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掲示板のログ(平成二十二年 四月 2010.4)お名前の敬称は省略しています。

[10239] もう少しストレートにいいましょう。  伊作 2010/04/28(Wed) 23:13 [Reply]
本格的な中国語の古語辞典が手もとにないので、(中国語発音が呉音や漢音とは異質な場合が多いことをいうための説明材料として)現代の中国語発音を併示します。古今、さほどの違いはないからいいでしょう。提示したのは私の安物の漢和辞典からです。

>対は呉音漢音共にタイであり、
▼対
漢音:タイ
呉音:ツイ
中国語発音:トゥイ(tui)

>馬は呉音でメ、唐音でマ、漢音でバ。
▼馬
漢音:マ
呉音:メ
中国語発音:マー(ma)

>(対馬は)タイメないしタイバとしか読めない。
この理屈でいくと、邪馬台は「やばたい」ですか。

『後漢書』に李賢が注釈した「邪摩惟」の「摩」。
▼摩
呉音:マ
中国語発音:モー(mo)

『隋書』が書いた「都斯麻」の「麻」。
▼麻
慣用音:マ
中国語発音:マー(ma)

どちらも「バ」ではありませんね。
7世紀の中国の識者がそろって「馬」を「マ」に当てているようです。

かたばみさんの読みでいう対馬の「タイバ」とは、日本語発音化した読みを呉音と漢音に分類した上で、漢音だけでそろえたわけです。問題はそうではなく、中国人が中国人の発音で、どの音に当てたのかだと私は思いますよ。


>ここには「シ」と読むべきが存在しないのでツシマとは読めないはずです。
どのみち「つしま」は倭人読みですね。倭人が「対島」と、中国語名称をつけた可能性は、対馬の地形の線から「あり」でしょう。

>隋書の「都斯麻」は調査者がトシバに近似として聞き取って漢音で表記しているわけで、書紀の呉音系表記と同列には扱えません。ただし、聞き取った「シバ」はシマであった可能性があります。

>隋書の「都斯麻トシバ」の源は
>隋書の都斯麻をツシマと読んで、現在の地名になったのではない、あくまでこの地名は倭語だ、ということです。
しょうじきいって苦しさを感じます。

古代も現代もそうですが、中国人が外国の呼称に漢字を当てる場合、私たちの想像もできないような文字を当てる例が少なくありません。たぶん、厳密な中国語発音とはちがって、語尾などを省略に近い形で簡略化して読むのでしょう。現代の辞書とにらめっこして断定的にいえるほどに、杓子定規に当て字していたとは思えません。

極論させていただけば、漢音・呉音・唐音というものは、日本語と化した発音の種類を分類するためのものであって、中国語の厳密な発音を区分したものではないといえます。

呉音・漢音なる発音区分がいつできたものかは不明なようです。
結論としては、3世紀の中国人が書いた「都」と、7世紀の中国人が書いた「都」が、明らかに漢音で書かれているという証拠もないようです。どのみち、多くを推論で展開するのであれば、私があげた実例のほうが論拠として生きているように思います。

●五十迹手
これも「いそとて」と読むべきだと信じて疑いません。これを否定するだけの論拠提示はなかったものと判断させていただきます。

色々とありがとうございました。

[10238] Re[10234]: 呉音と漢音と倭音?  かたばみ [Url] 2010/04/28(Wed) 20:38 [Reply]
>地名や姓には都はほとんど「つ」に当てている。都介(つげ)、都努(つぬ)、都於(つお)、都祁(つげ)、・・・

中国史書の「調査者」が聞き取っての表記と、日本書紀での表記は別物ですから同じには扱えないですね。
いわゆる呉音や漢音に対して、書紀における文字と発音の用法の関係はいかなるものか。
これは書紀編纂の目的はなにか、加えて天武〜持統での唐に対する政治的思惑、文化的関係もうかがわせてくれそうです。

遣唐使以降では唐文化の影響が甚大であり、中国国内での方言の影響も受けるでしょうから、ちとやっかいなことになりそうですけれど。
それでも呉音が消えずに残るのはいつの時代からかはおくとしてベーシックにそれがあったからだと考えています。

結論からいえば、書紀は呉音の影響下、あるいは意識的に呉音を用いている。それが都=ツの表記だと思います。
それでは、なぜ書紀は表記に呉音(中国南方系の発音)を用いているのか・・

なお、呉音とはおおよそ淮河の南における方言の総称であり、漢音は淮河の北の方言の総称であり、水稲を行う地域かそうでないかの違いに等しいとみております。
(長江の南、越までゆくとまたいろいろありそうですけれど)
五胡十六国時代の激しい南北抗争(交流)を受けて唐音なるものが生まれたと考えています(南北混血方言とでもいえるか)。
(元、明、清における言葉の状況はいかなるものであったか)

列島側も本来は長い歴史スパンでの流れから考える必要がありますが略しまして持論の一部。
書紀編纂の目的はまずは万世一系を確立(創作;)し、神々の系譜を統一すること(理論武装、祭祀から宗教へ)。
天武は万世一系の祖(天之忍穂耳尊)を中国南方系と認識していた、と考えています(呉楚七国の乱からの脱出者)。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/09/goso01.gif

だとするならばですが、ゆえに書紀は魏志にかかれる「伊都国イトコク、漢音」を伊都国と表記できないわけです。
呉音系ではイツコクと読まれてしまいますから。
ましかし、神功紀で魏志を引用するなど都合のよいところは都合よく北方系中国史書を利用してる(^^;
(ちなみに壱岐は魏志で「一大」であって「一支」ではない、それでもイキとは読めない、いつのまにか一支がさらに一岐に変わり、イキになったのでしょう)

神功紀で「對馬」と書いているのは、魏志の「對馬国」を用いたからでしょう。
では、書紀編纂者は魏志の對馬をどう読んだのか。
対は呉音漢音共にタイであり、馬は呉音でメ、唐音でマ、漢音でバ。
タイメないしタイバとしか読めない。

後世に唐音で読めばツイ・マとなりますが、なにせここには「シ」と読むべきが存在しないのでツシマとは読めないはずです。
書紀編纂時代の400年ほども前の地名だから魏志のままで書いたのかもしれません。
魏志時代では邪馬などと同系の地名であったのかもしれません。

隋書の「都斯麻」は調査者がトシバに近似として聞き取って漢音で表記しているわけで、書紀の呉音系表記と同列には扱えません。
ただし、聞き取った「シバ」はシマであった可能性があります(後述)。

それでは当時の倭語において「ト」に近く、対馬のありようも説明できる地名がありえるか・・外、戸、泊、なんてのが見えてきます。
(中国語ではトとは読まない文字ですね)

隋書の「都斯麻トシバ」の源は倭語での「泊島」の意のトシマではなかったか。
で、書紀の對馬を唐音でツイマと読み、現地でのトシマと複合して現在の対馬と書いてツシマと読むようになったと推察。
すなわち、隋書の都斯麻をツシマと読んで、現在の地名になったのではない、あくまでこの地名は倭語だ、ということです。

漢字や中国語はペケでありまして、ついでがありましたら調べていただきたいことがあります。
漢音で「マ」と発音する文字があるのか、です。
辞書で見る限りはですが、馬、麻などそれらしき文字はみな「バ」とあります(呉音ではメ、唐音ではマ)。
実際の発音としては日本語では正確に表現できないでしょうけれど。
もちろん現代中国語での発音ではなく古代の漢音では、です。おおよそ淮河以北での発音とみています。
昔の発音を調べるのはそれだけでもやっかいだとは思いますけれど。

>「倭迹迹日百襲姫命」はきちんと「と」を読ませますね。

書紀の倭迹々日百襲姫、ヤマト・トトヒ・モモソヒメ、いつのだれがそう読んだか、ですね。
倭をヤマトと読む、書紀編纂あたりではそう読むと決めたかもしれない。
「きちんと読む」・・さあてこれがやっかいだと思います(^^;

五十迹手と同列で用いているのだろうと思います(万葉の多くでは類義文字の踏、呉音トウ(トフ)、漢音トウ(タフ)に準じてトの当て字としているのだと思います)。
で、仲哀356-360のサンプルを適用すれば、本来は「ワ(の)シシ・ヒ・(の)モモソ・ヒメ」もあると思います。

五十迹手での迹は普通の足跡かもしれませんが、百襲姫のほうは倭の日神の足跡を受け継ぐ比賣、といった意味合いを持たせるための迹+迹。
(日の巫女でもありますが、卑弥呼とは親戚かもしれないが別人、が持論)

ただし、崇神248-273時代での実名かどうかは??、書紀での創作名かもしれない。
書紀では、古事記での当て字とは違って漢字の意味を知った上での用法になっていると考えています。

[10237] 3世紀倭人の漢字言語使用について  伊作 2010/04/27(Tue) 19:46 [Reply]
倭人がある程度の漢字言語を使用していて、対馬はもともと「対島」と呼んだのではないかという推測の論拠を提示しておきます。

中国人が倭人の発音に合わせて書いた呼称ではなく、倭人が漢字言語を使ったと思われる呼称が幾つかあります。

▼瀚海
瀚海は、広大な砂の海であるゴビ砂漠の別称で、この言語の初出は『後漢書』のようですから、後漢代に中国でつけられたものでしょう。倭国領内の海峡に対して「名づけて瀚海という」とありますから、この呼称を壱岐と対馬の間の海につけたのは倭人でしょう。

▼大倭
「国々に市あり」で、各国の市場を管理していた役人です。倭国30ヵ国それぞれに最低でも1ヵ所は市があったでしょうから、最低でも30人は存在した中堅官吏ですね。

▼一大率
「大率」には、中国歴史書が3通りの用例を見せます。
『史記』が「大いに率いる」という動詞に用いています。(單于聞之大率衆來入)。
『漢書』が、「あらまし・およそ」という熟語に用いています。(県大率方百里、大率十里一亭)。
『隋書』百済伝が、百済人の官位に「大率、恩率、コ率……」があると書いています。(官有十六品:長曰左平、次大率、次恩率、次コ率………)。
『倭人伝』の一大率は、百済伝の官位とに近い使い方とみなされます。
これは「一・女子」と同じく「一・大率」とみなすのが妥当でしょう。(「一大・率」と変なところで寸断して「一大国」とくっつける人もいますが)。

▼持斎
大きな航海中に、嵐に遭遇したり船中で疾病が発生した場合、持斎の慎みが足りないからだとして(たぶん)、難を鎮めるために海中に放り込んたのでしょう。人身御供ですね。彼が陸にいたのであれば、遠くは離れた船の難を知らず、鎮めるまじないとか祈祷もできませんし、難を鎮めるための人身御供ともなり得ません。

以上、倭人が漢字とセットで自発的に、確かに使ったと思われる呼称を4つほどあげましたが、「対島」もその一つだったのではないかと思うわけです。

[10236] また誤字に気づきました。  伊作 2010/04/27(Tue) 09:56 [Reply]
10234の文中の★印の箇所に訂正があります。

私は、3世紀倭人はすでに初歩的な漢字とその意味を心得ており、★似たようなサイズと形の二つの島が対しているから「対馬」と呼んだのだとみています。『魏略』と『紹興本』倭人伝は「対馬」と書いています。★對馬と書いたのは『紹熈本』倭人伝ですね。

★似たようなサイズと形の二つの島が対しているから「対島」と呼んだのだとみています。
(倭人が馬を知っていた時期についたのか否かは不明で、中国がは島に馬の字をあてたとも思われます)

★對海と書いたのは『紹熈本』倭人伝ですね。

[10235] かたばみさんへ。  伊作 2010/04/27(Tue) 08:30 [Reply]
呉音と漢音についてはほかでもよく見かける議論なのですが、私はこれまで関与することも言及すること敬遠してきました。この種の議論に詳しくはないし、私の姿勢として好まないのです。

というのも、中国では現在でも標準語が複数あるようにもので、方言となれば50にも及ぶ少数民族のものを入れると無数にあるといえます。純粋に中国語と呼べる語群があったとして、それが呉域の発音と漢(中原)域の発音とにきっちり使い分けられていたとは考えられません。整理できないほどに混合使用されていたと思うからです。
つまり、明確に整理できない複雑な言語発音について、発音の種類を地域あるいは時代によって区別して語るのが妥当だとは思わないのです。たとえば、3世紀の晋の政府で働いた文書記録官がどの音で書いたのか、文章の中でどれが漢音で呉音なのか、いちいちセグメントすることは不可能でしょう。

いわゆる「呉音・漢音」とは、日本で使われている漢字の発音について、区分の便宜上・学術方面で用いられるているのが実情ではないでしょうか。現実に漢字言語は両者混在しているし、いちいち漢音・呉音の区別することなく、何の支障もなく使っているわけです。
呉音は7〜8世紀ごろに伝来、漢音は9世紀ごろに伝来、唐音(宋音)は10〜12世紀ごろに伝来したものと思われます。3世紀に書かれた「対馬」と7世紀に書かれた「都斯麻」を、7世紀から12世紀ごろに伝来した発音(極論すれば現代の発音区分)を基準に、「漢音で書かれている・呉音で書かれている」と規定することが妥当だとは思いません。

先に提示した通り、私は都を「と」と読むのは、比較的新しい日本語読み(として定着した漢音)だろうと思っています。少なくとも8世紀『日本書紀』の成立期までは、帰化漢人も倭人も「つ」と呼んでいたことは事実ですからね。かたばみさんの論調でいえば呉音です。
そこからさかのぼって、3世紀に書かれた都を「つ」と読むのが妥当か、「と」と読むのが妥当かの判断になりますが、「つ」と読むべき論拠のほうが圧倒的に多いのです。

[10234] かたばみさんへ・ありがとうございます。  伊作 2010/04/26(Mon) 21:55 [Reply]
>隋書の編纂者は唐、隋も北方系王朝ですから隋書の都は漢音の「ト」の発音でよいと思います。
倭国を訪問調査した隋の記録官も「としま」と読ませるべく書いたというわけでしょうか。唐代の歴史家が、記録官の描いた名称を漢音に変えて書いたといわれるのでしょうか。後者であれば、文章伝世という歴史書編纂の基本ルール違反になります。

>伊都国も同様で編纂者は西晋ですからやはりイトコクでよいと思います。
以下は、私のサイトから端折って転載します。
中国からの来訪者が、倭人の発音した呼称・名称に、自分の感性で文字を当てたとして、『魏略』と『紹興本』倭人伝は「対馬」と書き、『隋書』はこれを「都斯麻」と書いた。古代の中国人が都と書いた場合は、「と」ではなく「つ」ではなかったか。
百済からの亡命帰化漢人の手になるという『日本書紀』も、たとえば都怒我阿羅斯等、丹生都姫のように都をことごとく「つ」と読ませる。
漢人文筆家だけではなく倭人の読みをみても、地名や姓には都はほとんど「つ」に当てている。都介(つげ)、都努(つぬ)、都於(つお)、都祁(つげ)、都保(つほ)、都留(つる)、都野(つの)、都路(つじ)、都築(つづき)、都濃(つの)、都万(つま)……。
言語に詳しい人に聞いたところによると、「好」はhao(ハォ)、「古」はgu、都はtag、duである。見ての通り、duは語尾音がOの「と」ではなく、語尾音がUの「つ」により近い。私の知り合いが、かつて職場の中国人に「好古都」を何と読むかを訪ねたところ、「ハコッ」と発音したそうである。
ご覧の通り、都をことごとく「つ」と読ませる『日本書紀』が、怡土の語源となった「いと」には伊都ではなく「伊覩」と書いている。何よりも、地元の古い文献すら筑紫を都久志(つくし)と書いているのである。
7世紀の中国人歴史家も、8世紀の帰化漢人歴史家もみな都を「つ」にあてている。都を「と」と読むのは比較的新しい読みではないのか。少なくとも『日本書紀』が編まれた8世紀初頭までは、中国人が書いた都は「つ」だった。
このように、検証をすればするほど「いつ」と読むべき根拠ばかりであり、倭人伝のいう伊都が「いつ」だったとすることに異論を挟む余地はない。

>魏志倭人伝の對馬はタイバ、隋書の都斯麻はトシバであり、双方に類似の発音の地名であったと考えています。
私は、3世紀倭人はすでに初歩的な漢字とその意味を心得ており、似たようなサイズと形の二つの島が対しているから「対馬」と呼んだのだとみています。『魏略』と『紹興本』倭人伝は「対馬」と書いています。對馬と書いたのは『紹熈本』倭人伝ですね。

>ここでの迹をトと読むのは危険と見ます。
>で、書紀は読み方をわざわざと伊蘇志イソシと仲哀356-360に言わせているわけです。
>五十迹手イソ・シ・(の)テという人物、と私は読みたいところです。

実は、私は『日本書紀』をまともに勉強したことがないのでうかがいますが、「倭迹迹日百襲姫命」はきとんと「と」を読ませますね。私はこれと同じく読むべきと思うのですが、「なぜ」五十迹手をきちんと読まないのか納得がいきません。

[10233] 神奈備さん・ありがとうございます。  伊作 2010/04/26(Mon) 21:54 [Reply]
持衰を平たくいえば「使い捨ての人身御供」ですね。
こういう人材には、奴婢とか比較的罪の軽い罪人を起用したのではないでしょうか。船に乗る前に「まじない」効力がつくように斎戒させます。それが、「女性を近づけず肉を食わせず、髪身体を汚れたままにし、葬人(流浪の亡命者)のようにする」というのではないでしょうか。
これはいつもいつも必ず載せるといのではなく、外国へ行くときなど大きな航海時に特別に載せたものと見ています。

五十(いそ)のつく呼称が海人系の出自であれば、よくいわれるように「磯」に由来するのかもしれません。
私あての投稿がもう一つあるようなので、ここで切り上げます。

[10232] 久しぶり  神奈備 2010/04/26(Mon) 20:53 [Reply]
知的レベルの低い荒らしが来ました。
host gate253.hit-5.net です。

[10231] Re[10228]: 小さな異論とご質問  かたばみ [Url] 2010/04/26(Mon) 12:15 [Reply]
伊作さん、はじめまして。
横から失礼です。

>古代の中国人が都と書いた場合は『隋書』の都瓦麻がよい例で、「つ」だったと思います

手元の辞書では、都をツと読むのは呉音、トと読むのは漢音とあります。
隋書の編纂者は唐、隋も北方系王朝ですから隋書の都は漢音の「ト」の発音でよいと思います。
伊都国も同様で編纂者は西晋ですからやはりイトコクでよいと思います。


対馬→都斯麻(隋書)
対馬→對馬(魏志倭人伝)

呉音、漢音共に対はタイです。対をツと発音するのは唐音。
斯は呉音漢音ともにシ。
麻は漢音でバ、呉音でメ。唐音でマです。
馬をマと発音するのも唐音で、漢音ではバです。
したがって、「ある文字」をツシマと発音するようになるのは唐音が入ってきてからであって、遣唐使以降だと思います。

魏志倭人伝の對馬はタイバ、隋書の都斯麻はトシバであり、双方に類似の発音の地名であったと考えています。
AD200頃のタイバ類似からAD600頃ではトシバ類似に変化しているかもしれません。

ちなみに隋書には、一支国、竹斯国、秦王国、が登場しますが、竹斯とは筑紫で間違いないと思います。
竹斯はチクシでしょう、竹は漢音呉音ともにチク、唐音ではシツですから隋書は漢音読みでよいと思います。
書紀仲哀紀では筑紫が登場、この頃にイトからツクシに地名が変化したのかもしれません。


>五十迹手は、なぜか「いとて」と読まれているようです。しかし私は「いそとて」と読むのが正しいと思います

五十をイとだけ読むのに五十鈴がありますが、これはイソスズの言いにくさからの変形で例外でしょう。
迹(漢音セキ、呉音シャク)は万葉で「ト」とする読みがたくさんでてきますが、万葉の読みにはなんでそうなるの?がいっぱい(^^;
踏ふむ、の意と同義の使い方もあるので、漢字の意味を知った上で「ト」として使う人もいたのだと考えています。

五十迹に「たくさんの踏み跡」の意を含ませたいという書紀の用法ではないか、ここでの迹をトと読むのは危険と見ます。
で、書紀は読み方をわざわざと伊蘇志イソシと仲哀356-360に言わせているわけです。
五十迹手イソ・シ・(の)テという人物、と私は読みたいところです。


[10230] Re[10228]: 小さな異論とご質問  神奈備 2010/04/26(Mon) 09:45 [Reply]
持衰

 書き方が、多分誤解をまねくだろうと思っていましたが、案の定でした。失礼しました。
 船に乗っていないのは『倭人伝』の持衰のことです。

 
五十猛
 
 良い着眼点です。イソタケ、イソタケル、イタケルの三通りの訓があるようです。前に大三元さんが指摘されたことがありますが、訓の経済と言うこと。「五十」と二文字も使って「イ」としか読まないのは不経済なこと、「イソ」ならそれはなかろうということ。
 猛を「タケ」、「タケル」と二通りあるのですが、元来は「タケ」だったようですが、後世に「タケル」となったようです。島根県大田市に五十猛町がありますが、その昔は磯竹と書いていたようです。日本武尊も「ヤマトタケ」尊。

[10229] ていせい一つ  伊作 2010/04/25(Sun) 12:50 [Reply]
『隋書』の都瓦麻

↓↓↓↓↓

『隋書』の都斯麻

[10228] 小さな異論とご質問  伊作 2010/04/25(Sun) 12:47 [Reply]
はじめまして、伊作と称しております。
ひょんなことから検索にかかったので覗いてみました。ごく最近のスレッドをみただけですが、神奈備さんの見解に小さな異論があったので発言させていただきます。

>北前船には持斎と言う名で乗っていたそうです。千年以上の守り神。尤も、航海中には婦人を近づけづと言うことは、船には乗っておらず、航海が終わるまで陸地で籠もっていたのかも知れません。

ご存知かと思いますが、青森県深浦の円覚寺に奉納された北前船の絵馬(額のようなもの)に持斎が描かれているのがあります。海が荒れる中で、舳先に立てた柱に縛りつけられている壮絶な絵です。持斎は船に載せて航海したようです。

中国の古文献にある説明は、持衰が陸にいるときの扱われ方を説明したもので、女性を近づけず肉を食わせず、髪身体を汚れたままにし、葬人(流浪の亡命者)のようにするというのが、一種の斎戒行為だったのではないかと私は解釈しています。


●ついでに質問させてください。
『日本書紀』仲哀天皇紀に登場する五十迹手は、なぜか「いとて」と読まれているようです。しかし私は「いそとて」と読むのが正しいと思います。『日本書紀』編纂者も「いそとて」と読ませる(はずだった)からこそ、仲哀天皇紀に彼のことを「いそし」と呼ばせているのであって、これが「いとて」なら「いとし」としたはずですからね。

(どうもこの一件には、「伊覩の県主」と伊都国とを直結する意図が働いているように穿ちます。古代の中国人が都と書いた場合は『隋書』の都瓦麻がよい例で、「つ」だったと思います。都を「と」と読むのは日本語読みでしょう。滅亡百済からの帰化漢人に手になるという『日本書紀』すらも、伊都ではなく伊覩という文字を使っています)。

同じく五十猛はどう読まれているのでしょうか。私は「いそたける」と読むべきと思いますが、神奈備さんの見解をおうかがいしたいと思います。よろしく

[10227] Re[10226][10225]: 国懸神に関する一試考  その六  神奈備 2010/04/25(Sun) 11:54 [Reply]
> 下図は日前神宮を真東15km沖合
 これは真西15km沖合のタッチミス

 面白い着想です。紀氏も西からやって来たようで、この景色を見たのかも知れません。

 写真掲示板の地図は、『和歌山市史』からとった日下雅義氏作成の奈良時代の紀ノ川下流地の地形図です。秋月とある所が日前国懸神宮の鎮座地です。東には紀氏の古墳が密集している大日山があります。
 
 しかし、紀ノ川の流れの上流に鎮座しており、そこから太陽が昇るのであれば、奥まった所からのイメージに合いそうですが、現在地は南門のような所。ましてや弥生時代には海の中だったようです。

 飛鳥の南側の檜隈は檜前や日之隈とも書くようで、東漢氏の居住地でしたが、この地との関連、また東漢氏と紀氏との関連などよく見えない所が残ります。

 和歌山県人ですが、日の国、日の川のイメージにはなじめない感じです。海に日が落ちていく所。また徳島市にも住みましたが、ここは海から日が昇りますので、日のイメージにあいます。伊勢と一緒。

[10226] Re[10225]: 国懸神に関する一試考  その六  かたばみ [Url] 2010/04/25(Sun) 00:33 [Reply]
ちょっとずれますが、こちらへつなぎます。
日前ヒノクマと国懸クニカカス、この名称はいつ頃から登場しているのでしょうか。

前をクマと読むのは人名の場合の用法にあるようですね。
本来は隈だったのではないかなあ。
日前大神を天照大神と見るようになるのは当然ながら記紀編纂以降のこと。

それより以前からの呼称であるならその地形上の位置に名の由来があるとみておきます。
下図は日前神宮を真東15km沖合から春分の朝に遠望した図です。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/hinokuma.jpg
どんぴしゃで太陽の昇る位置にあり、日前の文字はこの意味だとみます(日下の意味も同類とみておきます)。
左右の山にはさまれた奥から紀ノ川が流れてきます。

ヒノクマと読むのははるかに古く弥生に遡るのではないかなあ。
クマは隈の意であって、山や水辺が入り込んで奥まった場所の意。
弥生あたりにここに上陸した人々の呼称だったのではないか、太陽の昇る奥まった場所。
そこから流れ出るのが紀ノ川であり、本来は「日の川」であった可能性をみておきます。
(紀氏の関与によって紀ノ川になった、ということです)

国懸クニカカスのほうは人の意識による呼称である可能性をみますが、やはり弥生の人物群と関係があるだろうとは思っています。


[10225] 国懸神に関する一試考  その六  神奈備 2010/04/24(Sat) 07:57 [Reply]
その他の資料


1 『延喜式神名帳』延長五年(927)
 紀伊国名草郡 日前神社(名神大。月次相甞新甞。)、國懸神社(名神大。月次相甞新甞。)、伊太祁曾神社(名神大。月次相甞新甞。) 、大屋都比賣神社(名神大。月次新甞。) 、都麻都比賣神社(名神大。月次新甞。) など。


2−A 佐麻久嶺神社の由緒
 陸奥国磐城郡の式内社で祭神を五十猛神とする。
  元禄二年(1689)の当社由緒書には「当社神霊は紀州日前神社一躰分神にして三所国懸大明神是也」とある。
http://kamnavi.jp/it/higasi/samaku.htm


2−B 『式内社調査報告十四巻』
 阿倍徹氏は、神社明細帳に記載の通り、紀伊国名草郡の伊太祁曽神社の祭神を勧請したものとされる。国懸大明神と同体とするのは誤記としている。
 現在の神社祭神から見れば誤記と言えようが、社伝には国懸神とあったのは事実だろうし、重要視したい。


3−A伊大氏和氣命神社
 伊豆國賀茂郡の式内社で、御蔵島の稲根神社を後裔としている。
http://www.genbu.net/data/izu/inane_title.htm

3−B 『式内社調査報告十巻』 
 祭神は、伊大氏和氣命神には違いない。
 『神名帳考証』には祭神を「五十猛神」としている。
 『神社書上』(明治中頃)には、「祭神 国懸大神」とある。
 五十猛神と国懸神とが同じような神と見なされていたようだ。


4−A 播磨国印南郡 泊神社
 祭神は「天照大神、國懸大神、少彦名大神」である。
 社伝には秦川勝公が社殿を建て更に國縣大神を勧請すと伝ふとある。
http://kamnavi.jp/en/harima/tomari.htm


4−B 泊神社
 飛鳥時代に、聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の秦河勝が、紀伊の国から自身の氏神である国懸大神を勧請し、社殿を建立した。
 国懸神は秦氏・紀氏の両氏の氏神と言えるのかも。秦氏は天日矛の末裔とされ、国懸神の日矛にあう。また紀氏は五十猛の末裔とされる説が有力。
 泊神社の祭神について大三元さんが面白い見解を述べておられる。
 紀伊での「日前」がなく、その替わりであるかのように「少彦名大神」となっている。これはどうしてであろうか。それは「少彦名大神」は「ががいもの船に乗ってやってきた」からである。「ががいも」とは別名「かがみ」とも呼ばれる植物のことだ。紀伊の「日前」が日鏡を祭っていることから、「かがみ」つながりで「少彦名」が出てきたのであろう。


その六のまとめ

 神社に伝わる伝承の信憑性には疑問があるところ。特に創建年などを古い時代にするとか、自らを飾る伝承はあてにはできないだろう。
 佐麻久嶺神社の場合、勧請した元社を国懸大明神として、伊太祁曽神社としていないのは、五十猛神を祭る神社としては飾っていることにはならないと思う。
 伊大氏和氣命神社の場合には祭神についての説がわかれている。国懸大神か五十猛神とするのは同一視されていたことを思わせて興味深い。

[10224] Re[10223][10221]: 国懸神に関する一試考  その五  神奈備 2010/04/23(Fri) 08:35 [Reply]
> 船木氏で連想することがたくさんあります。船木氏は各地に本拠があります。
> 伊勢船木と紀伊の船木氏は関係がありましょうか。

 船木氏の本貫の地が伊勢と言うことですから、紀の国から播磨へ移った船木氏もその分派だったのでしょう。


> 翻って、淡路島に太陽が沈むのは舟木伊勢の森です。

舟木伊勢の森とは伊勢久留麻神社のことでしょうか。
それとも西側にある石上神社のことでしょうか。
http://kamnavi.jp/en/awaji/iwakami.htm

 大和の多神社の東西ラインに伊勢の守があるそうで、船木氏の測量技術の正確さが伝わってきますね。

[10223] Re[10221]: 国懸神に関する一試考  その五  とみた 2010/04/22(Thu) 10:46 [Reply]
神奈備さん 毎度ヒントを頂いています。

> 2−A 『日本紀伊国伊太祈曽大明神御縁起事』
>  イダキソの神を風神シナガトベとする。
>  また日神を天岩戸から引き出した故に「日出貴大明神」との称す。また「日輪」すなわち天照大神を懐いて伊勢国の五十鈴川のほとりに降臨、そこの奧の宮(風日祈宮)として鎮座、後に紀伊国の日前宮の神域に降臨、ついで垂仁の時代、伊太祈曽に幸し、ここに鎮座した。等々。
>
>  このイタケソの神が、皇孫ホノニニギの誕生にさいし、これを抱き奉り、この功によって居懐貴孫大明神とも申し、また「紀伊国日前宮居懐貴孫大明神」とも号すという。

船木氏で連想することがたくさんあります。船木氏は各地に本拠があります。

伊勢船木と紀伊の船木氏は関係がありましょうか。

船木は船を作るための木でしょう。伊勢船木直は古事記では神八井耳命を祖神とするオオ氏系の氏族で九州の火君、阿蘇君、ヤマトの都祁直、科野国造、常陸の仲(那珂)国造などと同系です。

オオ氏は神祇族という説と産鉄族という説が紛れています。

伊勢と筑紫の忌部(齋部)は天目一箇神で鉄のイメージです。齋からは神祇のイメージもbあります。忌部氏は中臣氏に神祇官として争います(古語拾遺)。

鉄族とシャーマンとの関係がありますから両立し得るかもしれません。

イセツ彦が絡みますね。
神武が伊勢を平定させるとイセツ彦を追放して科野(信濃)に流す。イセツ彦は出雲建。諏訪の建御名方を連想します。武蔵国造もその一族。こちらは東山道か?山の道とお出雲臣。

雄略は物部を使って伊勢の朝日郎を追放するのと同系の話。

関東の小田原辺りの師長国造は東海道?海の道には、天津彦根命で大海軍国であった。足柄(軽)山の杉を酒匂川の水運で運んで船を作る造船技術の民がいた。同族は常陸の仲(那珂)国造こちらは霞ヶ浦の北の入り江の高浜に舟塚山古墳を有する。恋瀬川の水運で木も調達できた。いずれも東海道の拠点です。

翻って、淡路島に太陽が沈むのは舟木伊勢の森です。

淡路島の石を運んで和泉の石津川から運び河内王朝の百舌古墳群を造った。


[10222] Re[10220]: 久しぶりだよ  神奈備 2010/04/21(Wed) 20:58 [Reply]
 たぶん
 筑摩書房 『春日明神』上田正昭編
 角川選書 『八幡神とはなにか』飯沼賢司著
 などに詳しいでしょう。

[10221] 国懸神に関する一試考  その五  神奈備 2010/04/21(Wed) 20:23 [Reply]
伊太祁曽神社関係資料

1−A 『伊太祁曽神社古縁起』
 五十猛、大屋都比売、都麻都比売の三神は日前大神の来臨に当たって、自らその社地を譲った。

1−B 亥の森へ遷座と言う
 紀の国の国譲りの話である。この話を裏付ける事象として、五十猛、大屋都比売、都麻都比売の三神を祀る式内社の後裔社が日前国懸神宮から殆ど等しい距離に鎮座していることである。

 春日大社の場合も榎本明神が社地を譲って一度は離れたが、やはり元の場所の片隅に鎮座している。

 出雲での国譲りの際には譲った神は天孫と出雲臣に大切に祀られているように、紀の国の場合も五十猛神は天孫と紀氏に大切に祀られたことだろう。


2−A 『日本紀伊国伊太祈曽大明神御縁起事』
 イダキソの神を風神シナガトベとする。
 また日神を天岩戸から引き出した故に「日出貴大明神」との称す。また「日輪」すなわち天照大神を懐いて伊勢国の五十鈴川のほとりに降臨、そこの奧の宮(風日祈宮)として鎮座、後に紀伊国の日前宮の神域に降臨、ついで垂仁の時代、伊太祈曽に幸し、ここに鎮座した。等々。

 このイタケソの神が、皇孫ホノニニギの誕生にさいし、これを抱き奉り、この功によって居懐貴孫大明神とも申し、また「紀伊国日前宮居懐貴孫大明神」とも号すという。

2−B 語呂合わせに見えるが・・
 大三元さんの、『「国懸」と「日前」の語義・2 』 によると、琉球語には、日本古語の中でも忘れられた要素が残っている可能性がある、という前提で、
 国懸 は 国輝かす が原義であった。
 日前 は 日鏡 が原義であった。
 とある。日神を引き出し、懐いて伊勢に降りる、まさに日鏡を持って、降臨することは国を輝かすと言える。国懸とは「日出貴大明神」、または「日抱尊」と言える。これが伊太祁曽から逆に語呂合わせ的に推論したものと捨て去るにはいかがなものか。

 西田長男はこれらの伝承の中に、「日輪を懐く聖なる母神」の原像が存在していると指摘されている。
http://www.dai3gen.net/kunikakasu2.htm


その五のまとめ


 神の遷座は、元地に神霊を留めることはよく知られている。同じように、国譲りの場合にも、譲った人々の奉斎する神はその神霊を元の地にとどめる。従って日前大神に国を譲った伊太祁曽神は国懸大神として、秋月の地に留まった。

 前に述べたように船木氏が紀ノ川下流から高野山の東側に入植した証として、加太、太田の地名が残り、さらに伊太祁曽の神は太力男明神とされているのは、その一つの証だろうと思われる。

 日神を懐いた太力男明神は国を輝かす神として国懸大神と呼ばれた。日を抱く、伊太祁曽神となったのである。伊太祁曽まで来れば五十猛につながるのは、紀の国では時間がかからなかった。

 太力男であり五十猛であるとの記憶は江戸時代にまで続いていたのである。

[10220] 久しぶりだよ  高西 2010/04/21(Wed) 16:40 [Reply]
お久しぶりです、高西(たぶん)です。
だいぶ前(たぶん2002年ぐらい)に大祓詞について質問していたら、「ネイティブですか」と言われ「もっと日本語を勉強しなさい」と言われたものです。
かなり日本語を勉強したつもりです(ちなみに僕は日本生まれの日本育ち、少なくとも両親の家系を5代さかのぼっても外国人はいません)。

それはそうと「春日明神」と「八幡神」とはどのような神なのでしょうか。
もちろん「藤原氏の氏神」と「応神天皇」と言うことはしっています。
「稲荷大神」が請雨の神徳があるみたいなものです。
お願いします。



[10219] Re[10218][10214]: 国懸神に関する一試考  その弐  神奈備 2010/04/19(Mon) 19:47 [Reply]
> 神奈備さん いつも読むのを楽しみにしています。

とみたさん ありがとうございます。

> 舳先に置く持衰=シャーマンでしょうか。航海安全を願う。

 北前船には持斎と言う名で乗っていたそうです。千年以上の守り神。尤も、航海中には婦人を近づけづと言うことは、船には乗っておらず、航海が終わるまで陸地で籠もっていたのかも知れません。


> 岐阜の各務原には手力神社が多いそうです。名鉄電車で手力駅があります。 美濃太田もそんなに離れていない。木曽川の鵜沼の近くです。
> 太田は常陸にもあり常陸太田といわれます。これは久慈国です。久慈川が流れる地でここは物部系伊香色雄命とされています。

 太田と手力男、やはり何かがありそうですね。常陸にも多いようです。


> 私のイメージは秦氏が絡んでいるのではと思っています。

播磨国印南郡 泊神社
 祭神は「天照大神、國懸大神、少彦名大神」です。
 社伝には秦川勝公が社殿を建て更に國縣大神を勧請すと伝ふとあります。

 なお、国懸と少彦名の関連を解いた大三元さんのページがあります。
http://www.dai3gen.net/kunikakasu2.htm


> この若宮オン祭が安曇の祭りであることが謎です。

 室町時代の写本がある『八幡大菩薩御縁起』には、「磯良と申すは常陸国では鹿嶋大明神、大和では春日大明神」とあるそうです。若宮祭で磯良起源の細男舞が舞われるようです。


> 秦氏の山城太秦の地に壱岐の月読神を移し祖の領地は藤原不比等が占領しました

 これは月読神社の社家として卜部氏が中臣氏と同系と言うことを言われているのでしょうか。

[10218] Re[10214]: 国懸神に関する一試考  その弐  とみた 2010/04/19(Mon) 14:58 [Reply]
神奈備さん いつも読むのを楽しみにしています。
最近、中臣氏に少し拘っていて、地元の下総・上総・常陸と毛野国車持との関係を探っています。
> 1−B 珍塚古墳壁画
>  御船前の神は珍塚古墳壁画の舳先の鳥で現されている。
舳先に置く持衰=シャーマンでしょうか。航海安全を願う。
>  飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座している。伊太氏の神。揖保川の東側> 2−A 『播磨国風土記』
>  揖保郡大田の里 昔、呉の勝が韓国から渡って来て、はじめ紀伊の国の名草の郡の大田の邑に着いた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の邑に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の邑に移住して来た。
>
> 2−B 摂津大田付近の古墳の石は紀の国の石
> 摂津の大田は中臣氏の拠点である。ここから揖保に移ったのは中臣氏であったのかも知れない。先に述べたように飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座しているのはこの故なのかも知れない。日前国懸神宮を祀るのは紀氏と中臣氏に限定されていた。
>
>
> 3−A 『播磨国風土記逸文』
>  神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った。
>  『住吉大社神代記』には、紀伊國伊都郡の丹生川上に天手力男意氣績ゞ流住吉大神が鎮座していることを記している。天手力男の名から付近に船木氏の存在がうかが
われる。

岐阜の各務原には手力神社が多いそうです。名鉄電車で手力駅があります。 美濃太田もそんなに離れていない。木曽川の鵜沼の近くです。
>  住吉大社の宮司である真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動」と推定されている。

 
> 4−A 『筑前国風土記逸文』
> 穴門の引島に迎えて献った。天皇の問いに、「高麗の国のに天から降ってきた日桙の末裔です。」と答えた。天皇は恪し(伊蘇志)なことと云われ、国の名とした。
武蔵と小次郎の巌流島の近くでしたか。
岩絵もあり上代文字?古代語が書かれているとか。意呂山(蔚山)にも岩絵があります
> 4−B 天日矛と天道根
> 『新撰姓氏録』の大和国神別に「伊蘇志臣」があり、「滋野宿禰同祖、天道根命之後也。」となっている。紀氏の祖である天道根命は日桙の末裔とされているようだ。国懸神宮の神体である日桙とのかかわりもあるのかも。

紀氏や吉備氏は水軍と深いつながりがありそうです。
吉備の鴨別命と笠臣は吉備の水軍と関係がありそうで神功皇后の熊襲征伐に派遣された話になんとなく拘っています。
吉備の造山古墳の陪陵にある千足古墳の主は肥後のヒメで副は吉備の水軍の男。

> 5−A 『住吉大社神代記』

> 5−B 佐那神社
>  伊勢船木氏の祖神は手力男神とされている。伊勢国多気郡の式内社に佐那神社があり、祭神は手力男神。佐那の地名は銅鐸を思わせる。霊威も強い神だったのだろう。
>  船木氏は紀ノ川を遡って高野山の東の県境に到ったのであろう。その痕跡は大田田命、神田田命の名をを示す名草郡大田郷、海部郡賀太郷である。名草郡大田郷には式内大社の日前国懸神宮が鎮座、賀太郷には式内社の加太神社(淡嶋神社)が鎮座。
> その弐のまとめ
>
>  五十猛神は植樹神であり、渡しの神でもあり、浮き宝の神である。木と舟にかかわる。また樹種を播くのは鳥でもある。
>  それはともかく、この神と船木氏とは近い関係にあったものと思われる。船木氏は紀ノ川下流に上陸、それから上流へ金属資源を求めて遡っていったのである。河口に大田、加太と地名として残っているのに加えて、名草郡に船木氏の祭る天手力男神を祭神とする力侍神社が鎮座している。
>  船木氏が紀の国から播磨へ移動しているのは、呉の勝との関連もあるのかも知れない。

私のイメージは秦氏が絡んでいるのではと思っています。
西播磨は秦氏に関係がある。
赤穂の塩は秦氏。赤穂の大避神社は秦川勝を祀る。鉄も西播磨は秦氏 vs 東播磨は東漢氏(忍海)とするのが平野邦雄先生。

吉備の塩は若狭に移植されます。
揖保川と千種川、上流の但馬の境に鉄の産地。サヨというのは最近洪水で有名になったところ。サヨは鉄と関連がある地名です。

加古川から東は住吉系の伝承が多いとか。北攝津の猪名川の上流には秦上郷、秦下郷があり木を伐り出し大阪湾に運んで船をつくる。これも秦氏が絡んでいそう。

塩と秦氏、鉱山開発と秦氏は有名です。秦氏は土木工事や屯倉開発もお得意のようです。揖保にも三宅氏と勝氏が入っています。勝はスグりで村主難でしょう、韓国人でしょうね。

新羅人かどうか?

太田は常陸にもあり常陸太田といわれます。これは久慈国です。久慈川が流れる地でここは物部系伊香色雄命とされています。

私は中臣氏には本家と傍家があり、前者は中臣勝海連は物部に味方し衰えた。後者は推古・舒明時代に復活して中臣弥気(ミケ)=御食子?が宮廷祭官として出世する。この御食子は大伴智仙娘の間で鎌足が生まれる。智仙娘の母か(不確か)が大伴齧子で鹿島の豪族の娘とする説がありますね。

大鏡の藤原氏物語には鎌足は常陸の生まれろされています。

私は、中臣氏は孝徳の時代に出てきたのではと思っています。鹿島神宮ができるのは今の利根川下流域の下総の下海上クニと常陸の那珂クニから分譲して神郡を作ってからです。中臣部兎子の申請によります。以降、中臣鹿島連が国司になります。

孝徳の時代に生駒の枚岡神社に中臣氏の祖の児屋根命を祭りここが元春日になります。春日社に移して藤原家の氏神を祭ります。

この若宮オン祭が安曇の祭りであることが謎です。
秦氏の山城太秦の地に壱岐の月読神を移し祖の領地は藤原不比等が占領しました.これが何を意味するかです。


[10217] 国懸神に関する一試考  その四  神奈備 2010/04/18(Sun) 09:54 [Reply]
紀氏、日前国懸神宮関係資料


1−A 『輶軒雑記』
 天孫ホノニニギが天降った時、天係(あめかかす)大神と国係大神の御霊を奉じ、日向で祭っていた。これは二つの宝鏡であった。天係大神とは天照大神の御魂であり、伊勢の磯宮にまつられ、国係大神は、その前霊(さきみたま)で、紀伊の名草の宮で祭られている。

 御舟山は二つの山からなり二艘の舟と見なされ、一艘は西向の出船の形、一艘は北向。日神である日前大神が舟に乗って西方より来臨し、舟が山に変じた。

1−B 太陽を運ぶと言う概念
 天孫は複数の鏡を祀っていたと思われていた。伊勢神宮、日前国懸神宮など複数の神社が天照大神を祭神としていることからも頷ける。

 御舟山は日前国懸神宮の神体山である。紀氏の古墳が多く造られている。山に二艘の舟があると思われていたのは日神は船に乗って来臨したとの伝承があったからだろう。太陽神を船に乗せて運ぶのは『住吉大社神代記』では、船木氏の役割としている。



2−A 『紀伊国造職補任考』に引く『紀国造系譜』
 神武東征時、紀伊国造の祖の天道根命は二種の神宝を託され、名草郡毛見郷に到り、琴浦の海中の岩上に安置し、奉斎した。

2−B 岩上祭祀は古い日神祭祀
 天道根命が紀国の国造であるとは『先代旧事本紀』の「国造本紀」にも記載されている。また物部の遠祖の饒速日尊の降臨の際、防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る神々の中にも出ている。

 

3−A 『日前国懸両神宮本紀大略』
 『紀国造系譜』より詳しく書かれている。天道根命は淡路国御原の山に葦毛の馬に乗り天降り、それから名草郡加太浦に到り、更に木本、更に毛見郷に到ったと言う。
 
3−B 加太は神田、最後は大田におさまる
 葦毛の馬に乗っていたと言うのは、紀氏と朝鮮半島との関わりの深さを表しているのだろう。
 加太浦・木本に到ったというのが興味深い。



その四のまとめ

  『住吉大社神代紀』には、「膽駒山に木舟と石舟を置いている。」とある。
 日前神は名草郡の西方すなわち海からやって来た神とされている。太陽は西から出ないが、鏡は西から持ち込まれているのだ。弥生時代には九州では鏡が墳墓に入れられているが、大和では鏡は出土していない。大和に卑弥呼がいれば、鏡を欲しがる状況にないと思われる。

[10216] Re[10215][10214]: 国懸神に関する一試考  その弐  神奈備 2010/04/16(Fri) 20:42 [Reply]
> 五十猛 と 五十跡手 は同体か、を考えるにあたり
> いさをし と いそし という類似音も論拠に加えられそうですね。

大三元さん、ありがとうございます。言われてみれば、まさにそうですね。


国懸神に関する一試考  その参

平安時代以降の記述と思われる神話・伝承

1−A 『先代旧事本紀』
 神代本紀 天金山の銅を鋳造して日矛を造ったがこの鏡は少々不出来だったので紀伊国に坐す日前神とした。別に鏡を造り伊勢の神とした。
 国造本紀 神武朝に神皇産霊命の五世孫の天道根命に、木ノ国造を賜う。
 
1−B 天道根命の正体は
 ここでは「日矛」が日前神と見なしている。日矛とは矛なのか日矛に鏡をぶら下げたものか、意見は分かれている。
 国造本紀は記紀にない記述であり、『先代旧事本紀』の中では評価されている。


2−A 『令集解』養老七年 806
 太政官符により、名草郡が日前國懸神宮の神都になる。

2−B 伊太祁曽神社の立場がない。
 伊勢神宮の場合は多気郡度会郡、杵築大社は出雲国意宇郡、などが同じように神都とされている。


3−A 『新抄格勅符抄』大同元年 806
 日前宮 五十六戸、国懸宮 六十戸 神封を寄せられた。伊太祁曽神は五十四戸。

3−B 伊勢は一千百三十戸
 この時点では、国懸宮が日前宮よりも手厚く遇されていたようだ。 伊勢神宮の場合は多気郡度会郡、杵築大社は出雲国意宇郡、などが同じように神都とされている。


4−A 『釈日本紀』に引く『大同元年大神宮本紀』大同元年 806年
 崇神朝の頃、天照大神の住むべき良き国をもとめて、豊次比売命がおお神を奉じ、廻国し、木の国奈久佐(名草)浜宮に三年留まった。

4−B 浜宮は天照大神、天懸大神、国懸大神を祭る
 崇神紀に御殿から出した天照大神を豊鋤入姫命に託して、大和の笠縫邑に祀ったとある。このお話が発展したもの。


5−A 『釈日本紀』に引く『大倭本紀』
 崇神天皇が代々奉斎して来た宝物に斎鏡三面と子鈴一合があった。一鏡は天照大神の御霊で天懸大神、一鏡は天照大神の前御霊で国懸大神とし、紀伊国名草宮で拝祭する大神である。

5−B 神を祭ることを神の前を祭ると言うが・・
 天照大神の前御霊とは何か、が色々考えられている。天照大神より先に降臨している日神とされる天照御魂神であるとか、神武天皇より先に大和に入った饒速日尊であるとか、「前」を時間ととらえる考え方が多いようだ。日前の前にとらわれている。飛鳥には東漢(やまとのあや)氏の住処を檜隈と言っていた。紀氏と東漢氏との関連等を調べて見る必要がある。


6−A 『続日本紀』
 大宝二年(702) 伊太祁曽、大屋津比売、都麻津比売の三神の社を分ち遷す。

6−B 他に類を見ない処置
 何故、三神分遷が行われたのか。大宝元年に文武天皇が紀伊の牟婁湯(白浜)に行幸しているのと関連があるのか。
 

その参のまとめ
 奈良時代の始めには五十猛三兄妹の社が分遷さされている。これは珍しい事態である。神人の勢いが強すぎて紀氏の統制が及ばない状態が続いていたのであろう。同時に須佐神社が名草郡から有田郡へ遷されているようだ。
 中央では持統・文武朝で天皇家は言うに及ばず藤原氏の力が強くなり、紀朝臣も故郷の紀臣が祭る日前国懸神宮よりも五十猛三神の勢いが強いのは具合が悪かったようだ。示しがつかない。
 平安時代になると、日前神と国懸神との意味がわからなくなってきているようだ。


[10215] Re[10214]: 国懸神に関する一試考  その弐  大三元 [Url] 2010/04/16(Fri) 13:16 [Reply]
>  国懸神の御神体が日矛であり、新羅の王子に天日矛がいると云うことと、五十跡手が日桙の末裔と名乗ったことと素盞嗚尊・五十猛神が新羅に天降り、日本にやって来たとの所伝に、相互に混乱があったのではないかと考えられる。

五十猛 と 五十跡手 は同体か、を考えるにあたり
いさをし と いそし という類似音も論拠に加えられそうですね。
(ここらを含めた最近の妄想を
http://www.dai3gen.net/wforum_reki/wforum.cgi?no=1934&reno=no&oya=1934&mode=msgview&page=0
にあげました)

[10214] 国懸神に関する一試考  その弐  神奈備 2010/04/14(Wed) 09:08 [Reply]
1−A 『播磨国風土記』
 飾磨郡因達の里 息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太氏の神がこの所においでになる。だから里の名とした。
 
1−B 珍塚古墳壁画
 御船前の神は珍塚古墳壁画の舳先の鳥で現されている。
 飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座している。伊太氏の神。揖保川の東側である。
http://livedoor.blogimg.jp/warabite/imgs/f/c/fc39dbcc.JPG

2−A 『播磨国風土記』
 揖保郡大田の里 昔、呉の勝が韓国から渡って来て、はじめ紀伊の国の名草の郡の大田の邑に着いた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の邑に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の邑に移住して来た。

2−B 摂津大田付近の古墳の石は紀の国の石
 名草の大田の東側に日前国懸神宮が鎮座している。摂津の大田は中臣氏の拠点である。ここから揖保に移ったのは中臣氏であったのかも知れない。先に述べたように飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座しているのはこの故なのかも知れない。日前国懸神宮を祀るのは紀氏と中臣氏に限定されていた。


3−A 『播磨国風土記逸文』
 神功皇后が新羅征伐に赴く時、集まった神々の中に爾保都比売命がおり、自分を良く祀ってくれるならば赤土を与えようと言った。その赤土を船体などに塗って新羅を攻略した。帰還後、神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った。

3−B 後裔社は相賀八幡神社
 高野山の東の奈良県境の近くに筒川がある。藤代の峯については県境付近と言うが具体的には不明である。
 『住吉大社神代記』には、紀伊國伊都郡の丹生川上に天手力男意氣績ゞ流住吉大神が鎮座していることを記している。天手力男の名から付近に船木氏の存在がうかがわれる。
 住吉大社の宮司である真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動」と推定されている。
 

4−A 『筑前国風土記逸文』
 怡土の県主らの祖五十跡手は、仲哀天皇がおいでになったと聞いて、三種の神器を賢木にかけて穴門の引島に迎えて献った。天皇の問いに、「高麗の国の意呂山(蔚山)に天から降ってきた日桙の末裔です。」と答えた。天皇は恪し(伊蘇志)なことと云われ、国の名とした。

4−B 天日矛と天道根
『新撰姓氏録』の大和国神別に「伊蘇志臣」があり、「滋野宿禰同祖、天道根命之後也。」となっている。紀氏の祖である天道根命は日桙の末裔とされているようだ。国懸神宮の神体である日桙とのかかわりもあるのかも。
 大和国葛上郡 駒形大重神社
 摂津国武庫郡 伊和志津神社
 筑前国怡土郡 伊覩神社
 

5−A 『住吉大社神代記』
 船木等本記 昔、大八嶋國に日神を出し奉るのは船木連の祖の大田田命、神田田命であり、船を三艘を造った。この船を武内宿禰に祀らした。それが志摩神、静火神、伊達神である。

5−B 佐那神社
 伊勢船木氏の祖神は手力男神とされている。伊勢国多気郡の式内社に佐那神社があり、祭神は手力男神。佐那の地名は銅鐸を思わせる。霊威も強い神だったのだろう。
 船木氏は紀ノ川を遡って高野山の東の県境に到ったのであろう。その痕跡は大田田命、神田田命の名をを示す名草郡大田郷、海部郡賀太郷である。名草郡大田郷には式内大社の日前国懸神宮が鎮座、賀太郷には式内社の加太神社(淡嶋神社)が鎮座。


その弐のまとめ

 五十猛神は植樹神であり、渡しの神でもあり、浮き宝の神である。木と舟にかかわる。また樹種を播くのは鳥でもある。
 それはともかく、この神と船木氏とは近い関係にあったものと思われる。船木氏は紀ノ川下流に上陸、それから上流へ金属資源を求めて遡っていったのである。河口に大田、加太と地名として残っているのに加えて、名草郡に船木氏の祭る天手力男神を祭神とする力侍神社が鎮座している。
 船木氏が紀の国から播磨へ移動しているのは、呉の勝との関連もあるのかも知れない。

 国懸神の御神体が日矛であり、新羅の王子に天日矛がいると云うことと、五十跡手が日桙の末裔と名乗ったことと素盞嗚尊・五十猛神が新羅に天降り、日本にやって来たとの所伝に、相互に混乱があったのではないかと考えられる。

[10213] 国懸神に関する一試考  その壱  神奈備 2010/04/12(Mon) 18:02 [Reply]
1−A 『古事記』上巻
 八十神に追われた大穴牟遅神は木の国の大屋毘古神の御所に違えて行き、大屋毘古神は大穴牟遅神を木の俣より根の国に逃がした。

1−B 古い神と異名同神?
 大屋毘古神は諾冉二神の国生みの後に生まれたとあり、古い神との認識があったようだ。紀氏が名草を支配する以前の人々が祀っていた神かも知れない。
 現在は、五十猛神と大屋彦神とは同じ神と見られている。五十猛神の妹神に大屋津姫神がいるのも傍証である。
 また、『旧事本紀地神本紀』には、「五十猛握神亦云大屋彦神」とある。


2−A 『日本書紀』巻一第七段一書第一
 天照大神は天の岩屋に入り、磐戸を閉じたので、天下が真っ暗になった。そこで思兼神の智恵で、大神の像を映すものを造って招き出すことになった。そこで石凝姥を工として、天香山の金を採って、日矛を造らせた。また鹿の皮を丸剥ぎにして鞴を造った。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。

2−B 日矛は男性原理
 この神話は文章が抜けているようである。
 まず、「日矛」はどうなったのか。文中から推測すると、「紀伊国においでになる」国懸神となろう。
 「これを用いて造らせた神は」何であるか。おそらくは鏡なのだろう。日前神である。
 紀の一書にこの記事を割り込ませたのは編纂にかかわった紀朝臣清人と思われる。


3 『日本書紀』巻一第八段一書第四
 五十猛神は天降の時に、多くの樹種を持って下った。けれども韓地には植えず、持ち帰って、筑紫から始めて大八洲の国の中へ播き増やして、全部青山とされた。このため五十猛命を有功の神と称した。紀伊國に坐す大神とはこの神である。


4 『日本書紀』巻一第八段一書第五
 素盞嗚尊の子の五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。


5−1 『日本書紀』天武朝 持統朝
 天武朝朱鳥元年(686) 紀伊国国懸神、飛鳥の四社、住吉大社に奉幣。天武の病気回復。

 持統朝六年(692)三月 持統天皇、伊勢行幸を強行。お通りになる神郡(度会・多気)等の国造に冠位を賜る。

 持統朝六年(692)五月 伊勢、大倭、住吉、紀伊の四ヵ所の神に幣帛をささげ、新宮のことを報告した。新益宮(藤原宮)のこと。

 持統朝六年(692)閏五月 新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足に奉った。

5−B 伊勢内宮外宮と日前国懸
 天武天皇の病の回復を祈って紀伊国国懸神に奉幣されている。具体的に記述された紀伊国の神の初出である。当時の紀伊国を代表する神は紀伊國に坐す大神であって、国懸神とは植樹の神の五十猛神のことと思われる。

 持統伊勢行幸を梅原猛氏は内宮の社殿の建築の為と見ている。しかし内宮は文武天皇の時に滝原から度会へ遷座したとの見方もある。

 藤原宮を取り巻く東、北、西、南に鎮座の神々と思われる。伊勢が新たに登場して来ている。伊勢とは内宮で天照大神のことだとすれば、紀伊の神は国懸神から日前神に変わって来ているのかも知れない。

 新羅に関しての神々も伊勢と紀伊を除けば特定の氏族の祖神ではないようだ。



その壱のまとめ

 天武期持統期の神々への奉幣は国家的祭祀で行われている。天皇家の祖神とされる伊勢の神はともかく、その他の神は一地方氏族の祖神であるはずがない。とは云え国懸神が伊勢に先んじて皇室の祖神の天照大神のこととは考えにくい。ましてや天武期には伊勢の名も出ていない。
 天武期に紀伊国国懸神と書き、持統期には紀伊の神となっているのは伊勢の天照大神と同様に紀伊に日前神として天照大神が祭られたと見ていい。
 したがって、国懸神は紀伊國に坐す大神と見るのが素直な見方だと思う。


[10212] 豊中歴史同好会  神奈備 2010/04/07(Wed) 21:36 [Reply]
2010 4 10 14-16
同志社大学教授 松藤和人
出雲における旧石器の発見
市教育センター
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2010.html

[10211] 海人と天皇  神奈備 2010/04/07(Wed) 11:42 [Reply]
 梅原猛さんの『海人と天皇』第四章に、『令義集』から、神祇官が祭るべき天神地祇に「天神は伊勢、山城の鴨、住吉、出雲の国造が齋く神等の類なり。地祇は大神、大倭、葛城の鴨、出雲の大汝神等の類これなり。」とあります。

 梅原氏は、
天神は伊勢神宮、山城の下鴨・上賀茂神社、摂津の住吉大社、出雲の熊野神社等に坐す神
地祇は大神神社、大和の大国魂神社、御歳神社、出雲の杵築大社等に坐す神
としています。

 天神の出雲の国造が齋く神とは熊野大社のことで、伊射那伎日真名子である加夫呂伎熊野大神、別名を櫛御気野命と言う神としています。天神との認識があったようです。ここの神を素盞嗚尊と見るのは、三貴子の一ですから天神と見ていいのでしょう。その神が国津神の大祖神となったとするのも、王権の神話のゆえなのでしょう。

 葛城の鴨を御歳神社としています。葛城の鴨の神社は高鴨(高鴨神社)、中鴨(御歳神社)、下鴨(鴨都波神社)の三社が代表的です。その中でも御歳神社は仁寿二年(852)に大和最高位の正二位の神階を得ていますので、これは妥当な比定かも知れません。

 ただ、延喜式神名帳では高鴨、下鴨が(並名神大。月次相甞新甞。)、中鴨は(名神大。月次新甞。)で、微妙な差がありそうです。

[10210] 日前国懸  神奈備 2010/04/05(Mon) 09:29 [Reply]
『住吉大社神代記』には、紀伊國伊都郡に丹生川上に天手力男意氣績ゞ流住吉大神が鎮座していることを記しています。

 一方、伊勢船木氏の祖神は手力男神とされています。伊勢国多気郡の式内社に佐那神社があり、祭神は手力男神。

 船木氏が祀る紀伊の神社は、『住吉大社神代記』の「船木等本記」には、昔、大八嶋國に日神を出し奉るのは船木連の祖の大田田命、神田田命であり、船を三艘を造った。この船を武内宿禰に祀らした。それが志摩神、静火神、伊達神である。 と記されています。これらの神々を紀伊三所神と言います。伊達神は五十猛神と見なされており、他の志摩神、静火神も五十猛神の妹神にあてられていますが、定かではありません。

 ただ、紀ノ川を遡った高野山の付近の丹生川上に天手力男意氣績ゞ流住吉大神と言う長い神名の神が祀られていて、天手力男の名から付近に船木氏の存在がうかがわれます。

 現在住吉大社の宮司である真弓常忠氏の『古代の鉄と神々』の中で「船木氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ移動した」と書かれています。

 手力男神は天照大神を天岩屋から引き出した神で、日神を懐く神として知られています。

 また、『住吉大社神代記』この国に日神を出したのは、大田田命、神田田命と記されており、紀ノ川付近にこの神々の足跡と思われる地名が残っています。
 即ち、名草郡大田郷、海部郡賀太郷です。
 名草郡大田郷には式内大社の日前国懸神宮が鎮座、賀太郷には式内社の加太神社(淡嶋神社)。

 船木氏と言えば、船と木、植樹の神・浮き宝の神とされる五十猛神とは無関係であったとは思われません。現に、伊太祁曽の神を日抱尊とし、伊太祁曽神社の祭神を手力男神とする考え方が残っていました。伊太祁曽の神が抱いた日神とは日前国懸神宮の日の神だったのでしょう。日前神なのか国懸神なのか、どちらの神だったのでしょうか。

 大三元さんは、
 琉球語には、日本古語の中でも忘れられた要素が残っている可能性がある、という前提で 国懸 は 国輝かす が原義であった。
 日前 は 日鏡 が原義であった。
と、「国懸」と「日前」の語義・2
http://www.dai3gen.net/kunikakasu2.htm
とあります。傾聴すべき見解です。日の神とは依り代は鏡、これを抱くのは国を輝かすこと、そうしますと、日前とは日の神、国懸とは伊太祁曽の神のこと、と言えます。
  


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