神奈備にようこそ 掲示板のログ(99/8月)お名前の敬称は略させて頂きます。
 

ログ
更新 99/09/01


松岡 99/08/31
>那の津には、「杵築」と呼ばれる神社があるのかどうかと、その向きなんですが・・・
残念ですが、これは知りません。
現在、福岡市に「那の津」という地名がありますが、そこは博多湾を埋め立てた「ふ頭」なので、神社があったとしてもかなり新しいものです。
また、昔は博多全体を「那の津」と呼んでいたので、『福岡縣神社誌』を見てみましたが、「杵築」という神社は見当たりませんでした。
大分に杵築市がありますが、違いますよね。
「杵築」と呼ばれる神社の存在に関しては、瀬藤さんの方が..という気がします。
 

瀬藤禎祥 99/08/31
鏡作神社と太陽
 八尾 立春前日 三輪山頂から朝日
    立春立冬 二上山鞍部に夕日
 石見 冬至 三輪山頂から朝日、夏至には高峯山頂
石見と保津
 黒田(伝孝霊天皇廬戸宮、旧孝霊神社地、現法楽寺)を頂点とする直角二等辺三角形をなします。
式内社のマケ神社一覧
 麻気神社[まき]「奇玉饒速日命」福井県南条郡南条町
 上記の論社 麻気神社「少彦名命、藥師如來」福井県丹生郡朝日町
 麻氣神社[マケ] 所在不明 越前国足羽郡
 麻希神社[マケ] 山神社[さん]「大山祇命」 滋賀県高島郡マキノ町
 摩氣神社[まけ]「大御饌津彦命」京都府船井郡園部町
 眞氣命神社[まけのみこと]「眞氣命」島根県隠岐郡海士町

 いよいよ9月ですね。日中の日照りはまだまだきついですね。
 

大和のアマチュア考古学者 99/08/31
>松岡さま
 おもわず、やっぱり・・・と。おもしろ〜い。もっとしらべてみます。
 昭和の初期ごろのものだと思うのですが、古地図には、「鏡作宮」と書いてありました。し、宮古・保津あたりは、都村と書いてありました。
 昨年の台風のまえにも幾度か「大字 宮古」の伊多神社を訪れたことは覚えているのですが 本殿がどうだったかまでちょっと覚えていないもので・・・古い写真をあさってみます。
>福岡にお住まいとのこと、ひとつお教えねがえませんでしょうか。
 那の津には、「杵築」と呼ばれる神社があるのかどうかと、その向きなんですが・・・
 

松岡 99/08/30
『神社辞典』に以下の記事(鏡作坐天照御魂神社)がありました。
社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」とみえる。
やはり東(左)が麻気、西(右)が伊多ですね。
デジカメで撮った画像を見直したら、保津の伊多神社にも大小2つの本殿でしたね。
これまであまり興味がありませんでしたが、こうしてみると神社の位置や本殿の向きもなかなかミステリーで面白いですね。
福岡在住なんですが、近所の神社は北向きが多くあります。正確には少し西寄りですが。これはやはり朝鮮半島を意識したものかな。
 

大和のアマチュア考古学者 99/08/30
東が「麻気」で、西が「伊太」。面白そうですネ。
寺川沿いに、     ・県社 鏡作坐天照御魂神社、南向(正確には、すこし東にふっていました。)
 その、南北中軸線より東、
  すぐ東南隣に    鏡作坐若宮神社、     西向 
  寺川を渡った東、国道24号線沿いに、
            鏡作麻気神社、      東向
          だったら、もう一つ東向きの「鏡作XX神社」があるはず?。

近鉄田原本線の「石見駅」のそばに、
           ・石見鏡作神社       南向
  すぐ東南隣のは、摂社の鏡作XX神社?。南向。だったらとても面白いですね。もっと調べてみます。

その、南北中軸線より西側で、
    大字「宮古」に、摂社の鏡作伊多神社、   西向
 同じく大字「保津」に、摂社の鏡作伊多神社、   西向
でした。
 

松岡 99/08/30
>本殿は、板葺きの春日造りで2棟、東側が少し大きめ、西側が小さめ。夫婦みたいでした。
そうですよね。
【仮説】東が「麻気」で、西が「伊太」。
田原本町の「鏡作伊太神社」は西側に2つあります。
また、江戸時代の和漢三才図会では、鏡作坐天照御魂神社の主祭神は「麻気」です。近くの「鏡作麻気神社」と合わせて、東に2つとなります。
ということで、「鏡作神社」の隣の神社も「鏡作神社」だったら2つづつで面白いんですが。
 

大和のアマチュア考古学者 99/08/30
鏡作神社・・・瀬藤さん松岡さんありがとうございました。
  土曜日にもう一度訪ねてみました。
  先日は、暗くなり、拝殿の奥までいかなかったものですから分からなかったんですネ。
  夏の神社は、昼なお暗く、蚊が多くて・・・。
  拝殿の奥、北側に、あれは、何造りというんでしょうか、入母屋の南面に3つも権現造りの屋根付きの本殿が・・・
  その、東隣に、摂社とは思えない、春日造りの本殿風のものがありました。
>松岡様。石見鏡作神社横の神社。も、土曜日にお参りさせていただきました。
 鳥居の中央に神社名を記したふだ?と言うんでしょうか、がなく神社名は分かりませんでした。
 本殿は、板葺きの春日造りで2棟、東側が少し大きめ、西側が小さめ。夫婦みたいでした。
 灯篭には「石見村氏子中」って記してありましたネ。
 

瀬藤禎祥 99/08/27
 磐座信仰とは巨石信仰・巨木信仰ですネ。
巨石信仰と言えるかどうか砂漠の_△_ですね。これは紀元前3,000−5,000年とか言われています。日本では完全な縄文時代です。
 巨木信仰にこれもあたるかどうか、三内丸山遺跡も縄文ですね。世界はある程度時代毎に連動しており、巨石は巨石で同時代の発生ではと思っています。
 滝、泉、遠い島など他に猛烈なインパクトがあって、祈りたくなるものってさほど多くなかったのではないでしょうか。

 ネットワーク論、あったような気がします。
神奈備の玉置神社で書いたのですが、
 磐楯信仰は縄文時代からの原始的な信仰であろうが、海中の二見興玉神社「猿田彦 大神、宇迦御魂大神」三重県度会郡二見町、海岸壁の花窟神社「伊弉冉尊」三重県熊野市有馬町、 平地の小山の神倉神社「高倉下命」和歌山県新宮市神倉、そして山中深い玉置神社と熊野付近にネットワーク的に存在する。
 この辺りは神武東征の経路にも関係する古代からの重要な祭地であったと思っております。と言う事は古代大和王権の成立の基盤であったと思うのですガ。

MiwaKami 99/08/26
今日は! 盤座・盤境についての質問なのです。
 あの巨石信仰は、「神社や社殿成立以前の”縄文時代”のアニミズムである」と、いろいろな本などで何の躊躇もなく書いてあるのですが、これには何か根拠となるものがあるのでしょうか?
 盤座は石で地表に露出しているものなので、遺跡・遺物と違い、非常に時代の特定が難しいものだとおもうのですが…
    ほとんど盤座と神社ってセットでありますよね。
 時代的には一体いつのものだと思われますか?
 また、これは後世の話しになるのですが、このような山をみていると、修験道や御岳信仰って、じつに「効果的に」このような盤座・盤境の山に拠点をもっていますよね。
 「御岳」信仰って、”そういう山を選べよ”、みたいなネット・ワークがあったのでしょうか。
 わかりません。皆さん、よろしくおねがいいたします。
 

新村 明子 99/08/25
わっ、高津宮のその後のことがわかっている(~o~) 本当にこの掲示板はお勉強になります。ありがとうございました。私ももっと応神一家のこと調べてみます。
 ところで、今日とうとう「文字鏡」をパソコンにインスツールしました。パソコンに入っていない文字も含めて9万字もフォローしている例の漢字フォローソフトです。書店で「パソコン悠悠漢字術」文字鏡研究会編 紀伊國屋書店刊 1900円で販売されていますので、まだパソコンに組み入れていない方、是非是非お試しくださいませ(~o~)
私もやっと神社関係の漢字で全部フォローできて万、万歳ですっ!

松岡 99/08/24
>県主鏡作神社と言うのは田原本町八尾816の鏡作坐天照御魂神社の事だと思いますが、
>この近くの八尾814に鏡作坐若宮神社「天八百日命」があります。
これ、ひょっとしたら同じ敷地内じゃないでしょうか。
鏡作坐天照御魂神社本殿の東側横に、祭神名の記されていない赤い社がありましたが。

大和のアマチュア考古学者 99/08/24
そうですネ。鏡作坐天照御魂神社。県主 鏡作坐天照御魂神社。ではなく、県社 鏡作坐天照御魂神社でした。
大字「宮古」の鏡作伊多神社は、例の台風で本殿が傷んだらしく、再建中で本殿基壇の上にショベルカー?が祭ってありました。

大和のアマチュア考古学者 99/08/24
松岡様
はじめまして、自称:大和のアマチュア考古学者と申します。
確かにありました。が、神社名は書いてなかったと思います。
境内の東側が石見の公民館になっていて、社地の持ち主さんが石見地区のために土地50坪を寄付された。と境内の石碑に書いてありました。
>瀬藤さんありがとうございます。 今週末、訪ねてみます。

松岡 99/08/24
遷座後の高津宮の御祭神の順は仁徳、応神、仲哀、履中、神功、葦姫(敬称略)
この順なら「履中妃」もアリですかね。
でも、なぜ、主祭神である仁徳の妃や母が祀られていないんだろう。

瀬藤禎祥 99/08/23
県主鏡作神社と言うのは田原本町八尾816の鏡作坐天照御魂神社の事だと思いますが、この近くの八尾814に鏡作坐若宮神社「天八百日命」があります。
マ、この社を鏡作神社の仲間とはできないでしょうが・・・ 祭神の天八百日命とはどういう神様なんでしょうかネ?

三宅町石見650の鏡作神社の摂社に白鬚神社「白鬚明神」が鎮座しています。
東西の鏡作伊多神社は、この石見の鏡作神社の分社だそうです。鏡作坐天照御魂神社も石見から遷座したとも言われています。
石見鏡作神社から見ると冬至の日に三輪山頂上から朝日が出るそうです。

瀬藤禎祥 99/08/23
犬も歩けば棒に当たる。
高津宮神社について図書館で調べていて一つの疑問解読へ一歩前進しました。
 HP神奈備の岩所神社(磐船神社)に記したのですが「古図に大阪城所在地に饒速日命を祭神とした磐船神社があったと言う。 また四天王寺の北に磐船神社の所在が記されている古図は現存している。」とある著作物から引用したものの、一体どこかわからないまま今日まで来ていたのですが、  高津宮神社は仁徳帝の皇居高津宮の遺跡に下照比売命を祀り、磐船社と号し、石山の南の辺、生玉神社の隣に鎮座していたが、豊公築城時、生玉神社と共に遷座、高津宮神社は一堆の丘山に遷座後、これを磐船山と言う。とありました。こういう発見はゾクゾクします。
 元の神社の祭神の名が違うのですが、下照比売命も磐船に乗って天下ったように説明していました。

ついでですが、遷座後の高津宮の御祭神の順は仁徳、応神、仲哀、履中、神功、葦姫(敬称略)となっていました。
 

松岡 99/08/23
近鉄田原本線石見駅そばにある鏡作神社の横(同じ敷地内?)に神社がありますが、神社名や祭神について、誰かご存知じゃないでしょうか。

大和のアマチュア考古学者 99/08/23
>新村 明子様
 はじめまして、実は、ぼく、大和郡山市の(善良な?)市民です。そうですネ。大和郡山市は秀長くんと金魚で有名です。
 大和、特に郡山では、筒井順慶が領主として君臨していたためでしょうか。
 ぼくの住んでいる地域は「今国府」と書いて「イマゴ」と読みます。
 都が、奈良平城から、京都平安京へ遷都されたのちの大和国府が置かれたところです。
 都が奈良平城にあった頃の大和の国府は、今の高取町だったそうで、古府(コフと読むそうです)と言う地名が残っているそうです。
>話を神社に変えさせていただきますが、土曜日に鏡作神社シリーズを踏破しました。
 田原本町近辺には、全部で5つの鏡作神社があります。
 1.県主鏡作神社。の東寺川をはさんだ、国道24号線沿いに、
 2.鏡作麻気神社、大字「宮古」に
、  3.鏡作XX神社、同じく大字「保津」に、
 4.鏡作伊多神社、それと、近鉄田原本線の「石見駅」東に、
 5.鏡作神社がそれぞれあります。
 近隣にまだあったら教えてください。訪ねてみます。

瀬藤禎祥 99/08/21
玉津島神社の参拝のしおりから
 衣通姫尊は第十九代允恭天皇の妃で第五八代光孝天皇の御代に合祀された。衣通姫尊は絶世の美人であられ、其の麗しさはその名のとおり「衣を通して光り輝いた」と伝たえられる。姫はとくに和歌に秀でられ、爾来玉津島の神は「和歌三神」の一つとして、朝廷はもとよりひろく一般からも崇められてきた。とあります。

松岡 99/08/21
手持ちの「神社辞典」では、高津宮祭神の列記順が、「葦姫皇后・履中天皇」となっているんですが、履中妃なら順が逆かなっと感じたんですよね。由緒書きではどうなんでしょうか。
衣通姫を祀る神社は、玉津島が有名ですが、上鴨神社境内の橋本社も衣通姫です。どちらも和歌の神様として祀られていますが、允恭妃じゃないですか。
博多にある下照姫神社の相殿にも祀られていますが、ここは住吉神社の境外摂社なので、やはり和歌関連でしょう。
 

新村 明子 99/08/21
こんにちは(~o~)
>大和のアマチュア考古学者さま
 桜井市も織田の影響がありましたか^^; 私は奈良で戦国の影響をうけちゃったところというと大和郡山しか浮かばなかったので…死角でした。ウウッ 
>松岡さま
 葦姫「皇后」でなければ、吉備の黒媛も考える余地があったんですけど。吉備の黒媛の産んだ子が後の皇位に影響を与えたかという点では、履中妃の黒姫の方が「皇后」の資格がありそうで…。
 それと皆さまに質問です。昨日、相模伊勢原市の大山阿夫利神社に出かけ(とっても幽玄な光景でした(~o~))相模の式内社巡りのパンフをもらったのですが、そこに記載されていた相模二宮・川匂神社に衣通姫御安産奉幣祈願をしたということが書いてあったんです。私は衣通姫といったら軽大郎女の方のイメージが強かったのですが、このパンフでは允恭妃の「衣通姫」の方らしく…。
しかし日本書紀で允恭妃衣通姫が子供を産んだことなど全く記述されていません!そこで、全国各地で祀られている「衣通姫」が軽大郎女、允恭妃どちらを意識して祀っているのか知りたいのですが…。今のところ、相模の他に衣通姫を祀った場所といったら紀州のイメージも強いんですけど、瀬藤さんどうですか?

瀬藤禎祥 99/08/20
越中総社の二上射水神社の悪王子
 総社の鎮座する二上山頂から少し下りた所にある堂社に祀られている神ですが、二上射水神社の祭りには招かれません。
 神社の境内にはアマテラスとスサノオとの誓約の場所であり、水に関する信仰とも関わりの深い天真名井を称する井戸があります。
 『越中二守山由来』に、人身御供をとる悪王子権現の存在、行基によるその鎮圧、後の山王二十一社の勧請、などが語られています。余談ですが、近江の兵主大社では、山王二十一社の中に悪王子が存在しますが、越中では、鎮圧後の勧請となっています。
 二上の祭祀に影をおとしている「悪王子」という神格は、この王子神は、本来お旅所で再生・更新される御子神(=若王子)であったと考えられています。
 若王子を悪王子と呼んだのでしょう。雰囲気としては素盞嗚尊のような気がしますが・・・ 富士宮の悪王子神社
 ?
八坂神社の悪王子
 素盞嗚尊荒魂
兵主大社の悪王子
 五十猛命2、素盞嗚尊

松岡 99/08/19
仁徳天皇が愛した吉備の黒姫は、確か「葦守」の出では。
応神の兄媛の方だったかな。

松岡 99/08/19
京都祇園の八坂神社にある「悪王子社」の祭神を、誰かご存知でしょうか。

大和のアマチュア考古学者 99/08/18
地名の改竄は、・・・大阪だけではないようですネ。
奈良県桜井市芝に織田小学校という小学校があります。
僕も、不思議だな〜と常々思っていたのですが、明治時代の地図には織田村となっていて、桜井市の歴史を調べたらあのあたりは、旧織田藩でした。 例の黒塚古墳の後円部の墳頂には、織田信長を祭った祠があったそうです。

新村 明子 99/08/17
いえ、5世紀頃の考えでは履中天皇は神に祀られないでしょう。現に允恭系に奪われた皇統を取り戻した履中の孫仁賢天皇がまず祀った天皇が反正天皇の方なんですから^^;(大阪松原市柴籬神社)産まれの故事で神社がつくられたり、(淡路島産宮神社)反正天皇の方がどうも神に祀られる条件を十分にもっているようです。
 ただ、八幡信仰に応神崇拝が加わるのは欽明朝の時。ならばファミリーを片端から祭神にするからには、履中ってどんな位置になるのかな?それで飛鳥時代の「履中」を探していたんです。
でもなさそうですね^^; やっぱ室町以降、武家の八幡信仰の延長から祭神=履中天皇は生まれたと考えた方が妥当のようです。
でも、そうなるとやはり高津宮は、仲哀・応神・仁徳天皇、神功皇后はともかくとして、履中天皇はかなり後世の配祀。
また「大阪」に祀られるなら履中より反正の方がふさわしいです!ざっと見ただけでも、反正が仁徳を祀った神社、3つもあります(御幸森天神宮、難波神社、三光神社)履中は…。

瀬藤禎祥 99/08/17
履中天皇は何故神として祀られなければならないのでしょうか?
一体神として祀られる理由は何んでしょうか?
王朝の開祖(神武、応神、家康)、有徳(仁徳、一般の有徳人士)、犠牲者(戦死者)、怨み(菅公、早良親王)、功績(日本武尊、五十猛命)、特殊技能者(天一目)が思いつきます。
まず履中天皇は仁徳天皇の嫡子として皇位についた。70歳で崩御し後を弟の反正天皇が嗣いでいる。 倭王讃ですか。さほど確たる業績があった程ではなさそうですネ。 強いて云えば次の反正天皇の後、允恭天皇にどうも王位を簒奪されているようで、輝ける応神・仁徳朝が途絶えさされた位が怨みとしての理由になるのでしょうか。

新村 明子 99/08/17
う〜ん、単純にとうけとられてしまいましたか(~_~;)
 いえ、これが戦国安土桃山時代の話でなければ、いろいろ裏事情で何かあるかもと思うのですが…。
秀吉…ですよね^^;とくに信長配下の武将たちが治めた土地は、もうめちゃくちゃですよ。そんな信仰心などないですから。自分たちの覇権のためにどんどん伝承も地名も何かも都合のいいようにかえてしまっています…(ーー;)
 そして(私も大阪の歴史はまだまだ不勉強なんですが)大阪市中心部(とくに大阪城周辺の)地名は秀吉時代にほとんど改竄されちゃっていると思います。戦国に城下町となった都市はみな、その運命を辿っていますし、とくにあの自己PRが大・大・大好き秀吉が作った町です、大阪というところは…。地名から辿ることはちょっと無理のような気がするのですけど…。(すみません…瀬藤さん)

あともう一つ、葦姫皇后=黒媛かなと思う理由が履中天皇の存在。
どうしても元来の伝承から履中天皇が祭神になったという神社を一社も見つからないんです。
今のところすべて後世の事情から祭神になったものばかり(T_T) せめて飛鳥時代に祀られたという神社でもあったら…。
だから秀吉…大阪城の近く…履中天皇。これだけでもう私には胡散くさかったんです^^;
秀吉が応神仁徳一家に対してどういうイメージを抱いていたか…そこまではわからないんですけど、八幡…武家の棟梁ならということで、戦国武将には崇敬の対象として大人気ですし、あの「難波の煙の故事」そして瓢箪がたまたま秀吉と共通した。神を自分の方に一体化させてしまうのが信長、秀吉の共通点。となるともう答えは仁徳一家を自分の守り神として比賣許曾神社を追い払ってまで利用した。古来から仁徳天皇を祀った神社としては難波神社がありますし、どう見ても現高津宮は「秀吉の都合」神社ではないか?どうもそう胡散くさく見えて仕方ないのですが…。
(実は戦国の方がずっと調べていまして…ついつい…^^;) 

瀬藤禎祥 99/08/16
瀬藤から金鑽神社@埼玉さんへのメール
「葛城の一言主神社では宮司さんがおられるのですが発行されていないようです。」
金鑽神社@埼玉さんからのお返事です。
ありゃ、そりゃなんでだろう。不思議だなあ。
5年ほど前には近世の道中朱印帳の紹介文を読んだことがあります。
上州から江ノ島そして東海道、熱田や伊勢、洛中から金毘羅まで足をのばして信州善光寺をまわって帰ってくるものです。
朱印が100以上紹介されています。神仏習合の朱印というのもなかなか趣があります。
との事でした。

新村 明子さん、早速の響き、ありがとうございます。
葦姫の名から単純に・・・なお関係のない情報だと思いますが。
葦の読みと似た大阪天王寺区の地名では東高津神社の東に隣接して味原町。
浪速区には芦原町があり高津宮の南西2kmの所にあります。

新村 明子 99/08/15
(その1)
   葦姫皇后についてですか?…^^;
 私も断言はできないのですが、多分履中天皇の皇妃になった「葦」田宿禰の娘 黒媛のことじゃないでしょうか?
 理由として例をあげるなら鎌倉の鶴岡八幡宮。ここの若宮の祭神は仁徳天皇、履中天皇、仲媛命(仁徳母)、磐之媛命の4人ですが、もともとの祭神は仁徳天皇と宇治稚郎子。実際鎌倉御家人が地頭赴任時、各地に分祀した若宮の祭神がこの2人なんです。では現在のこの4人の組合せはいつ頃からかというと、神社の人のお話では江戸時代では既にこの形だったとのこと。そんな訳で鶴岡八幡の歴史を調べてみたら、室町時代相当荒廃していたこの神社を後北条氏が再興したとのこと…。戦国時代…です。
 あっ、ここで私が調べて確信した説をいわなければ話が進みませんか…。
 実は記紀の歌謡から、そして平安時代までの文学(とくに源氏物語)から私は宇治稚郎子が本当は女性であることをほぼつきとめました。そして多分、反正(瑞歯別命)天皇は仁徳と稚郎子との間に生まれた子供です。話せば長くなるので、ここでは割愛しますが(また機会があればくわしいことは…^^;)まずはこれを前提の上で 鶴岡八幡の問題を考えてください。
 さて、そして高津宮です。
(その2)
 高津宮はもとは比賣語曾神社ではないかと考えられ、現在の地に奉遷し、形が確定したのは秀吉の時代。その前に履中天皇や問題の「葦姫皇后」は祭神として登場しないと思いますが…。どうですか?
 で、秀吉の時代です。戦国時代です!あくまでも私の推定ですが、神道との関係もありますが、戦国安土桃山時代とは下克上の時代。記紀の応神仁徳物語は無意味なお家騒動をさける為の武将のテキストとして伝えられる形に変形してしまますので、ここから履中も「正妻」から産まれた子ということで表にでるようになった。奥さんということで「葦姫皇后」なる人物で黒媛が登場した。
 本当にこの時代は一番神仏習合が著しいので、江戸中期以降のように祭神の名前にそれほどこだわっていないと思います。この当時の考え方で古代の人々も脚色しまくりますから…。
 ですから、確信とまではいかないのですが、ありえるとしたら、一番の可能性として私は黒媛をあげます。
 

松岡 99/08/15
「御朱印」を頂けなかった神社は、葛城坐一言主神社ですが、結構大きくて、神職の方もいらっしゃいます。 僕が参拝した時は、たまたま、いらっしゃらなかったようですが。 「御朱印はありませんが」ということで、参拝記念スタンプ(ゴム印)を御朱印帳に押していただきました。

瀬藤禎祥 99/08/14
御朱印については、埼玉県の金鑚神社さんに教えて貰いました。
朱印帳は、納経帳と同じものかと思います。神仏の加護を願って寺社に経を奉納していたものが、印のみもらうようになった。 というものの近世中期には現在の朱印帳と同類のものがあります。 神仏習合時代の納経帳は面白いものです。
出す神社とそうでない神社は、宮司さんがいるかどうかの問題じゃないでしょうか? 参拝者があるていどおられる神社では今は大概おこなっていませんか? もっとも、大きくなるとハンコのみであったり、墨がきまで印刷だったりする。

なお大阪府の高津宮の神社の祭神の一つに葦姫皇后というのを祭っているそうです。 ところが、当然のことながらこのような名前の皇后は古代史料には見あたらず、何かわかることがあれば、教えてほしいという 伝言がありました。
この問題、新村さんあたりが強いのでは。・・

松岡 99/08/14
大和神社。現在、祭神は大和大国魂神、八千戈神、御年神。
だが、江戸時代の「和漢三才図会」では、大国魂神(素盞嗚の孫)、大歳神(大国魂の父)、須治比女(大国魂の母)。
でも、御神紋は橘みたいです。穴師と関係あるのかな。八千戈の「戈」が気にかかる。大国魂神って何だ。

瀬藤禎祥 99/08/10
 御朱印については現在神社オンライイン連盟
http://w/font>
に掲載されています。

大和のアマチュア考古学者 99/08/10
土曜日に、宇奈手の神奈備と言われている「河俣神社」に行ってきました。東北東向きでした。
一の鳥居右手にある灯籠は神社拝殿と本殿に向かうように建てられ「住吉大明神」「文化11(1810年頃)年」とありました。
近所の老年のご婦人にお聞きしたら、住吉大社で新嘗の祭につかうミニュチュア土器用の赤土を畝傍山へ取りに行く途中、ここに立ち寄られるそうです。
二の鳥居の右手に石碑があり、昭和44年に移築したことが書いてありました。
拝殿前の灯籠には、「元禄XX年 雲梯村」とありまた、本殿の造りも変わっていました。

松岡 99/08/07
松岡です。皆さんは、神社に行かれて「御朱印」を頂いていますか?
この「御朱印」集めが、僕の神社巡りの大きな目的なんですが、先日、御所市の一言主神社に参拝した時、「御朱印はやっていません」と言われショックを受けました。
このような神社は他では聞いたことがありませんが、どうなんでしょうか。
 

神林 99/08/04
私は、小椋一葉氏と原田常治氏の著作は読んでいない(どちらかというと、必要な情報は向こうからやってくる主義。だからと言って、手を抜いているわけでなく本屋には足繁く通っている)のですが、瀬藤様がおっしゃられる通りと思います。
大本教から出た雛形論に照らし合わせ、日本神話を雛形として邪馬台国での出来事が発生している程度なら許容範囲ですが、それ以上となると無理ですね。
邪馬台国については諸説有り、どれが本当か未だに断定はできない状態(謎だから良い)です。
新潟県栃尾市の或るアマチュア研究家の自費出版によると、新潟県に邪馬台国が有った事になっています。この説の一番の拠り所は、勾玉に使われた翡翠の質が、新潟県糸魚川産と外国の一ヶ所でしか出土されない物という事から来ています。
私は、邪馬台国と名乗った国は一ヶ所で、後は同時期に同様な文明を持った国が各地にあったのではないかと考えています。
「或る無人島の猿が物を洗って食べるようになった時期に、何十キロも離れた無人島の猿も始めた」という研究結果が有るように、人の文明も同様な事が起こったのではないでしょうか?
「人と人は霊線で繋がっている(理力と同意?)」と言う人がいましたが、世の中全ての物質は繋がっていると私は思いたいですね。

瀬藤禎祥 99/08/02
神林様のご指摘「神々を個として捉えるか、集団の総称として捉えるか」は私も常々集団の祭祀の中心として見ようとしておりますが、五十猛命と丹生都比売になると、自戒を忘れてしまうのです。ましてや人格神は自然神などより新しいとされていますのにネ。
そう言う面で見ると小椋一葉さんやその原典の原田常治さんの説もあまりにも人格神を追求しすぎているのかも知れません。
特に小椋一葉さんは日本の神々が殆ど全て邪馬台国にからめて解説をされていますが、大陸の文献にたまたま記載された日本の一地方の出来事で全てを解き明かそうとするのは無理があるように思いますが。・・・
 

大和のアマチュア考古学者 99/08/02
物部氏と鉄
実は、私、奈良県は大和郡山市に在住しています。
ご存じだろうと思いますが、他にも負けず本市も邪馬台国候補の地です。鳥越健三郎先生が力説されています。
市内の西、千日町と言うところに、一の矢塚というところがあり、ニギハヤヒが降臨しようと1本目の矢を放ったらその地に落ちた」という言い伝えがある様です。
その一の矢塚の周辺の畑地から鉄サイがたくさん出土します。物部氏と鉄は何らかの関係があったものと私も考えています。
ちなみに、二の矢塚のあるところが航空機の神様と言われている「矢田坐クシタマヒコ神社」、で南門に3Mほどの木製のプロペラが飾ってあります。
三の矢塚には、前市長さんによる「邪馬台国比定の石碑」が建てられています。
 

手塚 肇 99/08/02
瀬藤様
麻賀多神社について詳しく調べて頂いてありがとうございました。なんせ最近千葉に引っ越して来たもんで、、、、あちこち面白いとこを探している最中です。
 

大和のアマチュア考古学者 99/08/02
日本書記の国譲り
 神林様、ありがとうございます。「日本書記の国譲り」もう一度読み直してみます。
 

瀬藤禎祥 99/08/01
荒川戸辺の悲劇
 紀伊国の荒川戸辺の娘「遠津年魚眼眼妙媛」は崇神天皇の皇妃で、その間に豊城入彦命がおりましたが、 皇位は弟の活目尊(垂仁天皇)に行きました。
また垂仁天皇の正当な後嗣ぎの五十瓊敷命は皇位につけず大足彦(景行天皇)が継ぎました。
これらは、やはり荒川戸辺の娘「中大女」を妻とした物部の大新河命と十千根兄弟の大連の政権の下でのことでした。
荒川戸辺としては、血を分けた豊城入彦命の皇位継承を断念さされ、あまつさえ崇神天皇の正当な流れさえ切られてしまったのです。

 荒川の場所?
  那賀郡桃山町の平野部 三船神社は豊鋤入姫の創建と伝わります。
  和歌山市黒田(JR和歌山駅東北)太田黒田遺跡で有名
 

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