長谷丹生神社
和歌山県海草郡紀美野町長谷宮238

鳥居


交通案内
海南駅前から高野山行きバス 長谷宮 mapfan


 
祭神
丹生都比賣命、大黒人命

由緒
 古くは丹生高野両大明神とも呼ばれた。

 天平年間の作とされる丹生都比売神社の告門に「長谷ノ原爾忌杖刺給比」とある場所が此処と言われる。また同社祝氏の本系帳の中にも、長谷の川原に犬甘の神という名を得て石神となりて今に在す。大黒人命は地主神である。と出ている。

 「紀伊国名所図会」によれば、社地を楮皮杜(ちょひのもり)と言うが、これは孝元天皇の時、武雄心命(日本書紀では武内宿禰の父親)が来て当地の楮の皮で紙を漉く事を教えたと言う伝説によると言う。

お姿

 西に流れる貴志川と長谷宮の平地を見渡す尾根の先端に鎮座。境内のイチョウとスギの一株は巨木で、県天然記念物。下手の毛原荘との境に明神垂迹石とよぶ石があるとされる。

かって、宮司さんから神奈備に次のようなメセージがありました。
平成10年の台風7号で新築の社殿がもろに倒木の直撃を受けた。 境内地の夫婦の大杉(樹齢600年・高さ約40m・幹周り約10m・高さ1mほどより二つに分かれており夫婦杉といわれています。・昭和53年県指定の天然記念物となる。)の倒木と、銀杏の大枝が折れたため(樹齢500年・高さ25m・幹周り約5.5m)拝殿・本殿が全壊しました。 この変わり果てたお社を見て、号泣するしかありませんでした。しかし、山里の若い人、老いた人も一緒になってお宮の木々の撤去が始まりました。足の不自由なお年寄りも力を振り絞り、枝を引き撤去作業をしました。 私自身もそのお姿を見て、復興にむけ精一杯頑張ることを決意でき、心を支えられました。
とのことで、その後このように皆さんの力で再建されていました。

神社と神木

本殿

お祭り
 10月20日 例祭日

紀伊国名所図会から

紀伊續風土記 巻之四十一 那賀郡 長谷荘 宮村から
○丹生高野兩大明神社  境内周百二十間
  本社兩殿 各方六尺五寸 金扉
   御供所  神輿舎   廳 十一間半 二間
   舞 台  遊覧所 馬塲村にあり  馬 塲馬塲村にあり
   観音堂  観音寺   釣鐘堂
   末社四社 粟島明神社 大黒天社 荒神社 八幡宮
村中にあり 荘中五箇所の氏神なり 丹生祝文に長谷ノ原忌杖刺給とあるは即此社なり 中氏蔵むる所の永享ノ文書に長谷大明神とあり 社殿其壮麗なり 瑞籬の内に鴨脚樹(イチャウ)の大木あり 圍一丈三許尺枝に研棒(スリコギ)の如き者数條垂れたり 長きもの一尺五寸許名草郡栗村九頭村にあるものと同者なり 祭礼六月十九日 九月十日馬かけあり 境内に宝篋印塔作りの石塔あり 里人の傳へに明神のことを世話せし あづかしの石塔といひ傳ふあづかし何の義んる事を知らす 正月五日神田の米を蒔くに神々の名を唱へて後にあづかし殿の代官へもといふことありといふ 按するにあづかしは預所の約語ならむ 當村毛原荘界より上二町許に明神垂迹石といふあり 時々石の隙より蛇の見ゆることありといふ 天野の垂迹といふと全く同義なり 観音寺は観音堂の別当にて神宮寺にあらす 此観音は長谷観音の末木を以て作るといひ傳へて古佛なり 鐘は古鐘なり銘あり高野山延寿院奉施入鐘一口為僧照静修聖庵源時房尼法兼法界衆生也安元二季二月六日勧進入唐三度聖人重源願主尼大覚とあり
  神  主   中 多 門
以下略(中家所蔵文書名)



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