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掲示板のログ(平成二十二年 二月 2010.2)お名前の敬称は省略しています。

[10183] Re[10182][10178][10175]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  とみた 2010/02/28(Sun) 19:15 [Reply]
素人さん 古代史は難しいけれど、いろいろなことが関連しますので面白いと思っています。

素人さんは、実験考古学と頭でのシユレーションがお得意ですね。
指導なんてとてもとても、できませんのでコメントだけさせてください。

> 勉強になります。
>  古墳時代の初めに、二上山(大阪山)と同じ二つの山頂を持つ筑波山の望める茨城県鹿嶋地域に河内から移住したように思えるのですが、如何でしょうか。

つくばは、キの国ですね。

キは木と紀があり、紀伊を連想します。

紀のクニは木が特産でしょうから木のクニでもあります。一説にはキは柵を意味し蝦夷征討の城柵のクニかもしれません。

>出雲国譲りに立ち会われた神が鹿島神宮・香取神宮に祭られています。

香取神宮は経津主で、鹿島神宮は建甕槌命という祭神ですね。

香取は梶取で阿波の梶取船がやって来た説。鹿島は潮来のオホ神社の祭神をのっとる説があります。ご承知と思います。

いずれも星祭がありこれが謎めいています。

>  国の大イベントに立ち合われた神が、大和朝廷の対蝦夷最前線に祭られたわけです。最前線に配置された軍事力は大和朝廷に帰順した出雲勢力に思えるのですが如何でしょうか。
鹿島発ちという言葉があり蝦夷征討の基地でしょうね。
蝦夷正統はやはり律令期から桓武の坂之上田村麻呂時代だと思うんですが、

4世紀の景行ーワカタケル時代にあったのか。5世紀後半の允恭ー雄略時代にあったのでしょうか。

大化改新の後の、孝徳時代に常陸の行方郡の夜刀の神を追放したり斉明女帝が阿部氏を東北に派遣したり蝦夷や粛慎を討ったりしています。

高句麗との接点は、668年に高句麗が新羅・唐軍に敗れ日本に逃げてきたのを。関東八州に流します。

それを武蔵の高麗郡に寄せ集めたのが、716年です。
開拓して稲作をさせたのでしょう。また一部は蝦夷征討に利用しています。文化も技術も相当高い人たちだったと考えます


[10182] Re[10178][10175]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  素人 2010/02/28(Sun) 00:28 [Reply]
とみた様
勉強になります。
> 最近、韓国の学者が、弥生時代から4−5世紀にかけて、河内と金官伽耶との交流があたことに注目しています。
>
> 河内に多い巴形銅器が金官伽耶を代表する大成洞古墳に入り、逆に大成洞の筒型銅器が河内に入ってきています。河内はこれを威信財として配ったのでしょう。
>
河内と言いますと銅鏃やサヌカイトの鏃が弥生時代の最後まで残っていたところと思います。大和政権と言うより出雲のイメージが湧くのですが、どうでしょうか。
河内に渡来人が入ったとの事ですが、太古より河内にいた人たちは大人しく受け入れたのでしょうか。
 古墳時代の初めに、二上山(大阪山)と同じ二つの山頂を持つ筑波山の望める茨城県鹿嶋地域に河内から移住したように思えるのですが、如何でしょうか。出雲国譲りに立ち会われた神が鹿島神宮・香取神宮に祭られています。
 国の大イベントに立ち合われた神が、大和朝廷の対蝦夷最前線に祭られたわけです。最前線に配置された軍事力は大和朝廷に帰順した出雲勢力に思えるのですが如何でしょうか。河内等の出雲勢力が移住した後に、大陸からの戦争難民を受け入れたのではないでしょうか。
支配者は出雲、軍事力は鹿島と出雲の権力機構を分断したことになります。
新たに獲得した不確実な軍事力を遠隔地で強力な蝦夷と対峙させて、安定化できて
一石二鳥であったかも知れません。妄想。
ご指導お願いいたします。

[10181] 気になること…  かじりかけ 2010/02/28(Sun) 00:09 [Reply]
私が今気になることについて、すみませんが羅列させていただきたいと思います。

1)新宮一世著「スサノオは実在」で、十六島町(島根県出雲市)の語源は朝鮮語の「牛角」と言われていること。

2)長浜神社は妙見山にあり、海運の要所ではなかったのかということ。

3)荒神様は竈の神様、大黒様は台所の神様、を奉っているのに、なぜ火守神社(出雲市宇那手町)があるのか?

[10180] Re[10179][10177][10174][10173]: 水神様  神奈備 2010/02/27(Sat) 08:51 [Reply]
> 八十場で、弥蘇場とも書くのですね。

> でも、人間の遺体を20日間も水に浸すと余計に損傷するのではないかと思うんです!

 ブヨブヨの土左衛門をイメージしますが、流れる水中の場合、臭いはおさえられるのでは。

> 古代の前方後円墳は水堀に囲まれています。埴輪にも鳥があります。なんらか水を意識しているようにも思います。

 鳥は魂を載せて天界に届けるとされています。埴輪になっている鳥は鴨や白鳥などの水鳥でしょうから、水を意識しているのかも知れません。

 かじりかけさんがおっしゃるように、出雲国造さんも水の中に入るようですから。

 倭人の根底にある意識は海人でしょうから、水葬で、常世へ魂を送った記憶が残っていたのかも知れませんね。

[10179] Re[10177][10174][10173]: 水神様  橋本(和歌山) 2010/02/27(Sat) 00:22 [Reply]

> でも、人間の遺体を20日間も水に浸すと余計に損傷するのではないかと思うんです!
> 古代の前方後円墳は水堀に囲まれています。埴輪にも鳥があります。なんらか水を意識しているようにも思います。


追記
 この八十八場の冷水は神話の時代に八十八人の兵士の命を救ったという故事があり、冷水(霊水)との関係は否定できません。

[10178] Re[10175]: 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  とみた 2010/02/26(Fri) 14:46 [Reply]
神奈備さん ご丁寧な補強をありがとうございます

> 四 北摂の古墳時代史と政権交替論
>  このように、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めに大きく動く。重要なことは、地域の政治的主導権の変転を伴うような変化が、同じ時期に他の地域でも認められる事実である。
>墳時代史の背後には、初期大和政権と中国華北王朝、河内政権と伽耶、継体政権と百済という東アジアの国際関係の動きが読みとれる、というのが筆者の現時点での立場である。
最近、韓国の学者が、弥生時代から4−5世紀にかけて、河内と金官伽耶との交流があたことに注目しています。

河内に多い巴形銅器が金官伽耶を代表する大成洞古墳に入り、逆に大成洞の筒型銅器が河内に入ってきています。河内はこれを威信財として配ったのでしょう。

伽耶の武具や鉄素材も河内に入り河内は優位になったのでしょう。

渡来したのも韓半島の南東部でしょうか。秦氏はいろいろな技術者の寄せ集めでした

からその一つの土木技術は、船つくりや川を堰きとめる技術として活用した。

秦氏は猪名川だけでなく、淀川、太秦の大井川・桂川あたりにも進出して開拓し豪族の進出の足がかりをつくったのでしょう。都出比呂志先生は、5世紀に農耕具が鉄製のU字型鋤鍬が作られ技術発展したとされています。秦氏が持ち込んだのでしょう。

河川を御して農地を開拓するために、使用されたのでしょう。

くずさん、ご関心のある長野の千曲川流域の木島の根塚遺跡から出た、渦巻装飾の太刀は、金官伽耶の良洞里21号墳にも出ています。弥生時代末期のものです。

良洞里の勢力が大成洞に移りました。伽耶の技術はいろいろなところに来ているようです。この勢力は高句麗に400年に攻め込まれて敗れ衰えたのでしょう。そして一部は日本に流れてきた。



[10177] Re[10174][10173]: 水神様  橋本(和歌山) 2010/02/26(Fri) 11:37 [Reply]

>  讃岐に流されていた崇徳上皇の場合は地元の人々はどうしていいのかよくわからなかったので、京に問い合わせた期間、残暑厳しい折りですから、冷たい水に沈めて待ったのでしょう。

でも、人間の遺体を20日間も水に浸すと余計に損傷するのではないかと思うんです!
古代の前方後円墳は水堀に囲まれています。埴輪にも鳥があります。なんらか水を意識しているようにも思います。

[10176] 水神様  かじりかけ 2010/02/26(Fri) 10:04 [Reply]
すみません、かじりかけです。

天皇家ではないし、関係はないのですが
出雲国造は、死にません。不死身です。
出雲国造が死ぬとその後継者は「神火相続」を行います。
その間遺骸は、普段どうりの生活をしているようにみせかけられます。
つまり、亡くなったことを隠すのです。
無事、「火継ぎ」が終わると亡骸は、赤い牛の背に乗せ運び出し、出雲大社の東南の菱根池に沈められ、水葬されます。お墓はつくられないのです。死んでいないのですから。

「火継相続」の内容も面白いですよ!

[10175] 福永伸哉先生の講演のまとめの部分  神奈備 2010/02/26(Fri) 09:40 [Reply]
四 北摂の古墳時代史と政権交替論
 このように、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めに大きく動く。重要なことは、地域の政治的主導権の変転を伴うような変化が、同じ時期に他の地域でも認められる事実である。
 典型的な事例として知られるのは、京都府南部の乙訓地域である。中期初頭に東部(向日市域)の首長から西部(長岡京市域)の首長へと地域の盟主権が移ったことが古墳の分布からわかるし、後期初頭には百年以上も前方後円墳がなかった東部(向日市域)にふたたび前方後円墳(物集女車塚古墳)が登場して盟主権はふたたび変動する。
 都出比呂志氏がはやくに指摘したように、こうした地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。すなわち、中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期に符合しており、また後期初頭は継体大王陵と推定される今城塚古墳が淀川流域に登場する時期にあたっている。
 畿内における巨大前方後円墳の移動現象については、中央政権の中で政治的主導権を握る勢力が変動したこと反映したものという理解があるいっぽうで、政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという解釈もあって、論争が続いている。しかし、筆者はこうした巨大前方後円墳の移動に伴って、埋葬施設の構造、副葬品の種類、埴輪のスタイルなどもまた大きく変化したことを重視する。つまり、中央政権の主導権を握った勢力が、新しいスタイルの墳墓要素を創出するとともにそれを各地の連携勢力にいち早く与えることを通じて、中央と地域の政治系列を一新するような動きに出たのではないか、と思量するのである。
 このとらえ方は、一九五〇年代に文献史の水野祐氏が唱えたいわゆる 「王朝交替論」にも通じるものである。水野氏の時代には古墳時代の政治動向に関する考古学的な情報はきわめて限られたものであったし、「王朝交替」の術語が適切かどうかという問題はあろう。しかし、古墳時代三〇〇余年の政治史が大和政権の右肩上がりの勢力伸長期であつたかどうかは、考古
資料が豊かになつたいま、考古学の側が責任を持って検討すべき課題といえる。
 「古墳時代政権交替論」とも呼ぶべき立場に立てば、上述した中期初頭の変動は初期大和政権から河内政権への主導権の交替であり、後期初頭の変動は河内政権から継体政権への交替として評価できることになる。大塚古墳、勝福寺古墳に象徴される北摂猪名川流域の古塘時代史の転換点は、まさに日本史全体の流れにかかわっていたともいえるのである。さらに、そうし
た古墳時代史の背後には、初期大和政権と中国華北王朝、河内政権と伽耶、継体政権と百済という東アジアの国際関係の動きが読みとれる、というのが筆者の現時点での立場である。

[10174] Re[10173]: 水神様  神奈備 2010/02/26(Fri) 09:37 [Reply]
 持統天皇は始めて火葬になった天皇です。その夫の天武天皇の長期間のモガリは神とも称えられた天皇ではあっても、その臭いにはうんざり、それで持統天皇は神聖を保つべく、そうそうの火葬を望んだのでしょう。

 讃岐に流されていた崇徳上皇の場合は地元の人々はどうしていいのかよくわからなかったので、京に問い合わせた期間、残暑厳しい折りですから、冷たい水に沈めて待ったのでしょう。

[10173] 水神様  橋本(和歌山) 2010/02/26(Fri) 00:30 [Reply]
崇徳上皇が讃岐に流されその地で崩御された時都からの指示を待つ間、八十場の冷水で20日間浸しました。遺体の損傷を防ぐためだと言われていますが、水の対する信仰からきているとも言われています。しかし、なぜ崇徳上皇が冷水に浸されたのか?地元の風習だったのか、天皇家にそのような祭祀があったのでしょうか?

[10172] Re[10171][10170]: 摂津と河内(勝福寺古墳)  神奈備 2010/02/25(Thu) 09:24 [Reply]
とみたさん 興味深いお話ありがとうございます。

 北摂地域の古墳のありようにつきましては、豊中歴史同好会で、阪大の福永伸哉先生が講演されたことがあります。

 古墳前期 3世紀中〜4世紀後 各地域勢力がほぼ対等な関係

 古墳中期 4世紀末〜5世紀後 各地域の盛衰が出てくる。猪名川左岸の豊中桜塚古墳群と右岸の伊丹市尼崎市にまたがる猪名野古墳群が中期を通じて数世代有力な古墳を作り続ける。他の地域は細々と。

 古墳後期 6世紀前〜中 中期に盟主的地位にあった桜塚が急速に下火に向かう。一方、中期に途絶えていた長尾山丘陵(宝塚駅の北)に盟主の地位が移ったと理解できる。

とみたさんご指摘
> 勝福寺古墳の円筒埴輪は阪大の福永伸哉教授によれば、尾張系の職人が淀川べりの土で、作ったらしい。
> 継体の今城塚の埴輪が作られた窯の近くで尾張の職人を呼んで作らせたものを船で運んだ可能性があります。

 尾張系の職人の登場はこの頃淀川流域では継体天皇の勢力が強くなり、長尾山の勢力がこれに呼応してのし上がってきたと考えられるようです。


[10171] Re[10170]: 摂津と河内(勝福寺古墳)  とみた 2010/02/24(Wed) 15:17 [Reply]
毎度のミスです。少し補強もさせていただきます。

>猪名川の水路で太平洋に木を運んで船を作ったとするのが、神戸女子大の植野先生です。

太平洋(誤)⇒ 瀬戸内海(正)

>秦氏は土木が得意でしょうし船も作る木工技術も持っていたのでしょうね。池田には秦下郷と秦上郷があります。秦氏のいる水上交通の拠点に妙見信仰が多いのだそうです。

妙見信仰は、個人的に鉱山開発の神か、馬に関係がありものと思っていました。星祭もありますね。

これが水上交通の拠点に多いとは、意外な感じです。秦氏なら渡来人ですからいろいろな文化・技術を運んだのでしょう。
ちなみに、水谷千秋さんは、秦氏は韓国慶尚北道の蔚(草冠に尉)珍郡の地名”波旦”が出自とされていますね。漢氏は南海岸の伽耶の安邪(安羅)伽耶から来た説が多いようです。

どなたか、コメントをいただけませんか。

[10170] 摂津と河内(勝福寺古墳)  とみた 2010/02/24(Wed) 14:52 [Reply]
水谷千秋さんの本を読み、福永伸哉さんの講演記録を読み、加藤謙吉さんのセミナーを聴き、西博さんの掲示板を読みました。火の国の古墳も調べました。以下はそれを纏めたものです。

西摂津に猪名川が流れています。

尼崎、宝塚、川西あたりでしょうか。弥生時代は田能遺跡があり、宝塚には安倉高塚古墳があり、弥生時代は武庫の海があり、入り江が深く入り込んでいたのでしょう。

その猪名川の上流域に、勝福寺古墳があります。

横穴式石室の初期のものだそうです。

百済渡来の工人が作ったのでしょう。

同じ形式の石室が吉備の造山古墳の陪陵である千足古墳に見られるそうです。

肥後型石室です。火の国の女性の墓らしい。

吉備の水夫が火の国に押しかけて火の国に鴨籠古墳を作っています。

勝福寺古墳の円筒埴輪は阪大の福永伸哉教授によれば、尾張系の職人が淀川べりの土で、作ったらしい。

継体の今城塚の埴輪が作られた窯の近くで尾張の職人を呼んで作らせたものを船で運んだ可能性があります。

たとえば埼玉の鴻巣で作られた埴輪は荒川の水運を使って千葉の古墳まで運ばれています。

船を作るのは秦氏だそうです。

猪名川の東側は池田の森があって、そこから伐りだして猪名川の水路で太平洋に木を運んで船を作ったとするのが、神戸女子大の植野先生です。

秦氏は土木が得意でしょうし船も作る木工技術も持っていたのでしょうね。池田には秦下郷と秦上郷があります。秦氏のいる水上交通の拠点に妙見信仰が多いのだそうです。

勝福寺古墳は宣化の媛の大河内稚子媛かその息子の火焔皇子の墓とされているようです。


宣化も継体と尾張の目子媛との間の子供ですから、尾張に関係がありそうです。

大河内勢は西摂津の菟原(今の神戸市東部ー芦屋)あたりの武庫を支配していたものが、中河内の柏原あたりに進駐してくるようです。

志貴(志幾)の大県主は、雄略の行幸のとき鰹木を持った家に住み天皇気取りでいたのが咎められて燃やされました。

5世紀末に志貴の県主の治めていた中河内・南河内は、大県主の没落で大(凡)河内氏が交替した。これは加藤謙吉さんの考えです。

摂津の三島溝杭の娘と出雲族の大物主・事代主の間で生まれた娘の五十鈴姫を、神武は三輪山狭井川の新居で娶って生まれた子供の八井耳命は磯城の多氏。

磯城は大和の中心地。それが何故、河内に遷り志貴(幾)の主に落ちぶれ、さらに落ちぶれて凡河内勢に土地を奪われたのか???

5世紀ー6世紀の謎が隠れていそうです。


[10169] 伊勢神宮  かじりかけ 2010/02/23(Tue) 22:25 [Reply]
お返事ありがとうございます。

私は、出雲に住んでいます(古い土地、古い家に)が、家の敷地内に荒神様と水神様、年神様を祭ります。各家で、それぞれの神様のお祭りを毎年します。
そして、荒神様は北西に水神様は南東に奉ります。

「荒神様は、怖い神様なので奉られている場所に近ずいてはいけない。祟られる。」「水神様は、優しい神様ですが、いたずらをすれば祟られる。」と言われています。

なぜ、その方角にまつるのか?疑問です。


[10168] Re[10167]: 伊勢神宮  神奈備 2010/02/23(Tue) 19:32 [Reply]
> 伊勢神宮以前について水神様を祭られていたのではないかと、書かれていたと思いますが、なぜでしょうか?方角からということでしょうか?

 古代には水の湧きだしている所や流れ落ちている所は大切にされて、そこを神聖な場所として、またそれらを司る神の坐す所として祭って来たものと思います。後に他の自然現象を司る神々も同じ場所に祭ったのが神社の発祥だったとも考えられます。

 和歌山の伊太祁曽神社も鎮守の杜の中に水の湧き出す所があり、三井神社として祭られています。この杜に亥の杜から五十猛神等の神々が遷って来たものと思われます。

 伊勢神宮の場合はどうだったのか承知していませんが、やはり朝熊水神や滝祭宮などの水神が祭られていた杜に天照大神が勧請されてきたのではないでしょうか。

[10165] Re[10164]: お墓  神奈備 2010/02/22(Mon) 15:21 [Reply]
> イザナキはどこで亡くなられたのか御存知ではないですか?

なくなった場所とお墓の場所を同じ所と見ますと、以下の如し。

『古事記』淡海の多賀に坐す とあります。
 多賀大社が鎮座。

『日本書記』幽宮を淡路の地に造ったとあります。また別に言う。天に帰って日の少宮に留まったとあります。

淡路島に伊弉諾神宮があり、また石屋神社にも伝承があります。

[10164] お墓  かじりかけ 2010/02/22(Mon) 12:58 [Reply]
イザナキはどこで亡くなられたのか御存知ではないですか?

[10163] Re[10162]: 莫囂円隣之大相七兄爪謁気  大三元 [Url] 2010/02/21(Sun) 13:38 [Reply]
神奈備さん
ご紹介ありがとうございます。
良さそうですね。こういう解法だいすき(^^)です。

>  毎日新聞の連載に万葉集の歌が紹介されています。
> http://mainichi.jp/kansai/manyou/
> ここに内容がでていますが、念のため、コピーを掲載しておきます。
>
> 万葉のとびら:平城遷都1300年 漢字に託す遊び心
> 莫囂円隣之大相七兄爪謁気
> 平成22年2月20日夕刊
>
> 有名な難読歌です。
>
> バージニア大学のテキストから
>
> [題詞]幸于紀温泉之時額田王作歌
>
> [原文]莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
>
> [訓読]莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
>
> [仮名],*****,*******,わがせこが,いたたせりけむ,いつかしがもと
>
> 新聞の記事
>
> 莫囂円隣之大相七兄爪謁気
> わが背子(せこ)がい立たせりけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)
> 額田王(ぬかたのおほきみ)(巻1−9)
>
> ==============
>
>  万葉集には原文をどう読んでいいのかわからない歌がある。その代表がこれだ。斉明天皇が658年10月15日(太陽暦11月18日)から翌年1月3日(2月3日)まで紀の温泉(和歌山県白浜町)に行幸したときの歌で、上2句12字が意味不明だ。
>
>  鎌倉時代から100を超える説が出されたが、どれも説明が苦しいうえに下の句につながらない。「未来永劫(えいごう)、解読できないだろう」と言われていた。その「永遠の謎」を解くことができた。ここで答えを披露しよう。
>
>  「莫」は下の語を否定する字。「囂」(かまびすしい)のがないのだから、騒ぎが「やむ」と読む。それに「円」(まと)を続けて、「やむ」と「まと」で「やまと」(大和)。その「隣之」だから「紀伊国(きのくに)の」となる。
>
>  次は「おほ」(大)に「あふ」(相)を合わせて「おふ」(負ふ)、「なな」(七)と「あに」(兄)で「なに」(名に)、「つめ」(爪)に「えつ」(謁)、「け」(気)で「つめつけ」(爪付け)。上2句の訓は「紀伊国の負ふ名に爪付け」となる。
>
>  名前として持っていることを「名に負ふ」という。「紀伊国」はもとは「木国」と書いたから、持っている名前は「木」。それに爪を付けると「本(もと)」になる。「木」の字の幹の部分(縦棒)に横棒を加えて根元を示したのが「本」の字だ。
>
>  紀伊国が持っている名前の「木」に爪を付けたら、わが君がお立ちになったという神聖な橿(かし)の木の「本」だ。
>
>  額田王(ぬかたのおおきみ)が紀の温泉で余興に作ったのだろう。万葉集の編纂(へんさん)は約90年後。「謎かけ歌」という注がないのをみると、編者も読めなかったのかもしれない。<文・佐々木泰造/写真・宮間俊樹>
>

[10162] 莫囂円隣之大相七兄爪謁気  神奈備 2010/02/21(Sun) 09:15 [Reply]
 毎日新聞の連載に万葉集の歌が紹介されています。
http://mainichi.jp/kansai/manyou/
ここに内容がでていますが、念のため、コピーを掲載しておきます。

万葉のとびら:平城遷都1300年 漢字に託す遊び心
莫囂円隣之大相七兄爪謁気
平成22年2月20日夕刊

有名な難読歌です。

バージニア大学のテキストから

[題詞]幸于紀温泉之時額田王作歌

[原文]莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

[訓読]莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本

[仮名],*****,*******,わがせこが,いたたせりけむ,いつかしがもと

新聞の記事

莫囂円隣之大相七兄爪謁気
わが背子(せこ)がい立たせりけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)
額田王(ぬかたのおほきみ)(巻1−9)

==============

 万葉集には原文をどう読んでいいのかわからない歌がある。その代表がこれだ。斉明天皇が658年10月15日(太陽暦11月18日)から翌年1月3日(2月3日)まで紀の温泉(和歌山県白浜町)に行幸したときの歌で、上2句12字が意味不明だ。

 鎌倉時代から100を超える説が出されたが、どれも説明が苦しいうえに下の句につながらない。「未来永劫(えいごう)、解読できないだろう」と言われていた。その「永遠の謎」を解くことができた。ここで答えを披露しよう。

 「莫」は下の語を否定する字。「囂」(かまびすしい)のがないのだから、騒ぎが「やむ」と読む。それに「円」(まと)を続けて、「やむ」と「まと」で「やまと」(大和)。その「隣之」だから「紀伊国(きのくに)の」となる。

 次は「おほ」(大)に「あふ」(相)を合わせて「おふ」(負ふ)、「なな」(七)と「あに」(兄)で「なに」(名に)、「つめ」(爪)に「えつ」(謁)、「け」(気)で「つめつけ」(爪付け)。上2句の訓は「紀伊国の負ふ名に爪付け」となる。

 名前として持っていることを「名に負ふ」という。「紀伊国」はもとは「木国」と書いたから、持っている名前は「木」。それに爪を付けると「本(もと)」になる。「木」の字の幹の部分(縦棒)に横棒を加えて根元を示したのが「本」の字だ。

 紀伊国が持っている名前の「木」に爪を付けたら、わが君がお立ちになったという神聖な橿(かし)の木の「本」だ。

 額田王(ぬかたのおおきみ)が紀の温泉で余興に作ったのだろう。万葉集の編纂(へんさん)は約90年後。「謎かけ歌」という注がないのをみると、編者も読めなかったのかもしれない。<文・佐々木泰造/写真・宮間俊樹>

[10161] 日本神話のお話  神奈備 2010/02/19(Fri) 21:39 [Reply]
 豊中歴史懇談会での水谷千秋氏の日本神話のお話から

 日本神話の特長として言えることの一つに「ことよさし:事寄さし」即ち権力の委任が重要な役割を果たしているとのこと。

 『古事記』造化三神(天之御中主神など天神)がイザナギ・イザナミに対し、「この漂える国を修め理(つく)り固め成せ。」との「ことよさせ」をします。これを受けてイザナギ・イザナミが国土や神々を生みます。

 次ぎにイザナギが天照大神には高天原の統治、月読神には夜の食国、スサノオには海原の統治を「ことよさせ」します。

 天照大神は孫の瓊々杵尊に地上に降臨して国を治めるように「ことよさせ」します。
他にも神々の分類や、祖先神と守護神についてなど、興味深いお話でした。


 「ことよさし」は国の統治にからんだお話ですから、天津神の世界での出来事です。国津神の世界ではそのような例は少ないようで、思いつきません。

 天津神と国津神との違いの典型的なお話があります。

 某神社の前の宮司と現宮司の違いのお話です。
 前の宮司は侠気あふれる方であり、参詣者崇敬者をこよなく愛し、真心でおつきあいをされており、氏子・崇敬者もまたこのなく前の宮司に親しんでいました。ある高名な民俗学者がまさに国津神のような宮司と例えました。

 宮司の後継者はどちらかと言えば官僚出身ではないのですが、なんとなくそれを思わす所もあり、所謂侠気に欠けており、氏子・崇敬者を金の成る木と見ている所がかいま見え、民俗学者さんは天津神と例えていました。小生もなんとなくその様に感じていたので、言い得て妙との感想でした。

[10160] 太陽信仰の社  神奈備 2010/02/12(Fri) 10:54 [Reply]
 聖武天皇は仏教国家の範を聖徳太子に仰いだと、中西進さんが『聖武天皇』に書かれています。皇后の光明子も聖徳太子への信仰心があったようです。難波に宮を再建し遷都したのも、聖徳太子の夢を追いかけたのかも知れません。

 また、曾祖父にあたる天武天皇をも目標にしていたようで、壬申の乱で天武の歩いたコースに近い道を歩いています。歩いたとは馬に乗って、もしくは輿に乗っての意味も含みます。11月です。

 名張の北東の安保頓宮から、天武は上野鈴鹿の道をとりますが、聖武は青山峠を越えて河口頓宮(関宮)で10日、狭残行宮まで行き、鈴鹿の赤坂頓宮で9日、それから不破関に向かっています。

 聖武は伊勢で日の洗礼を受けたかったから伊勢での滞在が長かったのだろうと中西進さんが述べています。

すなわち
 伊勢天照大神  毘廬舎那仏
 天皇の祖    聖武天皇=光の子
 光の子の上に光明普遍の仏の信仰を置く

 所で、ゲーター祭りのある神島から二見浦の夫婦石を結ぶと外宮にあたるそうです。外宮こそ太陽信仰の社だったということ。

[10159] 豊中歴史同好会  神奈備 2010/02/09(Tue) 19:22 [Reply]
2010 2 13
元読売新聞大阪本社編集委員
坪井恒彦
天日槍の伝説と海人集団

14〜16時
会場:豊中市立蛍池公民館(阪急宝塚線蛍池駅すぐ西。豊中市教育センター(ルシオーレビル6F。)
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2009.html

[10158] Re[10157][10156][10153][10149][10148][10147]: 艪掛 ろかけ  素人 2010/02/07(Sun) 22:49 [Reply]
神奈備様書き込み有難うございます。
> > 飯野山
>
>  飯を盛った形やおにぎりをイメージさせる形ですね。名前も。
>
>  古墳の円部の頂上も、石棺を埋めた跡に土盛りをしてしっかりとつつくのかも。韓国で見たのですが、春川牛頭山に比定される古墳は、まさに土俵位の大きさの土盛りが残っていました。
> http://kamnavi.jp/it/sosimori2.htm
讃岐富士は有名ですが、追加で写真を、
飯野山の写真
*飯野山と虹
飯野山(讃岐富士)の四季のアルバムWeb
http://www.geocities.jp/sanukifuji422/album/030814iinoyama/0504iinoyama/0504640/27niji.jpg
*適当な大きさに見える象頭山・大麻山
飯野山(讃岐富士)から象頭山・大麻山・愛宕山 (jalan.net Web)
http://www.jalan.net/jalan/img/3/kuchikomi/0013/XL/534b4_0000013505.jpg
*小さな小山に見え離れ過ぎ。
飯野山(讃岐富士) 金刀比羅宮展望所より(jalan.net Web)
http://www.jalan.net/jalan/img/4/kuchikomi/0064/XL/0ea75_0000064283.JPG
飯野山の上部は赤い粘土(ボーキサイト類似)
赤土の上の磐座となるようです。(石室の辰砂とは関係ないと思いますが。)
「讃岐平野にそびえ、山裾近くには西に土器川、東に大束川が流れている。地形が侵食され、現在の屋島のような台地状のメサと呼ばれる状態になり、その後さらに侵食が進み、孤立した丘となった。地質学ではビュートと呼ばれる。麓付近は花崗岩で、中腹から上には硬い溶岩であるサヌカイト(安山岩の一種)で、山頂付近ではそのサヌカイトが風化した赤い粘土が堆積している。」(jalan.net Web)
jalan.net Web (飯野山(讃岐富士))
http://www.jalan.net/jalan/img/9/kuchikomi/0019/XL/11123_0000019475.jpg
http://www.jalan.net/ou/oup4000/ouw4001.do?spotId=37202ab2010002978&odkType=1
写真ばかりの青草でした。

[10156] Re[10153][10149][10148][10147]: 艪掛 ろかけ  素人 2010/02/02(Tue) 23:14 [Reply]
箸墓古墳の測量図によりますと円墳は頂上にお饅頭が載っている様なかっこうだそうです。
三輪山とか恰好は少し違いますが山頂部が似ている飯野山(讃岐富士)に当たるのでしょうか。
飯野山の写真(サイクリングレポートWebより)
http://cchp.dion.jp/reports/20041228/pic82726_20041228-081102_1024x768.jpg
飯野山の磐座    飯野山山頂巨石群Web
http://www.geocities.jp/hanzan_cho/hanzan/kyoseki.html
讃岐の象頭山は奈良では二上山(大阪山)になるのでしょうか。
妄想の青草でした。

[10155] Re[10152][10143]: 名草姫  神奈備 2010/02/01(Mon) 17:32 [Reply]
ぱたぴさん
> 神武天皇に殺され三つの神社にて埋葬され信仰し現在に至った。…
> と大雑把ですが、だいたいこのようなコメントです。
> が、それが真実ではないように何故か?思います。

橋本(和歌山)さん
> 神話の世界ですから全て真実とは考えられないでしょう。

 なるほど。神話と言うのか、伝承と言うのか、だかた真実性が薄いと言うことでね。

 明快です。はたびさんの質問の趣旨は「神話・伝承だから」真実でないと言っているように思えなかったので、具体的なことを聞きたかったのですが、ご本人からは何も応答がないようです。

 神話・伝承を真に受けて発掘し発見したとの話もまた世界にはあるようですので、何か別の伝承なり真実を知っておいでかなと思ったのですが・・・・

[10154] 納豆の豆  神奈備 2010/02/01(Mon) 10:40 [Reply]
 『紀』まず、蛭児が生まれた。そこで葦舟にのせて流してやった。
 『紀』第十 蛭児を生んだ。3年経っても足がたたなかった。だから磐クス船にのせて、風のまにまに放流した。
 『記』水蛭子、この子は葦舟に入れて流し去(す)てき。

 蛭子は船にのせて流されたのですが、補陀落渡海風に行き先は波と風まかせと言うか、蛭子の意志のままに流されました。

 納豆の豆ように蛭子を葦で包んで流したのかも。

 これは蛹(サナギ)の姿そのものです。

 『古語拾遺』天目一箇神をして雑の刀・斧・及び鉄の鐸(古語に佐那伎といふ。)を作らしむ。

 蛭児は銅鐸時代の神であり、その名からは日の神であったと推測されます。銅鐸を依代にして太陽を信仰していた民がいたのでしょう。それを鏡を依代にしていた民に敗北して銅鐸は没収・鏡に改鋳されたのです。それを避けるべく、埋めて隠匿したのかも。

なお、銅矛・銅剣などと一所に埋められていたようですがら、銅鐸も武器(伝達の手段)でもあったのかも。

[10153] Re[10149][10148][10147]: 艪掛 ろかけ  素人 2010/02/01(Mon) 00:59 [Reply]
神奈備様ご指導有難うございます。
>  倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳に使用された黒曜石は二上山か屯鶴峯辺りから運んだのでしょう。『紀』には、大坂山の石を運んだとあります。民は並んで手渡したのかも。
>
この辺の事は、神奈備様のホームページに詳しく説明されていました。
不勉強でした。
石室の積み石に板状節理の様に積まれる石材が大阪山から運ばれた石材のようです。
サヌカトでは無くて、サヌカイト質の讃岐岩質安山岩かも知れません。
自然科学館Web 板状節理・柱状節理
http://www.pref.kagawa.jp/sizeka/mitai/rekisi/3.htm
古墳関連で
>  金刀羅宮の神体山の象頭山は船を逆さまにしたような形です。
>
との神奈備様の書き込みが有りましたが、前方後円墳の前方部後端部が船を逆さまにした様な形をしています。箸墓古墳ではクビレ部が低く前方部後端部がかなり高くなっているようです。円墳は何だと言われますと困るのですが、北東はるか向こうに讃岐富士の飯野山がお饅頭を乗せたような山頂で有るのですが象頭山・大麻山(銅鐸出土)からですと小さくしか見えません。山頂に磐座はあるのですがサヌカイトでは繋がりますが、地形では箸墓古墳と結び付けるのは無理なようです。
三輪山では虹が出ると市が立つようですが、讃岐では象頭山と飯野山に虹がかかると雨が降るようです。
意味不明の青草でした。

[10152] Re[10143]: 名草姫  橋本(和歌山) 2010/01/31(Sun) 20:12 [Reply]
はじめまして。私も和歌山に住んでいます。毎日名草地域を通ります。


それが真実ではないように何故か?思います。

神話の世界ですから全て真実とは考えられないでしょう。敗者が切り刻まれて別々に埋葬されるという類似した伝説はありますし、日本に伝わるお伽話でも世界に類似したものがあります。


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