皇が登ったことから、こう名付けられました。
 ちなみに、宮道天神社の主祭神は「宮道別」です。穂国(大宝律令制定前は、三河国は三河国と穂国に分かれていた)の県主の宮道別の祖で、景行天皇の子の宮道別王とする説と、日本武尊の子(景行天皇の孫)の健貝児王(日本武尊東征の時に、日本武尊によってこの地を与えられ、この地に残された)とする説があります。

[5144] 『万葉集』(2)  YUUKO [Url] 2004/05/19(Wed) 19:25 [Reply]
>引馬野(ひきまの)に匂ふ榛原(はりはら)、入り乱れ、衣匂はせ。旅のしるしに 長奥麻呂

 この歌にも疑問点が2つ。

 疑問1:「引馬野」はどこか?

 説1「愛知県宝飯郡御津町御馬」:今、御馬(おんま)に行くと「引馬野」という道路標識や、「引馬神社」がありますが、これはこの歌にあわせて付けた名前で、この音羽川河口の地は「御馬」であって、「かつて引馬と呼ばれていた」という記録はどこにもありません。三河出身の歌人が「記録に無いだけで、昔はそう呼んでいたに違いない」と言っていますが。

 説2「静岡県浜松市」:浜松市は、昔「引馬」「引摩」といい(市内の伊場遺跡の木簡で確認)、現在も「曳馬町」があります。「浜松に引馬野あり」と言ったのは、浜松出身の国学者・賀茂真淵です。森鴎外作詞の浜松市歌は「大宮人の旅衣 入り乱れけん萩原に・・・翁をしのべ 文読まば」です。翁とは真淵翁のことです。

 疑問2:「はり」とは何か?

 私は、この歌を聞いたときに「バラ園に入ると、バラのにおいが服に染み付いて、バラ園に行ったという記念になる」という歌だと思っていましたが、「匂わせ」は「匂いを染み込ませろ」ではなく、「染色しろ」の意味だそうです。
 とすると、「はり」は染色に使われる植物で、その草丈は2mくらいで、密集して花が咲いていたのかなとイメージしたのですが・・・。

 説1「萩」:これを言ったのは賀茂真淵です。浜松市の市花は萩です。今は、「はり」は萩ではないとされています。理由1:「はぎ」は『万葉集』の多く出てくるが、全て「はぎ」であって、「はり」と言ってる歌はない。理由2:萩は染色に使わない。
 説2「はんのき」:「はんのき」は「はり」とも言い、実や樹皮から染色材料が取れます。ただ、はんのきは10m以上の高木ですので、たくさん生えていれば「林」であって、「野原」ではないと思います。「匂わせ」は衣を木の幹にこすり付けて染めろの意味でしょうか?

 いずれにせよ、持統上皇三河行幸は『続日本紀』の記述が正しければ冬ですので、萩の花は枯れ、はんのきの実は落ちてることでしょう。当時と今が同じ気候ならば。

[5143] 『万葉集』(1)  YUUKO [Url] 2004/05/19(Wed) 19:22 [Reply]
>「梓弓 陶の原野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや」 この歌のことですか?

 「陶の原野」「鳥狩」と、まさに持統上皇が豊田市渡刈町で鳥狩をしたときの歌に思えますが・・・。この歌にはまず2つの疑問があります。

 疑問1「末の原野」とは何か?
 ・学者も「末(地名)にある野原」「末(地名)にある原野(地名)」「『末の』は序詞で地名ではない」の3者に分かれています。
  「末の」が地名でないなら、どこで歌われたか、不明です。

 疑問2「すえの」はどこか?
  「すえの」が地名であるとすると、「不明」としながらも、2つの可能性が考えられています。
  1つが豊田市の名鉄・末野原駅、豊田市立末野原中学、それに寿恵野神社(祭神の1柱に持統上皇)、豊田市立寿恵野小学校がある所で、語源は「陶野」だそうです。
  もう1つが大阪の「陶邑」です。太田田根子(日本最古の神社といわれる奈良の大神神社の初代宮司)が住んでいたところです。

[5142] Re[5141][5139]: 玄松子様へ  玄松子 2004/05/19(Wed) 00:41 [Reply]
自己フォロー。
いくつか、持統上皇三河行幸の記述をネットで見つけました。糟目の鳥狩との関連は未だ。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okimaro.html
長奥麻呂
--引用
大宝二年(702)冬十月、持統太上天皇の参河国行幸に従駕した時の歌。「引馬野」は愛知県宝飯郡御津町御馬の地。「榛」はハンノキ。樹皮や実を染料に用いるという。古くは萩と解された。
--ここまで

http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/fudoki/29aiti.htm
やなせさんのページ。歌語り風土記ー愛知県ー
--引用
三河湾(渥美湾)にのぞむ宝飯郡御津町御馬の引馬神社の付近を「引馬野(ひきまの)」といったらしい(引馬野は静岡県浜松市付近ともいふ)。大宝二年十月、持統上皇の三河行幸に従った長奥麻呂の歌に詠まれる。
 ○引馬野(ひきまの)に匂ふ榛原(はりはら)、入り乱れ、衣匂はせ。旅のしるしに 長奥麻呂
 このときの持統上皇の行宮は、少し内陸へ入った音羽町赤坂の宮道天神社の地に建てられたといふ。亡くなった皇子の草壁皇子が滞在したことのある地であるらしい。
 同じ行幸の時に高市黒人の詠んだ歌。
 ○いづくにか船泊てすらむ。安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟   高市黒人
 この行幸の二か月後に持統上皇は崩御されてゐる。
--ここまで

[5141] Re[5139]: 玄松子様へ  玄松子 2004/05/19(Wed) 00:31 [Reply]
万葉集には詳しくないのですが。

> ・持統上皇の三河行幸については、『続日本紀』以外に、『万葉集』にも載っています。

巻十一 「梓弓 陶の原野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや」 この歌のことですか?

[5140] Re[5139]: 玄松子様へ  玄松子 2004/05/19(Wed) 00:26 [Reply]
> >この「式内社」は、糟目春日神社のことではないのですか?
>
> 違います。私が考える区域内にあるのは阿知和神社です。祭神は物部氏の祖先です。

謁播(あつわ)神社のことですか? 祭神知波夜命(物部連祖出雲色大臣命の五世孫)。
この社を阿知和神社とも呼ぶのですか? それとも別に阿知和神社というのがあるんですか?

謁播神社の位置は、真福寺のさらに南1.5Km(地図目測)ありますが、
「私が考える区域内」は何処までですか?
謁播神社の後方に、三河国造であった祭神・知波夜命の墳墓があるということですが、
そこが中心というのなら、なんとなく頷けますが、村積山はちょっと遠いような。

[5139] 玄松子様へ  YUUKO [Url] 2004/05/19(Wed) 00:07 [Reply]
>山麓では円形になりますよ。
>つまり、「村積山の南西麓」ということでしょうか。

書き方が悪くてすみませんでした。
私は、山容が美しい村積山(別名「三河富士」。山頂に物部真福が建てた村積神社)を霊山と仰ぎ、その山麓に物部氏を中心に、古代岡崎の中心地が築かれたと考えたいのです。村積山を神域として立ち入り禁止にして、その山麓に集落を形成すると、円形ではなく、ドーナツ形になります。「山麓」と書いたので、ドーナツ形と思われた方が多いかと思いますが、正確には「村積山の南西麓」で、鍵形です。西端は矢作川で、南端は真福寺よりももっと南で(おい「山麓」じゃないだろ)青木川です。

広さで言えば、岡崎市で最も広いのは真宮遺跡ですね。「東海地方最大の遺跡」と言われる広さで、縄文晩期〜平安時代にわたる住居跡や出土品が発掘されていますので、ここが岡崎市の中心地で、私が言ってるのは「物部氏の拠点」でしかないのかもしれません。

岡崎市西端の鳥捕駅周辺が中心地だったかもしれませんが、「駅の周辺が中心地」だと言うと、市の東端の山綱駅周辺も中心地となり、岡崎市には中心地が2つあったことになります。

「岡崎市」という現在の地名・行政区分を使ったり、「○世紀」といわずに「古代」と言って議論をすると食い違いが生じるかもしれません。

>この「式内社」は、糟目春日神社のことではないのですか?

違います。私が考える区域内にあるのは阿知和神社です。祭神は物部氏の祖先です。

<補足>
・糟目犬頭神社が元あった場所は岡崎市上和田町糟目です。
 明治5年に糟目春日神社とどちらが本当の糟目神社かという論争が起きたのですが、調査研究の結果、「分からない」という結論に達したため、「お互いに糟目神社と名乗らない」ということで和解しました。それで社名をそれぞれ「糟目春日神社」「糟目犬頭神社」と変えたのです。
・糟目春日神社境内には「持統上皇が鷹狩をした」と書かれた巨大な石碑がありますが、実際に鷹狩をしたのはもっと北で、そこには高さ2mくらいの記念碑が立っています。
・「糟目春日神社周囲は平原」と書いてしまいましたが、境内の石碑によると「すえの」と呼ばれていたそうです。これは「陶野」の意味で、土器製作工場地帯だったようです。
・持統上皇の三河行幸については、『続日本紀』以外に、『万葉集』にも載っています。

 私たちが発行している会報の連載のタイトルは「浪漫紀行」です。
 村積神社の毒石を見て、「これが那須から飛んできた殺生石のかけらかぁ」と感動しながら(『ムー』の記事のように?)レポートすることであり、「そんな遠くから飛んでくるわけないじゃん」と言ったらもともこもないのです。(毒石って近づくと死ぬので、地中に埋めてあるのかも?)
 とにかく、毒石がどこにあるか知りたいです。多分、あの注連縄がしてある石がそうだと思う。ttp://www.telop.jp/nomi/murazumi1.htm

[5138] Re[5136]: 玄松子様へ  玄松子 2004/05/18(Tue) 22:38 [Reply]
> 私が考える古代岡崎の中心地は、村積山の山麓です。
> 特に南部の平野部と西部の矢作川沿いで、円形の街ではありません。
> 鍵形ですので、「半径○kmの円」という言い方は不適切です。

山麓では円形になりますよ。
つまり、「村積山の南西麓」ということでしょうか。

> 糟目春日神社は豊田市です。岡崎市ではありませんし、村積山の山麓とはいえません。
> 糟目犬頭神社は岡崎市ですが、村積山の山麓ではありません。

糟目神社(式内社)の存在を、中心の根拠としていたようなので、
もうひとつの論社は遠いですよと、指摘しておきました。
糟目神社の旧社地であるといわれる糟目森崎が何処にあるのかは存じませんが。

> 私は三河富士と呼ばれる村積山の山麓だと思っています。弥生時代からの遺跡が多い、古墳が多い、三河国の国司が住んでいた、式内社がある。三河国最古の寺がある。

この「式内社」は、糟目春日神社のことではないのですか?

[5137] Re[5132]: 大和誕生と水銀  恋川亭 2004/05/18(Tue) 22:34 [Reply]
> 玄松子さん
> 昨年、うちのサイトも紹介されたんだけどなぁ。

(^^)/ ですから玉石混交ですって(爆笑)

> [5133]:神奈備先生
> 奈良大学の水野前学長の講演は「磐座と社寺−小石と舎利−」とのテーマでした。

面白そうな講演ですね。「見なし舎利」ですか〜、ひとつ勉強になりました。お釈迦様が聞けば、あきれるような話ですが、凡夫には何かこう、形としての拠り所が欲しいのでしょうね。

> 収穫とお祭りとは同じ言葉

ええ、わが学生時代も「下宿の誰かのバイトの給料日は、お祭り」と同義でしたから、妙に納得してしまいます。

> [5134] :YUUKOさん
> 「遠州七不思議」の1つ「子生まれ石」

以前、TVで見ましたよ。ちょっと黒っぽくてホントに繭形の石、寺の裏手の崖の中から現われてくる。これまた面白かったです、よく印象に残っています。

[5136] 玄松子様へ  YUUKO [Url] 2004/05/18(Tue) 22:17 [Reply]
私が考える古代岡崎の中心地は、村積山の山麓です。
特に南部の平野部と西部の矢作川沿いで、円形の街ではありません。
鍵形ですので、「半径○kmの円」という言い方は不適切です。

糟目春日神社は豊田市です。岡崎市ではありませんし、村積山の山麓とはいえません。そこで鳥狩をするのですから、大きな集落があったというより、広い平原があったと考えています。

糟目犬頭神社は岡崎市ですが、村積山の山麓ではありません。
(ただ、現在の糟目犬頭神社は犬尾神社とセットになっており、「糟目神社」と称していたときの位置は現在地とは異なります。)

>続日本紀には上皇が三河国へ行幸したという記述だけがありますが。
簡単な記述だけで、三河のどこで何をしたか書いてありません。
だからこそ私たちは「持統上皇が来られた」という伝承の地を訪ね歩いて、持統上皇が三河のどこで何をしたか調査しているのです。

[5135] Re[5134]: 整理  玄松子 2004/05/18(Tue) 19:54 [Reply]
>  古代の岡崎市の中心地はどこだったでしょうか?
>  私は三河富士と呼ばれる村積山の山麓だと思っています。

「中心」をどの程度の大きさで考えているのでしょう。
村積山を中心に、南2Kmの真福寺あたりまででしょうか。
北西3Kmの糟目春日神社まで入れると、半径3Kmの円。
糟目春日神社の古社地は、現社地の北方1Kmですから、半径4Kmの円となるのでしょうか。直径にすると10Km近くなりませんか。

大都市平安京でも4Km四方のサイズですが、
他地方の中心は、どの程度の大きさなんでしょうか。

式内糟目神社のもう一つの論社・糟目犬頭神社はかなり遠いですし、
「持統上皇が鷹狩をした」という伝承の根拠はなんなのでしょう。

続日本紀には上皇が三河国へ行幸したという記述だけがありますが。

[5134] 整理  YUUKO [Url] 2004/05/18(Tue) 17:40 [Reply]
 話が難しくなってきましたが、整理すると、私たちが知りたいのは「村積神社の毒石の位置」であり、実際は「会報に載せる毒石の写真が欲しい」であって、毒石の写真さえ手に入れば満足なのですけど。

 仏教と神道の関連の歴史、仏教の歴史等の質問には、お答えできるようになるように、さらに勉強しますね。(来年は日本史を選択する予定です。)

 古代の岡崎市の中心地はどこだったでしょうか?
 私は三河富士と呼ばれる村積山の山麓だと思っています。弥生時代からの遺跡が多い、古墳が多い、三河国の国司が住んでいた、式内社がある。三河国最古の寺がある。
 岩津古墳群は矢作川の東岸です。西岸が豊田市渡刈町です。「渡刈」の語源は、「鳥狩」です。持統上皇が鷹狩をした場所で、町内の糟目春日神社(式内糟目神社の論社)には巨大な記念碑が建てられています。
 持統上皇が村積山山麓に桜の木を植え、その対岸で鳥狩をしたということは、この地が古代の中心地であったとか、古代の街道沿いであったことを示すのではと思えてきます。
 ただ「古代の〜」と言っても、「古代」は長いので、違う時期を指して議論してるのかも?

・住職が死ぬと石になる?

 「遠州七不思議」の1つ「子生まれ石」があります。住職が亡くなると繭の形の石が生まれ、墓石に使われます。(住職の徳が高いほど大きな石が生まれる。)ttp://hyla.jp/koumare.htm


[5133] Re[5131][5123]: 大和誕生と水銀  神奈備 2004/05/18(Tue) 17:19 [Reply]
>「人が死ぬと石になる」という話

 イワクラ学会の記念式典に田中長野県知事が挨拶をされていました。
 西アフリカのドゴン族が天文学や数学に通じていることや、収穫とお祭りとは同じ言葉で話されているとか、長野県議会は縄文か弥生時代云々とか。
ドゴン族↓
http://www.fitweb.or.jp/~entity/kodaibunmei/dogonzoku.html

 さて、奈良大学の水野前学長の講演は「磐座と社寺−小石と舎利−」とのテーマでした。仏舎利は有限ですから、欲しいと言うお寺には、「見なし舎利」として仏陀の亡くなったインドの土地の小石が配布させたようです。
 百済辺りから日本にもたらされた舎利はどこの小石だったのか不明ですが、小型磐座として魂の宿るものと思われて、塔の礎石の中にガラス瓶に入れられ、それを金の壷、それを銀の壷と厳重に入れられて祀られていたのが発掘されています。
 仏陀が死ぬと石になるお話。
 舎利は湧き出すものとされ、目の前でどんどん増加したとのお話が残っているそうです。
 イワクラ学会を学界らしくするには舎利などを取り上げないと「ムー」になる。

[5132] Re[5131][5123]: 大和誕生と水銀  玄松子 2004/05/18(Tue) 01:11 [Reply]
> > うーん。『ムー』で紹介されるとトンデモ扱いされてしまうのか。
> ・・・そう、みたいですね。

昨年、うちのサイトも紹介されたんだけどなぁ。

[5131] Re[5123]: 大和誕生と水銀  恋川亭 2004/05/18(Tue) 00:54 [Reply]
> うーん。『ムー』で紹介されるとトンデモ扱いされてしまうのか。

・・・そう、みたいですね。しかし『ムー』は古いですね、よく続いています。世にオカルトの種は尽きまじ。(笑)
 この雑誌の昔からの読者はご存知と思いますが、記事の中身が玉石混交なので(殆どが石か瓦)、単なるトンデモと本当のオカルトを見分けられるようになります。煽りで造ったヤラセが満載で、読者を楽しませるようにしてますから。
 トンデモとは奇想天外ではなくて、我田引水を越えたパクリの寄せ集めと、思い込みを正当化させるための捏造と、反論無用で自説の押し付けと・・・エトセトラ。
 以前に殺人テロ凶団が現われたとき、早くからその欺瞞を喝破して危険性を指摘していたのは、社会評論家ではなくて他ならぬ大勢の『ムー』読者達でした。目が肥えているから偽者はすぐに判るのでしょうね。
 本当のオカルトとは、嘘か真か定かでない境界に、一瞬よぎる影を追っかけてしまう、神秘主義ってチラリズムだったのか〜っていう愉しみだと思います。藤堂・大漢和字典も同じ学研だからムーで案内したら、トンデモ棚に陳列してくれるかな???

さて「磐座と星」のお題に引かれて。
 『ひとり旅は楽し』(池内紀・著、中公文庫)。
はじめの方に岩、中ほどに星の話しが少し。この著者が小学四年の夏、家島群島での臨海学校で担任の先生から「人が死ぬと石になる」という話しをされたそうです。星になったり、石になったり(笑)。風でもいいです、何かになるというだけで、なぜか気が楽になるから不思議。
 磐座・星・神奈備山・聖なる島・古代・旅・酒(笑)。言葉に表しにくい内面的なものを抱えているようで、「会」からは遠いような印象なのです。雨にけむる新緑を車窓に眺めながら、ウツラウツラといきましょう。

[5130] Re[5125]: 物部真福その他  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/17(Mon) 19:54 [Reply]

≫聖徳太子って景教(ユダヤ教、キリスト教)の信者だったのでしょうか? 

ある部分だけの類似をもってその人物をあるパターンに押し込むことはできないですね。
当時にも明治維新後のなんでも舶来のような状況があったでしょうけれど、ある文化のよい部分を取り込んで実行した人物がいたのだろうということです。
空海やさらに後の法然などに先立つ人物(思想)があった、それが聖徳太子という名の示す伝承(信仰)に変化したのだと考えています。

≫仏教は豪族・貴族を助けるとか、政敵の怨霊を封印するとか、陰陽道と同じように使われていたのでは?

飛鳥奈良時代あたりの仏教や道教は当然ながらそれらに関与していたと思います。
祭祀や卜占が政治であった時代、祭祀と政治が切り離されてゆく時代、その接点が平安時代だと思います。

また、信仰が集団となり力を持つようになればそれを利用しようとする場合も登場してくるでしょうね。
しかしそういう面だけをとらえてはやはりまずいでしょう。
玄賓のごとく桓武天皇の招請をけって三輪山中に住んだ人物もいるわけです。


≫「古い神社の由緒書で真の古代日本史が分かる」

伝承や縁起はいろいろな情報の一部です。
いつだれがそれを書いたのか、本当なのか、変化していないか・・まずこのチェックが必要ですね。
だれかがある情報を信じてなにかを考えたとして、他者も同じように信じて同じに考えたりしたら、怖い世界になりそうです。


≫三河国の国府が旧三河国内に建てられたとしたら、この真福寺&岩津天神一帯に建てられたといわれています

岩津天神の位置なら矢作川の岸といえるかもしれません(水運拠点)。
岡崎市北野町の北野廃寺、安城市寺領町の寺領廃寺、これらは愛知県最古の寺とされるようですが、矢作川の岸辺にあります。

しかし川岸から丘ひとつ奥にはいっただけでその立地の意味は別物になります。
一帯、とひっくるめることはできないわけで、真福寺の位置がまさにこれだと思いますがいかがでしょう。


古村積神社付近に古墳があり細川小学校の石田古墳は出土物から6世紀末の古墳のようです。
円筒埴輪や形象埴輪がでていますから「旧勢力」系の古墳の可能性あり。

古墳があった場所に神社が建てられている状況がよくありますが、古墳の主を子孫が祀ったのが古村積神社のはじまりかもしれない。
また、岩津小学校の東側の丘にも東山古墳群があったそうです。

古墳は人の住んでいない場所かつ人里からさほど離れていない場所に作られるとみて、当時の人里はここまでは達していないと推定できそうです。

岡崎市宇頭町が延喜式の東海道烏捕駅と推定されているようですが、矢作町〜渡町の河床から奈良時代以降の墨書土器などが多数出土しており、未調査の遺跡なのだそうです。
中心街はこのあたりだったんじゃなかろうか。


真福寺の位置にあったのは水神を祀る祠、ここに平安初期の台密系のだれかが神仏習合による寺を建立し、後に物部真福が混じり込んで建立伝承が変化していった(鎌倉あたりか)。
物部真福伝承の本来は古村積神社かな。
御祭神は大山祇神ですから海系、持論では物部氏は海系です。

山頂の村積神社は水神本体を祀る最古でいわば奥の宮といったところか。
それらをつなぎ合わせるもの、それが石が飛んできたといったお話になっているんじゃないか。

現地を知らないのに失礼ではありますが、これまでの情報からは私はそのように推察します。


[5129] Re[5125]: かたばみ様へ  玄松子 2004/05/17(Mon) 19:34 [Reply]
一部に関して、僕なりに整理してみます。

かたばみさん> 当初の密教には衆生救済の概念は薄く、自然界との接触ないし修行の場の感覚が濃いとみえます。
YUUKOさん> 密教の場合は、世俗から離れて、欲に惑わされず、修行しないといけないのでは?

かたばみさん > 真福寺など中央から離れた場所にある寺々には当時の寺建立の真実を探る鍵が残されているかもしれないですね。
YUUKOさん > 中央から離れていてもいなくても、古くて古文書が残されていればいいのでは?

異口同音では? (これは〜かしらの意味。でも普通は疑問符は質問です)

[5128] Re[5127]: 玄松子様へ  玄松子 2004/05/17(Mon) 19:27 [Reply]
> >かたばみさんに対する質問ですか?
>
>  題名をご覧になりましたか?「かたばみ様へ」です。

この「かたばみさんに対する質問ですか?」は、
かたばみさんへの「質問」ですかという意味で書きました。
お解りになりませんでしたか。なら失礼しました。

で、質問ではないということですが、なら、なおさら真意が解りません。
また、その他の「質問」(こちらはちゃんと質問しております)には
お答えがないのでしょうか。勿論、掲示板ですから答える義務はありません。

[5127] 玄松子様へ  YUUKO [Url] 2004/05/17(Mon) 19:19 [Reply]
>疑問符の使い方が、よくわからないので質問。

 疑問符は確証が無い場合に「〜かしら?」の意味で使っていて、質問しているわけではないです。

>かたばみさんに対する質問ですか?

 題名をご覧になりましたか?「かたばみ様へ」です。
 ただ、こう書くと、「掲示板ではなく、個人宛なら個人宛のメールで」と言われそうですが。

[5126] Re[5125]: かたばみ様へ  玄松子 2004/05/17(Mon) 11:29 [Reply]
疑問符の使い方が、よくわからないので質問。


> >空海以降の神仏習合時代に建立される寺(祠)は生活の場とは無縁に思えます。
> >対して真福寺は人里に近くかつ「生活に利用しにくかった土地」にあるようにみえます。
>
> 密教の場合は、世俗から離れて、欲に惑わされず、修行しないといけないのでは?
> 他の宗派だと人里の中にお寺を建てるのでは?

この2つの疑問文は、かたばみさんに対する質問ですか?
かたばみさんの発言をなぞっているだけのような気がしますが。


> 聖徳太子は立派なことをおしゃってますが、庶民は理解してなかったのでは?

聖徳太子と庶民との関わりは、何によって確認できますか。

> 仏教は豪族・貴族を助けるとか、政敵の怨霊を封印するとか、陰陽道と同じように使われていたのでは?

これは、いつの時代の話ですか? 奈良? 平安?
陰陽道と同じとはどういうことですか? 宿曜のことですか?


> 民衆のための衆生救済の仏教の登場は鎌倉時代かと。

平安時代にも民衆教化を主とする仏教は行われています。
参考:http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/buddhism.html#9


> 中央から離れていてもいなくても、古くて古文書が残されていればいいのでは?

これは、誰のどの文章に対する反論・疑問でしょうか。

[5125] かたばみ様へ  YUUKO [Url] 2004/05/16(Sun) 23:53 [Reply]
はじめまして。
PONTAのYUUKOと申します。(RIKA先輩の後任です。)

>地図で村積神社と真福寺の位置を確認しました。
>同じ場所じゃないんですね(^^;;;
>これは本質的に無関係だったと直感します。

確かに、国分(尼)寺を守る八幡宮(たとえば東大寺の場合は手向山八幡宮)は、国分(尼)寺のすぐ近くに建てられていますね。

>村積神社は低いとはいえ周辺ではいちばん高い山の頂上ですね。
>この付近にあった社(祀りの場)の最古である可能性があると思います。

そうなんです。見晴らしがいいのでハイキングコースになっています。
(山頂まで車で行ける道を作る計画もあったそうです。)
村積山の山頂に登れば、三河一帯が見えるわけで、「三河(と眼下の真福寺)を守ってる」という気分になります。
いわゆる「国見山」ですね。私が大国主なら、この山に登って、三河の都市計画を立てます。

>HPでみるその山はきれいな姿の山のようでもあるし。

村積山は別名「三河富士」と呼ばれています。(市内の「三河富士」は別の山です。)だから祭神がコノハサクヤ姫?
東名で名古屋から東京に向かうと、岡崎市の手前で、矢作川越しに富士山のように綺麗な村積山が見えます。

>空海以降の神仏習合時代に建立される寺(祠)は生活の場とは無縁に思えます。
>対して真福寺は人里に近くかつ「生活に利用しにくかった土地」にあるようにみえます。

密教の場合は、世俗から離れて、欲に惑わされず、修行しないといけないのでは?
他の宗派だと人里の中にお寺を建てるのでは? 戦国〜江戸時代だと人里のお寺は軍事的に集められて「寺町」ができますね。
真福寺も岩津天神の位置は、集落の北(北東)の丘の頂上って感じですね。

>対して聖徳太子時代の寺は衆生救済の概念をもつようにみえます。
>ただし、この概念は当時の仏教には存在しないもので、景教によるものと考えています。

聖徳太子は立派なことをおしゃってますが、庶民は理解してなかったのでは?
仏教は豪族・貴族を助けるとか、政敵の怨霊を封印するとか、陰陽道と同じように使われていたのでは?
民衆のための衆生救済の仏教の登場は鎌倉時代かと。
聖徳太子って景教(ユダヤ教、キリスト教)の信者だったのでしょうか? 
年末のTV番組「時空警察3」ではそう言ってましたが。

>真福寺など中央から離れた場所にある寺々には当時の寺建立の真実を探る鍵が残されているかもしれないですね。

原田氏が提唱された「神社考古学」の考え方では、「古い神社の由緒書で真の古代日本史が分かる」わけで、それゆえ、神社は「生きた古墳」と呼ばれています。
中央から離れていてもいなくても、古くて古文書が残されていればいいのでは?
もちろん、中央にあれば、その古文書の内容が真実ではなく、中央政府に気を配った内容になっているかもしれませんし、中央の寺社は戦場になって、戦火に焼かれ、古文書が残されていないことが多いですね。

>真福寺の位置は聖徳太子時代の寺の建立位置と類似でもあり、ちと人里から離れすぎにもみえます。

えっ? ど真ん中ですが・・・。
三河国は、大宝律令の行政改革により東隣の穂国と合併して「三河国」になります。
三河国の国府が建てられたのは旧穂国内(豊川市白鳥町一帯)ですが、
もし、三河国の国府が旧三河国内に建てられたとしたら、この真福寺&岩津天神一帯に建てられたといわれています。
豊川市白鳥町一帯と真福寺&岩津天神付近に持統上皇ゆかりの地が多いのはこのためだと思います。

>私が聖徳太子時代なら、その西の岩津天満宮のあたりに建てるなあ(^^;

この2つは近いので、私たちは「村積山麓の真福寺&岩津天神一帯」と言ってます。
(青木川より北、矢作川より東、村積山山頂より西の区域)
この一帯は、岩津古墳群と呼ばれ、59基の古墳がありました。
また「○○遺跡」という弥生時代の集落も4箇所発見されました。
真福寺の南には式内社もありますし、物部守屋の次男も住んでいたわけです。
(式内・阿知和神社の祭神は、知波夜命(=三河国の初代国造で、物部氏の祖先)です。)
このように、ここは古代から開かれた地であり、国造が住んでいた古代三河国の中心部です。
現在は、古墳や遺跡は住宅地にされ、中心は市役所周辺に移ってますね。
(たとえば岩津高校のグラウンドは11基、市営住宅天神荘は7基の古墳をつぶして作られました。)

[5124] Re[5116]: 真福寺と村積神社  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/16(Sun) 14:19 [Reply]
地図で村積神社と真福寺の位置を確認しました。
同じ場所じゃないんですね(^^;;;
2.5kmも離れて間に低い山(丘)や谷が3つも4つもある、これは本質的に無関係だったと直感します。


村積神社は低いとはいえ周辺ではいちばん高い山の頂上ですね。
この付近にあった社(祀りの場)の最古である可能性があると思います。
HPでみるその山はきれいな姿の山のようでもあるし。
対して真福寺は人里に近くかつ「生活に利用しにくかった土地」にあるようにみえます。

法隆寺の位置も弥生〜古墳でのおそらくは奈良盆地の湿地帯であったであろう場所の縁にあります。
四天王寺は川筋のなかに浮かぶ台地にあって水運の要(縄文〜弥生の周辺5カ所から丸木船が出土)。
聖徳太子時代の寺の位置は生活の場に最寄りかつ「利用されていなかった土地」に建てられているとみえます。

空海以降の神仏習合時代に建立される寺(祠)は生活の場とは無縁に思えます。
そういう場所のもあるでしょうけれど、寺を建立する目的や考え方が聖徳太子時代とは違うのだと思います。
密教による寺の建立(習合)は神社のありように近いものを持っているんじゃないか。
(神社といっても人を祀る神社ではありません、自然神を祀る神社です)

当初の密教には衆生救済の概念は薄く、自然界との接触ないし修行の場の感覚が濃いとみえます。
対して聖徳太子時代の寺は衆生救済の概念をもつようにみえます。
ただし、この概念は当時の仏教には存在しないもので、景教によるものと考えています。
この思想の導入と寺の建立の合体が聖徳太子伝承の根元になっているとも考えています。

私は聖徳太子実在に疑問をもつ考えなのですが、聖徳太子に関連する伝承をもつ寺のなかで真福寺など中央から離れた場所にある寺々には当時の寺建立の真実を探る鍵が残されているかもしれないですね。


≫真福寺は丘(山?)の頂上にあります。その頂上から湧き出る泉の水がご本尊です

真福寺の位置は聖徳太子時代の寺の建立位置と類似でもあり、ちと人里から離れすぎにもみえます。
私が聖徳太子時代なら、その西の岩津天満宮のあたりに建てるなあ(^^;

非常に微妙ですが、立地とご本尊伝承からは建立は聖徳太子以降の神仏習合の揺籃期なのではなかろうか。
物部真福建立ではなく、後世に村積神社と関連づけられたもの、ということになります。

玄賓(738頃-818)という法相宗の高僧と伝承があって、能楽の三輪に登場してその内容は神仏習合そのものです。
空海(774-835)以前の南都六宗にすでに神仏習合の概念をもつ人物が存在していて、その概念で寺が建立されていた可能性もありそうです。

(なお、神仏分離はごく短期間に人為によって強制されたもので、千年にわたる神仏習合の重みとは同列に考えない方がいいんじゃないかと思います)


石に関してはその石が地質学的に現地の石(自然石)であるかどうかのチェックがまず必要ですね。
現地の自然石であるなら各地にある磐座のごとき太古からなんらかの祀りの場だった可能性が高くなりそう。
そうでないなら人為によって運ばれた石ということで、探り方も変わってくると思います。


[5123] Re[5122][5080]: 大和誕生と水銀  玄松子 2004/05/16(Sun) 13:06 [Reply]
> あの雑誌『ムー』にダイジェストが載ったのが痛かったか(笑)。

うーん。『ムー』で紹介されるとトンデモ扱いされてしまうのか。
うーん。知らなかったなぁ。

[5122] Re[5080]: 大和誕生と水銀  恋川亭 2004/05/16(Sun) 00:19 [Reply]
> なにがしさん

 スミマセン。留守をしていたので、だいぶ間が空いてしまいました。
偏屈爺の『大和誕生と水銀』。一冊の本の中でも首肯できる箇所・できない箇所、いろいろありますが、大和地元の古老の一意見として楽しみました。しかし、和歌山現地の人が船岡山と聞き育った所を蛇島だった、というのもネェ?文献からなんでしょうネェ? 〔なんとコロウを漢字変換すると候補リストの並びが!古老→凝ろう→固陋→孤老→虎狼→故老!!〕

 最近は、『三国志を陰で操った倭王卑弥呼』(斎藤忠・著、学研・版)を読んでいました。なかなか青草的に愉しめましたヨ、というか、これぐらい自由奔放に構想しなきゃ面白みがない。読んでいて人々の動きが空想できた本でした。しかし!書店では精紳世界やUFOなどのトンデモ本の棚に陳列されていました。あの雑誌『ムー』にダイジェストが載ったのが痛かったか(笑)。
 でも・・・歴史本の棚の中には、この本よりもはるかにトンデモ的・捏造的な本が、堂々と並んでいる!?と、私は思うのです。
 『三国志を陰で操った倭王卑弥呼』は青草的ではありますが、トンデモ本ではありません。脱線ついでに分野が違いますが、この本と同じ学研のシリーズに『四谷怪談 祟りの正体』(小池壮彦・著)も「私的には感動的」(笑)に面白かったです。

 さてこれから、注文していた『紀年を解読する(古事記・日本書記の真実)』(高城修三・著、ミネルヴァ書房)が届きましたので、『日本書記の真実(紀年論を解く)』(倉西裕子・著、講談社)と読み比べながら、取りかかろうと思っています。
 しかしぃ〜、パラパラと眺めたところ・・・ノートを図を書きながらでないとコンガラガリそうな内容ですね。とても時間がかかりそうな本です。いつになることやら。

[5121] 磐座と星  神奈備 2004/05/15(Sat) 18:38 [Reply]
 先日、某女流漫画家さんが、磐座と星との関係、特に新宮市のゴトビキ岩と北斗七星を例にお話されていました。
 今日、土曜日に奈良でイワクラ学会の記念講演があり、建築家の渡辺豊和氏が結論として、人は死ぬと星になる。星になれない霊が宿るために、イワクラが作られたとの見解で、それで巨石の配置は夜空を写しているとのこと。山添村など。

 全く違う観点からのイワクラと星のお話、また磐室が天体観測の設備説もありお空にもっと注目がいりそうですね。

[5120] 無題  Rika [Url] 2004/05/14(Fri) 19:41 [Reply]
◎神奈備様へ

「分からない」というのは、「仏教や仏をどう扱ったらいいか、位置づけたらいいか分からなくて、外来の仏教信仰と土着の神祇崇拝が並立・併存の関係にあった状態」という意味で書きました。

↓神仏の関係をまとめたサイトを発見!(先頭にhを)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shuilong/minzoku/sinbutu.htm

◎湊神明宮(豊橋市)

 今日は、湊神明宮へ行って来ました。
 今から写真を整理して別荘にアップしたいと思っています。

[5119] 神と仏  神奈備 2004/05/14(Fri) 14:58 [Reply]
>  仏教の扱い(神道との関係)は、「1.分からない」→「2.神社が寺を守る」→「3.神の本地は仏(本地垂迹説)」→・・・と変化します。

「1.分からない」とは、両者の境界があいまい、と言う意味かな。よく判らないところです。
佛は蕃神として八百万の一として混合しつつ入ってきたのでしょう。やはりそこには宗教的思いが幾分かはあって、単純な権力闘争だけではなかったのかも知れませんね。
 「2.神社が寺を守る」前に、神社境内に寺院が建てられること、即ち神宮寺の登場があったのでしょう。
 寺院の建設用地を探そうとしますと、格好の場所に神社が先に占拠しており、しかし神社にはたいした建物は建っていなく、ただ山裾に広い社叢が広がっているだけ、‎まさに狙い目の土地だったのです。そこで仏教側の権力者は一計をたて、神々が神であることが罪業だった。仏に帰依いたしたいと託宣したなどと称して入り込んでいったのです。多度大社など。
『日本霊異記』などの説話がそのような時代を背景としている感じです。
 
 それが本地垂迹説などの登場につながるのでしょう。
 しかしながら神は仏に帰依しなくてはやっていけない程無力なものではなく、今度は寺院に鎮守社として寺院内に進出していくのも日本の神々の姿です。

[5118] 確かに  Rika [Url] 2004/05/13(Thu) 19:07 [Reply]
>そんなに単純ではないと思いますよ。

確かに仏教と神道の関係は複雑ですよね。
大きな流れをとらえて、分かりやすく単純化してみたのですが、
何事も公式化すればするほど例外が多くなっていきますね。

[5117] Re[5116]: 無題  玄松子 2004/05/13(Thu) 11:27 [Reply]
>  仏教の扱い(神道との関係)は、「1.分からない」→「2.神社が寺を守る」→「3.神の本地は仏(本地垂迹説)」→・・・と変化します。

そんなに単純ではないと思いますよ。

[5116] 無題  Rika [Url] 2004/05/11(Tue) 23:13 [Reply]
サークルPONTAのネット担当のRikaです。
かたばみ様、レスをありがとうございます。

1.真福寺は丘(山?)の頂上にあります。その頂上から湧き出る泉の水がご本尊です。
 普通、水はお寺の「水体薬師」というご本尊ではなく、水神社の「水神さま」のご神体になるのでは?
 物部氏ですからなおさら。
2.蘇我氏(崇仏派)VS物部氏(廃仏派)と教科書に書いてあっても、実際は複雑で、物部氏もいくつかお寺を建てています。
 物部真福が建てたお寺が聖徳太子建立47寺に入っているのは、聖徳太子は架空の人物であり、厩戸皇子の業績と、当時の人々の業績が全て聖徳太子の業績になっているからなのではないでしょうか?
 物部氏=廃仏派にしてしまえば、物部氏が建てた寺は聖徳太子が建てたと書き換えても後世の人は気づかないだろうと。
3.真福寺のある丘(山?)の北側にある山が村積山で、山頂に村積神社があります。
 真福寺には、山麓の神社(祭神は弁財天。神仏分離がされていない!)から10分もあれば登れますが、村積山に登るには30分くらいかかります。
 村積山麓には有名な「奥山田の枝垂桜」、ちょっと登ったところに村積神社の里宮、中腹に農業用水の池(へら鮒の釣り場)があります。
 あと、真福寺の境内には多宝塔の横に八所神社があります。(神仏分離がされていない!)
4.持統上皇は死の直前に岡崎市へやってきて、村積山に「花園山」と名付け、山麓に桜の木を植えました。それが樹齢1303年の奥山田の枝垂桜で、植えた場所は村積神社の宮司の屋敷内です。
5.村積神社は、物部真福が、真福寺を守るために建てたものです。
 仏教の扱い(神道との関係)は、「1.分からない」→「2.神社が寺を守る」→「3.神の本地は仏(本地垂迹説)」→・・・と変化します。
 物部真福の時代は、1だと思います。2の時代は、国分寺の守護として八幡宮を建てる聖武天皇の時代です。
 ですから、1の時代に「村積神社を真福寺を守るために建てる」という発想があったらすごいことかと。
6.3つに割った殺生石の1つがなぜ村積神社にあるかはまだ分かりません。
 昔から「毒石」があって、後から「きっと3つに飛び散った殺生石の1つに違いない。殺生をする石など殺生石以外に考えられない」と意味付けしたのか、
 源翁は、曹洞宗の僧侶ですから、近くで曹洞宗のお寺を探してみると、山麓に白蛇池を埋めて建てたお寺がありました。
 なぜ、白蛇(水神)を埋めて、不安定な地盤の上にお寺を建てたのか?
 なぜ、池という貴重な農業用水源を埋めてしまったのか?

[5115] Re[5110]: 村積神社の毒石はどれ?  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/10(Mon) 20:00 [Reply]
Rikaさん、こんにちは。
真福寺や村積神社についてなにも知りませんけれど・・

≫廃仏派の物部氏が寺を建てるというのも奇妙ですが

蘇我、物部、聖徳太子、このあたりの関係や廃仏や崇仏といった構図は当時の新旧勢力の対立を後世にそういう形で象徴化したもので、実際にはずっと複雑だったろうと思っています。

また、新参の神様や仏様(あるいは人物)が登場してそのほうが有力になり、古来からその地で祀られていた神様(地主神)は消えるかささやかに祀られるのみとなるパターンはたくさんあります。

以下、あくまで部外者の直感だけの話ですけれど。

村積神社は古来から湧き水の場所に祀られていた水神が源(地主神)であり物部真福も祀っていた。
後に、神仏習合の流れの中でこれを薬師菩薩とみなして新たに寺が建立された・・のではないかなあ。

物部真福が大和朝廷に恭順するならその指示に従って寺を建立することもありえると思いますが、その可能性はちょっと低いんじゃないか。
創建年代を特定できるデータが必要ですね(622 聖徳太子没)。

密教僧が地主神を感得して神仏を習合させて寺を建立するパターンはたくさんありますが、そうであったものに村積神社の物部真福が合成されて伝承が変化している可能性のほうが高そうに感じます。


村積神社の石が殺生石で曹洞宗ということなら鎌倉以降の仏教がらみで登場した石伝承のように思えます。
ひょっとしたら物部真福由来の地として有名になってから、その関係者が墓石の一部を運んできて祀ったなんてこともありえそうですね。
ましかし、こちらのほうは昔話の楽しみとしておけばいいんじゃないかと思います。


うちの近くにも瑞光石という卵くらいの窪みがたくさんある大きな石を祀っている素盞雄神社があります。
その石が瑞光を放って素盞鳴大神と飛鳥大神(事代主命)を感得した修験者が祠を建てたことが縁起の社です。
そこに塚があったので小塚原という地名になっていますが、支石墓のような墓の蓋石だったのかもしれないです。


[5114] 大きくなる石  神奈備 2004/05/09(Sun) 20:41 [Reply]
 体内で大きくなる石は、概ね歓迎できません。腎臓、胆嚢、膀胱など。
これらは石灰成分で成長するようで、自然に大きくなる”さざれ石”も同じく、石灰質角礫岩なる石灰質の石で、これが雨水に溶解して、石灰分をふくんだ水が粘着性の高い液体となって小石を集めて次第に大きくなるのだそうです。こちらは国歌にも歌われる目出度い石。

 所が、大きくなる石であまり目出度くないのか、王権にとっては目出度いのか、よくわからない伝承があります。

 一つは、青草で出した常陸の大甕倭文神社にまつわる伝承。
悪神香々背男は石になり、徐々に成長して大きくなり、天をも衝く程になりました。そこへ建葉土神がやって来て蹴りを入れますと、粉々に壊れてぶっ飛んだようです。

 もう一つは、美濃国の伊奈波神社に関係する伝承。
景行天皇の兄である五十瓊敷命は、天皇の命で陸奥で金石を探索発見、しかし讒言により都からの討手と対峙、金石は一夜のうちに三十六丈の山となり、五十瓊敷命は嫡子らと山へ入り、亡くなったと言う。

 常陸、美濃、また金につながりがありそうとの青草感想。

[5113] Re[5069]: 春うらら  伯耆の郷土史家 2004/05/09(Sun) 16:55 [Reply]
>  島根県安来市にある足立美術館が米国「ザ・ジャーナル・
> オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」誌のコンテストで、桂
> 離宮を抜いて日本庭園世界一に選ばれました。
>  同美術館には横山大観の名作「白砂青松」の持つ雰囲気を
> 表現した白砂青松庭、枯山水、苔(こけ)庭、池庭が美術館
> を囲むように造られている。床の間の壁をくりぬき、庭をあ
> たかも絵画のように見せる仕掛けも。広さ四・三ヘクタール
> の庭園を常駐の庭師七人がきめ細かくメンテナンスしている
> とのこと。
> また、同市は刃物鋼出荷量日本一で、安来鋼(ヤスキハガネ)
> というブランド名で知られている。それは日本刀の原料で、
> 古代製鉄法たたら吹きによりできる和鋼の技術を基盤として
> 最新のテクノロジーとの融合された製造を行っているためで
> ある。なかでも特に剃刀の刃は高品質が求められるが、こ
> れが世界一のマーケットシェアーを誇っており、その他の刃
> 物鋼も一流の職人の間では切れ味世界一と評されている。
>  この和鋼に関する日本一の総合博物館である和鋼博物館や、
> 山陰最大の天台宗の古刹、清水寺など和のもつ美しさを堪能
> できる場所になっている。
>  西日本にお住まいの方などは、ゴールデンウィークあたり
> に、ちょっとした小旅行を楽しまれてはいかがでしょうか。

しってますよ。私は考古学ファンなので古墳出土品などに興味
があります。安来は古代から作刀技術が高く「双龍環頭大刀」
などが古墳から出土しているみたいです。これは正確には日本刀
ではないので普通の日本刀の呼び名である太刀(タチ)ではなく
大刀(タチ)と表記します。正式な鋼刀で日本刀と呼ばれる最古の
ものは伯耆の安綱が作刀したものといわれています。
これも安来の近くで大山の麓、岸本町から輩出しており、豊かな
作刀、製鉄文化が忍ばれる地域。その中心都市が安来ということ
でしょう。

[5112] あよあよ  神奈備 2004/05/07(Fri) 18:08 [Reply]
>「鴨波里」を「粟々(あはは)里」

「鴨」は「あは」の訓のようで、これは「あひる」が「家鴨、合鴨」となることにつながるのでしょうね。

>> 大三元さんの鴨と三との関係、遇鹿に列するかいな。

三槻に近い遇鹿が「鴨」に関係するとすれば、「三」、「鴨」との関連があるとのことで、符合しているなとの感想。「三」と「鴨」との関係の指摘、大三元さんのHPにありましたね。検索でうまく出ないんですが、あったと記憶。
「三」「鴨」連想ではありませんが、阿波の三加茂町に式内の鴨神社が鎮座。


阿波に式内社で事代主神社が二座鎮座、全国的には後は大和の高市御縣坐鴨事代主神社。阿波には鴨族がいたのでしょう。

> 地名の由来では粟は粟ではなく、網場アバの説を提示していますね。
やはり夷神の事代主神が阿波と関係しているのでしょう。

> 「あわわの辻」の語源
ありがとうございます。
出雲国風土記の大原軍郡阿用の郷
目一つの鬼に食われかかった男が「動動:あよあよ」よ言うお話がありましたね。

[5111] あわわ  Rika [Mail] [Url] 2004/05/07(Fri) 00:01 [Reply]
 サークルPONTAのRIKAです。
 私が「あわわ」で思い出すのは百鬼夜行の「あわわの辻」(京都の神泉苑の北東の交差点)と阿波々神社です。
 「あわわの辻」の語源は、鬼に出会って驚きのあまりに声が出せず、皆「あわ、あわ、・・・」と口ごもるからだそうです。口から泡をふいたりして。
 阿波々神社は遠江国(静岡県西部)の式内社です。遠州七不思議の1つ「無間の鐘」で有名です。桜の名所・粟ケ岳の山頂にあります。昔は、山頂付近の磐座の下にあったそうですが、焼失して、磐座よりも高い位置に建て直されました。語源は知りません。公式サイト(http://www10.plala.or.jp/awawajinjya/)があるので、メールで聞いてみようかしら?

[5110] 村積神社の毒石はどれ?  Rika [Mail] [Url] 2004/05/06(Thu) 23:42 [Reply]
 はじめまして。サークルPONTAのネット担当のRikaと申します。
 現在、PONTAでは、愛知県岡崎市にある真福寺と村積神社について調査しています。
 真福寺は、昔、岡崎市に住んでいた物部真福(守屋の次男)が山頂に霊泉を発見して建てた寺で、ご本尊はこの泉の水です。(「水体薬師」といいます。)
 廃仏派の物部氏が寺を建てるというのも奇妙ですが、この寺は「聖徳太子建立47寺」の1つに数えられています。(聖徳太子って、物部氏を倒した人物では?)
 この真福寺を守るために守護神として物部真福が建てたのが、村積山山頂の村積神社です。この神社には、殺生石を源翁(曹洞宗)が3つに砕いた1つが飛んできました。「毒石」と名付けられたのですが、それらしい石がいくつかあって、どの石だか分かりません。注連縄がされてる石がそうなのでしょうか? ご存知の方はおられますか?
 また、なぜこの神社に飛んできたかも不思議です。山麓の龍渓院(曹洞宗)との関係でしょうか? 龍渓院は「岡崎の苔寺」として有名です。なぜ苔だらけかというと、池を埋め立てて、その上に建てたので、湿気ているのです。その池の名は「白蛇池」。白蛇は水神であり、池は貴重な農業用水であるので、わざわざ埋めて、その不安定な土地にお寺を建てなくてもと思うのですが・・・封印でしょうか?

[5109] あは、あはは 考  大三元 [Url] 2004/05/06(Thu) 10:05 [Reply]
あは、あはは、をアイヌ語で考えています。現状をアップしました。
apa に「親戚、子宮(産道)」の意味があるのがミソです。

http://www.dai3gen.net/apa.htm

[5108] Re[5096][5095][5094]: 味原姓  かたばみ [Mail] [Url] 2004/05/05(Wed) 13:10 [Reply]

≫粟鹿、なんかもこれに列する語のようですね

粟鹿神社というのは山のどまんなかなんですね。
こちらは鹿がいて山中だから半農半狩猟でもとから「植物の粟」じゃないかなあ。
(後世に粟生氏がこちらに住んだのかもしれないけれど)

地名の由来では粟は粟ではなく、網場アバの説を提示していますね。
鴨波の里をアハハと称し、後に粟を植えるようになって粟々の里アハハに変化した・・

もとは海の民が漁をしていた地(網場、味耜)、そこに農耕(粟)がやってきて文字が変化した。
(粟は水辺の植物じゃないはず)
その人々が粟生を名乗って他の地へも移住していったが、故郷のイメージである「アジガモの原」をも姓に用いた、納得できそう。


吉備も黍ではなく「竹かんむり+洪」ヒビというカキなどを養殖するための浅海に立てる棒の説がありますが、東京の中里貝塚でこれが行われていた痕跡が発見されています(だとすると世界最古のカキの養殖)。

キビダンゴ・・なんらかの説による地元の名所名物が生まれて定着すると、それを否定する説の登場はちとやっかいなことになりますね(神社も含めて(^^;)。


[5107] *ご無沙汰してます。「マスノスケ」とはどんな魚なのか?  PIKKI 2004/05/05(Wed) 11:45 [Reply]
マスノスケはキングサーモンのことです。
でも、最近よくスーパーで見かけるパックの鮭・・チリや北欧から輸入 の養殖鮭を「キングサーモン」と表示しているのは、不当表示ではないべか?
詳しくはー
■<a href="http://www.g-hokusai.com/other/sakemasu.html">「鮭と鱒のおはなし」</a>・・料理法が役にたつ。
■<a href="http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200401/30/20040130k0000e040065000c.html">「コメ検査:基準値超えるカドミウム」</a>・・魚ばかりでなく米も。
■<a href="http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi">「神奈備掲示板」</a>・・古代史への水先案内人。

[5106] Re[5105][5096][5095][5094]: 味原姓  大三元 2004/05/04(Tue) 22:45 [Reply]
> > 常陸国風土記 久慈の郡
> 密筑(みつき)の里から三十里に助川の駅家がある。昔は遇鹿(あふか)といった。略。

あふか: 肥前風土記に「逢鹿(遇鹿、とも)」、出雲風土記「秋鹿郡(あいか<あひか?)」、常陸の「行方郡相鹿(あふか)里」「久慈郡、助川・・昔、遇鹿」など同じ様な地名があります。倭姫命世紀にも<!...p367>「相鹿瀬」という地名があり、今の三重県多気郡多気町にあります。

アイヌ語では apka は「雄鹿」の意味です。さて、つながっているのか???

> 密筑は三槻かも。

あり得ますね。八槻という地名もあることだし。。。
ここでも8と3の対応があるんですねぇ。

> 大三元さんの鴨と三との関係、遇鹿に列するかいな。
> 甕星とは三鴨星だったとか。

この二つは仰ってることの意味が分かりません。。。

> 土地の人の言葉では鮭の親をスケといっている。
> はたまたサケが出世魚だったとは。「サ」は若いの意か。

『時代別国語大辞典上代編』を見てみると「さけ」に、今云う「鮭」の意味では出てないですね。つまり、上代資料に「鮭」という字は出てくるものの、これの読みを「さけ」とする文献上の証拠は平安時代にならないと出てこない、ということなんでしょう。同辞典の考で「鮭、と言う字は中国でサケを表さない」と書いてあるのも面白い。

東北で「マスノスケ」って云いませんでしたっけ。やはり鱒のでかい奴のことでしょうか。

[5105] Re[5096][5095][5094]: 味原姓  神奈備 2004/05/04(Tue) 19:57 [Reply]
> なんと。。。播磨国風土記賀古郡「鴨波里」を「粟々(あはは)里」と云う、とありますが、これがこれかぁ!!! やはり味原は鴨がらみ、、、か。粟鹿、なんかもこれに列する語のようですね。

常陸国風土記 久慈の郡
密筑(みつき)の里から三十里に助川の駅家がある。昔は遇鹿(あふか)といった。略。土地の人の言葉では鮭の親をスケといっている。

密筑は三槻かも。大三元さんの鴨と三との関係、遇鹿に列するかいな。
甕星とは三鴨星だったとか。
はたまたサケが出世魚だったとは。「サ」は若いの意か。

[5104] 連休を楽しんでいますか  神奈備 2004/05/03(Mon) 15:18 [Reply]
[5101] > 祭られている神様を、向かって右側から順番にわかるかたいらっしゃいましたら教えてください。
> 神主さんにお電話して聞いても判らないといわれてしまいました。
香取神宮は鹿取神宮とも書くんですね。神主さんにわからないことは当方でもわかりません。
で、六所神社の創建の由緒は何でしょうか? 順番を知られてどうなさるんでしょうか?


[5103] [5102] > あなたはどのように否定しますか?
わざわざ否定する必要を感じていません。神話と伝承とから歴史を推測構成する場合、一人に一つ以上のストーリーが出来ますから、それでよろしいんでは。

[5103] 欠史八代の推定実年代  曲学の徒 [Mail] [Url] 2004/05/02(Sun) 22:22 [Reply]
真っ当な研究者なら絶対信じない説です。
あなたはどのように否定しますか?
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/6-9nenndai.htm

[5102] この人が卑弥呼  曲学の徒 [Mail] [Url] 2004/05/02(Sun) 22:16 [Reply]
京都府の日本海側、日本三景『天の橋立』で知られる宮津市の『籠(この)神社』
に、海部(あまべ)氏の古い系図がある。平安初期貞観年中に書写された略称『祝部(はふりべ)系図』(本系図)と、江戸初期に書写されたより詳しい『勘注系図』(かんちゅうけいず)である。現存する最古の系図として国宝に指定される。

『勘注系図』は初代彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命(たけだせのみこと)と同じ代位に、とてつもない尊大な名を持つ女性を記す。

宇那比姫命(うなびひめのみこと)、天造日女命(あめつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たけのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)である。

『大倭姫』と言うのは地方豪族の姫の名ではない。
『日本書紀』を見ても、皇女に倭姫というのはあるが、大倭(おおやまと)と大の尊称のつく姫や皇女はいない。大倭という尊称がつくのは天皇名くらいのものである。この人は天皇と同格の尊称を持つのである。
もう少し詳しく見てみよう。
宇那比姫というのは、建田勢命の亦の名を大宇那比(おおうなび)と云うから、兄弟かもしれない。幼名または本名であろう。
天造日女命は天下を造った姫という意味であろう。
竹野姫はこの一族が『竹』あるいは『建』とよばれることによる。
大海靈姫(おおあまひるめひめ)命の『大海』はこの一族が『海部(あまべ)氏』と名のるように『海(あま)』に尊称の大がついたものである。興味深いのは靈(ひるめ)である。巫女(みこ)の意味を持つ。
ご存知のように『魏志倭人伝』は卑弥呼が『鬼道を事とし』とする。『後漢書倭伝』は『鬼神道』であるが、いづれにしても、巫女の要素を連想させる。この名もまた靈姫(ひるめひめ)すなわち巫女姫(みこひめ)なのである。
最後は日女命である。読みは『ひめみこと』であろうが異国の人がこの音を『卑弥呼』と書き表しても不思議はない。

更にこの人の姪にあたる人が竹野媛(姫)で、『記紀』が伝える九代開化天皇の妃となる人物である。やはり別名大倭姫とも呼ばれる。
更に次の世代にもう一人大倭姫という人物がある。
またの名を天豊姫とする。
叔母が九代開化の妃で、祖父の兄弟が卑弥呼という家系である。本人の名が豊姫とくれば、魏志倭人伝が『卑弥呼宗女、壹與年十三を立て、王と為す。』とする壹與(台与・とよ)で、まさに卑弥呼の宗女である。十三歳で王に擁立されても不思議は無い人である。

あなたはこんなトンデモ説信じますか?
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/6-7himiko.htm

[5101] 鹿取神宮の六所神社について  かんちゃん 2004/05/02(Sun) 15:44 [Reply]
こんにちは。皆様はじめまして。
お聞きしたいことがあったので、書き込みさせていただきます。
先日千葉県の鹿取神宮に行ったのですが、そこの境内にある六所神社について知りたいのです。
祭られている神様を、向かって右側から順番にわかるかたいらっしゃいましたら教えてください。神主さんにお電話して聞いても判らないといわれてしまいました。
よろしくお願い致します。


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