神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十八年 九月 2006.9)お名前の敬称は省略しています。

[7885] Re[7871]: USA in 九州  素人 2006/09/30(Sat) 23:10 [Reply]
> 宇佐神宮
> http://www.myalbum.jp/Pc/Albm_Dspy.aspx?albumID=610c6d69ac76

恋川亭さま
遅れた書き込み失礼いたします。
宇佐神宮の写真、拝見いたしました。素晴らしい色彩に驚かされます。
昔は田舎では駅名ぐらいが英語でしたから、駅名にUSAと併記されていたように記憶しています。
大元山又は御許山といわれますが、右端の丸いピークがそうなのですね。丸いピークの下に奥の院があり、左の広い平らな台地が奥にある雲ヶ岳のようです。宇佐神宮から見た大元山と雲ヶ岳の詳細な写真は初めて拝見させていただきました。奥の平らな雲ヶ岳がこの周辺で一番高いようです。素晴らしい写真ありがとうございました。
 雲ヶ岳全景。裏の安心院町正覚寺よりの写真ですが同じく平らな山です。
http://oitamt.web.infoseek.co.jp/321256kumodakeenkei1.jpg
「雲ヶ岳は宇佐市最高峰として昔から地図の上では確認していましたが、今回登ってみました。赤テープを頼りに登りましたが比較的道は明瞭です。展望はさほどよくありません。」
http://oitamt.web.infoseek.co.jp/usaomotokumodake.html

[7884] 小栗サミット情報多謝!!  中部ねこ 2006/09/30(Sat) 11:44 [Reply]
神奈川備さん・MADOKAさん、小栗サミット情報をありがとうございました。
ぜひ、行ってみようと思います。また報告しますね!

[7883] Re小栗サミット御案内                  MADOKA 2006/09/30(Sat) 03:33 [Reply]
中部ねこさん!
いらっしゃるんですか!是非 報告もお待ちしています。
和歌山巡険で見てなかったもんでレスが遅くなりました。
神奈備さん ありがとうがざいます。いってらっしゃい。土産話がたのしみです。

『藤沢ゆかり 小栗伝説を学ぶ集い』
2004年10月14日。15日 
藤沢公民館 2Fホール 入場無料
ホールロビーで『小栗関係資料パネル展』開催

14(土)午後1時30分ー4時
講演 『小栗判官。照手姫』の物語が伝えてきたもの
講師 松原右樹(まれき)(民俗学者)

語り芝居『てるて姫伝説(説教節小栗より)』
出演 東の宮美智子 (語り芝居)
   馬場鶴生(琵琶。パーカッション)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
14日 午後4時半 藤沢公民館集合
小栗判官ゆかりの遊行寺史跡めぐり
  講師 平野雅道
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
15日(日)午前10時ー12時 藤沢公民館 無料
全国『小栗伝説』シンポジュウム
パネラー
篠崎 隆(常陸小栗〈茨城県筑西市〉)
堤正樹(美濃青墓〈岐阜県大垣市〉)
松原右樹(小栗街道〈大阪府堺市〉)
安井理夫(熊野湯の峯〈和歌山県田辺市〉)
平野雅道(藤沢。藤沢をぐりの会)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
15日 午後1時ー4時
会場 西俣野『花応院』本堂
 西俣野小栗判官史跡めぐりと『小栗判官一代記』の絵解き  参加費 1000円
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
藤沢公民館0466−22−0019
の分は無料ですが 資料代 500円

オグリ連合の宿泊参加は9・30日締め切り希望のようですが。それ以外は記載なし。飛び込みでもいけそうですが
関連事務局に問い合わせがやはりベストなようです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
恋川亭さん 素てきな写真拝見。

和歌山土産に 赤土話
丹生都比売神社の境内は元は赤土で真っ赤であったらしいです。なーんか今はよそから土を入れて見えない状態らしい。元に戻して欲しいもんですね(丹生都ヒメらしいじゃないですか!)

[7882] Re[7881]: 留守の報告  nick [Url] 2006/09/26(Tue) 20:12 [Reply]

>  小生もそれを確認かたがたペルーへ行って来ます。この火曜日に出て、10月5日に帰る予定です。留守をいたしますので、掲示場・メールに応答が出来ませんが、気分を害せずにお待ち下さい。

朗報を愉しみにお待ちします。
健康にはくれぐれもご留意を。
良い旅を。

[7881] 留守の報告  神奈備 2006/09/26(Tue) 09:13 [Reply]
 葦舟プロジェクトの石川仁さんがチチカカ湖に滞在していた時、その土地の住民と同じ感覚で意気投合してきたと聞きました。
http://rainbow.or.tv/kamuna/

 彼らと我々は2万年前に親戚同士がバイカル湖付近で別れたのであって、即ちDNAが共通で、いわば兄弟のような気分だったのでしょう。

 小生もそれを確認かたがたペルーへ行って来ます。この火曜日に出て、10月5日に帰る予定です。留守をいたしますので、掲示場・メールに応答が出来ませんが、気分を害せずにお待ち下さい。

 掲示板につきましては、まっとうな書き込みが続きますように、祈念いたしております。

[7880] Re[7872][7871]: USA in 九州  恋川亭 2006/09/26(Tue) 00:53 [Reply]
> 宇佐、宗像とは、かなりハードですね。やはり前日は泊まりですか?
> それと、宇佐神宮だったと思うのですが、呉橋見られましたか?私も一度参拝したいと思っていますので、参考になります。

> かまどさん、こんばんわ!
『かまちゃん日記』拝読してます。EXカリバー明神の大ファンですから(笑)。
 さて、私は関西から朝、新幹線(レールスターしか乗らない)で小倉へ、小倉から特急ソニックで大分にはお昼前につきました。大分でひと仕事をおえて三時に宇佐につきました。関西から宇佐神宮に直行した場合でも午前中に到着できます。宇佐駅から神宮までタクシー15分、約1300円でした。(JR九州の車両内装はサイケなデザインですな〜)
 私は仕事の都合により途中の小倉に1泊しましたが、大分県の宇佐神宮と福岡県の宗像大社を1日で巡礼するのは、チョットきついかもしれません。
 宇佐神宮では1時間しか余裕がなかったので最短コースの参拝でした。呉橋は回っていません。他の境内摂社末社も回れませんでした。敷地が広いのでケッコウ大変、余分な荷物は駅などで預けた方がよかったです。
 でも神宮そのものは良かったですよ。また次回、ゆっくりと参拝したいところです。

>nickさん、こんばんわ!
 私が行ったときも、上宮の拝殿(回廊)内側は工事中でした。中は仮設足場が組んであります。内部の住吉社、春日社、北辰社を撮影したのですが、防護網で霞んでいます(笑)。
 一之御殿、二之御殿、三之御殿の参拝するところ、お賽銭箱の上方は大きな蜘蛛の巣がたくさんあるのです。掃わないのでしょうかね、殺生を控えているのでしょうか。さいわい他の参拝客の方々はそんな所を見ていないので気づかないのですが。あれでドリーム・キャッチャーを作るとごりやくが有るかも。

[7879] Re[7878][7841]: 小栗サミット御案内  神奈備 2006/09/25(Mon) 11:07 [Reply]
> 「第12回小栗サミット」、ぜひ参加したいと思うのですが、事前登録などは必要ですか?また、開始時間などもわかりません。藤沢市関係のHPを見てもどこにも掲載されていないので、お教えいただければ幸いです。よろしくお願いします。

和歌山市では和歌山文化協会・郷土研究会部 TEL/FAX 073-445-6660

また藤沢市では、当掲示板[7841]から
第12回「をぐりサミット」
事務局:〒252-0804藤沢市湘南台3-29-15村上清方
藤沢をぐりの会/Fax0466-44-2652
代表幹事:鈴木暁生 〒252-0826藤沢市宮原3447-3 /Fax0466-48-5118
に問い合わせて下さい。


 

[7878] Re[7841]: 小栗サミット御案内  中部ねこ 2006/09/25(Mon) 10:02 [Reply]
「第12回小栗サミット」、ぜひ参加したいと思うのですが、事前登録などは必要ですか?また、開始時間などもわかりません。藤沢市関係のHPを見てもどこにも掲載されていないので、お教えいただければ幸いです。よろしくお願いします。

[7877] 感謝と報告  神奈備 2006/09/25(Mon) 09:57 [Reply]
 恋川亭さん、涼しい秋の色に相応しい神宮のご紹介、ありがとうございます。素晴らしい写真集拝見いたしました。

 気持ちの良い記事を見せていただいた後、意味不明の気持ちの悪い投稿が!



 徳田の太郎さん、この掲示板上であなたは何の権利があって、他の人につべこべ言うのですか。

 うっとおしいのは貴殿です。徳田の太郎さん、ここに現れないようにして下さい。不愉快です。

 書き込みは消去いたしました。

[7876] 雑感:複数の伝承  大三元 2006/09/25(Mon) 09:04 [Reply]
いろんな史料で異なったことが書いてあったり、出入りがあったりする。
そこから、複数の事象が数次に亘ってあったのだ、という解釈もできたりする。そういう思弁行為自体を否定するつもりはないけれども:

私は、それら異なる伝承は、もとは一つ(または、非常小さい数)なのだが、伝承経路(具体的には家系)によって少しずつ変形してきたのだ、という捉え方に傾斜しています。

かつ、現在まで遺された史料は、数々(?)の不幸を免れて遺ったもので、途絶えてしまった伝承も多いのだろう。失われた伝承は「想像(創造)」するしかないけど、よほどの理論武装が必要でしょう。しばしば「想像(創造)」を見聞きするのだけれども、ついて行けない場合が多い。自ら振り返ってみても、あれれ、ということもある。

自己批判、多角的な検証、などを経てない話は通じないか、受容されない、ということだろう。その意味でBBSは有り難い。他人の目から見て変だとか、判らないとか、質問が出てきたら真摯に対応して、自説の補強、補修、訂正、撤回などなどが短いサイクルで出来るからだ。

雑感まで。

[7874] Re[7871]: USA in 九州  nick [Url] 2006/09/25(Mon) 07:45 [Reply]
恋川亭さん、おはようございます。
強行軍ご苦労様でした。

宇佐神宮拝見しました。綺麗になりましたね。
私が父と出かけた時は工事中で、大半がシートを被っていました。
一応撮影は出来ましたけれどね。

そういえば私もどこかにストックしていたが、、、
はてどこだったか忘れた。。そのうち連絡あるだろう。。
最近こんなこと多くなりました。
パソコン黎明期の頃はサイトのID/Pwd30箇所位は覚えていましたが。。
脳の活性化にはゲームがいいらしいですね。
インベーダーをまたやるかな。(ネット上の対戦ゲームなんて自作していたが)

[7873] 「玄松子」さん   徳田の太郎 2006/09/25(Mon) 01:55 [Reply]
神奈備掲示板にふさわしくない書き込みですので全文を消去いたしました。
見苦しいものをお見せして失礼いたしました。席亭:神奈備


[7872] Re[7871]: USA in 九州  かまど [Url] 2006/09/25(Mon) 00:18 [Reply]
恋川亭様

> (1)宇佐神宮

宇佐、宗像とは、かなりハードですね。やはり前日は泊まりですか?

それと、宇佐神宮だったと思うのですが、呉橋見られましたか?私も一度参拝したいと思っていますので、参考になります。

[7871] USA in 九州  恋川亭 2006/09/25(Mon) 00:03 [Reply]
宇佐神宮と宗像大社、参拝してきました。以下、取り急ぎ手短に。

(1)宇佐神宮
この立地、この広さは・・・お城!ですねぇ。お濠も土塁跡もあるし。お社の替わりに城郭があっても違和感なくおさまることでしょう。
 でも、お城と違って神域の気がガンガン漂う現役の神宮。いわば活火山的な神社でした。「祓所」もゾクゾクとしてくる場でした。あえて撮影はしませんでしたが、参詣の際はぜひ立ち寄ってください。

宇佐神宮といえば、この名著!
 『柴刺 : 忘れられた古代の祭儀』(馬場紀美史:著/葦書房/1990)
イチオシ本のひとつなのですが、最近見かけないですね。必読レベルです。

(2)宗像大社(辺津宮)
JR九州:東郷駅からのバスがありましたが、本数は一時間に1〜2便。
 参詣のおりは、ぜひ高宮まで登拝してください。宗像三女神ご降臨の地です。磐境・ヒモロギで構成された聖地。高宮付近はかなり赤い色の土でした。

(3)大島の中津宮
渡ってきました玄海灘(の一部)。まだ初秋なのに波が荒れているのですね。
 島ではレンタル自転車を利用しましたが、仕事の後の中津宮参拝でフェリーの時間が迫ってました。沖津宮遥拝所まで行く時間が残っていないのが残念でした。
 天真奈井の周囲の石が真っ赤だったのが印象的です。中津宮は、その後ろの御岳山の拝殿といったところ。この神奈備山の頂上には御岳神社があるそうです。

===================
以前、神社写真の公開に利用していたマイアルバムがリニューアルされたので、再登録を行ない、久々この機会にアップしました。

マイアルバム
http://www.myalbum.jp/Pc/Default.aspx
(この中の検索欄で『恋川亭』と入力すると以下のアルバムがヒットします)

恋川亭のマイアルバムより
宇佐神宮
http://www.myalbum.jp/Pc/Albm_Dspy.aspx?albumID=610c6d69ac76
宗像大社(辺津宮)
http://www.myalbum.jp/Pc/Albm_Dspy.aspx?albumID=27fdaee0aca3
宗像大社(大島の中津宮)
http://www.myalbum.jp/Pc/Albm_Dspy.aspx?albumID=8a654ebaa343

[7870] Re[7869][7868][7866][7865][7864] 天神の裔、物部  nick [Url] 2006/09/24(Sun) 17:22 [Reply]
こんにちわ。
> 変な書き方になって失礼しました。投稿された方の思いを書こうとしていたのですが、何となく自分のサイトを他の目でチェックするような気分も入り、混乱を来しました。

以前、どなたかの質問でこのサイトのテリトリーを回答されていたと
記憶はしていたのですが、、
脳梗塞3回、くも膜下出血1回のおつむではなかなか難しい。

実は先週は徐福祭り、今週は川内の新田神社と出水へ出かける予定でいたのですが
先週は台風13号で、今回は親父の具合が今一つで。。
来月は西都原辺りへ出かけたい。頭もリフレッシュしたいし。

[7869] Re[7868][7866][7865][7864] 天神の裔、物部  神奈備 2006/09/24(Sun) 13:32 [Reply]
> > したのは、投稿者のをまとめたもので、管理人さんの趣旨ではないと。
> なかなか難しい。

変な書き方になって失礼しました。投稿された方の思いを書こうとしていたのですが、何となく自分のサイトを他の目でチェックするような気分も入り、混乱を来しました。

[7868] Re[7866][7865][7864] 天神の裔、物部  nick [Url] 2006/09/23(Sat) 18:16 [Reply]
QUBOさん、早速のご回答ありがとうございます。

> > [7856] で管理人さんも主旨を述べておられます。
> > そのチャートにそっての論考なら理解できるのですが、
> これは全く逆に理解したんです。つまり[7856]でまとめ書き
> したのは、投稿者のをまとめたもので、管理人さんの趣旨ではないと。

そう言われるとちょっと逆の文章もありますね。
管理人さんのレスが繋がっているところを見ると私の方が
取り違えたのでしょうか。
なかなか難しい。

[7867] Re[7866][7865][7864] 天神の裔、物部  神奈備 2006/09/23(Sat) 18:10 [Reply]
> > 石上氏に代々伝わっていた魂振の神事を物部氏
> > が我がものとしてしまったとか。

大阪の朝日カルチャアセンター講座 古代再考「神社発生の謎を探る」(松前健氏)
で聞いた話です。印刷物では見ていませんが。


[7866] Re[7865][7864] 天神の裔、物部  QUBO 2006/09/23(Sat) 17:42 [Reply]
>  所で天孫降臨の歴史としての定義ですが、
> 船で大陸や半島から列島にやってきて上陸したこと、
> または九州などから畿内にやって来ることと理解しています。
 私もです。+東国の常陸国あたりもあります(風土記)

> > 天璽瑞宝十種」を持っていた饒速日尊
> 本当は持っていなかったとの説があります。
> 石上氏に代々伝わっていた魂振の神事を物部氏
> が我がものとしてしまったとか。
初耳です。そんな話もありますか…
石上氏は物部守屋の弟から始まり、物部氏の宗家だった説はどうしましょう

nick さん、こんにちは。
私も貴兄の投稿を楽しみに拝見しています。
> 今回の一連のポストは、この場にそぐわないのではないでしょうか。
そうですね、いささか違和感を持って書き込んでます。
これでこの件についての私の書き込みは止めます

> [7856] で管理人さんも主旨を述べておられます。
> そのチャートにそっての論考なら理解できるのですが、
これは全く逆に理解したんです。つまり[7856]でまとめ書き
したのは、投稿者のをまとめたもので、管理人さんの趣旨ではないと。

[7865] Re[7863][7862] 天神の裔、物部  神奈備 2006/09/23(Sat) 13:43 [Reply]
> 私は「天孫降臨」自体は数次・数ヶ所に及んだと解釈してます

 同感です。
 物部だけでも幾つかあるようです。

 河内国の河上哮ヶ峰に降臨とあるのですが、この候補地もいくつか。

 交野市の磐船神社付近 肩野物部
 二上山        当麻物部
 生駒の北の饒速日山  物部本家
 高安山        物部本家(鳥越説 当初は交野説)
 平石の磐船神社

 
 所で天孫降臨の歴史としての定義ですが、船で大陸や半島から列島にやってきて上陸したこと、または九州などから畿内にやって来ることと理解しています。
 

> 天璽瑞宝十種」を持っていた饒速日尊

本当は持っていなかったとの説があります。石上氏に代々伝わっていた魂振の神事を物部氏が我がものとしてしまったとか。

[7864] Re[7863][7862] 天神の裔、物部  nick [Url] 2006/09/23(Sat) 12:00 [Reply]
QUBOさん、こんにちわ。
いつも投稿を楽しみに拝見しています。
しかし、今回の一連のポストは、この場にそぐわないのでは
ないでしょうか。

[7856] で管理人さんも主旨を述べておられます。
そのチャートにそっての論考なら理解できるのですが、
「青草」とはまた観点が違うような気もします。

一般的な歴史サイト(このサイト以外)で
根拠とバックデータをご教示頂ければさもなんですが
如何でしょうか。

[7863] Re[7862] 天神の裔、物部  QUBO 2006/09/23(Sat) 09:31 [Reply]
>  天孫降臨の本家は饒速日尊だとの主張。

>  饒速日尊はここでは、天孫であり、皇孫であるとの主張です。
>  本気か? 正気か? と問いたいのは山々ですが・・・。

本気か? 正気か?と問われるとチョッとつらいのですが
天孫降臨の「時間優先の」本家は饒速日尊だと思います
不思議に思っているのは、「天璽瑞宝十種」を持っていた
饒速日尊のほうが、何も無い(あるいは三種)神武に、
統治権を譲ったこと。本当なら、神武が家来になっても
不思議では無いと思うのですが。

天孫であり、皇孫であるとの主張は可能です
たとえば私は
アジア人で日本人で下総人
天神>天孫>皇孫>天皇家 のような関係かと思ってます

私は「天孫降臨」自体は数次・数ヶ所に及んだと解釈してます
ギリシャ時代の各地へのポリス建設のような…
スペインなどの植民地建設のような…  青草にしましょうか?

[7862] Re[7861][7851] 天神の裔、物部  神奈備 2006/09/22(Fri) 15:55 [Reply]
>>> 天孫やまして天神系は、そんな血筋では無いですね。
>> … 饒速日尊は、その権利があると思います。

 偽書とされる理由のひとつになるのでしょう『天神本紀』の以下の記事。

 天照大神の詔によって最初に天降ることになったのは、天押穂耳尊、天押穂耳尊におりしも饒速日尊が誕生したので、饒速日尊を天降ることになった。

 天孫降臨の本家は饒速日尊だとの主張。


 さらに偽書のそしりを免れないであろう『天孫本紀』

 天照大神、高皇産霊尊、相共にに生む所なり。故、天孫といふ。亦、皇孫と称す。天祖、天璽瑞宝十種を以て、饒速日尊に授ふ。

 饒速日尊はここでは、天孫であり、皇孫であるとの主張です。


 本気か? 正気か? と問いたいのは山々ですが・・・。

 で、ウマシマジの母親の件はちょっとした思いつきだったのですが・・。分が悪い。

[7861] Re[7851] 天神の裔、物部  QUBO 2006/09/22(Fri) 14:16 [Reply]
> > 天孫やまして天神系は、そんな血筋では無いですね。
… 饒速日尊は、その権利があると思います。
 
地祇であってもスサノオの子孫なら「皇位を狙う血筋」と言えるでしょうか?
無理すれば「言えない事は無い」と思います。でも普通は思わないでしょう。

継体天皇の母、父の母、祖父の母、曽祖父の母、更にその上の母
よく知りませんが、みんな卑母だと思いますよ。

皇子の母が卑母だと、皇位継承の権利の順位が落ちる
それだけのことでしょう。
 
>  天神が饒速日尊のことを心配していたら、話は変わっていたのかも知れません。
 その通りです。
>  『日本書紀』のお話は一括して構想・記載されたものと考えますと、
>  本来正体不明だったウマシマジをして、長髄媛の子としたのも、
>  後付の理屈といえるのかも。
 可能性は否定しません。
 
>  …百済王の血筋をひいた高野新笠は卑母と見なすわけですね。
 これは私が個人的に「見なす」 ということではなく、定説です。
たとえば、
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kanmute.html

[7860] Re[7859][7851] 天神の裔、物部  神奈備 2006/09/22(Fri) 13:31 [Reply]
> 天孫やまして天神系は、そんな血筋では無いですね。

 「葦原の国は我が子(天照大神の子孫)が知らしむべき国」とあり、饒速日尊を『先代旧事本紀』によれば、その権利があると思われます。
 また、『日本書記』には、饒速日尊はも「とより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけ」としていますので、そうなんでしょうが、天神が饒速日尊のことを心配していたら、話は変わっていたのかも知れません。
 『日本書紀』のお話は一括して構想・記載されたものと考えますと、本来正体不明だったウマシマジをして、長髄媛の子としたのも、後付の理屈といえるのかも。


> たとえば桓武天皇、明治天皇を見れば明らかでしょう。
 彼らの登場より『日本書紀』の記述の方が早いわけで、後の時代の天皇をもって語るのはいかがなものかと。
 
 所で、百済王の血筋をひいた高野新笠は卑母と見なすわけですね。

[7859] Re[7851] 天神の裔、物部  QUBO 2006/09/22(Fri) 12:13 [Reply]
>  ニギハヤヒを、神武天皇以外の天神の裔… …
> そうしますと、物部一族にも皇位を狙う血筋があること
> を認めてしまうことになりかねません。弓削道鏡などが
> 正統化されることになります。
これはとても無理だと思いますよ
新撰姓氏録では、皇別・神別を分け、さらに
神別を天神・天孫・地祇と分けて書いています。
皇別とても皇位を狙う血筋では無いですわけですから
天孫やまして天神系は、そんな血筋では無いですね。

> 卑母の子孫として、天神の裔ではあるが、決して天皇位を
> ねらえる立場ではないことを明言しているのが、
> 記紀の目的の一つだったのでしょう。
これも誤解でしょう
たとえば桓武天皇、明治天皇を見れば明らかでしょう。

[7858] Re[7857]: 加美奈備さん  神奈備 2006/09/22(Fri) 11:50 [Reply]
> 加牟奈備さん
> 加美奈備さん

 誰に対する呼びかけでしょうか。
 多分、席亭の神奈備宛でしょうが、人をなめているとしか思えません。

 三川国青見評さん、この掲示板に二度と、書き込みはしないで下さい。

[7857] 加美奈備さん  三川国青見評 [Url] 2006/09/22(Fri) 11:18 [Reply]
物的証拠というのは、中国最古の夏王朝は、史書に記載があったけど、
実在が疑われていた。でも、遺跡の発掘で裏付けられた。

日本の史書は、裏づけのないものが多すぎるし、違う場合もある。
ゆえに、古事記偽書説、旧事紀偽書説が出る。

木簡による7世紀後半の評制度なんかいい例です。

ヤマタイ国なんて、いまだにわからない。

[7856] Re[7854]: だからどうなんですか?  神奈備 2006/09/22(Fri) 10:24 [Reply]
徳田の太郎さん、書き込み、意味不明です。席亭である神奈備にいろいろ言っていただくのは差し支えありませんが、他の方の名前を出されて、これまた意味不明をやられてはたまりません。
あなたの書き込みこそ、早晩消去させていただきます。

> 【だからどうなんですか?】
(注)記紀とは古事記、日本書紀、先代旧事本紀、古語拾遺の意。

1.神社と記紀神話に頼っているこのサイトは古代史を語る泣かれ。

2.記紀の記事を歴史とする場合、考古遺物などとつきあわせて整合性のあるもののみで語れ。

3.記紀神話と風土記よりも万葉集を調べれば、当時まで伝わったお話があるので、それを語るべし。

4.神社伝承には記紀神話より真実を伝えているので、それを中心に語れ。

5.私(書き込んだ人)だけが正しい。お前等は皆間違っている。

だから、こういうことなんだと言いたいのかも。特に5番目。

[7853] Re[7852]: 先代旧事本紀  神奈備 2006/09/21(Thu) 17:48 [Reply]
> 先代旧事本紀は、偽書だと思いますけどね、私は。
> 平安時代に書かれたらしいけど。物的証拠と一致しない事例が多いし。
> 特に国造。
>
> 古事記や日本書紀も、全面的には信用できないですね。

だからどうなんですか?

[7852] 先代旧事本紀  三川国青見評 [Url] 2006/09/21(Thu) 12:36 [Reply]
先代旧事本紀は、偽書だと思いますけどね、私は。
平安時代に書かれたらしいけど。物的証拠と一致しない事例が多いし。
特に国造。

古事記や日本書紀も、全面的には信用できないですね。

[7851] 天神の裔、物部  神奈備 2006/09/21(Thu) 11:26 [Reply]
『古事記』には、邇芸速日の命が登美毘古が妹登美夜毘女に娶ひて生める子、宇摩志麻遅の命。こは物部の連(等)の祖なり。とあります。
 『日本書紀』も、可美真手命と表記、親については同様の内容。

 ニギハヤヒを、神武天皇以外の天神の裔、であると記紀が認めているのを怪訝として、記紀編纂時期には物部の力が残っており、かつ各氏族共通の認識があったとの解説が通例になっています。それは妥当なことなのでしょう。

 そうしますと、物部一族にも皇位を狙う血筋があることを認めてしまうことになりかねません。弓削道鏡などが正統化されることになります。

 これからは想像なのですが、ニギハヤヒを天神の裔であることは認めても物部の祖とは記さず、その子のウマシマジを物部連の祖と明記しています。(『日本書紀』饒速日を遠祖としていますが)
 ウマシマジも天神の裔には違いありませんが、母親はかの土蜘蛛の大将である長髄彦の妹、言って見れば卑母の子、大海人皇子(天武天皇)が敗死させた近江朝の大友皇子も卑母の子。
 物部氏は卑母の子孫として、天神の裔ではあるが、決して天皇位をねらえる立場ではないことを明言しているのが、記紀の目的の一つだったのでしょう。

[7850] Re[7839]: 神さまのうまれたとき  素人 2006/09/21(Thu) 02:47 [Reply]
>  すごい人を見てすごい物をもらったからといって、簡単(感歎)に神様と奉るのでしょうか?『お客様は神様でございます』レベルにならないかしら(笑)。
>  欠けているもの・・・『真摯な祈り』これがあってこそ、祭祀の始まりになりませんか?
書き込みが遅れてすみません。
不信心な私ですが、最近すごいと感じた写真がありました。
雷らしいのですが、非常に珍しい現象だそうです。本物の写真撮影はさらに珍しい。
球電
http://www.weatherstock.com/L07.jpg
電柱に掛かった火の玉です。
長野県黒姫で1987年に日本の学生が撮影した球電写真。
目の前で見たら、腰を抜かすかもしれません。神様はおられるのでしょう。
いつもながらの青草な写真をすみません。

[7849] Re[7847][7846][7843]: 鏡の祭祀  とみた 2006/09/20(Wed) 21:54 [Reply]
神奈備さま とみたです・

やはり師匠が居れると助かります。コメントありがとうございました。
>  天道根命は神産霊尊からの系図と素盞嗚尊からの系図とがあり、紀氏は当初は伊太祁曽神社を崇敬していたようです。
>  大和王権が力をつけて来るに従って、日前国懸神宮の太陽神を天照大神につなげていったように思います。とくに持統天皇の時代に紀朝臣家が日前神を祀るようになったようです。その頃、日前国懸神宮が今で言う一宮的な扱いを受けるようになったのかなと想像しています。
>
>  さて、初代?紀国造の天道根命は、『先代旧事本紀』では、饒速日尊の降臨の際に防衛[ふせぎまもり]として供をして一人に数えられています。天孫瓊々杵尊のお供の中にこの名は見えず、神武東征にも名は見えません。
>  
>  また、『先代旧事本紀』には、五十猛握神以下三神は神紀伊国造斎祠神とあります。

先代旧事本紀は、物部氏の家系図ですが、見方が両極で困りますね。

偽書扱いとする人と、高く評価する人と居られます。

記紀や古語拾遺などの本の寄せ集めつまり網羅的に一元化したものという見方と、

逆に旧事紀が元本で、記紀などはそこから抜粋したという見方があるようです。

[7848] 和志取神社ですが、三河国の  三川国青見評 [Url] 2006/09/20(Wed) 21:45 [Reply]
http://www.genbu.net/data/mikawa/wasitori_title.htm
http://www.city.anjo.aichi.jp/kakuka/tosyo/kyoudo/kyoudo2.htm

岡崎市西本郷町は、長谷部郷であって、鷲取郷じゃないと思うんだが。

この長谷部郷というのは、谷部郷とか長浴部里(木簡より)とか記載されていて、
木簡に長浴部直とあることから、三河国造の所在地と思われ。

安城市柿崎町和志取のほうが、古代の官道沿いで、木簡に鳥取駅と記載された場所だと思うけど。

地域間の競争意識が、真実を捻じ曲げているとしか、思えないけど。

[7847] Re[7846][7843]: 鏡の祭祀  神奈備 2006/09/20(Wed) 14:33 [Reply]
> 駆け出し三年生の素人が、大家に物申すのは気後れがしますが

長いだけで、何時までも本来の素人の神奈備です。気恥ずかしい。


> 伊太祁曾は銅鐸でしょうか?これを征服したのが天道命で、その神社が日前神社、伊勢神宮の鏡と同格。是は天孫系親派の豪族でしょう。これが紀の国造になる。

 天道根命は神産霊尊からの系図と素盞嗚尊からの系図とがあり、紀氏は当初は伊太祁曽神社を崇敬していたようです。
 大和王権が力をつけて来るに従って、日前国懸神宮の太陽神を天照大神につなげていったように思います。とくに持統天皇の時代に紀朝臣家が日前神を祀るようになったようです。その頃、日前国懸神宮が今で言う一宮的な扱いを受けるようになったのかなと想像しています。

 さて、初代?紀国造の天道根命は、『先代旧事本紀』では、饒速日尊の降臨の際に防衛[ふせぎまもり]として供をして一人に数えられています。天孫瓊々杵尊のお供の中にこの名は見えず、神武東征にも名は見えません。
 
 また、『先代旧事本紀』には、五十猛握神以下三神は神紀伊国造斎祠神とあります。
 持統紀六年に伊勢、大倭、住吉、紀伊大神に新宮(藤原宮)を造ることを告げていますが、この紀伊大神とは伊太祁曽神社なのか日前国懸神宮なのか定まっていないようです。その前の天武紀朱鳥元年には、天武天皇の病気回復を願ってでしょうが、紀伊国国懸神・飛鳥四社、住吉大神に奉幣したとあります。

 とみたさんの指摘されるように「日前神社に鏡を祀ったのは垂仁時代か、天武時代か?時代が離れていますねえ。」ですので、銅鐸と鏡との交代の現場とするのは苦しい所もありますが、名草平野に新しい者・天道根命が登場し、銅鐸祭祀の名草戸畔と交代したと考えれば、日前国懸神宮が直接銅鐸にとって替わったと言うことではなく、その象徴的存在との理解はできるのかも。
 
 紀の国の銅鐸の埋納は天道根命的人物によって行われたとすれば、この名は物部の防衛神の一人、出雲で銅鐸を埋納させた経津主神、これも物部、やはり銅鐸埋納は物部の手によったと見るのが自然かも。


> 是の天道命が、名草トベを殺したのですか。違いますね。案内しただけかな。急に青草ですみません。

 名草戸畔にとって代わったのですから、殺したと見ていいのでは。


[7846] Re[7843]: 鏡の祭祀  とみた 2006/09/20(Wed) 12:02 [Reply]
神奈備さま とみたです。

駆け出し三年生の素人が、大家に物申すのは気後れがしますが、また青草っぽい発言をします。変なところがありましたらご指摘し補筆いただけませんか。

私も王権の海の要約を、以前から眺めておりまして面白い説だと感じていました。
アメホボコに注目されていますね。アメヒボコの鉄と鏡 vs オオクニヌシの銅鐸



>  名草戸畔が敗死した場所は海南市の蜘蛛池の東脇だそうです。そこを熊野古道が通っています。


>
>  『王権の海』(千田稔著)に、日前国懸神宮の近くの太田黒田遺跡から銅鐸のかけらが出ていることを取り上げて、神宮で祀る神鏡や日矛の祭祀が銅鐸の祭祀に取って代わった現場ではなかろうか、とされています。

日前神社の鏡、伊勢神宮の鏡とは同格。

伊太祁曾は銅鐸でしょうか?これを征服したのが天道命で、その神社が日前神社、伊勢神宮の鏡と同格。是は天孫系親派の豪族でしょう。これが紀の国造になる。

日前神社に鏡を祀ったのは垂仁時代か、天武時代か?時代が離れていますねえ。
ヤタカラスが天武の壬申の乱と関係があるのでしたら、天武でしょうが?
伊勢神宮の鏡は倭姫が、笠縫から垂仁の頃に運んだことになっているが、実際は壬申の乱で天武側に伊勢が味方したことで神宮の神格が高まっている。

是の天道命が、名草トベを殺したのですか。違いますね。案内しただけかな。急に青草ですみません。

名草ヒコがこれとどうつながっているか。名草ヒコは、紀氏と丹生氏の共通の祖先。




>
>  『王権の海』には、前段があって、播磨の伊和大神に関係の深い土地から銅鐸がでていること、また出雲での大量の銅鐸銅剣銅矛の埋納と風土記の神財の郷の話とを組み合わせて、これらはオオナモチ信仰に関連していることを指摘しています。
>
>  銅鐸銅剣銅矛に対するものとして鏡の祭祀があり、これを持ち込んだのは天日矛とし、八前の神器のうちに瀛津鏡、辺津鏡があり、鏡祭祀の代表として、例えば播磨での戦いなどを指摘しています。
>  面白いのは、出雲の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の中間に大黒山があり、ここに兵主神社があること、兵主神社は天日矛に関わることをを指摘、大量の銅器を埋納させた力は天日矛のグループだと見ています。

アメノヒボコの ヒボコは日槍とか日矛で軍神ですね。
兵主も軍神。

兵主は、秦の始皇帝が山東半島の泰山の麓、ろう耶に近い土地で封禅の儀式を行った祀りに加わった軍神です。ろう耶は紀元前、5世紀 呉越の戦いで越が勝利して都を移した地でもあります。兵主は蚩尤という伝説上の民で、これはミャオ(苗族)です。この民が呉越=江南から流れてきたような気がしているんです。

千田稔さんはアメノヒボコ 江南出身説で、ろう耶を経由して倭国にきたという説と記憶しています。

播磨の伊和神社については、民俗学の谷川健一さんが、播磨風土記から面白いことを推論されています。
伊和は穴粟郡岩鍋にあり、伊和=岩とは硬いもの、金属と関係があるか、或いは天岩楠船という丸木舟と関係があるか。

伊和の神はアメノヒボコと絶えず土地を争った。
鉄資源が欲しかったのでしょう。




>
>

[7845] Re[7843]: 鏡の祭祀  恋川亭 2006/09/20(Wed) 01:34 [Reply]
> 廣瀬和雄さん、根の太い印象の方のようですね。
>  古代を偲ぶ会 会場:アピオ大阪 13時半〜15時半
> 2006 10 21 国立歴史民俗博物館教授 廣瀬和雄 前方後円形墳墓と前方後円形墳

(仕事の都合もありますが)できるだけ参加したいなと思います。
『偲ぶ』という言葉に愛情があるじゃ〜ないですか 。

[7844] Re[7842][7840]: けがのあとさき  恋川亭 2006/09/20(Wed) 01:26 [Reply]
>玄松子さん
> 禁止じゃありませんよ。
> 僕が参拝したときは、安いカメラしかなかったので仕方ないのです。今ならもっと明るく(上手に)撮れるでしょう。

有り難うございます。いってきます。

> 大島の北側に、沖津宮遥拝所がありますが1〜2Kmほど歩きます。車が手配できれば良いですが、歩けますか?

トホホ・・・ですね。ひと仕事をおえてからですし、亀の歩きでは時間的にもきついです。
気持ちだけでも、ヨーハイしてきます。

[7843] 鏡の祭祀  神奈備 2006/09/19(Tue) 21:41 [Reply]
 名草戸畔が敗死した場所は海南市の蜘蛛池の東脇だそうです。そこを熊野古道が通っています。

 『王権の海』(千田稔著)に、日前国懸神宮の近くの太田黒田遺跡から銅鐸のかけらが出ていることを取り上げて、神宮で祀る神鏡や日矛の祭祀が銅鐸の祭祀に取って代わった現場ではなかろうか、とされています。

 『王権の海』には、前段があって、播磨の伊和大神に関係の深い土地から銅鐸がでていること、また出雲での大量の銅鐸銅剣銅矛の埋納と風土記の神財の郷の話とを組み合わせて、これらはオオナモチ信仰に関連していることを指摘しています。

 銅鐸銅剣銅矛に対するものとして鏡の祭祀があり、これを持ち込んだのは天日矛とし、八前の神器のうちに瀛津鏡、辺津鏡があり、鏡祭祀の代表として、例えば播磨での戦いなどを指摘しています。
 面白いのは、出雲の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の中間に大黒山があり、ここに兵主神社があること、兵主神社は天日矛に関わることをを指摘、大量の銅器を埋納させた力は天日矛のグループだと見ています。

 それゆえに、巻向の都市の南東の三輪山、北東の大和坐大国魂神社の間に割り込んだ形で大兵主神社が鎮座しているのは、邪馬台国が祀ったものとしています。

 小生は出雲の国譲りは経津主神が中心となっていることから、物部氏が行ったものと見ていましたが、千田先生とは少々違うようです。


廣瀬和雄さん、根の太い印象の方のようですね。
 古代を偲ぶ会 会場:アピオ大阪 13時半〜15時半
2006 10 21 国立歴史民俗博物館教授 廣瀬和雄 前方後円形墳墓と前方後円形墳
 どなたでも参加できるようです。   

[7842] Re[7840]: けがのあとさき  玄松子 2006/09/19(Tue) 01:00 [Reply]
> >玄松子さん  中津宮の天真奈井は、かなり暗いのでしょうか?フラッシュ禁止?

禁止じゃありませんよ。
僕が参拝したときは、安いカメラしかなかったので仕方ないのです。今ならもっと明るく(上手に)撮れるでしょう。

デジカメは進歩しているので、昔の写真を見ると恥ずかしくなりますね。
もう一度撮り直しに行きたい場所が多々ありますが、一度も行っていない場所のほうが多いので。

大島の北側に、沖津宮遥拝所がありますが1〜2Kmほど歩きます。車が手配できれば良いですが、歩けますか?

[7841] 小栗サミット御案内                MADOKA 2006/09/19(Tue) 00:58 [Reply]
『小栗伝承文化交流会』
第12回「をぐりサミット」
小栗判官・照手姫――ゆかりの藤沢
……よみがえれ中世のロマン…
2006年10月14日(土)・15日(日)主催 藤沢をぐりの会
後援 をぐり連合フォーラム)
1.小栗伝説
 応永30年(1423)鎌倉公方持氏は、京都扶持衆(将軍家の扶持うぃお受けた武士)の小栗満重を討伐した。室町時代末に成立した軍記物『鎌倉大草紙』に、満重の子小次郎は常陸国小栗から忍び出て、相模国の権現堂で危うく強盗に毒殺されるところを遊女照姫に助けられ、藤沢道場へ馳せ入り、上人の計らいで時衆とともに三河国へ逃げ、のち強盗を討った話が載せられている。これがのちに小栗判官・照手姫を主人公とする説経浄瑠璃「おぐり判官」伝説として完成する。主な舞台は小栗と藤沢道場(遊行寺)の付近である。道場の背景にある俣野(横浜市戸塚区俣野・東俣野、藤沢市西俣野)地区には、小栗伝説に由来する地名が多く伝えられている。西俣野の閻魔堂(法王院)には「小栗判官縁起絵図」があり、天保11年の火災後は花応院に移されて、大正13年ごろまで絵解きが続けられていた。昭和60年その絵解き台本が同地区史跡保存会の手で復刻された。          『藤沢の地名』日本地名研究所編 発行藤沢市より
2.趣旨および目的
 小栗判官・照手姫の物語は、「人形浄瑠璃」「歌舞伎」「説教節」「道中記」などに取り上げられ、小栗判官・照手姫は、江戸時代藤沢を語る際の一般的な固有名詞にも成っていました。
 市川猿之助のスーパー歌舞伎「オグリ」をはじめ、歌舞伎「小栗判官譚−姫競双葉絵双紙−」の久々の上演、横浜ボートシアターの仮面劇「小栗判官・照手姫」、一人芝居の中西和久の「をぐり考」、藤沢を本拠地に活躍している遊行舎の遊行かぶき「小栗判官・照手姫」、さらには世界的な舞踏家大野一雄の舞踏にも取り上げられています。
 藤沢は、「小栗」をめぐる歴史・文化・芸能の拠点ともいえる地です。市内西富には、小栗伝説の伝播に重要な役割を果たした、時宗総本山清浄光寺(遊行寺)があります。また寺内には、照手姫が小栗判官満重の菩提を弔うために、永享元年(1429)建立されたという長生院(小栗堂)があり、境内に小栗判官・照手姫・小栗十勇士の墓などがあります。西俣野の花応院には、閻魔堂(法王院)より移された「小栗判官縁起絵図」があり、年2回絵解きが行われています。また、俣野地区には、小栗伝説に由来する地名が多く伝えられています。藤沢に「小栗文化」の根を下ろすことは、将来、かけがえのない地域資産を手にすることを意味します。また、その文化を理解・継承し、次代に伝えてゆくことは、市民の重大な責務であるともいえるでしょう。小栗伝説は県内の相模原市、横浜市金沢区をはじめ、茨城県、静岡県、愛知県、岐阜県、大阪府、和歌山県など全国に広がっています。1991年には[をぐり連合(フォーラム)]が発足し、小栗伝説の残る地で「をぐりサミット」が開催され、現在までに11回と回を重ね、各地に「小栗」ブームの切っ掛けを作ってきました。藤沢で、「をぐりサミット」を開催することは、全国の小栗関係者にとって、長年の夢でした。現在、藤沢商工会議所を中心に、遊行寺の文化・観光資源を考える事を目的に会が発足し、遊行寺に伝わる盆踊りの原点の一つといわれている「踊り念仏」にちなむ「全国盆踊り大会」の開催準備が進められています。小栗判官・照手姫もまた、藤沢に伝わる大切な文化財です。
 2006年の秋、『小栗伝承文化交流会』としての「をぐりサミット」藤沢大会を開催し、藤沢における“小栗文化の継承・発展”の手助けの一環に成る事を、目的とします。
 なお、『小栗伝承文化交流会』の一部は『過去から未来へ広がる藤沢の“みち”と“ひと”』の一環とし、藤沢市教育委員会が共催する予定です。
3.主催  藤沢をぐりの会
4.後援  [をぐり連合(フォーラム)]
5.時期  2006年(平成18年)10月14日(土)・15日(日)
6.会場  藤沢公民館・花応院など
7.内容  10月14日(土)
午後 記念講演
「神奈川に伝えられた小栗伝説」
平野 雅道(藤沢をぐりの会・藤沢宿を語る会代表)

「『小栗判官・照手姫』の物語が伝えて来たもの」松原 右樹(民俗学者)
記念公演『遊行座・ひとり語り
(藤沢公民館)
遊行寺・長生院史跡見学
10月15日(日)
午前 小栗シンポジュウム(藤沢公民館)パネル討論「各地に残る小栗伝承」
         パネラ
篠崎 隆(シノ映像代表)
「筑西市(協和町)に残る小栗伝説」
堤 正樹(をぐり連合事務局)「をぐり連合についてと美濃に残る小栗伝説」
    松原 右樹(民俗学者)
 「大阪に残る小栗街道と小栗伝説
安井 理夫(湯の峰温泉小栗会会長・紀の人賞『かたりべ』受賞
「小栗再生の地湯の峰に残る小栗伝
平野 雅道(藤沢をぐりの会幹事・藤沢宿を語る会代表「藤沢に伝わる小栗伝説」
午後 西俣野小栗関連史跡探        絵解き見学(花応院)
8.資料費  500円 
▼第12回「をぐりサミット」
事務局:〒252-0804藤沢市湘南台3-29-15村上清方 藤沢をぐりの会/Fax0466-44-2652代表幹事:鈴木暁生 〒252-0826藤沢市宮原3447-3 /Fax0466-48-5118

小栗といえばオグリキャップ!!
そうよ小栗判官は馬術の家柄
よみがえった証に馬術披露を小栗判官がするところが文楽の見せ場!私はいけない。行った人いたら報告待つ! 恋川亭さん元気そうでよかった!\(^0^)/

[7840] けがのあとさき  恋川亭 2006/09/19(Tue) 00:40 [Reply]
♪業務連絡〜♪業務連絡〜 てなわけではありませんが、連続投稿失礼いたします。

(1)先々週、怪我する前、十数年ぶりに信州塩尻に行く出張が予定されたんですね。これ幸いに、お諏訪様へ周ってこようと企んだンですが、出張の2日前に階段から落ちました。仕事はなんとか根性でこなしたのですが、もちろんお諏訪様にお参りする余力はなく泣く泣く帰ってきました。ただ、塩尻の平出遺跡へはタクシーで回って、しっかり収穫はあり、後日報告。・・・でも、きつい足止めがかかったものです。このところ忙しさにかまけて、とんとお参りしてませんから。お叱りかナ(お諏訪さまからじゃなくて身内から)。

(2)さて今週は大分出張です。うまくいけば宇佐様にお参りをと企み中。JR宇佐駅からはタクシーなんでしょうか?

(3)さらに小倉1泊で、大島へ予定です。宗像大社の辺津宮と中津宮のお参りを企み中(仕事は大島なんですけどね)。JR時刻表とフェリー時刻表をにらんでいるのですが、仕事が絡むとスケジュール難儀ですねぇ。

>玄松子さん  中津宮の天真奈井は、かなり暗いのでしょうか?フラッシュ禁止?

[7839] 神さまのうまれたとき  恋川亭 2006/09/18(Mon) 23:49 [Reply]
神奈備先生、有り難うございます。南港の駅の階段で落ちたの。左半身を強く打ったので、濃い方々からは「怪談」だと(泣笑)。この3日で痛みはだいぶ引いたのですが、歩行は10mごとに休憩必要です。冬場はこたえるかも(TT)
==========================

 さて以前、『神格化』という言葉がよく出ていた頃、噛みつこうとしていたのですが、例によって時間がなく尻すぼみになりました。私が主張したかったのは、

・この『神格化』という言葉は、現代人側の(勝手な)解釈ではないのか。
・さも学問的、合理的に説明しているかのように語っているが、伝統的な祭祀の核心に迫れるほどの真理といえるのか。
・本物の『祀り』の前では、『神格化』概念なんて薄っぺらな非現実でしかないのでは。
・『みたて』とか『象徴』は祭祀に頻出する重要な要素ですが、『神格化』とは意味あいの異なるものだ。

という問いかけでした。(あくまで私自信の考えです。噛みつき、やね↑)
 『神格化』という用語に、リアルな祭祀が感じられないのです。古代史の宗教、祭祀(それらは政治や生活と不可分でもあるのですが)を考えるときに、もっとリアルに考えましょうよ、という気持ちでもあります。祭祀とは、もっと高く広く、奥の深いものです。外へ出て現実と触れ合っていただきたいと願っています。

 私は、神さまは生まれたり造ったりするのではなく、『そこ』へ、おわし(ご降臨)まして頂くものと考えています。その『そこ』が、くにや神奈備山であったり、磐座、滝、禁足地、神社、祠、神棚、神器、巫覡、あるいは器物なのかもしれません。

 人類の精神世界が数千年前すでに高度に発達していたことは事実です。日本の古代祭祀遺跡遺物も世界に誇れるものです。それなのに、身近な古代祭祀を語るときには、まるで兼業神主がアルバイトで地鎮祭をするみたいな話ししか出ないのでは、情けないですヨ。
 すごい人を見てすごい物をもらったからといって、簡単(感歎)に神様と奉るのでしょうか?『お客様は神様でございます』レベルにならないかしら(笑)。
 欠けているもの・・・『真摯な祈り』これがあってこそ、祭祀の始まりになりませんか?
 何十年も前の感性で、長屋のご隠居の講釈みたいな俗解を重ねても面白くない。歴史学、考古学だけでなく民俗学や人類学なども、一般人向けの新しい本がたくさん出ているのですから。
 それらの新情報とみなさんご自身の経験から抽出された新解釈を組み合わせたら面白いナと思っています。古代史ファンに欠けているもの、『リアル祭祀』の研究ですな。この掲示板でもっと研鑚させて頂きましょうヨ!

[7838] Re[7833]: おひさです  神奈備 2006/09/18(Mon) 22:39 [Reply]
恋川亭さん、ご無沙汰です。怪我?は、どんな具合ですか。

久々の香具師節、すっきりします。
広瀬さんの本を探しに行ったのですが、見あたらないようでした。
「前方後円墳国家」というのがありました。

倭亜布さん、HP紹介抜きでかけませんか?
この二つ、HP紹介は無駄だと思います。悪い癖ですね。

[7837] あのね  恋川亭 2006/09/18(Mon) 21:45 [Reply]
『はしり』程度にしか捉えられないことに、ぶっとんだんですヨ。
おわかりか?おかわりか?

[7836] RE[7833] おひさです 2  倭亜布 2006/09/18(Mon) 19:49 [Reply]

「銅鐸が神体の佐ナ神社(但馬)や猿投神社(三河)から間違いなさそうな感じです。」
http://homepage1.nifty.com/moritaya/atogaki.html

[7835] RE[7833] おひさです    倭亜布 2006/09/18(Mon) 19:21 [Reply]
RE[7833] おひさです  
<「以前にあった『銅鐸埋納=神社のはしり』説にも私はぶっとびました(笑)。」
 「ごとびき岩の下からは弥生時代の銅鐸が発見されている。社殿から新宮の町や熊野灘が一望できる絶景の場所でもある。」
http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/kinki/kumano/kodou.htm

[7834] Re[7833]: おひさです  やまし [Url] 2006/09/18(Mon) 06:46 [Reply]
>  私は魏の使者が来る300年以上も前から、倭国には中国との交易の積み重ねがあって、かの国の情報知識は十分備えていたと思えるのです。もちろん「明光鎧」を見た人は『凄いなー!』と感心したことでしょう。

この話は青草に引っ越しましたが、ちょっとレスさせてください。
現代人の私も曹操の衣装(宋代?)を見て、まずは「すごいなー」と思いました。
それから、鏡が鎧に取り付けられた例はあるのか調べたわけです。

中国との関係は北九州と他の地域では事情が異なると思うのです。
私が邪馬台国=記紀の舞台に比定している東四国では、
ちょうど3世紀初頭に舶載鏡が副葬されるようになります。
2世紀後半末期あたりにこの地域は、楽浪に使者を派遣したと
考えられています。

[7833] おひさです  恋川亭 2006/09/18(Mon) 01:39 [Reply]
 ご無沙汰致しました。ここ数ヶ月、ハードワークゆえROMすらままならない状態が続きまして、ご挨拶もなく失礼いたしました。怪我と台風で久々の連休が取れた次第なのです。

 面白い話題で盛りあがってますね〜。明光鎧ですか!魏の使者の姿に驚く倭国の人々。天地の交叉点で先導される神様のイメージに重ならないのが残念です。
 さて年表を見ると、魏の使者が来たとされるのは西暦240年頃(3世紀半ば)です。紀元前後には、百余国に分かれた倭人の一部の国が前漢の楽浪郡に朝貢(漢書地理志)していたことを思いだすと、200年以上も後の話しですね。

 弥生時代前期末もしくは中期初頭(紀元前4〜5世紀)から、北部九州の首長墓には副葬品として朝鮮半島南部起源の青銅器などが出土するそうですが、弥生時代中期後半(紀元前1世紀)からは中国王朝からもたらされた前漢鏡へと中心が移るそうです。
 その後は、中国指向へと偏重して、南部朝鮮の首長墓の副葬品とは内容が異なって発展していくようです。それなりの国際感覚は醸成していったのね。(参考文献「日本人の心性を探る」後述)

 私は魏の使者が来る300年以上も前から、倭国には中国との交易の積み重ねがあって、かの国の情報知識は十分備えていたと思えるのです。もちろん「明光鎧」を見た人は『凄いなー!』と感心したことでしょう。

 でも、当時の倭国の人々が野蛮で未開の田舎の原始人と想像するのはチョットいやカナリ違う気がします。文明や国ということの定義にもよりますが、古代において(さえ既に)倭国は潜在的な国力をもった大国のひとつだったのではないでしょうか。(ある種の洗脳が解けていないとトンデモに映るだろうナァ)

以前にあった『名草トベ=田舎の酋長』説にも私はぶっとびました(笑)。
(そんな程度なら、わざわざ東征伝説に盛り込まへんて)

以前にあった『銅鐸埋納=神社のはしり』説にも私はぶっとびました(笑)。
(古代人の精神世界を現代人レベルにまで堕したら見えへんて)

 古代においても人は、我々同様に普通で当り前で実直です。畏怖したからといって、なんでもかんでも神様にするわけではありません。やはり、神と祀るそれだけのいわれがあるのではないでしょうか。

 魏の使者が西暦240年、古事記712年、日本書紀720年。その間ざっと480年。仮に今から480年前というと室町幕府後期の戦国時代へ向う頃かな?口承伝説が十分残っていてもおかしくないスパンですよねぇ。(まあ、人は忘れやすいものですから。・・・意味深な笑)
=======================

 佐倉の歴博はQUBOさんがお詳しいと思いますが、かつて私は、秦郁彦先生の本(『現代史の対決』)を読んで、腐れサヨクが税金で安住している巣窟かと思っていたのですね。しかし、今はHPをみると、秦さんが糾弾したご仁もいないようだし、院生や研究者だけでなく一般人向けにも学問の魅力をガンガン宣伝していますね。

 私は中学高校の歴史は寝ていた理系ですので専門ではありませんが、考古学者の広瀬先生(今は総研大教授)の著書には、大ファンなのです。面識などありませんが、市井の一ファンとして、歴博とともに以下ご紹介します。
 (歴史に興味を持つ若い人達よ。妄想などと比べ物にならない真のロマンが輝いている、そんな素晴らしい施設(総研大/歴博)があるのですよ。ぜひとも、チャレンジしてみてはいかがですか?)

総研大・日本歴史研究専攻/国立歴史民俗博物館
『歴史研究の最前線 vo.6 日本人の心性を探る』
編集:広瀬和雄教授、販売:吉川弘文館
ISBN4-642-07963-7 定価:900円(安い!)

本号の主な内容:
 「古代人の心性を探る」(広瀬和雄)
  ―弥生・古墳時代の首長墓からのアプローチ
 「しぐさと呪い」(常光徹)
 「研究展示から見えてくるもの」(新谷尚紀)
  ―日本の神々と祭り 神社とは何か? より

 3番目の新谷先生の章は、歴博で開催された企画展示「日本の神々と祭り 神社とは何か?」(3月21日〜5月7日)において、『・・・展示の実践の中から見えてきた新しい知見の一部を紹介・・・』であり、出雲大社、厳島神社、祇園八坂神社について『神社の多面性に着目した研究成果の一部』が記述されています。もっと詳細には、この企画の展示図録や研究報告が別途刊行される予定だそうですので、要期待やね。

〔関連HP〕
総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本歴史研究専攻
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/souken/index.html
国立歴史民俗博物館
http://www.rekihaku.ac.jp/index.html
人間文化研究機構
http://www.nihu.jp/
〔ご参考〕広瀬和雄先生のご著書↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/ichiran/hirose.html
(この先生の著作、一度は目を通してほしいな。熱いデ↑)

[7832] Re[7831][7822]: 三国時代の明光鎧  やまし [Url] 2006/09/17(Sun) 22:28 [Reply]
> ところで、
> この部分、「眼が輝く」という意味なのだろうか。
>
> ネットの翻訳サイトで試したところ、「まばゆい明光を出す」という意味になりましたが。
> 太陽光が反射して、目に眩しいということじゃないでしょうか。(→中国語に詳しい人へ)

ご指摘ありがとうございました。
正しくは「なおこの鎧は、中国人から見ても太陽のように
まぶしかったようです。」ですね。

私が主張していることは明らかに「青草」の領域ということは、
わかっておりますのでそうします。

そういえば、HPの写真がupされていないことに、今日気づきました。

[7831] Re[7822]: 三国時代の明光鎧  玄松子 2006/09/17(Sun) 18:04 [Reply]
ところで、

> なおこの鎧は、中国人から見ても眼が輝くように見えたようです。
> 將會發出耀眼的「明光」,故名。

この部分、「眼が輝く」という意味なのだろうか。

ネットの翻訳サイトで試したところ、「まばゆい明光を出す」という意味になりましたが。
太陽光が反射して、目に眩しいということじゃないでしょうか。(→中国語に詳しい人へ)

[7830] Re[7828]: 魏使  nick 2006/09/17(Sun) 14:18 [Reply]
あちこち参考サイトをリンクされているので
拝見していますが、台風と同じでぐるぐる廻ってます。

この掲示板へのポストはいずれかの出典を掲示されないと。。
そうでないポストは「青草」でしょうか。
それなら青草掲示板では大歓迎でしょうか。

台風13号は、また長崎方面を狙って北上しています。
ご留意を。

[7829] Re[7826][7824][7823][7813][7812]: 倭人伝  神奈備 2006/09/17(Sun) 10:43 [Reply]
 殆ど説得力のない文章を並べるのでしたら、伊都国に来た魏使を見てびっくり、「これは神だー!」と叫んだのが、倭国に響き轟いたのだと言ってもらった方が話は速いですね。

 やましさんの件はもはや青草の領域ですね。

[7828] 魏使  玄松子 2006/09/17(Sun) 08:44 [Reply]
話がアチコチに飛んで発散しているようですが、

魏使が、猿田彦神とする根拠は、魏使が着用していたかもしれない鎧が、
記紀の猿田彦神の記述と一部似ていると解釈できるという、その一点だけ、ということ? (違うかもしれない)

しかも、胸の飾りを目に見立てることが出来るという、想像とこじつけを重ねた論としか思えないのですが。

そもそもの疑問は、単なる使いが、日本全国で信奉される神となる理由が不明だということ。
たとえば、その魏使が土着して、ある氏族の始祖となったとか、各地の開拓に貢献したとか、そういう神となる過程を示す根拠があるのですか。

[7827] 王様と私  QUBO 2006/09/16(Sat) 23:52 [Reply]
なんだか誤解、曲解があるようなので、言わずもがなの一言
私が皇帝ならば、王は自動的に部下、目下、配下
何でもいいけど身分は下なんです。

いささか長い引用です(ウィキペディア:皇帝 の部分)
中華思想では皇帝は地上の支配者であり、周辺諸国の君主よりも上に立つ
ものとされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を
慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するとい
う形をとった。

冊封の『封』は封建時代の『封』
江戸時代に藩主になるには、将軍が認めなければ
なれなかったんですよ。
将軍ー藩主 皇帝ー王
伊達政宗は秀吉が認めたから仙台藩の藩主でいられる。
だから『王』号それ自体が皇帝の配下であることになります。

[7826] Re[7824][7823][7813][7812]: 倭人伝  やまし [Url] 2006/09/16(Sat) 22:55 [Reply]
>  魏使は耶馬台国にまでやって来たのか?
>
> 来ていない。

240年の魏使の梯儁や247年の魏使の張政らが2人とも、邪馬台国に
どうしても行きたくなくて、部下らと口裏合わせをしたとするのでしょうか。
しかし、伊声耆掖邪狗らは、献上品をもって邪馬台国と魏を
2往復しているわけだし、そこで実は来ていなかったと密告されても
まずいし、張政は難升米と壱与に檄文をつくったと具体的な行動を
述べているわけだし、皇帝の命令に背いてまで行きたくないとするのは
あまり現実的ではないと思います。
二人の魏使とも帯方郡という当時の激戦区の武官ですから、修羅場は
くぐっていると考えてよいと思います。何がいやで行きたくないの
でしょう?

> 1.耶馬台国への距離は里数ではなく、日数表示となっている。その頃の倭人には距離を測る単位を日数などしか持っていなかった。魏使は倭人からの伝聞で報告した。

1.日数での表示は、それまでの航海方法と異なっているからだと思います。
末盧−伊都が陸行だとすると、どうしても船を乗り換えねばなりません。
日本の船を用いたとすると、瀬戸内海の潮流を利用したほうが早いので、
航海方法が異なってしまったというのが私の推測です。
潮待ちに時間がかかるので、郡使は常にここで駐まる必要があったという
解釈もできます。なお、榎氏や高橋善太郎氏が述べられるように
「水行十日陸行一月」は「水行ならば十日、陸行ならば一月」
が標準的な解釈です。そうするとさらに、潮流の利用によって、
このアンバランスの理由も解釈できます。

> 2.女王国の傍らの国は遠絶であるとする。そうすれば女王国も遠絶と言うことになる。(塚口義信氏講演から)

2 これはどこから遠絶なのかという解釈問題ですね。
「女王國より以北はその戸数・道里は略載することができるが、
其余の旁國は遠絶にして詳らかにすることができない。」
とある所ですから、戸数・道里を記している邪馬台国は、
もちろん其余の旁國ではないですし、遠絶であるかどうか
判断ができません。邪馬台国の中心拠点から旁國が遠絶
ということなのかもしれません。

[7825] 親魏倭王の奇妙さ  やまし [Url] 2006/09/16(Sat) 22:24 [Reply]
私が考えていることは、金文京氏「三国志の世界」p.346とほぼ同じですので、
少し長いですが引用します。

「卑弥呼や大月氏王がもらった親魏王という呼称は、中国史全体から見れば
きわめて奇妙なものであった。たとえば「漢委奴国王」というのは、漢に服
従する委(倭)奴国王という意味で、これが中国的秩序からいってのあるべ
き称号である。これに対して親魏というのは、魏に親しい、つまり魏とは一
応別の存在というニュアンスであり、相手の独立をある程度、認めたことに
なってしまう。親魏という呼称は、後漢時期に一部の周辺国に親漢候の称号
を贈ったのにはじまり、晋でも親晋王の例があるが、中国史全体からみれば、
この時代のみに存在した異例の称号である。それはやはり中国自体が三つに
分裂し、朝貢国獲得のために激しい争奪戦を繰り広げた時代の産物であった
ろう。
二帝並尊と親魏王は中国の中か外かのちがいはあるにせよ、ともに他国の存
在と独立を認めようとする現実的な思考の産物である。しかしそれは正統論
の立場とは決して相容れないものであった。そしてその後の歴史を動かした
のは正統論の理念であって、二帝並尊、親魏王的な発想は、歴史の舞台から
姿を消したのである。」

[7824] Re[7823][7813][7812]: 倭人伝  神奈備 2006/09/16(Sat) 22:22 [Reply]
 魏使は耶馬台国にまでやって来たのか?

来ていない。
1.耶馬台国への距離は里数ではなく、日数表示となっている。その頃の倭人には距離を測る単位を日数などしか持っていなかった。魏使は倭人からの伝聞で報告した。

2.女王国の傍らの国は遠絶であるとする。そうすれば女王国も遠絶と言うことになる。(塚口義信氏講演から)

 耶馬台国に来ていない魏使をして、対面したのは一大率。彼の報告が「凄い恰好だった。目はこんなに、顔はこんなに、服装はこうで・・」と聞くだけで、神のイメージはわいたのかな。

[7823] Re[7813][7812]: 倭人伝  やまし [Url] 2006/09/16(Sat) 22:09 [Reply]
> > 「親魏倭王」は、倭を独立国として扱っていて、決して中華思想とはいえません。
>
>  米から「親米日本国総理大臣」と言う称号を小泉さんがもらえば、彼は単純に喜ぶかもしれませんが、私なんかは独立国総理に対する無礼な行為と思います。
>  

その当時(弥生末期〜古墳前期)の状況を史書や遺物から
解釈する他ないのですが、魏書によると卑弥呼やその他の
派遣された人々は金印や銀印を受け取ったようです。
また日本でも、墳墓における鏡の副葬の状況から判断すると、
中国製の鏡を大事にしていたようです。単に出来の違いかも
しれませんが、少なくとも技術的に敬意を払うところが
あったのでしょう。

「親米・・・」のお話は、私はそれほど親米という
わけでもないですが、無礼とは思いませんし、
受け取ったほうがよいと考えるでしょうね。
少なくとも米国が日本をあからさまに占領する気は
なさそうですし、味方は多いほうがよいという政治
判断からですけど。
物理的には、米国は大国であり、相対的に日本が小国で
あることは、ほとんどの国が肯定するでしょう。
そういった金印ですから、拒むというのはちょっと。

[7822] 三国時代の明光鎧  やまし [Url] 2006/09/16(Sat) 22:02 [Reply]
呉主伝第2(孫権伝)に曹丕(187 - 226)が孫権に明光鎧を送った
記述があるようです。240年の魏使の梯儁や247年の魏使の張政
は比較的高位の武官なのですから、当時その鎧を身に着けていても
それほど妙ではないでしょう。
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50204224.html

なおこの鎧は、中国人から見ても眼が輝くように見えたようです。

南北朝時期明光鎧(世界古代鎧甲大全)
魏晉北朝時期的鎧甲主要有甬袖鎧兩、襠鎧和明光鎧。
「明光鎧」一詞的來源,據説與胸前和背後的圓護有關。
因為這種圓護大多以銅鐵等金屬製成,並且打磨的極光,
頗似鏡子。在戰場上穿明光鎧,由於太陽的照射,將會發
出耀眼的「明光」,故名。
http://www.naobaohk.com/forum/viewthread.php?tid=1925&extra=page%3D1

魏使=猿田彦説のお話です。念のため
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/saruta.html

[7820] Re[7819]: 加牟奈備さん、  神奈備 2006/09/15(Fri) 19:59 [Reply]
 理訓許段神社の論社に尾崎神社があります。祭神はウカノミタマとなっているようですが、『白鳥伝説』(谷川健一著)に、リクは上とか高いの意だそうで、大三元さんの考察と同じです。
http://www.dai3gen.net/kitakami.htm#rikukota

 『白鳥伝説』ではウカノミタマのウカをアイヌ語でやはり越えてとか上にの意味があり、リクコタ神と同じような意味だとしています。
東北地方でのウカノミタマを単なる稲荷の神と考えては危険としています。傾聴に値する見解だと思います。

 理訓許段神社のもう一つの論社は氷上神社ですが、この氷上も日の神、日高見かも知れないとしています。
 そうしますと、ひょっとしたら生駒西の日下から延々と地名が運ばれていったのかも。運んだのは、物部と蝦夷。


 所で、ここの掲示板では素直にされたらどうでしょうか。人をなめたように聞こえる発言は慎んで下さい。


[7819] 加牟奈備さん、  三川国青見評 [Url] 2006/09/15(Fri) 19:07 [Reply]
アドバイスありがとうございます、参考にします。

[7818] 玄松子さん  三川国青見評 [Url] 2006/09/15(Fri) 18:51 [Reply]
返信ありがとうございます。

岡崎市の式内社の主張を仮に鵜呑みにすると、岡崎市には、碧海郡の一部しかないのに、式内社5という異常事態に、額田郡が2ですからねえ。

さらに、安城市ゼロ、知立市の知立神社1、豊田市の碧海郡域ゼロ。

これでは、まるで、岡崎市が碧海郡とでもいわんばかりです。

そこで、岡崎市の主張を是正すると、

安城市3、知立市1、豊田市1(他に豊田市は加茂郡が7)、岡崎市1(他に岡崎市は額田郡が2)と、かなり正常化されます。

安城市の式内社はいずれも、古代集落・駅家などに近いところです。

知立神社と、安城市境に近い岡崎市域の酒人神社は、ライバルなしで、ほぼ確定。

残りの4枠に争いが、岡崎市 VS 安城市・豊田市。

延喜式の時代に、岡崎市が繁栄していた事実は、ないんだけどなあ。
式内社=官社を、岡崎市は集落の神社とすり替えているんじゃないかと勘ぐる。

岡崎市の式内社候補の3つが、碧海郡域の端っこであり、古代において、碧海郡であったかどうか不明だ。ましてや、矢作川東岸は、中心であった西岸ではない。

なんで、三河国ってこうなんだろ。

[7817] 比蘇山古墳=桜井神社  三川国青見評 [Url] 2006/09/15(Fri) 16:04 [Reply]
比蘇山古墳
 上に桜井神社本殿が建っていて正面から見ると古墳とはわからない
 が背後は方墳状の地形が残っている。前方後方墳と言うことだが
  確認されたわけではないようだ。このすぐ西側に山伏塚古墳がある。
http://www.george24.com/~obito0/anzyou.html
>>>>>>>>>>>>>>
比蘇山古墳/桜井神社本殿の鎮座する丘が古墳と言われていますが、調査がまたれます。

比蘇の語源は、比蘇山古墳=桜井神社本殿ということのようです。

[7816] Re[7814]: 桜井神社  玄松子 2006/09/15(Fri) 14:47 [Reply]
> 桜井神社が、式内社の比蘇天神との明確な証拠は、わかりませんが、
> 少なくともこの長い参道だけでも違うし、境内もなかなかです。

「長い参道だけでも違うし」とは、 何が違うのでしょうか。
「境内もなかなか」だと、どうだというのでしょうか。
式内社だというのでしょうか。

> 桜井という地名は、7世紀後半の評制度下の木簡で確認できる地名だし。

地名が古いと、どうだというのでしょうか。
式内社だというのでしょうか。

[7815] Re[7810]独立国  QUBO 2006/09/15(Fri) 12:35 [Reply]
> 「親魏倭王」は、倭を独立国として扱っていて、
> 決して中華思想とはいえません。
> これは、中国の外国に対する態度ではとても珍しいのです。

独立国??あはは 国家論をするつもりはありませんが。
親○○と言う称号は確かに珍しい しかし柵封ですよ。
柵封体制の中に入り王の称号をもらって、始めて『王』を認める
つまりは家来
それを嫌うと日出処天子となるわけです。
対面の形式は叩頭『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC
臣下の礼ですな。

[7814] 桜井神社  三川国青見評 [Url] 2006/09/15(Fri) 12:28 [Reply]
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.4.14.026N34.56.9.439&ZM=4&SN=1&C1=23&A1=%B0%A6%C3%CE%B8%A9&M1=E136.54.34.210N35.10.36.210&C2=&A2=&M2=&C3=&A3=&M3=&C4=&A4=&M4=&C5=&A5=&M5=&C6=&A6=&M6=

桜井神社が、式内社の比蘇天神との明確な証拠は、わかりませんが、
少なくともこの長い参道だけでも違うし、境内もなかなかです。

桜井という地名は、7世紀後半の評制度下の木簡で確認できる地名だし。

[7813] Re[7812]: 倭人伝  神奈備 2006/09/15(Fri) 10:05 [Reply]
卑弥呼=比売王
> 倭音 pi-mi-ha 魏音 pi-miei-hag

アイヌ語のピリカに残っているのかな。



> 「親魏倭王」は、倭を独立国として扱っていて、決して中華思想とはいえません。

 米から「親米日本国総理大臣」と言う称号を小泉さんがもらえば、彼は単純に喜ぶかもしれませんが、私なんかは独立国総理に対する無礼な行為と思います。
 
> 中華思想
 「日本の指導者が賢明な判断をして日中間の障害を取り除けば、対話が進み諸問題が良い方向に進む。」てな意味のことをあの国の指導者の一人が言ったらしいですが、靖国参拝をやめればとの内政干渉であり、さらに次の障壁を設けてくるだろうし、甘く見て尖閣諸島の領有権は一層主張するだろうし、境界のガスはチュウチュウと吸いまくるでしょう。

[7812] 倭人伝  やまし [Url] 2006/09/14(Thu) 21:38 [Reply]
 ここの方は記紀はよく読んでおられるかもしれませんので、
倭人伝の記述を記しておきます。対応を考えるのには、
魏使=猿田彦がキーポイントになるのです。

 238年、卑弥呼が大夫難升米と次使都市牛利を帯方郡に送った。
明帝は難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を
仮に与え、ねぎらって物を賜い還すと述べた。卑弥呼には金印紫綬
を仮に与えると述べた。

 240年、建中校尉梯儁は倭王に詔をもたらし、皇帝からの賜り物
を送り届けた。(難升米・都市牛利はともに倭国に帰国)
倭王は使に因って上表文を奉り、詔恩に答謝した。(梯儁は魏に帰国)

 243年、伊声耆掖邪狗は皇帝に献上品を送り届けた。率善中郎将
の印綬を仮に与えられた。

 245年、皇帝が難升米に黄幢を仮に与えると述べた。

 247年 狗奴国とはもとより不和であった。卑弥呼は郡に載斯烏越
を郡に遣わして、狗奴国との交戦の状況を説明した。
塞曹掾史張政は詔書・黄幢をもたらし、難升米に仮に与え、檄をつくって
告諭した。(伊声耆掖邪狗はともに倭国に帰国?)
卑弥呼が死んで、大きな冢を作った。男王を立てるが国中が服さないので、
卑弥呼の宗女壱与を女王に立てると国中が平定した。張政は檄をつくって
壱与に告諭した。壱与は大夫率善中郎将掖邪狗ら20人を遣わし、張政らを
送らせた。(張政は魏に帰国)

[7811] 倭人伝の人物の詳細  やまし [Url] 2006/09/14(Thu) 21:31 [Reply]
青草のほうがいいのかもしれませんが・・・。

猿田彦大神が魏使だとすると、倭人伝に現れる人物が、
記紀の神様に対応することになります。
倭人伝の記述と記紀の記述、さらに考古学の本
(日本の古代遺跡「徳島」)をじっくり比べてもらわないと、
ちょっと分かりにくいのですが、ひとまず答えを書いておきます。
少し詳しくHPに書いてます。
系図と古墳埋葬者推定
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/keizu.html
倭人伝と記紀の詳細な対応
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/detail.html

倭人伝の人名 上古音 中古音
難升米 nan-thi∂ng-mer nan-∫i∂ng-mei
都市牛利 tag-dhi∂g-ngiog-lied to-ziei-ngi∂u-lii
載斯烏越 ts∂g-sieg-.ag-h^iuat ts∂i-sie-.o-h^iuΛt
伊声耆掖邪狗 .i∂r-thieng-dhier-diak-ngiag-kug 
.ii-∫iεng- zii-yiεk-zia-k∂u

卑弥呼=比売王
倭音 pi-mi-ha 魏音 pi-miei-hag
難升米=天之忍穂耳(天忍骨)
倭音 ama-noo-shipo-mi 魏音 ***-nan-shiong-mei
都市牛利=手力 
倭音 ta-di-ka-ra 魏音 ta-diei-g∂u-li
載斯烏越=須佐之男(素戔嗚)
倭音 su-sa-no-wot 魏音 ts∂-se-.o-huat
掖邪狗ら20人=天鈿女ら一行
伊勢瀬+阿邪訶? 
倭音 i-se-ze-a-za-ka 魏音 i-∫e-ze-yiεk-ya-k∂

弥生時代から平安中ごろまで、母音やハ行はかなり
不安定だったと考えています。

[7810] Re[7799][7792]部分否定  やまし [Url] 2006/09/14(Thu) 21:11 [Reply]
> > 音訳文字の80%が小韻の首字。…小韻の首字
> > のなかに…「意味的によくない文字」もあるということです。
>  これは、やましさんが倭・卑を卑字と思っている と読めますね。
> [7769] >>もともと「倭」や「卑」は卑字という意味合いはありません。
> 矛盾してます

言ったほうは悪意はなくても、言われたほうは悪意に感じることは
よくあります。日本人は小韻の首字が音訳によく使われることを
知らないので、中国側の単なる音訳を悪意にとってしまったと
いうのが真相だということです。
もちろん日本側が字を変えたい気持ちも分かります。

> > あと親魏倭王といいながら卑字ではまずいでしょう。
> まずくないでしょう。中華思想の国です。
> 同じ国内でさえも楚人を馬鹿にしてます。いわんや他国をや!
> 実際後世『倭』国自体がその文字を嫌って「日本」にしたんですよ。

「親魏倭王」は、倭を独立国として扱っていて、
決して中華思想とはいえません。
これは、中国の外国に対する態度ではとても珍しいのです。
金文京氏の「三国志の世界」を読むとそれが分かります。

[7809] Re[7808]: RE(7807] 魏  神奈備 2006/09/14(Thu) 17:46 [Reply]
大三元さん。

 漢字にはからっきし弱いのですが、「魏」を卑字としますと、「魏魏」はそれを倍にした言葉と言えるのでしょう。マイナス×マイナスでプラスになるってことは起こるらないと思っています。

妙義神社の由緒の一部から

妙義神社は奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。
そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明明魏魏たる山の奇勝をめで、明魏と名づけしものを後世妙義と改めたと思われる。

魏魏とは岩石が盛り上がった状態を言うようで、なよなよした鬼が二鬼いる訳ではないのでしょう。魏の国は巌となりて♪の命名ではないでしょうか。

倭亜布さんに一言
、HP紹介の羅列はやめて下さい。

[7808] RE(7807] 魏  倭亜布 2006/09/14(Thu) 14:21 [Reply]
【魏】の古文字は【∪】に上に【木】の古文字です、【木】が「姫氏」キシならば【∪】は「女」で【鬼】は【禹】父の【鯀】(鯀の墓は古文字の【口】で表されていると考えています。)
「父の鯀は治水に失敗し、誅殺され」・・・鬼神 と成る。
http://www2g.biglobe.ne.jp/~stakasa/china/zazhuan/zitozi12_xia.html
 「人間が死ぬという現象は、精神の主である魂(こん)と肉体の主である魄(はく)が遊離した状態、と定義する、そうです。
分離した魂(こん)はホッタラかされると鬼(き)になって悪さをしでかしたりする。一方「礼」によって大切に祭られ、子孫達の肉体を借りて永遠に生きることができるとされている。」
孔子が語る鬼神とは?
http://homepage3.nifty.com/neoncafe/mybooks_02.html

呉(韓人=カラヒト、姫姓)
「 呉人は説話、伝承の中では蜈蚣、鯰、狐、雉、鯉、竜、馬、大人などと表されています。象徴的な武器は斧、刀です。倭国大乱で滅亡したため、有力氏族は見当たりません。」
 民族的には羌人(周の太伯、仲雍)が上位に入り、ワラと自称するようになったミャオ族と考えればいいようです。言語はベトナム語などに近いモン・クメール系と考えられます。
弥生の興亡  4、縄文の逆襲      塚田敬章
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/6/Zyomon3.htm#第四章、1、呉(韓人=カラヒト、姫姓)
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_5.htm
http://olive.zero.ad.jp/~zaw10107/5/kika_2.htm
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/6/Zyomon1.htm
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/index.htm
姫の歩み
太伯説話
 神話と歴史をつなぐ夏王朝や実在が確かめられた殷王朝が周王朝に先行した。
 「呉は太伯、越は禹の苗裔で夏后帝少康の後裔と称した。 ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。 我が倭も「夷」である。 見よ「華」の傲慢さ、華より夷だ。 夷の持つ礼節と独自の文化を大切にしよう。 誕生から美少女へ. 揚子江の …」
http://www.kamnavi.net/ny/nyutu.htm

三皇五帝関連人物 - 堯・舜・禹の関連人物 トップページ 『幻想之中国』 目次 その他の関連人物 - 堯・舜・禹 ・親族など がこう じょえい 帝・堯の娘。帝... 后稷の姓は姫氏で、後に周王朝の先祖として崇められた。 ...
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t_jis/connection/3k5t_11_13_etc.html
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t_jis/connection/3k5t_kon.html
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t_jis/3k5t_13.html

[7807]  大三元 2006/09/14(Thu) 10:21 [Reply]
単純な質問です。

「魏」という字が「委」+「鬼」、なよなよした(?)鬼、と分解できるから卑字(卑語?)なのだ、といういうような言いがかりは寡聞にして聞いたことがないのだけど、そうはならないってことなのでしょうか。



[7806] Re[7804]: 同一人物ですか??  神奈備 2006/09/14(Thu) 09:49 [Reply]
> 神ナビさんと玄松子さんは??????????

玄松子さんは、三川国青見評さんが三河地域にお詳しく、また愛着をお持ちの方だと思われて、そう言う方ならかって r さんと言われる方が投稿されていたことを思い出し、素直にお訊きになったのではないでしょうか。
素直にお答えになればよろしいかと思いますヨ。

[7805] Re[7804] [7803][7802]  QUBO 2006/09/14(Thu) 09:30 [Reply]
[7802] 神奈備説
『「親魏倭王」ではなく「親魏委王」の金印』
ウゥ〜ム!と唸りました。

[7803]
> > そう考えれば「3世紀の列島に明光鎧」の必要は無くなります。
> …猿田彦の存在時期に「明光鎧のようなもの」の存在が必要…
鎧のようなものは存在。鏡は存在。
鎧のようなものを着用、胸に二枚の鏡を飾る。
「明光鎧のようなもの」にはなりますね。

[7804] 横レスです。
> 神ナビさんと玄松子さんは?????????
神奈備さんと玄松子さんは全くの別人です。
玄松子さんのHP、神奈備さんのHP比べてみたらいかが
神ナビ
神のナビゲーターとしてはお二人ともすばらしい先達さんですね。

[7804] 同一人物ですか??  三川国青見評 [Url] 2006/09/14(Thu) 01:44 [Reply]
神ナビさんと玄松子さんは??????????

[7803] Re[7800][7793] 猿田彦大神=魏使説  玄松子 2006/09/13(Wed) 08:07 [Reply]
> 必ずしも書かれた中味の時代ではなく、書いた人の時代の反映
> そう考えれば「3世紀の列島に明光鎧」の必要は無くなります。

書かれた時代に「明光鎧」が存在したとして、
それを猿田彦と結び付けるには、猿田彦が明光鎧のようなものを着用していたという記憶が必要でしょう。
とすると、猿田彦の存在時期に「明光鎧のようなもの」の存在が必要となりますね。

[7802] Re[7801][7799] [7792]部分否定    神奈備 2006/09/12(Tue) 21:46 [Reply]
> 恐縮ですが、御邪魔します。【倭】【卑】( ヒ いやしい) を考えました。
> 私的に【卑】( ヒ いやしい)は「夏の禹王」を表わす文字と考えます、秦の始皇帝以前には「いやしい」の意では無かったと思います。始皇帝系は禹系を嫌いプロカバンダしたと考えます。

考えることに遠慮は要りません。要領よく自分の考えを披露できなければ、恐縮となります。

で、「倭」はどうお考えでしたのでしょうか。ご紹介のページを全て見なくてはお考えがつかめないのでしょうか。それならば遠慮してほしいですね。

やましさんも、苦心惨憺されて少々もボロも出ましたが、少なくとも新しい考えに挑戦されています。そこは評価し賞賛すべきことです。HP紹介の羅列よりはるかに素晴らしいことです。

「親魏倭王」の金印をもらったのでしょうが、よく見ると「親魏委王」と彫っていたかもしれません。漢委奴国王印のように。そうすれば卑語は遣わなかったとなります。

[7801] Re[7799] [7792]部分否定    倭亜布 2006/09/12(Tue) 15:01 [Reply]
恐縮ですが、御邪魔します。【倭】【卑】( ヒ いやしい) を考えました。
【倭】ワ イ(キ) したがう やまと 古い字形:【委】(イ ゆだねる まかせる)=【禾】のぎ いね=神木  と 【女】・・・から巫女に祭司を委ねる。
【卑】( ヒ いやしい) 字形:ウ冠(半円形)に柄のある円平な道具(T形)と手(Ψ形)・・・(甲に手Ψ形も有る)
              会意:古く【椑】(ヘイ ふた) 【鞞】(ヘイ さや つづみ) 【俾】(ヘイ ヒ せむし・・・に通用した。また【鄙】ヒ ひな:穀物倉・村・・・・・から(【鄰】(リン となる)ができた。
私的に【卑】( ヒ いやしい)は「夏の禹王」を表わす文字と考えます、秦の始皇帝以前には「いやしい」の意では無かったと思います。始皇帝系は禹系を嫌いプロカバンダしたと考えます。

半円 =墓(エジプトの神・Nephthysの半円なら神を意味するであろう。)
 「半円は椿の種子が二つに割れる自然の妖であり、列島史では猿田彦と係わりあっている。 」
半円 =墓=古墳?
http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-2/tenma_zuka.htm
エジプトの神々の持ち物 =Lは片目、Tは両目、Vは幣。Lの片目は魔除けのペンダントそれが両目のTと成り仮面へと変移した。
渡来人研究会画像掲示板     投稿者:tombo さん
http://8811.teacup.com/toraijin/bbs?OF=10&BD=13&CH=5


せむし。瘻→癘:ハンセン病。
参考 【亀背】きはい:背虫せむし. 参考 【踽 ... 禹】:禹が一人行くさま) 参考 【踽僂】くる:背虫せむし・・・・「せむし」は禹の体形【ム】形【弓】形【いざり】(足が不自由) [漢字【禹 ...
羽人 癘 (病の禹):ハンセン病。
[青銅鍍金銀羽人]漢時代
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data7.html

古代の聖天子
 それならば、民や巫の上に君臨し尊敬されるべき帝もまた、霊能者でなければならない。つまり、“異常人”でなければならない。
http://www.k3.dion.ne.jp/~masatono/movie/china/ht_china.htm#習俗

目は重瞳(チョウドウ)
眸子《ひとみ)が二つあること。二重瞳。(四つ目)


耳は三漏(サンロウ)
耳に三つの穴があること。

周公
背僂(ハイル)(短<人>)
せむし。また、背蟲のためのこびと。


四目
目が四つあること。

異形は聖人の徳の表象と見ている。常人と容貌・体躯が異なるということは、神と徳を通じる神聖人であるとする中国古代の思想の反映である。
 他には、禹は足が悪く跳歩。堯舜は重瞳。伊尹は鬚も眉もなかった。との説もある。
【私】【禾】のぎ いね=神木  【ム】=祭司 「禹」は足が悪く跳歩   

革+卑=さや 木+卑=ふた イ+卑=せむし(禹も 虫・・・蛇) 巫女は豊穣神? 「内宮の神様は男神で ... 四岳の末裔という。 その祖先が禹をたすけて呂に封ぜられたので、呂氏と称するという ...
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
禹(夏王朝の初代)を補佐して治水工事に功績があったといわれる ... がたを「黒くして短く、蓬頭にして髯づら、頭は上がでっかちで下がとがり、せむしで声が低い」と描写している
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/inn.htm
――「わが西遊記」の中――
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/2521_14527.html
 参考になればの 真心からですのでお怒りなさらないでください。

[7800] Re[7793] 猿田彦大神=魏使説  QUBO 2006/09/12(Tue) 10:16 [Reply]
> > 「親魏倭王」の時代に明光鎧が列島にきていれば…
> > 3世紀の列島に明光鎧、ウラヅケ…

ウラヅケなくても部分肯定
日本書紀 古事記が書き上げられるわずか以前
663年8月白村江の戦いで大敗
664年 唐の軍隊2千人が大宰府にやってきます
この時代になれば、大将は明光鎧を着用していたと考えられます。
この時の印象が強烈で、猿田彦に投影された可能性はあります。

必ずしも書かれた中味の時代ではなく、書いた人の時代の反映
そう考えれば「3世紀の列島に明光鎧」の必要は無くなります。

[7799] Re[7792]部分否定  QUBO 2006/09/12(Tue) 09:20 [Reply]
> 音訳文字の80%が小韻の首字。…小韻の首字
> のなかに…「意味的によくない文字」もあるということです。
 これは、やましさんが倭・卑を卑字と思っている と読めますね。
[7769] >>もともと「倭」や「卑」は卑字という意味合いはありません。
矛盾してます

> あと親魏倭王といいながら卑字ではまずいでしょう。
まずくないでしょう。中華思想の国です。
同じ国内でさえも楚人を馬鹿にしてます。いわんや他国をや!
実際後世『倭』国自体がその文字を嫌って「日本」にしたんですよ。

> 古田説に対して反論した尾崎氏の論文…
> 邪馬台国基本論文集3にあります。
ありがとうございます。今度探して読んでみます。

[7798] Re[7791][7768][7767][7765][7764][7760]: 面白古代本・・・黒潮の考古学など  玄松子 2006/09/12(Tue) 07:29 [Reply]
> いや、一宮もの社寺ひとつですから、混同・すりかえというのは
> 言葉がおかしくないですか。

一宮の変遷に限った話です。
社寺全般の話ではありません。話が拡大・すり替えられていますよ。

> 一宮があったところが必ず古代において中心地だったと
> 主張しているわけではないですよ。(反例はたくさんあります。)

以前の貴方の書き込みは、
> 阿波には一宮が3つあります。
> これも仕方がないことで、どれもある時代には中心拠点だったのです。
というものでしたね。

[7797] Re[7796][7795][7790][7788]: ド素人が質問します。  みかわん 2006/09/11(Mon) 23:36 [Reply]
> そこに「神社明細帳」等の書籍があれば参考になりますよ。
> それと大抵の大きな神社には「神社調」があります。

ありがとうございます。今そこにある神社は、とりあえず行けば見られますけども、
説明書きの看板のあるお社ばかりではなし、公式HPなんて一部を除いてはとんでもない、
由緒や来歴を知るには、いったいどこから手をつければいいのかしらと考えていたところです。

図書館行ってみます。古書店も回ってみます。
将来的には「神社調」も見せていただけるようになるといいですねえ……。

[7796] Re[7795][7790][7788]: ド素人が質問します。  nick [Url] 2006/09/11(Mon) 23:05 [Reply]
神社の歴史を調べるには
先ずは地元の図書館でしょうか
そこに「神社明細帳」等の書籍があれば参考になりますよ。

それと大抵の大きな神社には「神社調」があります。
それが閲覧出来るように親しくなればしめたもの。笑。

私も寺社探訪初めてから知ったのです。
つい最近のこと。
謎解きが結構面白いですよ。

[7795] Re[7790][7788]: ド素人が質問します。  みかわん 2006/09/11(Mon) 22:19 [Reply]
nickさん、はじめまして。
教えてくださってありがとうございます。

> 当地・鹿児島・隼人地方は「神社の移転=遷座」が多数あります。
「遷座」というのですね。例に挙げてくださった天災の他に、近年では「再開発」なども理由にありそうな(想像ですが)

「遷座があったかも」で、即「安城に式内社がなかった(あくまで過去形)なんてことはないんじゃないの」という主張は出来なさそうですけど、
一考のの余地はありそうな気が?素人の妄想でしょうか。
(設楽の辺りは最初から式内社空白地帯のようですし)

[7794] Re[7775][7773][7772]: 猿田彦大神 部分肯定  やまし [Url] 2006/09/11(Mon) 22:11 [Reply]
>  魏使をやましさんが言われるようなものとし、強いて言えば、そのイメージ(目、鎧、顔など)が猿田彦の原像に取り入れられた可能性はなしとは言えないでしょうね。
>  ただ、「三国志」などの漫画を見ていますと、そこそこの立場の人は髭もはやしているようですが、猿田彦には髭がありましたっけ。

鼻の長さ七咫、目は八咫鏡ですから、体全体で猿の顔になって
いると考えています。そのため、髭までは注意がいかなかったの
ではないでしょうか。
何よりも鏡は大変畏れおおいものだったので、二つの護心鏡(目)
を天鈿女以外はまともに見ることができなかったという推測です。

なお、身長が七尋=約12.6mというのは、「七咫七尺」
に続いて後世加えられたものかもしれません。
というのは、古語拾遺では、「一の神有りて天八達之衢に居り。
其の鼻の長七咫、背の長七尺、口尻明曜。眼は八咫鏡の如し。」
としか、書かれていないためです。

[7793] Re[7774][7759]: 猿田彦大神=魏使説  やまし [Url] 2006/09/11(Mon) 21:57 [Reply]
こんにちは、tanさん

> 明光鎧と猿田彦、興味深く拝見しました。
> 明光鎧ですが、考古的には孝昌の北魏陶俑の出土が一番古い様子で、流行るのは北朝末期。
> 文献では『先帝賜臣鎧表』等にありますが、貴重品で統治層のみの使用で出土などからも実践部隊での使用はなかった。との感じでいますが。
> 「親魏倭王」の時代に明光鎧が列島にきていれば相当なインパクトでいくつか痕跡が残りそうですし、また考古出土にその片鱗を残しそうですが寡聞にして知りません。
> 3世紀の列島に明光鎧、ウラヅケの幾つかを拝聴したく宜しくご指導ください。
>
3世紀当時は、実戦部隊の鎧ではなかったようですね。
高名な武将間で贈り物とされた例もあるようなので、
よほど身分の高い武官が身に着けるものだったのでしょう。
建中校尉梯儁、張塞曹掾史政は日本にとどまったわけではないので、
残念ながら日本での明光鎧の出土の可能性は低いでしょう。

もう一つ話があるのですが、猿田彦大神は鼻が七咫なので
ちょうど倭人伝に記された五尺刀と同じ長さなんですよね。
卑弥呼らの前で、梯儁がこの長剣で剣舞を披露したとすれば、
とても印象的だっただろうと思うのです。

さすがにそこまではサービスしないかな?

[7792] Re[7771][7769]部分否定  やまし [Url] 2006/09/11(Mon) 21:40 [Reply]
> 卑字ではないとする「学者の間では共通認識」があれば、
> その具体例を挙げて下さい。よろしく。

古田説に対して反論した尾崎氏の論文が有名ではないでしょうか?
邪馬台国基本論文集3にあります。
音訳文字の80%が小韻の首字。
あと親魏倭王といいながら卑字ではまずいでしょう。

もちろん意味を持って訳す場合もあります。
一方で、音訳で用いられる小韻の首字のなかに
「意味的によくない文字」もあるということです。

↓「まったく不自然ではありません」とかくところを「まったく自然」(失敗)

[7791] Re[7768][7767][7765][7764][7760]: 面白古代本・・・黒潮の考古学など  やまし [Url] 2006/09/11(Mon) 21:27 [Reply]
> 一般的な社寺の話をしているわけではありません。
> 話の混同・すり替えは止めましょう。
> 「一宮」は平安以降の呼称ですから、平安以降の祭祀の中心に限られます。
> 古代の中心地やその移動は関係有りません。

いや、一宮もの社寺ひとつですから、混同・すりかえというのは
言葉がおかしくないですか。
平安の祭祀の中心というのは分かるとして、どうしてそれ以前の
中心と独立でなければならないのか論拠を示してください。

一宮があったところが必ず古代において中心地だったと
主張しているわけではないですよ。(反例はたくさんあります。)
古代において中心地だったような場所は、それ以後も祭祀に
とって重要であり続けている場合があると主張しているのです。

例として、大麻比古神社や八倉比売神社のような古墳の密集地帯
の一宮があります。それ以前に中心的であった場所を崇められる
というのは、何も不自然ではありません。
祖先を敬うというのはまったく自然なことですから。

[7790] Re[7788]: ド素人が質問します。  nick [Url] 2006/09/11(Mon) 21:25 [Reply]
> 神社って移転しないのですか?
> 創建以来、ずっとそこにあるものなのですか?

こんばんわ。
当地・鹿児島・隼人地方は「神社の移転=遷座」が多数あります。
大半の理由は「天災」、洪水による冠水や流失、
台風・豪雨等による土砂崩れ
それに火山の爆発です。
「待世神社」なんてのもありました。
寺社探訪をどうぞ。

[7789] 安城市域に式内社ゼロ  三川国青見評 [Url] 2006/09/11(Mon) 19:44 [Reply]
は、どう考えてもおかしい。

碧海郡の中心でもない一部地域の岡崎市に、碧海郡の式内社4は、異常。
現在の岡崎市域で碧海郡は、矢作川西岸の矢作地区、矢作川南東部の六ツ美地区です。このうち、六ツ美に式内社比定地が、3つもあります。
この地区には、古代の古墳や官衙遺跡はおろか、木簡に記載されるような集落もありません。

安城市の古墳や木簡、墨書土器など数々の物的証拠と整合性が付かない。

岡崎市の大半は額田郡であり、額田郡の式内社は2と西三河では、幡豆郡3より少ない。西三河では最も東に位置した後進地域なので当然である。
現在の岡崎市の発展は江戸時代の城下町によるもので、古代に繁栄していた事実は、ありません。

8世紀の事跡を記した続日本紀には、三河国は碧海郡しか登場しません。

7世紀〜8世紀の木簡は、額田郡が少ないのです。

岡崎市の碧海郡地域すべてに式内社比定のライバルがいるのもヘン。
安城市や豊田市に対抗しているとしか思えない。


[7788] ド素人が質問します。  みかわん 2006/09/11(Mon) 19:27 [Reply]
神社って移転しないのですか?
創建以来、ずっとそこにあるものなのですか?

また、上の質問の妥当性はともかく、研究なさってきてる学者さん方が、三川国青見評さんのおっしゃるように「明らかに違う」ものを候補として出し続けてるとは考えにくいのですが、その辺はいかがなのでしょうか。

[7787] 日長神社候補地  三川国青見評 [Url] 2006/09/11(Mon) 18:42 [Reply]
http://hazardous.blog34.fc2.com/

神明社:岡崎市日名町708 が日長神社候補地になってますが、ココは碧海郡ではないですね、額田郡ですね。 明らかに違うと思います。






[7786] Re[7782]: 式内社の訂正  玄松子 2006/09/11(Mon) 18:32 [Reply]
> 比蘇神社は、安城市の桜井神社のこと。岡崎市の比定地は、碧海郡がどうかも不明な端にあります。

ハンドル名(三川国青見評)の横にある [Url] は桜井神社の紹介のために入力したのでしょうか。
それとも小学校の関係者でしょうか。

ところで、「三川国青見評」というのはハンドル名でしょうか。
以前は、「r」さんでしたよね。

[7785] Re[7782]: 式内社の訂正  神奈備 2006/09/11(Mon) 17:11 [Reply]
> 三河国の碧海郡のとこで、岡崎市が出てきますが、すべて誤りと思われます。

お考えのご披露ありがとうございます。
このサイトでは、いろんな資料を使用して式内社や論社を比定しております。

当初の資料
新人物往来社『日本「神社」総覧』式内社所在一覧(西牟田崇生)
その後の資料
式内社調査報告25巻(皇學館大學出版部)
日本の神々(白水社)
神社名鑑(昭和39年 神社本庁)
歴史散歩シリーズ(山川出版社)
平成祭礼データ(神社庁)
日本「神社」総覧(新人物往来社)
各神社の由緒書き
などです。
三河での神社巡りは殆ど行っておりません。
参詣する機会がございましたら、貴ご指摘を参考に地形なども見てみたいものです。

[7784] 酒人神社、これは合ってます  三川国青見評 [Url] 2006/09/11(Mon) 09:23 [Reply]
岡崎市の安城市境に近い酒人神社、矢作川西岸にある。

安城市の桜林遺跡(二子古墳)から、酒杯と書かれた墨書土器が出土しています。
酒人神社からも距離は近い。

酒杯と書かれた墨書土器は、出雲国庁からも出土しています。

古代の木簡が三河では、唯一安城市から出土するなど、古代の8世紀くらいまでは、三河の中心は安城にあったと思います。

豊川市の主張する三河国府は疑問ですね。

http://www.city.anjo.aichi.jp/kakuka/bunkazai/maibun/ruins/ruin003.html

また、市人と書かれた墨書土器も出土しています。
安城市には、碧海郡大市郷があったようで、大市とは古代の市場(物流センター)です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060705-00000059-kyodo-ent
日本最古級の横櫛が出土 愛知県の彼岸田遺跡

>>>>>>>
安城市では、こんなものまで、当たり前のように出土しています。

今後、発掘が進むにつれ、真実が明らかになるでしょう。

[7783] あおみ青見(碧海)とは、  三川国青見評 [Url] 2006/09/11(Mon) 09:05 [Reply]
碧海郡は、7世紀以前は、青見と書かれていたことが木簡で判明しています。
海に近いこととは、由来は関係ありません。

碧海の語源の由来は、現在の安城市桜井町付近から、青見里があったことによるもので。

海に近い碧南市や高浜市が主張している碧海の語源由来はまったくの誤りです。
また、安城市には堀内貝塚があり、古代は内陸まで海が食い込んでいたようです。

安城市は、安城が原、碧海野とも呼ばれ、独立した松林のような森があちこちに点在した広大な平坦地であり、青(緑地)が見る(眺める)ということから、青見ではないかと思いますね。

[7782] 式内社の訂正  三川国青見評 [Url] 2006/09/11(Mon) 08:32 [Reply]
三河国の碧海郡のとこで、岡崎市が出てきますが、すべて誤りと思われます。

和志取神社は、安城市。和志取とは、古代の駅家の鳥取駅や委之取(鷲取)郷のことなんですが、古代の官道が通過しているのは、安城市のほうです。

日長神社は、安城市。岡崎市の比定地は、碧海郡がどうかも不明な端にあります。

比蘇神社は、安城市の桜井神社のこと。岡崎市の比定地は、碧海郡がどうかも不明な端にあります。

糟目神社は、豊田市のこと。岡崎市の糟目犬頭神社は、比蘇神社と同じ地域にありますね。ここも碧海郡かどうか不明な端っこですね。
>>>>>>>>>>>>>>>
江戸時代に岡崎市が城下町として発展したことから、岡崎市のことと言い出したとしか思えないですね。

岡崎市の日長、糟目、比蘇の比定地は、そもそも碧海郡とは思えない、端っこですよ。古代においては、岡崎市は後進地域であり、矢作川西岸の安城市・豊田市のほうが進んでいた。

碧海郡の中心は、岡崎市ではなく、安城市であり、岡崎市の大半は額田郡です。

岡崎市の主張する日長、糟目、比蘇は、矢作川東岸にあり、碧海郡の中心から外れており、どう考えてもおかしい。

岡崎市の主張する和志取神社は、南西の端にあり、どう考えても不自然。

由緒ある式内社は、農村集落のよくある惣神社じゃないですから。

古代の古墳や木簡などの物的証拠から判断していけば、岡崎市の碧海郡部分には、主要な集落や遺跡など存在していません。現在状況から古代を判断するのは危険です。

[7781] [7780] Re[7779]: 秦氏とカモ氏  いこまかんなび 2006/09/10(Sun) 22:34 [Reply]
先日は、少し血迷っておりまして失礼しました。
あれ以降、よく激しい夕立で雨が続いたりして、季節もどんどん秋へと遷り変わりつつありますね。
先日から紀の国が気になって勉強を始めようと思っているものの、まだまだ神というものがよくわからないままで、これからいろいろとご指導ください。
ところで「名草郡の中心地から三分割されたのかも知れません。三分割された各神社は名草万代宮から等距離に鎮座している」。
というのは、たとえば姫路城の南側にあって播磨国総社といわれる(播磨国飾磨郡の)式内社射楯兵主神社と周辺の射楯・因達神社などとの関係と同じようなのかな?、なんて思ってしまいました。
明日はいい天気になるでしょうかね。

[7780] Re[7779]: 秦氏とカモ氏  神奈備 2006/09/10(Sun) 09:42 [Reply]
とみたさん、こんにちは。

> 鴨氏は天皇の車駕につき従い明かりを点し先導する職掌だったことがヤタカラスの役目に投影

 面白い話ですね。
 私は葛城鴨の方から次のように聞いたことがあります。
 「壬申の乱の際、大海人皇子が道無き道を吉野から宇陀、伊賀、伊勢、美濃に案内したのが葛城鴨の家人、その功が認められて山城県主となり、山城に賀茂社を祀った。」
 
 即ち、葛城鴨とは血のつながりはないようで、その卑しさが秦氏の配下になることを承知させたのではと考えています。

尤も
> 下鴨系図を分析すると、6代目の久治良が孝徳の時代で上記の職掌にありついているのでそれより数代前に北山背に移ったのではないか。
 には矛盾する話です。


> 大宝2年にイタキソ三神を各地に遷座させ、日前神が紀伊国名草郡の中心地に鎮座すると言う処置がとられている。

 伊太祁曽神社の社伝では、垂仁天皇の頃、名草万代宮(現日前宮の地)から山東の亥の森に遷座(紀の国での国譲り)したことになっています。

 しかし、実際にはお書きのように名草郡の中心地(多分名草万代宮)から三分割されたのかも知れません。三分割された各神社は名草万代宮から等距離に鎮座しているのです。
 さらに言いますと、伊太祁曽神社の西側を熊野古道が通っているのです。古代のメイン街道です。名草万代宮の付近は若干小高いとは言え、ほぼ海の中の状態だったように思います。伊太祁曽神社は動いていない可能性もありえるのではと考えています。

[7779] 秦氏とカモ氏  とみた 2006/09/09(Sat) 23:17 [Reply]
ヤタカラスが神武東征軍を熊野からウ(草冠に兎)田まで案内した。この褒美にヤタカラスこと賀茂建角身命は葛野県を与えられ、山背の県主になった。ヤタガラス神社は705年に大和国に設置。

これの真偽を追っかけて、中村修也さんのカモ氏と秦氏を読み終わりました。

伝承は怪しいが、鴨氏は天皇の車駕につき従い明かりを点し先導する職掌だったことがヤタカラスの役目に投影しているのではないか。

カモ氏は、高鴨アジスキや鴨都波神社のある大和葛城から脱出して、南山背の相楽
・加茂に移り、それからさらに北山背の葛野に移ったことは確かではないか。

今の下鴨、上賀茂神社のある京都=山背辺りには先行の秦氏が住んでいたので別の地域に住んだ。カモ氏は秦氏にとりこまれ、松尾大社の祭神は大山くいでその子供がカモ氏の賀茂別雷神とされている。宗像神の市杵嶋姫は後から合祀されたが、これは豊前の秦氏が、信奉している宗像神と共に葛野に移動したとも考えられるが必ずしも肯定できない。

下鴨系図を分析すると、6代目の久治良が孝徳の時代で上記の職掌にありついているのでそれより数代前に北山背に移ったのではないか。

大筋はこんなところでしょうか。いろいろな論考を重ねておられて面白い本でした。

ついでに興味深い記事を2−3追加・・・・

上賀茂社が勢力を伸ばすと、国家は手を焼いて下鴨社に分戸して勢力を削いだ。松尾社の祭神のニ座化(大山くい神+宗像神)による勢力分断策も同様。紀伊国の場合はもっと露骨であった。(松田寿男先生の話では、先住の水銀の神=丹生氏が南から来たイタキソに征服され臣従した)。

この伊太祁曾神社は、天武朝のころに中央神の分神である日前神が紀伊大神として新たに設置し、大宝2年にイタキソ三神を各地に遷座させ、
日前神が紀伊国名草郡の中心地に鎮座すると言う処置がとられている。

上下カモ神社の近くに、出雲郷があり、出雲氏と秦氏は婚姻関係があるのに、鴨氏と出雲氏は婚姻関係がないそうです、仲が悪い。

も一つ、欽明天皇は秦大津父の経済力に与りますが、彼は伊勢に商いに行きます。

横田健一先生の説では、その商品は水銀ではないか




[7778] Re[7777][7776] 鉄人  神奈備 2006/09/09(Sat) 22:52 [Reply]
神奈備の写真掲示板にMADOKAさんが写真を投稿してくれました。
多分大陸で発見されたものでしょう。

http://res9.7777.net/bbs/kamnavi/

[7777] Re[7776] 鉄人  tan 2006/09/09(Sat) 22:34 [Reply]
神奈備さん
腰神さんはお馬さんには効くのかも知れませんね。私も最近肱が片方痛み、時々逆療法?で鉄アレイ使ってます。御身おだいじに!です。
鉄人は明石の稲爪神社が発端なのですが、結構広範囲にある様子、伝承をさらうといいのですが関東方面では今のところ聞きません。
太子町黒岡神社ありがとうございます。早速調べてみます。

>沢山伝承があるようですから、実際に侵攻は何度かあったのでしょうね。
#と思います。唐製轡とか、それ以前と思われる弩とか、舶来のモノが結構あるんですね。

[7776] Re[7774][7759]: 猿田彦大神=魏使説  神奈備 2006/09/09(Sat) 21:27 [Reply]
tanさん、こんばんは。最近腰痛気味でして、腰神神社に参詣して来ましたが、日頃の不心得が災いしてか、いっこうに効きません。

鉄人伝説
太子町の黒岡神社ゆかりの「藤原貞國」のお話。
これは鉄人かどうかは不明。

沢山伝承があるようですから、実際に侵攻は何度かあったのでしょうね。

[7776] Re[7774][7759]: 猿田彦大神=魏使説  神奈備 2006/09/09(Sat) 21:27 [Reply]
tanさん、こんばんは。最近腰痛気味でして、腰神神社に参詣して来ましたが、日頃の不心得が災いしてか、いっこうに効きません。

鉄人伝説
太子町の黒岡神社ゆかりの「藤原貞國」のお話。
これは鉄人かどうかは不明。

沢山伝承があるようですから、実際に侵攻は何度かあったのでしょうね。

[7775] Re[7773][7772]: 猿田彦大神 部分肯定  神奈備 2006/09/09(Sat) 17:28 [Reply]
 時空の境界、巷、橋、森、山、河辺、黄昏、ここに神や妖怪が現れる、と言う気持ちは、いつ頃からのものかと言うことですが、どうなんでしょう、丹生川上上社の旧社跡などのように、祭祀遺跡は縄文時代から弥生時代への連続している所もあり、この国の古い神である境の神(=後に人格化して猿田彦)が、魏からの遣いがやってきて出来たはずもなく、とっくに存在していたと考えています。

 魏使をやましさんが言われるようなものとし、強いて言えば、そのイメージ(目、鎧、顔など)が猿田彦の原像に取り入れられた可能性はなしとは言えないでしょうね。
 ただ、「三国志」などの漫画を見ていますと、そこそこの立場の人は髭もはやしているようですが、猿田彦には髭がありましたっけ。

[7774] Re[7759]: 猿田彦大神=魏使説  tan [Url] 2006/09/09(Sat) 16:53 [Reply]
こんにちわ やましさん 

明光鎧と猿田彦、興味深く拝見しました。
明光鎧ですが、考古的には孝昌の北魏陶俑の出土が一番古い様子で、流行るのは北朝末期。
文献では『先帝賜臣鎧表』等にありますが、貴重品で統治層のみの使用で出土などからも実践部隊での使用はなかった。との感じでいますが。
「親魏倭王」の時代に明光鎧が列島にきていれば相当なインパクトでいくつか痕跡が残りそうですし、また考古出土にその片鱗を残しそうですが寡聞にして知りません。
3世紀の列島に明光鎧、ウラヅケの幾つかを拝聴したく宜しくご指導ください。


神奈備さん 皆さん

瀬戸内を中心にいくつかみえる「鉄人」伝承から鎧を気にかけています。ざっくりとやはり隋・唐だろうと。仁王門などにみえる明光はその形から隋・唐以降、7世紀末から大陸の寺で流行りだした明光鎧像の暫く後だろうと思っていますが、。
鉄人の弱点は足裏、これがそく明光鎧とは考えていませんが頭先から足元まで防御されていた、だろうと思います。
なにか情報ございましたらお願いします。


[7773] Re[7772]: 猿田彦大神 部分肯定  玄松子 2006/09/09(Sat) 12:07 [Reply]
青草っぽいが。

> これを肯定しての別の解釈
> 猿田彦は『明光鎧』を身につけた在地豪族
> 全国ネットワークを持った弥生末期の商人の末裔

異質な風貌から、後に「ツチグモ」と呼ばれる人々かもしれない。
天津神・国津神に属さないツチグモのクニの王、金属に関係する部族が
天津神側につき、道案内したと解釈できないだろうか。
であれば、天津神に優遇され、各地に祀られてもおかしくは無いでしょう。

[7772] 猿田彦大神 部分肯定  QUBO 2006/09/09(Sat) 11:27 [Reply]
猿田彦の特徴をとらえた
『明光鎧』説、面白いなぁ と読ませていただきました

これを肯定しての別の解釈
猿田彦は『明光鎧』を身につけた在地豪族
全国ネットワークを持った弥生末期の商人の末裔

魏鏡以外に、漢の鏡も呉の鏡も発見されていますから
可能性0ではない←青草に書き込むべきかな

[7771] Re[7769]部分否定  QUBO 2006/09/09(Sat) 11:11 [Reply]
> よくわからないのですが「倭」や「卑」が卑しい字だということですか?
> これはほぼ学者の間では共通認識だと思っているのですが、
> もともと「倭」や「卑」は卑字という意味合いはありません。
> 単に音を表しているだけです。

倭を日本に改めた事(青草[2445]にも書きましたが)
旧唐書に
『日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地』
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD
倭について「惡其名不雅」と理解していました
倭人だけではなく唐の人々も同じ認識だと思います
また
東夷伝の東夷や南蛮、西戒、北狄に使われている
夷・蛮・戒・狄 は明らかに卑字です。

私の解釈
もともと、音を表すために使われた「倭」や「卑」は
意図的に卑字を使った。

卑字ではないとする「学者の間では共通認識」があれば、
その具体例を挙げて下さい。よろしく。

[7770] Re[7769][7766][7763]: 猿田彦大神=魏使説  玄松子 2006/09/09(Sat) 02:52 [Reply]
> 記紀の研究も大変。結局心情的に受け入れられないとダメかな。

自説が受け入れられないからといって、このような揶揄は止めましょう。
単に、その説に説得力がないだけではないでしょうか。

魏使が神となる「過程」が不明です。というか「現実的に解釈」できません。

[7769] Re[7766][7763]: 猿田彦大神=魏使説  やまし [Url] 2006/09/08(Fri) 22:03 [Reply]
> > 「親魏倭王」の金印と銅鏡百枚を携えた梯儁です。
>  大月氏国は「親魏大月氏国王」の印ですね。卑語どこさです。
>  「親魏倭王」の「倭」の言葉は、神様が運んでくるには相応しい言葉ではありません。やはり、ただの使いなのです。言葉使いの問題ですが、これを一介の魏使としているのです。
>  つまらぬ言葉のやりとりはこれでおわりましょう。

よくわからないのですが「倭」や「卑」が卑しい字だということですか?
これはほぼ学者の間では共通認識だと思っているのですが、
もともと「倭」や「卑」は卑字という意味合いはありません。
単に音を表しているだけです。
音訳によく使われる文字というものがあるからです。
日本人は音より意味を考えてしまうので、そう思いがちですが。
これは「め」が「女」をくずしているから、「さめ」はメスとか言っている
ようなものです。相手に本来その意図はありません。
両者の関係が悪化すれば、そのようにもとりますけど。
いずれにせよ、卑弥呼は金印や銅鏡百枚を受け取ったようです。

記紀の研究も大変。結局心情的に受け入れられないとダメかな。
弘法大師さんは、たとえ日本が小さくても、記紀の舞台が小さくても、
その小さな風景を心から素晴らしいと感じたようなんだけど。
きっと鷲峯山=霊鷲山=霊山=大麻山のもとで、般若心経という
短くても真に素晴らしいお経の真髄を喝破しながら。
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/ryozenji.html

[7768] Re[7767][7765][7764][7760]: 面白古代本・・・黒潮の考古学など  玄松子 2006/09/08(Fri) 21:50 [Reply]
一般的な社寺の話をしているわけではありません。
話の混同・すり替えは止めましょう。
一宮の話です。

> 平安時代に決まったといっても、一宮の場所にはそれなりの意味が
> あったのだろうと思います。

「一宮」は平安以降の呼称ですから、平安以降の祭祀の中心に限られます。
古代の中心地やその移動は関係有りません。

[7767] Re[7765][7764][7760]: 面白古代本・・・黒潮の考古学など  やまし [Url] 2006/09/08(Fri) 21:24 [Reply]
玄松子さん
> 「一宮」は平安以降の呼称です。古墳時代以前の中心が何処であったかなどは関係ないはずですが。

一般的に、古来から何かしら歴史的に重要だった場所に神社
やお寺が建てられているのだと思います。
平安時代に決まったといっても、一宮の場所にはそれなりの意味が
あったのだろうと思います。

例えば大麻山周辺は古墳と神社(祠)とお寺の対応がみてとれます。
とても重要な初期の古墳をふくんでいます。

西山谷古墳−宇志比古神社−東林院
萩原墳墓群等−天河別神社−宝幢寺
春日神社古墳群−春日神社−十輪寺(0番札所)
大麻山古墳群−大麻比古神社−霊山寺(1番札所)
諏訪神社古墳群等−諏訪神社−極楽寺(2番札所)
阿王塚古墳−亀山神社−金泉寺(3番札所)

神社については、古墳の近くに祠がつくられたくらいなの
かもしれませんが、お寺は意図的に古墳の手前に
建てられた感じがします。(関係者は行基菩薩と弘法大師)
http://www.geocities.jp/yamatai4/hitei.html

> 忌部神社も一宮なのですか。知りませんでした。出展を教えてください。

一宮3つは私の勘違いでした。失礼しました。
名神大社が3社で大麻比古神社、忌部神社、八倉比売神社
一宮が2社で大麻比古神社、八倉比売神社

「四国一宮」とか書かれるのを見て勘違いしていました。
http://www.genbu.net/data/awa2/inbe_title.htm

[7766] Re[7763]: 猿田彦大神=魏使説  神奈備 2006/09/08(Fri) 15:34 [Reply]
> 「親魏倭王」の金印と銅鏡百枚を携えた梯儁です。
 大月氏国は「親魏大月氏国王」の印ですね。卑語どこさです。
 「親魏倭王」の「倭」の言葉は、神様が運んでくるには相応しい言葉ではありません。やはり、ただの使いなのです。言葉使いの問題ですが、これを一介の魏使としているのです。
 つまらぬ言葉のやりとりはこれでおわりましょう。

[7765] Re[7764][7760]: 面白古代本・・・黒潮の考古学など  玄松子 2006/09/08(Fri) 07:40 [Reply]
「一宮」は平安以降の呼称です。古墳時代以前の中心が何処であったかなどは関係ないはずですが。

> 阿波には一宮が3つあります。
> これも仕方がないことで、どれもある時代には中心拠点だったのです。
> 考古学的には、
> 弥生時代後期以前 八倉比売神社
> 弥生末期〜古墳前中期 大麻比古神社
> 古墳中期以降 忌部神社
> という順番になると思います。

忌部神社も一宮なのですか。知りませんでした。出展を教えてください。

[7764] Re[7760]: 面白古代本・・・黒潮の考古学など  やまし [Url] 2006/09/07(Thu) 21:57 [Reply]
とみたさん
> @ 日本各地における阿波忌部の足跡 安房国編
>
>  林博章 徳島県吉野川市鴨島公民館
>  取扱店 千葉県館山市 みやざわ書店 TEL 0420−23−7771
>  ¥1800+340(送料)
>
この本は私も購入しました。忌部氏について、興味深いことが
たくさん書かれていますね。絵もたくさんあって面白いです。

阿波には一宮が3つあります。
これも仕方がないことで、どれもある時代には中心拠点だったのです。
考古学的には、
弥生時代後期以前 八倉比売神社
弥生末期〜古墳前中期 大麻比古神社
古墳中期以降 忌部神社
という順番になると思います。

[7763] Re[7761][7759][7753][7751][7749][7748]: 猿田彦大神=魏使説  やまし [Url] 2006/09/07(Thu) 21:22 [Reply]
> やましさん、ご丁寧にありがとうございます。
> 沖縄の「さだる」神、また出雲の佐太の大神、大和に多い太陽神としての猿田彦、伊勢の地主神としての猿田彦、一介の魏使が古来の国津神・地主神に成り得たかどうか、まだまだ検討を要しますね。

私が推測しているのは一介の魏使ではありません。
「親魏倭王」の金印と銅鏡百枚を携えた梯儁です。
これは金文京氏の「三国志の世界」でも推測されていることですが、
卑弥呼(天照大神)は帯方郡に使いを出したのであって、
魏に朝貢する考えはなく、魏使団の来訪は思いもかけないこと
だったのかもしれません。
他には大月氏国しかないような「親魏倭王」という扱いは、
素晴らしいことだと思うのです。

[7762] Re[7754]: 阿波。淡。あわ。アワ  やまし [Url] 2006/09/07(Thu) 20:32 [Reply]
MADOKAさん
> 今回前方後円墳のルーツ?萩原墳丘墓 は参考になりました。&浮穴(うけな)とういう地名。読みはウキアナですが奈良 大和高田にあります。欠史八代の安ねい天皇浮穴の宮。私は浮穴という呼称は重要な意味があると思っているのでありがとうございました。

四国説はまだまだマイナーなので、興味を持ってもらえる点があって
よかったです。

皆さんご存知かもしれませんが、古代の音韻に関して付け加えておきます。
「浮穴」ですが、初見は天平19年で、確かに「和名抄」に
「浮穴」と記して「宇城安名」と訓じてあります。

それでも、古代においては「うき-あな」と発音しないはずです。
というのは語中の母音が重なるときは、どちらかを落として
発音されたようなのです。これは、古事記などでも見られます。
「淡海(あはうみ)」を「あふみ」、「高天(たかあま)」を
「たかま」などです。

和歌などでも多く見られます。字余りのように見えて、
実は字余りではないのです。下のページが参考になります。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/bknk/jiamari.html
古事記の和歌にもかなりあるようでしたので、
万葉仮名の表記と発音は同じではないということだと思います。

そのようなわけで「浮穴」は、「うきぁな」か「うけな」
に近い発音だったと思われます。

[7761] Re[7759][7753][7751][7749][7748]: 猿田彦大神=魏使説  神奈備 2006/09/07(Thu) 19:34 [Reply]
> 猿田彦大神が神々の中で特に異色な神として描かれていることから、外国から来た人物であった可能性がある

やましさん、ご丁寧にありがとうございます。
沖縄の「さだる」神、また出雲の佐太の大神、大和に多い太陽神としての猿田彦、伊勢の地主神としての猿田彦、一介の魏使が古来の国津神・地主神に成り得たかどうか、まだまだ検討を要しますね。

[7760] 面白古代本・・・黒潮の考古学など  とみた 2006/09/07(Thu) 10:41 [Reply]
面白古代ブックスのご紹介です。

本の趣向は人様々ですが、私はただいま、忌部氏、鉄、古代気候、紀氏、鴨氏、諏

訪神社の御柱を追っかけています。

黒潮の考古学を、著された方が居られますのでご紹介します。

ちょっとお高い本ですが、伊豆の話など深く説明されているようです。

東京新宿の紀伊国屋書店で先日見つけました。

@ 日本各地における阿波忌部の足跡 安房国編

 林博章 徳島県吉野川市鴨島公民館
 取扱店 千葉県館山市 みやざわ書店 TEL 0420−23−7771
 ¥1800+340(送料)


A ヤマト国家成立の秘密

澤田洋太郎
新泉社
¥2100
 
B 謎の巨大氏族・紀氏(第一章:紀氏と和歌山)

 内倉武久
 三一書房
C 黒潮の考古学
    
 橋口尚武
 同成社
 ¥4800 
D 倭人と鉄の考古学
 村上恭通
 青木書店
 ¥3000
E 古代文明と気候大変動
ブライアン・フェイガン
¥2100
F 秦河勝
 今井敬一 大阪樟蔭大教授
 京都の綜芸社 075−441−4594
G御柱祭り・・火と鉄と神と
(縄文時代を科学する)
 百瀬高子 
  彩流社

H秦氏とカモ氏
 中村修也  
 臨川選書

[7759] Re[7753][7751][7749][7748]: 猿田彦大神=魏使説  やまし [Url] 2006/09/07(Thu) 06:20 [Reply]
> しかし、猿田彦についての小生の素朴な疑問にお答えることもなく、猿田彦使者説を反復されるだけなら、掲示板の意味がありません。

>神奈備さん
質問の意味がよくわかっていなかったのかもしれません。
猿田彦大神が神々の中で特に異色な神として描かれていることから、
外国から来た人物であった可能性があるということを
述べたつもりです。特に上下を照らすというのは、
明光鎧のことだろうということです。

一方、ご質問の「猿田彦が日本古来の道案内の神」
となってしまった理由について考えてみました。
なぜ猿田彦大神が天照大神、思金神2神やニニギ命の降臨先
をアドバイスしたかというと、防衛上と政治上の理由だろう
と思います。実質的な行政は、山の上よりも平地に近い場所
のほうがよいということです。
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/syuhen.html

また中国から日本人は多くのことを学んだという意味合いも
あるのかもしれません。これは弥生末期以降の考古学的な遺物の
証拠があります。

「日本古来」というのは、神代はもっと以前(外国からの影響がない)
のことだと考えられてきたからではないでしょうか。

[7758] 長江大洪水の河川水。  素人 2006/09/07(Thu) 01:51 [Reply]
先にご紹介した黒潮との関連で長江から黒潮への到達の可能性。
長江から九州沿岸などへの到達の可能性を示す資料がありました。
長江大洪水の河川水すら九州沿岸から日本海沿岸に到達することがあるようです。
1995年には中国沿岸起源のエチゼンクラゲが同時に日本海沿岸に大量出現した。
長江大洪水の河川水が黒潮に到達して対馬海流で日本近海に到達すると言う話です。概略は九州沿岸から日本海沿岸に異常低塩分水として1995年と1998年に到達した。しかし洪水時でも風で邪魔されたり、垂直方向にかく乱されたりすると観測されないときもあるようです。河川水は比重差で海表面を流れて、攪乱されず、風に影響されないと日本に流れ着くようです。河川水が流れ着けば、大型の丸木舟も時間をかければ、流れ着くのではと夢想が可能となります。
 シンポジウム「長江大洪水と東シナ海等の海洋環境」pdfファイル
http://www.snf.affrc.go.jp/print/news/joho/101-2.pdf

[7757] 物部と銅鐸  神奈備 2006/09/06(Wed) 20:07 [Reply]
銅鐸を大別すると初期・最盛期銅鐸と終末期銅鐸があるそうな。
終末期銅鐸は所謂見る銅鐸と云われ、大型銅鐸のこと。
出雲から大量に出土した銅鐸は初期・最盛期銅鐸で、これはどう見ても大国主系の祭祀の道具だったのでしょう。銅鐸は三輪や鴨にゆかりがあるとの説が根強いがこれはそのような銅鐸をさしての説。

安本美典さんの『古代物部氏と先代旧事本紀』の謎によりますと:−
一方、大型銅鐸の出土は畿内からは少し離れた地域が多いようで、『旧事本紀』(国造本紀)に出てくるのは物部系の国造が多いようで、物部の祭祀の道具だったのでしょう。

何となく頷けそうなお話と感じました。

[7756] Re[7752]: ところで  神奈備 2006/09/05(Tue) 09:39 [Reply]
> 古代出雲歴史博物館って出雲市よりも安来市にたてたほうが
> ふさわしいのでは?

角谷武雄さん、古代の出雲は出雲市よりも安来市の方から発展して来たとか、天穂日などの天孫族は古代出雲とは相容れないとか、お考えの理由を教えて下さいな。

[7755] ところで=なにゆえ                MADOKA 2006/09/05(Tue) 03:05 [Reply]
角谷武雄さん
>古代出雲歴史博物館って出雲市よりも安来市にたてたほうが ふさわしいのでは?

なにゆえ?
調べてみました  安来市HPより

地名の由来
神代の昔、スサノオノミコトがこの地方に国境いを作って歩かれたとき、この地に来られ「吾が御心は安平(やす)けくなりぬ」といわれたことから「安来(やすぎ)」というようになったと伝えられています。(出雲国風土記から)

&こういうことですか?
http://www.city.yasugi.shimane.jp/kanko/

安来って。。上記のことより [どじょうすくい]のイメージが強いよねえー こーーんな上品な意味とはびっくり
\(^0^)/

[7754] 阿波。淡。あわ。アワ                MADOKA 2006/09/05(Tue) 02:38 [Reply]
邪馬台国四国説紹介は
やましさんでしたか?うっかり神奈備さんと勘違いしました失礼!

神奈備さんが
>「邪馬台国は阿波だった」と云うお話は、昔から実に魅力的に聞こえていました。天石門別八倉比売神社などが卑弥呼に絡んで話されていました。
最近話題になった古代氏族の忌部氏のルーツであり、神々としては事代主、多祁御奈刀弥、御間都比古、八桙、豊玉比賣(神社名に八倉比売と同じく天石門別豊玉比賣神社となっており、トヨを思わせます)、さらに天村雲、物部氏を想起する伊加加志など、不思議なほど神話の世界の縮図のようになっています。

とおっしゃるように。たしかにある。
今回前方後円墳のルーツ?萩原墳丘墓 は参考になりました。&浮穴(うけな)とういう地名。読みはウキアナですが奈良 大和高田にあります。欠史八代の安ねい天皇浮穴の宮。私は浮穴という呼称は重要な意味があると思っているのでありがとうございました。

四国説に興味のある人はこのサイトに多いと思う。
私が前みたビデオとやましさんが関係あるかどうかわかりませんがー
非常に面白いし。いろんな根拠になる場所が存在しますし。ただー結構話が飛ぶ傾向にあるように思う(青草ジャンピング型の私がいうのもなんですが。。)
ビデオは天岩戸。邪馬台国。考徳天皇稜。豊崎長柄難波の宮。も四国だったとおもう。
そんなことはなかろうとおもいつつ。妙に無視できない。妙な説得力があったのを記憶しています。

今回。やましさんで考古学的な情報を得たのはよかった。

神奈備さんの質問も興味があるからだろうとおもいますよ

ちょうど阿波忌部の話で四国が浮上しましたし

私がビデオでみた 淡路島が 阿波路という意味が本来なら
阿波国と淡路島 沼島 友が島 淡島神社の関係で見ることが大事ではないかと思っています。
このラインは黒潮ルートにとって大事な個所
友が島に自衛隊が張っている?のもその性らしい

&住吉大社の今はない あわの神事も関係あるのかなあとぼやーーーと

難波津の謎の八十嶋祭りも 淡路島との関係をいう人もいますからねえ。。。阿波か???

アワという言葉は要チェックかな?

[7753] Re[7751][7749][7748]: 猿田彦大神=魏使説  神奈備 2006/09/04(Mon) 17:49 [Reply]
> やましさん
> ここは論争の場所というわけではなく、ある程度根拠を示しながら様々な説を述べる掲示板だと理解しています。

ボクシングのリングに例える方もおられます。ただ、特殊な問題(例えば邪馬台国は阿波だった)などについては、その方面の知識がかたよった方にしかない場合、お説を拝聴するしかないこともありますね。

しかし、猿田彦についての小生の素朴な疑問にお答えることもなく、猿田彦使者説を反復されるだけなら、掲示板の意味がありません。

[7752] ところで  角谷武雄 2006/09/03(Sun) 19:59 [Reply]
古代出雲歴史博物館って出雲市よりも安来市にたてたほうが
ふさわしいのでは?

[7751] Re[7749][7748]: 猿田彦大神=魏使説  やまし [Url] 2006/09/02(Sat) 10:05 [Reply]
>神奈備さん
ここは論争の場所というわけではなく、ある程度根拠を
示しながら様々な説を述べる掲示板だと理解しています。

私は記紀の神代の記述は、畿内王権を輩出したある地域
の実際の出来事だと考えています。
ただ、その地域と時代はたった1つしかないので、
その推測を誤ると記紀の記述が間違いだらけという
解釈をしなければならなくなります。

推論の過程は以下のようになります。
魏志倭人伝の24の国名データからは、邪馬台国が東四国となります。
最近はようやく畿内王権の成立に東四国が大きくかかわっていることが
考古学的にも認められるようになってきました。
http://www.geocities.jp/yamatai4/hitei.html

弥生時代末期〜古墳前期の遺跡と遺物から邪馬台国の中心地域は
阿波国大麻山周辺となります。(鮎喰川流域はそれ以前の中心地域です。)
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/index.html

記紀の系譜が十分長いこと、後世の中国正史における同一視から、
邪馬台国が畿内王権につながるという考えは自然です。
さらに、記紀に鏡が祭器として使用されていることを考えると、
記紀の神代は弥生時代末期以降となります。
すると卑弥呼=天照大神が自然に推測されます。
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/amahimi.html

では、記紀に魏からの使者の記述はないのかという疑問が
でるわけです。そこで猿田彦大神がその使者ではないかと
考えるわけです。猿田彦大神は、天照大神から大神と呼ばれたり、
他の神々が面と向き合うのも恐れる異色の神です。
そういう意味では日本的ではない気がします。
また大きな鏡のような目が輝き、口と尻も輝くということ
を現実的に理解しようとすると、明光鎧くらいしかないと思います。
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/saruta.html

もちろん他の現実的な解釈があれば、検討したいです。

[7750] ご案内                MADOKA 2006/09/01(Fri) 02:24 [Reply]
和歌山文化協会(郷土研究会部・史遊会)主催 和歌山県教育委員会:きのくに県民カレッジ単位認定講座9月公開講演会のご案内(一般の方々のご参加歓迎。

総合テーマ?
「紀州の伝説を彩る群像4」
「南方熊楠と熊野の風土」 

昭和天皇の御歌「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」に詠み込まれた南方熊楠という人は、希有の才能の持ち主であった。民俗学の創始者柳田國男、国文学の鬼才・折口信夫〈釋迢空〉らも熊楠には格別畏敬の念をはらっていたことからでも、その偉大さが偲ばれる。熊野という不思議な霊力の満ちた森を背景にした風土から、熊楠が何を学び、どのようにして野性的な感性を磨き、多重多層の柔軟な発想法を身に付けていったのか。その謎に迫るとともに柳田國男らの目指した民俗学との決定的な差異を明らかにしたい、と考えます。
記日
時: 平成18年9月3日(日) 午後1:30~4:30
主  題:
「南方熊楠と熊野の風土」
(紀州の伝説を彩る群像第4回)
講 師: 松原 右樹(民俗学者)
会 場: 和歌山県立図書館(きのくに志学館)2階講義室
    和歌山市西高松1-7-38  073−436-9500  436-9530  
交通:バス停「車庫前」か「高松」下車、徒歩約5分。「サンピア和歌山」の南隣
当日会費: 500円
問合せ先: 和歌山文化協会キ郷土研究会部
小弓場(こゆば)弘文 TEL/FAX 073-445-6660
〒641−0052和歌山市東高松4丁目1−21
次回予告:10月14〜15日(日)「全国小栗サミット」(藤沢市遊行寺他)
   和歌山文化協会 TEL 073-436-3580   FAX 073-436-8747
〒640-8268 和歌山市広道20 第2田中ビル1

>「邪馬台国は阿波だった」
これは昔。ウガででましたわ!
『すべては 阿波 阿波路から始まる』という謎のビデオみましたわ

阿波中華思想は存在するようですね?私は難波津中華思想ですが!? はっはっはっ!


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