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[12061] 投稿日:




[12060]Re: 王朝交代 神奈備 投稿日:2017年12月18日(月)14時45分

 大国主に絡む色んな伝承が各地に残っています。いくつかを紹介いたします。

 古事記から
 因幡の白兎を助けた話。
  八十神は大国主の兄達で、大国主を従えて八上姫に求婚にいく途中で、川を剥がれた白兎を助け、また八上姫は八十神の求婚を断り、大国主との結婚を宣言しました。

 大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』
兄神たち(八十神)は、白兎の予言通り八上比売と結婚した大穴牟遅を憎み、殺してしまおうと企んで大穴牟遅を伯耆の手間山本(手前の山麓)へ連れて行きます。

 兄神達は「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。そうしなければ殺す!」と言いつけて、山の麓で待たせている大穴牟遅目掛けて、火で真っ赤に焼いた岩を山の上から投げ落とします。
 転がり落ちてくる真っ赤な岩を猪として受け止めようとしたため、大穴牟遅の身体がたちまちその赤く焼けた岩膚にこびりついて、焼き潰されて絶命してしまうのです(ここ!重要な記載部分です。つまり一度絶命してしますのです)。
 これを知った大穴牟遅の母「刺国若比売命」は嘆き悲しみ、高天原に上り「神産巣日之命(カミムスビ)」に救いを求めたところ、赤貝の神「貝比売」と蛤の神「蛤貝比売」の2柱の女神が地上に遣わされることとなります。大国主を生き返りました。

 その後も八十神は大国主を滅ぼそうとしたので、母神は大国主を須佐之男尊のいる根の国に逃がしました。
 ここで須佐之男の娘の須勢理姫と出会い、たちまち結婚しました。この手の速さは凄いものです。
 それから須佐之男から多くの試練を受けますが、須勢理姫の助けもあってそれを乗り越えて、須佐之男から大国主と名乗り、今の出雲大社の場所に宮殿を建てるようにいいました。

 ヒスイと言う宝石があります。玉(ぎょく)と呼ばれます。新潟県姫川上流小滝川当たりで見つけられています。糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫に大国主命が出雲から求婚。その際に翡翠を贈ったという神話が残されています。実際に大国主命を奉った出雲大社の真名井遺跡からは、糸魚川産と見られる大きな勾玉が出土しています。

 少名毘古那神がやってきて、二柱の神がこの国を作り固めていきました。

 少名毘古那が去った後、国づくりに協力したのは、海を照らして来た神でした。大和の御諸山に祀られている神です。大物主神です。『日本書紀』には、大国主の幸魂・奇魂(人を愛し育てる力 観察力、分析力、理解力などから構成される知性)とされています。自分が他人に扮して自分に協力したという、神様ならではの話になっています。





[12059] Re: 王朝交代 神奈備 投稿日:2017年12月17日(日)15時05分

 日本にもよく似た制度があり、天武天皇が唐の制度を見習って導入したとされます。古代には、各国の豪族を国造として地域の支配者としています。その国造の制度が廃止された後も、出雲と紀伊の両国だけは、出雲国造と紀伊国造と名乗ることが認められています。これは服属儀礼をおこなわせるためなどとされています。
 出雲国造は現在でも、国造交替の時に皇室に神賀詞を提出しています。出雲は コクソウ
 紀伊国造も現在でも国造を名乗っています。紀伊は コクゾウ

 出雲と紀伊、この二家が特別扱いされています。この理由をお話します。


 皇室の前の支配者とその前の支配者は一体誰でしょうか。

 大国主と饒速日
前前王朝と前王朝を統合したヤマト朝廷と言うストーリーが浮かびます。

 大国主がこの国の支配者であったことは、国譲りのお話でも伺えることです。大国主とは、この国を農業に適した土地に改良してきた国造りの神として称えられています。各地で多くの人々を纏めてこの辛い作業を成し遂げてきた多くの地方の指導者達一人一人が国主であり、それらを代表する者が大国主と呼ばれたのでしょう。
 『魏志


[12058]Re: 卑弥呼はヒミホ 神奈備 投稿日:2017年12月17日(日)15時03分

福島雅彦さんへのお返事です。
大三元さんへのお返事です。

 古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)の福島さん、
 アイヌ語の大三元さん、
 言語音痴の神奈備が、両巨頭を煩わしてしまいました。

 卑弥呼は ヒミコ ではない。
 邪馬台国は ヤマタイコク ではない。

 このあたりで・・・・.





[12057] Re: 卑弥呼はヒミホ 大三元 投稿日:2017年12月17日(日)14時29分

神奈備さん、ご無沙汰してます。

「卑弥呼」の読みに関する私の最近の立場は「ひみを」です。
(万葉集でも「呼」は「を」)
http://www.dai3gen.net/himiwo.htm


> 邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。
「邪馬台」は「やまで」=「やましろ」として考えています。

http://www.dai3gen.net/yamatai.htm

http://www.dai3gen.net/nokagami.htm#yamade




[12056]Re: 卑弥呼はヒミ 福島雅彦 投稿日:2017年12月17日(日)13時10分

神奈備さんへのお返事です。

> 卑弥呼と邪馬台国のことが書いてある魏志倭人伝はいうまでもなく中国の文献です。古代の中国語でかいてあります。
> 西暦500年ごろまでの中国語の発音は 上古音 といわれます。
> 3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
> われわれが、卑弥呼と呼んでいる女王ですが、このヒミコと言う読み方は
> 江戸時代に定着したようです。しかし「呼」は現在の中国でも「こ」と発音しません。古代から「ホ」という発音です。「こ」平安時代以降の日本の発音で、古代の中国語に適用してはいけません。
>
> 卑 pieg pie pi p?i ヒ甲
> 彌 mier mie mi mi ミ甲
> 呼 hag ho hu hu ホ、でしょう
>
> 邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。

ご無沙汰しております。が、何時も訪問して興味深く拝読しています。
私は、中国の漢字音の正確な復元は必ずしも有効ではない、と存じます。
中国正史の書記官の耳に聞こえた「倭語」の音写(当て字)に限っては、或る程度の揺らぎを考慮すべきか、と。
即ち、彼らの未知の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」を書き留めていますから、近似音的か、と。
例えば「倫敦」、「紐育」の漢字音を正確に復元しても、ネイティブの"London"、"New York"には至らない、と。
「倭人」が何の意味を何と発音したら、彼らが此の文字撰びをするかを考察すべきです。
※「卑彌呼」="?"尊(みこと)の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」音写と観ます。
*"?"="him"=最高位の意。現代九州弁に残存。
・「ひンの叫(おら)び」=この上もなく大音声で叫(おら)ぶ、こと。
・「ひン投げる」=圧倒的力量の差で相手を投げ飛ばす(相撲などで)こと。
・「ひンだれる」=この上もなく疲労困憊すること。
*「尊」=「水事・米事」で、水稲稲作の統帥者の意。"mikot"の様な発音ではないかと。
私のE-mailのアドレス=himmikot@mocha.ocn.ne.jp は「卑彌呼」に由来しています。
因に、「邪馬臺國」「邪馬壹國」問題もどちらが正しいとか間違いとがではなく、両方とも「倭語」の音写であ、両方とも正しいと観ます。謎が解けないのは、二者択一に陥っているからだと思います。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。




[12055] 王朝交代 神奈備 投稿日:2017年12月15日(金)16時30分

 中国は王朝交代の国です。徳を失った王に対し革命を起こして新王朝が発足。これを易姓革命と言います。

 唐という王朝には二王後制という制度がありました 前王朝と前前王朝関係の子孫を優遇するという制度です。
 王朝の初代は賢者であるが、末代は愚か者不肖の者、したがって徳のある人があたらしい王朝を開く、これで王朝が交替する。
 それでも前王朝と前前王著の初代の賢者を尊ぶ意味で後裔を丁重に遇するという制度です。
 唐の高祖の武徳元年(618)に定められました。日本ではこの年は推古二十六年でしす。

 周の武王は、夏の子孫を杞に、殷の子孫を宋に封じました。「二王之後」の故事は直接的には武王に由来します。

 これを行うことで、自らの王朝がいかに「正統」な後継かを主張するようです。



[12054] 「日本の建国史 三替統合の精華」元皇學館大學学長 田中 卓著 神奈備 投稿日:2017年12月13日(水)14時08分

 田中卓先生の講義をベースにした話。
 田中先生は皇學館大學の名誉教授で、皇国史観・右翼の中でも最右翼の方と言われています。この先生は、右翼にもかかわらず、女性天皇を認める立場を表明されています。
 その理由は、男系天皇にこだわると皇統が途絶えてしまい、天皇制が維持できないからとの立場からです。

 それに対して、最近テレビによく出てくる竹田 恒泰(たけだ つねやす)さんは、それは天皇制ではない、と言われます。遠くに遡っても男系を探してくるとの立場でしょう。
 竹田恒泰さんは明治天皇の女系の玄孫にあたりますが、男系では崇光天皇の19世子孫であります。崇光天皇(すこうてんのうは、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))の頃の天皇です。14世紀末の南北朝時代の天皇です。

 一般の人々の中で、皇室に最も近い男系の方は、江戸時代前期の、東山天皇の子孫の方です。
1687年5月6日 - 1709年7月27日東山天皇の皇子の閑院宮直仁親王宝永7年(1710年)に世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。
華園真準[4]、華園真暢[4] 梶野行淳(歴代当主は男爵)実子の梶野行良さん。
 河内長野の長野神社の宮司をされています。

 現在は、幸いにして秋篠宮家に悠仁親王(ひさひとしんのう)が居られますので、子だくさんんの天皇になってほしいものです。



[12053] 卑弥呼はヒミホ 神奈備 投稿日: 2017年12月12日(火)21時06分

卑弥呼と邪馬台国のことが書いてある魏志倭人伝はいうまでもなく中国の文献です。古代の中国語でかいてあります。
西暦500年ごろまでの中国語の発音は 上古音 といわれます。
3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
われわれが、卑弥呼と呼んでいる女王ですが、このヒミコと言う読み方は
江戸時代に定着したようです。しかし「呼」は現在の中国でも「こ」と発音しません。古代から「ホ」という発音です。「こ」平安時代以降の日本の発音で、古代の中国語に適用してはいけません。

卑 pieg pie pi p?i ヒ甲
彌 mier mie mi mi ミ甲
呼 hag ho hu hu ホ、でしょう

邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。


[12052] 枚方 神奈備 投稿日:2017年12月11日(月)19時57分

『播磨国風土記』
 朝廷が各国に土地が肥えて居るのか痩せているのか、古老が伝える伝承など、地域のことをまとめて提出するように命令を出し、ほぼ全部が残っているとされる風土記の一つが播磨国です、兵庫県中南部をさします。
 この中に 枚方 と言う地名が出てきます。
 枚方と名づけるわけは、河内の国の茨田の群の枚方の里の漢人(あやひと)がやってきて始めてこの村に住んだ。だから枚方という。
 枚方市倉治に機物神社が鎮座そています。七夕はにぎやかです。だいぶ前のことになりますが、ここの宮司さん、そうとう高齢の方だった、に中国は西安を訪問されたときのことをお伺いしたことがあります。その頃は市会議員さんだった。中国側の人は、「大昔にここから枚方へ行った中国人がいます。織物の技術を伝えたのです、」とのこと。
 中国の人というのは、枚方の人がくると聞くと、いろいろ調べてこのような話をするというのは客をもてなすのでしょう。たいしたものだと感心いたしました。



[12051] Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5 より 投稿日: 2017年10月20日(金)07時17分

よりさんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。
>

大分の寺社関連は、ここが詳しいです。
鹿児島にも何回かお見えです。



[12050] Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5 より 投稿日:2017年10月19日(木)22時00分

神奈備さんへのお返事です。

> yoriさんへのお返事です。
>
>
> 黒男神なる神様が八幡神に絡んで鎮座しています。

>
>  八幡古表神社の相撲神事では「おんくろう神」と呼ばれる住吉大神が全勝して勝ち残ります。
>  この「くろう神」のことかとも思っています。
>

こんばんわ。
先週の木曜日、3年に一度の「くぐつの舞いと神(紙)相撲」の奉納がありました、
1回は見物したいもので。

南大分の城跡に鎮座する「永興(りょうご)正八幡社」があります。
なんとま、宇佐八幡の御膝元に、鹿児島神宮の勧請社があるとは。。

また、霧島六所権現信仰の開祖「性空聖人」の修行地には霧島神社が鎮座しています。
湯布院、大分、別府 ら
大分県社寺名勝図録では、由緒が不明とありますが。



[12049] Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5 神奈備 投稿日: 2017年10月18日(水)20時32分

yoriさんへのお返事です。


黒男神なる神様が八幡神に絡んで鎮座しています。

佐賀県武雄市 黒尾神社(神母影媛) 摂社黒尾神社
福岡市中央区 今川鳥飼八幡宮摂社黒殿社
福岡県大野城市 黒男神社
福岡県田主丸町 黒島神社
大分県日田市 玉垂神社<通称>黒男社
福岡県築城町 八幡神社摂社黒男殿神社
大分県東国東町 黒雄社
大分県宇佐市 宇佐八幡宮摂社黒男社

八幡古表神社の相撲神事では「おんくろう神」と呼ばれる住吉大神が全勝して勝ち残ります。
 この「くろう神」のことかとも思っています。



[12048] Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5 yori 投稿日: 2017年10月17日(火)12時24分

神奈備さんへのお返事です。

> yoriさんへのお返事です。
>
> 八幡神を勧請したかも知れない鹿児島神宮の祭神が彦穂穂出見尊であることは極めて重要なことだと思っています。この神宮の祭神がいつ頃に定まったのか、途中で変遷があったのか、興味深いところです。


こんにちわ。
新燃岳が噴火して警戒区域が拡大され
登山が難しくなって残念です。

さて、この大隅國正八幡宮に参詣された方の
記録としては、

●平家物語
●時宗・一遍聖人
●橘 三喜「諸国一宮巡詣記」
●橘 南谿 参拝「西遊記」
●高山彦九郎「筑紫日記」

ですが、この頃、既にご祭神はご指摘の通りだったようです。

興味をそそる記録としては、
橘 三喜「諸国一宮巡詣記」の絵図には
旧地の現在の石體神社には仁徳天皇を祭祀していたようですが。。
現在のご祭神は、本社と同じです。

神宮の史資料が明治の廃仏毀釈で焼却されて
いるので、なかなかです。




[12047] Re:八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 yori 投稿日:2017年10月17日(火)12時24分
神奈備さんへのお返事です。

> yoriさんへのお返事です。
>
> 八幡神を勧請したかも知れない鹿児島神宮の祭神が彦穂穂出見尊であることは極めて重要なことだと思っています。この神宮の祭神がいつ頃に定まったのか、途中で変遷があったのか、興味深いところです。


こんにちわ。
新燃岳が噴火して警戒区域が拡大され
登山が難しくなって残念です。

さて、この大隅國正八幡宮に参詣された方の
記録としては、

●平家物語
●時宗・一遍聖人
●橘 三喜「諸国一宮巡詣記」
●橘 南谿 参拝「西遊記」
●高山彦九郎「筑紫日記」

ですが、この頃、既にご祭神はご指摘の通りだったようです。

興味をそそる記録としては、
橘 三喜「諸国一宮巡詣記」の絵図には
旧地の現在の石體神社には仁徳天皇を祭祀していたようですが。。
現在のご祭神は、本社と同じです。

神宮の史資料が明治の廃仏毀釈で焼却されて
いるので、なかなかです。





[12046] Re:八幡大菩薩の成立と応神天皇霊神奈備 投稿日:2017年10月17日(火)11時46分
八幡神を勧請したかも知れない鹿児島神宮の祭神が彦穂穂出見尊であることは極めて重要なことだと思っています。この神宮の祭神がいつ頃に定まったのか、途中で変遷があったのか、興味深いところです。




[12045] Re:八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 yori 投稿日:2017年10月16日(月)17時29分
神奈備さんへのお返事です。

>  749 天平宝字元 はたせるかな、陸奥で金が発見されたのである。
>
> 大仏拝礼のため八幡大神入京、憑坐(よりまし)の大神杜女が紫の輿に乗って上京し大仏を拝んだ。文武百官を率いた孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后の行幸いしているさなかのことである。
>
>  八幡大神一品 比売神二品 神階を受けた最初の神。一品が与えられているのは、ばくぜんと天皇霊と思われていた。皇祖扱である。
>
> 752 天平宝勝4 大仏開眼供養。
>
> 754 天平宝勝6 薬師寺の行信と八幡神宮の主神大神多麻呂、禰宜大神杜女が厭魅(呪詛)をなしたとして配流される。反聖武の光明皇太后・藤原仲朝呂に怨念。
>

大仏拝礼のため八幡大神入京、憑坐(よりまし)の大神杜女が紫の輿に乗って上京し大仏を拝んだ。

=============

位違いの輿行列では、逆鱗に触れるのは当然ですが、
この配流先が日向のどこか?
どうも識者によると高千穂らしいのですが。。

しかしここに「大神氏」が土着したのはこの後で、

仁和二年(886)には、大神朝臣良臣が下向している。


仁和二年(八八六)正月十六日丙申

外従五位下行
左大史大神朝臣良臣為肥後介。


===== 三代実録巻四十九 ====

大神系図

始祖大神太夫惟基

大和大三輪の一族
豊後介大神良臣の孫

惟基の嫡子 政次は
高知尾太郎と呼ばれる

日向の三田井に入植する


==== 大神系図(都甲家蔵) ====

実は、宮崎の神社伝承(古文書)を読んでいたら
「采女」が出てくる由緒があります。
精査が必要ですが、他県の史資料は皆目。
特に宮崎、大分の古書はオークションでも
破格の高値、到底手が出ません。
在野の謎解きは大変です。

余談ながら、
島津藩は、高千穂から延岡辺りまで
知行していました。




[12044] Re:八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 yori 投稿日:2017年10月16日(月)17時14分
神奈備さんへのお返事です。

> 724 神亀3 聖武天皇〜749 菩薩国家、即ち誰もが仏の道を目指す国造りを目指した。した。八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を守り、放生と云う仏教的手段によって。殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった。




[12043] Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 yori 投稿日:2017年10月16日(月)17時03分
神奈備さんへのお返事です。

> 『託宣集』の「大隅宮(正八幡、鹿児島神宮)縁起」年不明 以下の伝承がある。陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。
>

楽しく拝読しました。
これの出典は、

☆八幡愚童訓☆

震旦國陳之大王之娘
大比留女之七歳眩朝日ノ光胸ノ間ニ
指入ヲ御懐妊有テ
皇子ヲ生給シ王臣是ヲ怖テ
空舟ニ奉乗テ流シ着タラン所ヲ
所領トシ給ヘトテ
大海ニ奉浮ニ日本國鎮西大隅ノ磯之岸ニ
着船フ
其太子ヲ八幡ト奉號シヨリ
御舟ノ着タル所ヲ八幡崎ト名付タル
是ハ継体天皇之御宇也
又大比留女筑前國若杉山ヘ飛入給テ後ハ
香椎聖母大菩薩ト現給ヘリ
皇ハ大隅之國に留テ
正八幡ト現シ給ヘリ

・・・・・・・・


==== 八幡大菩薩愚童訓 上p24 ====

鹿児島神宮史 p26
はここから引用しています。

「継体天皇の御世、
中国の陳大王の娘
大比留女(おおひるめ)が
七歳にして
朝日を受けて懐妊し、
生まれた子と共に
空船(うつろふね)
に乗せられて流され、
大隅八幡崎に着いた。

生子は
ここで正八幡となって
隼人を討ち、
生母は筑前香椎(かしい)
に飛んで
聖母(しょうも)大菩薩
となった」


2017年現在、
到着地の「かご山」には石碑が建立されています。
私がこの所在を知ったのは
この「かごやま」の探訪をしていた2000年頃のことです。
今春、神宮に興味をお持ちのご夫婦をご案内しました。




[12042] Re: 沼津の高尾山古墳 大三元 投稿日:2017年10月14日(土)20時54分
神奈備さん
レス有り難うございます。
この「詳細な説明板」では「素邪那岐命」を「いざなみ」と読ませたり、「疱瘡」を「抱瘡」としたり「神武天皇御祭神」という意味不明なことが書いてあったりして、首をかしげています。電話番号も判らないのでいつか訪れてお伺いしてみようと思います。
いずれにしても、はい、ロマンがあります(^_^)


> 大三元さんへのお返事です。
>
>  宇井邦夫著『東京の熊野神社』から。
>  古木も聳える境内には、詳細な説明板が掲出され、親切である。由緒についてみると、祭神は「素邪那岐命」であった。
>  創建は不詳であるが、その昔、諸国行脚の老婦人が、この地に紀州熊野本宮大社を齊祀したという。古文書(現存せず)では、「応安(1268)の頃片倉城主毛利備中守師親が創建した」と伝えている。
>
>  伊と素、普通は書き間違いはありえないと思います。熊野では植樹の神は素戔嗚尊とする由緒もあり、五十猛・伊太ての神との混同は十分ありそうですが、八王子市の熊野神社10社(この中には高尾山の熊野は含まれていません。)の殆どが、イザナギ・イザナミ・速玉緒男で、素戔嗚尊は1社のみです。五十猛はありません。
>
>  「素邪那岐命」からは、古い記憶の蘇りがあったかもとのロマンを感じますね。




[12041] Re: 沼津の高尾山古墳 神奈備 投稿日:2017年10月13日(金)20時21分
大三元さんへのお返事です。

 宇井邦夫著『東京の熊野神社』から。
 古木も聳える境内には、詳細な説明板が掲出され、親切である。由緒についてみると、祭神は「素邪那岐命」であった。
 創建は不詳であるが、その昔、諸国行脚の老婦人が、この地に紀州熊野本宮大社を齊祀したという。古文書(現存せず)では、「応安(1268)の頃片倉城主毛利備中守師親が創建した」と伝えている。

 伊と素、普通は書き間違いはありえないと思います。熊野では植樹の神は素戔嗚尊とする由緒もあり、五十猛・伊太ての神との混同は十分ありそうですが、八王子市の熊野神社10社(この中には高尾山の熊野は含まれていません。)の殆どが、イザナギ・イザナミ・速玉緒男で、素戔嗚尊は1社のみです。五十猛はありません。

 「素邪那岐命」からは、古い記憶の蘇りがあったかもとのロマンを感じますね。




[12040] Re: 沼津の高尾山古墳 大三元 投稿日:2017年10月 9日(月)05時52分
神奈備さんへのお返事です。
> 穂見神社と高尾とは何故かつながっているようです。
どんな関連があるのでしょうね。
穂高、穂高見、穂穂手見、高千穂、なんかも含めて何か原点がありそうな・・・
そこへ「熊野」という変数を追加して益々難しく考えたりしてます。

東京の高尾山も熊野神社があり、祭神は「素邪那岐命」とのこと。

「素邪那岐命」と書いて「イザナミのみこと」とフリガナしています。
こんな漢字列は他に例がない(みつからない、知らない)のですが
実は私は「スサナキ」「イサナキ」が「スサノヲ」の古い形ではなかろうか、と考えています。
http://www.dai3gen.net/susanaki.htm
従って「素邪那岐命」というスペルに出会い歓喜してます。
しかし余りに珍しい表記なので、なんかの間違いかなぁ、とも不安でもあります。



> 大三元さんへのお返事です。
>
> 大三元さん、投稿ありがとうございます。
>
> 穂見神社と高尾とは何故かつながっているようです。
> 平成祭CDから由緒などをひっぱりました。
>
> 1.
> 穗見神社(ほみじんじゃ
> <通称>高尾さん(たかおさん)
> 400-03 山梨県中巨摩郡櫛形町高尾498
> 旧甲斐国 巨摩郡    中巨摩支部 05098
> 【祭神】保食神
> 標高八百五十米櫛形山中腹に鎮座する当社は延喜式内社で文治三年の古碑に穂見神社とある。今の本殿は寛文五年に再建された桃山時代の様式が残る江戸初期の建物で規模雄大で装飾性に富む建物である。天福元年と銘ある鎌倉時代の鏡があり、共に県指定の文化財とされている。
> 十一月三十日より十二月一日に亘って夜を徹しての例祭には講者として遠くは長野・静岡新潟各県より、県内では富士吉田・大月方面より其の他近郷近在の崇敬者多数の参詣がある。
> 以上
>
>
> 2
> 穗見神社(ほみじんじゃ)
>
> <通称>高尾山(たかおさん)
> 403 山梨県富士吉田市松山485
> 旧甲斐国 都留郡    南都留支部 07043
> 【祭神】保食神
>
>
> 3 高尾山古墳の
> 熊野神社(くまのじんじゃ
>  静岡県沼津市東熊堂24
> 旧駿河国 駿東郡    駿東支部 03182
> 【祭神】伊弉册尊
> 摂社
> 【境内神社001】穂見神社(ほみじんじゃ)
>  静岡県沼津市東熊堂24
> 旧駿河国 駿東郡    駿東支部 03182
> 【祭神】宇迦之御魂神
>
> となります。
>



[12039] Re: 沼津の高尾山古墳 神奈備 投稿日:2017年10月 7日(土)21時29分
大三元さんへのお返事です。

大三元さん、投稿ありがとうございます。

穂見神社と高尾とは何故かつながっているようです。
平成祭CDから由緒などをひっぱりました。

1.
穗見神社(ほみじんじゃ
<通称>高尾さん(たかおさん)
400-03 山梨県中巨摩郡櫛形町高尾498
旧甲斐国 巨摩郡    中巨摩支部 05098
【祭神】保食神
標高八百五十米櫛形山中腹に鎮座する当社は延喜式内社で文治三年の古碑に穂見神社とある。今の本殿は寛文五年に再建された桃山時代の様式が残る江戸初期の建物で規模雄大で装飾性に富む建物である。天福元年と銘ある鎌倉時代の鏡があり、共に県指定の文化財とされている。
十一月三十日より十二月一日に亘って夜を徹しての例祭には講者として遠くは長野・静岡新潟各県より、県内では富士吉田・大月方面より其の他近郷近在の崇敬者多数の参詣がある。
以上



穗見神社(ほみじんじゃ)

<通称>高尾山(たかおさん)
403 山梨県富士吉田市松山485
旧甲斐国 都留郡    南都留支部 07043
【祭神】保食神


3 高尾山古墳の
熊野神社(くまのじんじゃ
静岡県沼津市東熊堂24
旧駿河国 駿東郡    駿東支部 03182
【祭神】伊弉册尊
摂社
【境内神社001】穂見神社(ほみじんじゃ)
静岡県沼津市東熊堂24
旧駿河国 駿東郡    駿東支部 03182
【祭神】宇迦之御魂神

となります。



[12038] 近つ飛鳥  蘇我 神奈備 投稿日:2017年 9月
uga  近つ飛鳥  蘇我 


[12037] 沼津の高尾山古墳 神奈備 投稿日:2017年 8月20日(日)11時10分
昨日の「古代を偲ぶ会」の講演内容は、沼津の高尾山古墳でした。
 卑弥呼以前の前方後方墳で、ヒョットシタラ、狗奴国王の墓かもしれません。箸墓より20年ほど昔の造営。 日本の古代史が変わるかも高尾山古墳
http://www.shizufan.jp/netamap/tobu/55279/


[12036] 2017 神奈備 投稿日:2017年 6月 3日(土)17時50分
物部守屋
継体天皇



[12035] Re: 隠れ銅鐸祭祀/b> 神奈備 投稿日:2017年 6月 3日(土)17時50分
ペギラさんへのお返事です。

 こんばんは。投稿ありがとうございます。
>
> 鐸型土製品も調べたらもっと面白いことがわかるかもしれませんね。


 朝霞市博物館で行われた「小さな銅鐸を追って」と言う展示会の資料です。(豊歴資料)
 小さい黒丸は小銅鐸、小さい白丸は銅鐸型土製品。



[12034] Re: 隠れ銅鐸祭祀/b> ペギラ 投稿日:2017年 6月 3日(土)12時03分
神奈備さんへのお返事です。
> 昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。
>
>  小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
>  隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。
>

この間、お話されていたのが、これなんですね。

ここでは、おひさしぶりです。ペギラです。

竪穴住居跡からの小銅鐸の出土は思ったより多かったです。
どんたくさんの資料から

2 群馬 中溝U 太田市新田小金井町(新田郡新田町 小金井字中溝)
3 千葉 天神台 市原市村上(大字村上字天神台)
4 千葉 川焼台 市原市草刈(字川焼台1692-2)
8 千葉 草刈I区 市原市草刈<草刈遺跡I区>
10 千葉 中越 木更津市大久保(字中越他)
12 東京 高田馬場3丁目 新宿区高田馬場3丁目
13 東京 中郷 八王子市長房町
14 神奈川 (海老名)  本郷 海老名市本郷(高座郡海老名町本郷字本宿)
18 福井 瓜生助 越前市瓜生町 (武生市瓜生町)
31 大阪 寛弘寺 南河内郡河南町 寛弘寺/神山
33 大阪 上フジ 岸和田市三田町
38 鳥取 長瀬高浜 東伯郡湯梨浜町はわい長瀬(東伯郡羽合町大字長瀬小字高浜)
40 岡山 足守川矢部南向  倉敷市矢部南向
41 岡山 横寺 総社市新本
50 福岡 井尻B 福岡市南区井尻
58 大分 別府 宇佐市別府(字桜)

小銅鐸は、ほぼ弥生後期・古墳時代が始まるぞという頃のようです。

お墓からも出ていますが、個人的に目につくのが井戸からの出土。
26 三重 草山 松阪市下村町(字草山)
39 岡山 下市瀬 真庭市下市瀬(真庭郡落合町大字下市瀬池尻)
54 福岡 比恵遺跡群 福岡市博多区博多駅南 5丁目

鐸型土製品も調べたらもっと面白いことがわかるかもしれませんね。


[12033] 古墳の分類法/b> 神奈備 投稿日:2017年 5月18日(木)15時23分
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

 古墳名   全長    直径 前方長   個数

備前
浦間茶臼山  131  81   50   4.9
網浜茶臼山   92  56.5 35.5 5.0
湊茶臼山   125  72   53   5.9
神宮寺山   155  70   85   9.7
金蔵山    165 100   65   5.2
雨宮山    174  99   75   6.1 大仙の2/5


備中
中山茶臼山  105 68-64  37-41      4.3-5,1
車山     135  80  55    5.5
小盛山    108  95  13  円墳
造山     360 190 170    7.1
作山     282 175 107    4.9






[12032] 古墳の分類法/b> 神奈備 投稿日:2017年 5月18日(木)09時49分
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

 古墳名   全長  直径 前方長  個数

佐紀古墳群
宝来山   227 123 104  6.8
五社神   267 190  77  3.2
陵山    207 131  76  4.6
市庭    253 147 106  5.8
ヒシャゲ  219 130  94  5.8
コナベ   204 125  79  5.1
ウワナベ  205 128  77  4.4

柳本古墳群
黒塚    130  72  59  6.6
柳本大塚   94  54  40  5.9
東殿塚   139  65  74  9.1 後円部は楕円
行燈山   242 158  84  4.3
渋谷向山  300 168 132  6.3
シウロウ塚 120  66  54  6.5
櫛山    152  90  62  5.5

(箸墓)  276 156 120  6.2

大和古墳群
中山大塚  130  67  63  7.5
西殿塚   230 140  90  5.1
波多子塚  140      90     前方後方墳
燈篭塚   110  55  55  8.0





[12031] 古墳の分類法/b> 神奈備 投稿日:2017年 5月17日(水)13時38分
古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。
 古市古墳群

古墳名   全長  直径 前方長  個数
津堂城山 208 128  80  5.0
古室   150  96  54  4.5
仲津山  290 170 120  5.6
宮山   154 100  54  4.3
墓山   225 135  90  5.8
誉田御廟山425 250 175  5.6
市野山  230 140  90  5,1
前の山  200 106  94  7.0
岡ミサン 245 150  95  5.0
ボケ山  122  65  57  7.0
白髭山  115  63  52  6.5




[12030] 古墳の分類法を 神奈備 投稿日:2017年 5月17日(水)11時47分
 古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

古い順に
古墳名   全長  直径 前方長  個数
乳の岡  155  94  61 5.2
大塚山  168  96  62 5.2
上石津  365 205 160 6.2
大仙陵  436 248 188 6.0
御廟山  203 112  91 6.5
イタスケ 144  90  56 5.0
土師   290 156 134 6.9
田出井山 148  76  72 7.6

上石津は上石津ミサンザイ。
土師は土師ニサンザイ。

今日に残っている古墳の形状が設計時造営時からどの程度変化しているのかわかりませんが、かっては整数倍だったのかも。
イタスケを別にしますと、古いほど個数が小さいようです。この年代順は白石太一郎著『古墳とヤマト政権』を参照しました。




[12029] 仁徳天皇と葛城氏 神奈備 投稿日:2017年 4月22日(土)20時06分
このテーマの投稿内容は
http://kamnavi.jp/log/ugakaturagi.htm
にアップしております。


[12028]八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 神奈備 投稿日:2017年 3月25日(土)20時29分
このテーマの投稿内容は
http://kamnavi.jp/log/ugaoujinhati.htm
にアップしております。


[12027] 孝坪神社 神奈備 投稿日:2017年 3月21日(火)13時05分
 和歌山市和田に孝坪神社が鎮座しています。

 鎮座のいきさつや祭神のことなど、ご存じの方がおられましたら、教えて下さい。




[12026] 隠れ銅鐸祭祀 神奈備 投稿日:2017年 3月12日(日)16時09分
昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。

 小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
 隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。


[12025] 全国遺跡報告総覧 神奈備 投稿日:2017年 3月11日(土)17時01分
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?detail=true&include_file=exclude


[12024] 桓武の焚書 神奈備 投稿日:2017年 3月 9日(木)13時32分
北畠親房『神皇正統記』「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開(ひらけ)て後、すさのをの尊 韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。」


[12023] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月19日(日)21時00分
G 七支刀

 「考古学は記紀を裏切らない」と云われる。巻向遺跡の発掘などが典型的な例である。七支刀は出土品ではなく、古来より石上神宮に伝世されてきた神宝である。ものは刀と云うよりは槍である。『日本書紀』神功五十二年九月(372)に、百済王から七枝刀・七子鏡などが贈られたとの記事がある。七子鏡はボストンの美術館にあると云う。


H 宇佐宮の大帯姫廟神社

  弘仁十四年(823)大帯姫の細殿が建立された。平安初期に八幡大神を応神天皇としたので、大帯姫を神功皇后とした。おそれく香椎廟からの勧請と思われる。


3. 神功皇后の実在について

朝鮮出兵や河内での応神天皇の擁立にの裏には、神功皇后のような女傑がいて、多くの伝承や多くの伝承地を残してきたと思えてならない。


参考文献 塚口義信『神功皇后伝説の研究』、『ヤマト王権の謎をとく』
     前田晴人『卑弥呼と古代天皇』


[12022] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月17日(金)09時34分
F 『住吉大社神代記』蜜事

 是(ここに)神、天皇に謂(の)りて曰はく、「汝王(いましみこと)、かくの如く信(う)けたまはずは、必ず其の国を得じ。唯今、皇后懐姙(はらま)せる子(みこ)。盖し得ることあらんか。」 この夜に天皇忽に病發(やみおこ)りて以て崩(かむ)さりましぬ。ここに皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。)
 秘め事は天皇が死んだ後のことだから不倫ではなく、御子を懐妊した後なので、御子は仲哀天皇の皇子ということである。
 しかし、世間の口には戸は立てらぬもの。香椎宮のお隣の筥崎宮の神託に次のようなものがある。延喜二十一年 誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。
 神と神妻(巫女)の聖婚の物語と解すべきであり、誉田別命は神の子と思われていた。


[12021] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月16日(木)09時56分
E 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。『古事記』には以下の通り。

皇后は皇太子を禊のために角鹿の伊奢沙和気大神(イザサワケノオホカミ)の命(ミコト)のもとにやった。大神が皇子と名を交換したいとの申し入れがあった。翌朝、浜にでると入鹿魚(イルカ)が打ち上げられていた。そこで大神を御食津大神と命名した。ケの神である。今、気比大神と云う。
皇子が禊ぎをする必要があったのは、麑坂忍熊両王を殺したゆえと考えられている。しかし、それならば皇后も禊ぎをすべきである。何故、皇子だけに命じたのか。皇子は仲哀九年(神功ゼロ年)の誕生、敦賀行きは神功十三年、皇子は十三才、元服の年齢である。成人儀礼と考えるべきだろう。


[12020] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月15日(水)20時14分
D 麑坂忍熊両王の反逆

 両皇子の母親は大中比売命、この人は景行天皇の孫とされる。一方の応神天皇の母は神功皇后で、父親は開化天皇の五世孫、母方は天日矛命の系統。出自は大中比売命が良い。
ただし、大中比売命は景行天皇とその玄孫(伽具漏比売命)との間の子の子とされている。玄孫(四世孫)を一八才でつないでも適齢期には九十才の年の差があり、ウソっぽい系図にはなるが、麑坂・忍熊両皇子は誉田別皇子よりは仲哀天皇率いる政権の正当な後継者との認識が残っており、>誉田別皇子を神に指名された後継者との立場を強調する説話となっている。
Uga近江宇宙有名地(平二四年七月)参照。


[12019] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月14日(火)14時43分
C 皇后の御子出産伝承

 海の母神と御子神の伝承は世界各地にあり、日本では豊玉姫と鵜芽葺不合命の異常出産譚が有名である。住吉神社の最古とされる対馬の祭神はまさにこの母子神である。海藻のように若々しく生命に満ちている神である。
 神功皇后も懐妊中に渡韓、石による出産の引き延ばしなど、異常な出産の物語がある。
 大帯姫(オオタラシヒメ)と息長氏の娘(オキナガヒメ)が習合して、オキナガタラシヒメとなった。これは舒明天皇(オキナガタラシヒヒロヌカのすめらみこと)以降天武天皇の頃までが息長氏の全盛期で、この頃に息長氏が伝承を膨らませてきたものと思われる。


[12018] Re: 神功皇后の存在 初心者 投稿日:2017年 2月13日(月)11時24分
神奈備さんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。神様の話は奥が深く、勉強になります。

>  多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。
そうですね。ヤマトタケルや桃太郎が実在かと言われたら悩みます。

>  万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。

タラシヒメ関連の万葉集歌番号と中西進講談社文庫による原文表記と現代語訳を書いておきます。
813序文は息長足日女命(現代語訳表記同じ)、本文は多良志比悼ツ尾能弥許等「足日女 神の命」
869本文多良志比賣可尾能美許等「帯日売神の命」
3685本文多良思比賣「足姫」
中西氏が、すべての現代語訳の表記を異なるものにした理由と、他の研究者の訳については、調べる余裕がありません。


[12017] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月12日(日)11時03分
初心者さんへのお返事です。

> 神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。

 神社伝承ではなく、景行天皇は大足彦忍代別ですから、彦姫の名前からです。

 オオタラシヒメは神様ですから、現在でも神様です。時代を越えていると思います。

 半島にクスノキはあるのですが、日本のように大きくはならないようです。スサノヲさんの船を造るのは云々の神話も日本製のお話かもしれません。

 多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。

 万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。



B 皇后、新羅を征伐し、三韓を服従させる。

 高句麗好太王(391−412)の碑(414)の前文に「倭が渡海して新羅を破り、百済と共に臣民とした。」とある。倭の半島進出は史実と思われる。
 『宋書 倭王武の上表文』(478) 昔より祖禰先自ら甲冑を着て山川を渡り、休むこともなく、東は毛人五十五国を征す。西は州夷六十六国を服し、渡って海北九十五国を平定した。とある。この海北は朝鮮半島の事で、やはり倭の半島進出は歴史的事実である。
 史実として、遠い昔、倭国が大和を中心として国内平定を行い、さらに半島へ兵を出し、一時は支配していた王権の記憶があった。四道将軍・ヤマトタケル・神功皇后らの伝承であろうか。


[12016] 甲冑の推移 神奈備 投稿日:2017年 2月11日(土)20時26分
 豊中歴史同好会での講義は山口大学の田中晋作先生でした。
 関心を呼んだの時代別の甲冑の分布図のお話でした。
 古墳時代前期後半の分布
    〃  中期        古市百舌鳥古墳時代
    〃  後期前半     継体朝時代

 甲冑の特徴としては、前期後半は方形板革綴単甲。
 中期のは着ると動きがぎこちなくなる固いもの、金帯式
 後期前半のものはがさがさとなっており、動きやすくなっているようです。挂甲。

 時代によって、中央を支持する勢力に変動が見えるが、中には継続している勢力がある。例えば、奈良県の高取町など。

図は前期後半、中期、後期前半 の分布図です。





[12015] Re: 神功皇后の存在 初心者 投稿日:2017年 2月10日(金)10時02分
神奈備さんへのお返事です。

> また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

> 香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。
初心者丸出しで申し訳ありません。
記紀や香椎宮では夫とされているタラシナカツヒコの祖父の時代がオオタラシヒメの時代なのでしょうか?

神社伝承で思い当たることは、神功皇后のクスノキの話です。
神功皇后は、三韓征伐時にクスノキを持ちかえったとありますが、朝鮮半島にクスノキはありません。
どこか南に行って持ち帰った(熊襲?)か、神功皇后とは全く関係ないクスノキであるかです。


[12014] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月10日(金)08時05分
初心者さんへのお返事です。

>神功皇后の存在の否定とは、「朝鮮半島へ出兵した女性権力者」の存在の否定という意味でしょうか?

 良長帯姫と言う人物は存在せず、伝承だけの人、架空の人と言う意味です。

>具体的な伝承の多さからは、非実在の人物と考えるには、無理があると思います。

 鋭いポイントです。ボチボチと考えていきましょう。


 A 仲哀天皇は橿日宮を行宮として、住吉大神の託宣を聞いた。

    筑紫国糟屋郡香椎郷の地には4世紀後半の古墳や製鉄遺跡が出土しており、古代では港に面した軍事拠点であり、韓半島への出兵の拠点であった。ここが巫女女王の大帯姫の伝承地となっていた。
 大帯姫の神威は海人を通して朝鮮半島にまで及んでいたものと思われる。この大帯姫が『播磨国風土記』に見るように、息長帯姫に結びつき、神功皇后の三韓征伐の物語に発展していったものと思われる。
 また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

『播磨国風土記』から
播磨国印南郡 仲哀天皇が皇后と一緒に筑紫の熊襲の国を征伐のため下っておいでになったとき御舟が印南の浦にお泊まりになった。(『紀』とは違う九州行きである。)

飾磨国飾磨郡 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太代の神がこの処においでになる。だから神名によって里の名とした。(射楯の神である、五十猛神である。水軍の祀った神)

播磨国揖保郡 宇須伎と名付けるわけは、大帯日売命が韓の国を帰順させようとして海を渡ろうとされた時、御舟が宇頭川の泊に宿られた。

 なお、息長帯比売命の新羅平定の話は、常陸、摂津 肥前 筑紫 の各国の風土記にも記載され、広く民間伝承として語り継がれていたようだ。


[12013] Re: 神功皇后の存在 初心者 投稿日:2017年 2月 9日(木)09時43分
神奈備さんへのお返事です。

>  神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
>  高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神功皇后の存在の否定とは、「朝鮮半島へ出兵した女性権力者」の存在の否定という意味でしょうか?
九州北部が多いと思いますが、日本には「神功皇后」を祀った神社が多数あり、ローカルな「神功皇后伝説」も豊富です。
具体的な伝承の多さからは、非実在の人物と考えるには、無理があると思います。
まちろん、明らかに怪しい伝説も多いですが、伝説になるほどの重要人物だったのは疑えません。
また、『万葉集』」869番歌に、筑紫にいた山上憶良が
帯日売神の命の魚釣らすと御立たしせりし石を誰見き と詠んでいます。(『日本書紀』成立から約10年後)
憶良の時代に「神の命(可尾能美許等)」という異例な呼び名で呼ばれる女性の伝説があったのでしょう。
魚釣りしただけでは、数百年(憶良の時代まで)語り継がれるとも思えません。
朝鮮半島に出兵したかはともかく、単なるタラシナカツヒコの二番目の妻ではなく、実在したかなりの権力者(重要人物)と考えなければ理解できません。



[12012] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月 8日(水)18時19分
 『日本書記』神功皇后の記事
仲哀二年正月 気長足姫尊を皇后とする。
仲哀八年正月 筑紫の灘県に至り橿日宮に滞在する。皇后、橿日浦で髪を解いて禊をし、海に臨んで神占の儀礼を行った。巫女の行為。
仲哀八年九月 天皇が熊襲を討とうとすると皇后に神がかりし、新羅征討を指示するが神の言を信用しない天皇は熊襲と戦い敗北する。「皇后の御腹にいる御子が国を得られるだろう。」との託宣を行った。住吉大神の託宣とおもわれる。
仲哀九年二月 天皇が橿日宮にて突然没し、遺体を穴門に移し豊浦宮で密かに無火残警行う。
仲哀九年九月 師船を集め西海を望み神の託宣を得る。石で腰を挟み開胎をおさえる。
仲哀九年十月 対馬を発ち新羅に至り国王を服属させる。
仲哀九年十二月 新羅より帰還して筑紫の字瀰で誉田天皇を産む。
神功元年二月 穴門豊浦宮に移り、京へ帰還する。麑坂忍熊両王が反逆の兵を挙げるが、麑坂王は死ぬ。
神功元年三月 武内宿祢は忍熊王の軍勢を近江に撃滅する。
神功元年十月 皇后を尊び皇太后と称す。
神功三年正月 誉田別皇子を皇太子とし、都を磐余に造る。
神功十三年二月 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。
神功三十九年(239 卑弥呼) 「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遺して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守都夏、吏を遺して将て送りて、京都に詣らしむ」。
神功四十年(240 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遺して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」。
神功四十三年(243 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遺して上献す」。
神功四十六年(364) 斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に派遣。百済王と倭使との交渉を記す。百済国は日本の場所も通交手段も知らない。(矛盾)
神功五十一年三月 百済使久弖ら来朝、千熊長彦を百済へ派遣する。
神功五十二年九月(372) 百済使久弖ら来朝し七枝刀など種々重宝を献上する。
神功六十二年(382)新羅が朝貢しないので葛城襲津彦を派遣して討たせる。
神功六十六年(266 台与)「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」。
神功六十九年四月 皇太后崩ず。
神功六十九年十月 狭城盾列陵に葬る。


[12011] Re: 裴世清は子供の使い はやぶさ 投稿日:2017年 2月 8日(水)11時02分
この書き込みで内容を初めて知った口なのですが

なんか日本側の使者が裴世清に道を覚えられないように上手いこと隠してたんかなぁ、と感じた
わざわざ身の危険を冒して日本へ来ている人間が記録をさぼるとは考え難いような


[12010] 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月 6日(月)21時02分
 神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
 高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

 岩波新書の『ヤマト王権』に、次のような文章が載っていました。


 七支刀の銘文で問題になるのは、後半の「為圏王旨造博示歴世」の解釈である。「倭王の旨」と読んで、四世紀に倭王である「旨」が存在したとする説もある。しかしながら、この箇所は「倭王の為に旨造し後世に伝示す」というように読む方がいいと思われる。「旨造」の読みが難しいが、村山正雄は「旨(美。うま)く造り」と読み、中国史研究者の宮崎市定は「旨(嘗。はじ)めて造り」とする(『謎の七支刀』)。いずれにせよ「旨造」の言葉であり、倭国王の名前にはならない。したがって、「倭王の旨」 の解釈は無理だろう。

 とあり、もっともだと感じています。このあたりのことはやっかいと言うか難しいですね。


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< valign=top>[12009] Re: 裴世清は子供の使い 福島雅彦 投稿日:2017年 1月16日(月)20時30分
かたばみさんへのお返事です。
遅くなりました。あちこちのレジメからの転載で読みにくいかと存じますが、ご賢察ください。

> 解釈の問題のようですね。
> AD600、倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩?彌。
> 倭王の姓名を明示。この段階では阿輩?彌(おそらくオホキミ)など音を聞き取っての、隋側による文字化とみえます。

*「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩?彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」(13頁)の異字表記である。
・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
・「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」である。

*「天照大神」=「天」は前述。
・「照」=古代倭語“???”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。
・因みに高良大社の主祭神「高良・玉垂尊」=“?-?-?-??”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。

*「天(あま・あめ)」は、前章の東の意と「ま・め」=膨れている、山の意の古語との合成。「(国の)東の聖なる山」(水源のある山)となる。

・「天(あま・あめ)」の語源
*“?・?”(a・ad)=平面では「端・東の端」、立体的には「上・上方」と。
根拠は、筑後弁の 礼拝詞「アッ」から閃いたが…。朝日、月の出を拝む時、敬服する方と遭遇したとき、最敬礼して「アッ」という。
*「朝」は漢字音で「ちょう」であるが…。「あ(東)さ(処)」=夜が明ける所。
 朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
*檀君の古朝鮮建国神話の「阿斯(あさ)達(だル)」の「阿斯(あさ)」も「倭語」の「朝」が疑われる。
・「達(たル)」=「嶽(たけ)」の意とする説(故・金達寿、他)があるが、「倭訓」であろう。
・「嶽」=漢字音「ガク」、朝鮮語=“?”(ak)であるから、「倭語」である。
“?-??”(tal-gu-da)=「(火で)熱する、焼く」=倭語の「焚く」の語源とする「李寧熙」説もあるが、逆で、「炊く」が語源で“?-??”がある、と。
    ∴「阿斯達」=「東の山」で「朝焼けの山」でもあり「高天原」と同義語か、と。
“??”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
    ・安心院(大分県宇佐市)は、九州島の朝がくる方位でもある。
・阿波(四国の東端)・阿漕が浦(紀伊半島の東)・安房(房総半島の東端)。
・「上野」=(あヶの)⇒東の野、又は上(お偉い方の所有地の)野、の意か。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号 10〜11頁。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ、と。≪一部抜粋≫
*「天(あま・あめ)」の「ま・め」は、“?”(me)=山の古語・雅語『民衆書林・韓日辞典』。子音は“m”で母音は“a+e”の中間音である。「ま=め」と両方に訛る。
・「ま」行は、膨れている物、出っ張っているものを表している。
・「眼」=“?”な(の)“?”(got)(処)。実=丸い。六つ=家屋に象る。
・「目」=眼球は膨れている。「も」=“?”(mo)=角、物のとがって突き出した部分。

> ところが、都斯麻國、竹斯國など九州方面の地名は万葉仮名使いとみえます(文字で情報伝達)。
> (魏志倭人伝の対馬には「シ」の音が含まれていない)
> (北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)

*倭人側の発音の変化を映していると観ます。
・「「對海(馬)國」」の「海・馬」=山の意の古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)“?”(ma)を音写していて、双山國の意。
・「都斯麻國」の「斯麻」=「島」の「倭語」音写で、二島の意。
・語頭の「ツ」は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の“?”(tu)=「二つ」の意の音写です。

>(北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)
*竹林の拡張には北九州に限らず殆どの山間地で困っています。

> 書紀では
> 「大唐の客裴世清等を召さしめ、唐の客の爲に新しき館を難波の高麗の上に造らしむ・・客等、難波津に泊つ・・」
> 「小野妹子が百済を通る際に国書を奪われた」
> 「唐の客を海石榴市の衢に迎え・・」
> 「時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拜みて使の旨を言し上げて立つ。その書に曰く・・」
> 「時に阿倍臣、庭に出でてその書を受けて進み行き、大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の机の上に置きて奏し・・」
> ごちゃ混ぜ記事だとみています。
> 書紀には事象は書くが、時代と人物をすり替えて合成する作為少なからず。
> これが私の書紀解釈の原則です。
> どれもまるっきりの嘘ではないとみえるのがいやらしいところ(^^;

* ここが、『日本書紀』が馬脚を現している所です。隋の煬帝の使者裴世清を「大唐」と間違っています。九州の故事を簒奪した証拠です。

> 裴世清だけが九州に留まったとするなら、その理由は如何に。
> 隋と倭国、総合的な観点からの分析が必要だと思います。

*裴世清だけが九州に留まったのではなく、誰も畿内へは行っていない、と観ます。小野妹子が国書を奪われたというのも、九州皇統から出された使者が帰国してみたら、畿内に取って代わられていたので別の皇統へ国書を渡さない為の方便だと観ます。小野妹子も蘇因高が彼の地の認識ですし…。

> 余談
> 私の歴史観では、欽明(九州在)死して用明(九州在から近畿在)が継承、用明死して子の多利思比狐(近畿在)が継承。
> その政治混乱期を書紀は推古と聖徳太子の偽装によってリカバーしている、が基本です。
> 蘇我氏が台頭する時代(蘇我氏は用明に随伴して近畿に入り、物部氏を滅ぼしたとみています)。

*私も、朧気にはその様に感じていますが、確たる論考にまでは至っていません。詳しく、ご教示賜りたくよろしくお願い致します。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。



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