神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

青草談話室、写真掲示板 過去ログ

掲示板のログ(平成二十一年 四月 2009.4)お名前の敬称は省略しています。

[9818] Re[9816][9815][9812][9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/05/01(Fri) 02:17 [Reply]
佐々木様
>  素人さん
> >裏を使ったり、すき直したりすれば安価な記録媒体となります。
>  当時の「紙」的なものにそのような活用方法があったのかどうかが、まずわかりませんね。おそらく文字(当時の感覚では記号?)を写書し、判別できる人物も限られていたのでしょうか。

文字自体が神聖なものとされていたのかと思えば7世紀後半からの日本での木簡は捨てられていたようですから道具としての文字であり文字の書かれた紙も特に神聖なものではないように思ったわけです。紙はすいて居たわけですからほぐして、すき直せばいいだけで、再生に特殊な技術は要らないのではと考えたわけです。
古い時代は勿論、文字自体が神聖なものであったのでしょうが。
 思い付きだけの青草でした。

[9817] Re[9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/05/01(Fri) 02:02 [Reply]
神奈備様
思い付きですが。
>  これに対し、前期難波宮は明確に南を正面とする宮室の、我が国における初現です。難波宮北西部の大蔵も南向きであったといえます。
>
南ですと朱雀で色は朱色でしょうか。辰砂・水銀朱を連想します。
方位と色は関係あるのでしょうか。
青草でした。

[9816] Re[9815][9812][9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  佐々木 2009/04/30(Thu) 17:04 [Reply]
 素人さん
>裏を使ったり、すき直したりすれば安価な記録媒体となります。
 当時の「紙」的なものにそのような活用方法があったのかどうかが、まずわかりませんね。おそらく文字(当時の感覚では記号?)を写書し、判別できる人物も限られていたのでしょうか。
 木簡や竹簡のことは第一人者の奈良大学の東野先生の最近のご研究を勉強していないためにわかりません。
 小生は真に落ちこぼれです。

 

[9815] Re[9812][9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/04/30(Thu) 01:29 [Reply]
佐々木様
>  素人さん 
>  小生の場合、考古系建築屋諸兄が柱穴を見て高床式倉庫、これは神殿とか理解できず、すでに落ちこぼれています。
>  以前神奈備さんが「なにわの怪異」で狐の頭が難波宮に転がっていたとの話題提供があったと記憶していますが、狐はネズミ除けで飼っていたのか。
>  そんなラフなことしかザル頭の小生からは出てきません。
倉庫群の書き込みなので、数とか文字と切り離せない話なので木簡・紙についてお聞きした訳です。数字などは古墳・土木工事からかなり高度な数理が使われていたことから有ると考えていいと思うのですが、名称などの表記が古墳時代は記録がないのでお聞きした訳です。佐々木様がご存じないとはとても難しい問題と理解いたしました。半島に日本の領有地があり、多数の日本人が居住していた時代は、中国などから古紙を輸入できたのではないか考えました。江戸時代でも古紙が流通していたわけですから、もっと紙が高価だった時代には中国でも古紙の流通が有ったのではと考え日本などへも流れたのではと考えたわけです。裏を使ったり、すき直したりすれば安価な記録媒体となります。
木簡は短い文を書くときに使われたと有、長文や重要な文書は紙がつかわれたのでしょう。木簡登場の7世紀後半以前は紙は有ったと思われますが、一寸したメモなどはどうしたのだろうと考えたわけです。輸入した古紙の裏とかすき直したボロ紙などはなかったかと夢想した訳です。この辺がとても興味があるところです。
思い付きですが、古い時代は紙がつかわれ、倉庫絡みの文書はすき直されて消滅した。思い付きの青草でした。 

[9814] Re[9813][9812] 宮殿と大蔵  佐々木 2009/04/28(Tue) 20:20 [Reply]
> > ネズミ対策は?
>ネズミ返しは出土していませんが、米を入れていたのであれば、付いていたのでしょう。キツネ、面白い発想です。
 守口市がネズミ対策で、イタチを放し飼いした時期がありまして。それで着想したわけですが。

[9813] Re[9812] 宮殿と大蔵  神奈備 2009/04/28(Tue) 16:35 [Reply]



> 小生の場合、考古系建築屋諸兄が柱穴を見て高床式倉庫、これは神殿とか理解できず、すでに落ちこぼれています。

 伊勢神宮の本殿から左へ道をとりますと御稲御倉と言う神殿風の稲倉があります。稲作の神を倉稲魂神と言うように稲と倉とには密接な関係がありそうです。
 法円坂の倉も、稲が入っている時には、中の荷物は稲魂としてあつかわれるでしょうし、空の場合にはまさに神殿そのもの。


>  その中身によって環境面方位面も配慮していたことはなかろうか。

 池上曽根遺跡の神殿は東西に長く、真南に井戸があります。この時代も既に南北を正方位とする考え方があったのでしょう。135平方メートルに25本の柱(直径70cm)、前期難波宮の倉庫の場合、面積90平方メートルに20本の柱(直径50cm)、池上曽根では神殿とされていますが、倉庫と見てもよさそうです。


> ネズミ対策は?

 ネズミ返しは出土していませんが、米を入れていたのであれば、付いていたのでしょう。キツネ、面白い発想です。


>  配列から見ると、短期備蓄、長期備蓄、一時的な受入検査場?。

 九州がきな臭くなりそうだとして、反物を太宰府に輸送した場合がありますし、お寺にも布を大量に寄付しており、難波津の倉庫から出さしているようです。色んな用途の為に蓄えていたのでしょう。


[9812] Re[9811][9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  佐々木 2009/04/28(Tue) 09:43 [Reply]
 素人さん 
 小生の場合、考古系建築屋諸兄が柱穴を見て高床式倉庫、これは神殿とか理解できず、すでに落ちこぼれています。
 以前神奈備さんが「なにわの怪異」で狐の頭が難波宮に転がっていたとの話題提供があったと記憶していますが、狐はネズミ除けで飼っていたのか。
 そんなラフなことしかザル頭の小生からは出てきません。 

[9811] Re[9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  素人 2009/04/27(Mon) 23:41 [Reply]
佐々木様
> >倉庫群
>
>  それぞれの倉庫には何を格納していたのか。
>  その中身によって環境面方位面も配慮していたことはなかろうか。
>  配列から見ると、短期備蓄、長期備蓄、一時的な受入検査場?。
>  日影や谷奥は米?ネズミ対策は?
>  少し以上のことが気になりました。
貯蔵品の在庫管理や品質管理は7世紀後半からは倉庫の出納を記録した倉札や付札木簡などから解ると思いますが、それ以前はどうやって管理していたのでしょうか。
とても興味があります。古墳時代、飛鳥時代と識字率は徐々に上がってそのレベルにに見合う文字での管理していたのでしょう。木簡なしで直接描いていたのでしょうか。思い付きですが、半島と関係のあった時代は、古紙とか輸入して裏を使ったり、すき直したりしていたのでしょうか。
漢字を使わないとすると数とかは記号・その他は江戸時代のように誰にでもわかる絵文字などで書いていたのでしょうか。それにしてはそれらしい出土品はありません。
記録がないと倉庫の管理は大変でしょう。何か御存知でしたらお教えください。
的外れの青草でした。

[9810] Re[9809][9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  神奈備 2009/04/27(Mon) 17:28 [Reply]
> それぞれの倉庫には何を格納していたのか。

 格納していた物については、それが出土していないということで、「わかりません。」が公式回答ですが、ボランティアでなくなりましたので、自由に言えるのですが、これがまた難しい所。
 王権の基礎となる物資(武器、米、布など)が備蓄されていたものと思われます。さらに、難波は渡来人が多く住み、彼らが主に作っていたと思われる鉄製品、塩、茶碗などの集積地であり、また原材料の輸入も為されていたと思われます。

 紀ノ川河口に近い鳴滝倉庫群では倉庫の床下に甕が置かれていたようで、甕の中には液体(植物油、動物油?)か穀物が入れられていたと推測されています。法円坂倉庫群からは甕の遺物が出土していないようです。

 紀伊国の枕詞は「あさもよし」ですが、これは「麻も良し」ではないかと思っています。よい品質の麻綿がとれたのでしょう。日本の輸出物で他国から喜ばれたのは麻綿・糸・布であり、これらと鉄などと交換していたのかも知れません。

 前期難波宮の並び倉の跡地からは、金の粒(歴博に展示中)が出ています。正倉院風の建物と推定されており、大王のお宝が保存されていたのかも知れません。

[9809] Re[9808]: 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  佐々木 2009/04/27(Mon) 09:55 [Reply]
神奈備さん

>2年間の大阪歴史博物館のボランティアを卒業しました。おかげで難波の勉強をさせていただきました。
 お疲れさまです。

>倉庫群

 それぞれの倉庫には何を格納していたのか。
 その中身によって環境面方位面も配慮していたことはなかろうか。
 配列から見ると、短期備蓄、長期備蓄、一時的な受入検査場?。
 日影や谷奥は米?ネズミ対策は?
 少し以上のことが気になりました。

[9808] 宮殿と大蔵との関係−歴博:積山洋学芸員に聞く−  神奈備 2009/04/27(Mon) 09:07 [Reply]
 2年間の大阪歴史博物館のボランティアを卒業しました。おかげで難波の勉強をさせていただきました。

 古墳時代の法円坂倉庫群は東西に並んでいます。■は倉庫一棟。
■■■■■■  ■■■■
          ■■■■ ←上と同じ位置
■■■■■■


 飛鳥時代の前期難波宮大蔵は、北側に「並び倉」があり、個々の倉庫は南北に並んでいます。


 ■■■■■■■
 ━━並び倉━━ 連続した建物。



■       ■





 一見、古墳時代は東西に、飛鳥時代は南北に並んでいるように見えますが、きちっとした正方位で並んでおり、それは「正面」を意識した並びと言えます。

 法円坂倉庫群は、倭ではきちんとした正方位をとっている初現ですから、方位にもとづいた「正面」というもの意識していたことは明らかだと思います。それが東西に長くのび、また各倉もみな東西棟であるということから、これは南または北が正面であったと考えられます。さらに、16棟の建物は東西2群に分かれ、その両群がいずれも2列の建物群から成るわけですが、両群の北側の建物列が大体一直線をなし、南側の建物列は両群で南北にずれていることからみると、私は北を正面としていたのではないかと思っています。つまり難波津の方を向いていたわけです。

 これに対し、前期難波宮は明確に南を正面とする宮室の、我が国における初現です。難波宮北西部の大蔵も南向きであったといえます。

 その理由は、難波宮大蔵の北端には東西棟である「並び倉」が位置し、その手前西側に南北棟が並ぶからです。東大寺正倉院や法隆寺綱封蔵と同様の構造である並び倉が、西側の建物列よりはるかに高い格式を有していたことは疑えません。それが、塀で囲まれた空間の北端に位置することは、大蔵全体が南向きの構造であったことになると思います。

  『埋もれた港』(千田念著)に、「古代の宮殿の北側に大蔵が配置されるのが原則」とありますが、これは前期難波宮に当てはまるのですが、これは南北軸(天帝北極星)が重要視された時代のことでしょうが、古墳時代には大蔵と宮殿の位置関係はどうだったのかと云う問題です。

 古墳時代の法円坂倉庫群はすでに南北軸の観念で造られています。これは中国的(朝鮮半島も関係するか?)だといえそうですが、しかし、蛍池東のクラなどはまだ正面観が判明するところまでいっておりません。和歌山の鳴滝倉庫群は全容が判明していますが、閉鎖的な谷奥の斜面地に建設されていたので、方位観は明確ではありません。となると、法円坂倉庫群がだけが突出した存在かとなりがちですが、実は静岡の古新田遺跡(古墳中期)の居館はほぼ南向きらしいことが判明しております。また後期の群馬県原之城遺跡の居館も、確か全体が南向きで、北部に中心建物があり、その奥(北)に倉庫群があります。

 もちろん、それとは異なるプランもあったものと思いますが、古墳時代には次第に南北重視の方位観ができあがりつつあったのではないでしょうか。

 東西軸重視(太陽信仰)の場合には、宮殿は大蔵の東にあると言うことにはならないのかと云う問題について。
 日本ではそのような明確な例があるという話はないと思います。今後の問題だと思います。なお、前漢長安城がいわゆる「坐西朝東」つまり東向きでありながら、太倉が宮殿の東にあります。


[9807]  [9615]について下記のように訂正して新しい書き込みをいたします。  神奈備 2009/04/24(Fri) 13:06 [Reply]
 大阪歴史博物館の学芸員に積山洋さんは古墳時代の16棟の倉庫跡などを掘った方です。氏から遺跡の方向につきまして下記のようなお話を頂きました。

 大阪市文化財協会では近年北を示す矢印に磁北を用いることはありません。基準点を利用した測量です。北は座標北(真北とわずかにずれるが1度以下)。所がやむをえず磁北を用いる場合には方位矢印の先端に「MN」と記します。

 なお、積山さんは5月18日、住吉セミナー(住吉大社吉祥殿)14時〜16時、¥200円。テーマ「住吉津と難波津」。の講演をされます。
http://www.sumiyoshitaisha.net/news/gbbs.cgi?oldpage=1

[9806] Re[9805][9804][9803]: 大和の王と河内の王 7  素人 2009/04/24(Fri) 00:00 [Reply]
神奈備様
あまり自信がないところですが。
> > 西暦404年の帯方界(ソウル付近)へ大船を連ね騎馬軍団を輸送して陽動作戦を仕掛けて新羅に居座った高句麗主力を本国に追っ払った。
>
>  この年には、「倭が帯方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。」とあり、高句麗が敗れたとは書かれていないようですが・・
>
朝鮮の資料では400年の金海伽耶侵入以来新羅に404年も高句麗主力部隊が居座っていて、製鉄華僑も半島に戻れず、鉄の供給が途絶えていたと思われます。
そこで留守となっていた高句麗本国の旧帯方地域に侵入して徹底的に破壊したものと思われます。本国が敵の侵入を受けたので、新羅にいた高句麗主力は朝鮮半島の西岸へ移動したわけです。ここで侵入した軍はこの地域に敵軍を引き付けておくために犠牲を覚悟で戦ったと思われます。この間に、高句麗軍のいなくなった新羅を攻めるなどして従わせ高句麗の再度の侵入を防ぐ措置を昂じたものと思われます。
これが陽動作戦です。高句麗軍主力に勝つ必要はないのです。犠牲は大きいですが、金海伽耶周辺の安全が確保でき、鉄の供給が再開できます。
> > 漢字で書いているわけで
>
>  この頃に、高句麗には高句麗の文字(神代文字?)があったのでしょうか。
>
碑文は漢字・漢文ですが、文字は解りませんが高句麗語は有ったのでしょう。
苦し紛れの青草でした。

[9805] Re[9804][9803]: 大和の王と河内の王 7  神奈備 2009/04/23(Thu) 10:03 [Reply]
> 広開土王碑
 漢文が苦手で、訳文を見ています。

> 西暦404年の帯方界(ソウル付近)へ大船を連ね騎馬軍団を輸送して陽動作戦を仕掛けて新羅に居座った高句麗主力を本国に追っ払った。

 この年には、「倭が帯方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。」とあり、高句麗が敗れたとは書かれていないようですが・・


> 漢字で書いているわけで

 この頃に、高句麗には高句麗の文字(神代文字?)があったのでしょうか。

[9804] Re[9803]: 大和の王と河内の王 7  素人 2009/04/22(Wed) 00:47 [Reply]
神奈備様
広開土王碑に記載されている。西暦404年の帯方界(ソウル付近)へ大船を連ね騎馬軍団を輸送して陽動作戦を仕掛けて新羅に居座った高句麗主力を本国に追っ払った。本国はものすごい被害を受けたのでしょう。
白水江より200年以上も前に、朝鮮半島西岸の錦江よりはるか先に騎馬軍団を巨船で送ったとは、すごいですね。神功皇后の名により、巨木を切ったことによるものと思われます。
鉄の供給が止まり余程、困ったのでしょう、国を挙げての総力での陽動作戦でしょう。前にも書きました済みません。
>  それにしても、『日本書紀』に神功紀などは120年を新しくしてやると半島との往来のことが事実となってきます。それより後の倭の五王の時代にあたる履中から雄略までの期間については宋とのやりとりは記されていません。おそらく宋の資料が日本書紀編集局にはなかったと云うことでしょう。
>             終わり
>
広開土王碑は少なくとも、敵の事はあまり弱く書いたのでは、大王さまの自慢にならないので本当のことを書いたと思います。漢字で書いているわけで、中国に自慢しているわけです。中国はこの当時の半島の出来事は事細かく熟知しているわけで、うそを書けばそれでなくても、蛮族とバカにしているのにさらに嘘つきの蛮族と賤しめられるでしょう。いくら高句麗でも中国に馬鹿にされるようなことは書かないでしょう。都合の悪いことは書かなくても、書いてあることはほぼ真実でしょう。
弓が高句麗など騎馬民族の複合弓の半弓に変わらず、古来からの大弓のままで現在まで来ていますから、馬や騎馬の鎧が入って来ても弓が日本の弓です。どう考えても大陸に行って、戦闘を行いそのままの軍装で凱旋した日本人が沢山いたのでしょう。
難波津付近で度々、盛大な凱旋・出兵式典が煌びやかに行われていたのではと夢想します。弓法はモンゴル式だそうです。
何度も同じことを書いて、とても青草でした。          

[9803] 大和の王と河内の王 7  神奈備 2009/04/21(Tue) 16:41 [Reply]
 難波堀江の掘削や堤防の築造により、河内湖周辺の生産力は大きく増加し、大王家は収入が増えたことでしょうし、河内湖周辺の豪族達も同じくだったと言えるでしょう。また、難波津が安定した港となったことで、国内の交易だけではなく、国際的な交易も進んだことでしょう。これが16棟の倉庫群の建築となったと言えるでしょう。

 河内に政権が誕生して応神・仁徳・履中で3代目となります。後世のことになりますが徳川幕府でも3代目の家光になると「生まれながらの将軍」と云うことになります。世襲も安定してくるのです。家光は鎖国政策でしたが、河内政権の3代目履中は宋へ朝貢した最初の王となります。倭王讃。

 河内の政権が治水工事の音頭をとり、これで各地の収穫が増えて来ますと、ここに世襲の王権が成立して来るのではないでしょうか。まかせて安心となります。倭の五王の系譜が『宋書』から作成できます。

 讃と珍とが兄弟。次の済の続柄についての記載がありません。済の子が興と武。

 『日本書紀』の系譜。
 履中と反正と允恭は兄弟。允恭の子が安康と雄略。

 允恭が反正と兄弟であるのか、そうでないのかが違う点です。適当な人物がいない場合、親族の中からそれらしい男子を大王にしたのかも。尤も、白石太一郎『考古学と古代史の間』の中で、古市古墳群と百舌鳥古墳群との関係から河内には二つの王家がいて、交互に大王に就任していたとの仮説を出されています。
 これから河内大王家の古墳を見ますと、応神ー仲ツ山、仁徳ー上石津ミサンザイ、履中ー誉田御廟山、反正ー大仙陵となりそうですが、さてさて。

 上石津ミサンザイ古墳は現在は履中陵とされていますが、これが本当の仁徳陵であることは間違いのない所でしょう。三代目四代目ぐらいにならないと富の蓄えも大きくならず、巨大古墳を築くことにはならないのでは。
 古墳も造営されてから色んな使われ方をして来たのでしょう。大仙古墳は戦国時代にお城が築かれていたようで、聖地としての雰囲気は回復しないまま今日に至っているようです。
 
 上石津ミサンザイ古墳は二番目の大きさと云うこともあったのでしょう、今日まであまり触られずに来た古墳だったのかも、いかにも聖地らしい雰囲気が残っているようです。聖地だから仁徳、これは青草話ですね。

 それにしても、『日本書紀』に神功紀などは120年を新しくしてやると半島との往来のことが事実となってきます。それより後の倭の五王の時代にあたる履中から雄略までの期間については宋とのやりとりは記されていません。おそらく宋の資料が日本書紀編集局にはなかったと云うことでしょう。
            終わり
           

[9802] 日岡神社  韓国と音楽を愛する男 2009/04/19(Sun) 18:57 [Reply]
今日の神戸新聞の地域版に、日岡神社で「国恩祭」が開かれたという記事がありました。
国恩祭は、幕末からの伝統のある祭りで、加古・印南郡の22の神社が毎年輪番で行います。
今日も神事が行われましたが、僕は行ったことがありませんので、祭りに詳しい人がいれば教えていただけば幸いです。

[9801] 大和の王と河内の王 6  神奈備 2009/04/18(Sat) 18:09 [Reply]
土木国家日本の伝統

 この頃の大王とは、畿内勢力を代表して国内各地からの作業人員などの動員権とか共通の敵に対しての軍事的指揮命令権(部隊長と兵士の動員権)を持っており、さらに海外との通交通商代表権を持っていると云うことだったようです。

 これは宋に朝貢した倭王武の上表文に、
 昔から我が祖先は、みずから甲冑をし、山川を跋渉し、東は毛人を征すること五十五国、西は・・、北は・・、平らげること九十五国に及び、強大な国家を作りました。
 そうして、新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王、に任じられています。

 森浩一『巨大古墳の世紀』に、大阪の旧国名は河内、分離して和泉と水に関係すると指摘されています。ここでは治水がポイントになる地域と言えます。

 河内湖の状態が問題だったのです。現在の淀川の水(伊賀の名張、近江、山城などの水)と大和川(奈良盆地の水)が全て河内湖に流れ込みます。その割には海へ流れ出す水路は上町台地の先端部分と千里丘陵との境にしかなく、長雨はあれば、河内湖周辺と川沿いの陸地は水没します。田畑としても都合が悪かった。

 これを解消するべく、難波江なる運河を掘りました。現在の大川です。
 また、茨田の堤(淀川が大隅島の東を南に流れるようにする)や横野提( 旧大和川の流れを上町台地の東に沿うように流す)を築きました。
 大川の運河は河内と東アジアの世界を直結する働きをしました。
 この運河の工事には河内湖周辺の各豪族を結集させる大王の指導力が要請されたのでしょう。治水王だったのです。

 これで河内湖周辺の湿地帯が稲作のできる水田になり、生産量も増加してきたのでしょう。これらを背景に5世紀後半に難波堀江の南側の高台に巨大な倉庫群が築かれました。高床式倉庫跡が最低16棟分発見されています。東西に8棟が2列。
 古代の宮殿の場合、その北側に倉庫が配置されるのが原則とされています。記紀の伝承から云えばこの付近の宮殿は大隅宮か高津宮となりますが、若干時代が違うようです。
 復元された倉庫が一棟、大阪歴史博物館の南側に置かれています。雨の日と火曜日とはだめですが、それ以外の日は12時半から13時まで開いていますのでご覧下さい。

 写真掲示板に倉庫のイメージを配置をアップしています。

[9800] Re[9796][9794][9784][9783]: 神奈備・神名火か「神那霊」か  日向 勤 [Url] 2009/04/18(Sat) 17:22 [Reply]
記紀では、日=霊(ひ)としていますが、神那霊(日、火、備)山は、祖先霊が降り立つところであり、古墳は先王と後継王の「日継ぎ」=「霊継ぎ」が行われる場所であり、棺・柩(霊継ぎ)は祖先の霊の宿る場所、神社は祖先霊を祀る場所で、いずれも祖先霊(鬼神)信仰において、共通しています。
また、熊野大社と出雲大社の間でとり行われる「火継ぎ神事」は、霊継ぎ神事であり、お盆の迎え火・送り火や京都・八坂神社の「おけらまいり」など、祖先の霊を「火」に移して運ぶ行事は今に引き継がれています。両祖父母の家には、神棚と仏壇がありましたが、どちらにも祖先の霊が宿る、と教えられてきました(仏教では、霊はあの世に行ったきり、のはずなのですが)。

> > 日本書紀の「高皇産霊(むすひ)尊」「神皇産霊(むすひ)尊」の記載があります。
>
>  高皇=たかみ
>  産 =むす
>  霊 =ひ
> とのご理解ですね。高皇産は万葉仮名ではありません。霊のみ万葉仮名と見なすのは疑問です。霊にはその意味から倭語・日本語として「ひ」と読むのではないでしょうか。
>
>  万葉仮名で検索しますと、『ウィキペディア(Wikipedia)』『万葉仮名一覧』が出ます。これらにも「ひ」(甲乙ともに)の漢字として霊は見えません。
>
>  そういえば、霊止で人(ひと)としている漫画がありましたね。

[9799] Re[9797][9794][9784][9783]: 神奈備・神名火か「神那霊」か  神奈備 2009/04/17(Fri) 08:19 [Reply]
高御産日神としたり高御産巣日神となったり、高産巣日神などいろいろ。

火産神、火産霊神の例のあります。共にホムスビ。

それらしき漢字が並べば、何となく神名ができる感じ。

[9798] 大和の王と河内の王 5  神奈備 2009/04/16(Thu) 10:38 [Reply]
 応神天皇と仁徳天皇の宮殿について

 応神天皇は『古事記』では軽島の明宮、『日本書紀』では、二十二年から難波の大隅宮にいます。逝去の場所は明宮とあり、また一説には大隅宮で崩御とあります。
 先ず、明宮ですが、奈良県高市郡に比定する説が多いようですが、確かに橿原市西池尻町に軽と云う地名が残っています。畝傍山の南側で平地の地域です。

 崩御した場所が軽島明宮か大隅宮かと云う二説があると云うことはそれぞれが近い場所だったと言えます。ともに難波だったと見ていいでしょう。軽島と云う島は八十島の中に見いだせませんが、その中の一つだったのかも。
 明宮は「アキラ」の宮とルビがありますが、マドカ説では「アカル」の宮。そうしますと、赤留比売を祭神とする比売許曽神社の鎮座していた付近かも知れません。現在は鶴橋近辺です。鶴橋なら日向の髪長媛を置いた桑津は南2kmです。

 大隅宮については新大阪駅の南東に大隅神社が鎮座していますが、これは単に名前が似ているだけで、応神天皇のエピソードの宮にあたりません。すなわち、吉備から来た妃の兄媛が難波の大津から故郷に船出をするのを宮殿の高殿に登ってその船を見送ったとあります。とうてい新大阪の大隅ではありえないことなのです。

 上町台地こそ高殿になります。
 大隅の隅は住吉の住と思われます。難波の住吉三神は最初は現在の坐摩神社の御旅所の場所に鎮座していたとされています。この付近が大隅といわれたのでしょう。この近辺が大隅宮。見送るなら上町台地に登れば十分。



 仁徳天皇の宮は高津宮と云われます。

 探訪の条件を挙げて見ましょう。

 ●高津の津は難波津のこと、ここを見下ろせる高台と言えます。
 
 ●『日本書紀』「仁徳天皇38年の条」では、「仁徳天皇と皇后の八田皇女が高殿に登って暑さを避けた時、菟餓野から鹿の鳴き声が聞こえた。」あり、この「菟餓野」は現在の大阪市北区兎我野町付近、そうしますと、上町台地の北端となるでしょう。
 
 ●大化の改新の孝徳天皇は、「上古の聖王の跡に従い、天下を治めよう。」として、難波長柄豊碕宮に宮殿を造ったのです。即ち法円坂にある難波宮史跡公園の場所。
 
 ●『日本書紀』「仁徳天皇12年の条」にある、「高津宮の北に掘られた堀江」とは、大川のことです。

 一様に上町台地の北部の高台を指し示しているようです。

 仁徳天皇は応神天皇と共に河内政権の始祖王的雰囲気を持っています。応神天皇の宮跡は坐摩神社、仁徳天皇の宮跡には難波坐生國咲國魂神社(略称:生国魂神社)が置かれたと見ていいのではないかと思っています。
 特にこの時代、八十島祭りの原形ができあがってきたとの説もあり、生国魂神社はその中心的役割の神社です。
 現在、神社は大阪市天王寺区に遷座していますが、これは大坂城の築造時で、それまでは追手門(府庁の東側)に鎮座していたようです。追手門を生玉門とも称していました。
 この付近なら上記条件を全て満たすのではと思っています。但し一つだけ懸念があります。孝徳天皇は生国魂社の木を切ったとあり、聖王の跡といいながら、いかがなものかと・・・。

[9797] Re[9794][9784][9783]: 神奈備・神名火か「神那霊」か  佐々木 2009/04/16(Thu) 10:32 [Reply]
はじめまして
 > 日本書紀の「高皇産霊(むすひ)尊」「神皇産霊(むすひ)尊」の記載があります。

 産霊は、産巣日と綴る例もありますね。霊は巣日に当るのでしょうか。
 また「巣日」と聞くと、百済語?の赤鳥(supi)を少し連想してしまいますが。
 赤鳥とは鳥の王、ミソサザイのことか? 少し青草が入りましたが。

[9796] Re[9794][9784][9783]: 神奈備・神名火か「神那霊」か  神奈備 2009/04/16(Thu) 09:14 [Reply]
> 日本書紀の「高皇産霊(むすひ)尊」「神皇産霊(むすひ)尊」の記載があります。

 高皇=たかみ
 産 =むす
 霊 =ひ
とのご理解ですね。高皇産は万葉仮名ではありません。霊のみ万葉仮名と見なすのは疑問です。霊にはその意味から倭語・日本語として「ひ」と読むのではないでしょうか。

 万葉仮名で検索しますと、『ウィキペディア(Wikipedia)』『万葉仮名一覧』が出ます。これらにも「ひ」(甲乙ともに)の漢字として霊は見えません。

 そういえば、霊止で人(ひと)としている漫画がありましたね。

[9795] Re[9793][9792]: 大和の王と河内の王 4  神奈備 2009/04/16(Thu) 09:14 [Reply]
素人様 貴重な情報ありがとうございます。

> 武雄は記憶が正しければクスの巨木の有るところです。

 『肥前国風土記』
 神埼郡 琴木岡 景行天皇が岡をつくらせてその上で琴をかなでた後で琴を立てると楠木と化してしまったとあります。

 佐嘉郡
 昔、楠木がこの村に生えていた。幹も枝も高く・・・  とあります。

 古代においても佐賀県は楠木が多かったようですね。


> クスノキ・巨船と関係ある方たちでしょうか。
> 巨船と言いますと半島と関係あるのでしょうか。

 『日本書紀』神代上一書(第五)
 素盞嗚尊は韓郷の島には金銀がある。(中略)髯−杉、胸−檜、尻−槙、眉−樟(楠木)それぞれの毛が木になり、その用途を決められた。杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。云々とあります。

 韓半島では楠木は南側付近では育つそうです。ソウル近辺は北限を越えていて楠木は育たないようです。素盞嗚尊が新羅のソシモリに降ったとしますと、一応、楠木が育つ気候の場所だったのでしょう。


[9794] Re[9784][9783]: 神奈備・神名火か「神那霊」か  日向 勤 [Url] 2009/04/16(Thu) 06:35 [Reply]
日本書紀の「高皇産霊(むすひ)尊」「神皇産霊(むすひ)尊」の記載があります。
なお、「霊人(ひと)」「霊子(ひこ)」「霊女(ひめ)」は、角林文雄氏(『アマテラスの原風景』)の説で、他は私の説です。
『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』(梓書院)において、霊信仰(鬼道。その裏返しが、怨霊信仰)に着目した分析を行っています。
なお、「神話探偵団」http://blog.goo.ne.jp/konanhinaにおいても、展開中です。

> >  「神那霊(かんなび)山」「霊漏(ひも)ろ木」「霊川(ひかわ)」「霊場(ひば)山」「受け霊(ひ)」「霊継ぎ・棺(ひつぎ)」「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊御子(ひみこ)」など、「霊(ひ:魂、鬼)信仰」に着目して古事記の神話部分を見直しています。
>
> 霊は万葉仮名で ひ とよむのですか。たま あやし くす ならあるようですが・・・
>
>

[9793] Re[9792]: 大和の王と河内の王 4  素人 2009/04/16(Thu) 00:09 [Reply]
神奈備様
船の船底材料として使われたクスノキを思い出しました。
>  武雄は武内宿禰の生誕の地で、かれは景行天皇に従って一族を帯同して畿内へ行ったのでしょう。彼らが神功・応神東征の際に、東征側につき多いに活躍できたのでしょう。

武雄は記憶が正しければクスの巨木の有るところです。
武雄の大楠
「武雄市指定天然記念物  1970年7月15日指定
佐賀県武雄市武雄町武雄
幹周    20.0m 樹高      30m 樹齢    300年以上」
http://www.kyoju.jp/100/takeo/1.jpg
川古の大楠
国指定天然記念物   1922年3月8日指定
佐賀県武雄市若木町皿宿
幹周    21.0m 樹高      25m 樹齢    300年以上  
(伝承 3000年)
http://www.kyoju.jp/100/kawago/1.jpg
古代からクスノキが栽培されて、真っ直ぐな枝のない有用材として生産されたのでしょう。クスの巨木が2本も有るとは、武雄はすごいところです。
(クスノキを育てて枝を落として、寄せ植えしてありますが枝のないまっすぐなクスノ木に育っています。素質のある苗を選び、管理すれば真っ直ぐなクスノキは作れそうです。)
神功皇后もクスノキの巨木を切って巨船を作った伝説を残されています。
手前味噌ですが、クスノキ・巨船と関係ある方たちでしょうか。
巨船と言いますと半島と関係あるのでしょうか。

[9792] 大和の王と河内の王 4  神奈備 2009/04/15(Wed) 11:31 [Reply]
 河内政権は古墳の全盛時代です。巨大古墳は大きい壺を現しているようです。仙人の住処である「坪中天」をイメージしているようです。既に神仙思想が入っていたのでしょう。古墳の中から30Kgの朱が入った壺も見つかっており、また遺骨にも朱が付いている場合があるようです。墓への施朱の風習は3世紀半ばから5世紀末までが多いようです。

 紀州の丹生都姫神社には応神天皇の宸筆になる書き付けが残されていたと云います。実物は火災で焼け、写しは東京の丹生家に保管されているとか。
 書き付けの内容は判りませんが、恐らくは『播磨国風土記逸文』にある、爾保津比売命のお話で、「比売神が神功皇后に赤土を塗って新羅に行けば容易に平伏(ことむけ)出来ると教え、その通りになったので、爾保津比売髪を紀伊の国の筒川の藤代の峰にお鎮め申し上げた。」とあり、この事で高野山を含む北部紀伊山地を丹生都姫に寄進したとの内容と推定できます。ひとえに朱に魅せられていたのでしょう。

 真っ赤に塗られた世界は常世、常世連は赤染氏の後裔。この赤染氏は香春神社の宮司家、大目命と忍骨命を祀っていたと云われています。もう一つの宮司家は鶴賀氏で、現在もそうです。近くに現人神社があり、どう見ても気比神宮の鎮座する敦賀と関連がありそうです。

 丹生都姫神社の鎮座地は紀の国の伊都郡になります。隣が那賀郡。いずれも北九州の地名のようです。特に伊都郡には伊都国があり、天日矛の後裔が五十迹手で、皇后達の軍を迎え入れています。伊都国を丹生氏の先祖の上陸の地とする方もおられます。

 さて、応神天皇は誰の子なのでしょうか。『住吉大社神代記』では大神と皇后の間に密事−夫婦之密事−があったと記載されております。大神を具体的な人物として示すのは難しいことですが、五十迹手さんや武内宿禰さんも有力な候補かも。神功皇后は赤子を帯同せずに南紀に行きます。一方、東征中は武内宿禰が赤子を抱いています。
 武内宿禰が高皇霊産神としての皇祖に見えたのでしょう。


 奥野正男著『邪馬台国の東遷』には、北九州の地名 平群 曽我 羽田 基肄 葛木 巨勢をあげています。その地名を冠とした氏族は武内宿禰の子孫として政権内で活躍しています。

−−−九州北部の地図と地名−−−『邪馬台国の東遷』から

 博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I
        ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川        
  有明海

 武雄は武内宿禰の生誕の地で、かれは景行天皇に従って一族を帯同して畿内へ行ったのでしょう。彼らが神功・応神東征の際に、東征側につき多いに活躍できたのでしょう。

[9791] Re[9789][9786]: 大和の王と河内の王 2  神奈備 2009/04/15(Wed) 11:30 [Reply]
> 古い時代には自然銅も採掘されたのでしょう。
> 地名「採銅所」 JR日田彦山戦には「さいどうじょ」駅がある。

 炭坑節の二山から銅がとれたそうです。この山へ登ろうと思って地元の方に登り口の場所を聞いたのですが、銅を採った跡の穴が随所に開いており、危険だからやめておくように云われました。一人旅だったので中止。

 採銅所には古宮八幡宮が鎮座、御許山の三柱の女神を思わせる石があります。清祀殿で宇佐八幡に奉ずる鏡を作っていたそうです。
http://kamnavi.jp/toyo/furumiya8.htm

[9790] Re[9788]: 髪長媛  神奈備 2009/04/15(Wed) 11:28 [Reply]
> 髪長媛
>  紀州の道成寺に伝わる髪長姫伝説も入内しています。よく似ていますね!

 聖武天皇の母の宮子姫は紀州の髪長姫との伝承ですね。皇子を生んでからノイローゼになったようです。気楽な立場にはなかなかしてもらえない・・・。

[9789] Re[9786]: 大和の王と河内の王 2  素人 2009/04/15(Wed) 00:24 [Reply]
神奈備様
調べてみますと本当に鉱山が有ったんですね。
>  豊前国に式内社の香春神社が鎮座、三座の神で辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命が祀られています。
>  祭神の辛國息長大姫大目命とは、『豊前国風土記』に、「鹿春の郷 昔、新羅の国の神が自分で海を渡って来着いて、この河原に住んだ。鹿春の神と云う。」の神のことです。息長帯比売を思わす神と云うか、ズバリではないでしょうか。
>
>  忍骨命とは天忍穗耳命のことのようですが、天忍穗耳命は降臨しようとして下界を眺めると平定されていないようなので気が進まないとやめます。平定を待っている間に子供の瓊々杵命が生まれますので、子を降臨させます。天忍穗耳命は自分が降臨するタイミングを見ていたのでしょう。誉田別命として出現したのかも知れません。
>
>  豊比売は摂津の女神の豊宇可乃売神のことで、赤留比売と見て差し支えないでしょう。
> http://kamnavi.jp/log/naniwainori.htm
> 浪花の祈り 阿加留比売と豊宇可乃売 を参照下さい。
>
>  この香春神社の神体山の炭坑節の二山目から銅が採取されていました。奈良の大仏を造営する原動力になった銅です。このおかげで宇佐神宮が一躍日本の神々のトップに立ったのでした。
>

「金属鉱床は主として香春岳の北部から西部にかけてその中腹に点々として分布し,現在知られている鉱床は横鶴・水晶・床屋・宗舟・ズリネ・竜神等である5各鉱床とも多少の差異はあるが,ほとんど接触交代鉱床で共通の状態を示し,昔から銅鉱を対象としで稼行された.」
香春岳地区調査報告
http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_08/08-08_04.pdf
pdfファイルですが、専門家の報告書にも秩父と同じスカルン鉱床と有ります。古い時代には自然銅も採掘されたのでしょう。
地名「採銅所」 JR日田彦山戦には「さいどうじょ」駅がある。
http://map.yahoo.co.jp/pl?sc=3&lat=33.39.52.740&lon=130.50.58.690
地質図からは鉱山はないので精錬所かもしれません。面白い名前が残っています。
当時としては、多量の銅を供給した鉱山のようです。弥生期から掘られ、鉄器の時代になっても貴重な銅だったのでしょう。日本は銅が豊富なようですが、半島などにも輸出していたのでしょうか。
鉱山などははっきりした痕跡を残すのでとても参考になります。
蛇足
毎度で、大陸からの凱旋者が馬と武具をもたらした。あまり、いい言葉ではないですが半島に渡った傭兵から出発して半島を支配するようになって、強大化して日本においても無敵の軍団となった。やはり弓矢が非対称な馬上で引ける強力な殺傷力を持っていたからでしょう。

[9788] 髪長媛  橋本 2009/04/14(Tue) 23:47 [Reply]
髪長媛
 紀州の道成寺に伝わる髪長姫伝説も入内しています。よく似ていますね!

[9787] 大和の王と河内の王 3  神奈備 2009/04/14(Tue) 16:04 [Reply]
 応神天皇と仁徳天皇とは同一人物と云う説があります。また応神天皇の実在については疑問と云う見解もあるようです。一人の業績を二人に分けて書いたとか。

 とりあえず同一人物説の根拠を幾つか紹介いたします。

 1.名前の交換説話

 応神天皇 『記紀記』では、敦賀の伊奢沙和気大神に詣でて神託で神と名前を取り替えると云う説話があります。尤も、その後も応神天皇の名は品陀和気命となっていますし、気比神宮の神名は伊奢沙別神です。応神天皇の皇子の名に去来真稚(いざのまわかの)皇子の名が見え、少しは名残があるのかも。
 仁徳天皇の皇子にも去来穂別(いざほわけの)天皇(履中)がいます。
 「イザ」って誘う?

 大三元さんの『応神・イザサワケ名前取替』との一文に、http://www.dai3gen.net/izasa.htm
 『伊奢沙:』があります。概要は、「伊奢沙はイザサと読まれます。アイヌ語に i-tasa-re 交換する、と言う単語があります。(中略)最後の re は、自動詞を他動詞化する語尾であるとともに、「名前」、の意味もあります。(中略)ですから、このアイヌ単語から、「名前を交換する」、と言うモチーフはかなり自然に発生しそうです。

 仁徳天皇 『仁徳紀』に、仁徳天皇が生まれた日にミミズクが産殿に飛び込んで来ました。同じ日に、武内宿禰の妻が出産した産殿にミソサザイが飛び込んできました。そこで鳥の名を交換して仁徳天皇は大鷦鷯(おおさざきの)尊と名付けたとあります。
 
 
 2.皇位就任とライバルの死

 神功・応神軍は九州から難波に進軍して来ます。大和政権の正統な後継者と思われる香坂王・忍熊王との戦いになります。菟餓野で二人は占いの狩りを行いますが、赤い猪が飛び出してきて香坂王を喰い殺します。
 忍熊王は住吉・宇治川と転戦し、騙されて近江で水死しました。

 仁徳天皇は、大山守皇子が皇位を狙って菟道稚郎子を殺そうとしていると告げ、菟道稚郎子は攻め込んで来た大山守皇子を宇治川で船に乗せて転覆させて水死させます。
 また、菟道稚郎子と仁徳天皇は皇位を譲り合って3年、遂に菟道稚郎子は自殺してしまいました。


 3.日向の髪長媛
 
 応神天皇が日向の諸県君牛諸井の娘の髪長媛を召した所、皇子の大鷦鷯尊が横恋慕、それと知った応神天皇は宴会を催してその席で髪長媛を皇子に賜った。とのお話が『応神紀』に載っています。
 親子で取り合いになったお話は他にもあるようですが、ハッピィエンドになっているのは稀。これも同一人物説の根拠?

 『記紀の考古学』で森浩一氏は、日向の西都原古墳のヲサホ塚・メサホ塚の形は、応神陵の可能性の高い誉田山古墳と仁徳陵の可能性のある百舌鳥陵山古墳(上石津ミサンザイ古墳)のそれぞれ半分で造営されていると指摘しています。応神東征の立て役者だったのでしょう。
 住吉三神も「日向国の橘の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちている神」と自らを名乗って登場して来ます。まさに髪長媛のイメージ。


 4.『古事記』応神天皇  国栖(クズ)の歌

 また吉野の国主(クズ)等(ドモ)、大雀命(オホサザキノミコト)の佩(ハ)かせる御刀(ミタチ)を瞻(ミ)て歌ひて曰はく、
 品陀(ホムダ)の 日の御子(ミコ) 大雀(オホサザキ) 大雀 佩(ハ)かせる大刀(タチ) 本剣(モトツルギ) 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹(シタキ)の さやさや

 「品陀の日の御子 大雀」をどういう解釈をするかですが、「品陀天皇の日嗣の御子である大雀様」するのが最近の解釈のようですが、「日の御子である品陀様即ち大雀様」とするのが常識的として、品陀=大雀とする考え方があります。
 国栖の歌は『応神記』に記載があり、応神天皇が吉野に行かなければ意味がないお話と思われます。

 余談ですが、石上神宮の七支刀は神功皇后五十二年に百済が我が国に奉った七枝刀・七子鏡とうちの刀と思われます。吉野祐子『陰陽五行と日本の天皇』の中で、先の国栖の歌を下記のように解釈しています。

 品陀の帝の日嗣の皇子、大雀の命様 大雀の佩刀の太刀は、元の方は普通の剣ですが、その先の方は、幾條にも刃が岐れています。丁度、冬の裸木の枝のように、その幹の下枝の六枚の刃が、物に触れてはサヤサヤと鳴ります。

 うれしくて腰にさしていたのが座った際に岩などにあたってサヤサヤと鳴ったとのイメージです。
 この太刀を貰っていた大雀命は皇位継承を約束されていたのかも。


[9786] 大和の王と河内の王 2  神奈備 2009/04/13(Mon) 10:29 [Reply]
 豊前国に式内社の香春神社が鎮座、三座の神で辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命が祀られています。
 祭神の辛國息長大姫大目命とは、『豊前国風土記』に、「鹿春の郷 昔、新羅の国の神が自分で海を渡って来着いて、この河原に住んだ。鹿春の神と云う。」の神のことです。息長帯比売を思わす神と云うか、ズバリではないでしょうか。

 忍骨命とは天忍穗耳命のことのようですが、天忍穗耳命は降臨しようとして下界を眺めると平定されていないようなので気が進まないとやめます。平定を待っている間に子供の瓊々杵命が生まれますので、子を降臨させます。天忍穗耳命は自分が降臨するタイミングを見ていたのでしょう。誉田別命として出現したのかも知れません。

 豊比売は摂津の女神の豊宇可乃売神のことで、赤留比売と見て差し支えないでしょう。
http://kamnavi.jp/log/naniwainori.htm
浪花の祈り 阿加留比売と豊宇可乃売 を参照下さい。

 この香春神社の神体山の炭坑節の二山目から銅が採取されていました。奈良の大仏を造営する原動力になった銅です。このおかげで宇佐神宮が一躍日本の神々のトップに立ったのでした。

 さて、河内政権の祖である応神天皇は九州出身だと前回に述べましたが、応神天皇は忍骨神として香春に、さらに八幡神として宇佐に出現しました。『宇佐託宣集』に、「辛国の城(き)に始めて八流の幡を天降りして、吾は日本の神となれり。」と三才の少児の姿で竹の葉の上に出現しています。

 応神天皇は渡来人の血をひいています。 

 『住吉大社神代記』の中に、気帯長足皇后が出産を遅らせるために石を裳腰に挟むために八繪(ヤハタ)を用いたので、生まれた皇子(応神天皇)を八幡の皇子と称したとあります。『神代記』は天平三年(731)頃のものだそうです。

 『記紀』の応神天皇の条では、宇佐八幡との関係は一切出てきませんが、これらは天平三年以前に完成していたのでしょう。

 神功・応神陣営には武内宿禰がいます。九州生まれです。八多、許勢、蘇賀、平群、木、久米、葛城の祖ですから、この氏族は神功陣営だったのでしょう。それに和珥、また日向の勢力。河内の豪族の物部氏・大伴氏は応神・仁徳時代にその名が出てきません。静観の構えだった?

[9785] 大和の王と河内の王  神奈備 2009/04/12(Sun) 10:29 [Reply]
 河内政権説というのがあります。応神・仁徳から始まる王権が大和王権に取って代わって倭国の支配者となったと云う説です。新王権のルーツについては幾つかの説があります。

 大和が発展して河内に古墳や宮を遷した。
 大和内の王位継承争いのすえ、反乱軍の勝ち。
 九州等の新勢力が畿内に進駐した。

 所で、日本神話のは二柱の神が皇祖として天孫降臨の命令者となっています。天照大神と高皇霊産神です。
 何故二柱が出てくるのか、さらに神々の系統では大祖神の高皇霊産神とそれから七代後が諾冉に子が天照大神。大きい世代間ギャップ。神々の世界では古いほうの神が新しく感得もしくは構想された神ですから、先に天照大神、後から高皇霊産神となりそうです。

 三輪山の麓に展開した王権は卑弥呼、台与や倭迹迹日百襲姫命などの巫女王の記憶が生々しい時代でしたので、女性の太陽神の天照大神が皇祖と考えられて祭られていたのでしょう。崇神紀では天照大神を御殿内に祭っていたようです。三輪山の祭祀も行われており、大物主神の御子の大田田根子が祭祀を努めたようです。彼は大神氏、鴨氏の祖先になります。

 高皇霊産神は阿閇臣事代が壱岐島にいるとき、月神の託宣としてわが祖の高皇産霊は天地を鎔造した功があるので祭れと云っています。対馬の日神もよく似たことを云っています。
 以前、鴨氏のことを書きましたが、豊中歴史同好会での塚口義信氏の講演からの引用を再度いたします。
 国譲りの神話の中で経津主神が岐神を先導役として国津神を帰順させていきます。この時に帰順したのが大物主神と事代主神で、そこで八十万神を天高市に集めて、神々を率いて天に上ってその誠の心を披瀝されたとあります。『神代紀』の中のお話ですが、これを河内王権の大和王権を屈服させたシーンの神話化とされています。天高市とは大和国高市郡のことで、ここに式内社の高市御縣坐鴨事代主神社が鎮座。

 日本の文化として征服者は相手を皆殺しにしないで、相手の神々も大切に扱う風土の中ではぐくまれて来ています。そういう中で、高皇霊産神の子孫として天照大神を位置づけて神話の統合を図ったのでしょう。

 高皇霊産神を祖神として来た人々が河内政権を擁立したと考えることができます。この神を祀る神社は福岡103社で全国の約一割。先ほどの日神・月神も対馬・壱岐の神で、かれらのルーツは九州にあったと言えるのでは。
 応神天皇は宇美で生まれたとか、武内宿禰が大きい働きをしていることなど、これも九州を示しているような観じです。

[9784] Re[9783]: 神奈備・神名火か「神那霊」か  神奈備 2009/04/10(Fri) 21:11 [Reply]
>  「神那霊(かんなび)山」「霊漏(ひも)ろ木」「霊川(ひかわ)」「霊場(ひば)山」「受け霊(ひ)」「霊継ぎ・棺(ひつぎ)」「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊御子(ひみこ)」など、「霊(ひ:魂、鬼)信仰」に着目して古事記の神話部分を見直しています。

霊は万葉仮名で ひ とよむのですか。たま あやし くす ならあるようですが・・・


[9783] 神奈備・神名火か「神那霊」か  日向 勤 2009/04/10(Fri) 16:56 [Reply]
 「神那霊(かんなび)山」「霊漏(ひも)ろ木」「霊川(ひかわ)」「霊場(ひば)山」「受け霊(ひ)」「霊継ぎ・棺(ひつぎ)」「霊人(ひと)、霊子(ひこ)、霊女(ひめ)、霊御子(ひみこ)」など、「霊(ひ:魂、鬼)信仰」に着目して古事記の神話部分を見直しています。

[9782] Re[9781][9780][9779]: 日本書紀私記  神奈備 2009/04/10(Fri) 16:54 [Reply]
大三元さん、こんにちは。

> つまり「賀茂建角身」の「身」は「み(乙)」であり、「耳(みみ)」の「み(甲)」とは異なる。

 『肥前国風土記』
 大家の嶋
 この村に土蜘蛛があった。名を大身といった。

 値嘉の郷
 小近に土蜘蛛の大耳、大近に垂耳。中略。この島の白水郎の言語は世人と違っている。

『肥前国風土記』は天平五年(733)頃に出来たそうです。

 世人とは標準的な言葉(奈良の都弁?)として、値嘉島の言葉、大家嶋の言葉は世人と違いがあったのかも。

[9781] Re[9780][9779]: 日本書紀私記  大三元 2009/04/10(Fri) 09:42 [Reply]
神奈備さん、「みみ」の資料として:
「耳」と書かれる「みみ」の「み」は何れも甲類の「み」

「み(甲)」
{意味}水、神、見、三、御
{仮名}弥、民、美・三、見

「みみ」の{意味}を適当に拾うと「御神」「水神」あたりが「それらしい」か。
この場合、単に「み(甲)」だけの場合は「御」などが外れた「神」だけのこと、と考える。

参考:
「み(乙)」
{意味}実、身、箕、廻、巳
{仮名}未、味、尾、微・身、箕

つまり「賀茂建角身」の「身」は「み(乙)」であり、「耳(みみ)」の「み(甲)」とは異なる。

[9780] Re[9779]: 日本書紀私記  神奈備 2009/04/08(Wed) 09:44 [Reply]
大三元さん、ありがとうございます。

 さて、『魏志倭人伝』の彌彌・彌彌那利の「ボス・副官」ペアに『肥前国風土記』の大耳・垂耳が対応するのは流石の着眼です。投馬国の場所と小近・大近の諸島に対応するかどうかが別として地域の土蜘蛛達の集落の「ボス・副官」の共通の呼び方だったと理解できます。日向市でも良いということ。


耳と見

 彦火火出見と言う天皇家の祖とされている名前があります。別の名を彦火火出耳とも言います。山幸彦のこと。石見国美濃郡の染羽天石勝神社一社で使用。

 神武天皇の名を磐余彦火火出見とする場合があります。その子の名に手研耳がおり、神渟名川耳がいます。神渟名川耳(綏靖天皇)の子が磯城津彦玉手看(安寧天皇)。

 また、正哉吾勝勝速日天忍穗根命とか天忍穗美美命、天忍穗美命、天忍穗別、天忍穗日などの神名もあるようです。開化天皇の大日日も大耳。面白い。

 これらは「見」「看」「日」などには「耳」の意味が込められる場合があるということでしょう。

 美穗須須見、賀茂建角見、月夜見、野見宿禰 等。

[9779] Re[9773][9771][9770][9768]: 日本書紀私記  大三元 2009/04/06(Mon) 22:23 [Reply]
神奈備さん

>  多くの説があるようですが、『魏志倭人伝』の投馬国の長官は弥弥、副官は弥弥那利を取り上げて、投馬国とは宮崎県とできます。

『魏志倭人伝』の弥弥、弥弥那利 と古代史(書紀、風土記)の大耳、耳垂 が対応するものとして注目しています。
http://www.dai3gen.net/mimitari.htm

[9778] Re[9777][9776]: 耳と国見  神奈備 2009/04/06(Mon) 21:00 [Reply]
大三元さん、とっくに考察されているのですね。

> (三島)溝咋耳 を (三国)もず咋耳 と試解しています。

大と三とは元より密接ですね。

 仁徳祭と言う祭が年に一回、大山陵古墳の前で行われているそうです。皇室、仁徳天皇を祭神とする神社の宮司さんらが参加されるとか。例えば大阪では高津神社、滋賀の沙沙貴神社など。
 沙沙貴神社は墳墓造営や陵戸を努めていた佐々木氏の氏神を祀っていますが、彼らは織田信長の安土城の建築にもかかわったそうです。一族に明智光秀。

 大山古墳の埋葬者が誰であるかは諸説あるようですが、中には継体天皇説もあるようです。造営が6世紀との見立てです。また明治5年に前方部で発見された石棺は仁徳天皇の頃(5世紀前半か)と言われており、よくわからない所です。

 三島と仁徳天皇の関連では、茨田堤の造営に祀った神として堤根神社と三島鴨神社ふぁとも言われています。また兄弟に大山守がいて、真っ先に殺されています。

[9777] Re[9776]: 耳と国見  大三元 2009/04/06(Mon) 16:35 [Reply]
神奈備さん

ここら辺、面白いですよね。私は:
(三島)溝咋耳 を (三国)もず咋耳 と試解しています。
大仙陵に葬られているのも三島溝咋か、と。

詳しくは:
http://www.dai3gen.net/sasaki.htm


[9776] 耳と国見  神奈備 2009/04/05(Sun) 08:24 [Reply]
 大仙陵(伝仁徳陵)を着工の日に鹿の耳から百舌鳥が飛びだしたとの話が載っていますが、鹿を生け贄として土地の神に捧げる風習があったのかも。百舌鳥もまた仁徳天皇の誕生説話にも鳥がからみ、その名を大鷦鷯尊となっているのに通じるのかも。
 さらに、古墳の場所は百舌鳥耳原とされているのも、初期天皇の耳に絡むのかなと面白い。
 大仙陵は表面をきれいに仕上げることをしなかったのか、表面が乱れた古墳です。俗に四十八谷があるとされる程です。
 
 嘉永5年(1852)までは前方部に衆人の遊山を許していたようで、国見山とも呼ばれていたそうです。

[9775] Re[9774]: 日本書紀私記  神奈備 2009/04/02(Thu) 09:52 [Reply]
素人さん、こんにちは。

 三国志の劉備玄徳は大耳君と言われたそうで、大きい耳の血を受けていたのでしょう。漢王朝の末裔とされていたようで、漢王族が大耳の一族だったのかも。

 日本での耳を名に持つ人は天津系だけではなく国津系にもあるようです。

『日本書紀』神功
 紀氏の祖 豊耳

『肥前国風土記』値嘉郡
 小近島 大耳
 大近島 垂耳

『丹後風土記』
 陸耳御笠

『日本書紀』神代上
 櫛稲田姫の親 稻田宮主簀狹之八箇耳

 神武皇后の親 三嶋溝喰耳
 大田田根子の母 陶津耳之女活玉依媛
 天日槍の妻 前津耳の娘マタノオ

 犬も体の割りには耳が大きい動物。犬祖伝説を持つ隼人も耳が大きかったのかも知れません。

[9774] Re[9773][9771][9770][9768]: 日本書紀私記  素人 2009/04/01(Wed) 23:31 [Reply]
神奈備様
> > (推論の過程は別にして、天孫降臨の親の天之忍穂耳尊は「前漢時代の長江付近の呉の王族」とみています)
>
> 天之忍穂耳尊
>
>  耳のつく名前です。神武天皇の名前も神日本磐余彦火火出見とあり、日向での子供は手研耳命、大和での子供は神八井耳命、神渟名川耳尊。
>
>  また、日向に耳川があり、上流に諸塚山(諸塚太伯山)があり、太伯の住んだ処との言い伝えがあるそうです。(谷川健一『青銅の神の足跡』)
>
>  神武天皇の出発の港は耳川の河口の美美津との伝承が日向市美々津町に鎮座する立磐神社の由緒にのっています。イヤー、耳シリーズです。

あまりに短絡的な発想ですが、耳には福耳などと特徴的なものがありとても遺伝しやすいと聞きます。特徴的な形状の耳を持つ一族などで名前などに耳がつくような事はなかったのでしょうか。耳はとても目立ちます。
青草でした。

[9773] Re[9771][9770][9768]: 日本書紀私記  神奈備 2009/04/01(Wed) 08:56 [Reply]
> (推論の過程は別にして、天孫降臨の親の天之忍穂耳尊は「前漢時代の長江付近の呉の王族」とみています)

天之忍穂耳尊

 耳のつく名前です。神武天皇の名前も神日本磐余彦火火出見とあり、日向での子供は手研耳命、大和での子供は神八井耳命、神渟名川耳尊。

 また、日向に耳川があり、上流に諸塚山(諸塚太伯山)があり、太伯の住んだ処との言い伝えがあるそうです。(谷川健一『青銅の神の足跡』)

 神武天皇の出発の港は耳川の河口の美美津との伝承が日向市美々津町に鎮座する立磐神社の由緒にのっています。イヤー、耳シリーズです。

 多くの説があるようですが、『魏志倭人伝』の投馬国の長官は弥弥、副官は弥弥那利を取り上げて、投馬国とは宮崎県とできます。


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