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[6347] Re[6344][6342]: 中公新書版の伊勢神宮4  神奈備 2005/05/30(Mon) 18:14 [Reply]
恋川亭さんのご苦労に深謝。
若干の弁護を。

> 恋川亭疑問C
神功皇后=息長帯姫は架空の皇后ゆえ、応神天皇(が実在したとしても)をして息長氏系とは言えない。

> 恋川亭疑問F
ごもっとも。石上の宮をおいた最初の天皇が祀った祖先の廟として、で差し支えはないですね。

> 恋川亭疑問12
『三国史記』は記紀とは独立して成立とされているから。

>恋川亭疑問13
息長氏に伝わる女傑の物語があった。

息長氏を渡来氏族とする説は、言わば、大抵の古代氏族を渡来系としても古代史が成り立つように説明できそうだから、それはそれで一つの想いかも。

 石上神宮と称されていたのに、石上坐布都御魂神社と変貌していったその経緯は要解明。

[6346] Re[6344]: 中公新書版の伊勢神宮5  恋川亭 2005/05/30(Mon) 15:57 [Reply]
千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』
私からの引用・要約はこれがラストです。
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・「斉明天皇の大工事」の段落(75頁)
 斉明天皇が香具山の西と石上山を結んだ運河「狂心の渠」の大工事について、
『私は舒明から続く息長氏の血統が斉明女帝によってより強く意識され、遠祖をまつる石上の地から石を飛鳥に運ぶことによって飛鳥に石上の遠祖の霊を導こうとしたと考える。』
と独自の推測を表明しています。そしてその推測を傍証させるのは、この運河によって運ばれた石が天理砂岩で、天理市の豊田・石上から採れたものという岩石学の結論が得られたことによっています。
 しかし、斉明天皇が石上の遠祖を飛鳥に魂移しして祭祀を行ったという伝承があるのでしょうか?あるいは、大工事以前に石上へ御幸して、遠祖を祀ったという伝承があるのでしょうか?石材の採掘・搬送工事の件のみで、祭祀の移動説を補強できるのでしょうか???
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・「「神宮」から「神社」へ―石上神宮の場合」の段落(76頁)
 日本書紀に石上神宮とある表記が、延喜式(石上坐布都御魂神)、続日本紀(石上神)、日本後紀(石上社)とあるのを挙げて、桓武朝には石上神宮というよび方がうすれて、平安時代には神宮とは伊勢神宮のみを指すようになったと説明。そして、天武二年ころに斎王の制度が整えられたことと、天武三年に忍壁皇子に石上神宮の神宝を磨かせて神庫の宝物を諸氏に返還させたことを理由にして、
『天武朝の初頭に伊勢神宮が制度的に整備されたと思われる』と主張されています。

 斎王制の確立が伊勢神宮の整備の裏付けになることは理解できます。しかし、石上神宮の神宝返還が伊勢神宮の整備の裏付けになるとするのは、もっと説明が必要ではないのでしょうか?
 また、この主張に至る前には、忍壁皇子を石上神宮の神宝を磨かせに派遣した理由を、石上神宮と息長氏とのつながりがあった為としています。その説明を、『研究者の間でその解釈が一定していないが』と前置きしながら、
「オサカベ」は息長氏に関係する人物の領有民のことで、『忍壁皇子はオサカベ氏によって養育されたためにそのような名をもつと推定される』としています。
 つまり、息長氏の部民=オサカベ=忍壁を前提とされています。
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・「古代朝鮮の神宮」(77頁)
 朝鮮の史書『三国史記』の中にある新羅の宗廟祭祀の記事を紹介し、
『まずこの記事から、神宮は先に本書でみてきたように宗廟の意味であることを確かめることができる』と主張されています。
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・「七支刀の暗示するもの」(78頁)
 『石上神宮の問題になお十分な検討を加えなければならない』
として、七支刀を切り口として日本書紀に神功皇后紀が創作・挿入された経緯の推測を展開されています。結果、
 『その意図とは(中略)、息長氏の遠祖伝承と朝鮮半島と倭をめぐる地政学的伝承を神功皇后紀に物語として凝縮しようとしたのではないか』とし、
 『私は現在石上神宮に所蔵されている七支刀が神功皇后紀において語られるのは、石上神宮が大王家の宗廟であったことを暗示するとみたい。』と結論づけておられます。
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 しかし、その次の段落(81頁)では、用明紀に伊勢神宮が皇祖神まつる廟として位置づけられた可能性を指摘したあとで、
 『その場合、石上神宮はあくまでも、天皇家の外戚としての息長氏の廟であったと理解したい』と記述されています。
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 以上、千田稔・著:中公新書版『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』の中で論述されている「石上神宮関連」の部分のみ要約してみました。私の要約や疑問が「恣意的」になることに気をつけたく思い、はじめの2段落については千田氏の記述を全面的に引用しました。
 冗長になり過ぎたこと、お詫び申し上げます。m(__)m

さて、ここからですね・・・。この書の批評???

[6344] Re[6342]: 中公新書版の伊勢神宮4  恋川亭 2005/05/30(Mon) 06:51 [Reply]
千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』より抜粋

「第二章 中国思想と神宮」72頁「神功皇后伝承と息長氏」の段落の要約と疑問点
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神功皇后紀についての説明:
『日本書紀に例外的な巻として神功皇后紀がある』
千田氏の意見:
『神功皇后の存在はフィクション的な可能性が大きい』

千田氏の意見・持論?:
『ただし、記事の内容については、朝鮮半島の古代に関する歴史書『三国史記』(1145年成立)の記事と符号する部分があり、史料的価値がないとしてしりぞけることはできない。』

―ここの部分を書きかえると、
<神功皇后は虚構であっても記事の内容には史料的価値がる。その理由は三国史記と符号する部分があるから。>となるでしょうか。
 【記紀との成立年代を比較してさえ疑問点があるが、史料としては記紀以上に取扱いに注意が必要な三国史記を無批判に持ち出す理由は?】・・・恋川亭疑問12

説明:
『虚構性の高い神功皇后につなげられる系譜が古事記に書かれている』
『神功皇后の和風の名前をオキナガタラシヒメノミコトという』

千田氏の推測:
『息長氏によって伝承的人物に仕立てあげられたと思われる』

千田氏の主張?:
『しかし仕立てあげられたとしても、まったくの虚構ではありえないとみるのが私の立場』

千田氏の推測:
『日本書紀は共編という形をとっているから、ある一定基準をもった伝承であり、創作されたようなものではないはず』

―結局、神功皇后について、フィクション・虚構・仕立て上げ等と書いてきたが、『伝承』であって創作ではないとしています。
「息長氏によって仕立てあげられた」しかし「一人の人物によって編まれたのではなく共編」だから「ある一定基準をもった伝承」ということですが、なんかチョット苦しいですね。つまり、ここまでの記述は、<虚構的な神功皇后であるが、その伝承には息長氏が密接な関係を持っている>ということの説明。

 【神功皇后と息長氏のつながりについて、もっと自然な説明はないのか?】・・・恋川亭疑問13
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系譜の記事の説明:
『古事記ではアメノヒボコが但馬に留まってその地の女性をめとって子孫をつくり、その後裔にオキナガタラシヒメが位置づけられている。』

千田氏の持論?:
『先に述べたようにアメノヒボコ伝承は新羅の王子の個人的な渡来を語ったものではなく、朝鮮半島からの渡来集団を象徴的に語ったものである。』

千田氏の意見:
『だからアメノヒボコが但馬の女性をめとるという系譜伝承そのものは、系譜的な意味をもたない』
千田氏の意見:
『それは作為的であることは容易に読みとれる』

千田氏の推測(*):
『しかしながらアメノヒボコとオキナガタラシヒメとが系譜伝承で連なるというのは、何か意味があるのではないか』

推測の理由(*):
『神功皇后がなぜアメノヒボコの子孫として語られねばならないのかという問題は、無視するわけにはいかないからである』
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―ここまでをチョット整理:
  アメノヒボコ伝承は渡来集団を象徴的に語ったもの
    ↓
  但馬の女性との系譜伝承は作為的であり系譜的な意味はない
    ↓
  しかし、アメノヒボコとオキナガタラシヒメとが
  系譜伝承で連なる(ことだけは)何か意味がある・・・(笑)
    ↓
  神功皇后がアメノヒボコの子孫として語られるのは重要
    ↓
千田氏の仮説(B):
『私が思いつく仮設は、息長氏は渡来系氏族であるということ』

―千田氏の持論はともかくとして、系譜伝承を製作した理由を推測したほうがもっと自然に誘導できたのではないか?『息長氏は渡来系氏族』という仮説がまずありきで、説明が苦しい。「作為的」である例や「容易に読みとれる」ことについて全くふれなくて、但馬との切り離しをおこなっている。
 【ここで但馬から引き離そうとするのは、次の香春を見越してのことなのか?】・・・恋川亭疑問14
 【息長氏はアメノヒボコの系譜なのか?】・・・恋川亭疑問15
 【息長氏の日子坐王の系譜はどうなのか?】・・・恋川亭疑問16
 【息長氏がアメノヒボコの系譜に連なるのは、清彦の孫・葛城高額比売命(神功皇后の母)からではないのか?】・・・恋川亭疑問17
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千田氏の証明:
『実は息長氏が渡来系氏族であることは、福岡県田川郡香春町にある香春神社の祭神三神のうちの一つに辛国息長大姫大目命という名の神があることからも明らかである。』

証明の解説:
『その名によるならば「辛国息長」の「辛国」は朝鮮半島全体かそれとも南端部の加羅(伽耶)地方のことである。』

千田氏の定義?:
『「辛国息長」という名から、おそらく息長氏が渡来系であるとみてよいであろう。』

―ここを整理すると、
  辛国息長大姫大目命という名の神がいる
    ↓
  辛国息長の辛国は半島の地名である
    ↓
  「辛国息長」という神名があるので「息長」氏は渡来系
という理論が、千田氏による『息長氏は渡来系氏族』の証明。
へ?たったこれだけ???(拍子抜け〜)
 【息長氏と香春神社または辛国息長大姫大目命との関係は?】・・・恋川亭疑問18
 【アメノヒボコと香春神社または辛国息長大姫大目命との関係は?】・・・恋川亭疑問19
 【息長氏が渡来系であるという他の資料はないのか?】・・・恋川亭疑問20
 【香春の辛国息長の辛国の意味は、半島の地理のみなのか?】・・・恋川亭疑問21
 【香春の辛国息長の息長は、息長氏の息長なのか?『おそらく』って?】・・・恋川亭疑問22
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『息長氏と石上神宮の関係、さらにアメノヒボコと石上神宮とのつながりを探ろうとする前提について述べてきたが、』
―今までの記述は『前提』であったそうな。
『それはさらに『日本書紀』垂仁天皇八十八年条の次のようなくだりをとりあげるためである。』
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―ここは有名なくだりですな。(私は暗殺未遂事件と思うのだが)
千田氏による引用:
『アメノヒボコの曾孫清彦という人物がアメノヒボコがもたらした宝物を天皇に献上したが、出石という名の小刀だけ差し出さないで袍のなかに隠していた。』
『しかし、酒をすすめられたさいにそれが袍のなかからあらわれてしまった。』
『清彦はもはや隠すことができないとさとり、天皇に献上して神府に納めた。』

千田氏の指摘:
『この神府が、石上神宮の倉庫を指すことは、記事の前後関係の文脈から察することができる。』

―これは、そうですね。垂仁天皇の条ですからね。納得。しかし・・・・、
 【アメノヒボコの但馬系譜は作為的で意味を持たないはずなのに、ここで曾孫清彦の伝承がなぜ取り上げられるのか?】・・・恋川亭疑問23
 【石上神宮は安康天皇が創祀した允恭天皇の廟という仮説だったのに、なぜ垂仁天皇の条で清彦事件に関わってくるのか?】・・・恋川亭疑問24
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千田氏の結論(C):
『以上のことから、アメノヒボコ―息長氏―石上神宮の結びつきが確かめられた。』

―頭の悪い私には、何回繰り返し読み直しても、『え?へ?え??へ??』しか出てこないのですが・・・。
 【アメノヒボコ・息長氏・石上神宮のそれぞれに、いろいろとある他の伝承を伏せて、自説に都合のよいパーツだけピックアップし結論を構成していないか???】・・・恋川亭疑問25
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 歴史も地理もロクに勉強していないド素人の伝奇屋風情が、大先生の著作に疑問を差し挟むのは失礼千万。おそれいります。アホな虫けらにも3分の疑問、ということでご勘弁下さい。<(__)>

[6342] Re[6341]: 中公新書版の伊勢神宮3  恋川亭 2005/05/30(Mon) 04:34 [Reply]
千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』より抜粋した、
「石上神宮と息長氏」の段落の要約と疑問点です。
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千田氏の定義:
『飛鳥に王権の拠点をもつ舒明・皇極(斉明)・天智・天武・持統・文武を、千田氏は水の王朝となづける。』

千田氏の前提:
『この一連の天皇は、押坂彦人大兄皇子を介して息長氏の系統である。』
『さらに允恭天皇も息長氏出身の忍坂大中姫命を皇后としている。その皇子は安康天皇として次代を継ぐ。』
『「忍坂」は、大和における息長氏の拠点であった。』
『安康天皇が石上穴穂宮に宮を定めるまで、石上の地に宮が営まれた前例はない。』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
千田氏の推測(1):
『石上の場所が息長氏系の皇統にとって由緒があった。』
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推測(1)の検証:

日本書紀の垂仁天皇三十九年の条・別伝:
『イニシキノミコトが茅渟の河上にいて、河上という名の鍛冶に一千口の大刀をつくらせ、それを忍坂邑に納めたが、後に忍坂から石上神宮に収蔵した。』

千田氏の推測(2):
『一千口の大刀が忍坂から石上神宮に移されたというのは、かなり大きな変化をともなう出来事があったはずである。』

日本書紀の記事:
『その出来事の年代について手がかりになるものを示してはいない。』

千田氏の推測(3):
『私はこのときに石上神宮の祭祀がはじまったのではないかと考えてみたい。』(このときとは、垂仁天皇三十九年)
 【つまりここで千田氏のいう『かなり大きな変化をともなう出来事』というのは、『石上神宮の祭祀がはじまった』ことと読んでいいのか?】・・・恋川亭疑問@
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千田氏の仮定(採用):
『先にみたように神宮が遠祖をまつる廟であるならば、』

千田氏の推測(4):
『石上穴穂宮を宮とした安康天皇が父の允恭天皇をまつったのは石上神宮で、』

千田氏の推測(5):
『忍坂から石上神宮に一千口の剣が運ばれたという象徴的な表現をもってこの時点のことが『日本書紀』に書かれたのではないだろうか。』
 【つまりここで千田氏は『安康天皇が允恭天皇をまつったことを、垂仁天皇の時代の出来事で象徴させた』と言いたいのだろうか?】・・・恋川亭疑問A
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千田氏の仮説(A):
『つまり、息長氏の系譜に連なる最初の天皇の廟として石上神宮が創設されたというのが私の仮説である。』
 【垂仁天皇やイニシキノミコトの息長氏との関係は?】・・・恋川亭疑問B
 【『息長氏の系譜に連なる最初の天皇』は、神功皇后を母とする応神天皇ではないのか?(それなら八幡さまじゃん!)】・・・恋川亭疑問C
 【允恭天皇は忍坂大中姫命を皇后としたが、息長氏系といえるのか?】・・・恋川亭疑問D
 【忍坂大中姫命は(応神天皇の孫でもあるが)、「忍坂」の名前以外に息長氏の系統を傍証できないのか?】・・・恋川亭疑問E
 【仮に安康天皇の母・忍坂大中姫命を息長氏系としても、『息長氏の系譜に連なる最初の天皇の廟として』ならば、允恭天皇より安康天皇自身にならないのか?】・・・恋川亭疑問F

千田氏の主張:
『もしそのような経緯があったとすれば、伊勢神宮の創祀は石上神宮よりも後のことであることは考えうることである。』
 【そのことは、記紀記載の石上神宮の創祀伝承で、すでに明確ではないのか?】・・・恋川亭疑問G
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千田氏の仮説に対する疑念の想定:
『息長氏が石上神宮とつながるということに疑念をもつ人もあるであろう。』
 【↑そんなレベルじゃないのだけど、暢気な先生やな】

千田氏が疑念を想定される理由:
『石上神宮と物部氏との関係が強い。』

『関係が強い』ことの証明:
日本書記の垂仁天皇八十七年条より、『物部十千根が石上神宮の神宝を掌った』このことから、『物部氏が石上神宮の祭祀にかかわったことは知られるのである。』
 【関係が強い、かかわった云々よりも、石上神宮は物部氏そのものが祭祀してきたのではないのか?】・・・恋川亭疑問H

千田氏の傍証:
『物部氏と息長氏との関係がうすくなかったと読むことのできる記事』

日本書紀の継体天皇元年条:
『継体天皇の擁立に物部麁鹿火が積極的に動いたことをうかがうことができる。』
 【物部麁鹿火のみが擁立の中心人物なのか?他にも様々な氏族・人物が積極的に動いていないのか?】・・・恋川亭疑問I

千田氏の傍証の条件:
『六世紀前半に即位した継体天皇の出自が息長氏との関係で語られるという説を認めたうえでのこと』
 【条件付きの傍証か!「継体天皇は息長氏系」が証明されなければ説得力な無いのでは?】・・・恋川亭疑問J
============================
 この段落で、千田氏は『石上神宮は息長氏系天皇の廟として創設された』と主張しています。しかし、この段落内での論証は、推測に推測を重ねての新解釈でしかなく、読者の疑問は解決されません。
 次の段落に対する要約は、ひと息いれてから〜。

[6341] Re[6340]: 中公新書版の伊勢神宮2  恋川亭 2005/05/30(Mon) 04:26 [Reply]
千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』より抜粋
引用は、先の抜粋「石上神宮と息長氏」の次。

「第二章 中国思想と神宮」72頁「神功皇后伝承と息長氏」の段落より

【引用2−始め】
 『石上神宮と息長氏とのつながりについて、もう少し語っておきたい。『日本書紀』に例外的な巻として神功皇后紀がある。『日本書紀』編纂の原則からいえば皇后について一巻を割くことはありえない。『古事記』には、神功皇后段はない。『日本書紀』『古事記』とも仲哀天皇の皇后が神功皇后とする。近年の研究によれば神功皇后の存在はフィクション的な可能性が大きいとするし、私もそのことに異をとなえるつもりはない。ただし、記事の内容については、朝鮮半島の古代に関する歴史書『三国史記』(1145年成立)の記事と符号する部分があり、史料的価値がないとしてしりぞけることはできない。
 ここでわざわざ神功皇后をとりあげるのは、その虚構性の高い神功皇后につなげられる系譜が『古事記』のなかに書かれているからである。皇后の和風の名前(死後につけられたおくり名のような形式で書かれてはいるが)をオキナガタラシヒメノミコトという。その名のとおり息長氏によって伝承的人物に仕立てあげられたと思われる。しかし仕立てあげられたとしても、まったくの虚構ではありえないとみるのが、私の立場である。なぜならば『日本書紀』は一人の人物によって編まれたのではなく共編という形をとっているから、ある一定基準をもった伝承であり、創作されたようなものではないはずである。
 その神功皇后、すなわちオキナガタラシヒメノミコトの系譜が伝承として『古事記』の応神天皇段に記されているのだが、前に述べたアメノヒボコが但馬に留まってその地の女性をめとって子孫をつくり、その後裔にオキナガタラシヒメが位置づけられている。先に述べたようにアメノヒボコ伝承は新羅の王子の個人的な渡来を語ったものではなく、朝鮮半島からの渡来集団を象徴的に語ったものである。だからアメノヒボコが但馬の女性をめとるという系譜伝承そのものは、系譜的な意味をもたない。だから系譜として連続的に名前を順序立ててあげてあっても、それは作為的であることは容易に読みとれる。しかしながらアメノヒボコとオキナガタラシヒメとが系譜伝承で連なるというのは、何か意味があるのではないか。というのはオキナガタラシヒメ、すなわち神功皇后がなぜアメノヒボコの子孫として語られねばならないのかという問題は、無視するわけにはいかないからである。そのことについて私が思いつく仮設は、息長氏は渡来系氏族であるということである。実は息長氏が渡来系氏族であることは、福岡県田川郡香春町にある香春神社の祭神三神のうちの一つに辛国息長大姫大目命という名の神があることからも明らかである。その名によるならば「辛国息長」の「辛国」は朝鮮半島全体かそれとも南端部の加羅(伽耶)地方のことである。「辛国息長」という名から、おそらく息長氏が渡来系であるとみてよいであろう。
 息長氏と石上神宮の関係、さらにアメノヒボコと石上神宮とのつながりを探ろうとする前提について述べてきたが、それはさらに『日本書紀』垂仁天皇八十八年条の次のようなくだりをとりあげるためである。アメニヒボコの曾孫清彦という人物がアメノヒボコがもたらした宝物を天皇に献上したが、出石という名の小刀だけ差し出さないで袍のなかに隠していた。しかし、酒をすすめられたさいにそれが袍のなかからあらわれてしまった。清彦はもはや隠すことができないとさとり、天皇に献上して神府に納めた。この神府が、石上神宮の倉庫を指すことは、記事の前後関係の文脈から察することができる。
以上のことから、アメノヒボコ―息長氏―石上神宮の結びつきが確かめられた。』
【引用2―終わり】

 〔タイプミスがあったらごめんなさい。m(__)m 〕

[6340] Re[6336]: 中公新書版の伊勢神宮1  恋川亭 2005/05/30(Mon) 04:20 [Reply]
 千田先生の今度のご著書、話題にしたいのですが、私の力量では要約が難しいので適当な箇所を引用・抜粋してから展開させてください。<(__)>
 下記の引用文の前段落には、「神宮」という言葉は、福永氏による『遠祖を祀る廟のような宗教施設』という説を紹介し、石上神宮についての話題を提起している。引用は、その続きの段。

千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』より抜粋
「第二章 中国思想と神宮」69頁「石上神宮と息長氏」の段落より

【引用1−始め】
『そのことについて考えるためには、拙著『飛鳥―水の王朝』(中公新書)においてふれたことの要点を記すことからはじめてみよう。私は、大和の飛鳥に王権の拠点ができたのは、七世紀代で、万葉集巻一−二の香具山における国見の歌の作者とされている舒明天皇から、皇極(重祚して斉明)、天智(宮は大津)、天武、持統、文武までの時代を飛鳥王朝あるいは水の王朝となづける。この一連の天皇は、近江の坂田郡(現在の米原周辺地域)にもともと本拠地をもっていた息長氏出身の母をもつ押坂彦人大兄皇子と血統的につながる(系図参照)。さらに飛鳥の時代をさかのぼると、允恭天皇も息長氏出身の忍坂大中姫命を皇后としている。忍坂というのは奈良県桜井市の地名(現桜井市忍坂)で、大和における息長氏の拠点であった。その次に天皇位についたのが允恭天皇の子の安康天皇であるが、宮を奈良県天理市の石上穴穂宮(所在地は不詳)に定めた。『古事記』『日本書紀』によるかぎり、石上の地に宮が営まれた前例はない。しかし、石上の場所が息長氏の血統に連なる皇統にとって、何らかの意味で由緒があったのではないかと、私は推測する。
 ゆっくりと『日本書紀』垂仁天皇三十九年の条を読んでみよう。その年の冬の十月にイニシキノミコト(垂仁天皇の皇子)が茅渟(後の和泉地方)の菟砥川上宮で一千口の剣をつくり石上神宮に納めた。以上が本文の大体の内容である。
 この本文に続いて「一に云はく」として別の伝承が書かれている。それによるとイニシキノミコトが茅渟の河上にいて、河上という名の鍛冶に一千口の大刀をつくらせ、それを忍坂邑に納めたが、後に忍坂から石上神宮に収蔵したとある。一千口の大刀が忍坂から石上神宮に移されたというのは、かなり大きな変化をともなう出来事があったはずである。その出来事の年代について『日本書紀』は年代の手がかりになるものを示してはいないが、私はこのときに石上神宮の祭祀がはじまったのではないかと考えてみたい。先にみたように神宮が遠祖をまつる廟であるならば、石上穴穂宮を宮とした安康天皇が父の允恭天皇をまつったのは石上神宮で、忍坂から石上神宮に一千口の剣が運ばれたという象徴的な表現をもってこの時点のことが『日本書紀』に書かれたのではないだろうか。つまり、息長氏の系譜に連なる最初の天皇の廟として石上神宮が創設されたというのが私の仮説である。もしそのような経緯があったとすれば、伊勢神宮の創祀は石上神宮よりも後のことであることは考えうることである。
 息長氏が石上神宮とつながるということに疑念をもつ人もあるであろう。なぜかというと、石上神宮といえば、物部氏と関係が強いからである。たしかに物部十千根という人物は石上神宮の神宝を掌ったと、『日本書記』の垂仁天皇八十七年条にあることからも、物部氏が石上神宮の祭祀にかかわったことは知られるのである。それとともに物部氏と息長氏との関係がうすくなかったと読むことのできる記事が『日本書紀』の継体天皇元年条にある。それは、六世紀前半に即位した継体天皇の出自が息長氏との関係で語られるという説を認めたうえでのことであるが、その擁立に物部麁鹿火が積極的に動いたことをうかがうことができる。』
【引用1―終わり】

[6339] Re[6337]: 布都御霊剣  恋川亭 2005/05/30(Mon) 04:12 [Reply]
いや〜、いろいろ難しい問題を抱えている剣ではあるわけです。(^^;

> この場合は剣の出土とその後の経緯がわかっていますからまだよいですけれど。

菅さんの評価・評判は置いといて・・・(笑)
いつ禁足地に埋めたのか、禁足地を作ったのか、という問題もあるのですよね。
私は平安末・鎌倉初期あたりとか、白川天皇さまとかを考えていますが・・・。
埋めたのがはたして『布都御霊剣』だったのか?という疑いもオプションとして持っておきたいですね。

> 恋川亭さんは興味が深そうですね、そのあたりのチェックはバトンタッチ(^^;

ボチボチいこか〜てな感じなので、なかなか(笑)

> 六叉鉾(七支刀)は伝世品なのに「石上神宮の布都御霊剣」は禁足地に埋められていた、なぜでしょうか。
> 七支刀は埋めるレベルのお宝ではなかったから・・今は国宝でも当時では他国からの贈答品にすぎなかった。

神剣渡御祭のときに練り歩き、いや渡御されていたのは、昔は七支刀だったそうです。七支刀をはめて固定させる木製の形枠(ちゃんと六叉の溝に)がありました。国宝となってからは神倉に厳重に保管されて、今の祭りには別の神剣が渡御されてます。そういう意味でも「神剣」はたくさんあるみたいです。
漫画や小説に多いのですが、七支刀が布都御霊剣であるような誤解、なんとかなりませんかねぇ。(笑)



[6338] Re[6336][6335][6334]: 布都御霊剣  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/28(Sat) 21:25 [Reply]

≫物部氏の立場はどうなるん、物部氏は例えば継体天皇の擁立に力をそそいでいるように、近しい関係だったという

それはちょいとおかせていただきまして・・
書紀での石上神宮の初出は垂仁朝ですね。
で、物部氏の登場は垂仁朝五大夫のひとり十市根が物部性を賜ることから始まります。
それ以前は崇神の母である伊香色謎など「あるグループ」に密着した有力氏族だった(海運者とみる)。

それが崇神以降にぐいと勢力を伸ばした。親族となったのだから当然ではあります。
それと石上神宮の名の登場が一致するのが興味深いです。

それ以前に石上付近に別系グループの祭祀が存在していて、これが崇神グループの祭祀に置き換わった可能性、このあたりとのからみです。


[6337] Re[6335][6334]: 布都御霊剣  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/28(Sat) 21:01 [Reply]

≫できれば【ひょっとしたら布都御霊剣かもしれない】程度の表現に替わってほしいナ〜と願っています

私も、否定すべき情報がない場合は、「かもしれない」からスタートです。
社寺に伝わる宝物など、文字情報や年代情報が明確でない場合はすべて同じです。
(ねつ造品は困るけど)

これ、ちょいと微妙です。
学術的に「記紀にいう布都御霊剣」であるのか、「石上神宮が布都御霊剣として祀る剣」であるのか、です。
どちらも同じ判断になるなら問題はないわけですが・・
私は、かもしれないではなく、「記紀にいう布都御霊剣」ではない、です。

毎度ですが古代刀と鉄の科学に書かれている布都御霊剣の説明の一部
−−−−
明治7年の石上神宮の御禁足地の発掘の際、当時の宮司であった菅政友氏によって、御神体として納められた布都御霊剣は現在奥宮に納められ実見することはできない。
そのため、かって菅宮司が教務省に誓願し、審査を仰いだ際の書類とその付図を示す。
−−−−
明治11年の発掘調査で十握の寸法の剣も出土しているとありますが、その図はありません。
これらは事実とみております。

この剣は発掘後に当時の神官が記紀にいう布都御霊剣とみなして御神体としたもの。
その判断が正しいなら問題なし。

石井昌国氏は剣の各部形状からの年代判定によって300年代前半であろうとしています(専門家でも「あろう」ですけど)。
年代判定は経験とデータの積み重ねによる他はなく専門家におまかせです。
(なお、氏は「石上神宮の布都御霊剣」としているだけです)

300年代前半を正しいとみるならその剣が「記紀にいう布都御霊剣」ではないのは明らかです。
私はこちらを採るわけです。
(記紀でいう布都御霊剣の年代を仮定せねばなりませんが)

いろいろな立場にある方々のいろいろな意識、いささか面倒なことになりそうですね。
このあたりのことをどうみるのか・・ゴニョゴニョ(^^; だと思います。
この場合は剣の出土とその後の経緯がわかっていますからまだよいですけれど。

古代刀と鉄の科学に参考文献として石上神宮発行の「石上神宮宝物誌」/昭和4年が書かれています。
「石上神宮の布都御霊剣」登場の経緯の情報源はこれじゃないかと思ってますが、確認していません。
恋川亭さんは興味が深そうですね、そのあたりのチェックはバトンタッチ(^^;


ついでですのでちょいと推理の範囲を広げます(^^;
六叉鉾(七支刀)は伝世品なのに「石上神宮の布都御霊剣」は禁足地に埋められていた、なぜでしょうか。
七支刀は埋めるレベルのお宝ではなかったから・・今は国宝でも当時では他国からの贈答品にすぎなかった。

すなわち、明治初期の神官の判断と同様の判断がはるか昔にあったのではないか。
それはいつごろか、記紀以前か記紀以降か。
石上神宮の名の登場は垂仁朝、剣は300年代の判定にで年代はおおよそ一致・・
いろいろなパターンがありえますが、このあたりを考えるのも楽しみであります。


[6336] Re[6335][6334]: 布都御霊剣  神奈備 2005/05/28(Sat) 19:54 [Reply]
 ちょいと脇道で”あそぼ” 

 千田稔著『伊勢神宮』から

 神宮ということばは、福永光司氏『道教と古代日本』によると、「周王朝の遠祖である姜<IMG NAME="mojikyo_font_006606" SRC="http://www.mojikyo.gr.jp/gif/006/006606.gif>(女原)(キョウゲン)の神(霊)の依る所、故に廟を神宮と曰う」とある所から、石上神宮はある氏族の祖先を祀っていることになる。例えば、伊勢神宮は皇室の祖、出雲大神宮は大国主を遠祖として祀っている。

 で、石上神宮は一体誰の廟であるか?
 石上穴穂宮に宮を定めたのは安康天皇が始めてで、従って、安康天皇は父親の允恭天皇を石上神宮に祀ったのではないかとする。

 それは息長氏の血統につながる最初の天皇の廟との見方。忍坂大中姫が安康天皇の母。忍坂においてあった剣1000振を石上神宮に運ぶという意味が、忍坂の息長氏と石上神宮との関係を示しているとの見解。

 では、物部氏の立場はどうなるん、物部氏は例えば継体天皇の擁立に力をそそいでいるように、近しい関係だったという。

 その後、石上神宮は後に石上坐布都御魂神社と神宮でなくなっているのはいろんな変遷があったのでしょう。

[6335] Re[6334]: 布都御霊剣  恋川亭 2005/05/27(Fri) 21:24 [Reply]
かたばみさん、詳しいご指摘ありがとうございます。
今後の参考にさせていただきますね。
さて、長くなるので1点だけ。

> 下図は奈良県の石上神宮の布都御霊剣です(形式から300年代前半とされる)。
> http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/buki_futu.png

あの・・・、よく様々な資料(書籍)で『石上神宮の布都御霊剣』と紹介されている出土剣ですね。これについて、某神宮の某氏(オフレコ発言ですので)に、
『この(よく)紹介されている図が、ご神体の布都御霊剣なんですか?』
と質問したことがあります。
そのお答えは・・・、
 @ 今、ご神体とされている剣なのかどうかは明言されませんでした。
   つまり肯定されず、さりとて否定するとまた都合が・・・てな感じ。
 A ではご神体から離れて、この図は布都御霊剣なのかというと、
   この図が布都御霊剣とは断言できない・・・てな感じ。
 B 明治時代に発掘・出土した剣ではないのかというと、
   出土したのは1本のみではなく・・・てな感じ。
で、はぐらかされまくりでした。スタッフ・オンリーつまり部外秘の事柄が多いようです。
『実は、はっきりとした正確なことは伝わってないのですヨ・・・ゴニョゴニョ』
これは私の勝手な感触ですが、明治時代の発掘が学術的な検証にたえるオープンなものでなかったのだろうか?と思いました。

 実際に祭祀信仰している人々のとまどいをよそに、正確な裏付けがないまま【これが布都御霊剣である】と流布されている状況です。
 私は、できれば【ひょっとしたら布都御霊剣かもしれない】程度の表現に替わってほしいナ〜と願っています。

[6334] Re[6333][6332][6331]: 武器の性能と実用性2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/27(Fri) 20:20 [Reply]

下図は古墳時代から平安時代の刀剣のいくつかを年代順に並べたものです。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/buki_hensen.png
刀剣データは毎度で古代刀と鉄の科学の図によります。縮尺はおおよそ一致させてあります。
(韓は韓鍛冶、倭は倭鍛冶の意ですが、そうじゃなかろうか程度の私の判断です)

≫> 毛抜透の登場について、斬撃の際の衝撃を和らげるため、という論がありますが、やはり納得しません(^^;
≫> 後の日本刀では消えているからです、役に立つなら残る機能だと思います。

≫ それは、共柄:刀身と柄がつながっている場合の話しです。

共鉄柄というのは刀身の身幅の延長で「刃のない部分」を作り、これに握るための仕上げをする柄。
日本刀のごとく木製柄などに差し込むように細く作った柄の場合に(茎、ナカゴ)と称すると理解しています。

≫中子(茎)式になって木製の柄でカバーされるほうが、より衝撃緩衝になるでしょう。

衝撃を防ぐだけならなんらかの緩衝材を使って、より厚ければ効果的であろうことは同感です。
毛抜透は衝撃吸収用であろうという論は、共鉄柄だから皮や藤蔓等を巻くだけで衝撃がきついであろう、だから衝撃防止用、という推論だろうと思っています。

下図は奈良県の石上神宮の布都御霊剣です(形式から300年代前半とされる)。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/buki_futu.png
例えば薄赤の部分に藤蔓などを巻いて柄とする(この部分が共鉄柄)。

長く使われているタイプのはずで、衝撃うんぬんが必要であればこの時代にすでに行われているのではないかなあ(これを剣と呼ぶには疑問があるけれど)。


蕨手刀の柄(共鉄柄)は中途半端です。
刃と同じ幅から絞り込んで細くなっていますが、韓鍛冶が作っていた刀を知らないはずがない。
当時の倭鍛冶の技術が未熟で細い茎を作ることができなかったのではなかろうか(折れてしまうなど)。

元と先で太さが違っては握りにくいことおびただしい。
細くなった部分には余計に藤蔓や皮などを巻き付けていたんじゃないかと思います。

柄を外側に曲げるのは独自の工夫だと思います。
で、柄の先端に紐通し用の穴の部分を作れば自動的に蕨手刀の形になる。
ある時代まで蕨手刀はこの形が継続した。

柄の幅をあまり絞り込まずに中抜きをする手法、これが毛抜透の蕨手刀。
この方が握りやすい柄になると思いますが、タガネで中抜きするのは高級手法だと思います。

(ここで、なぜ中抜きしたのか、です)

後に倭鍛冶の技が韓鍛冶の技に追いついたとき、韓鍛冶が作っていた茎ナカゴを採用し、そして日本刀の形態となった。
木柄や鹿角などを介在させれば弾力や握り易さなど設計の自由度はずっと広がるはずで必然の流れと思います。

そういう流れを考えたとき、「毛抜透」の意味とは?


≫(B)「毛抜透」は重量のバランス調整のため・・・(恋川亭説)

ナイフや包丁のように刃渡りが短く、手首で動きを制する刃物では重量バランスが重要と思います。
刺身包丁のごとく刃が長くて引き切るものや刃の重さでばさっと切る場合など、切り方、切る相手、などで最適の重さと重心位置は違ってくると思います。

ナイフはガーバーのお魚用しか使ったことがないですが、菜切り包丁の場合だと、柄を握らず柄の付け根付近をつまむような感じで持つことを教わりました。
重心よりちょい手前の部分を持つ、刃のコントロールが容易になります。

ただし、これらは手首で刃をコントロールする場合だと思います。

刀は刀身の方が柄の部分よりはるかに長く重く、手首で制することのできる重さではありません。
松平健のごときチャンチャンバラバラにはならない(^^;

振り廻すときに柄の重さの影響は小さいとみて、重量バランス調整説は取らないのであります。
(バランス調整をやるとしても身幅の調整による、柄側を重くする方向だと思う)

西欧の決闘用の細身剣ではフェンシングのごとく手首で制することが大半とみえます。
この場合はバランスが重要になるはずで、これも柄を重くする方向と思います。

衝撃防止でもないとなれば、残るのは材料節約・・
まだ鉄は貴重品の時代でもありますし。
後に長柄刀のように中抜きなしの長めの共鉄柄が登場するのは、中抜きまでして節約しなくてよい状況になったからではなかろうか。

その状況が先の図での舞草モウクサなどの製鉄あるいは鍛冶集団の登場にイコールなのではないか。
当初は非合法の地下集団だったでしょう、これらの技能者は西日本にも配置されたのではないかな。
(場合によっては俘囚として)

余談
平安の俘囚についてはパスですが、日本武尊時代での佐伯部の場合は皮を得るための人材確保ではなかったか。
応神以降(倭王五代)では一般兵の甲冑用に大量消費されたはずです(半島進出)。

蝦夷は弓に長じているわけで優れた兵として「将軍」へ配属されたと思います。
ある時代以降での将軍は武勇に優れる必要はなく、戦略に通じる学者のほうが適任だったとみています。
たいていは貴族でしょう、葛城とか大伴のごとくです。


[6333] Re[6332][6331]: 武器の性能と実用性  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/27(Fri) 20:08 [Reply]

刀や剣が2次的な武器、というのは賛成です。
まずは棍棒ありき、次ぎに離れて使える槍と弓。
ついで接近した場合の短剣、あるいは長剣。

生活用具としての「切る」は旧石器に遡るわけですが、武器としての切るはうんと遅い出現だと思います。
殺るには突き刺すのが単純かつ最強だから(^^;

蒙古襲来絵詞では、蒙古側の歩兵は全員槍ないし矛です。
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/
(騎馬兵には槍を持っていないものがいますが弓は全員持っている)

対して鎌倉方は全員が弓で、ある程度の接近戦でも弓。
槍らしきはゼロ。薙刀が少々。
なぜ突く武器がないのか理由がみえません(弥生時代は別にして、槍が主戦武器になるのは戦国時代)。

ちなみに蒙古兵(高麗兵?)の着用しているのが綿甲のたぐいでしょう。
縫っただけで短冊らしきのみえない兵もいます、これが布だけの紙甲かもしれない。

綿甲については、福島県文化財センター白川館で復元研究をしていますが、データ不足で復元はあきらめたみたい(^^;
http://www.mahoron.fks.ed.jp/nenpou/nenpou2001_36.htm

そこにある「続日本紀考証」は読んだことありませんが、続日本紀の宝亀八年(777)の記事は挂甲から皮の甲冑への切り替えとその理由を書いていて貴重と思います。


さて、細かい話になりますが、

切る武器の登場は生活道具からでしょうね。
民具の鉈は斧と刀の複合かなあ、日本では直線か柄が内側に曲がっているものがほとんどと思います。
東南アジアの鉈も刃が外ぞりであっても、柄は内側に曲がっているようです。

枝払いなど相手から刃を離れにくくするためだと思います。
抱え込むイメージ、相手を引き寄せる(極端になれば鎌となる)。

先端に鼻がついている鉈はその機能をより強化したもの。
枝切り用の鋸で内ぞり鼻付きのを使っていますが、押しつけなくても切れてすっぽ抜けないので大変使いやすいです。
動物の爪や牙がみんな内ぞりであるのも、相手を逃がさないためですね(象の場合は??)。

では、武器の場合はどうなのでしょう。
刃の内ぞりは相手を強烈にざっくり、確実に殺る(^^;
中近東などの内ぞりの刀には 姿だけでも恐怖を感じます。

呉鉤はちょっと微妙、このあたり資料がほしいけれど、東南アジアの鉈の流れにあって柄は内側向きでも刃は外ぞりと思います。
鉤の文字を使うのは鉈系の意識があるからじゃないかなあ。
内ぞりは食い込ませれば離れにくくなる。1匹の獲物を確実に仕留めるならこれでしょう。

刃の外ぞりは引き切ると同時に相手から離脱しやすいことに重要な意味があると見ています。
引くだけで滑り抜ける、そういうイメージですね。

確実に殺る、からは離れるが迅速に次の行動に移れる。
鼻付きの内ぞり鋸は枝の混み合う場所で動きが取れなくなって困ることがあります。
その点、東南アジアの鉈は柄は内側に曲げるが刃は外ぞり、このあたりには民族とその環境の影響が効いていると思っています。

農具は毎日使ってしょっちゅう研ぐ。
良く切れるが硬い刃で研ぎにくいものより、ちょちょいと研ぐだけで切れ味が戻る方がありがたい。
ちょい生いって「高級なカンナ」を入手したけど研ぎにくくてほとんど飾りです(^^;
高性能だが扱いにくいものより、メンテなどが容易なもの、こんなこともからんでくるかも知れない。


≫このシリーズは、ゲーム用の参考図書と思ってました。<(__)>

中国の専門書をベースとしていると思われ、なかなかの内容とみました。
しかし、この種の本はキワモノと境界があいまいになりそうですね(忍術なんかだとますます(^^;)。
いまのところ内容の確認はできないですが、紙甲という甲冑があることもこれによって知りました。


[6332] Re[6331]: 長鋏歸來乎!  恋川亭 2005/05/25(Wed) 23:42 [Reply]
俘囚が進んでいないのですが、とりあえず・・・

 承知の上でゴーマンかましておりますので、ご叱正、ご非難こそ歓迎です。(^^)/
私が問題視したのは、あまみやさんが引用された某先生による、
『馬上にて疾駆しながら揮う蕨手刀の威力』
という事柄でしたが(あまみやさん、しつこくてゴメンネ)、
問題の範囲が広がるようで・・・。

(1)馬上での刀の扱いについて(馬上での刀剣の不利な点)
 馬上で刀を使うことが有り得ないなどと全く否定するわけではないが、まず2次的・3次的な武器ではなかったか?という疑問。
 @ 実際的兵器は、まず弓矢、つぎに槍・薙刀(古代では矛や戈)。槍(矛・戈・薙刀)などの馬上においての操法では、長柄を小脇に抱え腰を支点にすることにより、片手操法が行いやすい為。別の片手は馬の手綱を執る。
 A 片手のみで持つ短い柄の剣や刀では、手貫緒がないと、斬撃の反動で得物を跳ね飛ばされやすい。刺突してすぐに抜けないでいると(相手は猛烈にあばれているので)もぎ取られやすい、あるいは折れる曲がる、などなど。
 B 馬や自分の身体を傷つけやすい。
 C 馬上での抜刀・納刀のむずかしさ。

(2)蕨手刀の構造について
 @ 刀身の身幅が広いので柄を早蕨状にカーブさせないと握れない。
 A 刀身の長さが30〜50cmと短い。
   柄の形状は刀身の長さに力点が合うような作り。
 B 刀身自身は直刀スタイルなので刺突にも有効。
 C 蕨手の柄の形状と、湾刀や曲刀との混同は避けたい。
   まして日本刀の反りとは別次元。
   蕨手刀から日本刀への発展説はもっと慎重な検討が必要と思う。
 D 蕨手刀は兵器以外にも、日常的な利器としても使用しやすい形状。
   例えば、剣鉈(ケンナタ)のような山刀として。

(3)蝦夷の蕨手刀について
 @『馬上にて疾駆しながら揮う蕨手刀の威力』というイメージは、誤まった印象を植え付けるのではないか?兵器の特性、戦闘における間合い等が考慮されていない。
 A 蝦夷の得意な兵器は弓矢=騎射だったのでは?
 B 弓矢も蕨手刀も騎馬も得意で脅威だった蝦夷がなぜ「征服」されたのか?
 C 消耗品である弓矢、強力な蕨手刀、優秀な馬を保持するには、十分な経済力が必要だが、蝦夷は単なる「蛮族」だったのか?

以上が、私が蕨手刀に関連して思った事柄です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

> 中国での曲がった刀は春秋時代の呉でまずは作られたそうです(以下、武器と防具・中国編/新紀元社による)
> 植物の茂る環境、湖水等の船の多い環境、そういう環境で使いやすい形が生まれたとありますが納得できます。
> 曲刀は唐時代に呉鉤ゴコウと呼ばれて広まり、宋時代では接近戦用の刀として曲刀が優勢になったそうです。

 呉鉤については実物を見たり扱ったりしたことがありませんので、はなはなだ青草ではありますが、
 @ 春秋時代の呉の『呉鉤』と、
 A 唐時代以降に文学的に刀剣の美称として広まった『呉鉤』とは、
わけて考えたく思っています。
 B 「宋時代では接近戦用の刀として曲刀」を
春秋時代の呉の『呉鉤』と同じ形状のものと見なせるのでしょうか?
・・・というのはですね、
中国の伝統武術になじみ深い方々はご存知、『鉤』の曲がり方はスグにピンッときますよね!
たしかに『植物の茂る環境・・・で使いやすい形』であり『接近戦用』には有利となります。

(A)春秋時代の『呉鉤』は内反りの刀だったんじゃないですか?・・・(恋川亭説)

『植物の茂る環境、湖水等の船の多い環境、そういう環境で使いやすい形』とは、鎌形だと思うのですがね〜。どうして曲刀のような外反りになるのか???
もう少し説得力のある解説がほしいところです。(^^;

> 『武器と防具・中国編/新紀元社』

 このシリーズは、ゲーム用の参考図書と思ってました。<(__)>

> こあたりは日本での蕨手刀の登場から日本刀への流れと年代的にも重なっていて興味深い。

 曲刀・湾刀と、日本刀の反りは慎重に検討したいところです。(^^;
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> 毛抜透の登場について、斬撃の際の衝撃を和らげるため、という論がありますが、やはり納得しません(^^;
> 後の日本刀では消えているからです、役に立つなら残る機能だと思います。

 それは、共柄:刀身と柄がつながっている場合の話しです。
中子(茎)式になって木製の柄でカバーされるほうが、より衝撃緩衝になるでしょう。

> 鉄素材を少しでも倹約するためという論がどこかにあったけれど、これに賛同です。
> 砂鉄製鉄の普及あるいは国内産磁鉄鉱の発見によって後にはその必要がなくなって毛抜透もなくなった。

これはぜんぜん納得できません。(^^;
(B)「毛抜透」は重量のバランス調整のため・・・(恋川亭説)
が第1の理由ではないかと思います。
中子(茎)式になると、重量のバランス調整がよりやりやすくなるので、毛抜透も不要です。
『鉄素材を少しでも倹約するため』の「毛抜透」というのは大いに疑問ですね。(^^;

 この毛抜の太刀あたりから、刀身も長く伸びて、反りが入ってきますね。初期の反りは、刀身よりも鍔のあたり(手元の方)にあります。直刀のまま刀身が長くなると、とても抜刀が難しくなるので、初期の反りはスムーズな抜刀のために工夫改良されたと考えます。私が、蕨手刀の形状を反りと見ない理由はここにあります。(^^;

その後、日本刀の反りは発展し、
 @ よりスムーズで素早い抜刀(納刀)を可能にした。
 A 長大な円周上の弧という刃形を形成し、斬撃力を向上させた。
 B 人の身体構造に適応した操作方法が行えやすくなった。
 C 身幅の広さが不要となり、軽くて頑丈な構造になった。
 D 弧(反りによる膨らみ)による防御が可能となり、楯の機能も備えた。
 E 機能美の極致として、芸術品という価値を持つに至った。
等々、完成していくのですが、これは蛇足でしたね。

[6331] Re[6293]: 蕨手刀ふたたび、矛と盾  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/24(Tue) 14:34 [Reply]
≫刀剣については、たくさんの誤認が学術書にも記載されていたりして驚かされます

などなどについて。
だいぶ前へのコメントで重複あるいは見落としがありそうですが失礼です。

馬上で刀を使う場合はサーベルがその典型ですね。
武器のありようは「矛と盾」の関係を無視しては考えられないです。

頑丈な鎧を用いる相手ならば、切ることはできず矢もはじく。
槍で一点集中でぶすりか、斧でボカンとやらないと(^^;

以下の高句麗の騎馬兵はその考えのようで騎馬民族の意識じゃない。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/koukuri_kiba.jpg

ヨーロッパの重装甲騎士は中央アジアの騎馬軍団に半ば蹂躙されてしまいます。
チンギス・ハーン等の騎馬民族の主戦武器がどんなものだったかいまいち見えませんが、機動力を生かす戦闘法を工夫したのだと思います。
また、火器の登場で重装甲は無意味となって、軽装となり騎馬兵も接近戦はサーベルで切るに転じてゆきます。

中国での曲がった刀は春秋時代の呉でまずは作られたそうです(以下、武器と防具・中国編/新紀元社による)
植物の茂る環境、湖水等の船の多い環境、そういう環境で使いやすい形が生まれたとありますが納得できます。
曲刀は唐時代に呉鉤ゴコウと呼ばれて広まり、宋時代では接近戦用の刀として曲刀が優勢になったそうです。

こあたりは日本での蕨手刀の登場から日本刀への流れと年代的にも重なっていて興味深い。
蝦夷や大和王朝がどのように馬を用いたかも重要ですが、おいておきます。


下図は蕨手刀の出土分布図です(たしか以前にも提示)。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/warabite_bunpu.png
蕨手刀は500年代に諏訪周辺で登場し、東北から北海道へ広まっていったことがみえます。
日本武尊を撃退した人々、飛鳥奈良時代の諏訪周辺の人々、いかなる人々だったのか。
戸隠の褐鉄鉱、釜石の餅鉄、これが蕨手刀の分布と関係ありとみていますが、これはおいときます。

上図は「古代刀と鉄の科学/石井昌国、佐々木稔」によります。
金科玉条としていますが、それは書かれるデータについてのみです。
論は論なのであって異論もありえます。

ここには「騎馬の戦いで接近したときに用いる刀には、突き刺す機能ではなく斬撃の機能が必要である」という論があります。
この論についてあまのやさんや恋川亭さんが書かれていますが、納得できない部分と、結果として同じ考えになる部分が両方です。

蕨手刀を騎馬戦で使うとしていますが、これには納得しません。
騎馬で使うには短すぎるからです。馬が果下馬だったとしても落馬した相手を殺るには(^^; 少なくとも太刀の長さが必要(刃渡り2〜3尺が太刀、野太刀は3尺以上、サーベルは1m前後)。
蕨手刀を騎馬用とみるのは誤。


斬撃が必要になった、は正しいとみていますが、その理由が盾と矛です。
相手の装甲によって突き刺すか切るかの選択が変わるわけで、興味深い現象があります。
古墳時代ならたくさん鎧の出土があるのに奈良〜平安でぱったり途絶えてしまうのです。
(写真でも見たことがないです)

ないはずはないですから、長くは残らない材質の鎧になったと考えるのが妥当と思います。
とすればまずは皮でしょう。どのように作ったかはまったくわかりませんけど。
(皮は漆などで固めない限りはすぱっと切れる)

もうひとつは綿甲です。布地の中に鉄片を止めたものです。
これの最大のメリットは防寒性かもしれない、中国でも北方で使われたようです。

もっと簡易なものが厚い生地(あるいは紙)を縫い合わせただけの紙甲です。
矢を防ぐには効果があるけれど槍や刀にはあまり効果がない甲冑で、軽いので船用にも使われたそうです。
唐時代のものは3cmほどの厚さのようで、これも防寒兼用になったと思われます。

蝦夷は弓を得意としていますから、大和朝廷が矢と寒さを防げる甲冑としてこれを導入しておかしくない。
となれば、蝦夷は切ることができる甲冑に対応する武器を工夫するのも必然。
矛と盾が成立しそうです。


軽装の相手との接近戦用に切る機能を持たせた武器が蕨手刀。
柄を曲げているのは片手で引き切ることを容易にするため。
刃渡り40cm〜50cmと短いのは森や林の中など障害物の多い場所で使いやすくするため。
忍者が逆手に短い刀を持ったりするのは本当なのかなあ。

多くの蕨手刀の柄と刀身の境部分にエッジがあり、鍔ツバの現物も出土しています。
突いたときに滑って指を切らないためで、蕨手刀は突く機能も重視しているということ。


http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/buki_warabite03.png
毛抜透の登場について、斬撃の際の衝撃を和らげるため、という論がありますが、やはり納得しません(^^;
後の日本刀では消えているからです、役に立つなら残る機能だと思います。

鉄素材を少しでも倹約するためという論がどこかにあったけれど、これに賛同です。
砂鉄製鉄の普及あるいは国内産磁鉄鉱の発見によって後にはその必要がなくなって毛抜透もなくなった。

下図は日本刀の形態登場への最古の刀。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/buki_kenuki01.png


萩市の見島ジーコンボ遺跡の話がありましたが、ここから出土の蕨手刀は海運者が護身用に使ったもので、蝦夷あるいは防人などとは直接の関係はないと考えています。
呉鉤にもあるように、船という狭い場所での戦闘に蕨手刀は最適と思われます。

海賊の刀でもあって以下のカットラス参照。
http://www.geocities.jp/bowen_dragon/taki/menu1.htm#JITUZAI


[6330] Re[6323][6321][6317]: 狐と狸  玄松子 2005/05/20(Fri) 15:07 [Reply]
> > 「山窩」の生活ナイフで有名な『ウメガイ』の柄は真っ直ぐで、曲がってないけど?!
>
> サンカのウメガイは短く、蕨手刀とは用途が違います。

サンカは蕨手刀、あるいはそれに似た刀剣を持っているんですか?
サンカが持っている刀で有名なのが「ウメガイ」で、サンカの特徴ですよね。

[6329] Re[6319][6307]: フシュウ〜/マルコ!ポロッと  あまのや 2005/05/19(Thu) 23:54 [Reply]

> 陸奥國牡鹿郡の俘囚であった大伴部押人が申し出て言うには「自分たちの先祖は紀伊國名草郡片岡の里の出身である。先祖が蝦夷を征討するべく陸奥國小田郡に居を構えていたところ、子孫が蝦夷に捕虜にされて俘囚となっていた。そこで俘囚の名を取り除き調庸の民に戻してほしい。」と願い出、これが許されたとあります。


大伴部押人は誤って俘囚とされていた訳ですよね。

俘囚は大和朝廷側の呼び方で、蝦夷側は自分達の捕虜のことを俘囚とは呼んでいないでしょう。
本来ならば蝦夷が朝廷に帰順した際に、捕虜であった和人は解放されて元の公民の地位に戻されなければならなかったものが、蝦夷の隷属民として蝦夷と一緒に俘囚とされてしまったのでしょう。
それを申し出て、元の地位に戻れたということです。


「俘囚」については原則として以下の様な結論に至るわけです。

> 『俘囚とは広義の蝦夷ではあるが、国家の支配体制下に入った人のことである。』




> 玄松子様
> なぜ、貴方が問題を限定するのか、と問うているのです。
> 僕が疑問に思い、興味を抱いた問題を、貴方が特定するのか、と問うているのです。

僭越でした。ご容赦ください。

[6328] 横道/サンカ  恋川亭 2005/05/19(Thu) 21:41 [Reply]
サンカについて・・・、『古族』???
 ファンタジーを「ファンタジーであるから」として否定するつもりはありません。青草大好きですから(もっとおいしいトンデモがほしい、という願いはありますが)。
 私には、沖浦和光氏の『江戸時代流民説』があまりにも説得力が有り過ぎて、他の古代種族山人説が色褪せています(検証方法も稚拙ですし〜)。文庫本で出ていますので、ご参考までに。『幻の漂泊民・サンカ』(沖浦和光:著、文春文庫)、けっこう感動的な内容でしたよ。
 とりあえず、今は俘囚をおっかけますので、失礼ながらサンカについてはパスします。後日にネ、あしからず。<(__)>

[6327] Re[6325][6319][6307]: フシュウ〜/マルコ!ポロッと  神奈備 2005/05/19(Thu) 21:28 [Reply]
ペギラさん、資料ありがとうございます。
> 延暦十六年(七九七)正月
> 陸奧国
> 安積郡人外少初位上丸子部古佐美。大田部山前。

古佐美って名前の人で東北に関係する紀古佐美がいますが、20年近いギャップがありますね。無関係か。

紀古佐美さん、793年に遷都のため山背葛野郡宇太村の地を視察しています。上田正昭先生は月読神社は宇太村に現れたと言うお説でしたね。


[6326] Re[6325]: フシュウ〜/キミコッ!  恋川亭 2005/05/19(Thu) 21:19 [Reply]
> 吉弥侯部

ペギラさん、ありがとうございます!
(タイトルをペギラさんチックにした甲斐があったかと・・・)
蝦夷関係について考えるのは、今回が初めてですので、入門段階なんです。よろしくお引き立てのほどをお願いします。資料をこれからユックリ拝読して、参考にさせて頂きますね。
(ザッとですけど。「靭」系の大伴部だろうと思っていたら、「膳」系の大伴部さんも行ってるんですね。)
キミコさん、出てますね。フシュウも本格的!

> 神護景雲三年(七六九)十一月
> 陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。
> 昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。
> 幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。

なんか、「調庸民」としての籍と、「俘囚」としての籍があったような感じですか。
これから、これから・・・。まずは、お礼まで。

[6325] Re[6319][6307]: フシュウ〜/マルコ!ポロッと  ペギラ 2005/05/19(Thu) 19:12 [Reply]
陸奥の大伴部 資料

神護景雲三年(七六九)三月
陸奥國
白河郡人外正七位上丈部子老。
賀美郡人丈部國益。
標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奥臣。

安積郡人外從七位下丈部直繼足阿倍安積臣。
信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。
柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。
曾津郡人外正八位下丈部庭虫等二人阿倍曾津臣。

磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。
牡鹿郡人外正八位下春日部奥麻呂等三人武射臣。
曰理郡人外從七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。

白河郡人外正七位下靭大伴部繼人。
黒川郡人外從六位下靭大伴部弟虫等八人。靭大伴連。

行方郡人外正六位下大伴部三田等四人大伴行方連。
苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。
柴田郡人外從八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。

磐瀬郡人外正六位上吉弥侯部人上磐瀬朝臣。
宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知上毛野陸奥公。
名取郡人外正七位下吉弥侯部老人。
賀美郡人外正七位下吉弥侯部大成等九人上毛野名取朝臣。
信夫郡人外從八位下吉弥侯部足山守等七人上毛野鍬山公。
新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭上毛野中村公。
信夫郡人外少初位上吉弥侯部廣國下毛野靜戸公。
玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人下毛野俯見公。
並是大國造道嶋宿祢嶋足之所請也。

神護景雲三年(七六九)十一月
陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。
昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。
幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。

延暦十一年(七九二)冬十月癸未朔。
陸奥国俘囚吉弥侯部真麻呂、大伴部宿奈麻呂、叙外従五位下。懐外虜也。

延暦十四年(七九五)五月
配俘囚大伴部阿■良等妻子親族六十六人於日向国。以殺俘囚外従五位下吉弥侯部真麻呂父子二人。

延暦十六年(七九七)正月
陸奧国
白川郡人外□八位□大伴部足猪等賜大伴白河連。
曰理郡人五百木部黒人大伴曰理連。
黒河郡人外少初位上大伴部眞守。
行方郡人外少初位上大伴部兄人等大伴行方連。
安積郡人外少初位上丸子部古佐美。大田部山前。
富田郡人丸子部佐美。
小田郡人丸子部稻麻呂等大伴安積連。
遠田郡人外大初位上丸子部八千代大伴山田連。
磐瀬郡人□大伴宮城連。

延暦十八年(七九九)三月
陸奧国
柴田郡人外少初位下大伴部人根等賜姓大伴柴田臣

弘仁二年(八一一)九月
出羽国人少初位下无耶志直膳大伴部廣勝賜姓大伴直。

[6323] Re[6321][6317]: 狐と狸  ニギハヤヒ 2005/05/19(Thu) 18:04 [Reply]
> 「山窩」の生活ナイフで有名な『ウメガイ』の柄は真っ直ぐで、曲がってないけど?!

サンカのウメガイは短く、蕨手刀とは用途が違います。

[6322] Re[6320][6317]: 狐と狸  ニギハヤヒ 2005/05/19(Thu) 18:00 [Reply]
> 「山窩」って、そんな(平安朝以前に遡るような)古代民とちゃうやん?!

サンカは古代から存在したが、中・近世においてサンカと漢音読みになった
ようです。

http://www.geocities.jp/kozoku_ken/Sannka-to-wa.html

[6321] Re[6317]: 狐と狸  恋川亭 2005/05/19(Thu) 16:38 [Reply]
> その場合に、小指を柄の曲がった所に引っ掛けると使いやすいと思います。

「山窩」の生活ナイフで有名な『ウメガイ』の柄は真っ直ぐで、曲がってないけど?!

[6320] Re[6317]: 狐と狸  恋川亭 2005/05/19(Thu) 16:33 [Reply]
> 話は飛んで、「蕨手刀」は東北地方の狩猟民や山窩の生活必需品であったと

「山窩」って、そんな(平安朝以前に遡るような)古代民とちゃうやん?!

[6319] Re[6307]: フシュウ〜/マルコ!ポロッと  恋川亭 2005/05/19(Thu) 15:39 [Reply]
> 陸奥國牡鹿郡の俘囚であった大伴部押人が申し出て言うには「自分たちの先祖は紀伊國名草郡片岡の里の出身である。先祖が蝦夷を征討するべく陸奥國小田郡に居を構えていたところ、子孫が蝦夷に捕虜にされて俘囚となっていた。そこで俘囚の名を取り除き調庸の民に戻してほしい。」と願い出、これが許されたとあります。

 大伴さんとこは大所帯なので(苦労された一族ですナ〜)、陸奥に関連する人達を追っかけてみますと・・・

 大伴駿河麻呂(旅人の従兄弟の子):鎮守府将軍兼陸奥按察使
   宝亀7年、任所(桃生?)にて没(776)

 大伴家持(旅人の子):中納言兼陸奥按察使鎮守府将軍
   陸奥国多賀城にて没(785)

 伴春宗(家持の孫):陸奥守
 大伴益立(吹負の曾孫):征東副使兼陸奥守

お話しが『続日本紀(神護景雲三年(769)の条)』ですからもっと前の時代の方々ですねぇ。キーワードを〔陸奥國牡鹿郡〕〔陸奥國小田郡〕として、

 沙弥丸子連宮麻呂:陸奥国小田郡の私度僧
   (『続日本紀』天平勝宝元年(749)閏五月甲辰条)

 道嶋宿禰嶋足・・・恵美押勝の乱で活躍
   神護景雲元年(767)陸奥大国造

『陸奥国牡鹿郡を本拠とした丸子氏は、のちに牡鹿連を経て道嶋宿禰』(佐伯有清編「日本古代氏族事典」)・・・マルコって???

 大伴頬垂(金村の孫):丸子連祖
 大伴加爾古(金村の孫、頬垂の兄弟):仲丸子連祖

 金村爺が失脚したのが欽明元年(540)、狭手彦親父が高句麗相手に活躍した欽明23年(562)、ヒトゴノカミ綾糟さんが泊瀬川に来た敏達10年(581)、などなどを考えあわせると・・・。
 この大伴頬垂の一党が、陸奥国牡鹿郡/小田郡に赴任し、『陸奥國小田郡に居を構えていた』のかもしれませんね。6世紀半ば、西暦500年代中頃のことでしょうか。『大伴部押人』さん自身がどこに居た人なんでしょう???
 「俘囚/丸子一族」をもう少し追っかけてみます。

[6318] Re[6306]: フシュウ〜  恋川亭 2005/05/19(Thu) 15:30 [Reply]
> まず、「俘囚長=俘囚=蝦夷」なのかどうか、あたりから。

 とりあえず、森浩一先生の『山野河海の列島史』を読んでいるところです。この中に「蝦夷私考」という章があり、森先生の記述によると、

『俘囚とは広義の蝦夷ではあるが、国家の支配体制下に入った人のことである。』

とあります。今、まだ読んでいる途中。とりあえずの報告まで、です。
 なんだか蝦夷の世間常識に???が灯るような面白い内容です。(オススメ)

[6317] 狐と狸  ニギハヤヒ 2005/05/19(Thu) 13:52 [Reply]
「騙す」は「黙る」の他動形ですから「黙らせる」という意味からきている
と思います。

話は飛んで、「蕨手刀」は東北地方の狩猟民や山窩の生活必需品であったと
考えています。
勿論、敵に襲われて肉迫戦になった時や、熊や猪に襲われた時には武器として
使用されたと思います。
今でも南洋の原住民はジャングルを進む時に山刀で木や蔦を払いのけながら
獲物を探しています。
その場合に、小指を柄の曲がった所に引っ掛けると使いやすいと思います。
野球のバットの端が小指を引っ掛けるようになっているように。
西武ライオンズのカブレラは小指をバットの端に引っ掛けませんから、振った
時に滑ってバットが客席にまで飛んでいきました。
バットも蕨手刀も小指を引っ掛けないと「アブナイ」。

[6316] Re[6301][6300][6298]: 蕨手刀ふたたび  神奈備 2005/05/19(Thu) 09:05 [Reply]
> 「俘囚長」弘仁三年(812)六月、政府は受領に、俘囚の中から皆が服従する武勇に優れた者を選んで「夷俘長(いふちょう)」とし、法律を守らない仲間の俘囚たちに対する刑罰権を委ねるよう命じた。

 これは典型的な統治方法で実に経済的なものです。征服者と非征服者、非征服者は一種の奴隷のような存在で、征服者の前では身をかがめ額を地面にすりつけたりさされます。犬の真似をさされて、頭や肩に土をかぶったりすることも未開の国ではあったようです。隼人なんかがそうかも。
 非征服者が掟を守らない、この時いちいち征服者が出ていって罰を加えるのは面倒で手間がかかります。こういう場合、非征服者の中からましな者を選んで、征服者の仲間に取り込み、彼に統治をさせると言う方法は古来より採られてきました。このような人間は何時の世にもでてくるのです。
 現在で言えば、KS党と信者をとりあった某宗教団体が支配者側に回っています。

[6315] Re[6311]: 狐と狸  QUBO 2005/05/19(Thu) 09:02 [Reply]
> 只の思いつき。
> 魂(タマシイ)と騙す(ダマス)は何か関係があるのだろうか。
私も只の思いつき
本来の魂(タマ)を別の魂に ス ル → タマス → ダマス
ダマ は 濁ったタマ  又「する」は刷り込むの意 
青草のテーマのような気もします。

只の思いだし
「旨い」の語源は「甘い」
梅ぼ志飴の『榮太郎総本舗』
六代目・細田達さんの話の又聞
これは思い付きではなく思い出し

[6314] Re[6313][6312][6309][6308][6306][6305]: 幻滅教養・喪失素養  玄松子 2005/05/18(Wed) 22:41 [Reply]
わかりにくいので、追記。

> > 「俘囚=蝦夷」というよりも「蝦夷」とは何ぞや、ということが問題なんですけど。

貴方個人が、「蝦夷とはなにか」に興味があり、そちらの話がしたいなら、
『「俘囚=蝦夷」よりも「蝦夷」とは何ぞや、に興味があります」
と、書くべきです。

ですから、
>単に、貴方個人が『「蝦夷」とは何ぞや』かを知りたいということでしょうか。
ともお聞きしています。

[6313] Re[6312][6309][6308][6306][6305]: 幻滅教養・喪失素養  玄松子 2005/05/18(Wed) 22:37 [Reply]
話が伝わりませんね。


> 「蝦夷」という言葉が、本来固有名詞ではないのではないかという懸念があるからです。

「蝦夷とは何か」という問題が妥当ではないと、誰も書いておりません。

僕個人が、
> まず、「俘囚長=俘囚=蝦夷」なのかどうか、あたりから。
話を展開して欲しいと、提起したものに関して、

> 「俘囚=蝦夷」というよりも「蝦夷」とは何ぞや、ということが問題なんですけど。

なぜ、貴方が問題を限定するのか、と問うているのです。
僕が疑問に思い、興味を抱いた問題を、貴方が特定するのか、と問うているのです。

[6312] Re[6309][6308][6306][6305]: 幻滅教養・喪失素養  あまのや 2005/05/18(Wed) 20:55 [Reply]

> どうして、問題を、『「蝦夷」とは何ぞや』に限定する必要があるんですか?
> 誰が、その問題に限定したのですか?

「蝦夷」という言葉が、本来固有名詞ではないのではないかという懸念があるからです。

常陸国風土記に「国栖」・「佐伯」といった固有名詞が出てきますが、朝廷側に反抗する者に対して十羽一絡げ的に「蝦夷」という言葉を使っている感じがします。

また、それ以前に景行帝の時代に「蝦夷」なる言葉自体存在しなかったと考えます。大和朝廷が、連立国家的形態から中央集権国家へと移行していく過程で、中華思想にかぶれたインテリによって創り上げられた造語ではないでしょうか。


「蝦夷」という言葉はまことに便利な言葉です。これからも幾度となく使うことがあるでしょう。それだけに曖昧模糊とした状態で議論を進めるのはどうかと思いました。


> 「俘囚とはなにか?」ではダメなんですか?
> 「俘囚長は俘囚の一員か?」ではダメなんですか?

本来のテーマに戻ることに反対してる訳ではありません。
平安期には、ほぼ「蝦夷」=「蛮族」となっていますので、そういう前提で議論をしましょうか。

[6311] 狐と狸  神奈備 2005/05/18(Wed) 20:29 [Reply]
只の思いつき。
魂(タマシイ)と騙す(ダマス)は何か関係があるのだろうか。

[6310] ガンガンいこう!  恋川亭 2005/05/17(Tue) 22:31 [Reply]
> あまのやさん
> 「俘囚=蝦夷」というよりも「蝦夷」とは何ぞや、ということが問題なんですけど。

私も、まずその点の確認(深入りしない程度に)は、しておきたく思います。
おっしゃる通り、

> よく「蝦夷」は縄文人だのアイヌだのということを様々な文献で目にしますが、個人的にはやはり抵抗があります。

ぜんぜん、時代設定があわない説がありますからね。
(追求するということではなく、これからの論点での確認という程度。展開の前の確認、限定しているわけではありません。)

> むしろ夷人だの和人だのとの区別の前に朝廷の命に従わない、
> あるいは朝廷の法の及ばない大和政権勢力外の人たちに対する総称
> としての意味合いの方が強いのではないかと感じます。
> 和人でも朝廷に弓引けば蛮族扱いという事はあったのではないか。

私は和人だったんじゃないか、とすら思っていますし〜。(笑)

> 最後に無知無教養のあまのやですが、御教示御鞭撻の程よろしくお願いします。

 何度も書きますが、私がイビっている対象は、あまのやさんではなくて、教育や研究、著述に携わるプロの先生方です。アマチュアは遠慮なく、どんどん疑義を出していくべきだと思っています。(とくに身銭を切って著作を購入した読者は、批評であれ賞賛であれ反応を示しても良いのではないでしょうか。)
 それとも、あまのやさんは、そういう著述メンバーの一員・・・プロの方でしたのでしょうか???・・・そうでしたら、上記のような信条ですので、ド〜ンと胸を貸してくださいな。

[6309] Re[6308][6306][6305]: 幻滅教養・喪失素養  玄松子 2005/05/17(Tue) 21:37 [Reply]
> > まず、「俘囚長=俘囚=蝦夷」なのかどうか、あたりから。
>
> 「俘囚=蝦夷」というよりも「蝦夷」とは何ぞや、ということが問題なんですけど。

どうして、問題を、『「蝦夷」とは何ぞや』に限定する必要があるんですか?
誰が、その問題に限定したのですか?

「俘囚とはなにか?」ではダメなんですか?
「俘囚長は俘囚の一員か?」ではダメなんですか?

単に、貴方個人が『「蝦夷」とは何ぞや』かを知りたいということでしょうか。

[6308] Re[6306][6305]: 幻滅教養・喪失素養  あまのや 2005/05/17(Tue) 21:18 [Reply]

> まず、「俘囚長=俘囚=蝦夷」なのかどうか、あたりから。

「俘囚=蝦夷」というよりも「蝦夷」とは何ぞや、ということが問題なんですけど。


よく「蝦夷」は縄文人だのアイヌだのということを様々な文献で目にしますが、個人的にはやはり抵抗があります。むしろ夷人だの和人だのとの区別の前に朝廷の命に従わない、あるいは朝廷の法の及ばない大和政権勢力外の人たちに対する総称としての意味合いの方が強いのではないかと感じます。

和人でも朝廷に弓引けば蛮族扱いという事はあったのではないか。


最後に無知無教養のあまのやですが、御教示御鞭撻の程よろしくお願いします。

[6307] Re[6306][6305]: 幻滅教養・喪失素養  神奈備 2005/05/17(Tue) 20:13 [Reply]
 紀州の式内社刺田比古神社の鎮座地は紀伊國名草郡片岡の里(和歌山市片岡町)で、大伴氏の祖神を祀っているとされています。これは『続日本紀』(神護景雲三年(769年)の条)に次のようなお話が載っているからかも知れません。

 陸奥國牡鹿郡の俘囚であった大伴部押人が申し出て言うには「自分たちの先祖は紀伊國名草郡片岡の里の出身である。先祖が蝦夷を征討するべく陸奥國小田郡に居を構えていたところ、子孫が蝦夷に捕虜にされて俘囚となっていた。そこで俘囚の名を取り除き調庸の民に戻してほしい。」と願い出、これが許されたとあります。

 さて、一体いつ頃の征討時に捕虜にされたのかですが、孫の世代以上として75年以上は過ぎているとしますと、奈良時代初頭以前となります。

 和銅三年(710) 大伴旅人が遠征しているのか否か、よくわからない所。
 景行天皇四十年   日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。

 俘囚に二種類あるようで、先ず蝦夷で朝廷に帰属した民、それと征討軍で捨て置かれたりして捕虜になっていた大和人。

 蝦夷の住む東北では鉄が産出していたようで、蕨手刀などの兵器を生産できたので、不気味な存在だったと言います。北の核の如きものか?

[6306] Re[6305]: 幻滅教養・喪失素養  玄松子 2005/05/17(Tue) 18:18 [Reply]

> もとの本題であった景行天皇あたりの時代の話しに戻りましょう。

個人的には、俘囚あたりの話が興味深いので、そちらに逸れてもらった方が面白いと思います。

まず、「俘囚長=俘囚=蝦夷」なのかどうか、あたりから。

[6305] 幻滅教養・喪失素養  恋川亭 2005/05/17(Tue) 17:43 [Reply]
> そろそろ、この話題も潮時。

そうですね、これにてこの流れは終えます。

QUBOさん、ありがとうございます。

あまのやさん、参考資料はカナリ疑ってかかったほうがいいです。
 たとえ立派な先生の著作でも、鵜のみにせず批判しながら読むべきだと思います。すくなくとも引用された部分に限っていえば、石井昌国氏の説も松下孝幸氏による論も『偽』です。
 私は、刃物製造も武術も乗馬も射弓も、少ないながら経験がありますので、もっと詳細に論を張ることはできますが、例え経験がなくとも常識を働かすことで理解できる事項は多いはずです。私は、あまのやさんを責めているのではありません。引用されたような文章を専門家がプロとして公表していることにビックリしているのです。

あまり不親切だと失礼ですので、乗馬については一点のみ、
 @『髀肉の嘆』という故事をお忘れか?
弓矢についても一点のみ、
 A人類は致命傷すら与えられない矢で狩りや闘争をしてきたのでしょうか?
ご回答は不要です。以上で血腥い話題は切り替えます。

もとの本題であった景行天皇あたりの時代の話しに戻りましょう。

[6304] Re[6302]: 戦闘幻想  玄松子 2005/05/17(Tue) 10:37 [Reply]
そろそろ、この話題も潮時。

> >刀剣についてのみに絞って考えてみたい…  賛成します。
> 刀剣についての戦闘での幻想は一撃必殺です。
> そうしないと致命傷は与えられない荷です。

一対一の決闘じゃないので、そこまでは必要ないでしょう。
ただし、利き腕以外の手足に傷を負わせる程度では、直後の反撃によってこちらが負傷する確率が高いので、ある程度の傷は必要でしょう。そういう意味での殺傷力。

議論を戻せば、蕨手刀が、それに有効かどうかということですが、このあたりを論じる意味は、すでに無くなってると思う。

[6303] 無題  QUBO 2005/05/17(Tue) 09:52 [Reply]
[6301]あまのや 様
中味を書き込む前に誤って送信失礼しました
>出土した壮年男子人骨は上腕骨が著しく発達し、大腿骨が貧弱である。
>馬に乗ってると足腰弱るんですかね。
 はて?あまり聞いた事が無い話ですね。
騎兵であって腕力があった伝説の人・関羽雲長。足腰が弱かったんでしょうか?
日本の国技「相撲」の今の一人横綱・朝昇竜は下半身も強そう
かれは正に騎馬民族・生粋のモンゴルっ子です。

[6302] 訂正
「致命傷は与えられない荷です。」 荷(NI)を、の(NO) に

[6302] 戦闘幻想  QUBO 2005/05/17(Tue) 09:40 [Reply]
[6300]恋川亭 様
Q:『杖刀人』というのは、兵士or指揮官?
通説:兵士(但し高級:親衛隊とか中世の騎士のイメージでしょうか?)
乎獲居臣(ヲワケの臣)は、杖刀人首( じょうとうじんのおびと)なので
新鋭隊長とか近衛師団長のイメージでしょうかね。

>古代の主力武器は弓矢というところに・・・
これは現代の主力武器がミサイルと言っているようなもので
半分正しくて半分違ってます。というのは
湾岸戦争でも最後に戦闘を決定するのは戦車(=歩兵)です。
飛び道具(古い!)は、相手の陣形を崩す為に使います。

[6299]玄松子 様
>刀剣についてのみに絞って考えてみたい…  賛成します。
刀剣についての戦闘での幻想は一撃必殺です。
通常は出血多量で徐々に死にます。手当てをすれば助かります。
ちょうど拳銃による殺傷のようなものです。
最近の映画だと、一度に5〜6発位撃ち込みます。
そうしないと致命傷は与えられない荷です。

[6301]あまのや 様

[6301] Re[6300][6298]: 蕨手刀ふたたび  あまのや 2005/05/16(Mon) 22:30 [Reply]

山口県見島古墳群では21基中9基から鉄鏃(やじり)が出土しており、注目すべきは出土した壮年男子人骨は上腕骨が著しく発達し、大腿骨が貧弱である。このことから乗馬と騎射の習俗が、発達した上半身と華奢な下半身という俘囚男子独特の体型を作り出したものと思われる。(松下孝幸氏他による)

馬に乗ってると足腰弱るんですかね。

さて、鉄鏃が多く出土してるんですから、蕨手刀は二次的な道具だったのでは。しかし弓矢で相手に致命傷を与えるのは難しかったのではないでしょうか。
弓矢を射つくしたら、逃げるか突っ込むかしかないわけですから。
最後には組み討ちになるのかな。

>  刀(片刃)の重要な操作方法に、峰に手を添えて扱う使い方があります。柄の握りは片手ですが、両手使いともいえます。この操法は日本で顕著に発達しましたが、古代的な使用法とは思えないので割合します。

この当時、首を掻き斬るということをしていたかどうか解らんけど、そうした運用はあったのでは。

> > その被葬者が長門国の俘囚長だったと推定しています。
> > それぞれの地域の俘囚長のものではなかったかとしています。
>
> 蝦夷?


「俘囚長」弘仁三年(812)六月、政府は受領に、俘囚の中から皆が服従する武勇に優れた者を選んで「夷俘長(いふちょう)」とし、法律を守らない仲間の俘囚たちに対する刑罰権を委ねるよう命じた。

[6300] Re[6298]: 蕨手刀ふたたび  恋川亭 2005/05/16(Mon) 13:43 [Reply]
> ただ、今回は、蕨手刀から始まった話題なので、
> 刀剣についてのみに絞って考えてみたいと思っていました。
> さらに絞ると、刀剣における高度な技術(刀剣の殺傷力)とは、ですか。

 了解しました。刀(片刃)と剣(両刃)、そしてそれぞれ、片手持ちか両手持ちか、という形態の基本仕様(標準的な使用法)での検討ですね。

> 片手で人体に突き刺すためには、かなりの鋭利さか腕力が必要
> じゃないかと、思うんですけど。ヤクザだって両手に腰だめ。

 経験がないので、伝聞と読書と想像です。
 貫き通すほどならば『かなりの鋭利さか腕力が必要』ですが、敵戦士の戦闘能力を奪うことが第一義ですので、深く刺突する必要はなく、片手の刺突力でも充分ではないでしょうか(詳細は自粛します)。
 折れた剣先が体内に残ったままの遺骨などが発掘されてますね。深く刺し過ぎると折れたり、骨で刃が欠けます。戦場で刀剣が折れたり、すぐに抜けないでいると、危険な状況になります。
 刀(片刃)の重要な操作方法に、峰に手を添えて扱う使い方があります。柄の握りは片手ですが、両手使いともいえます。この操法は日本で顕著に発達しましたが、古代的な使用法とは思えないので割合します。
 ヤーサンの両手に腰だめは、鉄砲玉の戦法ですからネ〜。相手がヤッパを持っていない場合か、破れかぶれの玉砕です。

> 古代の戦闘で、歩兵が持つ盾は残ってるのかな。
> 盾を必ず持つなら、剣も槍も片手だなぁ。

 隼人の楯は有名ですね。木製の楯とか、埴輪でも楯がありますね。石上神宮で古墳時代の鉄楯を拝観しました。大きな物です、機動隊のジュラルミン楯ぐらいのサイズ。古代の楯は、矢を遮ることが主目的ではないでしょうかね。古代の主力武器は弓矢というところに帰ってきます(笑)。
 話題が、鹿島神宮・香取神宮まで辿りつけば、この掲示板での投稿を許していただけるかな?と思っているのですが、まだ遠いです(笑)。

 Q:『杖刀人』というのは、兵士or指揮官?

[6299] Re[6298]: 蕨手刀ふたたび  玄松子 2005/05/16(Mon) 11:53 [Reply]
古代の戦闘で、歩兵が持つ盾は残ってるのかな。
盾を必ず持つなら、剣も槍も片手だなぁ。

[6298] Re[6296][6294][6293]: 蕨手刀ふたたび  玄松子 2005/05/16(Mon) 09:26 [Reply]
集団戦闘において、槍や矛が主流であるということに異存はありません。
ローマであっても中国であってもそれは同じでしょう。

ただ、今回は、蕨手刀から始まった話題なので、
刀剣についてのみに絞って考えてみたいと思っていました。

さらに絞ると、刀剣における高度な技術(刀剣の殺傷力)とは、ですか。

>  両手仕様(双手把)か片手仕様(単手把)かについては、攻撃形態よりも得物の大きさ(長さ・重量)だと思うのです。

出土品しか見たことが無いので、当時の剣の鋭さが計れませんが、
片手で人体に突き刺すためには、かなりの鋭利さか腕力が必要じゃないかと、
思うんですけど。ヤクザだって両手に腰だめ。

[6297] Re[6296] 刀剣幻想  QUBO 2005/05/16(Mon) 06:37 [Reply]
・・・私も素人のヨコスレ・・・
> …中国の剣は短兵器…矛や戈は長兵器
>>> 『直刀は戦闘用兵器ではない』はずと考えます。
> この場合の戦闘とは、規模の大きい集団戦を想定して書きました。
> 投石(石礫)や弓矢ではじまり、矛や戈が主流。乱戦混戦状態では
> 刀も使ったでしょうが、一般の歩兵だと棍棒(石椎・頭椎型)も多
> いのではないかなと思います。『直刀は戦闘用兵器ではない』とい
> うのは指揮官の佩刀用だと思うからです。
 恋川亭さんの上記のご意見に座布団を二枚!!

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「賤ヶ岳 七本槍」は一例です。
戦場の主力武器は長兵器です。

少しは違いますが判り易く例えます。
刀剣は拳銃のようなものです。戦場ではあまり使われません。
拳銃は日常生活における戦闘性は高い。戦場における戦闘性は
とても低い。(戦闘性とは、武器としての実用性程度の意味です)

以下極端な表現です。
戦闘機の主力武器は、機関砲とミサイルですが、パイロットも
拳銃は持っています。不時着した時等、他の武器が無くなった
時の最後の手段としての使用ですよね。
通常騎兵は槍を使います。馬上で刀を振るうことは、馬を傷つけ
易いとして、禁じられています。そもそも刀を振るうような状況
は、騎兵の通常の戦闘状態では無いんです。
ミタメは派手ですから、映像にはよく取り上げられていますが。

一般論です
現代でも柔道に対し「剣道三倍段」と言います。
剣道の初段は柔道の三段に匹敵する、程度の意味です。
ところが更に「薙刀三倍段」とも言います。
薙刀の初段は剣道の三段に匹敵する、程度の意味です。
つまり戦いには長い武器のほうが有利なんです。
戦場の主力武器は長兵器です。

余談です
古代ギリシャのファランクス(密集方形陣)は、槍部隊です。
アレキサンダーの部隊の槍は、5(6?)Mもの長槍です。
これを正面突破できる戦力は当時何処にも無かったんです。
但し
一方向へのハリネズミのような形なので、側面や後方から
襲われるとアッとゆうまにボロボロになります。

[6296] Re[6294][6293]: 蕨手刀ふたたび  恋川亭 2005/05/16(Mon) 04:18 [Reply]
>> まあ、刀剣や武術の専門家が書いた本を読む学者は少ないので無理もありませんが、まるでTVや映画そのままのような記述は問題があると思います。
> 素人考えで申し訳ありませんが。

 私がいびっているのは、教育・著述のプロの方ですので・・・。私も素人のヨコ好きに過ぎませんしネ。

>> 後の世の日本刀でも『原則は片手使い』に造られていました。
> 鉄の剣が登場する以前(青銅時代)は? 両手じゃないの?

 むちゃくちゃ大型でない限り、片手使い仕様でしょう。青銅時代の剣は、お手本が中国だったとして、中国の剣は短兵器として分類され片手仕様ですね。木製の長い柄に取りつける矛や戈は長兵器で両手仕様。古代に限らず、両手持ちの刀剣は(世界的に)少数派のようです。
 それとも・・・両手使いの青銅剣が出土しているのですか???儀式用でなくて。

> 鉄の剣が登場しても、最初は突く・叩くが戦闘の方法だったのでは?

 青銅であれ鉄であれ、剣の戦闘技術は突くか、突くように切る(又は引きながら切る)、跳ね切る、といった方法でしょう。叩くといったことは、まず無かったと思います。折れちゃうから。剣では、刀のような一刀両断の斬撃=なで斬り・叩き斬りは、ちょっと向いてないような。

> 鍛治技術が発達してはじめて、切る方法へ進化したのではないでしょうか。

 硬度と刃の鋭利さ、ということですね。そういう意味で『切る方法へ進化した』ことは賛同します。しかし、一刀両断的斬撃を可能とする形状は、やはり剣より刀の構造だと思います。

> とすれば、突く・叩くでは両手が主流じゃないかなぁ。

 両手仕様(双手把)か片手仕様(単手把)かについては、攻撃形態よりも得物の大きさ(長さ・重量)だと思うのです。

>> 蕨状の形状は、非常に量産に適しています。鍛冶場で最終形状まで出来てしまいますから。目釘穴を開ける必要もないし、柄を作成する手間も不要です。

> 逆に云えば、鍛治現場で柄の処理までしなければならないわけで、分業には向かないのでは。日本刀のような立派な柄を作るのは手間でしょうが、兵士一人一人が自分にあった柄を付けるなり、蔓や布を巻きつけるなりの作業をすれば量産化は可能でしょう。

 蕨手形状の共柄をつくる『鍛治現場で柄の処理』は、手馴れた鍛冶師にしてみれば容易にすばやく行えます。これは現代の野鍛冶の作業を実見しての考察です。トンカントンカンとやって、後は研いで刃付けするのみという完成度なんです。分業不要、工程短縮です。

 また、中子(なかご)形式の柄については、日本刀のような立派な柄でなくとも、かなり製作に手間がかかります。
 『各自でカスタマイズせよ』と支給された兵士にしてみれば、中子(なかご)形でなくて(蕨手形状でなくとも)共柄の刀を望んだことでしょう。つまり握るところのシルエットが木製の柄と同じくらいのサイズの形状ということです。それならば、柄を付けずとも蔓や布を巻きつけると使えます。
 中子(なかご)形状ならば、そのまま蔓や布を巻きつけても実用には耐えません。中子(なかご)形状って、そんなに昔からあったのでしょうか?
・・・なんか、文章では難しいですね。

>> 『直刀は戦闘用兵器ではない』はずと考えます。
> この『直刀・・ではない』とすると、戦闘用はどのような刀を想定してますか?

 この場合の戦闘とは、規模の大きい集団戦を想定して書きました。投石(石礫)や弓矢ではじまり、矛や戈が主流。乱戦混戦状態では刀も使ったでしょうが、一般の歩兵だと棍棒(石椎・頭椎型)も多いのではないかなと思います。『直刀は戦闘用兵器ではない』というのは指揮官の佩刀用だと思うからです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> RE:[6295]
> 書き忘れました。
>> 玄松子さん[6288]
>>> 当時の戦闘が、騎馬による集団戦闘ならば、片手使いの刀の方が便利でしょうが、
>>> 歩兵主体なら、両手使いの剣の方が殺傷力が高いと、素人には思えます。
> とりあえず、剣と刀を使い分けています。間違いがあれば、ご指摘を。

失礼しました。歩兵が両手持ちの剣にて突き刺すのは、かなりの殺傷力でしょうね。剣=両刃、刀=片刃と使い分けて頂き有り難うございます。

[6295] Re[6293]: 蕨手刀ふたたび  玄松子 2005/05/16(Mon) 00:23 [Reply]
書き忘れました。

> > 玄松子さん[6288]
> > 当時の戦闘が、騎馬による集団戦闘ならば、片手使いの刀の方が便利でしょうが、
> > 歩兵主体なら、両手使いの剣の方が殺傷力が高いと、素人には思えます。

とりあえず、剣と刀を使い分けています。
間違いがあれば、ご指摘を。

[6294] Re[6293]: 蕨手刀ふたたび  玄松子 2005/05/16(Mon) 00:18 [Reply]
> まあ、刀剣や武術の専門家が書いた本を読む学者は少ないので無理もありませんが、まるでTVや映画そのままのような記述は問題があると思います。

素人考えで申し訳ありませんが。

> 後の世の日本刀でも『原則は片手使い』に造られていました。宮本武蔵が五輪書で指摘したのもこの点です。日本刀は片手でも両手でも使える万能武器ですが、直刀や蕨手刀は片手使用の仕様ですね。

鉄の剣が登場する以前(青銅時代)は? 両手じゃないの?
鉄の剣が登場しても、最初は突く・叩くが戦闘の方法だったのでは?
鍛治技術が発達してはじめて、切る方法へ進化したのではないでしょうか。
とすれば、突く・叩くでは両手が主流じゃないかなぁ。

>  蕨状の形状は、非常に量産に適しています。鍛冶場で最終形状まで出来てしまいますから。目釘穴を開ける必要もないし、柄を作成する手間も不要です。

逆に云えば、鍛治現場で柄の処理までしなければならないわけで、分業には向かないのでは。
日本刀のような立派な柄を作るのは手間でしょうが、兵士一人一人が自分にあった柄を付けるなり、蔓や布を巻きつけるなりの作業をすれば量産化は可能でしょう。

> 『直刀は戦闘用兵器ではない』はずと考えます。

この『直刀・・ではない』とすると、戦闘用はどのような刀を想定してますか?
蕨手刀?

[6293] 蕨手刀ふたたび  恋川亭 2005/05/15(Sun) 23:32 [Reply]
 『俘囚』の話しは次ぎに回して、先に『蕨手刀』からレスしますね。私も趣味で登山ナイフを作成しますので、刃物については少〜しだけ実体験があります。
 しかし、刀剣については、たくさんの誤認が学術書にも記載されていたりして驚かされます。まあ、刀剣や武術の専門家が書いた本を読む学者は少ないので無理もありませんが、まるでTVや映画そのままのような記述は問題があると思います。
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> あまのやさん[6284]より
> その特徴は、真っ直ぐな刀身に対して柄が外側にそっている「柄反り」にあり、馬を疾走させながら相手に斬りかかっても反動を抑え深く切り込めます。

 『反動を抑え深く切り込める』利点について、蕨手刀の「柄反り」と、後世の日本刀の『(刀身の)反り』が混同されています。刃のラインがカーブしていると深く切り込みやすくなります。人の肩・肘関節の構造により、斬る動きに適合しやすいからです。しかしそれは、刀身の刃の形状についての問題です。蕨手刀は刃の身幅が広いので刃先のラインはカーブしていますが、刀身自体は真っ直ぐが多いですね。
 蕨手刀の「柄反り」(握るところが反っている)は、片手操法が前提の形状で、力点が手元から20〜30cmの間にかかりやすいように造られています。刀身の長さも、登山ナイフから(江戸時代の)脇差ぐらいまでの長さのようです。『馬を疾走させながら相手に斬りかかる』ことが不可能とは言えませんが、蕨手刀の長さにはゼンゼン向いていません。

> 刀身と柄が一体の共鉄柄や熱した鋼を急冷して高度を高める焼入れも強烈な衝撃に耐えるための技法です。

 『刀身と柄が一体の共鉄柄』は以前にも投稿したことがありますが、実用型・量産型である証拠です。鍔や柄を必要とせずにそのまま共柄に布や紐、籐を巻くと使えます。
 蕨手型にクルリと柄頭を曲げるのも、掌の小指側にかかり握りやすい使いやすい実用形状なのです。曲げた箇所に紐を通す(手抜緒)こともできます。このような形状の刃物は現代でも製造されています。

 『急冷して高度を高める焼入れ』は刃の硬度を上げる為であり、「強烈な衝撃に耐えるため」では決してありません。鉄としては逆に脆くなってしまうので、焼き入れの後に焼戻しをしたり、軟鉄と組み合わせたりして粘りを持たせます。

> 一方政府軍の直刀の柄は細い茎(なかご)に取り付けられ疾駆しながらの斬撃の衝撃に耐えられず柄元から折れる恐れがあった。

 『柄元から折れた直刀』がたくさん出土しているのか見てみたいですナ。折れるとしたら、硬くて脆い刀身部分だと思います。茎(なかご)には焼きも入れないし細いために、折れるよりも曲がります。意外と太いところがポッキリ折れるので、鉄の性質は興味深いものです。茎(なかご)が共柄と比べると細いために折れやすいとは言えません。そんなに折れやすいなら、その後に茎方式の柄が全盛しません。また、茎(なかご)に木製の柄をつけることにより、掌への衝撃を吸収する効果があることも大切です。

> 疾駆しながら戦える「蕨手刀」と馬を止めないと戦えない直刀ではその戦術的格差は比較にならず、

 これは、馬上で扱うことについての話しですね。直刀であれ蕨手刀であれ、およそ刀は馬上で扱うには向いていません。テレビや映画の見過ぎですネ。
 馬上で扱う武器の基本は、矛(のちに薙刀や鑓)でしょう。もっと効果の高いのは弓矢ですが。古流武術には、馬上で刀をふるうと馬や我が身を傷つける危険性が大きく、討ち死に以前の問題なので心得るよう伝承されているものがあります。
 馬上の太刀扱いは、矛も矢も失った乱戦状態ではないでしょうか。『疾駆しながら』ではないはずです。蕨手刀では、まず長さが足りませんやん。

> 蝦夷の強さはまさに「蕨手刀」にあったといって過言ではない。
> 蝦夷はただの乱暴者では無く、高度技術を持った勇敢な戦士なわけです。

 蝦夷の戦場における個人戦の強さは多いに認めたく思います。しかし、蕨手刀とは別でしょう。(直刀も関係なし)
 蝦夷が『乱暴者』であるような表記は官製のものなので、鵜のみにはできません。また、蝦夷を異なる種族、蛮族としているのも官製の表現なので信用できません。(私は当時の蝦夷は異族でないと宣言してるの・笑)

 『高度技術を持った勇敢な戦士』そうですね!
それが後の防人、そして鹿島の神人による武術教練『鹿島立ち』へつながり、鹿島神伝流・香取神道流といった日本武術の根幹をなすのです。
 蝦夷と物部こそは、日本武士『もののふ』の源流といえます。
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> あまのやさん[6286]
> 「日本の歴史」第07巻(講談社)下向井龍彦著の引用です。
> あまのやさん[6287] 蕨手刀・補足
> 蕨手刀と直刀の技術的な違いの見解は、石井昌国氏によるものです。

 いやー、しかし、すごい先生方ですね。私の妄想など足許にすら及ばない。
石井昌国氏による『蕨手刀と直刀の技術的な違いの見解』が、もし引用されたような内容でしたら、学術的に裏づけの取れた見解とは思えません。(だまされたら、あきまへんで。)
=============================
> 玄松子さん[6288]
> 当時の戦闘が、騎馬による集団戦闘ならば、片手使いの刀の方が便利でしょうが、
> 歩兵主体なら、両手使いの剣の方が殺傷力が高いと、素人には思えます。

 古代の戦闘においても、騎馬で臨めたのは指揮官のみでしょう。殆どの戦闘要員は歩兵のはずです。この時代に、標準的な戦士が騎馬兵で構成される軍隊なんて!!ま、この問題は別の機会に。

 後の世の日本刀でも『原則は片手使い』に造られていました。宮本武蔵が五輪書で指摘したのもこの点です。日本刀は片手でも両手でも使える万能武器ですが、直刀や蕨手刀は片手使用の仕様ですね。
 戦国時代の戦いの様子を描いた絵などでは、片手で刀を持っている人が多いように思います。両手で持つ絵は、剣術の伝書に多いです。

> また、蕨状の形状が量産には適さず、「高度技術」というより古い形式にも思えるのです。

 蕨状の形状は、非常に量産に適しています。鍛冶場で最終形状まで出来てしまいますから。目釘穴を開ける必要もないし、柄を作成する手間も不要です。
 古い形式は、たぶん直刀の頭椎型の共柄でしょうか。蕨手形状は、当時の量産要求に応えた実用新案で庶民には大ヒットだったかも。大ナタとして使っていたかも。

 蕨手刀は戦闘以外にも使える実用タイプで量産品だったと思います。そして実用に使われているものは、量産されてたくさんあったとしても殆ど残らない。
 直刀は、馬に跨るような指揮官が佩くもので、殆ど『実戦には使用されなかった』はずです。柄や鞘の作成も手間や費用がかかるものです。研ぎだって簡単ではありません。もちろんメンテナンスも・・・。刀がステイタスに、霊器、神器になる要素は充分にあります。『直刀は戦闘用兵器ではない』はずと考えます。

俘囚については、また。ひとまず失礼します。

[6292] Re[6291][6289]: 蕨手刀  玄松子 2005/05/15(Sun) 21:20 [Reply]
> その被葬者が長門国の俘囚長だったと推定しています。
> それぞれの地域の俘囚長のものではなかったかとしています。

蝦夷?

[6291] Re[6289]: 蕨手刀  あまのや 2005/05/15(Sun) 20:12 [Reply]
「日本の歴史」では蕨手刀と蝦夷を結びつける根拠として、山口県見島にあるジーコンボ古墳群からの蕨手刀の出土をあげています。
ジーコンボ古墳群は二百基にのぼる積石塚古墳からなっており、岩手県の蝦夷の積石塚と同様に蕨手刀が出土したことから、その被葬者が長門国の俘囚長だったと推定しています。

また同様に関東以西で出土された蕨手刀も、それぞれの地域の俘囚長のものではなかったかとしています。

[6289] 蕨手刀  玄松子 2005/05/15(Sun) 19:04 [Reply]
ネットで少し検索してみました。

「山形大学附属博物館」
http://klibs1.kj.yamagata-u.ac.jp/museum/rekishikouko.html#anchor-warabitetou
「蝦夷討伐に従軍した兵士の携帯したものとする説がある。」

「岩手県立博物館」
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/015.html
「岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』ですが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から古東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられています。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、(略)」

蝦夷が使用していたと確定されているわけではないのでしょうか。
とすると、話は全然違う方向へ向ってしまいます。

[6288] Re[6286][6285][6284][6283][6273]: 俘囚  玄松子 2005/05/15(Sun) 18:49 [Reply]

> > 平原での戦闘には向くかもしれませんが、日本国内の戦闘で、それが高度な技術と呼べるのでしょうか。
> > 当時の戦闘(戦争)形態については、どうだったのでしょうか。
>
> 兵器の優劣の差はやはり大きいのではないでしょうか。

当時の戦闘が、騎馬による集団戦闘ならば、片手使いの刀の方が便利でしょうが、
歩兵主体なら、両手使いの剣の方が殺傷力が高いと、素人には思えます。
また、蕨状の形状が量産には適さず、「高度技術」というより古い形式にも思えるのです。

> 貞観十一年(869)の新羅海賊のとき動因された俘囚たちは、一以当千の英雄的戦いぶりだったと賞賛されたとのことです。

この表現の信憑性は分かりませんが、不安定な船上戦闘ならば、片手使いの刀の方が有利でしょうね。

[6287] 蕨手刀・補足  あまのや 2005/05/15(Sun) 18:03 [Reply]

蕨手刀と直刀の技術的な違いの見解は、石井昌国氏によるものです。


[6286] Re[6285][6284][6283][6273]: 俘囚  あまのや 2005/05/15(Sun) 17:56 [Reply]

> > 一方政府軍の直刀の柄は細い茎(なかご)に取り付けられ疾駆しながらの斬撃の衝撃に耐えられず柄元から折れる恐れがあった。
>
> これは事実ですか? 推測ですか?
> また、西日本には、蕨手刀はなかったのですか?

すいません。これは持論ではありません。「日本の歴史」第07巻(講談社)下向井龍彦著の引用です。

蕨手刀は蝦夷勢力の拠点岩手県胆沢地方に濃密に分布し、関東以西で40数例報告されているが俘囚たちが持ち込んだものとしています。

> > 蝦夷はただの乱暴者では無く、高度技術を持った勇敢な戦士なわけです。
>
> 平原での戦闘には向くかもしれませんが、日本国内の戦闘で、それが高度な技術と呼べるのでしょうか。
> 当時の戦闘(戦争)形態については、どうだったのでしょうか。

兵器の優劣の差はやはり大きいのではないでしょうか。
貞観十一年(869)の新羅海賊のとき動因された俘囚たちは、一以当千の英雄的戦いぶりだったと賞賛されたとのことです。

[6285] Re[6284][6283][6273]: 俘囚  玄松子 2005/05/15(Sun) 16:54 [Reply]
菊川玲が投稿していたのかと、ビックリしました。

で、横から。

> 一方政府軍の直刀の柄は細い茎(なかご)に取り付けられ疾駆しながらの斬撃の衝撃に耐えられず柄元から折れる恐れがあった。

これは事実ですか? 推測ですか?
また、西日本には、蕨手刀はなかったのですか?

> 蝦夷はただの乱暴者では無く、高度技術を持った勇敢な戦士なわけです。

平原での戦闘には向くかもしれませんが、日本国内の戦闘で、それが高度な技術と呼べるのでしょうか。
当時の戦闘(戦争)形態については、どうだったのでしょうか。

[6284] Re[6283][6273]: 俘囚  あまのや 2005/05/15(Sun) 16:19 [Reply]

菊川亭さん、お気ずかいいただきありがとうございます。
「佐伯」と「蝦夷」については不明な点が多く、もう少し調べてからと思っていたのですがいい機会なので書き込みます。

「内国移配」 8世紀末から9世紀初頭の蝦夷征伐戦争で帰服した多くの蝦夷を国内各地に強制移住させる政策をとっています。移配が確認される国は、じつに44ヵ国にものぼりほぼ全国に移住させています。(参考文献「日本の歴史」第07巻 武士の成長と院政 下向井龍彦著)
また7世紀には、かたばみ様の記述にあるような蝦夷の朝廷に対する服属儀礼が見受けられ、それ以前から「俘囚」として各地に配流されたものと思います。佐伯直に託された蝦夷はそうして配流された蝦夷の一部分なのかもしれません。
「内国移配」は10世紀には全国の「俘囚」を陸奥への還住というかたちで終了し、全国にあった「俘囚郷」もその姿を消した。

ところで、蝦夷で興味深いのは「蕨手刀(わらびてとう)」といわれる武器です。その特徴は、真っ直ぐな刀身に対して柄が外側にそっている「柄反り」にあり、馬を疾走させながら相手に斬りかかっても反動を抑え深く切り込めます。刀身と柄が一体の共鉄柄や熱した鋼を急冷して高度を高める焼入れも強烈な衝撃に耐えるための技法です。
一方政府軍の直刀の柄は細い茎(なかご)に取り付けられ疾駆しながらの斬撃の衝撃に耐えられず柄元から折れる恐れがあった。疾駆しながら戦える「蕨手刀」と馬を止めないと戦えない直刀ではその戦術的格差は比較にならず、蝦夷の強さはまさに「蕨手刀」にあったといって過言ではない。
蝦夷はただの乱暴者では無く、高度技術を持った勇敢な戦士なわけです。

そして佐伯直という軍事的伴造の下で蝦夷はその軍事的才能を存分に発揮したのではないだろうか。

[6283] Re[6273]: 俘囚  恋川亭 2005/05/15(Sun) 04:08 [Reply]
 関西から名古屋へ行くと、エスカレーターでは左に寄って右を空けなければならない(関西以西では右に寄って左を空ける)。このとき、
  『あゝ、東国に入ったんだナァ』
なんて思うのであります。(私は『車は左、人は右。廊下や道路は右側通行で歩きましょう。』と学び育った年代です。)

 閑話休題(そんな話しはほっといて)。
あまみやさん、ごめんなさい。佐伯直に託された東国の蝦夷の話に区切りをつけたくて、ネチネチと投稿します。
〔伝わってきたこと〕
 【A】あるとき、大和の部隊が東国に遠征した。
 【B】東国で捕虜にした者達を伊勢に送った。
 【C】伊勢に送られた捕虜は大和へ転送させられた。
 【D】大和へ転送させられた捕虜達は佐伯直に託されて各地に散った。
要約すると、まずこういうところでしょうか。

んで、私が思うのは、伝承の通りに、大和の部隊が東国を遠征したことを認めるとしても、それが武力的征圧が成功したゆえのことなのか疑問を持っています。

 捕虜の数が数十人、数百人単位ならば、歴史的記録に残すほどのことだとは思えません。その後の分岐、拡散のことを考慮すると合計では、やはり数千人以上の移住だったことでしょう。
〔うるさくてかなわん!なんとかしてくれ!という程の蝦夷の人数〕

 数千人の「捕虜」を収集して伊勢へ送りつける、その管理部隊の組織体制、その途中の寝食の確保、等など「捕虜」の管理移送形態はどうだったのか?
〔蝦夷は遠慮なしの傍若無人ぶり!〕

 遠征部隊の構成と維持・補給の方法と併せて想像してみたとき、武力的示威は保ちつつも実際には、『新規交易(役労働)を勧誘するのための契約事業的出張』ではなかったか?と、
そのように思っています。

 「捕虜」とか「俘囚」などという表現は、後の世の学者が都合よく記紀に記載した言葉なのではないでしょうか。佐伯直に託されて、後に佐伯部の部民とされる東国からの移住者は、大和の役人が欲した技能的労働者集団だったと思うのです。
〔蝦夷が勝手に樹木を伐きだす(道具も持っていたはず)〕

 ねッ?よくよく見てみると、言葉たくみに人を集めて送り込んでいませんか?
当時の「俘囚」とされた蝦夷のおっちゃんにインタービューすると・・・
『西国で役につくと、ヒトトセに○○を○○もらえるという約束で出てきたんだナー』と返答があるかもしれない。その当時は(後代のような国家形態はなくとも)、交易も役も既に在った概念のはずでは???(くづつ←)

[6282] Re[6275]: 穢れと鳥居  恋川亭 2005/05/15(Sun) 00:25 [Reply]
 私は「穢れ観」について、まだ詳しく判りませんので、「エエカゲン」なレスになってしまいますが・・・。タブーの成立を考えるときに、「穢れ観」も1つの要素としてあったのでしょうが、それだけに限るとは思えずに模索しているのが私の現状です。

 淡路島舟木の石上神社については、その磐座の中心部分は男性ですら禁制であり、選抜された(稚児さんのような?)子供のみが入って祭祀をするということ。(中に小さな御幣をいくつか立てて特殊な神事をするようです。)
 また、男性であっても(集落外の)よそ者が神域に入り、(その結果として)集落内に災いをもたらして困るといったことなどを読みました。

つまり、そこでの女人禁制というのは「穢れ観」による女性差別のようなものでなく、
  @まず原則として「人間みんな禁止」があり、
  A祭祀のためという理由で選抜された子供は磐座まで「許可」、
  B同様に集落の男性は拝殿まで「許可」、
  C女性及びよそ者は瑞垣と鳥居の外に、
ということではなかったのかな、と思います。もっとも「許可」というより「指名」だとも思いますが。こうなると祭礼で選ばれる子供というのは犠牲的な役割に近いでしょう。

 現代人は『なんで入れてくれないんだ!』と考えがちですが、昔の人にとっては『入るな危険!』という場所だったのではないでしょうか?
 瑞垣と鳥居は、集落の生活者にとって『恐ろしいほどの神威』を限定させる安全装置だったという視点です。女人禁制は女性保護ということです。
 いつしか「恐怖の神様」から「親愛なる神サマ」へと信仰が変わってきたときに、女性でも「神サマ」の磐座を拝みたいという願いを受けて、『稲荷神社へ行く道から直接本殿を拝めるように』なったのでしょうね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
もうひとつ、「穢れ観」で不思議に思ったことを。
 だいたい『穢れを祓ってくれるところが神社』であって、
 そもそも『穢れを祓ってくれるのは神様しかいない』はずでしたね。

 ですから、祭礼・祭祀ごとの目的や性質・手順を確認しながら見ていかないと、(私にとっては)見誤りやすい問題のように思います。「現代的心情や理念」にとらわれずに歴史を見ないと難しいでしょうね。
 民俗学に造詣の深い方々のご指導を仰ぎたいところです。
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伝奇屋蛇足:どなたかのHPで拝読したのですが・・・
 鳥居にはちゃんと、お詰めの神さまいらっしゃって、神域警護をされていらっしゃるとか。ご神職による正式な参拝では、鳥居での作法も厳格にあるそうですね。

[6281] 三内丸山について  平御幸 [Mail] [Url] 2005/05/14(Sat) 17:34 [Reply]
ニギハヤヒさんの質問にお答えします。

縄文文化は、渦巻きをシンボルとした前17世紀のヒクソス系と考えられます。ヒクソスの中にヤコブの名前があるので、イスラエルとの婚姻関係があったと考えられます。ソロモン神殿を造ったオフルの金が古代日本から運ばれた可能性もあります。いずれにしても、三内丸山の柱間は2/3神聖キュビトの35pと、0.8神聖キュビトの42pの倍数になっています。

古墳については基本的に太陽角度連動メートル法で造られていますが、52.5mや105m、210mの寸法などは神聖キュビトの倍数です。代表的なものは、柿坪中山古墳群石室内法長2.8m、赤坂今井墳丘墓坑・京都弥生時代10.5m、河合大塚山古墳長210m、築山古墳長210m、天神山古墳長210m、始皇帝陵幅350mなど。なお、45pのキュビトと、52.5pの神聖キュビトを混同しないで下さい。

この程度はご自分でも調べられるでしょう。サイトのアクセスを調べましたが、トップやサブのみで肝心の原稿を読もうとしない人が大半です。サイトの方の原稿を読んでいない人の質問に対してはこれきりとします。なお、縄文時代はそんなに古いものではありません。エジプトの歴史も、古王国がイスラエル王朝なので千年は短くなります。

[6280] イスラエル  ニギハヤヒ 2005/05/14(Sat) 11:47 [Reply]
エフライム工房の平御幸さん、
古墳が「キュビト」尺で造られている資料があれば教えて欲しいですね。
「フル」は遊牧民の言葉で世界中の地名に残っていますね。日本にも天理市の
布留町、布留川、石上神宮の布留御魂(ニギハヤヒ・大歳)として残っていま
すが、「フル」が語源と思われます。
イスラエル王国が滅ぼされたのは紀元前722年、ユダ王国が滅ばされたのは
紀元前586年ですから、彼らの一部が日本に来たとしても紀元前7世紀から
紀元前4世紀の頃になります。その後紀元4世紀にも渡来しています。
その影響が神社や日本の習慣に取り込まれているという意見はありますが、
三内丸山遺跡は時代が合わないと思います。いかがですか?

[6279]  神奈備 2005/05/14(Sat) 11:19 [Reply]
福井県の鳥浜貝塚から、縄文人の利用した植物の遺物が出ているとか。
その中に椿(これは国字)の木の細工の櫛が出土しているようです。赤いウルシが塗られている縦櫛は洗練されたものだとか。
http://inoues.net/ruins/torihama.html
椿は栄木であり、神事にも使われ、また仏事ではお水取りでの花揃えにツバキの造花が木に結びつけられるそうです。なお、大陸の仏典にはツバキは登場しないそうです。

[6278] Re[6262]: こんにちは  平御幸 [Mail] [Url] 2005/05/14(Sat) 08:29 [Reply]
古代史サイト「エフライム工房」の平御幸です。

> 社の中には「豊磐門戸神」と「櫛磐門戸神」と書いてあるのですが

高松塚、藤ノ木古墳、法隆寺、三内丸山古墳を始めとする古代遺跡は、聖書の神聖キュビト52.5センチ尺で造られています。これは、クフのピラミッドやソロモン神殿と同じ尺度です。ですから、古代イスラエルとの関係を無視した考察では本質に迫ることはできません。

長くなるので省略しますが、二つの神社の「豊」も「櫛」も、エジプト時代のイスラエルのシンボルです。古代エジプトの宰相だったヨセフが住んだのがテーベで、テーベの別名の一つに豊があるのです。トヨとはヨセフの土地を意味し、ヨセフの出身地フル(エフラタ)の意味が「豊か」だったのです。これが古里の語源です。

それで、豊の字はテーベの地形を指す曲がった豆と書くのです。略体ではない字は、七支樹が二本の冠です。これは、ヨセフの名前の「七で分ける」を具体化したもので、テーベの象徴の14で区切られたセパト(行政区域)や、アメン・ラー神の被るアテフ冠が14で区切られているのと同じです。ちなみに、ア・テフは蝶結びの語源で、それで蝶をテフと言ったのです。

次に櫛ですが、ヨセフの孫娘のセラがハトホルのモデルとなったので、セム系の女性に必需品の櫛がハトホルのシンボルとなったのです。エジプト人の縮れ毛には櫛は通りませんから、直毛のハトホルはイスラエルの娘なのです。エジプトの古王国はイスラエル王朝であり、それを記念して造られたのが明日香の遺跡です。伊勢と明日香はヨセフの妻アセナテが語源で、ヨセフの父ヤコブのエジプト名がクフなのです。それで、古王国の彫像はどれも日本人に酷似しているのです。中国発祥と思われている陰陽五行も、実はイスラエルのエジプト時代にルーツがあり、ヤコブの家族とヨセフの義理の父ポテペラの家族に、陰陽五行の法則で干支の持つシンボルを与えたのがエジプトの神々の系譜なのです。ちなみに、櫛をシンボルとするハトホルのモデルとなったセラは、セラピストのルーツとなった偉大な女性です。膨大な量を掻い摘んで書きましたので、詳しくはエフライム工房でご確認下さい。平御幸(Miyuki.Taira)

[6277] Re[6276][6269][6268][6267]: 曾尸茂梨  福島雅彦 [Mail] 2005/05/12(Thu) 22:14 [Reply]
> よく分かりませんが、
> 建には頭の意味が残っているのかも知れませんが、速は何でしょうね。建と速とから牛は出て来にくい感じが・・・。

※「建速(こン・そク)」⇒「牛頭(ご・ず)」=「素盞嗚尊=須佐之男命」繋がりです。
少々強引ですが…。
∴「建速」を「たて・はや」とは読まない、読めない、が伏線に。一文字一音(仮名の黎明期?)からも外れますし…。

[6276] Re[6269][6268][6267]: 曾尸茂梨  神奈備 2005/05/12(Thu) 08:13 [Reply]
>  建速須佐之男命の「建速」=「牛頭(天王)」=“쇠(씨)-머리”=曾(尸)茂梨、も成立するか、と。

建速を冠にしている神名の殆どは素盞嗚尊です。
と言って、建で言えば、建御名方命、建御雷命など。
速で言えば、速開都比賣命、速日天乃忍穗耳命など。

よく分かりませんが、
建には頭の意味が残っているのかも知れませんが、速は何でしょうね。建と速とから牛は出て来にくい感じが・・・。

[6275] 穢れと鳥居  神奈備 2005/05/12(Thu) 08:12 [Reply]
>  以前、タブーを穢れ観念からみた投稿が続いていましたね。

鳥居をくぐらずにと言うか、鳥居のある道を通らずに、本殿付近まで近づけるようになっている神社が見られます。これは大きい神社や古社に限らないのかも。
 当所は、近隣の人々の便利さと思っていましたが、それだけではなく、そうやら差別の観点から考えるべき道の要素もあるようです。

 淡路島の舟木の石上神社は女人禁制の神社ですが、稲荷神社へ行く道から直接本殿を拝めるようになっています。これもその類かも。

 熊野古道でも、同時期にでもルートは二本はあったと。上皇様のお通りの道と小栗判官さんのような病人が通る道とです。

穢れと鳥居から思いついたコメントでした。

[6274] Re[6273]: お詫び  恋川亭 2005/05/11(Wed) 10:38 [Reply]
> あまのやさん
また、きつい書き方になりまして、ごめんなさい。m(__)m
私は不愉快には感じてませんヨ。いろんな意見があって当然なので、別な意見として私も投稿したまでです。ですから、否定ではなく「疑問」としたのです。本筋からはずれた内容でしたが。あまのやさんが、お詫びされることはないですヨー。

それより、ここ↓なんですが・・・

> 本意は「日本書紀」や「古事記」は天皇家(勝利者)の側からの視点で書かれているわけで、その内容をそのまま鵜呑みにされるのはいかがなものかとの思いから・・・

その意味で、例えば
 @大和朝廷側が「征服者」で、蝦夷側が「被征服者」。
 A移住させられた蝦夷は、捕虜・俘囚・罪人・隷属民。
 B天皇家は、勝利者。
と考えてしまうと『内容をそのまま鵜呑み』のワナに引っ掛かってしうのではないでしょうか? 「日本書紀」や「古事記」を制作した当時にカナリ都合よく『歴史認識を規定』させることに成功したと思うのです。(同じ事柄を扱っていても、言葉の適用で意味合いを替えてしまったと。)
 蝦夷が『結果的に被征服者となった』と気付いたのは、朝廷側の東国進出よりも、かなり後のことではないかと推測しています。

> というか、つい勢いで書いてしまったのですがお恥ずかしいしだいです。

というか、私は勢いでしか書けないので、いつも顰蹙を買ってますが・・・、
あまのやさん、ガンガンいきましょう。

[6273] お詫び  あまのや [Mail] 2005/05/11(Wed) 09:13 [Reply]
私の書き込みで一部不適切な表現がありました。
本意は「日本書紀」や「古事記」は天皇家(勝利者)の側からの視点で書かれているわけで、その内容をそのまま鵜呑みにされるのはいかがなものかとの思いからでしたが結果として無神経な書き込みとなってしまいました。

というか、つい勢いで書いてしまったのですがお恥ずかしいしだいです。

かたばみ様、恋川亭様、またこの書き込みを不愉快に感じられた皆様まことに申し訳ございませんでした。

深くお詫びいたします。

[6272] Re[6260]: 佐伯部と佐伯直  恋川亭 2005/05/11(Wed) 02:57 [Reply]
本筋からはまったく離れますが、拝読していて引っ掛かりましたので・・・、

> 日韓併合の際、神社を建ててそれを無理矢理拝まして韓国・朝鮮の人たちの日本に対する信頼があったと・・・
> 征服者と被征服者の立場を理解すべきでは。

@『日韓併合の際、神社を建ててそれを無理矢理拝まし』たのは半島全土に一般的なのか?
A日韓併合は『征服』であると内地の国民の一般認識だったのか?
B内地と外地は『征服者と被征服者の立場』であったのか?

 この3点について疑問に思いました。上記の参拝がまったく無かったと反対しているわけではありません。内地の国民でも玉影を強制的に拝まされた時代ですから。むしろ『征服者と被征服者の立場』をきちんと分けずに、内鮮一体化などを進めたところに問題があったのでしょう。
 疑問は反対ではありませんので、納得できれば解消します。しかし、ここは政治思想や近代史の掲示板ではありませんし、ご投稿の主旨とも離れますので、『上記の3点を疑問とする者もいる』という主張の表明だけで終わります。機会があれば他の場所で拝読したく思います。

 アジアの近代史は、「現時点での心情」において主張する人が多いのですが、できるだけ「当時の状況」を考慮して真実を追いかけたいですね。現在、政治的・経済的な思惑で、歴史認識の曲解や操作が横行しています。安易にその流れに乗ってしまうと、むしろ平和と自由を失うことになりかねません。我が国は言論の自由が保証されていますので、真実を追究し主張する環境を維持して、さまざまな圧力から守っていきたいと思います。

 以上、言いがかりのようで失礼しました。

[6270] 御嶽_亀レス  恋川亭 2005/05/10(Tue) 23:32 [Reply]
Re[6208]: 今春看又過  
> 玄松子さん [6208] 2005/04/24(Sun)
>> 御嶽の入口に鳥居があるのがチョット意外でしたので。
>> わりと多いのでしょうかネ?
> 御嶽については、知らないので近づかないようにしていたため、わかりませんが、
> ネットで探したら、こういうのが。
> http://w1.nirai.ne.jp/oki-muse/Japanese/answers-folklore.htm
> 引用「沖縄固有の御嶽信仰を国家神道に組み入れる動きがはじまりました。
> 現在でも、御嶽の入り口に鳥居(とりい)がのこっている場所がありますが、
> 本来は、御嶽の入り口に鳥居はありませんでした。」
> 沖縄の神社境内には、かならず御嶽、あるいはそれに近い拝所がありましたね。

だいぶ亀レスになって、すみません。
 沖縄で神社に行かなかったので <(__)> 知らないのですが、首里城の中や周囲にも、たくさん拝所や御嶽がありました。観光客は素通りでしたが。m(TT)mオガメヨー
 順序からすると、沖縄では御嶽や拝所のあった近辺に、あとから神社が創られたのでしょうね。

 沖縄から関西に帰ってきて、明日香などを廻ったのですが、逆に・・・神社の中に『この辺は御嶽っぽいなぁ』と思える場所を見つけたりして面白かったです。
 私のような『濃ぃ〜いの大好き』連中が、古社や元社・奥宮の敷地内でゴソゴソと嗅ぎまわる場所は、偶然にも御嶽のイビ(斎部・威部)に相当する処のように思えてきました。

 沖縄の御嶽・拝所と、本州の神社様式との発展の違いは、
(1)仏教浸透の有無。(神社→建物のある寺院に影響をうける?)
(2)解放性。(神社→結果として公共的。御嶽→集落単位のプライベート的)
かな?と素人考えに感じました。
 本州の神社は、氏子以外に他所の者も参詣するので、玄関として鳥居が構えられたのかも? 一応、ここからお入り下さい、という門として。(つまり鳥居から拝所までは入っていいヨ、但しルートを守ってネ。という設定コースというわけです。)
 沖縄の御嶽は、元来、その集落の神女しか入らないので、鳥居や社殿は必要ないのでしょう。
 本州の神社でも、一番重要な処は禁足地として、侵入禁止で建物もなかったりします。要(カナメ)は同じですが、人の往来の多い少ないで変わってきたのでしょうか。
 本州と比べて、沖縄は中国文化の影響が少ない地域だと思います。
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> 御嶽については、知らないので近づかないようにしていたため

 玄松子さんからは『当然の事』と書かれそうですが、正しい態度のご表明、ありがとうございます。沖縄の御嶽や本州の禁足地の、立入禁止・侵入禁止は固く守っていくべき鉄則です。
 以前、タブーを穢れ観念からみた投稿が続いていましたね。御嶽・禁足地への侵入禁止というタブーについては、『プライバシーの尊重』という観点から訴えると、若い人達にも理解できるかもしれません。祭祀をされている人達にとって、とてもプライベートな処ですから、『部外者お断り』というのは当然の事です。
 以上は、まあ擬似的で、比喩的な論に過ぎませんが、神域のタブー尊重・遵守を行ってほしいナという訴えです。
 自然保護の観点から、東シナ海海域の開発に反対する声明が聞えてきませんね。
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 そんなに多くの神社を参拝した経験はありませんが、それでもノンカミの頃には意識しなかったことがあるようになりました。歩いていたり、電車やバスの車窓から眺めていて、
 @ あの辺りに社がありそうだな〜、とか
 A あれはヒモロギだろうな〜、とか
 B あれは神奈備山だろうな〜、とか
 C 多分あそこに奥宮があるな〜、とか
 D ここからは向こうにお通し(遥拝)だな〜、とかとか
 実際には神社は無くとも祠や拝所・磐座・御嶽・遺跡があったり、などと空間を立体的に捉える楽しみが増えました。歴史という時間軸上の事柄が、実空間に展開するのです。これも、このサイトで神奈備という観点を教わった賜物ですね。(神Naviセンサー?)
 以上、とりとめもない感想でした。

[6269] Re[6268][6267]: 曾尸茂梨  福島雅彦 [Mail] 2005/05/09(Mon) 17:25 [Reply]
>  福嶋さん持論の素盞(嗚尊)=(soe-sang=製鐵王)の変形ですね。
> meo-ri⇒頭の意味があるのなら、製鉄のトップの拠点のような意味にもとれると思います。みんなで競って鉄を採った谷那鉱山かもしれません。素盞嗚尊は、この国には金銀があるが..云々と言っていますので、無理はない説かも知れません。
>  soe-ssi の ssi は sang と同義なのでしょうか??

※韓国語で「○○氏“ssi”」と成っているのが、これからの転かと、仮定しています。
或いは、「若い衆(し)」、「あん人達ゃ、よか(良い)衆(し)」の古代倭語か、と。
 建速須佐之男命の「建速」=「牛頭(天王)」=“쇠(씨)-머리”=曾(尸)茂梨、も成立するか、と。

[6268] Re[6267]: 曾尸茂梨  神奈備 2005/05/09(Mon) 13:42 [Reply]
> ※“쇠-씨-머리”(soe-ssi-meo-ri)⇒製鐵の長(おさ=頭目・頭=かしら)との解釈も…。

 福嶋さん持論の素盞(嗚尊)=(soe-sang=製鐵王)の変形ですね。
meo-ri⇒頭の意味があるのなら、製鉄のトップの拠点のような意味にもとれると思います。みんなで競って鉄を採った谷那鉱山かもしれません。素盞嗚尊は、この国には金銀があるが..云々と言っていますので、無理はない説かも知れません。
 soe-ssi の ssi は sang と同義なのでしょうか??

[6267] 曾尸茂梨  福島雅彦 [Mail] 2005/05/08(Sun) 22:20 [Reply]
※“쇠-씨-머리”(soe-ssi-meo-ri)⇒製鐵の長(おさ=頭目・頭=かしら)との解釈も…。

[6266] Re[6260][6259]: 佐伯部と佐伯直  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/05(Thu) 22:54 [Reply]

≫この頃には佐伯直は存在していた訳で、単に佐伯直に配されたから「佐伯部」ではないの?

氏族の系譜については太田亮の研究におんぶにだっこです(^^;
部分といえどこれをしのぐなどできそうにない。
さて、その上で・・

「佐伯直の祖」が景行天皇の稲背入彦命(姓氏録)より古いとみえる情報を私は知りません。
景行天皇の蝦夷の播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波への引越(佐伯部の祖)、これと同時にその管理者(佐伯直の祖)が任命されるのが自然と思います。

仁徳紀40年の播磨の佐伯直の阿俄能胡への隼別皇子(応神の子)の殺害命令、が「佐伯直」の文言の初登場とみえます。
ただし、記紀編纂時代の感覚でその文言が使われた可能性がありますから、この時代に佐伯直の姓が登場していたのかどうかはなんともいえませんけれど。

「佐伯」の表現がいつ登場したかもなんともいいがたいです。
岩波の風土記注には佐伯を、朝廷の命令をサエ(遮塞)抗する者、の意とありますが、発音や語源考ではいろいろな誘惑がたくさんありますので、そろりそろりとやっています。


景行紀51年、蝦夷が伊勢に献じられたが騒々しいので倭姫命は朝廷に献上。
朝廷は蝦夷を御諸山(三輪山)に置いたが、やはり民を驚かすので「蝦夷の願うように」近畿以外に住まわせた。
蝦夷をいったんは三輪山(出雲の大物主命)に住まわせたのは、後の敏達天皇の蝦夷のありようとつながるとみます(出雲との関係、後述)。

景行天皇は蝦夷を罰するどころか「蝦夷の願い」を聞き入れています。
蝦夷が単なる隷属者ではないことを示すものとみます。
また、蝦夷を特殊技能集団とする目的があったための譲歩(懐柔策)でもあるとみます。
(その中には南部鉄の源流ともなる鉄生産に関与する集団もあったかもしれない)

仁徳紀38年には佐伯部を皇居に近づけたくないとあり、佐伯部が狩猟者であることをうかがわせる記述があります(空海の前に現れた狩場明神は南山の犬飼、これも狩猟者でしょう)。
景行紀や仁徳紀での蝦夷(佐伯)の行動は中央の生活習慣からは異端であったのは間違いないと思います。



伴氏系図を調べたことはありませんが、以下の系図に若干の即席の考察を加えてみます。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm

−−道臣命(神武朝)−−味日命−−稚日臣命−−大日命−−角日命−−豊日命
−−武日命(垂仁朝五大夫のひとり、日本武尊東征に随伴)−−大伴連武持(仲哀朝)−−大伴室屋−−

姓氏家系辞書/太田亮によれば、上記伴氏系図で略されている空海につながる9代は、
「歌連」(佐伯氏姓を賜る)−−平曾古連(安芸厳島に住)−−平彦連
−−伊能直(讃岐多度郡縣令)−−大人直−−枳都直−−男足(初めて佐伯直を号す)
−−田公(少領)−−道長(大領)−−空海(774-835)
です。

太田亮は平彦連から伊能直の接続を疑い、姓氏録とその他資料から伊能直が讃岐佐伯部の伴造(讃岐国造)であり佐伯直の祖であるとしています。
すなわち佐伯直は景行天皇(稲背入彦命)の後裔であって、伴氏系譜ではないということです。
(伊能直から空海へ至る系譜は正とみています、他に複数の資料がある)


伴氏系図において大伴連談の子の大伴連歌が「佐伯」という姓を賜る。
談は雄略紀9年に新羅との戦いで戦死していますから、歌が佐伯を賜ったのは雄略時代でしょう。

雄略紀では葛城氏が滅ぼされ、秦の民の管理者が秦酒公へ移管されるなどの変革(政変)があります。

すなわち、仁徳系(景行天皇後裔)であった佐伯部の管理者も、雄略系(伴氏系)に切り替わった可能性が大きいとみます。
そのためにそれ以降の系譜が錯綜し、伴氏系図にそれが現れているのではないか・・
太田亮の解釈に賛成です。



≫征服者と被征服者の立場を理解すべきでは

それを考えると、蝦夷が御諸山(三輪山、大物主命、出雲の神)に服従を誓ったことが理解できるわけです。
敏達天皇(572-584)の時代に王朝の奉斎する神は伊勢だと思います。
普通なら王朝の主神であろう伊勢の神に誓わせるはずです。
しかし蝦夷は三輪山の神に誓った。

蝦夷は伊勢の神より三輪山の神に信を置いていたからに他ならず、敏達はそれを認めたということになります。
敏達は蝦夷を単なる蛮族とはみていない可能性があり、東北縄文と出雲の混血民が蝦夷であることを示すと考えています。

なお、平安の東北争乱での「俘囚」も単に蝦夷のことだけではないです。
続日本紀769、770の記述によれば、俘囚には蝦夷と大和朝廷系氏族との混血民が混じっているとみえます。
いろいろやっかいなところです。


[6265] 木の話 雑感1  神奈備 2005/05/05(Thu) 20:26 [Reply]
『日本書紀』一書(第四)から
素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。

 さて、ソシモリとは何だろうか、何処のことだろうか。諸説がある。その一つ。
 韓国の宗教文化研究院長の崔俊植梨花大学教授の説(平成神道研究会主催での真弓八坂神社宮司の講演の中で紹介)
「ソシモリというのは、地名ではない。「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味、したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」。

 これは、ソシモリが地名であれば、「ソシモリの所に」との表現にはならず、「ソシモリに」でいい。地名ではないとのこと。

 柱をたてる風習について。
イザナギ、イザナミの天の御柱。
古墳の上に柱を立てる。(『日本書紀』推古二十八年十月条。)
伊勢神宮の心の御柱。諏訪の御柱。墓の卒塔婆。塔。

いずれにしても、霊の依り代。それも多分柱一本に霊一個(勘定できるん?)。何故なら、神の勘定単位は柱、またさる霊能者曰く、「木一本にひとつづつ神が降りてくるのが見える。」と!!

[6264] ありがとうございました。  樹里 2005/05/05(Thu) 00:08 [Reply]
お返事ありがとうございました。
少し分かった気がします。
これからも大切に奉っていきたいと思います。

[6263] Re[6262]: こんにちは  神奈備 2005/05/04(Wed) 14:45 [Reply]
櫛磐門戸神、豊磐門戸神
おそらくは、櫛石窗神 豊石窗神または櫛磐間戸命、豊磐間戸命とも表記される神様で、くしいわまどの神 とよいわまどの神と読みます。

門即ち入り口を守る神とされます。境の神で、疫病神などの侵入を防ぐ目的で、入り口に祀られることが多いようです。

また同体と思われる神々ですが、二柱の神ですので、夫婦和合の神としても尊ばれているようです。

また、より古い神として、一切を受け持つ重要な神様かも知れません。お家に祀られているとは素晴らしいことですね。大切に祀ってあげて下さい。

[6262] こんにちは  樹里 2005/05/04(Wed) 11:06 [Reply]
初めまして。。
少し調べたいことがあって、検索をかけたら
こちらのホームページが出てきたので、書き込みさせてもらいます。

私の家には小さな社があるんです。
毎年ゴールデンウィークに幟をたて、お供え物をして奉ってます。
でも家族の誰もどのような人?が奉ってあるか知らないのです。
社の中には「豊磐門戸神」と「櫛磐門戸神」と書いてあるのですが、
読み方もわからないのです・・・。
この神様について教えていただけないでしょうか?
このことについて書いてあるホームページや、書物でもよいので
教えてください。お願いします。

[6261] Re[6243]: 竈門と丹生  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/03(Tue) 19:19 [Reply]
≫強い意識ってどのようなものを想像されますか?

祖先伝承があった場合です、あるいはそれを発見した場合。
どこかで「適当な姓」になっていて、名を変えることに不都合がないとか新天地で暮らし始めるなら、その祖先の名を使うと思うのです。

姓をもつということ自体がそれなりの身分のある状態のはずで、その地の古社なりが祖先と関係があることがわかれば、その名を用いることもあると思います。
自らの伝承はなくても古社の伝承を借りるわけです。

近くに竈門神社があったから竈門にする場合もあると思いますけれど、これはなんらかの伝承がないとなんとも判断はできないですね。

田中とか川上といったたぐいが最も安直かな(^^;
木下藤吉郎も適当だろうなあ(^^;
それを羽柴に変更しているのはなんかの理由があるんでしょうけど。


竈門について考えたことがありませんが、最古の登場は古事記の大年神系譜と思われます。
(持論では大年神系譜の拠点は宗像であったとみています)
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/kami_ootoshi.png

ここに奥津比賣がありますが、別名が大戸比賣で竈の神であるとあります。
この頃の竈がどんな形かわかりませんが、火が風に流されないように周囲を囲うようになっていて、それが門であり戸であったのかもしれません。

≫丹生津姫が和歌山県伊都郡にきたおり、この地域には奥津彦奥津姫が住んでおり、
≫かれらは丹生津姫に土地を譲り

持論の流れからもずばりです(^^)
大年神は黄河系の畑作を伝えた集団あるいは文化を代表する神名と考えています。
年代はBC700からBC500頃であり、弥生文化の一方の始発となったとみています。

縄文末期の寒冷化が終わって弥生の温暖化の始まる年代です。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/hennen.png
九州から東へ新天地を開拓しようとする人々が東進していった、瀬戸内から和泉、岸和田〜和歌山あたりへ上陸した人々、それが奥津彦奥津姫ではないか。

この頃の河内は湿地帯でよい土地ではありません。
紀ノ川流域からは縄文土器と半島系土器が共存して出土しています。

その後に最新文化を持つ人々がやってきた、それが丹生津姫のグループ。
いまのところまだ流動的ではありますが、大分の丹生川あたりの人々を源流とするとみております。

これを最古にみるならば、持論でいう国譲り以前の豊後の出雲(出雲神族)の人々の東進。
まだ大国主命などが生まれていない時代、BC150あたり・・

もっと下ってからとみるなら、神武〜綏靖での天孫の父と出雲の妃の間に生まれた子等の東への進出。
その代表が神八井耳命(多臣族)です。
綏靖紀に神八井耳命は祭祀を司ったとありますから、ぴたりです。
瀬戸内から赤を生産したと見える石皿なども出土しています。

私はこの可能性が最も高いとみています。
近畿から周辺に広まっている方形周溝墓に赤の祭祀がみえないからです。
もし初期の出雲に赤があり、それが近畿へ運ばれているなら、弥生での方形周溝墓(=出雲の墓制とみる)に赤の祭祀があってもよいはずだからです。

それ以降になると倭国争乱からはじまって応神〜倭王五代などの流れが錯綜してくるので、どんなことでもありえると思いますが、雄略以降では赤ではなく水銀に変質し始めたと思われます。
倭王五代時代での中国との交流から赤が廃れて水銀となっていった可能性が高い。
後期の古墳からは赤の葬礼が消えています。


豊後国風土記の現在の別府市の北に竈門山があります。
再度でかいファイルですが失礼して・・
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/bungo.jpg

ここの血の池地獄の赤は硫酸鉄だそうで、硫酸鉄はベンガラの原料です。
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/japan/20021212sc11.htm
硫酸鉄はコバルトブルーにもなるようで、当時の人々には神々の技としか思えなかっただろうな。
(ひょっとすると、飛鳥奈良の「青丹よし」とは硫酸鉄による赤と青の意かもかも)

豊後にはHgS(辰砂、朱砂)もベンガラもある。
ここから丹生の神が生まれてなんの不思議もないところです。


[6260] Re[6259]: 佐伯部と佐伯直  あまのや 2005/05/03(Tue) 17:45 [Reply]
かたばみ様、ありがとうございます。
伴造と品部を混同してました。

佐伯連・・・中央の管理者。大伴氏の歌を祖とする。
佐伯直・・・現場の管理者(いわば中間管理職か?)。播磨・讃岐の景行天皇末裔系と安芸・伊予の天湯津彦命系。
佐伯部・・・佐伯直の隷属民と考えていいのかな。佐伯直は国造としての性格もありいろいろな職種の人達がいたのではないでしょうか。

> 景行紀では日本武尊が捕らえた蝦夷を神宮(伊勢)にささげ、後に播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に配して、これが佐伯部の祖となったとあります。

蝦夷に限定してしまうのはどうかと思いますが。

> 常陸国風土記に、「国栖クズ」や「佐伯(茨城が根拠とみえる)」が大和王朝(日本武尊等々)と争ったことが書かれています。
> いかなる違いで国栖、佐伯といった呼び分けをしているのかわかりませんが、国栖も佐伯も蝦夷と同族とみてよいと思います。

すでに述べましたが、「佐伯」は大和王朝における職種を示す姓の名称です。常陸国風土記の記述は承知していますが、前九年の役における安倍氏の様な存在ではなかったかと考えます。ようするに中央から現地支配を委ねられていた「佐伯」が蝦夷を率いて反乱を起こしたのでしょう。
「国栖クズ」と「佐伯」を区別しているのはそういった背景があるのではないかと推察します。

> 景行紀で佐伯部の祖が配されたのは播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波で、吉備(岡山)が抜けていることと重なりますね。
> なんらかの理由で吉備には不穏分子(当時での)を置きたくなかったのでしょう。

この頃には佐伯直は存在していた訳で、単に佐伯直に配されたから「佐伯部」ではないの?

> 敏達紀10年に、投降した蝦夷が奈良の三諸山(三輪山)にむかって誓いをたてる記述があります。
> 大物主命に誓いを立てたわけで、蝦夷の出雲への信頼があったことを示すものと思います。

日韓併合の際、神社を建ててそれを無理矢理拝まして韓国・朝鮮の人たちの日本に対する信頼があったと・・・
征服者と被征服者の立場を理解すべきでは。

[6259] 佐伯部と佐伯直  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/03(Tue) 11:55 [Reply]
話が進んでいるようで重複もありますが・・

常陸国風土記に、「国栖クズ」や「佐伯(茨城が根拠とみえる)」が大和王朝(日本武尊等々)と争ったことが書かれています。
景行紀では日本武尊が捕らえた蝦夷を神宮(伊勢)にささげ、後に播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に配して、これが佐伯部の祖となったとあります。

いかなる違いで国栖、佐伯といった呼び分けをしているのかわかりませんが、国栖も佐伯も蝦夷と同族とみてよいと思います。
姓氏家系辞書/太田亮によれば佐伯部は品部シナベのひとつ。
品部は鍛冶、薬、酒、漆、雅楽、造園などの職業集団、佐伯部がなにを職種としたかはわかりません。

佐伯直は佐伯部の管理者(伴造トモノミヤツコ)で景行天皇の稲背入彦皇子が祖(姓氏録)。
佐伯部と直結しますが系譜は全く異なります(播磨国造の祖)。

景行天皇の皇子は無数(^^;
品部らしき名を持つ皇子もいますから、やはりなんらかの品部集団の管理者になっていたのだろうと思います。
品部となった部族の娘に生ませた皇子もいた可能性も少なからずです。
その場合、その品部の後裔は著名な側の親を祖と意識することになるかもしれません。


蝦夷とは東北縄文と出雲の婚姻から生じた集団であり、合体の理由は「弥生の鉄生産」と考えています。
連動するなら国栖や佐伯は関東縄文と出雲の合体、となりそうですが合体理由がみえないので棚上げです。
(土蜘蛛を縄文系の総称とするなら、それとはちょっと違う)

出雲の時代はBC100頃からAD250頃まで300年以上継続とみています(九州を除く)。
その文化や人は列島全域に浸透しているはずで、国津神とされるのは必然となります。
(さすがに北海道までははいってないと思いますけど)

6245
≫佐伯直の分布をみると播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸となりある部分に空白が出来ます。吉備ですね

景行紀で佐伯部の祖が配されたのは播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波で、吉備(岡山)が抜けていることと重なりますね。
なんらかの理由で吉備には不穏分子(当時での)を置きたくなかったのでしょう。


ちなみに桃太郎説話は孝霊天皇(持論175-204)の子とされる吉備津彦と先住の出雲系譜との抗争を源にすると考えています。
九州から出雲領土へ侵入する天孫系譜と出雲系譜の吉備での争い、吉備の名を冠した皇子がいるのは吉備が重要地域だったからだと思います。

景行時代に瀬戸内周辺に蝦夷等を配したのは、旧出雲勢力との縁戚関係を配慮した懐柔策である可能性が見えます(吉備では桃太郎に鬼が退治されてしまっていた(^^;)。

敏達紀10年に、投降した蝦夷が奈良の三諸山(三輪山)にむかって誓いをたてる記述があります。
大物主命に誓いを立てたわけで、蝦夷の出雲への信頼があったことを示すものと思います。

西日本の事象はすべからく神武東征をいかに解するか、出雲をどう解するかにからんできますが、略。


[6258] Re[6256][6255][6253][6252]: はじめまして  青鹿毛 2005/05/03(Tue) 10:34 [Reply]
玄松子さま どうもです。
なるほど意味の違いはわかります。
しかしながら万葉集でも「神社」と書いて「やしろ」「もり」と読ませてます。
「もり」はまた「杜」にも通じるわけで、今は辞書の上では意味が違いますが、
現実として使っている古代の人たちが区別しておりません。
しかも彼らは当時としては教養人であったはずです。

読み方がほぼ特定されている万葉集ならそれに倣えばよいのですが、
数多ある書のものを判断するのが迷ってしまうのです。
また、「社」をそのまま「しゃ」と読み始めたのはいつの頃からなのかも
気になるところです。
延喜式に出てくるものなら、その殆どを「〜のやしろ」と読んでも
差し支えないかもしれませんが、それが例えば室町時代以降の史料に
出てきたものだと、「〜のやしろ」とは読まないのではないかと思い、
悩んでおります。

[6257] Re[6254][6250][6248]: 補足:佐伯  あまのや 2005/05/02(Mon) 21:27 [Reply]
>  「伊勢神宮造営直前の頃」=「伊勢エミシが追い出される直前の頃」の話しとして、
>  (A)佐伯直の祖は、すでに「さえき」と呼ばれていた。
>  (B)佐伯直の祖は、すでに播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸に分布していた。
> と、なりますでしょうか。

失礼しました。(A)の伊勢神宮造営時に呼ばれていたかということですが、第十二代景行天皇の時にヤマトタケルが常陸で佐伯某を平定したというのが最初かな。概ね大和から派遣された者が反乱を起こしたんでしょうけど。となるとこれよりもうちょっと前という感じがします。

       (B)ですけど大和からそれらの国に派遣されたのではなく、周辺の有力な豪族にその任務を与えたと思います。佐伯部という伴部に属しながら国造であるわけですから。

伊勢神宮の造営は代十一代垂仁天皇の時で四道将軍を派遣した崇神天皇は代十代の天皇です。

[6256] Re[6255][6253][6252]: はじめまして  玄松子 2005/05/02(Mon) 21:18 [Reply]
横から質問。

> 一つの神社をとってみても千年以上の時の流れの中で、「やしろ」「もり」
> 「しゃ」「かむしろ」などの呼び方をされてきて、それを現代に索引として
> 読み仮名を付けるとしたらどれがふさわしいのだろうと思ってしまったわけです。

社・杜・神社は、それぞれ別の言葉で、意味も異なると思いますが。

[6255] Re[6253][6252]: はじめまして  青鹿毛 2005/05/02(Mon) 21:07 [Reply]
早速のお返事ありがとうございます。

古事記などはそのまま読み下せば、音が解りますね。
一つの神社をとってみても千年以上の時の流れの中で、「やしろ」「もり」
「しゃ」「かむしろ」などの呼び方をされてきて、それを現代に索引として
読み仮名を付けるとしたらどれがふさわしいのだろうと思ってしまったわけです。
どれを採ってみても歴史の一断面にしかならないような気もしますが、
索引として採用するとなるとどれか一つに決めねばならないし、かなり難しい
選択のようです。

神奈備様のHPでも、この部分には読み仮名をつけていらっしゃらないようで、
もし、この部分の読み仮名を付けるとしたら、神奈備様ならどのようにお考えに
なるのだろうとお伺いした次第です。
う〜ん、やっぱり難しいですね。

[6254] Re[6250][6248]: 佐伯  あまのや 2005/05/02(Mon) 20:51 [Reply]
恋川亭様、解りやすく箇条書きにしていただき恐縮です。

>  @伊勢に先住者のエミシが居た。
>  A伊勢神宮を造営することになった。
>  B(伊勢)エミシは代替地として、大和に移住させた。
>  Cやってきた(伊勢出身の)エミシは、三輪山の木を伐ってしまった。
>  Dそのため、大和からさらに別の地へ移住させられた。
>  E佐伯直の祖が、すでに『播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸』に居た。
>  Fそこへ、大和でやっかい者になった(伊勢出身の)エミシを移住させた。
>  G佐伯直の祖は、それらエミシの管理をまかせられた。

> これらのことから、佐伯直とエミシの直接の血縁は無いので、『よく佐伯直の祖はエミシであるとの記述』は誤まり、ということですね。

ご理解していただきありがとございます。

>  「伊勢神宮造営直前の頃」=「伊勢エミシが追い出される直前の頃」の話しとして、
>  (A)佐伯直の祖は、すでに「さえき」と呼ばれていた。
>  (B)佐伯直の祖は、すでに播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸に分布していた。
> と、なりますでしょうか。

(A)についてですが伴部設置の権限を大伴氏が握っていたとすれば、その設置の目的から「さえく(さわぐ)」ではなくやはり「塞(さえ)ぎる」ではないかと推察します。
(B)については後述します。

> ・・・で、封じ込めなければならない吉備とは?

岡山の桃太郎伝説は皆さんご存知ですね。その鬼のことですね。鬼のモデルは温羅と言われています。崇神天皇の時代に地方の敵を平定するため四道将軍を派遣しました。山陽道に遣わされたのが桃太郎のモデルになった吉備津彦命です。
「塞(さえ)ぎる」対象が温羅であるとするならばこれ以前に佐伯部は成立していたはずです。

> 林業エキスパート(山の専門)を配下にしたということでしょうか。

常陸あたりまではかなり早い段階で大和の支配下にあったようで、大伴氏と共にエミシと戦ったのかもしれません。支配者としてエミシを配下においたであろうことは、容易に想像ができます。ようするに佐伯直はエミシの扱いにてなれていると朝廷は判断して預けたのかもしれません。

>『血縁がなくとも「さえく」連中をまとめる大将だから「佐伯の旦那」』となる可能性もなきにしもあらず

私としても完全に否定しているわけではありません。佐伯とエミシは切り離せないですからね。

[6253] Re[6252]: はじめまして  神奈備 2005/05/02(Mon) 20:15 [Reply]
詳しいことは承知していませんが・・・

万葉集のふりがな(鹿持雅澄によると)


404 ちはやぶる神の社(やしろ)し無かりせば春日の野辺に粟蒔かましを
1378 木綿懸けて斎ふこの社(もり)越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに


1344
真鳥(まとり)棲む雲梯(うなて)の杜(もり)の菅(すが)の根を衣にかき付け着せむ子もがも

神社
0202 哭澤(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ

夏四月(うつき)、大伴坂上郎女が賀茂の神社(かみのやしろ)を拝(をろが)み奉る時、相坂山を超え、近江の海を望見(みさ)けて、晩頭(ゆふへ)に還り来たるときよめる歌一首
1017 木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ吾等(あれ)

どうなんでしょうね。万葉集以後の読み方に変遷が見られるのでしょうか?

[6252] はじめまして  青鹿毛 2005/05/02(Mon) 18:52 [Reply]
はじめまして、青鹿毛と申します。
とても勉強になるHPなのでいつも拝見させて頂いてます。
まったくの素人としての疑問なんですが、文献などに「社」「杜」「神社」
などと出てきた場合、「やしろ」「しゃ」「もり」「じんじゃ」などと
読み方があると思うのですが、どのように読むのが正しいのでしょう。
もし、時代によって一般的な読み方が変わったのなら、いつ頃からかわったのでしょうか?もしよろしかったら是非御教示下さればうれしいです。
よろしくお願い致します。

[6251] @にこだわって大和武尊を考えます。  羽振人 2005/05/02(Mon) 12:08 [Reply]
横入りご容赦。

小碓命(オ・ウス→牛首・臼などの表記もありえる)→スサノオを示唆

地名への残存
九州
臼杵 大分県臼杵市・宮崎県臼杵郡
笛吹川 長崎県松浦市
牛首ノ鼻 長崎県五島市
牛頸山・牛頸川 福岡県大野城市
牛頭野岡 鹿児島県日置郡吹上町
→神武の元ネタの可能性

中国山地
笛吹山 鳥取県日野郡江府町
牛頭山 広島県広島市安佐北区
牛頭山 山口県佐波郡徳地町

北信・越
牛首峠 富山県南砺市
牛首川 岐阜県大野郡白川村
牛首山 岐阜県高山市
牛首山 長野県大町市
牛首峠 長野県上伊那郡辰野町
臼井川 長野県飯田市
牛首山 山梨県北杜市
笛吹川 山梨県山梨市
笛吹 山梨県笛吹市
牛首谷 山梨県北都留郡丹波山村
碓氷峠 神奈川県足柄下郡箱根町
笛吹峠 東京都西多摩郡檜原村
牛首峠 埼玉県秩父郡小鹿野町
笛吹峠 埼玉県比企郡嵐山町
碓氷峠 長野県北佐久郡軽井沢町
牛首 群馬県利根郡片品村
牛首 群馬県利根郡水上町
牛首 群馬県利根郡水上町
牛首山 福島県南会津郡伊南村
笛吹川 新潟県岩船郡神林村
牛首山 新潟県東蒲原郡阿賀町
→繋ぐとはっきりとしたラインができるため、最大進出線もしくは国境と思われる。

人名
珍彦(ウズヒコ)
大秦(ウズマサ)融通王・弓月→秦氏へ


逝去時の言い伝えから
足が三重→水銀中毒で死亡
伊吹山の神→伊吹山麓の製鉄拠点
井戸掘り説話→水よりむしろ鉱物が目的

山の井戸→やまい(病)・だるい(やま=たる)
あなし(穴師)・痛足
の語源に

製鉄を基盤にした征服王のイメージです。

[6250] Re[6248]: 鋳物師、手工業者  恋川亭 2005/05/02(Mon) 02:36 [Reply]
あまのやさん、ご回答ありがとうございます。

> 佐伯の語源を「塞(さえ)ぎる」ではなく「さえく(さわぐ)」ではないかとのことですが、エミシが大和から移住させられたのは御神体である三輪山の木を切り倒したからです。もともと伊勢神宮を造営する際にその場所に住んでいたエミシに大和に代替地を与えたもので、彼らは囚人ではありません。

なるほど、そうだったのですか。判りやすいように、ちょっと分解させてもらいますね。
 @伊勢に先住者のエミシが居た。
 A伊勢神宮を造営することになった。
 B(伊勢)エミシは代替地として、大和に移住させた。
 Cやってきた(伊勢出身の)エミシは、三輪山の木を伐ってしまった。
 Dそのため、大和からさらに別の地へ移住させられた。
という流れですね。ただ『彼らは囚人ではありません』について、私はエミシが囚人という意識を持ってなかったので、ちょっと嵌め込み場所が判りませんでした。

> よく佐伯直の祖はエミシであるとの記述をよく目にしますが、上記の理由で移住させられたエミシが佐伯直の祖になったのではなく、やっかい者を佐伯直に預けたのが本当のところではないでしょうか。

ここも、少し私なりに分解させて頂きます。つまり・・・、
 E佐伯直の祖が、すでに『播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸』に居た。
 Fそこへ、大和でやっかい者になった(伊勢出身の)エミシを移住させた。
 G佐伯直の祖は、それらエミシの管理をまかせられた。
これらのことから、佐伯直とエミシの直接の血縁は無いので、『よく佐伯直の祖はエミシであるとの記述』は誤まり、ということですね。
 結果、エミシの「さえく」から、佐伯に連なることは無い・・・かくしてトンデモ説は消えることになるのですが、消えるための前提条件を確認しますと、
 「伊勢神宮造営直前の頃」=「伊勢エミシが追い出される直前の頃」の話しとして、
 (A)佐伯直の祖は、すでに「さえき」と呼ばれていた。
 (B)佐伯直の祖は、すでに播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸に分布していた。
と、なりますでしょうか。そうでなければ・・・
 『血縁がなくとも「さえく」連中をまとめる大将だから「佐伯の旦那」』となる可能性もなきにしもあらずでして、かくしてトンデモ説が息を吹き返すかも。(笑)
どっちにしても、林業エキスパート(山の専門)を配下にしたということでしょうか。
以上、本筋からの逸脱、失礼しました。

・・・で、封じ込めなければならない吉備とは? (ヒツコイ? <(__)> )

[6249] あまのや様  かまど 2005/05/02(Mon) 00:43 [Reply]
こんばんは。

>大伴氏の祖先が神武東征以前に紀州にいたという説(道臣命は紀州名草郡片岡邑の人)がありますが 、かまど様よろしければレクチャーしていただければ幸いです。
すいません。私にはレクチャーできるほどの知識がありません。神武東征以前に紀州にいたという説も初めて聞きます。どなたかのHPで大分より丹生氏、神武が出向したと書かれていること、和歌山には丹生津姫が丹生川上に上って天野の地に移るおり道臣命(恐らくは道臣命ではなく大伴氏)がお供したとの伝承などいくつかの伝承を踏まえて言えば可能性はありますが。も一つ伝承としては、神武天皇が奈良まで攻めいったときになかなか攻めれず、丹生津姫が夢枕にたち神託し勝ったとか(神武より先に紀州に入っていた丹生津姫が支援したことを表した伝承なのか?)。ややうそっぽいが。
すいません、こんなレベルです。適当に聞き流して下さい。

[6248] Re[6246][6245]: 鋳物師、手工業者  あまのや 2005/05/01(Sun) 21:20 [Reply]
> 佐伯さんって、エミシの系統だったんでしょ?ヤマトに連れてこられても「さえく」ので、うるさくて適わんとかで、讃岐方面などへ移住させられたとかなんとか・・・って聞いたような記憶があります。「さえく」って日本語ですよ、最近は聞かなくなった語彙ですが、私の子供の頃には年寄りが使ってました。猿なんかがギャーギャーと「うる・さく」「さわぐ」様子のイメージの言葉でした。鳥の「さえずる」も関連するのかな?ご再考願います。

恋川亭さん、はじめまして。
佐伯の語源を「塞(さえ)ぎる」ではなく「さえく(さわぐ)」ではないかとのことですが、エミシが大和から移住させられたのは御神体である三輪山の木を切り倒したからです。もともと伊勢神宮を造営する際にその場所に住んでいたエミシに大和に代替地を与えたもので、彼らは囚人ではありません。
よく佐伯直の祖はエミシであるとの記述をよく目にしますが、上記の理由で移住させられたエミシが佐伯直の祖になったのではなく、やっかい者を佐伯直に預けたのが本当のところではないでしょうか。

[6247] Re[6246]: 大脱線  恋川亭 2005/05/01(Sun) 20:25 [Reply]
> ご再考願います。

ちょっと表現がきつかったかも、スミマセン。m(__)m
私は青草大好きなトンデモ愛好家なんですが、それだけに「もっと美味しいトンデモを!」と濃厚な青草を欲求しているのです。ゾクゾク・ワクワクするような青草に仕上げて堪能させて下さい。例えば・・・
『先住者の前線防衛部隊、エミシ側とっての防人をルーツとする佐伯一族は、武技に長けるだけでなく、縄文時代から伝わる呪的威嚇法も継承していた。狂騒的に激しく、けたたましく叫ぶ呪術は、敵の戦意を挫き、味方を鼓舞するだけでなく、鬼(死霊)の侵入を防ぐ効果があると信じられていた。そのため彼等は、宮城の外郭や国境に配置されるようになった。「さえく」呪術により「さえぎる」のである。かくして佐伯氏は「塞ぎる」につながった。
 同様な呪術は、南方の先住者である隼人族にもみられた。はるか後代の西南戦争当時、「猿叫」と恐れられたその狂気の叫びは田原坂に響き渡ったのである。』(以上フィクション)

[6246] Re[6245]: 鋳物師、手工業者  恋川亭 2005/05/01(Sun) 18:45 [Reply]
1週間ぶりに来れたので、手前から遡って読んでいます。
あまのやさん、横からスミマセン。

> 佐伯は姓の名称です。語源は「塞(さえ)ぎる」です。では何を塞ぎっていたのか。佐伯直の分布をみると播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸となりある部分に空白が出来ます。吉備ですね。やはり鬼を塞ぎっていた?青草でした。

枝葉末節に難癖をつける気はありませんが、↑上記の点、たぶん違うと思いますよ。
佐伯さんって、エミシの系統だったんでしょ?ヤマトに連れてこられても「さえく」ので、うるさくて適わんとかで、讃岐方面などへ移住させられたとかなんとか・・・って聞いたような記憶があります。「さえく」って日本語ですよ、最近は聞かなくなった語彙ですが、私の子供の頃には年寄りが使ってました。猿なんかがギャーギャーと「うる・さく」「さわぐ」様子のイメージの言葉でした。鳥の「さえずる」も関連するのかな?ご再考願います。

[6245] Re[6241][6220][6210][6185]: 鋳物師、手工業者  あまのや 2005/05/01(Sun) 14:32 [Reply]
> 記紀にいう神武東征とは・・事象はほぼ事実だが時代と地域において偽、が持論です。
私は神武東征は無かったと考えています。ただ出雲系から日向(九州)系に王権が移行していった過程をどう説明していいものやら(辻褄が合うように)。難しいです。
ところで大伴氏の祖先が神武東征以前に紀州にいたという説(道臣命は紀州名草郡片岡邑の人)がありますが 、かまど様よろしければレクチャーしていただければ幸いです。
>現時点では丹(丹生)は水銀に限らず、赤の生産に関与した人々の用いた文字とみております。
そうですね。やはり赤土でしょうかね。
> (弥生では祭祀者の配下にあったと推定)
水銀の精錬技術は渡来系の人たちによってもたらされたもので、あるいは丹生氏の下で仕事をしていたのかもしれません。ちなみに姫路の佐伯神社より後から乗り込んできた新羅系の人たちの神社(白国神社)の方が栄えています。もっとも佐伯神社(姫路)は播磨国造宗家ではなく分家筋が建てたものです。

> 佐伯は地名ではなく先住者の総称のようで、注では土蜘蛛としています。
> 土蜘蛛、国栖、佐伯・・空海、丹生・・ふーむ。

佐伯は姓の名称です。語源は「塞(さえ)ぎる」です。では何を塞ぎっていたのか。佐伯直の分布をみると播磨・讃岐(阿波)・愛媛・安芸となりある部分に空白が出来ます。吉備ですね。やはり鬼を塞ぎっていた?青草でした。

[6244] ヤマト  ニギハヤヒ 2005/05/01(Sun) 13:57 [Reply]
「玄松子」さんから中国以外に赤門があるのかと宿題をいただいていますが、
これから調べることとして、「かたばみ」さんの歴史観を拝見し、私のおとぎ話
もついでに聴いていただけたらと思います。

布都(イザナギ、倭王帥升か?)の子・布都斯(スサノオ)は120年頃に宍道湖
の北にある平田市で生まれました。
イザナギ・スサノオはほぼ日本全国を治めていたが、熊襲と蝦夷だけは従わなかった。
スサノオは出雲に住み、山陰・北陸と東北の一部を長子・ヤシマヌと末子・スセ
リヒメの婿・大己貴に治めさせた。年に一度農繁期が済むと全国の豪族を出雲に
集めて会議をした。だからこの月を神無月(豪族=神がいなくなる月)という。
その時の儀式に使った銅剣や銅矛・銅鐸が宍道湖の南の山で大量に発見された。
(神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡)
西九州はスサノオの第2子・イタケルに治めさせ、150年頃に生まれた第5子・布留(ニギハヤヒ・大歳)に東九州・四国・中国を治めさせ、宇佐を本拠地にした。
170年過ぎにニギハヤヒを大和に移し、唐子・鍵の先住民(ナガスネヒコ)と組んで大和を治め、纏向を本拠地にした。
ニギハヤヒは第1子・ウマシマヂに大和を、第2子・アメノカゴヤマに東海・関東
を治めさせた。それぞれ物部氏と尾張氏になる。
180年頃にスサノオが亡くなると跡目争いが起き、宇佐の海部氏の巫女・ヒミコ(アマテラス)が跡を継ぐことになり、争いは終わった。
ヒミコは239年に魏に使いを送り、240年に親魏倭王の印を受ける。この印を後ろ盾にして、ヒミコはウマシマヂに国譲りを迫り一族の若者をウマシマヂの妹・ミトシに婿入りさせて、241年(辛酉)1月大和の王となる。(神武天皇)
ウマシマヂは出雲に隠居する。
以後、王はアマテラス系から選び、その妃は主にニギハヤヒ系(物部氏・尾張氏)から選んだ。
こうして邪馬台と大和が合体するが実際の政治は物部氏を中心とする豪族の合議で行った。
アマテラス系は葛城・物部・蘇我など有力豪族を次々に滅ぼし、持統天皇が天皇家中心のシステムを完成する。

ヒミコ(アマテラス)は248年頃に亡くなり小倉山に葬られた。現在はその墓の上に宇佐神宮の本殿(国宝)が建っている。
分骨して大和にも墓がある可能性がある。(箸墓古墳) アマテラスの死に方と
ヤマトトトヒモモソヒメの死に方は良く似ていますね。(ホトを衝く)
前方後円墳は物部氏の文化である。従って纏向型古墳はニギハヤヒの来た後、180年以降に造られた。3世紀半ばに定型化され全国に広まった。
しかし、物部守屋が587年に滅ぼされ、それ以降は前方後円墳は造られなくなる。
蘇我氏の方墳に代わった。

最近は邪馬台国畿内説が多いですが、私は未だに九州説です。
もちろん大和は奈良にあって、大和政権の前身だと思います。


[6243] かたばみ様  かまど 2005/05/01(Sun) 13:21 [Reply]
>「大分から丹生氏や神武天皇が出発・・」
これについては、私もわかりません。私の知っている範囲では、初めて聞く説です。最近検索してて見つけました。

>いつの時代であろうとこれを名乗るとしたら、なんらかの強い意識があると思うのですが、
竃門を名乗る場合は、地名からとったもの、ごはんたく「かまど」からとったものが考えられます。武士であれば地名から取った可能性が高いかも知れません。「かまど」は今は「竃」一字ですが、以前阿倍晴明の本を購入して読んだ中に古文書の写真が載っていて、そこには「竃門」となっていました。つまり古くは「竃門」の2字だったのでしょう。
かたばみ様は強い意識ってどのようなものを想像されますか?
ちなみに、和歌山の竃門氏は、地元の地主の神の名前を取っています。丹生津姫が和歌山県伊都郡にきたおり、この地域には奥津彦奥津姫が住んでおり、かれらは丹生津姫に土地を譲り、そして丹生津姫の守護神となり、竃門明神として祭られました。丹生津姫が空海に土地を譲って真言宗の守護神になったのと似ていますね。守護神になったと言う事は荒神的なあらぶる神ではなく、友好的に土地譲りがあって神になったと見れると思います。話は脱線しましたが、この竃門明神を祭った(あるいは祭っていた)のが大伴氏で、1200年ごろ、この大伴氏が丹生氏の嫡男となりました。つまり、これ以降の丹生氏は大伴氏の伝承や風習を引き継いでいます(大伴色が強くなります)。そしてある時期丹生氏は2つに分かれます。このとき地元に残ったものは、恐らく大伴氏としての色が濃いために、竃門明神の名を取ったと思われます。意識的には武士と似てますね。昔から住んでいた土地を大事にし、そこから出ない。その土地を守ると言った意識に近いでしょうか。
ちなみに、神奈備様に教えていただいたのですが、竃門神社は和歌山には私の知っている範囲では1つだけですが、九州には何箇所かあるようですね。祭神は奥津彦奥津姫と応神天皇神功皇后の2通りあるようですが。有名なところは大宰府天満宮の裏にある宝満山(旧竃門山)の竃門神社でしょうか。

>現時点では丹(丹生)は水銀に限らず、赤の生産に関与した人々の用いた文字とみております。
私も同じ意見です。ですから水銀もあれば赤米、赤土も考えられると思います。

[6242] Re[6233][6232][6190]: 鳥居の朱色  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/01(Sun) 13:07 [Reply]
≫天皇陵に黒木鳥居というのは、僕は見たことがないですが、

そうでした、鳥居の研究でいうところの形式では「陵墓型」で、丸太に削りが加わったタイプですね。

鳥居一般についての試論を青草のほうに書いておきます。


[6241] Re[6220][6210][6185]: 鋳物師、手工業者  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/01(Sun) 12:33 [Reply]
≫大分から丹生氏や神武天皇が出発したと書かれている人もおられますね

このあたりは歴史観によって話がかみ合わなくなるところでもありまして・・1行といえどやっかいなんです。
青草ですがちょっと失礼して、私の歴史観。

弥生初期〜中期
 九州には出雲と天孫の2勢力ありき。出雲の中枢は豊前豊後、天孫の中枢は筑紫(福岡)。
(九州以外の列島では出雲系譜をメインとする様々な人々が開拓中)
AD50頃、九州から出雲が撤退し、出雲の中枢は奈良へ移行(記紀でいう国譲り、島根は大国主命の引退場所)。
弥生中期〜後期
九州をのぞく列島全土にあったのは出雲文化であり、その中枢は奈良。
(大型銅鐸の人々でもある、位置的に最新技術導入に難がありこの面では停滞)
AD250頃、九州の天孫系が奈良へ侵攻奪取。しかし出雲文化とその勢力は全土に残る。

記紀にいう神武東征とは・・事象はほぼ事実だが時代と地域において偽、が持論です。

神武の東征とは九州統一のみ、福岡から大分への東征だけであると考えています。
(神武と出雲(大国主命)の抗争を繰り上げて神代に禅譲として展開したものが国譲り神話)
(神武の九州統一の具体的事象を開化崇神の奈良侵攻に繰り下げて重ねたものが神武東征説話)
その目的は、天孫降臨以降に天孫以外の支配者が存在したことを抹消するため。
(記紀の神武東征をまともに受け取ると矛盾多発)

というわけで、「大分から丹生氏や神武天皇が出発・・」とは似て非なるところでかみ合わないんです(^^;
以下の図は豊後風土記地名と遺跡を重ねた図に「神武東征」を加えてみました(遊びでございます)
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/bungo.jpg


≫大阪の丹治(多治比)の美原町は鋳物の町ですね

そうなのですか、丹と大分がよりつながりやすくなりそうです。

尾張に丹波臣ニワの祖(尾張氏、あるいは神八井耳命の多臣族)を祀る爾波神社があり、天孫本紀に邇波縣主があるので爾ないし邇の文字は古来から使われていた可能性がみえます。
もし、丹波が太邇波であるのなら・・
邇を漢音で読めば太邇波タジハです、丹治タジヒ、タンジ、丹治比、丹比連タヂヒもつながる。
加えて但馬もこれに属するかもしれない。

読みを変えたり文字を加えて傍系や姻戚関係を示すなどもあるでしょうし、わけがわからなくなりそうです。

奈良飛鳥以降はほとんどノータッチでもあって竈門氏の系譜に関してはなにも知りませんが、めずらしい姓だと思います。
いつの時代であろうとこれを名乗るとしたら、なんらかの強い意識があると思うのですが、その意識がなにか、ですね。


現時点では丹(丹生)は水銀に限らず、赤の生産に関与した人々の用いた文字とみております。
(弥生では祭祀者の配下にあったと推定)
鋳物師(イモジ)に大工が含まれるなら、後には錬金術師や練丹術も含んでいたのではないでしょうか。

当然ながら秘密であって記録には残らない。
だが空海はその秘密を知っていた(むろん最澄にも明かさない(^^;)・・青草でございます。

≫大分県は気になっておりまして、今年調べに行く予定なんですよ

なにかわかりましたらよろしくお願いいたします。


≫広島といえば安芸の佐伯氏が思い浮かぶのですが

常陸の国風土記の行方郡提賀の郷に、昔に佐伯があり手鹿という名による地名、とあります。
佐伯は地名ではなく先住者の総称のようで、注では土蜘蛛としています。
土蜘蛛、国栖、佐伯・・空海、丹生・・ふーむ。

手工業や職人、弥生に至ってから登場する人々(職種)、それらの最新技術のほとんどは中国からはいってくるはずで、すべからくその最初は九州にあるのが必然と考えています。


[6240] Re[6239][6238][6235]: 鳥居の朱  玄松子 2005/05/01(Sun) 01:43 [Reply]
中国に紅い門や赤い札が多いのは分かりますが。

> 赤門は日本よりも外国の方が多いのではないでしょうか?

中国、あるいは中華の影響を受けていない朱い門は多いのでしょうか。


> 中国では春節(俗称では「過年」)になると、

ご存知だと思いますが、過年の伝説も蘇民将来と酷似していますね。


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