神奈備にようこそ 掲示板のログ(99/11月) 
お名前の敬称は略させて頂きます。


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更新 99/11/27


吉本一 99/11/27
御回答ありがとうございました。
実は、ほとんど毎日のようにアクセスしようと頑張っていたのですが、夜遅い時間帯は全くつながりませんでした。 またお邪魔させていただくかもしれません。 その節はよろしくお願い致します。

松岡 99/11/25
>丹生川上三社のうち上社下社は祭神の中に誉田別命がいないにも関わらず左三ツ巴
神社名鑑には、下社の神紋が三つ巴と記載されていますが、実際に下社では三つ巴を発見できませんでした。見落とした可能性も十分にありますが、現在、御守り等には菊紋を使用しているようです。 旧官幣社の場合、菊紋を「表紋」とし、別の裏紋を持っているのが常なのですが。
上社も「左三つ巴」ですが、宇佐神宮の「左三つ巴」とは、図案の左右が逆です。頭と尾のどちらを主体に見るかによると思いますが、地方による差もあるような気がします。

福島雅彦 99/11/25
前便は、御礼言上のみにて失礼致しました。
伊太祁曽神社の「伊」が「偉大」の意ではないか、との御考えに賛同致します。
わたしも、伊耶那岐命、伊耶那美命も、伊「讃」那岐で、 伊「珍」那美で、後の倭の五王にまで思いを馳せています。では、又。

福島雅彦 99/11/25
大友正道様、瀬藤禎祥様、松岡様。
神紋の調査、貴重な情報を有難う御座いました。

松岡 99/11/23
>中社は蟻通しさんですね。主祭神は罔象女神ですが、配神に
>伊邪奈岐命、伊邪奈美命、八意思兼命、大日め貴命、譽田別命ほか6神の名があります。
そうでしたか。神社名鑑に記載されていなかったのでわかりませんでした、が、日本神社総覧には、確かに「計九神」とありますね。
今回、回った出雲の神社の神紋は、二重亀甲の中に文字を入れたものが多くありました。代表は、熊野大社で、中に「大」の一字です。神社名から一文字とっている感じで、起源・由緒・祭神とは関係ないようです。
>実は伊太祁曽神社の神紋は「丸の中に太」ですが、建築には左三ツ巴があります。 射楯兵主神社の神紋は、三つ巴と丸に二引です。関係ありますかね。

瀬藤禎祥 99/11/23
松岡様の「19日から5日間、出雲を歩き回っていました。」、イツモながらすごいパワーですね。 大発見情報楽しみにしています。
中社は蟻通しさんですね。主祭神は罔象女神ですが、配神に 伊邪奈岐命、伊邪奈美命、八意思兼命、大日め貴命、譽田別命ほか6神の名があります。 いつの時代に合祀されたかは不明です。神紋には影響はしていないとは思いますが。
「小さな、何を祀っているかわからない神社は、ほとんど三つ巴です。」そういう感じですね。 実は伊太祁曽神社の神紋は「丸の中に太」ですが、建築には左三ツ巴があります。 伊太祁曽神社はもともと水神ではともいわれております。丹生社と性格が似ています。 しかし、どうも祭神との関係があまりないと言う事ですね。
念のため各地の八幡さま(神社名鑑で最初に神紋が記されている八幡社)。
神奈川 鶴岡   鶴丸、三ツ巴
静岡  浜松   葵
愛知  城山   橘、桐
京都  石清水  左三ツ巴
大坂  誉田   巴
兵庫  須磨厄神 橘
奈良  郡山   橘
和歌山 木本   左三ツ巴
岡山  津山市  鶴の丸
広島  尾道市  五七の桐
山口  忌宮神社 十六菊
福岡  香椎宮  三ツ巴
佐賀  千栗   左巴
長崎  亀山   左巴
熊本  藤崎   下り松
大分  宇佐   左三ツ巴


松岡 99/11/23
久しぶりの書き込みです。 19日から5日間、出雲を歩き回っていました。
>中社の祭神には誉田別命が含まれているのに
中社の祭神に誉田別命はいなかったように思いますが。
「三つ巴」は、通常、八幡の神紋とされていますが、「神社一般」の神紋としても認識されています。西宮恵比寿や貴船の境内にも三つ巴は見受けらます。 巴紋は、巴御前が使用していたとか、公家の西園寺家でも使用しています。また、鎌倉時代以降は武家の多くが使用していますから、直接八幡と関係があるとは限らないと思います。ただし、八幡は大抵三つ巴を使用しているので、まったくないとも言えませんが。
小さな、何を祀っているかわからない神社は、ほとんど三つ巴です。

瀬藤禎祥 99/11/23
うう、神紋は苦手ですね。どなたかの絵解きを期待します。
さて、御疑問の趣旨ですが、八幡社は宇佐、石清水とも左三ツ巴、鎌倉は鶴丸+三ツ巴である。八幡と左三ツ巴とは深い関係がありそうだ。
一方、丹生川上三社のうち上社下社は祭神の中に誉田別命がいないにも関わらず左三ツ巴、中社の祭神には誉田別命が含まれているのに三葉の桐を神紋としている。
これはいかにと言う意味でしょうか。

にゅ〜こ 99/11/22
あまりにもおもしろいので、横から口を挟ませてください。
八幡神社のご神紋が、三つ巴であることと、私の聞き及びますところでは、丹生川上神社上社、下社共に左三つ巴の御神紋だとか。どういう関わりでしょうか。

瀬藤禎祥 99/11/22
 吉本様、来場ありがとうございます。
「古代史のあまりの説の多さ」がこの分野の興味のつきない点でもあります。
そそっかしいのは生まれつきで、桓友は桓雄の誤りで、降臨したのは「桓雄」です。 ご指摘ありがとうございます。桓雄だけが降臨したとしても曽尸茂梨の場所論への一つの仮説ではありうるかなと思っていますが。
ついでながら、壇君を北鮮流のマンガ的表現の偉大なる首領様的に言えば威(伊)壇君祖(曽)となり、伊太祁曽が出てきます。 根拠の乏しそうな怪しげな説と自覚しています。

吉本一 99/11/21
はじめまして。吉本一と申します。
私は、学生時代には古代史に大変興味があり、よく本を読んだりしたのですが、あまりの説の多さに頭の中が整理がつかず、勉強するのを諦めてしまったような状態です。
福島様のHPに書き込みなさった記事を見て、気が付いた点について一言述べさせていただきます。 そこに「朝鮮の桓友檀君と素盞嗚尊五十猛命が習合しているのではと考えています。さすれば、桓友檀君の降臨地と言う事でしょうか。」とお書きになっていらっしゃったのですが、この「桓友」は「桓雄」のことではないかと存じます。「桓雄」とは「檀君」の父に当たります。「桓雄」・「檀君」親子が降臨した、ということでしょうか。
また、たまに来させていただきます。 どうぞよろしくお願い致します。

瀬藤禎祥 99/11/21
注連縄研究会 大友正道様から次の返事を頂きました。
注連縄の2本とか3本は注連縄の長さ、太さのバランスから、制作者の判断によるものと思えます。 勿論、今までの伝承をふまえてのことです。
三つ巴紋は八幡宮はじめ全国で見られますが、2本も3本もあります。 六角紋三段重ねはどの神社のものか知りませんが、厳島神社(宮島)の紋は亀甲が三つのものですが、二本綯いです。
私の勘で申し訳ないけど、神紋との関係は無いと思います。

福島雅彦 99/11/19
 又、お尋ねしたい事があって、お伺いしました。
神社の紋章に就いてです。三本撚りの注連縄と三つ巴紋が、関連するのではないかと、疑っています。 六角紋三段重ねとかも。
 御分かりでしたら、宜しくお願いします。

福島雅彦 99/11/17
曽尸茂梨に就いては、私のHPに、丁度掲載した所です。素盞嗚尊、建速須佐之男命の解明として。 天照大神に就いても、掲載しています。是非、御来訪下さいませ。
http://chance.gaiax.com/home/x228mzk0

瀬藤禎祥 99/11/15
素盞嗚尊が五十猛命と帯同して高天原から天下ったと言う新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)について調べています。
何か情報をお持ちでしたら。

瀬藤禎祥 99/11/12
紀の国の地名が詠み込まれた万葉歌は百首ほどあります。 有名なのを一つ。有間皇子。(巻2−142)
家にあれば笥けに盛る飯いひを草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
紀州弁に翻訳しますと
あがとこやったら飯は笥に盛るんやして、そやけど、今旅やさけ、椎のはぁに盛るんよ

瀬藤禎祥 99/11/12
 大宝二年(702年)伊太祁曽神社が現在地に創建されたとあります。 伊太祁曽には五十猛命三兄妹神が祀られていましたが、同時に朝廷の命令により分遷されています。 日前宮を司る国造紀氏のアッピールがあったようです。
 丁度前年に文武天皇と持統前天皇が白浜へ御幸しており、この旅行の時に話がでてのかなと想像しています。

喜珍 99/11/9
奈留神社の写真のページに、少しばかり説明文をのせました。このページに神奈備トップへのリンクを張らせていただきました。

松岡 99/11/8
対馬・神社巡りの整理がやっと終わり、次の目的地を探索中。
対馬の式内社の「向き」についてまとめようとしたんですが、ほとんどの社は、「山を背に」あるいは「海に対し」て設置されています。ので、方向には意味がないようです。
京都や奈良のような計画都市の場合とは違うのでしょう。

瀬藤禎祥 99/11/7
 奈留島の喜珍さん、書き込みありがとうございます。
和歌山市に鳴神社(なるじんじゃ)と言う式内大社があります。このnaruは水の意味と言われています。和歌山の鳴神社は水門の神、飛鳥の加夜奈留美命神社も飛鳥川上流に鎮座し、いかにも水の神のようです。
さて奈留島の奈留神社に摂社の汐池神社がありますが、神様は水神さまですね。奈留島はやはり水が命だったのでしょうね。

喜珍 99/11/7
追伸、書き忘れましたが、私のサイトのリンクリストの中の”奈留もどきサイトのリスト”(奈留で検索されるけど、奈留島とは関係ないサイトのリスト)に、加夜奈留美命神社のページへのページリンクを張らせていただきました。ご迷惑でしたら削除いたしますので、ご連絡ください。

喜珍 99/11/7
URLの書込みは、えてしてスペル間違いがあるので、一度書き込みしてから試してみました。そちらの神社のリストに掲載するには、こういうデータが必要というようなことがありましたらご連絡ください。

喜珍 99/11/7
長崎の西方海上に浮かぶ五島列島:奈留島の喜珍と申します。サーチエンジンで「奈留」をサーチしていたところ、「加夜奈留美命神社」のページが検索されました。 私のサイト「奈留島会 on the WEB」に、”奈留神社”の写真をアップしましたので、よろしければご覧になってみてください。 http://www4.freeweb.ne.jp/diary/kit-t-1/narusima/annnai/sisetu/zinnzya/zinzya.htm

福島雅彦 99/11/3
瀬藤禎祥 様・金鑚@埼玉 様 注連縄に関する調査、情報、注連縄研究会のご紹介を賜り、誠に有難う御座いました。
この様な本格的な研究会がある事も存じませんでした。私は、わざわざ、注連縄の調査の為に神社を巡った事はありませんでした。お参りする機会や、他の目的の調査の時に必ず、注連縄に気を配る程度でした。私は、素盞嗚尊を主祭神にする神社の氏子として、13町輪番(13年毎に番が回ってくる)で注連縄を作っていますが、年々人手が減り、藁の確保が困難に成り(コンバインの稲刈りで藁を粉砕)、藁長けも短くなり、三本撚りが、益々困難化しています。前の当番の時、二本撚りなら簡単だし、早いし人手も少なくて済むのに、との意見が出ました。私は、伝統を護る必要があるむと、断固反対しました。
他の当番の時から、遂にビニールの外注品に成ってしまいました。とても残念に思っています。何時、二本撚りに、成るかと心配して、神社委員に死守するように、圧力をかけています。

瀬藤禎祥 99/11/2
注連縄の撚り本数の件で金鑚@埼玉様から
注連縄研究会
のページを教えて貰い、研究会に質問したところ大友正道様から以下の答えを頂きました。紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−
筑後一宮高良神社拝殿の注連縄は2本撚りです。昔は2本か、3本か私には判りません。久留米駅近くの五穀神社拝殿のは3本撚りでした。 少ない私のデータでは 2本撚りと3本撚りとは、6.4:7.6 で3本撚りの方が多くなっています。 普通のお祭り(地鎮祭など)に張る前垂れと呼ばれる注連縄は細いので2本です。 太いものの多くは、出雲大社はじめ2本撚りです。
牛蒡締めと言われる注連縄は3本撚りが多い。大阪では、座摩神社(中央区)、御霊神社(東区)、枚岡神社(東大阪市)、石切剣箭命神社(東大阪市)、片埜神社(枚方市)、大津神社(羽曳野市)等の拝殿は3本撚りです。 2本と3本は省人化の結果とは思えません。それより稲藁がビニールになったり、古い注連縄がそのままに放置されいることこそ嘆かわしいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−
と言うお答えでした。私は殆ど参詣した事がある神社ですが、気がついていませんでした。

瀬藤禎祥 99/11/1
関西山越えの古道(上)中庄谷直著ナカニシヤと言う本に日下越がでています。 これによりますと、大坂野田→古堤街道→御供田村→恩地川沿いを南に→布一村→東向に→東高野街道(くさか道の道標)を横切って日下村に入るとあります。 奈良時代の直線コースは田畑の開発で消滅したと記されていますので、日下川を遡る道があったのでしょう。>ひょっとすると、左へ曲がらずに沢に沿ってまっすぐ登る道が<、古代の道に近いのかもしれませんね。
江戸時代の日下越は「河内国絵図」日下村から俵口への道となっているようです。 現在は不動滝前→神武→厄山→常夜搭→石宮神社→俵口と紹介されています。

古代徘徊老人 99/11/01
前の投稿をしてから気がいたので、正確を期すために付け加えます。直越道が2本あると書きましたが、もう1本あることを忘れていました。日下町8丁目から日下山直越の道を登っていくと二てに別れるところがあります。そこにも案内板が立っていて、左神武天皇顕彰碑と書いて有ります。そこを登ると尾根に出て前の投稿で書いた道になりますが、左へ曲がらずに沢に沿ってまっすぐ登る道がもう一本有りました。この付近の案内板を立てた人は(どなたが立てたかわかりませんが)、この道こそ日下直越道と考えているようです。 言葉だけで説明するのは難しいのですが、小生が確認したこの付近の道は以上の通りです。

古代徘徊老人 99/11/01
瀬藤さんおつかれ様でした。常夜搭の近くで神武天皇顕彰碑と龍の口霊泉の案内があるのを確認されたようですが、龍の口霊泉の方の道から上がってきたようですね。そこから神武天皇顕彰碑のほうへ行けば、すぐ目の前に見える鉄塔の立っている山が日下山です。その道を下って行けば途中に厄山の碑があります。さらに下って行けば別れ道があり、案内が立っています。右に下れば龍の口霊泉、まっすぐ行けば神武天皇顕彰碑、左に下れば日下町8丁目の集落です。ここは日下コースを石切駅へ下りたところより北側の谷です。その集落にかかる最初の家の前に日下山直越乃道と言う石碑が立っています。つまり勝井氏の言う孔舎衙坂直越の道と別に日下山直越の道があり、龍の口霊泉近くの尾根の上、神武天皇顕彰碑付近でこの2本の道が交錯しているわけです。

瀬藤禎祥 99/10/31
五十をイとかイソにこだわりとても牛頭とは発想もできませんでした。
確かに五十猛命を考えていますと素盞嗚尊の一つの側面のようにも思え、牛頭も考えていかねばと思います。
牛頭は禿頭で朝鮮語で曽尸茂梨(ソシモリ)とする見解もあるようですね。

福島雅彦 99/10/31
『瀬藤禎祥さんの御質問へのヒント』に成りまやら…。
私は、伊太祁曽神社も五十猛命も存じませんでした。
素盞嗚尊に就いては、一家言有りました。古代史の謎解きは、その語源から解明しなければ、解いた事に成らないと認識しています。
五十猛命が素盞嗚尊の子であるならば、突破口は素盞嗚尊で決まりです。記紀で異なる表記があったのが幸いしています。素盞嗚尊だけでは、その読み方で紛糾した事でしょう。太安万侶の『建速須佐之男命』の『建速…』の文字使いに、ヒントがある様に感じます。
本居宣長は、「タケハヤ…」と訓じている様ですが…。
私は、”건 -속”(geon-sog)の「ゴズ」の方が『須佐之男・命』の一文字一音の読みに適うと思います。
仏教の影響を受けて祇園社と言われる前に、『牛頭(ごず)天王』の原音が存在したか?。何か、素盞嗚尊の偉大性を表す冠詞としての『ゴ ズ…』が。
『素盞嗚尊』=”쇠”(soe=鉄)盞(盃)嗚(王)尊である。製鐵、青銅器、製陶などの火を司る神である。
原始製鐵、製陶は、裸の野火の大規模なものから始まったと思われる。其の長(おさ)や従事者の顔は、遠赤外線で常に火傷状態であった。『葦原醜男』である。
次の時代の技術革新は、火を穴に閉じ込めた。『大穴持神』=『大穴牟遅神』=『大己貴神』であり、窯の登場である。
次に、製鐵爐にまで技術革新をした其の功績を称える尊称的冠詞が付いて、『建速須佐之男命』であろう。その原義の解明は、これからの課題にします。
その子の『五十猛命』の、『五十…』は、『ごじゅ…』=『ゴズ』ではないでしょうか。朝鮮語の『五十』は確かに”오십”(o-sib)ですが…。
『五十…』、『押…』、『忍…』も『ゴズ…』の尊号の原義が失われた後に使われた当て字ではないでしょうか。 名残のみを留めて、元の意味が忘れ去られたのが、古代史の謎だのロマンだのと言われている大部分ではないでしょうか。御役に立てれば、幸いです。福島雅彦


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