神奈備掲示板の案内とログ

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掲示板のログ(平成十七年 六月 2005.6)お名前の敬称は省略しています。

[6421] 磐座紀行  神奈備 2005/06/30(Thu) 14:45 [Reply]
藤本浩一著『磐座紀行』から、大阪府の磐座。

柏原市 大県神社 http://kamnavi.jp/en/kawati/nudehiko.htm
八尾市 天照大神高座神 http://kamnavi.jp/en/kawati/monooni.htm
大東市 龍王社
交野市 磐船神社 http://kamnavi.jp/mn/osaka/iwafune.htm
私市  獅子窟寺 http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/h1503.htm
傍示  龍王山
傍示  天満神社
妙見山 妙見社
交野山 観音岩 http://kamnavi.jp/ym/osaka/hatamono.htm
枚方市穂谷  三宮神社 http://kamnavi.jp/en/kawati/hotanisan.htm
茨木市忍頂寺 龍王山薬師岩 http://www.ico-sangyo.net/kanko2/kanko_c/ryu_c/ryu_s.html
箕面市  為那都比古神社 http://kamnavi.jp/mn/osaka/inatsu.htm
箕面市  白龍岩
大阪市  座摩神社 http://kamnavi.jp/ym/osaka/ikasuri.htm

 磐座の写真を検索して見ましたが、なかなか出てきません。これはと言う写真がありましたら是非紹介してください。そうでなければ、この暑いのに出向かねばなりません。それも楽しみですが・・。

[6420] 狂心の渠  神奈備 2005/06/27(Mon) 16:50 [Reply]
 和田翠氏の岩波新書『飛鳥』に、斉明天皇の狂心の渠とは、「酒船石遺跡の北側から香具山の西まで1kmを掘って石を積んだ船が通れるようにしたのではないか。」と述べています。そうして、氏は酒船石遺跡の北側から奥を踏査して人工の溝の跡を確認された旨記しています。
 この前、飛鳥の石造物を見ながら歩く機会があり、酒船石にも立ち寄りました。ご多分に漏れず、団体の見学者達がいて、石を二〜三重に取り囲み、おまけに講師らしき男は石の上に乗ってなにやら解説をしていました。こんなのと一緒ではかなわないとすたこらと山を下り、亀形遺跡の方から狂心の渠の残骸を探して奥の方に行きました。所が遺跡の整備で渠跡など見当たらず、その東のほうまで足をのばして見ましたが、新しく道を作るようで、景色は一変し、到底、渠の跡らしいものを探すどころではありませんでした。万葉XX館など箱物を作るのが明日香の為になるのか、出来るだけ古い地形を残すのがいいのか、・・・

 で、酒船石遺跡の場所から香具山の西に向かってうろうろと歩いていますと、幅3〜4m程度の溝と言うか用水路が引かれていました。まっすぐではなく、曲がっていましたが、とにかく香具山の西までつながっていました。狂心の渠のドンピシャリの跡ではないでしょうが、せっかくの渠ですから一部は利用されているのだろうと思いながら溝に沿って(全てではありませんが)歩きました。一面の稲田の中、何となく古代の雰囲気を味わうことができました。

[6416] 稲羽の白ウサギ〜根堅州国の復元(^^;  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/24(Fri) 22:48 [Reply]

失礼して、古事記の稲羽の白ウサギ〜根の堅州国のお話を要約すると・・

大国主神には兄弟の八十神がいたが、国は大国主神に避った(君主を譲るの意とみる)。
避ったのは稲羽の八上比賣に求婚するためにおのおのが稲羽にゆくためである。

八十神は大穴牟遅神に袋を持たせて従者とし、気多の前に至ったとき裸の兎が倒れていた。
最後にやってきた大穴牟遅神が泣いている兎をみて助けた。
八上比賣は八十神の求婚を断り、大穴牟遅神に嫁ぐといった。

怒った八十神は大穴牟遅神を殺そうとして・・大穴牟遅神は焼石に焼かれて死んだ。
御祖命は嘆いて神産巣日神に奏上すると、神産巣日神は二人の貝比賣を遣わして生き返らせた。
八十神は再び謀って大穴牟遅神を仕掛け矢で射殺したが、御祖の命が生き返らせた。

大穴牟遅神は木国の大屋毘古神のところへ逃げたが、八十神はなおも大穴牟遅神を追い、大穴牟遅神は根堅州国の素尊の所へ逃げた。
素尊の娘の須勢理姫と出会い、須勢理姫は大穴牟遅神に一目惚れして床を共にした。

素尊はこやつは葦原色許男命だぞ、といって蛇の部屋に寝かせた。
須勢理姫は蛇の比礼を授けて・・
須勢理姫は呉公蜂(ムカデ)の比礼を授けて・・

素尊は野に火を放って・・「かれ」は鼠に助けられた。
素尊は「かれ」に頭のシラミを取らせた・・須勢理比賣の機知で・・素尊は寝てしまった。
「かれ」は素尊の太刀と弓と琴を奪って逃げ、素尊は黄泉比良坂まで追って、「大穴牟遅神」に呼びかけた。

その太刀と弓で庶兄弟を追い払って大国主神または宇都志国玉神となって吾が娘の須勢理比賣を正妻として宇迦能山の山本に宮殿を建てて住め。

八上比賣は大穴持神の子を連れてやってきたが、正妻の須勢理比賣がいたのでその子を木の俣にはさんで帰った。この子を木俣神と名付けた。またの名を御井神という。


といったところで、大国主神、大穴牟遅神、葦原色許男命と神名はめちゃめちゃ(^^;
古事記少名毘古那神でもこことおなじ3種の神名が登場、やけで書いてるとしか思えない(^^;

自己流で簡略化すると以下だけとなります。
−−−−−−−−−−−−
大穴持神とその兄の八十神(複数?)は「?出雲国?」の指導者を「?大国主神?」にまかせて、稲羽の八上比賣のところへ求婚にゆく。
八上比賣は(末っ子の?)大穴持神の求婚を受け入れたために、八十神は怒って大穴持神を殺そうとした。

大穴持神は木国へ逃げなさいという母?の忠告で木国へ逃げたが、八十神はしつこく追ってきた。
そこで当時の最強者であった素尊の国へ逃げた。
素尊の娘の須勢理姫とよい仲となって結婚しようとしたが、素尊はすぐには認めず大穴持神の腕を試した。

腕前を認めた素尊は娘との結婚を許し、宇迦能山の山本に新しい国を作らせた。
そこへ(先妻の)八上比賣とその子がやってくるわけですが、まこれはおまけ。
−−−−−−−−−−−−

「?出雲国?」は現在の島根あたりでよいとみています。
「?大国主神?」は国の指導者を代表する呼称とみています(個人名ではない)。
稲羽とは現在の因幡でよいとみます。

大穴持神は山陰での最古の伝承のひとつとみています。
(出雲国風土記に明記される大穴持神がこれに相当)
(山陰にあるサヒメ伝承での大穴持神が先住していた、にも相当)

最初に逃げた大屋彦の木国とは、逃げる順からは山口県の長門あたりではなかろうか。
長門はいろいろ漂着しやすい場所とみえ、山東半島の紀氏渡来ともつながる流れにあるんじゃないか。

近畿の紀国は後に出雲の近畿進出に伴って引っ越ししたものとみています。
(すなわち、その時点で五十猛命伝承が伴って大屋彦等と合成されたとみる)

島根あたりでの内紛、素尊が一方を支援して婚姻関係を結んで新しい国を作らせた。
根堅州国はずばり遠賀川流域(素尊以前の大年神系譜の根拠地でもある)。

宇迦能山とはどこか・・うーん、地名が残るかどうか、山口県の西岸に宇賀があり、東に狗留孫山という修験の山があるけど(山名は拘留孫仏からとみえる)。
位置としてはいい線ではあります。

この伝承は古事記の八島士奴美命系(母は蛇退治の櫛名田比賣)とはまったく別系伝承でしょう。
八島士奴美命系は後の出雲神族の主流(拠点は豊前豊後とみています)
記紀ではそれらの神名や位置がごっちゃになっている・・わざとごっちゃにしている(^^;


ちなみに天穂日命は大穴牟遅命系が勢力を持っている山陰に漂着した人物。
大穴持神系譜と天穂日命系譜のドッキングが出雲臣の祖だとみています。
(後に出雲神族とも琵琶湖あたりでドッキング)


[6415] Re[6413][6399][6397]: 具体的な物で神霊常駐?  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/24(Fri) 22:39 [Reply]

≫丹波の出雲大神宮の由緒にはここだ、と言わんばかりですし

出雲臣は国造本紀によれば崇神朝で国造に任命されたのが最初とみえます。
問題はそれ以前、すなわち天穂日命とその後裔はどこにいたのか。
これも出雲のありようをどう解釈するのか、になってしまいますけれど。

書紀でゆくなら、大己貴命が国譲りした後の住まいが天之日隅宮(天穂日命が祭祀者)、一般にはこれが現在の出雲大社ということらしいけれど・・ほんとかな(^^;
大己貴命の国譲り前の住まいはいつのどこにあったのだろうか。
出雲大社はいつから現在の場所にあったのだろうか。

それでは、天穂日命自身の住まいはどこにあったのだろうか。
亀岡の出雲大神宮は現在の出雲大社の京都版のようにみえます。
ここもいつからの登場なのか。

ある時点から見えてくる事実とそれ以前さらには神話として扱われる時代、みなつがっていて切れ目はないわけで、それらを解きほぐしてゆかないと。
このあたりですね。


[6413] Re[6399][6397]: 具体的な物で神霊常駐?  神奈備 2005/06/22(Wed) 17:53 [Reply]
出雲大神の宮
> 武夷鳥命
> 天穂日命を祀る場所に置くと思うのです。

 天穂日命の存在意義は大己貴命におもね、大己貴命の祭祀を司る役割を与えられてことにあります。大己貴命は八坂瓊の大きい玉をつけて隠れたのであって、大己貴命の祀られている神社と言うことになるのでは。多分武夷鳥命は八坂瓊の大きい玉を天上界から持参、大己貴命に捧げたということでは。

 で、一体どこの神社なのか。
丹波の出雲大神宮の由緒にはここだ、と言わんばかりですし、常識的には止屋(ヤムヤ)に近い出雲大社なのかも。

[6412] Re[6411][6410][6408][6407][6406]: 仏像鏡  神奈備 2005/06/20(Mon) 19:34 [Reply]
> 霊験あらたかな宝物だろうが、思想・宗教が付いてきているのだろうか?
> 仏教が伝わった。。
> 無くはないでしょうが、この鏡からっていうのは、ちょっと。

仏教をどう考えるのかと言うことになります。
宗教として、仏法僧の三位一体として受け入れるのか
寺院建築、仏像造り、庭つくりなど、文化として受け入れるのか
臭いを嗅いだ渡来人が鏡を持ってきて、仏像がわりにお経でもあげたのか。
ラインをどこにひくのかいな、でしょうね。

[6411] Re[6410][6408][6407][6406]: 仏像鏡  ペギラ 2005/06/20(Mon) 15:48 [Reply]
> > http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/uregaki38.htm
> > 千葉県の木更津市で、5世紀後半から6世紀前半にかけての古墳から”仏像鏡”が出土しました。仏像鏡とは、鏡の裏に仏像の他、仏教関係の装飾を施した鏡のことです。
> >

http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/asiato1.2.htm
こっちには、ちゃんと載っていた

・・・引用・・・・

1.祇園大塚山古墳(前方後円墳・箱式石棺)。

  ・時−−−−5世紀後半。

  ・副葬品−−(ぼう製)画文帯四仏四獣鏡一面他。

 2.鶴巻古墳(円墳・箱式石棺)。

  ・時−−−−6世紀前半。

  ・副葬品−−画文帯四仏四獣鏡,神獣鏡他。

・・・・・・・・・・・・以上・・・・・・・・・・

ちょっと乱暴な感もありますね。
神獣鏡があるから、道教(老荘)が、、、というわけには。
仏獣鏡があるから、仏教が、、、。

霊験あらたかな宝物だろうが、思想・宗教が付いてきているのだろうか?
仏教が伝わった。。
無くはないでしょうが、この鏡からっていうのは、ちょっと。

[6410] Re[6408][6407][6406]: 仏像鏡  ペギラ 2005/06/20(Mon) 15:31 [Reply]
> http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/uregaki38.htm
> 千葉県の木更津市で、5世紀後半から6世紀前半にかけての古墳から”仏像鏡”が出土しました。仏像鏡とは、鏡の裏に仏像の他、仏教関係の装飾を施した鏡のことです。
>

画文帯仏獣鏡のこと??
http://www.kisarazu.ed.jp/kinrei/kinrei/1gion_nagasuka.htm

もっと仏像鏡らしい鏡があるのかな?

[6408] Re[6407][6406]: 仏像鏡  神奈備 2005/06/20(Mon) 12:56 [Reply]
> この仏像鏡は、どこの、どんな「銅鏡」なのでしょうか?

http://kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/uregaki38.htm
千葉県の木更津市で、5世紀後半から6世紀前半にかけての古墳から”仏像鏡”が出土しました。仏像鏡とは、鏡の裏に仏像の他、仏教関係の装飾を施した鏡のことです。

[6407] Re[6406]: 仏像鏡  ペギラ 2005/06/20(Mon) 09:46 [Reply]
>  銅鏡に仏像鏡と言うのがある。この意味がわかる人は仏教を知っていると言える。渡来人だろう。5世紀後半〜6世紀前半のものだと言う。
>  要するに、その頃には仏教が伝わっていたと言うこと。
>  通常、欽明朝の頃、伝達されたと言うが、それは国家間のやりとり。

おはようございます。神奈備さん。

この仏像鏡は、どこの、どんな「銅鏡」なのでしょうか?

[6406] 仏像鏡  神奈備 2005/06/20(Mon) 08:29 [Reply]
 銅鏡に仏像鏡と言うのがある。この意味がわかる人は仏教を知っていると言える。渡来人だろう。5世紀後半〜6世紀前半のものだと言う。
 要するに、その頃には仏教が伝わっていたと言うこと。
 通常、欽明朝の頃、伝達されたと言うが、それは国家間のやりとり。

 で、仏教はどこから入ってきたのか。それは難波の堀江から。なぜならば、仏像を捨てたのはここ、入ってきた所へ戻したと言うこと。
 昨日、大阪歴史懇談会の講演会での、滋賀大の小笠原好彦教授のお話。氏は『聖武天皇と紫香楽宮の時代』新日本出版社¥950.−を出されています。

大阪歴史懇談会 http://homepage2.nifty.com/rekikon/index.html

[6405] Re[6398][6396][6394][6393][6391][6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  れふと 2005/06/18(Sat) 00:13 [Reply]
> 単に「神社」という記述なら、巻25大化二年にも存在しますが、そういう話ではありません。

ですね。失礼しました。
投稿してから気付きました・・・。
ちゃんと読んでなかったです

[6404] Re[6403]  poco 2005/06/17(Fri) 23:36 [Reply]
みなさんの議論のただ中に割り込んでしまっていましたね、すみません。
お気軽談話室もあったのに後で気づきました。
またじっくり見させて頂きます。

[6403] Re[6402]: 興味深いです  神奈備 2005/06/17(Fri) 21:45 [Reply]
pocoさん、お読みいただき、また掲示板にご感想を頂き、ありがとうございます。
発信者冥利です。

[6402] 興味深いです  poco 2005/06/17(Fri) 15:56 [Reply]
杭全神社のことを調べていまして、たまたま神奈備さんの記述をみつけました。
今年初めて綿を育てていることもあって
綿の伝来のお話など、とても興味深かったです。
ありがとうございました。

[6401] Re[6400][6398][6396]: 神宮 資料  ペギラ 2005/06/16(Thu) 22:47 [Reply]
肝心なことを漏らしていた。(笑)

> そもそも、資料にある六国史年代年号の太政官符が真偽のほどがすごく曖昧。

ここでの記述が
「神社并神宮寺」

神宮と神宮寺も、糸口の一つだろう。

[6400] Re[6398][6396]: 神宮 資料  ペギラ 2005/06/16(Thu) 21:58 [Reply]
玄松子さん、ありがとうございます。

れふとさん、私の不備を指摘して頂いて、うれしいです。(笑)
こんなレスなら大歓迎です。

で、熱田神宮文書とか熱田神宮資料とかの書物を探索しました。
結局熱田神宮の初出は不明瞭でした。

そもそも、資料にある六国史年代年号の太政官符が真偽のほどがすごく曖昧。

江戸時代から疑問視されているということは、それ以前に存在することは間違いないが。

熱田神宮、熱田太神宮、熱田皇太神宮等々、神宮が使われた形跡多々。

明治になって、熱田神宮に名称が統一されたことは、れふとさんの記述です。

熱田神宮は、神宮の中でも特異なものではないか?と思いました。

[6399] Re[6397]: 具体的な物で神霊常駐?  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/15(Wed) 20:48 [Reply]

≫出雲大神の宮 天から持って来た神宝(天神 具体的)

これ興味深いです。
崇神紀60年、神宝のあった「出雲大神の宮」ってどこの社?

武夷鳥命ですから天穂日命の所持した神宝、出雲神族の隠居先ないし出雲神族を祀る場に置くとは考えにくい。
天穂日命を祀る場所に置くと思うのです。

中国地方には天穂日命を祀る社はたくさんありますが、出雲振根の話からは島根あたりにあったと思われます。

(垂仁紀26年の物部十市根の出雲国での神宝チェックは出雲神族の宝である可能性あり)
(風土記斐伊郡神原郷の「所造天下大神」の御財を積み置きしところ、の御財など)

出雲風土記が大神と称しているのは、熊野大神、佐太大神、所造天下大神、野城大神。
熊野と佐太は最古であり、縄文から弥生への過渡期の人々(持論で初期開拓者)とみております。

出雲風土記では所造天下大神に続けて大穴持神と明示する場合と、所造天下大神に続けて別の神名を書く場合と、なにも書かない場合があります。
所造天下大神だけしか書いていない場合、これがくせもの(^^;
地域や年代の異なる複数の出雲神族の神あるいは伝承を取り込んであいまい化している場合だと推定。

残るは野城大神、意宇郡野城駅に書かれており現在の能義神社とつながると思われます。
http://kamnavi.jp/en/izumo.htm
http://www.genbu.net/data/izumo/nogi_title.htm

http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/nogi.htm
ここにある出雲神社巡拝記を知りませんが高御産巣日神を祀る、が興味深い。
(ここの杵築大社なども参照)

延喜式では御祭神が大穴持神とされますが、これは記紀の影響下のものと思います。
記紀以前では「出雲大神の宮」であり、いつかはわかりませんが後に天穂日命に変わったのでしょう(復活?)。
やっかいではありますが、能義神社付近に天穂日命の神宝が置かれた「出雲大神之宮」があったのではなかろうか。


先代旧事本紀天皇本紀の神武に「帝と神は遠からず、殿を同じくし床も共にするのが常であり、神物も官物もまだ分別していなかった」とあります。
また宮内に藏を立てて斎藏と称し忌部氏が管理したとあります。
神乃宮=支配者の宮でもあったわけで、崇神でこれを分離し、少なくともひとつが伊勢大神乃宮となったのでしょう。

「宮」の解釈からは「出雲大神の宮」とは天穂日命の住まいないし死去地。
住まいであるなら、そこにお宝もあるだろうなあ。
宮=神宝の在る場所でもあると思います。

ただし、崇神垂仁までは、です。
以後どうなるかは、その後の人々の解釈あるいは意識がどうであったかによりますし。


[6398] Re[6396][6394][6393][6391][6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  玄松子 2005/06/15(Wed) 00:19 [Reply]
> 『日本書紀』に既にあります。
> 天武天皇十三年(684年)10月14日の項です。

単に「神社」という記述なら、巻25大化二年にも存在しますが、そういう話ではありません。

玄松子> 特定の神社を、「XX神社」と表記している例は無いようですが、
ペギラさん> *神社というのは、続日本紀からの登場です。

と話の流れがありますから、特定の神社の号としての「*神社」という記述は日本書紀にはないという意味です。

[6397] 具体的な物で神霊常駐?  神奈備 2005/06/14(Tue) 21:00 [Reply]
 
[6387] > なお、倭大国御魂神の源流は神武と媛踏鞴五十鈴媛の結婚にあって出雲神族系。
[6387] > 崇神にとって主神はあくまで天孫の神であって、伊勢と同じ呼称は用いなかったのではないかな。
[6387] > 大和では石上神宮が大和中枢部での武を統括したと考えています。


 依代以上のモノ、言うなれば、超越した存在と見なされた具体的な物、即ち神霊が宿っている物を納めた建物を神の宮と称した。

崇神時代に記載されている神々
日本大国魂神 (地神)
大物主神 被征服の神(地神)
天社、国つ神、神地、神戸
墨坂神、大坂神 境の神(地神)
出雲大神の宮 天から持って来た神宝(天神 具体的)


[6394] > 朱鳥元年(六八六)六月
[6394] > 送置于尾張國熱田社
『日本の神々10』(熱田神宮)によりますと、寛平二年(890)作とされる『尾張国熱田大神宮縁起』なる由緒書きがあり、この頃には神宮だったのでしょう。なお、同書によりますと、ここの神剣は皇室に伝えられた神爾の剣ではないとの説があるようで、岩波文庫の注にもそうしている。神爾の剣とすれば倭姫が甥に渡すというのもおかしいのかも。尾張氏が後に熱田の剣と天叢雲剣の話をひっつけたのかも。

[6396] Re[6394][6393][6391][6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  れふと 2005/06/14(Tue) 21:00 [Reply]
補足

> *神社というのは、続日本紀からの登場です。

『日本書紀』に既にあります。
天武天皇十三年(684年)10月14日の項です。

[6395] Re[6394][6393][6391][6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  れふと 2005/06/14(Tue) 20:46 [Reply]

> 「熱田」に関してですが、六国史上では「熱田社・熱田神」以外ありません。
> いつから?熱田神宮なんだろうか???

こんにちは。横から失礼します。
熱田社の神宮号宣下は明治天皇行幸を前にした1868年(明治1年)6月です。(熱田神宮宮庁1991『熱田神宮』)
熱田神宮が国家の宗廟として認識されるようになったのは、明治以後のことで、角田忠行らの運動の結果です。

[6394] Re[6393][6391][6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  ペギラ 2005/06/14(Tue) 12:03 [Reply]
> > 時間軸をどこに置くかでも色々ですが、
> > 日本書紀に限って、考察するならば、
>
> 特定の神社を、「XX神社」と表記している例は無いようですが、
> 「XX社」と表記している例も、熱田社や三輪社など、数例しか見当たりませんね。
> やはり、サンプルが少ないとしか。

サンプルの少なさは仕方がないですよ。
結論ではなく、糸口程度の手がかりを求め。。

ちなみに「社」
神武天皇即位前紀
宜取天香山社中土

垂仁天皇二年
詣于難波爲比賣語曾社神

景行天皇五一年
是今在尾張國年魚市郡熱田社也

神功皇后摂政前紀
則立大三輪社以奉刀矛矣

孝徳天皇即位前紀
生國魂社樹之類(注)

斉明天皇七年
朝倉社木而作此宮之故

天武天皇元年(六七二)七月
吾者高市社所居。名事代主神。又牟狹社所居。名生靈神者也

朱鳥元年(六八六)六月
送置于尾張國熱田社

朱鳥元年(六八六)七月
奉幣於居紀伊國國懸神。飛鳥四社。住吉大神

*神社というのは、続日本紀からの登場です。
続日本紀
大宝二年(七〇二)二月
分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社
慶雲三年(七〇六)閏正月庚戌
令掃淨諸佛寺并神社

このあたりが始まりでしょう。

「熱田」に関してですが、六国史上では「熱田社・熱田神」以外ありません。
いつから?熱田神宮なんだろうか???

[6393] Re[6391][6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  玄松子 2005/06/14(Tue) 06:41 [Reply]
> 時間軸をどこに置くかでも色々ですが、
> 日本書紀に限って、考察するならば、

特定の神社を、「XX神社」と表記している例は無いようですが、
「XX社」と表記している例も、熱田社や三輪社など、数例しか見当たりませんね。
やはり、サンプルが少ないとしか。

29巻天武天皇十年には、「詔畿内及諸國修理天社地社神宮」とありますから、
神宮が特別な号ということでも無いのかもしれません。

[6392] Re[6389][6388][6379][6372]: 住む場所と宿る場所  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/13(Mon) 19:33 [Reply]

神奈備さんが疑問とした、神宮を霊廟だとするなら石上は祖先神なのかいな・・に戻ります。

記紀にでてくる神宮は伊勢神宮と石上神宮の2社しかなく、石上神宮は垂仁紀で千口の剣が納められた時点での登場。

崇神時代に石上に十種神宝が納められたとするのは先代旧事本紀で、「布都大神社」を石上邑に移し、このとき十種神宝もいっしょに納められたとしています。
続けて、石上大神と称して「神宮」を斎奉する、とあります。
崇神時代では「布都大神社」であり後に神宮となったとみることができます。

フツ靈剣の登場は書紀神武紀、布都主剣は先代旧事本紀で同じく神武。
古事記では「横刀」で名はありません。しかし本文中の補注に「布都御魂、石上神宮にあり」とあります。


流れとしては崇神垂仁時代の石上は武器庫兼宝物庫。
発端が四道将軍の派遣(2度目の)、石上武器庫から武器が気比武器庫(^^; や熱田武器庫へ運ばれたんじゃないかな(鹿島香取も)。
垂仁の千口の剣はその補充といったところです。
このあたりで石上に武神のイメージが加わっただろうと考えています。

石上に十種神宝もあるなら戦フツと鎮魂フルが対になって納得できます。
で、当初は神宮ではなく、あったとしても武器そのものの威力に対する祭祀だったのではなかろうか。
例えば布都大神、布都フツは古そうな言葉のようで、ブツ切りのブツも同じかな。

これが神宮になるのは、布都主剣、フツ靈剣の神格化によるものと思います。
すなわち、記紀が天照大神を神の頂点におき、神武を天皇の祖として人の頂点においたときです。
そして、神武の剣(フツ靈剣)が石上にあるとされて、伊勢と石上がペアになった。

これが石上を神宮と呼称する最初ではなかろうか、記紀編纂者による呼称です。
以降、気比も熱田も鹿島も石上とのつながりによって神宮の呼称が用いられるようになった。
武神も経津主命や武甕槌命に差し替えられただろうと思います。


≫ミヤとヤシロの差異を考えるのが方向ではないのでしょうか

古事記崇神では「伊勢大神之宮」と「定奉天神地祇之社」という表現がありますから、使い分けてますね。
記紀編纂以前では「伊勢大神之宮」であって、これを記紀が「伊勢大神宮」と短縮して書いたものとみます。
(カミノミヤと読むのが本来と思います)

石上は記紀以前では先代旧事本紀にあるように布都大神之社だったのではなかろうか。
これが記紀によって石上大神之宮→石上神宮となった。

では宮と社の違いは・・
宮は靈ミ屋ヤとする白川静に賛同です。
宮は住まいであり、宮殿にイコールで神の宮殿、立派でなければならない(^^;

社は住まいである必要はなく、磐座でも神籬でも、神の宿る場所でさえあればよい。
(文字としては土を盛った土壇での祭祀)
白川静の屋代、祭の時だけの臨時のもの、これも賛同です。

杜の場合は樹木がメインであって、神社に森が付帯するところから神が宿る場所を含めてもっと広範囲のイメージからじゃないか。


古事記垂仁の本牟智和気に出雲の石{石冏}之曾宮イワクマノソノミヤがあります。
岩波註では出雲大社のこととありますが、大国主命の引っ越し先であれば宮でもよさそうです。
しかし「曾宮」ってどういう意味かなあ。

宗像の多紀理毘賣命は奧津宮ですね。
古事記彦火々出見命で、塩椎神が案内するのは「綿津見神之宮」。
これらは神のやってくる場所ではなく、住まいそのものなのだと思います。

石上神宮などの神宮は、本来の神の住まいの意ではなく、伊勢神宮に形式的に対応させようとした記紀編纂者が作りだした文言であると考えます。
ちなみに・・明治神宮・・これは道教における神宮であって100%霊廟だと思います。


6385
≫「上代特殊仮名遣」をキーワードにサーチすれば良いでしょう。

ありがとうございます。
各論あるようで、意外やまだ新しい論なんですね。
どうも言語学は苦手なのでぽちぽち足を踏み込んでみます。


[6391] Re[6390][6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  ペギラ 2005/06/13(Mon) 12:02 [Reply]
時間軸をどこに置くかでも色々ですが、
日本書紀に限って、考察するならば、

崇神天皇八年十二月 三輪(大神)の神酒の説話  
>宴于神宮       かみのみやにとよのあかりす 
>即開神宮門而幸行之  かみのみやのみかど

崇神天皇六〇年七月 出雲大神の神宝を見たいということで矢田部造遠祖武諸隅を派遣。

>藏于出雲大神宮    いづものおほみかみのみやにをさむ

垂仁天皇三九年十月  五十瓊敷命の茅渟菟砥川上宮で作った剣の説話
>藏于石上神宮也    いそのかみのかむみやにをさむ

景行天皇四〇年十月  日本武尊が草薙剣を倭姫命からもらう説話
>抂道拜伊勢神宮    みちをよぎりいせのかみのみやををがむ
景行天皇四〇年是歳  日本武尊の説話
>則以所俘蝦夷等獻於神宮 すなわちとりこにせるえみしどもをもてかみのみやにたてまつる

景行天皇五一年八月    伊勢神宮から三輪山へ、その後播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波へ蝦夷の説話
>於是所獻神宮蝦夷等   かみのみやにたてまつれるえみしども

仁徳天皇四十年二月    隼別皇子と雌鳥皇女の説話
>欲納伊勢神宮而馳    いせのかむみやにまゐらむとおもひてはす

履中天皇即位前紀     倭直等の釆女を貢する説話
>太子便居於石上振神宮  ひつぎのみこすでにいそのかみのふるのかみのみやにまします

雄略天皇三年四月     阿閇臣國見〈更名磯特牛〉の神域に逃げ隠れる説話
>逃匿石上神宮      いそのかみのかみのみやににげかくれぬ

欽明天皇十六年二月     百済王子恵の問いの蘇我臣の返答   
>脩理神宮奉祭神靈國可昌盛 かみのみやをつくろひおをめてかみのみたまをまつりたてまるらばくにさかえぬべし

用明天皇即位前紀      
>以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀 いせのおほみかみのみや

天武天皇二年(六七三)四月
>欲遣侍大來皇女于天照太神宮  あまてらすおほみかみのみや

天武天皇三年(六七四)八月
>遣忍壁皇子於石上神宮     いそのかみのかみのみや

天武天皇三年(六七四)十月
>大來皇女自泊瀬齋宮向伊勢神宮 いせのかみのみや

天武天皇四年(六七五)二月
>十市皇女 阿閇皇女 參赴於伊勢神宮

天武天皇十年(六八一)正月
>詔畿内及諸國修理天社地社神宮  あまつやしろくにつやしろのかみのみや

 朱鳥元年(六八六)四月 
>石川夫人於伊勢神宮

日本書紀の編纂者・編纂された時期の神宮とは、
神宝の収納されている倉庫。これを神の宮と呼んだのではないか?
社(やしろ)との違いは、そのあたりじゃないかと。邪推か??

[6390] Re[6389][6388][6379][6372]: 神宮 資料  玄松子 2005/06/13(Mon) 00:44 [Reply]
> どうなんでしょう、ジングウとかジンジャ、どっちがエライ(?)というような話は、あのような施設の名前を音読みするようになって、階級を付けた(としたなら)その後のことであって、

とりあえず、古代に「神宮」と記された神社の共通点を、
「強いて」挙げると、大きな神社でしかないと思うんですよね。

だからといって、大きな神社=神宮ということではないし、
神宮の方が神社より偉いというのも、どこからも出ない。
とにかく、サンプルが少ないという結論です。

> ミヤとニハ(庭)は同源という視点からも検討して欲しい(カミ(の)ニハ)。

御屋じゃないかなぁ?

[6389] Re[6388][6379][6372]: 神宮 資料  大三元 2005/06/12(Sun) 22:57 [Reply]
どうなんでしょう、ジングウとかジンジャ、どっちがエライ(?)というような話は、あのような施設の名前を音読みするようになって、階級を付けた(としたなら)その後のことであって、それはそれで研究対象かもしれないけれど、原点に向かって遡ろうとするのだったら、カミ(の)ミヤ、カミ(の)ヤシロ、として、ミヤとヤシロの差異を考えるのが方向ではないのでしょうか。
ミヤとニハ(庭)は同源という視点からも検討して欲しい(カミ(の)ニハ)。
ヤシロも屋代のようなことだろう。建物を造るための土地、だろうか。
また、大神宮、という漢字の並びも 大きな神宮なのか、オホカミのミヤなのか。

脇からヤジのようで恐縮。

[6388] Re[6379][6372]: 神宮 資料  玄松子 2005/06/12(Sun) 22:27 [Reply]
> 共通の法則を考えなくては・・・・

強いて『神宮の資格』を云えば、大きな神社。

サンプルが少なすぎるのでなんとも云えないというか、
こじつければ、なんとでも云うことは可能というか。

延喜式では、平野や春日もどのように呼ばれていたか分かりませんから。

[6387] Re[6386][6379][6372]: 四道将軍と神宮2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/12(Sun) 21:16 [Reply]

その北陸方面の守り(祭祀)が若狭の気比神宮。
平成祭りデータでは、氣比神宮と書いて読みはケヒジンジャとなっています。
延喜式神名帳では越前國敦賀郡氣比神社、なんとも微妙であり、いろいろな意識がからんでいるのでしょう。

それはおいて、縄文〜古墳時代を通じて若狭は日本海沿岸の交通の要衝、西隣には縄文屈指の三方湖の遺跡と鳥浜貝塚があります。
縄文に遡ってなんらかの祭祀が行われていたと思います。
弥生に下っては日本海系海人による祭祀が行われていたのではなかろうか。

若狭(丹波)方面には大彦命と丹波道主命が送られていますが、丹波道主命の父の彦坐王の母は意祁津比賣(父は開化)。
意祁津比賣の出自はわかりませんが、その名の如く壱岐か対馬あたりの海人とみています。
ならば日本海側への派遣は適任と思います。
大彦命とともに日本海沿岸を征圧し若狭から琵琶湖を経て近畿大和へ南下した。
後に大彦命はさらに北陸へ再出陣。

新羅から渡来した天日矛命もこの二人に随伴し、兵を与えられて若狭〜琵琶湖〜播磨へ進んで出雲勢力と戦ったのではないか。
これが播磨風土記に書かれる天日矛命と葦原色許男命の戦だとみています。
垂仁紀3年に書かれる天日槍命は宇治川を遡って若狭、但馬に入って定住地を探していますが、播磨での戦闘が終わって後の行動でしょう。

記紀はまともに書くことのできない事象を書く場合に、年代をずらす操作をしている。
崇神時代直前の事象が垂仁紀に書かれているとみれば、同じ垂仁紀88年に書かれる4世代目の清彦、90年の5世代目の田道間守の登場が自然な流れとなります(むろん垂仁の寿命が140歳のはずもない)。


古事記気比大神の項に、名を交換した応神に「鼻の傷ついたイルカが御食として神から送られ、血なまぐさかった」とあります。
イルカは海人を表し、鼻が傷つくとは海人の犠牲を表し、血なまぐさいとは戦あるいは謀反を意味し、御食として与えられたとは許された、の意とみています。
(大義名分はあった、ということでしょう)

なお、風土記越前国逸文にある「気比と宇佐は同体である」は??ですが、海人系譜によって宇佐と気比がつながっていたことは間違いないと思います。

古来からその地に重要祭祀があった場合、上書きされて武神が置かれたとしても、その必要がなくなったとき元の祭祀が復活すると思います。
それが気比神宮の微妙な状況だと考えています。


東海では熱田神宮、天竜川と木曽川の上流、すなわち諏訪出雲に対する押さえであって最強武器が必要。
こちらは単純明快(^^;
伝わる縁起よりはるか古くに原形があり、崇神時代に草薙の剣が置かれた可能性をみるところです。


遠く離れた関東にも鹿島神宮、香取神宮の拠点を置いた。
四道将軍ではないですが、おそらくは豊城入彦命(垂仁の異母兄、母は木国造の荒河刀辨の娘)。
(上毛野氏、下毛野氏の祖、関東の上野コウ・ツ・ケ、下野シモ・ツ・ケはここからくる地名とみています)
鹿島香取は対蝦夷のために武神祭祀が継続し、中臣さんの関係もあって後に記紀にいう武甕槌命やフツ靈剣に変化したのでしょう。

群馬県安中市に咲前神社があり、経津主命が建御名方命と対陣したという縁起があります。
http://www.sakisaki.net/
時代と人物がごちゃ混ぜになっているとみえますが、諏訪出雲の関東進出に対抗した様子を示すものと思います。

新潟、長野、関東北部、東北南部、には手力雄命を祀る社が多いですが、雄略時代の戸隠系とは別に崇神時代に遡るものが少なからず含まれるだろうと思っています。
(すなわち当時の武神は手力雄命とみる)


吉備は桃太郎(^^;
吉備にも「神宮」がおかれた可能性はありますが、岡山にそれらしき痕跡はみあたりません。
近畿を中心に考えれば西の守りは必要と思いますが、九州から進出した勢力であれば、こちら側には「武神」を置かなくても不思議はないと思います。

平成祭りデータに「内宮」という興味深い社があります。
http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-29.htm
元伊勢の西限とありますが未確認、崇神の宮殿から分祀が行われた可能性はあるかもしれない。


亀岡の出雲大神宮については平成祭りデータにある以外はなにも知りませんが、上記までの社とはまったく異なる「神宮」だとみます。
由来書にある「元出雲」と「島根半島の大社は国譲りました大国主大神御一柱を祀る慰霊の社」という文言に注目です。

書紀1書では国譲りした大己貴神(大国主命)を祀るのは天穂日命であると書いています。
それが島根の出雲大社(杵築大社)天之忍穂耳命とはぐれて迷子となり(^^; 島根に漂着した天穂日命が祭った。
出雲とはいっても天孫です、日本海系の出雲臣族の登場。

出雲臣族は東進して若狭から南下、出雲神族と合体。
その京都での祭祀の場が出雲大神宮の源流ではなかろうか。

天孫系譜である自負があったなら、後に「伊勢太神宮」に対抗して「出雲太神宮」を名乗ってもおかしくないと思います。
元出雲の主張は、記紀以降に出雲=島根のごとくになってしまったためでしょう。

この「神宮」は崇神朝から発した「神宮」とは無関係で、後に対抗意識から生じた呼称だとみておきます。


なお、倭大国御魂神の源流は神武と媛踏鞴五十鈴媛の結婚にあって出雲神族系。
崇神にとって主神はあくまで天孫の神であって、伊勢と同じ呼称は用いなかったのではないかな。
大和では石上神宮が大和中枢部での武を統括したと考えています。

崇神紀9年に矛と盾による祭祀で墨坂神と大坂神を祀っていますから、これが大和の中枢を守る軍事拠点だったのでしょう。
墨坂神と大坂神はともに手力雄命であったとみております。


吉備にあったという素盞鳴尊の剣、これは崇神にとって登場してほしくない荒ぶる神の剣。
反乱の錦の御旗にならないように手元(石上)に移して隠したかも(^^;
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/futumitama.htm


[6386] Re[6379][6372]: 四道将軍と神宮1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/12(Sun) 21:01 [Reply]

≫共通の法則を考えなくては・・・・

やはり総合的な歴史観を設定しておかないと・・毎度ですが以下の持論に基づく解釈をひとつ。
以下、周辺状況を押さえねばならないので冗長となりますがあしからず。

神武東征とは神武の九州統一であり(AD50頃、=出雲の国譲り)、その後の出雲の中枢は奈良にあった。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif
近畿出雲を征圧したのは開化(225-248)であり、そこに誕生した新政権が崇神朝(248-273)である。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/ad250jousei.png

いまのところ「九州倭国連合の議長」の卑弥呼の統率下にあった男王のひとりが開化とみています。
これらの行動は東遷ではありません、領土拡張のための侵略です(^^;
人口過剰とAD100頃からの寒冷化による神武朝の崩壊、その後の混乱(倭国争乱)と飢饉多発による行動とみています。

当初の崇神朝は倭国連合の近畿支部といったところだったが、混乱による九州勢力の衰退によって自動的に主権が崇神、垂仁朝に移り、景行は九州に長期滞在して九州倭国のてこ入れと修復を行った。
(邪馬壹国も壹与以降で消滅)

さて、最初に結論。
近畿大和の新政権である崇神朝がその宮殿から周辺に再配置した祭祀、それが「神宮」。
(例外1件、後述)
遡っては神武と出雲の合体による神武朝での神宝と祭祀がその原点です(行橋〜宇佐あたりと推定)。


崇神紀に四道将軍の派遣記事が書かれています。
これが記紀における出雲征圧作戦の痕跡であり、崇神朝成立前後の事象を書いたものとみています。

北陸には大彦命(開化の兄)
東海には武淳川別命(大彦命の子、兄妹の御間入姫は垂仁の母)
西海には吉備津彦(孝元の孫の吉備津彦命でしょう)
丹波には丹波道主命(開化の子の彦坐王の子)
(その兄は沙本毘古王で垂仁暗殺を謀る、後裔に息長帯比賣命(神功)・・謀反の系譜(^^;)


ついでですので青草をちょいと・・(^^;
神武東征説話のようにはるか遠隔地への単独突入は無謀の極みと思います。
食糧や武器の後背支援もなしでは、補給を絶たれたら戦わずして自滅するだけ。

開化は大和突入の司令官、熊野から上陸して背後の吉野から一気に出雲の中枢を奇襲した。
後背支援は天火明命の後裔とそれにつながる伊勢志摩周辺の海人が行ったと推定。
欝色謎や伊香色謎から大新河や十市根に至る物部系譜台頭もその流れにあるとみています。

記紀はこれらの事跡を神武にかぶせて書いた。
先代旧事本紀は天火明命降臨と記紀の神武東征をごちゃ混ぜにして饒速日を登場させた(^^;
(旧事本紀の原典は蘇我馬子あたりでの史書であり、そこに神武東征はなかった・・とみています)
青草段落


開化の弟とされる武埴安彦命は反乱を起こします。
このあたりはみな母系のありようと王位継承問題がからんでいるとみています。
崇神以降の主流派は物部系の母であり、そうでない系譜の不満といったところか。

以下は高地集落の分布、年代がおおざっぱで、それぞれの状況も不明ですけれど。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/iseki_ks.png
200〜300が出雲崩壊時といったところか。

以下は銅鐸の形式別分布などの地図化情報で大いに参考にしています。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku.html
ここでの扁平鈕式が持論での神武時代(AD50前後)に相当する銅鐸となります。


大和に新政権が誕生したとき、それを守る要衝に武神あるいは剣などの祭祀具(呪具)がおかれた、と考えています。
崇神紀に書かれる四道将軍派遣は4人ですが、将軍派遣がもう一度登場します。
2度目は誰とは書いておらず、「畿は平穏」だが「海外の騒動」がまだ収まらないので将軍を派遣したとあります。
海外とは日本海と太平洋の外の意で、北陸と東海でしょう。

古事記に書かれる「将軍の派遣」は大彦命と建沼河別命の2人だけです。
書紀の2度目の派遣が古事記の記事に対応するもので、北陸に大彦命、東海に武淳川別命が再出陣したと見ています。


[6385] Re[6384][6377][6376][6371][6367][6355][6354][6353][6352]:五十とはなにか  大三元 2005/06/12(Sun) 14:18 [Reply]
> 乙類とか甲類といった違いについて解説していただけないでしょうか。

「上代特殊仮名遣」をキーワードにサーチすれば良いでしょう。
Wikipediaあたりから入られては?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3


[6384] Re[6377][6376][6371][6367][6355][6354][6353][6352]:五十とはなにか  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/11(Sat) 19:54 [Reply]
≫磯、五十、石、兎、五瀬、幸 を「イソ(イセ)」と読み、海山の「さち」あたりの意味に

五十を数として扱う場合はイソで、これをイと読む場合は呪性の意味で用いていると考えています。
古事記では伊などの一文字で、書紀では五十となっている場合は確実に、書紀だけの五十もまずそうだと思っています。
(八十ヤソ、八百ヤオなどは数、五百の場合は「たくさん」の意と思うけど)

神武の妃は書紀ではヒメタタラ五十鈴媛、古事記ではヒメタタラ伊須気余理比賣。
ここでの五十と伊も対応しているとみます。
記紀にはでてきませんが、神武の婚儀での五十櫛も周辺状況から呪性のイ。

書紀の猿田彦命は五十鈴川ですが、この五十鈴川は古事記にはでてこない。
五十猛命、イ・タケルと読む場合も呪性(巫者)をみていますが、これも古事記にはでてこない名で、なんらかの必要があって書紀編纂者が登場させた、とみています。
五十(イ)は比較的新しい時代での用法(概念)ではないかなあ。


崇神の五十瓊殖、垂仁の五十狭茅も古事記ではイであり、両者に武の様相がみえないこともあって、両者ともに祭祀者(景行は武人とみる)。
(崇神は開化と四道将軍による出雲の軍事的征圧が終了してからの登場・・と拡張されてゆく(^^;)

で、五十を持つ人名は景行の子までで、以降消えてしまいます。
神功紀に、海上の五十狭茅に祭らせた、が最後かな。
これは「倭なになに姫」が消えるのと重なる。
王朝の祭祀パターンがこの頃に変化したからだと考えています。

(崇神〜景行系譜の消滅、応神の登場、九州系大王の登場・・と拡張されてゆく(^^;)


ところで、磯城のキは乙類であり、師木のキも乙類である、牙のキは甲類なんてのがありますね。
乙類とか甲類といった違いについて解説していただけないでしょうか。


[6383] Re[6367][6355][6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  神奈備 2005/06/11(Sat) 18:52 [Reply]

> 探湯を行った磯城の川、九州である可能性大。
 「磯城」とは「岩石を巡らした祭祀の場所」の意味があり、普通名詞でもあります。そのような所の近傍を流れている川を磯城川と言ったとすると、それでどこだとは言いにくい所。
 武内宿禰は紀州を廻って応神天皇の下に行ったとあり、いちがいに筑紫におもむいたことで、磯城を九州とは言えないように思います。

> 倭国磯城郡磯城嶋
 敷島となると、大和の枕詞、せっせと大和だよと訴えていますね。いじらしい。

[6382] Re[6381]: ありがとうございます!!  日野 2005/06/10(Fri) 23:10 [Reply]
ありがとうございます!!
神様の名前は難しい、といいますか読みにくくて(苦笑)
私の地域から出ている本を頼りに読み方を探したのですが、
フリガナが無くて苦労しました。
名前が上下逆になっているとも思いませんでしたし…。
>
> 鹽土老翁命(しおつちのおじのみこと)の同じ神とされています。
>
道祖神の祠で(祭神は猿田彦神)多数の神様を祭っている中に「塩土翁」の名がありました。
…なんだか神社を調べてみるのが面白くなってきそうです。

本当にありがとうございました。

[6381] Re[6380]: 初めまして  神奈備 2005/06/10(Fri) 23:01 [Reply]
> いろいろと検索していた所、事勝國勝長狭命ではないかと思っています。
> すみません、この神様の呼び方がわかりません。
> 教えて頂けたら幸いです。

「ことかつくにかつながさのみこと」と訓むようです。

鹽土老翁命(しおつちのおじのみこと)の同じ神とされています。

[6380] 初めまして  日野 2005/06/10(Fri) 21:44 [Reply]
初めまして、検索を頼りにこちらに行き着いたものです。
今、地域に祭られている神様を調べています。
一つの神社に多数の神様を祭っているところで、(元は道祖神の祠)
國勝事勝長狭神という神様を祭っているのですが(立て札に記載有り)
いろいろと検索していた所、事勝國勝長狭命ではないかと思っています。
すみません、この神様の呼び方がわかりません。
教えて頂けたら幸いです。

[6379] Re[6372]: 神宮 資料  神奈備 2005/06/09(Thu) 21:35 [Reply]
> 石上・伊勢 以外の神宮 (神宮寺・神宮司含む)
ペギラさん ありがとうございます。


          延喜式呼称
崇神期 出雲大神宮 出雲神社
    石上神宮  石上坐布都御魂神社
698 多氣大神宮 瀧原宮?
741 八幡神宮  八幡大菩薩宇佐宮神社
776 氣比神宮  氣比神社

          鹿島神宮
          香取神宮
   伊勢神宮   伊勢神宮

共通の法則を考えなくては・・・・

[6378] Re[6375]: おつかれさまです  恋川亭 [Mail] 2005/06/07(Tue) 23:53 [Reply]
すみません、また間違えましたね。ご訂正、ありがとうございます。
> > 曽根神社(誤)
> 曽禰神社(正)
さすがに「そ〜ね〜」とは言わない。(臨時メール先、公開中↑)

[6377] Re[6376][6371][6367][6355][6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  大三元 2005/06/07(Tue) 23:08 [Reply]
> > イソニシキがイソポ(イセポ)(兎)ルイ(砥・多い)のペネ(川上)で剣を作る
> 『日本書紀』五十瓊敷、
> 『古事記』印色 これから見るとイニシキのようですね。

はい。記紀での異なる表記を両立して読めるように読むとそうなる訳で、それがずっっと通って来ている読みですよね。

私論の場合には、「五十」を「イ」とだけ読むようになってから古事記が出来た。更に、日本書紀の編者、その時代でも「五十」は既に「イ」だったかも知れない。だから、いろんなことが不明になっている。だが、原点では「五十」と書いたら「イソ」と読むのであったら、幾つかの事柄がつながってくる、という指摘です。

[6376] Re[6371][6367][6355][6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  神奈備 2005/06/07(Tue) 21:25 [Reply]
> イソニシキがイソポ(イセポ)(兎)ルイ(砥・多い)のペネ(川上)で剣を作る
『日本書紀』五十瓊敷、
『古事記』印色 これから見るとイニシキのようですね。


> この河口で亡くなったのが イセの命

五瀬命の話は別でしょうが、岬町に水酸化鉄の出土する鍛冶谷があり、宝樹寺という寺に私設の博物館があり、展示されています。
http://kamnavi.jp/en/izumi/fuke.htm

また近くを犬飼川が流れています。

[6375] Re[6374][6373]: おつかれさまです  神奈備 2005/06/07(Tue) 20:46 [Reply]
> 曽根神社

曽禰神社

 神奈備先生:『女優の?』
  恋川亭  :『そう、映画女優の。』
  巫女さん :『さあ?・・・』(マジメに首を傾ける)
  神奈備先生:『ああ、オードリー・ヘップバーン?』

 小生も巫女さんと同じくひっかかりました。鈍感の巻。

[6374] Re[6373]: おつかれさまです  恋川亭 2005/06/07(Tue) 16:07 [Reply]
和泉兵主神社というのは間違いで、泉穴師神社が正解。訂正します。m(__)m

 神奈備先生のご引率で、池上曽根遺跡、曽根神社、泉穴師神社、葛ノ葉稲荷信太森神社、大鳥大社を参拝してきました。
 大鳥大社では念願のオチを達成できました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
お守り授与所にて巫女さんを相手に・・・
  恋川亭  :『ヘップバーンさんが、参拝に来ませんでしたか?』
  巫女さん :『???・・・』
  神奈備先生:『女優の?』
  恋川亭  :『そう、映画女優の。』
  巫女さん :『さあ?・・・』(マジメに首を傾ける)
  神奈備先生:『ああ、オードリー・ヘップバーン?』
  恋川亭  :『はい、オオトリー・ヘップバーン!』
  巫女さん :『ムグググ・・・』(下を向いちゃった)
  恋川亭  :『おあとがよろしいようで〜』
チャンチャン!

[6373] おつかれさまです  恋川亭 2005/06/07(Tue) 01:42 [Reply]
色々あるけど、また明日。
ってか、今日は、和泉兵主神社の稚ニャンコがズーッとつきまとって、舐めまくって、柏手を打とうにもデロデロ。何回手水舎で漱いだことやら。
I love cats.

[6372] 神宮 資料  ペギラ 2005/06/06(Mon) 12:24 [Reply]
石上・伊勢 以外の神宮 (神宮寺・神宮司含む)

崇神天皇六〇年
詔群臣曰。武日照命。〈一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。〉
從天將來神寶。藏于出雲大神宮。是欲見焉。則遣矢田部造遠祖武諸隅

文武二年(六九八)
遷多氣大神宮于度會郡。

天平十三年(七四一)
奉八幡神宮秘錦冠一頭。
天平勝宝六年(七五四)
与八幡神宮主神大神朝臣多麻呂等。
天平勝宝八歳(七五六)
奉幣帛于八幡大神宮
天平神護二年(七六六)
田麻呂者本是八幡大神宮祢宜大神朝臣毛理賣時。
神護景雲元年(七六七)
始造八幡比賣神宮寺。
宝亀元年(七七〇)
八幡神宮

宝亀七年(七七六)
始置越前國氣比神宮司。

弘仁元年(八一〇)
遣參議正四位下巨勢朝臣野足奉幣帛於八幡大神宮樫日廟。

承和元年(八三四)
坐能登國正三位勳一等氣多大神宮祢宜祝二人。始令把笏。

承和四年(八三七)
向八幡大神宮。

承和六年(八三九)
以伊勢國桑名郡多度大神宮寺爲天台一院。

承和六年(八三九)
越前國氣比大神宮雜務。停預國司。隷神祇官。

承和七年(八四〇)
伊勢國桑名郡多度神宮寺爲天台別院。今停之。

承和十一年(八四四)
鴨上下大神宮祢宜外從五位下賀茂縣主廣友等款云。

承和十二年(八四五)
補任鹿嶋大神宮權宮司。

嘉祥二年(八四九)
以伊勢國多度大神宮法雲寺。

嘉祥三年(八五〇)
豊受太神宮祢宜從八位上神主土主等。

仁寿元年(八五一)
向平野神宮。

仁寿二年(八五二)
遣使者向越前國氣比神宮奉幣。

斉衡二年(八五五)
能登國氣多大神宮寺。
越前國氣比大神宮寺。御子神宮寺。

天安二年(八五八)
充越前國氣比神宮寺稻一萬束。爲造佛像之料。

貞観元年(八五九)
大般若經一部安置氣比神宮寺
詔越前國司。寫大般若經一部。安置氣比神宮寺。

貞観二年(八六〇)
越前國氣比神宮寺置十僧爲定額。

貞観六年(八六四)
勅加置伊勢豊受神宮御馬飼内人一人。

貞観八年(八六六)
常陸國鹿嶋神宮司言。
鹿嶋大神宮惣六箇院。廿年間一加修造。

貞観十七年(八七五)
勅遣使者於常陸國鹿嶋神宮寺。

元慶二年(八七八)
越前国言。気比大神宮祝部等申曰。

元慶八年(八八四)
越前国気比神宮封租穀、勘納神庫、充祭祀費、国宰宮司、相知出納。



[6371] Re[6367][6355][6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  大三元 2005/06/06(Mon) 10:28 [Reply]
かたばみさん、リファありがとうございます。

磯、五十、石、兎、五瀬、幸 を「イソ(イセ)」と読み、海山の「さち」あたりの意味に理解すると、ここらの話がずずずっとつながってくるのが面白いです。

イソニヱ天皇の宮地がイソキのミヅガキ(ミヅ・ワチ?)
イソサチ天皇の宮地がイソキのタマガキ(タマ・ワチ?)
イソニシキがイソポ(イセポ)(兎)ルイ(砥・多い)のペネ(川上)で剣を作る
オルイペネだと、アイヌ語で 裸
だから、川上部 とか 裸伴 と当てられる
この川は旧事本紀では「幸河」(幸=獲物=イソ)
この河口で亡くなったのが イセの命
それがイソノカミに収められる

イソ族(とでも括ってみようか)つまり兎さん一族の事跡の流れなのかも。
ついで、赤裸の兎、もこのあたりの事情の説話化じゃぁないのか(後に、因幡に移転してしまった、と捉える。)

兎さんとワニさん(沖の神、三島、沖・息・オキ・オチ・遠)の対比、対立は記紀の系譜にもいくつか観察できそう。

マジと夢が混在しています。あしからず。

[6370] Re[6369]: 出雲神話の周辺  玄松子 2005/06/06(Mon) 10:09 [Reply]
> ここの南に鳥取県
> 日南町ってのがあるんです。

http://www.town.nichinan.tottori.jp/cgi-bin/view.cgi?type=hp&sid=10777772698824
日南町は、伯南町や高宮村などの日野郡南部の村や町が、昭和34年に合併して生まれた町。日野郡の南地方でしょう。

地元でしたら、図書館で郷土史などを調べてみてはいかがでしょうか。

[6369] 出雲神話の周辺  伯耆米子 2005/06/06(Mon) 07:31 [Reply]
そうそう、私の住んでいるのは天日穂命をまつる能義神社がある、
島根県安来市(旧名;能義郡安来町)なんですが、ここの南に鳥取県
日南町ってのがあるんです。日南(ヒノミナミ=ヒナノミナミ)となると、
日本(ヒノモト)ってところが安来ってことになるのかなあと勝手に
想像したりしてます。

[6367] Re[6355][6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/05(Sun) 20:19 [Reply]

≫延喜式では八幡大菩薩宇佐宮神社ですが、これも奈良時代には八幡神宮

これも出雲のありようと神武東征の解釈にからみますけれど・・
媛踏鞴五十鈴媛と神武の婚儀が行われた宮殿は宇佐付近にあったのではないか・・と青草しております。
であるならば、ここに「最古の神宮」が出現して不思議なし。

宇佐にはどどーんと道教やら仏教やらの大波がきて、みんな習合。
宇佐は常に「変革」の中枢になっていただろうと考えています。
だとすれば記紀以前で「八幡神宮」なんてのがあるならば、どんぴしゃなのでござりまする(^^;


余談
書紀での「磯城」の文言登場が面白い。
磯城をいつだれがシキと読んだのかは不明。(このあたりは大三元さんのHP参照)
http://www.dai3gen.net/siki.htm
それはおいて文字としての書紀での登場は以下。

神武紀19(大半は兄磯城と弟磯城の人名だが、倭国磯城邑、磯城縣がある)
綏靖紀17(大半は磯城津彦(安寧)の人名、磯城縣がある)
・(安寧、懿徳、孝昭〜開化は記事がないから登場のしようもない)
崇神紀2(開化が死去して都を磯城に移す、天照大神を笠縫邑に移転の時に「磯城神籬」を立てる)
 (磯城縣とか磯城邑とは書いていない)
垂仁紀1(天照大神を磯城の嚴橿に祀る)

応神紀1(武内宿禰と甘美内宿禰が磯城の川のほとりで探湯)

欽明紀2(都を倭国磯城郡磯城嶋に移転)
敏達紀1(磯城嶋天皇の時代に・・磯城嶋天皇→欽明天皇)
舒明紀1(同上)
孝徳紀1(同上)
天武紀2(磯城縣主の任命、どこかは不明、磯城皇子→天武の子)

神武、綏靖では多数登場するのに、崇神以降ではぴたりと消えてしまうのです。
宮殿を「磯城」に移したとあるのに、なぜその磯城の呼称が他にはまったくでてこないのか。
(磯城縣ではないことに注目→あいまい化(^^;)
記紀でいう崇神以降の王朝は欽明を除き、「本来の磯城」という地名とは無縁の場所にあったからだ、と考えています。

応神の磯城の川、武内宿禰が筑紫へ百姓の様子を調査しにいったとき弟の甘美内宿禰(筑紫在住)の讒言にあって、応神天皇の命で探湯で正邪を決します。
探湯を行った磯城の川、九州である可能性大。

欽明天皇では明確に磯城縣に都を移したとあります。
欽明天皇は謎の多い天皇(^^; その事跡は半島と関連するものばかりで、近畿大和の話はほぼゼロ。
ここでの磯城縣は九州であり、そこに都を移したとしておかしくない。
(安閑と宣化は同時代の近畿の王であるとみております)

天武の磯城縣は姓を与えたものでその場所は不明。皇子の名も由来不明。
以降、磯城は登場しません。

なお、現在の奈良の磯城郡という地名は明治の地名改称で登場した地名で、延喜式では城上、城下、城はキであってシ・キと読むすべはないと思います。

崇神と垂仁で「磯城」をちょろっと書いているだけ・・記紀はここでも隠し事をしているとみております(^^;
近畿大和に磯城縣があったとできるものはなにもなし。


[6366] Re[6360]: 中公新書版の伊勢神宮6  恋川亭 2005/06/05(Sun) 17:42 [Reply]
千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』へのボヤキ最終便。
『「神宮」ということば』の節より抜粋(68頁)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『福永光司氏は、中国最古の詩集『詩経』の神楽歌の鄭玄の注に「(周王朝の)遠祖である姜“女原”の神(霊)の依る所、故に廟を神宮と曰う」とあることから、伊勢神宮とよばれるのも皇室の遠祖をまつることによると指摘した。』
 【抜粋引用者注:“女原”→〔ゲン:女扁に原の旁〕】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
千田氏は、この福永説の神宮解釈をもとに、
 『それでは石上神宮はどのように説明したらよいのだろうか』(69頁)
と独自の検討を展開し、先に引用した結論・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・『アメノヒボコ―息長氏―石上神宮の結びつきが確かめられた。』(74頁)
・『石上神宮が大王家の宗廟であったことを暗示するとみたい。』(80頁)
・『石上神宮はあくまでも、天皇家の外戚としての息長氏の廟であったと理解したい』(81頁)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
に、至ったわけです。

素朴な疑問:@ 
 詩経・神楽歌・周王朝の遠祖・姜“女原”の神霊・廟・
 ・・・って、道教というより原始儒教じゃん?
極端な指摘:
 およそ文献でなく肌身で道教に触れた方はご存知と思いますが、極論として『道教という宗教があるわけではない』。さまざま雑多な教義や祭祀の流れがあって、中国史の中で『道教文化』を形作ってきたのではないでしょうか。

 神宮という語を、古代の知識人が漢語から採用したことは、容易に想像できます。しかし、大陸や半島での用語例を参考にするのはよいとしても、わが国での伝承や祭祀と照らし合わせながら検討するべきでしょう。仮定が本末顛倒にならないように注意が必要です。
 わが国古代の祭祀や習俗の伝聞に、当時の中国では失われたはるか古代の遺風が残っている!と感嘆し憬れた中国人の話しがありましたね。(どれだったっけ・・・?)

 現代のこの時点で易々と「廟」という語を使うと、今の日中双方に真意と離れた誤解を植えるのではないかと、私はそんな不安をもっています。
 伊勢神宮が皇祖を祀っているとしても、そこが「廟」であると言いきるには抵抗があります。学問的にはどうであれ、孔子廟や関帝廟を見慣れている私には、かなりの違和感。

ここで廟について、学研漢和大字典より抜粋。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 【廟】@みたまや。祖先をまつる堂。Aほこら。やしろ。B「寝廟」とは、王の住む正面の御殿。
 朝まだきころ参拝するみたまやのこと。ビョウということばは貌(ボウ)と同系のことばで、ほのかに祖先の容貌を仰ぎ見る所の意を含む。
 【廟社】天子・諸侯がまつる宗廟(祖先のみたまや)と、社稷(土の神と穀物の神)。
 【廟堂】@祖先の霊をまつってある建物。みたまや。A政治上の事務の行われる場所。朝廷のこと。
 【廟寝】みたまや。前にある建物を廟。うしろにある建物を寝という。寝は廟にまつられた人が生前に用いた衣服をおさめる所。
========================
 今回あらためて日本書紀などを読み返してみましたが、石上神宮が、「大王家の宗廟」や「天皇家の外戚としての息長氏の廟」であることを示すような記述をみつけられませんでした。

素朴な疑問A:
 仮に息長氏がそれだけの権勢があったとして、なぜ「石上神宮は大王家の宗廟」とか、または「石上神宮は息長氏の宗廟」という記事を挿入することができなかったのでしょうか?

私には、
・わが国で、神宮という語が廟を意味するとは限らない。
・アメノヒボコ―息長氏―石上神宮の結びつきが確かめられない。
・石上神宮が大王家の宗廟であったとは断定できない。
・石上神宮は息長氏の廟であったと理解できない。
以上が、読後の感想です。
 新書版の中の数章という範囲では、素人が納得できるような詳述は難しいのでしょうね。千田先生には、先生の石上神宮論について、新たな別冊の新書版として、詳細な解説書を出版して頂きたく思います。
 ながながとボヤキ、失礼しました。<(__)> 終

[6365] Re[6363]: 石上 資料  恋川亭 2005/06/05(Sun) 17:35 [Reply]
ペギラさん、いつも詳細な資料を有り難うございます。
これを見てても、石上神宮に息長氏の香りがしないのですが・・・。
千田センセイ!

[6364] Re[6362]: 中公新書版の伊勢神宮5  恋川亭 2005/06/05(Sun) 17:30 [Reply]
QUBO様、駄文へのレス、恐れ入ります。

> > 『辛国息長とは、辛国=加羅(伽耶)国へ進出した息長氏の一派を示す。』
> これはおっしゃる通りですね。
> ただ、祀りの場所は?と疑問がわきます。
> 『辛国息長』氏が加羅で祀られるなら判るんです。
> つまり本家大和柳生は、尾張柳生を祀らないのではないでしょうか?
> いわば分家を本家が祀る事は考え難いと思うんです。

そですね。まだ丹念に見れてないのですが、引用した原文によりますと。
『香春神社の祭神三神のうちの一つに辛国息長大姫大目命』という神名だそうです。
本来検討すべき流れでは、
 @ 香春神社の意味や伝承
 A 祭神三神のうちの他の神々とその関係
 B 辛国息長大姫大目命そのものの検討
 C 伽耶国での息長氏の消息
などがありますが、まだ手がまわっていません。m(__)m ボヤキ優先(笑)
でも、千田先生が述べるほどの意味があるのなら、
 ☆ なぜ石上神宮で辛国息長大姫大目命を祀ってないのでしょうね(大笑)

> いわば分家を本家が祀る事は考え難いと思うんです。

仮に香春神社が本家として、辛国に居る息長氏が分家として。
分家が本家に『本家の祭壇にも合祀させてください』と持ち込むことは自然なことと思うのです。伽耶国に駐留した息長氏の長女、大目姫様(パッチリおめめのマドンナだったんでしょうか)、本家側でも祀るだけのことがあったかも。そこが日本人の心情。

>  『新選姓氏録』左京皇別 つまり同本の最初、先頭に
>  息長(真人)さんが出てきますが、皇別になってます。(記憶頼り)

氏族人名事典をみても、息長氏の個人名って真人さんあたりからですヨネ?
皇別なんですか〜!!!

[6363] 石上 資料  ペギラ 2005/06/05(Sun) 16:08 [Reply]
巻一第八段一書第二
素戔鳴尊拔劔斬之。至斬尾時劔刃少缺。割而視之。則劔在尾中。
是號草薙劔。此今在尾張國吾湯市村。即熱田祝部所掌之神是也。
其斷蛇劔號曰蛇之麁正。此今在石上也。

垂仁天皇三九年
五十瓊敷命 居於茅渟菟砥川上宮。作劔一千口。因名其劒謂川上部。亦名曰裸伴。
〈裸伴。此云阿箇潘娜我等母。〉藏于石上神宮也。是後命五十瓊敷命。俾主石上神宮之神寶。
〈一云。五十瓊敷皇子。居于茅渟菟砥河上。而喚鍜名河上。作大刀一千口。
是時楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。大刀佩部。并十箇品部賜五十瓊敷皇子。
其一千口大刀者。藏于忍坂邑。然後從忍坂移之。藏于石上神宮。
是時神乞之言。春日臣族。名市河令治。因以命市河令治。是今物部首之始祖也。〉

垂仁天皇八七年
五十瓊敷命謂妹大中姫曰。我老也。不能掌神寶。自今以後。必汝主焉。大中姫命辭曰。吾手弱女人也。何能登天神庫耶。〈神庫。此云保玖羅。〉
五十瓊敷命曰。神庫雖高。我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。故諺曰神之神庫隨樹梯之。此其縁也。
然遂大中姫命授物部十千根大連而令治。故物部連等至于今治石上神寶。是其縁也。
昔丹波國桑田村有人。名曰甕襲。則甕襲家有犬。名曰足徃。是犬咋山獸名牟士那而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮。

履中天皇即位前紀
則吾子篭愕之獻己妹日之媛。仍請赦死罪。
乃免之。其倭直等貢釆女。蓋始干此時歟。太子便居於石上振神宮。

雄略天皇三年
枳莒喩由斯得雪子罪。還悔殺子報殺國見。逃匿石上神宮。

顕宗天皇即位前紀
誥之曰。倭者彼彼茅原。淺茅原。弟日僕是也。小楯由是深奇異焉。更使唱之。天皇誥之曰。
石上振之神榲。〈榲。此云須擬。〉伐本截末。〈伐本截末。此云謨登岐利須衞於茲婆羅比。〉於市邊宮治天下天萬國萬押磐尊御裔僕是也。

天武天皇三年
遣忍壁皇子於石上神宮。以膏油瑩神寶。即日勅曰。元來諸家貯於神府寶物。今皆還其子孫。

神護景雲二年(七六八)
充石上神封五十戸。能登國氣多神廿戸。田二町。

延暦廿三年(八〇四)
運收大和国石上社器仗於山城国葛野郡。

延暦廿四年(八〇五)
造石上神宮使正五位下石川朝臣吉備人等。支度功程。申上單功一十五萬七千餘人。太政官奏之。
勅曰。此神宮所以異於他社者何。或臣奏云。多收兵仗故也。勅。有何因縁所收之兵器。奉答云。
昔來天皇御神宮。便所宿收也。去都差遠。可愼非常。伏請卜食而運遷。
是時文章生從八位上布留宿禰高庭。即脩解申官云。得神戸百姓等款稱。比來。大神頻放鳴鏑。村邑咸恠。不知何祥者。未經幾時。運遷神寳。望請奏聞此状。
蒙從停止。官即執奏。被報宣稱。卜筮吉合。不可妨言。所司咸來。監運神寳。
收山城国葛野郡訖。無故倉仆。更收兵庫。既而聖體不豫。典□建部千繼。被充春日祭使。聞平城松井坊有新神託女巫。便過請問。女巫云。
今所問不是凡人之事。宜聞其主。不然者。不告所問。仍述聖體不豫之状。即託語云。
歴代御宇天皇。以慇懃之志。所送納之神寳也。今踐穢吾庭。運收不當。所以唱天下諸神。勒諱贈天帝耳。登時入京密奏。即詔神祇官并所司等。立二幄於神宮。
御飯盛銀笥。副御衣一襲。並納御輿。差典□千繼充使。召彼女巫。令鎭御魂。女巫通宵忿怒。託語如前。遲明乃和解。有勅。准御年數。
屈宿徳僧六十九人。令讀經於石上神社。
詔曰。天皇御命《尓》坐。石上《乃》大神《尓》申給《波久》。大神《乃》宮《尓》收有《志》器仗《乎》。
京都遠《久》成《奴流尓》依《弖》。近處《尓》令治《牟止》爲《弖奈母》。去年此《尓》運收有《流》。然《尓》比來之間。
御體如常不御坐有《流尓》。大御夢《尓》覺《志》坐《尓》依《弖》。大神《乃》願坐《之》任《尓》。本社《尓》返收《弖之》。
无驚《久》无咎《久》。平《久》安《久》可御坐《止奈母》念《志》食。

大同五年(八一〇)
奉幣石上神、以祷上病也。

嘉祥三年(八五〇)
進大和國大和大國魂神階授從二位。石上神。及大神大物主神。葛木一言主神等並正三位。

貞観元年(八五九)
大和國
從一位大己貴神正一位。
正二位葛木御歳神。
從二位勳八等高鴨阿治須岐宅比古尼神。從二位高市御縣鴨八重事代主神。從二位勳二等大神大物主神。從二位勳三等大和大國魂神。
正三位勳六等石上神。正三位高鴨神並從一位。

貞観元年(八五九)
遣使諸社。奉神寳幣帛。
參議正四位下行左大弁兼左衛門督美作守藤原朝臣氏宗爲賀茂御祖別雷兩社使。
散位從五位下正峯王爲松尾社使。
正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人爲平野社使。
從五位下行主殿權助藤原朝臣水谷爲大原野社使。
右兵衛佐從五位下源朝臣至爲乙訓社使。
從五位下守右兵庫頭藤原朝臣四時爲大神社使。
掃部頭從五位上藤原朝臣貞敏爲石上社使。
從四位下行兵部大輔藤原朝臣仲統爲春日社使。
從五位下守圖書頭當麻眞人清雄爲當麻社使。
中務少輔從五位下源朝臣包爲住吉社使。
散位從五位下丹□眞人繩主爲丹□社使。
少納言兼侍從從五位下良峯朝臣經世爲杜本社使。
神祇大祐正六位上大中臣朝臣豊雄爲氣比氣多兩社使。
散位從五位下紀朝臣宗守爲日前國懸兩社使。

貞観元年(八五九)
山城國月讀神。木嶋神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神。
大和國大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。廣瀬神。龍田神。
巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。當麻山口神。大坂山口神。膽駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。
都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神。
河内國枚岡神。恩智神。
和泉國大鳥神。
攝津國住吉神。大依羅神。難波大社神。廣田神。生田神。長田神。新屋神。垂水神。
名次神等遣使奉幣。爲風雨祈焉。

貞観五年(八六三)
大和國言。石上神社南。見五色雲。

貞観八年(八六六)
地震。以大和國田廿八町借施入石上神宮寺。須待造寺畢還收。

貞観九年(八六七)
進大和國從一位勳六等石上神階加正一位。

貞観九年(八六七)
令大和國禁止百姓燒石上神山。播蒔禾豆。


[6362] Re[6360]: 中公新書版の伊勢神宮5  QUBO 2005/06/05(Sun) 15:01 [Reply]
恋川亭 様 
色々貴重な説、ご意見ありがとうございます。
大部分納得しつつ、やはり異論もあるので一言。

> 『辛国息長とは、辛国=加羅(伽耶)国へ進出した息長氏の一派を示す。』
> と考えるからです。… 紀州徳川家とは紀州から来た徳川のことでしょうか?
>  江戸柳生、尾張柳生ってのもありますね、本家は大和柳生だけど。

これはおっしゃる通りですね。
ただ、祀りの場所は?と疑問がわきます。
『辛国息長』氏が加羅で祀られるなら判るんです。
つまり本家大和柳生は、尾張柳生を祀らないのではないでしょうか?
いわば分家を本家が祀る事は考え難いと思うんです。

> >>恋川亭疑問13
> > 息長氏に伝わる女傑の物語があった。…息長氏を渡来氏族とする説は、
> > 言わば、大抵の古代氏族を渡来系としても古代史が成り立つように説明
> > できそうだから、それはそれで一つの想いかも。

> 諸先生方の見解では「息長氏を渡来氏族とする説」は、特殊な少数派のようで…。
 『新選姓氏録』左京皇別 つまり同本の最初、先頭に
 息長(真人)さんが出てきますが、皇別になってます。(記憶頼り)

[6361] Re[6360]: 訂正  恋川亭 2005/06/05(Sun) 05:52 [Reply]
> この掲示板は前途洋洋(実は多難?)たる高校生も拝読されているとのことなので、立派な先生の著作の中にもハテナ?青草本があることを示したく思います。

「高校生も『拝読』」って変な日本語ですね。徹夜明けの症状ですな。
『拝読』じゃなくて『ウオッチ』かな?
「高校生もウオッチされているとのことなので」に訂正いたします。<(__)>

[6360] Re[6347]: 中公新書版の伊勢神宮5  恋川亭 2005/06/05(Sun) 05:26 [Reply]
 千田稔先生の近著『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』の件。都合により、だいぶ間が空いてしまいました。m(__)m
 「伊勢神宮」について私に語りうる能力は無いのですが、「石上神宮」の関係する部分については肩入れもありますので、こだわらせていただきます。ボヤキますゥ〜。(^^)/

> 神奈備先生
> Re[6347]: 中公新書版の伊勢神宮4
> 若干の弁護を。

神奈備先生が補足フォローをしなくてはならない(大家の)本も情けないですが。(TT)

>> 恋川亭疑問C
> 神功皇后=息長帯姫は架空の皇后ゆえ、応神天皇(が実在したとしても)をして息長氏系とは言えない。

 門外漢として不思議に思うことは、記紀の登場人物に対する実在/架空の判定とそれに付随する伝承の取扱い方です。
 『架空であるが、この伝承については意味があるのではないか。』とか、
 『実在していたはずだが、この伝承は後世の捏造ではないか。』などと、
一筋縄でいかない難しさがあることは理解できます。
 理系的な気持ちで言えば、実在は物証一つで証明できますが、架空の証明には厳密な手続きが必要のように思うのです。(反例一つで偽と証明できる数学とは、ちょうど反対ですね。)
 応神天皇の頃に息長氏系のスーパー皇后が実在していなかったとして、日本書紀編纂のときにスーパー皇后を仕立て上げて1巻を占める程の力量ある息長氏とは誰なのか?そのような人物が想定できるのか?
 また、共同編纂の国家事業の中でそのようなことが可能であったのか?他の有力氏族系の学者役人はなぜ認めたのだろうか?などなどなど、やっぱり推理し始めちゃうのですよね〜。
 「実在論」はまた別の機会に移すとして・・・。
素人が読んでも(新書なのだから)、『フェアな推論だな』と思わせる記述が欲しいところでした。「新書版ゆえ紙数に制限があり割合した」という理由でしょうが・・・。

>> 恋川亭疑問F
> ごもっとも。石上の宮をおいた最初の天皇が祀った祖先の廟として、で差し支えはないですね。

 やはり、証明の前提である「仮定」としての『祖先の廟』説に、かなりのひっかかりを感じますナ〜。

>> 恋川亭疑問12
> 『三国史記』は記紀とは独立して成立とされているから。

 @ 列島と半島・大陸諸国とは相互に頻繁な交流が続いていて、
 A 記紀と三国史記との成立年代が離れていて、
 B なおかつ時代時代の政治的思惑が複雑に絡んでいた、
そのような背景があるのに全く『独立して成立』と言いきれるものなのか?と思うのです。他の国内伝承には操作・影響を想定しながら、他国の伝承を鵜のみにするのは『フェアな検証』なのかという疑問がありました。
 ひょっとして、半島内に親・倭國、あるいは親・息長氏をルーツとする勢力が無かったと言いきれるのかナ〜などと想像する変人もいたりします。

・・・というのはですね。先にありました千田先生の推論。
『辛国息長は、息長氏が辛国=加羅(伽耶)国からの渡来氏族を示す。』
という説。これに対して私は、
『辛国息長とは、辛国=加羅(伽耶)国へ進出した息長氏の一派を示す。』
と考えるからです。な〜に普通の日本語の用法ですよ。
 紀州徳川家とは紀州から来た徳川のことでしょうか?
 尾張徳川家とは尾張から来た徳川のことでしょうか?
 江戸柳生、尾張柳生ってのもありますね、本家は大和柳生だけど。
辛国息長という言葉が、神功皇后伝承を「かえって」補強してしまうように思えるのは私だけでしょうか。「香春神社」に関する件は、また別の機会(奇怪)に。

>>恋川亭疑問13
> 息長氏に伝わる女傑の物語があった。
> 息長氏を渡来氏族とする説は、言わば、大抵の古代氏族を渡来系としても古代史が成り立つように説明できそうだから、それはそれで一つの想いかも。

 あれから他の書籍もいろいろ眺めてみたのですが・・・。諸先生方の見解では「息長氏を渡来氏族とする説」は、特殊な少数派のようで・・・。
 息長氏に関しては、専門にされる大橋信弥先生の『日本古代国家の成立と息長氏』や『日本古代の王権と氏族』を結論だけチョビッと拝読しましたが(立読みでゴメンナサイ)、渡来氏族説は否定されてましたネェ。渡来系を論じるならば、もっと明確な出自の氏族がワンサカといるのにネィ。

 『大抵の古代氏族を渡来系としても古代史が成り立つように説明できそう』な状況にしたのは、一部の先生方とそのシンパの精力的活動の成果ではないか、と私は思います。大手書店の本棚は、行き過ぎでトンデモなパラダイスまで花盛りですが、トホホ・・・。
 本当の渡来系氏族の研究に光が当ってほしいです。
息長氏については、もっと面白い青草があるデ〜。
========================
 私は以前、千田稔先生の古代のミヤケ、石上神宮の武器庫(御倉ミヤケ)についての論説に、多いに触発されました。布留川沿いの大和平野に広がる壮麗な武器庫群が目に浮かぶようで、感動したものです。
 そして実際に布留街道を丹念に歩き、国見山に登ったり、大和川沿いの広瀬・龍田神社との配置も確認したりと、空間で捉える確認方法を勉強させてもらったと思います。先生の古代港の本などとも併せて、歴史地理学大家の力量に今でも敬服しています。

 それだけに、今回の著書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』の中の石上神宮に関する部分については不満がつのるのです。はっきり言って素人には、『神宮は祖廟である』という結論に向って、恣意的に構成しているかのように読めてしまう。新書という一般普及版でもって(結果的に)『神社は廟』という刷り込みを試みるのは「いかがなものか」と思います。

 そこまでして「某国の○国神社攻撃」を支えたいのかな?と書けば言い過ぎでしょうか。昨今の『東アジア』という言葉を用いるものに、特有の胡散臭さを覚えていましたので、この本をさけていたのですが、布留社を俎上に挙げられた以上、ボヤキをさせてもらいました。この掲示板は前途洋洋(実は多難?)たる高校生も拝読されているとのことなので、立派な先生の著作の中にもハテナ?青草本があることを示したく思います。

 肝心の『神宮は廟』説への反論が延びました。次回でカタをつけます。

[6357] Re[6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/04(Sat) 19:37 [Reply]

≫祭られているのは天日槍が将来した八種の神宝でこれを出石八前大神とし、
≫天日槍命を併せ祀っている」これも同じ頃の事でしょうか

神奈備さんのHPにあるように多遅麻比那良岐命がその社の創始者であるなら、4代目ですから天日矛登場から60〜80年後あたりの人物になるかな。
天日矛渡来を垂仁初期とすると、5代目の田道間守は80〜100年後となって田道間守を垂仁時代とするのはちと無理。

天日矛は崇神直前での渡来とみております(持論:崇神248-273、垂仁273-311)。
再度以下は年代推定(PDFファイル)。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shindai01.pdf

播磨国風土記で、天日槍命と伊和大神(葦原色許男命)が戦っていますが、記紀がいう出雲のありようを信じるならば、葦原色許男命は神代の人物ですから、天日槍命も神代の人物となってしまいます。
記紀が書く天日槍の系譜はどうにもならなくなります。

葦原色許男命の名が正しいかどうかはおくとして、崇神直前あたりでの出雲の最後の抵抗であり、天日矛と戦ったのでしょう。
記紀では書けない、検閲洩れかな(^^; 記紀が天日矛を出すなら崇神以降の事象としないとなにかとうまくないんじゃないかな。

天日矛命は新羅本紀における王統のうちの脱解の系譜とみています。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shiragi_ou.png
250年あたりで新羅王朝に混乱がみえ、亡命王族が登場しておかしくないことも重なってくるのです。

なお、垂仁紀の天日矛の直前に都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトが渡来してうんぬんが書かれており、こちらは難波の比賣語曾神社と豊国の比賣語曾神社に祀られたとあります。
平成祀りデータによれば、
大阪東成区の比売許曽神社が難波の社とみえますが、この社は下照比賣を祀っていますから出雲系。
大分県東国東郡姫島の比賣語曽社が豊国の社でしょう。
http://himeshima.oita-shokokai.or.jp/main.htm
ここの姫島村の由来参照
(姫島には数社あるけどどれだかわからん・・地図で示してくだされ(^^;)

都怒我阿羅斯等は加羅(伽耶諸国のひとつ→出雲と近縁国だったとみる)の渡来者であり、出雲崩壊時のごたごたに巻き込まれた事象が垂仁紀に書かれているのでしょう。


崇神、垂仁時代では新政権として様々な氏族の調査を行っていると思います。
この時代では戸籍謄本などないし(^^; それぞれの出自を示すのは所持する先祖代々の宝物だけが頼りだったと思います。

宝物の話がいろいろでてくるのはその関係であり、みなそれを大切にしていたのではないでしょうか。
出雲振根の出雲神宝の調査などもその一環と思います(こちらは天穂日命後裔の確認でしょう)。

天日矛命の宝物確認も同じ、ただし垂仁紀で書かれるのは天日矛本人のチェックではなく、その後裔に対する出自確認だと思う。
その結果、多遅麻比那良岐命に祖先と宝物を祀る社の創始OKがでたのかもしれない。


≫高牟神社(たかむじんじゃ)は尾張物部氏の武器庫だったそうです

ありがとうございます。
兵主(兵頭)なども出雲の武器庫だったんじゃないかと思っています。


[6356] Re[6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/04(Sat) 19:31 [Reply]

≫延喜式では、神宮は鹿島と香取ですが、宮中に祀られていたことも有るんでしょうか

これ、ちょっと微妙そうです。

雄略時代の創始とされる戸隠や東京の湯島神社では手力雄命を祀っています。
武人?を祀るのはやはり出雲系勢力への対抗だとみています。
少なくとも雄略時代までの武神は手力雄命だと思われるのです。
手力雄命を祀る社は茨城、新潟、長野に多い。

十種神宝は鎮祭シズメノマツリに用いる祭祀具です。
八握剣1振がありますが、他には鏡が2、玉が4、比礼が3です。
玉(たぶん勾玉含む)は縄文→出雲の流れの宝物。
比礼には蛇の比礼がありますから、これも同様だと思います。

天神本紀にこれらを由良由良とふるえば死者が生き返る、とありますから武の祭祀じゃない。
これが「フル」の源と思います。

先代旧事本紀で宮中に祀られていたと書くのは二神と八咫鏡と草薙の剣、と十種神宝です。
(したがっていつの時代かは別にして、熱田は神宮になりえると思います)
しかし、布都主剣は儀式(祭祀?)に使われただけで宮中に納められたという記事はありません。

このあたりに記紀編纂時代前後、天武持統などの意識が見えるのではないかなあ。
ひとつが王朝の絶対化と天皇、その始祖とする神武の登場。
(天上から下されたとするフツ靈剣(布都主剣)あるいは経津主命や武甕槌命という武神登場)
ひとつが神々の体系化と「神道」の登場、その背景にあるであろう道教での形式(理論)と文言。


鹿島香取は蝦夷(東北縄文系出雲とみる)に対抗するために垂仁の兄の豊城入彦命が出陣して祭祀を行ったのが最初ではなかろうか。
福島、栃木、茨城など北関東に豊城入彦命を祀る社がたくさんあります。
千葉、東京、埼玉にはない、拠点と方向が違うからだと思う、南関東及び諏訪は後の日本武尊の仕事。
茨城には手力雄命を祀る社が多い、崇神以降に豊城入彦命などが運んだからじゃないか。

崇神垂仁朝で、出雲征圧と大和朝廷設立の功労者の剣が神宝化することは十分あると思います。
蝦夷に対抗する祭祀具として最適と思います。

フツ靈剣(布都主剣)は神武が天上から授かったとする剣で、すなわち非現実の剣。
記紀編纂時代に神武が使ったとされる剣が伝世されていれば記紀は盛大に書くはず(^^;
その代わりにというか、崇神垂仁朝の剣が神宝化していれば、これがフツ靈剣であるの意識が登場しておかしくないと思います。

鹿島香取の「神宮」は、記紀以前の手力雄命と崇神垂仁の神剣を祀る形態から、記紀以降での経津主命や武甕槌命とフツ靈剣の登場への変化の過程で登場した、そんな考え方もできると思います。


空想を楽しむならば・・
三種の神宝、崇神時代に十種神宝の勾玉ひとつが天照大神の八咫鏡と草薙剣に加えられ、三種の神宝となって笠縫邑に引っ越したたのではなかろうか。
崇神時代での出雲との合体を象徴するためです(記紀はこれを書くことができない(^^;)。

すると石上の十種神宝はひとつ足りなくなるわけで、そこに加えられたのが崇神垂仁の剣、差し引きゼロ(^^;
それが禁足地から出土した剣じゃないか。
剣の形式年代が300年前半というのがどんぴしゃになるし。

なお、倭迹々日百襲姫と大物主命の結婚説話も、神武と媛踏鞴五十鈴媛の結婚を参考にして、崇神時代の統合の象徴として創作されたのではないかと考えています。
蛇神様の夜這いなんて民間伝承はあったかもしれないけど。


[6355] Re[6354][6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  神奈備 2005/06/04(Sat) 13:09 [Reply]
> 伊勢と石上が神宮の呼称である理由、古来から宮中に祀られていたことに発するもの。
> 単純明快(^^;

延喜式では八幡大菩薩宇佐宮神社ですが、これも奈良時代には八幡神宮とも。
これは応神天皇が天皇家の祖神とされていたからかも。尤も、応神さんが祭神と見なされたのはもっと遅かったとの説もあったようです。

[6354] Re[6353][6352]: 神武〜崇神における祭祀2  QUBO 2005/06/03(Fri) 15:12 [Reply]
> 伊勢と石上が神宮の呼称である理由、古来から宮中に祀られていたことに発するもの。
> 単純明快(^^;
> 倭大国魂神の場合は出雲ですから神宮にはならなかったのでしょう。
延喜式では、神宮は鹿島と香取ですが、宮中に祀られていたことも有るんでしょうか?

> 布都大神社や石上大神の呼称から、祭祀具(呪具)であった神宝がこの頃に
> 神格化されていったことがうかがえます。
出石神社  伊豆志坐神社八座
「祭られているのは天日槍が将来した八種の神宝でこれを出石八前大神とし、
天日槍命を併せ祀っている」これも同じ頃の事でしょうか
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/izusi.htm
熱田神宮も本来ご神体は草薙の剣ですよね。

延喜式内社・高牟神社(たかむじんじゃ)は尾張物部氏の武器庫だったそうです。
http://www.city.nagoya.jp/kankou/sansaku/shiseki/chikusa/furui/nagoya00000202.html

[6353] Re[6352]: 神武〜崇神における祭祀2  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/01(Wed) 19:48 [Reply]

さて、ここまでの状況は書紀崇神紀にいう、天照大神と倭大国魂神の二つの神を天皇の大殿の内に並び祭る、の源流に他ならないと思います。

崇神時代まで少なくとも形式としては二神を殿中で祀る慣習が継承されていたということです。
ところが崇神は神々を殿中から出し、二神を分離しています。

出雲を滅ぼしたことで王朝が祀るのは崇神系譜の神のみになったことを示す。
殿中から出す、とは政治と祭祀を切り離したということでしょう。

崇神の殿中から3つの祭祀が外へ出ていった。
ひとつが天照大神で笠縫邑へ、位置不明(八咫鏡と草薙剣に勾玉も加わったか)。
ひとつが出雲の神で倭大国御魂神、現在の大和神社付近か。
ひとつが十種神宝と布都御霊剣で石上邑へ。
(勾玉に代わって布都御霊剣が加わって差し引きゼロでやはり十種神宝かも(^^;)

天神本紀に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊に随伴した下級者に「笠縫の祖」の天津麻占と天都赤麿良がいます。
笠縫の村を作っていたかも。

天孫本紀に「布都大神社フツノオオカミヤシロを大倭国山辺郡石上邑に遷建て、十種神宝も共に蔵して石上大神と称し鎮祭りとした」とあります。
ヤシロですからすでに建物があったとみえ、最初から石上邑への移転ではなかった可能性が見えます。

が、しかし・・
倭大国魂神を奉斎する淳名城入姫では髪が抜けやせ細ってしまい、倭迹々日百襲姫の託宣によって大物主命とオオタタネコが登場する。
髪が抜け落ちるとか厄災が起きる記述は、出雲神の祟りや民の反乱などを意味するのでしょう。

伊勢と石上が神宮の呼称である理由、古来から宮中に祀られていたことに発するもの。
単純明快(^^;
倭大国魂神の場合は出雲ですから神宮にはならなかったのでしょう。

布都大神社や石上大神の呼称から、祭祀具(呪具)であった神宝がこの頃に神格化されていったことがうかがえます。

この後のいろいろは神武東征とは関係なくなるので記紀に準じるとして略。



神社庁の平成祭りデータに書かれる石上神宮の由来の中に、
布都斯魂大神は神代の昔、素盞嗚尊が出雲国簸の川上において、八岐大蛇を斬り給いし、天羽羽斬剣(別名を十握剣、蛇之麁正、蛇韓鋤之剣、天蠅斫剣という)の威霊にます。
とあります。

ここまでの流れでは素盞鳴尊の剣が登場する状況はありません。
地祇本紀に「蛇を斬りし剣は吉備の神部にあり。出雲の簸之河の川上に至るなり」「今は石上神宮にあり」が単独でぽつんとあるのみ。
この記事は書紀の八岐大蛇1書とほとんど同文であり、よくわからない書き方まで同じです。
地祇本紀の記述は書紀の引き写しだと思います。

素盞鳴尊の剣が吉備や簸川にあったとしてもその年代の見当がまったくつきません。
記紀に対応できる他の古文献はないし、年代の仮定ができなければどうにもなりません。

しかし、神武東征説話にからむ時代の事象を書いているために意味のわからない表現になっている、という強引な判断を加えれば・・(^^;
天孫の出雲侵攻によって吉備から島根→奈良に出雲の神剣が移され、出雲が崩壊した後に石上神宮に収蔵された、といった推定はできそう。

奈良には出雲の武器庫もあったはずだし(^^;
高地性集落の変遷
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/iseki_ks.png

布都斯魂大神の呼称がどこからくるのか不明、なんらかの錯綜によるのではなかろうか。
字訓/白川静によれば、フツは「ことごとく」で、フツニは刃でものを切るときの擬態語とみなしています。
ぶった切るのブツかな。

なお、フルは小さくふり動かす意、招魂ミタマフリ、揺り動かすことで生命力を目覚めさせること。
石上神宮での「布留御魂神」や布留社といった呼称は、納められた神宝から発せられる霊威を示す呼称なのでしょう。
いろいろまぎらわしいところです。


[6352] 神武〜崇神における祭祀1  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/01(Wed) 19:38 [Reply]

広範囲に関連してタイトルがつけにくいのですが、先代旧事本紀からの解釈です。
ポイントだけの略式抜き出しです。細かくは先代旧事本紀をご覧ください。
(出雲のありようと神武東征説話の解釈が常にからみますが略)


まず、天皇本紀上に、神武と大三輪の大神の娘の媛踏鞴五十鈴媛の結婚の記述。
ついで儀礼?の記述が続きます(天孫本紀にも微妙に異なりますが同様の記述がある)。

「宇摩志麻治命が天瑞寶十種を奉る」
宇摩志麻治命が神武から布都主剣を拝領した後、神武に献上しています。

「宇摩志麻治命が五十櫛を布都主剣で刺繞し、大神を殿内に崇斎する」

五十イソの櫛、なんらかの呪術性を持つ櫛とみます。
刺繞さしめぐらす、繞はめぐるとかまとわりつくの意、櫛の歯の間に布都主剣の刃を差し込むことと推定。
すなわち、櫛は媛踏鞴五十鈴媛であり、布都主剣は神武、天孫と出雲の合体を表す。
(総じて櫛の尊称は出雲系譜の名に用いられているとみております)

ここでの大神は、前文に続くとみて大三輪の大神のこと、特定の神ではなく出雲の神全般の意でよいと思います。
それまで祀っていなかった出雲の神を婚姻によって祀るようになったことを示す。

大三輪は書紀の大己貴命の幸魂奇魂の話から奈良の三輪山でよいと思います。
地祇本紀では「幸魂奇魂術魂」となっており、こちらのほうがより的確にその性格を表していると思います。


「天富命が諸々の忌部を率いて天璽鏡剣を捧げて正安殿に奉る」
天富命は天孫降臨に随伴した天太玉命の孫ですから、天璽鏡剣とは八咫鏡と草薙剣でしょう。
天孫の宝物の奉斎で、宇摩志麻治命の天瑞寶(十種神宝)奉斎と対になるとみています。
勾玉がありませんが、勾玉は縄文→出雲のもので、渡来系の宝物には含まれていなかった、こちらが正しいかも。

「宇摩志麻治命が内物部を率いて矛盾を堅てて威儀」
「道臣命が来目部を帥いて宮門を護衛」

ここでも対の記述がなされていると見ます。
内物部をどう解するかがやっかいです。対応して「外物部」なるものが存在するのかどうか。
見落としかもしれませんが記紀と先代旧事本紀ではみあたりません。
「内物部」に対応するのは「天物部」ではないでしょうか。

天神本紀でいう天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の降臨に随伴したのが天物部。
(実際には天孫の天火明命の伊勢志摩への降臨とみる)
天物部には久米物部がありますから、こちらは渡来系の濃いグループであることがうかがえます。

内物部は素盞鳴尊時代から北九州で出雲系譜と合体していた物部。
当時の中枢は九州ですからそれを「内」と称したとみています。

天物部も後に近畿東海で出雲と混合するはずです。
強いていえばそれを外物部ともいえるわけですが、内外だけで区分できるような物部ではないと思います。

持論では、後に出雲崩壊時に九州からの物部氏が近畿にはいって混合します。
(開化、崇神と縁戚となる伊香色謎や鬱色謎など)
物部氏族創成の根幹にある事象であり、後の物部氏の複雑さをすでに内包していたとみています。

道臣命は天孫降臨に随伴した天押日命の後裔(大伴氏の祖)。
天孫降臨時の随伴者である天津久米命を祖にする武人が来目部でしょう。
古事記で伊須気余理比賣(媛踏鞴五十鈴媛)のもとへ神武の求婚の使者となる大久米命は顔に入れ墨をしていますから、海洋系ないし呉越系の渡来者かもしれない。
(神武時代では、ここに隼人が親衛隊的な役割で加わっていたとみております)


しばらく祭祀と生産に関連する部分が続いて・・

「仰ぎて「皇天二祖」の詔に従いて神籬を建樹つ」
(先代旧事本紀訓注/大野七三では「皇天二祖」をスメアマツカミフタハシラノミオヤと読んでいます)
ここまでの流れからやはり対になるとみれば、単純には地祇と天神と解釈します。

ここでは地祇≒大国御魂≒出雲、天神≒(天照大神の源を含む)≒天孫です。
この時代ではそれらは体系化はされていないはずで、二つのグループの神々とみるだけのほうがよいと考えます。


「宇摩志麻治命は殿内に天璽瑞寶を斎奉する」
「帝と后のために御魂を崇鎮り寿を祈る、御鎮魂祭ミタマシズメマツリはここから始まる」

天璽瑞寶は天孫本紀の類似記述から十種神宝です。
ここまで宇摩志麻治命は殿内に十種神宝を奉斎した記事はなく、ここで初めて宮中に天孫の神と出雲の神と十種神宝の3つが共存することになります。

先代旧事本紀訓注/大野七三では、御魂を饒速日尊としていますが、神武と媛踏鞴五十鈴媛のためになぜ饒速日尊を鎮めなければならないのでしょうか。
これは無理でしょう。

天孫本紀に類似記述があり、ここでは神武が十種神宝を用いて毎年に鎮祭を行えと命じています。
御魂とは出雲と天孫の抗争による戦死者の魂であり、これを鎮魂することだと思います。
これなら「帝と后のために」が理解できます。

十種神宝は天火明命の持っていた天孫の宝物と、勾玉や蛇の比礼など縄文的宝物が加わったものだと考えています。
ここまで宮中にある宝物は天孫系の八咫鏡と草薙の剣だけだった。
ここで宮中の宝物に勾玉が加わったとみています(十種神宝中の4つの玉)。


「宇摩志麻治命と天日方奇日方命が共に食国の政を行う」
天日方奇日方命は媛踏鞴五十鈴媛の兄、食国とは神武の支配する国の中枢部分。
出雲の血を引く宇摩志麻治命と純粋出雲(^^;の天日方奇日方命が神武の国の大臣となっています。

これらから見えるのは、神武時代は天孫と出雲の共存時代である、ということ。
綏靖、安寧の后はみな出雲系ですから、少なくともこの時代までは天孫と出雲は共存していた。
記紀は神武等の后が出雲系であることを記すのみで、その他の状況の記述はまったくありません。

これらの人物群の系譜と時間軸から、神武は大国主命ないし事代主命とほぼ同時代の人物である、となります。
記紀に書かれる出雲は天孫降臨時代に国譲りで消えているわけで、記紀の持つ最大の矛盾と思います。


[6351] Re[6350][6348]: スサノオと神武の剣  神奈備 2005/06/01(Wed) 16:47 [Reply]
> 垂仁朝の石上神宮、石上の神の宮であって、その神を祖先神とみなす必要はないのではないでしょうか。

 ”神宮”と言う言葉をわざわざ使っていることに意味を持たせることは一つの有力な仮説と思います。そうしますと、より古い時代から祀られていた聖地であって、そこへ親父を埋葬したのがいて、暫くは神宮になったが、たいした親父でもなく、正史では河内に陵を作っていることになり、神宮の呼称は消えていったと言う青草話ができそうです。


> 古来から石上には出雲の武器庫があり、古来からの神剣や宝物などがそこに納められていた。

平安京へ運んだ料から言うと、天理教の宿を武器庫と思って見ればいいそうですね。


備前国赤坂郡の石上布都魂神社の付近は鉄の産地のような地名でで、ここで作った劔が納められたのかも。

[6350] Re[6348][6338][6336][6335][6334]: スサノオと神武の剣  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/30(Mon) 21:17 [Reply]
スサノオの所持する剣
書紀では、十握剣、九握剣、八握剣、1書ではこれらの剣は天照大神との誓約時にかみ砕いている。
八岐大蛇退治では、十握剣、1書では蛇の麁正アラマサ、蛇の韓鋤カラサヒ、天蠅研アマノハハキリ

古事記では十拳剣
地祇本紀では十握剣

天神本紀
ここでは降臨するのは瓊々杵尊ではなく「天之忍穂耳の子」の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、降臨時に授かるのが十種の神宝で、そのひとつが八握剣。


神武の所持する剣
書紀では、東征時に武甕槌命が夢にて高倉下命に神武に奉れとした剣が、フツ霊剣フツノミタマ。

古事記でも状況は書紀にほとんど同じ。
佐士布都神、布都神、布都御魂(石上の神宮に坐すとある)

天孫本紀では、
長髄彦を誅した宇摩志麻治命に神武がほめて与えた?剣が、フツ霊剣、または布都主神魂刀、または佐士布都、または建布都、または豊布都神。
(このとき宇摩志麻治命は十種の神宝を神武に提出)


天孫本紀に、重要な一節があります。
崇神天皇の御代に、布都大神社を大倭国山辺郡石上邑に「遷建」てる、とあります。
布都大神社をどこから移したのでしょうか。

饒速日尊が授かった十種の神宝もここに納めて石上大神と称したともあります。
崇神以前にこれらの神宝がどこにあったかは不明ですが、この神宝をもって鎮祭シズメノマツリを行っています。

石上神宮では、スサノオ、神武、ニギハヤヒが入り乱れております。
このあたり、推理を柔軟にはりめぐらさないと(^^;


[6348] Re[6338][6336][6335][6334]: 布都御霊剣  かたばみ [Mail] [Url] 2005/05/30(Mon) 18:52 [Reply]

≫で、石上神宮は一体誰の廟であるか?

垂仁朝の石上神宮、石上の神の宮であって、その神を祖先神とみなす必要はないのではないでしょうか。
飛鳥奈良時代に道教文化とその文言が大量に流入し、その影響甚大であるのは間違いないと思います。
しかし、「道教文化」の影響を受けたのは形式(理論)と文言であって、往古から人々の意識にある神の感覚、これまで道教文化に従ったとは考えにくいのです。
(文言と形式を政治的に利用したのが天武の眞人であり天皇の登場と思います)


素盞鳴尊の十握剣(あるいは天羽斬剣)と神武の布都御霊剣、出雲の神剣と天孫の神剣がなぜ大和の石上に同居しているのか。
(「石上神宮の十握剣」が歴史上のスサノオ時代の剣かどうかはおくとして)
崇神以前の大和は出雲の中枢であった、が持論でありますのでそこからは説明容易(^^;

青草になりますが、
古来から石上には出雲の武器庫があり、古来からの神剣や宝物などがそこに納められていた。
後の正倉院みたいなものです。
出雲崩壊後に崇神ないし垂仁もここに武器庫を置き、その管理を物部氏にまかせた。
(多くの三角縁神獣鏡はここの青銅剣などを鋳つぶして作られたと推定)

その時点ではなにも祀ってはおらず、神剣がそこに納められているだけだったのではなかろうか。
その後になんらかの理由で重要な宝物類が禁足地に埋められたのでしょう。

ここで神武東征説話をどう解するかの問題がからんできます。
記紀による「大和に天孫王朝を作ったのは神武である」を信じるならば、その人々が記紀に書かれる布都御霊剣が石上神宮に祀られる剣である、とみなすのは自然な流れだと思います。

というより記紀がそのように書いたわけです。
神武東征説話を信じる限りは、「記紀のいう布都御霊剣」は石上神宮から発掘された剣であってもよい、ということになります。
(私は神武東征説話をまともには信じませんので・・)

記紀編纂以前では「近畿大和朝廷の創始にからむ神剣」が石上にある、この意識のみではなかったか。
それが神武の剣であろうとなかろうと。
「石上神宮の布都御霊剣」は大和に天孫王朝ができた頃にそのだれかが使っていた剣であると考えています。


崇神以降の近畿大王系譜は2度にわたって九州系大王(応神および安康と雄略)の支配下にはいっていたとみております。
(記紀が書く大王系譜は錯綜する系譜から都合の良い大王を「抽出してつないだ」もの)
継体大王と筑紫磐井の関係もそこに根があるわけですが、このあたりはちょい複雑。
そのおおざっぱな流れの推定は下図に若干(PDFファイル)。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shindai01.pdf

石上神宮の状況も揺れ動いていたと思います(呼称の変化は政変の指標になる)。
宝物が埋められたのは、戦争などの混乱で盗難がありえる時代か、政変の時代であろうとみています。



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