神奈備掲示板の案内とログ

神奈備掲示板

神奈備掲示のログ(平成三十年 一月〜十二月 2018.1〜12)お名前の敬称は省略しています。

神奈備にようこそ 掲示板 keijiban3

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皆様から神社や古代のお考えのご紹介やご意見などを頂きたく思います。
大いにコラボレーションいたしましょう。

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[12095]Re: 丹生総神主家系図 通りすがり人 投稿日:2018年12月17日(月)11時11分
丹生の探し人さんへのお返事です。

>  丹生総神主家家系図を記している書籍を探しているのですが、中々見つかりません。
>
>  どなたか、記してある書籍の名をご存じであれば教えてください。

収載されている書籍名は知りませんが、ネット上で「寺社巡りドットコム」いうサイトがあります。
そこの運営者は多分、たぶん?ですが、寺院のことも神社のこともよくご存じの方なので、連絡を取ってお尋ねになったらいかがでしょうか?
もちろん日本史全般についてもよくご存じのはずです。

専門家のサイトでしたら「神社史研究会」というのもありますので、お尋ねされたら如何でしょう。
いずれも検索すれば簡単にヒットします。


[12094]丹生総神主家系図 丹生の探し人 投稿日:2018年12月15日(土)23時24分
 丹生総神主家家系図を記している書籍を探しているのですが、中々見つかりません。

 どなたか、記してある書籍の名をご存じであれば教えてください。


[12093]Re:中山神社 神奈備 投稿日:2018年12月10日(月)13時04分
散人さんへのお返事です。

> 初めまして、検索でこちらのサイトに辿り着きました。
> 市井の一、神社好きです。
>
> 神奈備神社一覧関東/中山神社(中氷川神社)の項に合祀祭神が網羅されております。
> わたくしは明治四十年に合祀、とされる近在の小社が何社であるのか全く判りませんでした。
> 差支えなければこの出典を御教示願えませんでしょうか。
> よろしく御願いたします。

神社本庁(
http://www.jinjahoncho.or.jp/
)発行の『平成祭り データ』(平成7年)(
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA63924187
)と云うCDがありまして、これは2万円とちと高いのですが、申し込めば送ってくれるでしょう。


[12092]中山神社 散人 投稿日:2018年12月10日(月)13時04分
初めまして、検索でこちらのサイトに辿り着きました。
市井の一、神社好きです。

神奈備神社一覧関東/中山神社(中氷川神社)の項に合祀祭神が網羅されております。
わたくしは明治四十年に合祀、とされる近在の小社が何社であるのか全く判りませんでした。
差支えなければこの出典を御教示願えませんでしょうか。
よろしく御願いたします。


[12091]Re: 隠れ銅鐸祭祀 ペギラ 投稿日:2018年11月16日(金)17時51分
かたばみさんへのお返事です。


> >銅剣形土製品とか銅戈形土製品とか、たくさんあるのか?
>
> こういう考え方はどうでしょうか。
> 「音を出す」ことが目的の場合は土器で作っても代替になった、です。
>

そうですよね。

でも、模倣土製品は、小さいんです。
現代の風鈴サイズより、小さいカモ。


銅剣・銅戈などの模倣品は、木製・石製 という感じです。

このあたりに、何かしら、古代人のこだわりがあるのかもしれない。と思っています。


[12090]Re: 隠れ銅鐸祭祀 かたばみ 投稿日:2018年11月14日(水)11時52分
ペギラさんへのお返事です。

>銅剣形土製品とか銅戈形土製品とか、たくさんあるのか?

こういう考え方はどうでしょうか。
「音を出す」ことが目的の場合は土器で作っても代替になった、です。

円筒型埴輪、太鼓だと考えています。
側面にあいた穴は固定用の穴かもしれないが、装飾的な穴も少なくない。
朝顔型などは音響効果を意識した可能性ありとみています。
ずらり並べてドンドコドン、現代の雨乞いイベント、面白いと思うです。


[12089]Re: 隠れ銅鐸祭祀 神奈備 投稿日:2018年11月11日(日)16時23分
ペギラさんへのお返事です。

 追加情報、ありがとうございます。

 どんたくさんも最近元気に活躍されています。

丸 について 追加
 満・万里・麻呂がついているのは賎民の称号だと折口信夫は言っている。挽歌の歌人に多い。そうして邪神の呪いを避けようとしたとされる。まろやまりには屎まるの意味があり、きたないと思わせる名で邪神をしりぞけようとする。


[12088]Re: 隠れ銅鐸祭祀 ペギラ 投稿日:2018年11月 9日(金)23時44分
2年がかりの追加返信で申し訳ありません。

ふっと、思いついて、

その思いついてのもとは、

2017  青銅の鐸と武器 滋賀県立安土城考古博物館

このなかにある銅鐸形土製品、たくさん出てきます。

いままでも、充分気になっていた部類の品物ですが、
いくつかを見ていると、

「銅剣形土製品とか銅戈形土製品とか、たくさんあるのか?」

と思いました。

とりあえず、銅鐸側の人間としては、見当たらない。

ええっと思う、昨今です。


[12087]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) 神奈備 投稿日:2018年11月 1日(木)11時49分
>かたばみさんへのお返事です。

> 日本海であるなら鬱陵島の洞穴群に注目、現在は観光地になっています。
> この島に「神」が住む価値があるか?
> 黄金に勝る宝物の翡翠を運ぶルートの拠点となります(大穴持神の名との関連は?)。
>
> 姫川−隠岐(島根半島)−鬱陵島−半島東岸−箕子朝鮮−陸路で周へ。
> (後の山陰の四隅突出墓など高句麗文化流入ルートの源流)
> BC500頃には東シナ海を活動中心とする海人のネットワークができたと考えています。
> 中国で出土の翡翠の成分分析で、遠からず姫川の翡翠が発見されるだろうと思っています。

鬱陵島と五十猛について
 当HPにも触れています。
 17世紀後半に南宗庵が編んだ『残太平記』の記事。隠岐国の商人を呼んで五十猛島の事を問えば、隠州より七十里。東西九里で、大竹が芦しげく生えて、竹の中に道があり、人は不在、一つの岩屋があり、広さは一町四方もある。人が覗けば、色黒く一眼の人で高さ一丈二過、竹葉を衣として鉄棒を振って追い出す。この大人は素盞嗚尊の御子五十猛命がこの島に住すると伝えたとあれば この大人は神であろう。
 鬱陵島は後に磯竹島もしくは竹島と呼ばれていた。五十猛島とも表記されていた。
 鬱陵島とら東へ90kmで、日本領である竹島がある。江戸時代には松島と呼んでいた。


太田市五十猛町(旧 磯竹村)
宝暦九年(1759)の『八重葎』(やえむぐら)「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とありこれは太田市五十猛町(いそたけ)の昔の名である。


[12086]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) かたばみ 投稿日:2018年10月31日(水)19時42分
大己貴(大穴牟遅)の祖先たち東シナ海系海人は翡翠を発見した。
縄文人が身につけていたのは糸魚川(姫川)の翡翠。
中国では最高級の宝玉であり上質品は金よりも価値が高かった。

縄文人はゴホウラ貝を求めた、これも東シナ海系海人にとってお宝です。
春秋戦国の避難民にさして遅れることなく東シナ海系海人が動いた、翡翠を探しに。
南西諸島の海人の運ぶゴホウラ貝を九州で入手、これを土産にして日本海沿岸へ。

春秋戦国から逃れて山陰沿岸に漂着したのは農民(土笛と綾羅木土器を使う)。
多くが山東半島(畑作≒斉)からだと考えています。
玉突き現象で遼東半島や朝鮮半島の人々もやってくる。
これらの人々は耕作できる土地があればそこに定着する(水稲は持っていない)。
だが海人の行動は違う、川を遡上して山にも分け入った。

魏志韓伝高句麗に
「其國東有大穴名隧穴 十月國中大會 迎隧神還於國東 上祭之置木隧於神坐」
その国の東に隧穴という大穴がある・10月に隧神を迎え・木像をおいて神を祭る。
ここでいう高句麗の範囲が問題ですが、東を?ワイとみるにせよ、日本海とみるにせよ「神」として祭るような文化は高句麗の東には存在しない。

日本海であるなら鬱陵島の洞穴群に注目、現在は観光地になっています。
この島に「神」が住む価値があるか?
黄金に勝る宝物の翡翠を運ぶルートの拠点となります(大穴持神の名との関連は?)。

姫川−隠岐(島根半島)−鬱陵島−半島東岸−箕子朝鮮−陸路で周へ。
(後の山陰の四隅突出墓など高句麗文化流入ルートの源流)
BC500頃には東シナ海を活動中心とする海人のネットワークができたと考えています。
中国で出土の翡翠の成分分析で、遠からず姫川の翡翠が発見されるだろうと思っています。

このネットワークの長江−五島列島−北九州が最新の水稲技術伝播のルート。
青森県砂沢遺跡などの水稲痕跡は海人が翡翠探索で東北に持ち込んだもの。
東北の水稲が近畿より早いとみえるのは正しい(弥生末期の寒冷化で東北では消滅)。

記紀、先代旧事本紀に書かれる素盞鳴の子とされる五十猛や大屋彦はこの時代の東シナ海系海人の仲間だと考えています。
海人にも材木と食料を得る陸の拠点が必要。それを受け持った人々を源にする伝承。
台湾杉、屋久杉、秋田杉、吉野杉、などDNA分析を知りたいところです。

五十猛も大屋彦も個人ではないでしょう。時代も位置も広範囲に及ぶと考えています。
古事記で大穴牟遅神が木国の大屋毘古神の元へ避難したという。
この神話は海人と各地の拠点の関係を示す(大国主ではありません、海人の伝承)。


箕子朝鮮は殷が滅びたとき殷の箕子一族が朝鮮北部に移封されて建国、春秋戦国時代にも存続していた。
三国志魏志韓伝に
「侯準既僭號稱王、為燕亡人衛満所攻撃、将其左右宮人走入海、居韓地、自號韓王。其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。漢時属楽浪郡、四時朝謁」

BC194、箕子朝鮮へ亡命していた燕の衛満の反乱で王朝の人々は海へ逃れあるいは韓の地で韓王を名乗ったが滅びた。
現在も韓人に祭祀者となっている者がいる。漢の時代には楽浪郡に属した。

魏略に
「箕子及親留在国者、因冒姓韓氏。準王海中、不興朝鮮相往来」
国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが朝鮮の再興はできなかった。
「海中にあって朝鮮と行き来した」、海中とは列島のことでしょう。
勢力を大きくするには九州の他にはない。
九州と半島の間を行き来しながら勢力回復を図った。

スサノオの登場。
渡来したのが箕準王本人かどうかはなんともいえませんが15歳あたりか。
書紀一書で「海をつかさどる」は不可解、海が得意のはずがない。
海の向こうからきたことの変形だろうと思います。
漂着場所は山口県の須佐湾としておきます。単純に須砂の男あるいは須砂の王。

土井ヶ浜の矢を打ち込まれた遺骨、これが何者かは別にしてスサノオ登場にからむ先住者(漂着者の子孫)とみています。
すなわちBC190頃の遺骨。スサノオ一行が九州をめざすその途中での出来事。


九州側ではアマテラス文化(縄文+畑作+初期水稲)が拡大しています。
スサノオが平和的に勢力拡大できる状況ではない、武力を以て土地を奪うほかはない。
考古学的に九州北部で戦死者遺骨が増大しているのはこれによる。
神話では天照大神と素盞鳴尊の対立がこれを示す。

まずは遠賀川でひと暴れ、被害者は大気都比賣。
遠賀川の状況は古事記の書く大年神系譜が示す。
参考図1
大年神は初期水稲を含む農耕全般の文化を示す。
2世代目?あたりの神名は地形などを示すとみえる神名です。
3世代目?の大気都比賣の段階では季節の概念と村落経営に関する神名が登場しています。
農耕の発達過程を示すと考えています。

大年神の最初の子等には半島系とみえる神名がありますが、初期の半島経由の人々の漂着を意味する。
書紀編纂時に百済の学者が提示した半島の神を参照して創作さtれた神名でしょう。

スサノオの妻とされる神大市比賣は遠賀川の出自とみるところ(大山祇神=縄文系の娘)。
遠賀川征服が一段落した時点での最初の結婚。
スサノオ漂着から数年でスサノオ20歳あたりか、BC180頃。
その後裔は宇迦之御魂神と大年神(大歳神)とされ、遠賀川の農耕≒アマテラス文化を代表する神名と思います。
穀物関連とみえますが、あいまいでその後はみえない。

遠賀川流域は弥生後期の異常気象に伴う洪水によって崩壊したと考えています、AD100頃。
海の祭祀をのぞき、陸の神大市比賣の系譜と伝承は消えてしまった。
そこに書紀は素盞鳴尊の誓約と五男神三女神誕生の創作を加えた。
現在にまで残るのは海の宗像三女神のみ。
参考図2 遠賀川の縄文海進推定図

縄文海進と「丘」の接点に縄文遺跡や貝塚が多数あります。
海退(縄文後期)が始まったとき、海だった場所は平坦な農耕適地になると考えられます。
「奈良湖」が消えてゆくときそこには水稲に伴う弥生遺跡が多数登場した。
同じ状況が遠賀川流域でも生じていたのではないか。

奈良湖と異なるのは海の「干拓地」であること、しばらくは塩分が多いでしょう。
耐塩性が低い水稲は育ちにくいですが、初期水稲では灌漑技術が未熟で緩傾斜の小河川沿いに水田が作られています。
お隣の下関市の綾羅木遺跡(土笛)からは糸紡ぎ用紡錘車や平織布(最古?)が出土。
この遺跡からは稲や麦を含む多数の植物や漁労遺物もでています。
遠賀川流域は綾羅木よりはるかに広大です。

アマテラスの機織り娘が平織布をぎっこんばったん織っていた。
スサノオはここを制圧して周囲へ進出、武力に劣るアマテラスはじりじりと後退。
逃げ隠れするアマテラス(^^; 岩戸隠れ神話の源です(のちに支援者が現れる)。

スサノオは半島から兵と武器を運んだが船が苦手で遭難が相次いだ。
良い船と船乗り求む・・娘の須勢理姫も年頃となってきた。
応じたのが東シナ海系海人の大己貴(大穴牟遅)、最新の文化も所持しています。
うむ、おまえなら合格じゃ、娘の婿にしてやるぞ。

その子孫の作るのが板付や吉野ヶ里を代表とする福岡平野や佐賀平野の遺跡群。
最新の水稲と灌漑技術を以て大発達、人口も急増してゆきます。
最大の特徴は甕棺葬を持つこと。
参考図3 甕棺葬の時代と分布 九州の甕棺/藤尾慎一郎

さらに南へ熊本県前田遺跡(中期型)、鹿児島県南さつま市下小路遺跡(後期型)、鹿児島大学構内遺跡 (破片)出土。
ただし、鹿児島の甕棺は東シナ海系海人の拠点であって、陸のスサノオ勢力がそこまで達したものではないと考えています。

にもかかわらず大己貴と須勢理姫の子孫の記事はみえない。
大己貴と多岐津姫(宗像、勘注系図では神屋楯比賣 ) の子に味耜高彦根がみえるのみ。
記紀が消したとみています。九州の風土記からも関連伝承は抹消でしょう。

北九州スサノオ系の大型集落群、天之忍穂耳到来で大激戦がはじまる。
戦死者遺骨が急増する時代、国譲りらしき気配はみじんもなし。
書紀はこの系譜と事象を伝承もろとも「天空に消滅」させるほかはなし。
あるいは大国主のお話であるごとくにみせかけるほかはなし。

「大国主の別名」をどう解釈するのか。
古事記の書く系譜を信じるのか、信じないのか。
私は古事記の系譜は正しいとみています、矛盾のない説明ができるからです。

八岐大蛇神話はスサノオの遠賀川から周辺へ進出過程での事象。
阿蘇山麓〜高千穂あたり、櫛名田姫(大山祇神の孫相当、縄文系)を妃とする。
その子孫と系譜は古事記が明記、八島士奴美の誕生。
豊前の中津〜宇佐とみています。
甕棺葬は持たないグループ、大国主に至る「出雲の本命系譜」の登場です。

続く





[12085]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) 神奈備 投稿日:2018年10月11日(木)13時47分
かたばみさんへのお返事です。


 大和三山の北の山を耳成山(ミミナシ)と言います。円錐形の山で、よくある形です。この山が敢えてミミナリと形容されるのは、大和の人々にとって、耳に高い関心があったからでしょう。
 谷川健一氏は、ミミのつく人名は神武帝を中心として四代前から四代御にあるとしています。母親が南方系であることが影響しているとのこと。
 『魏志倭人伝』では、投馬国の官名に弥弥(みみ),弥弥那利(みみなり)があります。
 例の五島列島の小近島には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいたそうで、海人族の名にもミミが使われていたのかもしれません。
 この国の成り立ちの一つのキイがミミといえるでしょう


[12084]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) かたばみ 投稿日:2018年10月 9日(火)21時53分
神奈備さんへのお返事です。

「おまる」を辞書で調べたら御虎子と書くんですね。
読めっこない、なぜ??
いつの時代かの学者先生のお遊びだと思うです。
おまるってどんな字を書くんでしょ、と聞かれた先生ちと考えた。
御麿や御丸じゃ失礼じゃな・・大切なもの・・そうだ虎の子だ。
本来は「放」マルなのでしょうけど、ご存じなかったのでしょう(^^;

佐賀県の唐津の語源は?
カラの音がまずありきでよいと思います(倭語といってもよいか)。
意は外国でしょう、カラツは外国と交る港といったところか。

天之忍穂耳到来当時の外国の認識は縄文時代からの延長で「対馬海峡の向こう側」半島南部を示し、それが外国カラだった。
(秦BC200頃の中国側からも蓬莱など徐福たちの知識がせいぜいでしょう)
後の半島南部の駕洛国(伽羅、伽耶諸国のひとつ)も本来は列島から見ての外国の意かもしれない。
漢字の一般化と唐の登場と伽耶の消滅にともなって新たに唐の文字をあてたのだと思います。
唐揚げは? 某国共産党を油で揚げること。日本唐揚協会なんてのがあるんですね。

ちなみに推古紀で随の裴世清を「大唐の使者」と書いていますが大唐ダイトウではなくオオカラと読ませるのだと思います。
「聖徳太子」以前の隋や唐を意図的にあいまい化するためです。
倭王五代−筑紫の磐井−欽明−用明の九州系大王による中国との交流を消去する、という編纂者の思惑によるもの。
神武から飛鳥奈良に至る正当な王朝は近畿のみとしてその権威を確立する(作り出す)必要があった。
結果、諸外国との交流を全く書けず、史書としては通用しなくなったけれど。
武家時代になっても権威を持続できたことで、思惑は成功したといえそうです。


>先日NHKでごぼうら貝を沖縄から列島へ運んだ筋骨隆々の縄文人の話

肥前国風土記の「美彌良久」、「五島の海士は隼人に似て騎射を好み」とありますね。
神武の5人?の子の名にはすべて「耳」がつく。
母が玉依姫(海系隼人?)であろう子ならいざ知らず、母が出雲娘であろう子にまで。
よほど神武にミミへのこだわりがあったのでしょう。
天之忍穂耳、だろうな。

魏志倭人伝に登場のミミは耳ではありませんから、ミミという倭語?に当て字したもの。
書紀での名の「耳」が編纂者の考えだとしても、ミミの音は耳の意であっておかしくない。
魏志倭人伝で「倭の風俗は?耳タンジ・朱崖の俗に似る」とあります。
?耳タンジ、朱崖は中国の海南島付近とされます。
タンは担ぐの意、耳をかつぐ人々、大耳ですね。
参考図 伎楽面の呉公 他にも耳のでかい面あり

屋久島の横峰遺跡、縄文後期に300年ほど継続らしい。
100戸もの住居跡があるけれど漁労具も農耕具も出土していない。
ヤクタネゴヨウ(松)の破片?がたくさん発見されています。
丸木舟を生産する工場だったと考えています。

ゴホウラ貝で大もうけする海人が発注した、北前船の祖先(^^;
南西諸島の海人か?九州南岸の隼人系海人か?
ま、島根半島あたりから東北方面は別の海人にバトンタッチだと思いますけど。

屋久島の一湊松山遺跡では曽畑式土器(縄文前期)〜市来式土器(縄文晩期)出土。
曽畑式は鳥取県から沖縄本島にかけて出土する土器です。
鳥取〜沖縄、この範囲に同一文化を持つ人々が暮らしていたわけです。

「大国主と因幡の白兎神話」とは「大己貴と少彦名たちによる医療技術の伝播伝承」のこと。
(記紀が大己貴と大国主を同一名であると改ざんしたために大国主神話に変化してしまった)
因幡の白ウサギのワニはイリエワニのこと。
(イリエワニは海も渡る最大級のワニ、フィリピンなど東南アジアに生息)
ただし因幡にイリエワニがいたわけではない。
同じ文化圏に伝わっていたワニの話が鳥取に残り、それが医療と重なって神話化したもの。
筋肉隆々の海人が白ウサギとつながっているのであります。



[12083「Re:○○丸」の付く地名 神奈備 投稿日:2018年10月 8日(月)21時33分
福島雅彦さんへのお返事です。

 丸地名、平地が多いのですか。
 私が訪れたのは、前原の王丸の白木神社「現在の祭神は五十猛命」で、意識して行った唯一の丸地名の場所です。山の中腹に鎮座していました。平地hが主だとは意外でした。勉強になりました。
 実は、福嶋さんのコメントを期待しておりました。誠にありがとうございます。


[12082「○○丸」の付く地名 福島雅彦 投稿日:2018年10月 8日(月)18時19分
神奈備 様、かたばみ 様、横レスに亀レス失礼します。

標題については、一家言ありましたが、公開講座の講師(90分×2=休憩を挟む)がたて続けに二回も控えて居ましたので、遅くなりました。

 拙著『卑彌呼が都した所』1996年・葦書房 の記述を抜粋引用。

第一章 日本語(九州弁)と韓国語の関係

*「田主丸」(福岡県浮羽郡=現・久留米市)………48〜49頁

“??-??”(タンシン-マヌル)=貴方の村。
“??-??”(タンシン-マヌル)の音(おと)が漢字を使う前から在った。その語源が忘れられた後、その音に「田主丸」と当て字を付けたので、字面に惑わされ、「タヌシマル」の訓みに変わってしまった。福岡県浮羽郡田主丸町の事である。ご多聞に漏れず、怪しげな中世以降の故事付けがある。曰く、領主の菊池丹後入道何某かが、領民が「楽しく生まれる」事を願って付けた、と。胡散臭い事この上もない。
 ≪貴方の…≫とは、名を言わなくても判る人「卑彌呼」である。元もと国王でない「卑彌呼」の為の直轄「神田」の事である。

*「〜丸」
 “〜??”(〜マウル)=〜村。福岡県内には、この「丸」が付く地名が、水田地帯に非常に多い。
 これは、「〜原(ば?)」との相違点の水利がある地域を指している様である。
・「福岡市西区」=太郎丸、石丸、丸。・「早良区」=次郎丸。
・「宗像市」=王丸、石丸、武丸、三郎丸。・「新宮町」=太郎丸。
・「志摩町」=西小金丸。・「前原市」=王丸。
・「那珂川町」=五郎丸。・「甘木市」=金丸、千代丸。
・「夜須町」=鬼丸。・「朝倉町」=乙丸、猿丸。
・「杷木町」=星丸。・「宝珠山村」=千代丸。・「小郡市」=今朝丸。
・「北野町」=仁王丸、十郎丸、乙丸。・「久留米市」=五郎丸。
・「吉井町」=徳丸。・「浮羽町」=糸丸。・「大川市」=三丸。
・「大牟田市」=四大丸。・「鞍手町」=太郎丸。・「宮田町」=六郎丸。
・「若宮町」=黒丸、福丸、金丸。・「飯塚市」=乙丸。・「頴田町」=石丸。
・「穂波町」=太郎丸。・「筑穂町」=四郎丸、九郎丸。・「桂川町」=九郎丸。
・「金田町」=福丸。・「香春町」=松丸。・「赤村」=珠々丸、四郎丸。
・「川崎町」=筒丸。・「若松区」=乙丸。・「戸畑区」=丸町。
・「小倉北区」=三郎丸。・「八幡西区」=力丸町、永犬丸。
・「遠賀町」=千代丸。・「行橋市」=小犬丸。・「犀川町」=犬丸。
・「豊津町」=節丸。・「豊前市」=四郎丸、小犬丸、市丸。
・「築城町」=松丸、袈裟丸。・「椎田町」=外丸、岩丸、野々丸。
・「吉富町」=小犬丸。・「大平村」=薬丸。
計六十三ヶ所の「〜丸」の地名がある。殆どが平地に在り、河岸段丘の一等地が飽和状態になった後、後発の入殖者が、仕方なく次善の場所として、争いを避けて住み着いた。河岸段丘の先住者も、新技術(製鉄、陶器=須恵器)の提供を条件に渡来人が住むのを認めた? <引用終わり>
*町村合併前の市町村名です。

※山付きの棚田、河岸段丘は勾配を利用して容易に水稲稲作用水が引ける。
低平地は洪水の氾濫で低湿地の荒野。未だ穀倉地ではない。
この洪水でも冠水はするが、流出とか氾濫域の砂利河原化しない次善の地に「〜丸」の地は在る。近くに大小の河川は在るが、水耕稲作用水としては汲み上げないと使えない。
洪水で冠水した時の移動手段として、「船」は必需品である。蛋白源としての山の幸(狩猟=イノシシ、鹿)は先住者の物。自ずと、蛋白源は漁労に頼らざるを得ない。村落名を付けた船が、船舶名の「〇〇丸」の始まりであろう。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

以上、福島雅彦説でした。


[12081]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) 神奈備 投稿日:2018年10月 5日(金)09時07分
かたばみさんへのお返事です。


ありがとうございます。
  先日NHKでごぼうら貝を沖縄から列島へ運んだ筋骨隆々の縄文人の話がありました。この人々が海人族の一員だったのでしょう。黒潮に逆らって南下するのは大変な力仕事のようです。五島列島から出土したようです。


[12080]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) かたばみ 投稿日:2018年10月 4日(木)17時44分
日本海沿岸、遠賀川以東〜若狭湾に至る沿岸部から土笛が出土しています。
これに重なって綾羅木式土器が出土。
東京国立博物館特別展
http://www.tnm.jp/modules/rbindex.php/1/2014/02/21/
綾羅木郷3

今のところ半島での状況は不明ですが、綾羅木式土器と土笛は同じ文化圏の人々でしょう。
考古学的には弥生前期後半〜中期初頭とされ、春秋戦国のはじまるBC700頃以降の到来が推定できる。
山東半島は畑作がメイン、山陰のサヒメの畑作伝承はこの人々を源にする(のではないか)。
土井ヶ浜の遺骨は山東半島の人々に類似、ここも土笛と同じ集団(だと思う)。
半島系遺物もありますから半島南岸経由。

BC700頃、周の支配力が衰えて各国が覇権を争い始める時代。
ある地域が他国に併合されれば農民が農地を奪われる、これが脱出の理由だと考えています。
BC600頃では中国全土が同様の混乱状態。
山東半島の斉はBC600頃から勢力を失う、ここから追いだされた農民は新天地を求めた。
半島に住んでいた人々が玉突き現象で追いだされることもあるでしょう。
農民が故郷を離れる、生死にかかわる事情があったはずです。

山東半島から朝鮮半島南西岸へ、??なら簡易な船でもなんとか渡れる。
だが、対馬海峡ではそうはゆかない、漂流し山陰沿岸にばらばらに漂着した結果が若狭まで広がる土笛が示す、と考えています。
響灘以西に土笛がない理由でもあります。


最近の水稲のDNA研究から列島と半島では、列島側が先である可能性が大きい。
考古学的にも佐賀県菜畑遺跡の水稲が半島南西岸の松菊里遺跡より古い。
半島北部に水稲はない、すなわち陸伝いで伝播したのではありません。

長江下流ではBC1000以前に遡って周の太伯が越に下って呉を建国。
太伯は姫(キ)性で周の一族ですから遊牧系、水稲は持っていない。
単身赴任のはずもなく、越人が追いだされている可能性がありそうです。
「勝者の善行」と「敗者の悪行」は宣伝されても「勝者の非道」はめったに記事にならない。

もし、水稲伝播がBC1000に遡るのであればこのとき脱出した越人が運ぶ可能性大。
この後、呉越は宿敵同士となって戦が続く、その時代では「呉人」はまだ水稲を持たないと思います。
BC473に呉(夫差)が越(句践)に破れ、今度は呉側の農民が多数渡来する可能性大。
この時代では呉の農民も発達した水稲技術を持っていたと思います。

稲イネと米マイ(呉音)、不確実ですが古越語では稲「ine」のようです。
主食に複数の文字や発音があるのは、異なる言語圏の稲が列島で複合しているからだ、と考えています。
コメは不明、東南アジアなど広い範囲のチェックが必要そう。
(韓国語でイネ近似はあるようですが、マイに相当する音があるかどうか不明)

沿岸であっても農民が船を操って東シナ海を渡れるとは考えにくい。
長い戦乱なら海人の協力を得るゆとりはあったと思います。
所持する宝物はなにもない、生活用具と水稲技術。


これらの民間人を運んだ海人グループ、それが書紀神話での大己貴(大穴牟遅)や少彦名の先祖だと考えています。
(神話での神皇産霊尊に相応する、海の文化を示す)
どんな船を使っていたのか、中国史書は内陸国の書で海の記録がない。
東南アジアでも活動していた人々でしょう、フィリピンにはネグリトという小人族あり。
少彦名、天乃羅摩船、羅摩=ガガイモ=参考図 ガガイモの種と綿毛。
ずばり丸木舟+帆ですね、帆はタパ布だろうな。

農民の到着した地域の情報は海人を介して呉や斉にも伝わっているはずです。
これが後に天之忍穂耳や天穂日に伝わって、それぞれの目的地になったと考えています。


佐賀県唐津の水稲の菜畑遺跡は縄文貝塚もあってBC1000にも遡る。
支石墓は半島系とされますが菜畑の支石墓から発見された頭骨は西日本の縄文人に類似だそうです。
縄文時代から半島と交流があったのでしょう。
菜畑から農耕用具はたくさん出ていますが武器は石剣若干のみ。
スサノオ登場以前の平穏時代を示すと考えています。

他に宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡などが並び、縄文〜後漢時代での住人の変化の特徴を示す。
出土の甕棺は小型で初期型とされ、吉野ヶ里のごとき大型甕棺はありません。


古事記に大年神の子等の系譜が書かれています。
そこに書かれる神活須毘神とその妻の伊怒比賣(イヌ、イナ、イド、稲に直結と推定)。
神活須毘神は音の類似から五男神三女神神話の活津彦根ではないかと考えています、
(神話での高皇産霊尊に相応する、陸の文化を示す)
五男神の天津彦根や熊野久須毘も三女神を含めて歴史のかなたにおぼろではあっても姿がみえているのかもしれない。

日本海沿岸の山東半島系の畑作と北九州沿岸の長江系の水稲が遠賀川流域でドッキング。
弥生文化(遠賀川式土器)となって全国に広まっていった。
遠賀川流域は農耕適地とみえますが、現時点ではさしたる遺跡はないに等しい。
にもかかわらず遠賀川式土器は全国に分布する。

昨今の災害が示すごとく、遠賀川流域の集落は弥生末期の異常気象に伴う大洪水に襲われてすべてが押し流され埋没してしまったためだと考えています。
(人口急増とAD100頃からの寒冷化が飢饉を生じさせ倭国騒乱のはじまりとなる)
陸の痕跡は消えてしまったが、海の痕跡は宗像の三女神として残った。

穀物関連神話は遠賀川流域の事象を源にし、縄文と農耕の結合した文化。
これをアマテラス(文化)と称しておきます、天照大神の源流。
(消えゆく九州縄文の象徴が月弓神(月読神))

書紀神話では天照大神やスサノオが五男神三女神より先に登場しますが、物語創作の都合によるご愛敬といったところ。
降臨神話での天照大神と高皇産霊尊の上下関係があいまいになるのもこのあたりに理由あり。

続く




[12079]Re: 弥生の歴史観(かたばみ式) 神奈備 投稿日:2018年 9月24日(月)11時17分
かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

> NHKで「なになに丸」という船名があるけれど丸ってなに、というのをやってました。

残念ながら見逃しています。

 神社巡りで前原市の白木神社を訪問しましたが、そこの住所は「王丸」でした。
 ほかに福岡県で丸地名を挙げて見ます。
石丸 津丸 武丸 王丸 黒丸 丸 金丸 持丸 乙丸 楽丸 犬丸 恋ノ丸 徳丸 丸山 x郎丸 田主丸 など
 原をバルというのが マル に変化の説などがあるようです。 山間部に多いようだとされていますが、確認できていません。


[12078]弥生の歴史観(かたばみ式) かたばみ 投稿日:2018年 9月21日(金)22時55分
私の古代史観のスタート地点はスサノオと天之忍穂耳(天孫降臨)。
それ以前では歴史ではなく考古学とのあいまいな複合になります。
記紀神話における伊弉諾尊伊弉冉尊と天照大神。
縄文から弥生への過渡期、採集狩猟の暮らしから農耕への過渡期。

この時代に農耕を運んだ人々の詳細の特定はできない。
人々が故郷を捨てて未知の地へ移動(脱出)するには生死に関わる事象があったはずです。
ここでは寒冷化という環境変化、全盛を誇った縄文も衰退する時代。
この寒冷化が中国では春秋戦国の引き金となり、玉突き現象で半島から南下する人々も急増した。
考古学的には日本海沿岸に出土する「土笛」がそれを示す。

列島に広まる「出雲」の基礎になる文化、民レベルで縄文が農耕へ変化してゆく文化。
北九州に限るなら「アマテラス」の文化。
神話的には伊弉冉尊の体から生まれる穀物類がそれを示す。


なんらかの事象が源流にあってそれが神話化されている、とするならばスサノオ登場はなにが源流か。
箕子朝鮮滅亡BC194からの脱出王族、年代が確定できて歴史として扱えると考えています。
運んだ文化は特になし、運んできたのは王権の意識と武力。
農耕ではスサノオ側のほうが遅れていた可能性大(半島北部に水稲はまだない)。
神話では大気都比賣を殺害する状況ですね。
神話として降臨ではなく、天照大神の弟としたのは保有する文化に大差のないことが理由とみています。

そこに大己貴命(大穴牟遅命)や少彦名命などが運んできた中国文化が加わる。
東シナ海沿岸の船乗り、海賊にもなる商人、王権とは無関係の民間人。
その祭祀、医療、金属技術などが列島に広まっていった。
神話における地祇に相応する人々です。

余談
NHKで「なになに丸」という船名があるけれど丸ってなに、というのをやってました。
便器の「おまる」がどーのこーの・・うそこけっ(^^;
客人−まれびと、まろうど−めったにない貴いものといった意味を含むでしょう。
麻も呂も万葉仮名ですから平安初期か、一文字に合成されて「麿」の国字となる。
柿ノ本人麻呂、外来の学者だったのでしょう。
弥生あたりでの「まれびと」が神格化されると門客神かな、アラハバキがそうだと思います。

読みは同じで「丸」の文字も使われた、こちらは漢字。刃物であちこちから削る象形文字。
刃物を扱う意から武家の系譜で用いられたと考えています、平安中期か。
牛若丸とか、城の本丸とかですね。
大切なものといった意のみが残り、こちらでは客人の意は消えたのでしょう。

じゃあチコちゃん、便器の「おまる」はなんでおまるというのぉ?
ずばりでウンコをすることの「まる」=放、貴族御用達だったから御放でおまる。
おまるを御虎子と書く、なんで? うんこが虎の子供に似てるだと・・うそこけっ

続く
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/


[12078]Re: 蘇我氏5 神奈備 投稿日:2018年 9月 4日(火)19時11分
かたばみさんへのお返事です。

 ごぶさたです。ありがとうございます。

 中国が人工知能の研究をしていて、一番悪い「もの」は何かと問えば、中国共産党と答えたそうです。まともな研究のようですね。

 倭の五王を畿内王権と見なす立場での年代論、Uganet 倭の五王、
http://www.kamnavi.jp/uga/ugagoou.htm
によれば、応神は、390 394と考えています。好太王と戦ったのは仁徳と言うことになります。ここらは九州王朝とは別の史観ですので、置いといてください。

 大海人皇子の出自は面白い見方ですね。
 乙巳の変の首謀者として、孝徳天皇を挙げる議論が増えているような気がしますが・・・・


[12077]Re: 蘇我氏5 かたばみ 投稿日:2018年 9月 3日(月)18時04分
  神奈備さんへのお返事です。

おひさしぶりです。
「超大河小説の粗筋(^^; 」ができたところで、バタンキューとなっておりました。
最近の人工知能の進歩はすごいですね。物量作戦ともいえる大量のデータから「定石」に捕らわれない「考え方」が登場する。そして人間側がそれを参考にするようになってきた。

蘇我氏論は無数にありますが・・
記紀などの記述は、それをどこまで信じるかにつきると思います。
「どこまで」というのがやっかい、真偽が混じりあって判別が困難。
記述が詳細だから正確だとはいえない、かえって作為をみて危ない(^^;
平安初期の編纂者の思惑がたっぷり含まれる。

NHKの歴史秘話ヒストリアのよみがえる大化の改新/発見蘇我入鹿の棺。
私の注目は館跡の「オンドル式暖房」です。
半島特有で日本では他に例がない。
これが蘇我氏の館であるなら、蘇我氏の出自の決定的?状況証拠になります。

さて、蘇我氏シミュレート(^^;
さかのぼれば箕子朝鮮へ(持論:スサノオの出自)。
箕子朝鮮が滅亡し南へ脱出した氏族が「韓」を自称する(魏志韓伝)。
それが後の伽耶諸国、伽耶山周辺に蘇我氏の出自があると考えています。
(ただし、その蘇我氏に重ねられた近畿の小規模な別氏族が存在する可能性をみておきます)

応神386-402以降で半島では百済、高句麗、新羅に加えて伽耶の抗争時代。
百済は七支刀369の記録が残るけれど、その他の国々でも記録にない通行があったはずです。
三国史記では伽耶を新羅の一部としているけれど当初は新羅が伽耶の一部。

書紀は蘇我氏など渡来氏族を武内宿禰の子としていますが、偽系譜と断じておきます(^^;
武内宿禰は百済の軍人とみています。
書紀が武内宿禰を祖と書く系譜は渡来人であることを示すことになるわけです。

(応神系譜の)安康454-456と雄略は近畿の(仁徳系譜の)允恭439-454を制圧して、半島と列島に最大版図を築く。
武烈498-507没して継承者争い勃発。
越の男大迹王と筑紫の磐井王の戦いで磐井が敗れた後に、九州に登場するのが幼き欽明539-571。
どのような血縁かは不明なれど、欽明は近畿の王ではない。

この時代に近畿王となるのが継体(男大迹王)の子の安閑宣化、書紀の書くような短命ではない。
九州の欽明539-571と並立していた時代で、書紀が欽明を近畿王として扱ったために安閑宣化を短命に圧縮せざるを得なかっただけ(実際の事象との時間的食い違いを生じる)。

物部氏は尾張の天火明系譜と重なって拡大、弥生時代に若狭方面へも進出と考えています。
(当初の「物部集団」は海運と資源探査がお役目)
筑紫の磐井王を破った越の男大迹王の戦力は物部麁鹿火、尾張始発の物部氏は日本海系氏族(大国主系+応神系)と結合していたことを示すものでしょう。

若狭の籠神社(元伊勢)の籠目紋は物部氏が手工業者であることの状況証拠。
天火明の時代(BC100頃)から尾張と若狭周辺はつながっていた。
(元伊勢に関与する伝承を持つ社の分布を知りたいところです)

継体507-530が尾張から妃を入れているのも天火明系譜の流れからは自然なところ。
その子が安閑ー宣化であり、敏達もその継体の後衛となります。
(継体は大国主の子の鳥鳴海神の末裔ともつながりを持つと考えています)
書紀が手白川皇女などを偽装しなくてもその系譜は弥生から有名どころとつながっているわけです。

敏達死去で九州王の用明が百済系譜や伽耶系譜を率いて近畿も支配して再び大王となる。
(用明も九州王時代を含めれば短命ではない)
敏達の武力的バックボーンはやはり物部氏。
しかし、敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できなかった。
(上京する)用明が率いていた蘇我氏に物部氏が敗れたためだと考えています。
新文化=随と唐、文化力(最新兵器=軍事力)で九州が上位にあったからだと思います。

飛鳥京は伽耶系の拠点かな。先の蘇我入鹿の館とオンドルはその痕跡。
百済系の拠点は斑鳩宮、「奈良沼」をはさんで蘇我氏と対峙。
書紀が偽装する推古(厩戸皇子はおそらく実在)は欽明と伽耶系妃の流れでしょう。
隋書に見える「多利思北狐」は用明と百済系妃の子じゃないかな。
新唐書に目多利思比狐が随と通ず、とあります、目多利思比狐=用明でしょう。

百済と伽耶、渡来系譜の抗争・・斑鳩宮の焼失、山背大兄王の殺害・・蘇我氏による攻勢。
物部氏はすでに勢力を失っており、騒乱時代になった。
1年後に中大兄皇子が中臣鎌足とともに蘇我入鹿を殺害。
敵討ちともいえますが、蘇我入鹿殺害は寶皇女も(政略的)共犯だろうなあ(^^;

寶皇女の祖に漢王妹 大俣女王とある、おそらく百済系譜。
この時代を書紀は皇極女帝とするが、この時代では女帝(九州王+近畿王=大王)といえる権力者はなく、斉明にいたって女帝となったと考えています。
皇極斉明の二度の即位があったのではない、大王不在の混乱を書紀の都合でそう書いているだけ。

斉明は近畿にあって、(その子の)中大兄皇子が九州を受け持っていたと推定。
継体系譜の敏達の子の押坂彦人大兄皇子の流れにあったのが舒明629-641。
書紀は舒明を大王とするが、これも豪族間の覇権争いのなかでの人物のひとりでしかない。

斉明紀に用命の孫として高向王が書かれますが、これが天智の父であり母が寶皇女。
血縁として重要人物と思いますが書紀は高向王についてなにも書いていない。
書きたくないのでござろう(^^;
高向王の寿命と死因は不明、豪族間の抗争での若年死であろうと考えています。

高向王死して、寶皇女は幼い中大兄皇子(天智)をつれて舒明と再婚。
寶皇女と舒明の間の子が大海人皇子(天武)。
大海人の呼称は祖が日本海系譜の流れにあることを示す。
天智と天武が兄弟、というのは寶皇女の連れ子と、母が同じの意味ならば正しい。
寶皇女−皇極−(孝徳645-654内紛?)−斉明、この系譜は書紀が苦心したところだと思います。

斉明死して天智が大王へ。
勢力基盤は九州だと思います、居宅?がころころ変わる理由です。
死去地もおそらく九州、死去の状況があいまいである理由です。
壬申の乱で大友皇子が九州へ支援を求めた理由です。

天智の意識には、神武(九州統一、出雲系譜との混合)−応神(百済と伽耶への進出)−雄略−(筑紫の磐井)−欽明−多利思比狐があり、我らが最新文化への革新をもたらす、あり。
天武の意識には天火明(最古の近畿天孫、書紀に書かれない系譜、出雲系譜との混合)−継体−敏達があり、我らが最古の伝統ある氏族である、があったと考えています。

その意識の対立が壬申の乱の源。
流入する優れた文化、これに対する「日本」の意識の登場と対立でもあります。
その葛藤が日本書紀を作り出していると考えています。


斑鳩イカル・ガ、飛鳥アスカ(おそらくアス・ガの変化)、「ガ」は里といった意じゃないかなあ。
加羅(伽耶諸国、安羅、多羅)、新羅シンラ(シラギ)、百済クダラ、耽羅タンラ(済州島)・・
(新羅の原型は伽耶諸国の一部で新羅城シラキでしょう、AD300に倭国と国使交換して国名変更)
奈良の語源は南羅ナムラだと考えています、「ラ」は里の集合体すなわち国の意じゃないか。

旧唐書に日本国は倭の別種、とあります。
隋の裴世清までは、諸外国の「倭国」の認識は北九州であり、それより東は倭の別種だった。
それを書き換えようとしたのが日本書紀の「設定」であり「日本国」の登場でもある。

半島の前方後円墳は応神〜雄略時代の倭人の半島進出を示し、聖徳太子(多利思比狐)は欽明〜天智時代の中国文化流入(半島経由)を代表する。
半島と列島の言語と文化が大きく変容してゆく時代じゃないかと思います。 colspan=2>
 
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/


[12076]オホヤマトクニアレヒメ 神奈備 投稿日:2018年 6月 4日(月)19時37分
 『古事記』
孝霊(カウレイ)天皇
また意富夜麻登玖邇阿礼比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子、夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)、次に日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)、次に比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)、亦(マタ)の名は大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)、次に倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)。四柱。

『日本書紀』
大日本根子?太瓊天皇 孝靈天皇
妃倭國香媛亦名?某姉、生倭迹々日百襲?命・?五十狹芹?命亦名吉備津?命・倭迹々稚屋?命。亦妃?某弟、生?狹嶋命・稚武?命。弟稚武?命、是吉備臣之始?也。

 『記』の「意富夜麻登玖邇阿礼比売」と名前をどう思います?
 ヤマトの国を出現させた姫、これは卑弥呼のことと考えても良いと思いますが、『倭人伝』には、「乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿」とあり、夫もはいないと書かれているのがいささか難点です。


[12075]二王後制 10 神奈備 投稿日:2018年 4月 7日(土)21時16分
 物部氏には 十種神宝と言われる 十種類の呪物が伝わっていました。これを ゆらゆら と振りますと、「死人も生き反らむ。」と言われる呪文が働くとされまう。石上神宮では、毎年、この呪文と唱えるお祭りが11月22日にあり、鎮魂祭といいます。暗闇の中で行われる神秘的なお祭りです。

 畿内には饒速日尊を神として奉ずる政権が成立した思われます。初期の構成メンバーに、天道根、後期にはや長髄彦等がいました。
 長髄彦は神武天皇に「昔、天神の御子が、天磐舟に乗って天降られました。櫛玉饒速日命といいます。私は饒速日命を君として仕えています。あなたも天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。あなたは偽物でしょう。」と。天皇は、「天神の子は沢山にる。饒速日命が天神の子ならば、必ず表(しるしの物)があるだろう。」長髄彦は饒速日命の天羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)などを見せました。天皇はご覧になって、いつわりではない。次に天皇の天羽羽矢を長髄彦に見せました。その立派さに長髄彦はおそれいりました。

生駒市の長弓寺境内の真弓塚が天羽羽矢を埋めたとされています。  奈良県生駒市上町
 饒速日命は天皇に帰順しました。 


[12074]二王後制9 神奈備 投稿日:2018年 4月 2日(月)09時21分
 日前国懸神が現在地に鎮座する際、先に鎮座していた伊太祁曽神社が別の場所に遷っています。和歌山では、これを 国譲り と呼んでいます。

 『日本書紀』では、饒速日尊は神武東征の際、大和を支配していた長隋彦を殺して、神武天皇に帰順したことが語られています。神武東征の最大の功労者とも言えます。大和の人々から見ると裏切り者とみている方もおられます。

 なお、日前国懸神宮は現在は日前神と国懸神の二柱の神を祀っており、共に天照大神としています。朱鳥元年(686)、天武天皇が奉幣を、紀伊国国懸神と飛鳥四社=飛鳥坐神社の四神(大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神)、住吉大神に行っています。紀伊国は国懸神の一柱のみにでした。その頃の日前国懸神は日神である国懸神という意味だったのでしょうが、奈良時代以後に、日前神と国懸神に分離したと思われまます。


 『日本書紀』神武さんが東征の開始前に相談したとされる塩土老爺が「東に美き地あり。青山四周せり。その中に亦、天の磐船に乗りて飛び降る者あり。是れ、饒速日をいうか。」とあり、これが東のよき地の大和への移動を決断させたのです。奈良時代に編集された『日本書紀』に、神武天皇の前の大和の支配者は、饒速日はっきりと書いてあります。


 弥生時代を代表する祭祀道具に銅鐸があります。
 大阪では。四条畷市 八尾市、高槻市、茨木市などから出土しています。交野や枚方からも出てくると思います。この銅鐸の製造にかかわったのが物部氏と言われており、饒速日命の子孫といえます。 


[12073]二王後制8 神奈備 投稿日:2018年 3月13日(火)09時42分
 銅鐸祭祀はヒミホの登場の頃に終わっています。お祭りは鏡に移っていったのでしょう。

 銅鐸の分類に入らない銅鐸、小銅鐸があります。高さ15cm以下のものとされています。銅鐸の時代が終わり、古墳時代にはいっても、小銅鐸のお祭りがなされていました。それが、お墓かも出ています。個人的に崇拝していたのかもしれません。これを隠れ銅鐸信仰と呼ぶことができます。千葉県、東京都、大阪府など。


 さて、紀伊国造の話にもどります。

 饒速日の降臨にお供をした天道根命は、紀伊の国造を神武天皇から任じられています。天道根命は神皇産霊命の五世孫。天神。これは、物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀』のなかの『国造本紀』にでています。
【先代旧事本紀】国造本紀
紀伊国造 神武朝の御世に、神皇産霊命の五世孫の天道根命を国造に定められた。

 紀の国に伝わる伝承では、天下った際、紀の川の下流の木之本に立ち寄り、日前宮の日像鏡を祀り、それから琴浦におもむき、毛見に至ったとあります。
木本八幡宮 和歌山市西庄
濱宮(はまのみや) 和歌山市毛見

『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。

 紀国造家に伝わる『国造家譜』に次のように書いてあります。『紀伊続風土記』に採録。
 @ 紀伊の一の宮である日前国懸神が天降りました時に、天道根命は従臣としてつかえ始めた。
 A 神武東征の時、両大神の神徳によって群慮を平定し、その賞として天道根命は紀伊国を賜り、国造に任じられてより、両大神に奉仕した。

 また『先代旧事本紀』の『天神本紀』には、饒速日尊の天降りに防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る三十二神の一人柱として天道根命の名がみえます。天道根命がお供をしたのは、日前国懸神であり、それは即ち饒速日尊でもあったのです。



[12072]二王後制7 神奈備 投稿日:2018年 2月23日(金)11時15分
 物部氏の分派である伊福部氏が銅鐸生産にかかわったと、谷川健一さんが、指摘しています。伊福部の フク は 風を吹かすの吹くで、金属を溶かしたり、精錬したりするための鞴(ふいご)を動かすことです。青銅を溶かして型に鋳流し込む、そうして銅鐸が造られました。伊吹山の麓の関ヶ原の東に垂井と言う地名があります。ここに伊富岐神社があります。伊福部氏の氏神です。近くから銅鐸が出土しています。
 伊福部神社は雷神として祀られています。銅鐸と雷、関係ありそうです。

 民俗学の谷川健一さん、故人ですが、『青銅の神の足跡』と言う名著があります。この中に 伊福 と言う土地の近くから銅鐸の出土が多いこと、また 伊福 という土地に鉱山がおおいことを述べております。

 枚方の川向こうの北側になりますか、茨木市の東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が出土しています。茨木市から銅鐸5個、高槻市 2個、豊中 2個、吹田市 1個 出土しています。

 銅鐸祭祀は−150年頃から始まり、当初は聞く銅鐸すなわち鳴らす銅鐸でした。紀元ゼロ年頃、聞く銅鐸が埋められました。銅鐸が地上から姿を消した時代があったようです。それから、銅鐸は大型化をして、所謂見る銅鐸の時代が来ました。銅鐸祭祀が各地方に及ぶ時代です。銅鐸時代が後期になると、南紀や駿河や遠州で大きい銅鐸がつかわれたようです。
 銅鐸の県別の出土数です。
兵庫県 56点 島根県 54点  徳島県 42点  滋賀県 41点  和歌山県 41点

 島根県に多いのは、大国主を奉じる人々も銅鐸祭祀に参加したということでしょう。
    


[12071]二王後制6 神奈備 投稿日:2018年 2月20日(火)20時24分
 ニギハヤヒ 物部氏の祖先 皇祖であるニニギの命の兄とされます。ニギハヤヒとニニギ、共に天照大神の孫にあたります。

 饒速日は北九州の遠賀川流域に居りましたが、伊都国や奴国などが力をつけて来て圧力を受けたので、良き地を求めて東遷していきました。弥生前期の遠賀川式土器を畿内に持ち込んだのでしょう。物部氏については、鳥越憲三郎さんの『大いなる邪馬台国』に詳しく書かれています。
 饒速日は堺の大浜海岸(大浜公園)に上陸し、八尾に移り、河内に拠点を置き、それから大和に入りました。

 八尾の恩智神社は物部氏が最初に斎祀った神様で、ミケツ神です。食べ物の神様です。この神社のお祭りで神輿が泉州堺の大浜まで行き、そこで禊を行います。お祀りとは原始の姿の再現ですから、大浜上陸、八尾へ移動と推定しています。
 八尾から生駒山を越えて、大和郡山に入ったようです。矢田坐ク志玉比古神社があります。ニギハヤヒは櫛玉饒速日尊との敬称を以て呼ばれます。
 つまるところ、物部氏も東遷の先として大和をが選び、武力に勝る物部氏集団の圧力を受けて、出雲氏は大和から落ち延びて島根県の東部に拠点を移したのです。
  


[12070]二王後制5 神奈備 投稿日:2018年 2月18日(日)19時19分
 朝廷は出雲国造に対し、国造の交替の度に神賀詞を奏上させています。服属儀礼、朝廷への恭順を誓わせています。奈良時代の 716年 が初めてとされていますが、もっと古い時代からとの説もあります。
一部を紹介します。
 己命(おのれのみこと)の和魂を倭の大物主の命と名を称え、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫の命の近き守神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築の宮(やほにきづきの宮)に静まりましき
大神大物主神      大神神社
高鴨阿遅須伎高孫根神社 高鴨神社
高市御県坐鴨事代主神社 河俣神社
加夜奈留美命神社

 古代には、朝廷の行う公式の祭祀は、旧暦 1月〜9月と11月、12月に行われます。出雲で重要な神様が集まる月、所謂神無月の10月にはありません。出雲に対して気を遣ってきています。
 9月 神宮   10月出雲
11月前  相甞祭 天皇が秋の農作物(稲など)の収穫を祝う神事で、神々と天皇とが供饌しあうことから「相嘗」と称される。
11月後ろ 収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。

 大国主を奉じた政権、神話では 国譲り で 大国主は政権を譲ります。天照大神に政権が移譲されるようにありますが、実際には、武甕槌と経津主と言う物部の神が国譲りを迫り、譲らせます。この神々は物部氏の神です。
  


[12069]二王後制4 神奈備 投稿日:2018年 2月16日(金)19時04分
奈良の桜井市に出雲と言う場所があり、天穂日はそこに居住したものと思われます。従って出雲氏を名乗ったのでしょう。
 その傍証としては、お相撲の野見宿禰をご存じだと思いますが、当麻のケハヤと相撲を取り、勝つのですが、垂仁天皇が出雲の野見宿禰を呼べと命令したら、その日の内に現れているように読めます。野見宿禰が島根県ではなく、大和にいなければ無理な話になります。
 天穂日が拠点としたかも知れないダンノダイラ。 
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm

 国譲りの神話、有名な「出雲の国譲り」です。経津主と武甕槌の神が大国主に国を天孫に譲るように談判をします。これらの神々も物部ゆかりです。

    


[12068]二王後制3 神奈備 投稿日:2018年 2月14日(水)17時08分
 次の時代には、物部の祖である饒速日の勢力が登場し、天穂日は大和から出雲に逃れます。丹波を経由して出雲に行ったようです。

 出雲に根を下した天穂日は、出雲で大国主を祀りました。また、出雲臣の祖となります。後に出雲国造家となり、出雲大社の宮司家の祖神となったのです。宮司家は千家家と北島家として現在まで連綿と続いています。
 宮家の高円宮の次女の典子さんが出雲大社の宮司家の跡継ぎにあたる千家国麿さんと結婚したことは記憶に新しい所。2000年を超える時を経ての結びつきとなります。
 この夫婦、目下別居中のようで、さてどうなることやらです。

 天皇家は125代、千家家は84代、しかし千家家の方が古いとされています。天穂日は神武天皇より前の時代の人ですから。
 古代の天皇の在位年数は平均約10年、これは兄弟相続もありますから短いのです。出雲の千家家は親子相続のようですから、一代25年くらいのなります。   


[12067]二王後制2 神奈備 投稿日:2018年 2月10日(土)10時43分
  天穂日は北九州から各地の大国主を訪ねながら大和に入り、大和の大物主と出会ったのでしょう。大物主の子孫の三輪氏や鴨氏と協力し、大国主・大物主を祀ったということです。これが神武以前の第一次政権と言えるでしょう。大和の東は三輪氏、西側は鴨氏が統治し、天穂日が調整役といえそうです。

 地方地方に大国主がいて、彼らの連合がこの国の形で、これは邪馬台国が多くの国に分れていたことを考えれば、妥当な推測と思われます。

 天穂日は今の国連事務総長のような調整役だったのでしょう。そういう意味では大国主連合の総理大臣のような存在でもあったと言えるでしょう。とりあえず、争いごとの起こらない平和な国にしたい。


[12066]二王後制1 神奈備 投稿日:2018年 2月 8日(木)17時26分
 大国主 弥生時代の神、国土開拓、農業、医術の神様。さらに女好き、女も好きになるキャラ、艶福家、その魅力を利用して各地の女王と結婚しその数、実に180柱、それによって平和的に国の統一にも力をつくしました。

ここに、天穂日が登場します。

 高天原の最高神である天照大神の命令で、天照大神の次男とされる天穂日を天降らして大国主に支配地を譲らせようとさせましたが、大国主に魅力を感じて彼の側についたことになっています。大国主に「媚び諂う」とあります。できれば大国主から葦原中国を譲ってもらいたいとの気持ちはあったのでしょう。それよりも開拓にいそしむ大国主に惚れた、男が男に惚れたというように考えています。それで大国主を徹底的に祭り上げて、実際の権力を横取りしようと企んだのかもしれません。これが神話となっています。



[12065]戌の話4 神奈備 投稿日:2018年 1月22日(月)20時36分
4 空海
空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれた。幼名は真魚(まお) といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の大学に学ぶ。
しかし大学で教えられる儒学では社会の矛盾を解決できないのではと悩む。その時一人の僧と出会ったて、大学をやめ、修験者の中に身を投じて自然の中で荒行を積むようになった。正式に出家したのは20歳の時。やがて空海と名乗る。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵 求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとされる。
 空海は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なこ とも学んだ。二十歳前半のころ、経蔵の中で「大日経」を発見、内容 に興奮。しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいなかった。彼は中国へ渡ることを決意したとされる。
25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていない。
和歌山市の田福寺の瀧智真住職さんの独特のものの見方。
 空海中国密航説である。大師の若き頃の空白の数年間、また中国へ遣唐使の時の文章、会話など語学等併せて考えると留学以前に一度密航していたと想像できるとの説である。
また渡航に必要 な巨額な費用は、高野山の水銀朱であったと思われる。

空海 は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でしたが、実質2年で目標を達成し、帰国します。

さて、若いころに高野山について熟知していた空海には案内人が必要だったのだろうか。このあたりは高野の地を浸食したい空海の弟子たちのでっち上げた物語と思われます。
しかし壇場伽藍に山王院と丹生明神・高野明神が祀られています。丹生都比売神社も同様の神が祀られています。この高野明神の正体は一体何でしょうか。そうです、山の神、弘法大師空海のことだと思われます。



[12064]戌の話3 神奈備 投稿日:2018年 1月14日(日)09時52分
今昔物語』から
 弘仁七年(816年)空海は大和国宇智郡に至り一人の猟師に会いぬ。形面赤くして長八尺許なり、青色の小袖を着せり、骨高く筋太し、弓箭を以て身に帯し、大小二つの黒き犬を具せり。此人大師を見て曰く、我は是南山の犬飼なり、三鈷の所を知れりとて、犬を放ち走らしむるの間、犬も人も忽失せぬ。
 この犬飼を狩場明神とも、また高野明神、高野御子明神とも言う。
南山の南とは
南宮の本山は南方刀美神を祭神とする諏訪大社で、その南宮(下社)を言う。美濃の南宮大社(仲山金山彦神社)は中の宮とされる。児の宮は伊賀の敢国神社、西の宮は摂津の広田神社の摂社の南宮神社をあてる。
 また南山(ナンザン)とは、比叡山を北嶺と呼ぶのに対する言葉で、高野山の別称である。
 さて、空海と狩場明神との出会いは、五條市の犬飼山転法輪寺の場所であったとされる。近くには阿陀比賣神社(阿多隼人の祀る)も鎮座、狩場明神は犬祖伝説を持つ隼人の民であったと思われる。

以下、江戸時代の反仏教の国学者の創作か。
その時、空海と高野明神との間に取り交わされた借用書があったというのです。高野山の神からこの土地を十年間の約束で借り受けた空海は、あとでこっそり「十」の文字の上に「ノ」の字を書き「千年」にしてしまい、高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応
じなかったといいます。
また別の説に千年の借用書で借り受けましたが、白いネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなってしまったということです。


[12063]2018年 1月12日(金)15時35分 神奈備 投稿日:2018年 1月12日(金)15時35分
 奈良大学の万葉学者の上野誠先生の著書『日本人にとって聖なるものとは何か』の中に、鉄野昌弘氏の、持統天皇の有名な歌の解読が紹介されていました。

春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山

春が過ぎて夏がやって来たらしい。天の香具山が真っ白な衣を干しているのか。

としています。昔は山は恋もするし、白い衣を纏うということ。このような考え方を上野先生は古代的思考とよんでいます。
どうも折口信夫もこのような思考法の方だったようですね。


[12062] 戌の話 2 神奈備 投稿日:2018年 1月 7日(日)13時
2.丹生都比売神社と空海
『丹生祝氏本系帳』から。
応神天皇のときに、丹生明神と高野明神に、紀伊国の黒犬一伴、阿波遅国三原郡の白犬一伴が献上された。美濃国より蔵吉人と別牟毛津と云う人の児犬黒比と云う人を犬飼として差遣わした。その子孫は代々天野に住み狩猟を職としていた。
 応神天皇のときに、二柱の神に寄進された山地四至は、東は丹生川上を限り、南は阿帝川の南横峯を限り、西は応神山(紀の川市穴伏)及び星川神勾を限り、北は吉野川を限る地域であった。

応神天皇の時、天野祝が出てくるが、おそらく丹生神一柱が祭神だったと思う。

 丹生都比売神社があまねく知られるようになったのは、高野山金剛峯寺との関係が出来た以降のこと。高野山と丹生神との関係を物語る最古の文献は平安前期の『金剛峯寺建立修行縁起』である。
弘仁7(816)年春、弘法大師空海が霊場を求めて大和国宇智郡まで来たとき、一人の猟師に出会った。それは弓箭を持った大男で、南山の犬飼と称し、霊場の建設に協力することを述べ、大小二匹の黒犬に案内させた。そして紀伊と大和の国境のあたりの川辺で宿泊すると、一人の山民があらわれ、大師は山へ導かれた。その山民こそ山の王、丹生明神で、天野の宮の神であった。大師はこの宮で一宿し、巫祝に託宣をしてもらったところ、丹生明神は自らの神領喜んで献ずると約束したので、大師は6月中旬に朝廷に願い出て許され、さっそく草庵を建てた。以来、丹生明神は高野山の地主神として篤く信仰されるようになったという。縁起は以上。

 弘仁7(816)年、空海は嵯峨天皇に、高野山の地を賜りたい、と上表文を提出した。そこでは「紀伊の国の平原の幽地、高野山こそ、もっとも修禅の道場にかなった地である。」ということを述べ、そして「若かりし時、山林修行の折りに、この高野の地に足を踏み入れたことがある」と述懐している。

高野・熊野の紀伊山地、「異界」であり、里の農耕民とは、異質な人々つまり、修験者や鉱山師、狩人。木地師、鍛冶師など「山の民」と呼ばれる人々の領域であった。
 彼らの中では、大和朝廷に追われて山に入った、まつろわぬ民の血を引く人々もいたようである。空海自身佐伯氏出であり、かつての佐伯はまつろわぬ氏であった。空海はそういった人々と自然に仲間に入って行けた。山の民との緊密なつながりを裏付ける、根拠のひとつに、彼の豊富で正確な地質学的知識が挙げられる。金属資源の豊富な高野山に目をつけていた。




[12061] 戌の話1 神奈備 投稿日:2018年 1月 1日(月)15時32分
あけましておめでとうございます。

1.金属と犬と
『播磨国風土記』の讃容郡の条に、金属文化と「犬」についての注目すべき記述がある。
山の四面に十二の谷がある。どの谷も鉄を産出する。孝徳天皇のとき、はじめて鉄を献上した。鉄の鉱脈を発見した人は別部(わけべの)犬(いぬ)である。

民話 花咲か爺(はなさかじじい) 犬が小判を見つける。
うらのはたけで ポチがなく
しょうじきじいさん ほったれば
おおばん こばんが ザクザク ザクザク
いじわるじいさん ポチかりて
うらのはたけを ほったれば
かわらや かいがら ガラガラ ガラガラ

『鉄山必要記事』
江戸時代に書かれた「たたら製鉄」にかかわる技術書『鉄山必要記事』から。
  金屋子神は高天が原から播磨国に天降り、はじめて金属の道具をつくったが、やがて白鷺に乗り、西に向かい、出雲国に至り、山林の桂の木のうえで休んでいた。数多くの犬をつれた狩人がそこを通ろうとしたとき、犬が桂の木で輝く光をみつけて吠えたてた。狩人が問うたところ、「私は金屋子神である。この地で鉄をつくる仕事をはじめたい」と答えた。
 出雲でのタタラ製鉄の始まりの物語である。
http://kamnavi.jp/it/izumo/kanayako.htm 神奈備の金屋子神社

真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で、「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。としている。



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