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掲示板のログ(平成十七年 九月 2005.9)お名前の敬称は省略しています。

[6686] Re[6680][6678][6671]:[6670] 和気清麻呂水路の図などなど  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/28(Wed) 21:41 [Reply]

現在の大和川流末近くの川幅はおおよそ150mくらい、当時でも似たようなものと思います。
東京お茶の水の台地を貫通する神田川は大和川よりはるかに小さいですが、開削斜面の幅は100m以上あります。

大和川の貫通だと開削斜面の幅は200mにはなるのではないかなあ。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kawahoriike.jpg
すると・・茶臼山は消えてなくなる(^^;
(総国寺もあぶない)

http://www.isemonogatari.com/index.html
こちらの「地歴研究」の「東区史古地図」の各種が興味深いです(東区史:昭和17年編纂)。

この古地図では3本の川が上町台地を横断しているかのごときに書かれています。
引用:≫考古学では、谷地形があっても、茶臼山の川底池の水面まで、8メートルも高低差があるとして、東区史の古地図は否定されている

とありますが、古地図の川をみな「立派な川」とみなしているのが問題じゃないかな。
大雨の時に斜面のあちこちに雨水が流れては困る、湧水あるいは排水用の水路は古くからいくつもあったのでしょう。
(東区史の古地図ではこれをいっしょくたに書いている)

この古地図の地名などをプロット(追加)した地図
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa03.png


四天王寺にどこかの古墳の石棺が保存されているようですが、阿蘇の石らしい。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/006/

羽曳野市、藤井寺市の古市古墳群の石棺には阿蘇の石が使われるものがあるようです。
(百舌鳥古墳群の大山、古市古墳群の誉田山などの発掘をぜひ・・)

堀越神社や河堀稲生神社の縁起は崇峻天皇(587-591)と聖徳太子(?-622)にからむようですね。
四天王寺や総国寺など仏教拡大の中枢ともいえる場所に聖徳太子が神社を創建するのだろうか。
南にある悲田院の地名も四天王寺系列の民間用の医療施設からのものと思われます。

このあたり10年単位の精度がほしいですが、堀越神社や河堀稲生神社は茶臼山の被葬者に関連があっても、聖徳太子は後の聖徳太子ブームにひっぱられての登場ではなかろうか。
このあたり、難波宮のありようを含めて敏達や用明天皇以降の錯綜状態を解く鍵になるかもしれないと感じています。

総国寺は四天王寺同様に当時の仏教拡大の一環だと思います。
≫「近くの和気清麻呂が開いた和気堀にちなんで和気山の山号をつけたとされる」
ま、これは江戸時代の話ですから、江戸時代の「定説」に基づく呼称であって参考にはならずかな。

で、当初の四天王寺が仏教拡大の先鋒であれば、古墳(古代祭祀)の象徴でもある古墳を以て荒陵寺アラハカの呼称に用いることも考えにくい。
この呼称も唐文化を離れて独自文化を意識しはじめてからのものと考えます。
早くとも記紀の編纂時代以降(神道の萌芽)、おそらくは菅原道真(845-903)以降。


[6685] Re[6684][6683][6681]: 一座神社についてお尋ねします。  神奈備 2005/09/27(Tue) 22:36 [Reply]
> 移り変わりを辿ると、妙見社から遷座して夷神となったという時代背景には何が
> あったのでしょうか。

 妙見社が夷神に置き替わった訳ではなさそうで、住民が移住した際、氏神であったろう妙見社も遷座させたのでしょう。
 また移住したのは、室町時代とされていますが、その地域が市場として繁昌して来たので、雇用機会なども会ったのでしょう。市場の神として氏神以外に、夷神をどこからか勧請して来て祀ったのでしょう。土地の神としたのかも知れません。氏神だった妙見社に勧請して妙見社が母屋を明け渡したのかも。

[6684] Re[6683][6681]: 一座神社についてお尋ねします。  吉備津 [Mail] 2005/09/27(Tue) 21:38 [Reply]
> > 「元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。」とありますが、摂社の場所を知りたいことと
>
> 誤解を招きやすい表現で失礼いたしました。摂社は境内に鎮座、元社の位置(不明)ではありません。
>
> > 丹波姫についての由来を知りたいのです。
> 境内の由緒を見て書いたもので、姫の招待は不明です。丹波市の巫女さんだったのかも知れませんね。

読み違いでした、大変失礼しました。お恥ずかしい。
姫の正体は一体、誰なんでしょうね。

移り変わりを辿ると、妙見社から遷座して夷神となったという時代背景には何が
あったのでしょうか。

すみません、いろいろと歴史を詮索してみたい切っ掛けがありまして(独自解釈で満足)
この情報について、何処か手がかりが無いのかな。

[6683] Re[6681]: 一座神社についてお尋ねします。  神奈備 2005/09/27(Tue) 18:17 [Reply]
> 「元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。」とありますが、摂社の場所を知りたいことと

誤解を招きやすい表現で失礼いたしました。摂社は境内に鎮座、元社の位置(不明)ではありません。

> 丹波姫についての由来を知りたいのです。
境内の由緒を見て書いたもので、姫の招待は不明です。丹波市の巫女さんだったのかも知れませんね。

[6682] 市座神社の間違いです。訂正します。  吉備津 [Mail] 2005/09/27(Tue) 16:03 [Reply]
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/itiza.htm

[6681] 一座神社についてお尋ねします。  吉備津 [Mail] 2005/09/27(Tue) 16:00 [Reply]
以下の情報について。
「元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。」

とありますが、摂社の場所を知りたいことと、丹波姫についての由来を知りたいのです。
如何なることでも結構ですので、何か情報を頂きたいと存じます。


祭神
事代主命(丹波姫であったと言う)

由緒
 丹波市の守護神。元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。現在も立派な摂社がある。 後に上街道筋に市場が形成されるにつれて妙見社も遷座、市神の夷神として事代主命を勧請した。

[6680] Re[6678][6671]:[6670] 和気清麻呂水路の図などなど  神奈備 2005/09/26(Mon) 12:16 [Reply]
 在日コリアンの寺として知られている統国寺が茶臼山・河底池の南側に鎮座、山号は和気山で和気清麿さんが河を掘った残骸の池を記念しての山号のようです。統国寺HP↓
http://www.oct.zaq.ne.jp/gangyou/public_html/tokokuji.html

清麿さんが掘り進めた河は多分、ゆるやかなすりばち状で幅は広かったのでしょう。河底池も幅が40m強です。
 河川の北側に当たる河掘口に河堀稲生神社が鎮座、この神社内に摂社の若宮八幡宮があり、配祀祭神に和氣清麻呂公がいます。工事は失敗に終わったのでしょうが、巨額の公共事業の銭がこの辺りの住民の農閑期のいいアルバイトになったので、神様として祀ったのかも。

この付近をまめに調査したHPがありました。↓
http://www.eonet.ne.jp/~ringo-do/tanken_koborejinja.htm

 掘削は河内と摂津との境を、となっていますが、平野郷辺りはそう言えるでしょうが、茶臼山付近は摂津、住吉川となると和泉と摂津の境となり、実際の所、どこを掘ったのか、文献からでは決められないのかも。

[6679] Re:[6678]和気清麻呂水路の図などなど  いこまかんなび [Url] 2005/09/25(Sun) 06:35 [Reply]
かたばみさま
おはようございます。色々と注文つけましてすんません。
和気あり水路の場所は、いろんな角度から再検討してみることにします。
変わらないと思いますが。
連休なしなんで、そろそろコーヒー入れて出勤の準備を。
ではまた。

[6678] Re[6671]:[6670] 和気清麻呂水路の図などなど  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/24(Sat) 21:27 [Reply]

≫古代〜近世までの時代の説明などが錯綜していますよう
≫時代を絞ってご紹介いただければと

脳味噌が錯綜しておりまして、各種いろいろを書いておかないと迷子に・・(^^;
時代別にアニメ化でもできればいいんですが、とてもそこまではいっていません。

≫住吉川と推定谷筋のところも、なお和気清麻呂の挑戦した工事とお考えなのでしょうか

少なくとも茶臼山の南側ではないことは確信しています(^^;
一番の理由は、和気清麻呂がいう農耕地が増えるというメリットがみえないからです。

以下のHPにあった摂津河内絵図は不鮮明な画像なのですが、東除川はストレートに北上しているようで、東除川の付け替えは完成していなかったことを示すとみえます。
http://machi.monokatari.jp/
(猫間川筋15/源ヶ橋あたりから、南をのぞむ)
関連資料が近所の大学の資料室にもあるようなので、そのうち閲覧するつもりです。

結果として和気清麻呂の開削は西除川(高麗川?)を上町台地の東斜面に付け替えた形だけが残った、ということになります。
この水路は江戸の大和川付け替え(1704)後も利用されて、大正時代でも多数の池として残ったのでしょう。

足利時代の堀村の濠、明治時代の地図の境界が和気清麻呂水路の分岐に一致するような気がするけど・・
http://www.oct.zaq.ne.jp/hori-jinja/index.html
(保利神社/風光麗し長居の里)

東除川(息長川?→翁川?)は江戸の大和川開削まで生きていて低地帯では洪水源となっており、桑津今川堤はその防御だろうとみています(現在の今川とは全く異なる流路だったと推定)。
低地帯では100年単位で流路があちこち蛇行していたのではないかなあ。

毎度々々の和気清麻呂水路の修正。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa01.png
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa02.png


≫河内平野は、全般に地盤沈下がひどく

東京の墨田、江東、江戸川区などと同じ状況なのだろうと思います。
荒川放水路(大正13年)周辺では、その堤防の巨大重量が加わってからの地盤沈下の位置と年代が一致しています。
公式見解では、地下水汲み上げで地盤沈下した、ですけれど(^^;

ps.
以下の衛星写真システムは優れもの(が、うちのパソコンだと頻繁にフリーズ、原因不明)
http://earth.google.com/


[6677] Re[6676]: 杭全神社と平野  神奈備 2005/09/24(Sat) 18:29 [Reply]
>  はじめまして。
八代さん いらっしゃいませ。

京の平野神社の元社として、ひとつは大和の久度神社の久度神ではないかとされています。摂津の杭全神社の鎮座地が平野であるから、杭全神社が元社と云うことにはなりません。杭全神社の方が歴史は浅いようです。

所で、京の着倒れ、堺の住み倒れ、大坂の食い倒れと云う言葉がありますが、この「食い:は「杭」が正しく、大坂商人となりますと、所謂八百八橋を造築する資金を出さされたので、橋の杭の杭倒れと云われたそうです。

くいちがいのお話でした。

[6676] 杭全神社と平野  八代新一 [Mail] [Url] 2005/09/24(Sat) 09:48 [Reply]
 はじめまして。
つい先日、テレビで「クマタ神社、環濠、商人の里」などと説明されながら「平野」の地域が紹介されていました。不思議に思って調べてみたら、案の定、予想どおりに「息長帯比売命」の系譜にある「アカルヒメ・ひめこそ」の神社があること、更に、「息長氏までが関係あること」等、インターネットHPで知りました。
 日向神話「海幸彦・山幸彦物語」の原籍地で、今でも、神話にかたられるとおりに「虚空彦(そらつひこ)・空津姫」誕生のまつりを執り行い、同じ「神学」に基づいて奈良・平安の時代以前、神代から「今木隼人」の名で「現人神誕生の祭、大嘗祭」にも奉仕していた古代隼人の有り様から、京都に「平野神社」が創祀される以前、交易の民「隼人」が浪速のこの土地で、先祖伝来の「カラカミ、豊玉姫・玉依姫」をまつっていたことを確信しました。
 「記紀神話は日本の祭の縁起をかたるもの」と信じる立場から、話題になっている「杭全神社」に関連して考えているところを述べさせて頂きました。

[6674] Re[6672]: 和気清麻呂の開削と杭全は?  神奈備 2005/09/23(Fri) 21:32 [Reply]
> が、わからないことがいっぱいです。

 杭全神社の創建は貞観年間(862年)と云われています。
 また和気清麿は799年に亡くなっていますので、50年以上のギャップがあります。神社の創建はどちらかと云うと古く古くと持っていきたいようですから、和気清麿さんの工事とからめるのは難しいのかも。
 ただ、杭全神社の境内に環濠集落の遺構が残っているようで、水利などのことがなされていたのかも知れませんし、祇園から勧請する前に小祠を建てて祭りが行われていたのかも知れませんので、なんとも。
 地名としては杭全であって、後に坂上田村麻呂の子広野麻呂の広野は平野に訛ったように説明されています。
 杭全のマタには座の意がありますから、杭の神々が鎮座された地域と云う理解は可能かも知れません。他の国々にもこのような名の場所があればいいのですが、カシミールでは見つかりません。杭+全、叉、俣、亦、股など。
 どうやらクマッタね。

[6673] Re[6669][6665]: はへ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/23(Fri) 00:20 [Reply]

≫長い縄にたくさんの釣り針をつけて海に流して大型魚を獲るのがハエナワ漁。

訂正です(^^;
先ほど見たTVのbs−iの「日向耳川紀行 歌人牧水が愛した故郷」でウナギをハエナワで獲っていました。
天然ウナギ、確かに胸は黄色、胸黄であります。
重しに石ころをいくつもぶら下げていましたが、発掘される刻みのある小石はこれかもしれないなあ。

秘境という言葉に薄暗い森林と川をイメージしていましたが、雑木の森と川がずいぶん明るい感じで、いってみたくなりました。


[6672] 和気清麻呂の開削と杭全は?  いこまかんなび [Url] 2005/09/22(Thu) 23:13 [Reply]
 推定の域ですが、古代の旧大和川(河内川-摂津からみた河内の流れ)筋から分岐した渋川-橘川(龍華川-のち平野川)は、当時、平野郷町のすぐ北で流れを西北方から北へ変えて玉造江に流れ込んでいたと思われます。
 ここからおそらく人工堤防の築造によって流れをまっすぐ天王寺方面に付け替え(例えば江戸期の大和川付替では柏原市の築留のようなもの、付け替え前には、人工堤防に囲まれた新開池底は、周りの田から約3m程も高かったし、堤防が命、だった。川を掘ってというより、人工堤防で上町台地まで導く、と考えては?) のポイントにある「杭全神社(くまた)」ですが、和気のきみまろ、失礼「きよまろの工事」と築造にともなった祭祀に関係はないでしょうかね。
 神社は「坂上田村麻呂の子広野麻呂がこの地の開墾領主となり、その子の当道が貞観年間に祇園の牛頭天王を氏神として勧請したのが創祀」といわれていますね。
「和名抄」によれば、住吉郡には、住道(すむち)・大羅(おおよさみ)・杭全(くまた)・榎津(えなつ)の四郷、(東急本に余戸(あまりべ)郷、<奈良時代の史料や「万葉集」に田辺・神戸(かんべ)・伎人(くれひと)の三郷)、があったといわれ、杭全郷に関しては、倭建命の孫の杙俣長日子王(父は息長田別王)、応神天皇と咋俣長日子王の女との間の子若沼毛二俣王などの王名との関係が指摘されています。
 杭全・平野地域が、西除川(伎人堤-息長川)と合流する地域であったことを考えますと、「くまた・くいまた」の名から、川の流れや堤防などの杭、分流地点、あるいは古代の河道の付替え工事の様子などがなんとなく浮んできそうです。
が、わからないことがいっぱいです。


[6671] Re:[6670] 和気清麻呂水路の図などなど  いこまかんなび [Url] 2005/09/22(Thu) 21:41 [Reply]
たかばみさま
毎回の古代〜近世の河内・摂津水土考のくわしくすばらしい地図には「すごい図」と驚いています。
拙者ゃ〜・・・少し注文を許していただければ、古代〜近世までの時代の説明などが錯綜していますよう〜。時代を絞ってご紹介いただければと思つてます。
それと「和気のわからんまろ」ではないですが、住吉川と推定谷筋のところも、なお和気清麻呂の挑戦した工事とお考えなのでしょうか。
なお、百済野は、摂津の国百済郡(のち欠郡)で、もっと上町台地に近いところと思います。アメリカテキサス州の洪水ではないですが、百済王一族は、大洪水で枚方へ引っ越しするはめになったといいますから〜〜・・・残念〜んっ。
それから、河内平野は、全般に地盤沈下がひどく、生駒山ろくではTP-2mから1mのところからも弥生時代はじめの遺跡がでてくるところもあります。上町台地ぞいではもう少しマシかな。

>Re[6666]和気清麻呂水路の図
神奈備さま
藤岡謙二郎著『大和川』の推定図、今を思えばすごく大雑把な図で。うむーっていう感じです、和気わからんようになってきます。説明の方を見てみることにします。

[6670] Re[6666][6664]: 和気清麻呂水路の図  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/22(Thu) 18:41 [Reply]
≫現地を歩いて見て、鞍部になっていそうな所があり、それが南東に続いています

現地を視察していただいたのですか(^^) ありがとうございます。
和気清麻呂が死去して工事が中止されたとき、どのような状態であったかを仮定する必要がありますね。

和気清麻呂は他にいろいろな土木工事をやっていますし、平安京遷都も進言していますし、本業は技術者じゃないだろうか。

和気清麻呂は、河内川の付け替えで肥沃な土地が広がって開墾できる、といっています。
これがポイントであり、江戸時代の大和川付け替えがまさにそれだと思います。

百済野?の下流域に新たな農地が増えて開墾が始まっています(綿花のようです)。
和気清麻呂のいう開墾もこれと同じで、西除川と東除川の付け替えまでは完成させていた、と考えています。
(むろん低地帯の洪水も防げる、けれど低地すぎて農地化は?)

大阪城の南の空堀、さすがの秀吉も上町台地を16mもの深さで横断する掘削はやらずに浅い空堀だけとした。
もし南側も大和川で防衛していたら家康も攻めあぐねたかも。

その場合だと台地高所の地表面では幅100m以上での掘削開始となりそうです。
大阪城北側の堀江、ここの大阪城側の斜面に類似です。


[6669] Re[6665]: はへ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/22(Thu) 18:34 [Reply]

≫万葉集 巻17 4028
≫[訓読]妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな

長い縄にたくさんの釣り針をつけて海に流して大型魚を獲るのがハエナワ漁。
これだったのか(^^)
祭のときに1本の電線にたくさんの提灯をぶらさげる、あのイメージです。

「水占延へてな」はそういう漁法から生じた漁師の占い・・えべっさん系譜。


[6668] Re[6663]:[6661] 住吉と長柄(船瀬)  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/22(Thu) 18:24 [Reply]
≫住吉津は大勢の渡来人を受け入れ清め祓う神津として5世紀初めには存在していたのでは、と思ってます

摂津河内絵図(大和川開削以前)による往古の大阪水路推定図
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/suiro_oosaka.png

景行大王(持論:311-333)は屋主忍男武雄心命を阿備の柏原に派遣して神を祀っています。
(場所不明のようですが、和歌山市付近とされる)
この派遣は崇神と垂仁がやりのこした紀州方面での出雲との関係の修復じゃないかと思っています。

後の忍熊王攻撃での武内宿禰の船は紀州方面から住吉大社方面へ北上していますが、武内宿禰が屋主忍男武雄心命の子であることと関連しているのかもしれない。

古墳時代の沿岸用の船の移動速度は15〜30km/1日を想定しています(古代日本の航海術/茂在寅男などによる)。
歩くのと大差ない速度ですが輸送力は桁違い。
無理をすればもっと長距離移動もできるでしょうけれど、漕ぎ手の交代などを考えればこの間隔で泊地が必要になります。

現在の住吉大社の位置から西南へ15〜30kmをとると、池上曽根遺跡〜泉大津あたり。
泉大津には材木町の地名がありますが、往古にも材木を扱っていたのではなかろうか。
さらに西南の泉佐野市には住吉町の名が残ってますが、この一帯は現代の大規模開発で往古のものがどれだけ残っているか。

さらに西南へ20kmで岬町(淡輪)〜深日湾、岬町には大型前方後円墳2基。
1基は垂仁と日葉酢姫の子の五十瓊敷入彦命(景行大王の兄)の墓ともされるけど根拠見えず。
(五十瓊敷入彦命=印色之入日子命、上町台地の東の往古の大和川沿いに印色宮(横野神社)あり)
垂仁と日葉酢姫の子に鐸石別命がいますが、これが和気清麻呂の先祖のようです。

ちょい西へ進むと多奈川小島の岬の先端に住吉神社、その西は和歌山県となって住吉崎、ぐるっと南へ回って和歌山市へ。

景行大王時代には現在の住吉大社の原形がすでにあったのではなかろうか。
紀州航路から大和川を遡上する内陸水運との切り換え地点として良い位置とみえます。
「江の隅」隅之江であります(^^;

大和川や淀川の複雑な浅瀬や川筋にはいるとき、それに慣れた漕ぎ手(あるいは水先案内人)と交代する地点。
内陸水路から紀州航路へ出るときにも同様で、そういう地点で安全祈願もしていたのではないでしょうか。


[6667] Re[6666][6664]: 和気清麻呂水路の図  神奈備 2005/09/22(Thu) 09:44 [Reply]
『大和川』藤岡謙二郎著 学生社 から

新大和川を通す以前の難波の河川の状況で、各地図を参照して再生したものとのこと。 ↓
http://kamnavi.jp/log/naniwakawa.jpg

[6666] Re[6664]: 和気清麻呂水路の図  神奈備 2005/09/21(Wed) 15:43 [Reply]
> http://kamnavi.jp/log/kiyomaro.jpg
>
> 現地を歩いて見て、鞍部になっていそうな所があり、それが南東に続いています。

 現在の大阪市の地図にもくっきりと出ている和気清麻呂運河の跡は方格地割が乱れており、その乱れは国道25号線と大和路線との間を通って河掘口から桑津に至ります。

海抜標高は以下の通り(『大和川』藤岡謙二郎著 学生社 から)
 桑津 5m
 茶臼山 北河掘 10m
 茶臼山の河底池の水面 12.4m
 茶臼山を西北に越えると  2.7m
要するに茶臼山の池から大阪湾には水は流れるのだが、桑津から池には7.4m(池の水面と桑津の差)の差があり、揚水しなければ流せないことになる。清麻呂さんは作業を進めたものの、行き詰まってしまったのです。がっかりして丁度病気にかかり、程良く死んじゃったのかも。

 それでも清麻呂さんは御所の西隣の護王神社の祭神として祭られています。宇佐八幡の神託で道鏡の企てをうち破ったからです。

[6665] はへ  神奈備 2005/09/20(Tue) 15:56 [Reply]
万葉集 巻17 4028
[訓読]妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな
[仮名],いもにあはず,ひさしくなりぬ,にぎしがは,きよきせごとに,みなうらはへてな

はへとは、「縄などを延ばす意」で、それを川に張って引っ掛かるもので占ったのか、もしくは縄を水に浮かべて水占いを(方法は不明)をやったそうです。事代主神が丹塗矢になった話があったかどうかですが、縄が流れた様をみて、丹塗矢と思ったとすれば、「はへ」がここにも登場します。

[6664] 和気清麻呂水路の図  神奈備 2005/09/19(Mon) 18:25 [Reply]
http://kamnavi.jp/log/kiyomaro.jpg

現地を歩いて見て、鞍部になっていそうな所があり、それが南東に続いています。

[6663] Re:[6661] 住吉と長柄(船瀬)  いこまかんなび [Url] 2005/09/18(Sun) 20:59 [Reply]
>(住吉大神の鎮座地がどこであるかは無関係に)

長柄船瀬の場所は、上町台地突端、河内湖の西側出口ですよね。
住吉大社の鎮座地と大きく関係する位置でもあったと思います。
当時は目的と必要に応じて、船の停泊津を選んだのではないかと。
六甲山ろくでは、当然別の津=港になりますね。
わたしは、住吉津は大勢の渡来人を受け入れ清め祓う神津として5世紀初めには存在していたのでは、と思ってます。
津は土砂が堆積して移動が多かったのかもしれませんが。
干潮をねらって水路の浚渫工事で維持管理できますしね。
洪水後の堤防修築工事よりはラクチンでしょうね。

[6662] Re[6657]: 住吉大社と水分神  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/18(Sun) 20:23 [Reply]

≫「さらに想像を加えると、この川は、はるか葛城〜和泉山地の聖水を導き依羅池〜住吉川〜住吉神社へと導いていたとにらんでいます

毎度でありますが、先の和気清麻呂水路の図を大改訂しました
(現段階では日替わりでございます(^^;)
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa01.png
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa02.png

住吉大社方面の「水」は西除川と東除川であり、共に狭山池が源流とみえます。
(大和川水系が入るのは江戸時代以降)
狭山池は考古学的には600年代前半の築造とされるようです。

東西の除川の流域は縄文や弥生の遺跡も多数あって、水さえ確保できれば暮らしやすい土地だったとみえます。
狭山池が造られるはるか以前から小さな溜池が無数にあったのではないでしょうか。
(雄略時代の物部目大連の餌香市も東除川流域と推定されるようです)

対して上町台地は水に苦労する地域と思われます。
「水分」とはその大事な水を分け合うといった意味なのかもしれないですね。
和気清麻呂が上野台地へ通水する・・実行しただろうとみるところでもあります。


[6661] Re[6660][6659][6657]: 住吉と長柄  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/18(Sun) 19:52 [Reply]

≫天皇念行時。大神訓賜。我造長柄船瀬進矣
≫遣唐貢調使の船の泊を造ろうと思った時、(住吉)大神が、長柄に船瀬の泊まりを造って進(奉)じた

大和川の河口(水路)のひとつが仁徳が開削したと思われる「堀江」だと思います。
推古朝の拠点は奈良ですから、堀江の沿岸となる長柄が奈良への水運の入り口になっていたと思われます。

大和川の水運と瀬戸内航路が接合する場所が遣唐使(遣隋使)の拠点に最適。
「大神訓賜。我造長柄船瀬進矣」とは、水運に長じる人々が住吉大神の神託として長柄に泊まりを造った、と解してよいと思います。
(住吉大神の鎮座地がどこであるかは無関係に)


[6660] Re[6659][6657]: 住吉と長柄  神奈備 2005/09/18(Sun) 09:51 [Reply]
 『住吉大社神代記』に「長柄船瀬本記」があります。
右。船瀬泊。欲遣唐貢調使調物積船舫造泊天皇念行時。大神訓賜。我造長柄船瀬進矣。
天皇が遣唐貢調使の船の泊を造ろうと思った時、(住吉)大神が、長柄に船瀬の泊まりを造って進(奉)じた。

 遣隋使は600年(推古八年)、遣唐使は630年(舒明2年)が初発で、それは長柄の港からとあります。長柄は現在の天神橋六丁目付近で、河内湖の西側の港です。この頃には住吉津は使われていなかったと云うことです。
 荷物は長柄で積み、それから住吉に航行して住吉の神に航海成就を祈願してから遣唐使など人々を乗せて出航したのでしょう。

 河内湖に土砂が堆積してきたので、全面的に住吉津に移ったと云うことではないでしょうか。

[6659] Re[6657]: 住吉大社と水分神  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/17(Sat) 19:06 [Reply]

≫旧鎮座地、紀州街道の海沿いにあたっていた霞松原は、少し西南にそれますが

ここに住吉を置くならなんらかの理由があるはずで、それはなにか、だと思います。
西宮や神戸での住吉は瀬戸内航路の海運拠点、住吉大社もやはり海運拠点でしょう。
だとすれば紀州方面と大阪〜京都方面への海路の最終寄港地の他には考えつきません。
(太平洋航路からの最終寄港地でもあります)

紀州方面からの船にも淀川へ進入する水路の水先案内は必須、仁徳天皇以降であれば仁徳が開削した堀江へ進入する水先案内も必要でしょう。
紀州街道や熊野街道が古くからあるということは、当然ながら海路もあったはずですし。

これらのためによい位置にあるのが住吉大社だと思います。
そういう観点からは、住吉大社を奉斎した人々は神戸側の住吉とは若干性格が異なる可能性があると思っています。

雄略以降であれば多数の渡来人が大阪にも住みはじめ、建材や土木資材が大量に必要になっていったはずです。
この海路を最大限に利用したのは材木関係ではないかと思っています。
紀ノ川上流の材木などを筏に組んで大阪などへ運ぶわけですね。


[6658] 黒いひまわりの女です  いそたける 2005/09/15(Thu) 23:49 [Reply]
管理人様テレビ朝日でやった黒いひまわりの女ですね本があったら読んで見たいと思いますが、
はたしてテレビドラマの場所と本の場所とが一致するか?でもかなり立派な狛犬と鳥居で
これは並々ならぬ場所と感じたしだいです。お手数かけます。

[6657] 住吉大社と水分神  いこまかんなび 2005/09/15(Thu) 21:07 [Reply]
[6614] 上町台地の開削と長峡? --では
「住吉川(細井川)は、住吉大社のすぐ南に台地を横切る谷(峡)があり、南方の狭山池〜西除川〜依羅神社(池)〜苅田〜止々呂伎比売神社の北側〜千躰町〜住吉大社南側へと細い谷が存在していたようです。何か謎が隠されているようです。
共に、上町台地に横切る東西浅谷を加工して、人工の川あるいは聖なる溝うなでを築こうとした、あるいは存在していたのではないでしょうか。」
[6607] 『住吉大社神代記』の鎮座地名 --では
「さらに想像を加えると、この川は、はるか葛城〜和泉山地の聖水を導き依羅池〜住吉川〜住吉神社へと導いていたとにらんでいます。」
と書きました。

この中で、住吉大社の子神の一社で、式内社でもある止々呂伎比売神社(素盞雄尊・稲田姫命-大阪市住吉区沢之町)には、明治40年に西方の安立町霰松原から移転合祀され、もと「歩王」と呼ばれたという同じく式内社の天水分豊浦命神社(天水分神)があります。
旧鎮座地、紀州街道の海沿いにあたっていた霞松原は、少し西南にそれますが、神社の存在と社名の「水分」の由来を考えると、やはり古代に存在した細い谷状の地形に沿って、聖浄水を住吉神に導く導水施設あるいは設備を守る神として祀ったものではないかと思うのですが。いかがなものでしょうか。

[6656] 柏原市安堂の二宮神社からのお知らせ  神奈備 2005/09/15(Thu) 18:54 [Reply]
9月18日(日)
午後17時から祭典
午後18時より
 月に奉げる舞・囃子・能管などの奉納を境内にてかがり火の下で行います。
 絵馬、月光の神酒をふるまいます。
直会の軽食も用意いたしております。

お問い合わせは п@0729−73−2458 二宮神社まで

http://blog.livedoor.jp/futamiyasakon/

[6655] Re[6653][6648][6647][6645]: ネ・コマ、コマ川、コマ山?<  大三元 2005/09/15(Thu) 00:30 [Reply]
そっか。甲も乙も弁別しなくなってからの話のようですね。失礼しました

[6654] Re[6650][6646]: ドラマの神社?  をぢさん 2005/09/14(Wed) 23:31 [Reply]
山梨方面のTV朝日では?
「タクシードライバーの推理日誌」シリーズ『黒いひまわりの女』
(伝説の湖だけが知るアリバイ崩しの謎とは?神戸―別府湯布院殺人ルート)
 原作:笹沢左保。脚本:坂田義和。監督:吉田啓一郎。
 出演:渡瀬恒彦、佐藤友美、平田満。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
神社のほうは・・・観てないから、なんとも〜。

[6653] Re[6648][6647][6645]: ネ・コマ、コマ川、コマ山?<  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/14(Wed) 23:06 [Reply]
≫猫 ネコ の コは甲類
≫高麗 コマ のコは乙類

猫間川の呼称がいつから登場しているか、がありそうです。
あくまで「根・高麗」が猫間になったとしてですけれど、音韻的流れをまったく持たない変化があると思います。
駄洒落による置き換えの定着です。

土地勘なしですが、状況からこの一帯はいわゆる下町、庶民の町とみます。
猫間には庶民のユーモアを感じるんです。
例えば路地や細い川の羽目板の上に猫が走り回る・・猫の間の川(^^;;;

人名からなら、藤原北家の壬生族の良門流に猫間家というのがあり藤原清隆(1200頃)が猫間中納言を号したそうです(在は葛野郡=京都市らしい:姓氏家系辞書/太田亮)。
以下のような民話もあるようで、平安末期になにか関連している可能性はあると思います。
http://www.ne.jp/asahi/tanba/kirinosato/SANDAhatukasan-docu.htm

しっかし・・駄洒落の方を採ります(^^;
藤原清隆の号もなんかの洒落じゃないかしらん。
(猫がブームになるのは平安時代から)


[6652] 赤土です  ひのつき [Mail] 2005/09/14(Wed) 22:34 [Reply]
現在付近は立ち入り禁止となっております。
ですが、言い伝えによれば坑道が(洞穴に近い)あるようです。
付近には金山跡が点々とし、1600年代には伊達家と南部家のあいだで金山騒動もありました「小友赤坂金山騒動」と呼ばれていた気がします。
赤坂金山から1キロぐらいのところにひる子舘金山跡があります。

[6651] Re[6649]: はじめまして  神奈備 2005/09/14(Wed) 22:10 [Reply]
> 件の、気仙郡世田米村です。現在の地名は荷沢峠(にざわとうげ)と言いますので、もしや「荷=丹」かと思い僭越ながら書き込みいたしました。

当掲示板の[5775]
文献に依る水銀産地の変遷  ペギラさん
にそのご住所は出ていますね。
http://www.e-sanriku.net/matidukurijyuku/ougonkesen/iramutouipa/miyosikugane.html
によりますと砂金なども出ているようですね。

辰砂山という山がありますか。すごいことですね。やはり土壌は赤土でしょうか。


[6650] Re[6646]: ドラマの神社?  神奈備 2005/09/14(Wed) 21:59 [Reply]
関西のお方でしょうか?
10チャンネルと言えば読売テレビですね。サスペンス劇場は15時過ぎに向田邦子さんの作品をやっているようですが、この事でしょうか。

テレビの放送局は一体どこでしょうか?
3時ですか15時ですか?

[6649] はじめまして  ひのつき [Mail] 2005/09/14(Wed) 21:55 [Reply]
歴史探求・初心者です。
あまりに高尚なお話の中で「辰砂」を発見し飛びついたばか者です。
家の実家の田んぼのある山は「辰砂山」といいます。いつ掘られていたかは判然としませんが、真言宗のお坊さんが掘っていたのではないかといわれているので多分、1,000年前後の話かと思われます。
件の、気仙郡世田米村です。現在の地名は荷沢峠(にざわとうげ)と言いますので、もしや「荷=丹」かと思い僭越ながら書き込みいたしました。

[6648] Re[6647][6645]: ネ・コマ、コマ川、コマ山?<  大三元 2005/09/14(Wed) 21:23 [Reply]
> > 猫間川→根・高麗川とみたいところです。

猫 ネコ の コは甲類
高麗 コマ のコは乙類

どう説明するか。

[6647] Re[6645]: ネ・コマ、コマ川、コマ山?<  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/14(Wed) 21:00 [Reply]
≫古くは呉--伎人川堤を流れ下ります

先の図に伎人堤の推定その他を追加しました。
上町台地の東麓の農耕地?が徐々に東へ広がっていった様子が読みとれそうです。
大阪城の東麓付近、玉造あたりは往古の水運の中枢だったようですね。

西除川や東除川などの上流周辺と往古の大和川中流域(藤井寺、八尾、生駒山西麓)は弥生〜古墳時代の多数の遺跡が集中。
西除川の狭山池などの無数の溜池の存在は往古から大農耕地帯だったことを示すものと思います。

住吉区、平野区、生野区あたりは弥生遺跡がほとんどありませんから、人の住めない湿地帯だったと思われます。
しかし、飛鳥奈良の新参の渡来者が上町台地東麓の低地帯に住むようになり、同時に治水も必要となって百済川などの地名が生じたのではないでしょうか。
伎人→渡来系技術者の意だと思います。

この付近、標高4mと5m、1mの差が生活圏に大きな違いを生じさせているとみえます。

猫間川→根・高麗川とみたいところです。
根は祖先あるいは源の意とみまして、奈良飛鳥あたりに西除川(息長川?)の流末だった高麗川があり、平安初期あたりにこれが上町台地西麓の水路に付け替えされたことからの呼称。


[6646] ドラマの神社?  いそたける 2005/09/14(Wed) 20:53 [Reply]
始めまして少しお尋ねしたいのですが、今日10chの3時ごろからやっていた渡瀬恒彦が主人公のサスペンスの最後の所を見ていたら畑の中に神社の神殿が無く狛犬と鳥居だけしかない場所が写っていました畑の後ろが岩肌がかなり見えていたそんなに高い山ではないのですがあるのです。最後に字幕が出てきて手がかりが無いかと見てましたが、ロケ地協力が別府市湯布院などとなっていました。かなり立派な狛犬と石造りの鳥居でしたので昔はさぞかし立派な神社ではなかったのかと推測いたします。こんな情報でどこの神社跡かわかるでしょうか、突然すいません宜しくお願い致します。

[6645] ネ・コマ、コマ川、コマ山?<  いこまかんなび 2005/09/13(Tue) 23:31 [Reply]
上町台地の東ろくを流れていた猫間川(ネ・コマ川)、少し上流はコマ川(駒川)。さらに上流は狭山池から西に分岐した西除川(にしよけがわ-正味はヨケ川)、依羅池に水をためて喜連(キレ=クレ-)、古くは呉--伎人川堤を流れ下ります。
住吉大社の神南備山は、イ・コマ山、イは接頭語で意味なしなのてしょうかね。

[6644] Re[6640]: 荒墓アラハカとだれが訓読したのか  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/13(Tue) 19:45 [Reply]

http://www.eonet.ne.jp/~ringo-do/nekomagawa.htm
≫猫間川源流探検記

さすがに地元の方?の探検記ですね。
「天王寺町から桃が池」、大正年間まで多数の溜池が並んでいたのか。
和気清麻呂の住吉水路の北の出口に猫間川はぴったり(^^)

茶臼山の南の河底池について以下がありました。
http://kankyo-kanshi.chikyukan.city.osaka.jp/cgi-bin/sh_127.cgi?backcgi=sh/sh_2bu_kuiti9.html&part=sectB9_4

これによると徳川家康の冬の陣のときに河底池を掘ったと読めるけど、それでいいのかなあ。
西側斜面に溜池を作る理由が?だったのですが、戦闘用の濠であるなら納得です。

茶臼山は古墳だと思いますが、古墳の土盛りの下側に雨水が流れ込んで浸食され、あるとき南側が土砂崩れで崩壊したんじゃないかと推定します(現代の造成工事でもよくある(^^;)。
家康は崩落部分をせきとめて濠(河底池)とし、峠部分に堀を掘ってここに水を貯めた。
堀越町などの地名はそれ以降なのかも。
そんな流れを推定しておきます。


上町台地の断面図の紹介ありがとうございます。
http://home.intercity.or.jp/users/toshikoh/UEMATIDAITI.HTM

上町台地は太古に盛り上がった丘なんですね。
西側は海によって浸食されてわずかな平地ができ、東側は淀川や大和川の土砂によって広大な沖積地になった。
堺市〜住吉あたりの沖積地は江戸以降の大和川の運んだ土砂によるものか。
(和気清麻呂水路があったなら、平安時代から西除川の土砂堆積も先行する(^^;)

土地勘なしでも多少練れてきたかな、みなさまとインターネットの威力。
再度
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa01.png
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa02.png


[6643] Re[6624]: 八重  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/12(Mon) 23:13 [Reply]

≫> 卑弥呼の最有力候補が意富夜麻登久邇阿禮比賣だとみています。
≫同感です。(^O^)

この直前の一言が非常に大事なのでありまして・・「記紀等に名が残る中からであるなら」であります。

青草になりますが、流れでちょいと。
「崇神は近畿大和の出雲勢力を征服した王朝である」が持論ですが、これは様々とのからみから動かないパターンになっています。
様々な解釈もこの歴史観がベースです。

記紀系譜の意富夜麻登久邇阿禮比賣は孝霊の妃になっていますから倭人伝に書かれる「独身であった」に矛盾します。
姉妹の「蠅伊呂杼」も孝霊の妃になっているので同じです。
以降景行まで登場する「倭なになに姫」には婚姻関係が書かれていませんから、これらは巫女であり独身であったとみています。

倭迹々日百襲姫は大物主命の妻となりますが、これは出雲征服と合体を象徴させる挿話でしょうから無視。
箸墓の主である可能性は高いとみていますが、倭迹々日百襲姫は崇神に登場していますので、持論の歴史観からは卑弥呼ではないとなります。
近畿出雲への侵攻部隊(四道将軍のひとり開化)に随伴した巫女(随伴というより指導者に近い)とみています。

というわけで・・
倭人伝と持論の歴史観の双方に合致する人物は記紀に書かれる人物の中にはいないのです。
これが「記紀等に名が残る中からであるなら」とするところです。

それでは卑弥呼とは・・
そこで興味深いのが大三元さんの八重、ハエ、葉江での関連性です。
事代主命系の八重ハエと類似ではあるが異なる葉江ハエが登場し、その系譜が記紀における大王系譜となった・・孝昭〜開化です。

神武〜安寧の皇后が事代主命系であったのが、懿徳では磯城縣主の葉江となる。
日向系のハエが皇后となりその子が大王を継承したのではないか。

神武の隼人系妃の吾平津姫の子は多藝志美々命(手研耳命)、で、綏靖に暗殺されています。
「神武+出雲系譜」による「神武+隼人系譜」の暗殺です。

懿徳の子に多藝志日子命(古事記)が登場し、同母兄が孝昭天皇とされます。
「神武+出雲系譜」だった大王系譜が「神武+隼人系譜」に移った、隼人系譜が復活した。
これが倭国争乱のひとつの源じゃないか。

意富夜麻登久邇阿禮比賣(蠅伊呂泥)は師木津日子命の孫、磯城縣主の葉江(日向系)でしょう。
倭迹々日百襲姫もその系譜。

それでは卑弥呼は・・
日向系の意富夜麻登久邇阿禮比賣と同時代かつ縁戚関係にもある「神武+出雲系譜」の巫女ではないか。
すなわち多臣オホ族系譜といってもいいです。
(意富夜麻登久邇阿禮比賣の意富オホがちょい気になるところですけど)

出雲ともつながる故に北方系の魏と手を結んだ。
その祖先が手研耳命を暗殺していますから、隼人族とはもともと仲が悪い(狗奴国→大隅とみる)。
青草青草(^^;


[6642] Re[6636]: 荒墓南  神奈備 2005/09/12(Mon) 17:44 [Reply]
> ご参考に
ありがとうございます。

『続日本紀』は『日本書紀』に比べて記事内容は信用できると云います。
そこで、延べ人数23万余人に食料を支給して、事業に従事させた。と書いてあります。
農閑期だけだとしても10年以上も工事を続けて、結局失敗に終わっています。半年だけ工事をしたとすれば、15人程度で10年。

 痕跡は残って当たり前です。しかし河川とならなかったら、水が溜まったり不潔なことになるのか、通行の邪魔になるのか、困った存在となったのでしょう。以降、千年の間に埋められてしまったのかも。

何か以降の平家物語などの歴史物語などに痕跡は残っていないのかな。

[6641] Re[6637][6632] :八尾  琉球松 2005/09/12(Mon) 16:10 [Reply]
いこまかんなびさん、詳細な情報ありがとうございます。

 「八尾」が、古墳時代以前すでに「ヤヲ・ヤオ」でなければ、この神歌もそれほど古いものとは言えなくなりますが、「勾玉を買いに・・」とは尋常ではないわけで、新しいとも言えないわけです?
 これは、もう少し本気で調べてみたいと思いますね。


大三元さんへ

 さすがですね。。。「どろ」には、航海を終えた安堵感も込められた言葉だと感じています。
 沖縄諸島から「やまと(奈良?)・やしろ(京都?)」へ出向いていたとすれば、信じがたい事ですが、ありえないとも言えないですね。
 正確をきすために、もい一度確認したいと思います。

[6640] 荒墓アラハカとだれが訓読したのか・謎の神 アラハバキ  倭亞府 2005/09/12(Mon) 14:22 [Reply]


「久保神社」と「古墳」で検索しましたら 古墳時代の大阪 の猫間川・「猫魔川」が現れました・・・参考まで
猫間川・「猫魔川」の上流には「水門」が存在していたのでは、?
「そして突然地上から姿をかき消したかと思うと、伏流水のように思わぬところから忽然と姿を現す。猫間川は「猫魔川」なのか、変幻自在、神出鬼没、なかなか簡単にはその正体を明かしてはくれない。これは一筋縄ではいけないと気がついたときには、私はすでに猫間川の虜になっていた。」
http://www.eonet.ne.jp/~ringo-do/nekomagawa.htm
http://www.eonet.ne.jp/~ringo-do/tanken_shitenoji.htm

今も流れる猫間川
http://www.eonet.ne.jp/~ringo-do/nekoNow.htm

猫間川は、一説には百済(くだら)川に対して高麗(こま)川と呼ばれていて、訛(なま)って猫間(ねこま)川と呼ばれるようになったと言われています。
http://www.city.osaka.jp/ikuno/about/know.html

古墳時代の大阪 上町台地 
http://home.intercity.or.jp/users/toshikoh/UEMATIDAITI.HTM

謎の神 アラハバキ
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/arahabaki.htm

[6639] Re[6638]: 熊野権現その2  神奈備 2005/09/12(Mon) 13:49 [Reply]
> 英彦山、陸奥中宮山(未詳)、淡路和(未詳)、伯耆大山、神倉山へと遷ったと
遷ったのか、五本の剣が留まったのかよくわかりませんが、そのお話は、
みくまのネット↓にその物語が載っています。
http://www.mikumano.net/setsuwa/honnji4.html


> 少なくても半島からと大陸からの二つの神が合わさっているのかも

おっしゃる通り、神々については外から来られると信じられていて、『三国霊行の物語』(三国=印度、支那、日本)との云われがあって、神々は満州や朝鮮をも遍歴して来るのもあり、熊野の神はそのようにして最後には音無川の大斎原に垂迹されたと云われます。
 従って、日本に来られた神であっても、国内を遍歴して落ち着くところへ落ち着くと考えられたもでしょう。どこを遍歴されるか、それは何らかのゆかりのある場所、例えば熊野の修験者が開いた行場であるとか、熊野比丘尼が大いに活動した所とかでしょう。

[6638] 熊野権現その2  熊野の子 2005/09/12(Mon) 11:26 [Reply]
熊野権現の垂迹について、
神道集の中の熊野権現の事の中にありました。(貴志公造訳、平凡社刊)
でもそこまでしかわかりません。
私の意見はまだ固まっていませんが、熊野権現は昔もそのまた大昔も(もしかしたら現在も)同一の、唯一つの、変わらない存在ではないということぐらいです。少なくても半島からと大陸からの二つの神が合わさっているのかも、と思いました。


[6637] Re[6632] :八尾  いこまかんなび 2005/09/12(Mon) 09:45 [Reply]
琉球松さん、こちらこそよろしくお願いします。

河内平野の中央、旧大和川沿いの八尾市〜東大阪市域や大阪市東南部の低湿地には、沢山の弥生時代の遺跡が分布しています。
八尾市西部--久宝寺遺跡・亀井遺跡・東郷中田遺跡群・矢作遺跡・東弓削遺跡など
東大阪市南部--瓜生堂遺跡・巨摩(廃寺)遺跡・若江北遺跡など
大阪市東南〜南部--加美遺跡・瓜破遺跡など

縄文系統の凸帯文系土器と、九州から広がった弥生初期の遠賀川式土器が混在しする集落が多いようで、やがて中期にかけて中国は漢の木棺に似た、コウヤマキを材とする棺を納めた方形周溝墓などが群集して営まれる大集落遺跡が多いです。
何しろ遺跡はほとんど地下3〜5mも旧大和川の堆積土・整地土などで埋まっているのですよ。
河内平野は、弥生時代には大阪湾とつながって河内潟〜河内湖と呼ばれる水面と干潟(有明海のようなもの)が広がっていて、そこへ旧大和川が流入していたわけです。
外海の干満の影響で岸辺ラインは大きく変化したと思いますが、平素は静かな内潟湖ですから、岸〜川を遡ったところにも、ヤマトの玄関口として大陸方面はもちろん、国内各地からの船が停泊する津がたくさんあったと思っています。
ただし、湖の大きさも川の土砂堆積で次第に小さくなり、港の場所も移っていったと思います。
周辺の遺跡からは、港の存在を裏付ける?特徴的な遺物として、中国王弄代の銭貨の「貨泉」が多く出土していたり、弥生時代の終わり頃〜古墳時代初めごろにかけて、纒向遺跡じゃないですが、各地から運ばれてきた土器のほか、朝鮮半島南部製の陶質土器なども出ています。
久宝寺遺跡では、古墳時代初頭の木造準構造船の一部が出土し、南方地域には渡来氏族の船・津・葛井の三氏族の活動拠点が展開しています。

ところで本論の「八尾」ですが、地名の由来として八尾の西郷に、尾羽根が八ツ尾のウグイスがとまった木を八尾木と呼び、やがて八尾に変わったという説のほか、周辺は物部氏族の拠点で、弓削部や矢作部(やはぎべ)もおり、矢を背負う矢負い--矢尾--八尾の地名に変化した説、さらに道鏡が西の京(由義宮)を造営するため、大和川の洪水を防ぐ堤を造るときに打込んだ杭が数えきれないほどだったことから、八百転じて八尾になったという説まで、いろいろあります。
なお、余談ですが、玉に関連して、東北方の高安山ろくに玉祖神社と玉造り遺跡の高安遺跡がありますが。ピントずれましたか。

[6636] 荒墓南  和気のわからんまろ 2005/09/11(Sun) 23:05 [Reply]
ご参考に

延暦7年(788)3月 

中宮大夫従四位上兼民部大輔摂津大夫和気朝臣清麻呂言、河内摂津両国之境、

掘 川 築 堤 自荒陵南、導河内川、西通於海、然則沃壌益廣、可以墾闢矣、

於是便遣、清麻呂 勾當其事、應須 單功ニ十三萬余人 給粮従事矣

(「続日本紀」)


延暦18年(799)

二月和気朝臣清麻呂薨 云々、清麻呂為摂津大夫、鑿河内川、直通西海、

擬 除水害、所費巨多、功逐不成 (「日本後紀」)

[6635] Re[6627][6625][6617]:上町台地の開削と・・  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/11(Sun) 20:56 [Reply]
> 土地勘のない方に少しでも。
> 和気清麻呂が途中まで掘ったと云う水路の跡があるようです。↓
> http://www.office-may.net/sampo/spots/daidou.html


さて、神奈備さんに「痕跡」を指摘していただきましたが、これらを痕跡とみなせるかどうか。

現地をみたこともないのに不遜ではありますが、ある時代に堀があったのは間違いないと思います。
緩傾斜で南北が少し高くなって峠になっていますから、降雨時には南北からここへ雨水が流れてくるはずです。

いつの時代かはおくとして、この雨水を溜池へ集めるための「浅い堀割」が掘られたと考えます。
(和気清麻呂が掘ったとすれば深さ10m以上の切り通し、次元が違う堀です)

茶臼山古墳の池、これが溜池でしょう。標高13mあたりのようですが、自然地形を利用したダムにみえます。
西側の土手の状況から深さは2mくらいかしらん??
これらは付近の農民だけでできる工事と思います。

ちなみに掘った土を茶臼山に盛り上げたりは絶対にしないと思います。
土砂崩れの危険もあるし、少しでも低地部の埋め戻しなどに使うと思うのです。
(ゆえに茶臼山は古墳とみます)

「河堀口」こぼれぐち・・これは住吉水路の補強になります(^^)
農業用に分流した水路をここから「北へ」こぼれ落としているわけです。


もし和気清麻呂が茶臼山の南に深さ10m以上の開削を行い、後世にだれかがそれを埋め戻したのであれば、埋め戻し部分の土質は周囲と異なりますから、ボーリングして土質調査すれば一発で実証できる問題だとと思います。

住吉への水路があったかどうかも同様です(こちらは5mも掘ればOKと思います)。
ただし、長居公園は第二次大戦中に防空陣地として掘り返されたそうで、ここは乱れていて無理かな。
しかし・・だれが費用だすんじゃい(^^;

これらに関して先の図をちょっと修正
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa01.png
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa02.png
茶臼山付近の空撮
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa03.jpg
空撮だと高低差はみえないですね。


次ぎに茶臼山の南であろうという文献上?の推定について。

書紀は「四天王寺を難波の荒陵に造る」と書いています。
これを荒墓アラハカとだれが訓読したのか・・まずこれに疑問を提示しておきます(^^;
(山陵であるなら他例もあって土盛りを持つ古墳でよいと思いますけれど)

荒陵を古墳(アラハカ)とみた場合、「荒陵に造る」とは古墳の東でも北でもなく古墳の上に造ることだと思います。
「荒陵」とはもっと広範囲を示す地名で、上町台地そのものを指すと解します。
陵はミササギではなくオカ、荒陵アラオカではなかろうか。
山の背筋の意であり、「長峡」でもある場所です、

仁徳紀58年に
「荒陵の松林の南の道に当りてたちまちに二つの歴木(クヌギ)生えたり、道を挟みてふたつは合えり」
とあります(推古とこれ以外に荒陵は登場しません)。
(往古の紀州街道や熊野街道の上町台地での位置はどこなのだろう)

万葉0065
霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘女と見れど飽かぬかも

上町台地の西側斜面には土砂崩れとみえる崩落痕跡が散見されます。
台地の上は荒地で大雨が降ると土砂崩れも起きていたのでしょう。
しかし、西の海岸へ降りれば砂浜で美しい松原だったのではないでしょうか。
その対比の地名が荒陵アラオカじゃないかなあ。

難波の荒れた台地の上に四天王寺を建立した、これが「四天王寺を難波の荒陵に造る」だと思うのです。
すなわち「荒陵の南に掘った水路」とは上町台地の南・・住吉(^^;


荒陵寺をアラハカ寺と称したとするなら、いつからか。
http://kamnavi.jp/mn/kinki/nitiyoubi.htm
≫平安初期の『暦録』
≫  推古元年四天王寺、始めて壊し移し、難波の荒陵の東下に建つ。

上町台地の稜線の東側、正確な表現だと思います。
こういった文を後世の誰かが古墳の東下と誤認してアラハカと読んでアラハカ寺が定着していったのではなかろうか。
偽作ともされる荒陵寺御手印縁起あたりになにかあるかどうか。


[6634] Re[6625][6617]:上町台地の開削と・・  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/11(Sun) 20:48 [Reply]

地図はカシミール3Dを利用しているだけですが大いに役立っております、推薦いたします。
なれればいろいろをちょいちょいと書き込んでいろいろ空想ができて面白いです。
東京では10mメッシュの地形図が登場していて、公園などの大きな池や築山も標高として確認できますが、大阪の地形図はまだ50mメッシュ(国土地理院製)だけみたい。

≫海は高潮で水面が上昇し、山間部でも河道から溢れ出して洪水を起こしています。河内平野北部は低湿地であり

それなのです。
川は平地に下ろしてしまったら海との勾配に制約されて、高潮を防ぐには堤防を高くする他はなくなります。
しかし、高台を掘削して河川を流せば高潮は考える必要がなく、大きなメリットになります。

1m掘り下げれば1mの堤防を作るのに等しいわけで、標高と勾配でルートを選べば堤防の必要もなくなります。
江戸の大和川付け替えがこれだと思います。
標高10mの位置で切り回して最後に急勾配で海に落としています。
和気清麻呂もこの考え方に至っているとみておきます。

上町台地に標高4m以下になっている大和川を横断させるには、上町台地を標高4m以下まで掘り下げねばならず、わざわざ高潮を呼び込むのに等しくなります。
河川そのものによる洪水を防ぐのと湿地帯の排水を考える場合は別になるわけで、これだけでも和気清麻呂は上町台地横断は採用しないと思うのです。

なにわ大放水路というのが完成しているようですが、これは海面以下に貯留槽を作ってポンプで汲み上げて排水しているようですね。


[6633] Re[6632]: 八尾  大三元 2005/09/11(Sun) 18:30 [Reply]
琉球松さん、横から失礼します。

>  というのも、神女達が語り継ぐ沖縄島の神歌に「ヤヲの港に勾玉を買いに行く・・」というのがありまして、興味あるわけなんです。

これの出典を教えて頂けませんか。
『沖縄古語大辞典』で「やを」「やを・どまり」「やを・みなと」を見てみたのですが、勾玉を買いに行く、という例文が見あたらなかったので。

しかし「がはら」(勾玉のこと)の項では例として:
「やまとたび のぼて、やしろたび のぼて、かはら かいに のぼて・・・」
(拙訳: 大和旅登って、山城旅登って 勾玉 買いに 登って)
があり、琉球松さんのように、はて、大昔の記憶の反映でもあるのだろうか、と関心を持っておりました。

話が(発展的に?)逸れますが、ヤマタイ は 山代 で 山城 か、と思っていたところ、上記の探索途中で「やまと」と「や(ま)しろ」が対語、類語のようになって、いずれも日本国(倭国)を指しているらしいことが判り、ヤマタイ は 山代 で 山城、も良い線かも知れぬ、と思い始めました。
http://www.dai3gen.net/nokagami.htm
の最後の方に記載しました。

なお「やを・みなと」などに関しては「やをら(穏やかなこと)」から「穏やかな港」ではどうでしょう。「どろ(穏やかな)、どろ海、どろ港」と類語かも。また、「大和渡(やまと・ど)」の語形の変形に「やまと・ろ」もあることから「ど」「ろ」と海路・港湾との関連が面白そうです。

[6632] 八尾  琉球松 2005/09/11(Sun) 17:05 [Reply]
いこまかんなびさんへ

 「八尾」に反応してしまいました。。(笑)。。
 この辺り、古代においては重要な港だったと考えていいでのしょうか?
 というのも、神女達が語り継ぐ沖縄島の神歌に「ヤヲの港に勾玉を買いに行く・・」というのがありまして、興味あるわけなんです。
 この勾玉、本土においては、飛鳥時代頃にはすでに使われなくなっているようですから、弥生後期〜古墳時代の伝承かもしれません?
 あるいは、八尾周辺の物部氏が隠し持っていたのかも??

[6631] Re[6629]: 熊野権現  神奈備 2005/09/11(Sun) 13:22 [Reply]
> 英彦山、陸奥中宮山(未詳)、淡路和(未詳)、伯耆大山、神倉山へと遷ったとあるのを発見しました。何か意見をお聞かせください。
>
出典を教えて下さい。
貴殿の意見はどのようなものでしょうか。

[6630] 八つの酒船(樽)  倭亞府 2005/09/11(Sun) 11:46 [Reply]
今日は、「八つの酒船(樽)というのは、たくさんの池のことです。八は四方八方、至る所に、という意味の『八』です。つまり、あちこちのくぼ地ごとに、大きな池を掘っておいて、そこに水を流し込むわけです。通常、桟敷というのは一段高く作られますが、この場合は逆に、低い場所を指します。そこをさらに掘り下げるわけです。そして、中に水が流れ込まないように、囲い(堤防)と水門を造って保護しておきます。」(古代人の驚くべき知恵より)
http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kodaijinnochie.htm


[6629] 熊野権現  熊野の子 2005/09/11(Sun) 11:27 [Reply]
英彦山、陸奥中宮山(未詳)、淡路和(未詳)、伯耆大山、神倉山へと遷ったとあるのを発見しました。何か意見をお聞かせください。

[6628] 熊野権現  熊野の子 2005/09/11(Sun) 11:21 [Reply]
以前聞いて謎は解決したかのように見えました。
ところが新たに疑問が現れてきました。
以前の答えでは、英彦山→石鎚山→諭鶴羽山→切目→神倉山でしたが、

[6627] Re[6625][6617]:上町台地の開削と・・  神奈備 2005/09/11(Sun) 11:11 [Reply]
土地勘のない方に少しでも。
和気清麻呂が途中まで掘ったと云う水路の跡があるようです。↓
http://www.office-may.net/sampo/spots/daidou.html
資金不足か難工事だったのか清麻呂が死んだのかで中断、途中までだそうです。

いこまかんなびさんは、この近鉄河掘口(こぼれぐち)の駅から南東へ掘り進み、ついには河内湖に「き当たりたいとのイメージではないかと思っています。

[6626] Re[6624]: 八重  大三元 2005/09/11(Sun) 00:10 [Reply]
> これは大三元さんの著書で世に問うた御説ですね。おっしゃる通りだと思います。

リファとご賛同ありがとうございます。

> >  淡路島の南にひっつくようにある沼島でも「ハエ」の地名が多く残っています。南方からの漁猟民が住み着いたのかも知れません。

私が望ましく思う(勝手に、、、ですよ)のは、弥生語の原型に近いものが(琉球とともに)本州でも離島(?)に残っている、という可能性ですね。

> > > > 卑弥呼の最有力候補が意富夜麻登久邇阿禮比賣だとみています。
> 同感です。(^O^)

これは私の発言ではないので、念のため。
私は、この人の娘であるヤマトトモモソ姫が、ミホツ姫でもあり、ヒミホではないか、と思っています。

[6625] Re[6617]:上町台地の開削と・・  いこまかんなび [Url] 2005/09/10(Sat) 21:35 [Reply]
いろいろご参考意見をいただきありがとうごさいました。しかしマップづくりは驚かされますね。ところで

>地形にそれらしき痕跡もみえず、私はこの説には賛同しません。

明治20年の陸軍測量部の地図はご存じかと思います。両個所とも台地部分にくぼ地
〜浅い谷が読み取れそうですし、説を堅持したいところです。

>上町台地の東側の平野(湿地)の「排水」であれば、生駒西麓の水も集めて、できるだけ北側で西へ放流するのが得策と思われます。
例えば仁徳の水路を使います、その南側すべてを安全地帯にできるわけです。
現代の寝屋川や第2寝屋川の考え方がそれだと思います。

河内・大和の水を集める旧大和川の水を排水するためには、確かにできるだけ河内平野北部(下流)で西へ排水放流することがいいように見えますが、旧大和川は、すぐに淀川と合流していたわけですので、先日の台風14号の時の宮崎県の洪水のように、海は高潮で水面が上昇し、山間部でも河道から溢れ出して洪水を起こしています。河内平野北部は低湿地であり、豪雨や台風時は、海への排水機能は停止するどころか逆流現象も重なり、河内北部は両川の水で満水状態となるばかりか、洪水は両河川とも上流へ広がります。
このため、激しい旧大和川の堤防決壊と堤防の修築(長瀬堤などの決壊修築)の繰り返しを何度も目の当たりにしてきた者としては、やはり河内平野の上手で分岐していた渋川(龍華川--後に平野川、物部氏の拠点、八尾市の植松付近で分岐、太子堂・跡部〜平野から北の玉造江へ)を平野付近から西北方向に人工的な河道を開削して、直に大阪湾に排水しようとしたものだったと確信しています。わたしとしては、今後の考古学的な成果に期待しているところです。
なお、大和川の付け替えられた今でも大雨・排水不良・洪水対策として、寝屋川筋には広大な深野遊水池、恩智川・第ニ寝屋川合流付近におなじく池島福万寺遊水池が築造されている状況にあります。明治18年の淀川洪水の際は、河内平野の中央は、2mもの洪水となりました。

[6624] 八重  神奈備 2005/09/10(Sat) 20:27 [Reply]

> 配偶者(またはその祖)の名前の一部を貰う例が出雲系譜にいくつか見られます。
これは大三元さんの著書で世に問うた御説ですね。おっしゃる通りだと思います。

 淡路島の南にひっつくようにある沼島でも「ハエ」の地名が多く残っています。南方からの漁猟民が住み着いたのかも知れません。

 八重山諸島の語源は不明ですが、島々が重なって見えるのでしょうね。事代主神も国譲りから数代後の人皇二代〜にその子や孫を妃としている、さらには神功皇后に託宣、壬申の乱でも託宣等、多段階の時代に活躍をしており、八重の時代に現れる巨神のようです。


> 卑弥呼の最有力候補が意富夜麻登久邇阿禮比賣だとみています。
同感です。(^O^)
意富夜麻登玖邇阿礼比売このネーミングは卑弥呼を想像させる。
http://kamnavi.jp/jm/sakai.htm

[6623] Re[6622][6621][6616][6615]: ヨド  大三元 2005/09/10(Sat) 20:26 [Reply]
> ハエ=南風ですね、あるいはバエ。

ハエと日方:
http://www.dai3gen.net/kamo04.htm
ところで、ヒカタは日本語でも、アイヌ語 (pikata) でも「南、南風、南西風」を意味するという(萱野辞書)。南風とは「ハエ」である。「天日方奇日方」の父は「都味歯八重事代主神」である。「八重」は従来「ヤエ」と読み慣わして来ているが、欠史8代の后妃の出自である「磯城縣主葉江」とか、神武天皇の大和戦争で功績があった磯城縣主「黒速」という名前もあり、「八重」もこれらの「ハエ」につながるとすると「天日方・・」の「日方=pikata=南風=ハエ」が現実味を帯びてくる

> 蠅伊呂泥の別名は「意富夜麻登久邇阿禮比賣」です。

蠅伊呂泥・蠅伊呂ど姉妹の先祖を辿ると葉江さんに行き当たる
蠅  hahe と
葉江 haye が同語として認知されているのではないか。
黒速 の haya も同語か。
-------------------------------------------------------------
八をハと読む例:万葉集より
http://www.dai3gen.net/kamo05.htm
02/0193/1 八多篭良我   はたこらが
04/0762/3 八多也八多   はたやはた
06/0999/5 四八津之白水郎 しはつのあま
10/2064/2 織義之八多乎  ・・・はたを
13/3306/5 吾八思益    われは・・・
17/3896/4 宇伎て之乎礼八 ・・・・をれば
-----------------------------------------------------------
「ハエ」地名:87件:
http://www.dai3gen.net//hae.htm

[6622] Re[6621][6616][6615]: ヨド  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/10(Sat) 19:06 [Reply]

≫「八重」とあるのはほとんどが「やえ」と読まれるのでしょうが、上の事情から一部なりとも「はえ」に起因しているものがなかろうか、と思っている次第です

もし、音韻から八重ヤエが「はえ」につながるのでしたら特級クラスで興味深いです(^^;
ハエ=南風ですね、あるいはバエ。
南方あるいは港湾からひろまったとみえる2拍子のハイヤ節も「ハエ」とつながるんじゃないかと思っています。

日向市〜南海部郡の佐伯市の沿岸の小島に「なになにバエ」の地名が多数あります。
(持論:大国主命の子とされる事代主命は佐伯湾あたりが根拠地とみております)

安寧天皇の子に師木津日子命、その子に和知都美命、その子に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼があります(系図綱要/太田亮)。
蠅伊呂泥の別名は「意富夜麻登久邇阿禮比賣」です。
記紀等に名が残る中からであるなら、卑弥呼の最有力候補が意富夜麻登久邇阿禮比賣だとみています。


[6621] Re[6616][6615]: ヨド  大三元 2005/09/10(Sat) 15:02 [Reply]
> で、本題。
> 神名の八重と事代主とは一意的につながっているようです。

くどいかも知れませんが。。。
初期后妃が、事代主の子孫である、という伝承と、葉江の娘である、という伝承があります。事代主と葉江が夫婦なら、一見異なる伝承が、同じことの片側面だけを伝えている、ということになります。事代主と葉江が夫婦なら、事代主の名前に「はえ」が付加されて八重事代主となったのかも知れません。配偶者(またはその祖)の名前の一部を貰う例が出雲系譜にいくつか見られます。

現在の地名で「八重」とあるのはほとんどが「やえ」と読まれるのでしょうが、上の事情から一部なりとも「はえ」に起因しているものがなかろうか、と思っている次第です。

[6620] Re[6619][6616][6615]: ヨド  神奈備 2005/09/08(Thu) 22:15 [Reply]
> 「豊姫」に「ゆたひめ」
言語は奥が深いです...

以下、青草に書くことかも。
 鴨氏は葛城氏の祖と思われます。まず初めに鴨氏がいて、後に武内宿禰系とされる渡来系が葛城の地にやってきて鴨氏と合体して葛城氏ができた、これは神奈備の推測。
『日本書紀は」なにを隠してきたか』遠山美都男著洋泉社によれば、蘇我氏が葛城の地を本貫としたのは、稲目が葛城氏の女を娶って馬子を産んでいること。藤原氏は不比等が蘇我娼子を娶り、武智麻呂をもうけている。
これで神武以来事代主が要所要所で王権をささえたイメージになります。

[6619] Re[6616][6615]: ヨド  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/08(Thu) 21:35 [Reply]

≫皇室に妃を出す氏族の遠租とか

であるならば、むろん神武の義理の親父さんだから(→多臣族へ)。
神武の生誕地は鹿児島(南限の奴国でもある)とみております。

もうひとりの義理の親父さんは隼人族でしょう。
しかし、こちらは綏靖時代に謀反人にされてしまった。



[6618] Re[6616][6615]: ヨド  大三元 2005/09/08(Thu) 21:31 [Reply]
神奈備さん、早速のレスありがとうございます。

> > 大三元さん、面白い考察をありがとうございます。
> > 「豊姫」とも書かれる。すなわち、この姫の名が「ヨタ、ヨト、ヨド、ユタ」と揺れている
> これはトヨと揺れてもらわなければ豊にはなりませんね。

岩波古典文学大系の『風土記』に逸文として出ている(p517)のでは「豊姫」に「ゆたひめ」と振り仮名を施してあり、それに拠ったもの(のよう・・・)です。「豊」は「ゆたか」と訓じて良いでしょうから、それでも良さそう。勿論「トヨ姫」もあり得ることだと思います。

このご返事を書くのに辞書をあたっていたら、「ゆたに」という副詞が「ゆったりと、のんびりと、落ちついて。ユタカのユタと同根。」とありました。沖縄古語で「どろ」に「おだやか」という意味を宛てているので、ユタ=トヨ=トロ という語形変化があることかもしれないですね。

一般化してみるとy←→rの揺れ。カヤ←→カラ、サクヤ←→サクラ(?)、アユム←→アルク(?)、射ユ←→射ル、ヤカ←→ラカ(ヨカも含め三者同様の接尾語)あたりが例示できるか。

>「スミノエ」のスミを転倒して「ミズ」とやれば、

ツミノエならばね。水はミヅでしょうから。


[6617] Re[6614]: 上町台地の開削と長峡?  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/08(Thu) 21:25 [Reply]
いこまかんなびさん、はじめまして。

通天閣といわれても地図上でながめて、えーと、あ、ここか(^^;
まったく土地勘のないところですけれどかえって先入観なし、だが恐れを知らぬでもあります。
住吉の話題がでてからの即席チェックなので地名等間違っていたらご容赦ではあります。

上町台地に面白そうな池がありますね。
JR阪和線ぞいの桃ケ池(百ケ池)と長池、それと長居公園です。

長居公園の由来
http://www.oct.zaq.ne.jp/hori-jinja/nagai/nagai-no-sato.htm
によれば鎌倉時代に長居の池があったと思われます。
追分けという地名もあったようで、地形的に水路の分岐点としてもぴたりにみえます。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa02.png

桃ケ池(百ケ池)と長池も古そうですが、狭い斜面に並んで自然の池ができるとは考えにくいです。
百ケ池はその名からたくさんの池があったことがうかがえ、長池は読んで字のごとくで、これらは往古の灌漑用水路に関連する人工の池だと思います。
おそらくは1704の大和川付け替え後も大和川から取水していたのではなかろうか。

江戸以前にこれらの池へ通水するならば、西除川の他にはみえません。
(ある時代では東除川も含むかも知れません)
「除」の呼称は「水害と干ばつを除く」厄除けの意じゃないかなあ。
長居公園の由来からは鎌倉以前に水路が存在した可能性がみえます。

各種の土木工事を行っている和気清麻呂であれば「元から絶ってなおかつ灌漑に利用する」、江戸時代の大和川付け替えと同じ考え方に至るとみておきます。
だが当時の技術ではいささかしんどかった。
むろん住吉側から掘ってゆくわけですが、東除川の付け替えあたりで時間切れになったんじゃないかなあ。

なお、住吉の北の標高11m地点に万代池という聖徳太子時代の伝承をもつ池がありますが、これは平らで広い台地面にできた「水たまり型」の池じゃないかと思います。


天王寺付近の推定図
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa01.png

ここを治水のために東から西へ水路を掘るのはいささか中途半端とみます。
地形にそれらしき痕跡もみえず、私はこの説には賛同しません。

ここより北では大和川の水は防げますが、それでは仁徳時代の考え方と大差ない。
すでに低地に下りている大和川の洪水を防ぐには堤防も築かねばなりませんし。
「自説、和気清麻呂水路」なら深く掘るだけで堤防は不要、勾配も自由で灌漑用にフルに使えます。

上町台地の東側の平野(湿地)の「排水」であれば、生駒西麓の水も集めて、できるだけ北側で西へ放流するのが得策と思われます。
例えば仁徳の水路を使います、その南側すべてを安全地帯にできるわけです。
現代の寝屋川や第2寝屋川の考え方がそれだと思います。


[6616] Re[6615]: ヨド  神奈備 2005/09/08(Thu) 20:15 [Reply]
八重の分布

大三元さん、面白い考察をありがとうございます。
> 「豊姫」とも書かれる。すなわち、この姫の名が「ヨタ、ヨト、ヨド、ユタ」と揺れている
これはトヨと揺れてもらわなければ豊にはなりませんね。

転倒のお話としては『シリウス星と謎の古代空間』伊東宏之著文芸社、に墨の江の大神の「スミノエ」のスミを転倒して「ミズ」とやれば、水の江の浦島子になり、この神々はつながっている。と書かれていました。隅に置けないお話かも。

で、本題。
神名の八重と事代主とは一意的につながっているようです。
宮中に祀られている神々の御巫等祭神八座に神産日神や高御産日神と並んで事代主神がいます。国譲りの大役を果たしたのか、壬申の乱で天武側に託宣をして勝利に貢献したのか、何故だろうと思っていましたが、宮崎、鹿児島に多いと云う事は皇祖にかかわる何かがあったのかも。鴨からつながる何か、鴨−葛城−蘇我−藤原、皇室に妃を出す氏族の遠租とか、いや、一体何だろう??

[6615] ヨド  大三元 2005/09/08(Thu) 09:26 [Reply]
「ヨド」の周辺を探ってみたことを上げてあります
http://www.dai3gen.net/yodo.htm
http://www.dai3gen.net/yodo2.htm
大淀川、も台風ニュースで頻出しましたのでチェック入れました。
「ヨド」「アイ、アヰ」と「ワニ」伝承
「ヨド」という語の周辺(含「ドノ」と「トロ」)などを眺めています

[6614] 上町台地の開削と長峡?  いこまかんなび [Url] 2005/09/07(Wed) 23:56 [Reply]
かたばみさま、こんばんわ。はじめまして。わたしも老眼はいっしよです。
河内の古代の治水や築堤などは、参考にしていただけますでしょうか。
http://www.geocities.jp/iko_kan2/sekka.html
ただし得意分野でないので、未消化のままですが。

ところで、和気清麻呂の上町台地の開削についてですが、旧大和川の支流の平野川(古代の渋川)の水を河内から排水しょうとしたもので、平野の西の杭全(くまた-何かいみありげな名?)〜林寺〜JR寺田町駅の下〜河掘町〜河越町〜茶臼山の南(大阪市立美術館との間)〜通天閣の下の方の上町台地越えルートは、確かに数メートルの比高がありますが、台地に東西の狭い谷があったのをうまく利用しようとしたのでは、と思っています。

一方、住吉川(細井川)は、住吉大社のすぐ南に台地を横切る谷(峡)があり、南方の狭山池〜西除川〜依羅神社(池)〜苅田〜止々呂伎比売神社の北側〜千躰町〜住吉大社南側へと細い谷が存在していたようです。何か謎が隠されているようです。

共に、上町台地に横切る東西浅谷を加工して、人工の川あるいは聖なる溝うなでを築こうとした、あるいは存在していたのではないでしょうか。
後世に谷が埋められる、あるいは自然に埋まって平坦になってしまいますが、昔の痕跡は地図上に明らかに遺存します。

例えば、わたしの担当指導した生駒山の西ろくにあり古墳時代5世紀の長大な石組導水遺構(導水と浄水遺構)の発掘された石切神社の近くの西ノ辻遺跡では、東西に続く幅40〜50m、深さ5m程の谷も見事に自然の堆積と人工整地により旧地形は失われていました。発掘されてあっとおどろくことばかりです。

あっ、もう、日が変わりそう。そろそろ寝る事にします。

[6613] Re[6611]: 大和川の治水  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/07(Wed) 19:55 [Reply]
上町台地、了解。(老眼が進んでおります(^^;)

仁徳紀11年十月。
宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入れき。
因りてその水を名づけて堀江と曰ふ。また北の河の「コミ」を防がむとして、茨田の堤を築く

南の水とはすなわち往古の大和川、北の河というのは淀川かな。
仁徳の宮殿は高津宮、大阪城付近とされますが、大和川の治水記録としてぴたりだと思います。

ついで、788年に和気清麻呂が上町台地の開削を試みた(日本後紀、原文未確認)。
http://www.yamato.kkr.mlit.go.jp/YKNET/history/human_01.html
しかし未完成に終わった。
位置は不詳で天王寺公園の北か南とされるようです・・が・・(^^;

地形を見ると上町台地を12m以上開削しなければなりません。
この開削はできると思いますが、この高低差だと痕跡が残ると思います。
後世の人が切り通しを周囲の高さにそろえて埋め戻したりするとは考えにくい。
その痕跡がみえない。

そこで、空想、参考図(^^;
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/yamatogawa_chisui.png
ひょっとしてひょっとして住吉川は和気清麻呂の掘削の痕跡を利用した水路なのでは・・
開削の深さは数mですみますから不要な開削は埋立られて消えるはず。
当時としては長距離すぎて未完に終わったのではないかなあ。

江戸時代となって中甚兵衛が開削成功(1704)。
http://www.yamato300.jp/tukekae/tukekae2.html

関連してまた若干修正
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kobe-nishinomiya.jpg


[6612] Re[6610][6606][6603][6601]: もとの住吉神社はどこ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/07(Wed) 19:51 [Reply]

≫『古事記』では、建波邇安王の反乱のところで
鵜河がありましたか、ありがとうございます。

古事記神武が兄師木弟師木を討って腹が減っているときの歌謡
「島つ鳥 鵜飼が従 今助けに来ね」
場所がどこかはおくとして、神武時代には鵜飼いがいたとみえます。
(鵜飼いは長江が源流とされる)

淀川のヨドは
≫佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したのに由来するといわれています。
http://www.genbu.net/data/hizen/kawakami_title.htm

与度日女神ですか。
與止日女命、豊玉姫命、世田姫、神功皇后の妹・・いろいろ変化があるようですね。
共通項は水かな、しかし農耕ではなく漁労の水とみえる。

「此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る」
海と川を行き来する魚、ウナギかなあ。ごちそうであると同時に食べない慣習も散見。
ウナギは黒潮に乗ってくるんですね(海神族か)。
http://www.fra.affrc.go.jp/kseika/150828seika/seika1.pdf

神功皇后の妹ってのは記紀以降での尾ひれだと思いますが、付会される理由が興味深いところ。

宮崎の大淀川の地名が気になるところ、こっちは「大」だし。
ヨト、ヨタ・・沖縄もからむかもしれないとするとやはり海神族か。

日本地名索引で調べると、鹿児島に大淀川(宮崎とは別)、屋久島に淀川、福岡糸島に淀川、広島と岡山に淀川。
東日本では東北に散見。

奥深いところにつながっていそうですが、とりあえず付箋をつけておいておきます。


[6611] 摂津の住吉  神奈備 2005/09/06(Tue) 08:59 [Reply]
いこまかんなびさん おはようございます。
住吉大社の西は今の住吉公園で、その昔は砂浜だった雰囲気です。
北側に式内社の生根神社が鎮座、この神社の西側は崖になっています。
港があるのは住吉大社の南側の住吉川以外のは考えにくい所です。現在の川ではどうしょうもない感じですが・・・。
ここから東へ磯歯津路を辿って、四極山や笠縫島、呉坂を経由して大和へ向かった渡来人がいたのでしょうね。

かたばみさん おはようございます。
長峡に比定の上野台地は、こう呼ぶよりも上町台地の方が慣れています。
淀川の古名ですが、『古事記』では、建波邇安王の反乱のところで、「またその逃ぐる軍(イクサ)を遮(サイギ)りて斬(キ)れば、鵜(ウ)の如く河に浮きき。かれ、その河を号(ナヅ)けて鵜河(ウカハ)と謂(イ)ふ。」とあり、鵜河と言うようです。
 高槻市の淀川縁を鵜殿と言い、葦の産地で、年に一回の葦焼きの風物詩の一つです。

[6610] Re[6606][6603][6601]: もとの住吉神社はどこ  神奈備 2005/09/05(Mon) 22:49 [Reply]

> 淀川は宇治川、木津川、桂川の合流のようですが、淀川の呼称はいつからなのだろう。
> (秀吉の淀君は淀川からだろうな)
> 書記編纂時代ではなんと呼称していたのだろうか? ひょっとしてウジの川じゃないのか?

淀競馬場のもよりの駅の傍に式内社の與杼神社[ヨド]が鎮座、「三代実録」に貞観元年(859)従五位下の神位を賜っ たことがみえますので、これ以前の鎮座。
佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したのに由来するといわれています。
http://www.genbu.net/data/hizen/kawakami_title.htm



>

[6608] Re[6604][6601]住吉神社はどこ    かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/05(Mon) 22:44 [Reply]
≫本住吉神社から(2ヶ所銅鐸の位置?城跡?)の角度が30度の様です、偶然でしょうか?

倭亞府さん、はじめまして。
古代における「角度」の問題はほとんど考えたことがありません。

厳密な角度を要したのは暦に関連する冬至と夏至の太陽の位置であり、海洋民では星の位置でより細かい方位を知る程度であったろうと考えているからです。

古代の祭祀でなんらかの造作を作るとしても、空や海や山、あるいは祖先のやってきた方角を意識する程度のおおざっぱなものとみております。
(暦と関連する祭祀の場合を除きます)

沿岸航海では陸地の地形の特徴を知っていればOK。
海から見た地形への意識が記紀などの表現に現れている可能性がありそうです。

現代の我々の生活でも角度を必要とすることはまずないと思います。
古代に正確な角度を要することがあったかどうかですね。
必要がなければなにもしないと思うのです。


釜の蓋のないマーク・・土器のつもり(^^;
「注目する遺物」の出土マークで、先の図では「戈」の出土地です。


[6607] 『住吉大社神代記』の鎮座地名  いこまかんなび 2005/09/05(Mon) 22:43 [Reply]
訓解『住吉大社神代記』によれば
住吉大社は「玉野の国、淳名椋の長岡の玉出の峡(お)の墨江の御峡(みお)に座す大神。(今謂うふ、住吉郡神戸郷墨江にいます住吉の大神なり)

玉野の国は、住吉郡の古名らしい、神戸郷の名は倭名抄にはないよう。
なんか、じゅげむ、じゅげむ・・・のような長たらしい地名ですね。
住吉大社のすぐ近くには確か長峡町や玉出町がありましたね。
御峡とは、突き出した山地に深く切れ込んだ峡谷-谷ではないように思います。
当時、住吉大社の西には沿岸洲〜潟が広がり、そこへ流れ込む南側の川(住吉川)は、台地を深く侵食?して流れ下り、さらに潮の干満も相当あったことから外海から潟〜墨江の港にかけて長い澪が形成された?か、あるいは人工的に開削・維持されていたのではないかと思ってます。あくまでもひらめきですが。
さらに想像を加えると、この川は、はるか葛城〜和泉山地の聖水を導き依羅池〜住吉川〜住吉神社へと導いていたとにらんでいます。
これまた想像なんですが。スムません。

[6606] Re[6603][6601]: もとの住吉神社はどこ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/05(Mon) 22:30 [Reply]
≫【【追記】ちなみに漁民は、えべっさん(西宮)ね

えべっさんはプロレスに登場しても、すみよっさんはまずでてこないだろうなあ。
やられちゃまずいし(^^;

隅田川周辺の恵比寿は事代主命で、大己貴命ないし大国主命とペアになっており、ここの恵比寿は出雲系開拓民のものであったことをうかがわせています。

江戸の隅田川の沖合に佃島があって、徳川家康はここに大阪の佃の漁民を住まわせて特権を与えています。
表向きは漁民ですが、佃島は海上の要衝でもあって水軍の役目も持っていたようで、祀るのは住吉です。
民と官、あるいは民と軍、恵比寿と住吉にはそういう違いがあると感じます。


≫住吉(スミノエ)の地名は、難波の住吉浜そのものであったと思います

江戸の隅田川には墨田、角田、住田などの別称があってなんらかの「スミのタ」で、スミは住之江などのスミと共通ではないかという気がしています。

端の意の隅スミじゃないか・・江の隅、田の隅、人が住むようになってからは住スミも使った。
住吉は・・葦ヨシの隅(^^; 好字をあてて吉に住むとした。
住之江と住吉、スミは共通でも別の地名だと直感します。


淀川は宇治川、木津川、桂川の合流のようですが、淀川の呼称はいつからなのだろう。
(秀吉の淀君は淀川からだろうな)
書記編纂時代ではなんと呼称していたのだろうか? ひょっとしてウジの川じゃないのか?


忍熊王もでてきたので先の図をちょこまか修正。




仁徳は忍熊王系譜(日本武尊系譜)であって応神の子ではない・・青草略


[6605] 八つ岩  弁財天 2005/09/05(Mon) 22:10 [Reply]
本日長年八つ岩の祭祀をされていた地元の方をお訪ねしました。
お父さんが石上神宮に縁のある方だそうで、いろいろお話しを伺いました。
もう結構なお年ですが、お元気そうで年齢より大層若く見えました。
しかし、足を悪くしておられ参拝がままならないようです。
今後ご一緒させていただくことになりました。

[6604] Re[6601]住吉神社はどこ    倭亞府 2005/09/04(Sun) 19:40 [Reply]

 かたばみさん尊敬申しあげております。
本住吉神社から(2ヶ所銅鐸の位置?城跡?)の角度が30度の様です、偶然でしょうか?
ふたの無い釜のような記号の位置などとの角度なども気になりました。
本住吉神社から銅鐸の先には亀の岡?・・愛宕山でしょうか?
もう一つの先には紫香楽宮跡でしょうか?
もし愛宕山と紫香楽宮跡でしたら、60度の角度では?
気にになります。
いかがでしょうか?

[6603] Re[6601]: もとの住吉神社はどこ  恋川亭 2005/09/04(Sun) 16:33 [Reply]
【追記】ちなみに漁民は、えべっさん(西宮)ね。
西宮神社は街の中なのに素晴らしい神社です。ぜひご参拝をお勧めします。
http://kamnavi.jp/en/settu/nisinomiya.htm
http://www.genbu.net/data/settu/nisinomiya_title.htm

[6602] Re[6600]: もとの住吉神社はどこ  恋川亭 2005/09/04(Sun) 16:16 [Reply]
本居宣長のジジイに伴信友のオヤジですか、頑固者が揃って(笑)。
> 南方へ長く引延たる尾崎にて、まことに長峡と云つべき地なり
> 北の山より海際につきでたる峡さき名なる
・・・ドハハハ(困惑)
そもそも『長峡』とは「長い渓谷」が本意じゃないかなぁ。それは置いといて。

 本住吉神社の近辺で、あえて海岸へ伸びるような峰を探すとしたら、保久良神社(金鳥山)のある岡本か、桜ヶ丘(銅鐸出土)のある高羽になります。住吉の山手方面(住吉台・渦森台)は、それらに挟まれたやや低くなだらかな台地です。まさか、その当時から住吉川が、今のような天井川だったとは思われないし〜。灘区に「長峰」があるけど距離が離れています。
 東西に走る摩耶−六甲山系の峰が大きいので、南北の支峰は相対的に短いのです。「海岸へ伸びるような」地形は難しいですね。(重ねて)あえて比定すると「岡本〜本山」となります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日本書紀の神功皇后紀より引用抜粋。〔岩波文庫『日本書紀(二)』〕

(神功皇后摂政前紀:仲哀9年)
『是に軍に従ひし神表筒男・中筒男・底筒男、三の神、皇后に誨へて曰はく、「我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭はしめよ」とのたまふ。時に穴門直の祖践立・津守連の祖田裳見宿禰、皇后に啓して曰さく、「神の居しまさ欲しくしたまふ地をば、必ず定め奉るべし」とまうす。則ち践立を以て、荒魂を祭ひたてまつる神主とす。仍りて祠を穴門の山田邑に立つ。』
『補注九−17 長門国豊浦郡住吉坐荒御魂神社(今、下関市一の宮町、住吉神社)』

(神功皇后摂政元年)
『亦表筒男・中筒男・底筒男、三の神、誨へまつりて曰はく、「吾が和魂をば大津の淳中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて往来ふ船を看さむ」とのたまふ。是に、神の教の随に鎮め坐ゑまつる。則ち平に海を度ること得たまふ。』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
○もとは日向国の橘の小戸の水底に居られた住吉三神。(宗社?)

・玄松子さんのサイトから(博多の)「住吉神社」
http://www.genbu.net/data/tikuzen/sumiyosi_title.htm

○住吉三神の荒魂は、穴門の山田邑に祀る。(これが本家じゃないの?)

・玄松子さんのサイトから「住吉神社」
http://www.genbu.net/data/nagato/sumiyosi_title.htm
・「長門一宮 住吉神社」公式サイト
http://www.tip.ne.jp/sumiyosi/

○住吉三神の和魂は、大津の淳中倉の長峡に祀る。(難波か兎原か)

・玄松子さんのサイトから「住吉大社」
http://www.genbu.net/data/settu/sumiyosi2_title.htm
・神奈備にようこそサイトから「住吉大社」
http://kamnavi.jp/en/settu/sumiyosi.htm
・「住吉大社」公式サイト
http://www.sumiyoshitaisha.net/

・神奈備にようこそサイトから「本住吉神社」
http://kamnavi.jp/en/settu/motosumi.htm
・「本住吉神社」公式サイト
http://www.kcc.zaq.ne.jp/motosumiyosi/home/
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『いきかふ船をみそなはさむ』ような場所といえば、摂津岡本の金鳥山中麓の保久良神社としか思えない(笑)。ここが「淳中倉の長峡」になるだろうか???
 書紀には「淳中倉の長峡」が住吉とは書いていない(「大津」とは、が気になりますが)。住吉(スミノエ)の地名は、難波の住吉浜そのものであったと思います。オシクマ王が待ち構えていた「住吉」を考えると、難波の住吉としか思えません。住吉大社が鎮座する前から、難波のそこは「住吉」という地名ではないか、ということです。(兎原の住吉という地名は、後の世のものとして)

 三神は『難波の住吉の津へまつれ』と宣託していない。難波の住吉大社、苦しいかも?

[6601] Re[6595][6594][6593][6590]: もとの住吉神社はどこ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/04(Sun) 12:06 [Reply]

≫確かに芦屋駅付近も「長狭」と言えるような地形に見えますが、どうも海の方に

土地勘もなにもない地域ですが、スケールを大きくして地勢からの推定を加えた地図に差し替えました。



いつの時代にどのような地勢であったのか、これがポイントになりそうです。
古墳時代では薄く塗った部分のほとんどは葦原か干潟(湿地)じゃないかと思います。

大阪湾内の弥生遺跡は長期間継続しない不可思議な遺跡で、洪水で流されるからという説があります。
そうか、これが後の応神時代の「大津の淳名倉」の源か!!(淳名→湿地)
弥生時代では輸送物資の仮置き場(受け渡し場所)だったのだ、うまい(^^)

上野台地の開削はいつなのかなあ。これもポイント。
河内湖が湿地になって船の通行が不便になれば上野台地の根本に大和川(奈良)への短縮水路を掘るんじゃないかなあ。(技術があるなら弥生時代でも)

漁民の祀る場としてなら縄文時代から住吉大社はよい位置だと思います。
神戸側の沿岸には多数の住吉社があるようですが、弥生早期から漁労民や海運者の祀りの場があって当然と思えます

なにかの都合でどこがどう盛衰するか、これは時代背景によるでしょうね。
だれかが堺付近に拠点をおけば住吉大社も盛況になるだろうな。


[6600] Re[6599][6595]: もとの住吉神社はどこ  神奈備 2005/09/04(Sun) 10:03 [Reply]
> [6590]大津の渟中倉の長狭に居さしむべし
「長狭」は「長峡」のミスです。 m(_ _)m

で、
> 「生田長峡の国」という「長峡」(ナガオ)を、摩耶−六甲山系の東西に連なる稜線と考えています。

 東西か南北か、これが問題。

 本居宣長は『古事記伝』で、大津渟中倉之長峡は、莵原郡住吉郷で、住吉村の古名は「ぬなくらの里」と云いしぞ。此の地は武庫山の支別(ワカレ)の、南方へ長く引延たる尾崎にて、まことに長峡と云つべき地なり。
 さらに、神功紀に、皇后の船は真っ直ぐに難波に向かった。ところが船は海中でぐるぐる回って進まなかった。それで武庫の港に還って占われた。
..それから神々が広田国、活田長峡国、長田国。大津渟中倉之長峡に居さしむべき、そうすれば往来する船を見守ることができる。
 宣長は莵原郡住吉がよく叶うとしています。

 ついでに伴信友は『神名帳考証』で、古老曰く、生田に住吉祠あり。神功皇后の初此の大神を祠玉ひし御社はここなるべし。長田、生田、住吉、広田と並びて坐すことも知られ、また生田の長峡、住吉の長峡と聞こえしは、北の山より海際につきでたる峡さき名なるべく思われる。と述べています。

 「生田の長峡」と云うと、生田神社の元の鎮座地は現在の生田神社の北約1.5kmの山裾のように思われますので、長峡の地形については伴信友説と云うわけにいきません。しかし生田神社境内摂社に住吉神社が鎮座しており、ここが元社と云う古老がいたとは興味深い所です。

[6599] Re[6595]: もとの住吉神社はどこ  恋川亭 2005/09/04(Sun) 00:10 [Reply]
【流通の拠点】
> Re[6594]: もとの住吉神社はどこ  かたばみさん(2005/09/02)
> 縄文の遺跡が芦屋市に集まっていて偏りがあるのが面白い。
> 縄文遺跡は普通は山地のはずなのに海辺に遺跡が集まっています。
> (どんな内容かが問題だけど、そこが手の回らないところ(^^;)

 縄文時代中期末あたりから西日本では平地の遺跡が出始めて、後期には(平野部が)増えていくようです。畑稲作との関連かも。
 交易の物流ルートが確立された時代ですから、芦屋市が1つの拠点になったのでしょう。芦屋は摩耶−六甲山系の東端の場所。ここから東は山系が終わって尼崎→大阪方面に広大な平野が広がります。
 瀬戸内から明石海峡を通って大阪湾に入る。現在の芦屋を基点として、
・武庫川、猪名川沿いに丹波方面へのルート
・淀川沿いに琵琶湖方面へのルート
・河内湖に入って生駒山麓方面へのルート
・湾を南下して泉州方面へのルート
等などへ展開していくことができます。
 弥生時代になると、人や物の量も増えて瀬戸内ルートは大動脈となりますので、中継の浜が莵原(神戸市東灘区・灘区)まで広がったのではないでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【長狭と長峡】
> Re[6595]:もとの住吉神社はどこ  神奈備先生(2005/09/02)

 昔の地形を想定しても・・・、現地一帯になじみ深い者としては、『「長狭」と言えるような地形』に思い当らないのです。ぜんぜん、まったく、さっぱり・・・です。(懊悩)

> Re[6590]
> 『長狭住吉の長狭とは北の山から海際に突き出た狭さきの意を述べたもの』

 これは本居宣長の主張でしょうか?ならば現地を見ていないのかな?
上田秋成ならば現地を知っていると思うのですが。大阪の浜から六甲側を見て、海際に突き出ているのは、はるか向こうの須磨の鉢伏山です。

 ひとつ気になるのは、「長狭」と「長峡」。原資料では意味を踏まえて正確に使い分けされているのでしょうか???
 私は、「生田長峡の国」という「長峡」(ナガオ)を、摩耶−六甲山系の東西に連なる稜線と考えています。(毎日見上げながら生活している者の実感として。)
 もし機会がありましたら、神戸港から出ている大阪湾クルーズの船に乗って眺めてください。船から見てこそ、六甲山系の長々とした尾根を実感できます。

・『峡』:キョウ・コウ・はざま
 これを「オ・ヲ」と読ませるのは尾根のオに当てているのではないでしょうか。
・『狭』:キョウ・ギョウ・せまい・せばめる
 神戸では「長狭」をナガサと読みます。JR元町−三ノ宮の間の高架沿い山側に「北長狭通り」があります。昔の海岸線に平行した東西の通りです。長狭(ナガサ)と渚(ナギサ)が繋がるのか判りませんが、六甲山麓の南は、山と海に挟まれて、長く狭い土地ではあります。
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【澄みの江】
> Re[6595]:もとの住吉神社はどこ  神奈備先生(2005/09/02)
> 白水社『日本の神々』に、大阪と比べて以下の3つが不利と書いています。
> 1.大阪がここから遷されたものとの文献その他の拠り所がない。
> 2.住吉はもともとスミノエ、ここはスミノエと云われたことがない。
> 3.大阪は『住吉大社神代記』という古い文書を持っており、連綿と今日まで栄えているのに、ここは式内社でもない。

 本住吉神社の否定に依怙地になっているような記述ですね(笑)。
→1.勧請がかなり古い時代なら文献や伝承は残らないかもしれませんね。
→2.ツツノオの神々を、スミノエの地(大阪)へ勧請したとすれば、
   東灘区にスミノエの地名は必要ないですね。
   例えば伊勢も同様で、元伊勢とは後からの呼び名。
→3.伝承や文献が作成されるより、もっと古い時代ならば???

 私は、本住吉神社の主張を肯定も否定もできません。判らないから。でも推測は面白いから、楽しみたく思います。(無責任でごめんなさい)
 古代の大阪は大きな河内湖が広がり、大阪湾沿いには砂洲が幾重にも伸びてラグーンを形成していたそうですね。(中公文庫『日本の古代5』「河内・泉・摂津の景観」図)
 住吉大社のすぐ前も住吉津として浜になっています。『澄みの江』とは美しい名前ですね。海底の白砂(関西の浜砂は白い)が見える透き通った潮水、今の大阪湾では想像もつきません。

 私は、難波の住吉大社も兎原の本住吉神社も、向い合って向こう岸が見える配置だったと思います(神社そのものが目に見えるという意味ではありませんよ)。
 どちらも大阪湾内の拠点として在った、そして対称的位置だったと。操船にたけた水夫なら、日帰りで用事を済ませる距離ではないか。仁徳天皇さまが『Oh、ハニー!マイ・ラバー』と、気軽にヤタ皇女を尋ねてこれるのです。(^^;
 古墳時代に入って大和や河内がますます発展するに伴い、住吉津が多いに賑わったのでしょう。前時代の航海の神を、兎原から住之江に勧請したとしても、おかしくはないと思います。証明できない話しですが。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 恋川亭は兎原のとなりの八田郡(ヤタベノコオリ)です。仁徳天皇さまとヤタ皇女との離宮があったとか。裏山の諏訪神社は、仁徳天皇さまがヤタ皇女を慰めるために勧請されたそうですが、なんで諏訪様なんだろう??? 以上、けっこう妄想入りです。

[6598] Re[6597][6596]: 無題  弁財天 2005/09/03(Sat) 21:28 [Reply]
> > 弁財天様
> > 八つ岩に行ってきました。
>
> お疲れさまでした。そして、おめでとうございます。
> とても行きやすくなっているようですね。
> 私達が登拝してから、もう3〜4年かな?
> ずっと続けてお祀りされている方々には頭が下がります。
> そうやって、陰で「世界を支えている」方が居るンだなァ〜。

そうですね。
個々の思いもあるでしょうが、中には純粋に世の中の安寧を祈っておられる方も
あるのではないかと思っています。
しかし、世の中の激しい流れの中で忘れ去られようとしている
部分(いわれや、事績)もあるようです。何とか、大切な部分は継承してゆきたいものですね。

[6597] Re[6596]: 無題  恋川亭 2005/09/02(Fri) 23:49 [Reply]
> 弁財天様
> 八つ岩に行ってきました。

お疲れさまでした。そして、おめでとうございます。
とても行きやすくなっているようですね。
私達が登拝してから、もう3〜4年かな?
ずっと続けてお祀りされている方々には頭が下がります。
そうやって、陰で「世界を支えている」方が居るンだなァ〜。

[6596] Re[6592][6591]: 無題  弁財天 2005/09/02(Fri) 22:38 [Reply]
>  原田常治著『古代日本正史』については、神奈備先生が検証されたページがあり
>ますので、下記をご参照ください。

恋川亭様
八つ岩に行ってきました。
ありがとうございました。
帰りに九頭神社と、先の村の方のところに寄ってきましたが
村の方も喜んでくださいました。

原田常治著『古代日本正史』について、提示いただいた
情報を拝見致します。

[6595] Re[6594][6593][6590]: もとの住吉神社はどこ  神奈備 2005/09/02(Fri) 22:36 [Reply]
> ≫【莵原の古代遺跡】

 お二方のスピードと労作に敬意と感謝。

 地図では、東から2/5の海岸と山との中間位が本住吉神社の鎮座地です。この地図で見ますと確かに芦屋駅付近も「長狭」と言えるような地形に見えますが、どうも海の方に埋め立てているようで、古代にも「長狭」的であったかどうかいささか疑問。

 本住吉神社が出来る頃は古墳時代以降でしょうから、まさに付近に古墳時代の遺跡があるのは、傍証の一つでしょうね。

 白水社『日本の神々』に、大阪と比べて以下の3つが不利と書いています。
1.大阪がここから遷されたものとの文献その他の拠り所がない。
2.住吉はもともとスミノエ、ここはスミノエと云われたことがない。
3.大阪は『住吉大社神代記』という古い文書を持っており、連綿と今日まで栄えているのに、ここは式内社でもない。

 あまり明確ではなさそうな気がしないこともないですが・・・

[6594] Re[6593][6590]: もとの住吉神社はどこ  かたばみ [Mail] [Url] 2005/09/02(Fri) 21:36 [Reply]
≫【莵原の古代遺跡】

地名も道路もなにもない地形図(先入観を除く)のプロットをながめると、文字だけのデータとは違う発想がいろいろできて楽しめると思いますが・・関東だけでも手が回らず(^^;
神戸〜芦屋周辺をプロットしたのが下図。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/kobe-nishinomiya.jpg
(青〜水色は縄文海進時代では海)
縄文(黒)、弥生(赤)、古墳時代遺跡は緑、○などは古墳、逆Uは銅鐸。
(恋川亭さんの神戸市埋蔵文化財分布図とは異なる遺跡データベースによります)

縄文の遺跡が芦屋市に集まっていて偏りがあるのが面白い。
縄文遺跡は普通は山地のはずなのに海辺に遺跡が集まっています。
(どんな内容かが問題だけど、そこが手の回らないところ(^^;)

弥生の遺跡も混み合っていて、なんらかの重要地だったことが想定できそう。
(東には銅鐸と古墳群がある)
(古墳時代にはいると遺跡は神戸にシフトするようにみえます)

矢印の「岬」は阪神電鉄の芦屋駅。芦屋駅を掘ればなんかでてくるんじゃないかなあ・・元々住吉はここだったりして。


6591無題への余談
途中で読む気が失せてポイした代表です、どちらも(^^;


[6593] Re[6590]: もとの住吉神社はどこ  恋川亭 2005/09/02(Fri) 12:16 [Reply]
【莵原の古代遺跡】
本住吉神社周辺、神戸市東灘区・灘区の古代遺跡(遺跡名:時代:所在地)
(1)住吉宮町遺跡:弥生〜中世:(住吉宮町・本町・東町)
(2)坊ヶ塚古墳:古墳:(住吉本町)
(3)郡家遺跡:弥生〜平安:(御影町・住吉町・御影中町・住吉宮町)
(4)東求女塚古墳:弥生・古墳:(住吉宮町)
(5)処女塚古墳:弥生・古墳:(御影塚町)
(6)渦ヶ森銅鐸出土地:弥生:(渦森台)
(7)荒神山遺跡:弥生:(住吉台)
(8)赤塚山遺跡:弥生:(住吉山手)
(9)−−−:古墳:(御影山手・鴨子ヶ原・岡本・西岡本)
(10)金鳥山遺跡:弥生:(本山町)
(11)岡本梅林古墳:古墳:(岡本)
(12)岡本東遺跡:縄文〜中世:(岡本)
(13)八幡谷古墳:古墳:(本山町)
(14)保久良神社遺跡:弥生:(本山町)
(15)森奥遺跡:弥生:(本山町)
(16)東山遺跡:弥生:(本山町)
(17)扁保曾塚遺跡:古墳:(岡本)
(18)生駒銅鐸出土地:弥生:(本山北町)
(19)神戸女子薬科大構内:弥生・古墳:(本山北町)
(20)森銅鐸出土地:弥生:(森北町)
(21)坂下山遺跡:弥生:(森北町)
(22)三条岡山遺跡:弥生〜近世:(森北町)
(23)森北町遺跡:弥生〜飛鳥:(森北町)
(24)出口遺跡:弥生・中世:(本山北町)
(25)井戸田遺跡:弥生:(本山中町)
(26)本山中野遺跡:弥生:(本山南町)
(27)小路大町遺跡:弥生:(深江北町)
(28)北青木遺跡:弥生:(青木)
(29)本山遺跡:弥生・中世:(本山中町・南町・田中町)
(30)深江北町遺跡:弥生・古墳:(深江本町・深江北町)
(31)本庄町遺跡:縄文〜鎌倉:(本庄町)
(32)西岡本遺跡:古墳・中世:(西岡本)
(33)西平野遺跡:弥生・中世:(御影町)
(34)魚崎中町遺跡:弥生・古墳・中世:(魚崎中町)
(35)岡本北遺跡:弥生・中世:(岡本9丁目)
(36)本山北遺跡:弥生・古墳・中世:(岡本1丁目)
(37)鬼塚古墳:古墳:(篠原南町)
(38)桜ヶ丘銅鐸出土地:弥生:(高羽)
(39)申新田遺跡:縄文:(高羽)
(40)滝ノ奥遺跡:旧石器・弥生・平安:(高羽)
(41)十善寺古墳群:古墳:(一王山町)
(42)桜ヶ丘B地点遺跡:弥生:(桜ヶ丘町)
(43)伯母野山遺跡:縄文〜弥生:(伯母野山町)
(44)篠原遺跡:縄文:(篠原北町)
(45)篠原遺跡:縄文〜弥生:(篠原本町・篠原中町)
(46)西求女塚古墳:古墳:(都通)
(47)赤松町遺跡:古墳:(赤松町)
(48)赤坂通遺跡:縄文・弥生:(赤坂通)
(49)都賀遺跡:縄文〜中世:(神前町)
(50)大石東遺跡:古墳:(大石東町)
(51)八幡遺跡:弥生:(八幡町)
(52)篠原南遺跡:古墳:(篠原南町)
(53)岩屋北町遺跡:弥生〜中世:(岩屋北町)
【神戸市教育委員会編集『神戸市埋蔵文化財分布図』平成13年版より抜粋引用】
(散布地はパスしました。番号は出典と異なります。)

 神戸市東灘区の本住吉神社について、周辺は弥生時代から賑わっていた様子がうかがえます。神社そのものも、住吉宮町遺跡の中に所在します。現在のようなビルディングが無いものと想像して、本住吉神社から見渡せる範囲に、桜ヶ丘・渦ヶ森・生駒・森という銅鐸出土地があるのは興味深いですね。
 古墳時代も引き続き繁栄したようです。河内の巨大古墳ほどではありませんが、平野部分が狭い地域にかかわらず、古墳が点在しています。東求女塚古墳は、本住吉神社の南方すぐ近くの海岸側にあります。神社が昔から今の位置にあったと仮定すると、古墳時代には海岸線から少し離れていたことがわかります。
 北東の金鳥山にある保久良神社は、古来「灘の一ツ火」と呼ばれた火が焚かれていて、沖合を通行する船の目印になったそうです。本住吉神社との関係を想像するところです。
 以上、本住吉神社周辺、莵原郡の古代遺跡についてリストしました、ご参考まで。

[6592] Re[6591]: 無題  恋川亭 2005/09/02(Fri) 09:38 [Reply]
 原田常治著『古代日本正史』については、神奈備先生が検証されたページがありますので、下記をご参照ください。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

『異名同神説への疑問  原田常治著 古代日本正史の論理の検証』
http://kamnavi.jp/yamasiro/imeidousin.htm

【抜粋】 『神社と歴史に関心を持たれる人々が、虚偽の論理を鵜呑みにせず、自らの調査と自らの思考で真実に迫るために、敢えてこのページを作成しておきます。』
 『原田常治さんの古代日本正史は多くの人々を古代、神社、神々への興味をかき立てたと言う点で大切な役割を果たしています。
 しかし、論理的思考に不慣れな若い人々に巧妙な話術で騙すような新興宗教の誘いにも似た陥とし込みのテクニック、また若い人の情報不足に加え、活字になっているものを信用する気持ちを巧みに利用した騙しのテクニックは、さらには全く論理がないにも関わらず、推測に推測を重ねて最後に判ったとしてしまう筆の運びのテクニック、これらのテクニックは政治家を目指す者には参考にはなるでしょうが、決して真実に迫る手法ではないと思います。』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

『異名同神説への疑問2 小椋一葉著 消された覇王の論理の検証』
http://kamnavi.jp/yamasiro/imeidousin2.htm

[6591] Re[6562][6560]: 無題  弁財天 2005/09/02(Fri) 06:51 [Reply]
> > 弁財天さん
>
> 香具(KAG)@恋川亭です。

>  位置については、神奈備先生のレスにある通りです。また、この掲示板の過去レ
>スを丹念に探して頂ければ、私も探索状況を投稿しています。
>  メールアドレスを添えておきます。↑

恋川亭 様
懇切なる情報提供ありがとうございました。
これ(日の谷探方)を1つの足がかりに
聖地全体をより理解することが出来ればと
願っています。
この方面では諸事知識が浅い私ですが、
今後ともよろしくお願いいたします。
出雲と大和の関係、原初の神々の系譜について
(特に原田常治氏の「古代日本正史」に対する
理解)すでにいろいろ考察しておられると思いますので、
お教えいただければ幸いです。

[6590] もとの住吉神社はどこ  神奈備 2005/08/31(Wed) 22:35 [Reply]
江戸時代の作家の上田秋成は本居宣長と論争するほどの国学通でした。その彼は住吉三神の鎮座した「大津の渟中倉の長狭に居さしむべし」との場所を莵原住吉と見ています。所謂本住吉と呼ばれる場所です。
それは広田神社、生田神社、長田神社と地理的に並ぶのは莵原住吉であること。
後世の土佐日記などは津守氏の祀る現在の住吉大社の記述があるのは、多くの住吉神社の中で格別に発展したからに過ぎないと云う。一つの見識だと思う。
ライバルである本居宣長も莵原を主張する。長狭住吉の長狭とは北の山から海際に突き出た狭さきの意を述べたもの、また仁徳天皇以降に天皇よって莵原から津守へ遷されたとしています。


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