神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

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掲示板のログ(平成十八年 二月 2006.2)お名前の敬称は省略しています。

[7147] 霊山寺はなぜ一番?  やまし [Url] 2006/02/28(Tue) 21:08 [Reply]
阿波の国の大麻山のふもとに
阿波一ノ宮の大麻比古神社そして
八十八ケ所一番札所霊山寺があります。
釈迦如来は仏教で一番ですし、
霊山寺は一乗院とも呼ばれていますし、
ここは「一」にいろどられています。
それにしてもなぜこの地を大師が一番札所
としたのか、いろいろ考えてみました。

結論は、大師は自身が「天尊より出づ」とあるように、
ここが大師の祖先の故郷ではなかったか、
つまり天孫降臨の舞台ではなかったかと考えています。

ホームページをご覧頂ければ幸いです。

[7146] Re[7144][7142][7113]: 神奈備さんへ再び、 霞か雲か   nick [Url] 2006/02/28(Tue) 18:06 [Reply]
管理人さんもあげておられるようにそろそろ幕引きにしませんか。
「神」でも「仏」でも現実的には両方の慣習が普及していますから
それで信仰心が揺らぐわけでもないのでは。
ま急場の神頼み信仰の方も多いわけですし。
大道に立って建設的な提案を希望します

[7145] 豊川稲荷  玄松子 2006/02/28(Tue) 13:41 [Reply]
豊川稲荷と呼ばれる神社一覧 (『平成祭データ』調べ)
北海道1社、秋田1社、群馬1社、東京2社、山梨1社、大阪1社、岡山1社、福岡2社。合計10社。

上記豊川稲荷祭神一覧 (『平成祭データ』調べ)
保食大神1社、稲荷大神3社、倉稲魂命3社、宇迦之魂命1社、荼枳尼天1社、祭神不詳1社。

注) 豊川稲荷本社から分社されたが、現在は稲荷神社とのみ表記されている神社は含まず。

[7144] Re[7142][7113]: 神奈備さんへ再び、 霞か雲か   神奈備 2006/02/28(Tue) 08:01 [Reply]
PONTAさん、おはようございます。
仏教系稲荷との表現を使われていますが、それは稲荷は仏ではないということですね。

曹洞宗の道元が大陸から帰国の際、胸を患ったのですが、日本の稲荷大明神が現れてその病を治したとの伝承があります。それゆえに、ダキニ天を護法神として曹洞宗寺院で祀っていることが多いようです。

要するに、稲荷神にいろいろなルーツがあるとしても、あまり厳密に区別する必要はなかったということです。霞か雲かです。

[7143] 補足説明  PONTA 2006/02/28(Tue) 06:07 [Reply]
> 「たいし」ではなく、「だいし」ですよ。

「弘法大師」は「こうぼうたいし」ではなく、「こうぼうだいし」です。「だいし」と打てば「太子」には変換されません。

[7142] Re[7113]: 神奈備さんへ  PONTA 2006/02/28(Tue) 06:03 [Reply]
> 仏教の守護神は仏ではないのです。守護神なのです。それが日本にやってきて祀られて、朝廷から正一位稲荷大明神と認められるまでになったのです。神です。

稲荷信仰には神道系と仏教系があるんですよ。
神道系の稲荷神社は、稲荷神という神を祀り、「正一位・・・」と書いた赤い幟をたてていますね。
仏教系の稲荷、たとえば、豊川稲荷は、荼吉尼天という仏を祀っていて、幟には「豊川托枳尼眞天」(「だ」は口へん)と書かれているんですよ。
日本にやってきた仏教の守護神が朝廷から正一位稲荷大明神と認められたという話は私は聞いた事がありません。(無知ですみません。)たしかに、伏見稲荷大社の神は東寺というお寺の守護神(あるお寺の守護神であって、仏教の守護神ではないです。同じ仏教でも、天台宗のお寺でしたら、鎮守社は稲荷神社ではなく、日枝神社です)に空海によって選ばれましたが、正一位伏見稲荷大社の稲荷神は外国から日本へやってきた仏教の守護神なのですか?
神奈備さんのご発言は神道系稲荷と仏教系稲荷を区別して考えておられないように思われます。

[7141] Re[7107]: 末摘花さんへ  PONTA 2006/02/28(Tue) 05:43 [Reply]
> また お邪魔します。豊川稲荷は、真言宗でしたよ 
> 豊川稲荷は、弘法太子の影響で、真言宗系に成った

豊川稲荷は曹洞宗ですよ。
前に「伏見稲荷大社はなぜ有名になったか」という話の中で、弘法大師が東寺の鎮守社としたことがきっかけとなったと聞いた事があります。
「弘法太子」というのは、聖徳太子あたりとの混同でしょうか? 「たいし」ではなく、「だいし」ですよ。

[7140] 寶飫と寶飯ですが   2006/02/26(Sun) 20:35 [Reply]
木簡では、平城宮遺跡と信楽宮遺跡からそれぞれ出土しています。

書き間違いなのか、簡略化なのか、わかりません。

度津郷、豊川郷は寶飯で表記。

篠束郷、望理郷、宮道は寶飫で表記。

寶飫=音ホウ+音ヲ 寶飯=音ホウ+名乗りで「いい」

やはり、誤記の可能性高いですね。

はっきり言えることは、最初から宝飯ではないということです。

寶も宝の異体字ですし。


[7139] 1回で書こうとしてるのに。  ro. 2006/02/26(Sun) 16:38 [Reply]
>また香取神社のリニューアル後に内容が変わっていたと書きましたけど、
香取神宮や同系の神社を見ていたようで内容はそのままでした。

香取神宮のリニューアル後に内容が変わっていたと書きましたけど、
香取神社や同系の神社を見ていたようで内容はそのままでした。

[7138] 訂正。  ro. 2006/02/26(Sun) 16:15 [Reply]
>しかしイザナギやイザナミは伊勢津彦や物部、海部、ニギヤハギらを現していると見ると〜。

伊勢津彦や伊和大神、伊香色雄命などの伊に訂正します。
伊雑宮の伊でもあり、伊勢の伊でもある。

[7137] 香取神宮の訂正。  ro. 2006/02/26(Sun) 16:10 [Reply]
物部氏と伊勢津彦はどういう関係なのでしょう。
伊雑宮を建てたのは伊勢津彦ですか、物部氏ですか。
伊勢津彦は伊和大神のことですか。伊雑大神とは誰ですか。

また猿田彦神は鼻の長さ七咫もあり、背の丈は七尺あまりで身長は七尋近く。
だそうで、大げさに表現してるとはいえ興味深いです。
また、目は八咫鏡のように円く大きくて真っ赤な酸漿(読めない。。。)の
ように照り輝いていることから出雲系であることを現しているようにも。
八という数字はなぜか出雲系を調べているとたびたび出てきますね。
ヤフーの画像
http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%B1%EE%C5%C4%C9%A7%BF%C0&n=5&b=0&c=image&rh=20&d=1&to=2

またイスラエル、ユダヤ人を漢字でユダ、猶太と書くことや、
伊雑宮で太一と書かれた団扇が掲げられること、
伊勢神宮は伊勢太神宮といわれていたことも興味深いです。
またユダヤ人は絹を運んでいたことから機織との関係もあるような。
伊香色雄命や物部氏の10神宝というのも少し調べてみよう。

少なくても一般に日ユ関連で言われている菊花紋ははずします。
ヘロデはパレスチナなので。しかしイザナギやイザナミは伊勢津彦や物部、海部、ニギヤハギらを現していると見ると、
開化天皇のように一見わかりづらいものもありますけど、神武天皇や崇神にも血が入っているのかなぁとか、
でもユダヤは他民族と(紙面上の国籍のことではありません)血を交えないし、
偶像(銅像とか)をまつらないし。。。

ある程度この人というのは見えているのですけど、
その周りのつながりがよく見えません。

日本書紀もある側面から見た史実だったり、
似たような名前などやまた違う名前でも同神ということもあり、
ある意味象徴や暗号みたいに見えてきました。(笑)聖書もそういわれますけど。ニギヤハギが本当にいたのかも疑問です。それぞれの象徴をつなぎ合わせたようにも。
いっそのこと日本書紀じゃなくて日本神話にした方が解釈も変わりそうです。

また香取神社のリニューアル後に内容が変わっていたと書きましたけど、
香取神宮や同系の神社を見ていたようで内容はそのままでした。訂正します。
伊雑宮の祭神や籠神社のカゴメ紋など次々に変わっていたので勘違いしました。

先日朝まで生テレビという番組でテーマは天皇でした。
皇室の(天皇は菊花門なので、天皇そのもののことではありません)システムの男系を継続しているのは世界で
中国とヨルダンだけだそうです。ヨルダン。。。
イスラエル十支族は中国経由で来たそうです。また神武天皇の一般に言われていることと実際にどうであるかも言われていて興味深かったです。

[7136] Re[7131]: nickさん、ご忠告ありがとうございます  神奈備 2006/02/26(Sun) 10:25 [Reply]
> 穂=訓ほ→寶飫=音ホオ→寶飯=音ホイ
飫と飯との書き違いというのはなかったのでしょうか?

[7135] Re[7133]: 歴史探訪かと思いきや  神奈備 2006/02/26(Sun) 10:24 [Reply]
 人が持つ大自然への感謝の心、これが信仰の一つの基礎なのでしょうが、日本のように四季折々の佇まいがある豊かな自然に恵まれている場合には神道になり、また砂漠や極寒冷地などでの自然へのスタンスには自ずから違ったものがあるのは当然でしょうね。
 ただインドネシアなどの豊かな自然の国でイスラムが普及した訳がよく分からないところ。

 祖先への感謝の気持ち、これも全世界共通なのだろうと思いますが、それでも不幸にして不具に生まれたとか、肌の色によっては、その血を呪うこともあるのかも。

 日本のように穏やかな国には、多神教的キリスト教ができるのかも。

 長崎県下県郡厳原町大字中村に鎮座の八幡宮神社の摂社の天神社にはマリヤ様が祀られています。

[7134] Re[7129][7125]: 稲荷信仰 U  MOuri 2006/02/26(Sun) 08:57 [Reply]
ありがとうございます。

”おでかけにならずに・・・”、とおーい昔に
聞いたことがあるような、かすかな記憶があります。

[7133] 歴史探訪かと思いきや  nick [Url] 2006/02/26(Sun) 08:09 [Reply]
今朝たまたま見たテレビ。
日本書記の「弟橘媛」の話を中学生だろうか
その記念碑の前で説明されていた。
つい引きこまれて見ていた、、
歴史探訪かと思いきや「キリスト教の布教活動の一環」だった。

キリスト教でも日本の古典、それも「神教色」の
強い「日本書記」を引用されるとは驚いたが。

そこでどんな教義かとページへ伺ったら
何と「座禅」もされている。。

求める真理は一つなのかなと。。
歴史に残る「十字軍遠征」や昨今のシナイ半島の争奪戦等が
脳裏に焼きついているだけに、
大らかなのは我が国の「八百万の神」だけかと思っていたのだが。。
キリスト教もいろいろだなと感じた。。

生命の光
原 始 福 音 信 仰 証 誌

http://www.makuya.or.jp/hikari/index.htm

皆さんはどのように感じられるでしょうか。

[7132] Re[7131]: nickさん、ご忠告ありがとうございます  nick [Url] 2006/02/23(Thu) 19:01 [Reply]
確かに当地でも、明治初年の廃仏毀釈以後のところもあるようです。
特に「神社」は合祀で、中には首を傾げたくなるものも。

国分地方は未だ江戸時代の「郷」が読み取れる小字が多々あるので助かりますが
しかし、近年の「都市整備計画」や今度の広域市町村合併でこれらも
○○*丁目とか変わったりすると。。。
全然親しみが変わってきます。
大事にしたい「小字」ですが時代の流れでしょうか。

[7131] nickさん、ご忠告ありがとうございます   2006/02/23(Thu) 18:40 [Reply]
音訓続編ですが。音読み=漢字、訓読み=日本語なんで。

音訓合成読みは、間違いなく明治以降でしょうね。三河だと幸田町もそうです。

幸田=広田=音コウ+訓だ、た。です。広田川(ひろたがわ)由来です。

>>>>>>>>>>>>>
鴨=訓かも→賀茂=音カモ 額田=訓ぬかた 播豆=芳図=音ハズ

青見=碧海=訓あおみ 穂=訓ほ→寶飫=音ホオ→寶飯=音ホイ

飽海=訓あくみ→渥美=音アクミ→アツミ? 八名=訓やな

木簡から、訓読みだったのが、音読みに変わっている事例です。

幡豆郡だけ、訓読みが不明です。

鴨、穂の事例のように1文字で訓読みしていたものを2文字にする際、音読みにしています。

ころも衣=豊田市のこと。とかも1文字ですね。



[7130] Re[7128]: インチキ新城の由来  nick [Url] 2006/02/23(Thu) 13:19 [Reply]
今オリンピックの女子フィギアスケートが白熱でいささか夜更かしぎみですが、
トップの選手は「安藤美姫(みき)」ですよね。

当地は「姫城(ひめぎ)」です。
お隣都城市にも同じ地名があります。
昔、豪族の「姫木氏」が治めていた名残とか卑弥呼のいや髪長媛の居城、、とか。

また、鹿児島空港のある町には「竹子(たかぜ)」と云う字も。
ここも昔「高瀬氏」の領地だったとか。。
私のとっかかり・動機も「可笑しいな。なぜ?」でした。
地名や字も、調査すると歴史の背景が垣間見え結構面白いものです。

暗いところでは「姥捨て」とか「赤沢」とか。。
「食い扶持の足し」にと認知症の両親を。。天災・飢饉で喘いだ暗い世相も。。
在宅介護しているとそのな局面は多々。。痛切に感じます。
(国土地理院のマップからは姿を消しましたが、、時代の流れ)

地名は物好きな方々にとっては格好の的。喧々囂々ですよ。真実は藪の中。。
ま、その方が「夢があって好い」肴のつまにもなりますし。
そんなところです。

[7129] Re[7125]: 稲荷信仰 U  神奈備 2006/02/23(Thu) 09:26 [Reply]
> 私は十津川村の玉置神社が、”怖い神様”だと言う言い伝えに、なんとなく疑問を持って調べております。

 台風が紀伊半島を襲う時には、ここの神はおでかけにならずに、玉置山と近辺の木々などをお守りしているそうです。怖くない側面もお持ちなのでしょう。

[7128] インチキ新城の由来   [Url] 2006/02/22(Wed) 23:30 [Reply]
新城=シンしろ、音でシン+訓でしろ、この読み方はおかしいぞ。
日本語になってない!!!

新城=音でシンジョウ、訓でにつき、と読むのが通常だ。

よって、明治以降の市町村合併時の捏造ですね、この由来は、特に音訓合成の読み方はおかしい!!

http://www.city.shinshiro.aichi.jp/gaiyou/index.html

新城=シンジョウとは、新しい城という意味で固有名詞ではない!!

新城=につきとは、現在の岡崎市仁木のこと、仁木=新城=新木=につきと表記。
少なくとも大和朝廷以来の呼称ですが。木簡で確認できますよ。

奥平氏ではなく、菅沼氏!!新城の由来も江戸時代の領主も。徳川にあやかろうという魂胆丸見え。

新城=シンジョウという呼称はいいのだが、

新城城=シンしろジョウという呼称は、おかしい。音訓合成で、後世の呼称だろう。

安城市に、安祥城=アンショウジョウという安城松平家の城があるのだが、
地名は、安城=安祥=安静=アンジョウだ。
安城城=アンジョウジョウ、アンしろジョウとは、書かない。

また、安城は、碧海郡に属するのだが、古代の碧海=あおみという読み方が、近年はヘキカイに変わっている。

やはり、明治以降に読み方を変えた可能性が高い。

この新城の由来は、webサイトで他の方も不審に思っていることを書いておられるので。長文でくどくど由来を書く場合、はっきりできない困る事情があるのだろう。どうも自治体が紹介する由来や歴史は、鵜呑みにできないところがある。

[7127] Re[7126]: 東三河人が流した歴史の影響  nick [Url] 2006/02/22(Wed) 22:32 [Reply]
私がお話することでもありませんが、
ちょっとこのポストはまずいですよ。
詳細はこちらをどうぞ。

パソコン上のマナーやネチケットに関しては。
掲示板の記事転載やメール送信時の注意事項等

インターネットを利用する方のための
ルール&マナー集

http://www.iajapan.org/rule/rule4general/

パソコン通信黎明期の頃は結構うるさかったですよ。
データベースも無料では無かったですしね。

老婆心ながら。。

===============================

当地鹿児島でも類似したような議論がありますよ。
卑弥呼とか邪馬台国とか、、
ま、時が解決してくれるのでしょうけれど。
明治の廃仏毀釈で史資料が散逸しているだけに大変です。




[7126] 東三河人が流した歴史の影響   [Url] 2006/02/22(Wed) 19:38 [Reply]
20 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/02(金) 14:38

西三河(ある程度先進地域)と東三河(まったくの後進地域)でも
随分と違うんでないの?
ちなみに自分は東三河出身。
豊川流域に拡がった素朴で豊かな田園地帯です。
西三河でも「のん、ほい」とか「〜だら」とか「〜だに」とか・・
泥臭い方言使うの?

あっ、でも国府が置かれたのは東三河か・・・。
自分の認識(先進・後進)は間違っているのかな?

>>>>>>>>>>>>>>>>
24 名前: 三河ナンバー保存会 投稿日: 2001/03/02(金) 15:54

>20
古代では三河の中心は東三河で、三河の一宮も国府も国分寺も
全て東三河にあります。
おそらく三河の中心が西三河に移ったのは、松平家(徳川家)
が三河を掌握した頃で間違いないと思われます。

西三河の方言は俗に「じゃん」「だら」「りん」と言われています。
「のん」「ほい」は使われません。

しかし、「だら」は三河共通の方言で、お隣の遠州にまでも
影響をあたえています。
ちなみに、遠州は同じ静岡でも駿州のほうと随分気風が違うのは
三河の影響と考えて間違いありません。

>>>>>>>>>>>>>
49 名前: 三河守 投稿日: 2001/03/03(土) 11:47

邪馬台国は、東三河にあったって本かいてる人いるんだけどどう思います?その人聖徳太子も豊橋にすんでたって言うんですけど、ちょっと面白い話だとおもいます
>>>>>>>>>>>>>
58 名前: 元三河 投稿日: 2001/03/04(日) 20:46

東三河は「穂国」という別称もあるらしいけれど,昔は西三河と東三河は別の国だったのだろうか.

>>>>>>>>>>>>>
61 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/04(日) 21:56

なんだ、まだ続いてたのか。

ところで、三河はその名のとおり三つの河に由来するそうですが、
この三つの河わかりますか?

>>>>>>>>>>>>
いつの間にか、東三河人によって改ざんされた三河国の歴史と日本史(正史)の古代史。

鎌倉時代の東関紀行に、三河国府の記載ない!!遠江国府・伊豆国府の記載あるのに。

本当に、三河国府が、豊川市にあったのか、疑わしいところだ。
宝飯郡の郡衙のような気がするな。


[7125] 稲荷信仰 U  MOuri 2006/02/22(Wed) 12:36 [Reply]
書き込みの流れに関係なくすみません。

 稲荷神が、阿須賀の地にある ”神奈備”であるところの蓬莱山の阿須賀神社と関係があるような記述が見られますが・・・、

"『玉置山権現縁起』によると、三狐神は「天狐・地狐・人狐」で熊野新宮の飛鳥(阿須賀)を本拠とし、その本地は極秘の口伝だということです。"

" 蓬莱山は、南北110m、東西90m、標高48mメートル。山というよりも独立した小丘陵で、北側は熊野川に面しています。
 円錐形をした神奈備山で、もともと阿須賀神社は蓬莱山を御神体とする自然崇拝の祭祀場であったのではないかと思われます。"

何らかの情報を、お持ちの方がいらっしゃいましたらお教えください。
私は十津川村の玉置神社が、”怖い神様”だと言う言い伝えに、なんとなく疑問を持って調べております。
 ”怖い神”と言うのは、稲荷信仰から来ているのではないかと考えております。
お手数かけますが、お願いします。



[7124] Re[7123]: 稲荷信仰について  MO 2006/02/22(Wed) 10:19 [Reply]
神奈備 氏へ
早速、お返事いただきありがとうございました。

インターネットは、こういうところがスバラシイですね。
”御社宮司神社” 頭の片隅にとどめておきます。
失礼します。

[7123] Re[7111]: 稲荷信仰について  神奈備 2006/02/21(Tue) 20:07 [Reply]
稲荷神社の早いもんはどこ

 玉置神社の三柱神社は古元三狐神と称へられて、また俗に稲荷神と云われ、この周辺の稲荷信仰の中心となっています。
 この三狐神はなんと二見興玉神社の旧名でもあり、信濃、尾張、三河、美濃などに点在しています。それが、これまた正体不明の御社宮司神社と見なされています。

 話を玉置神社に戻しますが、この神社は熊野の奥宮の位置づけもあり、熊野と稲荷も検討しておきましょう。熊野本宮大社の元宮とされているのが、音無川の水源付近に鎮座する船玉神社であり、その夫婦神に玉姫稲荷神社が並んで鎮座しています。この稲荷社はあまり古いような印象ではなかったのですが・・。船玉神社から音無川河口にある熊野本宮大社へ月に一回、「みよろの星」と言う霊魂のようなものが、音無川を行き来したと伝わっています。どうもこれが稲荷の魂のように思えるのです。勿論根拠はありません。現地をうろうろした感覚で申し上げているだけです。

 紀の国には他にも稲荷神のルーツのような神社伝承があります。
 その1 有田市糸我町中番329 稲荷神社
http://kamnavi.jp/kumano/kii/itoga.htm
 第27代安閑天皇(西暦531−535)の2年乙卯の春の降臨。
 宣化天皇(第28代)の元年丙辰の秋、郷民は高山の半腹に社を創って大神を祠り、稲葉根社と称した。
 第36代孝徳天皇(645−654)の白雉3年壬子の春、参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。
 時移って大神、紀伊國糸鹿に降臨されたあとの元明天皇(第43代・707−715)の和銅年間に、再び山城國三ツの峯(伏見)に降臨された。この由を聞召された帝は、山城國鎮座の地を紀伊郡と名付けられた。

 その2 和歌山県田辺市稲成  稲荷神社
 神武天皇大和橿原において御即位の大典を挙げられるや伊作田の里人ども、これを慶祝し、稲成岩城山に、皇祖、天照皇大神をはじめ稚産霊神、保食神、倉稲塊神を併せまつり、土地の名をもって荒光大明神として奉仕していた。
 第百七代正親町天皇、元亀年中に、稲荷大明神と改められた。

 一体どの言い伝えを信じ、どの地域の神社がルーツなのか、よく判りません。

[7122] 書き忘れ。  ro. 2006/02/21(Tue) 17:04 [Reply]
日本人全員がそうだとは思っていません。
何かこれだけ書くと誤解されるかもしれないけど、別に深い意味はないです。
掲示板のログにも書きました。単純に書き忘れただけです。

[7121] Re[7117][7114]: そうかな  ro. 2006/02/21(Tue) 16:41 [Reply]
レスついてたのでビックリしました。
>橋の下で拾ってきた赤子じゃないのだから(笑)
そうですね。そういえば小学生のとき、何を思ったか冗談で母が拾ってきたとか
そういうことを言い出して台所に行った隙に押入れに隠れたことがあります。(笑)
隠れてからのリアクションで子供ながらに真意を確かめようとしたんでしょうね。

>深遠な中東の歴史を見てほしいな。
オリエントの中から見たイスラエルを。今の何万倍もの本当のロマンが溢れているよ。
きっとキートンさんもいろんなことを考えたのかな。

以前に日ユ同祖論を見たときには何じゃこれ、トンデモにもほどがある、
ちょっとこわいって思ったほどです。でも(かなり省きますけど)個人的な経験も含めてまんざら否定できないとある意味気軽に調べ始めました。

そしたらダビデ紋も菊花紋も両方イスラエルにあると聞いてちょっと小躍りして、次に
菊花紋はヘロデ門にあることを知り、ヘロデが何をした人か調べてゾっとしました。
ヘロデはダビデの子孫でも何でもなく、(中略)建物を作った人なのに自らを神を言い、
そして、ある意味発作的に書き込みしました。(笑)

>歴史はもっと豊かで多様なんだ。
何ていうか、だからこそ、衝動的な感情だけでなく、いろんな側面を考慮したからこそ、
今回書かなかったこと、省いたことも多々あります。
日ユ同祖論なんてしらなくても納得できるように書くこともできました。
でも迷いがありました。今いうべきことではないと思ったからです。

また歴史以外で現実のニュースはどうでしょうか。
事実にもとづいて放送していますか。そう思いますか。
キートンさんがどこまで知っているのか、知っててそう言ってるのわからないので、
どう書いていいのか、またわけのわからない書き込みになるだけのようにも。。。

掲示板の書き込みからちょっとトンデモな雰囲気が出てたから心配して言ってくれたのかな。
だとしたらありがとう。もちろん日ユ同祖論だけに貴重な時間を使うことはしないけどあえて言います。


これからも。。。日本史はユダヤ側からの視点で調べようかなぁ。
あぁ、言っちゃった、ツッコまれるかな〜。フォント15でお願いします。(笑)

レスありがとうございました。(^^)

[7120] Re[7116]: 東關紀行では、こう言ってます  nick [Url] 2006/02/21(Tue) 09:22 [Reply]
このような提議なら私にも判りますよ。笑。
先人のお書きになった中には、「時が解決」してくれた事項も多々。
南九州の縄文遺跡発掘はまさにそれ。
今後他にも出てくるでしょう。

ローカル的な話題は、なかなかとっかかりにくい。
今までは「結論:ポスト者の意見」だけを述べておられたので
さっぱり食いつけなかったが。。
これからは当地と類似性のあるテーマがあれば便乗致します。

「嶋津」の薩摩下向時の三河や鎌倉の武士団の話題は大歓迎です。
私はさっぱり判らない。いろいろ情報を得たいものです。

[7119] 御津の由来だが。   [Url] 2006/02/21(Tue) 01:09 [Reply]
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/kindex2.php?J_ID=100101

宮路(宮道);赤坂宿のこと、美養郷三宅里(三谷のこと)、度津(わたつ)の3箇所に囲まれた場所ですね。

木簡では確認できず、六国史の神階で851年で御津神社の記載があるので、
750年から850年位の間に整備された地域では?

宮と津の間で、御津だろうな。

[7118] 豊川稲荷について  青3 2006/02/21(Tue) 00:38 [Reply]
 中々、よびかたが色々ありますが、仏尊でも『神』とよんでも違和感無いのが「明王」と「天」ですね。
 厳密に『仏』っていうと「大日如来」「阿弥陀如来」「釈迦如来」などの『如来』だけが『仏』になります。つまり「観音菩薩」や「地蔵菩薩」等の『菩薩部』は厳密にいうと『仏』じゃありません。
 ですが神祇と区別する意味でも『天部の仏』とか言ったりします。別にどっちでもいいんですがね。
 ただ荼桔尼天様のばあい、他の天部、大黒天と弁才天ほど神祇と習合しなかったですね。

[7117] Re[7114]: そうかな  キートン 2006/02/21(Tue) 00:30 [Reply]
> なのでこれからも日本史はイスラエル側からの視点で調べようかなぁ

 日本人のルーツは日本人だから心配いらないよ。産院の裏口でもらったり、橋の下で拾ってきた赤子じゃないのだから(笑)、安心しなさい。
 君には、顔を上げて、広大で深遠な中東の歴史を見てほしいな。オリエントの中から見たイスラエルを。今の何万倍もの本当のロマンが溢れているよ。
 そしてきっと気づくと思う。日ユ同祖論の系統なんて、本当のオリエントの歴史、つまりイスラエル・エジプト・メソポタミアそれからギリシャ・ローマ・インド等々に眼をつぶって見ないようにしていることを。
 歴史はもっと豊かで多様なんだ。大勢のひとり一人が、一年一年を積み重ねた「世界」。ごまかしようのない現実の重みこそが、真実のロマンだよ。
 人生の時間は貴重なのだから、本当に「いい夢」こそ、追っかけようよ。

[7116] 東關紀行では、こう言ってます   [Url] 2006/02/20(Mon) 23:33 [Reply]
志香須賀の渡しは、奈良時代から。

牛川の渡しは、平安時代から。これ、ウソですね。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/tokan.htm

豐川といふ宿の前をうち過ぐるに、或者のいふを聞けば、「此の道をば、昔よりよくるかた無かりし程に〔寄らずに過ぎる道もなかつたが〕、近頃より、俄に渡津(わたふづ)の今道といふ方に、旅人多くかゝる間、今は其の宿は、人の家居をさへ外にのみ移す。」などぞいふなる。舊きを捨てて新しきに就く習ひ、定まれることと云ひながら、如何なる故ならむと覺束なし。昔より住みつきたる里人の、今更ゐうかれむ〔落ちつかずに浮かれ出す〕こそ、彼の伏見の里ならねども、荒れまく惜しく覺ゆれ〔古今(*集)雜下讀人不知「いざこゝにわが世は經なむ菅原や伏見の里のあれまくもをし」〕。
おぼつかないさ豐川のかはる瀬を如何なる人の渡り初めけむ

>>>>>>>>>>>>
渡津(わたふづ)の今道、かはる瀬を如何なる人の渡り初めけむ
>>>>>>>>>>>>>
飽海川(豊川)の浅瀬を渡るところが、最近出来たとあります。
豊川は流路が何度も変更になっています。
また、豊川は、現地に行くと判りますが、矢作川と違って大河ではないので、掘りも浅く、川幅も狭いので浅瀬を渡ることが可能なのです。
よって、度津郷(宝飯郡)というのでしょう。

志香須賀の渡し、牛川の渡し、を船で渡る必要はないようですよ。今の豊川の川筋が確定したのも近代のことですよね?

酒井忠次が、吉田大橋を16世紀後半に豊川に初めて架橋してから、吉田宿が機能してます。

遠江国の橋本(新井)とありますが、浜名川の架橋のことです。浜名湖は、昔は川と湖で構成されていたようです。新井とは、新しく出来た河川の流水を汲み取る場所という意味です。木簡に新井とあります。

遠江の国号の由来は、遠州国府の大之浦(磐田湖)のことでしょう、おそらく。古事記にも遠江国造とあり、東関紀行にも州崎とあります。川の中州が海辺に突き出して入り江を構成している。古事記や木簡には、遠淡海とはありません。平安時代の旧事紀が、近淡海と対比して、遠淡海と書いたのでしょう。初見が、旧事紀ですからね。

浜津郷は、浜名湖から離れすぎているので、海辺の湊の意味でしょうね。

>>>>>>>>>>>
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/tou044.htm

三河国では鳥捕(ととり)・山綱(やまつな)・渡津(わたつ)の3駅が置かれており,
>>>
これも、ウソですね。木簡にはこうあります。宮地駅家(赤坂)、山豆奈駅家(岡崎市山綱)、鳥取駅家(鷲取郷、矢作宿)と。

東関紀行(鎌倉時代)を読む限り、渡津の今道が中心宿になったのは、この頃ですね。

姫街道(本坂)を通行している様子もありません。二見の道ではないでしょう。


[7115] 訂正。  ro. 2006/02/20(Mon) 20:38 [Reply]
>疑いを持ち

ちょっとニュアンスが違うかな。
多面から詳細にわたり調べるです。

[7114] そうなのですね。  ro. 2006/02/20(Mon) 20:14 [Reply]
掲示板のログわかりました。
掲示板の説明文かなと思っていたのですが、カーソルをあてると
リンクされていました。(^^)ありがとうございました。

はっきり言える内容ではないのですね。
ここのとこ調べまくっていたので覚えていましたけど、
経津主大神と聞いても普通に伊波比主と思う人っているんでしょうか。
少ないような気がします。漢字の意味から察しても別人っぽい。

一見トンデモな内容に見えることも、一見正しいとされていることにも
疑いを持ち多面から詳細にわたり調べる、ものすごく大変な作業かもしれないけど、
そうしないと本当の日本史は見えないのかなと思いました。
また例えば栃木や青森や住んでいる人も昔は伊勢や京都に住んでいたかもしれないし(日本全国の地域)、九州の人が北海道に住んでたりもするのかなとか、
わからないなりにそういう意味でもいろいろ歴史を楽しみました。

でも日本史がフィクションでないのなら、
時代劇ばっかりじゃなくってもっと情報を公開した方がいいと思いました。
それらを含めて今の日本があるのだから。
それらがなかったら愛国心なんてどこから来るのでしょう。
日本人が戦後自信をなくしたといわれるのも、矛盾や誤解もこういうとこから
きているようにも思います。日本人1人1人のルーツにかかわることなのに。

なのでこれからも日本史はイスラエル側からの視点で調べようかなぁ
と思います。(笑)

[7113] 霞か雲か  仏か神か  神奈備 2006/02/20(Mon) 16:29 [Reply]
 ダキニ天は、仏教のタントラでは般若の智慧そのものと見なされていました。ダキニ天と性的なヨーガを行えば、速やか成仏が得られると云われ、般若系タントラだそうです。具体的にどうするかは承知していませんが、成仏に導く機能があれば、仏と言えるのかも。

 仏教の守護神は仏ではないのです。守護神なのです。それが日本にやってきて祀られて、朝廷から正一位稲荷大明神と認められるまでになったのです。神です。
(参考書 『釈尊の国からきた神』前田行貴著 蓮河舎)

PONTAさん(の何代目さん)へ一言。
 あまり根をつめないで、ゆっくり行きましょう。前の方も暴発気味で、結局は二度と来ないなどと宣言されていました。そうならないようにポチポチとやりましょう。
 最近PCが壊れて、古いPCの電源もめったにONしなくなりました。接続もモデムでゆっくり見ていますが、なんとなくいい気分だと思うようになりました。歳のせいもあるのでしょうが・・・

末摘花さん、情報ありがとうございます。


[7112] Re[7109]: 質問。  神奈備 2006/02/20(Mon) 16:27 [Reply]
roさんの質問と書き忘れ

質問ですが、yes、noをはっきり言える内容ではないようです。
掲示板のログは、表紙の「神奈備掲示板」の下に、「掲示板過去ログ集」と大きく書いてあるのですが、見て頂けていないのは残念です。どうすれば気が付いてもらえるのか悩みます。ブリンクでもさせようかな。

[7111] 稲荷信仰について  MO 2006/02/20(Mon) 16:20 [Reply]
 十津川村の玉置神社に三柱神社があり、稲荷信仰の宇迦之御御魂神(うかのみたまのかみ)の元とといわれる倉稲魂神をご祭神としていることから、今は、全国の稲荷社の基といわれています。

歴史的な根拠はどうなのでしょうか?
教えてください。

[7110] 書き忘れ。  ro. 2006/02/20(Mon) 04:48 [Reply]
少なくても伊香色謎命はそうだと思います。
こちらの掲示板のログはどこで見られますか。

[7109] 質問。  ro. 2006/02/20(Mon) 04:36 [Reply]
教えてください。
○伊雑と物部は同祖ですか。
○伊勢津彦と物部氏はさかのぼれば同祖ですか。
○伊雑宮の社紋のある伊勢の参道の宿駅として伊勢津彦に伊勢は津でもつ津は伊勢で
もつというほど繁栄していたそうです。
○どうして日本の時代劇は同じような時代の箇所ばかりで、国つくりや
出雲の時代を放送しないのですか。教科書にしてもそうです。
○経津主大神とは誰ですか。
○物部氏は出雲系ですか。
○物部氏は聖徳太子や秦氏の絵の雰囲気に系統が似ています。
出雲系とも似ていますか。

物部氏はイスラエルから来たユダヤ人だと思います。秦氏も空海も伊勢津彦も藤原も現代の一般的な名前ももその他かなり多く調べました。
一見他民族かと調べるとさかのぼれば同じとこからに思います。(ユダヤは他民族と血を交えない特色があります)
明治位から一般にも徳川など使うようになったので、
それ以降の名字に関しては定かではありません。
その名字を名乗っている人が一番よく知っていることだと思います。

なのでそれ以前から名字を持っていた物部らのルーツがあります。
名字は中国からで、イスラエル十支族は中国経由できました。


三大お田植え祭や伊雑宮関連で調べていた香取神社のサイトがリニューアルしました。
ttp://www.katorijinja.or.jp/

リニューアル前に書かれていた武甕槌大神や、十拳剣の天之(伊都之)尾羽張に
ついての記述がなくなり、祭神の経津主大神についても、
リニューアル前は伊波比主命と注意書きがされていたのに説明さえも
ありませんでした。誰が経津主大神と聞いて伊波比主命と思うでしょう。
伊雑宮の祭神にしてもそうです。要するに日本三大お田植え祭に共通して出雲の雰囲気があったのです。
どれにも祭神や神社など伊雑宮や伊勢と関連させると興味を持っていたのです。
籠神社の真名井のダビデ紋(カゴメ紋)に関しても、どうして注意書きもせずに歴史を
そのまま記載しないのでしょう。

これでは始めてみた人は前からそうだったと、カゴメ紋がそこで発掘されたことも
そこの祭神の本当の名前も知りません。さかのぼると出雲や物部氏に行きます。
イスラエルと関連させて調べなければ知らなかったかもしれません。
なぜ隠すのかがわかりました。この物部の祖はアマテラスよりも先に
日本に来て文明を作った人だからなのですね。八百万もの神々が共存し、
全国に社や神社を建てた信仰のあつい人たち(国家神道ではありません)。

集落というよりはいわば物部氏の場合幽閉で、
にもかかわらず皇族にその血を入れているので隠すのでしょうか。
しかしユダヤ(物部氏)は自ら他民族と血を交えません。

教えてください。
よろしくお願いします。

[7108] PONTAさん   [Url] 2006/02/19(Sun) 23:47 [Reply]
返事ありがとうございます。

現在、三河国府、穂の国造を明確に否定できるだけの根拠がないので、とりあえず、東三河側の主張も1つの説と捉えています。

ただ、木簡、墨書土器、木製甲片、古墳群、古代寺院(廃寺)などから、三河国の中心が碧海郡の安城市近隣であることは動かぬ事実です。

岡崎、西尾、刈谷、東三河側からすると面白くないかもしれませんが、事実なので。

安城は田んぼばかりで田舎で、岡崎は城下町で都会。これは子供の頃の印象です。ただ歴史を調べると、徳川宗家は、安城から岡崎へ移動しています。
知立宿、岡崎城下、西尾城下、吉田城下、豊川稲荷など、全部江戸時代以降の話しです。

日本史の中で、安城が中心といえる活躍をした時代は、確かに3回です。

古代の飛鳥〜奈良時代、戦国時代初頭の安城松平家、明治維新後の明治用水開削。

古事記を見ていて気付いたのですが、7) 孝元天皇のところで、長谷部君と桜井臣が出てくるんですよ。で、これは石神遺跡木簡にある長浴部直と桜井君ではと思ったのです。君、臣、直など意味はどれも似たようなもので、長浴部は、碧海郡長谷部郷のことで、評制度下の木簡表記です。また、桜井というと奈良県桜井市のことだと言われますが、石神遺跡木簡は最古で、碧海郡桜井郷の地名が古いことを物語っています。

河内国にも桜井郷がありますが、近くに石川という川があり、石川氏発祥の地と言われ、安城市桜井も徳川家康の家臣の石川数正、石川丈山など石川氏の拠点であり、関連性が指摘されます。
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.30.27.960&el=135.37.4.174&la=1&sc=4&CE.x=238&CE.y=143




[7107] 稲荷信仰?  末摘花 [Url] 2006/02/19(Sun) 22:39 [Reply]
また お邪魔します。豊川稲荷は、真言宗でしたよ 
豊川稲荷は、弘法太子の影響で、真言宗系に成った <a href="http://www.niigata-u.com/files/ngt2003/inari1.html">稲荷信仰</a>従来 スサノウの命の皇子だった稲荷信仰の過程の中で 托枳尼眞天が 祀られているのは、知りませんでしたが、
狐は、田の神さま又は、幸福を、齎すので、稲荷信仰と、狐が、一対になったと されていますが、平安以前は、神様だった? 弘法太子が、真言宗と稲荷信仰を、合体させたと ありますが

[7106] Re[7097][7092][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/19(Sun) 21:59 [Reply]
> 豊川稲荷という名称が、それを表しています。
> 豊川ダキニが信仰の対象ではなく、あくまでも豊川稲荷。つまり神です。

あなたのように「稲荷が「神を祀った神社」であるという理由を示しなさい。」とは言いませんが、・・・
豊川稲荷の話ではありませんが、最上稲荷で祀られているのは、中央に祀られているのが、ご本尊の最上位経王大菩薩で、向かって左側に祀られているのが、八大龍王尊で、向かって右側に祀られているのが、三面大黒尊天です。総称は「最上三神」ですから、「神」という言葉に注目すれば神ですが、お寺ですから主祭神ではなく、「ご本尊」という言い方をしています。これが神仏習合の実態であって、神か仏か区別するのが困難であることは確かですね。

[7105] パソコンが壊れた。  神奈備 2006/02/19(Sun) 21:49 [Reply]
Windowsが正しく開始できませんでした。
   ・
   ・
セーフモード
  ・
  ・
正常起動

どれかを選んで再起動して下さい。


で、何をやってもその画面に戻ってしまう。トホホ。

で、昔のPCでモデムで接続。

先ほどまでにメールを頂いた方々、応答出来ませんのであしからず。

[7104] Re[7097][7092][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/19(Sun) 21:40 [Reply]
> 豊川稲荷という名称が、それを表しています。
> 豊川ダキニが信仰の対象ではなく、あくまでも豊川稲荷。つまり神です。

「稲荷」という名称だから神社で、祀られているのは神だという発想はあまりにも短絡的ですよ。
名前にとらわれていると実態が見えなくなることがありますので、気をつけたほうがいいですよ。

豊川稲荷のパンフレットには、稲荷信仰には仏教系と神道系があるとしています。
仏教系稲荷で有名なのが、豊川稲荷と、最上稲荷です。(伏見稲荷とあわせて「日本三大稲荷」と言う方もおられます。)
最上稲荷の公式サイト
http://www.inari.ne.jp/
の「Q&A」に「最上さまは神社ですか。お寺ですか」があり、「最上稲荷はお寺で、正式名称を「最上稲荷教総本山妙教寺」といいます。明治の神仏分離令の際、他の神社仏閣とは違い「神仏習合」の祭祀形態が許されました。ですから、鳥居もありますし、神宮形式の本殿なのです」と答えています。

[7103] Re[7093]: PONTAさんへ  PONTA 2006/02/19(Sun) 21:31 [Reply]
> 三河国府の実態となぜ東三河側に設置されたのか?穂の国造の正体など、
> まだまだ不明点が多く、遺跡や出土品、神社の古文書など、新発見で古代史が覆るのが楽しみです。

とても楽しみです。
これからも研究を続けていこうかとは思っていますが、それが「政教分離の原則にも抵触しかねない恐ろしい発想」であれば中止します。で、なぜ郷土史の研究をしたいという発想が政教分離の原則にも抵触しかねない恐ろしい発想なのでしょうか?

>東三河側に設置されたのか?
あれ?「国府は東三河にはなかった」説をとられておられるのでは?
>穂の国造の正体
あれ?「穂国はなかった」説をとられておられるのでは?

[7102] Re[7098]: 万葉集の三河も全部東三河ですか?  PONTA 2006/02/19(Sun) 21:26 [Reply]
> これも、東三河お得意の郷土史家(江戸中期以降の国学者)の提唱と自治体の強引な史跡造りですよね。

『万葉集』のページは、東三河の研究者の研究をベースにしていません。『万葉集』の解説書にある推定地へ行ってのレポートです。たとえば、「引馬野」については、解説書に「御馬説(斉藤茂吉)、知立説(契沖)、浜松説(賀茂真淵)とありましたので、その3ヶ所へ行って、どの説が正しいのか自分なりに考えてみた」というレポートです。「引馬野」を地図で探し、「ここだと」と決め付けて、我田引水的に独自の論を進めるという方法をとっていないので、

>私は、PONTAさんは、東三河人の中でも比較的冷静に郷土史を書いているほうだと思った

という印象をもたれたのだと思います。ちなみに、PONTA編集部員は岡崎市民&浜松市民であって、東三河人ではありません。東三河は中間点なので、集まって研究するには便利だということもあります。


[7101] Re[7096][7092][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/19(Sun) 21:15 [Reply]
> 托枳尼眞天が「仏」であるという理由を示しなさい。

命令ですか?(もうちょっとやさしい言い方はできないのでしょうか。テストみたいです(笑))

豊川托枳尼眞天とは荼枳尼天のことですから「仏」です。
ですが、「天」です。「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けられ、「天部」の仏様はバラモン教の神々が仏教に取り入れられ、仏教の守護神となったものの総称です。ですから、「もとはバラモン教の神だから」「仏教の守護神だから」神であると主張される方もいますね。

[7100] Re[7097][7092][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/19(Sun) 21:03 [Reply]
> 一般に、
> 寺院内にある大黒天にも弁財天にも柏手は打ちません。
> 神社に祀られた大黒天や弁財天には真言を唱えません。

もっと分かりやすく、適切な例をあげると、ご存知だとは思いますが、伏見稲荷には真言があるのです。しかし、伏見稲荷は誰もが認める神社です。
神仏習合後は神と仏の区別が難しくなっていますね。
区別する必要があるかどうかはまた別の問題ですが。

[7099] Re[7095][7091][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/19(Sun) 20:59 [Reply]
> 無意味な言いがかりに対して、書き込み禁止として防衛するのは、
> 管理人運営者の義務であり権利です。

そのとおりです。
でも、先輩の書き込みは言いがかりではなく、HPに記載されている事項の明らかな間違いを指摘し、直した方がいいと書き込んだだけですけどね。他のサイトの主催者は、誤りを直し、ページの最後に更新情報としてあやまりがあったことを謝罪したと聞いています。

[7098] 万葉集の三河も全部東三河ですか?   [Url] 2006/02/19(Sun) 20:54 [Reply]
これも、東三河お得意の郷土史家(江戸中期以降の国学者)の提唱と自治体の強引な史跡造りですよね。

引馬野に 匂ふ榛原 入り乱れ 衣匂はせ 旅のしるしに
>>>>>>>>
引馬野は、知立でも御津町でも浜松でもないのでは????

知立の馬市は、江戸時代のことです。浜松は、初見が引間です。(吾妻鏡、鎌倉時代)御津町に至っては、引馬神社とか御馬とか捏造だというじゃないですか??

木簡と万葉仮名(上代特殊仮名使い)で解読すると、

木簡にこうあります。参河国播豆郡 熊来郷 物部馬万呂五斗 景雲元年十月十日

浜松の引馬(馬込川、曳く馬)と相似象の地形を探ると、矢作古川西岸の西尾辺りが浮かびます。ここは、西尾市熊味町で八ツ面山に近いです。熊来郷(能束郷)と思われます。ひくま=ひ熊か? 物部氏の馬万呂は、馬を飼育していたのでしょうか?物部氏は軍事担当の氏族ですから。近くに、駮馬という地名がありました。

で、榛原(はりはら)ですが、播豆郡の播(はり)です。幡豆という表記ではありません。播磨の播(はり)でもあります。芳図(はず)とも書くので、香ばしい匂いとも合います。

>>>>>>>>>>>>>
で、連続して、次の歌は、幡豆郡の海岸のことでしょうね。しはと (磯泊・乏波止)の郷のことでは?木簡にも、之者津とあります。港のことです。
宝飯郡では、度津(わたつ)が、豊川西岸の渡し場にあるだけで、他に津はないです。

いづくにか 船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚無し小舟

>>>>>>>>>>

水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去

これですが、推測ですが、碧海(あおみ)は、青見とも書く。青は、赤の次ですね。また、海(み)と水河(みかわ)で、2つのみか???

矢作川と油が淵周辺の入り江(当時は海)があるけど。

三川は、参河でもあるので、参道と同じ使い方ですよね。
一応、矢作古川(本筋)と油が淵(衣浦へ続く)で、2つに分かれるけど、矢作川は。

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る

直前に尾張国の海岸部のことが掲載されているので、次は西三河の海岸のことでは?通常、三川国といえば西三川側のことだし、宝飯郡を特に指定する場合、各書でも三川の穂とかの記述になってることが多い。

>>>>>>>>>>>>
以上、独断で書きましたが、あくまで推測なので。

万葉集は奈良時代のことなので、当時の史料に近い形で推測しました。

万葉仮名が、当て字ということ知っていますよね??

加牟(かむ)は、神・上のことです。

[7097] Re[7092][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  玄松子 2006/02/19(Sun) 11:05 [Reply]
また、読み飛ばしてしまいました。


> 確実ではないでしょ。
> 繰り返しになりますが、私は、豊川稲荷は豐川托枳尼眞天を祀っています。仏であるから、お参りするときも手を打ちません。真言を唱えます。

今は、お寺の境内にあるため、神社形式での参拝はしない、ということです。
神社で真言を唱える方も居ますが、神を仏と認識しているわけではありません。

一般に、
寺院内にある大黒天にも弁財天にも柏手は打ちません。
神社に祀られた大黒天や弁財天には真言を唱えません。

これらは、参拝の形式であって、大黒天や弁財天がインドの神であることは確実です。
本来、日本の神や、仏ではありません。
日本の神と習合し、現在は日本の神と認識されているものです。
ダキニ天が、稲荷神と習合し、日本の神となったのであれば、それは日本の神です。
豊川稲荷という名称が、それを表しています。
豊川ダキニが信仰の対象ではなく、あくまでも豊川稲荷。つまり神です。

[7096] Re[7092][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  玄松子 2006/02/19(Sun) 10:43 [Reply]
> 確実ではないでしょ。
> 繰り返しになりますが、私は、豊川稲荷は豐川托枳尼眞天を祀っています。仏であるから、お参りするときも手を打ちません。真言を唱えます。

托枳尼眞天が「仏」であるという理由を示しなさい。

[7095] Re[7091][7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  玄松子 2006/02/19(Sun) 10:35 [Reply]
> 私はテーマを絞って検討したいために横道にそれていく可能性がある発言は避けた方がよろしいかと忠告しただけですが、

テーマをはずしているわけではありません。
テーマをはずしたからといって、非難されるべきでもありません。
テーマをはずした書き込みに対し、非礼な嫌味や中傷が許されるわけではありません。


> ただ、某掲示板のようにPONTAの書き込みを禁止してよしとしてしまうというやり方も非礼だと思いますよ。

書き込みの許可/禁止は非礼でも無礼でもありません。
無意味な言いがかりに対して、書き込み禁止として防衛するのは、
管理人運営者の義務であり権利です。

[7094] Re[7093]: PONTAさんへ  神奈備 2006/02/19(Sun) 09:03 [Reply]
> 三河国府の実態となぜ東三河側に設置されたのか?穂の国造の正体など、
まだまだ不明点が多く、遺跡や出土品、神社の古文書など、新発見で古代史

が覆るのが楽しみです。

 本当ですね。既にその資料が目の前に山と積まれているのかも知れません



> 荼吉尼天が神仏習合で稲荷神と考えられた時点で、豊川稲荷は仏ではなく神を祀っていると思われたのでしょうね。

 神か仏か、神仏習合の時代には区別がなかったのではないでしょうか。神仏習合とはいい考え方だったと云うこと。

[7093] PONTAさんへ   [Url] 2006/02/18(Sat) 23:31 [Reply]
私は、PONTAさんは、東三河人の中でも比較的冷静に郷土史を書いているほうだと思ったので、ここで発言させてもらいました。

私自身、三河国および東三河・遠州・南信州地域の歴史実情を調べて、あまりにも史実と異なることが記載されているので、怒りを通り越して呆れてさえいます。

東三河側の都合のいい視点で歴史を書いて、西三河・尾張・美濃・伊勢・駿河・伊豆など他地域の実情歴史を調べていないのです。また、日本史(中央の正史)もほとんど無視です。

東海日日新聞、東愛知新聞は、東三河の実態を知るのに参考にしています。

東三河が発展するのに過去の歴史ではなく、新しい名前を旗印・ブランドとして普及させればいいのに、それをしない。

豊田市は、トヨタ自動車の発展を祈願して、挙母という古代以来の呼称を捨てて、誕生していますよね??

この市町村合併という千載一隅のチャンスを逃して東三河圏一体化を図るのに失敗したのは痛いですよ。

三河市(三河ってもともと西三河側のことのはず、三河ナンバーは西三河だし)、穂の国市(実在が疑わしい穂の国)とか、メチャクチャですよね。

三河国府の実態となぜ東三河側に設置されたのか?穂の国造の正体など、
まだまだ不明点が多く、遺跡や出土品、神社の古文書など、新発見で古代史が覆るのが楽しみです。

[7092] Re[7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/18(Sat) 22:30 [Reply]
> 豊川稲荷が神を祀ったものであることは、確実ですよね。

確実ではないでしょ。
繰り返しになりますが、私は、豊川稲荷は豐川托枳尼眞天を祀っています。仏であるから、お参りするときも手を打ちません。真言を唱えます。
最初は寒巌禅師が彫った荼吉尼天像、つまり仏像を祀ったわけですが、荼吉尼天が神仏習合で稲荷神と考えられた時点で、豊川稲荷は仏ではなく神を祀っていると思われたのでしょうね。それで明治政府は豊川稲荷を秋葉神社のようにつぶそうとしたのですが、当時のお坊さんが荼吉尼天の由来を説明して、仏だからお寺だからと理解してもらったので、つぶされなかったのですよね。

[7091] Re[7089][7084][7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/18(Sat) 22:21 [Reply]
> この書き込み、かなり非礼じゃないですか?

私はテーマを絞って検討したいために横道にそれていく可能性がある発言は避けた方がよろしいかと忠告しただけですが、掲示板は文字情報しか書き込めないので、誤解もされることもあるでしょうね。また、それは私の役目ではなく、管理人の役目であって、でしゃばりすぎたかもしれません。ただ、某掲示板のようにPONTAの書き込みを禁止してよしとしてしまうというやり方も非礼だと思いますよ。

[7090] Re[7083]: 神奈備 さん  PONTA 2006/02/18(Sat) 22:15 [Reply]
> 政教分離の原則にも抵触しかねない恐ろしい発想ですね。

郷土の歴史を調べる一環として神社の歴史を調べる。
これのどこがどう政治とか政教分離とかと関係するのですか?

[7089] Re[7084][7081][7072]: 豊川稲荷  玄松子 2006/02/18(Sat) 22:11 [Reply]
> なるほど。
> 確かに、先日、「寺道」(寺が5ヶ寺隣接している寺町)を歩いたのですが、2ヶ寺に稲荷社、1ヶ寺に天神社が境内にあり、1ヶ寺は神社が無いけど名前が「神宮寺」で、神社がなかったのは1ヶ寺だけでした。神社には厳しく、寺には甘いのかな。


豊川稲荷が神を祀ったものであることは、確実ですよね。

で、

> お分かりになられないのでしたら、問題をすりかえずに、掲示板の流れに沿った発言をなさって下さいね。でないとこういうご発言は荒らしだと思われますよ。ここにはあなたを師と仰いでおられる方も来られますから、その方を失望させないためにも、ご発言には気を配られた方がよろしいかと思います。

この書き込み、かなり非礼じゃないですか?

[7088] Re[7087]: r さんPONTAさん  PONTA 2006/02/18(Sat) 22:08 [Reply]
> 荼吉尼天も弁財天もヒンドゥー教の神で、仏様ではないようです。日本に入ってきて神と見なされたのでしょう。

荼吉尼天はジャッカルの化身(日本人はジャッカルを知らないので、狐とした。ライオンを知らなくて犬にするようなもの)、弁財天は川の化身だとか。ただ、インドの神を神だからといって日本の神社に祀るというのは感覚的に奇妙です。たとえば、イエス像は教会にあるからいいのであって、神社にあったら変です。(イエスは神ではなく、御子ですが、三位一体説だと神ですね。)実際には日本の神社には韓神等、外国の神も祀られていますけどね。

> おっしゃる通り、東三河のサイトには地域ナショナリズムが見えることがありますね、特に”穂の国”の呼び方にも出ているのかも。

郷土のことを研究してるのは、郷土のことを知りたいということと、郷土なら図書館に資料が揃ってるし、実際にその場所へ行って調査できるということからです。私が京都に住んでいれば京都の、奈良に住んでいれば奈良の郷土史を研究していたと思います。
郷土愛が強いと、「●●市、万歳!」から「隣の■■市はダメ。私たちの●●市は最高!」と、周囲をけなしてしまう、度が過ぎてしまうことがありますね。

[7087] r さんPONTAさん  神奈備 2006/02/18(Sat) 21:43 [Reply]
> そこに神ではない仏の荼吉尼天を祀

荼吉尼天も弁財天もヒンドゥー教の神で、仏様ではないようです。日本に入ってきて神と見なされたのでしょう。

 r さん、ありがとうございます。
おっしゃる通り、東三河のサイトには地域ナショナリズムが見えることがありますね、特に”穂の国”の呼び方にも出ているのかも。

 所で、PONTAさんは正々堂々ですが、下記のページのように穂の国を喧伝する割にセコイ事をする輩がいます。穂の国に五十猛命、丹生都比売命は関係ないでしょう。
http://164.46.123.81/honokunigamagoori/h-nenpyou.htm
は小生の
http://kamnavi.jp/ki/ooken.htm
の昔のをコピペして穂の国を付け加えたものです。挨拶はなし。

 もう一つの穂の国も、散々人に質問をしておいて、こちらの答えをいかにも己の考えの如く書いているものがありました。これもセコイ。

[7086] Re[7083]: 神奈備 さん  PONTA 2006/02/18(Sat) 21:23 [Reply]
> PONTAさんに言ってるんですよ。東三河代表として研究されてるようだし。

私がここに書き込む前に、すでにrさんの書き込みがありますが、あれらの書き込みも私たちに対してですか???

[7085] Re[7083]: 神奈備 さん  PONTA 2006/02/18(Sat) 20:24 [Reply]
> PONTAさんに言ってるんですよ。東三河代表として研究されてるようだし。
> 三遠南信構想とか三河国府・穂の国というのは、単に歴史を研究しているのではなく、東三河圏の地位拡大・ナショナリズムの高揚・地域圏一体化の堅持など、政治的思惑が背景にあるものですね。

別に代表して研究してるのではなく、単に興味があるだけです。研究対象は「興味を引かれるのも」であって、東三河だけではないですし。政治的背景もないのですが・・・前に先輩がSさんに政治的背景がどうのこうのと言われ、その掲示板でSさんは書込み禁止にされたたそうですが・・・。どのへんにどういう政治的背景が表れているのか分からないので具体的に指摘して下さい。たとえば、「●●教、万歳!」と書けば、その宗教を支持している政治家だと思われるかもしれませんが。

[7084] Re[7081][7072]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/18(Sat) 20:15 [Reply]
>神社境内にお邪魔している寺院(神宮寺など)を廃止して神仏分離を図ったわけで、寺院のなかの鎮守社については別にどうでもよかったのでは。

なるほど。
確かに、先日、「寺道」(寺が5ヶ寺隣接している寺町)を歩いたのですが、2ヶ寺に稲荷社、1ヶ寺に天神社が境内にあり、1ヶ寺は神社が無いけど名前が「神宮寺」で、神社がなかったのは1ヶ寺だけでした。神社には厳しく、寺には甘いのかな。

豊川稲荷と似たものに秋葉大権現があります。
秋葉寺があり、そのすぐ裏(実質的に境内)に鎮守社としての秋葉神社があり、天狗の三尺坊が祀られていました。
神仏分離令により、三尺坊は曹洞宗可睡斉に移され、秋葉神社は廃社。
地元民の強い要望で火之加具土大神を祭神として再建されます。
http://www.akihasanhongu.jp/
天狗は神ではなく、神社に祀ってはいけないということでしょう。

妙厳寺の場合は境内に鎮守社があり、荼吉尼天を祀るわけですから、鎮守社=神社とすると、そこに神ではない仏の荼吉尼天を祀るとはけしからんとなりそうなものです。というか、実際にそうなったわけで・・・PONTAのサイトに書きましたが、豊川稲荷や知立神社は要領がよくて法の抜け道を通り、秋葉神社は要領が悪かったとしか思えません。

[7083] 神奈備 さん   [Url] 2006/02/18(Sat) 19:46 [Reply]
ご忠告ありがとうございます。

PONTAさんに言ってるんですよ。東三河代表として研究されてるようだし。

三遠南信構想とか三河国府・穂の国というのは、単に歴史を研究しているのではなく、東三河圏の地位拡大・ナショナリズムの高揚・地域圏一体化の堅持など、政治的思惑が背景にあるものですね。

政教分離の原則にも抵触しかねない恐ろしい発想ですね。

三河国府、穂の国、三河一の宮は、西三河側に対する影響が大きいです。

各種サイトに流布している三河国の歴史および愛知県成立の歴史に大きな影響を及ぼしています。

[7081] Re[7072]: 豊川稲荷  神奈備 2006/02/18(Sat) 09:38 [Reply]
> 神社であれば、明治の神仏分離令により妙厳寺の境内にはないはず。

 面白い発想ですね。神社境内にお邪魔している寺院(神宮寺など)を廃止して神仏分離を図ったわけで、寺院のなかの鎮守社については別にどうでもよかったのでは。
 日本の神は本地仏であるとの観念の否定と云うことだった。

[7080] Re[7079]: 神代文字 お笑いです。  神奈備 2006/02/18(Sat) 09:22 [Reply]
 掲示板の席亭から r さんに申し上げます。

投稿して頂くことは、席亭としましては誠にありがたいことですが、その意図がよく判りません。今のままで、誰も応答も反応もないままでしたら、これは単に「掲示板アラシ」に過ぎません。

 連続投稿をお控え下さい。連続投稿をなされたら、発見次第削除いたします。

 貴殿の博識には敬意を表しますし、主張には肯ける所もありますので、一件一件をを大切扱って下さい。そうして頂ければ、貴重な存在になると思いますが・・


[7079] 神代文字 お笑いです。   [Url] 2006/02/18(Sat) 05:16 [Reply]
拝殿の屋根瓦には「神代文字」を刻まれている。
多分、阿比留文字と呼ばれるもの。
丸の中の文字は、∪ト(ア)と∧|(シ)。
瓦の端に刻まれているのは、コ⊥(ロ)、∧|(シ)、エト(ヤ)。
で、阿志(アシ)社(ヤシロ)と刻まれているようだ。


http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/mojizukan.htm

ここまでやるか???東三河人よ!!神代文字は後世の捏造で結論出ている。

ヤマト朝廷以前に、地元に古代王国があったということにしたいんだろ?

[7078] 岡崎市の稲前神社   [Url] 2006/02/18(Sat) 05:01 [Reply]
延喜式所載、三河国26座の内の額田郡2座の一つである。此の地は、伊勢神宮の神領地であったところから、伊勢神宮に奉納する稲を入れて置く神倉があったといわれている。


伊勢神宮と関係のある神社は、西三河のほうじゃないか!!!
東三河が関係が深いとか、捏造しやがって。
http://www.genbu.net/data/mikawa/inakuma_title.htm

他にも、当時は幡豆郡だったヒマカ・シノ・サク島の離島三島は、伊勢神宮領で貢物を納めたと記載の木簡が多数出土している。

東三河(豊橋、田原)の神戸、御厨、御園が、鎌倉以降の神明社領だということが既に明白。

ちなみに、岡崎市北部から豊田市にかけて、熱田神宮の荘園もあったらしい。

伊勢神宮や熱田神宮と関係があるのは、西三河ですよ!!

[7077] 牛川原人捏造した豊橋   [Url] 2006/02/18(Sat) 04:24 [Reply]
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E3%80%80%E7%89%9B%E5%B7%9D&ei=UTF-8&meta=vc%3D&fl=0&u=www2.cc22.ne.jp/%7Ehiro_ko/9-4oldstonage.html&w=%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8+%E7%89%9B%E5%B7%9D&d=DqoS4m1aMRpu&icp=1&.intl=jp

馬場氏はまた、愛知県豊橋市で57年に発見された「牛川人骨」についても、「人骨ではない。ナウマンゾウの子供の腓骨(ひこつ)の可能性がある」と指摘する。馬場氏は「これまでもこうした指摘は重ねてきたが、今回、シンポジウムという公の場で考古学者と議論できる意義は大きい」と話している。

[7076] メチャクチャ!!!   [Url] 2006/02/18(Sat) 03:46 [Reply]
穂の国インチキ(旧事紀は平安時代の偽書です)、伊勢神宮領もインチキ(実際は、神明社のことだ)

鎌倉時代に、豊川に今橋が出来た??おいおい!!!
三州吉田記には、酒井忠次が、初めて豊川に架橋とあるぞ!!!

「元亀元年(1570)酒井忠次が初めて豊川に架橋したのもこの場所である。「三州吉田記」に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、天正19年(1591)この土橋を船町へ移すと記す。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E3%80%80%E6%9E%B6%E6%A9%8B&src=top&ei=UTF-8&u=www5a.biglobe.ne.jp/%7Ekota-k/new_page_28.htm&w=%E8%B1%8A%E5%B7%9D+%E6%9E%B6%E6%A9%8B&d=NVADr21aMRLS&icp=1&.intl=jp

[7075] 砥鹿神社由来の「穂の国」の中心地   [Url] 2006/02/18(Sat) 03:41 [Reply]
一宮町は、古くは砥鹿神社由来の「穂の国」の中心地と言われる一方、豊川市は国府が置かれ、ともに長い歴史と伝統文化がある。

>>>>>>>>>>>
砥鹿神社由来の「穂の国」の中心地って、三河一の宮じゃなかったのかよ???
何の史料の提示もなしに名乗って、あたかも昔からそうであるように宣伝して。





[7074] 本茂山だよね???   2006/02/18(Sat) 03:08 [Reply]
本宮山の本名。トガ神社奥宮を呼称するために、本宮山に変えたんだろ。

本宮山=地上波アンテナの方角という認識しかないですよ。

西三河じゃ、これが常識。トガ神社は誰も知りません。豊川稲荷は知ってるけど。

古来の名前を簡単に変えてしまうところが、あやしい出自を物語っている。

トガ神社も相当あやしい神社のようですよ。史料見ると。

[7073] 豊橋の歴史の捏造   2006/02/18(Sat) 03:01 [Reply]
平安時代後期には、律令制の崩壊と共に、伊勢神宮下の御厨、御園、神戸が多くおかれた(飽海神戸、吉田御園)。又、土豪などによって荘園も作られた。鎌倉時代、1300年頃に飽海川(あくみがわ、現在の豊川)に橋(今橋)が架けられ、交通における重要度が増加した。http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E5%B8%82&oldid=4297904

>>>>>>>>>>
 「元亀元年(1570)酒井忠次が初めて豊川に架橋したのもこの場所である。「三州吉田記」に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、天正19年(1591)この土橋を船町へ移すと記す。

豊川に最初に橋を架けたのは酒井忠次(家康の家臣)ですよ。今橋って言うのは、今橋城(吉田城)のことですよ。橋の名前じゃない。

呆れてモノが言えない。豊橋市の歴史捏造に。鎌倉時代の東関紀行を見ても、架橋はされていないし。

豊橋の由来は、この今橋で、今川氏の家臣だった牧野古白によって築城された。
今川の橋で今橋だろ、おそらく。橋の名前や地名ではない。
すぐに吉田城に改称されるので、当時は吉田と呼ばれていた。また、豊川は吉田川と当時呼ばれていた。(古代の飽海河の呼称)

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E3%80%80%E6%9E%B6%E6%A9%8B&src=top&ei=UTF-8&u=www5a.biglobe.ne.jp/%7Ekota-k/new_page_28.htm&w=%E8%B1%8A%E5%B7%9D+%E6%9E%B6%E6%A9%8B&d=NVADr21aMRLS&icp=1&.intl=jp


[7072] Re[7070][7061][7060][7059][7058][7052]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/17(Fri) 23:48 [Reply]
お寺を建てると同時に鎮守社を建てるわけで、
たとえば、国分寺を建てるとその近くに八幡神社を建てるわけで、
それが豐川閣妙厳寺と豊川稲荷の関係で、
豊川稲荷=鎮守社=神社
ということなのでしょうが・・・

私が悩んでいるのは、
1.鎮守社をなぜお寺の境内に建てたか
2.鎮守社の神がなぜ日本の神ではなく、仏教の荼吉尼天なのか
です。

2については、「荼吉尼天は稲荷神だ」とすれば日本の神(稲荷神)なのかもしれません。
でも、荼吉尼天が稲荷神になったのはもっとあと(お寺の創建後)の事のような気がします。

私が勝手に「元豊川」と名付けた普済寺の場合、
鎮守社は寺の外(裏)にある日枝神社です。
(天台宗ではないのに日枝神社というのは変ですが。)
しかし、鎮守社として、境内に北山稲荷があります。
なぜ2つ?
私としては、後の世(荼吉尼天が稲荷神になってから)、日枝神社を沢の氏神社にして、新たに北山稲荷を鎮守社として境内に建てたような気がします。

両寺とも火災で古文書が焼けていますので、史料の無い推測ですが。

1については、江戸城の鎮守社の千代田稲荷神社が江戸城内にあったといいますから、境内にあってもいいのかなと思います。
(千代田稲荷神社が江戸城の外(渋谷)に遷座されたとき、江戸の人たちは「これで私もお参りできる」と喜んだそうです。)

[7071] Re[7058][7052]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/17(Fri) 23:24 [Reply]
> 枳尼真天像は、法祖寒厳禅師作で、九州の大慈寺にありました。
> 静岡県浜松市に広沢山普済寺という寒厳禅師開山のお寺があります。遠州の曹洞宗の禅苑の頂点に立つ寺で、末寺は400以上です。このお寺に、寒厳禅師の法弟の華蔵義曇禅師が、九州から枳尼真天像を持って来られて、境内に北山稲荷を建てました。(「北山」は寒厳禅師が京都の北山で生まれたことにちなむ。)
> 華蔵義曇禅師の法弟が天がん(石へんに問)義倫禅師で、浜松市に稲荷山(とうかさん)龍泉寺を建て、境内に稲荷堂を建てました。・・・・・寒厳禅師の六代目の法孫にあたる東海義易禅師が建てたのが妙厳寺です。枳尼真天像は法弟に受け継がれる相伝の像です。

すみません。
以前の書き込みで間違いがありました。
正しくは、
華蔵義曇禅師=寒巌義禅師5世法孫
東海義易禅師=寒巌義禅師6世法孫
普済寺の末寺の数=630ヶ寺
でした。すみません。
詳しくは↓
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/toyokawa/hime.htm
他にも間違いがあったら教えてください。

[7070] Re[7061][7060][7059][7058][7052]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/17(Fri) 23:22 [Reply]
> 豊川稲荷は神社ですね。だから本殿と云うのです。

そうではないと思うのですが、この問題を扱うにはまだ頭が整理されていません。
すみません。

[7069] Re[7068]: 歴史は、後世の捏造が多い  玄松子 2006/02/17(Fri) 20:35 [Reply]
意気込みは、なんとなく伝わりますが、
方法は、あまり良いとも思えません。

主張したいことがあるのなら、
このような掲示板に匿名で書き連ねても
誰も検証・評価はしてくれません。

ご自身でホームページを立ち上げて、
事細かに検討・研究した成果を発表してください。
お待ちしております。

[7068] 歴史は、後世の捏造が多い   2006/02/17(Fri) 19:14 [Reply]
由緒を偽り、都合の悪い情報を抹殺する。また、既存権力の正体を暴き、自らの正当性を語る黒歴史。

偽書の特徴。ニセ家系図の特徴。

豊臣秀吉は、農民だからな。

[7067] 日本神話。  ro. 2006/02/17(Fri) 06:19 [Reply]
国産みや天岩戸の解釈で、イザナギ(男神)が子供を産んでいるなど
神話としての要素以外に何か象徴があるように思えたので、
とりあえず遺伝子操作技術があったというのは省いていろいろ考えました。(笑)
イザナミ神、イザナギ神のどちらにも象徴され、漢字にした際も変わらないのはイです。
イスラエルのイかなとも思ったのですけど、イスラエルを漢字にすると
以色列なので違うかなと。これらはお米も現すと考えます。
次にザです。これは別にサ行でなくても濁点を要素に入れるとします。
次にナミ、ナギ、波、海です。要するにイザナミ神、イザナギ神は、イ、濁音、海や波を
現していると。そうするとイザナミ神、イザナギ神は物部氏(かなり省きます)ということになります。
海部氏や物部氏の祖神とされるニギハヤヒ、イには伊香色謎命の伊の要素を
入れてるんじゃないかなぁと。伊勢の伊かな。
伊香色謎命にイスラエルの色という漢字が使われてるのも
興味深いです。謎とつくことでさらに調べたくなりました。

しかし例えばイザナミ神、イザナギ神の子供のカグツチには濁点という要素が見られますが、アマテラス、
ツクヨミ、スサノオにはどの要素も見られません。しかもイザナギの男神からで、
かなりこじつけると、アマの部分を海と解釈してアマテラスです。

もしかしたらアマテラスは卑弥呼ではないでしょうか。
田んぼのイナゴの相談に伊雑の宮の大神に村の人が行くと、
大神はいなくてそこに昼みこというのがいて変わりに祈祷でイナゴを
追い払ったそうです。みこの漢字は忘れました。カタカナだったかもしれません。
これって卑弥呼がアマテラスになるまでの過程の出来事、期間と解釈することも
できそうです。昼は太陽を現し、みこは巫女で。
とりあえずこういう解釈もあるということで。

今回イスラエルの観点から検証すると、どうしても伊雑宮や真奈井ははずせません。
そこには中国の文化や要素が多く見られます。陰陽も稲作も暦だけではありません。
しかし中国に関することを調べようとすると奇妙というか(かなり省きます)、
物部氏らをイスラエル人(ユダヤ)と仮定を正しいとすることを強めると(かなり省きます)、
また始皇帝の始祖である秦氏に関してもそうです。秦氏もまた物部らと同祖であるといえます。
これらの矛盾がどこからくるのかわかりませんでした。
何というか名称としての百済だったんですね。

今までいろんな意味で日本史の概要しか知らなかったんだなぁと思いました。
ほとんど日本史に関しての知識がなかったことや先入観のなかったことが逆によかったのかもしれません。
それだけに調べながらいろんな気持ちになりました。本当の日本史は旧約聖書からアプローチしないと
わからないんじゃないかと思ったりもします。それと比較することで生じる矛盾や疑問を追及することで日本史が見えたからです。
そういうパッと見ただけではわからない象徴も含めて解釈すると日本書紀等も正規の本といえるのかもしれません。
かなり省いて書いていることなどで何のことかわからない文かもしれません。

十支族は日本に来ていると思います。中国に少し残った人もいるかもしれません。
中国まできていることはわかっているらしいです。
人類はアフリカから来たという説が一般的ですし、
狛犬のルーツはエジプトのスフィンクスですけど、お稲荷さんの狐はジャッカルかな。
中国経由のエジプトですよね。エジプトといえばイスラエルです。(出エジプト記参照)
でも狐には化かすという解釈もできるのでこれも何かあるかもしれません。
なぜ欠史八代があるのか、秦氏の弓と餅と白鳥に姿を変えてのことも少しわかった気がします。

こちらでイスラエル人であれば神性を保持しないなどと言うでしょうかのようなことを書きましたが、それを訂正します。
天皇制度の皇室典範等を知らなかったからです。知っている人もいるのでしょうけど、
ある意味ひとつの側面からしか見ていなかったので。。。

日本史もおもしろいですね。ガチガチのイメージがあったけど、謎というかそういう部分がたくさんありそうです。
オリジナリティも。陰陽はもともとあんなに暗いイメージではなかったのかもしれないなとか、
音読みという中国風の読み方や訓読みを考慮したり。
わからないこともありますけど〜。ありがとうございました。

[7066] 羽田野 敬雄   2006/02/16(Thu) 18:29 [Reply]
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/tou117.htm

こいつだな。東三河の歴史の権威付けを行った張本人。


[7065] 東関紀行の国府記載   2006/02/16(Thu) 04:58 [Reply]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/tokan.htm#05

遠江国府、伊豆国府、記載あり。三河国府記載なし!!


[7064] 情報の信頼性   2006/02/16(Thu) 00:40 [Reply]
木簡>>>>>>日本書紀>>>古事記=偽書???>>先代旧事本紀

木簡が一番信頼できる。木簡から評(こほり)の制度が分かって記紀の信頼が揺らいだ。

記紀は、大和朝廷の全国支配の時期を明らかにさかのぼらせている。
だから、大化の改新で、郡制度が導入されたと書いた。

[7063] 日本総国風土記   2006/02/15(Wed) 23:52 [Reply]
偽書です。http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/books/koshikoden.html

偽書出典の由来を堂々と書くのは、やめてください。御津町とか東三河は。

偽書との疑惑の先代旧事本紀の国造と、古事記や日本書紀の国造が一致していないし。

出羽国の設置した年と、出羽国造が設置された年が同じなのはお笑い。
蝦夷征討の安倍比羅夫は、どこ行ったの?

三河国造、三川穂国造、参河国造、穂国造。どの表記が正しいのですか?
先代旧事本紀内でもゴチャゴチャですよ。

7世紀後半の石神遺跡木簡で、三川国になってるんだけど。
律令で参河(参川)。長岡京以降に、三河なんだけど。木簡では。

古事記、日本書紀、先代旧事本紀、言ってることがバラバラですよね????

[7062] Re[7060][7059][7058][7052]: 豊川稲荷  玄松子 2006/02/15(Wed) 19:39 [Reply]
ズラズラと書き連ねている方が居たので、簡単に書きました。

・式内社で無いのは、時代が違うから。
・寺だからという理由は成立しない。


> 「そもそも創建は15世紀。」は私の「1441年」に創建という書き込みのアバウトな書き直しであり

あなたにとっての「問題」は、この部分ですね。

最近、長い書き込みの後半は、あまり重要ではないと判断してしまい、記憶に残りません(残しません)。
既に記されていたのなら、失礼しました。

[7061] Re[7060][7059][7058][7052]: 豊川稲荷  神奈備 2006/02/15(Wed) 19:30 [Reply]

> 「豊川稲荷」は、1441年に妙厳寺の山門守護として祀られた「豊川枳尼真天」の通称です。」(7050)と書きました。つまり、豊川稲荷は神社ではなく寺で

 PONTAさん、妙厳寺とその鎮守である豊川稲荷とをゴッチャに論じていませんか?
豊川稲荷は神社ですね。だから本殿と云うのです。

[7060] Re[7059][7058][7052]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/15(Wed) 16:03 [Reply]
>つまり”神”ということですよね。なにか問題ありますか。

大問題だと思いますが、お分かりになりませんか。
お分かりになられないのでしたら、問題をすりかえずに、掲示板の流れに沿った発言をなさって下さいね。でないとこういうご発言は荒らしだと思われますよ。ここにはあなたを師と仰いでおられる方も来られますから、その方を失望させないためにも、ご発言には気を配られた方がよろしいかと思います。

話を元に戻します(笑)
 流れを整理すると、rさんの「三河総社、大社神社、守公神社など、ぜんぶ式外社だ。」「なぜ、三河国府が延喜式式内社でないのか?」(共に7029)という問いに対し、神奈備さんが、7033で説明され、私が7037で補足説明をさせていただきました。
さらに、神奈備さんは、「所で、延喜式内社ですが、例えば京都の八坂神社、讃岐の金比羅さん、那智大社、豊川稲荷など大きい稲荷社なども記載されていません。」(7041)と書かれたので、私は「豊川稲荷は神社ではなく、お寺ですよね。」「「豊川稲荷」は、1441年に妙厳寺の山門守護として祀られた「豊川枳尼真天」の通称です。」(7050)と書きました。つまり、豊川稲荷は神社ではなく寺で、その成立は1441年(『延喜式』成立後)であるから式内社にはなりえないとコメントしたのです。
 そうしたら、玄松子さんの「そもそも創建は15世紀。」「ただし、縁起的には神を祀っており、現在も本堂ではなく、本殿という。」という書き込みがありました。これは何なのでしょうか。補足説明なのでしょうか。
 「そもそも創建は15世紀。」は私の「1441年」に創建という書き込みのアバウトな書き直しであり、何の意味があるのでしょうか。
 「現在も本堂ではなく、本殿という。」の書き込みの真意は私には分かりませんでした(苦笑)。私は、「本堂が無く、本殿があるのは不思議だ」と解釈させていただきましたので、本堂が無いのは当然で、法堂が無いなら不思議ですねという意味の書き込みをしたのですが、あなたは、私の「このお寺の鎮守として祀られた「豊川枳尼真天」の通称です。」の部分を取り上げて、「つまり”神”ということですよね。なにか問題ありますか。」と、「神か仏か。神なら問題なし」と新たな問題を提起されたので、困惑しております。ですが、今回のご発言により、「現在も本堂ではなく、本殿という。」の書き込みの真意は、あなたは豊川枳尼真天を神だと考えておられて、「神であるから、本堂ではなく本殿に祀られている」と言いたいのかなと気づきました。
 神か仏かの問題は大問題です(先日、秋葉山の調査をして痛感しました)ので、私はこの問題には触れず、「豊川稲荷がなぜ式内社ではないのか」という問題に絞って答えたつもりですが、私の真意があなたには伝わらなかったようで残念です。
 私が、式内社ではないのは、お寺だから、1441年創建だからと2つ理由を書いたために、こういう大問題が提起されてしまったのかと反省しています。1441年創設だからとだけしておけばよかったと反省しています。

nickさんの「このような掲示板はテーマを絞って投稿された方がレスを繋げ易い。ご配慮頂ければ嬉しいですが。」(7057)のご発言はとても大切です。

さあ、気分を取り直して、式内社の話に戻りましょう。「豊川稲荷がなぜ式内社ではないのか」というところまでは解決できたと思います。

[7059] Re[7058][7052]: 豊川稲荷  玄松子 2006/02/15(Wed) 09:49 [Reply]
> このお寺の鎮守として祀られた「豊川枳尼真天」の通称です。

つまり”神”ということですよね。
なにか問題ありますか。

[7058] Re[7052]: 豊川稲荷  PONTA 2006/02/15(Wed) 07:13 [Reply]
> ただし、縁起的には神を祀っており、現在も本堂ではなく、本殿という。
> らしい。

「豊川稲荷」というのは、「豊川閣妙厳寺」というお寺の境内にこのお寺の鎮守として祀られた「豊川枳尼真天」の通称です。禅宗では、「本堂」のことを「法堂」(「はっとう」と読みます)といい、本堂という名称の建物はありません。妙厳寺の法堂に祀られているのは千手観世音菩薩像で、これがこのお寺のご本尊です。しかし、現在では、お寺の鎮守神の「豊川枳尼真天像」の方が有名になってしまい、本殿を建てて祀っています。

枳尼真天像は、法祖寒厳禅師作で、九州の大慈寺にありました。
静岡県浜松市に広沢山普済寺という寒厳禅師開山のお寺があります。遠州の曹洞宗の禅苑の頂点に立つ寺で、末寺は400以上です。このお寺に、寒厳禅師の法弟の華蔵義曇禅師が、九州から枳尼真天像を持って来られて、境内に北山稲荷を建てました。(「北山」は寒厳禅師が京都の北山で生まれたことにちなむ。)
華蔵義曇禅師の法弟が天がん(石へんに問)義倫禅師で、浜松市に稲荷山(とうかさん)龍泉寺を建て、境内に稲荷堂を建てました。・・・・・寒厳禅師の六代目の法孫にあたる東海義易禅師が建てたのが妙厳寺です。枳尼真天像は法弟に受け継がれる相伝の像です。

先輩が豊川稲荷の方に質問しました。
Q.枳尼真天像は今、どこのお寺にあるのですか?
A.ここにあり、「豊川枳尼真天」と呼ばれています。
Q.普済寺と妙厳寺の関係は?
A.兄弟のようなものです。兄が普済寺で、弟が妙厳寺。弟の方が有名なのは大岡越前のおかげです。


[7057] Re[7053]: 東三河の曹洞宗  nick [Url] 2006/02/14(Tue) 16:19 [Reply]
> 曹洞宗って、越前永平寺が本山だから。鎌倉以降の新しい宗派。
こんにちわ。
帰郷してひょんな動機で始めた寺社探訪ですが。
「曹洞宗」のテーマーに釣られて。。笑。。
しかし内容がよく判らない。
いろいろな事をおっしゃりたいのは判らないでもないが、、、
このような掲示板はテーマを絞って投稿された方がレスを繋げ易い。
ご配慮頂ければ嬉しいですが。

[7056] 人面文土器出土の安城市   2006/02/14(Tue) 03:23 [Reply]
古墳時代前期最古の古墳、木製甲片、木簡、人面文土器。

古代寺院の寺領廃寺、別郷廃寺は、7世紀後半。

http://www.katch.ne.jp/~anjomuse/tenji/jinmenmon/jinmen.htm

[7055] Re[7048][7047][7041]: 木簡の情報無視するな。  末摘花 [Url] 2006/02/14(Tue) 03:00 [Reply]
> 末摘花さん、おはようございます。掲示板にようこそ。また貴さいとでのご紹介、ありがとうございます。
> 猫と云う動物はいつ頃日本に登場したのでしょうか。「窮鼠猫を噛む」これなんか古い言葉なのかな。
>
> 所で、延喜式内社ですが、例えば京都の八坂神社、讃岐の金比羅さん、那智大社、豊川稲荷など大きい稲荷社なども記載されていません。色々な理由があるのでしょうが、ひとつには生ものを神餞として受け付けないような仏の要素が強い所、八坂神社は祇園感神院と称していました。寺の雰囲気。多くの稲荷社もそういった存在だったのかも。
>
> [7047] [7041]:の引用が長いので、引用部分を消去させて頂いてよろしいでしょう
か?

はい そうして下さい削除していいですよ

 私の神社の祖 玄松子氏師と話が出来るなんて感激です。

那智宮が、延喜式内社に入って無いのですか? 稲の神紋(豊川稲荷は神社か?そうでないかと、随分何か 課題を、作ってしまいましたね 個人的に、稲ですから熊野系の神社だったと、思っています。多いんですよ、この愛知では、熊野系が、鈴木氏のホーム・ページで、話題に成った 鈴木孫一のせいだと、思います。身を、隠す為に、名前を、変えた(想像の過程です。)猫については、物知り博士が、お見えに成っているようなので、コメント控えます(実は全く知らなかったm( _ _ )m)

延喜式内社に、入ってなくて 有名な 神社は、もっと 沢山あります。それは、朝廷が、政治を、行なうその他で、其処まで、回らなかったものと、色々あるのでは、何処かの神社を、見たときに、何故延喜式内社では、無いのかと、調べたらそう成った

それから 門脇禎二氏の本からなんですが、三輪山の北(大神神社)に出雲と言う名前に、成ったのは、平安時代らしいです。 それ以前は、葛城国造で、西部が出雲国造(杵築社が出雲大社になった) 葛城東部は、もともと熊野神社に、使えていたので、熊野に2分したと あります。五世紀「三輪山の古代史」門脇氏から引用

[7054] 東三河は古墳時代後期(6〜7世紀)   2006/02/14(Tue) 02:56 [Reply]
http://www.hi-ho.ne.jp/kanaza/sub1.htm
東三河の古墳は新しいモノしかありません。


塚越古墳/市史跡。桜井古墳群の北端、願力寺の裏にあります。全長46mの4世紀末の前方後円墳ですが、墳丘の周囲が少し削られています。矢作川流域では最古の古墳で、高く大きな後円部と低く長い前方部が特徴です。
http://www.george24.com/~obito0/anzyou.html

安城市の桜井古墳群は、古墳時代前期のもので、4世紀末からです。
古墳は、古代豪族の力の象徴です。

木製甲片、木簡の出土などから、安城市が、古代三河国の中心であったことは間違いないです。

当時は油が淵辺りまでが海であったので貝塚もあります。

西三河の中心が完全に岡崎に移ったのも、徳川宗家の安城松平家が岡崎城に移ってからです。安祥城や本証寺の勢力から言っても間違いないですね。

豊川市の主張する三河国府なるものが、仮に国府であったとしても西三河側を支配していた事実はないですね。その痕跡もどこにもありません。

古墳にしろ、瓦にしろ、西三河側から東三河へ技術や人が伝播しているのは間違いないですね。

[7053] 東三河の曹洞宗   2006/02/14(Tue) 01:48 [Reply]
曹洞宗って、越前永平寺が本山だから。鎌倉以降の新しい宗派。
朝廷・中央貴族・寺社とのつながりないな。

西三河は、浄土真宗、本願寺(大阪→京都)が本山。松平氏・本多氏は、賀茂神社の氏子で葵紋。いずれも京都・大阪などの近畿とのつながり強い。

熱田大宮司家の荘園が、岡崎市北部から豊田にかけてあった。

徳川が台頭するまで、三河国は東三河が中心だったって書きこみ見て、呆れたよ。

三河守護の足利氏、熱田大宮司家と源頼朝、藤原氏や大江氏なんかを見れば、はっきりすると思うんだが。

猿投=山。トガ=山。で、知立神社だけが集落近接なんだよな。神階上位の3社で。かきつばたは、伊勢物語に出てくるし。

豊かになると、昔から発展していたという勘違いって、全国どこでもだな。

京都よりも、奈良や大阪のほうが古いし。

戦後の豊川用水で渥美半島が豊かになると、東三河は昔から繁栄していたという妄想に取り付かれ、エスカレートして、牛川原人、古代神都東ヤマト、穂の国とか。

東三河って、安定した時代だと調子に乗ってるが、今のような激動の時代だとまったく役に立たない。ぐずぐずして政令市になるチャンス逃して、穂の国というまとまりが存在しないことを露呈した。

幕末頃にええじゃないかと踊り狂ったり、国学者の郷土史家が東三河の権威付けに熱心だったりした1800年代に、安城市では、明治用水の測量やって、維新後の明治用水の建設に至るんだが。

大正、昭和(戦前)と挟んで、戦後(昭和)になってやっと豊川用水が出来る。明治用水建設で、近代農業用水の建設ノウハウが確立したから、やっと導入だ。

結局、結果がすべてなんだは。歴史はウソ付かない。

幕末・明治の動乱期に明治用水造った先人の苦労を理解できないだろうな、東三河人は。明治という元号を冠するのは、伊達じゃない。

吉田城で自慢している城下町も西三河人の徳川幕府の時代だったからこそだろ。吉田城を造った牧野氏ですら、足利氏の部下としてヨソから入植してるから、牛窪とか今橋とか新しい名称付けてるわけだ。

継承すべき由緒ある名称が確立していれば、改称する必要ないはず。

[7052] 豊川稲荷  玄松子 2006/02/13(Mon) 22:43 [Reply]
そもそも創建は15世紀。
明治以前は朱塗りの鳥居が並んだ神社だったが、明治政府に托枳尼天は仏だと認定され寺となった。
ただし、縁起的には神を祀っており、現在も本堂ではなく、本殿という。

らしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/豊川稲荷

[7051] Re[7050]  神奈備 2006/02/13(Mon) 22:11 [Reply]
猫の件、ありがとうございます。勉強になりました。

> 那智は滝があるだけで神社(社殿)が無くて式内社になれなかったのでは?
> 鳥居や拝殿(飛瀧神社)はあったかもしれないけど、本殿(熊野那智大社)は『延喜式』成立時にはなかったのではないでしょうか。

 ご承知の通り、本殿の無い神社としては、大和国の大神神社や石上坐布都御魂神社(石上神宮)、武蔵国の金佐奈神社なども本殿はありません。

 他に有力な豪族がその地域にいたかとか、神話の豊富さなどもあったのかも。出雲は異常に多いようですね。

[7050] Re[7048][7047][7041]: 木簡の情報無視するな。  PONTA 2006/02/13(Mon) 20:14 [Reply]
> 猫と云う動物はいつ頃日本に登場したのでしょうか。「窮鼠猫を噛む」これなんか古い言葉なのかな。

仏教伝来の時、経典をネズミから守るために船に乗せられて日本に渡った猫が現在の日本猫の祖先だというのが最も一般的な説ですね。エジプト→中国→日本と渡ってきたことになります。
でも仏教伝来時、日本にはすでに、日本猫がいたらしいです。現在生き延びている日本固有種はイリオモテヤマネコとツシマヤマネコの2種のみですが。(ツシマヤマネコは対馬だけに生息する野生種で、約10万年前に当時陸続きだった大陸から渡ってきたベンガルヤマネコの亜種とされています。)

「窮鼠猫を噛む」の出典は前漢時代(BC81)に詔聖が書いた『塩鉄論』の「死して再びは生きざれば、窮鼠●を噛む」だそうですが。この本をいつ日本人が読み、広まったかですね。
元は「窮鼠狸を噛む」だと書いてある本もあるようですが、『塩鉄論』の「●」は、けものへんに里の「狸(タヌキ)」ではなく、むじなへんに里で、ネコの意味。中国のネコはイリオモテヤマネコやツシマヤマネコのようなヤマネコで、人前には姿を現さないので、むじなへんに苗と書いていました。人里へ降りてきて悪さをする狸と混同していたそうなので、詔聖はむじなへんに里としたのでしょう。エジプトから運ばれてきたネコを見て、初めてネコの姿を知り、むじなへんからけものへんに変えたそうです。ちなみに「苗」はミョウまたはビョウと読み、猫の鳴き声を表すのだそうです。

> 那智大社、豊川稲荷

那智は滝があるだけで神社(社殿)が無くて式内社になれなかったのでは?
鳥居や拝殿(飛瀧神社)はあったかもしれないけど、本殿(熊野那智大社)は『延喜式』成立時にはなかったのではないでしょうか。

豊川稲荷は神社ではなく、お寺ですよね。「仏教系稲荷」と言ってますが。
「豊川稲荷」は、1441年に妙厳寺の山門守護として祀られた「豊川枳尼真天」の通称です。

[7049] Re[7045]: 都辨志呂神詞  神奈備 2006/02/13(Mon) 09:47 [Reply]
クナトさん おはようございます。

> 出雲王朝は邪馬台国よりも40年前に出現し、

王朝の定義など色々論議があるのでしょうが、句奴国に比定されておられるのでしょうか。それとも投馬国など?

> 山陰の出雲弁と東北弁が類似して

現地でビックリしたことがあります。東国的な感じと云うのか、出雲に仁多郡は山中で、縄文的な生活が長く残って、それは東国と同じ様な残り方だったと云うことでしょうかね。
平安王権が東国に攻め入る度に出雲大社が倒壊し、再建に国家予算がかかり、東国攻めの資金不足を狙ったとか、つながりは深いものがあったのでしょう。青草話ですが、そうしますと、40年前と云うのは少し短いような気がせんでもありません。

[7048] Re[7047][7041]: 木簡の情報無視するな。  神奈備 2006/02/13(Mon) 09:34 [Reply]
末摘花さん、おはようございます。掲示板にようこそ。また貴さいとでのご紹介、ありがとうございます。
猫と云う動物はいつ頃日本に登場したのでしょうか。「窮鼠猫を噛む」これなんか古い言葉なのかな。

所で、延喜式内社ですが、例えば京都の八坂神社、讃岐の金比羅さん、那智大社、豊川稲荷など大きい稲荷社なども記載されていません。色々な理由があるのでしょうが、ひとつには生ものを神餞として受け付けないような仏の要素が強い所、八坂神社は祇園感神院と称していました。寺の雰囲気。多くの稲荷社もそういった存在だったのかも。

[7047] [7041]:の引用が長いので、引用部分を消去させて頂いてよろしいでしょうか?

[7047] Re[7041]: 木簡の情報無視するな。  末摘花 [Url] 2006/02/12(Sun) 20:48 [Reply]
> http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/engishiki.html
>
レス 末摘花
延喜式は、平安時代に、朝廷が、重視する神社に対して、の格式です。古いとか言う意味では、ありません。 (余禄 白龍神社 稲荷神社は、かなり古い しかし延喜式内社には、殆ど登録が、無い) 大神神社 どう読むのか、解りませんが、10代天皇の時代に、疫病が、はやったり 災いが起こったりした。(記紀を、素直に信じれば紀元前97年頃?に 崇神天皇の夢の中に、出てこの頃祀られたと、あります。三輪山信仰では、大神神社と書いて おおみわじんじゃと、言います。)豊川稲荷の神紋は、稲穂です。穂の国に関連が、あると 思って良いのでは、無いでしょうか?

>
>

[7046] 上代、神霊の鎮座すると信じられた山や森   2006/02/12(Sun) 18:57 [Reply]
かむ‐なび【▽神×奈備】
大辞林でも 「かむなび」 を検索する


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上代、神霊の鎮座すると信じられた山や森。かみなび。かんなび。

「―の山下とよみ行く水に」〈万・二一六二〉




[7045] 都辨志呂神詞  クナト 2006/02/11(Sat) 23:44 [Reply]
「日本文明の基層は縄文と弥生のハイブリッドシステム」
日本文明の特色は、一言で言うと「縄文と弥生の融合」
ということになると思いますが、その融合というものを
最初に達成したのは、古代出雲王朝であろうかと思います。
出雲王朝は邪馬台国よりも40年前に出現し、東西日本の
分け目となるフォッサマグナを超えた連合政体を日本海側
に実現しているからです。現在でも太平洋側はここを境に、
東は縄文的西は弥生的な名残が残っています。一方日本海
側はあまり明確でなく、山陰の出雲弁と東北弁が類似して
いるといったことが見受けられます。

一方、古事記/日本書紀などのような日本最古の文書も
縄文と弥生の葛藤と融合がイザナミとイザナギの国産み
神産みの物語として描かれています。しかし最終的には
縄文が弥生に席巻され、イザナミは死に、出雲と伯耆の
境、比婆の山に埋葬されてしまったのです。縄文のシン
ボルとしてのイザナミは一体どうなったのかあまり手が
かりはありませんが最近の考古学には目覚ましいもの
があります。それで私などは、島根県と鳥取県の県境付
近の考古学的ニュースには目が離せないのです。 

[7044] はじめまして  末摘花 [Url] 2006/02/11(Sat) 23:18 [Reply]
勝手にホーム・ページ紹介させて頂いています。歴史の私の好きな分野調べると、音楽と共に、神奈備にようこそのページに、いつも来て色々参考にさせて頂いています。挨拶が後に成りましたが、よろしくご指導下さい。m( _ _ )m

[7043] 新城(しんしろ)の由来   2006/02/11(Sat) 22:25 [Reply]
自治体の主張

新城(しんしろ)の由来
 新城の名前の由来は、長篠・設楽原の戦いで功績のあった奥平信昌が徳川家康の長女亀姫をめとり、現在の新城小学校の地に新しい城を築いたのが、「新城城(しんしろじょう)」です。天正4年(1576年)のことでした。
 「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、それより44年前の天文元年(1532年)に菅沼定継という殿様が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城しんじょう」と呼ばれており、それと区別するためで、これが「しんしろ」の名の由来です。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>
http://www2.odn.ne.jp/mochiaruki/iseki/shinshiro/shinshiro.htm
このサイトでも疑念を提示していますが。

菅沼氏が、支城として新城(しんじょう)を造った際に、地名として既に新城が定着していたので、旧新城を廃止して、新しい城とその周辺の地名を新城と呼び替えた。

で、新城(しんじょう)という呼び方が、しんしろになったのは、江戸時代以降だろ。当時に、しんしろという呼び方をしていたか確認できない。

本来は、由来は菅沼氏の新城とすべきなのに、徳川家康という有名人を引っ張り出してきて、奥平信昌の時に新城が確立したと宣伝しているのは、明らか!!!

新城返事の新城は、地名なんだろ。

それと、新城は城ではなく、陣屋町として菅沼氏が江戸時代に支配している。
よって、新城は地名であり、城の名前とはいえない。
遺構も土塁しかないので、城の特徴たる石垣もないし、砦みたいなもんだろ。

新城藩とか捏造したり、宿場町なのに、新城市と名乗って城下町を装おうなど、
コンプレックス丸出し。

山の湊と外部から呼ばれた事実はなく、自分で山湊馬浪と表している。

さらに東三河の新城以北を奥三河と呼ぶと宣伝している。
奥とは行き止まりのことです。奥三河とは、三河国の山間部のことです。
足助などの西三河側も含まれますよ。

設楽郡には、奥という意味はないし、賀茂郡や額田郡のほうが山間部という意味を含んでいます。

それから、東三河は、天竜川水系じゃないでしょ。豊川の上流は賀茂郡境界の段戸山でしょ。三遠南信は、天竜川水系はデタラメ。

豊川上流部分を地図で見たら、名倉という地名が見える。
賀茂郡名倉郷のことだ。この結果、豊川が穂の国川であろうはずがないということ。また、名倉川は、矢作川の支流である。

どうやら、設楽町田口辺りは、境川で賀茂郡との境界だったようだ。

塩の道も幡豆郡から岡崎・足助ルートで伊那へ運んでいたし。

[7042] Re:東三河人は、恥を知れ!!!!!!  r-r=0 2006/02/11(Sat) 21:19 [Reply]
よくこんなこと書くね。恥を知らないのはあんたやろ。東三河へ直接ゆうたらどうやねん。他のもん見たら気分が悪いわー。

[7040] Re[7039][7038][7037][7033][7029]: 三河国府の正体???  神奈備 2006/02/11(Sat) 17:14 [Reply]
> > PONTAさん、ありがとうございます。
>
> 自分の書き込みを今読み返すと「の頃(715-723)の頃」と最初の「の頃」が余分ですね。修正機能があると助かります。
 
 管理人が直して起きました。ご確認下さい。

[7039] Re[7038][7037][7033][7029]: 三河国府の正体???  PONTA 2006/02/11(Sat) 15:57 [Reply]
> PONTAさん、ありがとうございます。

自分の書き込みを今読み返すと「の頃(715-723)の頃」と最初の「の頃」が余分ですね。修正機能があると助かります。

総社とは、数社に一所に総合して之を祀るの謂にして、参拝に便にするより出でたり。而して一国の総社あり、寺院の総社あり、第内の総社あり。其の間には鎮守を称して総社とするありて、必しも合祀せざるものあり、或は一宮を以て之に充つるあり。故に総社には式内大社、式内小社あり、式外の社ありて均一ならず。総社の最も古きものは、多武峰略記に引ける要記に、延長四年に総社を造ると云ひ、廿二社本縁に、後一条天皇の朝に、賀茂神社を以て山城の総社と為すとあるを始として、之に継ぐるは百練抄の久安四年の法成寺の総社、六年の法性寺の総社等是なり。(『古事類苑』)

[7038] Re[7037][7033][7029]: 三河国府の正体???  神奈備 2006/02/11(Sat) 11:19 [Reply]
PONTAさん、ありがとうございます。
 掲示板は申すまでもなく、議論の場なのです。

 r さんに申し上げます。[7033] であなたの「尾張国府の稲沢市の国府宮は、延喜式式内社だ。なぜ、三河国府が延喜式式内社でないのか?」について書きました。ここから議論がはじまればと思いましたが、それを無視して一方的に「東三河人」への攻撃なんでしょうね、よく判らない書き込みが続いています。

 ゆっくり、議論しましょう。これ以上、前へ進めずに、とりあえず今までの書き込みの質疑応答をしましょう。

[7037] Re[7033][7029]: 三河国府の正体???  PONTA 2006/02/11(Sat) 09:38 [Reply]
> 三河国府とは大社神社のことですね。

三河国の神社で、rさんがあげておられるのは、
・総社
・大社神社
・守公神社
ですね。

三河国府は、1996年の発掘調査でようやくその場所が確定しました。三河国総社の近くです。三河国総社は三河国内の宝飯郡以外の格の高い58社の神が祀られています。三河国総社の祭神は、三河国諸祭神です。
三河国総社の由緒には「公庁守護神として祭祀したもので、後には三河国内の諸神を勧請して、国司の遥拝所となる」とあります。昔、国司は任地へ行って任務を遂行すると共に、国内の神社を巡拝したそうですが、時代が下ると実際には任地へは行かず、代理人を送り、その代理人は神社の巡拝が面倒だと総社を建てて国内の神々を集め、そこに参拝してよしとしたらしいです。つまり、総社の歴史はそう古いものではなく、初出文献は因幡国司平時範の日記「時範記」の1099年2・3月条です。
総社は、新しく建てる場合と、すでにあった神社を利用する場合があります。総社が作られるようになった時にはすでに「延喜式」は完成していましたので、すでに国衙の近くにあった式内社を総社として利用した場合のみ「延喜式」に掲載されています。

大社神社の「大社」とは出雲大社のことで、祭神は大国主命です。由緒によると、天元・永観(978〜984)の頃、大江定基が三河守としての在任に際して、出雲国大社より大国主命を勧請したそうで、現在は、「三河国府総鎮守 大社神社」と名乗っています。これは、由緒に「明治5年(1872年)、国府村の総氏神となる」とあるように、「三河国の国府村(現国府町)の総鎮守(総氏神)」の意味で、三河国総社ではありません。

守公神社については、由緒に「穂国国造、祭祀を行う。三河国の国衙をこの地に置き、公庁守護の神を守公神として祀る。霊亀・養老(715-723)の頃、藤原豊成三河国司に来任、社の側に住居し崇敬あつく度々奉献したと「国府年代通覧」という古書に記す」とあります。ご祭神は守公神です。
由緒にある「穂国」の存在は100%認められているわけではありませんし、国衙所在地は豊川市白鳥町で確定されましたので、この社地(豊川氏国府町)ではありません。ただし、白鳥町から国府町へ国衙が移転したとする説もあります。(国衙移転の例は他国にあります。)

尾張国の総社である尾張大國靈神社(通称「国府宮」)と言えば、昨日、有名な「はだか祭」が行われましたね。お祭りの日、稲沢市の公立小・中は学校はお休みです。理由は、「参加するため」ではなく、「危険なため」だと聞いています。http://www.konomiya.or.jp/
の由緒には「当社は奈良時代、国衙(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社でありました。このことから通称「国府宮」として広く知られております」とありますね。

[7036] 御津町のこと   2006/02/11(Sat) 03:18 [Reply]
みつ【御津】

古代の難波(なにわ)の港。官船の船着場として尊んでいう。難波の御津。

御津神社ってのがあるんだけど、自治体名まで御津にするかあ、普通。
大阪の地名として由来する名称なのに、図々しいな。

日本国総風土記ってのは、偽書らしい、それを堂々と紹介するとは。

学会・教科書無視の偽書の先代旧事本紀の穂の国造を堂々と正史のように語っている東三河だから、何でもありかよ。

音羽町なんかも、音羽川由来で、川の名前と間違えるだろ。
なぜ、赤坂宿、宮路(宮道)という由緒を捨てる????

小坂井町も、伊奈、渡津、篠束という由緒を捨てている。

蒲郡なんて、蒲形と西ノ郡の合成地名だ。方原、美養(三宅)という由緒を捨てている。

ほんと、いいかげんな地域だ。



[7035] 渥美半島の農業   2006/02/10(Fri) 23:36 [Reply]
戦後に豊川用水が出来るまで、渥美半島は農業王国ではなかった。

よって、伊勢神宮の荘園(田畑)が渥美半島にあるわけない。

16世紀に戸田氏が入植して開発領主になっていることからも
伊勢神宮領があるわけない。
戸田氏は水軍を保有してるから、この当時の渥美はまだ海が主体だ。

[7034] 橋良御厨の正体   2006/02/10(Fri) 23:18 [Reply]
やっぱり、鎌倉以降の神明社だった。

神明社は、伊勢神宮領という意味ではなく、伊勢神宮を祀ったという意味。
武士の時代に荘園が存続できるところは限られている。

http://www.fukuoka-e.toyohashi.ed.jp/fukuoka-e/select04.html

飽海神戸も神明社領のこと。伊勢神宮の荘園ではない。
http://homepage3.nifty.com/hyuuga/aichi/citymikawa/toyohashi.htm

田原市の神戸地名も神明社領のこと。伊勢神宮の荘園ではない。
http://homepage3.nifty.com/hyuuga/aichi/atumi/tahara.htm

>>>>>>>>>>>>>>>>
伊勢神宮の荘園の呼称である御厨を、神明社領に付けるというインチキ。

飽海神戸、橋良御厨、吉田御園、秦御園。全部インチキだな。

荘園の意味すら理解できていない。

ナウマンゾウの骨を牛川原人と捏造する位だから、呆れてモノが言えない。

そうまでして、由緒が欲しいのか!東三河人は、恥を知れ!!!!!!


[7033] Re[7029]: 三河国府の正体???  神奈備 2006/02/10(Fri) 20:57 [Reply]
> 尾張国府の稲沢市の国府宮は、延喜式式内社だ。なぜ、三河国府が延喜式式内社でないのか?

尾張大國靈神社を俗に国府宮と呼んだのであって、国府宮だから式内社にしたのではないと思います。

三河国府とは大社神社のことですね。創建は天元・永観(978〜985)の頃だそうです。延喜式は905年に編纂が開始されています。その後に鎮座した神社ですと、式内社にはなりません。

[7032] 書き忘れ。  ro. 2006/02/10(Fri) 02:53 [Reply]
伊香色雄命をイスラエル人と仮定するなら、
百済であることと、血を交えていることも疑問。
物部がイスラエルから来たのであれば朝鮮を通ってしばらく住んでいたかも
知れないが、物部や海部の祖の伊香色雄命はホントに百済から来たのか。
実際に百済の起源は謎に包まれており、中国の同時代史料で実在が明らかに
なるのは4世紀の近肖古王からで、現在のソウル漢江南岸にあったという。
ではこれで〜。

[7031] レスありがとうございます。  ro. 2006/02/10(Fri) 01:21 [Reply]
独特の観点から調べているのと、とにかく似たような名前や
わかりにくい記述などがごっちゃになって整理のつかないまま書きました。
また日本古代史だけでなく、エジプトや陰陽、旧約聖書も考慮しているので。
記紀は皇族直系の先祖と違う饒速日命や物部の名を消したかったのかなども含め、
これだけ調べたら普通わかるはずなのにという単純な疑問。
あることに気付いてまず仮説を立ててから調べおよそ見えているのですけど、
うまく説明できません。また説明していいのかどうかも。
わかりずらく変な文章ですいません。あえてそういう書き方した部分もあります
けど、それにしても何のことかさっぱりわからないんじゃとちょっと思ったのですけどね。(笑)>自覚あります。
検索で見つけたリンクを貼ってログと資料の整理します。

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%81%A8%E7%A7%A6%E6%B0%8F&ei=UTF-8&meta=vc%3D&fl=0&u=www.myj7000.jp-biz.net/chousa/kaidai2.htm&w=%E7%89%A9%E9%83%A8+%E6%B0%8F+%E3%81%A8+%E7%A7%A6+%E6%B0%8F&d=Gb1pJW1aMH25&icp=1&.intl=jp


ttp://www.find.takushoku-u.ac.jp/jousei/chousen/shimojyou1.html

ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~moriyosi/ginga9.htm

ttp://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga08.html

ttp://hw001.gate01.com/sangatu/tango.htm

直接リンクを貼っていないものに関しては先頭にhを付けてそれをアドレスバーから
リンクしてください。yahooの検索用語も含まれているものに関してはアドレスが長くなっています。

お忙しいのに毎回レスを返していただきうれしかったです。
ありがとうございました。(^^)
これからも頑張って下さい。

[7030] 徳川氏とその家臣。   2006/02/09(Thu) 22:19 [Reply]
松平氏=三河国賀茂郡出身、賀茂神社の氏子。

安城松平氏=徳川宗家に台頭。家臣団のほとんどが安城時代から臣属している。
安祥城は、長浴部直の長谷部郷や矢作地区のすぐそば。

酒井氏=三河・尾張国司の大江氏の後裔と言われる。碧海郡出身。

石川氏=源義家流河内源氏の裔。安城南部の桜井・小川を支配していた。

本多氏=賀茂神社の氏子。

徳川氏とその家臣は、西三河古来の有力氏族の結集体だったため、三河守護の足利氏を打倒できた。しかもあっという間に勢力を拡大した。

逆に東三河は、足利氏族の今川氏にすぐ飲み込まれている。

とにかく、東三河には有力氏族がいない。そのため、西三河と遠州の狭間にいつもある。古墳が集中している場所もないし。

東三河の主張する穂の国、三河国府は、はっきりしていないのが問題だ。国府村と名乗っているくせに、延喜式式内社ゼロだし。

唯一の証拠となる国府在穂郡の記述のある和名抄20巻本にも疑惑がある。16世紀以降に追記された疑いがある。

三河国府跡出土品が、国府推定地以外からも出土しているということ。

政庁跡とされる遺構に類似したものに、郡衙(郡府)や駅家があるということ。

なぜ、鎌倉時代以降の曹洞宗の寺が国府関連遺跡を引き継いでいるのか??

>>>>>
結論。東三河に国府があった可能性はあるが、全国の国府の中でも相当貧弱で威厳のないものだった。国府そのものも決定的証拠はないので、国府ではない可能性もある。

渥美郡が伊勢神宮領というのもヘンだ。幡豆郡のヒマカ・サク・シノ島の木簡には、供奉・御贄という記述があり、伊勢神宮領である証拠だが。渥美郡には、調として塩を都へ租税として納めたという記述だけ。

渥美郡の渥美郷(豊橋市)の木簡だが、石部という石造の部民が登場する。石巻山・神社と関連か?どっちにしろ、伊勢神宮と関係ない。

>>>>>>>>>>>
はっきりした証拠が出ない限り、三河国府、穂の国、伊勢神宮領とか断定して宣伝する根拠が理解できない。

東三河は、地名もころころ変わるから古来の由緒が伝達されずに不明なものが多い。

[7029] 三河国府の正体???   2006/02/09(Thu) 21:13 [Reply]
大宰府や多賀城など一部を除けば、国府は750年前後から10世紀半ば(延喜式)までの、200年位しか機能していないようです。遺構などから判明しています。

10世紀半ばは、受領制度の登場、平将門の反乱など武士の台頭、など国府機能が既に死んでいます。

743年の墾田永年私財法による寺社・貴族の荘園拡大も公領の減少に。

豊川市西部が国府があったという割りに発展してないのも変だ。有力氏族もいない。牧野氏、菅沼氏、戸田氏なども16世紀になって台頭している。牧野氏、菅沼氏、戸田氏は東三河出身ではなくその出自は他所からだ。

第1、三河守護の足利氏が、三河国府をスルーしているのも変だ。遠州国府は、見付にあると他書に記述があるのにだ。足利氏は西三河に本拠を構えている。

最大の疑問は、三河国府はおろか東三河から木簡の出土ゼロという現実。
尾張国も遠江国も、木簡は出土している。

三河では、安城市の桜井地区周辺から木簡が出土している。唯一。

但馬国府出石郡という木簡が、750年頃。信楽宮跡地の木簡に宝飯郡望理郷という記載の木簡が出土しているが、国府という記載はない。望理郷は、国府があったという割りに木簡はこれ1枚。

ひょっとして、平安末期から鎌倉時代は、武士の台頭で西三河は足利氏に占拠されたので、東三河に国府が移動して存続したも廃れたのかもしれない。鎌倉以降も国府・国司の制度は便宜上存在した。しかし、南北朝の消滅で完全に廃止された。

東三河で、鎌倉時代以降の曹洞宗が幅を利かせているのも気になる。

西三河では、平安末期の浄土真宗が優勢だ。

仮に国府が最初から東三河にあったところで、三河国全体を統括できていない。

延喜式式内社が旧豊川市内にゼロというのも変だ。

三河総社、大社神社、守公神社など、ぜんぶ式外社だ。

三河国の木簡が大量出土した石神遺跡は、大化の改新以後の665年位から大宝律令直前までなんだが、評制度下の木簡が、穂評1枚、飽海評1枚しかない。
八名評の木簡がない、八名郡は律令で初めて設置された。

三河国で青見評で気になるのは、桜井君、長浴部直だ。

長浴部直の直は、国造に与えられた姓だそうだ。別郷廃寺周辺が、長浴部郷だ。

桜井君は、桜井地区の有力地方豪族という意味だろう。古墳が集中しているエリアだ。近くには寺領廃寺や木簡出土遺跡もある。

また、豊田市(鴨評)の木簡には、物部と書かれたモノもある。物部氏も古代の有力豪族だ。物部氏は軍事を担当した豪族。

青見評には、刑部郷、采女郷など朝廷の役職のような集落名もある。

また、矢作川の由来となった矢作部民は、矢を作る軍事担当で、矢作川西岸を矢作と呼ぶ。

国分寺と国府は、離れている事例もある。総社は不明な地域も多い。豊川市西部の鎌倉街道と東海道が交わるところに国府があるのも変だ。

そもそも、国府があったというなら、なぜはっきり場所がわからないのか?
遠州国府は、見付という。三河国府には、地名がない。ヘンだ。

尾張国府の稲沢市の国府宮は、延喜式式内社だ。なぜ、三河国府が延喜式式内社でないのか?トガ神社を西三河人が誰も知らないのはヘンだし。




[7028] サイト更新  PONTA 2006/02/09(Thu) 18:43 [Reply]
本宮山(砥鹿神社)
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/hon.htm
宮路山(宮道天神社)
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/miya.htm
東三河に興味ある方はどうぞ。

[7027] Re[7026]: 連続投稿すいません。  神奈備 2006/02/09(Thu) 16:53 [Reply]
> イザナミは農耕や稲作に関係していますか?
> 出雲の神ですか?
> 黄泉の国で帰るか相談していたのは誰ですか?
> イザナミの祖先はニニギという人ですか。

何故この質問が出てくるのかよく判りません。
ro. さんのお書きになっている内容もよく判りません。
イザナミを出雲系の神とする見解は存在しています。
黄泉の国の黄泉神(よもつかみ)とあります。
ニニギは天照大神の孫ですから、イザナミ神の曾孫神です。


> 出雲は陰陽を使いますか?
> 出雲は中国系ですか?
この質問の意味もよく判りません。出雲は半島とのかかわりが多い所ですから、中国の影響もあると思いますし、南中国から親潮にのって来た影響もあったと思います。

> 少しひかえます(笑)。
よろしくお願い致します。

[7026] 連続投稿すいません。  ro. 2006/02/09(Thu) 11:55 [Reply]
その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。死んだ後、妻に逢いたくて黄泉国まで行ったイザナギに腐敗した死体を見られたことを恥じ、逃げるイザナギを追いかけるが、黄泉比良坂(現;島根県東出雲町)でイザナギが道を塞ぎ、イザナミと離縁する。(Wikipedia)

なぜこんな尿や糞や吐瀉物からという描写なのか。
どう考えられますか。
イザナギは波や海からきた名前にもみえる。
イザナギの祖はニニギという人ですか?

出雲は陰陽を使いますか?
出雲は中国系ですか?
最も知りたいのはこれかもしれません。
たくさん質問しましたが、教えてください。
少しひかえます(笑)。

[7025] ありがとうございました。  ro. 2006/02/09(Thu) 11:11 [Reply]
日本人はイスラエル(ユダヤ)人ではないかといわれます。
ヘブライなので違和感はありません(金髪ではない)。
しかし疑問でした。イスラエル人側から戦争をしかけるだろうか。
神の名をみだりに口にしないのにましてや自らを神というだろうか。
神格を保持しないというだろうか。なぜ反ユダヤがいるのか。

でもダビデ紋(カゴメ紋)と菊花紋はどちらもイスラエルにありますが、まったく違います。
ダビデ紋(カゴメ紋)はイスラエルの象徴です。
菊花紋はヘロデ門にあります。ヘロデはイスラエル(ユダヤ)人ではありません。
パレスチナです。同じ領土にイスラエルとパレスチナ。
ヘロデについて調べると何かわかるかもしれません。

日本人の全員がイスラエルではなくて一部の種族がそうなのだと思います。
しかし菊花紋であればヘロデなのでパレスチナ側、反ユダヤと容易にいいきれないややこしさがあるであようか。

伊雑(物部)や真奈井(海部)→派生した種族→ダビデ→イスラエル(ユダヤ)。
藤も。物部の祖に伊香色雄命と色という漢字が入っているのも意味深です。
イスラエルを感じにするとき使います。米国みたいに。
しかし物部か海部のどちらか忘れましたが、菊花紋を所有していたことも
あるらしい。

中国経由で日本に住んでいたのではないでしょうか。
陰陽とユダヤのカッバーラは通じるとこがあります。
また聖徳太子らが仏教をもちこんだときも我々の神がいるといいました。

系統はどうなっているのか。
ユダヤ、パレスチナ問題も何か巧妙なトリックがあるか。

中東問題の類似性。人種の問題ではない。
何をしたのかホントは何があったのか誤解のないように話してください。
ユダヤとキリストの関係もこのように複雑な問題を含んでいたのではないだろうか。選民意識など。

書き忘れ。
お田植え祭、平安時代の末ごろと伝承されているが、南北朝時代の建武2年(1335)に行われ記録上では最も古いそうです。

カゴメの童謡

籠の中の鳥(伊勢では鶏を放し飼い、もしくは鳥居)はいついつであう
夜明けの晩に(日食かと思っていたが、朝と夜という対象から陰陽を表しているのかも)
鶴(千年)と亀(万年)はすべった(入れ替わった)
後ろの正面(後ろと正面の対象で陰陽)だぁれ?

まとまりのない文章ですが、書きたかったです。
しばらくモーセについて調べてみます。
質問教えてください。
よろしくお願いします。

[7024] 質問ばかりですいません。  ro. 2006/02/09(Thu) 09:46 [Reply]
磯神社というのがあるそうです。
これは伊勢の125社に入っていないのはどうしてだと考えられますか。
これが伊勢第一号ではないのですか。無格社本殿社とは何ですか?
宮川洪水で年月日など不祥だそうですけど、場所も近いのに他の伊勢の地は大丈夫だったのか疑問。なぜそれより古い記述もあるのに、
日本の象徴の伊勢に関する洪水の記録を残さないのか。
書き忘れです。
出雲は陰陽を使いますか?そういう文化がありますか。

[7023] 日本神話の疑問。  ro. 2006/02/09(Thu) 09:38 [Reply]
項目が多いのでわかりずらいかもしれませんがまとめて書きます。

天岩戸。
アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織っていた時、スサノオは機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を剥いだ馬を落とし入れ、一人の天の服織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。ここにきてアマテラスはスサノオの行動に怒り、
天岩戸に引き篭ってしまった(Wikipediaより)

この服織女っていうのはアマテラスのことじゃないんでしょうか。
また描写がイザナミ神に似ていますね。
アマテラスはこのとき亡くなっているのではないでしょうか。

次に引きこもったアマテラスをどのように外に出すか話し合う出雲の神々。

オモイカネの案により、様々な儀式を行った。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師のアマツマラを探し、イシコリドメに命じて八咫鏡を作らせた。タマノオヤに命じて八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉)を作らせた、アメノコヤネとフトダマを呼び、雄鹿の肩の骨を抜き取り、ははかの木を取って占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、アメノタヂカラオが岩戸の脇に隠れて立った。アメノウズメが岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

祈祷やのりとや踊りなど(稲作発祥だとすれば)をしているのは出雲の神々で、
古くからの田植えのお祭りが行われていたとこに関係あるでしょうか。
神器を作ったのは出雲の神々でしょうか。文化もすぐれていた。

奇妙なこと。
スサノオが出てこない。
アマテラスが外に出てくるのに剣はない。
太占、陰陽が出てくるのは不自然ではないのでしょうか。
このとき洞窟の中にいたのはホントにアマテラスなのでしょうか。
剣を誰かが持って洞窟に入っていたのではないでしょうか。
要するに剣を作ったのとは違う人がアマテラスを殺し、
洞窟に神器を持って立てこもったという解釈も。
スサノオの剣にはなぜ八という名前がついていないのか。

また、スサノオの乱暴は、その全てが農耕に関連するものであり、
暴風雨の災害を表したものだとされているそうで、
要するにその稲作の神々との関係を表そうとしているようにも。

また、イザナミはイザナギの妹であるとともに妻。
天地にお開闢いて神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。双子ですか。
これって陰陽(中国)を表しているのではないでしょうか。
伊雑や真奈井神社に関係してそうです。
さらに黄泉津大神であることから死、亡くなっていること、
つまり消された種族を表しているのではないでしょうか。
誰がこの物語を作ったのでしょう。

国産み。
イザナミが亡くなっているのにイザナギ(男神)が子供を生んでいる。
イザナギの描写を日本列島にあてはめたりしたけど、わからない。
描写が汚い。亡くなってからはイザナミの描写もウジなどと使い汚い。
亡くなっているのに黄泉の国で生きている。追いかけてくる体力がある。

イザナミは農耕や稲作に関係していますか?
出雲の神ですか?
黄泉の国で帰るか相談していたのは誰ですか?
イザナミの祖先はニニギという人ですか。
教えてください。
よろしくおねがいします。

[7022] 布奈木の郷 19 その他の船木  神奈備 2006/02/08(Wed) 14:44 [Reply]
 19−1 船木村 (鳥取市船木)

 船木の西南部を若桜往来(八束往来)が通る。
 船木神社(旧牛頭天王)が鎮座、速須佐之男命を祀る。

 19−2 茨木村 (茨木市舟木町)

 阪急茨木市駅の南側。
 茨木市は銅鐸の出土地であり、また大田と言う古い地名が残っている。


 19−3 是里村 (岡山県吉井町是里)

 是里は標高300mの高地にあり、血洗川が谷間を流れる。
 大蛇を退治した素盞嗚尊が、この滝で剣を洗い、滝で身を清めたとの伝承があり、血洗の滝、血洗川と呼ばれるようになったと言う。
 『備陽記』には、船木、物理(もどろい)などの地名があるとか。
 式内社 宗形神社が鎮座。


 19−4 崎川村(福島県会津若松市湊町大字静浜)

 猪苗代湖の西岸。
 『新編会津風土記』には舟木の地名が見える。この地は湖浜で、砂鉄が多く、農具などを作ったようだ。
 北の接する山田村には材木岩があり、材木山ともいい、磐梯明神が橋を架けようとした名残との伝承がある。


 19−5 秋田県の船木
 北秋田郡鷹巣町に船木沢と呼ばれる所があり、品類川の上流にあたる。大船木、小船木の総称。鷹巣町には太田地名もあります。

 由利郡東由利町宿に杉森村と船木村があった。

    −終−

[7021] Re[7020]: 書き忘れ。  神奈備 2006/02/08(Wed) 14:42 [Reply]
> 出雲に神々は行事に神無月に行っていたらしいですけど、
> そういうのについて書かれた文献はないのですね。

出雲大社の前宮司・千家尊統著の『出雲大社』に、神在月について、『室町時代の辞書「下学集」にも見えている』とありますので、この書をご覧下さい。

[7020] 書き忘れ。  ro. 2006/02/08(Wed) 03:43 [Reply]
また似たような神話や、織物(これは秦さん経由かな)なども。

出雲に神々は行事に神無月に行っていたらしいですけど、
そういうのについて書かれた文献はないのですね。

[7019] レスありがとうございます。  ro. 2006/02/08(Wed) 03:35 [Reply]
>丹後の篭神社の奥に鎮座の真名井神社のことでしたら、今は三つ巴です。
そうみたいですね。リンク先見てみます。
日ユ関連で騒がれたので変わったみたいですけど、以前はダビデ、
カゴメ紋でした。それを知らない人が見るとその紋があったことを
ほとんどの人は知らないかもしれないし、ある意味歴史のぬりかえ、そのうち噂や
トンデモっていうか、文献だけでもサイトに残すとかしてほしいなぁと。事実なのだし。
それに菊花紋だってイスラエルにあるのにどうしてカゴメ紋だけ隠すのかも。
またここでも陰陽が見られるので(伊雑宮のお田植え祭の)、関連ありますね。
また田植え祭に女装するという行事があるのも興味深いです。
平安京にもカゴメ紋はあるそうです。ここにも秦さん。
どうもこのダビデ紋(あえてこう書きます。。。)のあるとこにお米、
陰陽、伊〜とにかく多い、秦さんの気配がします。
そして竹も深くかかわっていることに気付きました。
ちなみに白鶴は灘のお酒でしたけど、伊〜をまた見つけました。

十拳剣の天之尾羽張を伊都之尾羽張というので、天と使われていることや、
神武天皇に渡ったことなども興味深いです。物部氏の伊香色雄命に石上神宮に
移されたそうです。

>意味を取りにくい文章ですが、イザナミと伊佐波登美とは全く違う神様です。
そうなのですね。すっごくややこしいですね。
読み方は伊射奈伎神とか伊佐奈岐神とかイザナミを思わせるのに。
伊佐波登美命は伊佐波登美のことですよね。

ちなみに聖徳太子さんって実在したのでしょうか。
何ていうか実在はしたのでしょうけど、要するに一人二役だったとか
そういうことはないのでしょうか。

日本書紀や古事記など、歴史書でもあるけど、
暗号や象徴が隠されているようにも。。。

[7018] 半殺しの神  神奈備 2006/02/07(Tue) 16:14 [Reply]
 孫引きですが、『八幡宇佐宮御託宣集』からメモかわりに。

 鍛冶の翁あり。奇異の瑞をあらわして一身にして八頭となる。五人行けば三人死に、十人行けば五人死す。云々。
   『卑弥呼と宇佐王国』清輔道生著 彩流社 から

 八幡大神は、鍛冶の翁→八頭の(蛇)→金色の鷹→三才の童子→八幡大菩薩 と変わっていったのいうこと。

[7017] 布奈木の郷 18 四国の船木  神奈備 2006/02/07(Tue) 07:58 [Reply]
 18−1 徳島県 美馬郡脇町船木

 讃岐山脈の南斜面で洪積台地。大滝山があり、空海の『三教指帰』に、「虚空蔵求聞持法を入手した空海が修行した地の阿国大滝嶽」とあります。
 西照神社が鎮座、「日本一社西照神社大滝山本宮」と称し、毎年春、秋二回、厄除際を執行するとか。なお、この地には、真言宗大滝寺があり、弘法大師が登ったと信じられています。式内社田寸神社の論社。


 18−2 愛媛県 新居浜市船木 元船木村

 東は宇摩郡土居町、そこには樹木神である五十猛命を祭る伊太祁神社が鎮座。
 船木には船木神社が鎮座。大山積大神を勧請したようだ。
 南は赤石山脈の上兜山、下兜山で、北麓一帯の地。丹沙もとれたのかも。
 弥生時代の竪穴式住居や須恵器が出ています。
 東大寺領田や河野家の領地。河野水軍の船材を出していたのかも。

船木の里、次回が最終回の予定。

[7016] 東三河の国学者以来の郷土史家   2006/02/06(Mon) 22:46 [Reply]
によって語られる三河国史が、WEB上に意図的に流布している。

三河の古代史を都合のいいように書いているアレだ。

平安時代以前に先代旧事本紀はないのだから、国造が律令国の前身という馬鹿げた断定が成り立つ根拠が理解不能だ。

西三河側の了解もえずに。

三河国府と称する場所もうさんくさい。跡地がまったく発展していない。

駿府、甲府、あたりと大違いだし。

鈴鹿関所(鈴鹿国府)、不破関所(垂井国府)あたりとも違う。

国府のある旧豊川市内は、延喜式式内社ゼロ。国府町と名乗る地区にある大社神社といううさんくさい神社も当然、式内社にない。

背景にあるのは、東三河独立論。穂の国、三河国府、豊川の由来、豊橋の前の名前、三河一の宮、などありえないほどベタベタ貼り付けている。

土地固有の名称を簡単に抹殺する風土。

蒲郡=蒲形。新城=野田。豊橋=吉田。豊川=牛窪。小坂井=伊奈。音羽=宮路。

あっさり中世古代の名称を抹殺している。継承すべき歴史もないから簡単にできる。

京都・奈良とは大違い。

[7015] 布奈木の郷 17 九州の船木  神奈備 2006/02/06(Mon) 10:19 [Reply]
 正保郷帳(1644〜)に船木村と見える。合併し船田村となる。 
 舟木神社が鎮座、山王大権現とも言われた。宝暦四年(1754)に再興された。

 17−2 船木村(長崎県平戸市船木町)

 東は海。地名は船の用材を産出・移出していたことによる。また「景行天皇が当地で船を修理した」との所伝がある。
 平戸市船木町字宮後に素盞嗚尊を祀る鎮守神社。


 17−3 船木村(鹿児島県薩摩郡宮之城町船木)

 川内川中流の川岸の台地。村名は北東部の弥三郎ヶ岡から船材を伐りだしたことに由来。
 神社としては、南方神社、大年神社、御年神社が鎮座。
 馬を生産する九尾野牧(つつらの)が設けられていた。

 田尻村(鹿児島県日置郡吹上町田尻)
 船木神社が鎮座。猿田彦神と大山積神を祀る。
 船漕ぎ祭の時に、宝殿に収められている大小十艘のくり舟(模型)を漕ぎ出す神事である。

[7014] Re[7013]: レスありがとうございます。  神奈備 2006/02/06(Mon) 09:18 [Reply]
 ro. さんと  r さんとは違う方です。

> 真内井神社にもありますし、関連がありそうです。

丹後の篭神社の奥に鎮座の真名井神社のことでしたら、今は三つ巴です。
http://kammuri.com/s1/motoise2/manai/index.htm

> >祭神がイザナミ神であったと言うことは承知していません。
> そうなのですか。その伊雑宮に関する事件でも(伊雑宮側のアマテラスを祀っているという主張に対し)
> 祭神は伊佐波登美命であると裁定し偽書になったのではなかったのでしょうか。

意味を取りにくい文章ですが、イザナミと伊佐波登美とは全く違う神様です。念のた為。

[7013] レスありがとうございます。  ro. 2006/02/05(Sun) 23:33 [Reply]
それと先に前回の投稿が連続になってすいませんでした。
Replyのとこをクリックすると、同じ箇所に上書きされるかなと思った
のですが、新たに枠を作って書き込みしたようです。

>鳥羽市安楽島町の岬の先端に伊射波神社が鎮座。
そちらにもあるのですね。調べてみます。

>なお、再建の経緯については承知しておりません。
そうなのですね。調べてみても再建としかなく、
それ(その偽書事件)以前も内宮別宮にあったのか、それともそれまでは外宮や
違うとこにあったのかなどわからないです。
近くに磯神社というのもあり、年号など不祥だったり、
伊雑宮のダビデ紋はカゴメ紋といわれることもあるそうですけど、
真内井神社にもありますし、関連がありそうです。

また、伊雑宮で行われている日本三大のお田植え祭はおそらく伊勢神宮が創建される
前から行っていたかもしれません。太一といううちわがかかげられるので、
中国の天帝、陰陽、もしくは聖徳太子や秦さんとも関係ありそうです。
ちなみに白鶴っていうお酒はこの地方のでしょうか。(質問ではありません)
五穀豊穣の神が真名鶴となり、稲穂を運び落としたらしいので、
単純にお米をお酒、鶴と関連させただけなのですけど。
まだ調べてないのですけど、いろんな記述をつないでいくと、興味深いです。

>祭神がイザナミ神であったと言うことは承知していません。
そうなのですか。その伊雑宮に関する事件でも(伊雑宮側のアマテラスを祀っているという主張に対し)
祭神は伊佐波登美命であると裁定し偽書になったのではなかったのでしょうか。
それなのにアマテラスを祭神としているので何でかなぁと。
倭姫命が志摩国をご巡行の際に、伊佐波登美命が奉迎してこの地に当宮を
創建して、皇大御神の御魂をおまつりしたと伝えられています。
とこれも公式サイトの伊雑宮のとこに書かれていました。

皇大御神はどうかわかりませんが、この天照坐皇大御神御魂というのは単純に
いうとアマテラスのことですよね。天〜で始まる読み方や漢字の違うものが多々あっても、基本的にアマテラス(天照)のことですよね。

でもこの行だけでも意味がわかりません。
伊佐波登美命を祭神にしない理由も、またそれでいて事件のときにその人を
祭神としたことも、です。

[7012] Re[7011]: 古代三河  神奈備 2006/02/05(Sun) 22:51 [Reply]
お知らせありがとうございます。このサイトは三河のことをとりたててテーマにはしていませんので、不思議なことですね。掲示板のログを全部残しておりますので、PONTAさんはじめ各位の書き込みを参考にしていただいたのでしょう。ありがとうございます。

[7011] 古代三河  PONTA 2006/02/05(Sun) 20:25 [Reply]
2/1に発行された榊原康彦著『天武天皇の秘密と持統天皇の陰謀 謎の古代三河と大和』(彩流社)を読みました。
巻末の参考文献に「神奈備ネット」として紹介されていますね。URLは書いてありませんが、検索すれば分かることですから、今後は古代三河に興味がある方々がここを訪れるかもしれませんね。

[7010] Re[7009]: 高槻野見神社についての記述  神奈備 2006/02/05(Sun) 17:59 [Reply]
> リンク間違いしているようで高槻天神さんに飛んでしまいます。

佐々木さん、ご指摘ありがとうございます。
高槻天神さんの紹介の中に二つの野見神社を入れておりますので、そうなっています。
折を見て独立させたいと思っています。
http://kamnavi.jp/en/settu/nomi.htm

[7009] 高槻野見神社についての記述  佐々木 [Url] 2006/02/05(Sun) 17:08 [Reply]
リンク間違いしているようで高槻天神さんに飛んでしまいます。
こちらを張ってみてはいかがでしょうか?

[7008] 古代船木氏一族  伊藤ゆうき [Url] 2006/02/05(Sun) 10:16 [Reply]
はじめまして ゆうきから古代船木氏一族の情報です

私は「大和朝廷を支え秋田を拓いた古代船木氏一族の軌跡」B6−242ページ 一冊2000円 を出版しました。

秋田県は全国で一番船木姓ノ多い県です。男鹿市南部と秋田市北部に集中しています。男鹿市が船木姓の北限です。なぜでしょう。

日本書紀・古事記には中々出てきません。なぜでしょう。

これを知りたい人は葉書で下記のところへお申し込みください。送料はこちらで負担しますから。

郵便番号OIO−O671
男鹿市戸賀加茂青砂向山85−2  伊藤祐紀 まで

[7007] Re[7006][7005]: 訂正。  神奈備 2006/02/05(Sun) 09:39 [Reply]
> 伊雑宮は先代旧事本紀大成経という事件の後、式年遷宮とは別に再建されたのでしょうか。そしてこれは再建だけでなく場所も移動されたのでしょうか。

 磯部町上之郷鎮座の伊雑宮は式内社の粟嶋坐伊射波神社の有力な論社とされています。他に鳥羽市安楽島町の岬の先端に伊射波神社が鎮座、これも論社の一つ。それぞれの場所が移動したとの記録はないようですね。
 なお、再建の経緯については承知しておりません。

> 明治維新後にイザナミ神からアマテラスに祭神が変わっています

伊雑宮のことでしょうが、祭神がイザナミ神であったと言うことは承知していません。

[7006] Re[7005]: 訂正。  ro. 2006/02/05(Sun) 02:51 [Reply]
> 読み返して気付いたのですけど、3行目おかしいですね。
> イザナミ神の祖母って。伊〜の人だったかもしれません。
> というよりそうですね。少なくともお米やお酒に関する人です。

質問があります。
伊雑宮は先代旧事本紀大成経という事件の後、式年遷宮とは別に再建されたの
でしょうか。そしてこれは再建だけでなく場所も移動されたのでしょうか。

また、明治維新後にイザナミ神からアマテラスに祭神が変わっていますけれど、
アマテラスはイザナミ神のお子なので同系というふうにとらえていいのでしょうか。
よくわかりません。教えてください。
よろしくおねがいします。

[7005] 訂正。  ro. 2006/02/04(Sat) 23:45 [Reply]
読み返して気付いたのですけど、3行目おかしいですね。
イザナミ神の祖母って。伊〜の人だったかもしれません。
というよりそうですね。少なくともお米やお酒に関する人です。

[7004] あれからいろいろ調べました。  ro. 2006/02/04(Sat) 23:38 [Reply]
調べすぎて何が何だか。(笑)
少なくとも玉柱屋姫命という人は稲に関係する人であること。
また玉〜(忘れました)という人は伊射奈伎神の祖母であったらしいです。

[7003] 布奈木の郷 16 能登国珠洲郡  神奈備 2006/02/04(Sat) 09:27 [Reply]
 旧石器後期の掻器(エンドスクレーパー)や縄文草創期の精巧な石槍先などが出土。以降の時代の遺跡も多い。早くから開拓された地域。
 珠洲郡の名の初出は霊亀元年(715)以前の平城宮跡出土木簡で
 表(越前国珠洲郡月次里)  裏(庸舟木部 申 六斗)
とある。月次里に住む舟木部申が庸米六斗を貢進した。と言う意味。珠洲郡はかっては越前国であった。

 舟木部は律令以前に造船に関係した部で、能登には舟木姓が多く分布する。

 能登郡を大伴家持が巡行したさい読んだ歌。
とぶさ立て船木きるといふ能登の島、山今日見れば木立繁しも

 七尾から能登島を見て歌ったと言う。能登島には伊夜比メ神社が鎮座、大屋津媛命を祀る。植樹の神、五十猛命の妹神とされる。
 七尾湾の西湾や南湾には、造船にかかわる氏族が住んでいて、良港な船材を利用していたのであろう。
 能登郡に船木氏が居たのかどうかは不明、樹木神が祀られているのは一層古い時代からの造船の地であったのかも。

[7002] 出羽国酒田は、初期国府   2006/02/04(Sat) 00:52 [Reply]
のあった場所で、越しの国守・阿倍氏(のちの安東水軍は後裔)が蝦夷征討のために城輪柵(国府)を初めて設置している。

酒田近隣が飽海郡なんで、阿部氏は安曇氏ではないので、飽海が安曇にちなむというのは間違いですね。ただの推論にすぎない。

それから、安曇氏は海人族で阿部氏同様、船を操って、大和朝廷に貢献したはずなんだけど、渥美郡の荷札木簡には、塩を献上するというのばかりなんだよね。

ところが、同じ三河国の幡豆郡に属した離島3島のヒマカ・サク・シノ島は、サメの干物を大和朝廷に献上している荷札木簡が多数出土している。こっちのほうが、船を使っているようだ。

飽海や渥美を安曇氏に無理やりこじつけるのは、恥ずかしくないか?

[7001] 飽海評と飽海河   2006/02/03(Fri) 23:49 [Reply]
飽海河は、安曇氏の川じゃねえよ。木簡見たことないのか????

飽海評→大宝律令→渥美郡(ここで表記が変わった)なんだよ。

飽海評の河=飽海河(渥美郡の川)なんだけど。

根拠は、渥美(あつみ)と安曇(あずみ)の発音が似ている、それだけだろ?

飽海って、他にも出羽国の酒田(庄内)近辺も飽海郡だは。ここには、安曇氏はいない。

[7000] 西三河主要都市の歴史   2006/02/03(Fri) 23:35 [Reply]
安城市、三河で唯一木簡が出土、桜井古墳群から古代の有力豪族本拠。
安祥城の築城と、安城松平家(徳川宗家)の本拠地。徳川譜代のほとんどが安城時代から。三河一向一揆の総本山の城郭伽藍の本証寺。

知立市、式内社の知立神社から。三河三弘法(空海の真言宗)。

刈谷市、刈屋城の築城から。三河三弘法。

西尾市、西条城の築城以来。今川氏(足利氏族)発祥。三河木綿伝来。

一色町、室町幕府四職の一色氏(足利氏族)が発祥。

吉良町、足利氏族の吉良氏発祥。

碧南市、大浜湊。 高浜市、三州瓦。

岡崎市、室町幕府三管領筆頭の細川氏・仁木氏発祥(足利氏族)
三河国守護の足利氏が鎌倉・室町通して世襲で支配。
岡崎城以来繁栄。徳川家康の本拠。

豊田市、賀茂神社の氏子らしい松平氏発祥の地、塩の道の足助宿、猿投古蜜群と式内社の猿投神社

>>>>>>>>>>>>>
うさんくさい歴史ばかり語る東三河と大違い。

[6999] ネット上に流布する国造制度   2006/02/03(Fri) 23:20 [Reply]
国造制度を令制国の前身扱いしているのは、おかしい。

古事記や日本書紀にも、一部しか国造は登場してこない。木簡で確認できるのも明らかに、国造は人名であって、令制国の前身ではない。

国造一覧表をつくった旧事紀は、やっぱり偽書か?

三河国の古代史を東三河側の視点で捏造した文章が流布しているのは異常。東三河は、文系が多いのか異常な思想の持ち主が多い。穂国と三川国の領域を併せて成立して、国名の代わりに国府は穂国に置かれた、よくこんな捏造文章、造りだすな?

ヤマタイ国は、東三河とか、メチャクチャだよ。

トガ神社って、三河一の宮というワリに、西三河人は誰も知らない。神社じゃない寺の豊川稲荷とセットで紹介しないとどこにあるのかわからない。

西三河側の歴史を勉強すれば、東三河人による三河国史が異常なのに気付くはずだが。

豊川市が確立したのは、鎌倉時代以降の鎌倉街道の豊川宿から。ゆえに鎌倉以降の曹洞宗とかが幅利かせてる。

豊橋市が確立したのは、江戸時代以降の吉田城・宿から。

新城市が確立したのは、江戸時代以降の菅沼氏の陣屋町になってから。

田原市は、戸田氏の時代からだが、家康人質強奪事件で、今川氏を裏切って没落。



[6998] 三河国正史   2006/02/03(Fri) 23:04 [Reply]
なんで、東三河人は、歴史を捏造ばっかしてるの????

アタマ大丈夫か?????????

矢作川のことを、御川(みかわ)とは、呼ばないぞ。当然、三本川でもない。飽海川(豊川)は、流域が狭く大河ではないので、三本川であろうはずがない。

三川は、参河(参川)であって、河川が合流する場所という意味だ。矢作川西岸の中下流域に古代遺跡・寺院が集中しているので、そのへんのことだ。
おおむね安城市(青見評)の鹿乗川流域、別郷・古井・桜井・小川・寺領あたり。

延喜式式内社の知立神社も近いし。三州瓦の産地にも近い。

岡崎市の岩津とか明大寺に中心が移ったのは、鎌倉幕府以降のはずだけど。江戸幕府時代の城下町のイメージで古代史語られても困るけどな。

豊川市西部にあるのが、本当に三河国府なのか疑問。鎌倉街道沿いにあるので、駅家と郡府かもしれない。木簡がまったく出土しないのは、おかしいだろ。
仮に、国府であったとしても、東三河側が中心で首都であった事実はないだろ。
豊川市教育委員会は、ヘンな奴らだ。

穂の国なんて、平安時代の偽書の旧事紀からだ。

[6997] Re[6996][6993][6988]: ちょと失礼します  神奈備 2006/02/03(Fri) 20:36 [Reply]
> 梅原猛氏は『水底の歌』の中で、猿丸太夫とは罪を犯した人麻呂の貶称であろうとしているので、万葉時代までは遡れるのかな。

お見事です。PONTAさんのMAYAさん、どういう方なんでしょうか。

[6996] Re[6993][6988]: ちょと失礼します  PONTA 2006/02/03(Fri) 19:29 [Reply]
MAYAです。

> YUUKOさんの名で矢作川流域のことを投稿して頂いてますね。

YUUKO先輩の矢作川の話は
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/mura.htm
ですね。

>人間以下の人間を猿と呼ぶのは、いつ頃まで遡れるのでしょうか。

分かりません。
梅原猛氏は『水底の歌』の中で、猿丸太夫とは罪を犯した人麻呂の貶称であろうとしているので、万葉時代までは遡れるのかな。

[6995] そうですか。  ro. 2006/02/03(Fri) 17:25 [Reply]
レスありがとうございます。
>国生みイザナギ神は伊射奈伎神とか伊佐奈岐神と書きます。
イザナギ神のことだったんですね。読み方が似てるなぁとは思っていたのです
けど、伊弉諾、伊邪那岐と漢字が違うなと。射や佐にしても、
ある程度漢字を統一してほしいなぁと思いました。国生みの神なのに。

ちなみに伊雑宮に関することで、
明治維新前の祭神はこの伊射奈伎神と玉柱屋姫命だったので、
誰やねん、と。(笑)イザナミ神で納得しました。
玉柱屋姫命はわからないのですね。伊射奈伎神社というのもあって、そこにも
この2柱が祀られているので、ややこしいなぁと。

現在はこの天照坐皇大神御魂を祭神(公式サイトに書いてあったので)に
しているそうです。そんなに簡単に祭神を変えられるのかと、
偽書扱いの信憑性のほうが疑わしいのではないかと思いました。
その時代では体制側に不利な内容で、また今のように開かれていないので
現在でもそういうことがないとは言えないかもしれないのに、
容易だったんじゃないかなと。

>偽書を書き上げるのは凄い能力だと思います。事実を書くより、難しいのかも。
そうですね。ホントに偽書(変な言い方)に関してはそう思います。
でも中にはホントのことについて書かれたものもあったのではないかと
思います。逆にそれらを全部偽書とするなら、正規の本とされた中にも
偽造の箇所や意図的にわかりずらく隠している部分も多々あるのではないかと。

ちなみに。。。ガリレオは地球が動いているといいました。
皆さんご存知かと思うのですが、一応わかりやすい例えなので。

今ではこのサイトを見ている人の全員が地球は動いていることを知っていると
思います。実物を見たわけでもないのに、提供された写真や資料などで、
宇宙の全部はわからないけど、とにかく地球は丸くて動いてるんだと。

でもガリレオの時代はそうではありませんでした。地球が丸いと不都合を
生じたので、地動説を言ったガリレオは有罪有罪判決を受け、禁書となり、
地動説を唱えるものはすべて異端とされました。
それでも地球は回る(動く)と言ったのは有名ですね。

なので、このガリレオのこと以外でもそういうことは多々あったと思います。
日本でも。実際にその偽書といわれた原本や裁判の様子さえ知らないのですから、
何を根拠に偽書としているかということもわからないで、あぁ偽書なんだと。
もっともらしい説明をどちらが嘘をついているかわからないで判断している
部分もあるのではないかと思います。

長くなりました。読みづらかったらすいません。
神奈備さんは幅広く神社などについてお詳しいようなので、
またわからないことがあれば質問させてください。

[6994] Re[6989]: 質問  神奈備 2006/02/03(Fri) 08:39 [Reply]
> 伊射波登美命という人は漢字の射ではなく佐が使われていたりすることも
あるのですけど、同じ人でしょうか。

 国生みイザナギ神は伊射奈伎神とか伊佐奈岐神と書きます。ほかにも書き方がありまあす。初めに音があって、後世に漢字が当てはめられたのでしょう。従って、射でも佐でも同じ神でしょう。

> 玉柱屋姫命という人はアマテラスのことなのでしょうか。
詳しくは知りませんが、違うと言う扱いですね。

> それと偽書といわれている物についての信憑性はどのぐらいなのでしょうか。
偽書にも種にした本があったかも知れません。それぞれでしょうね。偽書を書き上げるのは凄い能力だと思います。事実を書くより、難しいのかも。

> 天照坐皇大神御魂
この神名の神は『平成祭礼データ』(神社本庁発行の神社史料)には見えません。よく似た名では天照坐皇大御神荒御魂がいます。伊勢神宮の荒祭宮に祀られています。天照大御神と同じとしていいのではないでしょうか。

[6993] Re[6988]: ちょと失礼します  神奈備 2006/02/03(Fri) 08:38 [Reply]
PONTAさん、おはようございます。一昨年2004の5月にYUUKOさんの名で矢作川流域のことを投稿して頂いてますね。

猿投、佐鳴、散岐、讃岐、銅鐸が埋まっていた場所に近い地名だそうですね。この「サ」が猿田彦の猿と関係があるのかも。一応、動物の猿は神(日吉神)の遣いとされており、山中で生活していますから、銅鐸の守り神だったのかも。
 人間以下の人間を猿と呼ぶのは、いつ頃まで遡れるのでしょうか。

[6992] 旧豊川市内に延喜式式内社ゼロ   2006/02/03(Fri) 06:06 [Reply]
という厳然たる事実。

本当に三河国府があったのか?

三河国総社なるものは、式内社の掲載ないし。

[6991] 三河国府は、あやしい   2006/02/03(Fri) 06:03 [Reply]
木簡が出土しないのは、おかしい。

国分寺と国府が離れている事例は多数ある。

[6990] 書き忘れです。  ro. 2006/02/02(Thu) 22:26 [Reply]
天照坐皇大神御魂は誰ですか。
この人はアマテラスとは別の人なのでしょうか。
教えてください。
よろしくお願いします。

[6989] 質問  ro. 2006/02/02(Thu) 22:17 [Reply]
質問があります。
伊射波登美命という人は漢字の射ではなく佐が使われていたりすることも
あるのですけど、同じ人でしょうか。

また、玉柱屋姫命という人はアマテラスのことなのでしょうか。


それと偽書といわれている物についての信憑性はどのぐらいなのでしょうか。
たとえば今の時代だと個人でかなり容易に調べることもできるでしょうが、昔の
それほど情報が開かれていない、もちろんネットもない頃に、
偽書と言われたといっても、信憑性にかけるのではないでしょうか。
キリシタンや、教科書や戦争、情報操作など。
新聞でも発行するときに何かと迫害されたり、大変だったようです。
新聞は悪だ、みたいな。事実をそのまま書いているだけなのに、
それを庶民にも知らせようとしただけで新聞の発行まで何かと大変だった
ようです。原本を残しておいて後の時代に解釈しなおすこともできるのに、
燃やしてしまったり破棄してしまったり、なぜそこまで必死にするのでしょうか。
情報が開示されたり、いろいろな側面から判断できる時代になっても、
検証に手間取るかもしれませんよね。
あの時代ならいくらでも都合の悪いものを偽書扱いすることも容易だったと
思うのですが、どう考えられますか。
教えてください。
よろしくお願いします。

[6988] ちょと失礼します  PONTA 2006/02/02(Thu) 21:46 [Reply]
サークルPONTAは、「地方から見た日本の古代」というテーマで調査・研究をしています。
掲示板を拝見したところ、日本武尊と宮道氏とか、銅鐸をさなぎと読むとか、私たちの調査でも出てきたことが書かれていましたので、
・日本武尊と宮道氏→宮道天神社(宮道氏発祥の地)
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/kousu.htm
・銅鐸で「さなぎ」→猿投(さなげ)神社の語源
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/ousu.htm
「参考にしてください」と言うより、「教えてください」というレベルの調査・研究で申し訳ないです。
あと、別荘に秋葉山本宮秋葉神社の「幸福の鳥居」の写真を投稿させていただきました。

[6987] 布奈木の郷 15 山口県厚狭郡楠町大字船木  神奈備 2006/02/02(Thu) 09:04 [Reply]
 ほぼ中央を東西に山陽道が走る。本宿が置かれた。
 連歌師宗祇の『筑紫道記』に「・・・この船木といへるは、神功皇后が御船を作り給ひけむ所となん・・・
 
 岡崎八幡神社が鎮座。
縁起「人皇第十五代神功皇后海外出兵の時此の地に有りし楠の大木を切って四十八艘の軍船をこの里人に造らされた。ゆかりにより此の地を船木と称す。
其の後、宝亀元年(七七〇年)人皇第四十九代光仁天皇の勅使として和気清麿公、宇佐八幡宮へ御下向の時、船木の因縁を聞召され、皇后のゆかりの深い地として御帰路の際、宇佐八幡宮御分神を此の地に鎮祭さる。それが今の此の地、岡の崎にして社名岡崎八幡宮と称す。
船木の氏神様として、御霊験灼かにして船木は元より遠近より崇敬者の参拝多く又、全国にても珍しく御神酒を造ることが許可された神社が七社あり、中でも清酒が造れる神社は三社にして、その中の一社にして誠に格式の高い神社であります。」縁起は『平成データ』

 大木住吉神社も鎮座。
縁起「神功皇后三韓征伐の砌り住吉大明神の出現あり、軍神と成り安く平らげ給ふと日本書記に見へたり。御帰朝後先門山田邑に垂跡し給ふとあり。山田邑は船木の事なり。往古楠の大森林十里四方に互りて繁茂し此の楠を持って四十八艘の船を造り給ひぬ。此の大森林の聖地に小祠を建てぬ。現在の社殿は壱阡六百五拾年祭に奉財して修理せしなり。
夫此の神威は無比の御武功を遂げさせ給ふ武運長久の御祈り感應あらざるなし此の村に生る者沈溺の殃に逢ひぬ例なしと云ふ。」縁起は『平成データ』

 船木街道が通る。秋吉台−大田−綾木−小野−吉部−舟木−刈屋浦とつながる。大田の地名も近い。

[6986] Re[6985] [6984] 布奈木の郷 14   神奈備 2006/02/01(Wed) 20:42 [Reply]
倭亞府さん 投稿ありがとうございます。

残念ながら、小生には何をおっしゃりたいのか意味がつかめません。
もう少し、具体的に、くだいて書いて頂きたく、お願いいたします。
???

[6985] Re [6984] 布奈木の郷 14   倭亞府 2006/02/01(Wed) 18:30 [Reply]
「神がもろもろの村に菓子神がもろもろの村に菓子(このみ)木の種)」の「菓子」カシ
・・・ですが、「夏カ 子シ 氏」=古代 夏(カ)王朝の「田根・種」と
カッパーラ(カバラ)的に考えます、「木の種」キのシュ・・紀氏・・箕氏・・姫氏・・・夏の禹王は出雲と繋がると考えます、秦(始皇帝)との対立関係と考えれば
日本古代史が理解しやすいと思います・・・参考まで、・・・お邪魔しました。陳謝。

[6984] 布奈木の郷 14 『住吉大社神代記』播磨國賀茂郡椅鹿山領地田畠右杣山地等。元船木連宇麻〔呂〕鼠緒。弓手。等遠祖大田田命兒。神田田命等所領九萬八干餘町也。  神奈備 2006/02/01(Wed) 10:04 [Reply]
 『播磨国風土記』賀毛(かも)の郡 端鹿(はしか)の里から
 右、端鹿とよぶのは、昔、神がもろもろの村に菓子((このみ)木の種)を頒けて[歩いた]が、この村まで来ると足りなくなった。 そこですなわち「間なるかも(半端になった)」と仰せられた。だから端鹿とよぶ。[今もその神が鎮座している。] この村は、現在になっても山の木に果実がない。

 当地に一之宮神社が鎮座、祭神は素盞嗚尊ですが、樹木神としては五十猛命かも知れません。
http://kamnavi.jp/it/kinki/toujou.htm

 同じく東条町椅鹿谷に大歳神社が鎮座しています。
 南の小野市船木町にも大歳神社が鎮座しています。大年神は『古事記』に系譜の載る神で、『日本書紀』には記載がありません。大安万侶が記載したとすれば多氏に伝わっていた伝承かと推測されます。多氏と伊勢船木氏は同祖神を持つ氏族であり、近い関係にあるのでしょう。
 小野市には船木町があります。中番町に住吉神社が鎮座しています。いこまかんなび様が写真掲示板に投稿頂いています。昨年8月26日と29日
http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/hei17/h1710.htm

 小野市から遥かに瀬戸内海に南下しますと明石郡です。
 『住吉大社神代記』によりますとここにも船木村があったようです。遺称である船上村があり、摂津住吉神社の封戸であったようです。船上町には神社が見えず、近くには御崎神社が鎮座。

 『住吉大社神代記』には、船木連宇麻呂らが、明石郡の船木村・黒田村・辟田村のうち二十五戸を封戸として住吉大社へ寄進したとあります。

 『播磨国風土記逸文』に、住吉明神が藤の枝を流して寄りついた所を領地にするとの伝承が語られており、藤江の浦と名づけたとあります。西明石駅の南に藤江と言う地名が」ありますが、住吉神社は見当たりません。魚住の住吉神社に大藤が流れ着いたので、神社を鎮祭したとあります。
 また、この藤の枝は紀ノ川上流から流されて、当地に着いたとも言われ、まさに真弓常忠氏の『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動」と推定されていますが、それに見合う伝承と言えるのでしょう。

 余談ですが「藤」と言う字は鉱山師などの名に付けられることが多いようで、田原藤太など、それらしい人物も浮かび上がります。藤原氏が力を伸ばしてきたのも鉄の確保の力量かもしれません。鉄は国家なり。

[6983] Re[6982]: ふいごについて  神奈備 2006/02/01(Wed) 08:13 [Reply]
かまさいさん、興味深い記事の紹介、ありがとうございます。

> 板を平滑に削ることができる

そうですね。桐のタンスなど、実に密着した作り方で、狸抜きでもフイゴができそうです。
 だからあまり平滑でないから、狸が呼ばれたとも思えます。 

 昔のことですが、狸については、その皮を丸ごとつかった袋の中に竹のスプリングを仕組んで、踏んだり放したりするのかな、なんて思っていました。


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