神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十八年 八月 2006.8)お名前の敬称は省略しています。

[7749] Re[7748]: 猿田彦大神=魏使説  神奈備 2006/08/31(Thu) 09:56 [Reply]
> 邪馬台国東四国説

 「邪馬台国は阿波だった」と云うお話は、昔から実に魅力的に聞こえていました。天石門別八倉比売神社などが卑弥呼に絡んで話されていました。

 最近話題になった古代氏族の忌部氏のルーツであり、神々としては事代主、多祁御奈刀弥、御間都比古、八桙、豊玉比賣(神社名に八倉比売と同じく天石門別豊玉比賣神社となっており、トヨを思わせます)、さらに天村雲、物部氏を想起する伊加加志など、不思議なほど神話の世界の縮図のようになっています。

> 猿田彦大神=魏使説
> ここまで具体的に日本書紀に示されているのは驚きです。

 解釈は恣意的に過ぎるように思えますが、神話の読み方の問題であり、ひとそれぞれです。猿田彦を日本古来の道案内の神と理解していましたが、魏使とすれば、これは道案内された人ですね。いれかわった理屈は何でしょうか。


[7748] 猿田彦大神=魏使説  やまし [Url] 2006/08/30(Wed) 22:09 [Reply]
記紀の神代の舞台は徳島県の大麻山周辺であり、
天照大神=卑弥呼だと推測しています。
いくつかの根拠や状況証拠は下のHPで示しています。

記紀の神様の中でも最も強烈な印象を与えるのが
猿田彦大神ですが、これは明光鎧に身を包んだ
魏使ではないでしょうか。

「一の神有りて、天八達之衢に居り。
其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り。
当に七尋と言ふべし。且口尻明り耀れり。
眼は八咫鏡の如くして、てりかがやけること赤酸醤に似れり」

解釈
目は胸の2枚の護心鏡で輝いていた。
鼻は胸の下の部分(あるいは剣)で1.2mあり、
背は輿に乗った高さで2.1m以上あり、
身長は魏使を中心とした行列で12.6m程度の長さだった。
口と尻は腹部と背中の護心鏡で輝いた。
「七七七」と表され、中国の聖数七を強調している。

ここまで具体的に日本書紀に示されているのは驚きです。

邪馬台国東四国説
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/

[7747] Re[7746]: 歌垣神社  神奈備 2006/08/30(Wed) 20:03 [Reply]
能勢の式内社の岐尼神社に参詣

神社の西方に字田中と云う広い在所があるのですが、そこに九頭神祠が残っていると聞いていたのでうろうろと宛もなく探してみました。田圃の中に石灯籠と石の祠を発見、これぞと行ったのですが金比羅さんでした。
 その近くの農家の庭先に農婦が一人、こんにちはと世間話。「所で九頭神社というのが田中にあるそうですね。ご存じありませんか。」と尋ねた所、「お父ちゃん、くずじんじゃって知らんかえ」、向こうの方からのうふの旦那、おー、それは今天神さんと呼んでいるんや、儂の山にある、ほれ、あの電信柱のとこを200mほど行けばあるわ。」
 と云うことで、九頭神祠を発見、多田満仲が退治した九頭大蛇の霊を祀っているそうです。

[7746] 歌垣神社  神奈備 2006/08/29(Tue) 21:14 [Reply]
 歌垣の伝承は京都の江文神社や大和は三輪の海石榴市など各地に残っています。
歌垣の名を持つ神社は豊能郡能勢町に唯一鎮座しています。神社合祀があって村名の歌垣を神社の名としたようです。それにしても村の名に歌垣が残っていたというのは面白いことです。
 この神社はかっては奥の磐座上に鎮座していたようです。あすにでも参詣かたがた磐座探訪をしてみたいものです。

[7745] Re[7744][7743][7737][7735]: 奈気木の杜  nick [Url] 2006/08/29(Tue) 09:30 [Reply]
> 三宅島だと漂着しても伊豆半島にすぐ渡れたのであまり痕跡がなかったのでしょう。
> これを契機に古代から現在までの歴史と黒潮の関係を勉強したいと思っております。
> 今後ともよろしくお願いいたします。

おはようございます。
済みません。「黒潮圏の考古学」でした。
私も「隼人関連」でこの掲示板からせっつかれて
地元の上野原縄文遺跡へ出かけ、埋蔵文化財報告集を精査
いや、私の場合は、もっぱらデジカメでパチリです。笑。
(某掲示板で慌てて走査と書いたらヤングから日本語を勉強して下さいと
お叱りを受けましたが、やっぱり精査よりスキャン(走査)です)

巷ではこれ等の史資料は高価ですから、無料で公開して頂いている
貴重な資料を十二分に活用したいと念じています。
もちろんこのサイトも私の座右の書です。

研鑽しながらのんびり行きましょう。

[7744] Re[7743][7737][7735]: 奈気木の杜  素人 2006/08/29(Tue) 02:59 [Reply]
> 黒潮関連ならこのサイトもお勧めです。
>
> 黒潮の考古学
>
> http://www.ao.jpn.org/kuroshio/index.html
nickさま、大変に参考になるWebをご紹介いただきありがとうございました。
まだ一部しか見ていませんが、研磨石器でノミのような石器があるとか書かれていますが、チョウナのようにして丸木舟を刳り抜いていたのでしょうか。黒潮がらみと考えますと造船工具でしょうか。興味を持ちました。
三宅島でなくて、八丈島を注目しています。ここは、三宅島と八丈島の間を通常黒潮は流れていますので、漂着すると古代ではなかなか、渡り切るのは困難で、黒潮が異常蛇行して八丈島の南に移動するまで長期にわたり閉じ込められ、八丈島ー三宅島ー伊豆半島へ渡ることが出来なかったために、長期滞在の痕跡が残ったのでしょうか。
三宅島だと漂着しても伊豆半島にすぐ渡れたのであまり痕跡がなかったのでしょう。
これを契機に古代から現在までの歴史と黒潮の関係を勉強したいと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。

[7743] Re[7737][7735]: 奈気木の杜  nick [Url] 2006/08/27(Sun) 15:30 [Reply]
素人さん、こんにちわ。
「奈気木の杜」におつきあいありがとうございます。
今日も父の要望で、鹿児島神宮とこの蛭子神社に参拝して
さっき帰宅しました。

黒潮関連ならこのサイトもお勧めです。

黒潮の考古学

http://www.ao.jpn.org/kuroshio/index.html

管理人さん、この杜も予定していたのですが
運転手さんがばてて、、、ちょっと心残りでした。

[7742] Re[7737][7735]: 奈気木の杜  神奈備 2006/08/26(Sat) 20:04 [Reply]
「素人」さん、こんばんは。
 長屋王の骨は土佐へ島流しのようです。『日本霊異記 』では、「土佐に流れ着き」と言う表現ですが、土佐に埋葬したとも言われています。だれかが持参したようです。失礼いたしました。
 土佐で祟ったので、都に近い紀伊国海部郡の椒抄の奥の島に骨を置いたとされています。今の有田市初島町の椒古墳がそこだとされております。

[7741] Re[7740][7735]: 奈気木の杜  nick [Url] 2006/08/26(Sat) 18:06 [Reply]
> > けしきの森は大隅国の

過日ご案内した折、隼人の首塚から国分市内へ向かいましたが、
あの時ご案内すればよかったですね。
国分市街へ入るちょっとした登り坂がありましたが
あそこがそうだったのです。
地図では、九州自然歩道となっています。
あのロードを上から下へ走った訳です。
若宮神社の処が峠になりますか。

だから昔の手篭川は、ちょうどJRの線路辺りを流れていたのでしょうか。
そして駅手前の踏み切りの辺りで二股に分かれて一方は街中へ、
他方は大津川(現在の天降川)へ
当時の絵地図があるようです。

「隼人の戦跡」だけしか眼中になくて恐縮です。
今度は、枕詞の三大名所もガイドに入れたいと思います。
(もちろんページにも)

[7740] Re[7735]: 奈気木の杜  nick [Url] 2006/08/26(Sat) 16:54 [Reply]
> けしきの森は大隅国の歌枕だそうです。けしきとはどういう意味なのでしょうか。微妙なる自然の変化、またはけしきばむなどで喧嘩速い気質なのかよく分かりません。

朝方、この「歌枕」について聴きに鹿児島神宮横の歴史資料館に出かけたのですよ。
は、は余りの暑さに何を聞くのかすっかり忘れていた。
午前中居たのですが思い出せなくて。。

お昼頃、こんな方がご夫婦でお見えになりました。
ここの後は「大穴持神社」へ参拝されるとのことでした。
隼人の戦跡も見たいとのご希望でしたのでご案内でもと、
しかし、今回は予定していないので時間が取れないとのことでした。

一の宮巡拝会顧問:生谷陽之助氏

質問は帰宅してこの掲示板を再度閲覧して、、
回答は後日とのことでした。

[7739] Re[7738][7736][7735]: 奈気木の杜  神奈備 2006/08/26(Sat) 10:52 [Reply]
> 気色の杜は次の地図をご参照下さい
> http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=47304650

ありがとうございます。

> この辺りに平家物語の頃の「気色杜」はありました。

往古の気色の杜ですが、大隅の枕ことばになるほどですから、相当広かったのではのではのではないでしょうか。神社・寺院・武士などの屋敷は広大で、その周囲に庶民の家がへばりついていたと聞きます。
 祓戸神社の付近までと考えますと、大隅の国府があり、枕ことばにするにはうってつけなんて。

[7738] Re[7736][7735]: 奈気木の杜  nick [Url] 2006/08/26(Sat) 06:04 [Reply]
追加及び訂正です。陳謝

■今月号は「歴史探訪」ではなくて
「歴史読本」でした。

気色の杜は次の地図をご参照下さい

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=47304650

中央上辺りに「第一工業」の文字あり
ここが小中高大の一貫私立校です。

この辺りに平家物語の頃の「気色杜」はありました。

下方の神社は「若宮神社」


■また、現在の「気色の杜」は

鉄道線路があります。
これはJR日豊本線です。
左側に河川(天降川)に架橋があります。
この上の橋は鹿児島神宮への参拝道で
「参宮橋」と呼ばれます。
私が中学時代までは渡し船でした。
橋は昭和の末完成です。

その橋から南下するとT路があります。
そのT路の左側(西方)にあり
現在は公園でグランドゴルフ場です。

また、右側の神社は「祓戸神社」です。
この辺りに大隅の国府がありました。
遺構・遺物は神社右の向花小学校の造成時に
出土したようです。



[7737] Re[7735]: 奈気木の杜  素人 2006/08/26(Sat) 00:00 [Reply]
>  さて、蛭子神はどこから流したか、これは国生みのオノゴロ島がどの辺だったかによるのですが、大和中心史観で一応大阪湾付近としますと、長屋王の骨を流した所、土佐にながれついて祟りをなしたので、紀伊の国の島に安置したとあり、土佐まで流れるのなら、大隅まで流れても不思議ではありませんね。

あまり現実的なお話で面白くありませんが、参考までに。
以外と黒潮は沿岸近くを流れていることがありますので瀬戸内海の潮流に乗って太平洋に出ても黒潮の影響があるかもしれません。
以下のWebでの「黒潮の状況」の図で解かるように大阪から流れ出ると通常は東に流れ三宅島を越えて太平洋に出て一部が循環流として沖を逆流していますのでこれに乗れば四国あたりまで戻り、南風でも吹けば四国沿岸に到達するのではと夢想できます。運良く大蛇行時であれば、黒潮ははるか沖を流れていますので東風でも吹けば四国に行くのではと再度夢想します。
黒潮の状況(日本南方海域)診断(2006年8月中旬) (気象庁)
「黒潮は、九州の東で離岸し、四国から潮岬にかけて接岸した後、三宅島の南を通る非大蛇行接岸流路となっています。」
http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/shindan/e_3/kobe_kuroshio/kobe_kuroshio.html
黒潮の解説(気象庁)三宅島の流路の変化も記載されている。
http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/shindan/sougou/html/2.2.2.html
日本近海 日別海流(気象庁)日本近海の今日の海流
http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/db/kaikyo/daily/current_jp.html

私のような素人は蛭子神は外国の神様かと思っていたのですが、日本の神様なんですね、勉強になります。あたりまえですが、クスノキの船だと日本か江南地方でしょうか。鹿児島付近では黒潮は屋久島と奄美大島の間のトカラ海峡を通って太平洋に出て宮崎沿岸に接近しますから鹿児島からはかなり離れるようです。対馬海流へ向かう分流の影響のほうが強いのでしょう。この辺で海流は大きく方向を変化するようです。
つまらない情報でした。

[7736] Re[7735]: 奈気木の杜  nick [Url] 2006/08/25(Fri) 19:51 [Reply]
>  船について見ていますと、蛭子を入れて流す船には二種類あるようです。

歴史探訪の10月号が今日届きました。
それにも神武東征の頃の絵が掲載されていました。

>  nickさんのHPに、鹿児島に蛭子が流れ着いた伝承を持つ神社が出ています。蛭児神社、ここは別名を奈気木(なげき)の杜と言うそうです。
> http://prosv1.tok2.com/~hayato/jisya/hiruko.html

ご紹介ありがとうございます。
寺社探訪の蛭子神社をどうぞ。

>
> また、楡山神社さんのHPに、国分市上小川に「気色(けしき)の森」があり、やはり蛭子神を祭っていると出ています。久満崎神社かも?
> http://nire.main.jp/rouman/fudoki/57kago02.htm

これは、勘違いでしょうか。
「気色の杜」は
現在の若宮神社の麓にありました。
第一工業大学の入り口辺りでしょうか。
古代の駅舎がありました。

古代は手篭川が現在の第一工大の辺りを
蛇行しながら流れていました。

この時の河川の氾濫以降、
府中の祓戸神社の西方100m地点へ移動しています。

寺社探訪==>>弥五郎関連
若宮神社
にさわりだけ掲載しています。
「駅舎」として別掲載の予定です。

また、「蛭子神」については、錦江湾沿いの漁村辺りに勧請しています。
多分それではないでしょうか。全部で3箇所程あります。

>
> けしきの森は大隅国の歌枕だそうです。けしきとはどういう意味なのでしょうか。微妙なる自然の変化、またはけしきばむなどで喧嘩速い気質なのかよく分かりません。

は、は、私もその辺りは疎いです。
専門の方にお尋ねしてみます。
三国名勝図会にも幾つかあるようですから後でも。

>
>  さて、蛭子神はどこから流したか、これは国生みのオノゴロ島がどの辺だったかによるのですが、大和中心史観で一応大阪湾付近としますと、長屋王の骨を流した所、土佐にながれついて祟りをなしたので、紀伊の国の島に安置したとあり、土佐まで流れるのなら、大隅まで流れても不思議ではありませんね。
>
そういわれるとそうですね。
これの伝承にあやかって、江戸時代の「大津川」を明治初期に「天降川」に
名称を変更しています。

[7735] 奈気木の杜  神奈備 2006/08/25(Fri) 16:28 [Reply]
 船について見ていますと、蛭子を入れて流す船には二種類あるようです。

古事記  葦船に入れて流し去りつ。
日本書記 蛭児が生まれた。そこで葦船にのせて流してやった。
日本書記 磐クス船に乗せて、風のまにまに放流した。
日本書記 鳥磐クス船を生み、この船に蛭児を乗せて放流した。

蛭子がどこへ行ってどうなったかは記紀は何も語りません。

そこで神社由緒を見ますと、:−
堺市浜寺石津町 石津太神社
 蛭子神は天磐楠船に乗せて、順風に放ち棄てた所、船は漂って当地へ漂着。この時、五色の神石を置いたので、石津と名付けた。船の着いた所を磐山と言う。

 nickさんのHPに、鹿児島に蛭子が流れ着いた伝承を持つ神社が出ています。蛭児神社、ここは別名を奈気木(なげき)の杜と言うそうです。
http://prosv1.tok2.com/~hayato/jisya/hiruko.html

また、楡山神社さんのHPに、国分市上小川に「気色(けしき)の森」があり、やはり蛭子神を祭っていると出ています。久満崎神社かも?
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/57kago02.htm

けしきの森は大隅国の歌枕だそうです。けしきとはどういう意味なのでしょうか。微妙なる自然の変化、またはけしきばむなどで喧嘩速い気質なのかよく分かりません。

 さて、蛭子神はどこから流したか、これは国生みのオノゴロ島がどの辺だったかによるのですが、大和中心史観で一応大阪湾付近としますと、長屋王の骨を流した所、土佐にながれついて祟りをなしたので、紀伊の国の島に安置したとあり、土佐まで流れるのなら、大隅まで流れても不思議ではありませんね。

[7734] Re[7731]: 雷発生のメカニズム  素人 2006/08/23(Wed) 03:36 [Reply]
> これによると、上昇気流の影響に加え、磁場がない(弱い)場所でも雷はおきにくくなる。
> そう読めます。地上(人間)との関係を探るにはこの説が面白いかと思いました。
貴重なご意見ありがとうございました。
低温ではアスピリンスノーと呼ばれる雪もありますので、湿った雪ばかりではないかもしれません。しかし、磁場は関係あるかもしれません。面白い資料がありましたの御紹介します。雷の落ちた数の図と比較すると面白いと思います。
空中磁気図のカタログ
http://www.gsj.jp/Map/JP/aero.htm
蛇足ですが。
広葉樹を有用材にする方法。(クスノキを真っ直ぐな木にする方法の一部)
広葉樹用材林施業の枝打ち
http://www.nw-mori.or.jp/vgs2003/3jikanme/kou_edauchi.htm
枝打ちの作業季節
http://www.nw-mori.or.jp/vgs2003/3jikanme/edauchi_kisetsu.htm
枝の切断位置と切断のしかた
http://www.nw-mori.or.jp/vgs2003/3jikanme/edauchi_sagyou.htm
重複書き込みが出てしまいすみません。

[7732] 雷といえば、  くず 2006/08/23(Wed) 02:57 [Reply]
古代ローマ(エトルリアの影響が濃かった初期の頃)で重要視された占いに、鳥占い、肝臓(草食動物の内臓)占い、それに雷(稲妻)占いがあったそうです。
 内臓の占いについては、発生を記た文献がありまして、対外的に城壁を作り中に篭らざるをえなかった彼らはその土地の健康性をなにより気にしました)その中で、その土地の草を食む草食動物(羊)の内臓(確か脾臓だったか)に異常があることが解りまして、それこそ土地の健康性を前もって知る手段(毒性は内臓に蓄積される)になりえると、内臓占いなるものが巾を利かせるようになったようです。
 鳥占いはポイントを決めそこから見える鳥の数、現れた速さで占ったようですが、渡り鳥の磁場影響説(ローレンツ力)をとると、磁場を占うものだったか、と思われます。
 雷についてはよく解らないけれど、例えば手付かずの土地に王と呼べるような巨木を発見しえたなら、その土地は雷が少ないか、その木だけ何らかの影響が働いていたか、そんな考えがあったのではないか。と思います。 聖木に石を抱かせる風習も、落雷除けと関係があるのかな、と読みました。
 エトルリアはローマに消された民族ですが、彼らの文化はは対極にありながら、どことなし近いものを感じてきました。


[7731] 雷発生のメカニズム  くず 2006/08/22(Tue) 07:16 [Reply]
こんなのがありました。地磁気・ローレンツ力説。
http://www.f8.dion.ne.jp/~tarkun/bangai/kaminari.htm
これによると、上昇気流の影響に加え、磁場がない(弱い)場所でも雷はおきにくくなる。
そう読めます。地上(人間)との関係を探るにはこの説が面白いかと思いました。

[7730] Re[7729][7727][7726]: 四神相応の土地  素人 2006/08/22(Tue) 03:05 [Reply]
>  なるほど、密度の高いすなわち丈夫な樹木が育ち、かつひょっとしたら落雷が少ない地形である可能性があるということ、言われてみればなるほどですね。これは興味深い見方です。今後の発展が期待できそうです。
いろいろご意見ありがとうございました。
残念ながら関東地方しか載っていませんが雷の資料がありますので参考にしていただければと思います。全国版がないのでなんとも言えませんが、荒いメッシュの他の資料では宇佐市あたりは雷が少ないようでした。
地域ごとの落雷頻度
http://www.sankosha.co.jp/product_n/kaminari_info/img/mesh.jpg
http://www.sankosha.co.jp/product_n/kaminari_info/

[7729] Re[7727][7726]: 四神相応の土地  神奈備 2006/08/21(Mon) 16:11 [Reply]
> 南から北に流れる川は松浦川、遠賀川、山国川、駅館川、大和川(旧流路)等意外に有りますので流路、山などを比較して夢想しているわけです。

 なるほど、密度の高いすなわち丈夫な樹木が育ち、かつひょっとしたら落雷が少ない地形である可能性があるということ、言われてみればなるほどですね。これは興味深い見方です。今後の発展が期待できそうです。

 北側に傾いた斜面、このイメージは、福島雅彦さんの稲作の為の水源としての北の斜面の概念がありました。遅くまで雪が積もっての水源の意味です。邪馬台国の立地もそのように山の北側にあったのではないかとの意味です。

[7728] 北斜面の良材  くず 2006/08/21(Mon) 08:07 [Reply]
一般的に北斜面は良質の木材を生みます。目がつむと言いますが、年輪の感覚が細かく、素性の良い木になるからです。上には伸びますが太るのは遅いのです。森へ入る太陽光の影響(木が受け取る日射量)かと思います。木に深く精通し、良材を得る事を目的とした人々であれば、北斜面を形成しうる南から北の流れは大切に考えたでしょうね。
雷の発生については、面白いのでもう少し理由など考えてみたいと思います。

[7727] Re[7726]: 四神相応の土地  素人 2006/08/21(Mon) 01:16 [Reply]

>この"南へ向かう傾斜地"は例えば"日本海に面すような土地"から生まれる発想では>ないと思います。
>また初期に日本海側に居を構えた者とは、道教的な発想を根本に持っていなかった。とも思います。


ご指導ありがとうございます。


そもそも、川の流路の話は伊豆狩野川が南から北に流れる川で太平洋岸ではとても珍しい流路であると言う話から出発しました。この流路と地形からか、この地域は落雷が少ないので弥生時代からクスノキの巨木が育てられ、船舶用のクスノキの巨木材として切られクスの巨船が作られたのではとの話から始まっています。追加して言えば現在、三島に有る三島神社も元は伊豆七島の三宅島に鎮座されていましたが、伊豆白浜に移られ、さらに三島に移られたようです。

三宅島は沖縄の東シナ海側から四国沖、潮岬へて流れて来る黒潮が近くを流れ流心は八丈島と三宅島の間を流れることが多いようです。しかし表流は三宅島の北を流れたり島にぶつかったり、大きく流路を変え黒潮の蛇行などを予測することが出来る場所です。一番危険な流路の時は八丈島の南を流れるようです。古い時代には黒潮航路の到達点とも考えられます。この航路を南から北にクスキノの巨船が黒潮に乗って航行していたかもしれません。

このような伊豆の話から長江の下流から他の河川の放流水なども集めて流れ出る水流と大潮の引き潮を利用すると東シナ海を流れる黒潮に到達できる可能性があるとの話とあわせて長江河口付近に同じような川はないか探したわけです。そうしますと、日本との関係の深い浙江省の寧波の近くに「曹娥江」と言う川があり南から北へと流れ奥に大きな盆地がありいくつかの支流に別れ、河口は左に蛇行して杭州湾に流れ出ています。これと狩野川が似ているところから南から北に流れる川の話が中国と結びついたわけです。

たまたま、この川の中流の盆地の東に四明山があったわけです。四明山は中国では古くから有名な山で、真実かわかりませんが頂上に岩があり4個の窓があって光が差し込むとの話をネットで見ました。どちらにしても方位に関する山のようです。盆地の奥には天台山などもあります。曹娥江の奥、四明山の下の盆地を古代に日本の僧が旅をしたなどの話も見受けられます。この地域の住人が長江河口から黒潮に到達して最短の九州南岸に到達したら似たような地形のところに、拠点を定めるのではと夢想しているわけです。


このように、南から北に流れる川は松浦川、遠賀川、山国川、駅館川、大和川(旧流路)等意外に有りますので流路、山などを比較して夢想しているわけです。
南から北に流れる川は風水などではご指摘の通りあまり好ましくないようです。
長文失礼いたしました。


ご存知と思いますが、以下のWebで中国の衛星写真画像を見ることが出来ます。
「サテライト」クリック、長江の河口をクリック、分解能は低いですが曹娥江、寧波市など見ることが出来ます。(勿論他の国も)重慶市の長江下流部での支流「鳥江」(水銀鉱床帯)の北斗の柄杓のような流路も見ることが出来ます。
Google マップ 
http://maps.google.co.jp/maps


[7726] 四神相応の土地  くず 2006/08/20(Sun) 16:18 [Reply]
田舎での皇室効果は絶大だったようです。昔田舎を回って皇室の写真を売りさばいていた業者が近年再び訪れ「どこの家でもありがたがって買ってくれた。悪い事をした・・・」と呟いていたと聞きました。関西の業者さんでした(笑)

まだ行った事がない中国の風土を正確には知りえないのですが、四神相応の土地についてはある程度推測ができます。
東に青龍、西に大道、北に山を備え、南は開けたくぼ地(湖か海?)
西から大道(シルクロード?)にそって入る流れを東の川で封じ、南からの強い気の流れを北の山で受け手前の都に落とし込む。そんな事が基本なのではないでしょうか。
川が北から南へ流れ、南が低地(海)である事は土地全体が南傾斜である事を意味します。
南傾斜(最良は北西から南東への傾斜)であれば、都市を形成する一住宅を考えても、
太陽光を取り込みやすく、内部の淀みを流す用水の敷設にも有利となります。

この"南へ向かう傾斜地"は例えば"日本海に面すような土地"から生まれる発想ではないと思います。
また初期に日本海側に居を構えた者とは、道教的な発想を根本に持っていなかった。とも思います。


[7725] Re[7724]: 国家へ向かう流れ  神奈備 2006/08/20(Sun) 13:33 [Reply]
 古代においては天皇が移動すれば都の機能は一瞬にして消えてしまう。
 そのような状態では官僚機構も落ち着かず、広域を直接統治することは無理だったでしょうね。例えば大蔵は蘇我氏や秦氏の私邸が役所機能を持っていたので、何とかやっていけたのかも。

 近江朝、藤原京、平城京と徐々に王権が確立されてきたのでしょう。平安京に遷都してからは、天皇家も落ち着いてしまい、貴族が牛耳る天下になっていったということ。

 江戸時代になりますと、後期以前には”天皇”と言う呼称では呼ばれず、院と呼んでいたそうな。御所がぼろぼろでお寺などの逗留していたこともあっての院かも知れません。
 明治になってから東京へ天皇が遷りましたが、関西でも存在感の薄かった天皇、ましてや関東方面では殆ど認識されていなかったので、わざわざ知らしめるべく遷ったのでしょう。
 昭和天皇の崩御の際には東京に勤務のサラリーマンは皇居の方面に向かって黙祷をしたようですが、大阪ではそういうことはありませんでした。

 去る者は日々うとし。

[7724] 国家へ向かう流れ  くず 2006/08/20(Sun) 11:12 [Reply]
建築に職しておりますので、都市を見る、町を見る、その土地の風土を見る、という事は好きでやっております。
当時のクニが国家としての体裁を整えていく上で都(首都)の固定化ということは、一つのテーマでもあったやもしれません。安定した内政を築く上で欠かせない要素に思うからです。小規模のクニではない、日本国を意識した都(首都)の確立。
王が変わる度に新しく都を遷都していたのでは、海外に抗する力を持つ安定した国家は築けないと、理解したのではないでしょうか。効率が悪いのです。無駄が多い。

しかし、それは同時に問題も生みます。固定化は流れを淀ませる。どこかに淀みが蓄積する。
そして淀みには悪い気が蓄積し、いつか弊害となって浮き出し、暴れる。
疫病の発生などは想像しやすいかと思います。(祟りと呼ばれたかもしれません。)

その中で、大陸の都市学(風水)、制度を取り入れる事は、ある程度必然であったと思います。
都を固定し、そこを中心とした政治体制、インフラの確立。国全体を統率するために必要な制度の整備と明文化。そして共通となりうる新たな価値観を創出(あるいは借り物でも)し、それを植え付ける。
神の置き換えもそこで行われたかと思います。おそらく何度も。

[7723] 三輪山、四明山→道教の日本への影響  とみた 2006/08/19(Sat) 22:45 [Reply]
素人さん、私が如き、ど素人が口を挟むことでもありませんが・・・道教と日本について少し興味がありますので割り込みます

> 妄想ですが、四明山付近には天台山など仏教関連遺跡があり、四明山も仏教伝来後には仏教関連史跡となります。四明山は元もと方位に関係する道教などと関連するものであったものが仏教関連史跡となったようですから仏教導入時に神仏混合とするために中国の事例として利用されたりしたのでしょうか。四明山周辺は日本と関連する遺跡も沢山あります。


私も皇極とか天武は道教に染まっていると考えていますので、古代日本に道教が大いに影響した可能性を感じております。

福永光司先生は明日香と道教との関係の深さを論じておられます。二種の神器も道教と関連しているらしい。

その延長で、四明山の話が出てきますね。

京都の東北に比叡山がある。東北は鬼門とされる。鬼とは死者のことで、その住む世界の都は東北にある。人は死ぬと一旦そこに行き、生前の行為の裁きを受ける。と同時にここには魑魅魍魎、、悪鬼妖怪が集まる。ここを管理し王城に害を与えないようにするのが、四明君(東明君、西明君、南明君、北明君)であり、比叡山の四明岳がこれに当たる。ここに延暦寺を開いた最澄は中国セッ江省の天台山で学んだがそこに四明山があった。道教では世界は仙・人・鬼の三部世界からなっているが仙は皇居(上皇の御所は仙洞)であり、鬼は比叡山にあり、都を守護するという構想である。

最澄の天台宗の王城守護の思想と道教のそれとが重なりあっている。一方都の西北には毘沙門天王、大将軍〔上京区)を祀っている。これは西北から都を守る守護神で太白星〔金星)の精である。太白星は戦争の勝負国家の吉凶を占う星で、軍事を司るので大将軍と呼ばれた。

このように平安京は道教信仰によって設計されている。

上記の見方を引用しました。

素人さんは、そのあたりをすでに勉強されていて、宇佐の米神山にも四明山に似た山々があるということでしょうか。

宇佐は秦氏などの渡来人の地ですね。

秦氏は、新羅から来たという説と江南の呉越から来たという説がありますね。
江南といえば道教と深いつながりがある。まさしく杭州も江南です。

私には分からないのですが、道教は呪術的な現世利益的(神仙思想の長寿)な色が濃いですね。仏教の密教も呪術的な手印?を使いますね。仏教と道教は習合したり、区別がつきにくいところもあるようですが。風水と道教は似ているところもあり、陰陽道も道教のバリエーションだと考えたり、修験道もいろいろな宗教が交じり合っている。

中国でも唐の高宗は宗教好きで、道教も、仏教も、景教(キリスト教の一派)も受容してしまう。

日本でも天武は仏教も、道教も受け入れる宗教好き天皇です、病気になると観世音菩薩の坊さんを集めて祈らせます。

このあたりどうもよく分かりません。どなたかすっきり教えていただけるとありがたいです。


[7722] Re[7721][7715][7712]: 三輪山に似た山?  神奈備 2006/08/19(Sat) 09:41 [Reply]
> 素朴な疑問ご指導ください。

 杭州の四明山について全く無知なので、「素人」さんの言われたいことがよくわかりません。
 川が南から北へ流れるのにどのような意味があるのか、良くわかりません。単に地形の問題ですね。何かあるのですか。

> > 米神山(475m)とコスモス 安心院町 房ケ畑
> > http://f40.aaa.livedoor.jp/~niemon/kosumosu.jpg
 やはり私のPCでは、見えません。もう結構です。

> 三之岳には『「豊比売命」は神武天皇の外祖母に当たる人物で、有名な住吉神の御母』鎮座で宇佐と関係有りそうに思えるのですが関係はあるでしょうか。

 神武天皇の外祖母とは、不合尊の后の母親と言うことですね。豊玉比売の母となるのですね。それが住吉神の御母とはどう言う事でしょうか。

 住吉神社のルーツともされる対馬の鶏知の住吉神社の祭神は豊玉姫命とされます。龍王とされる神です。
 住吉三神は、和多都美三神からの派生ですから、住吉の御母は豊玉姫命と見なされたのかも知れません。豊比売との混同があるのか、同じ神様なのか、よくわかりません。

[7721] Re[7715][7712]: 三輪山に似た山?  素人 2006/08/19(Sat) 04:01 [Reply]
> > 米神山(475m)とコスモス 安心院町 房ケ畑
> > http://f40.aaa.livedoor.jp/~niemon/kosumosu.jpg
> 画像に命中させたのでしょうか、「アクセス権がありません。」と表示されて、見えません。
 私のパソコンでは再々度アクセスしたのですが、アクセスできるようです。

再度米神山の地図を見ていて、とんでもないことを思いついたのですがご指導ください。
宇佐神宮の裏山
地形的位置から揚子江河口の南北に流れる川の盆地にある四明山と同じ様な地形的位置に位置に米神山は有ます。
米神山-雲ヶ岳-御許山(大元山)の三山が南から北へとあります。
御許山に宇佐神宮奥宮があり、そこに有る磐座は石の三柱だそうです。
福岡県を流れる遠賀川も宇佐市の駅館川と同じく南から北に流れ盆地に支流を持つ川です。
遠賀川も上流に盆地を持ちこの東側に宇佐市の米神山と同じような位置に連山があります。連山ということからすれば、さらに四明山に似ており一番手前の山が四明山となります。
香春三山と言う山になります。調べてみますと一之岳、二之岳、三之岳が有るようです。三之岳などでは石灰山で銅が出るようですからスカルン鉱床ですね。
一之岳には『「辛国息長大姫大目命」は神代に唐土を経営、渡り給い、崇神天皇の御代に帰国する。』鎮座とあり中国の四明山関連であれば関係ない事もない様に思います。
二之岳には『「忍骨命」は天照大神の第一皇子』鎮座---(雲ヶ岳には何もないようです。)
三之岳には『「豊比売命」は神武天皇の外祖母に当たる人物で、有名な住吉神の御母』鎮座で宇佐と関係有りそうに思えるのですが関係はあるでしょうか。
妄想ですが、四明山付近には天台山など仏教関連遺跡があり、四明山も仏教伝来後には仏教関連史跡となります。四明山は元もと方位に関係する道教などと関連するものであったものが仏教関連史跡となったようですから仏教導入時に神仏混合とするために中国の事例として利用されたりしたのでしょうか。四明山周辺は日本と関連する遺跡も沢山あります。
素朴な疑問ご指導ください。

[7720] 蛇と太陽  くず 2006/08/19(Sat) 00:30 [Reply]
丹生にはなじみがないいで・・ベンガラは想像出来るんですけどね。
いずれ吉野、熊野には行って見たい。その前にもう少し勉強させてください。

これは見てきてるものからの組立ですけど、諏訪の神の原初は女性神。
だから贄は少年、大祝も男性。蛇(川)を女性と重ねるのは人類にとってもかなり普遍的な事といえるのではないでしょうか。
魏書が伝える卑弥呼が巫女であるなら、使える(通じる)ものは男性の神。
蛇を神格化している文化から、女性をシャーマンとする感覚が生まれるだろうか?
決定的な英雄が生まれ、その人物が神格化されたら、それはあるかもしれない。
けれど卑弥呼は彼女自体がリーダー性を持つ存在のようなので、どうも違うように感じますね。
まず、魏書が伝える邪馬台国において、中核をなす精神的な出自は日本海側勢力を基盤にしたものではないのではないか。
初期の争いの末、リーダーに収まったのは、太平洋側勢力からであったのではないか。
あるいはその中立的存在が関与したのではないか。
その後ある時期にその構造が入れ替わったのではないか。
それは太陽祭祀の御神体の正体が実は蛇だとされた時ではないか。
などです。

[7719] Re[7718][7717]: 水越峠  神奈備 2006/08/18(Fri) 20:15 [Reply]
> 役行者「祈ノ滝」の前の旧道を挟んで南側の深い谷が「丹生谷」です。
> 丹生谷の横の尾根が横峰ですので、ここは丹生谷の近くであり、カヤンボウ谷が横谷かもしれません。

ありがとうございます。

> この丹生神社が県史の大仁保神社(県史P536)なのでしょうか?

『県史』がほしいのですが、残念乍持っておりません。
 大仁保神社で検索しますと、出てくるサイトがあります。住所と神社名は信用できるかも知れません。明日香村です。
 また、高取に着きましては、神奈備が半日がかりで探索発見しておりますので、信用していただいて結構かと。
 この二社については何かと混同しているのは、入谷、丹生谷の似ていること、栢森の南にも高取なる地名もあり、また登り口になるのでしょうか稲淵、稲宿と似たような地名になっていることがあるのでしょう。実際に現地に行けば判ることですので、そのうち行って見たいものです。

[7718] Re[7717]: 水越峠  タイシ 2006/08/18(Fri) 19:51 [Reply]
役行者「祈ノ滝」の前の旧道を挟んで南側の深い谷が「丹生谷」です。
丹生谷の横の尾根が横峰ですので、ここは丹生谷の近くであり、カヤンボウ谷が横谷かもしれません。

ところで、明日香村の大字入谷(丹生谷のことだと思います)に大仁保神社が鎮座しているようですが、県史には大仁保神社の鎮座地が高取町の大字丹生谷字大入になっていまして、地図で調べましたが載っていませんでした。
神奈備さんのページで調べましたら大字丹生谷字大入は、丹生神社となっていました。この丹生神社が県史の大仁保神社(県史P536)なのでしょうか?

県史には高取町の「丹生谷」について、次のように書いていました。

「紀伊国の丹生都姫神社祭文によると丹生都姫神は大和国川上水分神(丹生川上社)から十市郡巨勢丹生、宇智郡布々岐丹生を経て紀州天野山に鎮座したと記し、巨勢丹生を当社にあてて考えられ、丹生の神の留まられた地としてこの地を丹生と唄え、後丹生谷と改めたとされている。しかもこの聖地へ後に丹生神を祀る祠を建てたと考えられ、付近の山を大丹穂山と呼ばれることになった。」


[7717] 水越峠  神奈備 2006/08/18(Fri) 15:55 [Reply]
 『丹生の研究』松田寿男著)に、水越峠付近の横谷のことが出てきます。
 水越峠の峠下の横谷を丹生谷と呼んでいたそうです。太古、ここで朱砂が採取されていたことは、谷奥の山をへだてた所に塩家水銀鉱山が稼働していたそうです。ここの西側の河内の千早にも水銀鉱山があったそうです。
 まえに、葛城二十八品の大田和地蔵尊に案内頂いたのですが、その辺りから東の地域のように思えます。それらしい情報をご存じの方、教えて下さい。

[7716] 日本海側から思考  くず 2006/08/17(Thu) 21:40 [Reply]
根塚、弥生後期の伽耶の鉄剣、妙高の弥勒信仰、古くは伽耶そして新羅と"日本海側"は深く結びついていたように思います。越の地域です。
ただ、琵琶湖の水運を利用した近江、若狭は別勢力であったかと思う。
陸路は隔てられていたかもしれないけれど出雲とは繋がりがあった。

以前少し書いた根塚の遺跡ですが、自然丘陵の頭頂部に、円形墳墓が作られそこに鉄剣が納められていました。
墳墓の周りには杭が打たれ、その内部を聖域と見立てたようです。
円墳より一段下がったテラス部にも少し小さめの杭の囲いがあったそうです。
この構造は古代の製鉄炉(あるいはそれを模したもの)だったのかもしれません。
この丘は中世までの複合遺跡なのですが、中世の鍛冶炉址も発掘されています。
http://www.chunichi.co.jp/hold2002/kouko/k20010926.htm
http://www.pref.nagano.jp/kyouiku/syougai/singikai/050215/shiseki2-2.htm
古墳時代の大王墓へと繋がる精神性の原初は日本海側の伽耶にあったのではないか。

それが一点。
長野の5世紀以降の積石塚とお馬さんたち。
これはやはり高句麗と直接的な関係があるように思います。
新羅の手引きか、高句麗から馬と人を運び入れ、内部から大和を揺さぶろうとしたのではないか。
応神はその勢力と結んだのではないか。ひょっとして西征?
当時の中央は扶余百済(バックには晋)の影響下であったのではないか。
それにとって代わったのが応神の河内政権なのではないか。など。

[7715] Re[7712]: 三輪山に似た山?  神奈備 2006/08/17(Thu) 17:39 [Reply]
> 「月の谷」「陽の谷」と呼ばれる環状列石

大和の石上神宮の東に日の谷があり、やはり巨石が集う磐座をなしています。この名前に何かが隠されているのかも知れませんね。
http://www.kamnavi.jp/as/yamanobe/hinotani.htm

> 米神山(475m)とコスモス 安心院町 房ケ畑
> http://f40.aaa.livedoor.jp/~niemon/kosumosu.jpg
画像に命中させたのでしょうか、「アクセス権がありません。」と表示されて、見えません。

いずれにしても、環状列石など縄文のにおう雰囲気ですね。

[7714] 菊理媛と吉野の国巣  くず 2006/08/17(Thu) 15:29 [Reply]
蛇を祀る日本海側連合と、太平洋側太陽(日に向かい顔を赤らしめた猿)を祀る海洋民族。
そして仲介者としての吉野の国巣、白山の菊理媛神と九頭龍川。
崩れない半島起源の文化では、龍(中央構造線)を祀るものとはなりえないと思うので、
なにかなーとは思っていたのですが、良い話を聞きました。
分ける。この発想もそこからでしょうか?
安閑、応神、天武、吉野を慕った帝なのでしょうが短命なのが気にかかりますね。

[7713] 辰砂の神、五十猛神  神奈備 2006/08/17(Thu) 11:14 [Reply]
 『丹生の研究』松田寿男著)を見ていて気が付いたことがあります。
 それは我が伊太祁曽神社の土壌に含まれる水銀濃度が0.04%であると言うことです。
 丹生都姫を祀る天野大社から三谷にかけては水銀の鉱染が著しいとして、それでも0.001%。
 現在も操業している宇陀の坑道の天井は0.68%でこれは辰砂脈そのもの。表土で0.018%。


 伊太祁曽神社の表土は辰砂脈の17%の濃度、鉱山の表土の倍以上。

 井光は伊加利であり、吉野の井光集落の土壌には0.0060%〜0.0078%の水銀が検出されたようです。もう一つの水銀の女神がイカリ姫。
 イカリ地名は越前の一光、淡路の伊加利、丹後の伊加里姫神社(今はない)、豊前にも伊加利、津軽の碇もそうであったようです。イカリ=イ(鋳)+カリ(銅、金属)と考えますと、頷けるところがあります。

 イカリの表記を五十里としたものもあるようです。五十里はまたイリであり、入となると丹生にも通じます。

 表土の辰砂濃度NO.1である伊太祁曽神社の祭神は五十猛神と言われますが、この名前は五十里に似ていることは、金属採取もしくは鍛冶の意味が込められているのでしょう。大屋姫、大屋彦、抓都姫、抓都彦、これらの組み合わせから五十猛を考えにくいのですが、辰砂に通じる五十猛とすれば、ありえることかも。

[7712] 三輪山に似た山?  素人 2006/08/17(Thu) 02:06 [Reply]
宇佐市に方位によれば三輪山に似た山があります。
宇佐市を流れる駅館川も狩野川と同じ南から北に流れる川で平野から、山間部に入り、盆地の部分で川が分岐している所の東側にある山です。
宇佐神宮のほぼ南に当たる、山を越えた盆地の端にあります。
宇佐神宮との関係はわかりませんが、方位と関係ある山のようです。
米神山と言いますが、方位にこじつければ米の字が八方位を表していると考えることが出来ます。
米神山の写真
山頂ストーンサークルと由布岳?方向
http://www.asahi-net.or.jp/~rd7f-anb/ooita/kome6.jpg
米神山を向くこしき岩(下の小さい岩)
http://www.asahi-net.or.jp/~rd7f-anb/ooita/kome7.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~rd7f-anb/ooita/ooita4.html
佐田を見下ろす米神山
「高さ475メートルの形のよい山で途中に「月の谷」「陽の谷」と呼ばれる環状列石がある。頂上まで約40分で登れる。頂上から安心院の町はもちろん高崎山なども一望できる。」
http://www.coara.or.jp/~kamizuru/komekamiyama.jpg
http://www.coara.or.jp/~kamizuru/sadakyu1.html
米神山(475m)とコスモス 安心院町 房ケ畑
http://f40.aaa.livedoor.jp/~niemon/kosumosu.jpg
米神山の南麓に巨石が並んでいる。
超古代の巨石文化遺跡として全国に有名。祭りでは舞、もちまき、登山他催される。
http://www.oct-net.ne.jp/~oita-kan/benri/tonari/200203/file-jpg/komekami.jpg
安心院町の佐田地区にある人間の背丈ほどもある列石。
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/sada_kyouisi/kyouisi.htm
ものすごい青草でした。

[7711] Re[7710]: 安閑天皇は何故蔵王権現となったのか  神奈備 2006/08/16(Wed) 16:52 [Reply]
文献
 『本朝神社考』には、「世伝。金峯山権現者。勾大兄広国押武金日天皇也。是即安閑天皇也。」とあり、安閑天皇の件についてはこれ以上述べていません。

 『和漢三才図会』は、「厳然俗伝曰 人皇十八代 安閑天皇崩後至四年宣化天皇三年現干金峯山告人曰 吾是広国押武金日?也 仍知権現乃安閑天皇也牟」とあり、自らが名乗ったとなっています。

 『式内社調査報告』金峯神社の祭神の項では、蔵王権現を広国押武金日天皇とするのは、金日を金峯に付会せしめたもの、またはこの山は金山彦命の坐すにて、何の由縁にて安閑天皇と云にや。」と退けています。

考察
 天皇の和風名で「金」を持つのは安閑天皇のみです。また「勾=真銅?」を持つ祭神名も勾大兄のみで、金属神としては二重の文字を持っています。
 一方、蔵王権現とは釈迦、弥勒では衆生を度し難いとして蔵王権現を現出させたもので、憤怒の形相ものすごい仏(神)ですが、このイメージは『記紀』の安閑天皇の姿と重なりません。『百済本記』に、「天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もあります。」この天皇は継体天皇、皇子は勾大兄でしょうから、天皇になる前に殺されている可能性があります。

青草
 ここからはかってな想像ですが、アジールである吉野に逃げ込んでから尾張に向かおうとしていた所を取り囲まれて殺された。怨霊として祟ることがあり、蔵王権現と見なされたとしても不思議ではありません。

[7710] 安閑天皇は何故蔵王権現となったのか  神奈備 2006/08/15(Tue) 10:58 [Reply]
河内に広国神社があり、その由緒に「廣國の神が蔵王権現の仏として姿を現わしておられると信じられていました。神仏混合の時代では、僧呂が袈裟を掛け、熟饌を供えて香を焚き、お経を唱えて云々」と出ています。

その他にも安閑天皇を祭神とする神社の由緒には大和の金峰神社からの勧請と称するものが多いようで、震源地は吉野。

そこで玄松子さんの金峯神社の項
祭神は金山彦神。
金の峰に坐す神として相応しいのだが、一説には、安閑天皇。
安閑天皇は、「勾大兄廣國押武金日天皇」ともいい、この「金日」からの連想と思われている。
また、林道春の神社詳説によると、「宣化天皇の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」。

安閑天皇の「勾」はマ+カリ(銅)で金峯神社の祭神(=蔵王権現)になったともされますが、この天皇は高齢で位につき三年程度で崩御、金属神とされるほど何かを行ったのか、もしくは継体天皇崩御と共に処刑でもされて怨霊神となったのか、ただごとではなさそうですね。

[7709] 三島鴨神社   2006/08/14(Mon) 10:34 [Reply]
三島鴨神社史のお知らせをしましたが、
実は、昭和八年に神祇古正傳 第一巻 石井廣夫著
建設社より出版された本が、今まであるなかで、
わりと詳しい本です。ご存知でしたらすみません。
今回の三島神社から三島鴨神社に変わるいきさつでは、
卜部による全国制覇の影響で、鴨に関わる所は、
鴨事代主が表に出てくる、京都の上下賀茂神社の影響。
伊豆の三島大社も鴨事代主が表に。
この本は、三邦三島三社の考えで書いておられる。
古本屋で3500円ぐらいで売ってます。
図書館で見られたほうが良いです。またなぞが深まると
思います。

[7708] Re[7703]: 残暑お見舞い申し上げます。紀の国は猛暑でした。  素人 2006/08/14(Mon) 03:43 [Reply]
> 「素人」さん、今日は暑かったですね。
> > 印旛沼あたりに宗像神社が13社もあるようです
> この辺りの神社の分布も偏りがあると言うか、氏族の入植の跡を示しているのかも知れませんね。
> 単純に言えば印旛村には宗像神社、印西町には鳥見神社「饒速日命」が多いようですね。なおかつ両社とも印旛沼の西側や北側に偏っています。
> 東側や南側は成田空港付近で特に湖沼であったようでもないですね。
ご助言ありがとうございました。
古い地図で見ますと、常陸川の下流部は大きな沼がたくさん有り、河口の湖であったようです。印旛湖西部の現在もある新川とこれの支流の神埼川があり、新川上流には近くに花見川(けみがわ)の上流が少し離れてあり東京湾に流れています。現在は水路で繋がっていますが河床低に落差がありポンプで花見川に放流しているようです。新しいものです。確認は出来ていませんが、陸路を含む内陸航路だったのかもしれません。これらとも関係有るかも知れません。ご存知と思いますが、利根川は1654年に流路切り替えが終わるまで、江戸湾に注いでいたとは驚きました。
そういえば、奈良盆地から流れ出る大和川も「宝永元年(1704年)に柏原市築留地点から大阪湾堺方向に直線的に付け替えられた。」とありますのでその前は南から北に流れて深く東に入り込んだ湾に注いでいたとは知りませんでした。こじつけですが、伊豆の狩野川に似ていると夢想しています。揚子江河口ですと盆地の小山ですと四明山が三輪山かなどと考えるこのごろです。ちなみに京都も比叡山に四明岳があります。

[7707] Re[7706]: 沖縄考古学の話  nick [Url] 2006/08/13(Sun) 12:21 [Reply]
> 国際縄文学協会(NPO)で沖縄の遺跡を発掘した当事者から、沖縄の考古学について説明を受けました。

こんにちわ。連日の酷暑、精力的に出かけておられますね。
昨日の落雷は如何でしたか。


> ●九州と沖縄との交易は古い時代から行われていた。
>  九州の民が、沖縄の貝と交換に土器を持ってきた。

ご承知のように「貝の道」は熊本の木下先生の調査ですが
暖流・対馬海流に乗って遠く韓国釜山との交流が
遺物によって証明されています。

当方の、歴史探訪==>>海洋の民・隼人 にも記載。


> インドネシア?の鏡が鹿児島で発見されたことをあげておられました。これは私には初耳ですが本当でしょうか。

東南アジアとの交流は琉球や中国から伝播したことが知られていますが
その鏡とはどのような物なのでしょうか。
あるいは別物?


> 小田先生は、得意の旧石器時代に関して、鹿児島県加世田〔南薩摩市?に改名)のカコイの原遺跡では16000年前(?不確か)の土器が発見され、西洋の最古の土器は8000年前だから世界最古です。
>
> この遺跡から丸木舟が出土しているが石斧は木船を造る道具ではないか。
>

また、「縄文の窓」、縄文遺跡リストもどうぞ。

[7706] 沖縄考古学の話  とみた 2006/08/13(Sun) 10:31 [Reply]
国際縄文学協会(NPO)で沖縄の遺跡を発掘した当事者から、沖縄の考古学について説明を受けました。

興味を持った事について、お知らせします。

●沖縄では、縄文時代、弥生時代という時代設定は無いんですね。

先史〜古代を貝塚時代といって、平安時代まで含んでいる。

鎌倉時代からはグスク(城)時代という。

●石器や土器に沖縄独特の特徴があるようですが、その原材料は地元だけでなく九州、奄美、種子島などからも運ばれている。鹿児島のカコイの原の石斧にそっくりなものあり。

●つめ紋土器が6200年前のものが出土(これに人骨が残されている)

●貝塚が沢山ある。伊是名村の発掘で3000年前の砂丘の上にイモガイ、ゴホウラ貝が出ている。(年代測定された)

●九州と沖縄との交易は古い時代から行われていた。
 九州の民が、沖縄の貝と交換に土器を持ってきた。
 熊本のソバタ式土器が沖縄で出土、これは5500年〜5000年前のもの。沖縄ではそれを真似て土器を作った。その後、沖縄独自の土器も作られる。伊是名村では3500年前の縄文式土器が発見された。沖縄で採れない黒曜石も出ている

●港川人が18000年前の人骨として8-9体が出土(本物は東大で保管、地元にはレプリカ展示)。(13000年前という説もある)18000年前(港川人骨)〜6200年前(爪型紋土器の人骨)の間の時代には人骨は見つかっていない空白時代。

●為朝伝説があり・・・保元の乱で伊豆に流刑になった源為朝が琉球に流れて琉球王家の舜天になった。

これと符合するように鎌倉時代に対応するグスク時代の11世紀頃から人口が急増しているとの事、ヤマト人が入ってくる。

琉球大?の土井なずみ教授のDNA分析により、ヤマト人であることが証明された

以上です。


旧石器時代の大家である、小田静夫先生が会場に居られたのでQ/Aしました。

先生は、スンダーランド人が沖縄へきた南方系の民だ。隼人はインドネシア起源ではないか。

証拠は大林太良氏の神話分析で、海幸・山幸と同様な話がインドネシアにあること。

インドネシア?の鏡が鹿児島で発見されたことをあげておられました。これは私には初耳ですが本当でしょうか。

沖縄人のDNA分析は、鎌倉期以降の人骨は対象としてできるが、先史時代のものはなされていないと仰ってましたが本当でしょうか。

当日の中年の講師は人類学的には、沖縄人をDNA分析すると九州から南下した人ではないかともいってました。

隼人という言葉は、天武時代前後につけられたとしても、沖縄と九州との交易運搬人が5000年とか3000年とか前に、すでにいたことは考古学的に証明されたようです。弥生時代に貝輪の原料を調達に沖縄と往来した海の民がいたことは十分頷けます。

小田先生は、得意の旧石器時代に関して、鹿児島県加世田〔南薩摩市?に改名)のカコイの原遺跡では16000年前(?不確か)の土器が発見され、西洋の最古の土器は8000年前だから世界最古です。

この遺跡から丸木舟が出土しているが石斧は木船を造る道具ではないか。

沖縄の北に位置するトカラ海峡は、生物や民族の境界として注目すべきだ。

以上、それなりに収穫の多い話でした。


上記の内容は私のメモによりますから、聞き間違いもあるかもしれません。









[7705] Re[7696][7694]: 日本の水銀鉱山  素人 2006/08/13(Sun) 00:39 [Reply]
> ついでに初期の大和王権が都としたのは三輪山の麓ですが、この三輪山は姿がいいだけではなく、上の1/3は角閃斑礪岩(かくせいはんれい岩)の層で、大量に鉄を含んでいるそうです。狭井川では井までも砂鉄がとれるとか。ここに神武天皇聖蹟の碑がありますが、奥方は媛蹈鞴五十鈴媛で、きちっと蹈鞴が入っています。初期の王権は三輪山の鉄を背景にして大和をおさえ、大和の丹沙で全国区に育っていたのでしょう。
三輪山
ご存知と思いますが。
三輪山・巻向山のわきの谷を流れる纒向川(巻向川・穴師川)の上流に鉱物が、地質図を見ても有りそうな感じがします。
あるホームページに「穴師川上流、俗称「ドロコ」に廃坑があり、今なお「カネホリバ」とよんでいる。地形図(明治四十一年版)にも鉱山の記号を付し、事実、穴師神社付近に廃坑が残っている(明治末年には石英が盛んに採掘されたという)。「口(くち)の白山」・「奥の白山」の地名が示すように、巨晶花崗岩が多く、石英から磁器(電気用)を製造し、大正年間、工場には数十人の労務者がつとめていたといわれる。」とありカネホリですから金属が出ていたが採りつくして石英山になったということでしょう。
http://www.begin.or.jp/sakura/sai03.htm
スカルン鉱床の磁鉄鉱鉱山が石灰山になっているのと同じです。前に三上山で登場した石部の銅山でも銅を採った後は石英が残っていたように記憶します。金屋で鋳造が行われていたとの話もあり、古い時代ですと銅の可能性も考えられます。あくまでも推測です。
変性した花崗岩は有るようですから、石灰岩があればスカルン鉱床でしょう。スカルン鉱床でしたら近くで磁鉄鉱などでる可能性はあります。
専門でないものですから後は地質図をご覧ください。
地質図(五万分の一) 64 桜 井 (2001) /\4,200(カタログ)
纒向川(巻向川・穴師川)周辺の地質が複雑であることは解かります。
http://www.gsj.jp/Map/JP/imgs/5man/11/11_064.jpg
http://www.gsj.jp/Map/JP/docs/5man_doc/area_11.htm
素人のたわごとですが、鉄は日本では難しいのではと考えております。
紀元前から中国では耐火煉瓦で出来大型の耐火煉瓦で出来た溶鉱炉で鋳鉄を作っていました。使い捨てではなく繰り返し製鉄が可能でした。羽口から溶けた鋳鉄を取り出し鋳造していたわけです。鞴も水車を用いたものでした。鉄鉱石ははじめから石灰岩を含む鉱石で現在の製鉄と同じような原料配分でした。圧倒的な技術格差があったわけです。中国でも東に行く程小規模となり、東では使い捨ての土で出来た丸型炉や角型炉で銑鉄を作っていたわけです。これらが、中国での流行で脱炭素を省ける塊状鉄製鉄へと変化したわけです。炉の構造が簡単な低温での製鉄は非常に高度な技術が必要となり、操作を間違うと鉄は出来ません。簡単に製鉄できる溶鉱炉は基礎技術が伴わず炉を作ることが不可能です。簡単な土の炉での製鉄技術が非常に高度で技術移転が困難でした。製品としての鉄もかなりのものでグレードの低い鉄に値は付かなかったと思われます。当時中国の製鉄技術がダントツの世界一であったことが、その後の製鉄技術移転のハードルとなったと夢想するこのごろです。多分、中国人こみで、高度な製鉄技術を日本に導入したのでしょう。

[7704] 女帝と長野  くず 2006/08/12(Sat) 23:04 [Reply]
推古女帝が直接足を運んだ記録はないと思いますが、戸隠へ勅使を送られ、神社を造営された事が伝わっています。また(元)善光寺の造営も推古帝の命と言われています。
推古天皇10年(602)難波の堀で本田善光とその子善佐が曰くの百済仏を見つける事に端を発し、皇極天皇元年(642)のご託宣にて現在地(当時水内郡芋井郷)へ移っています。
いずれも女帝ですね。 
善光寺内陣の配置は外陣より向かって左に善佐、中央善光、右に善光の妻弥生が並びます。弥生さんの像は合掌し、右足を立てて座る像です。おもしろいですね。
その3像の左(西)に守屋柱、そのさらに西が瑠璃壇で厨子に納まった善光寺仏と並びます。
善光寺を囲む寺社に湯福神社、妻科神社、武井神社、とあるのですが、
湯福が善光、妻科が弥生、武居が善佐を暗?に祀っています。
正式な御祭神は 
湯福神社→「健御名方命荒御魂」妻科神社→「八坂刀売命」相殿 健御名方命、彦神別命
武井神社→「健御名方神」相殿 前八坂刀売神(←前って)彦神別神
それに延喜式の「健御名方富命彦神別神社」(水内社)の4社の持ち回りで、かつて御柱
神事が行われていたそうです。今は武井神社が行います。

少し面白い話があって、善光寺七社(江戸期の呼称)でもある湯福神社と武井神社、
加茂神社「玉依比売命」と美和(三輪)神社「大物主命」を直線で結ぶと、
元善町の善光寺跡地に重なります。かつての水内社もそこにあったと思われます。
隠そうとしているのか、何かを伝えようとしているのか、と疑ってしまいます。

[7703] 残暑お見舞い申し上げます。紀の国は猛暑でした。  神奈備 2006/08/12(Sat) 20:19 [Reply]
くずさん、こんばんは。
> 戸隠でもある神社の御神木(欅)の根にキリで数箇所穴が開けられ、農薬が入れられる事件がありました。

最近、高野山の麓の丹生都姫神社の杉の古木が同じような目にあったそうです。まったく無意味と言うかたちの悪い行いです。

> 推古、持統女帝のご奉仕は興味深いです。
推古さんも信濃に足を運んでいるのでしょうか。


「素人」さん、今日は暑かったですね。
> 印旛沼あたりに宗像神社が13社もあるようです
この辺りの神社の分布も偏りがあると言うか、氏族の入植の跡を示しているのかも知れませんね。
単純に言えば印旛村には宗像神社、印西町には鳥見神社「饒速日命」が多いようですね。なおかつ両社とも印旛沼の西側や北側に偏っています。
東側や南側は成田空港付近で特に湖沼であったようでもないですね。


あおいさん、ありがとうございます。
ウィキペディア、拝読いたしました。おっしゃているような地図が手元にないので、どうも良くわかりません。
和気水路も未完成となった地理的な理由もあることですし、出来なかったものを探すと言うやっかいな仕事ですが、期待をしております。

[7702] 戸隠  くず 2006/08/12(Sat) 11:30 [Reply]
戸隠に何が隠されたか?ある女性神の御霊。おそらく。
と思っています。孝元帝の頃。
奥社の参道は冬至の日の出線にあわせて作られています。
応神期、天武期にもやはりなんらかの攻めを受けている感じがしていますけれどね。
推古、持統女帝のご奉仕は興味深いです。

[7701] 無題  あおい 2006/08/12(Sat) 03:17 [Reply]
皆様こんにちは。最近ウィキペディアというネット上の辞典のようなものに、鼬川についての情報を書き込みました。様々な古地図を買い漁り調べての結果です。
さて、古地図を見ると和気清麻呂水路は源ヶ橋→庚申池→川底池→鼬川という流路をとっているように思われます。ただ中には恵美須町辺りで二本(片方は鼬川・もう片方は南西に流れ大阪湾に)に分かれているように描かれている古地図もありますよね。私はこれをウィキペディア中に書き込んだ長橋川という河川ではないかと思っています。大阪市史等によると、「実際にはこのような流れはないことから」と長橋川の存在を否定していますが、古地図を見る限りその存在は明らかです。
尚ウィキペディア中、和気清麻呂水路の部分は詳しい調査が必要なので掲載しておりません。

[7700] Re[7696][7694]: 日本の水銀鉱山  素人 2006/08/12(Sat) 00:49 [Reply]
>  『大和誕生と水銀』(田中八郎著)と言う本に、大和の山中に海神社が鎮座しているのは、丹沙を船で運び出した湊があったからと記していました。名張川はぐるっと回って木津川になって浪速の海にでてきます。
> 笠置も通ります。
> 宇陀の水銀は海石榴市で鉄や米に交換されたのでしょう。
早速の情報ありがとうございます。
場所は違うのですが、香島の軽野の大きな船の件ですで東北で建造されていますが霞ヶ浦か香島で乗り換えるために建造されたものでしょうか。江戸時代まで九十九里の沖は難所とされていため銚子とは内陸の水運で江戸とつないでいたと聞きます。江戸以南へは江戸から別の船で運ばれていたようです。印旛沼あたりに宗像神社が13社もあるようですが、古代も内陸の水運で東京湾から印旛沼、利根川、霞ヶ浦、香島などと繋がっていたのでしょうか。資料が見つかりませんのでご指導ください。
帯方郡・楽浪郡との水銀と鋳鉄の交易も宗像と組んで大和政権が独占していたのではと夢想するこのごろです。

[7699] 戸隠の赤ベト  くず 2006/08/11(Fri) 18:51 [Reply]
過去ログに発見。
すでにご存知だったのですね。「土俗・・」(笑)それから「赤ベト」
現在の露天掘り地。
古池周辺正確には信濃町柏原になりますが、地理的にも信仰的にも戸隠と言ってよい場所です。飯綱と黒姫のほぼ中間点です。近くを流れる鳥居川の岩肌は渇水期などは真っ赤です。
奥社御祭神の天手力雄神をお祭りしたのは、伊勢、佐那の県の天孫族だと思います。
銅鐸出れば解りやすいんですけど、無理だろうな。時代も下るかもしれないし。
候補地はあるんですけどね。火之御子社周辺。飯綱を望む湿地帯を前にした小高い丘の斜面にあります。
で、この佐那が伝わる過程で、
諏訪のサナギの鈴(鉄鐸)そして科野の語源になっていったのではと思いますね。
褐鉱鉄自体は、それ以前から利用されていたかもしれませんが。
朱と九頭を祀る民によって。

[7698] ご紹介等。  くず 2006/08/11(Fri) 15:53 [Reply]
>「土俗・・」
高い本ですし信濃小社の考察。今後巡り合う機会もどうかと思いますので、
一部筆者の言葉をかりながら、私自身の言葉で簡単に内容を紹介します。

筆者は戦後急速に進んだ"生活の中の伝統と価値観"の喪失を危惧したようです。
その中で収集可能な有形無形の資料をできるだけ多く、できるだけ早急に集めようとされました。
足で歩き、目で確かめ、耳で聞いた話。そしてそれが筆者の若かりし頃、戦前戦後に全県を巡り歩いたメモをよりどころとし、さらに歩き重ねてまとめられらている点を出色に思います。その中に垣間見える中央権力によってかき消され、上書きされていく地方史を歩き尋ねた小社(祠まで)の膨大な数をよりどころに考察されている。
もっとも生活に、そして人の思いに身近であった小社にこそ、中央が消しえなかった真実の断片があるのではないか。それを伝え残すを使命とする必死さが、なるほどと伝わりました。
※以下一部の内容を抜粋(要約)
 御社宮司社を冒頭としています。筆者が育った現在の松本市内田に「おしゃごじさま」と呼ばれる小社の近辺、明治の初め頃の風景を伝えます。そして母から伝え聞いた話として、親のおしえが守れない子に「おまえのような子はどこへでも行っていまいな」と言うとその子はその晩から本当に影を隠してしまう。それから二日あとの夕方、その子の生々しい引き裂かれた足がおしゃごじさまの欅の高い枝に引っかかっていたと。

昨年、戸隠でもある神社の御神木(欅)の根にキリで数箇所穴が開けられ、農薬が入れられる事件がありました。幸い発見が早く木は生きております。日本全体が精神的に重要な過渡期を迎えている気がしてなりません。

[7697] Re[7695]: 無題  神奈備 2006/08/11(Fri) 15:30 [Reply]
> 和歌山大の海津一朗氏が2006年3月刊「中世日前宮領の研究」を出されています。

お知らせありがとうございます。
日前宮と周辺の国津神を祭る神社の社人との抗争など、水争いもあって中世はもめていた時期でもありますね。
次回の熊野セミナーの時に探して見ます。


[7696] Re[7694]: 日本の水銀鉱山  神奈備 2006/08/11(Fri) 15:30 [Reply]
 『大和誕生と水銀』(田中八郎著)と言う本に、大和の山中に海神社が鎮座しているのは、丹沙を船で運び出した湊があったからと記していました。名張川はぐるっと回って木津川になって浪速の海にでてきます。
笠置も通ります。
宇陀の水銀は海石榴市で鉄や米に交換されたのでしょう。

大和に都が置かれたのは水銀が採取できることも一つの要因だったかも知れません。
ついでに初期の大和王権が都としたのは三輪山の麓ですが、この三輪山は姿がいいだけではなく、上の1/3は角閃斑礪岩(かくせいはんれい岩)の層で、大量に鉄を含んでいるそうです。狭井川では井までも砂鉄がとれるとか。ここに神武天皇聖蹟の碑がありますが、奥方は媛蹈鞴五十鈴媛で、きちっと蹈鞴が入っています。初期の王権は三輪山の鉄を背景にして大和をおさえ、大和の丹沙で全国区に育っていたのでしょう。

[7695] 無題  金● 2006/08/11(Fri) 10:38 [Reply]
ご無沙汰いたします。

和歌山大の海津一朗氏が2006年3月刊「中世日前宮領の研究」を出されています。科研費の報告書です。和歌山の大きい図書館でしたら閲覧可能と思います。A4版p385の大部のものです。
チームでの、中世の史料翻刻ならびに論文となっています。精力的に和歌山の荘園を精査されています。参考文献など豊富です。
灌漑図などは地形図を使う最近の業績ですね。地籍図などもからめて、GPSなど普及して良い方法かもしれません。地籍図は問題も多いかもしれない。
日前宮と在地寺社ネットワークなどの興味深い論もあります。
『古文書返却の旅』網野善彦氏に関する、その後の話も・・・・・・・・・。
中世の荘園史ですが古代に通じる史料もありますので参考まで。

[7694] 日本の水銀鉱山  素人 2006/08/11(Fri) 01:03 [Reply]
ご存知と思いますが日本の水銀の資料がありましたのでご紹介します。
古代でも掘り易い丹生鉱山、掘りにくかった大和地方の水銀鉱床。
多武峰鉱床群の西の端は石舞台古墳や飛鳥寺のある明日香村の近くまで伸びています。
伊勢水銀(約1000t生産)の丹生鉱山は狭い地域にたくさんの坑道が掘られ古代から開発され、9世紀に最盛期を向かえ歴史にも登場するが、大和地方の水銀鉱床は古くから開発されていたようですが生産量は少なく大半が戦後に掘られたもので古代はあまりハッキリしていないようです。近世に入ってからの近代技術による開発により旧坑が発見されたりしているようです。鉱脈帯の範囲は広く大和鉱山を主とする東部の大和鉱床群、多武峰鉱山を主とする西部の多武峰鉱床群に分けられ、多武峰地域には時代不詳の旧坑がたくさん知られています。多武峰は明日香村の近くであり、山一つ地隔てて流れる寺川の流域の谷は水銀鉱脈が多く存在するので漂砂鉱床もあったかもしれません。明日香村の近くに水銀鉱脈が有ったとは知りませんでした。そういう訳で、大和地方の水銀鉱床も古代に原始的な採掘が行われた可能性はあります。
楽浪郡・帯方郡に朝鮮・日本が実質支配されていた時期に運ばれた水銀はかなりのものと考えられ、旧鉱の後の見られる九州の大分県佐伯鉱床などでは無理で、丹生鉱山や大和地方の水銀鉱床が必須と考えるこの頃です。当然ながら中国人は貴重な鋳鉄をただで恵んでくれるような人たちでは有りません。
詳しくは以下の資料をご覧ください。
「水銀のはなし」
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1968/02/68_02_04.pdf
丹生水銀鉱山
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1975/07/75_07_05.pdf
水銀鉱脈 多武峰・音羽・飯盛塚と大峠・針道(近いが地図外)、は明日香村に近い。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F27%2F43.395&lon=135%2F51%2F40.485&layer=1&sc=4&mode=map&size=m&pointer=on&p=&CE.x=345&CE.y=298

[7693] Re[7689][7688][7687]: クスノキと日本人 カヌー  素人 2006/08/11(Fri) 00:55 [Reply]
> 物好きな方が大楠から船でも造られたら話題になること請け合いですが。
> 案外村興しになるのにな。
調べたことがあるのですが、明治時代までは九州地方でクスノキの小型の三材刳舟があったそうです。三材刳舟とは丸木をくりぬいた胴体の前後に丸木で作った船首と船尾を取り付けたものです。当時杉で作った構造船と競争したところクスノキの船のほうが、やはり早かったという話が残っています。本格的な海用の船でなくても小型の川用のクスノキの三材刳舟でもあればと思いますが材料の入手の関係で国内材では困難と思われます。船の専門の機関に問い合わせたのですが、乗れるような三材刳舟はないように思われます。どちらかで作っていただいて、本当に速いのか見たいものです。
蛇足。
推測ですが、香島の軽野ですが調べてみますと現在の茨城県神栖市知手、奥野谷あたりの知手浜・奥野谷浜付近に漂着したと思われます。学校の名前に「軽野」「東軽野」が残っています。この辺は昔、香島の南で霞ヶ浦に続く水路があって繋がっていなかった対岸のようです。今は陸続きです。

[7692] Re[7691]: 木舟の話。  神奈備 2006/08/10(Thu) 18:42 [Reply]
> 「土俗より見た信濃小社考」小口伊乙著 より。(名著と思います。)
ネットでは今品切れのようですね。5,000円。

長野県は高句麗の影響のありそうな積石塚が多いようです。和歌山でも緑泥片岩の平べったい石を積んだ古墳が多く出ています。ただ、源流は高句麗のようですが、途中で新羅か百済の影響も入っているようです。色んな渡来人が混ざり合って紀ノ川の下流で生活をしていたのでしょう。

> 根塚古墳には、前方後円の原初があると思ってます。
> 足を運びましたおりにはおってご報告致します。

ありがとうございます。最近、近隣で開かれる古代史講座に顔を出しています。今まであまり古墳のことは詳しくなかったのですが、実に新鮮に聞いております。

顔を出す会は以下の通り。

8月 5日 豊中歴史同好会 http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/
8月19日 古代を偲ぶ会
8月20日 大阪歴史懇談会 http://homepage2.nifty.com/rekikon/moyooshi.html
8月26日 住吉セミナー http://www.sumiyoshitaisha.net/news/gbbs.cgi?oldpage=1
8月27日 浪速の古代史研究会 http://www.kamnavi.jp/ugaya.htm
奇数月 東アジア古代文化を考える http://www.toyro.co.jp/
熊野セミナー http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/kumano@freeml.com/3827/

[7691] 木舟の話。  くず 2006/08/10(Thu) 17:41 [Reply]
貴船(木舟)神社。
長野にもいくつかあります。安曇野の旧社村、人の言う仁科(丹品?)の郷。
あとは木曽川、諏訪から天竜沿い。祭るのは高オカミ、闇オカミ、
大己貴命、級長津彦命、級長戸辺命 →佐久市、旧協和村
変わったところで大己貴命を御尺地の猿田彦命と合祀、→南箕輪村

・・・・「土俗より見た信濃小社考」小口伊乙著 より。(名著と思います。)

京都の貴船社。宇治の橋姫。顔に丹(朱)頭に鉄輪、手に鉄杖、そして呪い(恨み?)

追記。
根塚古墳には、前方後円の原初があると思ってます。
足を運びましたおりにはおってご報告致します。
(お邪魔でしょうか?)

[7690] お馬と、お墓  くず 2006/08/09(Wed) 21:35 [Reply]
長野市松代にある、大室古墳群。500基ほどあるうちの8割が積石塚形式です。
20数基の合掌型石室を持つ古墳も特徴。時代は5世紀中ごろ〜7世紀といわれています。
馬具や馬のはにわも出ている。のちに「延喜式」に書かれる信濃十六牧のうち、「大室の牧」がこの周辺。

さて、長野盆地にはこれより古い大王墓があります。前方後円に類される(実際後円部はいびつ)森将軍塚古墳と、千曲をはさんで対岸の丘陵にある川柳将軍塚古墳が代表格。
4世紀後半から5世紀頭で、竪穴式石室の内部は朱に塗られていました。

この盆地は弥生時代の遺跡も非常に多いのですが、長野市より北の木島平村弥生後期の「根塚弥生墳丘墓」で、3本の鉄剣が見つかっています。伽耶の鉄剣です。
この伽耶の影響がのちの大王墓(朱塗りの石室と鉄の埋葬品)にもあるように思っているのですが、それと、大室の積石塚と馬。これがどのような関わりをもっていたのか。
田舎から中央史を覗き見る蛙として、興味を持っているところです。

[7689] Re[7688][7687]: クスノキと日本人 カヌー  nick [Url] 2006/08/09(Wed) 11:31 [Reply]
そう云えば、宮崎神宮の境内に「神武東征時の船」のレプリカが
展示してありました。
秋の祭りには市内を引き廻すとか。
また、西都原古墳にも当時の船形埴輪がありましたっけ。

当地の蛭子神話は、やはり「天の磐樟船」です。
神社境内には、その種から大木となって現在は朽ち果てた根株があります。
何代も当時の人々が植林をして継承された由。
鹿児島神宮から分祀した蒲生八幡神社には日本一の大楠が自生しています。
物好きな方が大楠から船でも造られたら話題になること請け合いですが。
案外村興しになるのにな。

[7688] Re[7687]: クスノキと日本人 カヌー  神奈備 2006/08/09(Wed) 09:12 [Reply]
 「素人」さん、興味深いお話ありがとうございます。

> 磐城の船造りに造らせた大船
> 材木をふやかして両側に引っ張って広げたりした

これは面白い方法ですね。刳り船に外板をつけて広げた準構造船よりも丈夫かも知れませんね。直径1m程の木でも巾3mはとれる勘定になりますね。

『相模国風土記』(逸文)から
足軽山は、この山の杉の木をとって舟を作ると、舟あしの軽いことは他の材木で作った舟とはちがっている。それであしからの山とつけた。

『古事記』(仁徳記)から
トノキ河の西の方に、一高樹あり。中略。この樹を切りて、船に作れるに、いと捷く行く船なりけり。時にその船に号づけて枯野といふ。

速く走る船は、カル、カレ、を入れた言葉であらわされています。軽い、枯れたら軽い、などからの発想かどうかです。

和歌山県日高郡南部川には、軽井川、神野川などの名が見えます。この南部川村は大きい銅鐸が6個も出土している村で、船を作っては銅鐸と交換したのか、造船の貢献で銅鐸をもらったのか、古代史的には興味津々の村です。
銅鐸のことなら ↓
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syutudo2.html

河野水軍の河野なども要注意の言葉かも。

[7687] Re[7684][7676][7674]: クスノキと日本人 カヌー  素人 2006/08/09(Wed) 02:54 [Reply]
> 『常陸国風土記』(香島の郡)に、軽野と言う地名が舟と関連して出てきます。
>  軽野から東の大海の浜辺に漂着した大船がある。長さは十五丈、巾は一丈余りで、朽ち砕かれて砂に埋まって今も遺っている。
>
>  この船はサイズからから見ると丸木船のようです。今で言うカヌー。
>  茂在寅男『古代日本の航海術』に、カヌーと言う船の名は軽野から来ているのではないかとしています。日本初の言葉なのか、悠久の昔、この列島にたどり着いた人は持ち込んだ名前なのか、万国共通語のカヌー。
神奈備様貴重な情報ありがとうございました。恐縮ながら、他説もあるようですから書かせていただきました。
 霞ヶ浦ですね。霞ヶ浦は風土記が書かれた時代は海で今より広かったようで、船で奥の方の国府があった石岡まで行けたのですね。房総半島付近で一度近づいた黒潮が日本から離れて行くようですからこの辺の手前で黒潮から離脱しないと太平洋に流されてしまうので重要なポイントだったのでしょう。離脱すると黒潮の分流で霞ヶ浦の湾っ付近に流されたのでしょうか。釈迦に説法ですが、風土記によりますと「下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。」有りますから香島郡は鹿島神宮のために置かれたのですね。話は変わりますが、黒潮の陸地接近点とか流路が変わるところなどに有名な神社が登場するように思いますが、気のせいでしょうか。まさか古代には黒潮を使っての航海など有ったのでしょうか。蛇足ですが、先に出てきました伊豆半島の伊東や熱海は伊豆七島と古くから航路を持っていたようですから黒潮に乗って沖に出ても回収できるセフティーネットのようにも思えます。
 話を戻しまして風土記に「むかし軽野の東の大海の浜辺に流れ着いた大船は、長さ十五丈、幅一丈あまりで、朽ちて砂に埋まりながら、今も残ってゐる。」とある件ですが、ある資料の解説に「近江(天智天皇)の御世に奥羽視察のために陸奥の国の磐城の船造りに造らせた大船が、この浜に打ち上げて壊れたのだといふ。」との説もあり軽野=「カヌー」ではない可能性もあるようです。それにしても長さ45m、幅3mの船とはすごいですね。
もし岩城で作ったとすれば杉でしょうが、長さ45mは取れるでしょうが、幅がすごいですね。しかし杉の丸木舟では中を斧や丸チョウナで刳り抜いてから水を張って焼け石を投入して材木をふやかして両側に引っ張って広げたりしたようですから直径が3mの杉でなくても良いようです。平べったい三材刳船にして屋形等の造作を乗せたのでしょうか。「この浜に打ち上げて壊れたのだといふ。」あまり強度はなかったのでしょう。中世まで船底材はクスノキの刳材にこだわっていたようですから利点が多かったのだと思われます。
乱雑な文失礼しました。


[7686] 無題  くず 2006/08/08(Tue) 17:04 [Reply]
神奈備様ご紹介ありがとうございます。
過去ログは少しづつですが見させて頂いております。が、なにぶん底辺となる知識が不足しておりまして、なかなか直には要旨をつかめないでおります。どうか ゆっくりと、でご勘弁下さい。

>母屋柱のしゃれ^^

俗称の"守屋柱"が特別な柱であった事は間違いないと思います。
材質(杉)と形状の違い(四角四面と書きましたが、大面取角柱で面が大きい為八角に近い。)加えてこの柱のみ金箔が張られています。
寸法は、古記録に「太さ2尺2寸の丸柱のうち壱本は守屋柱、2尺2寸角で長さ7間半余、鋪(敷)桁下まで立登らせ・・・」とあるそうです。
産地は、守屋柱が芋井の荒安(新安)から、北面の杉4本は長野の西方、旭山から、その他の桂、欅は佐久方面から集めています。
そして昭和の大修理の折り、本堂小屋裏を見せて頂いた事があるのですが、この柱は構造的な重みを受けていません。

また善光寺は撞木造りといって"Tの字"の棟を持ちます。現在の本堂(国宝)は1701年の再建ですが、室町期に描かれた絵図にも撞木造りの本堂が描かれており、古式を継承しているようです。

以下青草(あほくさ?)ですが、これは中央構造線が糸魚川・静岡構造線とぶつかる様子を映したのではないか、などと考えます。守屋とは日本の屋台骨中央構造線を守護していた民であったのではないかと。中央政権下の物部とは一線をきしていたかも。

高句麗系ではあったのではないか、と思います。

時代は下りますがキトラ古墳の壁画も高句麗との繋がりを感じます。
キトラとは甲寅のことではないか。
天武関係で、甲寅(714年)に亡くなっている大伴安麻呂が被葬者ではないか。
物部氏と大伴氏の関係もまた深いのではないでしょうか。

> 生島足島神社 大地ですね。大陸系

[7685] Re[7682]: 善光寺  神奈備 2006/08/08(Tue) 11:55 [Reply]
> 物部守屋の魂を鎮める為
2004年5月の青草に守屋公の伝承の残る神社等を話をいくつか載せています。

1.諏訪 守屋山頂に物部守屋祠があるとか。洩矢神社の神裔に守屋神、代々神官を勤めたと言う。これも神のお守り役の意か。

2.秩父 武甲山山頂の神社群を祀っていた宮司家の守屋家は物部守屋の末裔説。

3.近江国浅井郡 波久奴神社 高皇産靈神 配祀 物部守屋大連
  由緒 大臣は弟小阪伴従して其領内、即ちその当地に潜匿し大臣名を隠して萩生翁と自稱す、遺命に依て大臣を小谷東峡の巌窟に葬す。

4.日向国諸県郡(鹿児島県曽於郡有明町) 森神社 用明天皇
  由緒 滅亡したと伝えられた物部守屋は遂に一門一家を伴い身を遁れて大隅に亡命し原田の田原川流域の文化の非常に開け木花咲姫の神社や古墳のあることを知り、この原田を幽居の地と定めここに崇拝申し上げていた用明天皇を奉祀し物部氏は日参して天皇の御安泰を祈り奉り忠臣の誠意を表したのである。

 守屋公を祭神とする神社で、長野県に鎮座するのは、上伊那郡高遠町大字藤沢字片倉7165に守屋社が鎮座しています。
 諏訪の守屋山頂にも祠があるとか聞いたことがあります。
 善光寺の柱も面白い話ですね。守屋の命令で捨てた仏像を祭っている、柱が守屋柱、いささか出来過ぎのお話、母屋柱をしゃれて見たのかも。

 守屋公を祭る神社は東は会津若松、西は鹿児島、蝦夷なり隼人なり、まつろわぬ民の中へ行くと思われていたのですね。

> 生島足島神社の御神体は土だったりもします。
土でしょうか。地面と言うか大地では。

[7684] Re[7676][7674]: クスノキと日本人 カヌー  神奈備 2006/08/08(Tue) 11:54 [Reply]
> 狩野川の中流に軽野神社があり古代に巨大な30m以上クスノキの船が作られたようです。

『常陸国風土記』(香島の郡)に、軽野と言う地名が舟と関連して出てきます。
 軽野から東の大海の浜辺に漂着した大船がある。長さは十五丈、巾は一丈余りで、朽ち砕かれて砂に埋まって今も遺っている。

 この船はサイズからから見ると丸木船のようです。今で言うカヌー。
 茂在寅男『古代日本の航海術』に、カヌーと言う船の名は軽野から来ているのではないかとしています。日本初の言葉なのか、悠久の昔、この列島にたどり着いた人は持ち込んだ名前なのか、万国共通語のカヌー。

[7683] Re[7679][7677]: 紀の国の渡来人  とみた 2006/08/08(Tue) 08:16 [Reply]
神奈備さん いつも紀氏のことで教えていただいて感謝しています。

新しい刺激があると、それを元ネタに追っかけては、古代史の地平を深めて楽しんでおります。

> とみたさん、こんばんは。『紀氏と和歌山』と言う本の著者や出版社を教えて下さい。

内倉武久という方が著者です。奈良県吉野郡在住のようです。

著書名は、”謎の巨大氏族・紀氏”第一章に紀氏と和歌山があります。三一書房から

1994年刊行。

九州王朝説で有名な古田学会に傾倒されているとお見受けしております。

>
> それと
> > ここに不思議な説が介在します


>
> その『紀氏と和歌山』に述べられている説ですが、投稿頂いた文中のどの辺が「不思議な説」になるのでしょうか。

不思議というのは特に深い意味がありません。売券証文とか古文書とか霊異記などを証拠として私にとって未知の領域を推測されているので、不思議の国へ誘われた感じがしました。

不可思議でもありませんね。著者の合理的な判断です

> 岩橋千塚古墳は約600基、紀氏の墓とされていますが、4人/墓と見て、2400人、これが100年間で埋葬されたとすると、毎年24人、一つの世代を25年と見て、600人、紀氏で古墳に埋葬される家族が600家族、これは多すぎる可能性があり、紀氏の配下に入った渡来人も含めてのお話のようです。
>
> 岩橋(いわせ)千塚古墳は5世紀の後の時代から造られ始めたと言われており、まさに河内王朝の時代、紀氏で言えば紀豊耳やその子や孫の時代になります。この紀の豊耳ですが、神功皇后について九州からやってきた可能性があります。紀豊耳は天野祝と小竹祝を同じ墓に埋葬したあずなひの罪について知らなかったとあり、紀の国の知識がなかった人ではと言われているからです。
>
>  全くの青草話なのですが、磯鹿の海人名草とは紀豊耳のことではなかったかと思っています。
>  『日本書紀』(神功紀)に、「磯鹿の海人名草を遣わして視しむ。」と新羅の国の存在を確認させています。名草は安曇族の人。
>  『住吉大社神代記』には、「新羅国を服え給い、三宅を定め、大神の社を定め奉る。祝は志加乃奈具佐なり。」とあります。
>  安曇系の人が紀氏を名乗る、名草が紀氏に婿入りでもすれば何とでも言えますから。名草なる珍しい名を持っているのは偶然とは言えないような・・。

隼人研究の論文は10篇以上読み込んでいますが、安曇、住吉、宗像あたりは少しずつ材料を集めている程度です。

仰せの名草も興味津々です。神奈備さんのご指南により少しずつ研鑽を深めてゆきます。
>

[7682] 善光寺  くず 2006/08/08(Tue) 06:51 [Reply]
善光寺は、長野の芋井郷出身とされる本田善光が難波のお堀に捨てられていたご本尊阿弥陀三尊像を拾われ、始めは飯田に、そして現在地へ遷座したと伝えられています。百済からの仏教伝来にまつわる話です。

現在の本堂内陣には守屋柱と呼ばれる四角四面の柱があります。
材質は杉。内部の他の柱は丸柱で、桂と欅なのですが、守屋柱と本堂北面の外部に面する
中央の4本だけは杉を使ってあります。排仏派であった物部守屋の魂を鎮める為とも言われておりますが、個人的には国譲りのさい、信濃に入った建御名方神と戦ったと言われる漏矢族と関係があるように思います。

また長野は、高句麗からの影響を濃く受ける地です。千曲沿岸に特徴的な積石塚古墳が多く残ります。駒も名の通り高麗。それから大陸の道教思想が古く入っているようです。
生島足島神社の御神体は土だったりもします。

応神系を支えたものとして長野の高麗と鉄の文化があったのではないか。
と考えます。誉田別尊と本田善光、難波との繋がり。




[7681] Re[7672][7671][7670][7668]: 中国の水銀史  素人 2006/08/08(Tue) 03:48 [Reply]
遅い書き込みすみません。
> ははあ、楠を植えて実験・・・・実験考古学を地で行っておれれますね。
秋になったら下の枝を切って樹形を整えようかと考えています。
本などの通りになるか楽しみです。

> 司馬遼太郎の、中国・閩(百越の越の国)道に面白いことが書かれていますよ。福建省の武夷山の断崖
>
> の高所には自然の祠がいくつかあって樟の独木船の船形棺がおかれていたそうです。放射性同位元素測定で今から3445年+−150年と判明。福建省の沿海の古越族
> は代表的な海洋民俗ーマライポリネシアーだった。独木舟を操って太平洋を駆け巡り日本の沖縄や種子島やハワイ諸島も行き来していたようです。古事記で書かれている天孫族を出雲に案内した天鳥船、鳥之石楠船神かも知れません。
>
> 中国の紀元前4世紀の戦国時代、蜀の王族は、死者は船で河を渡るので船棺であったようです。これも楠です。
中国の楠とクスノキ(樟)とは違うようで、クスノキからは樟脳を作ります。防虫効果があるので、杉の船などでは陸に揚げてフナクイムシを火であぶって定期的に殺虫する必要がありますが、クスノキは木自体の樟脳成分により虫が付きにくいと思われます。メンテナンスをしないと普通木造船はフナクイムシですぐに穴が開いてしまうようです。蛇足でした。
「クスノキと日本人」ではDNAのパターンが中国のクスノキ近いクスノキが西日本にいくつかあるようです。なにぶん検体数が少ないので確定的なことはいえないようです。伊豆半島のくすは同じパタンのものが多いのですが、分析結果の出ている中国大陸の2種類のクスノキとは少し違うようです。中国でのクスノキのDNA分析でも進めば結果は違ってくるかも知れません。現在は日本と同じで中国もセルロイドの可塑剤としての需要からクスノキの古木はきられたようでしてあまり残ってはいないようです。しかし長江以南ではクスノキは育つようです。日本との関係の深い長江河口の浙江省では街路樹として植えられているようです。かなり巨樹に育ったものもあるようです。前に伊豆半島の狩野川の流路が南から北に流れるのでこの地形で雷が少ないのでクスノキの巨木栽培に適しているのではと書きましたが、この地形のモデルになっている川が中国に有るのではと夢想して長江河口付近を捜したところ似たような川がありました。銭塘江の注ぐ杭州湾に同じく注ぐ曹娥江(そうがこう)で南から北に流れる川で、日本との関係の深い天台山が奥にあり、上流の盆地には有名な四明山があり、下流西方には紹興市があり、東方には遣唐使で有名な寧波市があります。
寧波市の郊外には河姆渡遺跡があり、古代稲作遺跡(7000年前)であり高床式の建物も発掘されています。この川の周辺でしたらクスノキの栽培も可能かと思われます。
河川流路も河口で左に曲がり、谷筋を通り奥の盆地で支流と合流するなど似た感じの川です。
曹娥江近辺の地図
http://www.tourzj.jp/zjmap1.html
曹娥江の近辺で木を育てて海に漕ぎ出したなど考えるこの頃です。
お役に立たない情報でした。

[7680] Re[7678]: 文化の積層  nick [Url] 2006/08/07(Mon) 22:28 [Reply]
善光寺はいつも素通りでアルプスへ入山していました。

「お馬さん」について情報をお知らせ頂ければありがたいです、
「馬頭観音」や「道祖神」関連も大歓迎です。

[7679] Re[7677]: 紀の国の渡来人  神奈備 2006/08/07(Mon) 19:38 [Reply]
とみたさん、こんばんは。『紀氏と和歌山』と言う本の著者や出版社を教えて下さい。

それと
> ここに不思議な説が介在します

その『紀氏と和歌山』に述べられている説ですが、投稿頂いた文中のどの辺が「不思議な説」になるのでしょうか。

岩橋千塚古墳は約600基、紀氏の墓とされていますが、4人/墓と見て、2400人、これが100年間で埋葬されたとすると、毎年24人、一つの世代を25年と見て、600人、紀氏で古墳に埋葬される家族が600家族、これは多すぎる可能性があり、紀氏の配下に入った渡来人も含めてのお話のようです。

岩橋(いわせ)千塚古墳は5世紀の後の時代から造られ始めたと言われており、まさに河内王朝の時代、紀氏で言えば紀豊耳やその子や孫の時代になります。この紀の豊耳ですが、神功皇后について九州からやってきた可能性があります。紀豊耳は天野祝と小竹祝を同じ墓に埋葬したあずなひの罪について知らなかったとあり、紀の国の知識がなかった人ではと言われているからです。

 全くの青草話なのですが、磯鹿の海人名草とは紀豊耳のことではなかったかと思っています。
 『日本書紀』(神功紀)に、「磯鹿の海人名草を遣わして視しむ。」と新羅の国の存在を確認させています。名草は安曇族の人。
 『住吉大社神代記』には、「新羅国を服え給い、三宅を定め、大神の社を定め奉る。祝は志加乃奈具佐なり。」とあります。
 安曇系の人が紀氏を名乗る、名草が紀氏に婿入りでもすれば何とでも言えますから。名草なる珍しい名を持っているのは偶然とは言えないような・・。

[7678] 文化の積層  くず 2006/08/07(Mon) 12:09 [Reply]
諏訪上社、前宮は中央構造線が"諏訪・静岡構造線"にぶつかるところです。
「鶏冠社」の下はおそらく地脈。要の石があったそうです。
脇を流れる水眼の清流はとても力のある水に感じました。
水眼というからには巨龍の頭を想像しますが、文化的にはここは龍の尻尾、
だったのではないか、と思っています。
ミシャクジは文字通り蛇の赤い口。九州の鬼界カルデラがその頭。
その記憶が文化的には最古層に入っている感じをうけております。

また長野の地は、馬(と鹿)にもとてもご縁があるようです。
善光寺の奥宮として、今はほとんどかえりみられない、駒形嶽駒弓神社がありますが、
毎年十二月二の申の夜、駒弓神社の御神体の木馬4体の内1体(盗難にあい現在は3体黒・赤・黄・・おそらく5体あったのではないか、思います。主神は黒馬)が善光寺まで担ぎ出され、二月一日まで本堂内でお役目を勤め、来た道を担がれて帰る神事が戦前まで行われておりました。現在は2月1日の御駒送り神事だけが残ります。

現在の駒返り橋は山門の南ですが、古く"如来堂"の境内はこの橋より南に位置しておりました。本堂北側の湿地(現在は千鳥カ池)を日本海に見立てた"伝来"を映す神事のように感じております。


[7677] 紀の国の渡来人  とみた 2006/08/07(Mon) 09:12 [Reply]
ご承知のとおり、漢人が倭国へ渡来してきますね。313年高句麗に滅ぼされて楽浪郡の漢人が流民します。倭漢人これは5世紀はじめ、阿智使主一座。
475年百済が高句麗に一旦滅ぼされてこの流民が百済や伽耶人だといわれますつまり今来漢人だと考えられます。飛鳥が渡来の故地ですが、紀の国にも深く渡来人の翳があるようです。

倭漢人の支配の下で今来漢人が飛鳥稲淵辺りを開拓します。今来漢人は御所の南郷にも居つきます。以上は基本的に確実視されています。
神奈備さんがよく出される話ですが、紀の国、名草太田(太田黒田遺跡)に渡来する呉勝=スグリ=村主は摂津三島賀美や播磨揖保太田へ流れます。これは漢人であるか、秦氏であるか、4世紀末か5世紀かが謎。

韓式系土器と須恵器の分析が手立てです。紀ノ川の河口部は有数の渡来人密集地であることは異存無しです。

ここに不思議な説が介在します(紀氏と和歌山という表題の本から抜粋)。

平安時代に作られたこの付近の土地の売買証文がある〔伊勢の神宮文庫保存)。付近に住んでた14人が保証人として署名している。

その中に紀氏系7人のほか、川原イミキ、秦イミキ、紀酒人イミキという署名がある。

イミキは忌寸で渡来系豪族の姓です。日本霊異記という8世紀末の仏教説話集には
奈良時代の名草郡能応村〔今の和歌山市山口付近)に三間名旱岐(ミマナ)と、武蔵村主多利丸という人が居た。旱岐は朝鮮南部の伽耶の王の族長のことです。

紀ノ川沿いの現在の伊都郡かつらぎ町佐野(サヤ)に狭屋(サヤ)寺があり桑原の里に字は文忌寸、妻は上毛野公大橋の娘の説話があるそうです。

蝦夷を征討する征夷大将軍、坂上田村麻呂は普通は本拠が明日香の檜前とされていますが、紀の川中流の橋本町にも一族がおり、国城(クニキ)神社には田村麻呂が祀られているようです。

橋本の北西部の柏原付近は村主郷と呼ばれた地域だったし、西光寺の古文書には坂上姓の人が多数記録されている。橋本駅付近には、江戸時代まで浄泉寺という寺があり紀伊続風土記によると806-809年に田村麻呂が建立、奥州出発の時戦勝祈願した。という縁起が残されています。付近からは縁起より古い奈良時代の軒丸瓦がよく出土するらしい。

時代は下って663年白村江で敗れた百済の民、668年、高句麗が滅びて流民がやってくる。新羅は敵であったが668年国交が回復され新羅僧がやってくる。

これは論ずるまでありませんね。

そして、も一つ紀には謎があります。

森浩一氏の”近畿の隼人”という論文です。

紀ノ川より遡った岩瀬千塚の井辺八幡山古墳群は肥沃な水田地帯に隣接しており

紀ノ川の河口一帯は交通の要地だった。

こんな漁撈と農耕の接点の海上交通の要地には隼人がやってきた。

狩猟の風習、仮面仮装、入墨、褌、相撲の風習、ゴホウラ貝、土錘、釣針・・・井辺古

墳の出土品が物語る。古墳群の種族は南九州ともつながりがある。







[7676] Re[7674]: クスノキと日本人  素人 2006/08/07(Mon) 03:24 [Reply]
> 縄文稲作などをDNAレベルで研究している佐藤洋一郎さんの「クスノキと日本人」という本があります。クスノキ・ファン(?)にはお勧めできるかも。科学者の知見に基づくエッセイ、、、という感じです。
ご指導ありがとうございました。この本は以前こちらでご紹介いただいて読ませていただきました。役に立つ内容が多く利用させていただいております。しかし、樹形については広葉樹の蜜植による樹形の整形は書いてあるのですが、頻繁な枝打ち・間伐によって枝のない真っ直ぐな幹の樹木を作る方法は、残念ながら書いて有りませんでした。
現在、「クスノキと日本人」で大変に興味を持っているのが、伊豆半島の栽培種と思われるクスの巨樹群です。狩野川の河口付近から谷あいにかけてクスノキの巨樹がたくさん植えられています。これらのクスノキの巨樹は材木にむかないクスノキのために残されてた、ようですが狩野川の中流に軽野神社があり古代に巨大な30m以上クスノキの船が作られたようです。伊豆半島の谷に巨大なクスノキが残ったのは背の高い巨木を倒す雷が少ないのではと思い、調べてみました。最近は雷レーダーなるものがありまして一定のマス目(1km四方とか)に落ちた雷の数を知ることが出来ます。狩野川流域は雷は少なく特に軽野神社から伊東にかけて雷が少ないそうです。理由を調べてみますと南の天城連邦による雲・風の遮断と北に開けた谷によるようです。これは太平洋岸では非常に珍しい南から北に北極星に向かって流れる狩野川によって形作られた地形によるようです。巨木の寿命を考えますと風水?も大いに関係するようです。関係ないですが、伊豆山神社は十国峠近くの久地良山の上にあったそうですが本当でしょうか。この辺に雷に関係する神社が多いそうですがどうしてでしょうか。
 伊豆半島の縄文期の巨樹の樹種は埋没林の樹種から杉のようです。天城山麓には今でも有用材ではないようですが、杉の有名な巨樹が2本あるようです。
クスノキからいろいろ夢想するこのごろです。

[7675] 無題  くず 2006/08/06(Sun) 20:11 [Reply]
皆様こんばんは。
本日は諏訪大社上社前宮様へ水眼の清水を頂きにいってまいりました。
清らかで大変力強い流れでした。

>クスノキ

私の郷、戸隠にも東西に横切る楠川(くすがわ)があります。
諏訪、安曇、穂高・・と海の民と長野は深い関係があると思っておりますが、
戸隠山はかつて海の底、海底隆起の山です。現在でも、岩壁にホタテの化石群が見受けられます。かつて源流を遡り、この地を訪れた海の民が、岩肌より流れ落ちる滴の向こうに、ホタテの貝群を見つけたとき、悠久の時間の凝縮を感じたやもしれません。


[7674] クスノキと日本人  大三元 2006/08/06(Sun) 11:45 [Reply]
縄文稲作などをDNAレベルで研究している佐藤洋一郎さんの「クスノキと日本人」という本があります。クスノキ・ファン(?)にはお勧めできるかも。科学者の知見に基づくエッセイ、、、という感じです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4896948483/249-5200842-1185906?v=product-description&n=465392&%5Fencoding=UTF8&n=465392&s=books

[7673] Re[7671][7670][7668]: 中国の水銀史  神奈備 2006/08/06(Sun) 10:20 [Reply]
> 若木のうちに枝打ちをしたりして、樹形を整えれば真っ直ぐに伸びた枝のないクスノキに出来るようです。

『日本書紀』に、素盞嗚尊が「杉と樟、この二つの木は舟をつくるによい。」と用途を定めたとあり、神話にしては実に合理的。
木を刳り抜くのは、石を暑く焼いて、それを押し当てて穴を開けていくやり方があったそうです。

[7672] Re[7671][7670][7668]: 中国の水銀史  とみた 2006/08/05(Sat) 10:08 [Reply]
素人さんへ、ど素人が悪乗りします。

> 中国江南つながりで、長江の河口からの海流に乗った航海に必要な真っ直ぐで長くて巨大なクスノキの丸太材が得られるか、本などを読んで調べています。
> クスノキは自然林ですと根のすぐ上で枝分かれして巨大な枝をたくさん伸ばします。しかし、若木のうちに枝打ちをしたりして、樹形を整えれば真っ直ぐに伸びた枝のないクスノキに出来るようです。古代にクスノキを切って巨船を作っていたようですから弥生時代の初期にクスノキを植えて石の斧で樹形を整える技術を持った人が渡来していなくてはならないと考えるこの頃です。この方たちも巨大なクスノキ材で船を作り渡来したと思っています。800年とか1000年とか気の遠くなる時間です。
> 去年からクスノキの苗木を買って育てていますが、根のすぐ上から緑の大きな枝が育っています。

ははあ、楠を植えて実験・・・・実験考古学を地で行っておれれますね。
司馬遼太郎の、中国・閩(百越の越の国)道に面白いことが書かれていますよ。福建省の武夷山の断崖

の高所には自然の祠がいくつかあって樟の独木船の船形棺がおかれていたそうです。放射性同位元素測定で今から3445年+−150年と判明。福建省の沿海の古越族
は代表的な海洋民俗ーマライポリネシアーだった。独木舟を操って太平洋を駆け巡り日本の沖縄や種子島やハワイ諸島も行き来していたようです。古事記で書かれている天孫族を出雲に案内した天鳥船、鳥之石楠船神かも知れません。

中国の紀元前4世紀の戦国時代、蜀の王族は、死者は船で河を渡るので船棺であったようです。これも楠です。

日本の南葛城の馬見古墳群の巣山古墳でも船の形をした葬送具が発見されました。

これも楠を使った船ですね。
紀州には楠が多いようですし、これを使ったのでしょうか。朝鮮にも運んでいるようですし・・・大阪の樟葉に住んでいたこともあるんですが、これも楠ですね。

楠木正成・・これも楠・・・・

なんだか分かりません。クスクス笑いたくなります。

[7671] Re[7670][7668]: 中国の水銀史  素人 2006/08/05(Sat) 02:44 [Reply]
早速のコメントありがとうございました。
中国からの水銀関連技術の伝播がなくては、日本の鉄器への移行のための中国からの大量の鋳鉄器や鋳鉄材の輸入は輸出品としての多量の水銀がなくては難しいのではと夢想しているこの頃です。
> 今、中国江南の道教の日本への影響、伊勢神宮と道教という論文を読んでいます。
中国江南つながりで、長江の河口からの海流に乗った航海に必要な真っ直ぐで長くて巨大なクスノキの丸太材が得られるか、本などを読んで調べています。
クスノキは自然林ですと根のすぐ上で枝分かれして巨大な枝をたくさん伸ばします。しかし、若木のうちに枝打ちをしたりして、樹形を整えれば真っ直ぐに伸びた枝のないクスノキに出来るようです。古代にクスノキを切って巨船を作っていたようですから弥生時代の初期にクスノキを植えて石の斧で樹形を整える技術を持った人が渡来していなくてはならないと考えるこの頃です。この方たちも巨大なクスノキ材で船を作り渡来したと思っています。800年とか1000年とか気の遠くなる時間です。
去年からクスノキの苗木を買って育てていますが、根のすぐ上から緑の大きな枝が育っています。
関係のないことばかりですみません。


[7670] Re[7668]: 中国の水銀史  とみた 2006/08/04(Fri) 10:41 [Reply]
素人さん ど素人のとみたです。

美濃”のど”言葉です。

阿呆の上にさらに”ど”をつけて、どあほうなんて言います。
美濃出身の者ですが、今は下総にいます。

中国の水銀レポート、地質学的な本格ものです。

感謝しています。

古くは殷の時代まで遡るのですね。殷は殷墟、安陽です。これは黄河流域の二里岡に始まります。偃師商城もあります。その近くに二里頭遺跡がありますがこれは舜の夏の遺跡です。最近,伝説の尭の遺跡が、夏の遺跡の北方の陶寺遺跡だ都考えられています。

昨年このあたりを巡りました。

始皇帝陵の地下には水銀の川があると司馬遷は言ってますね。

朱は何のためにあるかでいろいろな説があるようです。

赤に対する神聖な気持ち、防腐剤、金メッキの水銀アマルガム・・・・一番有力視されているのは呪/僻邪ですね。これが中国の渡来人の影響を受けているとしたら、どうつながっているのでしょうか。

卜骨は元来北西の遊牧民の風習を殷が取り込んだとされています。

今、中国江南の道教の日本への影響、伊勢神宮と道教という論文を読んでいます。

何れにせよ、中国と日本の古代は深くつながっていたようです。貴重な資料をいただ

きましたので印刷して本日読んでみます。何か分かりましたら報告します。

[7669] Re[7668]: 中国の水銀史  神奈備 2006/08/04(Fri) 10:13 [Reply]
素人さん、こんにちは。文字通り素人の神奈備です。

> 古代中国はこの辺で古代日本は伊勢水銀でないかと思われます。中国・四川・湖南あたりと日本・伊勢がつながるのでしょうか。

 縄文時代の水銀朱生産地域は 市毛勳『朱の考古学』からは以下の通り。
三重県度会郡 森添遺跡
   一志郡 天白遺跡、下沖遺跡
三重県多気郡 森荘川浦遺跡
徳島市国府町 矢野遺跡

 三重県の産地は大和水銀鉱床郡の一画で縄文時代、矢野遺跡は阿波水銀鉱床郡で縄文から弥生時代まで続いているようです。
 卑弥呼が辰沙を魏の国への土産としていますが、これは阿波のものかと思います。理由の一つは弥生時代であること、伊勢は狗奴国?の領域だったこと、など。

 中国と日本のつながりの意味が難しいのですが、水銀朱を探し、採取し、出来れば水銀にする技術を持った者(例えば丹生氏、紀氏?)がやって来たとか、中央構造線の延長が長江に至っている?とか、色んな可能性が考えられますね。

[7668] 中国の水銀史  素人 2006/08/04(Fri) 00:20 [Reply]
しばらくご無沙汰でした。
水銀に関連した話題になってきたようですから関連して、
中国の古代水銀産地の簡単な資料を紹介させていただきます。
春秋時代から採取されていたのは重慶市の長江を約80km下った位置にある涪陵(ユアンリン)地域でここから別れる鳥江の流域に水銀鉱床が広がっています。四川省重慶付近から湖南省沅陵(古名は辰州)付近までの広大な地域が水銀鉱床です。辰砂の語源となった辰州まで広がっています。現在もこの地域で採鉱されているようですからこの地域がかなり上流ですが長江の水銀産地となるようです。古代中国はこの辺で古代日本は伊勢水銀でないかと思われます。中国・四川・湖南あたりと日本・伊勢がつながるのでしょうか。
がっかり、されるかも知れませんが詳しくは以下の資料をお読みください。
「中国史にみる水銀鉱」
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1983/11/83_11_03.pdf

[7667] 年表更新  神奈備 2006/08/02(Wed) 15:45 [Reply]
 久々に紀の国年表を更新しました。
http://www.kamnavi.jp/ki/ooken.htm
 元の年表は五十猛や丹生都姫も取り入れていたのですが、無理筋で削除しています。某穂の国付近を取り上げたHPに昔の年表の丸写しが載っています。三河に五十猛命や丹生都姫は関係ないですよね。

元の神奈備の年表の丸写しの残骸
http://164.46.123.81/honokunigamagoori/h-nenpyou.htm


神奈備掲示板、青草談話室 写真掲示板 過去ログ集目次




神奈備ホームに戻る


inserted by FC2 system