神奈備にようこそ 掲示板のログ(99/10月) 
お名前の敬称は略させて頂きます。


ログ
更新 99/10/30


瀬藤禎祥 99/10/30
福島雅彦さん、投稿ありがとうございます。
 福島さんは福岡在住の自称古代史研究生・ペンネーム=福嶋正日子。『卑彌呼が都した所』(副題)=「古代史の謎は九州弁と韓国語で解ける」・葦書房の著者でもある方です。
ううさん、今遷都論がはやっていますが、天武持統政権の頃、信濃への遷都が構想されていたようですね。日本の中心説、吉野よりさらに神仙境らしい事などの理由が推測されています。
古代徘徊老人様に刺激されて予定を変更して日下山探しを試みましたが、春日神社→八幡宮→霊泉まではなんとか行けたのですが、厄山の碑が見当たらず、スカイラインの常夜搭からくさか園に入り石切に下りました。 常夜搭の近くに、神武天皇顕彰碑と龍の口霊泉方面の案内が出てきまして、小生が歩いて来た道が霊泉方面、また進行方向が顕彰碑方面となっており、キツネに騙されている気分です。饒速日山は日下川の水源地あたりとあり、人によっては顕彰碑のある山とされます。

福島雅彦 99/10/30
始めまして!瀬藤禎祥さんのe-mailには、通信をさせて頂いていました。五十猛命に関する宿題を頂戴していますので、誠心誠意奮励中です。素盞嗚尊に関しては、一家言有りましたので、その延長に、思考を展開しています。纏まり次第報告致します。ここの皆様は、神社にお詳しい方が多くていらっしゃる様ですので、お尋ねしたい事があります。それは、注連縄に関することです。筑後平野の神社の多くは、その昔、注連縄は、三本撚りだったと認識しています。しかし、三本撚りは人数が大勢掛かるので省力化して二本撚りに変わって来ているようです。三本撚りの由来が忘れ去られた結果だと思われます。それは倭國大乱の終息(手打ち)にまで遡るのではないかと思っています。倭國大乱の火種は、低湿地帯の洪水の危険ある筑後平野が、徐福の治水技術に拠って、穀倉地帯に成るのが判り、在来倭人、半島から追い出された帰還倭人、徐福の秦人の三つ巴戦闘だった、と。従って、三者で、卑彌呼を共立して収束した。其の名残が、神社の紋章は三つ巴、注連縄は三本撚り、と。私が、他の地域の神社を観て回る時の最大関心事は、注連縄の撚りですが、未だ、三本撚りにはお目に掛かっていません。皆様は、如何でしょうか?。

うう 99/10/29
帰省のご報告
【小県郡】「ちいさがた」と読みます。小さい頃から当たり前に読んでいたこの名前が特殊な読み方であると普通は「しょうけん」もしくは「おあがた」と読むと知ったのは、地元の郷土資料からでした(不覚…(T_T))そして、何故「ちいさがた」というのかというと、小子部氏が治めた「県」だからという意味だったというのも目が点…。
私の実家の地方は、国造や県主は土着の人ではなく、奈良(大和朝廷)よりわざわざ派遣された多氏や小子部氏だったのだそうです。大和朝廷にとって重要な地点だったことが理由なのでしょうが、一番は牧がたくさんあったから…かな?思ったより大和とは縁のある場所だったんだと感嘆しましたが、そういえば郷の名前は童女郷。小子部氏…すがる。雄略天皇…?今のところ雄略の影は全然見当たらないのですが…。


うう 99/10/29
ただいま実家より帰ってきました!
そして「武水別神」の件ですが、武水別神社のパンフに、
〜国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります〜
と書いてありました。ですので松岡さんのいう水分神の意味ではないかと私も思います。
(パンフの写真の一つに数人の氏子が杵を持ち、餅をつくように千曲川をついているのがあるのですが、これは何を意味しているのでしょうか?)

瀬藤禎祥 99/10/27
 皆さんやはり足がよく動きます。流石、現代だけではなく古代をも生きようとされる人々ですね。 生駒山を昨年の2月に歩いたのですが、根が方向音痴なもので、先に「神武天皇顕彰碑」に行き当たり、次に「五瀬の命」(霊泉)に着き、それからモトクロス道をゴルフ場の方へ行っています。
この道も再度の挑戦です。この土曜日には「山辺の道」で果物の調達を予定してしまったので、その次の休みに古代徘徊老人様の足跡をたどってみたいと思っています。


古代徘徊老人 99/10/27
勝井純氏の言う日下直越の道をたどって見ました。
善根寺の春日神社入り口には『大阪府 史蹟名勝天然記念物 孔舎衙坂直越登り口』と刻んだ大きな石碑がありました。境内には『神武天皇御東征孔舎衙坂 古戦場』と刻んだ石碑がありました。神社横の道を登ると八幡山がありました。大きな磐座の前には八幡宮が有りました。阪奈道路下り線を横切って、恵比須山らしい山の横を通り開けたところへ出ると、そこは『龍の口霊泉』です。「五瀬の命が汲み給ひし霊泉と言ひ伝へらる」ところです。そこから右へ登り、尾根へ出たところの右に『神武天皇顕彰碑』、左へ登っていくと途中『厄山』の碑があります。さらに登って生駒高原に出る手前に日下山があります。
どれが『日下直越』でしょうか?

松岡 99/10/26
兵庫県巡りは土日2日間かかりました。出石神社は山陰線豊岡駅からバスで30分、伊和は姫路から山崎までバスで1時間乗り換えて30分、伊弉諾神社は、三宮から高速バスで津名まで1時間、乗り換えて30分です。二日間のほとんどが移動の時間ですね。

「武水別神」は水分神じゃないですか。

瀬藤禎祥 99/10/25
松岡さん すごい行動力ですね。参考の為に、交通手段を教えてほしいものです。
ううさん  (((‥ )( ‥))) 武水別神社ですか。武水別神とはどのような神様なんでしょうか。

松岡 99/10/24
久しぶりの投稿です。
神戸へ出張があったので、ちょっと足を伸ばして、淡路の伊弉諾神社、出石の出石神社、そして伊和神社へ行ってきました。交通手段がバスしかないのが難点ですが。出石が豊岡に近いというのが気になります。
帰りに西宮の広田神社へ寄りました。6時を過ぎており、真っ暗だったんですが、社務所を開けていただき、御朱印をいただきました。灯篭が灯った夜の神社もなかなか良いものです。

うう 99/10/24
瀬藤さん、高良神社の件どうもありがとうございました)^o^(
ところが、私が指摘された高良さんはこの4座の中に含まれていないんです(T_T) Why…?よほどマニアっくな神社なんでしょうか。これから帰省しますが、早速図書館へ駆け込みですね…。(応神で高良さんで信州…。う〜ん(ーー;)
そして穂高神社ですが、さすが安曇氏の神社といいますか、大和の古社と同じ荘厳な何ともいえない雰囲気が漂う神社で、私も初めて訪れた時は、つい言葉をなくし境内に立ち尽くした思い出があります^^; 上高地の奥社の神事も一度見にいってみたいななんて思ってるんですが…。

瀬藤禎祥 99/10/24
古代徘徊老人様、詳しい情報ありがとうございます。
長野県は安曇の穂高があり、山国になぜ海人族がといつも不思議で川を遡って行ったらたどり着いた等の説明ではどの山にも海人が一杯になりますね。
高良玉垂神とは、武内宿禰か饒速日命かどういう謂れの神様かわかりにくいのですが、その長野県にも摂社として4座見付けました。CD
埴科郡戸倉町大字若宮2番地−イ 佐良志奈神社の高良社「武内宿禰」
北安曇郡池田町大字会染5262 宇佐八幡宮の高良社「高良玉垂命」
須坂市大字小山字八幡1593-2 墨坂神社の高良社「武内宿禰命」
長野市大字塩生字新分市2334 八幡社の高良八幡宮「玉垂神」です。
女神の大学合格決定を祝して!

古代徘徊老人 99/10/21
瀬藤様 HP拝見いたしました。日下山は巨石群1および2の近くです。直越道が生駒高原に出る直前で右と左に小さなピークを持つ山の間の鞍部を抜けます。誰が書いたかわかりませんが、道端の木に板切れがくくりつけてあり、右「日下山」、左「タカラヤマ」とあります。日下山の頂上はすぐで頂上の大部分は鉄塔で占められています。巨石は見当たりませんでした。これが日下山だと云う根拠は何も有りません。ただ誰かがこれが日下山だと書いてあったからだけです。
又、五瀬命御負傷の地の写真が載っていましたが。ここは小生が書いた「龍の口霊泉」の地でこの裏山でもうひとつ別の『厄山 五瀬命御負傷の地』の地石碑を確認しています。

瀬藤禎祥 99/10/21
古代徘徊老人様 ありがとうございます。小生もかって善根寺から聖蹟碑、厄山、モトクロス道を歩いたのですが「日下山」の認識はできませんでした。地図に日下山や草香山が見えないのです。
神奈備HPの饒速日山に地図を入れてありますが、その巨石群1は鉄塔の近くにありました。下はいかにも底なしみたいに見えたのですが、日下山はこのあたりでしょうか。それとの生駒山麓公園か聖天のあたりでしょうか。 しつこくて申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

古代徘徊老人 99/10/20
瀬藤様 早速県立図書館でご紹介いただきました2冊の本を調べて見ました。勝井純氏は日下の直越を踏査していますね。饒速日山と言うのは日下山の事のようですね。日下山はたしかにあります。頂上には現在鉄塔が立っています。 勝井氏の言う日下直越は、私が通った直越と違って、大阪側の登り口は日下の集落よりさらに北へシフトして善根寺の集落にある春日神社の横を通り、龍の口という霊泉横から厄山へ登るルートを言うようです。このルートは私も歩いたことがありますが、この道のほうが確かにしっかりした道です。

瀬藤禎祥 99/10/20
!(^^)! 女神の再生、喜ばしい限りです。(*^_^*)
最近、畑井弘さんの古代倭王朝論(三一書房)を読んでいます。この本の史観は、大和の古代の勢力圏を西の葛城と東の磯城との対立と共立で見ていきます。葛城−難波−筑紫−百済の系列と磯城−近江−越・若狭−出雲−新羅の系列の関係史から見ていくようです。 百済・新羅の対立関係は日本の覇権闘争に持ち込まれ、互いに陰謀、暗殺、内乱などを繰り返した。 雄略天皇と葛城一言主神の物語なども、このバランスを崩した話かも知れません。だから断絶したのでしょう。
百済側が最終勝利し天孫族を名乗り、新羅側と新羅を蔑み、このグループを国津神としたのでしょう。

新村明子(うう) 99/10/20
皆様、お久しぶりです(~o~) 今まで受験勉強で自粛していましたが、試験終了っ!またお世話になります。よろしくお願いします!
さて、今日は岩波新書「中世神話」山本ひろこ著を読みました。前に瀬藤さんが原田氏、小掠氏の文章の操作性を指摘され、説の成り立たないことを証明しましたが、この本でもう伊勢に関する大部分のところはもう欺瞞が暴露されています。原田氏はともかくとして、小掠氏の作為ある文章はどうもひっかかって仕方のない部分が多かったので、この本を読んでやっぱり…でしたね^^;
とくに「アマテラス」の本で丹生都比賣=豊受比賣=月の仮説を出された時点で、即むちゃくちゃいうなぁと反感買ったもので…。(もしこの説が成り立つなら、紀氏が作ったという「竹取物語」に豊受比賣なり、丹生都比賣の伝承がそれなりに反映されるはずですもの!)それ以前に社伝の引用の仕方が意図的抜粋で意味をすりかえてもいましたから、小掠氏は…^^;
(3日後にとうとう大学合格発表…。ううっ、その時には報告がてら、また投稿します…。)

瀬藤禎祥 99/10/18
古代徘徊老人様が>3回トライしてようやく見つけました<との事、冬場で木々や草がすくなくなった頃再度挑戦してみます。どうしても駄目ならその時はよろしくお願いいたします。
やはり、>哮峰<でしょうか。大和のアマチュア考古学者さんからもそうのような指摘をいただいておりましたが・・
>引用の記述の本 は白鳥伝説(谷川健一氏)小学館ライブラリー上巻からの孫引きで、元は勝井純氏の「神武天皇御東遷聖蹟考」からとなっています。p50、p231にこの辺りの事が記載されています。

古代徘徊老人 99/10/18
瀬藤様 文面から、まさにその下まで行っています。あの上に見える赤と白で塗った鉄塔の下にあります。登り口は鉄塔の管理道を見つける必要があります。私も3回トライしてようやく見つけました。どうしても駄目なら私がご案内します。
饒速日山というのは聞いたことがありません。>生駒山の北にそばだっていて<から言いますと「哮峰」と言われているのがそうではないかと思います。生駒山縦走路の玄人筋が通るコースがこの峰を通るようになっています。私も一度通ったことがありますが獣道のようになっていて踏み跡がほとんどわかりません。
引用の記述はなんて言う本にあるのですか?

瀬藤禎祥 99/10/17
古代徘徊老人様の>探すのは難しいと<事がよくわかりました。
近鉄不動産の開発による大量の売れ残った住宅地(檜の窪山の北東斜面)あたりから登ろうと試みましたが、実は登り口すら見付けられませんでした。
どうやら金曜日から出会いの運は下がっているようです。
しかしおかげさまで長髄彦や白庭山の碑を見付けることはできました。

さて、直越と厄山が出ましたが、この間に、饒速日山があることになっています。
引用します。「・・八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山がある。これは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。 その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道を、現地では直越と呼んでいる。」
こころ当たりはございませんか?

瀬藤禎祥 99/10/15
みそしる さん、今晩は!
>土地や遺構、伝承などについて調べた資料
 をお探しのようですが、私が持ってい吉備関係の本は鳥越先生の「吉備の古代王国」です。後は、日本の神々−神社と聖地−などですが、那岐山近辺となると、どうでしょうか地方史、例えば津山市史などをめくっていくしか思いつきません。

古代徘徊老人 99/10/15
『厄山 五瀬命負傷の地』の石碑の立っている尾根の大阪平野に突き出したところに(日下駒石山と言うらしい)たいそう立派な『神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑』が立っていることも付け加えます。
瀬藤様 南田原に住吉神社が在ります。ニギハヤヒの墓が在る白谷のバス停の前の道を田原台の方へ5〜600m行った道路沿いにあります。

みそしる 99/10/15
はじめまして、みそしると申します。

今、古代氏族の「奈癸(なき)」氏について調べています。
きっかけは、美作国の北東部、現在の岡山県勝田郡奈義町と鳥取県八頭郡智頭町の境に那岐山(なぎさん)という山があり、日本三代実録貞観五年の条に「奈癸神(なぎしん。おそらく那岐山を神体とする)」という神様がでてくることをみつけ、同訓なので、もしかしたら関係があるのかしらと思い調べ始めたというわけですが・・・なかなかよい資料がみつかりません。
奈癸は物部氏の一支族ということですので、その関係もあたってはいるのですが。

美作地方(特に那岐山近辺)で物部(奈癸についてであればもっとよいのですが)にかかわる土地や遺構、伝承などについて調べた資料がありましたら、どなたかおしえていただけませんか?

大和のアマチュア考古学者 99/10/14
古代徘徊老人様
はじめまして、花坂志郎@自称:大和のアマチュア考古学者と申します。
あのあたり、相当お詳しい御様子、ほんとに徘徊されておられねんですね。情報もっとお教えて下さい。
てっちゃんさん
原田常治氏の「日本上代正史」面白いでしょ。ぼくも持っています。真実か否かが分からないところが神の面白いところではないでしょうか。
神社の向きについて、南向きがもっとも古式の形式を残している様に最近思えてきました。
が、南半球に住むオーストラリアのアボリジニさんの神感についてご存じのか方ありましたら教えてください。北半球と南半球の神感の違いについて知りたいのですが。お願いします。

古代徘徊老人 99/10/14
近鉄石切駅から1Kmほど北へいったところ、日下の集落から「日下直越の道」が生駒高原の「灯籠ゲート」へ通じています。この道が雄略天皇が通った道かどうかわかりませんが、今はほとんど通る人はありません。 その道脇にひっそりと『厄山 五瀬命負傷の地』と言う大きな石碑が立っているのを見つけました。誰が何時建てたか?こちらわ東大阪市の領域内です。

てっちゃん 99/10/13
原田常治氏の「の本上代正史」をやっと手に入れました。この独断に満ちた考察は真実かどうかは別として結構好きです。
>古代徘徊老人様 ニギハヤヒの墓ですか。聞いただけでわくわくします。

瀬藤禎祥 99/10/13
古代徘徊老人様 ありがとうございます。
所で谷川健一氏の白鳥伝説上によりますと南田原に岩船神社があるそうですが今は住吉神社か岩船寺になっているのでしょう。
邪馬台国の官の名の伊支馬は生駒だとか活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)の活目だとの説もあります。 垂仁天皇からは田島守と橘が連想できますが、南九州に橘が自生しているそうです。 死ぬ間際に食べたい物とは幼い頃食べたもの物だそうで、崇神垂仁南九州出身説もあり、さすれば句奴国でしょうか。古代の徘徊興味が尽きません。
土曜日にはおもしろい生駒の史跡探訪ができそうです。謝。

古代徘徊老人 99/10/13
饒速日命の墓はD7orD8です。住宅地の山の際に公園があります。その公園から後ろの山の送電線の鉄塔目指して登ってください。赤色の鉄塔です。 ちなみに、C5が長髄彦の本拠地、J3orJ4が鵄山です。探すのは難しいと思いますが、根気良く探してください。

松岡 99/10/12
>三柱鳥居は最近できたのでしょうか。
かもしれません。社務所が閉まっていて誰も居られなかったので何も確認できませんでした。
由緒書きや参道など、かなり整備されているように見えましたから、その時に出来たのかもしれません。 だとすると、どうして三柱鳥居なんでしょうね。不思議です。瑞垣のように、「囲い」としてなら、三角形にする必要もありませんよね。

瀬藤禎祥 99/10/12
和多都美神社の磯良恵比寿はいろこ(鱗)の宮と言われたそうです。磯武良とも記され、磯は渚でナギサタケと同義として不合尊とも比定されるそうですね。
私は渚は名草に転じ、名草の武即ち五十猛命とも言えるのではと思っています。異名同神説ですね。 さて永留久恵さんの海人達の足跡と言う本の写真では磯良恵比寿のまわりに4本の笹竹をさして注連縄しています。
三柱鳥居は最近できたのでしょうか。

瀬藤禎祥 99/10/12
生駒市史には白谷のあたりの「檜の窪山」と紹介している所がにニギハヤヒの墓と言われているそうですがそれでしょうね。
神話の中に登場する神様に墓があるとするのも面白い話で、その中でもニギハヤヒの遺骸は確か、天上に運ばれた事になっています。次の土曜日に探しに行ってみようと思います。
古代徘徊老人様 お手を煩わして恐縮ですが、掲示板のログ10月に地図を入れましたので、長弓寺なら「K8」とするように、だいたいの地点をお示し下さい。


大和のアマチュア考古学者 99/10/12
松岡さん。
こちらこそ、でも記憶力すごいですね。三柱鳥居とお聞きしとても興味が湧きましたし、大神教会さんでは大神神社を上の社、大神教会さん御自身を下の教会とお呼びになり、「三輪へ参らば上下かけよどちらを欠いても片参り」と云っておられることなどあらたな発見をすることができました。いただいてきた資料を全部書き込みとよいのですがB4版が4枚とB5版が1枚と大変多いものですからすいません。ちなみに三柱鳥居は鉄製のもので▽の様に底辺が東(大神神社の方向)、頂点が西向きに建ててありました。

松岡 99/10/12
>9日に行ってきました。たしかにあります。
大和のアマチュア考古学者さん、確認ありがとうございます。記憶が曖昧だったので、自信がなかったのですが、自分の記憶力に自信が持てました。
ところで、対馬の和多都美神社にも木製の三柱鳥居がありました。2ヶ所あったんですが、どちらも磐座を囲むように三本の柱が立っています。
その一つは、参道左手の池の中で、木島と同様の配置です。中心には、「磯良恵比寿」という表面に甲羅状の亀裂が入った石がまつられ、「磯良の墓あるいは御神体石」と説明がありました。


大和のアマチュア考古学者 99/10/12
古代徘徊老人様
はじめまして、長髄彦、饒速日の墓のこと「生駒市史」の最初の部分に記載してあって一度訪れて見ようとあのあたりをウロウロしたのですが結局分からずじまいであきらめていました。
ありがとうございました。今度是非訪れてみます。管理人の瀬藤さん連続投稿してすいません。

大和のアマチュア考古学者 99/10/12
瀬藤様、松岡様
>大神神社一之鳥居側にある大神教の三柱鳥居につきましては初見です。>どなたかご存じないでしょうか。
9日に行ってきました。たしかにあります。ご自由にお持ち帰り下さいの資料によりますと明治15年1月24日の「社教分離令」により、神社における宗教活動が一切禁止されたため御神符・守札ほか講社業務を分離し、一の鳥居直ぐの参道右側に「大神教会所」の門札を揚げ神社で使用していた関係書類をそのまま移して大三輪信仰を従来の姿と変わることなく支えて参った。とあります。
三柱鳥居については、天津御祖(アマツミオヤ)の神とたたえる造化の三神のことで天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神々が三柱一体(三位一体)とムスんで宇宙づくり、太陽、月、星から地球をつくり、万物生成の根元となられた・・・云々でムスビ鳥居とも云うし、また三柱を数え1,2,3からヒフミ鳥居とも云うとありました。
書き出せばながくなりますのでこのぐらいにしておきます。

古代徘徊老人 99/10/11
瀬藤様 ご指摘の真弓塚はその地点から南南東約1Km離れています。頂上には「饒速日命墳墓」と書かれた石碑が立っています。西約1Kmには神武天皇の鵄山伝承地もあります。

瀬藤禎祥 99/10/11
古代徘徊老人 様 ご投稿ありがとうございます。
>近くの山の頂上に饒速日の墓を見つけました。
そこは長久寺東裏の「真弓塚」でしょうか?
>磐船神社の南約1Km ですとやはり白谷でしょうか?
それにしても『長髄彦本拠地』の碑を建てるのは判官贔屓と言うのか一つの見識、勇気と思います。

古代徘徊老人 99/10/11
生駒市白庭台の住宅地横に白谷というところがあり、池端には『長髄彦本拠地』の碑が立っています。又、近くの山の頂上に饒速日の墓を見つけました。この地は饒速日が降臨した磐船神社の南約1Kmの地点です。

瀬藤禎祥 99/10/10
鏡作の補遺
大宇陀町大東に神戸神社がありますが、その東方、宇陀川にのぞむ丘陵を鏡作と呼ぶようです。水銀の露頭鉱床があるとされています。

大和のアマチュア考古学者 99/10/07
桜井市職員さんが発信されているhpに穴師坐兵主神社のことが掲載されています。(真偽のほどは別にして・・・)
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai12.htm


大和のアマチュア考古学者 99/10/06
瀬藤さん、ありがとうございました。木島坐天照御魂神社がどこにあるのか気になりましたのは、ご存じかと思いますが奈良市石木町にトミ(すいません漢字名を忘れてしまったものですから)神社と云うのがあるのですがそこの灯篭に「木嶋大明神」とあり、大阪教育大学の鳥越先生の邪馬台国=大和郡山説によりますと木嶋の嶋は、いわゆるシマ(領地)のことで。磯島は三輪の地、秋津島は葛城の地、木嶋はニギハヤヒの登美の地と言うことをお聞きしたことがありなんらかの関係があるのかなーっと思ったものですから・・・

瀬藤禎祥 99/10/04
瀬藤です。木島坐天照御魂神社につきましては、神奈備/さらサイトの9月分をご覧下さい。
大神神社一之鳥居側にある大神教の三柱鳥居につきましては初見です。どなたかご存じないでしょうか。

松岡 99/10/04
火明命を祀る木島坐天照御魂神社の神紋は、葵のはずです。葵は加茂社の神紋であり、奈良の八咫烏神社も葵です。また、大山咋命を祀る松尾の神紋も葵です。木島坐天照御魂神社が三輪と関連があるなら、原田常治説も「なるほどね」って感じになります。 ついでに、三河武士である本多氏は加茂社の神官の出で葵を家紋とし、松平(徳川)も同様だったと思います。


松岡 99/10/04
>木島坐天照御魂神社の三柱鳥居を大和三山に見立てると三輪山に当たる方向に本殿が造られています
記憶があいまいなのですが、大神神社一之鳥居側にある、大神教に、三柱鳥居があったような気がするんですが、関連はあるんでしょうか?

大和のアマチュア考古学者99/10/04
おととい、橿原市の藤原京万葉フォーラムに参加させていただきました。神社の向きについて少しヒントが得られた様におもいます。
白鳳女子短期大学学長の山折哲雄先生(宗教学)が「原始信仰は東西(陰陽)軸にあり、霊魂と肉体は別なもの、霊魂は死して山に登る」と考えていたのではないか。
(とするとやはり須藤さんが掲示板のトップでおっしゃっておられます「はかないやま」→「はやま」→「みはやま」と云うことに・・・)
また、「南面するのは、中国思想の「天子南面す」に基づく考え方によるものではないか」と考えていると述べておられました。
須藤さん、お話の腰を折るようですいません。ところで、木島坐天照御魂神社と申しますのはどこにあるのか教えていただけませんでしょうか。


瀬藤禎祥 99/10/04
木島坐天照御魂神社の三柱鳥居を大和三山に見立てると三輪山に当たる方向に本殿が造られています。
大神神社の三ツ鳥居を香春岳に見立てると、三輪山に当たる方向に鏡大神社が鎮座しています。
また更に遠くに飯岳山があります。この飯岳山の名は五十猛命からついたのではないかなどと妄想しています。

てっちゃん 99/10/01
大和のアマチュア考古学者さん瀬藤さん神社の見方について御教授頂きましてありがとうございました。
先に指摘されていたように原田氏の「日本古代正史」の表現が「行ってみたら・・・と分かった」というのが多く行ってみるだけでそんな大事な事が解るのかと疑問に感じていた次第です。神社の見方と言っても目的がはっきりしてなかったらお答えのしようも無かったのに申し訳ありませんでした。これからもいろいろとお教えください。

さとう 99/10/01
はじめまして 神社に関するホームページをしらべてましたらこちらへたどり着きました。
神社は本当にこどものころ遊んでました。 中学生の頃は朝早く起きまして(部活で剣道してましたので)近くの神社に素振りをしによくいきましてそのときにメッセージが、がつーんと入ってきまして。(ニューエイジ的ですが)そういうわけで神社は大好きです。 また遊びに来ます。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/6413/
電子メールアドレス:satoken.noriaki@nifty.ne.jp

瀬藤禎祥 99/10/01
 神社の見方・・難問ですね。
目的とする神社を探し当てるのが大変なことがありますね。お年寄りかお寺さんで聞くのが話がはやいですね。
最寄りの駅から歩くのを基本としています。それで周辺の雰囲気がつかめます。
由緒書きでもあって、宮司さんや総代さんがおられたら話を聞かせてもらうのがなにせ一番ですね。
式内社であっも、神職がいない神社が多いので、事前に来意を告げて、待っていてもらうのも気の毒ですね。 近くの大きい神社の神職さんの兼務も多いので、そこでも情報収集できます。
自分宛の葉書を残しておき、簡単な質問を書いていきますと、半年以内位でだいたい返事をくれますね。
神社 その存在そのものが歴史的由縁の産物 神社名、祭神
   立地、土壌、周辺の自然、木々、磐、景色、地名など
奈良の河合町の広瀬神社は長随彦か饒速日命を祀ったとの説がありますが、鳥居から本殿への参道は下り道でした。
秋田の唐松神社はほぼ確実に饒速日命を祀っていますが、やはり参道は下っていました。
やはり、行ってみないと見えてこないものがありますね。

大和のアマチュア考古学者99/10/01
ぼくの神社の見方は。
1.向いている方向。
2.本殿の造りと千木の出方や鰹木の本数。
3.拝殿の軒丸瓦の模様と珠文の数。
4.古墳状かどうか。
などを見て楽しんでいます。ぼくの場合はどちらかというと一人遊びしているっと言った感じですネ。

てっちゃん 99/09/30
瀬藤様 大和のアマチュア考古学者様 松岡様 その他の方々こんにちは
実は私も神社を巡るのが好きなのですが現地にてどういうように神社を見たら良いか解りません。もちろん由緒書きとかは見ますし神社をぐるっと回ってみたりしますが歴史的な事実をどうやって読み取って好いか解りません。もしコツなどがあればお教え下さい。


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