神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十年 十月 2008.10)お名前の敬称は省略しています。

[9565] 土器造  神奈備 2008/10/29(Wed) 10:52 [Reply]
『梁塵秘抄』は平安末期の歌詞・口伝を集めたものですが、1/10程度が残存しています。

246 是より南は高き山、沙羅の林こそ高き山 高き峰 日前国懸(ひのくまこくけん)神宮中の宮 伊太祁曽鳴神とや紀伊三所 

 紀の国の神々の歌です。沙羅の林は高野山か丹生都比売神社、高き峰は高積神社、中の宮は中言神社あたりかなと思っています。


273 住吉四所の 御前には 貌好き(かをよき)女体ぞ坐します、男は誰ぞと尋ぬれば 松ヶ崎なる好色男(すきおとこ)

 住吉大社の第四宮の比売神で魅惑の女神は魅力的な巫女さんの存在を暗示
 その巫女さんには松ヶ崎に愛人がいる。阿倍野区松崎。 


376 楠葉の御牧の土器造、土器は造れど娘の顔ぞ好(よ)き、あな愛(うつく)しやな、彼女(あれ)を三車の四車の愛敬輦(あいぎやくてぐるま)に打ち載せて、受領(ずりやう)の北の方と言うはせばや
 
 楠葉の御牧とは現在の牧野か、受領は今の大使や警察署長と同じで、在任中にとことん蓄財するようです。

[9564] 鉱山跡  素人 2008/10/26(Sun) 22:42 [Reply]
佐々木様
追加情報で。
マキノの鉱山跡は、お得意の地質図で解ると思われます。
5万分の1地質図幅「竹生島」及び説明書 (地域地質研究報告)
ご存じかも知れませんが、あしからず。
正確な位置は荒らされるとのことで教えたがりません。
ここだけでは無いようですが、不届き者がいるようです、残念ですが。

[9561] Re[9553][9552][9549][9548][9543][9542][9540][9536]: 遺構の方位  素人 2008/10/25(Sat) 22:59 [Reply]
佐々木様
しばらくでございます。遅れた書き込みですが。
> > 近江で鉄鉱石を採掘していたら慈石がみつかったのでしょう・・・・
>  近江の磁石、指南車、ささなみの志賀。
> 一体どこで磁石を採掘していたのだろうか。
 掘らなくても、河川に餅鉄・岩鉄などとして河原に古代は転がっていたように聞きます。雷などで着磁したマグネタイトが転がっていればよいのだと思います。琵琶湖の東側の川でも岩鉄は採取されたと聞きます。鉱山としては、前に出ていましたマキノ町の湖岸のスカルン鉱床のマグネタイトでしょう。河原も古代は宝の山だったかも知れません。お役にたてばと思います。

[9560] Re[9557][9555][9554]: 〔9552〕脱線して、天文台  かたばみ [Url] 2008/10/25(Sat) 21:58 [Reply]
>436年北魏に追われて、北燕の王様のヒョウ王は数万人の仲間を引き連れて高句麗に逃げました

五胡十六国の最終段階ですね。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/gokojyuroku.png
ここで参照している五胡十六国/三崎良章も段ボールなのですが、北方系遊牧民が農民を囲い込んで農耕化して南へ流れてゆきます。
結局は当時の中国本家(≒東晋)の文化に染まってゆくようですが、ここで漢人というのはおおよそ東晋を意味します。
ただしみな漢人というわけでもなくいささかやっかい。

殷時代まで遡ると、殷が周に滅ぼされたとき殷の「箕子」が平壌付近に移封されて箕子朝鮮となったとされます。
(箕子は易占を司っていたらしい)
その箕子朝鮮は戦国時代の燕の逃亡者の衛満に簒奪され、箕子朝鮮の王族は半島南部へ脱出した(魏志韓伝)。
素盞鳴尊はその脱出王族とみております。
次いで始皇帝王族も脱出してきた可能性あり(辰国、魏志韓伝)。

朝鮮半島は常に中国戦乱からの脱出者がやってくる場所で、玉突き現象も含めて日本まで・・?
ま、中国からみれば高句麗は中国の歴史だ、というのもうなずけるところです。
当然ながら高句麗地域へは多数の最新文化流入のルートがあっただろうと思います。
(ペルシャ系文化も、遊牧回廊経由か)


さて・・
推古紀は唐を隋と読み替えねばならず、いつだれがどこでに関しては信用しにくいけれど、書かれる事象は事実とみなしておきます。

唐の帝の文を「百済人」が盗んだと書いています。
百済が大和朝廷と「隋」がつながるのをきらったか、当時の大和朝廷が百済を問題視していたことの書紀編纂者の表現、といったところだと思います。
肥後國葦北津にやってきた「百済人」に「なぜ来たのか」と質問(詰問?)しています。
なんらかの百済とのごたごたが存在することをうかがわせます。

新漢人として新漢人大圀、新漢人旻(日文)、新漢人惠齊の3人が遣隋使の一員として書かれ、直後に新羅人が来た、とあります。
新羅人とか百済人と書く場合は倭人の血のはいっていない人でしょうね。


「聖徳太子」は新羅を2度まで攻撃しようとしています、敵対関係。
成功しなかったのはそれを防ごうとする勢力があったからだと考えています。
それは、海運の物部氏、商いの秦氏かも・・

「聖徳太子」以前では百済系と伽耶系の倭人の渡来だったが、高句麗系倭人が渡来しそれを新漢人と称した。
百済人とか新羅人の表現ではないのは高句麗へ渡った倭人を祖に持つ氏族の後裔だからだ、と考えています。
ではいつ高句麗に倭人が渡来したのか・・

以降森浩一先生と同じだとうれしいけれど(^^;
以下長い青草となるので別項とします。

[9559] Re[9558]9555: 〔9552〕脱線して、天文台  神奈備 2008/10/25(Sat) 19:10 [Reply]
> 「馮」という文字はJISにあるようです。

霊が寄りつく意味のヒョウイ(憑依)はすぐに出てきますね。

[9558] Re9555: 〔9552〕脱線して、天文台  どんたく 2008/10/25(Sat) 17:43 [Reply]
とみたさん、こんにちは。どんたく です。

>私は、ン馬氏(ヒョウ)にこだわっています。

「馮」という文字はJISにあるようです。


[9557] Re[9555][9554]: 〔9552〕脱線して、天文台  とみた 2008/10/25(Sat) 10:04 [Reply]
> 西漢は西の文字から半島西南岸の百済系の濃い人々ではないかと考えています。

私は、ン馬氏(ヒョウ)にこだわっています。
436年北魏に追われて、北燕の王様のヒョウ王は数万人の仲間を引き連れて高句麗に逃げました。

高句麗はヒョウ王の首を北魏に差し出したが、その亡民は流民となって百済にどんどん増えたとかかれています(百済本紀)。流民の皇子の名が王仁という名です。北燕は鮮卑族です(慕蓉氏か拓跋氏かどちらか、前燕は慕蓉氏だから北燕も)、北魏は鮮卑拓跋ですね。

王仁は西の漢氏ですね。
新沢126号墳出土のローマングラスも、北燕の亡民の一族が、本拠のステップルートから、もたらしたという説が出されています。


>
> 百済、高句麗、伽耶諸国との並立時代での新羅は弱小国で、新羅での中国系文化は高句麗か百済を経由せねばならず、他国より遅れをとっていると思います。
> この打開策が西アジア系文化の導入(西アジア風の古墳や文物登場)であり、五胡十六国時代(AD350〜AD450あたり)なら百済や高句麗を避ける導入ルートがあったのだろうと考えています。

新羅は6世紀になって、高句麗の支配下から自立し勢力を増します。
智証王→法興王→真興王です。


> 高句麗の慧慈が「聖徳太子」の師として登用されており、なぜ遠方である高句麗からやってきたのか。

森浩一さんの説ですね。
高句麗が鴨緑江流域の集安から平壌に都を遷したとき、朱蒙の墓の墓守も遷して平壌に定陵寺を建てた。神武天皇陵の墓守も大久保(大窪)廃寺に持ってきたのは、聖徳太子の政治指南の高句麗僧、慧慈のアドバイスによるということです。

聖徳太子は、新羅の秦河勝も指南に使っていますね。確かに聖徳太子は蘇我氏と違って百済に偏らず全方位外交でした。





> 「聖徳太子」の出自と密接な関係があるとみております。
> キトラ古墳の天文図なども高句麗系(高句麗で見える天空)ですね。
> (その流れからは、キトラの被葬者は天武系ではない)
高松塚は、石上麻呂の墓説、キトラは阿部氏の墓説がありますが
>
> >天武天皇が、陰陽寮を建てて専門家を育成し自らも遁甲天文を行い月や星の動きを見て占った
>
> 建築で磁石が関連するなら陰陽道における易占しかないと考えています。
> 中国では易占と儒教が結合し、時代によって道教や仏教(おそらく真言系)ともつながって複雑。
> 日本にやってきたものがいつのどのような系譜かもわからないのでなんとも判断できないところです。
> 易占であれば怨念や呪術とも関連して一般的な建築常識とは関係のないパターンもありえるでしょうし。
> 吉野への行幸とか壬申の乱での行動にも影響を与えていると思います。
>
> ちなみに10世紀初頭の易占書に地相易占用の羅針盤の図があって、ここには7.5度ずれた2種の方位が記されており、磁気偏角を意識したものとされるそうです(中国の科学と文明/河出書房新社)。
> 地球磁場の概念はないにしても、不思議な力が存在していることには気がついていたのだと思います。

五行博士がやってきます。高句麗や百済からです。

百済の中国南朝から教えを請い、高句麗は中国北朝から教えを請いますね。仏教でも
別の流儀でしょう。

百済の聖明王から538年か552年かいずれか(説が分かれている)に初瀬川のツバ市に伝えたのは南朝の梁から仕入れた仏教文化ですね。

[9556] Re[9555][9554]: 〔9552〕脱線して、天文台  佐々木 2008/10/24(Fri) 22:18 [Reply]
>新漢人とは今来漢人でしょうか

 たとえば「新漢人大圀」は、「いまきのあやひとだいこく」と読むのではなかったでしょうか。

[9555] Re[9554]: 〔9552〕脱線して、天文台  かたばみ [Url] 2008/10/24(Fri) 10:39 [Reply]
>新漢人とは今来漢人でしょうか

新漢人は飛鳥奈良での高句麗系の渡来人とみておりますが考察いまだし(^^;
倭漢(ヤマトノアヤ東漢)は応神由来の半島南岸の伽耶系の濃い倭人とみています。
西漢は西の文字から半島西南岸の百済系の濃い人々ではないかと考えています。

百済、高句麗、伽耶諸国との並立時代での新羅は弱小国で、新羅での中国系文化は高句麗か百済を経由せねばならず、他国より遅れをとっていると思います。
この打開策が西アジア系文化の導入(西アジア風の古墳や文物登場)であり、五胡十六国時代(AD350〜AD450あたり)なら百済や高句麗を避ける導入ルートがあったのだろうと考えています。

新羅と大和朝廷の関係は応神以来不和が続いており(物部氏と北九州は例外かもしれない)、ここからの有力な渡来人は応神時代の強制的に?連れてこられた秦氏系譜だけだとみています。
(秦氏の系譜は様々が混じり合っていて謎に近いですが略)

高句麗の慧慈が「聖徳太子」の師として登用されており、なぜ遠方である高句麗からやってきたのか。
「聖徳太子」の出自と密接な関係があるとみております。
キトラ古墳の天文図なども高句麗系(高句麗で見える天空)ですね。
(その流れからは、キトラの被葬者は天武系ではない)


>天武天皇が、陰陽寮を建てて専門家を育成し自らも遁甲天文を行い月や星の動きを見て占った

建築で磁石が関連するなら陰陽道における易占しかないと考えています。
中国では易占と儒教が結合し、時代によって道教や仏教(おそらく真言系)ともつながって複雑。
日本にやってきたものがいつのどのような系譜かもわからないのでなんとも判断できないところです。
易占であれば怨念や呪術とも関連して一般的な建築常識とは関係のないパターンもありえるでしょうし。
吉野への行幸とか壬申の乱での行動にも影響を与えていると思います。

ちなみに10世紀初頭の易占書に地相易占用の羅針盤の図があって、ここには7.5度ずれた2種の方位が記されており、磁気偏角を意識したものとされるそうです(中国の科学と文明/河出書房新社)。
地球磁場の概念はないにしても、不思議な力が存在していることには気がついていたのだと思います。


[9554] 〔9552〕脱線して、天文台  とみた 2008/10/23(Thu) 12:08 [Reply]

>遣隋使の新漢人の日文が632年帰国、僧旻と名を変えて舒明629-641、皇極642-644、孝徳645-654で重用されて天文と易占に優れた。

かたばみさんの、この一節が気になります。
天文台で東洋一古いのは、新羅の都である慶州の瞻星台で、女帝の善徳王の時代、王位632-647年の時代に建てられた。

新漢人とは今来漢人でしょうか。

天武天皇が、星占台を造り、陰陽寮を建てて専門家を育成し自らも遁甲天文を行い月や星の動きを見て占った。藤原京の設計は天武が風水地理で方角を決めた。


戸矢学さんは天武に天文を教えたのは東漢氏としていますが、今来漢人かもしれないのですね。

新羅の善徳王と今来漢人や東漢人との接点が気になります。

善徳王の時代は、高句麗と百済が新羅を攻めて、その脅威で、新羅は唐の応援を求めます。唐から天文台の技術や制度も学んだのでしょうか。







[9553] Re[9552][9549][9548][9543][9542][9540][9536]: 遺構の方位  佐々木 2008/10/23(Thu) 10:21 [Reply]
渡辺豊和氏は建築家として突如「シリウス」を、広岡公夫先生は古地磁気の専門から磁石を考えられた。確かに実体はかたばみさんの述べられるとおりでしょう。
 
 社寺では内部配置において、それぞれの信仰方針から、方位は重要であろうとは思いますが。
 今回検討の対象になった建築物は、当初から社寺だったのでしょうか。当初その地域の支配者の住居だったものが、当主が亡くなって社寺になったのか。
 支配者の住居なら知行地の管理が行き届く場所、安定した地盤に建設されるだろうから、当時の地形に迎合する可能性があります。大井川下流の三角屋敷は当時の地形に迎合した建築物ですが。
 ある程度核心を得るためには、いつの建築物が、どうゆう用途で、どの方位か、その上層の遺跡はどうか、またその上層はどうかと建築方位の歴史的変化を把握する。
 それが200箇所程度系統的な変化が見られれば、かなり真相にせまれるのではなかろうか。
 しかし個人的には偏角曲線と調和すれば大変面白いと思っています。

> 近江で鉄鉱石を採掘していたら慈石がみつかったのでしょう・・・・
 近江の磁石、指南車、ささなみの志賀。
一体どこで磁石を採掘していたのだろうか。

[9552] Re[9549][9548][9543][9542][9540][9536]: 遺構の方位  かたばみ [Url] 2008/10/23(Thu) 07:44 [Reply]
磁石の初出は呂氏春秋BC239の「慈石召鉄」のようで(原文未確認)、慈は乳房に吸い付く赤子、といった論があるようですが・・なんか健康器具系からのイメージだなあ(^^;
新事象でもあり、磁石が鉄くずを引きつけて草が糸のようにからみあう形象から慈の文字を用いた、と私はみておきます(磁の右側が本来の形)。
で、水に浮かべると「南」を向くことが発見されて指南車や羅針盤に工夫されていった。

続日本紀元明707-714に「近江慈石」を献上、とあります。
近江で鉄鉱石を採掘していたら慈石がみつかったのでしょう(偶然に磁鉄鉱片が磁化したか)。
鉄鉱石の存在は最高機密でしょう、はからずも近江で鉄の採掘を行っていたことを漏らす文言となった。

遣隋使の新漢人の日文が632年帰国、僧旻と名を変えて舒明629-641、皇極642-644、孝徳645-654で重用されて天文と易占に優れた。
舒明紀から天文記事が増えるようで、慈石の存在(と使い方)は遅くともこの頃には知られていたと思います。
最古では紀元前後あたりか、伽耶の鉄鉱石中に慈石が発見されていた可能性はありそう。

しかし・・
慈石はおおよその南を指し、鉄を吸いつける不思議な石、にすぎなかったのではなかろうか。
もし大量にあれば砂鉄を選別する手段に使えたはずですが、その様子はみえない。
風水などで「気の流れ」と磁場が結びつく可能性はありますが、磁場は現代での考え方だと思います。

>建物に棲む人の立場であれば、なるべく日が長く入るようにしたいとなるのではないだろうか

太陽(真北=真南)と一致せず、風向、水利、集落と道路など周辺環境とも無関係な「慈石の示す方向」を用いて建築を行う理由がみあたらない。

神社ならまずは「神様の要望する」方向を選ぶと思います(現実には人間の要望(^^;)。
自然神なら人間が自然神に願うことへの方向あるいは位置。
特に要望がなければ道教以降では天子は南面す、北極星(真北)にありとするか。

寺院では仏様が要望する方向は西方浄土以外では特になさそう。より周辺環境の影響が現れやすいのではないか。
陰陽道で磁石に関する考え方がなにかあるかどうか、チェック中。

そっちが磁北だからその向きで建築する、磁北を重視する場合の風水あるいは簡易な建築は別にして、現代でもそれはない。
現代でのコンパスの用途は地図上で自分の位置を知るための手段だけではなかろうか(指南車に同じ)。
磁北建築、コンパスが定着している現代の状況からの先入観にすぎないのではないか。

[9551] Re[9550][9540][9536]: 遺構の方位  佐々木 2008/10/22(Wed) 11:39 [Reply]
 出雲大社付近の偏角データも見つけましたので、ご案内致します。さらに精度の高い検討ができれば。広岡公夫先生の生データ(西南日本のデータ)もプロットされています。

http://ap09.lib.shimane-u.ac.jp/article.php?flag=j&output=table&arid=3460

[9550] Re[9540][9536]: 遺構の方位  佐々木 2008/10/21(Tue) 21:40 [Reply]
> これと前出の考古磁気偏角の図を重ねると以下となります。
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/henkaku_izumo.png

 少し補足致します。上記考古磁気偏角曲線ですが、昭和50年代に広岡公夫先生がまとられたものです。原資料は西日本の各時代の遺跡焼土層による偏角変化であります。各年代値の基準は、炭素14年代測定によると思います。
 現在炭素14年代測定は、変革期で、加速器による絶対年代測定、年輪年代推定法などを併用して精度(暦年補正)が非常に上がっています。
 その関係もありまして、概ね年代値は古くなる傾向が出ています。
 ゆえに参考程度と考えてください。
 厳密にはどこの遺跡で、どうだったか、現在の基準で年代を測定するとどうなるのかを再考察する必要があります。

[9549] Re[9548][9543][9542][9540][9536]: 遺構の方位  佐々木 2008/10/21(Tue) 11:15 [Reply]
> 大型建築では真北の確認は必ずやってると思うのだけど、建物で磁北を使ったかどうかなどの背景の検証を伴わないと都合の良いデータだけ選んでうんぬんになりやすいですね。

 建物に棲む人の立場であれば、なるべく日が長く入るようにしたいとなるのではないだろうか。倉庫ならその逆で。
 
 当時の磁石で北を計ると、磁性体が近い(たとえば落雷によって磁化した三輪山の斑レイ岩帯など)と、そちらに極端に向いてしまう可能性もあるでしょうし。

> 当時の建築ではどうやって基準線を引いたのか、飛鳥奈良までゆくとそういう具体的手段もまだわかってないんじゃないかなあ。
 
 米子の目久美遺跡出土の木製品の精巧さを見ると木工技術の高さはかなりのものでないかと思いますが、もちろんこれは直接建築技術、測量までは結びつきません。
 弥生以降古墳時代までに、集落遺跡で方形がしばしば出てくることからみても、基準線を引く、基準尺を持つ概念はあったとは思いますが。
 以前法隆寺?の屋根裏あたりでしたか、当時の大工の落書きが多数ありました。あの落書きをきちんと評価するとわかるのかとも愚考しています

[9548] Re[9543][9542][9540][9536]: 遺構の方位  かたばみ [Url] 2008/10/21(Tue) 10:44 [Reply]
>現在は日本列島は西偏です。それ以前は西南日本と東北日本は異なる偏角変化(考古地磁気の変化曲線)をしているということです

伊能忠敬の地図でのずれから検証した場合では東北では東海〜瀬戸内ラインより1〜2度ほどより多く西偏しているようですね。
基礎データそのものの誤差もあるでしょうし、現時点ではアバウトなんだろうと思います。

現在伝わる方位がいつの建築によるものか。
大型建築では真北の確認は必ずやってると思うのだけど、建物で磁北を使ったかどうかなどの背景の検証を伴わないと都合の良いデータだけ選んでうんぬんになりやすいですね。

当時の建築ではどうやって基準線を引いたのか、飛鳥奈良までゆくとそういう具体的手段もまだわかってないんじゃないかなあ。
今の大工さんはどでかい直角定規を現場で作って建物外形の基準線を作ったりもします。
(3枚の長い板で比例配分すれば簡単に作れる)

[9547] Re[9546]: 熊野の王子社について2  神奈備 2008/10/20(Mon) 19:55 [Reply]
阜易さん、こんばんは。

 泉州の熊野王子社については寡聞にして存じませんが、江戸時代の紀州などのは多くの牛神社が鎮座していたようですが、どれも王子社であったとの記録はないと思います。牛に曳かれて熊野参りなどと言うこともなかったでしょうから、農耕に欠かせない牛を祀る社と熊野王子社とは全く性格を異にするものですから、泉州でも事情は同じでしょう。
 しかし、これは神奈備の考えです。

 泉州(だけとは限りませんが)の王子社のことなら民俗学者の松原右樹先生がお詳しいと思います。泉陽高校の先生、既に退職されているかも知れません。
 病気で暫く入院されていましたが、元気になっておられるそうですから、講演会などを見つけて質問して下さい。

[9546] 熊野の王子社について2  阜易 2008/10/20(Mon) 01:17 [Reply]
連投…になりますね、すみません。初めましての挨拶も忘れ、失礼を重ねてすみません。
初めまして、阜易と名乗っております。大学の課題で地元史を調べている折、色々疑問に感じたので投稿させていただきます。
さっきの投稿でなんで一緒に載せなかったやら、改めて読み返して気付く始末。そして更に疑問が増えた次第。
和泉市風土記(二)引用 引用部筆者 山荘趣味の会 西 義一 氏
====
 黒鳥山古墳が出来てから、其周辺一帯の山地を黒鳥山という事になった。而して、徐福を祀るお宮が出来、熊野三山の分社として、世に「烏氏の宮」と云い、後白河法皇以来、「牛王子」ともいわれ、熊野の火祭を移して、大篝火を焚いて、両古墳を結び、神霊を慰めた。大篝火は、今日の黒鳥山公園で最後の祈りをした。
 尚、「牛王子」とは、「牛王の神符」を出せる格式の上の神社である。(百王子中一社があり、山王二十一社にも牛王子がある。九十九社は王子社である。俗書には誤りがある。)
 熊野詣の際には、往きには、後白河法皇の建立された熊野遥拝の大鳥居から、必らず徒歩で牛王子に参詣し、牛王子社前で、奏楽する事に決っていた。各人の座席には、今日も石を並べてある。其所に座席を設けたのである。
 而して、黒鳥山古墳の東方にあった、高野山の分院、「黒鳥山清涼寺」に、一泊するのであった。
 所が、所謂「千原騒動」の際に、お宮も、お寺も焼かれてしまった。
====(以上、原文ママ)

三山の分社として建てられたが、牛王子としての側面もあった、という事でしょうか。()部分がよく分かりません。百王子と九十九社が一文中に併記してあるという事は両者は別物…なんでしょうか?となると、黒鳥牛神社は矢張り、王子社ではないとなるのでしょうか?

皆様、宜しければ教えてください。お願いします。

[9545] 熊野の王子社について  阜易 2008/10/20(Mon) 00:25 [Reply]
現在、地元史(大阪府和泉市)を調べているのですが、和泉市風土記(二)に、
====
「百王子社」が建立となり、特に、山荘の地にある牛王子(所謂牛神)は、牛王の神符を配布できる、別格社と指定された。
====

とありました。
王子社が百か九十九かは「八百万の神」が八百万柱を指していないのと同じ、言葉の綾だと思いますが、熊野関係の各種サイトを見る限り、現:黒鳥牛神社の名は無いようです。農耕神の牛神などで取り上げられているようです。また、飛鳥部多社の牛神と記述する文献もありましたが、前後の記述から、ちょっと怪しいです。それよりも多社の意味がわかりませんでしたが。

牛王子は世間的には王子社には含まれない事になるのでしょうか?それとも、見落としでしょうか?

現在では、四方に麓の黒鳥町四町会(郷小路、坊小路、辻小路、上泉)の名を彫った大理石?の石塀に囲われた中に御神木と思しき古木が数株と小さな祠が申し訳程度にあるだけです。江戸時代の千原騒動で焼け落ちて以来、社なしだそうです。

[9544] Re[9541][9540][9536]: 遺構の方位  かたばみ [Url] 2008/10/20(Mon) 00:15 [Reply]
> 長野県上田市の羽山洞窟遺跡(5世紀中庸)は曝葬、

失礼、鳥が飛んでしまった、鳥羽山洞窟遺跡です。

[9543] Re[9542][9540][9536]: 遺構の方位  佐々木 2008/10/19(Sun) 21:06 [Reply]
>  運動が生きている証拠は、考古地磁気の変化曲線の微変動として現れるからであります。関東の偏角が西南日本と違い、西よりなった事実がこの図から理解できます。
>  http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/chijiki-02.htm

 ちなみに偏角は、現在は日本列島は西偏です。それ以前は西南日本と東北日本は異なる偏角変化(考古地磁気の変化曲線)をしているということです。
 東北日本は1600年以前の変化曲線があればですが。まだ見つけておりません。9540にかたばみさんがトリミングした図を掲出されましたが、おそらくその図のChinaの変化曲線に近いのではないかと思います。

[9542] Re[9540][9536]: 遺構の方位  佐々木 2008/10/19(Sun) 19:59 [Reply]
 結論から見ますと、最終的には一等三角点の水平移動度合と照合してどうなるか。
一等三角点の移動は2000年間を一定とすると、大きなところで1kmに対して平均で1m程度になります。もちろん地殻変動の震源に近いとさらに大きくなります。

 だから出雲大社の傾き(4度として)は、ほぼ南北としてもよさそうと思います。

 http://www.keirinkan.com/kori/kori_earth/kori_earth_1_kaitei/contents/ea-1/1-bu/1-3-1.htm

 あと下記サイトでは400万年以降は日本列島の折れ曲がり運動自体ほとんどないようですが、運動自体は生きているので、それもちょっとは考慮してもよいと思います。
 運動が生きている証拠は、考古地磁気の変化曲線の微変動として現れるからであります。関東の偏角が西南日本と違い、西よりなった事実がこの図から理解できます。

 http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/chijiki-02.htm

[9541] Re[9540][9536]: 遺構の方位  かたばみ [Url] 2008/10/19(Sun) 17:30 [Reply]
中国での最古の白馬寺(後漢AD68頃)、航空写真でみますと正門が東にあって軸は東西にみえる。西方浄土??
扶餘市の定林寺の正門は南にあって南北軸とみえる(百済時代、年代不詳)。
隋、唐の仏教寺院はどうか。

唐の長安(西安)のゾロアスター寺院はどうか。
ゾロアスターの慣習として重要であったろう「曝葬」をどう実行したか。
自然を以て自然に帰す思想であって、古墳は作らないはず(骨になったら洞窟に放り込む)。

長野県上田市の羽山洞窟遺跡(5世紀中庸)は曝葬、鉄剣など副葬品から豪族であるのは間違いない。
特異な葬礼を持つ古墳時代の氏族がいたわけですが、曝葬は東南アジアにもある。
ただし、中央アジアには火葬を行ったとみえる古墳あり、この思想は? (段ボール内につき・・)

[9540] Re[9536]: 遺構の方位  かたばみ [Url] 2008/10/19(Sun) 17:25 [Reply]
>出雲大社の西15度などは、創建が550年、650年あたりと思わせています

現在の出雲大社は航空写真からは西へ4度ほどの傾きです。
これと前出の考古磁気偏角の図を重ねると以下となります。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/henkaku_izumo.png

雲太、和二、京三は970頃でこの頃に巨大建築であったことはうかがえますが、その頃の数百年間での磁北建造であるなら10度以上の傾きになるはず。

磁北が4度になるのはまずはAD90頃(自論での最初の建造年代にぴたりではある(^^;)。
次が470年頃、雄略時代かな。
「杵築大社造営遷宮旧記注進」によれば1110年に再建されており、このときに磁北を用いて再建したとするならばぴたり4度。
あくまで磁北と仮定したら、ですけれど。

ちなみに鹿島香取神宮が750頃に磁北で築営された可能性はありますが、同年代であろう伊勢神宮は磁北とは無関係の真北。
鹿島香取だけが磁北で築営されるとは考えにくい。
蝦夷の謀反、当時の抗争地であったろう福島県郡山市付近を向いているとみます(791田村麻呂勧請の春日大社あり)。

寺院と社殿、磁北を用いて建造する概念がいつの時代にどうであったか、の考察が必要そうですね。

[9539] Re[9535]: はじめましてm(__)m  ペギラ 2008/10/19(Sun) 12:03 [Reply]
> ひょっとしたらみなさんご存知かもと思いましたが、ゾロアスター式古墳や寺院についての詳しい資料が載っている本があります。よかったらこちらを参照下さい→渡辺豊和 著「扶桑国王 蘇我一族の真実;飛鳥ゾロアスター教伝来秘史」新人物往来社

ゾロアスター式古墳というのは、何だろうか?と思いつつ。
こんなサイトを見つけた。

http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/jpn/nswana/nsw-mokuji.html

http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/jpn/nswana/nsw-01-zu.html

ここでは、ゾロアスター神殿型古墳 
20度傾斜している古墳のことを言うのかな?



[9537] Re[9534]9506: 方位と遺構  佐々木 2008/10/18(Sat) 10:36 [Reply]
 どんたくさん

 何度もすいません。お忙しい折と配慮が行き届かず、申し分けありませんでした。

> 2册も3册も同じ本を買ってみたり・・・・。
 私も常習です。BOOK**に売っては、また買って情けないです。

> 広岡先生は、国分寺の方位のことを書かれた後、次のように書いておられます。
「ここで問題となるのは、はたして7・8世紀の日本に高い精度で方位測定ができる磁気コンパスが存在したか否かである。日本には遺物としても文献記録にもこの頃に磁石があったという証拠は知られていない。・・・」
  
 少々磁石のことを調べますと、 続日本紀(上)巻第六(元明天皇・西暦713年〜715年)のところに「近江慈石」とありました。
 但し産地は、特定できていません。
 
 一般論では雷が落ちることによって磁石化する岩石がある、例としてはんれい岩(黒みかげ)がありました。はんれい岩は生駒山頂や三輪山にも出ています。

 後漢の王充(1世紀)の「論衡」に「磁石引針」との記述があり、3世紀に方位を示す目的で作成された指南魚というものがあるそうです。
  
 なお添付のサイトには、中国には紀元前3世紀には指南器があったこと、日本には平安時代に方位磁石が伝わったと出ています。

 http://www.neomag.jp/magnet_history/history_2.html

★北20度西(南20度東)よりとは、「いぬい」の「い」より方角とか、「たつみ」の「み」よりの方角とかになるのでしょうか。当時の方角表現が知りたいところであるが。
 
 らんだむにて失礼致しました。

[9536] 遺構の方位  神奈備 2008/10/18(Sat) 09:23 [Reply]
 どんたくさんの磁石のお話は誠に興味深い所です。出雲大社の西15度などは、創建が550年、650年あたりと思わせています。ちょうど蘇我氏の台頭時期か滅亡の時期になっているのは偶然なのか、意味があるのか、興味深い所です。

 鈴音さんが紹介下さった、渡辺豊和 著『扶桑国王 蘇我一族の真実;飛鳥ゾロアスター教伝来秘史』では、出雲大社は蘇我氏鎮魂の社と見ていたと記憶しています。

 飛鳥には相当な精度で(±2度以内)西20度の建物跡が出ている飛鳥岡本宮跡などがあり、一概に磁石でとも言えないような気がします。

 と言って、基本的には正方向(=北方向)の建物の遺構が出ていますので、南東から北西に流れる地形に合わせる言う事では説明しがたいように思います。


> 従って、「おおよそ20度西に振っている」という場合に、これが地形によるものか、それともその当時の磁北によるものか、検討の余地が残されているようにも思われます。

 ここにもう一つ。何らかの理由で西20度を重視する考えがあったのかも。

[9535] はじめましてm(__)m  鈴音 2008/10/18(Sat) 00:15 [Reply]
ひょっとしたらみなさんご存知かもと思いましたが、ゾロアスター式古墳や寺院についての詳しい資料が載っている本があります。よかったらこちらを参照下さい→渡辺豊和 著「扶桑国王 蘇我一族の真実;飛鳥ゾロアスター教伝来秘史」新人物往来社

[9534] Re9506: 方位と遺構  どんたく 2008/10/18(Sat) 00:07 [Reply]
佐々木さん、こんにちは。

> 該当の文献なのですが、当方購入したのですが、行方不明なのです。

私もしょっちゅう同じようなことをやっています。(^_^)
2册も3册も同じ本を買ってみたり・・・・。

> 広岡先生は、日本では磁石はいつから使用されたとお書きになっているのでしたか。磁石の遺物は、日本ではいつぐらいのが見つかっているのでしょうか。

サスガ佐々木さん! そこが一番のポイントですね。

広岡先生は、国分寺の方位のことを書かれた後、次のように書いておられます。

「ここで問題となるのは、はたして7・8世紀の日本に高い精度で方位測定ができる磁気コンパスが存在したか否かである。日本には遺物としても文献記録にもこの頃に磁石があったという証拠は知られていない。・・・」

これに続いて広岡先生は、中国では8世紀に精度の高い磁石が存在していたことから、磁石が日本に伝来してきていたとしてもおかしくない、というように書いておられます。


[9533] Re[9532]9505: 方位と遺構  佐々木 2008/10/17(Fri) 13:29 [Reply]
 どんたくさん
 
 該当の文献なのですが、当方購入したのですが、行方不明なのです。
 広岡先生は、日本では磁石はいつから使用されたとお書きになっているのでしたか。磁石の遺物は、日本ではいつぐらいのが見つかっているのでしょうか。
 お分かりであれば、お教え下さい。

 追記
 最近は座標は、世界測地系が標準になっていますね。標高の表記が大変困りものです。考古学の講座では考古学実習で測量がひと通りあるだけで、地図の見方作り方はほとんど教えないので、知らないのが当然かもしれません。
 日本の考古学が頗るアバウトとは、知らなかった。高松塚でよく理解できました。
 

[9532] Re9505: 方位と遺構  どんたく 2008/10/17(Fri) 12:02 [Reply]
佐々木さん、こんにちは。

>★広岡公夫・・・大でなく夫でありました。

オット、大変な間違いをしてしまいました。ご指摘有難うございました。

広岡先生は2004年に富山大学から大阪大谷大学教授に移られたようですが、現在は同大学の非常勤講師をしておられるようです。

> 遺跡の報告書は全体平面図は方眼北で、平板測量図は磁北となっている可能性がしばしば見受けられます。

仰るとおり、従来考古学関係の実測では平板測量が行われ、その地図の「北」は磁北となっていることが多いようですね。
ところが、考古学関係の資料ではそのことを明記していないことが多い。
しかも日本の大部分で磁北が西に数度程度偏っていることを知らない考古学関係者も多い。
(磁北は東に偏っていると信じ込んでいる県教委もあります。)
日本の考古学が頗るアバウトであることの証拠です。(^_^)

最近ではGPSもあり、腕時計でもGPS機能を使って磁北でなく真北を表示するようなものも市販されているようです。

真北であるのか磁北であるのか、また、経度・緯度を表す場合にはどういう測地系を使っているのか、ちゃんと明記する習慣をつけて欲しいものです。


[9531] Re[9529]9504: 方位と遺構  佐々木 2008/10/17(Fri) 10:02 [Reply]
どんたくさん

おはようございます。
> 【参考】
> ○広岡公大「寺の向きは磁石を使って決められた?!」『考古学のための年代測定学入門』古今書院 2001年 p.38
> ○広岡公大「古寺伽藍中軸線方位と考古地磁気,―日本における磁石使用の起源について―」『考古学雑誌』62, 49-63 1976年

★広岡公夫・・・大でなく夫でありました。
★タイの寺院の方位と地磁気には相関が見られるようです。
 神奈備さんの別荘の図を、偏角のみにグラフにしたものが追記されています。
 高等学校「地学U」啓林館の図と同じものです。
 http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/wdc/news/0405.html
★現方位の測定は、北の基準がまず磁石なのか、地図なのか。
 地図ならば、その北は磁北なのか、真北なのか、方眼北なのかをまず記載しないとまずいようです。
 方眼北は大縮尺の地図、たとえば2500分の1の白地図(通称)にしばしば使用されています。基準の対比がついているものもありますが、滅多にお目にかからない。
 遺跡の報告書は全体平面図は方眼北で、平板測量図は磁北となっている可能性がしばしば見受けられます。



[9530] Re[9529]9504: 方位と遺構  神奈備 2008/10/17(Fri) 08:38 [Reply]
どんたくさん ありがとうございます。

> 西南日本の過去2千年間の考古地磁気変化を見ると、AD600年頃一番西側に偏っていて、16度〜17度程度西寄りになっているようです。
>
> すなわち7世紀には、磁北は、真北よりも15度前後西寄りです。
>
> これは、「おおよそ20度」という数字に近い数字です。
>
 西南日本の過去2000年間の考古磁気永年変化の図
長友恒人編 『考古学のための年代測定入門』古今書院 2001年5月 P。44

 どんたくさんから提供いただいた地磁気の経年変化の図を写真掲示板にのせさせていただきました。

[9529] Re9504: 方位と遺構  どんたく 2008/10/17(Fri) 00:09 [Reply]
方位の問題を考える場合に、地磁気の問題も検討しておく必要がありそうに思います。

西南日本の過去2千年間の考古地磁気変化を見ると、AD600年頃一番西側に偏っていて、16度〜17度程度西寄りになっているようです。

すなわち7世紀には、磁北は、真北よりも15度前後西寄りです。

これは、「おおよそ20度」という数字に近い数字です。

従って、「おおよそ20度西に振っている」という場合に、これが地形によるものか、それともその当時の磁北によるものか、検討の余地が残されているようにも思われます。

ちなみに、8世紀頃に建立されたとされる国分寺・国分尼寺の遺構について方位を測ったところ、半分は真北の方位を向き、あとの半分は当時の磁北の方位を向いているとの結果が得られているということです。

【参考】
○広岡公大「寺の向きは磁石を使って決められた?!」『考古学のための年代測定学入門』古今書院 2001年 p.38
○広岡公大「古寺伽藍中軸線方位と考古地磁気,―日本における磁石使用の起源について―」『考古学雑誌』62, 49-63 1976年

[9527] Re9503: 方位と遺構  どんたく 2008/10/16(Thu) 23:01 [Reply]
ペギラさん、 どんたく です。

橿原考古学研究所附属博物館のミュージアム・ショップで次の本を買いました。

林部均『飛鳥の宮と藤原京 よみがえる古代王宮』
吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 249
2008.2.1. 第1刷

著者は、橿原考古学研究所総括研究員。博士(文学)。

この本の目次の一部を紹介します。

飛鳥時代の幕開け
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 推古朝の飛鳥・藤原地域
 斜め方位の遺構群
 小墾田の開発
 正方位による空間整備
 正方位が意味すること

そうして次のような記述があります。

p.24:
(島庄遺跡について)7世紀前半までさかのぼる大型の建物群が見つかっている。そして、これらの建物群は、北から西に約20度前後振れているものが多い。

飛鳥・藤原地域では、地形は大まかにみて、南東に高く北西に向かって傾斜している。こういった地形を、もっとも地形改変を少なくして最大限の土地活用をしようとするならば、等高線に平行、ないしは直交した土地利用が有効である。
・・・・・・・・・
雷丘東方遺跡や石神遺跡で検出される7世紀前半までさかのぼる遺構も、この造営方位をとることが多い。

p.27:
「本書では、こういった地形に制約され、北から西に大きく振れていた建物などが、いつから正方位、真北を指向した造営方位に変わるのかを、飛鳥とその周辺地域の歴史を考えるうえで重要な視点の一つとする。」

以上、ご参考まで。

[9526] Re9502: 方位と遺構  どんたく 2008/10/16(Thu) 22:58 [Reply]
ペギラさん、 どんたく です。

現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で、「宮都飛鳥」という特別展(10/4〜11/30)をやっています。
http://www.kashikoken.jp/museum/top.html

昨日(10/15)、この展示を見に行ったところ、ここにも「西に20度」がありました。

(1)飛鳥京跡I期:
舒明朝の飛鳥岡本宮跡と見られる。
遺構は北から西へ約20度振れている。

(2)島庄(しまのしょう)遺跡(嶋宮)
遺構には、北からおよそ20度西に振るものと、正方向(=北方向)のものとがある。後者は天武朝の造営。

なお、
飛鳥京跡II期(皇極朝:飛鳥板蓋宮と見られる)、
飛鳥京跡III期−A(斉明朝:後飛鳥岡本宮)、
飛鳥京III期−B(天武朝:飛鳥浄御原宮)
の遺構は正方向(=北方向)となっています。


[9525] Re[9524][9523]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/16(Thu) 22:24 [Reply]
> 石作神社          西 20
> 大歳神社          西 20
> 櫟谷神社          西 20
> 上賀茂神社          西 20
 
 石作神社は大歳神社に合祀されていまして、元の場所は不明なようです。
 これらの神社に共通するのは秦氏が建立にからんでいること位でしょう。なお、山城には他にも秦氏に係わる神社は少なくないでしょうから、理屈を並べるには無理があるでしょうね。


> 箕面の瀧安寺
 30度弱ですね。

[9524] Re[9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  ペギラ 2008/10/16(Thu) 17:14 [Reply]

> 延喜式、神社の方位でも調べてみますか、全て。
>
>
まず、山城から。「神奈備さんちの延喜式」より主に住所検索など。

羽束師坐高御産日神社  正方位
與杼神社          正方位
乙訓坐大雷神社 正方位
石作神社          西 20
走田神社          東 20
御谷神社          西 10
向神社           正方位
大歳神社          西 20
茨田神社          正方位
神川神社          東 10
久我神社          正方位
小倉神社          東 50
神足神社          正方位

葛野月読神社        東 5
木嶋坐天照御魂神社 東 5
松尾神社          東 70
櫟谷神社          西 20
平野神社          正方位
梅宮神社          正方位

上賀茂神社         西 20
下賀茂神社         正方位
出雲井於神社        正方位
小野神社          正方位
貴船神社          正方位

伏見稲荷          正方位
宇治神社          東 50
日向神社          正方位
許波多神社         東 5
石清水八幡宮        正方位
水主神社          西 5
荒見神社          正方位
水度神社          正方位

祝園神社          東 5
和伎坐天乃夫支賣神社    正方位
岡田鴨神社         正方位
相楽神社          正方位


[9523] Re[9522][9521][9518]: 方位と遺構  チョロ 2008/10/15(Wed) 23:27 [Reply]
金閣寺の不動明王のことから、箕面の瀧安寺を見ていたのですが、
御本尊が如意輪観音、脇尊が不動明王、毘沙門天で、弁財天も祀られていて、
地図を見てて西に傾いているような・・・という感じがしましたが。

小角の創建で、行基・空海・円珍・千観・聖宝・日蓮・法然・蓮如等が
修行をしたということです。

地図:http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.83923361&lon=135.47530667&sc=2&mode=map&pointer=on

瀧安寺ホームページ:http://www.nanokaichi.com/ryuanji/index.html

[9522] Re[9521][9518]: 方位と遺構  チョロ 2008/10/14(Tue) 23:25 [Reply]
> あまり大きくは言えないようですね。

そのようですね、失礼しました。

[9521] Re[9518]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/14(Tue) 20:43 [Reply]
> となると、高野山や金峯山などにも、そういう傾向があるハズ、

高野山金剛峯寺   東に10度
太秦広隆寺     西に5度
東大寺は正の南北

 と、あまり大きくは言えないようですね。

[9520] Re[9516][9506][9504][9497][9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  佐々木 2008/10/14(Tue) 13:44 [Reply]
参考までですが、初瀬川流域の古地理で縄文時代に一時的に広い水域ができたのが示されています。
http://dspace.nara-edu.ac.jp:8080/dspace/items-by-author?author=Barnes%2C+Gina+Lee

[9519] Re[9516][9506][9504][9497][9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  佐々木 2008/10/13(Mon) 22:36 [Reply]
> 東京湾の場合はいいデータがあるのですが、最初から陸の部分はちょいと混乱してきます。
 東京は、久保純子さんという早大の先生が古地理の復元をしていますね。NHKにも以前そんな氏名の方が居ましたが、別人でしょうが。

> 奈良盆地の場合は奈良湖の可能性のある部分のほとんどが水田。この中に住宅地が散在しています。これらの住宅地がいつごろ形成されていったのか、現代側から逆算してゆくのもあるかと思っています。

 あの辺は地元でも調べにくいのです。
 条里制遺構もあり、環濠集落も見えますが。あの辺の環濠集落は近世以降の成立が多いようです。
 また普通なら出口が閉塞されると絵のような「堰き止め湖」なんですが、ほとんど水は地下浸透してしまうような地盤(砂質土が多い)のようです。
 

[9518] Re[9515][9512][9510][9509][9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  チョロ 2008/10/13(Mon) 21:37 [Reply]
ボケボケの書き込みばかりしてしまってすみません。m(_ _)m

>ミトラや排火教と何らかの関係があるのかどうか

弥勒信仰にヒントがありそうですが、歓喜天を祀るところにも
何かあるかもしれませんね。
あと、光明皇后が信者だったかもしれないという説があるので、
皇后勅願のお寺や、国分尼寺にもあるかもしれないなと思いました。

持ち込んだのは蘇我氏という色合いが濃いかもしれませんが、
秦氏の影が見えることから、独断によるものではないのかも、
なーんて思ったりしていまして・・・。
でなければ、行基が動いたり、泰澄が関わったであろうことも、
なかったかもしれないなと思われまして。

となると、高野山や金峯山などにも、そういう傾向があるハズ、
ということになってしまうのかもしれませんが・・・。

[9517] Re[9505][9503][9502][9501]: 方位と遺構  かたばみ [Url] 2008/10/13(Mon) 20:27 [Reply]
鹿島香取の続き

鹿島香取神宮に連結する可能性の高い社、輸送任務の社が鹿島神宮の南にある神栖町の息栖神社か。
御祭神は天の鳥舟と住吉三神、海人の社であるのは間違いなし。
東日本〜西日本のほとんどで真東から昇って真西に沈むオリオンの三つ星、これが本来の住吉三神であると考えています。
社殿の方角は西から南へ17度あたりでその真正面に旧常陸川、港を向いていたのでしょう。

輸送船団は伊豆半島下田の伊古奈比盗_社(三島大社の旧地とされる)〜大島〜房総半島の野島崎〜九十九里、犬吠埼を回って旧常陸川を遡上してこのあたりに上陸か。
天の鳥舟は文句ないですが、息栖神社の息の呼称と住吉三神からは外洋不得手の瀬戸内系海人が浮かびますが、太平洋の荒波を乗り切れる舟と漕ぎ手でないと航海は無理。
後に記紀系の神々に置き換わったか。

古事記で枯野、仁徳紀で軽野という舟が登場(canoeカヌーに類似に注目)、材は伊豆半島産。
旧常陸川に巨大カヌーが埋まってないかなあ(^^;


関東の形象埴輪登場は関西のそれよりやや遅い。
関西の形象埴輪は家や家具が多く関東では馬や武具が多い。
関西の馬や武具の形象埴輪の登場と関東のそれはほぼ同時で、関東ではAD450頃に急速に広がっている。

大和朝廷の最初の関東出兵が豊城入彦命で垂仁273-311頃か、この頃に鹿島香取の原型登場か。(大王年代は自論)
第二次出兵が日本武尊で景行311-333頃か(上陸地は千葉県船橋市付近、意富比神社と入日神社)。
第三次出兵が雄略456-479頃か。
それぞれ大和朝廷に余力のあるときの出兵だと思います。

湯島天神縁起は雄略456-479で手力雄命を祀っていますから、この頃の武神は手力雄命だった可能性大と思います。
稲荷山鉄剣銘文に記された辛亥年は471年、雄略時代で妥当と思います。
471年は古墳築造年代ではなく、古墳築造時に伝来の鉄剣を埋納したのでしょう。
(鉄剣にオホの呼称→意富→多臣氏族か、注目です)

雄略以降では大和朝廷の混乱時代となって関東へ関与する余力はなかった。
欽明紀では朝鮮半島の事象だけが記されている、半島問題の処理だけで手一杯でしょう。
推古〜天武も内紛モードで関東には関与できずと思います。
(蘇我馬子、厩戸皇子→馬、蘇我蝦夷→蝦夷? 東北との交易がらみか?)
蝦夷は雄略以降300年ほど干渉されずに勢力拡大、朝廷が運んだ馬を自家薬籠中の技として後の朝廷軍を悩ませる。


現在につながる経津主命や武甕槌命の登場は書紀の記述によるもの。
現在につながる鹿島香取の社殿造営は記紀編纂の後であり、多賀城築営と蝦夷との戦い、春日大社との関連、などから750頃か。
香取神宮には遷宮伝承があり、伊勢神宮の遷宮と同時代での同じ考え方があったのかもしれない。
神宮の呼称をもつ理由も伊勢神宮と同じ考え方によるもの、と説明できそうです。

[9516] Re[9506][9504][9497][9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  かたばみ [Url] 2008/10/13(Mon) 20:19 [Reply]
>天理参考館の資料、奈良教育大学の研究紀要、松岡数充先生、西田史朗先生あたりで検索すれば
>これはちょっと遊べます。地形分類は国土地理院のものを利用されています。

ありがとうございます。
じっくり情報を集積して重ねてゆきます。

東京湾の場合はいいデータがあるのですが、最初から陸の部分はちょいと混乱してきます。
後に攪乱されることもあるからだと思っています。
奈良盆地の場合は奈良湖の可能性のある部分のほとんどが水田。この中に住宅地が散在しています。
これらの住宅地がいつごろ形成されていったのか、現代側から逆算してゆくのもあるかと思っています。
が・・容易には手が回らない(^^;

[9515] Re[9512][9510][9509][9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/13(Mon) 17:19 [Reply]
> みなさま、こんばんわ。
> 神奈備さま、ご無沙汰しております。
> ご挨拶もせずに唐突に書いてしまい、申し訳ありませんでした。

とんでもありません。大歓迎です。

 神社の中には古墳を意識したもの、例えば大和国広瀬郡の櫛玉姫命神社のようなものがあります。
また、祖霊が降臨するとされる磐などを祀った形でできあがっていった神社や寺院もあるでしょう。

 話題にしているのは、神社の中心線が真北から西に20度振っているものの中にミトラや排火教と何らかの関係があるのかどうか、またそれらを持ち込んだのは蘇我氏ではとの説をもみ上げているのです。

 弥勒菩薩を祀っている寺院の中にもあるのかも知れません。檜隈寺とか?


[9514] Re[9511][9510][9509][9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/13(Mon) 16:58 [Reply]
> とりあえず。栗鹿神社もどうでしょうか。

 栗鹿神社とは粟鹿神社のこと。
 北側から入ってくるりと一回りして本殿前。きれいに20度。

 神主家は神部直で『粟鹿大明神元記』の筆者としては、「新羅将軍正六位上神部直ねまろが謹んで申し上けます。」とあり、渡来系も見え見え。

 面白いのは、祖先として素佐乃乎命が登場、次に蘇我能由夜麻奴斯祢那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなきむるひこやしましぬ) 、これは国来(くにこ)国来(くにこ)の神様です。神主家の祖に「蘇我」がついているのは面白い。

 され、粟鹿神社は名前の通り、鹿が粟三束を食え村人に農耕を教えたと伝承されているようで、鹿が神の使いと言うのは鹿島と同じようで、これまた興味深い所です。

[9513] Re[9498]: 諏訪の黒曜石(北八ヶ岳)  素人 2008/10/13(Mon) 03:31 [Reply]
御迷惑でしょうが、さらなる蛇足の追加で。
諏訪大社の古図を探してみますと正しいかどうかはわかりませんが、今と様子の違うものがあります。神仏分離令など出てきますので違和感はあると思いますが。
移動したりすることも有るように思います。
参考までに諏訪大社の古絵図が載っているWebをご紹介します。
 下宮古図:諏訪神社蔵(下宮秋宮の位置が神宮寺跡に移動しています。北向きに参道があったようです。)
http://hikaritokage.hp.infoseek.co.jp/toba2003/simosuwa61.jpg
上諏訪社神宮寺Web(だいぶ様子が違うようです。)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_kamisuwa.htm
立派な建築物が神社に立つようになったのは、そう古いこととは思えないのですがいつごろでしょうか。神社を取り込んで、支配しようと言う仏教に対抗してでしょうか。
青草でした。

[9512] Re[9510][9509][9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  チョロ 2008/10/12(Sun) 23:46 [Reply]
みなさま、こんばんわ。
神奈備さま、ご無沙汰しております。
ご挨拶もせずに唐突に書いてしまい、申し訳ありませんでした。

> 上賀茂神社は秦氏がらみ、鹿島・香取神宮を蘇我氏がらみと見ると、
>何となく意味ありげにも、見えますが、その意味もシリウスと同じく到達するには
>まだまだ資料と思慮不足なのかも。

すみません、前回同様、裏づけのない推測になりますが、
古墳とか祖神の祀られている場所との関連性とかは、
ないのでしょうか?

[9511] Re[9510][9509][9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  ペギラ 2008/10/12(Sun) 20:14 [Reply]
うわっ

やってきますね。

とりあえず。栗鹿神社もどうでしょうか。

正確に20度というレベルを追求するということですね。
了解です。

[9510] Re[9509][9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/12(Sun) 17:28 [Reply]
チョロさん こんばんは。

もう少し厳密?な角度は以下の通り。

上賀茂神社 20
敢国神社 15
椿大神社 30
三島大社 10
氷川神社 35
気比神宮 10
浅間大社 10
香取神宮 20

 上賀茂神社は秦氏がらみ、鹿島・香取神宮を蘇我氏がらみと見ると、何となく意味ありげにも、見えますが、その意味もシリウスと同じく到達するにはまだまだ資料と思慮不足なのかも。

[9509] Re[9508][9503][9502][9501]: 方位と遺構  チョロ 2008/10/12(Sun) 09:21 [Reply]
> 正方位にある場所の方が、まれで、どこもかしこも
> ややずれていることは、間違いない。
> 正方位に作為性を感じても、傾いている多くの場所に作為があるとは思えない。

ふと思ったんですが、どの寺院ででも、
当時の測量技師が同じ手法で測量していて、
同じズレが生じたのかもしれませんね。

[9508] Re[9503][9502][9501]: 方位と遺構  ペギラ 2008/10/11(Sat) 21:13 [Reply]

>  角度としては20度未満が多いようですが、上賀茂神社はともかく、東日本に偏っていますね。
>  蘇我氏が『梁書』で言う扶桑国説もあながちかも。
>

そのあたりの検索だけですから。。(笑
西日本は、まだ、みてませんから。

でも、こんな配置で、何が?
って感じです。
正方位にある場所の方が、まれで、どこもかしこも
ややずれていることは、間違いない。
正方位に作為性を感じても、傾いている多くの場所に作為があるとは思えない。

蘇我氏の寺とか、神社とか、
渡来氏族の、まあ、世間が大好きな秦氏の寺院仏閣とか、
特定されるなら、まだしも、
20度なら、どこもかしこも、、という理屈は、どうしたものか。

現在の建物も、古代から存在する方位と同じように建てられているかどうかも
あやしいもの。

延喜式、神社の方位でも調べてみますか、全て。


[9507] Re[9504][9497][9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  佐々木 2008/10/11(Sat) 21:02 [Reply]
> 奈良の場合の条例を知りませんが、空き地ができたら掘る、チャンスがあったら飛んでゆく(^^; そういう体制じゃないかなあ。
 奈良京都大阪は掘れば何か出るので開発してから許可を得る(これ違法行為)とか、ミニミニ開発で逃れるとか。
 また役場の文化財担当者の人数と多忙度合で発掘レベル(試掘のみ、トレンチ調査、全面発掘)が変わるようです。
概ね盛土の場合は省略となります。高速道路の橋脚基礎ができるとかでないとなかなか。ちなみに高速道路となると県の方が担当になります。
 所謂奈良湖地区は、緩い砂が多いので地盤改良費もかかるので費用対効果から、盛り土して工場マンション大規模スーパーになりやすい。地下は掘らない。
 京都の旧巨椋池地区も軟弱地盤地帯ですが、地下5mのところに弥生中期集落遺跡、鎌倉の武家屋敷跡が見つかりました。
 当初わからなかったのですが、高速道路の橋脚基礎関連で見つかりました。

> そのボーリングデータはどこで入手できるでしょうか。

 あとこうゆうのがあるけど、表層地質図の裏面に柱状図があります。年代値はないけど。

http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/basis/5-1/F3/data/29f.html

これはちょっと遊べます。地形分類は国土地理院のものを利用されています。
http://www.jiban.co.jp/geodas/guest/map.asp

 つくばの地質調査所が奈良県地盤図を整備中ということで、GIS解析図を見ましたが、あれはどこで見れるのか未確認です。

余談 方位と古代住宅
 箱木家住宅は、兵庫県神戸市北区山田町衝原(つくはら)にある歴史的な建築物。この住宅は、806年(大同元年)に建てられたとされており、近世初期から「千年家」と呼ばれています。
 なんと北から西に20度程度傾いて建っています。

[9506] Re[9504][9497][9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  佐々木 2008/10/11(Sat) 11:57 [Reply]
> 数十年単位であれば縄文〜古墳時代の「多くの部分」にも遺跡は登場できないわけで、納得できます。もし、千年単位で短期間水に覆われるだけでは遺跡がない説明にはならないと思うのです。

 要するに降水量、雨量強度との関係でしょうね。あとは市史関係の水害史ですが、これまだずべて把握できていませんが。概ね1週間ぐらいの浸水かな。
 年レベルは江戸後期明治以降ぐらいか。

> そのボーリングデータはどこで入手できるでしょうか。
 
 自然堤防の形成は、河角氏論文があるので、それでいいとは思います。池田碩編「地形と人間」、高橋学先生で検索して頂いてもあると思います。

 私が持っているのはボーリングは、天理参考館の資料、奈良教育大学の研究紀要、松岡数充先生、西田史朗先生あたりで検索すればいいと思います。彼らが奈良の地質関係のオーソリティーです。
 それ以上ご希望であれば、あとでまた案内します。

[9505] Re[9503][9502][9501]: 方位と遺構  かたばみ [Url] 2008/10/11(Sat) 11:49 [Reply]
>北向きであるのは鹿島神宮。これにも意味があるのかも

垂仁の兄の豊城入彦命の任務は東国の出雲勢力制圧でしょう。
鹿島香取はその兵士と物資輸送の拠点が源とみております。
関東の毛野氏の祖は豊城入彦命とされますが毛野氏は大己貴命も並んで祀っています(おそらくは地主神)。
豊城入彦命の任務を引き継いだのが日本武尊でしょう(東京湾へ上陸、船橋の意富比神社、こちらは天照大神)。
日本武尊も出雲勢力と戦った様子がみえず、どちらも関東では和で終わらせることができたのだろうと考えています。

兵士と物資輸送は垂仁朝五大夫の物部十市根の役目か。
祭祀では同じく垂仁朝五大夫の中臣の大鹿島の役目か、中臣氏が頭角を現す源(復活)がここにあると思ってます。

この頃に祭祀者中臣のなかに新たな武神の概念の萌芽があったのではないか、それが記紀での経津主命と武甕槌命の登場につながるのではないか。
書紀が武神をふたりも登場させたのはなぜか・・

香取と鹿島の社殿の並ぶ方向は同じ、しかし拝する方向が香取では北向きで、鹿島では南向き。
逆方向に社殿が配置されているのはなぜか・・

戦には攻守のふたつが必要。ふたりの武神登場と南北逆向きの配置はこれを表しており、中臣氏の発想かもしれないと考えています。
常陸川を越える最前線の攻めが武甕槌命、常陸川の手前の丘の守りが経津主命かな。
後には仙台の多賀城などへ拠点が北進し坂上田村麻呂など実在の武将が崇拝されるようになる。

鹿島香取の社殿は対蝦夷との攻防を意識した方角で造られた。
中臣氏は天孫系譜、蘇我氏や「聖徳太子」とは対立する可能性大、蘇我氏になんらかの思想があったとしてもその手法を引き継ぐとは考えにくい。
後の中臣鎌足(藤原鎌足)の蘇我入鹿暗殺は昔の敵討ちの意味もあるかもかも(^^;

[9504] Re[9497][9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  かたばみ [Url] 2008/10/11(Sat) 11:08 [Reply]
遺跡発見の多くが偶然ですね。
関東周辺の山の中など、掘れば面白いものがたくさんでてくると思ってます。
奈良の場合の条例を知りませんが、空き地ができたら掘る、チャンスがあったら飛んでゆく(^^; そういう体制じゃないかなあ。

奈良湖になりえる地域で古墳の発見はあっても遺跡の発見がないのは実際にないからだとみています。
土器のみ発見される場合はありますが、流された土器である可能性もあって判断がむずかしいところ。
先の絵で三河遺跡が水色部分にありますが、ここからは古墳と共に古墳時代の水田跡がでています。

>3万年前以降に一時的に排水不良が起きた・・数ヶ月程度

3万年前以降に頻繁に大洪水が起き、「多くの部分」が短期間水面で覆われた、と解していいのかなあ。
数十年単位であれば縄文〜古墳時代の「多くの部分」にも遺跡は登場できないわけで、納得できます。
もし、千年単位で短期間水に覆われるだけでは遺跡がない説明にはならないと思うのです。

それらの状況推定の結果で、飛鳥奈良時代に斑鳩と明日香を結ぶ道をどう造れば合理的か、といったところです。

>ボーリング点数や年代測定箇所は30箇所以上として、沖積層の厚さ1から6m、ほとんどが3m未満でした

そのボーリングデータはどこで入手できるでしょうか。
「奈良湖」の場合は流入が多方向からあって、ほぼ流入のすべてが大和川から短時間で流出すると思われます。
そういう状況で土砂堆積や自然堤防の形成がどうなるのか、シミュレートが必要と思うのはそこなのです。

余談
東京石神井川のある年代までの流末であったろう根津付近は軟弱地盤なのですが、砂礫層と粘土層(軟弱地盤)が交互に重なっています。
ある時代では粘土質は流出し、ある時代では堆積したものと思われます。
石神井川の流路が変わったことと縄文海退による汽水域の変化が関係あるだろうと思っていますが、地質研究者ではないのでそれ以上は?

[9503] Re[9502][9501]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/11(Sat) 10:51 [Reply]
> 平地という概念が、共有できていない部分です。
> ここは、岡と岡の谷間。

 参詣した際の記憶では北側は若干高い丘や一段低い井戸など、南側は平坦な土地だと記憶しています。
 北向きであるのは鹿島神宮。これにも意味があるのかも。


> 上賀茂神社・敢国神社・椿大神社・三島大社・氷川神社・気比大社・浅間大社等々
もちろん、鹿島・香取も。

 角度としては20度未満が多いようですが、上賀茂神社はともかく、東日本に偏っていますね。
 蘇我氏が『梁書』で言う扶桑国説もあながちかも。

[9502] Re[9501][9499][9496][9493][9492][9490][9489]: 方位と遺構  ペギラ 2008/10/11(Sat) 02:30 [Reply]
20度ぐらいの傾きならば、

上賀茂神社・敢国神社・椿大神社・三島大社・氷川神社・気比大社・浅間大社等々
もちろん、鹿島・香取も。

どう繋がるの?

まさか、みんなシリウス信仰だなんてことは・・・?

[9501] Re[9499][9496][9493][9492][9490][9489]: 方位と遺構  ペギラ 2008/10/10(Fri) 23:44 [Reply]

>  奥宮も含めて現在の拝殿、本殿は平地に配置されています。

平地という概念が、共有できていない部分です。
ここは、岡と岡の谷間。
この岡と岡の稜線に沿った筋に、直交差。
言い換えると、谷筋が参道。
その道筋の沿っているというスタイル。
この岡と岡の間の空間を有益に使おうとするならば、
20度傾くのもうなずけるという場所。

これは、いままでのそれぞれの場所と同一。

ところで、鹿島は、風土記時代から
今のような場所で、今のような建物配置だったのでしょうか?

発掘調査などは、あったのでしょうか?

[9500] 豊中歴史同好会  神奈備 2008/10/10(Fri) 16:16 [Reply]
10月11日 14〜16時
講師 堺女子短期大学 学長 塚口義信
演題 4世紀末における百済王家の内紛とヤマト政権
詳細 http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2008.html

[9499] Re[9496][9493][9492][9490][9489]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/10(Fri) 08:43 [Reply]
> ここでもそうですが、地形に沿っているという感じ。ですよね。
> でも鹿島って奥宮を拝むのが本当なんじゃないかな?なんてことも思った。

 奥宮も含めて現在の拝殿、本殿は平地に配置されています。参道は20度線に直交ですから奥宮も西に20度となります。

 参道の北側の宝物館もかたむいています。

 ゼンリン地図
 http://www.its-mo.com/z-129476279-506285146-18.htm
 20度と見ていいようです。

[9498] 諏訪の黒曜石(北八ヶ岳)  素人 2008/10/10(Fri) 01:50 [Reply]
中途半端でしたので、もう少し。
明治時代には和田峠などの黒曜石を諏訪の黒曜石と言っていたらしい。
その後、和田峠の黒曜石と言われるようになったようです。諏訪と黒曜石を結びつけるのが好まれなかったのかも知れません。3万年から弥生期までと気の遠くなるような時間、諏訪からこの周辺地域への黒曜石の供給は続いたようです。生産した黒曜石と産物を交換する交易所でもあったのでしょうか。専業の猟師(近年でいえばマタギ)は獣道を季節の変化に伴う動物の移動に伴って可なりの距離を移動したのでしょう。途中立ち寄って、古代の石の神にでもお祈りして、交易所で黒曜石を手に入れたのでしょうか。移動の途中に黒曜石と食料などと交換していたのでしょう。縄文後期には近隣の焼畑農民などもお参りがてら諏訪を訪れ交易所などで物々交換で黒曜石を手に入れていたのでしょうか。
素人の夢想でした。
北八ヶ岳の黒曜石は和田峠のものと違って、大きな露頭がありここや周辺から採取したようです。採取は容易だったのでしょうか。品質はやや落ちるようですが。冷山の大露頭は高さが5〜10m、巾100mとあり巨大です。「黒曜石 3万年の旅」堤隆著、NHKブックスより。他に大石川上流(露頭有)雨池周辺、横岳、すり鉢山周辺、双子池周辺、大岳川周辺、稲子小屋付近露頭以外は河川もしくは地中の転石です。
麦草峠露頭
http://www.avis.ne.jp/~tsutsumi/kokuyo/kokuyo.htm
諏訪湖から諏訪大社上社本宮・諏訪大社上社前宮前を通って、152号線を西に向かい299号線をさらに進み北八ヶ岳の麦草峠に至りるだけでなく、2つの神社が道路との関係で配置されているようで、黒曜石の交易、神様へのお参りが関係あるように素人は夢想してしまいます。
黒曜石の産地Web(和田峠等)
http://www.geocities.jp/rarememory/kokuyou/k.htm
神様は弓とか矢とか特に石鏃などと弥生期以前から関係あるのでしょう。
青草でした。

[9497] Re[9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  佐々木 2008/10/09(Thu) 18:00 [Reply]
 いわゆる奈良湖の地質と年代について概略。ボーリング点数や年代測定箇所は30箇所以上として、沖積層の厚さ1から6m、ほとんどが3m未満でした。
 構成物は砂主体。水域を示す粘土がほとんどない。
 標高は43〜45mで25000年前を示す。
 大和郡山の額田部南町の標高41mで5000年前、稗田の標高45mで10000年前など新しい年代が見られるのですが、同標高で25000年前を示すところがありますので、開析された谷の堆積物の年代であるとされています。ご参考までに。

[9496] Re[9493][9492][9490][9489]: 方位と遺構  ペギラ 2008/10/09(Thu) 17:44 [Reply]
> >  西から建物に入り、直角に右に折れて南の方角を見ると(真南を20度東に振ることになる)とシリウス。若草伽藍では水神の広瀬神社。祈雨。
>

水神にもってくるとは、、手強い人です。(笑


> 鹿島神宮が上記の例に合います。写真掲示板に掲載。

ここでもそうですが、地形に沿っているという感じ。ですよね。
地形に合わせないで、20度傾けたものではない。

でも鹿島って奥宮を拝むのが本当なんじゃないかな?なんてことも思った。
さらに
本当に20度?
もっと傾き少ないのでは?とも。




[9495] Re[9494][9491][9490][9489]: 再び奈良湖  佐々木 2008/10/09(Thu) 11:42 [Reply]
> なぜ遺跡が広範囲にないに等しいのか、その理由に奈良湖以上はないとみるからです。
> ボーリングによる土の分析とこれに伴う花粉分析がキーデータになりそうですが、手が回りません(^^;

 あれは遺跡がないのではなく、ないと思い込んでいるのが実情。掘れば出てくる可能性大。高速道路でも走らない限り発掘はなかろうかと。
 花粉分析では、奈良盆地は姶良火山灰のころ(27000年前)以降はデータがほとんどありません。スポットであります。奈良は一様収集しています。
 花粉分析は小職の専門の一部なんです。花粉症の関係で。

 ボーリングも大量に資料があり、地質調査所によってデータベース化されつつありますが、樋口先生の説は???です。

> 一時的な排水不良とはいつの時代に起きたのか? 集落形成ができないほど何度も繰り返されたのか?

 これは仮説でなく、実際に起こった現象なんです。
いつごろ起こったかは、以前にも書きましたが3万年前以降です。
 それ以降、花粉分析の成果で見るとスギ花粉の増加で見るのですが、古墳時代、平安時代前期ごろに降水量の増加時期があります。それ以降は文書でわかりますが、中世は降水量が少なく、戦国以降降水量が増加しています。
 排水不良期間は、長くて数ヶ月程度弱、普通は数週間弱程度、概ね水深は佐保川と初瀬川の川幅の狭いところで1m前後、いわゆる遺跡非分布域で20cm未満でした。
 佐保川や初瀬川は川幅の割りに流入河川が多く、出口が狭いのでのでそうなるのです。これ内水災害と云いますが。それで堤防を高くして助長され。。。
 東京では石神井川がそうですね。

 奈良は地名で行くと、歴史的には額田とか吐田あたりがよく浸水したようです。今一部工業団地になっていますが。平城宮の西側の大極殿もそうなのですが。

 あいまいな自問自答(^^;
> 縄文末期の寒冷化に向かう時代(BC2000頃)の異常気象による洪水多発の時代に大規模に発生した(鳥浜遺跡など痕跡あり)。

 縄文時代の高温乾燥期の後、少し降水量が増加します。
 地盤が乾燥しているために少量の雨でも過度に土石流発生し、洪水多発的に見えるのです。池上曽根もそうです。

> 前後関係がわからないのでなんですが、いつの時代での浸水分布データか、が知りたいところです。
 明治以降ですね。

[9494] Re[9491][9490][9489]: 再び奈良湖  かたばみ [Url] 2008/10/09(Thu) 10:52 [Reply]
>晩年に標高と遺跡分布から考えられた作業仮説

それを継承したいと思ってます(^^;
なぜ遺跡が広範囲にないに等しいのか、その理由に奈良湖以上はないとみるからです。
ボーリングによる土の分析とこれに伴う花粉分析がキーデータになりそうですが、手が回りません(^^;

>亀ノ瀬地すべりによる大和川の一時的な排水不良、それに伴う一時的な遊水池氾濫とされた

その仮説に賛同ですが、条件付です。
一時的な排水不良とはいつの時代に起きたのか? 集落形成ができないほど何度も繰り返されたのか?
排水不良の期間は1年?100年?
どこがどの程度の水深になりえたのか?

あいまいな自問自答(^^;
縄文末期の寒冷化に向かう時代(BC2000頃)の異常気象による洪水多発の時代に大規模に発生した(鳥浜遺跡など痕跡あり)。
亀ノ瀬で5mほどの土石ダムができれば水色部分は水面下となる。ただし現状の標高によるので特に中央部では後世の盛土など誤差が大きいと思います。
弥生の温暖期にはいってからは大規模土石流の発生はなく、亀ノ瀬の自然開削で徐々に水面が低下し、ときおりの洪水による水面上昇程度だった。
奈良湖の存在期間は2千年といったところか。


>過去の浸水分布を見ると、大和郡山の佐保川流域、初瀬川下流に集中していて、広い奈良湖の存在を否定している

前後関係がわからないのでなんですが、いつの時代での浸水分布データか、が知りたいところです。
「広い奈良湖」が存在していたゆえに、そういう浸水分布になるからかもしれないからです。

土砂は水深の浅いところから(流入部)から堆積するわけではなく、流速がある段階まで落ちたところから堆積する。
(むろん土か砂かで堆積位置も違う→ボーリングデータ必須)
また自然堤防は河川の屈曲部の外側に造られ、運が良ければそこに安全地帯ができ、それが以降の堆積に影響する。
加えて徐々に全体水面が下がってゆく状況が重なり、湖の中央部分に最後まで水面が残るとは限らない。
また、河川の合流部では洪水が起きやすいのは必然だと思います。

奈良盆地は河川が流れ出る扇状地ではなく、流れ集まって堆積と排出が生じる特殊な場所、なにがどうしてどうなるのか高度なシミュレートが必要だと思っています(昭和30年では不可能だろうなあ(^^;)。
これらと最新の遺跡分布のありようがフィットする条件はいかなるものか、最新の再検討を要すと考えています。

[9493] Re[9492][9490][9489]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/09(Thu) 08:29 [Reply]
>  西から建物に入り、直角に右に折れて南の方角を見ると(真南を20度東に振ることになる)とシリウス。若草伽藍では水神の広瀬神社。祈雨。

鹿島神宮が上記の例に合います。写真掲示板に掲載。

[9492] Re[9490][9489]: 方位と遺構  神奈備 2008/10/08(Wed) 23:05 [Reply]
> なんか20度といってるのは北から西?へ20度振るということみたいだなあ。
> だとするとシリウスの沈む方位の西から南へ20度とは何の関係もないですね。

 直交には意味があるのでは。

 西から建物に入り、直角に右に折れて南の方角を見ると(真南を20度東に振ることになる)とシリウス。若草伽藍では水神の広瀬神社。祈雨。

[9491] Re[9490][9489]: 方位と遺構  佐々木 2008/10/08(Wed) 15:18 [Reply]
 奈良湖というと、大きな水域があったように思われるのですが、これは歴史学者の樋口清之先生(故人)が晩年に標高と遺跡分布から考えられた作業仮説。
 このような水域の存在は、氏以外にはあまり強調されることはなかった。
 
 それは昭和30年以降には、すでに地理学者や地質学者、災害関連研究者の調査から、亀ノ瀬地すべりによる大和川の一時的な排水不良、それに伴う一時的な遊水池氾濫とされたことによる。
 だから学会ではほとんど受け入れられなかった。もちろん小規模の水域があばた上にあったこと否定できない。
 しかしそのおかげで、奈良の洪水を歴史の中で考えることが出来た。
 まず奈良中部に環濠集落が多いのは、遊水池氾濫の被害を最小限にするために自然発生的に形成された。それは過去の浸水域が、環濠集落を避けるように広がっているからである。
 また過去の浸水分布を見ると、大和郡山の佐保川流域、初瀬川下流に集中していて、広い奈良湖の存在を否定している。
 
 ちなみに千田稔先生は歴史地理学者で、奈良女子大時代には花粉分析も専門にされていた。
 古代方位信仰や古代の直線古道については、同じく歴史地理学者の足利健亮先生、山田安彦先生、高橋美久仁先生(3先生ともに故人)の影響であるかと思います。
 勤務先から市内の女子大まで地下鉄網を整備するべき?と講義されていた歴史地理学者の藤岡謙二郎先生(故人)とクリノメータをいつも持ち歩いて方角を計っておられたようです。

 最後に河角龍典氏(大阪文化財センター、考古地理学・GIS)の飛鳥地区の地形環境分析を見ると、飛鳥・藤原京造営によって飛鳥川以外の葛城・寺・曽我・米川は人工的に流路を変えただろうとしています。またこれらは常時水が流れているような河川ではないとしています。
 その後太子道もおそらくこれらの常時水の流れのない人工河川の堤防を利用して建設された可能性があろうと思います。

 河角龍典「飛鳥藤原京における弥生時代中期以降の地形環境変遷と土地開発」、人文地理53.

[9490] Re[9489]: 方位と遺構  かたばみ [Url] 2008/10/08(Wed) 12:50 [Reply]
太子道かあ、飛鳥奈良時代でも奈良湖(湿地帯)が存在したとみています。
それを前提とすれば・・また異論になりますけど(^^;

http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/shinhoku/taishimichi.jpg
水色は湿地帯、濃い青は飛鳥奈良時代でも湖だった可能性のある地域。
河川の合流地域の標高が周囲よりやや高くなっていますが、河川の状況から自然状態でこれはありえない。
後に堤防や盛土など治水によって周囲よりかえって地盤が上がったものでしょう(細い青線は現在の川筋です)。

紫のラインがいわゆる太子道ライン、周辺は土器破片の散布程度で集落遺跡が存在ぜず、古墳が寂しげに並ぶだけ(^^;
河川が錯綜し渡るのがたいへん、道を作っても洪水で流される、湿地で集落もできなかったのだと思います。
いわゆる太子道があったとしてもこのルートではなく東か西に迂回だと思います。

>河合と言う地名の集落があり、広瀬神社が鎮座する

この地名はその通りの川の合流地域の意だと思います。
平成祭データによる廣瀬神社では、崇神時代に「一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた」が縁起とあるので古墳時代には一帯が沼地であったことがうかがえます。
東京隅田川では合流部に河川の運ぶ土砂の堆積による安全地帯に水神が祀られています(現在の隅田川神社)。
河合でも類似で治水とその安全守護、天武が祈願しているみたいですから現在につながる広瀬神社の創始は周辺に農地ができはじめた頃か。


なんか20度といってるのは北から西?へ20度振るということみたいだなあ。
だとするとシリウスの沈む方位の西から南へ20度とは何の関係もないですね。

ゾロアスター系の暦は3月春分に新年を置くようで、夜のシリウスが昼の太陽と交替するように昇る冬至とは無関係になる。
冬至を重視するのは太陽の復活であって農耕文化のものだと思います。
すなわちペルセポリスの方位も地形によるものでシリウスとは無関係・・となる。
20度うんぬんのお話は根底から崩壊しそう(^^;

ゾロアスターにはもう一人アナーヒター神という水と豊穣を司る女神があって農耕の色彩が濃く、民間系多神教での古い神のようにみえます。
水に関して二人の神があるということは、異なる文化の混合によるものか。
シュメールは農耕文化、こちらには星にまつわる伝承はほとんどないようですが、アナーヒター神は大地母神類似のシュメール系か??

むろん遊牧文化でも干ばつは困る、雨の神ティシュトリア神はその文化での雨の神か。
もしシリウスとつながるなら、エジプトのシリウスの影響が流れ込んでいるからか・・
(中国やローマでは狼や犬(の目)とみなしているけど、エジプトではそれはみえない)
いまのところこんなところかと考えています。

PS.
BC700頃のバビロンの粘土板に「この星カクシディは晩秋の東天に昇り銅のように輝く」
古代ローマ紀元前後「この犬星の赤みたるや火星よりもずっと濃く、木星などは問題にならないほどだ」
AD150頃プトレマイオス「シリウスと呼ばれる非常に明るく赤みがかった星」
プトレマイオスが色を赤(ヒポケロス)と称している他の星はアルデバランやペテルギュースなどすべて天文学では赤色巨星とされる星なのだそうです。
ただし、中国の史記天官書BC100頃?では「白は狼(シリウス)、赤は心(さそり座アンターレス)」だそうです。
(星の古記録/斉藤国治/岩波新書)

これを説明しようとする論がいろいろあるけれど、どれも満足とはいかないようです。
これこそがシリウスの謎のような。

[9489] 千田稔『鬼神への鎮魂歌』p237  神奈備 2008/10/07(Tue) 13:10 [Reply]
方位と遺構

 斑鳩宮の遺構の方位が正南北よりおよそ西へ二一度ばかり振っている。この方位は太子道の方位とほぼ同じであり、若草伽藍の方位とも、およそ類似している。これらはほぼ同時期のものであるとの推定がなりたつ。
 若草伽藍は現法隆寺より以前に建立された斑鳩寺である可能性が高い。

 現在の法隆寺の周辺に、正南北より西に二〇度ばかり振れる方位の道路や小河川が見られる。これらが斑鳩宮や若草伽藍と同じ方位を持つことから、それらをめぐって計画的な都市づくりがなされていたのではないかと推定されてきた。
 
 また称徳太子が法華経を講じたという岡本宮は、法隆寺の東北、法起寺の下層遺跡であり、その石敷溝が磁北に対し二〇〜二二度西に傾いている。

 水の神

 斑鳩宮から真北より西に二〇度傾いた線上の南に河合と言う地名の集落があり、広瀬神社が鎮座する。広瀬河合神であり、水の神である。

[9488] 20度の話。  くず 2008/10/07(Tue) 06:48 [Reply]
シュメール諸都市のプランは南北線から西に約45度傾いているようです。
(ウルク、ニップルなど)
ペルセポリス(アケメネス朝ペルシャ)がどの程度、都市設計の意図(信仰?)を引き継いでいるかはわかりませんが、シュメール時代のそれとはあまり関係がないのではないと思います。

以下はギリシャ、ローマの都市設計の話なので、ペルシャにもその意識があったとは言えませんが、参考までに。

古代ローマの都市プランでも、南北軸、東西軸から22度近辺に軸を振ります。
理由は風にあって、当時"風の道"とは、東西、南北に、その中間(南東⇔北西、南西⇔北東)
を加えた8方位にあると考えられており、都市設計において、大路はこの風道を外すように設計されていました。
現代のビル風を想像していいかとも思うのですが、風の道に大路を造ると、そこを吹き抜ける風が強まる。
強い風が大路を吹き抜けると、そこからの小路ではかえって風が淀む。
城壁内の都市プランを余儀なくされる彼等にとって、風の淀み、水の淀みには特に注意がはらわれたようです。

それを避けるために、大路は風の道である8方位を外す。
8方位の中間にあたる、南北軸、東西軸より22.5度振ったプランが良いとされていました。
そうする事によって、ほどよい風を都市に取り込めると考えたようです。

中国風の東西南北に碁盤目というのは、その意識からすると違和感があったと思います。






[9486] Re[9477]: シリウス信仰  かたばみ [Url] 2008/10/06(Mon) 10:42 [Reply]
>シリウス信仰なるものの存在が確認できません。

ざっとみたところでは、ペルシャの日本書紀?であろう「王書」にシリウスはでてこないです。

それ以前のゾロアスター系?の書に雨の神ティシュトリアが登場し、シリウスをその象徴とするのだそうです(ペルシャの神話/丸善ブックス)。
ティシュトリア神が敵対する神々と戦って敗れたとき、この神を人々に祀らせてティシュトリア神に勝利させたのがザラスシュトラ(ゾロアスター、BC1000頃の人物とされる)なのだそうです。
また、イランの天地創造神話で海が造られるときに雨の神が登場するそうです。

エジプトではおおよそ7月頃にシリウスと太陽が同時に昇ってきます。
エジプトではこれを見てナイルの氾濫時期がきたことを知った。
中近東のシリウスが雨の神であるなら、エジプトのシリウスの影響下にあるんじゃないかな。

ただし、ナイルの氾濫はナイル上流の雨期到来によるもので中近東の雨とはなんの関係もないはず。
中近東における暦のありようと「雨の季節?」がわかりませんが、中近東にはシリウス≒洪水≒雨の神というイメージだけが伝わったのではないか。
(現在のイスラエル付近の往古にはバール神という暴風を司る神もあります)

シリウスの昇る(沈む)位置は東(西)から南へ20度あたりで一年中同じ、緯度が同じならあたりまえ。
季節によって太陽との位置関係が違ってくるだけ。

PS.
9485
>長い山系のうちの西に20度の場所にわざわざ都を造ったとしています

読んでもいないのになんですが・・そうなるともはや屁理屈としかいいようがないような(^^;

[9485] Re[9483]: ペルセポリス  神奈備 2008/10/06(Mon) 08:19 [Reply]
> どうして、こんな山というか、台地というか
> その麓に建設されたのが、わかりませんが、
> 平地に20度傾けて、故意に作成された都市ではない。


 シリウス信仰の発信源の方々の見解ですが、長い山系のうちの西に20度の場所にわざわざ都を造ったとしています。

 私は現地を見ていないので何ともはや。

[9484] Re[9483]: ペルセポリス  ペギラ 2008/10/06(Mon) 01:44 [Reply]
ここは、標高 1600m

日本で解りやすく言えば、長野県というところでしょうかね。

メソポタミアから比べれば、はるか彼方の高地です。

そこで、どうして豊穣というか、雨期の知らせというか
そんな感じのシリウスを信仰の対象とするのだろうか?

ナイルやチグリス・ユーフラテスという感じの場所とは
全く違う状況であるということをまず直視したい。



[9483] ペルセポリス  ペギラ 2008/10/06(Mon) 01:27 [Reply]
斑鳩前にさらに

ペルセポリス

ここも、基本的に20度ぐらい傾いている地形地にある都市。

どうして、こんな山というか、台地というか
その麓に建設されたのが、わかりませんが、
平地に20度傾けて、故意に作成された都市ではない。


[9482] 諏訪大社と黒曜石  素人 2008/10/06(Mon) 01:14 [Reply]
>  中部地方における弥生時代における黒曜石に関する最近の論考を紹介致します。
> 馬場伸一郎さんが日本考古学24号(2007.10)に書かれていますが、
> それによれば、
> 「@弥生中期後葉栗林期に原産地組成に明瞭な変化があり,諏訪星ケ台系の石材に加え,和田和田峠系の石材が一定量組成すること,
>  A弥生中期後葉は原産地組成が変化する時期であると同時に,佐久盆地の例が示すように原産地組成が遺跡単位で多様化する時期であること,
>  B弥生中期後葉の消費地遺跡では諏訪星ケ台系・和田和田系の双方の石材が搬入され,その大半は集落内の石器製作で消費されていること
 ネットに載っている奴ですね。
いわゆる、和田峠の黒曜石ですね。諏訪湖付近の黒曜石です。
諏訪湖から中山道を諏訪大社下社秋宮・諏訪大社下社春宮を通って諏訪湖の北方にそびえる霧が峯の和田峠に向かうわけですが、この周辺の東餅屋・星ヶ岳・星ヶ台・鷲ヶ峰・星糞峠・男女倉(おめぐら)などの広い地域が良質の黒曜石の産地でした。黒曜石は地中から掘り出されて諏訪湖方面などに運び出されたようです。
 この地域ですと、採集民と諏訪大社の関係などの方が影響大きいのではないでしょうか。あまり一般的ではないようにも思えますが。
御柱の搬出も黒曜石地帯の八島地域などと聞きます。
 上社近くを通る152号線を西に向かい299号線をさらに進み北八ヶ岳の麦草峠付近にも黒曜石産出地帯があるそうです。
上社の御柱も八ヶ岳山麓から切り出し搬出されるようです。
夢想ですが、弥生期にも鏃として使われた可能性もありますから無関係でないように思いますがいかがでしょうか。
古くは春宮の800mの参道で流鏑馬などやっていたようです。
とんでも青草でした。

[9481] Re[9479]: シリウス信仰  ペギラ 2008/10/05(Sun) 21:21 [Reply]
私の簡単な説明で
理解していただけるとは、思いませんが、

シリウス信仰というのは、
日本 発信 というものでないか?ということです。

あちらこちら、昨今のネットの中で見えるシリウス信仰は、
ほぼ、発信地は同じでしょう。

シリウス信仰=ミトラ信仰
という変な図式で、どんどん進んでいる。
くどいようですが、発信地はほぼ同じでしょう。

シュメール人に、シリウス信仰があるという話は、
日本以外のどこにあるだろうか??

[9480] 古代人と星  ぽんた 2008/10/04(Sat) 20:23 [Reply]
古墳の天井に星宿が描かれていたり、『万葉集』に100首以上の七夕の歌が載せられていたり・・・古代人は星に興味があったようですが、記紀には天津甕星くらいしか出てこないのは不思議です。他には持統上皇が亡くなる前に金星が昼間見えたという記事とか・・・天皇=北極星とする説もあるくらいなのに・・・。
古代人と星のサイトには、たくさんの古代日本の星座が出てきて、たとえば、「スバルは猿田彦座」とかって書いてあるけど、本当に古代人がスバルを猿田彦座と読んでいたかどうかは疑問です。シュメール人が考え出した「星座」という概念がいつ日本に伝わったのか? 「猿田彦はスバルを神格化したもの」という話は理解できましたけど、他は青草っぽい。

http://members.aol.com/ho4tab1/kana04/kyoseki.html
http://homepage1.nifty.com/~hidaka/kodai/inari.html

[9479] シリウス信仰  ぽんた 2008/10/04(Sat) 20:08 [Reply]
たとえば
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/archive/2006/10/13
http://blog.livedoor.jp/tabletops/archives/83147.html

PONTAでは、「世界最古の文明はシュメール人が築いた。彼らの文化が世界中に広まった」と考えています。昔は、シュメール人文明はシリウス星人の指導によるものと考えられていて、これがシリウス信仰の起源とされていたようですが、今ではその説は否定され、二ビル星人が指導したってことに変わったようです。青草っぽいですね。
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/19990613/f0626.html

[9478] Re[9477]: シリウス信仰  神奈備 2008/10/04(Sat) 18:10 [Reply]
> どれだけ、調べても、
> シリウス信仰なるものの存在が確認できません。
>
> どこにそんな信仰があるのでしょうか?


仮説設定

 ペルセポリス宮殿は真北から西に20度振って建造されている理由として、冬至の真夜中のシリウスの位置が真南から20度東に振っていることを発見し、それについて彼らにはシリウスへの信仰があったとの仮説を設定し、日本の古墳や寺院で真北から西に20度が蘇我氏や聖徳太子に関連するとの結論を導いたと言うことでしょう。

 この場合、他の何かでも西に20度振ると言う規則を伝達できたなら、何もシリウスでなくとも良いのでしょう。

[9477] シリウス信仰  ペギラ 2008/10/04(Sat) 01:40 [Reply]
斑鳩の前に少し。

どれだけ、調べても、
シリウス信仰なるものの存在が確認できません。

どこにそんな信仰があるのでしょうか?
まさか、昨今の新興宗教???


[9476] Re[9475][9471][9468]: 豊浦寺  かたばみ [Url] 2008/10/03(Fri) 09:24 [Reply]
>あとは、斑鳩本体かな

背後の山の斜面なりに建造すれば自然に20度ほど傾くと思います。
斑鳩宮とは? 以下20度とは無関係の余談。

飛鳥奈良時代の私的考察はまだだいぶ先ですが、推古女帝592-628と聖徳太子574〜622?も記紀の改ざん、と考えています。
女帝に興味深いはずの(^^;中国サイド(随書)にその記述がないことが最大の理由です。
「ある男王とその優れた事跡の登場」を記紀は「推古女帝+摂政聖徳太子の事跡」として書いた。
(随書のいう多利思北孤が本当の倭王だと思います)

そのあたりを前提として斑鳩宮とは、とするならば・・
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/narako.jpg
島の山古墳の名が示すようにこの周辺は飛鳥奈良ではまだ湿地帯だと思います。
斑鳩はその湿原(奈良湖)の北岸(≒法隆寺)にあって、飛鳥の中枢の藤原京とは遠く離れている。
斑鳩に何らかの中枢を置くなら周辺にそれを支える勢力があるはず。

生駒の西山麓には多数の弥生遺跡がある、これらと斑鳩の関連はあるか(弥生に遡る伽耶と出雲との関係)。
生駒周辺は応神由来の渡来氏族の拠点だと考えています。
記紀はこれらの氏族を武内宿禰の系譜と書いているが、武内宿禰を含めてその実体は・・
神奈備さんの情報によれば平群坐紀氏神社(紀氏祖?)も生駒にありますね。
(平群氏は色が黒いという万葉がありますから、中央アジアないし東南アジアあたりの血も混じってるかも)

「半島西南部に前方後円墳を築いた応神系氏族の後裔の里帰り+伽耶系」氏族の勢力がそれである、と考えています。
崇峻587-591暗殺後にその勢力から新しい大王が登場した。
山東半島〜百済経由の最新文化の保有者でもあり、蘇我氏も同類だと思います。
蘇我氏が明日香に拠点を造ったということは、生駒の系譜とは多少違うのでしょう。
で、壬申の乱672まで権力争いの連続となる(記紀は最終勝者の編纂)。

生駒には娑羅々馬飼部、菟野馬飼部があってお馬を得意とした・・厩戸皇子。
厩戸皇子は実在と思いますが、誰の子かは記紀の書く他には情報がない≒信用できない(^^;

[9475] Re[9471][9468]: 豊浦寺  ペギラ 2008/10/01(Wed) 23:03 [Reply]
> こちらに良い資料がいくつかあります。→資料館図録資料→蘇我三代
> http://www.asukanet.gr.jp/index.php

かたばみさん、ありがとうございます。

http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=679

ここの本文をダウンロードで、
なんとなく、見えてくるものもありました。

ここの20度って、かなり、というか、超ファジイでしょう。

あとは、斑鳩本体かな。


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