神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十七年 四月 2005.4)お名前の敬称は省略しています。

[6239] Re[6238][6235]: 鳥居の朱  ニギハヤヒ 2005/04/30(Sat) 20:17 [Reply]
> 中央アジアや東アジアに、この「朱い門」あるいは痕跡は見られるのでしょうか。

赤門は日本よりも外国の方が多いのではないでしょうか?
調べてみましても無数にあるようです。
カトマンズのチベット寺院の門も柱・鴨居とも赤いものがありました。
北京の古い路地「胡同」にある家屋は殆ど赤い門です。昔は皇族しか赤を使え
なかったそうです。
明の十三陵にも正面に赤い門がありますね。
中国には鳥居のような形をした大きな赤い門はいたるところにあります。日本の中華街の入り口にも。
中国では春節(俗称では「過年」)になると、福が来るように家々の戸口に赤い紙をたくさん貼ります。災いが自分の家を通り過ぎてくれるように、入り口の柱と鴨居いっぱいに赤い紙を貼ります。
この風習はユダヤの「過ぎ越しの祭り」から来ていると言われているそうです。

お稲荷さん(INARI)の赤(血の色)がユダヤの影響と仮定するならば、日本に来る途中の中央アジア・東アジアにも同じような影響があるはずだと考えただけで、深い意味はありません。
日本の古代史を研究するには神社をよく調べないといけませんから、玄松子さんの
URLはよく利用させていただいていますし、メールで質問にもお答えいただいた
ことがあります。ありがとうございました。

[6238] Re[6235]: 鳥居の朱  玄松子 2005/04/30(Sat) 16:56 [Reply]
神奈備さん > 家の門に赤い(血だったかどうか)ものを塗った所だけは、子が殺されずに済みます。
ニギハヤヒさん > そこで神はモーゼに告げて、「1才の子羊をほふり、その血を家の入り口の二つの柱と鴨居に塗らなければならない。

以前から、なかなか面白い説だと思っていました。

ニギハヤヒさん > この戒めがユダヤ人の移動と共に中央アジア、東アジアにも伝わって来たと私は考えます。

中央アジアや東アジアに、この「朱い門」あるいは痕跡は見られるのでしょうか。

[6237] ハシヒト  ニギハヤヒ 2005/04/30(Sat) 00:36 [Reply]
ハシヒトは波斯人でペルシャ人のことです。
中国でペルシャのことを「波斯」という当て字を使った。
日本では間人(ハシヒト、ハシウド)と言っているようです。
京極天皇・斉明天皇(同一人)の時代(7世紀)に多くのハシヒトが渡来している。
唐の時代は中国で景教(東方キリスト教)が広まり、日本にも宣教師が来ていた。
聖徳太子の母はアナホベノハシヒトで、聖徳太子の幼名は厩戸(うまやど)というのも関係があるのでしょうか?
京都大学の池田栄教授によると、聖徳太子の側近には景教徒がいた。
その後736年にペルシャ人の景教徒「李密医」らが日本にやって来て、天皇を訪問した(続日本紀)。
光明皇后は、この李密医から深い感化を受け、聖徳太子と同じく「施薬院」「療病院」「悲田院」をつくっている。
言語学者・歴史学者・東洋宗教史学者の佐伯好郎博士(1、871〜1、965年)は仲哀天皇時代(4世紀)には日本にキリスト教の宣教師がいたと言っている。
応神天皇の頃(4世紀末)に弓月君(融通王)が2万人程を率いて渡来しているが、弓月君はユダヤ系と考えられます。

[6236] Re[6235]: 鳥居の朱  神奈備 2005/04/29(Fri) 19:35 [Reply]
ニギハヤヒさん、お医者さんでしたかね。

> この戒めがユダヤ人の移動と共に中央アジア、東アジアにも伝わって来たと私は考えます。

十分考えられます。

> この頃にはペルシャ人やユダヤ人が日本にたくさん来ています。(ハシヒト)

ハシヒトの解説をお願いします。


[6235] 鳥居の朱  ニギハヤヒ 2005/04/29(Fri) 14:04 [Reply]
私が信じている説ですが、「そんなバカな!」という人は過ぎ越してください。
3,300年前、ユダヤ人はエジプトで奴隷になっていました。モーゼはユダヤ人を
エジプトから脱出させようと王に願い出ますが断られます。
そこで神はモーゼに告げて、「1才の子羊をほふり、その血を家の入り口の二つの柱と鴨居に塗らなければならない。エジプトにいるすべての初子を打つが、家々の血を見てそこだけは過ぎ越すであろう。」と言った。
血を塗っていないエジプト人の家の初子は皆殺された。そこで王はユダヤ人が全員エジプトから出て行くことを許した。(出エジプト記12章)
この戒めがユダヤ人の移動と共に中央アジア、東アジアにも伝わって来たと私は考えます。
蘇我氏が仏教寺院を建設することにより、物部氏も対抗上神社を建設しますが、この頃にはペルシャ人やユダヤ人が日本にたくさん来ています。(ハシヒト)
鴨居と鳥居はよく似た言葉ですね。

[6234] 鳥居の朱  神奈備 2005/04/28(Thu) 12:42 [Reply]
 鳥居の朱の話が変な方に行ってしまいました。

 志賀剛著『日本の神社と建国神話』と云う本から孫引き:−
 村上知順『朝鮮の鬼神』によれば、牛を殺してその生血を門に塗れば、疫神は退散すると云う。引用以上。

 モーゼの映画(十戒)では、海が割れるシーンが有名ですが、黒い雲のような疫神が子を殺しに来るのですが、家の門に赤い(血だったかどうか)ものを塗った所だけは、子が殺されずに済みます。

 門に牛の血を塗って、子供達が出入りの際、さわっていく。これはジェンナーの種痘の原理と志賀剛さんは云います。
 ようするに、ユーラシア大陸には、このような伝承が残っており、蘇民将来の物語にもなったのでしょう。門を赤く塗る、魔除けとして神社にも取り入れられたのかも知れません。

 赤=丹 丹は鳥居の形。さる人曰く。鳥居は神社の朱雀門。 青草でした。

[6233] Re[6232][6190]: 鳥居の朱色  玄松子 2005/04/27(Wed) 01:22 [Reply]
> 天皇陵の入り口などに多い黒木鳥居(皮付き丸太を組んだだけの「門」)はどうだったのかなあ。

天皇陵に黒木鳥居というのは、僕は見たことがないですが、

> 鳥居なるものが鳥居としていつごろ登場したのかの問題がありますが、鳥居としては赤い鳥居の方が古式を保つ鳥居ではないかと考えています。

「定説」では、黒木鳥居が最古の形式と考えられています。
それが正しければ、彩色は無かったというのが正しい。
彩色があったいうのが正しければ、黒木鳥居が最古の形式というのは偽となります。


> 伊勢神宮の遷宮では白木造りですが、当初から白木造りだったのかどうか、興味深いところです。

一般には、古式・古伝に基づいていることになっています。

[6232] Re[6190]: 鳥居の朱色  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/26(Tue) 22:32 [Reply]
ももさん、こんにちは。
≫鳥居はなぜ赤いのかとよく聞かれます

鳥居の研究/根岸栄隆(昭和18年)からの略引用です。
(軍部の検閲を通らないと出版できない時代の記述であることを差し引く必要あり)

−−−−−−−−
稲荷鳥居は赤いものの代表の如くいわれている、そこで稲荷鳥居はなぜ赤いのだろうという問題。
某伯爵邸では節分の夜・・ベンガラで塗った鰯を供えたり・・赤色の持つ呪力の信仰・・山王様の石や木の猿の像のベンガラで赤く塗り・・赤い紙に書いて門口に張る疱瘡神のおまじない・・

仏教建築の渡来が支那建築の様式や手法を神社建築へ導入する端緒を作り・・
遂に万葉歌人をして「青丹よし」と詠わせ・・
奈良春日の丹塗り神殿を生み、春日型の丹塗り鳥居を考案するに至ったという、歴史的な一面があるからである。

支那建築は色の建築である。もしも支那建築から色を奪いとったならば、死灰に等しき残骸である。

某博士は「日本の建築に色彩の応用を教えたのは支那である」これは異国的な手法であって決して日本趣味ではないといっている・・
(このあとに日本の森林とその自然的利用を自負する話があります)

稲荷神社の起源は元明天皇707-714の和銅四年秦伊呂具の奉斎した伊奈利神社に始まるものであって・・
秦氏は支那の帰化人であったことなどを総合すると、仏教の伝来と共に支那建築の手法が影響したと見るべき、
丹塗りの春日鳥居との関係を別にしても、稲荷鳥居が支那趣味の赤塗りになるのは、何ら不思議ではないようにも考えられるのである。
−−−−−−−−

最初に呪力とか信仰で赤のあることをいいながら、結論としては支那趣味であるとまとめています。
私は納得しかねます。
赤は縄文どころか旧石器時代から用いられている「色の基本」であり、呪術での重要な色だと思います。

古代の彫刻や工芸でムクの木製品とか杢目を見せるものを知りません。
色を塗らない「日本趣味」の登場は茶道など「わびさびの概念」の登場に伴うもので、こちらの方が新しい感覚であると思っています(いわゆる「日本の文化」の登場です)。
天皇陵の入り口などに多い黒木鳥居(皮付き丸太を組んだだけの「門」)はどうだったのかなあ。

鳥居なるものが鳥居としていつごろ登場したのかの問題がありますが、鳥居としては赤い鳥居の方が古式を保つ鳥居ではないかと考えています。

門ではなく鳥居となった時点で「祭祀の赤」であり防腐塗料ともなる赤が塗られた。
その後、わびさび的感覚の登場の流れの中で、赤く塗らない鳥居も登場したのではないかと考えています。

現存する800年以降の鳥居はほとんどが石か銅の鳥居、これらに赤が塗られていたのかどうか、不明。
木製鳥居の最古は山梨県吉田村の富士浅間神社1480年製だそうです(昭和18年当時、鳥居の研究)。

高貴な色、あるいは富裕者が登場したときに建物に赤や白などが塗られ始めたのではないかと思います(弥生時代かなあ)。
この延長上に祭祀の赤をメインとする神殿の赤も登場したのではないか、そう考えています。
鳥居の赤もその一部です。

伊勢神宮の遷宮では白木造りですが、当初から白木造りだったのかどうか、興味深いところです。


[6231] Re[6228][6227][6223][6218][6217][6212]: ?  神奈備 2005/04/26(Tue) 19:46 [Reply]
> > > 「私たちの研究成果を●●に書いておきましたからご覧下さい」というのが広告活動でしょうか?

こういう場合、その●●のポイントと云うかミソの部分を紹介頂き、詳細は●●で、というのがよろしいのでは。

「メーリングリストを発行します。」は席亭が書いても許されるでしょうが、PONTAさんが書くのは、PONTAさんのページがよろしいのでは。

リカは神奈備のテーマと違うので、消去しました。
それでも「メーリングリストを発行します。」は消してはいません。その辺りの席亭の呼吸もご理解下さい。乱用でなければね。



[6230] Re[6227][6223][6218][6217][6212]: ?  玄松子 2005/04/26(Tue) 19:40 [Reply]
> これを「菟足神社について調べました。興味ある方はお読み下さい。無料です」と書き込むのと、「菟足神社について調べました」と長文をこの掲示板にど〜んと書き込むのとどちらがいいか私の常識で考えて書き込ませていただいています。

僕の常識では、どっちもどっち。


> 私の常識では、広告とは下のリカ様の書き込みのようなものを指します。

「興味ある方はお読み下さい。」と「楽しすぎるから見てね♪」。大きな違いはないような。


> 私とペギラ様の常識は、ご指摘のように違うようです。

僕の常識とも大きく違うようですね。

[6229] Re[6221]: ローマに行ってきました。  神奈備 2005/04/26(Tue) 19:37 [Reply]

賀茂朝臣さん、こんばんは。1300年ぶりの快挙となるのですね。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamonen2.html

騎士叙階とは、めでたいことです。およろこび申し上げます。
所で、これはクリスチャンなりカソリックに限られるのではないのでしょうね。
先生は神道ではなかったのでは。

[6222] Re[6220][6210][6185]: 安芸の佐伯氏  あまのや 2005/04/26(Tue) 17:25 [Reply]
>広島県の甲山町は高野山の荘園なんですが、丹下氏と言う鋳物師が活躍していたようです。

広島といえば安芸の佐伯氏が思い浮かぶのですが、佐渡国造と先祖(天湯津彦命)が同じです。私の頭の中では佐伯=丹生という図式が出来上がってるんですが、やはり独特の嗅覚があったんでしょうかねぇ。


[6221] ローマに行ってきました。  賀茂朝臣 [Mail] [Url] 2005/04/26(Tue) 16:46 [Reply]
お久しぶりです。
ローマ教皇の就任式典に参列し、正式に騎士叙階を受けてきました。
御先祖の賀茂吉備麻呂が遣唐副使として、大唐皇帝に謁見して以来の我が家の快挙ですね。
来年は、私が客員教授をしているイギリスのサンドハースト陸軍大学院に、何とウィリアム王子が進学を予定しています。
おお。信じられない。

[6220] Re[6210][6185]: 鋳物師と大工  かまど 2005/04/26(Tue) 00:51 [Reply]
大分臼杵市だったかな、確か石仏?があって高野山とにた文化があったような??(うろおぼえ)。
丹生と丹治は親戚で、大阪の丹治(多治比)の美原町は鋳物の町ですね。でもって、広島県の甲山町は高野山の荘園なんですが、丹下氏と言う鋳物師が活躍していたようです(歴史資料館にいろいろと展示されてました)。丹治といえば銅に関連しますが、銅銭つくるのも、鋳造の部類に入るのかも知れませんね。
すいません、ちょっと暴走してしまいました。

[6219] Re[6209][6181]: 竈門  かまど 2005/04/26(Tue) 00:43 [Reply]
はじめまして、かたばみ様。

>これが竈門と丹生の源流ではないかと考えています。
インターネットで検索していると、大分から丹生氏や神武天皇が出発したと書かれている人もおられますね。
大分の竃門氏と、和歌山の竃門氏は発生は別だと思います。なぜなら和歌山の竃門氏は、もともと丹生であったからで、江戸時代後期からです。

大分県は気になっておりまして、今年調べに行く予定なんですよ。
1200年代に大伴なにがしが都から大分に船で移動したとき、難破して丹生津姫に助けられ、赴任先の大分についてから、そこにあった丹生津姫をまつっている神社をさらによく祭ったようなのです。この大伴氏がどのような流れなのかが気になっています。
また、大分市には丹生川、丹生、丹生神社などがあり、臼杵市には確か丹生島?丹生城があったとおもいます。大友氏の勢力範囲ですね。
大伴氏から大友氏に名前が変わっていたらそれも面白いのですが、ゆっくりと調べていくつもりです。
また何か面白い話がありましたらご教授下さい。

[6218] Re[6217][6212]: ?  ペギラ 2005/04/25(Mon) 22:36 [Reply]
場外から、すいません。私感。

掲示板の世界でいつも突き当たる所ですよね。

ここは公共の場ではなく、公共に公開している私的な場所だという感覚が
変な、2チャンネル効果のような感じで、広まっている。
まるで、土足で上がるのが当たり前のような。

その国、その家、その人の、常識があり、
その範囲でお付合いするというのが良好な関係を保つものだと思います。

人それぞれ常識が違い、人それぞれの許容のレベルも違います。

神奈備さんと玄松子さんが同一人物ではないように
受け取り方は、人それぞれです。

神奈備さんには神奈備さんの常識があり
玄松子さんには玄松子さんの常識がある。

ワケのわかならいコトを言う私にも私の常識がある。

PONTAグループの方々の歴史的考察は充分わかります、
賛同する部分も多々あるでしょう。
だが、たびたびの、
広告活動には、うんざりだということを言いたいです。

席亭の寛容さもこの掲示板の特徴ですが、
限度もあるんじゃないですか。ということをはっきりいう
外野の人々もいるんです。


[6216] かたばみ様  あまのや 2005/04/25(Mon) 20:09 [Reply]
かたばみ様 はじめまして。

> 豊後の「丹生(にゅう) 駄原(だのはる)(共に大分市) 宇佐 高田 (豊後高田市)などを本拠に鋳物師集団を結成し」ていたそうで、最古の職業集団のひとつだったのではないかとみております。
> 東大寺の大仏鋳造でもこの集団が動いたものとすれば、当然ながら「大工」も同様だったはずです。

豊後の丹生鋳物師集団は、知りませんでした。私は兵庫の播州地方に住んでおり、恥ずかしながら関西から外のことは無知と言っていいぐらいです。「大工」の様な職人集団は定住せずに移動していることが多く、どこから来たのかを辿るのは大変です。
今後とも御教示御鞭撻の程、よろしくお願いします。

しかし、丹生と鋳物師ちょっと気になりますね。


[6215] Re[6211][6204][6203][6202]: 朱  玄松子 2005/04/25(Mon) 17:39 [Reply]
> 玄松子様、お返事お待ちしてます。

何に対する返事なのかよく理解できませんが。


>> 神社建築の歴史に関しては、神道辞典・神道事典のみならず多くの書籍に記述が見られ
>「多くの本」の中のいくつかを教えていただけると助かります。探しやすいので。

これに対する返事ですか?
「神道辞典」「神道事典」という2つの書名を挙げていますが、不足ですか?
ただし、これらの書物に「鳥居や社殿が朱い理由」が記されているわけではありません。(ねんのため)


それとも、

> 何を言いたいかというと、「私の説のどこまでが定説で、どこがオリジナルな部分か」また、”オリジナルな部分”は、自分で考えたので”オリジナル”と自称してるけど、「先に同じ事を言った人がいるのか」知りたいです。

これに対する返事ですか?
定説ではないかと質問・指摘した文章は以下のものでした。

>> 個人的には朱塗りは大陸の文化だと思ってます。
>それは定説ではないでしょうか。

この書き込みの「それ」は「朱塗りは大陸の文化」にかかっています。それ以外に考えられますか?

以上の二つなら、あえて返事を書く必要を感じておりませんでした。
それとも、別の返事をご希望でしょうか?

[6210] Re[6185]: 鋳物師と大工  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/25(Mon) 16:01 [Reply]
あまのやさん、はじめまして

≫あまのやの先祖が天野番匠だったかどうかはまだ不明です。高野山に関係する古文書があるようなので

やはり大分歴史事典の「鋳物師」の項に「彼等は製品に、鋳師 鋳工 大工 冶工などの肩書を使って名を残している」とあります。大工の棟梁も「鋳物師」の一部だったようです。
http://www.e-obs.com/heo/heohome.htm

豊後の「丹生(にゅう) 駄原(だのはる)(共に大分市) 宇佐 高田 (豊後高田市)などを本拠に鋳物師集団を結成し」ていたそうで、最古の職業集団のひとつだったのではないかとみております。
東大寺の大仏鋳造でもこの集団が動いたものとすれば、当然ながら「大工」も同様だったはずです。

他に宇佐弥勒寺(最古の神仏習合、廃寺)や「竈門庄」など興味深い関連が豊後に集中しています。
空海も宇佐へいっておりこれらの影響を受けていないはずはありませんし。


[6209] Re[6181]: 竈門  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/25(Mon) 11:36 [Reply]
かまどさん、はじめまして

≫竃門神社は大伴氏が祭るところ。大伴氏は丹生川上から天野近辺に丹生津姫が降りてきたとき

和歌山でも福岡でもありませんので、はずしているかもしれませんが・・

豊後風土記速見郡に「赤湯の泉が竃門山にある、湯の色は赤く泥があり用いて屋の柱を塗るに足る、流れて外に出づれば変わりて清水となる」とあります。
(大分県別府市北部)

これが竈門と丹生の源流ではないかと考えています。
この赤はベンガラなのかHgS(辰砂)なのか・・流れ出ると清水になる・・比重の大きいHgSであるほうが沈殿しやすくその可能性は高いと思いますが、現在のこの一帯にHgSの痕跡が残るかどうかは不明。

大分歴史事典の「竈門荘」に宇佐、八幡、竈門氏、大友氏などの関連が書かれています。
http://www.e-obs.com/heo/heohome.htm

[6208] Re[6196][6195][6193]: 今春看又過  玄松子 2005/04/24(Sun) 21:05 [Reply]
> 御嶽の入口に鳥居があるのがチョット意外でしたので。わりと多いのでしょうかネ?

御嶽については、知らないので近づかないようにしていたため、わかりませんが、ネットで探したら、こういうのが。
http://w1.nirai.ne.jp/oki-muse/Japanese/answers-folklore.htm
引用「沖縄固有の御嶽信仰を国家神道に組み入れる動きがはじまりました。現在でも、御嶽の入り口に鳥居(とりい)がのこっている場所がありますが、本来は、御嶽の入り口に鳥居はありませんでした。」

沖縄の神社境内には、かならず御嶽、あるいはそれに近い拝所がありましたね。

[6202]  玄松子 2005/04/24(Sun) 15:53 [Reply]
鳥居だけではなく、神社建築にも多く朱塗りを見ることができます。
神社建築の一部である鳥居が朱塗りなのは、神社建築がなぜ朱塗りであるかを考える必要があります。

神社建築の歴史に関しては、神道辞典・神道事典のみならず多くの書籍に記述が見られ、その殆どに寺院建築や道廟との関係について言及されております。

[6199] Re[6198]: 朱塗りの鳥居  玄松子 2005/04/24(Sun) 11:56 [Reply]
> 個人的には朱塗りは大陸の文化だと思ってます。

それは定説ではないでしょうか。

[6198] 朱塗りの鳥居  PONTA [Url] 2005/04/24(Sun) 11:14 [Reply]
個人的には朱塗りは大陸の文化だと思ってます。
昔、日本には神社(社殿)は無く、神奈備のように山等が信仰の対象だった。
ところが大陸から仏教が伝わり、お寺が建てられるようになった。
当時のお寺は朱塗りで、仏像も彩色されていたとか。
神社も、お寺の真似して、朱塗りの社殿(平安神宮みたい)、朱塗りの鳥居・・・・建てられた。朱塗りの鳥居は当時の名残。
大陸の人に「日本には朱がたくさんある」とアピールしたかったのかもしれません。重要な輸出品だったと聞いています。
単なる仮説(まだ思いつきの段階?)ですみません。

[6197] Re[6195]: 鳩間中森  恋川亭 2005/04/24(Sun) 03:13 [Reply]
> ネットで調べたら、友利御嶽というのがあるらしい。

オキナワ・アーカイブの『豊年祭』の項目に鳩間島の友利御嶽(この場合そこの御殿でしょうね)での祭祀の様子がありました。

豊年祭
http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_contents/40043000.html
鳩間島の豊年祭(ムービーが見れます)
http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_media/40043014.html#text
鳩間島の全景はTVドラマのHPがきれいかも
http://www.ntv.co.jp/ruri/intro/index.html

[6196] Re[6195][6193]: 今春看又過  恋川亭 2005/04/24(Sun) 00:40 [Reply]
> ネットで調べたら、友利御嶽というのがあるらしい。
> http://homepage2.nifty.com/kago/sea/0205iriomote/Hatoma1.html

拝見しました。この中の白い鳥居のある写真ですね。TVドラマ(第1話)の60分目あたりにシーンがありました。この白い鳥居の奥に大きい磐が映っています。祠と思ったのは少し違いましたが、拝所だとは思います。アズマヤのような建物でした。(「不思議発見」の裏番組なので録画してたのです。ロケ地は鳩間島でした。)
御嶽の入口に鳥居があるのがチョット意外でしたので。わりと多いのでしょうかネ?

[6195] Re[6193]: 今春看又過  玄松子 2005/04/23(Sat) 23:01 [Reply]
そのドラマ、見てないですが。

> 主役の女の子が島内を逃げ回る場面で、神社が出てきた。おお、小さいながら鳥居もある!石段もある!祠もある!苔むした磐座まであるゾ!!

神社というより、御嶽じゃないかなぁ。
ネットで調べたら、友利御嶽というのがあるらしい。
http://homepage2.nifty.com/kago/sea/0205iriomote/Hatoma1.html

見てないので、断言はしませんが。

[6194] I love Luna  恋川亭 2005/04/23(Sat) 20:32 [Reply]
この前にありました『京都の月神』についての件で・・・、(私は実見したことがありませんが、)たしか『ウエサク祭』とかいう祭りがあったような?
参列されたことのある方のご感想を拝読したく思います。どなたかいらっしゃいませんでしょうか?

考えが煮詰まっている段階ではないのですが、京都には『月』につながる文化が多いような印象を覚えています。検証はまだこれからですけどね・・・。m(__)m
〔蛇足:上記の京都の話しとは別ですが、月は弓の喩えでもありますネ。蛇足の蛇足:ついでに『蛇は矢』の喩えでもあります。ぜひ弓道場で実際の射弓を体験してみてください。放った矢の飛び行く様は蛇の如くで面白いです。〕

[6193] 今春看又過  恋川亭 2005/04/23(Sat) 18:32 [Reply]
「花が飛ぶ・・・」といえば、18日は狭井神社の鎮花祭だったのですね。今年も行けなかったナァ〜、残念。大神神社境内天皇社の桜はちょっと遅めなので、鎮花祭のあとチョット立寄ると、崇神天皇さまの祠のまわりは一面の積雪のように花が散っていたものです。鳥居やお社は朱色じゃないですけどね。

「話しも飛んで・・・」、先週の土曜日に『瑠璃の島』という鳩間島(西表島の隣り)が原作舞台のTVドラマを見ていました。主役の女の子が島内を逃げ回る場面で、神社が出てきた。おお、小さいながら鳥居もある!石段もある!祠もある!苔むした磐座まであるゾ!!鳥居やお社は朱色じゃないですけどね。・・・ロケも鳩間島なのかな?今夜も続きの放送があるので見てみます。

「そういえば・・・」、歌手・夏川りみさんのDVDの中で、石垣島の神社の境内で「涙そうそう」を唄うシーンがありました。ここも鳥居やお社は朱色じゃないですけどね。宮古や八重山での、御嶽・拝所のような聖地と神社(鳥居・祠セット)の関係を知りたくなってきました。しかし、ちょっと遠い〜。
〔あのドラマ、鳩間島ロケなら鳩間かな子チャン(民謡歌手)を出さないと手落ちやな〕

[6191] Re[6190]: 鳥居の朱色  神奈備 2005/04/21(Thu) 19:51 [Reply]
> 今フランス語で奈良を案内する為のリーフレットを作っています。鳥居はなぜ赤いのかとよく聞かれます。お教え願えませんでしょうか。

ももさん。こんばんは。下記サイトも一つのヒントになると思います。
http://kamnavi.jp/inari/shu.html

[6190] 鳥居の朱色  もも [Mail] 2005/04/21(Thu) 11:46 [Reply]
今フランス語で奈良を案内する為のリーフレットを作っています。鳥居はなぜ赤いのかとよく聞かれます。お教え願えませんでしょうか。

[6189]  神奈備 2005/04/20(Wed) 11:02 [Reply]
 満月の夜の竹藪のお話。
竹の中空の部分がほんのりと光が透過するように見えるそうです。かぐや姫降臨のシーンを思い起こします。
 これは日中の海底で、海草が生えている所で、やはり海草を光が透過してゆらゆら揺れるのが神秘的だそうで、底筒男神などの住吉神の出現とあい通ずるものがあるようです。

 『日本書紀』神功皇后の巻に出てくる住吉の神々を「日向の国の橘の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちている神」と説明があります。これが長門国一宮の住吉神社の和布刈祭に残っているのでしょう。

 筒は竹に特徴のもので、竹が多いので、山城に綴喜(筒木)郡がおかれたとか。
 
 一方、底のようにS+Kの発音、サク、シャク、ジャグ、ジャグゥなどは縄文時代からの境などの神で、由緒を語ることが出来ないほど古い神で、おもに中部日本を中心にその周辺に分布している神と中沢新一氏が『精霊の王』で述べています。この神については柳田国男『石神問答』と言う興味ある書簡集が残っています。
 底、古来よりの魔除けの神の意、筒、竹のこと、男、男、竹細工を利用して魔除け神事などを行う男神とみる事ができるのかも。サクの神は後にいて、新しい神の神威を発露させる機能があるとされ、新しい神は表にいる神だから表筒男となったのかも知れません。
 ジャァ、中は? 中を取り持つ。

[6188] あまのや様(Re[6187]: 空海の手紙  かまど 2005/04/18(Mon) 22:25 [Reply]
> 高木言申(ごんべんにもうす)元(しんげん)著「空海と最澄の手紙」ですね。

それです!!去年?改訂版が出てて一部の記述で見解を改めていました。

[6187] 空海の手紙  あまのや 2005/04/17(Sun) 16:23 [Reply]
> >肝心の手紙ですが現存するんでしょうか。
> 多分現存すると思います。高木なにがし氏の著書「空海の手紙」?に書かれています。

高木言申(ごんべんにもうす)元(しんげん)著「空海と最澄の手紙」ですね。近くの図書館にありました。手紙は「高野雑筆集」上下二巻に収録されているものです。いつ頃出来たか定かではありませんが、写しです。

ところで空海は大伴国道(善男の父)にあてた書状で、大伴氏と佐伯氏が遠祖を同じくする旨を告げています。なんとも悩ましいです。

[6186] 片詣り  神奈備 2005/04/16(Sat) 21:39 [Reply]
> >竃神社
>「竃門(かまど)」ですね。「門」抜けてます。
失礼いたしました。そうです。丹生酒殿神社に参詣のおり、竃門神社にお参りさせて戴きました。お家の屋敷神でした。


> >なにがしさんのHP
> 検索しましたがもうないみたいですね。
系図の辺りはダウンロードさせて戴いて資料集に入っています。 m(_ _)m

> 神奈備様には今後ともよろしくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。

 で、今日は思い立って高野山に参詣し、奥の院あたりでぶらぶらしてきました。いいものですね。やはり大阪市内よりはだいぶ冷えていました。

[6185] かまど様  あまのや 2005/04/16(Sat) 19:15 [Reply]
> 天野は廃仏毀釈までは今の神社と大塔、長床、御影堂、大庵室?、経堂などがあり、修験者の修行の場でありました(修験者の方が、丹生津姫はかつらぎ修験の親神様、と言われていたようです)。この神社、寺院と高野山の寺院群をみていた宮大工集団が確か天野の地に昔いたような話を聞いたことがあります。あまのや様はその関係のご子孫ですか?

天野番匠のことですね。天野番匠については、先に紹介しました和歌山県立博物館研究紀要第十号に鳴海祥博氏(和歌山県文化財センター文化財建造物課長)寄稿の「丹生都比売神社の建築と天野番匠」に詳しいです。
あまのやの先祖が天野番匠だったかどうかはまだ不明です。高野山に関係する古文書があるようなので時間が取れたら調べようと思ってます。

> 余談ですが、丹生津姫神社の廃仏毀釈前の再現CGが丹生都比売神社公式HPで見ることができますよ。

公式HPがあるのを知りませんでした。大変参考になりました。
ありがとうございます。

[6184] 中山みき最後の予言です  カムロ [Url] 2005/04/16(Sat) 12:53 [Reply]

教祖誕生祭特別記念
中山みき最後の天啓をアップしました。
ご一読ください。



[6183] あまのや様  かまど 2005/04/16(Sat) 10:21 [Reply]
>明治に初期まで宮大工をしていました。

天野は廃仏毀釈までは今の神社と大塔、長床、御影堂、大庵室?、経堂などがあり、修験者の修行の場でありました(修験者の方が、丹生津姫はかつらぎ修験の親神様、と言われていたようです)。この神社、寺院と高野山の寺院群をみていた宮大工集団が確か天野の地に昔いたような話を聞いたことがあります。あまのや様はその関係のご子孫ですか?

余談ですが、丹生津姫神社の廃仏毀釈前の再現CGが丹生都比売神社公式HPで見ることができますよ。
それと、丹生津姫神社は建築的観点からもおもしろい建物みたいですよ。

[6182] 神奈備様  あまのや 2005/04/16(Sat) 00:40 [Reply]
> あまのやさんとかまどさんとのやりとりも面白いのですが、お二方のハンドルネームもまた丹生に大いにからんでいます。
>
> あまのやさん 天野 まさに丹生都比売神社を天野大社と云うように天野は鎮座地です。

ハンドルネームのあまのや(天野屋)は、先祖が使っていた屋号です。明治に初期まで宮大工をしていました。どうやら高野山系の大工のようです。

神奈備様には今後ともよろしくお願いします。

[6181] 神奈備様  かまど 2005/04/15(Fri) 23:24 [Reply]
神奈備様、こんばんは。

>竃神社
「竃門(かまど)」ですね。「門」抜けてます。

>水銀抽出の炉を焚く竃に関連するのかも知れません。
竃門家の女の子が嫁いだときに、お釜をもっていったようですが、大きすぎて使えなかったと言う話聞いたことありますが、水銀抽出の根拠にはなりませんかね?難しそうですね。丹生氏(=竃門氏)の遺産相続で竃と大堝(大きいるつぼ?)が相続されていますが、これはどうなんでしょう?当時では普通のことなんでしょうか?

>丹生都比売神社の神主の襲名は竃神社の前で行われるとか、
この神事がいつから行われているか分からないんですが、大伴系の神事とみるか、丹生系の神事と見るか。1280年ごろ以前からなら丹生系、それ以降であれば大伴系です。1280年ごろに丹生総神主家に大伴常家が嫡男として養子に入った年です。竃門神社は大伴氏が祭るところ。大伴氏は丹生川上から天野近辺に丹生津姫が降りてきたときについて来た一族。竃門神社の神様は奥津姫奥津彦で丹生津姫を守護した神。空海と丹生津姫の関係に似てますね。空海に土地を譲って、地主の丹生津姫が高野山で祭られる。丹生津姫に土地を譲った地主の神奥津姫奥津彦が竃門神社に祭られる。

>紀氏の系図を見ているようですね。
偽作かも知れませんね。分かりませんが、そんな気がします。でも、丹生氏と紀氏は関係は深かったと思います。実際婚姻関係もあったかも知れません。
丹生氏と紀氏の婚姻関係で文書として残っているのは戦国時代で、頻繁に結ばれています。そして、その時に丹生氏の3男が紀氏の嫡男として紀氏を継いでいます。また1300年の紀氏の古文書に、紀氏が紀伊国造に任命されて、その任命を受けるのに都に上り、その帰りに丹生酒殿神社(丹生津姫神社の遥拝所)で丹生氏と神事をします。そのころまでは、この国造新任の神事は慣例であったようです。つまり、紀氏と丹生氏あるいは丹生津姫とは何がしかの深い関係があったことをうかがわせます。逆に丹生氏は毎年浜下り神事といって、日前宮(紀氏祭祀)にいって神事をします。いつからか、また何故かはいまだミステリー。

>なにがしさんのHP
検索しましたがもうないみたいですね。


[6179] あまのや様  かまど 2005/04/14(Thu) 22:09 [Reply]
>肝心の手紙ですが現存するんでしょうか。
多分現存すると思います。高木なにがし氏の著書「空海の手紙」?に書かれています。大きな書店にはおいてあるんじゃないかと思います。

>近藤敏喬氏の古代豪族系図
この本かなあー??、丹生氏の系図は全くのデタラメでした。本屋さんでよくみかけるんだけど。インターネットで丹生氏を検索すると、この本の系図を参考にしたようなものが結構あるんですが、想像と言うか妄想というか、かすりもしてなかったです。正しい系図みながら、どうやってそう繋がるのか考えましたが、分からずあきらめました。丹生氏はマイナーですからしょうがないかもしれません。有名な豪族の系図は正しいと思います。

[6178] Re[6176]: 佐伯  あまのや 2005/04/14(Thu) 21:06 [Reply]
かまどさん、こんばんは。よろしくお願いします。

> 空海の手紙に、「空海の先祖は和歌山の大名草彦の別れでである」と書かれています。空海が高野山開創の協力得るためにうそを書いた可能性があるのですが、もし本当とした場合、空海は丹生氏、紀氏と親戚となります。すると大伴氏とも親戚となる可能性はあります。

案外、本当かもしれません。私は明石、播磨、播磨鴨の国造は同祖ではないかと考えています。釈日本紀巻十一所収播磨風土記逸文に石坂比売命の名が見えますが、本文は美嚢郡の逸文とおもわれ石坂比売命は明石国造と考えられます。本文の内容から丹生氏とのつながりを感じます。
また、近藤敏喬氏の古代豪族系図収覧では播磨と讃岐の佐伯氏は同祖となります。ですからあながち嘘とは言い切れません。

ところで肝心の手紙ですが現存するんでしょうか。

[6177] アップ  PONTA [Url] 2005/04/14(Thu) 18:27 [Reply]
「神奈備別荘」に御衣祭、
「女子高生のひとりごと」に「熱田神宮(1)熱田大神の謎」「熱田神宮(2)義経は熱田神社で元服したか」をアップしました。

[6176] 佐伯  かまど 2005/04/13(Wed) 23:59 [Reply]
こんばんは、かまどと申します。

>伴善雄が藤原氏に対抗する上で讃岐の佐伯氏を味方に取り込む為、大伴氏の末裔であると名乗る事を許した
すみません、この本知らないんですが、空海の手紙に、「空海の先祖は和歌山の大名草彦の別れでである」と書かれています。空海が高野山開創の協力得るためにうそを書いた可能性があるのですが、もし本当とした場合、空海は丹生氏、紀氏と親戚となります。すると大伴氏とも親戚となる可能性はあります。参考まで。お役にたてずすいません。

>今年は高野山・熊野が世界遺産に登録され観光客が増えてるみたいですね。夏休みにはゆっくり見てまわろうと思ってます。
是非是非いかれてみて下さい。余裕があれば丹生津姫神社にも(^^;)。高野山に参って丹生津姫神社に参らないことを片参りと言うこともありますし(^^;)(^^;)汗汗。

>特別展「天野の歴史と芸能」
和歌山県で見ました!そのイベントで高野山の日野西先生の講演もあって、緊張しながらも質問してみました。


[6175] Re[6173]: はじめまして!  PONTA [Url] 2005/04/13(Wed) 21:09 [Reply]
> 新宮と古宮の2社あるこの神社は、両方いってみましたら、由来書が入れ替わっていたんです。

新宮と元宮は祭神は同じはずですが・・・珍しいですね。
神社の場合、たとえば、八幡神を勧請して、主祭神を八幡神にして、社名も「●●八幡宮」と変えてしまった例はよくあります。
お寺の場合も、廃寺同然のお寺を見て、偉いお坊さんが歎いて、改宗して、名前も変えて再建したという話をよく聞きます。

CM:ブログに「玄翁の槌」をアップしました!

[6174] Re[6173]: はじめまして!  神奈備 2005/04/13(Wed) 19:58 [Reply]
> この間さる神社に参りましたところ、神社の由来書にある神様のお名前が以前と変わっていておどろきました。新宮と古宮の2社あるこの神社は、両方いってみましたら、由来書が入れ替わっていたんです。神様のお名前をこんなふうに帰るなんて!どう思われますか。よくあることなんでしょうか?

 さちこさん、こんばんは。
 
 珍しいことですね。普通古宮と新宮があれば、祭神は同じだと思いますが、違うのも珍しいことだと思いますが。兵庫県は竜野の粒坐天照神社と古宮神社
は新古の関係ですが、同じ神様です。
 
 神社の祭神はそれほど頻繁に変わると云うものではないと思います。ただ、研究熱心な新しい宮司さんが赴任されますと、神社の文書などを調査して変えると云うことはあるようです。(和歌山 鳴る神社)
 しかし、氏子の方が従来の祭神に親しんでいますので、配祀神として滑り込ませれれば上出来ではないでしょうか。

 現在、大和葛城の高天彦神社の祭神が高皇産靈神となっていますが、「この地は鴨氏の地盤で、少なくとも下照比売の夫の天若彦を射殺した高皇産靈を祭るはずがなく、高天彦神と修正すべき。」と主張されている方がおられますが、そう簡単にできる話にはなっていないようです。

[6173] はじめまして!  さちこ 2005/04/13(Wed) 01:48 [Reply]
この間さる神社に参りましたところ、神社の由来書にある神様のお名前が以前と変わっていておどろきました。新宮と古宮の2社あるこの神社は、両方いってみましたら、由来書が入れ替わっていたんです。神様のお名前をこんなふうに帰るなんて!どう思われますか。よくあることなんでしょうか?

[6172] Re[6171][6170][6169][6164]: 参考までに  あまのや 2005/04/12(Tue) 22:00 [Reply]
> ↓ここの掲示板に書き込んでorメールで聞いてみたらいかがでしょう。
> http://shushen.hp.infoseek.co.jp/index.html

感謝です。
また解らない事があったらよろしくお願いします。

[6171] Re[6170][6169][6164]: 参考までに  PONTA 2005/04/12(Tue) 06:29 [Reply]
↓ここの掲示板に書き込んでorメールで聞いてみたらいかがでしょう。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/index.html

太田亮氏は、家系図研究の大家ですが、東三河の神社研究者には必携の『神社を中心としたる宝飯郡史』も書いておられます。重宝してます。

[6169] Re[6164]: 参考までに  あまのや [Mail] 2005/04/11(Mon) 20:23 [Reply]
PONTAさんありがとうございます。

> 伴善男なら応天門の変、讃岐の佐伯氏なら空海の生い立ちを書いた本に載っていそうですね。日本史研究サイトの掲示板に書き込めば教えていただけると思いますよ。

吉川弘文館の人物叢書 伴善男 佐伯有清著を書店で購入しました。
どうやら「姓氏家系大辞典」の太田亮氏の説のようです。佐伯有清氏は著書の中で
概ねその説を追認しています。
私が見たのは太田亮氏の著書だったのかもしれません。
もう少し調べてみます。
ありがとうございました。

[6168] 月の効用  神奈備 2005/04/11(Mon) 17:55 [Reply]
日本の神様が来られる時期は、夕暮れが多いそうです。祭りも本来は夜。
伊勢神宮では十月の神嘗祭や六月十二月の月次祭は夜の祭りで、十五〜十七日であり、旧暦の時代もそうだった。すなわち満月の頃、月が煌々と照るもので行われた。
   from 『日本の神々』上田正昭、鎌田純一

[6167] Re[6166][6165][6162]: 注連縄の地方による違い  神奈備 2005/04/11(Mon) 15:18 [Reply]

> 大甕神社や青山神社でも同じような注連縄ですから、たぶん地方色だと思いますよ。
どうやら、おっしゃる通りのようですね。
http://www.genbu.net/engi/hitati.htm
を見させて頂きましたが、小生の数少ない参詣三社のみがとりあえず同じとはこれいかに??


[6166] Re[6165][6162]: 注連縄の地方による違い  玄松子 2005/04/11(Mon) 08:45 [Reply]
> 飛鳥川などに張られる勧請縄の女綱に似ています。

大甕神社や青山神社でも同じような注連縄ですから、たぶん地方色だと思いますよ。
大甕神社 http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm
青山神社 http://kamnavi.jp/it/higasi/aoyama.htm


[6165] Re[6162]: 注連縄の地方による違い  神奈備 2005/04/11(Mon) 07:51 [Reply]
飛鳥川などに張られる勧請縄の女綱に似ています。
http://kamnavi.jp/as/asuka/usutaki.htm
泉神社も女神で水神のようで、何かのつながりがあるのかも知れません。

[6164] 参考までに  PONTA [Url] 2005/04/11(Mon) 00:14 [Reply]
>伴善雄が藤原氏に対抗する上で讃岐の佐伯氏を味方に取り込む

伴善男なら応天門の変、讃岐の佐伯氏なら空海の生い立ちを書いた本に載っていそうですね。日本史研究サイトの掲示板に書き込めば教えていただけると思いますよ。

>注連縄の地方による違

注連縄研究会の大友氏にメールで問い合わせたらいかがでしょうか。
また、同氏のサイトには超変わった注連縄の写真がずら〜り。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~auto/SIMENAWA.html#titl.html

[6163] Re[6162]: 注連縄の地方による違い  玄松子 2005/04/10(Sun) 23:08 [Reply]
> 2本の縄が太い端の方で、真ん中で結ばれている形状のものでした。
> (文による説明は難しいので、日立市の泉神社の写真をごらんください。)

検索しなくても、このサイトにありますね。泉神社。
http://kamnavi.jp/en/higasi/izumi.htm

[6162] 注連縄の地方による違い  佐藤 2005/04/10(Sun) 21:34 [Reply]
先週まで、茨城県日立市、大甕に出張していましたが、
近辺の神社にかかっている注連縄の形に特徴があることを散歩中に発見しました。
2本の縄が太い端の方で、真ん中で結ばれている形状のものでした。
(文による説明は難しいので、日立市の泉神社の写真をごらんください。)
注連縄をキーワードにして、ネット上で検索する限り、他の場所では、この形状のものは、見当たらないようですが、実際のところどうなんでしょう?
よろしくお願いします。

[6161] Re[6160][6158]: 讃岐の佐伯直について  あまのや [Mail] 2005/04/10(Sun) 17:11 [Reply]
> > 和歌山県立博物館
> > http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/
> > 研究紀要第十号(2003.10)特集 天野の歴史と芸能
>
> 先に特別展「天野の歴史と芸能」が開催されて、その展示物を中心にまとめた冊子ですね。小生は展示会場で買い求めました。犬をつれた狩場明神が空海と出会う有名な絵などが載っています。
>
残念ながら特別展には行けませんでした。今年は高野山・熊野が世界遺産に登録され
観光客が増えてるみたいですね。夏休みにはゆっくり見てまわろうと思ってます。

それと誤りを訂正。
伴善雄ではなく、ただしくは伴善男です。

失礼しました。

[6160] Re[6158]: 讃岐の佐伯直について  神奈備 2005/04/10(Sun) 10:23 [Reply]
> 和歌山県立博物館
> http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/
> 研究紀要第十号(2003.10)特集 天野の歴史と芸能

先に特別展「天野の歴史と芸能」が開催されて、その展示物を中心にまとめた冊子ですね。小生は展示会場で買い求めました。犬をつれた狩場明神が空海と出会う有名な絵などが載っています。

> 伴善雄が藤原氏に対抗する上で讃岐の佐伯氏を味方に取り込む為、大伴氏の末裔であると名乗る事を許した

この件は始めて聞いたので、小生には書名はわかりません。前に「なにがし」さんが、丹生氏、丹生都比売神社、高野山などを扱ったHPを発信されていましたが、彼はこの方面に詳しい方でしょうが、この掲示板をご覧頂いていましたら、サジェッションを頂けるかも知れません。


[6159] 宣伝かな?  PONTA [Url] 2005/04/09(Sat) 23:39 [Reply]
PONちゃんことKIMIKOです。
ブログ作りました。
近日中に会員サイトへ以降予定ですので、
興味ある方はお早めにどうぞ。

http://pontyan.blog7.fc2.com/

[6158] 讃岐の佐伯直について  あまのや [Mail] 2005/04/09(Sat) 16:46 [Reply]
いつも楽しく拝見させて頂いてます。
今回は二度目の書き込みになります。確か前回は粉河大工についてお伺いした様に
記憶しておりますが、その後和歌山県立博物館が発行されている研究紀要において
天野の特集があり、天野番匠の記載もありました。ご関心のある方は取り寄せられ
てはいかがかと存じます。

和歌山県立博物館
http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/
研究紀要第十号(2003.10)特集 天野の歴史と芸能

さて今回は、讃岐の佐伯直についてなのですが、以前なにかの本で伴善雄が藤原氏
に対抗する上で讃岐の佐伯氏を味方に取り込む為、大伴氏の末裔であると名乗る事
を許したといった記述がありました。残念ながら本のタイトルも著者名も覚えてい
ないのですが、どなたかこの事についてご存知ありませんでしょうか。

よろしくお願いします。

[6157] Re[6156][6155][6151][6149][6148]:饒速日山と哮峯  PONTA [Url] 2005/04/08(Fri) 00:20 [Reply]
> > (1本目と3本目はどこに落ちたのだろう?)
> 「三の矢の落ちたとされるのは東明寺、また一の矢の落ちた所は南1km付近で,現在は民家の物置。」

早速のレス、ありがとうございました。

[6156] Re[6155][6151][6149][6148]:饒速日山と哮峯  玄松子 2005/04/07(Thu) 22:47 [Reply]
> (1本目と3本目はどこに落ちたのだろう?)

http://www.kamnavi.net/mn/nara/yatakusi.htm
『神奈備にようこそ』より。
「三の矢の落ちたとされるのは東明寺、また一の矢の落ちた所は南1km付近で,現在は民家の物置。」

[6155] Re[6151][6149][6148]:饒速日山と哮峯  PONTA [Url] 2005/04/07(Thu) 22:10 [Reply]
>(「谷川健一著『白鳥伝説』上)の50〜52ページ」
>井戸の八つもある頂上、平べったい頂上??

ニギハヤヒは、天磐船の乗って天空から降臨されたのですが、谷川健一氏(『白鳥伝説』はいろいろありますね。小学館ライブラリー版、小学館文庫版、集英社版、集英社文庫版、谷川健一著作集(全10巻)版)によれば、「天の磐樟船の略で、磐はかたいという意味」(船は樟で造るので、神社の神木が樟の神社は海人族系?)であり、大和岩雄氏の言うように「物部氏は、難波から淀川・天の川と大和川を利用して生駒山系から大和に入ったようである」となります。
川を船で遡るのではなく、空から降りるなら、最も高い主峰の生駒山であって、北限の低い山には降りないと思いますが、頂上が平らでないと降りにくいのかもしれませんね。

>矢田丘陵の南

矢田丘陵の東麓に「矢田坐久志玉比古神社」(久志玉比古=ニギハヤヒ)があります。別名「矢落神社」。ニギハヤヒが、天磐船から3本の矢を放って、落ちたところに住むことにしたそうで、2本目がこの神社がある位置に落ちたそうです。(1本目と3本目はどこに落ちたのだろう?)今でも社殿を建て直すと、儀式として矢を放ちますが、そのルーツはこの話なのかもしれないと思いました。
天磐船は空飛ぶ船なので、今では飛行機の神として、神社にはプロペラも飾られているそうです。ちなみにその周辺は「迎いの山」と呼ばれているそうです。
http://homepage2.nifty.com/hatazoku/yata.htm

[6154] Re[6153][6152]: 石神神社に行ってきました。  ナーガ 2005/04/07(Thu) 20:47 [Reply]
迅速かつ丁寧なご返答誠にありがとうございます!
懐の中まで明るみにしていただいて恐縮です。

ご祭神が「十種神寶」とは珍しいですね。

地元の方は、いぼ神様の話をされ、敷地内の石を持ち帰って
いぼがあるところをさすり、もし消えたら、また石を返す
という慣わしがあるとお話いただきました。

いぼが消えたら返却するという場所にはたくさんの石があったので
治った方がたくさんいるのだろうなあ、と思いました。

また何かありましたら宜しくお願い致します。



[6153] Re[6152]: 石神神社に行ってきました。  神奈備 2005/04/07(Thu) 17:21 [Reply]
> 質問なのですが、なぜ神奈備様は石上神社や十種神寶ということを
> お分かりなのでしょうか。

 小生の商売道具をお知りになりたいと?

神社本庁( http://www.jinjahoncho.or.jp/ )発行の『平成祭りデータ』(平成7年)と云うCDがありまして、これは2万円とちと高いのですが、申し込めば送ってくれます。ただ、このCDについている検索や表示のプログラムは今や懐かしいNECのms-dosでした動かない代物ですが、楡山神社( http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ )の柳瀬宮司様と、玄松子の記憶( http://www.genbu.net/ の玄松子様がwindows上で稼働するように開発してくれまして、玄松子の記憶の平成祭データCD検索プログラム(  http://www.genblog.net/sairei/ )にダウンロード出来るように置いてくれています。
例えば石上神社についてですと、

石上神社(いしがみじんじゃ)
<通称>いぼ神さま(いぼじんさま)
831 福岡県大川市大字下牟田口119
旧筑後国 三瀦郡    大川三瀦支部 23091
【祭神】十種神寶
【例祭】12月10日 例祭
【まつり】
01 新暦 12月 10日 1日間 例祭 [通称]秋季例祭
とはいっています。祭りについてはより詳しいことが書かれています。由緒はこの神社は入っていませんでした。

例えば、
 媛社神社(ひめこそじんじゃ)

<通称>七夕神社(たなばたじんじゃ)
838-01 福岡県小郡市大崎1
旧筑後国 御原郡    三井支部 20044
【祭神】媛社神 織女神
【例祭】10月16日 例祭
【まつり】
01 新暦 1月 1日 1日間 元旦祭
02 新暦 7月 上旬 1日間 夏祈祷
03 新暦 8月 6日 1日間 夏祭
04 新暦 8月 7日 1日間 夏祭
05 新暦 10月 16日 1日間 例祭
06 新暦 12月 16日 1日間 注連上祭

由緒
七夕神社

正式名を媛社(ひめこそ)神社と称し、媛社(ひめこそ)神と織姫(おりひめ)神を祀った神社で、媛社神は別名を饒速日命(にぎはやひのみこと)といい、交通安全、織姫神は機織り(はたおり)にすぐれた技をもつ神と伝えられている。この神社は肥前国風土記に記載され、創建以来1200年以上で「星まつり」「乞功奠(きっこうてん)」の伝説が中国から伝わり、我国の「たなはたつめ」の信仰と結びつき、近くの宝満川を天の川になぞらえ、対岸の稲吉に牽牛社を祀り「七夕さま」として古くから学業成就、技芸上達、交通安全、子供の成長守護神として広く崇敬されている。
以上。

と出てきます。祭りはより詳しいことがあります。

で、神社名で全国の石上神社や府県の石上神社を抽出したり、また祭神で十種神寶として全国から神社を抽出したりできます。
大変重宝しています。

問題点としては間違いが若干混ざっていそうなこと、神社庁に加盟していない神社のデータはないこと、神社名までは分かっても祭神名など未記入のデータが多い兵庫県のような県もあることなどです。

[6152] 石神神社に行ってきました。  ナーガ 2005/04/07(Thu) 10:27 [Reply]
はじめまして。福岡県のナーガと申します。
教えていただきたいことがあります。

物部氏にゆかりある神社を探していたところ、神奈備様のサイトで
石上神社「十種神寶」(大川市)を拝見し早速行って参りました。

池の真ん中にある島に小さなお社があり、鳥居はなく、神社の名前を示す
ものも見当たりませんでした。地元の方に「いそのかみ神社」と聞くと
「いしがみさんのことやろ」とのことで恐らくそこだろうと分かりました。

質問なのですが、なぜ神奈備様は石上神社や十種神寶ということを
お分かりなのでしょうか。

「あそこでよかったのかなー」というもやもや感もあり、はっきり
理解した上でまた行きたいと思いますので、どうか宜しくお願い
いたします。


[6151] Re[6149][6148]:饒速日山と哮峯  神奈備 2005/04/07(Thu) 08:47 [Reply]
生駒かんなびサイトから
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/

生駒山北嶺上の巨石遺構
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan/sub7.html#12

小生は未だこの巨石↑を発見できていず、従って饒速日山の有力な候補地を見ていないので実際どこかとはよく分かりません。

谷川健一著『白鳥伝説』上)の50〜52ページあたりに、勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』から引用された饒速日山についての話が載っています。
−それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。−
などと書かれています。井戸の八つもある頂上、平べったい頂上??、どうにも確認しにくい所です。

饒速日尊が降臨したと云う哮峯(たけるがみね、いかるがみね)とはどこかと云う問題もあります。
先の饒速日山とは、『住吉大社神代記』(膽駒神南備山本記)に記載の饒速日山であって、単純にイコール哮峯としていいのかどうかです。饒速日山は頂上が平べったい飯盛山的なイメージ、一方、哮峯は神の降臨の山で、カイラース山のようなよりとんがったイメージと思っています。
 で、哮峯ですが、おっしゃるように
1.磐船神社(大阪府南河内郡河南町平石)
2.磐船神社(大阪府交野市私市)
が語られていますが、(1)の付近には古代遺跡も出土していないようで、物部とは関係がないと見られています。(2)は交野物部の祀る祖神の降臨した峯と思われます。他に当麻物部は二上山を哮峯としていたようです。また法隆寺の近くの物部は哮峯をいかるがみねと読み、矢田丘陵の南をそうしていたようです。要は各物部にひとつづつ哮峯があったと。
 蘇我との戦いに敗れた物部本家は高安山だったと思います。



[6150] 熱田(蓬莱)  PONTA 2005/04/06(Wed) 23:12 [Reply]
「熱田」は蓬莱島だとされ、「蓬莱」とも呼ばれています。
たとえば、名古屋城の別名「蓬左城」は「蓬莱島の左脇にある城」の意味です。

>楊貴妃は熱田明神である、

これはPONTA説では「伊勢神宮への対抗意識」としています。元寇のときに伊勢神宮(風日祈宮)が神風を吹かせて日本を救ったが、熱田大神は、唐が日本を攻めようとした時に楊貴妃になって日本を救ったというものです。

>川柳

玄宗は尾張詞にたらされる
日本を攻めなさるなと貴妃はいひ

http://homepage1.nifty.com/uni-hp/atsutakko/kyoudosi/hourai/hourai.html

[6149] Re[6148]: またまた有難うございました  PONTA [Url] 2005/04/06(Wed) 21:25 [Reply]
> 饒速日山
ニギハヤヒが降臨した場所は記紀には書かれていません。
『先代旧事本紀』には「天磐船に乗りて河内の国の河上哮峯に天降り」とあります。
「哮峯」について、学説は2つに分かれています。
1.磐船神社(大阪府南河内郡河南町平石)
2.磐船神社(大阪府交野市私市)
http://www.threeweb.ad.jp/~iw082125/
です。
1.河南町は旧石川郡。つまり、蘇我氏の本拠地で、そこにニギハヤヒ(物部氏の祖)が降臨するとは?(蘇我氏と物部氏は犬猿の仲ではなく、実は仲がよくて、蘇我氏の経済基盤は物部氏だとする説有り。)
2.天の川(現天野川)の上流。「交野」は、肩野物部氏の本拠地で交通の要地。

> さっそくHPのアラハバキ神のページのぞかせてもらいました。三河にもシャグチ神の信仰があったのですね。

信濃から飽海河(「安曇氏の川」の意味。現豊川)を下ってきたのかしら。
三河のシャグチ神は、
http://www.kamnavi.net/jm/mishaguti.htm
にリストアップされていますよ。

[6148] またまた有難うございました  西塔 [Url] 2005/04/06(Wed) 12:47 [Reply]
PONTA様の饒速日山についてのレス、私へのものだったのですね。根が鈍感なもので失礼しました。
さっそくHPのアラハバキ神のページのぞかせてもらいました。三河にもシャグチ神の信仰があったのですね。

連続の投稿 お許しください。

[6147] ありがとうございました  西塔 [Url] 2005/04/06(Wed) 12:16 [Reply]
神奈備様 さっそくの解説有難うございました。
私の出身は北海道の夕張で、生まれた大夕張がダムで沈むということを聞き、最後のお別れに夕張に行ったとき、大きな鳥居が目に付きました。後で石切剣箭神社が夕張に勧請されているということを知りましたが、あの鳥居がそうだったのでしょう。
HPいつも参考にさせてもらっています。これからも、よろしくお願いします。

[6146] Re[6142][6145]: 茶の香り〜♪  玉壷庵 [Mail] [Url] 2005/04/06(Wed) 09:18 [Reply]
> 玉壷庵さん、こんばんは。玉壷庵の名のゆわれは一体何でしょうか。

門外漢がこの掲示板にカキコをいたしました。非礼お許しください。
「玉壷庵」はPONTAさんのご指摘の、王昌齢「芙蓉楼にて辛漸を送る」の結句、「一片の氷心玉壷に在り」から借用し、自身のHPのタイトルも「氷心玉壷」といたしました。

>  金札宮、ご指摘の神社は昭文社の地図には載っているようですが、その存在は知りませんでした。謡曲に縁のある神社のようですね。
> で、金札宮どのような由緒があるんでしょう。

金札宮は伏見区を歩いており偶然発見しました。私のHPの中で謡曲の史跡を訪ねる、いわゆる「謡蹟めぐり」をやっております。「金札」という謡曲がありさっそく取り上げました。由緒は下記に転載しています。またこれもPONTAさんのご指摘にもございました。
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Nohpage/Nohfurusato/Furu05Kinsatu/NohFuru05.html

>  これからもよろしくお願いいたします。

当方こそよろしくお願いします。実は古川柳に詠まれた謡曲を調べておりますが、「楊貴妃」を調査している際、楊貴妃は熱田明神である、という伝承にたどりつきました。神社であればこのサイトと、神奈備掲示板の過去ログを検索「伊勢と熊野の海」なる書の存在を知りました。私のHP上ではその旨申し述べておりますが、この掲示板(もしくは青草)への謝辞のカキコが躊躇されmailでのみお礼申し上げました。
謡曲と神社は結構縁が深く、折に触れこのサイトを活用させていただいています。何分よろしくお願いします。

[6145] 横レス失礼  PONTA [Url] 2005/04/06(Wed) 06:15 [Reply]
>玉壷
鮑照「清らかなること玉壷の氷の如し」
王昌齢「一片の氷心 玉壷に在り」
かしら。

>金札宮
天平勝宝2(750)年創建。清和天皇が天太主命の化身である白菊翁の名を金札に記し奉納したといわれる。古くは伏見久米村の産土神で、その縁起は、観阿弥作の謡曲「金札」に描かれているが、日照りで稲が枯れかけたとき、白菊の翁が白菊の露を注ぐと、そこから清水が湧き、その白菊井がこの神社の由来ともいわれる。拝殿前に、樹齢千年を越すというモチノキがある。白菊の翁が姿を変えたといわれる「白菊石」は御香宮の境内に祀られている。

>能発祥の地
面塚(観世能楽発祥の地)
http://www.town.kawanishi.nara.jp/old_new/menzuka.html
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/itoi-shrine03.htm

>饒速日山
磐船神社のホームページ(http://www.threeweb.ad.jp/~iw082125/index-j.html)の「由緒」のページに「住吉大社と当社の関係は意外と深く、「住吉大社神代記」という古典には、「膽駒神南備山(いこまかんなびやま)本記 四至(中略)北限饒速日山」として、当社(=饒速日山)を、住吉大社の所領であるかあるいは住吉大神と縁の深い「生駒山」北の境界として、記していることは興味深いものがあります」とあります。「当社(=饒速日山)」とありますから、饒速日山=磐船神社ではないでしょうか。メールアドレスも載っていますから、お聞ききになられたらいかがでしょうか
http://inoues.net/club/nigihayahi.html
http://www.kamnavi.net/mn/osaka/nigiyama.htm
http://www.geocities.jp/iko_kan2/kusakayama.html
http://www.geocities.jp/iko_kan2/ikoma-hokurei-map.html

[6144] Re[6143]: 石切剣箭神社宮山  神奈備 2005/04/05(Tue) 22:01 [Reply]
上の宮の元社です。世に言う饒速日山でもないように思いますが、饒速日山については未だ確認できていません。

参考の為に神奈備掲示板ログ[4758] 再掲いたします。

石切神社の上之宮の元社に行き着く事が出来ました。宮山と云い、生駒山登山コースの辻子谷の途中に宮山600mとの看板を認識しました。通る度に見ているのですが、それは上之宮の元社とは思わなかったのでした。
 宮山の祠は山の中腹にあり、少し登ると山の鞍部に出、尾根伝いに生駒山へ登れました。あまり良い道ではなく、昨年末に予喜山に南側から登ったのですが、それよりは遥かにいい道と思い、気楽に登れました。登り60分、降り30分、生駒山は健康法です。

[6143] 石切剣箭神社宮山  西塔 [Url] 2005/04/05(Tue) 20:37 [Reply]
はじめまして。
挨拶もそこそこに質問で恐縮なのですが、神奈備さんのHPの「神奈備の神社名鑑」の石切剣箭神社にある、写真の宮山の祠、社伝にある宮山は、上の宮あるいは饒速日山とは別の場所なのでしょうか。
もし、別の場所とすると、それがどのあたりなのか教えてもらえないでしょうか。

[6142] Re[6140][6138]: 茶の香り〜♪  神奈備 2005/04/05(Tue) 19:55 [Reply]
玉壷庵さん、こんばんは。玉壷庵の名のゆわれは一体何でしょうか。
貴HPのテーマ(謡曲、漢詩、郵便、年賀)と幅広いのですが、どうもお茶の香りが漂いますね。風流と云う共通項でしょうか。

 金札宮、ご指摘の神社は昭文社の地図には載っているようですが、その存在は知りませんでした。謡曲に縁のある神社のようですね。
で、金札宮どのような由緒があるんでしょう。

 以前に能の発祥の地を調べていた事があるんですが、春日大明神が鳥居の所で舞を舞うのは興福寺をスポンサーにした世阿弥だったかの法相の教えを広める云々との記憶がありますが、その時謡曲は作詞されたのは中世であっても、それからの改変は受けていないようで、へたな神社の由緒よりは古風を伝えている可能性があると気付き、興味を持ってみていました。

 これからもよろしくお願いいたします。

[6141] 無題  ともたか 2005/04/05(Tue) 10:40 [Reply]
教えていただいてありがとうございました。幼稚な質問、日本語で失礼しました。

[6140] Re[6138]: 白菊稲荷、白菊大明神について  玉壷庵 [Mail] [Url] 2005/04/05(Tue) 09:33 [Reply]
この分野については全くの素人ですので、的を得ているかどうか…?。

> 教えていただけませんでしょうか?

京都市伏見区鷹匠町にある金札宮の祭神は天太玉命ですが、白菊大明神と呼ばれているようです。同社の由緒書に白菊大明神のいわれについて述べられています。
ご質問の意にかなっておればよろしいのですが。

[6139] Re[6138]: 白菊稲荷、白菊大明神について  神奈備 2005/04/04(Mon) 19:56 [Reply]
> 教えていただけませんでしょうか?

 何を教えてほしいのですかとか、幼稚な日本語ですとかは云いません。

伏見稲荷大社に白菊稲荷があります。ここからの勧請社を白菊稲荷と称する場合があるのでしょう。
それ以外に、白い菊を奉納してあげると御利益があるとか、白菊と云うおいらんが深く信仰したとか、稲荷の名前はいろいろですね。

 会社などの○○ビルの屋上や●●工場の前庭などにお稲荷さんが祀られることが多いのですが、何らかの事情(閉鎖、倒産)で近隣の神社が引き取る場合があります。それを境内の隅に○○稲荷などとしてお祭りする場合もあるようです。

[6138] 白菊稲荷、白菊大明神について  ともたか 2005/04/04(Mon) 18:02 [Reply]
教えていただけませんでしょうか?
よろしくお願いします。

[6137] Re[6136]:[6123] 3は聖数?  PONTA [Url] 2005/04/03(Sun) 18:42 [Reply]
>  3を聖数としたのは海人族で、三貴子に似た神々の誕生や支配地の話は南方にあるようです。

なるほど。海人族ですか。
修験道というのは、いろんな考えや宗教が入り混じってる感じで、難しいですね。前に読んだ本では、3を聖数とするのは、儒教の影響(儒教では3は陽の聖数)と書かれていたと思います。修験道の場合は、答えが複数あるのでしょうね。


さて、昨日、PONTAでは「東照宮は熊野三山だ」という説を発表しました。(PONTA以外でもこの説を唱えている方がおられましたら、ご紹介ください。)タイトルだけだと「そんなばかな」って感じでしょうけど、調べれば調べるほど関連が見つかります。

東照宮と言えば、天海ですね。天海は山王神道を発展させて山王一実神道を作った人です。(天海は「山王一実神道」という言葉を考え出しただけで、その考え方自体はもっと以前からあったとする説もあります。)「山」は縦三本線を横線がつなぎ、「王」は横三本線を縦棒がつなぐわけで、これは天台宗の「三諦一実」という考えを表したものだそうです。つまり、3が聖数というより、3つで1セットであって、日ユ同祖論者は、父と子と聖霊のことだとしているそうです。

山王神道は「山王三聖」(釈迦(大比叡神=大三輪明神)・薬師如来(大山咋命)・阿弥陀如来(八幡神))を日本における全ての神の根源と考える神道で、釈迦を世界の中心に置きますが、天海の唱えた山王一実神道では薬師如来(=徳川家康?)を中心におくのだそうです。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm

[6136] Re:[6123] 3は聖数?  神奈備 2005/04/03(Sun) 16:56 [Reply]
 日本神話に出てくる三柱がセットになっている神々の登場の仕方は海がからんでいます。
 例えば、住吉三神、綿津見三神は伊弉諾尊が水中での祓えを行った時です。また三貴子もそうです。また、猿田彦は比良夫貝に手をかまれた時、底どく御魂、つぶ立つ御魂、咲く御魂となっています。

 海の女神である宗像三神は天照大神と素盞嗚尊とのウケヒで五男神とともに生じるのですが、「五」は物部氏などの大陸的な雰囲気がありそうです。騎馬民族かも。
 さて、伊太祁曽神社の祭神の五十猛命、大屋津姫、抓津比売の三兄妹ですが、現在でも浮宝(舟)の神ですし、紀伊三所神という伊達神社、静火神社、志摩神社は住吉大社の摂社になっている船玉神社を元社とするようです。

 3を聖数としたのは海人族で、三貴子に似た神々の誕生や支配地の話は南方にあるようです。

[6135] Re[6134]: 月待ち  かたばみ [Mail] [Url] 2005/04/01(Fri) 21:32 [Reply]

≫月神はまた潮汐をおこすことでは漁猟の守り神であったのかも。

そう思います、月読神の呼称は「沿岸の海人」の潮汐を読むところからだろうなあ。
書紀1書伊弉諾尊の「月読尊は滄海原の潮の八百重を治すべし」ですね。
海幸山幸の潮満玉(潮干玉)とは満月のことかも。

しかし、伊弉諾伊弉冉神を縄文末期の事象とみるなら狩猟神がいないのは不自然です。
陸の月弓(三日月)と海の月読(満月?)が混ざっていったのではないでしょうか。
漁労と狩猟、獲物を獲る暮らしに変わりはないですし。

山幸の神が月弓、海幸の神が月読だった。
しかし、ある時代に食糧のメインが陸の民の「農耕」に移りはじめ、主権は海から陸へ傾いていった。
それが「本来は海幸が持つはずの潮満玉」を山幸が所持して海幸を従える話になっているのだと考えています。
(文化の変化と異なる氏族の接触が複雑に入り混じることになります)

明確な農耕神が登場(渡来)していた北九州では月弓神も月読神もどちらも消えていったが、南九州では月神が農耕も兼ねてこれが隼人の月神信仰として残った。
釣り針伝説などにはインドネシアあたりの伝承が運ばれていると思いますが、記紀編纂者はそれらを列島での事象に合わせてコーディネートしているのではないでしょうか。
だとすると古代文学賞の有力候補であります(^^)


≫> (海人の行動によって運ばれている可能性大)
≫そうでしょうね。安曇海人かな

氏族名として最古に遡るのが安曇氏だと考えています。
このあたりは裏青草の住吉三神及び饒速日尊にからんで若干を後日に。


[6134] Re: 月待ち  神奈備 2005/03/31(Thu) 08:22 [Reply]
>  影向・・・と言えば、綴喜郡田辺町大住郷に月読神社。その南に神奈備である『甘南備山』と甘南備神社。さらにその甘南備山の北東麓の薪村(タキギムラ)に、薪神社があって、その境内に『月読神の影向石』があるそうです。

恋川亭さん、ありがとうございます。この前大住の月読神社へ参詣した時に読んだ記憶がよみがえりました。月黄泉神かも。
で、早速、甘南備山へ登拝、神奈備神社へ参詣してきました。当HPの守護神のような神様、発足以来X年、やっとお参りできました。
薪神社にある影向石、説明書きがなかったのですが、それらしく祭られていた石の写真は、写真掲示板に載せましたのでご覧下さい。『日本の神々5』と同じものかどうか・・・

> 持論(^^;
> もともと月読神は月弓であり狩猟系の神だったゆえに保食神(穀物神)を殺害するといった伝承があると考えています。

 何故、月読神が保食神を殺したのか、小生も考えていたのですが、答えは恐らくかたばみさんのおっしゃる通りだと思います。
 狩猟、山幸彦、かれは湯津香木に依りつきますが、月神の変化と見ていいのかも知れません。月神はまた潮汐をおこすことでは漁猟の守り神であったのかも。
 保食神ではなく、『古事記』では、穀神の大宣津比売を殺すの役割は素盞嗚尊、この神もまた田圃への攻撃など、反耕作の要素があります。また御子神の五十猛命は浮宝の神すなわち漁船の守護神で、農耕以前の神格を持っていたのでしょう。

 京都の嵐山の南に葛野坐月読神社が鎮座、これは壱岐からの勧請と伝わります。南九州と壱岐、これをつなぐキイワードが値嘉島(五島列島)なのかも知れません。朝鮮半島からの持ち込みの可能性もあるのでしょうが、対馬にはどうやら月読神は祭られていない(『平成データ』にない)ようで、南回りの神かも知れません。

> (海人の行動によって運ばれている可能性大)
そうでしょうね。安曇海人かな。

[6133] Re[6130]: 月待ち  かたばみ [Mail] [Url] 2005/03/30(Wed) 20:59 [Reply]

≫祭神が月の垂迹、月の影向であらわれたとの由緒を持つ神社をご存じでしたら

神仏習合での月神は知りませんが、日本古代文化の探求/隼人/大林太良編に隼人の月神信仰が書かれており、これが月読神社の母体になったと思われるとあります。
現在の京都府京田辺市大住池平の月読神社(月讀神社)のことだろうと思います。
(恋川亭さんの書かれてる田辺町大住郷の月読神社と同じと思います)

大隅半島や薩摩半島では「お月さんの綱」をない、「綱で輪を作って木の上にかける」や綱引きをおこない、月の出を待って相撲のように四股を踏む所作の行事などがあるそうです。
多くは八月の十五夜に行われ、子供達がカヤ(茅)の束を頭から被って踊ったり、薩南諸島では秋田のナマハゲに似た仮面を使う踊りもあるそうです。

薩摩半島ではこの神をオツットドン(お月殿とある)と呼んで牛や稲作につながり、大隅半島では蛇、粟、芋とつながるそうです。

綱引き行事に絞るなら、南九州と佐賀、長崎(壱岐)では八月ないし盆に行うことで共通し、小正月に行う別系と見える綱引きが熊本−大分−四国と九州を横断する形で分布するそうです。

持論(^^;
もともと月読神は月弓であり狩猟系の神だったゆえに保食神(穀物神)を殺害するといった伝承があると考えています。
九州南部は狩猟+焼畑の濃厚な地域ですから、比重が狩猟から農耕に移ったとき、月神が農耕神的に変化してもおかしくないだろうとも考えています。
ただし、大年神や大気都比賣神のごとき農耕の神が登場しない限りは、です。

肥前風土記の値嘉島(五島列島)の「容貌が隼人に似ており騎射を好む」の記述も、古代九州の南北での共通性に関連するものと思っています。
(海人の行動によって運ばれている可能性大)



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