平群石床神社(へぐりいわとこ)
生駒郡平群町越木塚字井戸ノ上 its-mo



旧社の巨石前の鳥居



旧社の巨石



交通案内
近鉄生駒線竜田川駅北西20分



祭神
中央 石床神社 饒速日命 現在は劔刃石床別命となっている。(平群天石登古尊)
右殿 太玉命
左殿 素戔嗚命
境内摂社 哨渇神社・七社神社
北300m 旧社地 巨石(高さ9m、横18m)



由緒
 大和国平群郡の式内社。旧社地には作物の豊穣をを祈る原始信仰の巨石があり、この裂け目を性崇拝の対象としていた。 社殿のない神社で、磐座の前に鳥居のみの原始信仰の社であった。
 現在の神社は大正13年素戔嗚命を祀っていた境外摂社の消渇神社の所在地の現地に遷された。

石床神社旧社地の説明板

 越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見おろす位置にあり、本殿や拝殿は当初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭した高さ6m、幅10数mの巨大な「陰石」を御神体としている。 「延喜式」に記載のある式内社で、祭神は剣刃石床命。貞観元年(859年)には従五位上を授けられている。
 地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える貴重な神社である。
 大正十三年(1924年)に集落内の素盞嗚神社「現石床神社」に合祀されている。
 この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、烏土塚古墳や西宮古墳に運ばれており、古墳時代〜飛鳥時代の石材産地でもある。

消渇・石床神社の社頭説明板

 消渇神社は、本来は地域の産土神である正勝(まさかつ)の神として祀られていた。
 室町時代に、旅の僧信海が腰の病を治してもらってから下半身の病気に御利益があるとして村人に信仰されるようになる。
 江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして京都祇園からの参拝者もあり、参道に茶店が出るほど賑わったという。
 願掛けには境内階段下の屋形で土の団子を十二個つくり、これを供えて祈願し、願いが叶うとお礼に米の団子を十二個お供えする。
 石床神社は、大正十三年(1924年)に旧社地より消渇神社境内奧の現在地に合祀された。
 拝殿南に天保五年(1834年)の狛犬が、奧に寛文七年(1667年)の石灯籠が奉納されている。
 瓦葺きの覆屋内に三つの社殿があり、中央が石床の神である。また左右の社殿には太玉命と本来の祭神である素盞嗚尊を祀っており、拝殿の奧には神籠石がおかれている。


お姿
住所が越木、神社も「甑明神」と称している。米を蒸す蒸籠(セイロ:甑)に似ているので、甑(コシキ)岩と云うのが、 摂津國武庫郡に鎮座の磐座祭祀の越木岩神社のコシキであるのだが、 当神社旧社地の巨石については、当てはまりにくい。
 旧社地は村の片隅にあり、赤い鳥居と巨石は木々の間にあるが、遠くからもよく見える。木々の上には道が通っており、神社はこの下との標識が藪の中に見える。
 現社地本殿は三社並立の形式である。本殿横に石段があり、その上に哨渇神社が鎮座する。 更にその上段に七社神社が鎮座している。七社山の祭神を遷座したもの。稲荷のようだ。

石床神社


本殿



神護石

お祭り
 
 例祭 10月15日

消渇神社


消渇神社拝殿前の土の団子


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