住吉神社
生駒市南田原町803 its-mo


交通 近鉄奈良線生駒駅 循環バス お松の宮

祭神 表筒男神、中筒男神、底筒男神、息長足媛神


鳥居



摂社 岩船社「饒速日尊」



由緒  元々は岩船神社と称したようだが、その上に住吉神社が被さっている。 岩船神社の創建の年代は不詳である。


 住吉神社は神社の東北七百米の桧窪山山麓の岩倉寺(今は寺跡と多くの石仏があるのみ)と関係がある。その抜粋は次の通りである。
 役の小角が生駒山の北の方、山嶽重嶺のこの地に来り、一躰の尊像を作り岩屋寺とした。 延暦年中伝教大師が小角の神迹を慕い七日七夜の修行の後、高堂を建て岩蔵寺と名付けた。 伝教大徳の徴意により直乗宣揚の場となるが、絶えてしまい、魔魅の跳躍の場となった。 弘法大師入唐帰朝後京都より往還して、当山の下にたたずんでいる時、一老翁来りて曰く「この山は役の小角の開山伝教堂建つも止住する人無し 魔魅絶えず師は鎮国安民息災増益の密教深く蘊め給えり 伏して乞卯 この魔魅を避けよ 然らば則ち人道業を修し民安ぜん 我はこの郷に鎮ずる住吉明神の社主なり」と言い畢りて形隠ると言う。 弘法大師神諭辞するべからずして三層の宝塔雲をはさみ鐘時を報ずと言う。

 平安朝初期、伝教・弘法両大師がこの地に来るとあるにより、今から千二百余年昔に既に住吉明神の鎮座が想像される。

 この宮がおまつの宮とも呼ばれるのは、磐船神社の松の枝との関連からである。 石上神宮の十種の大祓祝詞に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊天磐船に乗りて、河内国河上哮峯に天降座して」とあり、この住吉神社の北三粁米天の川に巨岩を御神体とした磐船神社が鎮座し、饒速日尊を奉祀している。この尊 高天原から天降り給うた時の十種の神宝があった。この神社の神宝は祭祀奉仕する者久しく絶えているうちに分散し、神社の松の枝を持ち帰り星が森に植樹され、住吉神社の境内は松の木鬱蒼と生えしげっていた。 と言う。

 饒速日命は鳥見の白庭山に遷ると言う伝承があり、そのトミの地の候補地がこの辺りである。 富雄や登美と称する地名や神社がある。また大和平野の対角線にあたる桜井から長谷方面にも二つの鳥見山や式内等弥神社がある。 生駒山は烽火の地であり、ここから春日の飛火野に通信していた。その烽火がトミになったとの解説もあるが、それは奈良時代以降の事である。いずれのトミも、長髄彦を誇りたいのか神武聖蹟の金鵄の地でありたいとの思いか、後者に本音もあるようだ。

 摂社に饒速日尊が祀られている事から、この住吉神社が元の岩船神社であるとの推測が正鵠を得ているので、大和への降臨の地の白庭山とはこの辺りであるとして間違いはない。 尚、ほかにも白庭山の候補として登弥神社矢田坐久志玉比古神社石上神宮などがある。


長髄彦本拠と白庭山の碑(白谷垣内集会所前)


長髄彦本拠の背後の山が檜の窪山で饒速日命の墓の碑が建つと言う。

たたずまい

  星が森を背景とし、龍が淵(池)を廻らす広域の地に鎮座する。龍が淵(池)は弘法大師は造ったと言われる。 天の川の源流である。


拝殿



お祭り
例祭 10月14日、15日


*1 白鳥伝説(谷川健一氏)小学館


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