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掲示板のログ(平成二十一年 十一月 2009.11)お名前の敬称は省略しています。

[10076] Re[10073][10071][10070]: 須恵器と土師氏と伽耶  とみた 2009/11/30(Mon) 09:34 [Reply]
素人さん 伽耶と吉備との接点に興味津々です。どんどん加筆修正いただければありがたいです

> 穴窯は中国では3500年も前にから有り、朝鮮には4世紀に伝わったようです。このように、この頃中国人技術者の頻繁な移動などが有ったことが推定されます。(楽浪郡は313年に高句麗によって滅ばされる。)楽浪郡の崩壊とも関係あるかもしれません。同様に角型炉による簡易な直接製鉄法の原型も持ち込まれていたのかもしれません。楽浪郡崩壊後の難民の伽耶地方などへの流入、

登り窯は仰韻文明から出ている。紀元前3500年前でしょうか。
陶というのは。βの篇は二段にこぶがある。これが二段の登り窯を意味します。陶の旁部は、窯で器を焼く形です。器は天地の性を象る。天子が四方の神を祭る郊祭に用いる。
神武が甍?(正しくは公の下に瓦)を作り丹生の川上で天神地祇をした。
大物主のいる三輪神社に陶邑のオオタタネコが出向いて須恵器で祈った。

鉄は、朝鮮半島の西北部から伽耶に入ったのではなかろうか、と古代鉄に詳しい村上恭通先生が仰いました。中国の鉄炉は漢時代は4mと高炉です。その流れを受けて、朝鮮も高炉系や高い円筒形だそうです。大伽耶は円筒形です。日本は箱型炉で高さは120cm。
バイカル湖の西のシベリヤの製鉄炉は60−70cmと低い。
ところが、日本でも備後の製鉄炉は円筒形という説があります。

素人さんは、どうお考えですか。
朝鮮は角型炉とされますがどのあたりに分布していましょうか。高さはどのぐらいでしょう。

日本の製鉄の始まりは吉備の総社付近と思っています。
加夜氏が吉備氏の本系とされ、加夜←伽耶を想定します。

岡山市金蔵山古墳出土の4世紀の斧系鉄器は韓国の慶南の鎮海熊川出土や多羅・陜川玉田M3出土のものと同じとされています。



[10075] Re[10069][10067][10059][10028][10026][10023][10005]: 八岐大蛇→出雲とは  神奈備 2009/11/30(Mon) 08:58 [Reply]
>> 大国主・事代主を瑯邪八主の影響下にあったとされる所は面白い
> あっ、それ違うです(^^;
> 瑯邪八主の影響下にあったのは天穂日命(出雲臣族)であって、素盞鳴尊〜大国主命(出雲神族)ではありません。

 失礼いたしました。

 祭祀を司る者が影響を受けていたとの意味ですね。

> 出雲において大国主命や事代主命、大物主命のごとく、なになに主と称するのは大国主命からで、これもその祭祀を司る者が瑯邪八「主」の影響下にあったからだとみております。

 大国主命・事代主命・大物主命などの神々の呼称は祀る者によって名付けられたとしますと、「主」は「瑯邪八主」の主の影響下と言える所は面白い。とは言えるし、面白い。



 PONTAさん、「フィールドワーク」の投稿は二重になっていますので、削除しました。迷惑ですから気を付けて下さいね。

[10074] フィールドワーク  PONTA [Url] 2009/11/29(Sun) 23:20 [Reply]
昨日は、研究助成金の残金を使って、遠江国一宮・小國神社へフィールドワークに行ってきました。(紅葉撮影会だとか、ハイキングだとかっていわないで;)
コースは、
小國神社→天宮神社→天宮神社奥宮→小國神社奥宮→小國神社
です。
観光コースは、
小國神社→西宮神社
なのですが、神社ウォッチャーとしては、小國神社へ行って天宮神社へ行かないのは片参りになるので、小國神社へ行く場合、天宮神社ははずせません。(両部神道については詳しくないのですが、小國神社が金剛界で、天宮神社が胎蔵界で、両社に参拝しないと曼荼羅が完成しないそうです。)

さて、森町には、有名な神社が5社あります。
小國神社
天宮神社
山名神社
三島神社
金守神社
です。小國神社と天宮神社はほぼ同じ歴史(同じ時期に成立し、同じ神楽が伝わっている)なのに、一方は一宮で、一方は式外社です。(昨日も、小國神社は数万人の人出で、1km以上前から渋滞でしたが、天宮神社は私達が行った時は3人しかいませんでした。)
三島神社と金守神社は「お祭りの日が遠州で最後」ということで、盛大にやるので有名です。
PONTAでは、
小國神社=式内・小國神社
天宮神社=式内・芽原川内神社
山名神社=式内・山名神社
と考えています。(根拠無し。女の勘です(笑)。あと、社名を「天宮」に変えたのは、この地に住む宗像氏を頼って大宰府から逃げてきた菅原道真の側近たちだと思います。)
森町のサイトでもそういいたそうです。

芽原川内神社はこれまで水窪町の山住神社に比定されてきた。しかし水窪町は古代には山香郡であったから周智郡の芽原川内神社に比定することに無理がある。だから山住神社ではないだろう。郡内に同じ名前の神社がないから全くわからない。周智郡の位置と規模から考えて、森町大鳥居の八幡神社ではなかろうかという説はあるが(『式内社調査報告書』)、ここは1501年(文亀元)に石清水八幡宮を勧請した神社であるといわれているし(『遠江国風土記伝』)、この地は山城があった所であるから、ここではなさそうである。

山名神社についていうと現在山梨と飯田に山名神社があり、それらが古代の山名神社であろうといわれている。これは古代の山名郡山名郷が山梨近くにあったということから導かれた説である。しかし、山名と山梨とは前述のように別であるし、山名神社と呼ばれるようになるのは江戸後期からであって、中世から近世にかけては天王社と呼ばれていた神社であるから、山名神社が山名郡の式内社であるという根拠は薄弱である。

http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/sigh/tsuushi/honbun/03_01_02_01.html

写真は800枚くらい撮ったので整理に時間がかかりそうです。まぁ、お金がなくなってしまったので、来週はフィールドワークをあきらめて、写真の整理をしたいと思います。(もしかしたら、今制作中の「東海道・新居宿」の取材に、自転車で行くかも。週間天気予報では曇りなので。)

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/indexarai.htm

*「湖西古窯」と「浜名郡輸租帳」をアップしました。

[10073] Re[10071][10070]: 須恵器と土師氏と伽耶  素人 2009/11/29(Sun) 23:05 [Reply]
蛇足
穴窯は中国では3500年も前にから有り、朝鮮には4世紀に伝わったようです。このように、この頃中国人技術者の頻繁な移動などが有ったことが推定されます。(楽浪郡は313年に高句麗によって滅ばされる。)楽浪郡の崩壊とも関係あるかもしれません。同様に角型炉による簡易な直接製鉄法の原型も持ち込まれていたのかもしれません。楽浪郡崩壊後の難民の伽耶地方などへの流入、楽浪郡再建への中国本土からの救援なども考えられ高度技術の移転の容易な時期だったのでしょう。
高度技術移転後の伽耶地域への高句麗の侵入による、高度技術を持った伽耶難民の流入は高度技術獲得の千載一遇のチャンスであったのかも知れません。西暦400年の難民で陶器関連技術、ミナマ崩壊・百済崩壊後の難民で製鉄技術獲得で難民様々で有ったかもしれません。
同じことをまた書いてしまいました。

[10071] Re[10070]: 須恵器と土師氏と伽耶  素人 2009/11/29(Sun) 22:21 [Reply]
とみた様
焼き物は、鉄ほどは好きでありません。
>くずさん 須恵器探求されておられるのですね

>和泉の陶邑の窯に注目してきたら、北九州の小隈、八並、居屋敷の窯も陶邑と同時期の>初期須恵器窯で別の伽耶系工人がもたらしたと考えられるようになりました。
朝鮮の須恵器と言っても中国から渡来(4世紀)した、当時朝鮮の最新技術ですね。本当に朝鮮人に中国人が教えたかは、疑問です。高度技術を技術移転しても何ら旨みは無いでしょう。度々ですが、広開土大王の石碑によると西暦400年に伽耶地域に高句麗が侵入しています。この為に、最新の高度技術を持った陶芸華僑が日本に難民として渡り、生活のために穴窯を作り須恵器を焼いて技術が徐々に伝播したのでしょう。初め、窯といっても動物の穴あたりをヒントにしたのでしょうか。急傾斜の細い小型トンネル状の窯ですね。この時に、手回しの轆轤も伝わったようです。埴土でなくて、耐火度の高い陶土の選定と炉の構築技術、効率的で加工精度の高い轆轤技術の伝播がなくては、須恵器はできませんからこの時に須恵器の製造技術が、全て伝わったはずです。
後は、独自の変化が可能ですから5世紀の初め頃に完成した技術が全て伝わったのでしょう。
酸化炎ですと簡単に1100℃以上(焚口に強風とかが続けば1200℃も)の高温が出せるのですね。風の谷の風の道に築炉されたのでしょう。焼成後に送気を絞って還元炎として酸化鉄の色を赤から灰色にしたのでしょう。ネズミ志野でしょうか。
調べてみますと、古墳時代の須恵器は高級品で庶民の手の出るような物ではなかったと有ります。最新技術ですから高く売れたのでしょう。1200℃位でシンタリングすれば釉薬が無いだけ(自然釉薬は有り)で、現在の陶器と同じでしょうから格段に持ちも良かったのでしょう。革命的な製品、それで副葬品として出たりするのでしょうか。
須恵器の埴輪が出ていると聞きますが、よほどのお金持ちの古墳でしょうか。
土器は野焼きで600℃〜800℃で焼かれたもので紐作り・手びねりなど。
土師器という名称は古墳時代以降に作られた専門官の職人(土師氏)より作られた土器と言う語源。土師氏などにより埴輪が造られたのでしょうか。
味美二子山(あじよしふたごやま)古墳が正式名称
5世紀末〜6世紀初の後期古墳時代。 埴輪が須恵器で出来ている。
5世紀末〜6世紀初頃以前には土師氏により、須恵器が作られていた?
日本での須恵器技術の伝播は意外に早いかもしれません。
良く解かっていない青草でした。

[10070] 須恵器と土師氏と伽耶  とみた 2009/11/29(Sun) 16:34 [Reply]
くずさん 須恵器探求されておられるのですね

和泉の陶邑の窯に注目してきたら、北九州の小隈、八並、居屋敷の窯も陶邑と同時期の初期須恵器窯で別の伽耶系工人がもたらしたと考えられるようになりました。

それでそれぞれがどの伽耶から来たかを探し当てられないかと拘っています。
金官伽耶、安羅伽耶、小伽耶、大伽耶(高霊)、多羅、比自火、星山伽耶など

細分したい。
それぞれの伽耶も時代とともに盛衰が激しく合併したり消えたりします。

馬具も鉄素材も、伝わる地が違うのではないか。
韓国には埴輪がありません。製鉄の手法も日本と違い高炉、円筒炉のようです。

土師氏が群馬の藤岡にやってきます。保渡田古墳は5世紀末ー6世紀でしょう。

森浩一さんによれば、武蔵にもやってきますね。埴輪製作と古墳つくりでしょうが、6世紀末になると別の仕事に就いたかもしれません。神話によれば天穂日命の子孫が出雲臣・武蔵国造・土師連です。

武蔵の豊島郡白方郷には、土師角麻呂、小君、勝麻呂の名が見出せます。

埴輪は5世紀に窖(穴+告)窯が出て革新され登り窯で高温で焼けるようになりました。

土師氏は河内の古市辺り(土師の里)から佐保に移ります。

高野新笠の母は、土師氏系統の、大枝朝臣真妹です。桓武の母だから百済系でしょう。
土師氏は百済から来たか、xx伽耶から来たか。

>高市皇子の母は胸形氏出身で胸形氏は阿田賀多須命からの別れで大三輪氏とは同族。
建御名方命のミナカタは宗像にも通じそうですし

天武が胸形尼子と結ばれ、高市皇子をもうけてから、胸形氏は出世して中央官僚となり宗像を名乗ります。

磐余の忍坂の桜井茶臼山古墳に近い、外山(トビ)には宗像神社があり、創建は高市皇子で母の胸形尼子を祀っています。

鳥見山にも近く何か謎めいています。

宗像神社の境内の左は、能楽発祥地で外山座=宝生座があったそうです。大和猿楽としたら秦氏が絡んでないか。筑紫の宗像氏と秦氏はつながりはないか。豊前の宇佐は秦氏がたくさん居た地。宗像と秦氏は関係があるのでは・・・・青草です







[10069] Re[10067][10059][10028][10026][10023][10005]: 八岐大蛇→出雲とは  かたばみ [Url] 2009/11/29(Sun) 13:32 [Reply]
>大国主・事代主を瑯邪八主の影響下にあったとされる所は面白い

あっ、それ違うです(^^;
瑯邪八主の影響下にあったのは天穂日命(出雲臣族)であって、素盞鳴尊〜大国主命(出雲神族)ではありません。

>「所造天下大神之御財 積置給処也」とあり、はっきりさせていないのは気にかかる所です。

ここではいつのだれかを曖昧化するために書いていないのだと思います(事象と場所はたぶん正しい)。
ここでの所造天下大神とはAD250頃の近畿出雲の王ではないかなあ(書紀での人名なら大物主命かも)。


以下重複もありますが青草を含めまして・・
素盞鳴尊〜大国主命までは(純)出雲神族で、持論では古出雲と称しています。
箕子朝鮮のもつ文化と山東半島系の「畑作文化」(大年神文化)の影響下にあったと考えています。
古事記で素盞鳴尊が穀物神である大気都比賣命を殺しますが、これは素盞鳴尊が大年神文化とは別系で、抗争があったことを示す。

書紀では大年神を素盞鳴尊の子としていますが、半島経由もろもろはすべてを素盞鳴尊を祖として書いているから。
書紀では月読神が保食神を殺していますが、これも異文化の抗争の示唆でしょう(月読神は縄文の流れか)。

魏志韓伝に、箕子朝鮮が燕の衛満に簒奪されたとき(BC194)、宮人は逃げて「海に入る」とあり、韓の地に居して自らを韓王と称したが後に滅びた。今も韓人がいて祭祀者となっている、とあります。

なにゆえに自らを韓と称したか。
箕子朝鮮は、殷が周に滅ぼされたとき(BC1200頃)殷の紂王親族の箕子を朝鮮半島に移封したことに始まる、とされます。
戦国時代ではありますが、かっての殷周の中枢部に「韓」があります。
この韓が殷周時代の箕子氏族の国であるならば、箕子朝鮮脱出者が自らを韓と称して不思議はないです。

箕子朝鮮の文化は陸続きである隣の燕の影響下にあったと考えています(ゆえに燕の衛満が居候となり後に箕子朝鮮を簒奪する)。
武器としては燕の遼寧式〜細身銅剣が代表でしょう(細身銅剣の原型は吉林省の可能性あり)。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kf09.html
の「武器」参照。
吉野ヶ里からでているのはこのタイプ、すなわち吉野ヶ里遺跡の少なくとも初期は出雲神族の文化圏だったと考えています。
(天孫の親の流れであるなら桃氏銅剣になると思う)


天穂日命後裔(出雲臣族)が国譲り後の大国主命(出雲神族)への祭祀を司っていた。
出雲臣族の若狭〜近畿への進出拡大によってかっての出雲神族の文化に出雲臣族の文化がオーバーラップしてゆきます。
出雲臣族の瑯邪八主や銅鐸祭祀が、出雲神族の古い文化と重なって、近畿での出雲文化が創出されてゆき、特に祭祀では複雑な様相を呈することになったと考えています。

出雲臣の祖は天孫ではあっても、出雲臣という「出雲の家臣」のごとくに表記される理由はここにあるのでしょう。
出雲臣族は九州とは完全に切り離されており、対外交流もままならず、縄文文化残滓と出雲神族文化残滓と混じり合って数百年。

九州では常に最新文化が渡来しています。
九州での素盞鳴尊〜大国主命の出雲神族の文化は早々に消えてゆきます。
ただし、隔絶されていた諏訪の建御名方命、ここには縄文と出雲神族の複合した出雲祭祀(文化)が濃く残ると考えています。

氏族としての出雲神族は神武系の天孫族と混血していった。
綏靖、安寧、威徳は母系的には出雲神族でもあって、神武朝は出雲神族王朝ともいえるハーフ王朝(^^;
これが多臣族でもあり、父母が同じなのに綏靖は天孫として扱い、神八井耳命は多臣族とする・・書紀編纂者は悩んだことでしょう。
多臣族は北九州を基盤とし最新文化と情報に常に接して、中国や半島との対外関係に敏感な氏族となるでしょう。

この頃、中国地方以東〜近畿では銅鐸祭祀に代表される出雲臣族とその文化が発達していますが、近畿は位置的に最新情報と最新文化において常に遅れをとっています。

ハーフ化を嫌う天孫族もいた。
これが日向天孫であり、孝昭105-137、孝安137-175、孝霊175-204、孝元204-225がそれだと考えています。
多臣族との内紛が倭国争乱の原因のひとつであり、もうひとつの原因は寒冷化による飢饉。
卑弥呼は倭国争乱の解決を目して、共通目標をかかげた、それが近畿出雲への侵攻。

以下余談
近畿制圧後、景行、成務で天下統一は一段落したが、再び内部分裂・・
応神と倭王五代は九州多臣族であり、記紀が書く雄略、武烈はその一部と考えています。
さらに下って蘇我氏や聖徳太子(隋書でいう多利思比狐大王)、これも多臣族を祖とすると考えています。

書紀(天武)はこの流れの存在を徹底的に隠蔽。応神、雄略を万世一系に組み込んだ。
しかし、天武からみて近世でもある「多利思比狐大王の事跡」は現物として存在し、消すことができなかった。

そこで、大王としては推古女帝を登場させて万世一系に組み込み、事跡は摂政聖徳太子を登場させてその事跡に置き換えた。
中国サイドから見て卑弥呼など興味深いはずの女帝、隋書に女帝が書かれていないのは実在しないのだから当然のことであります。

[10068] Re[10054]: 三輪山祭祀の変遷  くず 2009/11/29(Sun) 01:31 [Reply]
とみたさん、
> <小田富士雄の先生>
> 5世紀雄略朝までは大和河内連合王権の王は自ら三輪山を祭っていた。

須恵器変化にみられる陶邑様式への全国的同一化の流れは、雄略朝の国家統治戦略の元に進められていたのではないか?と考えています。

日本書紀、雄略七年(463年)には、「百済から今来才伎が貢がれ」とあります。
これがそのままに史実とも思えませんが須恵器の変化を見ると、
初源期の伽耶系須恵器形態に、朝鮮半島南西部にあたる栄山江流域(前方後円墳の見られる地域)からの影響が見られるようになります。
これが陶邑TK73号窯式〜TK216号窯式にあたる時代。
その次のTK208形式で定型化(日本化)が完成し全国に広がったとされます。

例えば尾張ではこの頃、
●5世紀初めから営まれる猿投窯の独自色が薄れ全国的な同一化の流れをたどる。
●西から陶邑窯系の技術が東海全域に流れ込んでいく。
PONTAさんご紹介の湖西最古の明通り窯などがこれで上記のTK208に続くTK23〜TK47形式期。
 参考「愛知県下における須恵器生産と流通」http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0805jyog.pdf

「辛亥年(471年か)」「獲加多支鹵大王」の銘文が刻まれた鉄剣出土の稲荷山古墳から出土する須恵器もこのTK23〜TK47形式です。
百済の夢村土城関連の遺跡からもTK23並行の須恵器が出ており、これは475年の高句麗による侵攻前に持ち込まれたと思われるもので、
TK23形式の始まりは475年が下限と見られます。

三輪祭祀との関連ははっきりと見えて来ませんが少なくとも、
記紀の記述と年代、須恵器の様式に見られる影響と変化の流れ、栄山洪流域にみられる前方後円墳、鉄剣銘文等が相互に対応しているようには思っています。

>[10055]
>天武の息子の高市皇子の名が、三輪高市麻呂とついているのはどうしてなんでしょう。何か血筋でもあるのでしょうか。

高市皇子の名が"高市"とつくのは・・・と言う事でしょうか?

それはちょっと解りませんけども諏訪とのお話を興味深くお聞きしました。
高市皇子の母は胸形氏出身で胸形氏は阿田賀多須命からの別れで大三輪氏とは同族。
建御名方命のミナカタは宗像にも通じそうですし。

[10067] Re[10059][10028][10026][10023][10005]: 八岐大蛇  神奈備 2009/11/28(Sat) 19:56 [Reply]
 実に興味深い論考だと思います。大国主・事代主を瑯邪八主の影響下にあったとされる所は面白い。兵主神社(32社)の祭神に大国主や八千矛神(25社)が多いのもさもありなんかも。

> 島根出雲は、大国主命の杵築大社への引退(AD1頃か)によって「その後の出雲祭祀」の中枢となったと考えています。

 この時期に加茂岩倉遺跡に大国主命の神財を埋めたのではないでしょうか。
 それが、『出雲国風土記』の大原郡神原の郷の条に、「古老の言い伝えるところでは、天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給うた場所である。だから神財(かむたから)の郷というべきだが云々。」との記載があります。

> 出雲風土記では「天の下造らしし」という尊称が頻出しますが、その後に続く神名が微妙です。

 上記の例では、「所造天下大神之御財 積置給処也」とあり、はっきりさせていないのは気にかかる所です。

 また、八口の平定についての記事で、
母理郷 略 所造天下大神 大穴持命 越八口平賜而
拝志郷 略 所造天下大神命 将平越八口為而幸時

と、大穴持命とするのと、単に命とするのとがあり、これも気にかかります。

 さらに、肝心の杵築郷ですが、
杵築郷 略 八束水臣津野命之国引給之後 所造天下大神之宮 将造奉而 諸皇神等 参集宮処
とあり、大穴持命の名が省略されているのも不思議と思っています。

[10066] Re[10019]: 明日は・・・  神奈備 2009/11/28(Sat) 19:53 [Reply]
> 答えを知ってる方は教えて下さい。(井伊谷に詳しい方はおられませんか?)

辰巳和弘著『風土記の考古学』に、謂伊神社や天白遺跡のことが書いています。

[10065] Re[10062][10061][10060][10057][10056][10053]: タチ・妄想展開  素人 2009/11/28(Sat) 19:28 [Reply]
神奈美さま
楽しく拝見させていただきました。
> 大三元さん
>
> 面白い考察です。
>
> 橘について を更新し、リンクいたしました。
> http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm

「橘についてWeb」に
>万葉集巻二十 四三七一
 橘の下吹く風の香しき筑波の山を恋ひずあらめかも
と筑波山の柑橘類が載っていました。
八郷盆地に向かう峠を登るあたりに、ウル覚えですが有ったような気がします。
西斜面です。下の方はブドウ園などが 多くあるところです。
八郷は、お空の遊びで毎週通っていたところです。八郷盆地にはリンゴなども植えられています。峠からは大きな北浦も見えました。
この辺は、とても豊かなところで農家の門も長屋門風だったりします。
ミカン狩りのWeb
古い品種で小型のふくれみかん(福来蜜柑)が有るようです。
http://air.geo.tsukuba.ac.jp/climate/mikan/index.html
青草の情報でした。

[10064] Re[10054]: 三輪山祭祀の変遷  素人 2009/11/28(Sat) 19:09 [Reply]
とみた様
あまり良い写真では、有りませんが「三輪山と積乱雲」
> 三輪山の神は雨を降らせる蛇体の雷神といった自然神で山麓のヤマト地域の守護神。
吉野の森日記より
http://pds.exblog.jp/pds/1/200907/16/16/c0054416_2232225.jpg

蛇体の雷神様がご出座遊ばされて、しばらくして三輪山頂で雷光・雷鳴が轟いて雨が降り出してからの写真と思われます。
探した範囲では、ネットの写真には三輪山の御神体はお見かけいたしませんが、秘すべきものなのでしょう。
たびたびの青草でした。

[10063] Re[10062][10061][10060][10057][10056][10053]: タチ・妄想展開  大三元 [Url] 2009/11/28(Sat) 14:12 [Reply]
神奈備さん

こちらからもリンクしました。
リファありがとうございます。

[10062] Re[10061][10060][10057][10056][10053]: タチ・妄想展開  神奈備 2009/11/28(Sat) 13:47 [Reply]
大三元さん

面白い考察です。

橘について を更新し、リンクいたしました。
http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm

[10061] Re[10060][10057][10056][10053]: タチ・妄想展開  大三元 [Url] 2009/11/28(Sat) 11:21 [Reply]
神奈備さん

おかげさまで、これまでの処を「橘・考」としてまとめることが出来ました。
http://www.dai3gen.net/tachi.htm

[10060] Re[10057][10056][10053]: タチ・妄想展開  大三元 2009/11/28(Sat) 08:33 [Reply]
神奈備さん

筑紫の日向の橘の小戸のアハキハラ

「日」と「橘」に強い神話性(親和性)があるのかもしれない。

> いいですねぇ、ヒタチ、日橘、太陽のオレンジ・・・(^^)

[10059] Re[10028][10026][10023][10005]: 八岐大蛇  かたばみ [Url] 2009/11/27(Fri) 23:48 [Reply]
>出雲での相当量の銅鐸・銅剣の出土など、実体としての古代出雲も文化圏の中心地の役割を果たしていたのでしょう。

このあたりは出雲とはなにかの重要な考察になりまして、一言では書けないのですが・・
(いろいろな事象を関連づけるにはそれぞれの年代の考察も必須となります)

島根出雲は、大国主命の杵築大社への引退(AD1頃か)によって「その後の出雲祭祀」の中枢となったと考えています。
大国主命以前から島根にあった古社が出雲熊野大社でしょう、鑽火祭では出雲熊野大社が出雲大社より上位とみえます。
大国主命以前の島根など日本海沿岸の「神」は大穴持命だと考えています。
(縄文由来か、魏志の烏丸鮮卑東夷伝高句麗にある「東に隧穴という大穴があり隧神を迎えて・・」に注目しています)

出雲風土記では「天の下造らしし」という尊称が頻出しますが、その後に続く神名が微妙です。
大穴持命と明記している場合は、その事象は島根での本来の古伝承だとみています。
「天の下造らしし」だけで神名を置かずに曖昧化している場合は書紀編纂に合わせて他地域の出雲伝承を移したものとみています。

出雲風土記は他誌に比して完成が20年ほど遅くなっていますが、修正編纂に時を要したからでありましょう。
年代と場所の異なる伝承をひとまとめにしたゆえに、大穴持命、大己貴命、大国主命などが同じ人物であるかのごとくにもなってしまうわけです。

大国主命(杵築大社→出雲大社)を祀るのは天穂日命(出雲臣)と記紀が書いていますが、天穂日命と大国主命では時代が150年ほど違う。
国譲り(神武時代、大国主命時代、AD1頃)を神代(天孫降臨、天之忍穂耳尊時代、BC150頃)に置き換えるための表現。
実際には天穂日命の後裔氏族(出雲臣)が大国主命への祭祀を行ったのでしょう。
(同じ天孫族でもあり監視(^^;を兼ねるに最良)
国譲り以降での出雲祭祀の中枢は島根となった、しかし政治経済など文化の中枢はここではありません。
伊勢を信仰していても政治経済などの活動中枢がそこではないのと同じです。


最古の大年神系の畑作文化(山東半島)が朝鮮半島経由で九州へ(BC1000にも遡りえる)。
(大屋彦命の植樹伝承はここにあるか)
この文化は寒冷化で崩壊状態にあった縄文に浸透し、ここに素盞鳴尊渡来(BC200頃か)による出雲神族(古出雲)文化が重なっていった。
(五十猛命の植樹伝承は変形されてこれに含まれる)

大国主命までの出雲神族の文化は縄文地域に浸透しながらまた縄文文化の影響も受けていった。
出雲に蛇がみえるのはこのためであり、八岐大蛇伝承は九州での農耕文化と縄文文化との葛藤をしめす説話。

素盞鳴尊(BC200頃か)〜大国主命(AD1頃か)の出雲神族の中枢は豊前、豊後、周防、長門にあった((建御名方命は周防に根拠とみる→諏訪の語源)。

国譲り(豊前豊後の譲渡)以降に出雲神族は天孫(神武系譜)と混合していった。
(先代旧事本紀で天日方奇日方命は神武朝大臣に就任しています)
神武 36- 66もまた出雲の媛踏鞴五十鈴媛を后として綏靖 66-78〜懿徳 92-105まで母は出雲娘です。
天孫と出雲の混合、これを神武朝とみております。
(これの崩壊が孝昭105-137孝安137-175であり倭国争乱のはじまりとなる)

綏靖の兄の神八井耳命に代表される混血の多臣族の登場で、出雲神族は表面からは消えていった(飛鳥での蘇我氏登場とは・・)。
多数の天孫族と多数の出雲神族のシャッフル、これが多臣族オホ(意富→大とする場合もある)の「多」の文字を用いる意味だと考えています。


さて、それでは国譲り(大国主命)以降での中国地方〜近畿地方での出雲文化とは・・
銅鐸がその指針だと考えています。

銅鐸分布のよい資料があります。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku.html

銅鐸は出雲文化圏のものであるのは間違いないでしょう、しかしその年代と祭祀者に関する論がいまいちすっきりしない。
記紀の真贋疑惑とタブー意識が考古学に潜在しているからだと思っています。

初期の銅鐸は出土数が少ないですが島根にも存在しています。
外縁付鈕銅鐸(の時代)ですと島根〜若狭と近畿内陸部で多数出土するようになります。
しかし、九州と中国地方西部では大型銅鐸が出土していない(代わりに平型銅剣祭祀がある)。
銅鐸祭祀がこの地を経由していない、あるいは達していないことを示す。

すなわち、銅鐸祭祀は出雲文化ではあるが、出雲神族の文化ではなく、天穂日命(出雲臣族)の文化。
プレ天孫降臨神話において、天穂日命は天之忍穂耳尊と離ればなれになっています。
漂流して島根に上陸し、建比良鳥命(天夷鳥など別名多数)に引き継がれながら若狭方面から琵琶湖へ進出したと考えています。

天穂日命の出自は山東半島(BC200頃の斉か)、祭祀は瑯邪八主(八神))だとみております。
先行した古出雲の大年神文化(BC500以前か)の流れと同じであって双方は容易に融合できた。
山東半島には青銅器埋納慣習があり、遡れば長江の洞庭湖周辺(越や楚の中枢)に遺跡のない山腹への銅鐃ニョウ(銅鐸類似楽器)埋納があって、銅鐸埋納とそっくりなのです。
(長江始発の越は春秋時代に覇者となって山東半島瑯邪に首都を移す、戦国時代では山東半島は楚、斉へ主が変わります)

出雲臣族は先行していた出雲神族と国譲りでの大国主命祭祀を継続し、自らの祭祀も混合させていった。
近畿における微妙な出雲(^^;が出現することにもなります。
しかし、出雲臣もまた九州での最新文化流入から切り離されています。少なくとも物質面では九州天孫に後れをとってゆきます。

瑯邪八主とは天、地、日、月、陰、陽、四季に加えて兵主。
兵主とは始皇帝によって斉が滅ぼされたときに登場した斉の祖先であり軍神でもある蚩尤のこと。

穴師坐兵主神社など兵主を冠する社が少なからず存在しますが、祀る八千矛神とは瑯邪八主における兵主(蚩尤)の日本版だと考えています。
出雲領土への九州天孫の侵攻に対抗する武神が必要になったのでしょう(AD200頃からか)。
縁起によれば景行311-333時代に八千矛神が祀られたとありますが、景行大王の諸氏族との融和策に伴う再興復活であろうと考えています。
八千矛神は平和時代では穏健化されて不思議はなく、実体不明なれば大国主命の別名とするのが無難となるでしょう。

出雲において大国主命や事代主命、大物主命のごとく、なになに主と称するのは大国主命からで、これもその祭祀を司る者が瑯邪八「主」の影響下にあったからだとみております。

荒神山の銅鐸と剣は出雲文化圏の政治経済中枢が九州天孫に制圧されて終焉を迎えたとき(AD250頃)、祭祀中枢である島根出雲への再起を図るための隠匿であると考えています。

[10057] Re[10056][10053]: タチ・妄想展開  大三元 2009/11/27(Fri) 17:31 [Reply]
神奈備さん

いいですねぇ、ヒタチ、日橘、太陽のオレンジ・・・(^^)

[10056] Re[10053]: タチ・妄想展開  神奈備 2009/11/27(Fri) 16:37 [Reply]
> 天之常立、国之常立、国之狭立、などの「立」をタチの木と考えてみるのも面白い。

 『常陸国風土記』に、「常陸は古人云常世之国」とあります。

 行方郡 郡役所の側の人里には橘の樹が生えている。
 香島郡 前に郡役所を置いたところである。多くの橘を植え、その果実はうまい。

 植物の橘が出てくるのは上記の二郡で、他の国の風土記(除く逸文)にも橘は記載されていません。

 常陸の「タチ」も橘のタチかも知れません。

[10055] 三輪山祭祀(訂正と質問)  とみた 2009/11/27(Fri) 13:22 [Reply]
>崇神とオオタタネコ。オオタタネコは三輪神兼鴨神。和泉の陶邑。三輪神の祖のオオタタネコ。

ミスミスです。認知症でごわす。スミマセン。

大物主とオオタタネコ、三輪氏の祖のオオタタネコです。

一つ質問があります。

大三輪氏は、壬申の乱で大海人皇子に味方したので朝臣に出世します。

(大)三輪高市麻呂が、大神神社の社家になります。

元々は出雲系とされています。

天武の息子の高市皇子の名が、三輪高市麻呂とついているのはどうしてなんでしょう。何か血筋でもあるのでしょうか。

高市皇子の息子の長屋王が謀反の咎で自害しますが、その何代か後の係累が800年ごろ平城天皇の御世に、諏訪の地の建御名方に寄ってから、下総の地に開拓に来ます。名都借(借=仮りに、都と名をつけるの意)と地名が残されています。

現在も立派な社で、おすわさまと言われる諏訪神社があります。
因みに現在も宮司は高市姓を名乗っておられます。





[10054] 三輪山祭祀の変遷  とみた 2009/11/27(Fri) 12:37 [Reply]
崇神とオオタタネコ。オオタタネコは三輪神兼鴨神。和泉の陶邑。三輪神の祖のオオタタネコ。

律令期以前は須恵器生産はミワ部を中心とした部民の枠組みの中。須恵器生産者の祭祀は三輪神を祭るという共通性があるのは、神人が各地に須恵器を広げた証ではなかろうか。

三輪祭祀についての二人の学者の論考がある。略述します。
<小田富士雄の先生>
5世紀雄略朝までは大和河内連合王権の王は自ら三輪山を祭っていた。
三輪山の神は雨を降らせる蛇体の雷神といった自然神で山麓のヤマト地域の守護神。
欽明朝に神君(三輪君)は国家神でなく祟り神となり律令期には大神神社と摂社の狭井神社の祭りは厄病の流行を防ぐ祭りになった。王ではなく神官が担い手になった。

<武光誠先生>
3世紀後半まで、王族の女性が神の妻の資格で祭祀。
4世紀、大王自身が天皇霊を受ける形で三輪山の祭祀を扱い始める
5世紀、朝廷の本拠地が河内に移り、倭氏が三輪山の祭祀の実務に当たった。この時点で、大王は三輪山を重んじて神に捧げる祭器を送って倭氏を援助した
5世紀末、祭器に用いる須恵器の産地である陶邑を押さえた大三輪氏は倭氏にに代わり三輪山の祭祀に関与
6世紀中葉、太陽神の祭祀が三輪山の祭祀から分かられ大王は専ら太陽神である天照大神を重んじるようになった。それからまもなく大神神社から大倭神社が分かれた、この後は大神神社の神は疫病よけの神とされて、天神より格下の国神とされ
朝廷より重んじられなくなる


ところが古代祭祀は、律令期は 出雲ー大神ー伊勢 として残っています。

平安前期は 宇佐八幡ー賀茂ー伊勢 と大神は消されます。

平安後期は岩清水八幡ー賀茂ー伊勢 と八幡宮が京都の近くに来ます


[10053] タチ・妄想展開  大三元 2009/11/27(Fri) 09:27 [Reply]
「タチ」の木が常緑で尊い、目出度い、ということであると:
天之常立、国之常立、国之狭立、などの「立」をタチの木と考えてみるのも面白い。
「トコタチ」は常緑→永久のタチ、「サダチ」の「サ」は「神稲」とかに通じる尊称・美称。
そうしてみると「サギリ」も霧ではなくて桐か。

[10052] 古代の工場&流通  PONTA [Url] 2009/11/26(Thu) 22:20 [Reply]
>判で押したように同じ形式が全国に広がる。
浜名湖の西の湖西市に1000基の窯のある大生産地が出現し、青森までの太平洋岸で湖西産の須恵器が出土しています。つまり、日本各地で作るのではなく、ある場所で作って全国に運ぶわけです。この海運の発達により、東海道が湖北から湖南に変わった、つまり、港を結ぶ陸路になったということです。

[10051] Re[10044]国譲り  くず 2009/11/26(Thu) 21:49 [Reply]

>建御雷と建甕槌、同じ名前ですが猛々しい雷神・剣神と云う普通名詞のようにも見えます。大国主の幸魂奇魂が大物主、その大物主の子孫が大国主に国譲りを強要するのはいささかおかしいと思われます。従って、国譲りの建御雷と意富多多泥古の父神の建甕槌とは違う神でしょう。

神奈備さん、ありがとうございます^^
記紀(出雲風土記)に見る"国譲り"とは弥生的信仰体系から古墳時代の信仰体系への移行を神話化したものではないか?
ふとそんな風に感じまして書いてみました。青草で少し続けてみたいと思います。

今須恵器について、興味を持っています。
判で押したように同じ形式が全国に広がる。なんだか現代に通じるものがあるような・・・^^
来月泉北へ行って見るつもりです。

[10050] 酢橘  福島雅彦 2009/11/26(Thu) 18:52 [Reply]
文字通り、酢の様に酸っぱい橘でしょう。即ち、「酢タチ(バナ)」かと。

[10049] Re[10036][10035][10034]: みかん  かたばみ [Url] 2009/11/26(Thu) 12:40 [Reply]
>「タチ」という木があったのではないか、と思ってます

スダチ含めて同感です。タチの言葉がどこのいつの時代に源流があるかはわかりませんけれど。

「江南の橘 江北の枳(カラタチ)となる」 韓詩外伝、前漢の韓嬰カンエイ著だそうです。
(同じ人間でも場所が変われば同じではなくなるの意)

橘の文字の意は丸い実のなる木、枳は小さい実のなる木。
橘は温暖種、すなわち縄文暖期BC3000からBC2000頃に長江あたりから南西諸島経由で九州に渡来(おそらくは三苗)、九州から海路で紀州などの温暖地沿岸に運ばれたと考えています(これが五十猛命の植樹伝承にも変化する)。

枳カラタチの渡来はずっと新しいと思う(ゆえにカラ・タチですね)。
日本武尊の弟橘姫の名が当時の伝承であるなら景行311-333時代の前あたりか。

なぜ食えない木を運んだのか。
これの幼樹に柑橘樹(温暖種)を接ぎ木(台木)して用いるためだと考えます(現在も行われている)。
根幹は丈夫なカラタチだが枝や実は柑橘系になります。

この技術によってさほど温暖ではない地域でも橘類を育てることができるようになり、各地に広まっていったと考えています。
垂仁時代であろうタチ・マモリ(^^;説話がその技術の渡来を示唆している可能性は十分あると思います。


[10048] Re[10046][10043][10041]: ↓橘の追記  大三元 2009/11/26(Thu) 11:18 [Reply]
「田道間」は「タヂマ(タチマも可能)」(タジマ、ではない)

「多遅摩」国の人だから、タヂマ・モリが原点だろうが
タチ・マモリと考えて「タチ(の木)」を「目守る(まもる)」という伝承が出来たものか。

[10047] Re[10044][10042][10033][10032][10026]三輪山祭祀と祭器(土器)生産  PONTA [Url] 2009/11/25(Wed) 22:25 [Reply]
>大国主の幸魂奇魂が大物主

これって、いつも不思議に思っています。
神は幸魂・奇魂と荒魂の2つを持っているわけで、大国主の幸魂・奇魂が大物主であるならば、大物主の荒魂が大国主なわけです。大国主は温和で、荒魂って雰囲気じゃない。だから人気もあるし、多くの神社で祀られていると思います。

[10045] 非時香実  福島雅彦 2009/11/25(Wed) 20:37 [Reply]
>昨年の実も青い色に戻ると聞きますが、いかがでしょうか。

※厳寒期のころに水分が無くなりますが、次期実が熟れる頃には水分が戻ります。
*前期の実(黄色い)が青色に戻ることはありません。
*橘=「到致花(たちばな)」と訓じたのは、徐福ではないかと思っています。

[10044] Re[10042][10033][10032][10026]三輪山祭祀と祭器(土器)生産  神奈備 2009/11/25(Wed) 15:08 [Reply]
> 出雲に国譲りを迫ったのは経津主神と武甕槌神(紀)ですが、『記』で意富多多泥古は父の名を建甕槌命と言います。

 『記』では伊都之尾羽張神の子の建御雷之男神と天鳥船神の二柱が大国主神に国譲りを強います。

 『記』には、意富多多泥古の系譜を、大物主―櫛御方―飯肩巣見―建甕槌―意富多多泥古と記しています。

 建御雷と建甕槌、同じ名前ですが猛々しい雷神・剣神と云う普通名詞のようにも見えます。大国主の幸魂奇魂が大物主、その大物主の子孫が大国主に国譲りを強要するのはいささかおかしいと思われます。従って、国譲りの建御雷と意富多多泥古の父神の建甕槌とは違う神でしょう。

 または、国譲りの条件として、「大国主神のために立派な神殿を建てて祀ること」のようです。これを建甕槌命が承諾した。大国主の幸魂奇魂が大物主、やはり建甕槌命に祀られるべき神です。建甕槌命が祀れないのであれば、その子の意富多多泥古に祀らせることを要求したとも解釈できないことはないですね。

[10043] Re[10041]: ↓橘の追記  神奈備 2009/11/25(Wed) 11:50 [Reply]
> 時を限らずに(一年中)香る実、である。
> *将に謂い得て妙。

 そうですね。昨年の実も青い色に戻ると聞きますが、いかがでしょうか。

 非時香実を橘とする解釈はまさにその通りかも知れませんが、これを取りに行った人を田道間守としたのは、タチバナとタジマの音が似ているからとも思われます。

 『岩波文庫日本書紀』の注には、武蔵国の橘樹郡に三宅郷があり、田道間守が三宅連の祖とすることも田道間守と橘をつなぐ一助となったのかも。

[10042] Re[10033][10032][10026]三輪山祭祀と祭器(土器)生産  くず 2009/11/25(Wed) 11:03 [Reply]
PONTAさん、
> 大田田根子が陶邑にいたってことは、
> 三輪氏と須恵器の生産とは関係がありそうですね。

とみたさんが書かれていますが、確かに須恵器生産地(窯跡)と三輪神社、地名には関連性があると考えます。

初源期の須恵器窯(伽耶系)である筑前朝倉郡の山隈窯跡群は三輪町にあります。
(三輪町の由来は雲提郷、大己貴神社から)

他、備前国邑久郡須恵郷と三和神社 なども。
http://www.hpmix.com/home/uraura/CI3.htm

須恵器の生産技術(登り窯)は4世紀末には導入されていたと考えます。
あえて導入としたのは、吉備を起源とし纒向遺跡で成立した円筒埴輪がありますが、
埴輪も須恵器生産の始まりを境に野焼きから穴窯、登り窯で焼かれるようになります。
この大きな変化にあっても円筒埴輪の成型技法には変化がない。
成型方法はそのままに、焼き方だけが変わっていますので、須恵器生産を技術導入した"主体" があったと見ております。

大田田根子命が陶邑にいたとするのは日本書紀ですが、陶邑の須恵器生産の始まりは、
先にも書きましたが遡っても4世紀末でそれより古くはならないと思っています。

大田田根子命は記紀の記述通りとするなら、崇神紀の人で須恵器導入の前時代。
土師器の時代かと思いますので、庄内式生産地の可能性が高い中河内、
御野縣主神社の周辺。紀ではなく古事記記載の河内美努村出身を考えました。

以下夢のない青草^^
出雲に国譲りを迫ったのは経津主神と武甕槌神(紀)ですが、記で意富多多泥古は父の名を建甕槌命と言います。

経津主神を物部氏(鉄器生産)の象徴で武甕槌神を大三輪氏(甕=陶器生産)の象徴と見ますと、
諏訪大祝に残存していたシャーマン性を基軸とした統治体制から、
特殊技術を抱えて管理運営し、祭祀と組み合わせて一元供給を図る事で統治(支配)する。
この統治体制の移行を神話化したのが"出雲の国譲り"ではなかったかと。
出雲的?葬送儀礼はやはり"国譲り"に関係した天穂日命の裔、土師氏が関連します。



[10041] ↓橘の追記  福島雅彦 2009/11/24(Tue) 00:00 [Reply]
※非時香実=前期の果実が熟れて成っているのに、次期の花が咲き青い実に成っても同時に木に実を着けている=時を限らずに(一年中)香る実、である。
*将に謂い得て妙。

[10040]  福島雅彦 2009/11/23(Mon) 23:52 [Reply]
橘(たちばな)
 漢字音は「キッ」音符の旁には「おどかす」の意味がある。
訓「たちばな」は何処から来たか。結論から謂うと「到致花」である。柑橘類の原種に近い物「橙・夏蜜柑類」の特性を言い表わしている。実が成って熟しても放置しておくと次期の花が咲いても、未だ成っているのである。他の如何なる成り果物も、過塾して腐って落下するのに…。前期の実と次期の実を生らす事も可能であるから将にひとを「おどかす」に十分である。この果実が「代々続く・繋がる」のを縁起ものとして、正月飾りの鏡餅・注連縄に「代々=橙」が飾られるのであろう。
∴「橙」の漢字音は「トゥ」である、訓の「だいだい」の語源も解いたことになる。
 九州弁「タゥ」に「届く・達する」の意があるが「到」であろう。
“닿-다”(ta-da)の語幹であり古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)であろう。数詞の「十」も一桁上の位に届いた、意。

[10039] 引佐郡式内大せち神社覚書  PONTA [Url] 2009/11/23(Mon) 21:52 [Reply]
(1)語義は漢字ではなく、仮名で考えることが大切です。「セチ」は、節目であり、季節の変わり目の意味です。年の変わり目として、大年→大歳→大敏→大□と変化し、本来のご祭神は、物部氏が祀ったニギハヤヒ命(オオトシ命)のように思われます。遠江国造は物部氏ですから。
(2)蔵王権現が祀られて、本来のご祭神が境内社ではなく、奥宮に追いやられたとすると、本来のご祭神は日本武尊となります。神一行氏によれば、日本武尊の正体は、大彦命(孝元天皇の第1皇子で、開化天皇の実兄)だそうです。大セチ=大彦?
(3)蔵王権現が祀られて、大セチ神社が三嶽神社、蛇王山が三岳山となりましたが、「おおせち」とは蛇王のことでしょうか? 四所神社の近くの行者穴に役の行者が住み、村人が「大蛇を退治してください」と頼むと、「大日如来を祀るように」と言ったそうです。(修験者であれば、ご本尊の蔵王権現とか不動明王を祀らせると思うのですが。)その結果、大蛇が出なくなったとの事です。これが、大セチ神社を大日堂(四所神社)に変えたことの意味?

PS.今日は「犬観音」をアップしました。全国の飛頭犬伝説を網羅?
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm

[10038]  PONTA [Url] 2009/11/23(Mon) 21:47 [Reply]
>タジマモリさん十年ほどかかったらしいが、本当は「紀州」あたりに既にあったのでは?

「橘」が何であったかは不明ですが、日本にも柑橘はあったようです。発見されているのは、伊豆半島以西のニッポンタチバナと沖縄のシークヮーサー(ヒレミレモン)の2種だけですが、九州にもう1種あるらしい。『魏志倭人伝』に「有薑橘椒□荷不知以爲滋味」(「生薑、橘、山椒、茗荷が有るが、それらを食用とすることを知らない」)と書かれています。
詳しくは、「「萬葉集」解読旅人」に書いてあります。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/manyou.htm
「萬葉集」解読旅人→橘歌

[10036] Re[10035][10034]: みかん  大三元 2009/11/23(Mon) 16:42 [Reply]
「タチ」という木があったのではないか、と思ってます。
「タチバナ」は「タチ」の木の花。
「唐」から来た似たようなものが「カラ・タチ」
たぶん「ス・ダチ」というのもこの類。

[10035] Re[10034]: みかん  神奈備 2009/11/23(Mon) 15:09 [Reply]
> タジマモリさん十年ほどかかったらしいが、本当は「紀州」あたりに既にあったのでは?

 橘の学名は citrus tachibana と言うそうで、日本は原産国です。紀州ミカンは小粒のミカンでこれらを総称して橘と書くそうです。紀州ミカンは秀吉の頃、熊本から紀州に苗木が持ち込まれたとのこと。

 『魏志倭人伝』には、「しょうが・橘・さんしょう・みょうが などが生えているが、それらが美味であることを知らない。」とあります。 


> 大陸から五十猛が持ち込んだというのは、どうでしょう?

 五十猛神を有功(いさおし)の神と言いますが、これを果実のなる木々を持ち込んだからとする神社も鎮座しています。福岡県田川郡に木實神社、嘉穂郡庄内町に許斐神社(このみ)が鎮座しています。


 橘が植えられている畿内の場所は、平安神宮、興福寺南円堂、垂仁陵、橘本神社、我が家など。

[10034] みかん  多美 2009/11/23(Mon) 08:03 [Reply]
「千両みかん」

http://homepage2.nifty.com/8tagarasu/sennryoumikan.html

落語に季節外れのミカンを千両で食べる話があります。

時代設定は江戸でしょうから、紀州のミカンか?

※今年は豊作か不況か、ミカンが安いらしい(ばら売り一個9円もあるらしい)。

ところで、

記紀、垂仁天皇に「タジマモリ」という人が常世の国から「橘」の木を持ち帰った

話があります。

タジマモリさん十年ほどかかったらしいが、本当は「紀州」あたりに既にあったの

では?

大陸から五十猛が持ち込んだというのは、どうでしょう?

ミカン上陸は、九州か紀州か?邪馬台国論争ばかりではつまんなあ〜い!

お陰さまで「ミカン」の勉強させていただきました。

感謝

[10033] Re[10032][10026]三輪山祭祀と祭器(土器)生産  PONTA [Url] 2009/11/23(Mon) 04:58 [Reply]
大田田根子が陶邑にいたってことは、
三輪氏と須恵器の生産とは関係がありそうですね。

[10032] Re[10026]三輪山祭祀と祭器(土器)生産  くず 2009/11/22(Sun) 23:53 [Reply]
皆様、興味深い話題に惹かれました^^

> 纒向で発見された柱列の正確な年代がわかれば、これが「出雲の建造物」であるか「天孫の建造物」であるか判断できるのだけれど。
> 聞くところのAD250以前の建物が正しいならば、これは出雲の建造物。

桜井市の公式HPに「纒向遺跡第166次調査現地説明会資料」としてPDF形式の文章が掲載されています。
http://www.city.sakurai.nara.jp/4211114.pdf
それによりますと、このほど確認された大型建築物を含む遺構は3世紀前半の築造が見込まれる。(庄内式古相段階)
一方同遺構の廃絶期は、取壊し後に建物があった位置の一部を横切って掘られた溝の年代から、3世紀中頃以前(庄内3式期から布留0式期)
と考えられているようです。
箸墓の築造が布留0式期なので、その時は取り壊されていた建築物。
柱は抜き取られて検出出来ず、当然ながら木柱の年輪年代法は使えませんが、
柱の下部に敷かれた土器片が存在するらしく、その土器片の分析が進めば土器編年上の正確な築造時期は出るでしょう。

庄内式土器は最古の土師器。
畿内の土器分化に吉備の様式が深く関わって成立したとされていますが、中河内(現在の八尾市周辺)の地域がその成立と製作(胎土は生駒山地西麓のもの)そして輸出に中心的に関わったようです。

記で御諸山(三輪山)の大物主を祀る祭主となった意富多多泥古命は「河内之美努村」で見つかりますが、現在の八尾市、御野縣主神社の周辺(中田遺跡群)が庄内式土器の成立地であり、主要生産地、輸送出港地であったと思われます。

記では続いて伊迦賀色許男命に「天之八十毘羅訶」の製作が命じられますが、
伊迦賀色許男命は物部連の祖。また八尾市周辺は物部氏の根拠地のようですから、
初期の土師器製作の工人集団を管轄していたのは物部氏であったかもしれません。

中河内で成立した庄内式土器の製作地は大和の東南部に分化され、以後河内型、大和型として並行します。後の布留式土器への移行には山陰や北陸系土器の影響が見られるようで、青草ですが出雲の野見宿禰の伝説(土師氏)は布留式土器の成立に関わっているのかも。吉備系を引き継ぐ祭祀、葬送儀礼から出雲(山陰)系を取り入れたものに変わったとか^^

伽耶から入った新しい製作技術による須恵器に祭器が移行しても、三輪山信仰との繋がりは変わらず、祭器(須恵器)製作において一元統一化しようとする意図が働き続けるのは、紆余曲折があったにせよ大和王権が少なくとも纒向に都を構えてから古墳時代を通じて変わらぬ統治政策を持ち続けたためではないかと考えています。

参考
「最古の土師器」大阪府立弥生博物館特別展示
http://www.occh.or.jp/kako_news/images/040319/hajiki-leaflet.pdf
「倭における須恵器生産の開始とその背景」酒井清治氏
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006993039

[10030] Re[10028][10026][10023][10005]: 八岐大蛇  素人 2009/11/21(Sat) 22:07 [Reply]
神奈備様
外れた内容の繰り返し恐縮です。
八岐大蛇は鉄鐸の利用法で思いつきました、古代製鉄で吹管の先端を炉に差し込んで沢山の人が息を吹き込んで高温の炎が炉から噴き出している場景から来たのでしょうか。エジプトなどの壁画にはあるようです。日本にも吹管製鉄が有ったりするのでしょうか。
> 「島根出雲」は記紀が創出した出雲にすぎない、本当の出雲文化圏ははるかに広大で大>国主命以前の出雲は豊前、豊後にその中枢があった、が持論です。

> 出雲での相当量の銅鐸・銅剣の出土など、実体としての古代出雲も文化圏の中心地の>役割を果たしていたのでしょう。
> 特に荒神谷遺跡から出土した剣の数と並び方が西から
@34本、A111本、B120本、C93本 計358本
>となっており、出雲国風土記の記載神社数
>@神門37社 A仁多・大原・飯石・楯縫・秋鹿の111社、B出雲郡122社 C島>根・秋鹿96社 計366社
>となっており、数世紀を隔てたこの符合は奇跡的だと思います。時代の進み方が安定的>にゆっくりとしたものを感じます。

 豊後は田舎なので、ミカン等を送っていただきます。田舎の味がミカンです。
同じ銅製品でも、弥生時代に狩猟や戦争に用いられた銅鏃は、山陰、近畿地方で出土数に偏りがあるようです。銅鏃は銅使用量が少なく加工も簡単なために銅器使用の初期から使用されたと推定されます。
@ 山口県1個、A島根県6個、B鳥取県36個、C兵庫18個、D京都10個、
E滋賀県16個、F福井県3個、G富山県3個、H石川県16個
で島根は出雲との関係での隠岐島の黒曜石製石族との古代からの関係か6個と鳥取県の36個に比べて弥生期の実用的な銅器の使用としては遅れていたように思えます。これから推定すると銅鐸や銅剣などは後に持ち込まれた可能性が考えられます。
ちなみに弥生期銅鏃の出土の多いのは、
@ 愛知県61個、A大阪府40個、B鳥取県36個、C静岡県31個
D三重県27個、E兵庫県18個
鉄器を天孫族が支配していたと考えると鉄鏃ですが
弥生期の出土の多いのは
@ 大分県181個、A福岡県171個、B熊本県156個、C山口県95個
D佐賀県56個、E京都府48個、F岡山県47個、G兵庫県41個、
H長崎県27個、I石川県20個
北九州・山陽地域に多いようです。九州では、弥生中期(紀元前200年〜紀元0年頃)には鉄鏃の時代を迎えようです。
九州から順次東方へと鉄鏃地域は広がり、近畿では石鏃の時代が長く、弥生末期(紀元200年〜紀元250年頃)まで鉄鏃と銅鏃が出土するようです。京都を除いて鉄鏃より銅鏃が多く出土するようです。
近畿での石族・銅鏃から鉄鏃への変化は非常に遅く天孫族の近畿攻略には多大な損失と時間を必要としたように思われます。
前にも同じような内容を書き込みましたので、重複の青草となりますがお許しください。
とんでも青草を1つ。
銅鐸ですが新しいものは銅の含有量が多く、赤っぽくて柔らかい大きい銅鐸のようです。銅鐸の下部側面に傷が多いなどの記述も見受けられます。大型の銅鐸も金ピカの銅鐸と同様に叩いて音を出したとの記述も見受けられます。
薄くて柔らかい銅製品を叩くとベコベコに変形してブリキのバケツを叩いたように見るも無残に変形するので現在出土するような銅鐸ではない変形銅鐸が多数出土しなくてはなりませんが、そんな物は見受けられないようです。
つまらない思い付きなのですが銅鐸の側面には両側に薄い羽根が出っ張っていますので銅鐸より少し短い幅の広い板の側面に羽根にハマル溝を掘って、羽根に填め込んで板の真中辺の溝と反対側に穴を開けて銅鐸の上面の両側の穴に紐を通して当て木に開けた穴を通して銅鐸下部の両側の溝に引掻けてさらに、当て木の穴に再度通して結んで当て木を銅鐸に固定する。固定された当て木の外側を叩くと鋳造部分を傷めないで音が出せるように想像しました。
煮皮や漆・アスファルトで付けると穴と溝が要らないので、紐のほうが都合がいいのです。弥生期の雨乞祭事のためと考えると音は雨をもたらす雷の「ゴロゴロ・ピシャ」と関係あるのでしょうか。
青草なので、青草のような音がするのではないでしょうか。蛇足でした。

[10028] Re[10026][10023][10005]: 八岐大蛇  神奈備 2009/11/21(Sat) 09:24 [Reply]
> 「島根出雲」は記紀が創出した出雲にすぎない、本当の出雲文化圏ははるかに広大で大国主命以前の出雲は豊前、豊後にその中枢があった、が持論です。

 出雲での相当量の銅鐸・銅剣の出土など、実体としての古代出雲も文化圏の中心地の役割を果たしていたのでしょう。
 特に荒神谷遺跡から出土した剣の数と並び方が西から
@34本、A111本、B120本、C93本 計358本
となっており、出雲国風土記の記載神社数
@神門37社 A仁多・大原・飯石・楯縫・秋鹿の111社、B出雲郡122社 C島根・秋鹿96社 計366社
となっており、数世紀を隔てたこの符合は奇跡的だと思います。時代の進み方が安定的にゆっくりとしたものを感じます。

 神社の形をとると物でも物語でも長く伝えられるようです。

> 弥生の剣が伝世されているならばまさに奇跡と思います

> 豊の国ですね、

 丹後の籠神社の銅鏡もそう言えるのかも。ここも豊の国の海部の移動と言う説(澤田洋太郎氏)がありました。

 ヤマタイコクの二代目がトヨ、秦氏もトヨの国に足跡大。香春の銅、日田盆地、京都、宇佐、トヨには古代の謎が詰まっているようです。

[10027] Re[10025]: とんでも論&レス  多美 2009/11/21(Sat) 02:43 [Reply]

> 記紀はどれくらい信用できる物か・・・。

信用できるし、信用できない。NHKのETB特集なんか参考になると思います。
日本・韓国・中国の学者が共同研究する必要があると思います。
私は、疑問に思ったことを何人かの説を読んでいます。そして納得するものを信用します。
まだまだ、記紀研究は始まったばかりと思います。

> 式内社も、古社の全てではなく、中央と結びついていた神社だけだったとか。

当然だと思います。しかし、だからと言って否定することは出来ないと思います。

> 古代って、どの資料を信じたらいいか、誰の言うことを信じたらいいか、分かりませんね。かといって、考古学者の話は物の名前ばかりで、具体的な人名が出てこないので面白くない。

同感です。自分の好きな人の説を信じることでいいんじゃないでしょうか?
ただし、それを他人に認めさせるのは難しいかも(特に逆説異説など)。

> Mサイズだとめちゃくちゃ高いですが(10kg箱の秀で地元価格4800円くらい?)、Sサイズでしたら、10kg箱で1000円くらいですので、お手頃価格です。ただ、Sサイズは地元でしか売ってないかと。

静岡在住のポン友(私と違って漢字に詳しい、書も上手い、元ギフト専門家)の近くの(サークル?)開業医の奥さん(某国立女子大出)など数人をお世話したところ、丁寧な令状とともに「ミカン」が届いたのです。
何だ、ミカンかあ!
まあ、正直なところ5000〜10000円程度の品物と思っていた。

食べてビックリ、旨い。

後日、ポン友に聞きました。
あのミカンは旨かった。と。
何でも奥さんに何を送ったらいいか相談されたそうです。

という事情でした。

[10026] Re[10023][10005]: 八岐大蛇  かたばみ [Url] 2009/11/20(Fri) 12:21 [Reply]
>記紀の出雲神話の八岐大蛇退治伝説は『出雲国風土記』には記載がなく、出雲国の伝承ではない。

その通りだと考えています、ではどこの国での伝承なのか、ですね。

>世界の広い範囲に分布している伝承の日本版と見るべきとのことでした

竜や蛇退治は普遍的ですが、これは「人間に仇なすあらゆる恐ろしきもの」との戦いが象徴化や神話化したものとみております。
恐竜のイメージも残っていたかもしれない。
その意味では八岐大蛇も同様かもしれませんが、常陸国風土記の書く「箭括の麻多智」の蛇との戦いや、努賀比塔kカヒメの生む蛇の子などは縄文文化と農耕文化の接触と葛藤を示すと考えています。
八岐大蛇伝承もまた縄文文化圏との接触であり、これを悪役とみなして書いているのだと考えています。


さて青草・・八岐大蛇伝承は出雲とはなにかの重要なヒントだと考えています。
「島根出雲」は記紀が創出した出雲にすぎない、本当の出雲文化圏ははるかに広大で大国主命以前の出雲は豊前、豊後にその中枢があった、が持論です。
豊の国ですね、国譲りとはこれら九州の出雲版図を神武に譲ったことの記紀における書き換え(改ざん)。
古い図ですが・・


素盞鳴尊と天照大神(の原型)の抗争は阿蘇周辺で行われた。
ここでいう素盞鳴尊とは素盞鳴尊の後裔(古出雲=大国主命以前)、天照大神とは天孫降臨の一族を意味します。
阿蘇山麓(高千穂≒天孫降臨)から日向へ流れる川は耳川(ミミ族)、五ケ瀬川(神武の兄の五瀬命)、五十鈴川(猿田彦命)など天孫族に関連しています。

さてウエツフミの第5綴りには・・(^^;
http://cgi.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html
紀伊や河内、東北への素盞鳴尊の進出が書かれていますが、実際には「出雲文化圏」の東への浸透の意だと考えています。
で、素盞鳴尊が「天照大神が落とした剣を返還した」とあります。

私の解釈は九州での出雲勢力と拡大する天孫勢力の抗争中に天孫族の王剣が出雲族の手中となり、後に和睦したときに返却された、です。
八岐大蛇とは耳川の蛇行し枝分かれする苔むす難所の象徴、とみています(農耕文化からみた難所)。
中流域には八峡ヤカエなんて地名もありまして・・

・・そして天火明命は日向から伊勢志摩へ(先代旧事本紀)、所持する王剣も伊勢志摩へ運ばれた。
草薙の剣とは天火明命一族の所持していた王剣。
素盞鳴尊の得た剣であるかどうかはなんともいえませんが、その推定形状からみて弥生の剣である可能性が高い。
(古代刀と鉄の科学/雄山閣に三件の草薙の剣の見聞記事あり、福岡県の三雲王墓の銅剣類似の可能性、白銅剣である可能性大)
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/kf09.html

私の歴史観では草薙の剣が熱田神宮にあるのは必然、あるいはこれらの伝承が事実を含むであろうことの指標になっております。
(弥生の剣が伝世されているならばまさに奇跡と思います)

余談
纒向で発見された柱列の正確な年代がわかれば、これが「出雲の建造物」であるか「天孫の建造物」であるか判断できるのだけれど。
聞くところのAD250以前の建物が正しいならば、これは出雲の建造物。
伝承からは大物主命の宮殿かな(^^;
(なんでもヤマタイコク、いいかげんにしてほしい)

[10025] とんでも論&レス  PONTA [Url] 2009/11/19(Thu) 17:44 [Reply]
>天叢雲剣は伊勢にあった剣
前に読んだ「記紀の日本神話は伊勢の猿田彦が天武天皇に語った伊勢の神話がモチーフで、猿田彦がいたから伊勢に神宮を建てた。初代斎宮は天智天皇妃の倭姫王=額田王」という話が強く印象に残っています。その本によると、天叢雲剣は伊勢の神社にあった剣だそうです。
『出雲国風土記』では、八岐大蛇は越国にいて、大国主が退治したことになっていますね。とすると、スサノオは出雲国の人ではなく、イザナギ・イザナミと共に熊野の人だったのかな?
鉄の生産を世界で初めて行ったのはシュメール人で、シュメールのドラゴン(九頭竜)伝説が産鉄民と共に伝わり、越国の九頭竜や八岐大蛇(8つの股だから、頭は9つのはず)になったとか。

某霊能者の話だと、尾張の語源は、カグツチを切った十束剣=天之尾羽張だそうで、尾張には、カグツチがいるので、天叢雲剣(草薙剣)で押さえ込んでいるそうです。(カグツチを抑えないと戦争が起こるそうです。)肝心の天之尾羽張は神戸にあるそうで、ニギハヤヒが天から降りた場所も生駒ではなく、神戸なんだそうです。

記紀はどれくらい信用できる物か・・・確か、日本書紀には、国譲りの場面で建御名方命と諏訪大社の話が出てこないんですよね? 古事記の編集者が諏訪の関係者だったので入れたって聞いたことがあります。
式内社も、古社の全てではなく、中央と結びついていた神社だけだったとか。その結果、東三河の式内社は極端に少なく、伊豆国の式内社は極端に多いことになってしまったとか。

以上、青草でした。
古代って、どの資料を信じたらいいか、誰の言うことを信じたらいいか、分かりませんね。かといって、考古学者の話は物の名前ばかりで、具体的な人名が出てこないので面白くない。

>日本一のミカンだと確信しました。
三ヶ日ミカンは、ブランド品で、アメリカやカナダでは高値で売れるそうです。
ちなみに、浜松市の市の花はミカンの花です。
ミカンというと安っぽいですが、橘と言い換えると高貴な香りがしますね。
>それはそれは美味しいミカンでした。
「三ヶ日ミカン」と一口に言っても、樹齢によって味が違いますし、同じ木でも南側の実と北側の実では味が違いますからなんとも言えません。
あと、基本的には、ミカンらしい酸味を残すようにしていますので、ただ甘いだけのミカンがお好きなら、他の産地の物の方がよろしいかと。
>数年前、静岡の知人から、ミカン一箱届きました。
Mサイズだとめちゃくちゃ高いですが(10kg箱の秀で地元価格4800円くらい?)、Sサイズでしたら、10kg箱で1000円くらいですので、お手頃価格です。ただ、Sサイズは地元でしか売ってないかと。

[10024] Re[10019]: 明日は・・・  多美 2009/11/19(Thu) 10:59 [Reply]

> 午後は、三ヶ日の親戚宅でミカン狩りをしてきます!

数年前、静岡の知人から、ミカン一箱届きました。

小振りではありますが、それはそれは美味しいミカンでした。

日本一のミカンだと確信しました。

「三ヶ日」ミカンでした。

[10023] Re[10005]: とんでも論  神奈備 2009/11/19(Thu) 08:53 [Reply]
> 神話だけでなく、人間も大和朝廷に取り込まれて行ったなどはないのでしょうか。

 記紀神話に、出雲の伝承ではない素盞嗚尊の大蛇退治や天叢雲剣の物語が入ったと言うことは、神々も取り込まれたち言えるようです。

 豊中歴史同好会での荊木美行先生の講演では、記紀の出雲神話の八岐大蛇退治伝説は『出雲国風土記』には記載がなく、出雲国の伝承ではない。ギリシア神話のペルセウス・アンドロメダ形神話であり、世界の広い範囲に分布している伝承の日本版と見るべきとのことでした。

 では、何故、天叢雲剣(草薙剣)は熱田神宮にあったのでしょう。これが疑問です。草薙剣の元の名は天村雲剣です。天火明命の御子が天香語山命(尾張連祖)、その御子が天村雲命亦名天五多底命。尾張にあったのはこういうことです。

 天村雲命は度会神主(伊勢外宮)の祖でもあり、その昔には伊勢にあった剣かも知れません。それが何らかのことで尾張に運ばれたと言うことがあったのかも。

 天村雲命亦名の天五多底の名は素盞嗚尊の御子神の五十猛と同じ発音、ここで素盞嗚尊が天村雲剣を大蛇から取り出したと言う伝承が加えられたのでしょう。

 天村雲剣は尾張の神であって、熱田神宮の御神体の剣だったのです。日本武尊が伊吹山に登る際、尾張の宮簀姫の手元に残していったのがその裏付け。

 天智七年668年、新羅僧沙門が天村雲剣を盗み出しましたが、途中で風雨強くなり、難波の放出(はなてん)で剣を放出。後に、確保され阿遅速雄神社に納め祀られ、皇居に持ち込まれてから天武天皇に祟ったのです。記紀の作成には天武天皇が大いにからんだのですが、後の編集者は三神の神器の一つのこの剣を天武天皇に祟らせてまっとうな皇統ではないと言いたかったのかも。
 なお、摂津では鴫野の八劒神社に蛇として出現・祀られています。

[10022] サイト更新  PONTA [Url] 2009/11/16(Mon) 21:38 [Reply]
>どんたくさま

銅鐸で「どうたく公園」の事を思い出したので、「蜂前神社」の周辺ガイドとして掲載しました。

[10021] フィールドワーク  PONTA [Url] 2009/11/15(Sun) 23:28 [Reply]
行って来ました。
天気はよかったけど、風が強い;
今日は渭伊神社、井伊館跡、二宮神社、井伊谷宮、井伊共保出生の井戸を回ってきました。
渭伊神社と三宅神社のページは全面改訂しました。ぜひ御覧下さい。
調べれば調べるほど、謎が増えて困っています。ぜひご指導下さい。

>どんたくさま
参考文献の追加、ありがとうございます。
「さんえん」了解です。
ちなみに、静岡の場合、遠江と駿河を合わせて「駿遠」(すんえん)、伊豆も合わせて「駿遠豆」(すんえんず)と言います。

[10020] Re10012: ミワ氏の資料  どんたく 2009/11/15(Sun) 00:12 [Reply]
PONTAさん、こんにちは。

ミワ氏に関する文献の追加です。

私は中身を読んだことがないのですが、
佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣 1994年
の「三輪」の項の参考文献として、下記のものがあげられています。

阿部武彦「大神氏と三輪神」(『日本古代の氏族と祭祀』所収)
樋口清之「日本神話と三輪氏」(『講座日本の神話八 日本神話と氏族』所収)
樋口清之「三輪と大神氏」(『國學院雑誌』62−2)


>ところで、「三遠式銅鐸」を「さんえん」とかながふってある本と、「みとう」としている本とあるのですが、どちらが正しいですか?

(No:10015)
> 「みとう」ではなく、「みとお」でした。

「みとお」というのは、私は初めて聞きました。
確かに「三遠」というのは三河(みかわ)と遠江(とおとうみ)とを併せたものですから、「みとお」という読み方もあり得るのかもしれませんが、考古業界では普通「さんえんしき」という言い方をしています。

これと似た一つの例として、摂津(せっつ)と河内(かわち)と和泉(いずみ)とを併せて「摂河泉」と表現しますが、これは「せっかせん」と発音します。
「せつかわいずみ」とは言いません。

[10019] 明日は・・・  PONTA [Url] 2009/11/14(Sat) 23:33 [Reply]
明日は井伊谷フィールドワークです。
テーマは、
1.式内・渭伊神社は、式内・三宅神社か?
2.「岩屋観音」はどこ?
3.渭伊神社の境内社のモロード神の実態は?
です。
結果によっては「渭伊神社」と「三宅神社」の項を大幅に書き直します。
答えを知ってる方は教えて下さい。(井伊谷に詳しい方はおられませんか?)

午後は、三ヶ日の親戚宅でミカン狩りをしてきます!

[10018] レス  PONTA [Url] 2009/11/14(Sat) 03:58 [Reply]
>敢石(磯辺の漁労民)

単純に考えるとそうですね。
でも、敢石部=磯部とすると、志摩国一宮・伊雑宮の宮司家は磯部氏で・・・
PONTAでは、新居郷という地方の狭い範囲に式内・角避比古神社、式内・大神神社、式内・猪鼻湖神社の3社があったと考えているので、ご神職の数はそうとうなものだと。

[10017] 引用  PONTA [Url] 2009/11/13(Fri) 20:50 [Reply]
五世紀の中葉頃より、この浜名湖一円で平時には海産物の貢納集団として、戦時には水軍に早変わりして朝廷の東国支配の尖兵となっていた磯部の一部が、鉄製農工具の普及や手工業生産の発達に呼応して磯辺の集団から別れ、農業生産や手工業(陶器生産)に移行してゆき、やがてその勢力と規模が拡大されてゆくままに、初期官人制とも言うべき人制機構に神人として参加し、その長は神直となり、神直-神人-神人部という階級組織を作り、浜名郡一帯の領域的支配者となって行った。(大山誠一「大化前代遠江国浜名郡の史的展開」)

[10016] レス  PONTA [Url] 2009/11/13(Fri) 20:37 [Reply]
>銅鐸の元祖は愛知県の朝日遺跡に祖形があるかもしれませんね。

愛知県豊橋市の高師原から「高師小僧」が出土します。木の根っこに鉄分が付着し、根っこが腐って取れて出来た鉄の筒です。振るとカラカラという衝突音を発するものを鳴石、壺石、鈴石といい、昔の人は、これに紐を通して鈴のかわりに使ったといわれています。これが鉄鐸の起源であり、銅鐸につながると聞いたことがあります。
細長い鉄の筒で、ミノムシの蛹のようです。三河の猿投山、佐奈川、遠江の佐鳴湖の語源かも?
大穴牟遅神の「穴」は鉄鉱山の穴とも、高師小僧の穴ともいわれています。
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/306takashikozo.html

>浜名湖の遠州に須恵器生産が広がるのは5世紀後半でしょうか。
・5世紀末(古墳時代)=静岡県最古の明通り窯で須恵器を生産
・7世紀〜8世紀(奈良時代)=須恵器の生産の最盛期
 ・窯跡は200ヶ所(1ヶ所につき窯は3〜10基)=総数約1000基
 ・国内屈指の大規模窯業生産地
 ・流通範囲は東日本の太平洋側。最北端は青森県八戸市。
・平安時代には二川に窯業地を移す。
・12世紀(鎌倉時代)=再び操業開始。碗・小皿・壺・甕と特注品の製造。
・13世紀(鎌倉時代)=雑器主体
・14世紀初頭=廃絶
・20世紀=「浜名湖 湖西焼」として復活。現在、窯元は5軒。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~takemori/takemori/kf001_.htm

>浜名郡輪祖帳に見える新居郷の住民には、敢石(磯辺の漁労民) 18人、
大山誠一説だと、この敢石部が窯業を始めたとのことです。

[10015] レス  PONTA [Url] 2009/11/13(Fri) 20:16 [Reply]
>ミワ氏の同族や後裔は、尾張・遠江・駿河・下野;三河・常陸・美濃・信濃・丹波・美作・周防;摂津・山背・但馬;和泉・備中など、相当広く諸国に分布しているようですね。

鈴木源一郎「三河・遠江両国における「大神神社」信仰の源流と交流についての一考察」に「三輪氏関連記事の全国分布」という表が載っています。出典は『大神神社史』「大神氏と当社」阿部武彦氏作製となっています。

>「三遠式銅鐸」は「さんえん」か「みとう」か

「みとう」ではなく、「みとお」でした。

[10014] 銅鐸と須恵器(訂正加筆)  とみた 2009/11/13(Fri) 13:28 [Reply]
>群馬県(毛野国、律令制では上野国)の7世紀の分布です。

北東の渡良瀬川流域の桐生には三輪神社と鴨神社があり、東には5世紀末-6世紀始めの保渡田古墳があり、その南の藤岡には土師氏が窯で埴輪を造っています。朝鮮人が多いところです

渡良瀬川流域の桐生には、三輪神社、鴨神社(誤)がある⇒三輪族と賀茂族がいる
(正)

東には(誤)⇒西には(正)

藤岡の西北には石上部君が居ます。付近には石上部、磯部、物部系の抜鋒神社があります


[10013] 銅鐸と須恵器  とみた 2009/11/13(Fri) 13:02 [Reply]
PONTAさんは、遠州浜名湖辺りにお詳しい。
ドンたくさんは、銅鐸の研究家。

いずれも、心強い先生ですので、素人筋が質問させていただきます。

銅鐸は、聞く銅鐸から見る銅鐸に大型化しますね。

野洲には。銅鐸博物館があって、その学芸員から小耳に挟んだ言葉。

銅鐸の元祖は愛知県の朝日遺跡に祖形があるかもしれませんね。

朝日遺跡は言わずと知れた弥生時代の環濠集落。

場所は、中世の信長の清洲城で有名な清洲です。伊勢湾が入り江として深く入り込んでいたのでしょう。菱環鈕1式(紀元前4世紀)のものが朝日遺跡から出ているようです。
隣の尾張一ノ宮には弥生時代中期の八王子遺跡があります。ここには外縁付鈕式が出ています。
朝日遺跡には韓半島の南西部の松菊里遺跡(紀元前5世紀の遺跡、水田遺跡がある)の竪穴式住居が伝わっている。

尾張一ノ宮には、真清田神社があり尾張族の本社です。
海の民が、この辺りにはたくさん居たようです。

大物主を祭る三輪神は大神でしょう。オオタタネコが和泉の陶邑、今の堺辺りに伽耶から渡来人が来たのでしょうね。高温の登り窯技術を持ち込んだ民。

須恵器は5世紀のはじめ、宇治には4世紀末にも入ってきたのでしょうか。考古学的に証明されているらしい。

土師氏は埴輪、竈を焼いていますね。墓も造っていたのでしょうか。埴輪と須恵器は同じ窯で生産されます。埴輪も5世紀になると穴(穴+告)窯で良質化のものができます。
須恵器生産を各地に広げて行ったのは三輪氏でしょうか。土師氏でしょうか。

浜名湖の遠州に須恵器生産が広がるのは5世紀後半でしょうか。もっと後の6世紀でしょうか。工人が移動したんでしょうね。それが三輪神を信じていたのでしょうか。

浜名郡輪祖帳に見える新居郷の住民には、神直 3人、神人1人、神人部3人 和迩神人2人
敢石(磯辺の漁労民) 18人、語り部 5人、宗宜部(蘇我氏の部民?)4人
麻積部 3人 と、構成が面白いですね。

因みに、群馬県(毛野国、律令制では上野国)の7世紀の分布です。

北東の渡良瀬川流域の桐生には三輪神社と鴨神社があり、東には5世紀末-6世紀始めの保渡田古墳があり、その南の藤岡には土師氏が窯で埴輪を造っています。朝鮮人が多いところです。










[10012] Re[10011]: ミワ氏の資料  PONTA [Url] 2009/11/13(Fri) 01:01 [Reply]
> PONTAさん、初めまして。
> 銅鐸好きの どんたく と申します。

美和氏の資料、ありがとうございます。
手持ちの資料
(1)大山誠一「大化前代遠江国浜名郡の史的展開」(吉川弘文館『日本歴史』1975年2月号所収。右写真)
(2)鈴木源一郎「三河・遠江両国における「大神神社」信仰の源流と交流についての一考察」(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』38号所収。愛知大学綜合郷土研究所の所長は、二宮神社宮司・渡邊和敏氏です。)
ですと、美和氏は大和朝廷と東国の境目に配置されるため、大神神社の東進と大和朝廷の勢力拡大が一致するようです。

> 余談ですが、最近の市町村合併によって市域が拡がったことから、浜松市は銅鐸出土地点が非常に多い市に「昇格」した感があります。(^_^)
ですね〜。全国で高山市についで2番目の広さになりました。
ところで、「三遠式銅鐸」を「さんえん」とかながふってある本と、「みとう」としている本とあるのですが、どちらが正しいですか?

>「銅鐸私考 使用氏族の問題について」
探してみますね。
細江の図書館には銅鐸の本がたくさんありますから。(コンピュータで検索して、予約すれば、市内のどこの図書館にあっても、家の近くの図書館で借りられます。合併して便利になりました。)

銅鐸使用氏族って物部氏では?
遠江国造は物部氏ですし・・・
でも、美和氏の祖の大田田根子の父親が大物主で、大物主=ニギハヤヒなら物部氏ですから、美和氏と物部氏は共に銅鐸を使っていたかも。
ちなみに、大物主=ニギハヤヒ=オオトシなら出雲氏、大物主=ニギハヤヒ=天火明なら、尾張氏も海部氏も銅鐸を使っていたかも。

[10011] ミワ氏の資料  どんたく 2009/11/12(Thu) 22:44 [Reply]
PONTAさん、初めまして。
銅鐸好きの どんたく と申します。

No.10010(09/11/11)

> 「旧浜名郡神社図鑑」
> http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya.htm
>「旧引佐郡神社図鑑」
> http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm

大変な労作ですね。
これだけ整理されるのは、大変なことだったろうと想像します。

No.9999(09/10/20)

> *美和氏についてのいい資料があったら教えて下さいね☆

ミワ(三輪・神・美和)については、大和の三輪山・大神神社との関連で捉えられている資料が多いかと思いますが、ミワ氏の同族や後裔は、尾張・遠江・駿河・下野;三河・常陸・美濃・信濃・丹波・美作・周防;摂津・山背・但馬;和泉・備中など、相当広く諸国に分布しているようですね。

そのことは別にして、ここでは、ミワと銅鐸とを関連づけた文献を紹介させて戴きます。
(すでにご存じのことかも知れませんが)

大場磐雄「銅鐸私考 使用氏族の問題について」『神道史学』1輯 昭和24年6月
(大場磐雄『考古学上から見た古氏族の研究』永井出版企画 1975年9月3日 に再録)

この中で、カモ・ミワの2氏族に関係した土地から銅鐸が出土している例が多いということが論じられています。

余談ですが、最近の市町村合併によって市域が拡がったことから、浜松市は銅鐸出土地点が非常に多い市に「昇格」した感があります。(^_^)


[10010] 宣伝  PONTA [Url] 2009/11/11(Wed) 18:04 [Reply]
宣伝になっちゃいますが、サイトが完成しました。
(ちょっと研究助成金が入ったので、引佐郡まで手を広げました。)

「旧浜名郡神社図鑑」
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya.htm
「旧引佐郡神社図鑑」
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/jinjya2.htm

式内社についてはちょっと詳しく書いておきました。
静岡県の神社に興味がある方はどうぞ。

[10009] Re[10007][10006]: 対立構図  PONTA [Url] 2009/11/11(Wed) 18:03 [Reply]
>天武天皇は余裕を持っていたように思います。

トップの人間がいっぱいいっぱいですと、下の人間に不安が伝わりますから、トップの人間は遊んで、余裕を見せておいた方がいいです。
余裕があったら、諏訪遷都構想は立てないかと。(状況に余裕が出来たので、諏訪遷都構想を中止したのかもしれませんが。)

[10008] スサノオの神話  神奈備 2009/11/11(Wed) 13:51 [Reply]
豊中歴史同好会
2009 11 14 皇學館大學 教授 荊木美行先生
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2009.html

[10007] Re[10006]: 対立構図  神奈備 2009/11/10(Tue) 21:57 [Reply]
> 一歩間違えば、日本は消滅していたかもしれませんね。

 天武天皇は余裕を持っていたように思います。

天武  四年 諸国で歌の上手、侏儒、伎人を選んで奉れと命した。
天武 十四年 歌男歌女笛吹きは技術を子孫に伝え習熟させろと命じた。
天武 十四年 大安殿で王・郷等を集めて博戯に興じた。
天武 十五年 天皇は王・郷に無端事(なぞなぞ)を出した。
天武 十五年 天皇は群臣に無端事を出した。

万葉集の天武天皇の歌・・楽しい歌です。
 天皇の藤原夫人(ふじはらのきさき)に賜へる御歌(おほみうた)一首
0103 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
 藤原夫人の和へ奉れる歌一首
0104 我が岡のおかみに乞ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ
 我が新居には大雪がふって祝ってくれていて嬉しいが、お前の居る古い宮に雪が降るのはもっと後だろうね。
返歌
 いえいえそうではないのよ。この里の龍神様に言って降らせた雪がそちらにもちらついたのでしょう。

人に好かれる人物だったようですね。

[10006] 対立構図  PONTA [Url] 2009/11/08(Sun) 23:32 [Reply]
天武天皇は親新羅で、天智天皇は親百済みたいですね。
いずれにせよ、東アジア情勢は不安定で、巨大な道路や構造物を作って力を見せ付けたり、他国と手を組んだりしたからよかったけど、一歩間違えば、日本は消滅していたかもしれませんね。

[10005] Re[10004]: とんでも論  素人 2009/11/08(Sun) 21:54 [Reply]
PONTA 様
とても興味があります。
> 天武天皇の謎は、子供の頃の記載がなく、突然、登場することで、だから、渡来人だと考えたみたいですね。正統な天皇であれば、草薙剣の祟りで死ぬはずがない。持統天皇が、天皇を天智系(渡来人ではなく、本来の天皇家)に戻したとか。
>
天武天皇以後、藤原氏を含めて、とても異質な人たちの一時代が有ったように思えます。この絶頂期が奈良の大仏建立でしょうか。律令制度の完成と技術史的には、大型の縦型炉、高性能な踏み鞴の導入など国力の増強に大きな貢献が有った時代と思われます。国家事業としての大仏建立は国中に国家を認識させるものとなったと思われます。反面かなり血なまぐさい時代でもあったようです。
匂いとしては、こちらでも書かれているように、新羅系のように思えます。
時代的に、敵対関係にあった新羅人が流入することは考えにくいのではと思います。
古い時代から新羅と関係のあるグループと言いますと出雲系の人が考えられますが、「国引き」後これらの人たちは大和朝廷とどういう関係であったのでしょう。神話だけでなく、人間も大和朝廷に取り込まれて行ったなどはないのでしょうか。
半島での戦勝に伴う新羅勢力の台頭に伴い、「国引き」の引き戻しなど考えられないでしょうか。出雲大社の高い神殿、金ピカの大仏、大仏殿、時代は違いますが同じ匂いがするのでは。
無茶苦茶な素人の青草でした。

[10004] とんでも論  PONTA [Url] 2009/11/08(Sun) 00:12 [Reply]
天武天皇の謎は、子供の頃の記載がなく、突然、登場することで、だから、渡来人だと考えたみたいですね。正統な天皇であれば、草薙剣の祟りで死ぬはずがない。持統天皇が、天皇を天智系(渡来人ではなく、本来の天皇家)に戻したとか。

天智天皇の次の天皇は、倭姫王の予定だったとか。
倭姫王=額田王女であり、また、倭姫王=倭姫命であって、伊勢神宮は、天智天皇の時に出来たとか。

[10003] 天武天皇  神奈備 2009/11/07(Sat) 09:52 [Reply]
 天武天皇の出自や年齢に疑問が提出されています。
 理由は『日本書紀』に没年齢が記載されていないことです。殆どの天皇の没年は記載がなく別段不思議ではないのですが、いかにもわざわざ隠したとする向きがあるようです。
 また中世に書かれた資料には没年齢が書かれており、天智天皇の弟とは見なせないということで、出自への疑問が出ているようです。

 出自
 1.宝皇女(皇極天皇)が舒明天皇のめされる前に、高向王との間に漢皇子を生んでおり、この漢皇子を大海人皇子と見なす説。
 
 2.吉野で殺されたことになっている古人大兄皇子とする説。

 3.歴史作家の小林恵子氏の説は、とんでも説では高句麗の泉盖蘇文将軍と見なす。

 年齢
 中世資料により天智より年上。

 これらの説については天智天皇(中大兄皇子)の性格から考えても、到底頷けるものではありません。
 なぜなら、天智天皇の娘のうち4人までも大海人皇子の妃になっていることがあります。中大兄皇子は他の皇位継承資格を持つ皇子達(山背王とその皇子達、古人大兄皇子、孝徳天皇の皇子の有馬皇子)を謀殺して来ており、ついには皇位継承資格は大海人皇子一人になってしまっており、従って皇女達を嫁がせたと思われるからです。

 もし、大海人皇子が漢皇子であれば、さっさと殺していたことでしょう。

 ましてや泉盖蘇文は天智三年に死亡したとあり、ましその頃に日本に来ていたとするならば、それから皇女達をせっせと妃にしたことになり、不自然きわまりないこと、高句麗が唐に滅ぼされかかっている時期にあたり、すたこらさっさと国を見捨てる将軍が日本で人望を集めるわけがないこと。

 陰険冷酷な天智天皇が大海人皇子を皇位継承資格第一号者とみていたのは、若干年の差のある実の弟であり、昔から忠実な弟だったからに違い有りません。大友皇子の誕生と立派に成長したことで、第一号になった段階で大海人皇子は吉野に隠遁のかたちをとったのでしょう。往年の天智天皇ならすぐに追ってを差し向けて殺したのでしょうが、大友皇子の母の問題もあり、その判断力が鈍ったのでしょう。

[10002] 角避比古神社  PONTA [Url] 2009/11/04(Wed) 02:23 [Reply]
 『文徳実録』に「嘉祥3年(850年)8月3日。詔して遠江國角避比古神を以って、官社に列す。是れより先、彼の國奏して言す。「此の神の叢社は大湖に瞰臨す。湖水の漑ぐ所、擧土、利を頼る。湖に一口有り。開塞常無し。湖口塞けば、則ち民、水害を被る。湖口開けば、則ち民、豊穰を致す。或いは開き、或いは塞ぐ。神、実に之を為す。請うらくは崇典を加え、民の為に利を祈らんことを」。之に従う。」とあります。意訳は、「浜名湖と遠州灘(太平洋)を繋ぐ水路(浜名川?)の水門の神で、水門を開けば海水が入ってきて農作物が被害を受け、水門が閉じれば豊作となる。この水門の開け閉めを行う神である」となるでしょう。漁業の神ではなく、農業の神のようです。

社地の「角避」を里人は「ツノサク」とも、「ツナグイ」とも言います。「津の柵」は波除に打つ杭の列のことでしょうし、「綱杭」は舟が流されないように打って、綱で舟とを結ぶ杭のことです。
PONTAでは、「角避比古神=津の幸彦の神ではなく、水門(津の柵)の神=角杙神」だと考えています。『特選神名牒』にも「角避比古神は津の幸彦の神にして、湖口の開塞を知りて民の幸福を知ります神と云義にて、実は水門の功徳を称へ奉れる御名ならん」とあります。
●角杙神・活杙神:神世七代の夫婦神。『文徳実録』に「擧土、頼利」とあります。昔の田畑は周囲に杭を打ち、土を盛り上げて作物を栽培しました。この周囲に打った杭を神格化した神が角杙神・活杙神とされています。

また、角避比古神は、後身の湊神社のご祭神が須佐之男命であることから、角避比古神は、須佐之男命の別名だとされています。「角避比古神=須佐之男命」という公式の成立には次の2つが考えられます。
1つは、「角避比古神→須佐之男命」という直接変換です。確かに、神様には別名(大国主命なら大己貴命等)があります。須佐之男命の別名が角避比古神かもしれませんし、土着神の角避比古神では名神大社にはなれないと考えて、ご祭神を須佐之男命だとしてしまう=須佐之男命の別名に角避比古神を新たに加えてしまう、という荒業を使ったのかもしれません。(熱田神社は、伊勢神宮の大反対もあって、熱田神宮と名乗れませんでしたが、「熱田大神は天照大神の別名だ」(正確には「熱田大神とは、草薙剣を御霊代として憑らせられる天照大神のことである」)と新たな定義をすることで、熱田神宮と名乗ることを許可されました。熱田大神は、実際は天照大神ではなく、尾張氏の祖神の天火明命、あるいは、天之尾羽張(伊都之尾羽張)かと思われます。PONTAでは、「尾張」の語源を、「天之尾羽張(伊都之尾羽張)」だと考えています。)
もう1つは、「角避比古神→牛頭天王→須佐之男命」という間接変換です。角避比古神社から流れ着いたといわれる細江神社の角避比古神のご神像は、明らかに牛頭天王像なのです。つまり、神仏習合の時代になって、角避比古神を仏様にあてはめないといけなくなって、「角だから牛だろう」と「角避比古神=牛頭天王」としてしまったのではないでしょうか。後に「ご祭神はどなた?」と聞かれて、「牛頭天王ですから、須佐之男命です」と変換してしまったということです。

[10001] nickさんの隼人COMの掲示板  神奈備 2009/11/03(Tue) 09:14 [Reply]
 対馬や壱岐には矢房と言う神社の卵のような聖域があります。それが神社に進化したものが対馬市上県町女連に地主神社として鎮座、ここの扁額には矢房神社と言う文字が並記されています。祖先の霊を祭ると言われる場合があり、古墓だったろうと壱岐で折口信夫翁が言っています。人間の営みにつながる場所ですから十分考えられることだと思います。

 矢房は福岡・佐賀・長崎から鹿児島に通じて森殿(モイドン)と呼ばれる森の呼称となったと推測されています。沖縄でも籔薩御嶽と言う御嶽があり、何らかの繋がりを感じます。

 nickさんの隼人COMの掲示板に書き込んで森殿についての考え方をお聞きしようと思ったのですが、メールと削除キイの事前登録が要る掲示板ですが、その登録方法がよくわからないのです。
 nickさんのお目にとまれば、先ずそこから教えて頂きたいと思っています。

 『原始の神社を求めて』岡谷公一著 玄松子さんのサイトのアマゾン広告の中で紹介されていましたので、買ってみました。面白い本です。それによりますと、今は韓国領になっています済州島には「堂(タン)」と呼ばれる聖地が点在しており、やはり御嶽のように森だけ、もしくはその中に若干の囲った祈祷場所があるものが残っているそうです。朝鮮半島の南西の島々にもあるようです。半島や九州の西側が同じ傾向の聖地を持っているというのは興味のある所です。


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