神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成十九年 六月 2007.6)お名前の敬称は省略しています。

[8344] 戌亥の方向 西北方  神奈備 2007/06/27(Wed) 17:32 [Reply]
 戌亥の隅は家にとっての重要な地点で、酒が湧き、黄金が出ると言う。

 家ぼめ歌  この家の戌亥の隅に、かめ七つ、七つのかめに、ささら波立つ泉湧く酒

 この歌は家の北西の隅が、酒がわき出る所とされ、それが七つの甕としているのが面白い。

 西北の方向については、内宮に対して外宮が西北に位置し、かつ遙か遠い西北の丹後の地から勧請されてきたこと、かつ内宮の太一(北極星)に対して、外宮は御饌神としての北斗七星であるのも方向と数字で一致している。

 ついでに、養老の滝ではありませんが、酒の出る井戸とは酒井であり、境であるということ。

[8343] Re[8337]: 星談義、交野から。  神奈備 2007/06/26(Tue) 10:16 [Reply]
 神社だけではなく、家も神祭りの場です。客間などに仏壇と共に設置されている神棚、その隣のは両陛下の御影と言うのが昭和のお家の表の神々の姿。

 一方、家のそれぞれの空間、台所には竈神や愛宕神、厠には厠の神、井戸には水神などが祭られており、祠を置く場合もあったのでしょうが、お札を貼っているだけ、榊をくくりつけているだけと言う祭り方がありました。

 家の裏方に祭られる神はやはり後戸の神なのでしょう。竈神は荒神ともされ、火神であり、旅行の神でもあり、生活全般の神として祟りと恩恵の両面を持つ裏方の最大の実力を持つ神でした。裏方神は出雲にも行かず、留守神でもあり、家庭の主婦が司祭に当たったのです。

> 天において秩序の機を織り成す神がかろうじて暴れん坊を押さえ込んだ^^

 倭文神もそうですが、表の神々はまさに秩序維持の神々と言えるのでしょう。裏側の神々とはこの世と異界とをつなぐような働きを持っている神なのでしょう。民俗信仰的には後ろが面白く、本音なのかも。

[8342] 津々浦々  神奈備 2007/06/25(Mon) 19:56 [Reply]
 後戸の神と言う言葉がありました。表に出ている神よりも力を持ち、表の神から取り次ぎを受けて働く神のことで、単純化すれば、ちやほやされる天津神よりも、その裏にいる国津神や石神などを言うのです。

『旧事本紀』から
饒速日尊降臨の際に船長、同じく梶取等としてお供した中に

為奈部等の祖     天津赤星

 また同じく饒速日尊降臨の際に五部人としてお供した中に
為奈部等の祖     天津赤占
と言う神の名が見えます。

 船や航海に関する神に星(つつ)神の名が見えることは実に興味深いことです。またその造船に関わった神が天津赤占、いかにも裏方の神の名と見えます。

 住吉三神の名である筒男の筒をどのように解釈するかとの論議があります。航海と星との関連から見ればツツオは星男だろうと思いますが、住吉大社の真弓宮司さんのように、各地の港の神として津々浦々の「津々」とする意見もあります。

 津々浦々の中に何となく天津赤星・天津赤占の「星ツツ占ウラ」が取り込まれているようで、表の神と後戸の神を合わせたように見えます。
 底筒男の底力を見る思いです。

[8341] Re[8340]: 明流い星談義  神奈備 2007/06/25(Mon) 09:22 [Reply]
>> 「天白」を「天一神(北極星)・太白(金星)の略」とする説は有名
> 有名ですが、
> ・なぜ、北極星と金星がセットなのか?

 天白とは北極星であるかも知れないし、はたまた金星かも知れないと言う意味でしょう。セットと言う考え方はないものと思います。

 天照大神を祖神とする王権から見て、目障りな星が天白だったということ。で。目障りと思われる星の一つに北極星があります。この星はまさに天皇大帝そのものとされているからです。
 もう一つの金星は白昼に太陽と並んで見えることもあり、明け方は太陽より先に昇ってくる時もあり、夕方には太陽が沈んでも、西の空に輝き続けているからです。

 『日本書紀』巻十五顕宗天皇三年(丁卯四八七)二月丁巳朔◆三年春二月丁巳朔。阿閇臣事代銜命。出使干任那。於是月神著人謂之曰。我祖高皇産靈有預鎔造天地之功。宜以民地奉我月神。若依請獻我。當福慶。事代由是還京具奏。奉以歌荒■田。〈歌荒■田。在山背國葛野郡。〉壹伎縣主先祖押見宿禰侍祠。

 『浦島伝説に見る古代日本人の信仰』増田早苗 から
 月神、日神の祖と高皇産靈を称えています。この高皇産靈を金星としています。

[8340] Re[8336][8331][8330][8329][8328]: 明流い星談義  SAKI(PONTA) [Url] 2007/06/25(Mon) 02:08 [Reply]
>「天白」を「天一神(北極星)・太白(金星)の略」とする説は有名

有名ですが、
・なぜ、北極星と金星がセットなのか?(太陽と月はセットだろうけど。)
・北極星や金星は水神か?(天白神社は川沿いに水神として建てられている。)
という疑問が残ります。

[8339] Re[8338][8337]: 星談義、交野から。  くず 2007/06/24(Sun) 19:29 [Reply]
> 『常陸国風土記』久慈郡太田郷の項に、「三野から常陸へ長幡部の祖多弖命が来た。彼らの織る布は強い兵士も鋭い刃も裁ち切れない。」とあります。

太田ですか。長幡部の祖がいた美濃の本巣には舟木山があって6世紀の朱塗りが特徴的な古墳群があるそうです。日神を出す船木さん関係してたかな?

>  交野市私市の天田神社の項で書いたのですが、3世紀末とされる森古墳群が山中から見つかっています。未発掘です。これが物部のであれば面白い。

森古墳群の雷塚古墳は形が箸墓に近いとか、さらに古いと目される鍋塚古墳と弥生の高地性集落と非常に興味深いです。首都(大和)防衛の点では大和川流域龍田の地と並んで要衝だったでしょう。5世紀中頃から7世紀始めの大規模集落跡私部遺跡と、これは継体帝との関係が興味深い。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60121a.htm

私部は守屋から豊御食炊屋比売命へ寄進されていますが、これは守屋軍が滅ぼされた後、物部の土地が没収された話かも。交野は當麻寺の前身となったという万法蔵院禅林寺があったとも言われる地。
http://kamnavi.jp/as/katuragi/taimadera.htm

機織繋がりも興味深いですが、関係した麻呂子皇子は丹後に土蜘蛛退治の伝承もあって、
物部−継体朝から勢力を奪った話ではなかったでしょうかね。

[8338] Re[8337]: 星談義、交野から。  神奈備 2007/06/23(Sat) 19:45 [Reply]
> 天において秩序の機を織り成す神がかろうじて暴れん坊を押さえ込んだ^^

何故、倭文神武葉槌命が悪星神を滅ぼしたのか、実に説明しにくい所です。

『常陸国風土記』久慈郡太田郷の項に、「三野から常陸へ長幡部の祖多弖命が来た。彼らの織る布は強い兵士も鋭い刃も裁ち切れない。」とあります。

 倭文部ではありませんが、昔、防弾チョッキになるような布があったのでしょう。

 交野市私市の天田神社の項で書いたのですが、3世紀末とされる森古墳群が山中から見つかっています。未発掘です。これが物部のであれば面白い。

http://kamnavi.jp/mn/osaka/amata.htm

[8337] 星談義、交野から。  くず 2007/06/22(Fri) 20:43 [Reply]
星降りの話から。
河内の交野に嵯峨天皇の時代に(弘仁年間)に星が降ったとか。
機物神社もあって、星にまつわる伝承の濃いところ。
http://kamnavi.jp/ym/osaka/hatamono.htm
棚物神社は機織の伝播を伝えていますが、実際に近隣の枚方市茄子作遺跡からは日本最古の機織(高機)の部材が出土しています。5世紀後半だとか。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/history/33418.html

交野は天物部25部の肩野物部の根拠地とされ、枚方市伊加賀は伊香我色男命、崇神帝の母でもある伊香色迷命の出身地とも言われます。
交野の森古墳群は4世紀と古く、また森遺跡は肩野物部と関連があると見られる5-6世紀の鍛冶工房だそうで、この時代の交野はおそらく物部の全盛。
物部氏(あるいは伊香我色男命)と交野に伝わった機織は関連していたように思いますね。

>天津甕星とは金星のこと。

東から昇って西に沈む。星の巡りは一年周期。この天の法則にまつろわないのが惑星です。見かけ上特に激しく動き回り、また輝きが強い金星をまつろわぬ象徴に例えたのだと思います。
天において秩序の機を織り成す神がかろうじて暴れん坊を押さえ込んだ^^







[8336] Re[8331][8330][8329][8328]: 明流い星談義  SAKI(PONTA) [Url] 2007/06/21(Thu) 20:46 [Reply]
天白神社
>従来のPONTA説は「本来の祭神は、伊勢津彦命(神武天皇の家来によって伊勢を追われた風水の神)あるいは瀬織津姫命(太陽神・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊の妻の水神)」でしたが、最近のPONTA説は中国の「天呉・河伯の略」あるいは、「天呉(水伯)」としています。

天白を「天呉・河伯の略」あるいは、「天呉(水伯)」とするのはPONTAだけでしょうね。有名なのは、「天一神(北極星)・太白(金星)の略」という説ですね。(伊勢神宮では、北極星=太一神としているようですが。)
http://www.kirari1000.com/original/00101b/base_data/taiitu.html

北極星は、全ての星がその星を中心に回るので、星の王、王の星で、金星は見えるとよくないことが起きる不吉な星のようですね。凶事が起こることを恐れて神として祀ったのかな。(でも、「天皇」とは「天の白い王」と書くわけで、漢字では、金星のイメージなんですけどね。)

[8335] Re[8334][8333][8332][8331]: 明流い星談義  神奈備 2007/06/21(Thu) 20:02 [Reply]
 玉置山は星崎の星宮社ではないかと小生も思っていました。
> http://www.kasadera-e.nagoya-c.ed.jp/hoshizakijo/heimenzu.htm
この地図を見せて頂いて、さもありなんと思いがつのりました。


 天津甕星とは金星のこと。金星は太陽と地球の間に入り、少しだけ斜めになる所で光度最大のー4.7になるそうです。満ち欠けがあり、やや細い三日月形に見えるのです。だから甕星。


[8334] Re[8333][8332][8331]: 明流い星談義  SAKI(PONTA) [Url] 2007/06/21(Thu) 01:24 [Reply]
「玉置山」は依然として不明です。
もしかしたら、星崎の星宮社かな。
http://kamnavi.jp/en/mikawa/hosizaki.htm
↑に「鎮座地はかって熱田神宮からつながる笠寺台地の先端に当たる。東に鳴海潟、西に年魚市「あゆち」潟を分けた岬の先端と言うこと。」とあります。愛知県豊橋市に高師原という台地があって、その先端が「高師山」と呼ばれていました。笠寺台地の先端も「山」と呼ばれていた可能性があります。この「岬の先端」に星宮社はあったのですが、後に「周囲の様子を良く見渡せる場所」ということで、星宮社は現在地に遷座させられ、旧社地には星崎城(現笠寺小学校)が建てられました。この周辺では1番高い場所(山)に星宮社はあったということです。(高師山にも現在は高師小学校が建てられています。校内に「高師山」の石標があります。)

星宮社の社伝には、「637年に建てられた」「天津甕星、この地の崎に影向(PONTA注:影向=神仏が仮の姿をとって現れること)す」「星石というものあり」とあります。637年は舒明天皇の御世で、祭神の天津甕星は衆生を救う妙見菩薩の仮の姿とも言われています。(祭神を建御名方神とする説もあります。)

1632年(1670年とも)、星宮社の南の南野村に隕石が落ち、約200年後の1829年に喚続神社へ寄進され、社宝となるも、「日本で最も古い隕石(当時の鑑定。現在では2番目に古い隕石とされる)」と認定されて、「南野隕石」と命名され、現在は国立科学博物館の所蔵品となっています。星宮社には、「641年に、この地に星が降ってきたことにより創建された」「8世紀、13世紀にもこの地方に隕石が落ちた」という言い伝えがあり、まさに「今猶且星落焉」状態ですね。

山麓は海だったわけで、掘ればすぐに海水が湧き出ます。で、星崎や千竈(ちかま)は、塩の産地でした。「千竈」は、「塩を作る竈が、1000基並んでいた所」という意味とも、星宮社は星が落ちる前は「上知我麻・下知我麻神社」(現在は熱田神宮の境内に遷座)と呼ばれていて、この「知我麻(ちかま)」が千竈という地名になったとも言われています。(ちなみに、上知我麻・下知我麻神社の祭神は乎止与命とその妻の真敷刀俾です。乎止与命は、景行天皇の御世、大和国高尾張邑から来た尾張氏の祖といわれる人物で、その娘の宮簀媛命は、景行天皇の子の日本武尊と結婚しました。)そういう土地ですので、隕石が落ちれば、そのクレーターに噴出した地下水がたまって池となり、隕石を取り出せない状態、「星之常宿所也」の状態になったことでしょう。

星崎城の地図を見ると・・・
http://www.kasadera-e.nagoya-c.ed.jp/hoshizakijo/heimenzu.htm
城の南に星宮があり、その東の池が星池かもしれません。
ちなみに、城の西にある秋葉神社がある山を「神輿山」と言います。平将門の乱の平定のために、熱田神社の神輿をこの地に移して祈願し、その後、神輿を一時安置したことで神輿山と呼ばれるようになりました。それ以前の山名は不明です。なぜ熱田神宮で祈祷しなかったのか? 平将門と言えば、最初は妙見菩薩がついていて、後に八幡神がつくわけで、将門を破るには妙見菩薩の助けが必要だからかな?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/masa_03.htm
熱田神社とこの秋葉神社の間に、将門の首を洗ったとされる米噛橋があったそうで、現在は社宮司社が建てられています。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/taic_001.htm

[8333] Re[8332][8331]: 明流い星談義  SAKI(PONTA) [Url] 2007/06/19(Tue) 21:38 [Reply]
今日は図書館で、
・『風土記』
・愛知県神社誌
・愛知の地名辞典
・愛知の民話
を調べてみましたが、「玉置山」は『風土記』の本以外は載っていませんでした。もしかしたら、もう存在しないのか、名前を変えて存在しているのかも。

『風土記』の本に「尾張の語源は、ヤマタノオロチの尾から神剣が出たこと」だとする引用が載っていましたが、これは俗説で、『風土記』からの引用とは思えません。(正しくは「尾張氏の居住地」の意味でしょう。)ヤマタノオロチといえばスサノオであり、スサノオといえば、伊勢国の式内・粟皇子神社(皇大神宮摂社の粟皇子神社)の祭神が須佐乃乎命御玉道主命ですから、玉置山の道主命は、丹波道主命ではなく、須佐乃乎命御玉道主命なのかも。
http://kamnavi.jp/en/ise.htm

民話に出てくる山の石は、小牧山の「7つ石」くらいでした。(尾張のほとんどは濃尾平野で、山は国境付近に少しあるだけ。だから山に関する民話の数が少ないのかなと思います。)この7つ石は古代の祭祀場だとされていますが、伝説は仏教的です。
http://www.city.komaki.aichi.jp/kanko/komakiyama/komakiyama2.html#densetsu
(↑では8個になっています。「7つ石」の「7」は「7個」の意味ではなく、「たくさんの」の意味だそうです。)

小牧にあるから小牧山なのですが、「小牧」の古名は「曳馬」「駒来」であり、「馬市が開かれた場所」の意味だそうです。馬市が開かれる前は、何と呼ばれていたのか知りたいものです。

[8332] Re[8331]: 明流い星談義  神奈備 2007/06/19(Tue) 17:38 [Reply]
> 八頭八尾の龍とはヤマタノオロチでしょうか?

 『古事記』『日本書紀』八俣のオロチ、「その形はいかに」、「身一つに八つの頭、八つの尾あり」ですから、ヤマタノオロチなのでしょうね。

 大和の国に八剣神社が鎮座、由緒としては、「神代のむかし素盞男尊八岐大蛇を退治したまいき 大蛇は身を変え 天に昇り神剱となって布留川の上流八箇岩に天降りしを水雷神とがめ貞観年間にこの地に氏神として斎られた。」とあります。

 同じ名前の神社が尾張の国にもあります。八剣宮。草薙の剣は熱田神宮にあるので、それに付随した眷属神など多くの神々が尾張に入ったのでしょう。

[8331] Re[8330][8329][8328]: 明流い星談義  SAKI(PONTA) [Url] 2007/06/19(Tue) 00:07 [Reply]
尾張一宮の真清田神社の祭神は尾張国の開拓者の「天火明命」で、真清田神社によると、祭神の正式名称は「天照國照彦火明命」だそうですが、どちらも「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」の略称でしょうね。社家の尾張氏は、物部氏とも関係がありそうですね。

尾張国の開拓者は8頭8尾の龍に乗ってきたので、尾張国は海部郡、中嶋郡、葉栗郡、丹羽郡、春日部郡、山田郡、愛智郡、知多郡の8郡なのだそうです。8頭8尾の龍とはヤマタノオロチでしょうか?

名古屋市に天白区があります。その語源は天白神社です。天白(てんぱく。天伯)神社については、40年以上も研究されている方がいて、その方の調査だと祭神が56通りあるそうです。水神ということなので、従来のPONTA説は「本来の祭神は、伊勢津彦命(神武天皇の家来によって伊勢を追われた風水の神)あるいは瀬織津姫命(太陽神・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊の妻の水神)」でしたが、最近のPONTA説は「白」を「ぱく」と読むことや、日本の神に無理やり当てはめた結果、56通りにもなってしまったとして、「渡来神である」とし、具体的には、中国の「天呉・河伯の略」あるいは、「天呉(水伯)」としています。河伯(かはく)は、「河童」の語源とされる黄河の水神(元は黄河に住む蛇だったが、後に竜となり、河川の神の総称となった)で、「天呉」(てんご)は、「水伯」とも言い、中国の遥か東方の朝陽の谷の水神で、八面ハ脚八尾! ヤマタノオロチ?

『山海経』(中国最古の地理書)「海外東経」より

「朝陽之谷。有神。名曰天呉、是爲水伯。在虹虹(虫の上に工)北兩水間。其為獣也、八首人面八足八尾 。皆青黄。」

「朝陽の谷。神有り。名を天呉と曰い、是を水伯と爲す。虹虹(こうこう)の北、兩水の間に在り。其の獸なるや八首人面八足八尾。皆な青黄。」

[8330] Re[8329][8328]: 明流い星談義  神奈備 2007/06/18(Mon) 10:56 [Reply]
 海部氏は丹波(丹後)から尾張にやって来たと言われています。
 彼らは海人でしょうから、星への知見と信仰を持っていたと思われます。
 尾張に海部郡がありますが、この地域に玉置山や星池があるのかも。

 物部遠祖の饒速日尊が降臨したときに供をした船長・梶取等の神々の名が『先代旧事本紀』に記載されています。

船長跡部首人等の祖  天津羽原
梶取阿刀造等の祖   大麻良
船子倭鍛師等の祖   天津真浦
笠縫等の祖      天津麻占
曾曾笠縫等の祖    天津赤麻良
為奈部等の祖     天津赤星

 マラとホシのコンビです。マラは鍛冶屋、ホシは船作や水先案内かも。

 天津赤星は為奈部等の祖とされています。普通、饒速日尊6世孫の伊香我色男命を為奈部としています。このイカガシコオと星神の天津甕星(別の名で天香香背男命(カカセオ))に通じているようです。甕星とは赤星と見ていいのでしょう。

 式内論社とされている二つの星神社が名古屋市内に鎮座、祭神は共に天香香背男命です。

[8329] Re[8328]: 明流い星談義  SAKI(PONTA) 2007/06/17(Sun) 20:00 [Reply]
「玉置山 出鹿狐。在神號道主命。亦有一小石。昔人云、赤星之所落也。山麓有星池。星之常宿所也。亦有怪石。星之所化石也。今猶且星落焉」

尾張で星といえば、赤星神社に阿豆良神社ですか。
私が思いついたのは、
・星崎の星宮(末社の上知我麻社は式内・上知我麻神社の論社)
http://kamnavi.jp/en/mikawa/hosizaki.htm
http://kamnavi.jp/en/owari.htm
・星神社(式内・坂庭神社の論社)
http://kamnavi.jp/en/owari.htm
の2社でした。
それにしても、『風土記』に出てくる場所が特定できないというのは残念です。

『風土記』によると、玉置山に坐すのが道主命で、山麓の星池にあるのが星の化石かな。(SF風解釈だと、星池の湖底にUFO基地があって、その離陸・着陸(離池・入池)が何度も目撃されてるってことになるでしょうか。)道主命とは、丹波道主命かな。尾張氏と丹波氏は深い関係(もしかしたら、尾張氏=丹波氏)ですので。

尾張一宮=真清田神社(一宮市) 祭神=天火明命 社家=尾張氏
http://www.masumida.or.jp/
尾張ニ宮=大縣神社(犬山市宮山) 祭神=大県大神(大荒田命) 社家=邇波(丹羽)氏
尾張三宮=熱田神宮(名古屋市熱田区) 祭神=熱田大神(草薙神剣に宿る天照大神) 社家=尾張氏(後に藤原氏)
http://www.atsutajingu.or.jp/

大縣神社の丹羽(にわ)氏も丹波(たんば)氏かも?(大縣神社も阿豆良神社も丹羽郡の神社です。)

[8328] 明流い星談義  神奈備 2007/06/15(Fri) 14:18 [Reply]
 京都の鞍馬山は2億数千年〜7千年前の地質で成り立っているとのことで、すがすがしい場所なのは地質の古さの影響があるのかも知れません。
 この鞍馬山に650万年も前に、人類救済の使命を帯びて金星から天降ったのが護法魔王尊で、大地の守り神となっています。
 星からの来訪者の記録としては最も古いお話なのでしょうが、その頃に人類はいたのでしょうか、また誰がこの伝承を伝えたのか、いささか疑問。

 『尾張国風土記』逸文:雲根志)に、「尾張国玉置山に一つの石があった。赤星の落ちた所。麓に星池がある。云々。」とあります。
 現在、愛知県には玉置山と言う山は、カシミールでは見いだせません。
 由緒は不明ですが、名古屋市中川区富田町に赤星神社が鎮座、根裂神を祭神としています。根裂は火星と言われており、赤星の名は妥当な所です。

 もうひとつ「赤星の落ちた所」に似合いそうな玉置山は、熊野の奥宮とも言われる玉置神社の鎮座する山でしょう。御神体は水のしみ出る巨石ですから。
 余談ですが、某女史達が台風の近づいている最中に玉置山を目指した際、玉置山の神は「今日は山の木々を守るのに忙しい。君らを守ってやれないので、来るな。」と言ったそうです。

 尾張国(一宮市)に阿豆良神社が鎮座、ここの神は天甕津媛命といい、『出雲国風土記』では秋鹿郡に、赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけの命)の后として登場します。また『出雲国風土記』の楯縫郡に、阿遅須枳高日子命の后として出てきます。その天甕津媛命は秋鹿ならぬ美濃の花鹿山から榊に乗って尾張国(一宮市)に降臨、今日まで鎮座しています。天甕津媛命は悪神とされた星神天津甕星の后ともされているようです。

 尾張で言えば、尾張大國霊神社と言う式内社が鎮座、ここの神主家は天背男命の末裔がその任に当たっているそうです。天背男命は天香香背男命と同じ神と見なされ、この神はまた天津甕星の別名となっています。
 
 天香香背男命(天津甕星)を祀る神社は全国的に分布しています。明治になってから星神を祀る神社はその祭神を『記紀』に探すと天香香背男命(天津甕星)しかなかったので、この神に変更した可能性もあります。この事は当掲示板[3396]で日雲さんが指摘されていました。

[8327] Re[8326][8325]: 明流い当麻峠  神奈備 2007/06/11(Mon) 19:36 [Reply]
> 巣山古墳 死生観、信仰思想

 船、鳥と揃っていますね。月も出ています。

 この巣山古墳を奥宮とするような場所に讃岐神社が鎮座。この付近はかぐや姫の伝承地の一として売りだし中です。
 大筒木垂根王の御女の迦具夜比売命は讃岐の垂根王(叔父さん)に育てられたのです。多分、父親の大筒木垂根王は開化天皇の孫で、崇神天皇の王朝交代で滅ぼされた一族なのでしょう。

 系譜では垂仁天皇に娶られて袁邪弁王を生んだことになっていますが、この御子はそれからどうしたかは記載がなく、後世に出来た「竹取物語」のように、滅ぼされた王朝の血を引く姫として滅ぼした王朝の男共は皆敵であり、婚姻に応じなかったとの言い伝えが残り、婚姻を強制された時点で自殺をしたのかも。それが月に行くと言う物語になったのでしょう。

> 死者が向かう月の世界には機織の姫の存在もまた必要だったのではないでしょうか。

 月の神を月読と言うのはごまかしであって月黄泉だったと言うこと。織姫の存在は介添え役としてはうってつけだったのでしょうね。


[8326] Re[8325]: 明流い当麻峠  くず 2007/06/10(Sun) 00:26 [Reply]
>この当麻の地は、河内と大和の境の地、息長足姫の母が生まれた地、相撲発祥の地、七夕と鴨大神の現れた地、この国の古代が集約されているような地です。

当麻寺、当麻蹴速の塚と先月行ってまいりました。

土師氏からですと、埴輪、葬送の儀礼を考えますが、
二上山の北東、比較的近い場所に巣山古墳があって、ここから葬送につかったと思われる喪船の一部が出ていますね。他にも水鳥型の埴輪、弓を入れる筒、靫を模した木製埴輪と、興味深い出土品があります。
これらの出土品は、巣山古墳から時代は下りますが、筑紫の珍敷塚古墳等にに描かれる、死生観、信仰思想と思われるものと共通したもののように思います。

死者が向かう月の世界には機織の姫の存在もまた必要だったのではないでしょうか。

また巣山古墳から真西に古市古墳群、その西に百舌鳥古墳群と、ほぼ同じ緯度上に作られます。
この間の大墓造営に携わっていた集団はこの死生観、思想を共有していたのではないか・・



[8325] 明流い当麻峠  神奈備 2007/06/06(Wed) 20:49 [Reply]
 近鉄南大阪線の当麻寺駅から西へ行くと当麻寺、その途中に当麻蹴速の塚があります。『垂仁紀』に、「当麻蹴速と野見宿禰とに相撲を取らせて、野見宿禰が勝ち、当麻蹴速の土地は没収されて、野見宿禰に与えられた。」と書かれています。
 菅原道真公の末裔の塩小路さんは、当麻に負けた方の当麻蹴速の塚があるのに、勝って土地を領有した野見宿禰の顕彰碑がないのはおかしいと言っていました。
 確かに、当麻の名も残り、野見なり土師なりが支配した気配は地名からはまったく感じられません。竹内街道から急な石段を登ると菅原神社が鎮座していますが、これを気配と言う訳にはいきませんね。

 饒速日尊の降臨に天物部等二十五部人が兵仗を泰びてお供をしたと『先代旧事本紀』にでています。當麻物部といいます。饒速日尊の降臨は哮峯に行われたのですが、當麻物部の場合には二上山と言われています。当麻の地はサヌカイト産出の地でもあり、河内と大和の境界の地でもあり、重要な地でした。そこを支配していた当麻蹴速を王権が惨殺したのでしょうが、野見なり土師が入り込むことは出来なかったようですね。

 当麻には倭文神を祀る葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座しており、この倭文連等の祖の伊佐布魂命は饒速日尊の天降りの際に防衛の役として同行しています。

 『七夕と相撲の古代史』平林章仁著)には、土師と倭文の分布が似通っていることを指摘しています。
 現に因幡国高草郡の式内社に倭文神社と大野見宿禰命神社が出ています。

 当麻の太田遺跡からは山陰系の土器が多く出土していおり、いかにも土師氏の移動があったように思われます。同時に倭文の技術集団もやってきたので、葛木倭文坐天羽雷命神社が祀られるようになったのでしょう。

 倭文氏は七夕伝説を持っており、下照比売の「天なるや 弟棚機の ・・」の歌も伝えられたのでしょう。

 さて、常陸において、倭文神建葉槌神が天津甕星と言う王権にまつろわぬ神を退治した物語があります。この天津甕星は天香香背男の別名を持っております。饒速日尊降臨のお供の中に天背男命や為奈部等の祖の天津赤星がいますが、彼らと無関係とは思われません。倭文神の祖の饒速日尊のお供であったことから言えば、王権サイドの物部(これを内物部と言う)がまつろわぬ物部(外物部)を攻めたと言うことでしょう。

 この当麻の地は、河内と大和の境の地、息長足姫の母が生まれた地、相撲発祥の地、七夕と鴨大神の現れた地、この国の古代が集約されているような地です。

[8324] 天照は出雲にいた  みんなで古代史を考える会 [Url] 2007/06/06(Wed) 20:14 [Reply]
出雲大社に古代、32丈、およそ100メートル近くもあるという神殿が建っていた。
そこに、この列島の大王たる『天照』が君臨していた。
それが、唐に滅ぼされ、天照はその唐に征服されて『天皇』が誕生した。
銀行の合併のごとく、天照の『天』と唐の皇帝の『皇』の合体で、『天皇』制が誕生した。
つまり、『天皇制』誕生は、白村江の戦いの後、唐にこの列島が征服された後のことであった。

[8323] 明流い誉田別尊  神奈備 2007/06/05(Tue) 08:17 [Reply]
 応神天皇が皇太子の頃、敦賀の笥飯(気比)大神と名前を取り替えたとの故事が『古事記』や『日本書紀』に記載されています。気比大神は伊奢沙和気(記)・去来紗別神(紀)(イササ・イザサ)となり、応神天皇は誉田別尊となったといいます。

 伊耶佐・五十田狭 ・・・ この名の浜で大国主が国譲りを迫られたのです。

 余部の伊佐佐岬に式内社の伊伎佐神社があり、祭神は伊奢沙和気大神、『地名辞書』では天日矛命を祭るというとあります。即ち、伊伎佐神・気比大神とは天日槍のこと。 
 また、胆狭浅(イササ)の太刀とは天日槍が将来した八種の神宝(一書による)の一です。

 イササにからむこれらの話から、応神天皇とは国譲りを受けた天皇と言えるのでしょう。その正体は天日槍の末裔。
 応神天皇は九州の生まれです。九州での天日槍の末裔とは筑紫の伊覩県主の五十迹手です。その彼は仲哀天皇に服属儀礼を行っています。しかし仲哀天皇はこの地で亡くなるのです。地域の県主がこの件に絡んでいないはずがありません。神功皇后と結んで暗殺を行った可能性があります。
 この時代以前に景行天皇がほぼ九州を制圧しています。彼に縁の屋主忍男武雄心命の裔である武内宿禰も暗殺に絡んでいるのでしょう。

 五十迹手その人であったのか、五十迹手と神功皇后の子であったのか、応神天皇は武内宿禰とともに大和を目指します。大和の王権の後継者であった香坂王・忍熊王が迎え撃ちますが、武内宿禰の知略の前に敗れ去ります。

 応神天皇が五十迹手と神功皇后の御子であった場合、五十迹手=天日槍とすれば、神功皇后=阿迦留比売となります。この=末裔の意味を含みます。王権の簒奪者として君臨して行く為には名前を取り替えたと云う話をつくり、仲哀天皇の御子ですよ、最近渡来した者ではありませんよ、連綿と続いた皇統の裔ですよ、と云う宣伝が必要だったのでしょう。実際には取り替えていないのではと思っています。

 『播磨国風土記』での誉田天皇は品太天皇と表記され、飾磨郡安相の里で登場してきます。
 右、安相の里と称するのは、品太天皇が但馬から巡っておいでになった時、云々。
 やはり但馬からと云うのがミソ。

[8322] Re[8321]: 機物神社  神奈備 2007/06/03(Sun) 21:02 [Reply]
>  交野市の機物神社ですが、最寄り駅が間違ってます。
> JR『学園都市線』の『津野』駅ではなく、JR『学研都市線』
> の『津田』駅ですよ。

 洋さん ご指摘感謝! おっしゃる通りです。 駅から南1km。

[8321] 機物神社  『洋』 2007/06/03(Sun) 15:09 [Reply]
 交野市の機物神社ですが、最寄り駅が間違ってます。
JR『学園都市線』の『津野』駅ではなく、JR『学研都市線』
の『津田』駅ですよ。

[8320] 伊和 盾 琴  縁MADOKA [Url] 2007/06/03(Sun) 00:42 [Reply]
とみたさん
>伊和神はオオナムチの神を奉ずるイワ族で、伊和神社は五十猛を祀っています。

オオナムチを奉ずる一族ですか!
オオナムチは追っているんで参考になりました!
五十猛が?謎ですね? 船作りの関係かなあ??

赤い盾は拝見してました ぴこぴこしたんですが、ネット上を浮気の旅をしてたもんで。。操?をたもちつつ神青写掲示版は毎日チェックしてますから。。。。

この紋は 隼人盾紋より古い形では?とおもいました
とんでも青草説として!
焼火の神が源流では?とおもってます
焼火の神は平安時代 海難よけの神として有名でした 歌にも読まれてます
舟玉信仰で日本一古いという話も
三つの海から上がる御神火!隠岐汽船のマークになってます 三つの赤い丸が△に並ぶ
これが 現在の龍神紋の△が三つ△に並ぶルーツかなと これと赤い盾の渦巻きは関係あるのではと
焼火神社(たくひ)神社
http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/

琴は古いですよー! たぶん日本の楽器として一番古い形のようです。一度 出雲?で発見された古代琴の復元をつかったコンサートをしましたが、音の反響版がないので音は非常な微音!。現在の琴の音とはまったく違う!このときの演奏者がおもしろいことを言ってました。音として観客には伝わりにくいが演奏している自分には、音の振動を強く感じることと。夜一人で琴を演奏していると、誰もいないはずなのに、ぶつぶつという人の声がどこからともなく聞こえるらしい。複数聞いた人がいる。神功皇后伝説みたいでしょう!どうも琴は霊魂を呼び寄せる呪具のようです
これで 赤い盾の舞が舞われたかもしれませんね?

たんかさーさん
卑弥呼=アマテラスは私は賛成ではあります
国乱れるのあの逸話は海テラス(女系)−天テラス(男系)への移行期の痕跡かなあと

神奈備さん
>下照比売神が配祀されているのも何かをしめしているのかも。

これは興味シンシン
葛城御歳神社を連想。。。御歳も本来 オオナムチに関係したのが高照(下照 カヤナルミ アカルヒメ) と日矛系?になってると私ハオモッテイルノダー

> 縁MADOKAさん 艶福MADOKAさんが似合うヨ!

マアネエ アタシャー ゴールデンピッグ!デスカラ!

[8319] Re[8318][8317]: 伊和。岩  神奈備 2007/06/02(Sat) 22:10 [Reply]
> 丹波道主は息長系でしょうか?その先祖が日子坐(日下部首の祖)でそのまた先祖が浦島子・・・どうもよくわかりません。
> 日子坐は古事記では三道将軍(日本書紀では四道将軍)の一人で丹波を平定した。垂仁天皇との間のトラブルがよくわかりません。

 時代で云えば、浦島子は日子坐王の後裔となります。丹波道主の後裔でもあるのでしょう。

 垂仁天皇との間のトラブル 丹波から四人の比売達を喚上ましたが、二人は美人ではないとして送り返したので、それぞれ帰路で死んでしまいます。
 瓊々杵命が岩長比売を返したのと似た話です。天皇家は命短しと呪詛されてしまいました。これは凄い話ですが、雄略天皇あたりまでは長寿のようですが。

 垂仁天皇で興味深いのは、本牟智和気の御子のことです。物言わぬ御子、始祖王の雰囲気を持つ皇子です。この皇子の末裔が継体天皇につながると云う話もあるようです。


> 天日槍は新羅から来たことになっていますが、元々は山東にいたのではありませんか。

 兵主の神に擬せられていますので、山東と言えます。秦氏の祖の可能性もありますね。


> 伊和神社は五十猛を祀っています。

 ここが面白いところです。姫路総社の射楯兵主神社は伊和神社から分遷したものであり、当社は射楯兵主神社の元社。射楯は偉大・威厳、兵主は兵庫の主と言うことです。これが伊和神社の説明であり、延喜式では伊和坐大名持御魂神社とあるので、平安時代には大名持御魂神を祀っているとしかいいようがありません。現在ここに下照比売神が配祀されているのも何かをしめしているのかも。
 
 五十猛神も韓鍛冶の神(真弓常忠さん)と見なされており、天日矛神に近い存在なのかも知れません。
 おっしゃる通り、混戦に脱線が入り組んでいるようです。

> 縁MADOKAさん 艶福MADOKAさんが似合うヨ!

[8318] Re[8317]: 伊和。岩  とみた 2007/06/02(Sat) 09:44 [Reply]

縁MADOKAさん 

MADOKAは円です。それに縁をお付けになって、エンエンですね。縁は異なもの、

縁はゆかりとも読みますね。

> とみたさん お久しぶり
> >揖保川の上流には、宍粟郡岩鍋がありまして、播磨一宮=伊和神社があります。伊和=岩=鉄岩 ここで地元の伊和の神の率いる部隊と天日槍が戦っています。鉄岩争奪戦でしょうか。

元ネタは民俗地名にくわしい谷川健一さんです。宍禾(粟)郡千草町岩鍋という地
名がある。”岩”は堅いもの、金属を意味するとかかれていました。千草町の東方に伊和町の伊和神社=播磨一宮があり、これは金属と関係がある。と述べていました。

何れにせよ宍禾(粟)郡は、千草鉄の産地として有名です。

土地の神でオオナムチ系の伊和の神と、侵入してきた天日槍とが戦って、敗れた天日槍が但馬に移った。

住吉大社宮司の真弓常忠さんが著した”古代の鉄と神々”の本の中で、伊和神社のことに触れておられます。

岩鍋は、鉄山必用記事所収の金屋子神祭文に金屋子神が天降って鍋を作ったという岩鍋にほかならないとされています。伊和神と天日槍の争いは鉄をめぐる争いとされています。

伊和神はオオナムチの神を奉ずるイワ族で、伊和神社は五十猛を祀っています。天日槍は兵主神社や蚩尤との関係がありそうですが、いろいろな説が混線しています。但馬に兵主神社が多いことは確かですし、天日槍は但馬の出石と深い関係があることは間違いありません。

袴狭遺跡から出土した、線刻を彫られた木は、船団を描いています。これは天日槍の船団ではないか。古墳時代の前期、4世紀の遺跡です。

垂仁は天日槍の珍しい神宝を出石で求めます。垂仁も4世紀の天皇です。


>
> >伊和=岩=鉄岩
> >鉄岩争奪戦でしょうか。
>
> とみたさんの 自説でしょうか?
> 私は非常にピコンときました(*^0^*)/

by the way)MADOKAさん、神奈備別荘に、弥生時代の赤い盾を紹介しておきましたよ。

ご覧遊ばせ。

赤い盾には、巴文か渦巻き文がありますよ。これは因幡の国の青谷上寺地遺跡の展示館で撮った本物です。

琴の木箱もありました。盾も琴も祭祀用ですが弥生時代には不思議な祭祀があるようです。ピコンピコンとなにか感じられませんか。
>

[8317] 伊和。岩  縁MADOKA [Url] 2007/06/02(Sat) 03:44 [Reply]
とみたさん お久しぶり
>揖保川の上流には、宍粟郡岩鍋がありまして、播磨一宮=伊和神社があります。伊和=岩=鉄岩 ここで地元の伊和の神の率いる部隊と天日槍が戦っています。鉄岩争奪戦でしょうか。

これは非常におもしろかったです
伊和神ってなんかいなあ?と天日槍というひともあり。。・・????だったんで

>伊和=岩=鉄岩
>鉄岩争奪戦でしょうか。

とみたさんの 自説でしょうか?
私は非常にピコンときました(*^0^*)/

[8316] Re[8315]: 明流い太田 天日槍  とみた 2007/06/01(Fri) 11:17 [Reply]
神奈備さん

丹後に神奈備さんの深い思い入れを感じています。

私もあやかって教えていただくことにします。
私も天日槍にこだわっています。
>  『播磨国風土記』に、「昔、但馬の人、伊頭志君麻良比、この山に家居しき。二の女、夜、麻を打つに、即て麻を己が胸に置きて死せき。」とあります。麻打山は揖保郡太子町にあり、阿宗神社が鎮座、息長日子王を祭神としています。神功皇后の弟。
>  
>  さて、但馬の人、伊頭志君麻良比とは、但馬の出石のマラさんです。このマラとは天津麻良などの名に見える鍛冶にたずさわる人で、物部に多い名前です。天日槍命は出石の女を娶り、ここに鎮座しましたが、物部系のバックップを得たのでしょう。伊頭志君麻良比は天日槍命の末裔かも知れません。

岡山県津山の美作一の宮=中山神社あたりも鉄が取れてここも物部が入っていますね。
丹後の弥栄村あたりも3世紀ごろ〜12世紀までの製鉄拠点とか。
>
>  揖保郡太子町には「太田」と云う場所がありました。『播磨国風土記』には飾磨の郡大田の里について以下の記述があります。
>  大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。
>

揖保といえば、播磨です。揖保川の上流には、宍粟郡岩鍋がありまして、播磨一宮=伊和神社があります。伊和=岩=鉄岩 ここで地元の伊和の神の率いる部隊と天日槍が戦っています。鉄岩争奪戦でしょうか。

太田黒田遺跡はJR和歌山駅の近くですね。ここには銅鐸が出てそれが出雲の加茂岩倉の39個の銅鐸のうちの4つの銅鐸と同笵です。

>  まさに播磨の大田は天日槍命の裔のいた場所で息長日子王の居住地にほど近い場所といえます。


神功皇后は、母方が天日槍の四代目の葛城高額ヒメ、父方は息長系です。
丹波道主は息長系でしょうか?その先祖が日子坐(日下部首の祖)でそのまた先祖が浦島子・・・どうもよくわかりません。
日子坐は古事記では三道将軍(日本書紀では四道将軍)の一人で丹波を平定した。垂仁天皇との間のトラブルがよくわかりません。
>  日矛を御神体とする日前国懸神宮の鎮座地は太田そのものです。
>
>  大和国城上郡に 穴師坐兵主神社(名神大)が鎮座、天日槍命を祭る大和の拠点のような神社です。古代都市の纏向の中央に太田地名があります。他田坐天照御魂神社の鎮座地が太田です。その東側に穴師坐兵主神社が鎮座、ここにも太田と天日槍命との関連が見えます。
>
纏向の穴師は鉄の穴、兵主は戦の神、兵主は蚩尤の神だから山東半島からやってきたのでしょうか。山東半島は古代斉の国、産鉄で有名な地です。鉄官という製鉄工場が漢の時代に沢山ありました。纏向には10集落があります。穴師兵主神社を祀っているようですが、穴師川は巻向川とも云います。

天日槍は新羅から来たことになっていますが、元々は山東にいたのではありませんか。

>  天日槍命とペアーである女神の織女即ち棚機姫を祀る神社が大和国葛下郡の太田に棚機神社が鎮座、式内社の葛木倭文坐天羽雷命神社の元社とされています。この辺りには山陰地方から多くの人々がやって来ているようです。
>
或いは、天日槍は長江下流の江南の会稽(今は紹興酒でお馴染みの紹興)にいたかもしれません。

呉越の職人が倭国に出入りしていたようです。後漢書倭伝には、中国の会稽の市に参加した倭人の記録があります。江南は道教の本場、織姫伝説は道教の話です。

天日槍は但馬の出石神社と深いつながりがあります。袴狭遺跡が但馬(兵庫県豊岡市出石)近くにあります。

ここには丸木舟の進歩した準構造船の船団を描いた線刻画の木製品が出ています。
朝鮮半島の新羅と日本海は深い交流が古代からあります。古墳時代の前期つまり4世紀の遺跡ですね。天日槍を連想させます。

丹後は古代においては鉄の流通センターであったとする考古学者もいます。


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