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[11741] Re: [11738] (アマミキヨ=(イザナギ+イザナミ)?神奈備 投稿日:2014年12月24日(日)11時40分
> No.381[元記事へ]
琉球松さんへのお返事です。
 やくざの縄張りを シマ といいますね。
 アマミンチュウ 大三元さんが、天御中主神に通じるのではとの指摘があったように記憶しています。


[11740] シマ琉球松 投稿日:2014年12月24日(日)11時40分
> 通りすがりさんへ
 少なくとも琉球文化圏で言う「シマ」はテリトリーの意味で、アイランド以前の意味があるのは確実でしょう。
  現在でも時々「あなたのシマは?」と聞いたりしますが、これは「あなたの出身集落は?」ですね。

    この琉球圏の「シマ=クニ」の感覚を、本土側の古文献に応用して解釈し直すと、新たな発見があるかもしれません。
  例えば、「淡路シマ・あじまさのシマ」などは、結果的にアイランドだとしても原義は一定の文化圏を表現しているでしょうか。
  又、国産みに登場する「隠伎之三子島」は、"3番目" ではなく3つのシマを一括しているでしょうし、「胴体が1つで顔が4つある」筑紫島は4つのシマ(国?)で構成されていると解釈したいわけです。


[11739] Re: [11738] (アマミキヨ=(イザナギ+イザナミ)?通りすがり 投稿日:2014年12月23日(日)
 琉球松さんへのお返事です。

> 神奈備さんへ
>
>  琉球圏の創世神話がいつ頃から伝承されているかは問わないとしても、イザナギ&イザナミの共同作業を、アマミキヨだけでやり遂げていることを見ると、本土側創世神話ももともとは1神(集団)による社会運動だったのではと考えています。沖縄諸島産ゴホウラ貝輪の出土東限が、淡路島と兵庫県夢野遺跡であることとも関係あるかもしれません。
>
>  以下『日本の神々/松前健(中公新書)1974 』より
> *** 沖縄の話では、昔、天地の間が狭く、人々は蛙のごとく這って歩いたが、巨人アマンチュウ(アマミキヨ)が不便と考え、堅い岩の上に踏張り、両手をもって天を押し上げた。それから天は高くなり、人は立って歩けるようになった。岩の上には彼の大きな足跡が残された。また彼は日と月とを天秤棒にかついで、あちこちと歩きまわり、その時棒が折れて日月は遠くに落ちた(略)
>  柳田国男氏などが、これをイザナギ・イザナミ二尊の神話と結びつけ、また『常陸国風土記』や諸国の口碑に残る巨人伝説に結びつけて、両者の橋渡しだと考えたのは、おそらく正しかろう。このアマンチュウが日月の運び手であったことは、イザナギが天柱をもって、アマテラスとツクヨミとを、天上に押し上げたという伝承と共通の観想を持っている。
>  このアマンチュウと、かつては同系の創造神であったと思われ、日本のイザナギ・イザナミと似た国土創成を行った、沖縄の祖神アマミキヨも、その名義は「あなたの海の人」すなわち「遠い海から来た人」の意で、イザナギ・イザナミが海洋と関係ある名であるのと似ている。***

聞き齧りでは有りますが、旧琉球王国の奄美ほかでは『シマ』は集落、村等(領域)を表した言葉なのだとか。
そういえば、アンダーグランド社会のそれぞれの組織が(当然、非合法に勝手に)支配下に置く場所(店舗、土地、地域)等をシマと言うのも興味深い話。

神話中のシマも島嶼だけとは限らないのかも知れません?
国生み神話の筋書きからすると、最初に浮舟(船舶)に乗って出師して
どこかの『シマ』(征討遠征軍にソッコーで恭順、支配下に置いたシマ)を橋頭堡としたような筋書き。
聞き齧りでは、
海部族の習いとして、目標とする大きなシマを平定するにあたり、
いきなりはそこへは往かずにその周辺の小島を先ず平定領有し橋頭堡(足掛かり。基地)として目標のシマを注意深く丹念に索敵、偵察哨戒活動して、もし某かの勢力が盤踞していた場合には辞を低くしてまずは外交交渉(軍事力が背景のパワー外交?)をして相手が恭順すればヨシ。
もし、交渉が決裂して敵対した場合のみ軍事行動(遠征軍ですから強大な軍事力を有していたはず?)に訴えて殲滅し平定。
その後に安全が補償されたら目標のシマに移る
これを繰り返して、、、


[11738] (アマミキヨ=(イザナギ+イザナミ)?神奈備 投稿日:2014年12月24日(日)11時40分
 神奈備さんへ

 琉球圏の創世神話がいつ頃から伝承されているかは問わないとしても、イザナギ&イザナミの共同作業を、アマミキヨだけでやり遂げていることを見ると、本土側創世神話ももともとは1神(集団)による社会運動だったのではと考えています。沖縄諸島産ゴホウラ貝輪の出土東限が、淡路島と兵庫県夢野遺跡であることとも関係あるかもしれません。

 以下『日本の神々/松前健(中公新書)1974 』より
*** 沖縄の話では、昔、天地の間が狭く、人々は蛙のごとく這って歩いたが、巨人アマンチュウ(アマミキヨ)が不便と考え、堅い岩の上に踏張り、両手をもって天を押し上げた。それから天は高くなり、人は立って歩けるようになった。岩の上には彼の大きな足跡が残された。また彼は日と月とを天秤棒にかついで、あちこちと歩きまわり、その時棒が折れて日月は遠くに落ちた(略)
 柳田国男氏などが、これをイザナギ・イザナミ二尊の神話と結びつけ、また『常陸国風土記』や諸国の口碑に残る巨人伝説に結びつけて、両者の橋渡しだと考えたのは、おそらく正しかろう。このアマンチュウが日月の運び手であったことは、イザナギが天柱をもって、アマテラスとツクヨミとを、天上に押し上げたという伝承と共通の観想を持っている。
 このアマンチュウと、かつては同系の創造神であったと思われ、日本のイザナギ・イザナミと似た国土創成を行った、沖縄の祖神アマミキヨも、その名義は「あなたの海の人」すなわち「遠い海から来た人」の意で、イザナギ・イザナミが海洋と関係ある名であるのと似ている。***


[11737] Re: [11736] ナギ・ナミ神奈備 投稿日:2014年12月16日(火)
琉球松さんへのお返事です。

>  「沫那藝神(アハナギ)・沫那美神(アハナミ)」「頬那藝神(ツラナギ)・頬那美神(ツラナミ)」が存在?することを考えると、「イサ/ナギ」「イサ/ナミ」としたほうが妥当だと思いますね。
>  「ナギ」凪=安定、「ナミ」波=混乱。。。


 初めに、イサナギ、イサナミの二神があって、その語源が忘れられた頃に、それ以前の夫婦神として、アハナギやツラナギなどが構想されたのではないでしょうか。


[11736] ナギ・ナミ琉球松 投稿日:2014年12月14日(日)
 「沫那藝神(アハナギ)・沫那美神(アハナミ)」「頬那藝神(ツラナギ)・頬那美神(ツラナミ)」が存在?することを考えると、「イサ/ナギ」「イサ/ナミ」としたほうが妥当だと思いますね。
 「ナギ」凪=安定、「ナミ」波=混乱。。。

 この2神は当初1神で、後の時代に男女に分裂しているとは考えられないでしょうか。
 琉球圏の「アマミキヨ」も最初は1神で、王朝時代(たぶん)に男神「シネリキヨ」を創作してペアとなってます。


[11735] Re: (無題)神奈備 投稿日:2014年12月14日(日)11時40分
通りすがりさんへのお返事です。

> 本邦は古来、海洋動物である鯨(勇魚/イサナ)は魚の仲間である・・

国を生んだ神々は当然巨大な存在、まさにクジラのごとき。

イサナ+男=イサナギ
イサナ+女=イサナミ

では。



[11734] Re: [11733]『4・5世紀における政権交替を考える』 神奈備 投稿日: 2014年12月14日(日)11時35分
琉球松さんへのお返事です。

> 神奈備さん、岸本直文氏のご紹介ありがとうございます。
>
>  「2系統」の古墳の被葬者は、最終的にはどれも男王中心となるようですが、出現期の「主系列」の後円部には女性が葬られていたでしょうか。
>  琉球圏的には、神に近いには女性で、政治経済などの俗的な役割は男性の世界ですね。
>  天皇(君)は女性で、総理大臣は男性。。。倭人の社会は本来こんな感じだったんじゃないでしょうか?


 箸墓、西殿塚の古墳を通説に従い、卑弥呼・台与と墓に比定できます、

http://kamnavi.jp/log/uganigihaya.htm

を、ご覧下さい。


[11733]『4・5世紀における政権交替を考える』 琉球松 投稿日: 2014年 12月14日(日)10時46分
神奈備さん、岸本直文氏のご紹介ありがとうございます。

 「2系統」の古墳の被葬者は、最終的にはどれも男王中心となるようですが、出現期の「主系列」の後円部には女性が葬られていたでしょうか。
 琉球圏的には、神に近いには女性で、政治経済などの俗的な役割は男性の世界ですね。
 天皇(君)は女性で、総理大臣は男性。。。倭人の社会は本来こんな感じだったんじゃないでしょうか?


[11731] Re: [11727]Re: [11724]Re: ホムツワケ 神奈備 投稿日: 2014年12月14日(日)08時25分
>  ところで、ご紹介の図なんですけど。。。
>  この2つの系統は「高天原系/葦原中国系」、あるいは「高御産巣日系/神産巣日系」と考えていいでしょうか。
>  そうすると、「イザナギ系/イザナミ系」=「アマテラス系/スサノヲ系」との解釈も可能ですし、最終的には神武によって統一される神話とも見合うように思いますね。

  天照大神と高御産巣日系のコンビとも言えそうですね。

  天皇陛下と総理大臣も。

http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/10/45-a459.html

https://kaken.nii.ac.jp/pdf/2012/seika/C-19_1/24402/22320161seika.pdf#search='%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E7%9B%B4%E6%96%87+%E4%BA%8C%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%B8%A6%E7%AB%8B'

岸本直文 二王朝並立 などで検索してみました。



[11730]桜塚古墳群 神奈備 投稿日: 2014年 12月13日(土)17時30分
大阪府教育委員会の西川寿勝氏によると、「豊中市の桜塚古墳群の谷の自然河川はすでに埋められていたのですが、ここの川の跡から丹塗矢が発見されたそうです。」古墳時代のもの。」
桜塚古墳群
https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/kinenbutsu/shiseki/shiseki001.html


[11729]本地垂迹 通りすがり 投稿日: 2014年 12月12日(金)08時46分
ひこねの神(阿遅?高日子根神)と申。 地にくだらせ給ては、わけいかづちのしん(別雷神)とあらはれ、 国土をまもり、風雨をしたがへ、五こく(五穀)をさかやして万民をたすけおはします。 御本地をたずぬれは、しやかむにせそん(釈迦牟尼世尊)のをうげ(応化)なり。 ぐせい(弘誓)のうみ(海)ふかう(深う)して、あまねくしゆじゅやう(衆生)をさいど(済度)し給へり。 ちはやふる(千早振る)神代のむかし日向の国にあまくだらせ(天下らせ)給て、とし(年)久しうぞすみ(住み)給ひける。 それよりやまと(大和)の国かづらきのみね(葛城の峰)にとびうつりおはします。 もとよりこの山には。かものたけずみのみこと(賀茂建角身命)と申御神すみ給ひしが、この山をゆずりて、たけずみのかみはやましろ(山城)の国にいたりて、をたぎのこほり(愛宕郡)、をかだむらにすみ給ひける。


(無題) >通りすがり 投稿日: 2014年12月10日(水)22時07分
本邦は古来、海洋動物である鯨(勇魚/イサナ)は魚の仲間であると考え。
捕獲して食用はもとより、革から骨に至る迄全身余すことなく利用して来ました。
他方、陸地の獣(四足の動物)は触穢のタブーにあたるとして基本的には狩猟〜食用他には用いては来ませんでした。
捕鯨は我が国の宗教(神道等)観に基づいたものであり我が国固有の文化遺産と言っても差し支えありません。

西欧諸国が捕鯨をした理由は単に鯨の油(鯨油)を欲しての事。

今に鑑めば、石油の利権を逐ってちまなこになっている構図と全く同じ。

手前味噌な乱獲の罪を隠蔽するため、資源保護の美名にすり替えたのが現今の状況。
日本(ひょっとしたらキリスト教、ユダヤキ教の本流。源流を継承した国(神が約束した地))への捕鯨禁止圧力は(欧米流)キリスト教国のエゴ爆発の無意識、意識問わずある種の宗教弾圧、ホロコーストとも言えます?



[11728] Re: 熊野速玉大社の配祀神 言蛇 投稿日: 2014年 12月 1日(月)20時52分
豊原 力さんへのお返事です。
紀伊半島の沖は鯨が流れ着くことが多いことで有名ですがよくお越しくださいました。

> 第九殿(正しくは第六殿)十萬宮「豊斟渟尊」が抜けてます。
> 資料「紀伊續風土記」には載ってます。

神奈備さま神奈備さま、これは目出度いことですよ!
「紀伊續風土記」を紐解いた人が流れ着いています!

住吉大社の打ち出の小槌、用意してください。

「浦廻漕ぐ 熊野舟つき めづらしく 懸けて思はぬ 月も日もなし(万葉集3172)」


[11727]Re: [11724]Re: ホムツワケ琉球松 投稿日: 2014年 11月29日(土)10時16分
神奈備さんへ

 「アジスキタカヒコネ」は出雲穏健派って感じがしますね。
 大和勢力との合同に協力したでしょうか。

 ところで、ご紹介の図なんですけど。。。
 この2つの系統は「高天原系/葦原中国系」、あるいは「高御産巣日系/神産巣日系」と考えていいでしょうか。
 そうすると、「イザナギ系/イザナミ系」=「アマテラス系/スサノヲ系」との解釈も可能ですし、最終的には神武によって統一される神話とも見合うように思いますね。


>[11726] Re: [11724]Re: ホムツワケ神奈備 投稿日: 2014年11月28日(金)08時44分
琉球松さんへのお返事です。

> 神奈備さんへ
>
>  「ホムツワケ」って、スサノヲの再来というか、その一面を持ってますね。
>  この方?が天皇だとすると「景行」か、そうでなければ擬人化された神でしょうか。
>  常世の国に派遣された「タジマモリ」の軍?を象徴しているようにも思えます。

 ホムツワケはアジスキタカヒコネの感じもありますね。始祖っぽい。
 一方、ホムタワケとも時代をあわせることができそうです。



>>[11717] 滝原並宮 神奈備 投稿日: 2014年9月17日(水)17時55分
滝原宮に参詣してきました。
神域の面積は外宮の半分という広さで、その杜の深さと森厳さは、ただごとではないように感じました。
それはともかく、滝原宮の向かって左隣に滝原並宮が鎮座していました。
このような例は朝熊神社と朝熊御前神社が思い出されます。
『延喜式神名帳』には、滝原宮と朝熊神社はそれぞれ一座となっています。また、『延喜式』「大神宮別

宮条」には、滝原宮一座。大神遥宮。滝原並宮一座。大神遥宮。在二滝原宮地内一。と並宮が書かれてい

ます。『式内社調査報告』では、これが書かれた年と出来上がった年と施行された年との数十年の差がこ

のようなことの原因と想定している。

さて、同じような社殿が並んでいる神社は、紀州一之宮の日前国懸神宮が思い起こされます。現在は同じ天照大神を祭神としていますが、もともと同じ神を祭るのであれば、二つもいらないはず。

滝原並宮は一体何を祭っているのだろうか。宮で頂いた「参詣のしおり」では、内宮と荒際宮との関係に相当するとされている。興味深い見方だと思います。しかしそれならなぜ滝原並宮と「並」と命名したのだろう。滝原荒祭宮でいいではないか。「並」に意味があると思う。

松前健氏は『日本の神々6』で、内宮と外宮の並立の原型とイメージされているのも面白い。


それならば、『紀本文』に、月神を日神に並べて高天原を治めよとあり、月神を祭る宮に並宮と名付けたのなら、実に素直である。神道らしい。



>>[11716] Re: 熊野速玉大社の配祀神 神奈備 投稿日: 2014年11月27日(木)16時09分
豊原 力さんへのお返事です。

> 第九殿(正しくは第六殿)十萬宮「豊斟渟尊」が抜けてます。
> 資料「紀伊續風土記」には載ってます。

ご指摘ありがとうございます


[11715] Re: [11712] Re: 豊中歴史同好会 かたばみ 投稿日:2014年 8月 6日(水)17時25分
神奈備さんへのお返事です。

>韓半島南西部の「長鼓形古墳」(日本では前方後円墳という)

継体大王・・飛鳥奈良から壬申の乱に至るキーだと思ってますが、考察中。
その前、応神〜倭王五代をどう考えるか(半島の前方後円墳と半島系倭人≒倭漢の登場)。
書紀の記述と系譜をどうみるか・・

やっかいしごくと思っています。この時代になると「人の思惑」が前面に出てくると考えるからです。
倭王五代の継承者争い=筑紫の磐井VS(越の)男大迹王の内戦。
百済の復興(武寧王の登場)と倭漢がからんでの任那(旧の伽耶地域)の新羅との争奪戦・・
環境や食糧問題ではないところでいろいろが起きる時代。
人の思惑となると90度の方向変化もありえるし。

雄略456-489−(仁賢488-498)−武烈498-507−(筑紫の磐井)−継体507-530−(安閑、宣化)−欽明539-571−敏達572-584−用明585-586−(聖徳太子)・・書紀の系譜、どこまで信じてよいのかなあ(^^;
隋書では多利思比狐大王登場。
新唐書では用明大王の別名として目多利思比狐と書かれる、新唐書に書かれる情報はいつのだれが運んだのか・・

隋書や新唐書に書かれて、書紀と異なる部分は隋書や新唐書の誤記であると決めつけての論がほとんどのようです。
(書紀もAD800〜AD900ころまでに何度も書き直されていると推定、現在に伝わるのはそれ以後での写本)
(続日本紀ですら危ない(^^; )

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
隋書(656)、旧唐書(945)、新唐書(1060)など、誰でも原文対比の和訳で読めるようになった、進歩ですね。
(ただし、原文での文字に手持ち資料とは異なる部分あり、原文資料がなにかのチェックを要す)



>>[11709] 水屋神社 久保憲一宮司を偲んで 神奈備 投稿日: 2014年 8月22日(金)21時06分
肝臓癌でお亡くなりになりました。聞くところによりますと、一切の治療を拒否されて、自然治癒をお家でめざしておられたとのこと。

 生前は、大学の不当解雇と戦われたり、ふらんすに神社を建立されたり、異色の問題意識の旺盛な宮司さんでした。氏の案内で、中央構造線が地表にでている場所に連れて行っていただいたことなど、思い出されます。
 娘さんが神職の資格をとられたときは、ただのお父さんでした。

神社ネットに投稿された文章が紹介されていますので、一部を。

歴史と伝統の大局を見つめ、現状を直視し、国事や天下国家を真剣に憂うる(真木和泉守のような)境内を飛び出すスケールの神職もいてもいいのではないか。



[11708]  弥生時代試論とみた 投稿日:2014年 7月23日(水)17時01分
中国大陸や朝鮮半島から金属器が伝わる。中期初頭に中国遼寧省(や河南省)から二条突帯鉄斧(表面は可鍛してある)が入り各地にリサイクル品が動く。
木の柄に磨製石器を付けていた代わりに、鉄片を用いたのが弥生中期の世界。砥石で何回も磨いて使う。地元で取れる褐鉄(水酸化鉄)も使われたかどうかが未だ謎である。
後期になって鉄を朝鮮半島から輸入し利用し始めた。
鉄は木器、玉、(朱)の生産に利用した。鉄は精錬はできず鍛冶で鉄斧を熱して叩いて整形する段階である。
一部は木の鍬を作って土木や耕作に利用した。
後期になると日本海沿岸の丹後は鉄の道具を利用して碧玉、水晶を利用し玉を作る。ガラスは海外から輸入した。これらの原料から玉を作り交易をした。朝鮮から鉄素材を交換財として仕入れた。
このやり方は北九州の奴国の春日須玖や伊都国の潤地頭給にも伝わった。後期は日本海沿岸と北九州は盛んであった。後期になると丹後勢力が急に伸してきた。
後期後半になると丹後の大風呂南と赤坂今井は厚葬墓を作り副葬品は豪華であった。
鉄の交易で潤ったと思われる。ところが後期末葉になると、丹後や北陸は衰える。
瀬戸内海で、ヤマトと博多湾が結ばれるからである。瀬戸内を結ぶ主役として
吉備と中河内との土器の交流がポイントであろう。こちらは瀬戸内海北岸である。
瀬戸内海南岸の讃岐と阿波勢力との関係が微妙である。

播磨灘や児島湾の両沿岸の交流を積極的に認めるかどうかにかかる。
(5世紀になると北岸は吉備の海人が活躍し、南岸は紀氏の海人が活躍するとする岸俊男先生の論にもつながる。)

弥生終末期古相1A期と終末期新相1B期との間が、交易の画期とされ日本海沿岸交易から瀬戸内海交易に変化するとされる久住先生の論が大いに参考になる。

次山淳先生の吉備甕の研究では吉備の足守川の津寺でできた、吉備甕が瀬戸内海を東へ向かって中河内へ、西に向かって博多の比恵に向かうとされ、瀬戸内は湾内流通から湾間の流通と広域化するとされる。弥生時代終末から古墳時代初頭への動きである。

ところが吉備甕は庄内式土器のルーツとする説と、庄内式土器が吉備甕のルーツとする説があり頭が混乱している。
よくわからないのが鉄鏃や銅鏃である。武器か祭具か。はじめは武器でありやがて祭具になったのであろうか。弥生時代には戦争が盛んであったのかどうかわからない(倭国の大乱以外に)。
北九州の奴国や伊都国が弥生中期後半から伸してくるのは、下條信行先生は、前漢との朝貢で威信財を持てた政治力と鉄刃の農耕具、袋状鍛造鉄斧など農耕の生産性向上の経済力に求めておられるが、実証できるのであろうか。
木下尚子先生によれば、弥生中期以前は貝の交易も北部九州をスキップしていたとされている。

もひとつ面白いのは、大和の東南部の纏向や桜井茶臼山の属する桜井市の城東遺跡は古墳製造の土木飯場と見做されているが、東海式土器が出ていることは有名だある。この地では

伊勢湾雲出川の砂を使うS字甕が出る。炊飯用であろうか。東海系曲柄鍬も出ているがこれは土木具である。
纏向の北東の三宅町の伴堂遺跡では三河という地名が残り、三河地方の土器が出ている。三河勢の移動の証拠であろう。



> [11707] Re: [11706]Re: [11704]Re: 水銀朱の研究 とみた 投稿日:2014年 7月19日(土)12時19分
琉球松さんへのお返事です。

>  縄文晩期の「亀ヶ岡式土器」も漆塗りの赤色ですね。
亀ヶ岡は東北ですね。縄文時代の精神性は寧ろ東北から来ていますね。弥生時代になって北九州が大陸や朝鮮半島の文化を吸収して、西日本に広がるということでしょう。
水銀朱は縄文時代から土器に塗られたりしていますね。
水銀朱は、列島各地で広がるのは弥生中期末(紀元前一世紀末)〜弥生時代後期初頭(紀元一世紀前半)にかけてのようです。銅鐸にも朱を塗りつけます。

ところが韓国では、半島南部の茶戸里墳墓では、朱を用いず、木棺に雲母をいれるそうです。冥土での仙薬とのことです。顔を漆の扇で隠します。
朱は神仙思想によると思われますが、中国の影響でしょうか。
唐古鍵遺跡で禹余糧(褐鉄鉱とヒスイ)が出ますので、後漢時代の仙薬の影響を受けているようです。



>
>  同時代の中国長江流域では黒漆塗装のようですから、奄美沖縄の「赤/黒」は意外に繋がるかもしれません?
>  縄文晩期と言えば、ほとんど弥生始動期とも解釈可能ですし、長江の稲作が九州に入った(と考えられる)時期と神武兄弟の移動が微妙に重なるのが気になるところです。彼らは稲作に関わる神名を持ってますね。
>
>  この時代の中国における水銀朱の動向はどうなんでしょうか?
稲作との関係では、長江は温帯ジャポニカ米のルーツでしょう。
最近では、熱帯ジャポニカのルーツはインドネシアやフィリッピンの島嶼部発生とする説が世界の科学誌NATUREで認められています。そこから長江に伝わって温帯化した。

私は長江から北上して准河まできて、さらに山東半島にまで稲作は伝わり列島へ直接来るか、朝鮮半島経由で来ると考えています。九大の宮本一夫先生は遼東半島まで上がって列島に来るという説もあります。注目すべきは丹塗り磨研土器が朝鮮発で九州に来ていることです。まさしく丹=朱=赤く塗った土器です。
松菊里式土器の前後でしょうか。
たぶん稲作と関係があるかと思っています。




>[11706]Re: [11704]Re: 水銀朱の研究 琉球松 投稿日:2014年 7月17日(木)21時01分
 縄文晩期の「亀ヶ岡式土器」も漆塗りの赤色ですね。

 同時代の中国長江流域では黒漆塗装のようですから、奄美沖縄の「赤/黒」は意外に繋がるかもしれません?
 縄文晩期と言えば、ほとんど弥生始動期とも解釈可能ですし、長江の稲作が九州に入った(と考えられる)時期と神武兄弟の移動が微妙に重なるのが気になるところです。彼らは稲作に関わる神名を持ってますね。

 この時代の中国における水銀朱の動向はどうなんでしょうか?


[11705] Re: [11704]Re: 水銀朱の研究 とみた 投稿日:2014年 7月11日(金)10時00分
琉球松さんへのお返事です。

琉球松さん 面白い事実のご披露ありがとうございます。
2−4世紀)墳丘墓や古墳の棺の周りに入れる
8世紀)水銀は、大仏に金を塗るのにアマルガムとして使うのは有名ですが、蒸発させるときは公害で大変だったでしょうね。
20世紀)子供の頃、マーキュリー(赤チン)を怪我部位に塗りましたが最近は禁止になりました。
7世紀)唐の則天武后は、仙薬として朱を飲んだのでしょう。

>  場所、あるいは時代によって赤色の原料に違いがありますが、原義は「血」なんでしょうね?
>  中国殷時代の連帯の証は、牛の血に水銀を混ぜたものを唇に付ける儀式だったようです。

6世紀)韓半島の新羅では、7つの首長の誓いに殺牛儀礼がありました。血盟でしょうか。
>
>  琉球圏でも、「赤椀/黒椀・赤漆/黒漆・赤血/黒血」などが神歌に登場しますし、北部九州の赤い「須玖式土器」が弥生中期相当期に出土します(沖縄の巻貝が九州に持ち込まれる時代)。

須玖式土器は赤い色ですね。韓半島から丹色の短い頸の壺が九州に入ります。その影響でしょうか。
>
>  これは、現在の "杯をかわす" 原初的な所作でしょうし、箸墓古墳など未発掘の棺内も赤色なのでしょう。

柱を立てて祭りを行ったのでしょう。
>
> 写真は、祭事に使用される奄美沖縄の「世直し椀(右)・一般的に赤色を使用」と宮古八重山の「角皿(左)」・沖縄県立博物館展示

韓国では古代、水銀朱を使う風習があったのでしょうか。これが一番の謎です。




[11704]Re: 水銀朱の研究 琉球松 投稿日:2014年 7月10日(木)11時05分
とみたさんへ

 場所、あるいは時代によって赤色の原料に違いがありますが、原義は「血」なんでしょうね?
 中国殷時代の連帯の証は、牛の血に水銀を混ぜたものを唇に付ける儀式だったようです。

 琉球圏でも、「赤椀/黒椀・赤漆/黒漆・赤血/黒血」などが神歌に登場しますし、北部九州の赤い「須玖式土器」が弥生中期相当期に出土します(沖縄の巻貝が九州に持ち込まれる時代)。

 これは、現在の "杯をかわす" 原初的な所作でしょうし、箸墓古墳など未発掘の棺内も赤色なのでしょう。

写真は、祭事に使用される奄美沖縄の「世直し椀(右)・一般的に赤色を使用」と宮古八重山の「角皿(左)」・沖縄県立博物館展示


[11699]  銀朱の研究とみた 投稿日:2014年 7月 8日(火)19時43分
邪馬台国への迫り方は、従来の方法ではなんとなく限界に来ていると思う。ブレークスルーには斬新な方法が求められているのではなかろうか。その先駆的研究ははすでに始まっている。注目するのは鉄や銅だけでなく、ガラス玉や水銀朱です。予てから水銀朱のことが気になっていましたが、古代史探求に10余年を費やして目下、再挑戦したいと考えました。

参考にするのは、考古学ジャーナル1998年11月号。岡山真知子さんと北条芳隆さんの論文。
理化学的な同位体分析の今津節生さん、南武志さんの論考です。

概要だけお伝えましす。

水銀朱は墓に用いられています。

中国では殷の婦好(シャーマンで武丁の奥方)や前漢時代の長沙の高官の奥方の墓
である馬王堆で使われています。

中国ではベンガラは使われていない。日本では縄文時代から赤色顔料は使われている。
朝鮮半島では水銀朱は使われず、雲母が仙薬として使われている。
日本では四隅突出墳である出雲の西谷3号ー2号では中国陝西省の水銀朱が使われている。
北九州の前原や春日立石も中国産の水銀朱を使っている。丹後では野田川水系の大風呂南では中国産の水銀朱を使い、竹野川水系の赤坂今井で国産の丹生鉱山の水銀朱を使っている。

大和の古墳群では国産の水銀朱を使う。
中央構造線の三重県や奈良県や紀伊・紀の川ー大和・吉野川
や阿波・吉野川や阿南市若杉山あたりが産地と考えられる。

古墳時代になると国産の水銀朱が使用される。

卑弥呼の鬼道は鏡と水銀朱を使ったのではなかろうか。
魏志倭人伝によれば、魏から贈られたのは銅鏡100枚以外に真珠鉛丹各50斤とある。真珠は真朱で水銀朱のこと、鉛丹も赤色顔料である。倭人伝に倭人の風習として朱丹を体に塗り粉飾すると書かれている。

阿波では、弥生時代中期末には銅鐸に朱を塗っているけれど、終末期には銅鐸に朱をぬらないそうだ。
東阿波式土器は、摂津の三島郡の東奈良遺跡に多く出る。この遺跡は銅鐸で有名な遺跡である。

徳島の専門家である菅原康夫さんが阿波式土器には朱を入れて水運で運んだのではなかろうかと想像を逞しくされている。

東奈良遺跡の銅鐸に塗る水銀朱かもしれない。
三島郡は今の茨木市にある。ここの豪族(長者)である溝咋の娘を神武天皇は娶っている。

以上、かなりあやふやな話であるが、真偽を確かめる材料になると思い提供することにしました。




 [11698] 神奈備 投稿日:投稿日:2014年 7月 5日(土)20時17分
> ただ、そのモデルは『倭人伝』に見える卑弥呼や、あちこちの巫女でもあるのでしょう。

 卑弥呼の行ったことは『日本書紀』では、神功皇后の仕事となっています。
 『魏志倭人伝』によると、明帝の景初三年(239)に卑弥呼が難斗米を派遣とあります。 これが神功39年のこと。これから計算すると、神功元年は201年となります。崩御は69年、西暦269年。 卑弥呼は神功皇后にたとえられています。天照大神のモデルとは言いにくい所です。
 なお、『紀』では、神功64年 百済国の貴須王が薨じ、枕流王が王となったとあります。『百済本紀』では384年のこと。これから見ると、神功元年は321年となります。崩御は389年。応神元年は390年。神功皇后については、120年の時を経て活躍していることになります。


> それに加え、『山海経』を所見とし『史記』に登場する「西王母」も候補の一人としていいんじゃないでしょうか?

 機織りをする女神と言う観念は、西王母は勿論ですが、棚幡つ女 の伝承にも生きているようで、天照大神や稚日女尊も機織りをする女神とされており、おっしゃる通り、西王母のイメージが感じられます。

大阪府茨木市の紫金山古墳は3世紀頃の古墳です。出土した鏡に「西王母」像が刻まれており、そうとう古い時代からその信仰が入っていたようです。イザナミでもあるのかしら。
http://6229.teacup.com/kamnavi/bbs/post/index/comm_id/342/



[11698]アマテラスの起源 琉球松 投稿日: 2014年 7月 3日(木)11時22分
神奈備さんがおっしゃるように「天照大神」自体はそう古い神ではないでしょうね。

 ただ、そのモデルは『倭人伝』に見える卑弥呼や、あちこちの巫女でもあるのでしょう。
 それに加え、『山海経』を所見とし『史記』に登場する「西王母」も候補の一人としていいんじゃないでしょうか?

 『史記』は奈良時代以前にすでに持ち込まれていますから、蜀国(中国四川盆地)の女王とも見なされ、養蚕技術や黒鳥と太陽との関係を思わせる記述などを考えると、天照大神を創造する際の参考になった可能性はあると思います。

 また、西王母との関連が指摘されている三星堆遺跡出土の「神樹」が10個の太陽(旬を表すか)を表現しているとされるのは、琉球圏の太陽信仰を思わせますし、「饕餮紋」の起源が奄美沖縄の巻貝にあるとする説とも見合いますね。


[11697] Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 神奈備 投稿日:2014年 7月 2日(水)15時38分
天照大神(卑弥呼)

 これは、等号(=)の意味でしょうが、このようなことは考えられません。卑弥呼(ヒミホ)は鏡を好物としていましたが、鏡は太陽のシンボルではなく、辟邪の働きであったのでしょう。お墓の中に沢山の鏡が」いれられています。太陽なら、暑くてたまりません。

 天照大神の登場は、天武・持統期以降のことです。『記紀』には、諾冉神の御子として、いかにも古い時代に登場するように記されていますが、後生の作文です。

 『万葉集』に歌われたアマテラスは、巻一の一六七の柿本人麿が歌った、草壁皇子の挽歌に登場する、「天照らす みこと)」があります。天照大神はでてきません。

 日女の命は、齋宮と持統天皇をモデルに構想されて、記述された神だと考えています。

 まず、古代、日神が崇敬されていました。これは自然神で、雷神、水神などと同じで、だれの祖先神ではなかったのです。
 天皇家の祖先は、日本を治めるべく、天孫降臨してきたニニギの命の末裔である、というのが、支配者としての根拠です。天皇は代々、神を祭るのがその最大の任務でした。その祖先も、神を祭っていたはずであると言うことから、日神を祭る、オオヒルメが神となり、やがて天照大神と呼ばれるようになったと思っています。
 天武天皇は幼少の頃凡海氏に養育されました。尾張の海部氏です。伊勢湾一帯がこの海武氏の配下にあったのでしょう。かれらの祭る神は「天照御魂神(あまてるみむすびの神)であり、オオヒルメと天照御魂神とがあわさって、天照大神となったのでしょう。



[11697]>Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想< >かたばみ 投稿日: 2014年 6月29日(日)14時19分
時空少女さんへのお返事です。

>しかし、その「事実」が日本で起こったとは限りません

元の命題からはだいぶ離れますが、少し遡って風呂敷を広げます。
人類学メインでその他情報は少なく、民俗学や言語学の助けも必要。

参考図1 DNAの塩基欠損という特徴をもつ人々の分布(宝来 聰氏のデータより)。
だいぶ古くなったけどHPの「DNA分析による日本人形成」からです。

>

青の濃さはその特徴を持つ人々の割合。
ポリネシアで割合が高いのはその後の混血が少なかったためと考えられます。
データのない地域もあり、最新の詳細データがほしいところ。

その人々の起点については各論ありますが中国大陸のどこかとされます。
人々が移動するには生死にかかわる理由があるはずです。
BC4000〜3000頃に長江下流に登場した良渚文化はBC2000頃に洪水によって崩壊(遺跡が土砂に埋没)。
その人々は消えます、周囲に散ったのでしょう。参考図1の分布のごとくに。
参考図2 良渚文化の玉器 後の殷の青銅器の饕餮紋の源流とみえます。記号らしきはあるが文字はない。

これが中国神話に書かれる三苗だと考えています。黄河流域で仰韶文化と結合し、夏〜殷の生成員となる。
尭舜禹時代、周以降の黄河系文化からは悪役扱いされています。

南は雲南や東南アジアへ、タイの高度文化登場の源と考えています。
海系の人々はポリネシア(ラピタ文化形成と推定)からニュージーランドにまで達した。
東では九州へ(南西諸島経由と五島列島あたりへのダイレクトか)。

九州の海神族、その祖先は海系三苗と考えています。
彦穂々出見尊の妃とされる豊玉毘賣や鵜草葺不合尊の妃とされる玉依毘賣の祖先。
外洋航海(帆)に優れる人々、長江から九州到達には1年もかからずと思います(海系では農耕は陸稲と焼畑程度と思う)。

良渚文化の持つ文化と祭祀がまずは九州縄文に変化をもたらした(BC1500頃か)。
その「新しい縄文」の巫女が天照大神のイメージの源流になっていると考えています。
この頃に近畿あたりから西進した縄文集団が九州に到達かな(伊弉諾尊伊弉冉尊に関連する神話のベースと考えています)。
伝承を伝えたのは現地のシャーマン(巫女、語り部)でしょう。

この人々の到達範囲で類似文化が存在すると考えています。
雲南あたりの文化や嗜好、「日本の文化」との類似性がよくいわれますが、なぜかについては?
仮説のごとくであるなら、はるかかなたのニュージーランドのマオリ族にも類似性があって不思議なし。


雲南省の布朗族(プーラン)に「部分的に」天の岩戸隠れに似た神話があります。
ニュージーランドのマオリ族に「部分的に」伊弉諾尊の黄泉の国脱出に似た神話があります。
ただし、神話全体のコンセプトは記紀の書く話とはまったく違う。
はたして「似た部分」になんらかの理由があるのかないのか・・






[11696] Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 時空少女 投稿日:2014年 6月23日(月)18時55分
かたばみさんへのお返事です。

神話のモデルとなった話は事実です。
しかし、その「事実」が日本で起こったとは限りません。
「日本神話」という言葉に迷わされてはいけません。



[11695] Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日:2014年 6月23日(月)18時14分
>時空少女さんへのお返事です。

>神話は事実ではありませんので、「摩訶不思議」で「非現実的」な方が神話らしくていいです。
>しかし、神話のモデルとなった話は事実ですので

日本神話の考古学/森浩一
「古典に表れた神話や伝説がどのように古代史の資料として取り込めるか、あるいは取り込めないかについて性急な答えをだそうとは思っていない・・」
決めつけてはいないですね。
その少し後の著書に「記紀の考古学」があります。

記紀(あるいは神話)のなにを歴史として取り込めるか取り込めないか、その判断をどうやるかが最大の問題。
考古学出土物や中国史書を重ねても、常に解釈や推測がからみ、可能性の域を越えられない。
しかし、その可能性を高めることはできるはず。

歴史は大河のごときで巨大な質量(慣性力)を持って流れる、途切れたり急角度で曲がることはない。
(ボーリングのボールの動きはグリーン上のゴルフボールほどは変化しない)
歴史とは人間の営み、これを支配するのがまずは環境(大小はあれ現代でもそうだと思います)。
縄文あたりからそれをシミュレートする・・考古学など事実と照らし合わせてフィードバックを繰り返す。
神話(記紀の記述)もフィードバックの対象です。ただし都合の良い事象だけを選んではならない。

すべての事象を包括して連続的かつ平易に説明できるならそのシミュレートの可能性は極めて高くなると考えています。
その過程で流れに乗らない記述≒偽もみえてくると考えています。

記紀など古文献はそれが書かれた時代背景とその思想の考察が重要。
極端には、独裁者が書かせる自伝は自画自賛であって悪行のごときは書かない。
中国史書の良いところは、後の王朝が前王朝のことを書いていること。自画自賛にはならず、悪行も書く。
(ただし、前王朝の悪い部分を強調することで現王朝の正当性を示すこともありえる)
日本の場合は万世一系とされた王朝の書しかなく、「独裁者の自伝」的欠点を内包していると考えています。

記紀以降の総合史書といえるのは水戸光圀編纂の「大日本史」でしょう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770022
近代デジタルライブラリーの大日本史. 目録 索引ページ、ここから「他の番号を探す」で全文読破可能(^^;
元になる資料が六国史ベースなので明治維新に至るまでの思想研究にはなるけれど、平安以前の古代史の資料には無理。

先代舊事本紀や上紀をどうみるか・・記紀の影響大で個人編纂に近いとみえるので、その個人思想の判断が記紀よりやっかい。
だいぶ以前に「大分歴史事典」をダウンロードしました、大分放送局編纂の現代版風土記と思います。
他県で同様の資料編纂をしているのを見たことがない・・文明国にあらず(^^;


可能性ですから、そうではないの論もある。
他者の論(考え)を参照するとき重視するのは、その考えに至った理由(過程)はなにか、です。
それがあいまいな場合。思い込み(色眼鏡)があるとみえる場合、などなど、著名な学者の論であれ賛同できない場合少なからず。


戦争の原因、第一に食糧不足、第二に宗教や氏族の違い、第三に支配者の狂気(欲望の増大)。
原因が複合するとやっかいしごくですが、応用例のひとつが国譲り(^^;
素盞鳴尊の渡来、故郷での戦(簒奪)による脱出者(王の意識と武力を持つ)。
天孫の親、天之忍穂耳尊の渡来、故郷での戦(反乱)からの脱出者(王の意識と武力と高度な文化を持つ)。
と考えることができる。

そして北九州での大量の戦死者、この時点ではすべてが複合する状況とみてよいでしょう。
書紀は国譲り神話(書紀では大己貴命の国譲り)にて美化し神話化した。

この争いは神武登場でいったん収束したが、再び戦闘勃発(倭国争乱、九州以東の土地の簒奪)。
(ま、持論ですけど)
この戦は単純な食糧問題と思います。飢えて死ぬなどまっぴらごめん(^^; せっぱつまれば戦となるでしょう。
書紀としては、時代が新しく広範囲で書き換えようがなかった。
それが孝昭〜開化での空白。

いったん相互に憎悪と恐怖が生じるとそれが増幅され、子々孫々まで続きかねない。
問題発生は防げなくても、怨念の増幅をさせないことが肝要。
書紀編纂の思惑が最良かどうかはおいて、書かない≒記憶に残さない、もひとつの手段だとは思っています。




[11694] Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 時空少女 投稿日:2014年 6月21日(土)19時46分
かたばみさんへのお返事です。

>まずはその準備、夫婦からではなく伊弉諾尊のみから生まれる天照大神と素盞鳴尊と月読尊(おそらく漁労、月弓尊は狩猟か)。
三貴子は、『古事記』ではイザナギから生まれたとしていますが、『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊の間に生まれた子とも。
・アマテラス=太陽神。伊勢神宮内宮。青衾。
・ツクヨミ=夜を統べる月神。白衾。保食神を殺すと穀物が発生。伊勢神宮外宮の祭神にしようとしたが失敗。
・スサノオ=海原の神。赤衾。海人族が祀る「天照(アマテル)大神」に上書きするために海神と設定。

>そして天照大神と素盞鳴尊の誓約から生まれる五男神三女神、摩訶不思議で非現実的な設定。
天照大神(卑弥呼)と素盞鳴尊(出雲国王)は夫婦であり、五男神三女神は二人の子供とする説もあります。
神話は事実ではありませんので、「摩訶不思議」で「非現実的」な方が神話らしくていいです。
しかし、神話のモデルとなった話は事実ですので、摩訶不思議でも非現実的でもないです。
「考古学」は遺跡・遺物、「神話学」は神話で研究し、森氏提唱の「古代学」(神話の考古学)は両者を融合。

>中部縄文は縄文晩期に寒冷化で壊滅
天候と人間の生活は直結していますね。
温暖化のピークは「縄文海進」と呼ばれる縄文前期。平野は海に沈み、人々は台地の上に住む。
温暖化のピークを過ぎ、寒冷化が進み、そのピークが「倭国大乱」の時期。米がとれず、戦いに強い首長が求められ、祖霊信仰から首長霊信仰に移行。
次の温暖化のピークは、平安末〜鎌倉中期の海進。鎌倉時代と江戸時代の東海道を比べると、鎌倉時代の街道は山中、江戸時代の街道は山麓にある。
次の寒冷化のピークは戦国時代。寒冷化と同時に戦国時代が始まり、ミニ氷河期が終わると戦国時代も終わる。




「11693」Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日:2014年 6月20日(金)10時32分
時空少女さんへのお返事です。

>精霊信仰→祖霊信仰→首長霊信仰と変化するわけで

父母が子供を守る、子供が父母に助けを求める。自然なことだと思います。
祖先神は父母同様、敬うと同時に自分への「庇護」の意識を含んで祀る。
自然神は違う、恵みを与えてくれるかもしれないが、災いをもたらすかもしれない、「畏敬」の双方を以て祀る。

王朝といった巨大な集団でもその集団を守る場合にはその集団の祖先神(守護神)が登場する。
それがばらばらであったら・・抗争の火種となりかねません。
書紀編纂の目的には氏族(の祖先)の統合があると考えています。

出雲と天孫の抗争に始まり壬申の乱に至るまで何度も繰り返された氏族間抗争、これを防ぎたい。
祖先はみな同根なのだとする。
まずはその準備、夫婦からではなく伊弉諾尊のみから生まれる天照大神と素盞鳴尊と月読尊(おそらく漁労、月弓尊は狩猟か)。
そして天照大神と素盞鳴尊の誓約から生まれる五男神三女神、摩訶不思議で非現実的な設定。

だれがどうであるとも解釈できるように書かれた書紀編纂者苦心の物語(^^;
(自然神に関しては書くゆとりがなかった(^^; )
ま、その後の素盞鳴尊は嫁さんもらって普通の祖先に戻るけど。


さて・・
出雲文化圏は王朝ではないと考えています。租税はないが物々交換や情報交換はある。
(現代に残る情報交換の痕跡が神在月と縁結び)
優れた農耕技術をメインとする集団とそれを吸収しようとする(寒冷化に困っている)縄文集団の結合。
武力による支配はなく、文化による複合体だったと考えています。

中部縄文に火焔土器と称する土器がありますが、森と炎はそぐわない。水煙土器と称するべきと思っています。
蛇としかみえない造形もありますが水から派生した象形だと考えています(森の文化は水に従う)。
(アラハバキ、森に漂う精霊とイメージしておけばよいと思ってます)
銅鐸での流水紋は縄文の水の継承と考えています。

参考図 東京の注口土器、青森県の縄文晩期の亀ヶ岡土器の系譜とみえます。
池か水たまりの淵から波紋が広がる様子を描いているのでしょう、波紋には水滴表現と見える穴まで開けてある。
弥生土器にはない感性だと思います。

中部縄文は縄文晩期に寒冷化で壊滅しその後の発達はなかったが、東北縄文はもとから寒冷適応であって崩壊はしなかった。
寒冷化の時代には寒冷に適応した文化が南下する、青森の文化が東京にまで達していたわけです。
(縄文中期、温暖化の時代では逆です、縄文が北海道へ進出する)
(伊弉諾尊伊弉冉尊は近畿あたりから西進した縄文末期の人々を象徴すると考えています)

縄文文化と初期弥生文化(持論、初期開拓者)の結合、次いで出雲文化の結合、その結果は地域によって異なる。
東北や関東では縄文の影響が大きい。
西日本ではもともと縄文人口は東日本の1/10程度で、弥生農耕による人口爆発が生じて縄文の影響はほとんど消え、秦〜後漢文化の影響が大きい(鳴石容器(禹餘粮)など原始道教痕跡)。

さて、こういう状況の中でなにがどう動いてゆくか・・



[11692] Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 >時空少女投稿日:2014年 6月16日(月)23時06分
かたばみさんへのお返事です。

> 王朝管理下での開拓は雄略時代あたりからで、「自然神を祀る」から「祖先神を祀る」への変化が生じているのではないかと考えています(農耕直結の水神を除く)。

信仰は、精霊信仰→祖霊信仰→首長霊信仰と変化するわけで、首長の大きなお墓を作る時代には、すでに首長霊信仰の段階に入っているものと思われます。


[11691] Re: [11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日:2014年 6月14日(土)19時50分
神奈備さんへのお返事です。

ボーリングデータによる東京の地中の情報を発見したときは\(^^)/でした。
東京湾推定図で−10mとかのラインが土中に埋没した地形の等高線です。

図の中央付近に大嶋郷や嶋俣郷があります(正確な位置は不詳)。
正倉院文書の養老五年(AD720)の戸籍に登場し、住人の名が詳細に記されています。
東京大学史料編纂所のデータベース検索→「奈良時代古文書フルテキスト」→キーワード正倉院。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html
最古では大宝二年(AD702)の御野国(美濃国)の戸籍があります。

大嶋郷の住人はほとんどが孔王部(アナホベ)のだれそれとなっています。
安康454-456ゆかりの人々の開拓が始まっていたのだとみえます。
安康大王は書紀ではわずか数年の大王ですが、実際には強力な大王であったことがうかがえます。
(持論では、安康454-456は(九州倭国の)倭王五代の倭王済、次が倭王興で雄略456-489、次が倭王武で武烈498-507)

孔王部刀良とか小刀良なんて名がみえます。
映画「男はつらいよ」の葛飾柴又(嶋俣?)の寅さん、原作者はこの資料みてるのかも(サクラ姫はみあたらないけど)。

王朝管理下での開拓は雄略時代あたりからで、「自然神を祀る」から「祖先神を祀る」への変化が生じているのではないかと考えています(農耕直結の水神を除く)。
東京湯島天神(本郷台地東斜面)の縁起では雄略が手力雄命を祀ったとあります(当時の王朝の武神だったと推定)。
谷を越えた東側は上野台地(上野〜浅草方面)でここには出雲系とみえる痕跡がいくつかあります。
雄略が出雲系住人の動向を警戒して見張り所を作ったのだと考えています。

継体507-530以降では王朝内紛と朝鮮半島問題により東国支配には手が回らず、東北では蝦夷が勢力を拡大。
信州や関東でも同様で独立自治状態だったと推定。

東京隅田川の東側に牛島神社があり、素盞鳴尊と天穂日命と清和天皇の貞辰親王を祀ります。
新編武蔵風土記稿には天穂日命は書かれておらず2座のみです(浅草の浅草寺縁起には天穂日命の子孫とされる土師氏が登場)。
牛島の地名は文武天皇(697-706)時代に牛馬の牧場が作られたことによるのでしょう。
素盞鳴尊の登場は天台宗の慈覚大師(円仁794-864)がこの地でその老翁の出現を見たことによります。
すべてのチェックはしていませんが、氷川系を除き東京で素盞鳴尊を祀る場合は牛頭天王か僧侶の神託によるとみえます。
どちらも神仏習合における病魔退散祈願ではないかと思います。

常陸国風土記に書かれるお話。
麻多智という人が田畑を開墾し、夜刀神(角ある蛇)と争った。
麻多智は田畑と神の境界を定めて祠を作り祭祀者となった。
永久に神を祀るから田畑に悪さをしないでくれと。
祖先神は敬うのみですが、八百万の自然神をないがしろにすると怖い。
地震雷火事親父、生きてる人間は4番目に怖い(^^;



[11690] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 神奈備 投稿日:2014年 6月11日(水)08時55分
かたばみさんへのお返事です。

この地図を眺めていますと、なにか、人の動きが見えるようです。貴重な地図です。ありがとうございました


[11685[ Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日: 2014年 6月 7日(土)20時07分
神奈備さんへのお返事です。

続き

建御名方命の出雲文化と諏訪の縄文文化の複合、その人々の祭祀・・自然神の蛇であったと考えています(諏訪ではミシャグチでもある)。
これは縄文との接触融合が続いた出雲文化圏全般にいえることで、注連縄などいわずもがなの象徴。

参考図 群馬県の巫女とされる埴輪、巻いているたすき?は蛇のウロコの象徴でしょう、銅鐸にも描かれる文様。
少なくとも関東では古墳時代でも巫女の権威が高かったことがうかがえます。
女体社とは縄文由来の巫女祭祀を示す(後に巫女の権威が弱まるにつれて女体社の意味も薄れてゆく)。

これらが書紀編纂以降に「公式化」のために書紀の書く出雲系祖先神に置き換えられた。
建御名方命を採用しなかったのは書紀には登場しないから。
大国主命を採用しなかったのは建御名方命を追い出した人物だから(^^;

この地に素盞鳴尊が関連する所以はない、けれど公式として出雲系の最古の祖先神である素盞鳴尊とその妻を採用した。
大己貴命が登場するのは素盞鳴尊とほぼ同時代であり、書紀に大国主命の別名として書かれており杵築大社との関連を保てるから。
当時の祭祀者の苦心と妥協の結果ということです。

どこにあったものが有力になるか、理由は様々と思いますがいつの時代でも街道筋や水運の変化は重要ですね。
近津系の祭祀も同じであったろうと考えています。
こちらはずーっと過疎地にあって有力化することなく、御祭神の統一ということもなく、ばらばらに置き換えられて現在に至ったと考えています。




[11684] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日:2014年 6月 7日(土)20時03分
神奈備さんへのお返事です。

高麗郡にも氷川社が3社ありました。
参考図1 新編武蔵風土記稿添付図高麗郡の氷川社。赤丸です。緑丸は牛頭天王社、黄丸は丹生社。図の破線は道です。
中山村の北の宮沢村に「稲田姫を祀ると云う」社があります。
ちなみに入間郡には34社あります、地図は略。

>孝昭朝 武蔵 足立 埼玉県大宮市高鼻町

環境まずありき、そして人の営みが生じ、そして祭祀が生じる。
孝昭天皇、これを実年代としてどうとらえているか。
縁起というよりある集団の生活の始まりの意味での伝承が残っていた可能性はありそうです。

持論では孝昭天皇はAD105-137です。
平安初期であれば「書紀編纂目的の思惑」を含まない情報がまだ残っていただろうと思います。
人物の登場順の解釈によるならその年代はむちゃくちゃにはなりにくいのではなかろうか。

以降、持論の歴史観に基づきます。
関東にも出雲文化圏の進出があった。千葉県には弥生の水稲痕跡、小銅鐸もあります。
ただし、参考図2のごとく東京湾岸から内陸の大宮台地に到達するには東京湾の浅瀬と流入する河川の沼沢を超えねばならない。
近畿東海系出雲の偵察隊がやってきたとしても、農耕用での進出にはストップを出すと思います。
武蔵野台地は森林地帯で水利が悪く農耕には不向きですし(縄文遺跡は多数ある)。

参考図3 中部山岳地域からの南下であれば話は違います(鳥居マークは近津系とみえる社)。
弥生中期以降寒冷化が始まる、山岳地での寒冷化はきびしい。
諏訪の建御名方命と縄文文化の結合した集団が碓氷峠を越えて南下した可能性は非常に高いと考えています。
(碓氷峠の東に戦闘痕跡の縁起をもつ社あり)
関東平野北側の山岳沿いに東に進出した人々の痕跡が近津系、こちらは狩猟文化の濃いグループか。
関東平野西側の丘陵地帯を南下した人々が氷川系の源流だと考えています。

次の「変化」は崇神時代、これも可能性はありそうです。
仁科濫觴記の崇神の子のひとりが信濃に入ったという記事を信じるなら、その経路として西側丘陵沿いの入間川遡上がありえます。

次の変化は日本武尊ですね。この影響は大きかったのではなかろうか。
東京鳥越の榊神社は日本武尊が「天神第六代坐皇大御神」を祀ったことを縁起としていますが、地元信仰を尊重した拠点作りであったと考えています。
(第六代天神は書紀の記述ですから、書紀編纂以降に置き換えられたもの)
同様に日本武尊が諏訪へ向かう途上で地元信仰を含む拠点が作られた可能性も非常に大きいと考えています。

次の変化は雄略456-489、稲荷山鉄剣の時代。
入間川と荒川や利根川にはさまれて農耕に適する大宮台地(後の足立郡)の開拓の開始。
その南端に450〜500頃とされる伊興古墳群があり、氷川社少なからず。
この頃に王朝の役人も足立郡に入っているはずで道も整備されたでしょう。
王朝管理の下でなんらかの変化があるならこの時代、入間川の東西で生じる可能性大。

次の変化は書紀の編纂以降。
「書紀の書く様々」に合わせて各地の「社の様々」が書かれる時代、公式縁起の登場。
なんらかの地元伝承があっても書紀の記述に合わないものは公式としては認められないだろうと思います。
氷川の呼称は肥河(斐伊川)からであろうと思います。むろん書紀編纂以降にて。
様々な思惑が登場し得るのでその内容には要注意。


氷川社は杵築大社の勧請、まったく信じません(^^;
出雲と関連するという意味だけ。
島根は弥生全般を通じて日本海沿岸航路の拠点ではあった。
門客人はそれを示すとみています。アラハバキも日本海経由での東北縄文との交流関連と推定。

大国主命の国譲りと引退(持論AD30頃)、その後に島根の杵築大社が出雲文化圏での「信仰の対象」あるいは聖地となっていった。
ただし、弥生中期〜後期の出雲文化圏の政治経済中枢は奈良の唐古・鍵です(銅鐸の分布がこれを示す)。
しかし書紀編纂者は天孫降臨以降の出雲文化圏の存在を隠蔽し、出雲=島根のイメージだけを誘導する。
その書紀の誘導と書かれる神々に合わせて「公式の氷川社」が登場する。






[11683] Re: [11692] Re: 氷川神社まとめ< 神奈備 投稿日: 2014年 6月 7日(土)19時10分
時空少女さんへのお返事です。

同感です。


 アラハバキを記紀に出てくる神に比定する必要はありません。

 塞の神、境界の神、といえば、猿田彦などが有名ですが・・・

 アラハバキを女神として、クナドの神の奥さんとする説がありました。

 神の本性を断定する勇気は持ち合わせておりません。まったく共感できません。




[11681] Re: [11692] Re: 氷川神社まとめ 荊の紀氏 投稿日:2014年 6月 7日(土)14時25分
時空少女さんへのお返事です。

荒【脛】はばき巾(あらはばき)  塞の神  境界の石神

アラハバキ=道祖神=少彦名であり、また 少彦名とヒルコは兄弟 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
脛(すね)を交えるなり。

サエ(塞)の神や道祖神のように共同体の境界に置かれる神は死と再生の境界の神でも ある。 井本英一『境界・祭祀空間』という古代諸民族の境界儀礼についての比較研究に 照し合せるとスクナヒコナこそ「死と再生」の境界儀礼の神であることが分かる。 http://itiitamito.at.webry.info/theme/a262990054.html
スクナヒコナは石神である。神功記に「石(いわ)たたすスクナ御神」と歌われており、また伊予風土記にスクナヒコナの踏み跡の石が道後の湯の中にあるとされ、さきの生石神社の巨石の宝殿の例もある。
境界の石神スクナヒコナ

龍の一族は、塞の神である石棒をアラハバキと 言い習わしたが、その実体は少名毘古那神であったと語る。http://fafner.biz/katsupedia/katsupedia.php?gmode=userview&id=327
蛭子つまり夷の次に生まれて海に捨てられた淡島の正体が少名毘古那神であることから、夷と少名毘古那神は兄弟であると推測する。
さらに、道祖神から発展した金精様の神社が淡島明神であり、淡島明神の祭神が少名毘古那神であることから、虹人は、道祖神が少彦名であるという。



[11670] Re: [11692] Re: 氷川神社まとめ 時空少女 投稿日:2014年 6月 6日(金)20時01分
神奈備さんへのお返事です。

> 肯定はしませんが、面白い説ですね。

ありがとうございます。
「見沼の水神の書き換え」と言いますが、
1.地元民が崇敬する水神を否定して、出雲国の水神を祀ったわけではない。
2.水神を祀る神社からご神体を取り出して出雲神を祀り、水神を境内社に祀ったら、地元民は怒るでしょうけど、水神を祀る境内社は無いから、水神と言っても、社殿に祀られていたのではなく、1個の岩とかだったのでは?
3.氷川神社が建てられた時、熊野大社はあっても、杵築大社はなかったのでは?
ってことです。


>氷川神社まとめ 時空少女 投稿日:2014年 6月 6日(金)00時17分
まとめてみました。
http://yaplog.jp/girls2014/archive/6



[11680] Re: [11687] Re: [11682] 出雲という思想 時空少女 投稿日:2014年 6月 5日(木)15時20分
神奈備さんへのお返事です。

>氷川神社の元社とされる出雲の杵築大社にも門客人社が鎮座しており、これごと武蔵に勧請したというよりは、武蔵に鎮座していたアラハバキ社にかぶせるように氷川神社を勧請した可能性が高いと思われます。かたばみさんの言われる「地元系の信仰」とは、アラハバキ神だったのでは。

『江戸名所図会』には、氷川神社の境内に火王子(大己貴命)・男体宮(須佐之男命)・女体宮(奇稲田姫命)・荒波々畿社(手摩乳・足摩乳)の4社が描かれています。
このことから、元は荒波々畿社であったが、出雲族が来て、出雲神を火王子・男体宮・女体宮を建てて祀り、社名を「氷川神社」に変えたとする説もあります。
『新編武蔵風土記稿』には、「門客人社 男体社の東にあり、祭神は豊磐窓命・櫛磐窓命の二座にて、古は荒脛巾神社と号せしを、氷川内記神職たりし時、神祇伯吉田家へ告して、門客人社と改号し、手摩乳・脚摩乳の二座を配祀す」とあります。つまり、社記に「杵築大社より勧請」とあるのに、「杵築大社には門客人社はあるが荒波々畿社が無く、氷川神社には門客人社が無いが荒波々畿社はある」という矛盾を解消するために、氷川神社では、「荒波々畿社」を杵築大社と同じ名称の「門客人社」に改名したとのことです。

客人神とは、その名の通り、「外から来た客神」「あとから来た今来神」であり、強力な霊力を持ち、その土地の地主神・土着神の霊力を強めてくれる神であると考えられていましたが、「天才」と称される折口信夫は、その逆で、客人神こそが地主神・土着神だとしています。

参考
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/arahabaki.htm


>杵築大社の神を勧請したとの説があるそうです。
>氷川神社の元社とされる出雲の杵築大社

氷川神社の元宮を斐伊神社とする説もあります。

「創立年は不詳。斐伊神社の古史伝によると、創立は甚だ古く、埼玉県の氷川神社(旧官幣大社)は孝昭天皇5年に斐伊神社から分祀されたものとしている。ただし氷川神社側は出雲肥河(斐伊川)の川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)から分祀したとしている。なお出雲大社は現在の斐伊川と地理的に無関係だが、古代の斐伊川は宍道湖ではなく、直接日本海に流れこんでおり、出雲大社は斐伊川の川上ではなく川下に位置していた。斐伊神社は今も昔も斐伊川の川上に位置している。」(ウィキペディア「斐伊神社」)


氷川神社(大宮氷川神社。さいたま市大宮区高鼻町)は、見沼の畔にあり、中山神社(中川の中氷川神社)、氷川女体神社(三室)とあわせて「三氷川」と呼ばれ、一直線上に並んでいる。(見沼は江戸時代に消滅。)

*「三氷川」をかつて大宮氷川神社の境内にあった男体社・女体社・簸王子社(簸王子社に主祭神がおられ、男体社と女体社は奥宮とされるが、異論もある)と混同される方が多い。

大宮氷川神社は、その社伝によれば、第5代孝昭天皇3年4月の創建で、平安時代の『延喜式』には「一座」とある。
現在のご祭神は、須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命の3座であるので、延喜期の「1座」はどなたであるかが問題となっている。

(1)『先代旧事本紀』によれば、第12代景行天皇の御宇、出雲氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したという。さらに、成務天皇の御宇、出雲の兄多毛比命が武蔵国造となり、当社を崇敬したという。また、吉田兼永は、景行天皇の御宇、日本武尊が東征の折に須佐之男命を祀ったという。どちらも「1座」を須佐之男命とするが、どちらも創建を「第12代景行天皇の御宇」としており、社伝の「第5代孝昭天皇の御宇」とは異なる。
(2)『新編武蔵風土記稿』(1827)に、「社記を閲するに、当社は孝昭帝の御宇、勅願として出雲氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜われり」とある。「氷の川」は、出雲の「簸川」「肥川」(現・斐伊川)であり、「杵築大社」は出雲大社であるから、「1座」は大己貴命となる。しかし、杵築大社は、「氷の川上」にはない。斐伊川水系とは異なる神門川(神戸川)の河口にある。また、杵築大社には、8世紀初頭に建てられたとする説もある。
(3)『江戸名所図会』に「荒波々畿の社 本社の傍らにあり。手摩乳・足摩乳二神を祀る。『武蔵国風土記』に、「観松彦香殖稲天皇御宇三年祭るところ」とあるは、この社をいへるにや」と、「観松彦香殖稲(考昭)天皇」御宇の創建当時のご祭神をアラハバキ神とする。
(4)見沼の水神を祀る神社であるとする。

熱田神宮のご祭神は「熱田大神」で、その正体は、公称の如く天照大神なのか、素戔嗚尊なのか、日本武尊なのか、天火明命なのか分かりませんが、「熱田大神 1座」でいいかと。氷川神社も「氷川大神 1座」ってことでいいのでは?

http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/HIKAWA.html


[11679] Re: [11682] 出雲という思想 神奈備 投稿日:2014年 6月 4日(水)13時16分
かたばみさんへのお返事です。

 武蔵国造は出雲国造と天穂日命を祖とする同族だそうで、その由縁で杵築大社の神を勧請したとの説があるそうです。

『<出雲>という思想』原武史著 の氷川神社の創建が奈良時代以前は11社。
その内の下記5社にアラハバキ社や門客人神社が摂社として鎮座していました。

孝昭朝 武蔵 足立 埼玉県大宮市高鼻町
崇神朝 武蔵 入間 埼玉県所沢市三ケ島
崇神朝 武蔵 足立 埼玉県大宮市中川
景行朝 武蔵 多摩 東京都西多摩郡奥多摩町氷川
景行朝 武蔵 入間 埼玉県川越市宮下町

 氷川神社の元社とされる出雲の杵築大社にも門客人社が鎮座しており、これごと武蔵に勧請したというよりは、武蔵に鎮座していたアラハバキ社にかぶせるように氷川神社を勧請した可能性が高いと思われます。かたばみさんの言われる「地元系の信仰」とは、アラハバキ神だったのでは。

 王政復古の明治時代、未成年の明治天皇が武蔵野鎮守として、大宮の氷川神社の素盞嗚尊に参詣されたようです。
 また、出雲大社宮司の千尊福氏が大宮県の知事を務めました。まさに天穂日命の子孫の登場となり、復古そのもの。



[11678] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日:2014年 6月 3日(火)23時12分
追申です。

高麗郡の位置は入間郡の内部にぽっかりと穴が開くようになっています。
参考図 武蔵の郡名です(新編武蔵風土記稿の添付図を参照)
高麗郡は続日本紀に元正天皇霊亀2年AD716に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七カ国から高麗人1799人を移住、が呼称由来らしい。
しかし、その周囲に入間郡ができるのはいささか不自然、すでに開墾者がいた武蔵野の荒野(入間郡相当)に関東に散らばっていた高麗人を「移住」させたと思われます(入間宿禰=物部廣成?? AD766頃)。

先に書いた「青木村(中山村の東隣)の村史に、霊亀2年詔により「丹波の高麗人990人」がここに移住せり」が本来の高麗郡の由来ではなかろうか。
当時の村で100人の人口なら小さい村ではないと思います。そこに千人近い外部の人間がやってきたらどうなるか・・

ちなみに入間郡には氷川社が少なからずあり、多くが村の鎮守であり村持ちの社となっています。
すなわち地元系の信仰と思われます(往古から氷川の呼称ではないにせよその原型があった)。
高麗郡に入ると氷川社がみえなくなる(すべての村を調べてはいません、あしからず)。
これは高麗系の人々が多くを占めるようになって往古の社が消えたからではないのか・・丹生社の登場??



[11685] Re: [11682] 出雲という思想 かたばみ 投稿日:2014年 6月 3日(火)21時21分
神奈備さんへのお返事です。

>飯能市中山の氷川神社の名があり、784年の創建とあります

氷川社の調査ですか(^^)
飯能市の中山、新編武蔵風土記稿での高麗郡中山村付近かな。
新編武蔵風土記稿(第九巻高麗郡)の記事によれば以下です。

中山村に氷川社はありません。牛頭天王社はあります。
北隣の宮沢村には「子ノ御前社」があり、稲田姫を祀ると云う、とあります。こちらの方が氷川系の女体社にからむか?
西隣の飯能村には諏訪明神社があります。
東と南の村には関連しそうな社はみあたりません。

中山村周辺に丹生社が散見されるのが興味深いです。
青木村(中山村の東隣)の村史に、霊亀2年詔により「丹波の高麗人990人」がここに移住せり、とあるのでこの関係かなあ。
(八坂神社縁起に656年に高句麗の使者が新羅の牛頭山の素盞鳴尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀って八坂姓(馬養部)を賜った)。
東京には牛頭天王社が後に素盞鳴神社ないし須賀神社になっている社があります。

氷川系には社名を変える経緯は見えず、諏訪系(建御名方命あるいはその子の千鹿頭)と関東平野系の複合と考えています。
近津系と類似ですが、氷川系は書紀編纂以降での登場と推定。



Re: [11684] Re: [11682] 出雲という思想< 荊の紀氏 投稿日: 2014年 6月 3日(火)20時28分
神奈備さんへのお返事です。

これが日本のお寺神社だ!
氷川神社の詳細情報 http://loco.yahoo.co.jp/place/3641a039e4a2bb6ea4abeb5742291395316ad143/detail

神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの 信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった[2]。
神宮寺の建立[編集]
宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされている[1]が、一般的にはそれより後、日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている[3]。これを神身離脱という。715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された[3]。また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた[3]。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった[3]。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった[1]。
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている[3]。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた[3]。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる[3]。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている[3]。
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。

大乗密教による系列化[編集]
これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて基盤を強化しつつあったが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来するとされる租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった[3]。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院と認識されることを望むようになってきた[3]。
朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった[3]。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ[3]。
また、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなった。

熊野信仰[編集]
本地垂迹説により、普遍性を獲得する契機の先頭に立ったのが、八幡神や日吉神、熊野神など早くから仏教と深い関係を取り結んでいた神々であった。とりわけ熊野の神々は、修験道と結びつくと共に、院の帰依を受け、院政期以降その信仰を全国に広げていった。熊野は本宮・新宮・那智の三社(熊野三所権現)で構成され、熊野本宮の本地・阿弥陀如来は、平安末以降の阿弥陀仏による救済願望に応える神として衆庶の信仰を集め、一大霊場として繁栄を極めた(蟻の熊野詣)。この時、浄土信仰を奉じる一遍も参詣し、託宣を受けて時宗開教へ踏み出している。熊野信仰の隆盛は、古代的な価値観の解体も示しており、熊野信仰の特質の一つの苦行が霊験を高め、現世的なもの、身体的なものを超えた、高次元の精神的なものを志向することとなった。その霊験をテコに「日本第一大霊験所」と称して、比類なき神格の尊貴性を主張し、伊勢・熊野同体論が登場するなどし、神々が互いの霊験を競い合うようになった[2]。

怨霊信仰[編集]
他方で、このような密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担いで王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった[3]。
この動きは9世紀には御霊会の流行を引き起こしたが、神祇信仰に従来からあった怨霊祭り上げの風習に加えて、密教の側からの鎮魂も行われた点に神仏習合の類型を見ることが出来る[3]。特に菅原道真の怨霊が天神信仰へと発展するに際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響だったと示している[3]。
この典型的な例が平将門即位の状況に見られる[3]。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書いたとし、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したものであり、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている[3]。

ケガレ忌避の論理[編集]
このように呪術的な信仰を求める大衆に対しての仏教の側からの浸透に対抗し、神祇信仰の側からも理論武装の動きが出てきた[3]。
神祇信仰においては従来それほど顕著でなかった二極対立の考え方が発達し、清浄とケガレの二極が強調されるようになった[3]。このため9世紀から10世紀にかけて、従来は祓いで済んでいたケガレ除去の方法が、陰陽道の影響もあり物忌み中心に変わってきていることが確認されている[3]。
神祇信仰の論理性の強化は、仏教側からの侵食に対抗するとともに、仏教側と共生することを可能とした[3]。10世紀末には、浄土思想にもケガレ思想の影響が見られ、往生要集などには本来の仏教の浄穢思想理解のための手段として、神祇信仰のケガレを利用した論理が見受けられる[3]。

本地垂迹説[編集]
詳細は本地垂迹説参照
しかし、浄土思想の普及は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった[3]。仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態(垂迹)を取ってこの世に現れるという本地垂迹説は、このような仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる[3]。絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形を取ることにより、神仏の調和の理論的裏づけとしたのである。
また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉え、以後の八幡神信仰や天神信仰の興隆にもつながることとなった[3]。
更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道や山王神道による大祓詞(おおはらえのことば)の密教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の密教的説明の試みが活発化し、「中世日本紀」といわれる現象が見られるようになった[3]。
ただし仏教の天部の神々も元はヒンドゥー教の神であったように、日本だけでなくインドの地域社会や中国においても、土着民族の神々を包摂してきた歴史がある。仏教にはそのような性質が本来あったことが神仏習合を生んだ大きな要因であった。

神本仏迹説[編集]
詳細は反本地垂迹説参照
鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には朱子学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生した[3]。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した[3]。
しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている。現在、仏教の寺院の墓地における墓石と板塔婆がそれぞれ石と木で作られることを、神社における磐座と神籬の影響とする説[4]があるように、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。

役小角は神仏習合を唱えて 各地に神社や寺を開きましたよね。 そもそも神仏 習合の本当の意味ってなんなんでしょう
その聖なる領域に入山し、神仏習合の宗教観をもち 修行をおこなうのが修験道であり、開祖と尊崇されるのが役小角(=役行者)である。http://www.komatuji.com/ozunu.html
我が国は、全国土の七割以上を山が占めており、古来より山には神仏や祖霊が宿ると信じられてきた。
修験道は中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点として修業かおこなわれ、熊野側では聖護院を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成された。しかし、明治5年、政府により修験道一宗としての活動が禁止されたことにより、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。
明治政府による神仏分離令・修験道廃止令により、一時は歴史の隅に追いやられてしまう修験道だが、現在は、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院(本山修験宗)、京都市伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。

白山頂上本社と白山寺白山本宮は本地と垂迹の関係で、神道としては白山権現は伊 弉冊尊であり、両神が即ち白山比盗_(しらやまひめの ... 明治維新による神仏分離・ 廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃された。
白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E6%A8%A9%E7%8F%BE
717年(養老元年)修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが起源で、併せて白山修験場開創の由来と伝わる[1][2][3][4]。
孤峰(別山)では聖観音菩薩の垂迹である宰官身[5]の大行事権現が伊弉冊尊の神務輔佐の行事貫主として、大汝峰(おおなんじみね)では翁姿の大己貴命(大汝権現)が伊弉冊尊の神務輔弼として泰澄に顕われた[1][2]と伝わり、泰澄に顕われた三神(白山妙理権現、大行事権現、大汝権現)を併せて白山三所権現と称する。さらには白山修験が隆盛すると、白山妙理権現の眷属として五王子権現も祀られた
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃された。三馬場のうち、加賀国の白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比盗_社に強制的に改組された。越前国の霊応山平泉寺も同様に廃寺となり、平泉寺白山神社に強制的に改組された。美濃国の白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
全国の白山権現社の多くは、菊理媛神を祭神とする神道の白山神社となっている。

牛頭天王・スサノオに対する信仰のうち、津島神社(愛知県津島市)を中心に東海地方に広まった信仰を津島信仰(つしましんこう)と呼ぶ。 同じスサノオに対する信仰には、氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)を中心に関東地方に分布する氷川信仰もあるが、牛頭天王信仰ではなく、祇園信仰とは根本が異なっている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0

朝鮮半島の新羅・加羅から押し出されたスサノオが渡来し(天津神、弥生人、 倭人)、オオクニヌシを征服した(2世紀後半頃、出雲。出雲神。 ... 実はこの三つの権力 構造の変動すべてが大宮氷川神社のなかに塗り込まれている…http://plaza.rakuten.co.jp/michaeltan2/diary/201306200000/
出雲族はそのルーツを九州・筑前の伊都国にもつ海人族まで遡ります。
オオクニヌシの先祖であり先住民を国津神としている縄文人が出雲神族であるといわれており、そこへ、朝鮮半島の新羅・加羅から押し出されたスサノオが渡来し(天津神、弥生、倭人)、オオクニヌシを征服、これが2世紀後半頃に出雲政権となり、その後吉備を経て、物部政権が成立。
さらにアマテラス系=百済系が入ってきて、大和政権へとつづくながれのなかでの出雲系と天孫系の対立というのは、じつは日本の歴史の構造をかたちづくってきた呪縛のようなものだと私は感じてきました。
その呪縛がいま、解かれる。
出雲と天孫の婚姻が意味するものとはいまこそ、呪が解き放たれるとき、なのか、とおもいます。
光の愛を意図し、選択することを一人でも多くの人にシェアしてください。

     愛と感謝をこめて




[11684] Re: [11682] 出雲という思想 神奈備 投稿日:2014年 6月 3日(火)17時32分
時空少女さんへのお返事です。

> おかしいと言えば、結構有名な氷川神社(埼玉県比企郡川島町中山1790)が載っていないのはおかしい。

ありがとうございます。
この神社が該当の神社のようです。

由緒に、延暦3年に大宮の氷川神社から勧請したとありました。




re: [11682] 出雲という思想 >時空少女 投稿日:2014年 6月 3日(火)17時32分
神奈備さんへのお返事です。

> 神社庁のデータやネットで見ましても、この神社に行き当たりません。
> 御存じの方、ヒントをください。

不思議ですよね。「主な氷川神社」ですから、当然、神社庁に登録されているでしょうけど、
埼玉県神社庁 http://www.saitama-jinjacho.or.jp/
で「氷川神社」で検索すると、埼玉県に氷川神社は164社登録されていますが、飯能市には0社ですね。
住所で検索すると、飯能市の神社は50社で、中山にあるのは、
「加治神社」(飯能市中山716)
だけで、その境内社にも氷川神社はありません。
「現在の神社名」とありますから、この本が発行された2001年10月10日の時点で存在していたはず。しかも「主な氷川神社」なので、結構有名なはず。

この方が使った資料が何か分かりませんが、西角井正慶『古代祭祀と文学』だとすると、239ページの分布図(1959年)に載っているはずだけど、載っていない。

おかしいと言えば、結構有名な氷川神社(埼玉県比企郡川島町中山1790)が載っていないのはおかしい。(川島町は川越市と合併するらしいけど、飯能市との合併の話は聞かない。)
http://blogs.yahoo.co.jp/sakado_iwasaki/52120833.html
*川島町の前身の川島村は、1954年に中山村などが合併して発足し、1972年に川島町となる。


[11682] 出雲という思想 神奈備 投稿日: 2014年 6月 2日(月)15時55分
原武史著
このなかに、武蔵の氷川神社を創建年度順に示しています。
その中に、飯能市中山の氷川神社の名があり、784年の創建とあります。

神社庁のデータやネットで見ましても、この神社に行き当たりません。
御存じの方、ヒントをください。



Re: HPを作り直しました。
 言蛇 投稿日:2014年 5月19日(月)17時23分
「我が蒔ける 早稲田の穂立 作りたる
  かづらぞ見つつ 偲はせ我が背(万葉集1624)」

時空少女さんへのお返事です。
こんにちわ、先週は晴れ晴れとした気分で田植えができました。
時空少女さんは「清水の舞台から飛び降りる」最中ですね、ごくろうさま。

>
> PONTA=女子中高生サークル
> 時空少女=女子大生サークル
> です。
>

PONTAさんのブログの内容はどう見積もっても50代以上の男性の手記と読めました。
それなのに女子中高生専門のサークルなんですか?妙なサークルもあるものです(汗
でもPONTAさんのHPが消えてからの時空少女さんの動きは生き生きしていいと思います。
女子大生になるのでしたら、前髪は分けるなり上げるなりしたほうが清潔感がありますよー。

時空少女さんのHPに使われている写真にあなたは写っていますか???
写っているとしたらどの写真か明示してください。
念のため電柱を置いておきます、それでは


[11678] Re: 熱田神宮 時空少女 投稿日:2014年 5月12日(月)23時31分
とみたさんへのお返事です。

> ところで枇杷島の謂れを教えてください。ここを流れているのは庄内川でしょうか。

枇杷嶋 (琵琶嶋とも書けり。川の東を東枇杷嶋といひ、川の西、問屋町より二ッ圦までをすべて西枇杷嶋といふ。)往昔、師長公、井戸田の里に謫居し給ひし時、里の長横江何某の娘に馴れ初めさせ給ふに(公、井戸田の里に謫居し給ひし事実は、井戸田の城下に譲りぬ)、公、帰路の期に及びて、御別れを深く惜しみ奉り、当所の西なる土器野里まで慕ひ参らせしかば、公も哀れに思しめし、守本尊の薬師如来と、年頃手馴れさせ給へる白菊の琵琶とを御形見にあたへ給ふ。しかるに生別却て死別にまさるの理にして、彼の女、悲歎に堪へず、世を憂き事に思ひ、やがて吾身を恨みつつ、一首の和歌を書き残し、側なる池に身を沈め、終に空しく成りにけり。(この池のあと今は畠となりて、枇杷嶋川の堤ぞひにその旧姿を存し、琵琶池と称す。また同所西の方小場塚村に、琵琶塚とて森林の内に古塚あり。これ彼女が死骸を埋みし塚なりとぞ。按ずるに枇杷嶋の称は、いにしへこの地に枇杷など多かりしに起るならんか。しかるに彼の女白菊の琵琶を抱き、なほ離情に堪へかね、ここなる池に身を沈めしより、その池を琵琶池といひ初めしに、枇杷・琵琶の音便も通へば、好事の者多く琵琶文字を用ひしものなるべし。) 以上『尾張名所図会』

枇杷島橋は庄内川に架かっています。


[11674] 六甲おろしの壺菫 言蛇 投稿日:2014年 5月10日(土)13時58分
「山吹の 咲きたる野辺の つほすみれ
  この春の雨に 盛りなりけり(万葉集1444)」

神奈備さま、おはようございます。

神奈備さま>さて、現代に生きる我々が「草木がものを言う時代」を感じるのは修行がいるのかも。

そういえば縄文土器そのものには、具体的に草木が刻まれていませんね。
インカ文明とかでは縄の結び目が言語のかわりになっていましたが、縄文人も縄の結い方で抽象言
語化していたために、文字化が進展されなかったのかもしれません。
「草木がものを言う時代」を推し進めるには、万葉集と和歌の自作がいい修業になるでしょう。

写真は六甲山に咲いていた壺菫です。
神奈備さま、そろそろ雁歌さんを男子としてこちらに迎えてはいかがでしょう?
なにぶん都会の人間たちが雁歌さんを裏切る気配も濃いうえに、あなたの傍に彼がいるのが、やはりお似合いです。

他の男はぜーんぜん、あなたを見ちゃいない。
あなたを踏み台かなにかと勘違いしてる。



[11672]  Re: 熱田神宮とみた 投稿日:2014年 5月10日(土)08時03分
時空少女さんへのお返事です。

歴女、墳女という言葉があります。
山ガール、宙(そら)ガール、仏女もおられるとか。若い女性がどんどん興味を持って掘り起こしてください。
シニアの勉強の成果をお伝えしておきます。考古学と文献を漁った成果です。

> > 元熱田神宮は、久米一族でしょうか。
> 「元熱田神宮」って、「元熱田」ですか?

元伊勢は大高町の氷上姉子神社がルーツとされています。
ここの宮司は久米を名乗ります。ヤマトタケルの妃の宮簀媛命の居た地です。尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘・宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ留め置いた。日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言われる。
能褒野はJR関西線亀山にあります。4−5世紀の墓です。
久米氏は大伴氏と同族です。


> だったら尾張氏ですが・・・付近の古墳は知多氏のものですけどね。
>
> > 尾張一宮の真隅(清)田神社は尾張族の神社。
> ってことになってますね。本当は大神氏だろうけど。
> 「真隅田」って書き方は知りません。「真墨田」は知ってるけど。

私のミスです。
>
> >尾張族と丹後の海部との関係はどうお考えですか。
> 家系図が同じなので、同族っぽいですね。
> 『尾張国熱田太神宮縁記』に「海部は是れ尾張氏の別れし姓なり」とあるし。
> 実際は違うような気もしますが、浦島太郎つながりってことで。

弥生時代には清須と名古屋を結ぶ朝日遺跡がありましたね。
このあたりは海の民が入り込んでいたと思うんです。
ひとつ常識ですが・・・弥生時代は、尾張は湿地帯で、台地にしか人は住めなかった。熱田神宮は海の中で小高い台地があった。 熱田台地です。そこに海の民がやってきた。
尾張は国府宮が稲沢にありますよね。ここは中島郡。中島つまり島なんです。ここに海の民が入ってきた。
隣が尾張一宮、ですから尾張族=海の民の本拠があるんです。

ところで枇杷島の謂れを教えてください。ここを流れているのは庄内川でしょうか。



[11670] Re: 銅の道、鉄の道 かたばみ 投稿日:2014年 4月22日(火)22時08分
さて鉄と銅、すべて持論の歴史観との合体で毎度とりとめのない長文(^^;

伽耶地域で製鉄が始まったと推定されるのは紀元前後ですが、韓国側の情報がいささか不足。
媛踏鞴五十鈴媛、神武(AD1頃)の時点では「タタラ」は船の意味しかもたず、鉄とは無関係と考えています。
女性に鉄に関連する呼称を用いることも考えにくいです。
踏鞴タタラとは書紀編纂時代でのタタラ製鉄とフィゴから、タタラという発音を踏鞴という文字に置き換えただけ。
すなわち平安初期にはタタラ製鉄の原型が知られていたことを示す(出雲文化圏の系譜の製鉄ということになります)。
(そして王朝管轄以外での鉄生産が禁止され、タタラ製鉄は地下に潜る)

媛踏鞴五十鈴媛の五十鈴も船に関連するのではないか・・小銅鐸、関東からも出土でこれも出雲文化圏。
暗闇や霧でも自らの存在を相手に示すための道具(猫に鈴、居所がすぐわかってやっぱり便利)。
日本では馬はまだ用いられていませんから、半島での馬鐸の用法ではないはず。
小銅鐸は船舶で用いられたと推定。
後には神々に対して自らの存在を示す祭祀具となり、大型銅鐸へ、これも出雲文化圏。

現代の神社でジャランジャランとやる原型ですね。
本坪鈴と呼ぶらしいけれど、崇神が出雲系の祭祀を取り込んで以降に登場と推定。

五十鈴の五十は「たくさんの」という意味を持ちます。
たくさんの船が集まってくる河口に住んでいた出雲のお姫様、それが媛踏鞴五十鈴媛だったと考えています。


現在の五十鈴川の地名は福岡と日向と伊勢で加えて長野。
それぞれがいつ頃からの地名かはわかりませんけれど、福岡の五十鈴川あたりが媛踏鞴五十鈴媛につながる地名ではないかと考えています。
興味深いのが長野の北佐久郡にも五十鈴川があること。
このすぐ下流に縄文からの上平遺跡があって、ここから巴型青銅器が出土しています。

三重県の伊勢の地名と五十鈴川、「伊勢」の地名は伊勢神宮由来(崇神以降)を除けば三重県にはない。
対して宮崎県日向には伊勢(浜)などがあります。
伊勢は崇神が日向から運んだ地名だと考えています。

伊勢津彦命とはいつの時代の人物か。
はしょりまして、伊勢津彦命とは奈良が開化崇神によって制圧された(AD250頃)後に脱出した出雲系人物である、が私の判断です。
現在の伊勢の五十鈴川河口付近にあった「伊勢津の彦」なる人物か。
脱出というよりは退去、崇神が政治的宗教的な支配力を強めたことに反発しての移住、と推理しておきます。

伊勢国風土記逸文は、地元の伝承を「日本書紀という偽を含む書」に準じて書かれているために伊勢津彦命があいまいな年代と人物像になってしまっている、というわけです。


BC200頃のタイのバンドンブロン遺跡では当時の最先端のおそらくはインド系の製鉄技術を持っていた。
日本では・・
AD100以前では天孫も出雲もほぼ100%が伽耶か伽耶経由の輸入だと考えています(魏志韓伝)、おそらくは銅も。
まだ鋼ではなく農耕用の「もろい鉄」ですね。
(記紀ではスサノオを追放していますが、伽耶がスサノオの「撤退先」とみております)

神武朝(AD36頃〜105頃)では綏靖と安寧まで出雲系の妃をいれており、出雲との合体王朝ともいえます。
したがって出雲文化圏でも望む量が伽耶から得られた。その原料がどこのものかはなんともいえませんけれど。
出雲文化圏では大己貴命時代(BC190頃、海人と推定)にまで遡って東南アジア系の金属知識と紀元前後での伽耶系の金属知識を持っていたと考えています。
天孫系譜では後漢時代の呉越系の金属知識と伽耶の知識を持っていたと考えています。
(知識のみで製鉄はやっていないとみる、輸入のほうが安上がりだったから。これは現代でも同様)

池上曽根での石器の消滅、すなわち鉄器への切り替えは「旧年輪年代法」ではBC50頃となります。
伽耶の鉄からみてもこれは早すぎる、持論とも符合しません(^^;
しかし、旧年輪年代法の誤りがほぼ明らかになって、100年ずれてAD50となるなら・・どんぴしゃ(^^)


銅あるいは青銅は各地からの原料が伽耶あたりで混合溶融されている可能性もありそう。
未発見なれどそのまま溶かして鋳型に流せばよい状態の青銅です、そうなると分析では産地の解明はできない。
もっとも、弥生中期以降の出雲文化圏では使い尽くされてまず残っていないと思いますけど。

北九州で天孫や出雲が青銅で作ったのは装飾品と剣でしょう。
神武朝では呉越から桃氏銅剣など、出雲系譜では燕など遼寧式青銅剣などを入手していたと思います。
参考図1 弥生の剣の形式分布です。
参考図2 剣の形状の詳細、縮尺は不統一。

吉野ヶ里や唐津の遺跡から出土するのは遼寧式の流れを汲む青銅剣で、半島南部に同じで出雲文化圏の剣だと思います。
対して倭人伝の伊都国とみなされる糸島半島、三雲遺跡などの出土物はいろいろがまじりあっているようで、鉄器あり銅鏡あり勾玉あり穀璧あり、甕棺あり周溝墓あり・・
あいにく三雲遺跡などは江戸時代に発掘されてほとんどの出土品が散逸(青柳種信が出土物を柳園古器略考に記録)。
(参考図2の福岡市聖福寺所蔵の剣はそのひとつとみられる)

兵庫県尼崎市の田能遺跡にも注目、弥生全期間にわたる遺跡のようで、甕棺墓と方形周溝墓あり。
白銅製釧の出土が興味深い。銅とニッケルの合金をどこでどうやって? 輸入品ならどこに釧を使う風習があるのか?
位置と年代と墳墓形式から出雲文化圏の遺跡とみえます。

熱田神宮の弥生伝世とされる草薙剣も白銅剣の可能性が高い(玉籤集、古代刀と鉄の科学/雄山閣)。
ま、始皇帝軍団の剣は青銅ですがクロームメッキ、白銅くらいで驚くことはないのかも。


えー、余談的を展開(^^;
持論では(^^; 魏志倭人伝での伊都国の文字は良字に置き換えられたもので、原型は委奴国イドコクだと考えています。
光武帝の金印「漢委奴国王」ですね。
持論では(^^; だれかがAD57に後漢の光武帝から金印をもらった、AD57とは神武の年代となります。
後漢書には・・自稱大夫 倭國之極南界也・・とあります。倭國之極南界とはどこか、論はいろいろありますが・・

興味深いのが最古級の鉄器が熊本の西弥護免遺跡の鉄器工房や宮崎県延岡市の上田下遺跡からでていること。
北九州ならいざしらず、熊本や日向から鉄器が出るのはなぜか。
(どうも宮崎県は遺跡発掘が進んでいない、もっとがんばってくだされ(^^; )

神武の誕生地は鹿児島である・・神話とジョイントしてゆきます。
神武の父とされる鵜草葺不合尊は大山祇神の母を持つ彦穂々出見尊と大綿津見神の娘との子。
海と山、海幸山幸神話とはなにか・・略
九州西岸、は海神族(その祖先は長江の三苗・・略)
九州東岸、日向には阿蘇源流の耳川、五十鈴川。
持論では天孫降臨は九州西岸(出水付近)と九州東岸(日向)の2ヶ所である・・略。
双方の結合、中間地点は鹿児島・・

魏志倭人伝には「奴国」がふたつでてきます(魏志では漢音でドコクと読むべきと思います)。
ひとつは北九州福岡付近で間違いないでしょう。
ではもう一つの奴国とは・・ヤマタイコク論いろいろあれどこれに論究するをみたことない。

持論では・・(^^; 単純明快(^^; もうひとつの奴国は神武誕生地の鹿児島だと考えています。
だから、後漢への使者は「倭国の極南界である」と奏上した、神武が九州北上を開始した故郷の国ですね。
(魏志倭人伝にはなになに奴国がたくさん登場、神武北上経路の国でしょう)

持論では(^^; 神武朝は出雲と天孫の合体王朝。伊都国、糸島付近の遺跡から出雲系と天孫系が混じり合った出土物がでて当然、となります。
余談的、終わり


神武朝以降、孝昭105以降の孝の字朝となって、状況が変わります。
北九州から出雲が排斥される時代、そして倭国争乱へ。
すなわち、AD100以降の出雲は伽耶との交易路を失い、出雲文化圏に供給されていた鉄と銅が途絶えた。

出雲文化圏では国内(九州以東)での鉄と銅の資源探索に必死となるでしょう。これが東北蝦夷の登場につながります。
秋田の自然銅、釜石の餅鉄、鬼板や黒姫山の褐鉄鉱などを発見した。
もっと以前から発見はされていたかもしれないけど。

秋田の荒川鉱山は江戸時代の発見ですが、古墳時代以降に忘れられていただけだと考えています。
(出雲の極秘事項であって、だれもしゃべらなかった(^^; )
岩手の餅鉄も同様じゃないかな。
先の参考図の枝状の自然銅は熱水によって自然精錬?された純度の高い自然銅のようです。
AD708、武蔵の秩父郡から自然銅が採れ、それを祝って年号が和銅になる、どんな銅だったのかなあ。

ましかし、それだけでは供給不足で、不要不急の青銅器は供出されてみな鋳つぶされて混ぜ合わされたのではないか。
荒神谷の青銅剣、薄手にみえる、材料不足か? 矛は形状から北九州時代での持ち込みかなあ。
これらの国内資源は現代のそこそこの探索程度では発見できなくなるほどに短期間で取り尽くされたとみています。

倭国争乱にて出雲が天孫に敗れた要因のひとつが武器の優劣だったと考えています。
天孫では神武以降で後漢製の鋼の鉄剣すら輸入可能だった(あいにく出土品はないけど、朽ちて消えたと思います)。
対して出雲は鋳なおし?の薄っぺらの青銅剣だけ、それすらも不足していた。

といった状況が弥生の鉄と銅のありようのおおまかな流れ、と考えています。


弥生製鉄の可能性は伊那史学会が1991年に鬼板を用いた実証実験を行い学会誌伊那1992年2月号で報告しています。
知識さえあればできた、すなわち弥生製鉄は存在したと考えています(純度の高い餅鉄であればなおさら)。
参考図3 学会誌1992年2月号から引用 実証製鉄炉と得られた鉄塊
この実証炉はタタラ型ではなく竪型炉ですね(竪型は伽耶系かなあ)。

この実験では精錬して(脱炭?して)小刀まで作っていますが弥生でそこまでできたかどうかは疑問。
脱炭しての鋼は少なくとも前漢では極秘事項のはずで、知識としての存在も?と思います。
鋼への「精錬」がありえるなら、神武以降の九州か。
弥生後期の「製鉄」であるなら広島県三原市の小丸遺跡が最古級である可能性あり。ここも位置的に出雲文化圏でしょう。

銅についても錫と一緒ならずっと低温で溶融することを知っていれば、純度の低い自然銅からでも鉄より容易に青銅が作れたと考えています。
錫を媒介として最初から青銅として抽出する、あいにく実証実験は知りませんけど(^^;



>阿波といえば、阿波忌部氏です。

千葉県にも忌部氏の痕跡が少なからずあり、木綿と紙とみえます。
千葉の忌部氏は豊城入彦命や日本武尊の東征の随伴者(祭祀者)だろうとみています(拠点は東京湾岸の市川〜船橋)。
忌部氏についてはいまのところ考察といえることはやってませんが、祭祀者と商人というふたつの性格があるとみています。
これは葛城氏も同様で、葛城氏が雄略に滅ぼされるのは、その経済力と影響力に雄略が脅威を感じたから、が一つの理由とみています。
忌部氏の場合は祭祀において中臣氏との葛藤があって飛鳥奈良あたりでは祭祀の主流からはずれてゆく、と考えています。
(中臣氏による鹿島神宮の登場、対蝦夷の拠点でもある)

忌部氏が金属資源に関わるとしても、東国に天孫系譜の勢力が広がる古墳時代以降だろうと思います。
(この頃に鉄などの金属資源探査を行ったのは物部氏配下の山師と推定、物部氏=海運と総合商社、軍需用ですね)

ただし、祭祀と直結する水銀朱(辰砂)についてはなんらかの独自行動をとった可能性があるかもしれません。
阿波は奈良から大分へかけての中央構造線上(≒水銀鉱脈上)にありますし。
自然銅の鉱脈も中央構造線上に少なからずあるようです。この時代での銅の主たる用途は装身具になってると思いますけど。






[11669] Re: 銅の道、鉄の道 かたばみ 投稿日:2014年 4月19日(土)10時09分
とみたさんへのお返事です。

>神武天皇は東征で長脛彦に敗れる

なにが主題だかわからなくなるので分割いたします(^^;

日本書紀は、天皇を万世一系とすること、神々の体系を一本化すること、その目的で書かれた書であり、そのための改ざんを含んでいる、が私の記紀を扱う基本線です。
古事記は「書紀に準じて」各種伝承をまとめた書。
風土記も同様で特に出雲国風土記と豊後国風土記や肥前国風土記など出雲とからむ風土記は要注意。

記紀やそれに準じた書をそのまま歴史とはみなせない。
記紀の情報を扱うにはそれを念頭に置かないと落とし穴に落ちると考えています。

確実を求めるなら、歴史(考古学)に記紀を(そのまま)からめてはならないとも考えています。
考古学が記紀をタブーとしているのは正しいと思っています。

可能性を求めるなら、話は違ってきます。
いつどこでだれがなにをしたか、の総合的な歴史観(仮説)を立てて記紀を解釈し、それと重ねてみる。
その歴史観に考古学上の事実を重ねて不自然や無理が生じるかどうか、このフィードバックと修正を繰り返す。
仮説の確実性を高めてゆくわけで、私の方法はこれです。

以前にもだしましたがその歴史観のまとめを図にしたものが以下です。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/kf99.html
(ここの大王系譜推定図)(ついでに出雲神族系統図)

もし、とみたさんが記紀の書く神武東征説話を事実と見なす立場から論究なさるのであれば、最初から土俵が違ってきます。
私の考えとのすれちがいが生じるかも(^^;
持論では神武東征説話は「AD30頃の神武の九州統一」と「AD250頃の開化崇神の奈良制圧」を合成したもの、だからです。

書紀には神武即位は辛酉の年と書かれています。干支は60年周期となるので辛酉はBC660やAD1やAD241を含めて繰り返されます。
紀元節では神武即位をBC660としていますが、明治の学者の那珂通世の説に準じているだけで根拠はなにもないです。
考古学的には古墳時代の始まりをAD250頃としますから、神武即位の辛酉をAD241とみなす考え方もあるようですが、これも根拠はないに等しい。
神武と卑弥呼が同時代の人物になってしまいすし(書紀には神功が卑弥呼であるかのような記述もみえる、おそらく後世での追補)。

そこで自己流の書紀年代補正の考察が始まった(^^;
古事記の書く年代を加味して物理的な手段によるものですがその過程は省略、何度も出していますが参考図


>呉楚の乱と弥生時代の渡来民と関係付けられていますがも少し補足いただけませんか

神話の歴史化へのもうひとつの考察になります。

日本神話の基幹となる天孫降臨とは何か(天之忍穂耳尊や天穂日命とは何者か)。
その4代後に神武が登場、記紀では神話世界から人間世界(歴史時代)へ、となる。
原則として記紀の書く世代数については大きな偽はないものと仮定しておきます。
書紀は天皇の世代数をいじらずに年代だけを古い方向へシフトしている、だからやたら長寿の人物が登場してしまうわけです。

天孫降臨が歴史上の事実を元にした神話であるなら、その可能性のある事象はあるか。
天孫降臨が高度な文化を持つ人々の渡来を示すならば・・
呉楚七国の乱に注目するのはそこです。
天孫降臨の年代が決まり、以降の人間世界も芋づる式に数十年程度の誤差で実年代が決まる。

高度な文化を持つ人々が、その故郷を捨てて海の向こうの未知の世界へ旅立つ。
人間は基本的に保守的ですから、生死にかかわるような事情がなければやらないでしょう。
大陸側でそれが起き得る事象は呉楚七国の乱(BC154)、それ以外には見えないです。
半島への脱出者もいたと思います、例えば新羅建国(新羅本紀BC57)の赫居世の三代前の「降臨者」です(魏志韓伝)。

呉楚七国の乱については自分のHPですが、ここの呉楚七国の乱に概略を書いています。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/kf09.html
中国文献による情報のみであり、WEB検索ででてくる内容以上のものはないと思います。

ついでにスサノオとは何者か。
同様に箕子朝鮮崩壊(BC194)からの脱出者、と考えることができる(魏志韓伝)。
まず出雲文化圏(スサノオ祖先)ありき、40年ほどの間に出雲文化圏が勢力を広げていて、そこへ天孫が渡来し抗争と戦火が広まる。
考古学的に北九州での戦死者が急増する時代です。


縄文末期から弥生初期には寒冷化や中国の戦乱から避難する渡来者が常にあったと思います。
これらが日本の弥生化の原動力、一般民であって農耕技術での影響が大半だと考えています。
初期の水稲や畑作などを持つ人々であり、遠賀川土器の広まりがそれを示す。
持論では初期開拓者と称しています。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/kf99.html
ここの大年神系譜と弥生農耕参照

箕子朝鮮崩壊と呉楚七国の乱からの渡来者はどちらも王族級の人物であり「武力と権力」という王の意識を持つ人物で一般民とはまったく違う、だから「降臨」と称する。
そういう集団のぶつかりあいが地元縄文系と先着の初期開拓者を巻き込んで、北九州での大量の戦死者となった、と考えています。
基本的には甕棺葬がブームとなる時代でもあります。

なお、地元縄文系文化とその巫女が記紀での天照大神のイメージ原型と考えています。
これが後の伊勢神宮内宮です。伊勢神宮外宮は豊宇気比賣神で初期開拓者の文化(農耕)を代表すると考えています。


記紀の記述では出雲の大国主命(あるいは大己貴命)の国譲りは天孫降臨の時です。
出雲の存在は天孫降臨以前であり、その後に「出雲」は存在しないことになっています。
にもかかわらずその4代後の神武は出雲の媛踏鞴五十鈴媛を妃としたと書いている。
天孫降臨と神武登場がほぼ同じ年代となってしまいます。
矛盾を書いているわけで、その矛盾ゆえに大国主命には六つの別名があるなど、時代の異なる別人をごちゃ混ぜにせざるを得ない解釈も生じてしまう。


はしょりまして、持論の歴史観では天孫降臨はBC150頃(天之忍穂耳尊の渡来)。
神武の登場(誕生)は1世代を20〜30年とみなすならBC25頃となります。

古事記に書かれるスサノオから大国主命までの出雲系譜の世代数は7代、約180年前後。
大国主命の年代を箕子朝鮮崩壊BC194から180年後とすればBC10頃であり、天孫降臨からみた神武の年代とほぼ同じになる。

先の書紀年代復元では神武の「即位」はAD33となります。
ふたつの方向からの考察がほぼ一致する・・神武と大国主命が活動した年代は西暦AD1前後である。

記紀の書く国譲りとは、紀元前後に大国主命が北九州を神武に譲り、神武が九州を統一したことを示す。
奈良纒向に開化崇神が新政権を作るのが古墳時代のはじまりであり、崇神(持論248-273頃)となります。
(それ以前での九州を除く地域は出雲文化圏でありその中枢は奈良の唐古・鍵にあったとなります)

箕子朝鮮崩壊からの脱出者が出雲の祖であり、呉楚七国の乱からの脱出者が天孫の祖である。
間違いないと考えています。
これを図で総括したのが先の大王系譜推定図です。

いったん段落



[11668]Re: [11666] Re: [11646]大祓の祝詞の女神 琉球松 投稿日:2014年 4月17日(木)11時17分
神奈備さんへ

 待つだけの女性も多いと思いますが、卑弥呼や百襲姫などは活発ですね。
 奄美沖縄を創造した「アマミキヨ」も、土やらなんやらを担いで来て島々を造っていて、まさに男勝りな女神です。
 中国神話に登場する「西王母」や太陽神「魃(バツ)」も荒々しい部分があって、 魃はそれこそ混乱した人間界に "バツを与える" ほどです。
 これら女達が活躍する時代はだいたいが混乱期で、フランスのジャンヌダルクのような女神?も登場しますね。

 ですからどうでしょう? 日本の女子サッカーチームに「大和撫子」なんて美称は相応しくないのではないでしょうか(笑)。


[11666] Re: [11646]大祓の祝詞の女神 神奈備 投稿日:2014年 4月14日(月)20時46分
> 愚考するに、女神は元来的に棚機津女(タナバタツメ)なのでしょう。
> 日本の古代信仰の根幹に関わるのが来訪神とその神妻の棚機津女、、、
> 記紀神話自体が折に触れてまさにこの棚機津女の信仰を下敷きにした筋書き。

 「水の女」に描かれた棚機津女は神を待つ存在です。古代の女性、女神と見なされる程の女性がただ待っている言うだけの消極的な存在だったのでしょうか。稲田姫にはそんなところがありそうですが・・・

 伊弉册尊の ええ男と言う。
 天照大神  男の衣装で武装する。
 神功皇后  同じく。
 下照比売  男神を歌い上げる
 天


[11665]Re:[11661] 銅の道、鉄の道 とみた 投稿日:2014年 4月 7日(月)11時40分
たばみさんへのお返事です。
かたばみさんの蘊蓄は広いですね、フォローー有難うございます。花に浮かれて返事が遅れました失礼をお許し下さい。
想像や推定は極力減らして確実な情報を求めております。

インターネットで検索すると研究者の論文が見つかります。
鉄の道は、多くの方が探求されています。

おおよそは定まってきました。弥生前期末ー中期初頭に中国東北(遼寧)から鋳造農耕具の刃先が中国から直接か朝鮮経由かで伝わり、それを破砕、分割してその破片を木の棒につけて木工具とし、農耕具に使ったようです。磨製石器の石の代わりでしょう。
中期後葉ー後期になって、初歩的な鍛造で、柔らかい鉄を加熱して石槌で叩いて加工し,鑿切りしたり曲げたりしたようです。
後期ー古墳時代前期には、可鍛鋳鉄と言って、焼き鈍し脱炭法で鉄斧の表面に脱炭層を作り、丈夫にした素材を輸入して使うようになった。倭鍛治でしょう。農耕は生産性が高まったのでしょう。
この段階では、日本列島ではまだ精錬(不純物を除く)はできず、輸入ものに頼った。一部、水辺で取れる水酸化鉄=リモナイト=褐鉄鉱は国産で使われたという説もある。

では銅はどこから来たか。これがつかめません。
> 弥生時代のどのような勢力がなんのために銅を必要としたか。
> 輸入するとしてもどこからどのように、が問題になりますし。

> 弥生に大量の銅を必要とした勢力、銅鐸を生産した勢力とは、ということになると思います。
> まずは小銅鐸と銅剣などの武器、ついで大型銅鐸や祭祀用の銅矛。
> 出雲文化圏の人々しかみえません。
> (近畿中心史観からは銅鐸に関して目をつぶる傾向ありと思っています(^^; 唐古・鍵から銅鐸鋳型がでてるのに)
 銅鐸の鋳型と工房の代表は、鬼虎川遺跡です、横型流水文。淀川茨木の東奈良遺跡は縦型流水文。
鬼虎川は河内湖の日下で物部氏の陣地、神武天皇は東征で長脛彦に敗れる。
東奈良は三島溝咋で孫娘が神武に娶られる。五十鈴とかタタラという名がついているのは如何にも金属製錬業者を思わせます。

考古学と神話の間に何か真実が隠されていそうです。
> 私は森浩一説、自然銅利用に賛同です。
> 日本でも自然銅は産出するようで、出雲文化圏の東へ広まる原動力に自然銅探索が重要なきっかけになったと考えています。

上垣外憲一さんの謎の4世紀(学生社)を読むと、御所市の銅鉱山(朝町銅山)が紹介されています。
東奈良や鬼虎川や唐古の工房で作られる銅はどこから来たか。
東奈良には東阿波式土器が行っておりまして一説では、水銀朱を阿波から運んだとされています。
でも、出雲の荒神谷の銅剣、銅鐸の分析を鉛同位体分析という確立された手法を用いた分析(馬淵久夫)によれば、
一部は中国華北で多くは朝鮮の鉛・銅が使われていると結果が出されている。
難波洋三さんによれば、弥生中期後半以前は、朝鮮の銅を使い、中期後半以降は中国産の銅とされています。
ところが鉄の専門家の新井宏さんは。馬淵さんの分析では神岡鉱山の鉛は無視されているとクレームしています。

阿波といえば、阿波忌部氏です。神武東征のときに神武の命に従い伊勢津彦をやっつけます。伊勢津彦はやはり鉱物に関係がありそうです。

阿波忌部も木綿だけでなく玉や鉱物に関係があるような気がしますね。阿波は水銀で有名な若杉山遺跡が有名ですが銅は取れるのでしょうか。別子銅山などもその延長にあるようですが。中央構造線では何が取れますか。
自然銅にも製錬しやすい、赤銅鉱や孔雀石などの酸化銅鉱石と、製錬が難しい黄銅鉱などの硫化銅鉱石があるようですが弥生時代から精錬技術が存在していたのでしょうか。

少しずつ具体的な論にしたいのですが、何方か教えていただけるとありがたいのですが・・・

by the way かたばみさん。

呉楚の乱と弥生時代の渡来民と関係付けられていますがも少し補足いただけませんか。
前漢景帝(武帝のオヤジ)の時代紀元前154年の時代の争乱だと思いますが・・・




[11664] >Re: 白鳥神社 たぬき 投稿日:2014年 4月 6日(日)14時04分
PONTAさんへのお返事です。

> 仲哀天皇の御世に建てられた白鳥神社としては、香川県の白鳥神社が有名です。
> 白鳥になった日本武尊は、尾張ではなく、大和、河内を経て、讃岐国大内郡鶴内に舞い降りたそうです。


伊弉諾神宮を基点に冬至の入り日方向が讃岐の白鳥神社。(そのズーっと先は高千穂神社。天岩戸等)
伊弉諾神宮の夏至の御来光方向に建部大社。
同じライン上には各地に伊弉諾大神様が数多整列して鎮座坐す。
和泉一宮の大鳥大社は、真西に伊弉諾大神(現在は八幡宮。後ろ別地に伊弉諾大神。伊弉冉大神。)、真東に三輪山。


[11663] Re: [11646]大祓の祝詞の女神 たぬき 投稿日:2014年 4月 6日(日)13時26分
神奈備さんへのお返事です。

> 瀬織津比売
> 速開津比売
> 気吹戸主
> 速佐須良比売
>
> 瀬織津比売は天照大神の荒魂とされています。
> 速開津比売 月神とか瀧原宮の神とか伊豆能売神とする説があります。
> 気吹戸主 豊受大神の荒魂とする説があるそうです。
> 速佐須良比売 須佐之男命の娘の須勢理毘売と同じ神であるとする説もあるそうです。
>
> いずれにしろ、気吹戸主については、大祓では比売神としていませんが、女神かもしれません。
>
> 黄泉の国で伊弉諾尊を追いかけるのは、冥界の鬼女八人あるいは泉津日狭女となっており、穢れの中でうごめく神やそれを祓ってしまうのも女神といえそうです。
> 何故でしょう。
>
愚考するに、女神は元来的に棚機津女(タナバタツメ)なのでしょう。
日本の古代信仰の根幹に関わるのが来訪神とその神妻の棚機津女、、、
記紀神話自体が折に触れてまさにこの棚機津女の信仰を下敷きにした筋書き。
また、神代には末子相続と妻問の通い婚(生まれた子供は妻の実家で養育)、
妻が跡取り娘(末子の惣領娘)の場合は伴侶の婿(入り婿)は妻側の権利権力、資産領土一切を引き継ぐ

(各地に単に女漁りだけしているわけではない。領土支配権の拡大が根底にあり)

棚機津女、、、(後に外来の七夕祭りに習合して元来の意味が不明と成って現在に至る)
地域等を支配する長者の家(王家)や一族等から選ばれた年少の清らかな(未通女)の乙女(巫女。姫巫女)が、精進潔斎して集落の外れの清流の川縁の忌機織殿(屋)にお籠り(外界、俗世間とは隔絶)に成って
期日に来られる来訪神(一切の災厄や罪穢れを祓い去り、幸福、豊穣をもたらす外来の有難い神。)に捧奉る幣帛を日々機織りしつつ待ち続ける巫女。
期日の夜、来訪神に日々機織った幣帛と自らの操を捧げて神の一夜妻、神妻と成った棚機津女(巫女)は、以降は来訪神と同様、同等に崇敬される。

(もし、天照皇大神(スサノオノミコト)が来訪神と観念されていれば、棚機津女、、、神妻の大日靈貴命。は以降は天照皇大神と同様に扱われる仕儀。これは非常に重要かつ重大)
翌朝夜明け前に来訪神がお帰りになる際には、謝礼として今は神妻と成った棚機津女(巫女)の一族、土地地域の一切の災厄や罪穢れを祓い去り(解除)、豊穣や幸福を与えて下さる


[11662] >Re: 銅の道、鉄の道かたばみ 投稿日: 2014年 3月28日(金)11時12分
> とみたさんへのお返事です。

追申
古代鉄に関してこちらによさそうな情報がたくさんあります、ご参照ください。
異説・たたら製鉄と日本刀
http://ohmura-study.net/400.html


[11661] Re: 銅の道、鉄の道かたばみ 投稿日:2014年 3月26日(水)20時50
とみたさんへのお返事です。

蛍光X線分析で黒曜石の出自を分析するのを見学したことがありますが、割ってきれいな面を使っていました。
銅器はわかりませんが、土中鉄器だと周囲の土中の成分の浸透も問題になるみたいですね。
雑成分を除外するには研磨が必要で非破壊分析とはゆかず、文化財だとそれができない。
その結果が出てもそれをどう解釈するか・・どうしても「解釈」の要素を含まざるを得ず、分析だけでは解決できないと考えています。

弥生時代のどのような勢力がなんのために銅を必要としたか。
輸入するとしてもどこからどのように、が問題になりますし。
しかしながら、歴史としての弥生の氏族の動向や勢力分布はまったく不明(断片として中国史書)。
骨があれば形態やDNAである程度はわかっても甕棺葬以外ではまず骨は残っていない。


持論の歴史観に重ねる他はなし(^^;
弥生に大量の銅を必要とした勢力、銅鐸を生産した勢力とは、ということになると思います。
まずは小銅鐸と銅剣などの武器、ついで大型銅鐸や祭祀用の銅矛。
出雲文化圏の人々しかみえません。
(近畿中心史観からは銅鐸に関して目をつぶる傾向ありと思っています(^^; 唐古・鍵から銅鐸鋳型がでてるのに)


銅、最古はトルコのチャユヌ・テペシ遺跡の自然銅かなあ(BC8000〜BC6000)。
私は森浩一説、自然銅利用に賛同です。
日本でも自然銅は産出するようで、出雲文化圏の東へ広まる原動力に自然銅探索が重要なきっかけになったと考えています。
参考図、秋田県大仙市の自然銅。

錫は兵庫県の明延鉱山か、ある時期では日本の錫生産のほとんどだったそうです、
錫は錫鉱石と炭での加熱の知識さえあれば融点300℃の液体で容易に得られるらしい。
銅単体での利用より最初から銅と錫の合金、すなわち青銅が使われたという論もあるようです。

鉄は岩手県釜石の餅鉄が日本での最初であり、これも出雲文化圏の探索部隊が発見して使ったと考えています。
(不純物のきわめて少ない磁鉄鉱の塊)
参考図、釜石の餅鉄(同志社大学所蔵、これは親指サイズのようです)


ちなみにタイのバンドンブロン遺跡(BC300〜BC200)では粒状水酸化鉄を炭で直接還元する製鉄法が行われています。
粒状水酸化鉄とは粒状の褐鉄鉱、これを炭で直接還元するものでこの地域に大量に存在します(東南アジアの考古学/同成社)。
おそらくはインド系の製鉄法の流入ではないか(ウーツ鋼→ダマスカス鋼、その技術は失われて製法は謎)。

中国で鋼の剣(宝剣)として登場するのが戦国時代の呉越で南から。
やはりインド〜東南アジア経由の製鉄法の流入によるとみています。
秦の始皇帝の軍隊は青銅剣です。鉄は存在したが中央アジア系で武器には使えない鋳鉄とみえます。


さて、日本の弥生・・大己貴命や少彦名命、東支那海系の海人と推定しております。
(甕棺葬をブームにしたのもこのグループとみております)
銅や鉄の知識を呉越などから九州北部の出雲にもたらし、出雲は東国へ探索部隊を送り出した・・なはは(^^;
長野県黒姫山では褐鉄鉱、秋田県大仙市では熱水鉱床の自然銅、岩手県釜石では餅鉄を発見した。

すなわち銅鐸の多くは国産自然銅(錫)であり、後には鋳つぶされて銅鏡にされたものもあっただろうと考えています。
池上曽根遺跡では石器や石槍が破棄されています、この頃に鉄器が出回り始めたからだとみています(まだ鋼鉄はない)。
おそらくはこれらの自然銅や餅鉄は短期間で取り尽くされたのではないか。


砂鉄による製鉄(タタラ、鋼鉄)の登場はまだまだ先ですが、タタラの主要構造には大船、小舟の呼称があります。
参考図 台湾南部〜フィリピンの島嶼にあるヤミ族の船はタタラという(Yami、アミ族ではない)。
固有の装飾彫刻などはすでに失われているようで、写真の船首には十字架が・・(^^;

少彦名命の乗ってきた船、外洋航海のできるタタラ類似の船であったと考えています。
(フィリピンには大陸から移住とされる小柄なネグリト族あり)(尭舜禹時代の伝説に三苗と呼ばれる種族あり、良渚文化周辺)
大己貴命の船はもっとでかい交易用で東支那海沿岸か。
沖縄の双胴サバニはジャワまで航海していたようで、縄文末期〜弥生あたりで交流があったかもかも。

日本の砂鉄と東南アジア経由の製鉄法の合体が後の日本のタタラ製鉄の起源だと考えています。

BCゼロ〜弥生では伽耶の鉄、箕子朝鮮〜衛氏朝鮮では戦国の燕と関係深く、おそらくは中央アジア系の製鉄の情報が流入。
箕子朝鮮崩壊から南へ脱出した人々(韓を自称、持論でスサノオの母体)が伽耶で鉄鉱石を得たのが起源か。

では天孫降臨・・持論では呉楚七国の乱からの脱出者。
製鉄や青銅技術者が随伴していたかもしれない。しかし周辺環境が整わなければその世代だけで技術は消滅すると思います。
当時の天孫族の周囲は出雲文化圏、天孫系の高度な鉄や銅、造船技術などは失われたと考えています。


東国(出雲文化圏)では餅鉄との複合でタタラ製鉄の原型が登場し出雲の消滅で蝦夷等がこれを継承したと考えています。
平安時代では中国北方系の製鉄がメインとなり、蝦夷等のタタラ製鉄は禁止されて地下に潜った(古代刀と鉄の科学/雄山閣)。
鎌倉時代となって農耕具の大量生産の必要によってタタラ製鉄が復活すると考えています。





[11660]Re: [11647] みおつくし 神奈備 投稿日:2014年 3月21日(金)16時20分
言蛇さんへのお返事です。

淀川の遊女は川の中に船を泊めて商売をしたと言われています。川は流れるものですから、船を泊める杭は必要だったと思われます。あまり岸に近いと覗かれるかもしれないので、川辺の立木ということにはならないでしょう。そういう意味では川の中に立っている澪標は手ごろだったでしょう。

さて、富士山の柱らしきものは、澪標とは見えません。小屋の屋根や壁がなくなってしまったように見えますが、何でしょうか。



[11659]Re: [11647] みおつくし言蛇 投稿日:2014年 3月19日(水)12時38分
神奈備さまこんばんわ。

富士山に登ったとき火口の淵にあった木の標が不思議だったのですが、
神奈備様の記事で疑問が解けました、ありがとうございます。
写真が富士山火口西側にある澪標です・・・それにしても何故、富士の火口に澪標?
これは新たな課題になりますね。

> 難波の川の浅瀬に、船が通れる深い場所を示す標識が立てられていました。澪標(みおつくし)と呼ばれ
>
> ています。
> 大阪市章のデザインに使われています。
>
> 一体このデザインにはどのような意味が込められているのでしょうか。
>
> 水路とそうでない所との区分を示すマークですから、境を示すもので、境の神の像だろうと考えています
>

船の舳先を港につなぐ舫のイメージじゃないでしょうか?

「渡り守 舟出し出でむ 今夜のみ 相見て後は 逢はじものかも(万葉集2087)」



[11658]Re: 銅の道、鉄の道神奈備 投稿日:2014年 3月18日(火)09時38分
とみたさんへのお返事です。

> 弥生時代の銅の産地はどこでしょうか。教えていただきたいものです。

銅はどうでしょうか。しばらく勉強いたします。



[11657]銅の道、鉄の道 とみた 投稿日:2014年 3月11日(火)12時07分
最近、弥生時代の鉄と銅の道に関心を持っています。
銅鐸や銅鏡は青銅でできています。
銅と錫と鉛を混ぜて作りますが、銅はどこから仕入れたのかが判然としません。中国華北か華中か華南か。どこから仕入れたのでしょう。鉛も朝鮮半島のものとする説と日本の対馬や神岡の説があります。

銅は鉱山で鉛同位体比が違うのでそれで分析がなされています。
冶金学者や化学分析専門家でも異なる意見です。
馬淵久夫先生、新井宏先生、難波洋三先生などで意見が異なりますね。
また考古学者の森浩一先生は、日本の自然銅を使ったのではないかとする説もありえますが、一般にはリサイクル品利用説が支配的でしょう。

弥生時代の銅の産地はどこでしょうか。教えていただきたいものです。



 [11646]大祓の祝詞の女神神奈備 投稿日:2014年 3月10日(月)20時57分
瀬織津比売
速開津比売
気吹戸主
速佐須良比売

瀬織津比売は天照大神の荒魂とされています。
速開津比売 月神とか瀧原宮の神とか伊豆能売神とする説があります。
気吹戸主 豊受大神の荒魂とする説があるそうです。
速佐須良比売 須佐之男命の娘の須勢理毘売と同じ神であるとする説もあるそうです。

いずれにしろ、気吹戸主については、大祓では比売神としていませんが、女神かもしれません。

黄泉の国で伊弉諾尊を追いかけるのは、冥界の鬼女八人あるいは泉津日狭女となっており、穢れの中でうごめく神やそれを祓ってしまうのも女神といえそうです。
何故でしょう。



[11655]大祓の祝詞の女神 神奈備 投稿日:



[11654]Re: 「11653」 Re: [11650]Re: [11647] みおつくし 琉球松 投稿日:2014年 3月 5日(水)10時59分
神奈備さんへ

 お付き合い、どうもです。
 この程度の思いつきはスーっと流してもらっていいですよ。
 「足一つ騰がりの宮」。。。ん〜、神奈備さんも罪な方ですね(笑)。


 「11653」 Re: [11650]Re: [11647] みおつくし神奈備 投稿日:2014年 3月 3日(月)13時54分
琉球松さんへのお返事です。

ありがとうございます。

>  思いつきですが。。。なんか漢字の「又」と一本の棒が組み合わされているようにも見えます。
>  女性性器に男根が挿入されているのでしょうか?
>
>  あるいは、銅鐸などに表現されている高床式家屋や中国雲南省の原初的建造物のようにも見えます。

ギョっとするアイデアですね。

又の字には and や or の意味がありますが、股のような意味は見当たらないようです。

宇佐に出てくる一つ騰がりの宮のような建物もそうかもしれませんね。



Re: [11651] Re: 丹生の研究について 宮本634 投稿日:2014年 3月 2日(日)18時52分
神奈備様。
早々のお返事ありがとうございました。<(_ _)>



[11651] Re: 丹生の研究について 神奈備 投稿日: 2014年 3月 2日(日)15時31分
宮本634さんへのお返事です。

 『丹生の研究』で水銀濃度が一番高い場所は和歌山の伊太祁曽神社の境内の土壌だったように記憶しています。この近辺に水銀鉱山があったと言う気配はありません。

 丹生神社は鎮座していたようですが、紀北ではどこでもよくあることです。

 奈良県宇陀市の水銀鉱山付近の濃度も相当高い数字だったと記憶しております。

 その土地の水銀濃度は水銀鉱山の存在の十分条件ではなく、必要条件だと言うことでしょう。



>[11650]Re: [11647] みおつくし 琉球松 投稿日: 2014年 3月 2日(日)11時04分
神奈備さんへ

 これ、面白いデザインですね。
 思いつきですが。。。なんか漢字の「又」と一本の棒が組み合わされているようにも見えます。
 女性性器に男根が挿入されているのでしょうか?

 あるいは、銅鐸などに表現されている高床式家屋や中国雲南省の原初的建造物のようにも見えます。
 雲南省文化の倭人的特徴である「御柱に支えられた家の上には千木・集落の入り口には鳥居と男女交接を表現した注連縄」などと繋げて考えるのも面白いかもしれません。


 [11649] 丹生の研究について宮本634 投稿日:2014年 3月 2日(日)01時31分
こんばんは。ご無沙汰しております。

神奈備様も読まれたことがあると思う「丹生の研究」で、松田先生は矢嶋先生の分析結果を頼りとしておりますが、実際矢嶋先生が、「これだけ水銀濃度があれば、ここに水銀鉱山があったといえる」と言ったことを書いた論文を見つけられずにいます。もし、そんな論文をご存知でしたら教えてください。

私が調べたものでは、矢嶋先生は、水銀濃度がこれ以上あったら水銀鉱山があると言うことがいえないかと思って、松田先生の仮定(丹生の地名=水銀が採れた地)から、自分の研究の突破口をみいだそうとしていたようですが、矢嶋先生の書物を読むと道半ばで、丹生と水銀との関係に関する自分の研究に関し、学者なかまから笑われるであろうがこれからもこの研究を続けたい、みたいなことがかかれている論文しか見つけられませんでした。

また、松田先生の弟子?の西田先生も、丹生の地名で、3世紀以前で実際に水銀が出たのが分かっているのは1箇所だけと書かれ、またこの研究の結論についてはこれから研究するものに託したいと書かれ、丹生=水銀が出た地と書かれた松田先生の論を肯定はされていません。

丹生の研究は仮定の上に仮定し、あまりにもいろんなことに裏づけがなく、その裏づけの1つである矢嶋先生のそう言った論文が本当に存在するのか調べています。どうも丹生の研究が書かれた年までにはそのような論文が存在していません。

また、松田先生は根拠なく「丹」は水銀を表すとかかれていますが、現在の文化財研究などでは、「丹」を「辰砂」の意味で使われた文献はないとも書かれており、実際「丹」は鉛丹、赤土で使われていたようです。実際ある考古学博物館などは、鉱石を展示し、辰砂・・・水銀、丹・・・赤土と記載されていました。文化財を研究している方は「青丹によし」について、辰砂は、日にあたると変色するため、屋内など日のあたらないところに使われている。つまり、枕詞になるような多くの人が見る「丹」は赤土の赤であるとも書かれています。他の文化財担当者などに聞いても丹は赤土との回答でした。

松田先生は大学の先生なので松田先生の「古代の朱」を読むと、ついつい信じてしまいますが、理科系のものから見ると結構数値の取り扱いやや論述におかしな部分が多々見られ、実際のところを調べようと思った次第です。ご教授のほど宜しくお願い致します。




 [11648] Re: 弥生時代再考かたばみ 投稿日: 2014年 3月 1日(土)18時18分
とみたさんへのお返事です。

土器絵にみえる建築物。
参考図、奈良の92、93は唐古・鍵出土。
山陰の16は鳥取の稲吉角田遺跡出土。
あいにく九州では建物の土器絵はみあたらない。

出雲大社の内部構造は住居のそれを後にシンボライズしたもので、まず間違いないと思います。
大社造りの妻入りは積雪地であるため、と考えています。
島根の出雲熊野大社、神魂神社も同様、この地域での「常識的な建築」だったのでしょう。
屋根から落ちる落雪、それの起きる側からの出入りは不便で危険、そういう理由ですね。

鳥取の稲吉角田遺跡の土器絵は後の出雲大社の高層を思わせます、強調されているかもしれないけれど。
そこまで高層にする理由は不明なれど、灯台や見張りの目的があったのではないかと考えています(三内丸山にもつながるもの)。


対して伊勢神宮など平入り高床の場合は温暖地域での倉庫が原型と考えています。
弥生、集落の最重要は穀物類の保存であって、人間の住まいは二の次(^^;
温暖なら人間は地べたに藁でも敷いて寝ればよい。

穀物保存では湿気で腐らないように、ネズミに食べられないように、風通しの良い高床が最良。
(建物のシロアリ被害を防ぐなんて工夫もあったかもしれない、なんらかの薬草を用いるとか)
雪の問題を考慮する必要もない、倉庫としての使い勝手優先、平入りが便利。内部に間仕切の必要もない。

農耕での倉庫、これがシンボライズされ神殿化していったのが神明造りだと考えています。
伊勢神宮の遷宮は焼畑をシンボライズしたものである、の持論にもつながるところです。

高床は根源的には東南アジアの高床でしょう。その文化の北上路のひとつが西南諸島。
西南諸島の高床は奄美諸島以北では九州側のそれと同じで、沖縄側とは異なるそうです(技術と民族/小学館)。
種子島の宝満神社には鵜草葺不合尊が白米を播いたという伝承があります。
おそらくはこの頃に九州側の稲作に伴う文化が奄美付近に南下して高床の違いが生じたのだろうと考えています。


唐古・鍵の渦巻き文様を伴う(出雲文化圏の)建物、中国文化の影響下のものと考えています。
(特に山東半島の斉、斉国歴史博物館、いってみたいところのひとつです)
高床の倉庫もあったはずで、多雪地域ではないからおそらくは平入り。
吉野ヶ里の建築も唐古・鍵と同類だろうと思いますが、あいにく九州の建築の地上部はまったく不明。

池上曽根遺跡の建築(持論では出雲文化圏)も平入り、倉庫形式の高床、だろうと思っています。
実際に隣接して竪穴住居とみえる跡がありますから、こちらは土間床に寝る住居跡。
ただし、海岸故に灯台、見張りの用途を持つ高層建築もあったのではないかと思っています、渦巻き文様付きの。
その地の環境にあわない建築であれば短期間で消えると思います。

神武さんの建物はどうかなあ(持論、九州北部)。
呉越文化の影響が残っていたかどうか。





[11647] みおつくし 神奈備 投稿日:2014年 2月27日(木)17時58分
難波の川の浅瀬に、船が通れる深い場所を示す標識が立てられていました。澪標(みおつくし)と呼ばれています。
大阪市章のデザインに使われています。

一体このデザインにはどのような意味が込められているのでしょうか。

水路とそうでない所との区分を示すマークですから、境を示すもので、境の神の像だろうと考えています

。上の逆三角は顔、斜めに伸びている二本は両腕、それに身体がついている形だと思います。
 この形と御幣とは似ているような気がします。境の神は性神です。御幣も男根と見なされており、ずばりと思っていますが、いかがでしょうか。




[11645]Re: 弥生時代再考 神奈備 投稿日: 2014年 2月23日(日)08時56分
とみたさんへ。

> 纏向の巻向駅近くの建物との関連が興味深い。この建物は神戸大の黒田先生は伊勢神宮と出雲大社のルーツとみなされていますね。

> 黒田 龍二 先生
> 纒向遺跡の倉庫=宝庫を源流とし、正殿以外での祭祀を行う伊勢神宮、纒向遺跡の王宮を起源に、本殿内での祭祀を行ってきた出雲大社。


建物の特徴は
 伊勢神宮 建屋の中に柱がない構造、倉庫風。
 出雲大社 柱が部屋の中央を貫いている構造で、部屋割りができる。居住空間風。
です。

 纏向遺跡には倉庫と住居とが並んで発掘されているのは、面白いことですが、考えてみますと、宮殿には倉庫と住居は付属しているのが当たり前といえば当たり前のこと。

 そういう意味では、卑弥呼の時代には既に宮殿の原型ができあがっており、合理的な構成であるということで、それ以降もそのスタイルが継続していったのでしょう。

 難波宮も宮殿の北側に倉庫群が発掘されています。天皇の住居は大阪城の堀になっているようで、出てきませんが・・・・

考古学者で注目しているのは、岸本直文先生です。聖と執行の二重政権説は面白いと思います。
また
 岸本直文氏編の『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』。

松木武彦先生。
人はなぜ戦うのか―考古学からみた戦争 (講談社選書メチエ) [単行本]松木 武彦 (著) 。




 [11644]弥生時代再考とみた 投稿日:2014年 2月22日(土)08時59分
文献と考古学を合わせ読む。ただし短絡は極力避ける。この姿勢で弥生時代を探っています。
まあ、ボケ予防の処方でもありますがクイズを解く感覚で楽しい。

弥生時代追求には、芦屋市教委の森岡秀人先生、京都府埋蔵文化センターの高野陽子先生、専修大の高久健二先生、埼玉大の中村大介先生、広島大の野島永先生の論文が非常に有用だと思っています。

森岡先生は、近江の守山市伊勢遺跡を重要視されています。近江式土器の研究や高地性集落のことに深い関心を寄せておられます。
纏向の巻向駅近くの建物との関連が興味深い。
この建物は神戸大の黒田先生は伊勢神宮と出雲大社のルーツとみなされていますね。
このあたりに興味を持っておられる方はいますか。


[11643]Re: [11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演神奈備 投稿日:2014年 2月12日(水)11時21分
かたばみさんへ。

> そしてなことでありまして、歴史上の「事実」と照合して説明できない部分はないと思っています(^^;
> 記紀の記述から考えるのは危険(どんな策謀があるかわからない)。
> 事実あるいは可能性の高い事象から歴史を仮定する、そこから記紀の内容を考える、そのフィードバックの繰り返しが私の方法です。

 『記紀』は考古学を裏切らない。と言われます。
 土を掘ったわけではないのですが、「七支刀」が存在している事は、4世紀の事柄がしいかりと記述されていることからも言えそうです。
 おっしゃる通り、文献と事実を往復して考えていくことがアプローチとしては最適なものと思われます。



[11642]Re: [11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演 かたばみ 投稿日:2014年 2月10日(月)22時07分
神奈備さんへのお返事です。

> まず、『古事記』は、雄略天皇をどのようにとらえているのか。

持論の歴史観による雄略とその周囲の系譜をかいつまんで。
で、壬申の乱を経て即位する天武持統、元明707-714、元正715-723がこれを古事記と書紀でどう扱うか、どう記述するか・・
自らの立場をどのような場所に置いて過去を記述するか、これによって記紀の内容はずいぶん異なってくると思っています。


神武朝(九州、神武 36- 66〜懿徳 92-105)、九州以東の出雲との共存。
孝の字朝(九州、倭国争乱、孝昭105-137〜孝元204-225)、九州衰退、壹與にて崩壊、開化225-248の近畿出雲制圧。
奈良に近畿王朝、崇神248-273〜景行311-333で安定化、成務333-356で中央集権化、仲哀356-360で九州勢力の復活
九州勢力は日本海勢力と結合(旧神武朝と出雲の複合体の末裔にほぼ等価と推定)。

九州勢力は近畿王朝の仲哀を暗殺(おそらくは七支刀銘文の倭王旨)、その子の応神386-402が近畿を支配。
この頃に百済から本格騎馬の導入(武内宿禰)。
アンチ新羅にて半島進出、鉄の確保。拠点は半島南西部(半島の前方後円墳)と伽耶(旧出雲と親密地域)。
百済と共に高句麗と抗争、広開土王碑あるいは好太王碑における倭軍。

近畿支配力の低下によって仲哀の縁者(日本武尊の縁者)である仁徳が近畿王となる(支援は葛城氏族)。
応神と仁徳の内乱、政略結婚(仁徳の妃となる矢田皇女など)。
九州倭国の応神死去(推定412)、継承者は子の菟道稚郎子=倭王五代の初代、倭王讃。
近畿倭国の仁徳死去(434)、継承者は応神との政略結婚の子等、履中434-437、反正437-439、允恭439-454。

九州倭国は半島にて抗争継続、応神の子の若野毛二俣王=倭王五代の2代目、倭王珍。日本海勢力と緊密。
半島の抗争一段落、倭王五代の3代目の倭王済=安康454-456が允恭から近畿王を再び奪取、倭国の統合。
倭王五代の4代目、倭王興=雄略456-489、九州〜近畿〜関東を支配(稲荷山鉄剣銘文)。
仁徳系譜の支援者であった葛城氏族の滅亡。
百済の滅亡(475)

東国支配強化のために倭王興は九州倭王を倭王武(武烈498-507)に譲位(推定477)。
雄略は宮殿を奈良の泊瀬朝倉宮(脇本遺跡)に設営。
百済復活のために雄略あるいは武烈は九州倭国在の東城王を擁立(479)。
雄略死去(古事記による没年489)この間の近畿王は書紀では清寧と顕宗の??が記される。
倭王武(武烈)が近畿王を兼任(書紀では仁賢488-498が書かれるが書紀がそう書くのみで??)。

倭王武死去(書紀武烈死去507、梁書武帝紀502に征東大将軍を任ず)。
九州倭王、近畿倭王ともに空位となる。
九州では筑紫の磐井が即位(倭王六代目)、近畿ではなお空位。
越の男大迹王との内戦勃発。
男大迹王が勝利し継体大王となり近畿も支配。

筑紫の磐井王と越の男大迹王の内戦により倭国は疲弊して半島支配力を失う。
百済の武寧王が半島南西部と任那(旧伽耶)の大半を支配。
半島系倭人の倭国への大量流入。
その流れの中で倭国内では欽明539-571〜聖徳太子。

聖徳太子=隋書の多利思比狐大王、女帝の記載はない。古事記に女帝推古は書かれるが聖徳太子の記述はない。
多利思比狐大王の百済支援は必然。だが唐と新羅連合に破れて半島支配は崩壊。
そして壬申の乱へ。

そしてなことでありまして、歴史上の「事実」と照合して説明できない部分はないと思っています(^^;
記紀の記述から考えるのは危険(どんな策謀があるかわからない)。
事実あるいは可能性の高い事象から歴史を仮定する、そこから記紀の内容を考える、そのフィードバックの繰り返しが私の方法です。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/



[11641]Re: [11640]Re: [11639]Re: [11638]Re: [11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演 神奈備 投稿日:2014年 2月10日(月)20時43分
琉球松さんへのお返事です。

 『紀』の四道将軍の一人に吉備津彦がおり、西海に遣わされたとなっています。『記』でも、吉備国を言向け和したとあり、吉備への征服者として描かれています。この頃の吉備には孝霊天皇とされる人物や、いかにも卑弥呼を思わせる意富夜麻登玖邇阿礼比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)や夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)が登場しております。母母曽毘売の墓とされる箸墓古墳に吉備特有の特殊器台が使われているのも興味深い所です。

 吉備津彦については、毀誉褒貶はあまりなかったように思いますが・・



[11640]Re: [11639]Re: [11638]Re: [11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演 琉球松 投稿日:2014年 2月 9日(日)23時50分16分
神奈備さんへ

 "倭建命は景行天皇の皇子の倭建命ではなく、欠史八代の末の頃の人物" 。。。
 これはチョッとワクワク感がありますね。
 この頃の荒ぶる者と言えば、吉備系の子息でしょうから「孝元」、あるいはモモソ姫と対立したであろう兄(桃太郎に退治される鬼?)とも重なるでしょうか。

 ある人物や神が、時代の変化や革命によっては正義だったり、逆に鬼扱いされる事はよくある話でしょうから、倭建命の記述に混乱が見られるのは「吉備津彦」の扱いのそれとも関係するんじゃでしょうかね。


[11640]Re: [11639]Re: [11638]Re: [11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演 神奈備 投稿日:2014年 2月 9日(日))16時39分
琉球松さんへのお返事です。
>  倭建命もまた『古事記』では乱暴者のように否定的に記されいますから、「イリ王朝」のような時代に対する反感とも思えますが。。。?

 『古事記』での倭建命ですが、冒頭に兄の大碓命を残酷に殺すシーンから始まり、いささか衝撃的です。これは若気の至りとしておきましょう。以降は窮地の陥るも切り抜けたり、愛妻が犠牲的な死を遂げたり、帰路での伊吹山で神の祟りを受け、最後は三重で悲劇的な最後を遂げると言う、実に英雄的な存在に描かれているように思います。美夜受比売の件は好色といえるのかどうかですが、英雄の資質が伺えます。

 埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣銘から実在が確かなワカタケル大王は、往古の伝承の英雄のヤマトタケルの名を受け継いだ名を持っています。ヤマトタケルへの憧憬は、倭の五王”武”の上表文、「昔より祖禰は、躬(み)に甲冑を貫(まとい)て、山川を跋渉し、寧(やすらか)に處(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。」の主人公への憧れでも現れています。
 なお、余談になりますが、『記』の中に、景行天皇の妃として、「倭建命の曽孫(ヒヒコ)、名は須売伊呂大中日子王の女、訶具漏比売(カグロヒメ)をを娶して生みましし御子、大枝王。」とあります。
 系譜は、倭建命−○−○−須売伊呂大中日子王−訶具漏比売 となり、これはありえない程、世代を越えています。この倭建命は景行天皇の皇子の倭建命ではなく、欠史八代の末の頃の人物だと思われます。
 邪馬台(ヤマト)国の武将であるヤマトタケルではないかと考えています。狗奴国の候補地である熊襲、尾張、毛野を征討していると語られているのも面白いことです。




[11638]Re: [11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演 琉球松 投稿日:2014年 2月 9日(日)11時49分
神奈備さんへ

 『青草談話室』では、『NHKスペシャル・伊勢神宮〜アマテラスの謎〜』の冬至の話題としましたが、同番組では『日本書紀』は大別して2種類、すなわちA群とB群とでは漢字の使い方の違いから推測して後付けの部分があるのではと紹介されいました。
 これは『古事記』と『日本書紀』のくい違いとも関わる問題ではないでしょうかね。
 録画してないので詳しくは言えませんが、『日本書紀』の "後付け部分" の真意の研究が重要のように思います。

 倭建命もまた『古事記』では乱暴者のように否定的に記されいますから、「イリ王朝」のような時代に対する反感とも思えますが。。。


[11637]豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演 神奈備 投稿日:2014年 2月 8日(土)19時38分
>今日(2月8日)の豊中歴史同好会での塚口義信先生の講演は実に多岐にわたり、興味深い内容でした。その一部を紹介して見たいと思います。

まず、『古事記』は、雄略天皇をどのようにとらえているのか。

1.葛城の一言主大神との出会い
 その時、その向へる山の尾より山の上に登る人ありき。既に天皇(スメラミコト)の鹵簿(ミユキ)に等しく、またその装束(ヨソヒ)の状(サマ)、また人衆(ヒトドモ)、相似て傾(カタヨ)らざりき。ここに天皇望(ミサ)けまして曰(ノ)りたまはく、「この倭国(ヤマトノクニ)に吾を除(オ)きて王(キミ)は無きを、今誰人(タガヒト)そかくて行く」とのりたまへば、すなはち答へて曰(マヲ)す状(サマ)もまた天皇(スメラミコト)の命(ミコト)の如し。ここに天皇大(イタ)く忿(イカ)りて、矢刺したまひ、百官(モモノツカサ)の人等悉(コトゴト)矢刺しき。ここにその人等もまた皆矢刺しき。

 神であることがわからない愚鈍な人間として描かれている。
 『日本書紀』天皇は「朕は幼武尊」と名乗り、神は「僕(やつがれ)は一言主神」と名乗っており、天皇が上位におかれている。作為が見られる。

2.葛城の山で猪に出会う。
 また一時(アルトキ)、天皇(スメラミコト)葛城の山の上に登り幸(イデマ)しき。ここに大猪(オホヰ)出(イ)でき。すなはち天皇鳴鏑(ナリカブラ)をもちて、その猪を射たまひし時、その猪(ヰ)怒りてうたき依り来つ。かれ、天皇そのうたきを畏(カシコ)みて、榛(ハリノキ)の上に登りましき。

 臆病者として描いている。
『日本書紀』天皇は猪を踏み殺しており、舎人が樹に登ったとなっており、作為がある。

3.市辺之忍歯王の暗殺
 大長谷王が忍歯王をさそって狩りに行く。翌朝、忍歯王(オシハノミコ)平(ツネ)の心もちて、御馬に乗りし随(マニマ)に大長谷王の仮宮の傍に到り立たて、その大長谷王子の御伴人に詔(ノ)りたまはく、「未だ寤(サ)めまさざるか。
早く白(マヲ)すべし。夜は既に曙(ア)けぬ。○<けものへんに「葛」>庭(カリニハ)に幸(イデマ)すべし」とのりたまひて、すなはち馬を進めて出で行きたまひき。ここにその大長谷王の御所(ミモト)に侍(サモラ)ふ人等白さく、「うたて物言ふ王子(ミコ)なり。訳:いやなことを言う王子。

 忍歯王は平常心、雄略の付き人が讒言をしたのを気がつかず、それを信じて忍歯王を残忍な殺し方をした。愚者である。

 『古事記』は雄略天皇を否定的に書いている。
 天皇の系列としては、履中系の天皇が君子である仁賢・顕宗と続き、欽明に至る。もう一つは允恭、雄略、継体、宣化から天武に至る。『古事記』は天武天皇の肝いりでできたと去れているのに、何故、雄略を否定的に書いてあるのか、天武の意志が反映していないようなので、塚口先生は、「未完の書」と言われていました。



[11637] たぬき 投稿日:2014年 2月 3日(月)09時37分
単なる妄想です。
紀氏は同音の姫氏、周王朝の末裔?
杞国(弱小国)が有ったような、、、
杞憂の語源、周りを大国、強国に囲まれ右往左往した云々。
日本の皇室は中世頃、対外的には周王朝の太伯(呉国)の末裔(イザナギ)〜を名乗っていたそうですし、、、


[11635]紀の国の紀氏 神奈備 投稿日: 2014年 2月 2日(日)09時21分
紀氏には、紀直(国造)と、紀臣(朝臣)とその同族の二つの氏族がある。

紀直 紀直は祖先は九州に居たが、応神東遷と共に紀伊にやってきた。『神功紀』紀豊耳である。耳の付く人物や神は神武帝の前後四世代が著名である。天照大神の皇子の天忍穂耳尊、神武の皇子の手研耳命、神渟名川耳尊、さらに皇后の父親は三嶋溝?耳、また櫛稲田姫の父親は稲田宮主須賀之八耳神である。また天日矛は但馬の太耳の娘を娶っている。
 谷川健一『青銅の神の足跡』では、耳族は南方系の海人が鍛冶・農耕の文化を以て渡来してきたとしている。
 紀直は舟の神・植樹の神(鍛冶の神)である素盞嗚尊と五十猛神を奉じていたが、後に農耕神の要素が強い日前宮を祀った。鉄器が手に入ると次は、農業生産力のアップである。

紀直は紀ノ川の南側を拠点としていた。

名草 紀直や紀臣の祖先が紀ノ川河口に来る以前には、この地域は名草一族が支配をしていたので
あろう。『神武紀』に「名草戸畔を誅す。」とあるのがその名残と思われる。
名草一族は恐らくは紀伊の古い神である大屋毘古神や名草彦・名草姫を奉じていたのだろう。

伊太祁曽神社の場合、大屋毘古神の上に五十猛神が覆い被さって習合したものと思われる。

伊太  熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳は5c末頃の前方後円墳である。日本最古の本格的記
録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土している。
銘 治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三文寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太□書者張安也
訳 後半は「刀を作る者、名は伊太□」とある。伊太和とする説もあるが定かではない。伊太祁かと。


紀臣 紀臣は武内宿禰の子の紀角宿禰を祖とする。泉南から紀ノ川の北側を拠点としていた。紀直の祖の菟道彦の妹の子が武内宿禰、彼が菟道彦の女の宇乃媛を娶って紀角宿禰が誕生。
血が二重に入っている。紀臣と紀直とはほぼ同族と言える。

 紀臣は紀ノ川河口北部、淡輪、和泉谷、平群、山城の紀伊にも分布している。また瀬戸内海沿岸の各地にも同族が分布している。紀ノ川河口から朝鮮半島への行路をおさえた形になってい  る。これは何も倭王権の要請で行ったのではなく、紀臣の戦略であったろう。難波の倉庫群の建築以前に、紀ノ川河口の鳴滝に倉庫群が築かれているのは、倭王権の要請があったのかも知れない。隠れ里のイメージの倉庫群は七棟、大きさは60〜80平方メートルの高床式倉庫である。5c半ばの建築である。
  大谷古墳出土の馬冑
紀ノ川北部の大谷古墳は5c末のものとされている。右の馬冑が出土
している。モンゴル系馬冑だそうだ。韓国の光州市の月桂洞一号墳
は大谷古墳と類似。古墳文化を韓国に持ち込んだのは紀氏。
また、紀氏も「騎馬の風習」を日本に持ち込んだのであろう。



">[11634]紀生磐宿禰は何故、三韓の王を目指したのか? 神奈備 投稿日:2014年 1月29日(水)15時34分
武内宿禰かその先祖は伽耶付近から渡来してきたのだろう。記にはなく紀にある屋主忍武雄心命が渡来人かも知れない。その末裔が紀生磐宿禰であった。半島の王族であったとの伝承が紀家に残っていたのだろう。

 日前国懸神宮の社家の紀家に伝わる非公開系図。(目撃者 名草杜夫氏) 紀直の先祖に素盞嗚尊が置かれている。これは宇佐八幡の奉斎氏族である辛嶋氏に通じる所がある。素盞嗚尊−五十猛命−豊都彦−豊津彦−都万津彦−−−宇豆彦と並んでいます。九州の東側のイメージです。

 次の「伝承」は、素盞嗚尊−五十猛神は半島の王族であることを物語っています。
伝承 『日本書紀』巻一第八段一書第五 素戔鳴尊は、「韓郷之嶋には金銀があるが、もし吾兒が治める國に舟がなかったら良くないだろうと言って、鬚を杉とし、胸毛を桧に、尻毛を槇に、眉毛を樟にした。杉と樟は舟を作るのによい。」と言われた。素戔鳴尊はその子を五十猛命と名づけた。妹を大屋津姫命、次を抓津姫命。此の三神は木種を蒔いた。紀伊国にお祀りしてある。
 「吾兒が治める國」とは、韓郷之嶋のことである。素盞嗚尊−五十猛命は王族であった。

伝承 『日本の古代:倭人の登場』 太伯伝説がある。呉の太伯の弟の子孫が日本に移り住み、皇祖となったと言う。呉王家はは姫(キ)氏であったのでしょう。

 好字令でも、紀氏は紀伊氏とはしなかった。紀(き)に強い誇りを持っていたようだ。

伝承 糸島郡は伊都と志摩の合わせた郡。伊都は伊都国で邪馬台国の時代には王様がいた。神功皇后の時代、伊都県主の五十迹手がいました。『筑前国風土記』に、「高麗の国の意呂山に天から降ってきた日鉾の末裔」と名乗っています。

 新羅の王子の天日槍の祖先は素盞嗚尊・五十猛神との説がある。かれもやはり王族です。


[11633]武内宿禰と後裔の氏族の活躍 神奈備 投稿 日:2014年 1月26日(日)09時35分
4c中 景行天皇二五年   武内宿禰を北陸と東方の視察に遣わした。
神功皇后摂政元年   紀直祖豊耳に皇后が暗くなった理由を問われたが知らなかった。一人の翁は阿豆那此之罪と答えた。別々の神に仕える神官を同じ墓に埋葬した罪のこと。(小竹神社と丹生都比売神社)
神功皇后摂政三年   葛城襲津彦を微叱旱岐(みしかんき)につけて対馬に派遣。
4c末 応神天皇三年   紀角宿禰。羽田矢代宿禰。石川宿禰。木菟宿禰が百済国に派遣。
応神天皇十四年   葛城襲津彦を弓月の君を加羅国に迎えに行った。
応神天皇十六年   平群木菟宿禰・的戸田宿禰が加羅に派遣された。
5c前 仁徳天皇四一年   紀角宿禰を百済に派遣し国境を定めた。王族の酒君が無礼だったので、葛城襲津彦につけて進上した。
仁徳天皇五十年   天皇は武内宿禰に、「あなたこそこの世の長生きの人」と歌いかけた。
5c前 履中天皇二年   平羣木莵宿禰・蘇賀滿智宿禰・葛城円大使らは國事に携わった。
5c中 允恭天皇五年   葛城襲津彦の孫の玉田宿禰が捕えられて誅された。葛城の玉田宿禰は武内宿禰の墓域(宮山古墳)に逃げ込んだ。
5c中 雄略天皇即位前紀   葛城圓大臣宅に逃げ込んだ眉輪王と共に殺された。
                平群臣眞鳥を大臣とした。
雄略天皇九年   紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰らは新羅を攻めた。紀小弓は病没。紀大磐宿禰は父の死を聞き、新羅におもむいた。
5c後 顕宗天皇三年   紀生磐宿禰は任那から高麗へ行き、三韓の王たらんとして、神聖王を名乗った。

武内宿禰は景行天皇の時代に誕生したとされる。なくなったのは履中天皇の時代のようである。
6代の天皇の時代を生きたことになり、1代10年として60年、その時代では長寿であろうが、驚くほどのことではない。なお、後裔氏族であるが、蘇我氏がの格的登場は葛城氏が滅びてかである。後裔士族は長い期間歴史の表舞台にいる。各氏族はそれぞれの武内宿禰を持っていたのだろう。



[11632]武内宿禰 神奈備 投稿 日:2014年 1月23日(木)15時41分
二 渡来人の臭いがする武内宿禰とその末裔。

>

武内宿禰の母親は紀直の先祖の妹とされています。この紀直は後世では和歌山の紀直ですが、さて、当時はどこに居たのか。
『肥前国風土記』(藤津の郡の条)景行天皇が行幸した時、「土蜘蛛が砦を作って降伏しなかったので、侍臣の紀直の祖の穉日子(わかひこ)を派遣して誅殺させようとした。」と言う話がある。
『国造本紀』「成務朝に紀直同祖の大名草彦命の児若彦命を葛津国造に定め給う。」とある。
奥野正男著『耶馬台国の東遷』に、武内宿禰の子とされる氏族名の郡・郷名が北九州に分布している事を指摘されている。
地図参照

後裔士族名と場所と近くの五十猛神を祀る神社

波多の八代宿禰
 佐賀県鳥栖市幡崎町
 福岡県糸島市波多江 潤神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/maebaru1.htm
許勢の小柄宿禰
 肥前国佐嘉郡巨勢郷
 佐賀市巨勢町    大町八幡神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/sagaoma8.htm
蘇賀の石河宿禰
 筑前国早良郡曾我郷
 福岡市西区吉武   飯盛神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/iimori.htm
平群の都久宿禰
 筑前国早良郡平群郷
 福岡市西区戸切   山越で白木神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/oumaru.htm
基肄 木の角宿禰
 肥前国基肄郡基肄郷
 佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/araho.htm 杵島
 肥前国杵島郡杵島郷 稲佐神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/inasa.htm  佐賀県鹿島市大町町 妻山神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/tumayama.htm
葛城の長江曾都毘古
 肥前国三根郡葛木郷
 佐賀県三養基郡三根町

武雄市  肥前国杵島郡杵島郷
武雄神社 武内宿禰 天平七年(735) 始祖の伴行雄が神託により、御船山北麓に遷した。地名は武雄心に由来か。



[11631]午年にちなんで、馬について。 神奈備 投稿日:2014年 1月21日(火)16時38分
  騎馬文化 渡来系武内宿禰の後裔氏族  神聖王紀生磐宿禰  紀伊の紀直と紀臣。

一.騎馬文化の年表
前40c  遊牧民の集団が湖畔や川辺など草地を求めて移動していた。
前10c  青銅製の轡が発明されたことによって、馬を自在に制御できるようになった。騎馬の開始。
前 7c  スキタイ人は弓矢・甲冑・轡・馬面などを改良し、その文化はシルクロードを経由して各地に伝わった。
前 3c〜3c  モンゴル高原に匈奴が勢力拡大。    騎馬文化が内蒙古から黄河流域へ伝達。
                         騎馬文化が満州・朝鮮半島へ伝わる。
前3c  秦始皇帝、北方騎馬民族の侵入警備のために万里の長城を建築。
前108  前漢、朝鮮半島に植民地の楽浪郡を設置。
前 37  満州に高句麗が建国される。
313  高句麗が、楽浪郡とその南の帯方郡を滅ぼす。中国の勢力は半島から後退。
                         騎馬文化、朝鮮半島南部へ。
4c  南北朝時代:西晋の政治は腐敗の頂点に達し、一部の貴族層が外部の力を借りて王朝を倒した。八王の乱。成都王が匈奴の劉淵の助けを受け、その子の劉聡が西晋を倒した。 水滸伝の時代。竹林の七賢人の清談。

  政権の腐敗はあの国の宿命。それで滅亡。 共産党政権も猛烈な腐敗。ぼちぼちの滅亡を期待しています

4c央  百済・新羅建国。半島南端は加耶など小国が分布。倭人の拠点(屯倉)もあった。
    倭国、使者を百済に送る。騎馬文化を取り入れた倭国は朝鮮半島へ帝国主義的介入。
372  百済の肖古王、七枝刀・七子鏡を献ずる。(神功紀 七枝刀、大和の石上神宮に伝承)
375  フン族西へ侵入。ゲルマン民族大移動。
381  新羅が朝貢しないため、葛城襲津彦を遣わして新羅を攻める。(三国史記)
391  倭国軍、渡海して百済・新羅を破り、臣民となす。(高句麗広開土王碑)
400  好太王、五万の兵を新羅に送り、倭国軍を破る。(高句麗広開土王碑)
  戦乱・凶作から逃れて半島から人々が牛の涎の如く渡来。
 応神  阿直岐(阿知吉師)良馬二匹を持ち込む。
 応神  韓鍛冶卓素が渡来。怡土郡託杜郷か。
5c前半  和歌山の鳴滝遺跡から大量の陶質土器、渡来人の竃址の存在を示す。
 雄略  今来才伎の渡来。須恵器・馬具製作工人の渡来。
5c末6c初  和歌山の大谷古墳から馬面冑出土。阿蘇凝灰岩石棺。




Re: [11628] Re: 出雲大社の畳 神奈備 投稿日:



[11629]Re: 出雲大社の畳かたばみ 2014年 1月13日(月)18時29分
神奈備さんへのお返事です。


福永光司氏その他著の「日本の道教遺跡を歩く」に出雲における道教の話が書かれています。
まあしかし、だれでもお年を召すと思考に柔軟性に乏しくなりやすい(^^;
出雲=島根に固定化されてる。ゆえにここについてはほとんど賛同はできず(^^;

万葉355が引用されています。
大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經
おほなむち すくなひこなの いましけむ しつのいはやは いくよへにけむ

大己貴命や少彦名命が「志都乃石室」に住んでいた。
万葉時代ではそういう伝承が残存していたことがうかがえます。これは記紀からはまったくうかがえない事象です。

持論、大己貴命は日本海の鬱陵島にも拠点を持つ東支那海の海人系譜であり、少彦名命もまた同系。
魏志韓伝の高句麗に書かれる「東からやってくる神」に同義。
日本海沿岸での大穴持神に同義。
大己貴命がスサノオの娘婿となるのはほぼ事実であろう・・BC180頃か。
出雲文化圏の基盤になる思想はここにあると考えています。

戦国時代から秦の始皇帝、東支那海における神仙思想、蓬莱、徐福につながるもの。
司馬遷の史記の封禅書、当時の思想を知る上でも面白いです(例えばちくま学芸文庫の史記2書・表に含む)。
文庫本の50頁ほど、お勧めです。

戦国時代の斉の瑯邪八主(瑯邪八神)、道教の「神仙思想的」の源流のひとつと考えています。
天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、兵主。
後の道教における「八」の世界観はこれを源流とする・・.

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
この歌は、斉明655-660〜持統686-696あたりの唐時代の道教の影響下において記紀編纂者が創作したものでしょう。
出雲文化圏に残る瑯邪八主の痕跡に重ねられたものと考えます。

出雲大社の神座の八角形、いつ頃からのものか。
これも同様で新しいかなあ、斉明以降の影響下か。
もし、国譲り時のそれが残っていたとしても、形式化して意味は失われていると思います。

天井画の雲、七つしかないのは・・兵主を書かなかった。
これも形式だけにはなっていても、兵主=戦闘、これを消す意識が開化崇神以降にあったのではないか、と考えています。




[11628] Re: 出雲大社の畳 神奈備 投稿日:2014年 1月10日(金)19時30分
かたばみさんへのお返事です。

> あけましておめでとうございます。

あめでとうございます。ことしもよろしくお願い申し上げます。

> 出雲大社の天井の雲が七つしか書かれていないことと合わせて、もしかしたらの思うところはありますが・・

神魂神社の八雲図を見たことはありませんが、出雲大社本殿天井は確かに七つでしたので、巷間に言う「飛んでいった」と言うのは面白い解釈ですね。

八つは、天武持統陵墓は四方八方を天皇が支配するとの思想からかと、また浄土の「八功徳水」など、仏前の形にも反映しています。




[11627]雲大社の畳 かたばみ 投稿日:2014年 1月 6日(月)01時29分
あけましておめでとうございます。

出雲大社の神座の畳は八角形なんですね。TVで神座作りの画像で初めて知りました。
なぜ八角形?
八雲、八重垣、なぜ八なのか・・これらはいつ登場したのか。

出雲大社の天井の雲が七つしか書かれていないことと合わせて、もしかしたらの思うところはありますが・・





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